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2 自衛権の有無(集団的自衛権を含む)と自衛隊の位置付け |
第9条 |
<制定経緯> |
- 自分は9条には関与しなかったが、9条には前文に書くべきものが含むまれているのではないかとの疑問があり、将来日本が主権を回復した後も軍事力を永久に放棄するのかという点について懸念を表明したことはある。しかし、ケーディスから、この部分はマッカーサーの発案によるものと言われ、それで終わってしまった
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リチャード・A・プール |
147 |
7 |
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- ケーディスに直接確認したところによれば、マッカーサー・ノートには自己の安全を保持するための手段としてさえ戦争を放棄するとあったが、現実的でないと思ったため、「自己の安全を保持するための手段としてさえ」の部分はケーディスが削除したとのことであった
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西 修 |
156 |
6 |
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- 内閣憲法調査会の後に明らかになった極東委員会の議事録では、芦田修正により、自衛のためであれば軍隊の保持が可能になったと解釈するのが常識とされており、そのような常識に立ち、極東委員会は文民条項の導入を日本に迫った
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西 修 |
156 |
6 |
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2 |
- 自衛のためであれば戦力の保持が可能であるという、いわゆる芦田解釈の正当性は物語られており、この解釈が流布されれば、政府の非論理的解釈の大半が解決される
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西 修 |
156 |
6 |
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2 |
- 起草者意思としては、9条は、日本が世界の中でどのように安全で平和に生きていくことができるかを考えたものではなく、世界・アジアの安全保障を実現するために、当時の侵略戦争の責任者と思われた日本をどのようにして封じ込めるかを考えたものであった
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渡辺 治 |
156 |
6 |
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6 |
- 9条の構想とは、極めて厳格な非武装構想であったと考える
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渡辺 治 |
156 |
6 |
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6 |
- 自衛のための戦力は放棄されなかったというケーディスや芦田の見解は、冷戦の中で、日本の非武装構想が米国の世界政策としても日本の政策としても採り得ないことがはっきりしてからの後知恵と思われ、採ることはできない
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渡辺 治 |
156 |
6 |
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6 |
- 9条に「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」と「前項の目的を達するため、」を入れることにより、芦田が考えていたのは、正義と秩序を基調とする国際平和をつくるために戦力・戦争を放棄するという目的を明確にすることであったと理解している
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渡辺 治 |
156 |
6 |
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17 |
- 9条は、自衛を含むすべての戦争を放棄したとの徹底した平和主義を装いつつ、自衛戦争を可能にするよう工夫を凝らした条項であることが、出生の経緯として資料的に明らかになってきた
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五百旗頭真 |
156 |
7 |
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5 |
- ケーディスに直接確認したところによれば、マッカーサーから示された自国の生存のための戦争をも放棄するとの条項は、ケーディスが憲法の持続可能性を考慮して侵略戦争のみを放棄するものに改め、これをマッカーサーも了承したとのことであった
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五百旗頭真 |
156 |
7 |
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5 |
- マッカーサーとしては、日本の国際復帰を可能にするため、あたかも自衛権すら放棄したというほどの平和主義に読めることには望ましい政治的意味があり、9条は、厳密に読めば自衛を可能にするとも読める工夫を凝らした条項であり、芦田修正は、そう読む可能性をより鮮明にした
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五百旗頭真 |
156 |
7 |
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5 |
- ケーディスは国連憲章を意識していたし、9条が国連加盟を阻害する懸念は日本側にもあったが、総司令部は、国連の安全保障行動への参加はまだ早く、まず日本が十分に平和志向に生まれ変わったことを示す必要があると判断したと推される
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五百旗頭真 |
156 |
7 |
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10 |
- 半ばは後知恵なのかもしれないが、自衛のためには一定の軍事力を持つことは当然であるということが、芦田修正に込められた意味
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渡辺昭夫 |
156 |
8 |
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8 |
<意義・評価> |
- 9条は、経済大国でありながら軍事大国にならない日本をつくる上で大きな役割を果たし、攻撃的兵器の保有の制限、集団的自衛権の解釈、海外派兵に関する制限、国連軍への参加の制限など9条体系とも言うべきものをつくり、こうしたことがアジアの平和に大きな役割を果たしてきた
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渡辺 治 |
156 |
6 |
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7 |
- 日本政府が鳩山内閣以降、9条が侵略戦争を否定し自衛戦争を許容するとの解釈で一貫しているのは、冷戦下の日本が国際安全保障の大部分を米国に依存しつつ経済国家として発展することに没頭する段階に適合的な対外政策だった
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五百旗頭真 |
156 |
7 |
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5 |
- 9条とほぼ同じ文言が不戦条約にもあり、それが国連憲章にも引き継がれており、9条を不戦条約以後の大きな流れの中の問題として考えるべき
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渡辺昭夫 |
156 |
8 |
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5 |
- 9条1項のモデルである不戦条約には、「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ」とあり、国家が自己の利益を追求する手段としての戦争を「国際紛争解決のための戦争」と表現するのが当時の確定した用語法であった。憲法がそれを引き継ぎ「国際紛争を解決する手段としては」という表現を使っている以上、趣旨にそった解釈が当初から採られるべきであった
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大沼保昭 |
159 |
3 |
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- 憲法学界の少数説だが、「国際紛争を解決する手段」以外の武力行使はできる、つまり、自衛権行使と国際公共活動は可能との解釈を政府が取って来なかったために、無理を重ねた積み木細工の形になってしまっている
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大沼保昭 |
159 |
3 |
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8 |
- 国会議員は政治家として、国家の根本法としてのあるべき憲法を考えるべきであり、その観点からいえば、9条は国際社会の厳しい現実の中ではやや勝ち過ぎた理想であろう
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大沼保昭 |
159 |
3 |
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14 |
- 戦争は余り起こらなくなってきているが、ある日突然テロが起こるというような、平和のようだが平和でもなく戦争のようだが戦争でもないという時代に生きており、主要国家間の伝統的な戦争を考えた憲法は視野が狭い
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猪口 孝 |
159 |
4 |
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18 |
- 9条は、国家理性に基づく戦争をしないことを、政府が国民に約束し、国民がそれを世界に宣言したものであり、自衛力を持つ実力組織の保持や国際安全保障のための武力の行使は9条の問題ではない。9条で禁止する交戦権とは、国家理性に基づく戦争の権利と理解するのが一番ではないか
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西岡 朗 |
161 |
3 |
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20 |
- 9条に関する政府解釈は、国に対するコントロールとして一定の機能は果たしている
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西原博史 |
161 |
4 |
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22 |
- テロ、民族紛争、宗教紛争などがある中で、国連を通じた危機管理部隊や国内的な危機管理部隊は必要であり、自衛隊の一部機能もそこに含まれるべきと考えるが、9条とは議論を分けた方が良い
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五十嵐敬喜* |
162 |
I |
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14 |
- 武力による平和実現が困難であることは世界の様相を見ても明らか。9条は、建前であれ被戦闘地域に人道復興支援の形でしか自衛隊を派遣できないという歯止めになっている
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赤石千衣子* |
162 |
I |
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18 |