第154回国会 参議院憲法調査会 第7号


平成十四年五月二十九日(水曜日)
   午後一時開会
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   委員の異動
 五月二十八日
    辞任         補欠選任
     山下 栄一君     遠山 清彦君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                市川 一朗君
                加藤 紀文君
                谷川 秀善君
                野沢 太三君
                江田 五月君
                高橋 千秋君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                木村  仁君
                近藤  剛君
                桜井  新君
                陣内 孝雄君
                世耕 弘成君
                中島 啓雄君
                中曽根弘文君
                福島啓史郎君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松山 政司君
                大塚 耕平君
                川橋 幸子君
                小林  元君
                角田 義一君
                直嶋 正行君
                松井 孝治君
                柳田  稔君
                高野 博師君
                遠山 清彦君
                山口那津男君
                宮本 岳志君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                大脇 雅子君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       立命館大学法学
       部教授      中島 茂樹君
       日本大学法学部
       教授       百地  章君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (基本的人権
  ―公共の福祉、義務)
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○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「基本的人権」のうち、「公共の福祉、義務」について、立命館大学法学部教授の中島茂樹参考人及び日本大学法学部教授の百地章参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承りまして、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、中島参考人、百地参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず中島参考人にお願いいたします。
○参考人(中島茂樹君) ただいま御指名いただきました立命館大学の中島です。
 公共の福祉、それから義務という、そういうテーマで御報告するようにというふうに承っております。
 レジュメを用意いたしました。
 まず、時計数字のⅠのところですけれども、基本的人権と公共の福祉ということですけれども、ここのところはごく教科書的な説明になりますけれども、公共の福祉という概念は、日本国憲法では十二条、それから十三条、それから二十二条一項、それから二十九条二項、合計四か条で出てきます。
 御存じのように、明治憲法の下では、法律の留保ということで、基本的人権というものが法律の定めるところによりとか、あるいは法律の範囲内で人権が保障されるということだったわけですけれども、現行憲法の下では、そういう法律の留保条項は現行憲法は含んではいません。
 そこで、基本的人権の制約ということが問題になる場合に、公共の福祉という先ほど挙げた四つの条項が問題になってくるわけです。
 それで、公共の福祉について、憲法制定当初以降ですけれども、基本的には人権を制限するその根拠として公共の福祉というものが援用されるという用いられ方をしてきました。初期の判例では、レジュメで挙げていますように、死刑を合憲とした一九四八年三月十二日の大法廷の判決、それから戸別訪問禁止規定を合憲とする一九五〇年九月二十七日の大法廷判決、それから公務員の労働基本権の全面一律禁止規定を合憲とした一九五三年四月八日の大法廷判決、これらの判決については時間がありませんので紹介することをやめますけれども、典型的には、例えば死刑を合憲とした一九四八年の大法廷判決ですけれども、人間の命は地球よりも重いという、そういうふうに言いながら、地球よりも重いはずの人間の命も公共の福祉に反する場合には制限可能だということで、死刑制度は合憲だという、そういう処理の仕方をしています。
 そこでは、したがいまして、公共の福祉というのは、人権を制限するためのにしきの御旗という、そういう位置付けで運用されているわけで、そこでは、背景になっている考え方というのは、国家権力と国民との関係というものを、権力的な服従関係というふうにとらえた上で、公共の福祉の内容について公権力が一方的に中身を決定できるんだという、そういう発想が前提になっていたかと思います。
 そういう発想に対しまして学説は当初から批判的でありまして、時計数字のⅠのb)のところに書いていますように、内在的制約と外在的制約ということで、憲法十二条、十三条の公共の福祉は人権の一般条項についての定めでありまして、それから二十二条一項の職業選択の自由、それから二十九条二項の財産権は、特に経済的自由について公共の福祉による制限を可能にしている。したがって、解釈論の問題としましては、公共の福祉を用いて基本的人権を制限することができるというのは二十二条一項と二十九条二項の経済的自由についてのみであると。十二条、十三条を根拠としては公共の福祉を用いて人権を制限することができないという、そういう形での学説の批判というものが展開されてきたわけですね。
 そういう中で、いずれにしても公共の福祉という概念は中身が非常に多義的でありますのでなかなか内容を特定し難い、そういう概念によって人権を制限されるというのはいかがなものかということで考え方が大きく転換しまして、基本的人権を制限するという場合には、2)のところに書いていますように、人権制約立法の違憲審査基準という、そういう形で問題を処理するようになってきたわけですね。そこでは比較衡量論という形での手法が取られるようになります。公共の人権を制限することによって得られる利益というものと基本的人権とのそういう相互に比較衡量することによって問題を処理していくという、そういうことですけれども。
 そういう比較衡量論の手法を初めて最高裁が用いたのが全逓東京中郵事件判決。これは労働基本権というものを正面から勤労者の人権という形で承認いたしまして、そういう労働基本権の保障と制限の在り方について個別具体的に検討していくというそういう判決で、学説は画期的な判決だというふうに高く評価したわけですけれども、それ以降、都教組事件判決、これも労働基本権に関する判例です。それから、博多駅テレビフィルム提出命令事件決定、これは表現の自由にかかわる決定ですけれども、これらの事件についての最高裁の判断を通じまして比較衡量という手法が確立してきます。
 しかしながら、比較衡量というふうに言いましても、一方の人権を制限しようとする法益というのは公益ということになりますから、それと私益との比較ということになってきます。したがいまして、どうしても判断としましては、比較衡量とは言いながら、公共の福祉あるいは公益の方にバイアスが掛かった方向で判断がなされるという、そういう特徴があります。そういうことで、対等なそういう同一平面上での比較ということではなくて、どうしても人権を制限する側にバイアスが掛かったそういう判断が続いてくるという、そういうことになります。
 そういう中で、学説は、更に違憲審査基準を精緻化するという、そういうことで、特にアメリカの憲法判例の理論を参考にしながら二重の基準論というものが展開されるようになってきます。特に、表現の自由を始めとする精神的自由と経済的自由との関係で、表現の自由を制限する法律の違憲審査基準と経済的自由を制限する法律の違憲審査基準とにダブルスタンダードというか、異なった基準を適用する。表現の自由などを制限する場合には、違憲審査の基準は厳しい基準を適用する。それに対して、経済的自由については緩やかな基準で適用するという、そういう考え方が定着してきます。
 最高裁がそういう形での判断を承認したのが、一九七二年の小売市場許可制合憲判決、それから薬事法違憲判決。いずれも経済的自由にかかわる事例ですけれども、これらの判決を通じて二重の基準論を確定してきたと。現在、最高裁もその二重の基準論という手法を採用していまして、学説もこういう形で現在肯定的にとらえて問題を展開するということになってきています。
 以上が基本的人権と公共の福祉に関するごく概説書的な説明です。
 次に、時計数字のⅡの公害裁判をめぐる公共性ということですけれども、公共の福祉の中身あるいは公共性ということで大きな問題になったのが、一九六〇年代以降の日本の高度経済成長にかかわって公害問題が日本各地で続発していきます。
 そういう中で、公害の規制をどうするのかという、そういうことが問題になってくるわけですけれども、大阪空港公害訴訟ということが問題になるまでは、空港というものには公共性が存在するんだということで、そういう公共性のある施設というものを国が責任を持って政策決定した以上、住民はそういった決定に無条件に従う必要があるという、そういう処理がなされていたわけですけれども、大阪空港公害訴訟を通じましてこの点が大きく転換してきます。
 特に、大阪空港公害訴訟で公共性をめぐる問題点を、真正面から問題をとらえて論争を挑んだのが、一番下のところに書いてある宮本憲一、現在、滋賀大学の学長をされていますけれども、宮本憲一先生の公共性論ということになります。それと政府の公共性の主張とが、大阪空港公害訴訟の第二審判決で正面から闘わせるということになります。
 政府の公共性の主張というのは、大阪空港は不特定多数の航空機に平等に利用が開放される公共施設である。公共空港は社会的公共性を有している。さらに、大阪空港は京阪神というそういう土地にあって、社会的有用性が大きい。既に、そういう三百億円以上の施設拡充整備のための公共施策を行っている。
 それに対しまして、そういう政府の主張に対しまして、裁判の中で宮本先生は、公共施設がその存立する社会の生産や生活の一般条件を保障し、特定の私人や私企業の利益に供するのではなく、すべての国民に平等に安易に利用されること、その建設管理に当たって周辺住民の基本的人権を侵害せず、できる限りその福祉を増進することを条件として、その設置、改良の可否については住民の同意を得る民主主義的手続が保障されていることという、こういう、公共性という場合にはこの四つの要件が満たされる必要があるという、そういう形で物事を、事柄を展開されます。
 その結果、御存じのように、大阪空港公害訴訟の大阪高等裁判所の判決は、夜九時以降翌朝、朝七時までの航空機の離着陸の差止めというものを肯定いたしました。それに対して、最高裁の判決はそれをひっくり返しまして、過去の損害賠償、航空騒音によって受けた被害の過去の損害賠償のみを認めまして、差止めと将来請求を大阪空港公害訴訟の最高裁判決は棄却するという、そういう内容に今なっています。
 いずれにしましても、そういう形で公共性の内容をめぐって初めて本格的に論争が展開されたのは大阪空港公害訴訟だというふうに思われます。そういう中で、公共性の、あるいは公共の福祉の中身の問題について正面から詰めて議論するという、そういう方向が芽生えてくるという、そういうことになります。
 次、時計数字のⅢですけれども、基地公害裁判をめぐる公共性、軍事的公共性論ということですけれども、御存じのように、基地公害裁判をめぐりましては、時計数字のⅢの1)ですけれども、厚木基地の公害訴訟の第二審の判決というのが、これが典型的な軍事的公共性論というものを展開しているわけですけれども、そこでは、レジュメに書いていますように、駐留米軍には司法権は及ばず、自衛隊機の運用は統治行為に属するという判断のほか、原告の受ける騒音の被害は原則として受忍限度内のものだということで、請求を却下しました。
 基地の公共性につきましては、我が国の防衛の問題は、国家としての存立と安全にかかわると同時に、世界における我が国の在り方とも密接に関連し、極めて高度な公共性を帯びる事項である。飛行場の自衛隊による使用及び借用も、以上のような我が国が取っている防衛政策上の一環であると理解され、併せて高度の公共性を持つという、そういう判断をしています。
 受忍限度との関係では、この高度に公共性のある国の防衛関連行為に随伴して生ずるある範囲の犠牲について国民が受忍を要求されるのは、事柄の重要性との対比においてやむを得ないところである。つまり、本件飛行場の使用及び供用行為の高度な公共性を考えると、情緒的被害ないし生活妨害のごときは、原則として受忍限度の範囲内であるというような判断を行っています。
 要するに、どういうことを言っているのかといいますと、厚木基地公害訴訟の第二審判決では軍事的公共性というものを絶対的に承認しまして、それ以外の様々な住民の生活、健康に係る被害については切って捨てるという、そういう中身になっていまして、将来の損害賠償についてだけではなくて過去のそれについても却下するということで、そういうことになりますと、軍事的公共性というのは、そういう厚木基地訴訟の第二審判決のような形で軍事的公共性というものを用いますと、およそもう裁判所の存在すら必要ないという、そういうことになってくるような、そういう中身の判決内容になっています。
 それ以外の、厚木基地公害訴訟の第二審判決以外の基地公害関係の裁判については、三ページの一番上の2)のところで書いていますけれども、安保条約それから米軍基地、自衛隊基地の公共性については、これを前提としてすべて承認している。ここに挙げている判決でも全部承認しているわけですけれども、厚木基地訴訟、厚木基地公害訴訟の第二審判決以外は生活妨害被害の救済というものを一定承認しているわけですね。ただ、その公共性、基地の公共性というものをどの程度のものとして認識するかということによって受忍限度の範囲というものを、受忍限度の範囲が確定されるという、そういう形での中身になっています。
 いずれにしましても、最高裁の、この点についての最高裁判所の判断は、ちょっと前後しますけれども、二ページの一番下のところ、厚木基地公害訴訟の最高裁判決で、米軍基地とかあるいは自衛隊基地、安保条約の公共性というものを承認し、過去の生活妨害被害については一定程度救済する、しかし将来の損害賠償については否定する、差止め請求も却下するという、そういう流れになっています。
 そういう軍事的公共性論の問題点ですけれども、これについては、御存じのように、憲法前文の平和的生存権、それから憲法第九条の戦争の放棄、十三条の幸福追求権との関係が出てきます。そういった条項を前提にすれば、軍事的公共性というものを正面に掲げてすべて基本的人権が制限できるんだという、そういう考え方は排除されなければならないというふうに考えます。
 次、時計数字のⅣの公共性をめぐる新しい理論動向ということですけれども、公共性の問題をめぐりまして、現在、特に一九九〇年代以降ですけれども、我が国だけではなくて、アメリカもあるいはドイツもそうですけれども、公共性あるいは公共圏というような、そういう中身で激しい議論が展開されるようになってきています。
 一つの担い手はハーバーマス、ユルゲン・ハーバーマスという方の考え方ですけれども、そこでは、公共性というものを意味内容、それから態度、したがって意見のコミュニケーションのためのネットワークというふうに位置付けまして、全体としてそういう公の議論が形成される、あるいは公論が形成される、そういう場だというふうに認識しているわけですね。
 ハーバーマスは生活世界とシステムという二分法で問題を考えるわけですけれども、生活世界というのは、一定の文化を共用して、言語をメディアとして用いながらお互いの行為を了解や同意によって調整している領域、要するに平たく言えば、私たちの日常的な生活領域、そこでは言語、言葉を用いてお互いの了解とかあるいは行為を行っているという。それに対して、ハーバーマスによりますと、システムというのは、貨幣をメディアとするそういう資本制市場経済、それから権力をメディアとする近代官僚制、そういうシステムが生活世界を植民地化しているんだというふうに認識しまして、そういう生活世界を公共圏の議論によって問題を解決していこうという、そういう発想です。
 我が国では、ハーバーマス理論のそういう系譜として、花田達朗、坂本義和というふうな方がそういう系譜に属するかと思います。
 さらに、新しい公共性をめぐるいろいろな動向として、2)ですけれども、経済産業省の産業構造審議会のNPO部会で、「「新しい公益」の実現に向けて」、中間まとめというのが今年の五月十四日に出されました。そこでは、レジュメに整理しておきましたけれども、二十一世紀の日本の経済社会において、NPOは新しい公益の担い手として重要な役割を果たすものと考えられる。
 新しい公益の多元的な提供ということについては、二十世紀は、産業革命によって市場経済が登場して以降、行政が、所得格差や市場の失敗を是正する、そういう役割を果たしてきた、福祉国家というものが確立されるに至ったと。しかし、福祉国家においては、何が公益的な事業か、何が公共サービスとして提供されるべきかの判断が行政にゆだねられてきたと。
 しかしながら、経済社会が成熟し、価値観が多様化する中で、何が公益であるかを判断し、公益の具体的内容を確定することが難しくなっている。したがって、行政が一元的に公益を判断して実施するのではなくて、行政、企業、NPOや個人が対等な立場に立って、それぞれの多様な価値観をベースとして、多面的に公益を企画立案、実施する時代に入っていると。そういう公益実現の手法を新しい公益の多元的な提供というふうにとらえるんだと。
 これは、経済産業省のNPO部会の中間取りまとめですけれども、これは最近出たばかりで、全部をきちっと丹念に読んで全面的に評価する段階には至っていませんけれども、今申し上げた、引用した、そういう部分については、基本的にこういう評価は当たっているのではないかというふうに思います。
 今後は、したがって、公共性とかあるいは公共の福祉をめぐる議論については、経済産業省の産業構造審議会のNPO部会のこの中間取りまとめが大体ベースになって今後も論議が展開していくのではないかというふうに考えられます。
 そういうことを前提にしながら、もう一つ、公共性の問題については、正当性基準としての公共性ということで、具体的には、国家権力が行政作用を行う場合に何によってその権力が正当化されるのかということで、室井力という名古屋大学の現在名誉教授ですけれども、先生の国家と法の公共分析という、そういう手法が注目を浴びています。そこでは、公共性を判断する法的基準として、人権尊重主義それから民主主義を内容とする手続的制度的公共性、それから平和主義、そういったものを基準にして考えるんだということが提起されているんです。
 最後、公共の福祉、義務ということですけれども、明治憲法下の義務についてはここに挙げていますような義務があると。現行憲法下の義務につきましては、十二条、二十六条、二十七条、三十条、九十九条という形でそういう義務が定められています。
 近代憲法にとっては、特に日本国憲法については、義務が、規定が少ないんではないか、特に道徳的なそういった事柄についても日本国憲法は定めておらぬ、けしからぬというような御意見が一部にあろうかと思うんですけれども、近代憲法というのは、そもそも国家権力を制限して国民の側の権利を保障するというために近代憲法が制定されたという歴史があります。したがって、国家権力を拘束する、そういう面では、憲法九十九条、公務員の憲法尊重擁護義務というようなところが最もふさわしいということになってきます。あくまでも、憲法というのは、国家権力の権力の発動を規制する、それを法に基づいて発動させる、そういうものだということがやっぱりきちっと認識される必要があるというふうに思います。
 さらに、道徳の問題については、法と道徳の分離ということが近代法の基本的性格を規定しているのであって、道徳的な中身を憲法によって定めるというのはこれは筋が違うという、そういうふうに考えられます。
 それから、ボン基本法の兵役義務との関係ですけれども、そういう義務の最も重要なものとして、兵役の義務あるいは国防の義務ということが問題になろうかと思います。
 この点については、ドイツで経験があるわけですけれども、一九五四年の基本法改正によって徴兵制が復活しています。そこで、基本法の十二a条の一項で男子に対する兵役義務というものを定めていますけれども、良心それから信仰の自由を保障する基本法四条は、その三項で、何人も良心に反して武器をもってする兵役を強制されないというふうに定めまして、良心的兵役拒否者に代替役務を課し得るものというふうにしています。したがって、義務ということと国民の権利というものは、ここの兵役の義務あるいは国防の義務というようなところで最もシビアな形で表れてくるというふうに思われるわけですけれども、こういった領域でも、ドイツでは、国家の義務、国家が国民に負わせる義務としてそれをすべて全面的に肯定しているわけではなくて、良心に裏打ちされた、あるいは信仰に裏打ちされた兵役拒否というものを基本法は明文で承認しています。
 一九九九年度の事例ですけれども、ドイツで兵役拒否の申請者は十七万四千人、それに対して兵役者は十一万二千人ということになって、兵役者の方が少ないという、兵役を拒否する者の方が多いという、そういう数字になっています。
 こういうことを見ていただいたら分かりますように、時代の流れは確実に、そういう意味で、通商産業省のNPO部会の「「新しい公益」の実現に向けて」というふうな答申の中で言っているように、企業、それから行政、NPOや個人が対等な立場に立って新しい公益を具体的に実現するんだという、そういう方向に流れてきているというふうに考えます。
 そういうふうに問題を見た場合に、伝統的な、かつての伝統的な公私二元論という枠組みで問題をとらえるというのではなくて、公共という場合には、公と私の間には共、社会的共同性というような領域が存在するわけですね。そういう公共という場合の公と共と私の、そういう現代における有機的な関係の在り方というのをこれからどういうふうに構築し模索していくのかということが、今日、公共の福祉、それから義務というようなテーマで考えた場合に課せられている課題ではないかというふうに思います。
 ちょっと早口でしゃべりましてお聞き苦しいところがあったかと思いますけれども、これで私の意見とさせていただきます。
 どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、百地参考人にお願いいたします。
○参考人(百地章君) 日本大学の百地でございます。本日は、参議院の憲法調査会におきまして意見陳述の機会を与えられ、大変光栄に存じます。
 与えられましたテーマは公共の福祉と国民の義務でございますので、基本的人権と公共の福祉をめぐる法解釈の現状、公共の福祉と基本的人権の限界をめぐる問題点、そして、国民の義務をめぐって、この三点についてお話をさせていただきます。お手元にかなり詳しいレジュメが配付されていると思いますので、そちらの方をごらんください。
 初めに、基本的人権と公共の福祉をめぐる法解釈でございますが、時間がありませんので、この部分は簡単にさせていただきます。
 まず、公共の福祉、英訳ではパブリックウエルフェアとなっていますが、この言葉は本来、社会生活をともにする万人共通の共存共栄の利益などといった意味を持つものと思います。しかし、憲法の教科書では、宮沢俊義教授の説、つまり、公共の福祉をもって人権相互の間の矛盾、衝突を調整する原理としての実質的公平の原理と見る説が通説的地位を占めてきたと考えられます。この説は、後で触れますとおり、個人を超える国家的利益などといった考え方を否定し、公共の福祉とはあくまで人権相互間の調整を図るための原理にとどまると考えるところに特徴があります。
 次に、憲法十二条、十三条の公共の福祉と、憲法二十二条一項、二十九条二項の公共の福祉との関係をどう考えるかということが問題となります。御存じのとおり、日本国憲法の中で公共の福祉という言葉が登場するのはこの四か条だけですが、これらの公共の福祉の意味をどのように理解したらよいかということで判例や学説は解釈が分かれています。細かく言いますと、学説は幾つかに分かれますが、ここでは分かりやすく大きく二説に分けて御説明いたします。
 その第一説は内在的制約説と言われるもので、憲法第十二条、十三条の公共の福祉はあくまで訓示的ないし倫理的規定、つまり国民の権利行使に当たっての心構えを示したものにとどまり、公共の福祉を理由に人権が制約できるのは二十二条一項の居住、移転及び職業選択の自由と二十九条二項の財産権に限られると解します。つまりこの説は、公共の福祉の意味を、社会国家的な見地からする経済的弱者保護のための外在的、政策的制約と考えますから、これ以外の権利は公共の福祉を理由に制限することはできないとするわけです。ただし、そうはいいましても、他の人権が全く制約を受けないということではありません。権利に内在する制約、つまり他人を害したりするような権利の行使は許されないと主張しておりまして、昭和四十一年の全逓東京中郵事件最高裁判決のように、判例の中にも一部この内在的制約説に立つものがあります。しかし、これは少数説にとどまります。
 これに対して、学説における通説は、憲法十二、十三条の公共の福祉をもって基本的人権の一般的な制約根拠と考えますから、二十二条、二十九条以外のすべての権利も公共の福祉を理由とする制約を受けると解します。
 ただし、公共の福祉という場合には、自由国家的公共の福祉と社会国家的公共の福祉の二つの側面がありますから、二十二条の職業選択の自由や二十九条の財産権などの経済的自由については、他の精神的自由権と異なり、社会国家的見地から特別の政策的制約を受ける場合があることを特に明示したものと考えます。
 他方、判例も、憲法十二条、十三条の公共の福祉を根拠に、すべての基本的人権が制約され得ると考えています。
 このように、判例はすべての人権が公共の福祉を理由に制限可能と考えてきましたが、憲法制定当初の論理は非常に荒っぽいものでした。一方で、憲法の保障する基本的人権は立法によってもみだりに制限されないと言っておきながら、他方では、言論の自由といえども常に公共の福祉によって調整されなければならないというように、説明もないまま言わばなで切り的に公共の福祉による制限を合憲としてきました。
 その後、最高裁は、公共の福祉の内容を各人権ごとに明らかにし、例えば、デモ行進の規制は公共の安寧秩序の維持のためであるから許されるとか、わいせつ文書の規制については、性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持するためであるからやむを得ないといったような言い方をするようになりました。
 この点、評価すべきでしょうが、しかし、これに対しても、人権制約の目的が正当であるからといって制約手段が無条件に許されるわけではないといった批判が見られました。
 そして、今日では、学説の影響もあり、すべての人権が公共の福祉を理由に制約可能であるということを前提に、個々の人権ごとに比較衡量論や二重の基準論等の人権制限基準を持ち出して、個別的、具体的に制約の合憲性を判断するというやり方が判例、学説の通説になっています。
 ただ、言えますことは、今日、人権の制約基準については非常に詳しい議論がなされるようになりましたが、肝心の公共の福祉の内容そのものについての議論や人権の制約根拠、つまり制約基準ではなくて制約根拠については必ずしも議論は深められておらず、その点不満が残ります。
 そこで、次に、公共の福祉と基本的人権の限界をめぐる問題点について、若干の私見を述べさせていただきます。
 初めに、公共の福祉の意味をめぐる問題ですが、現在の通説と考えられる宮沢説は、さきに述べましたように、公共の福祉をもってあくまで人権相互の矛盾、衝突を調整するための原理であって、個人を超える国家の利益など認めないというものでした。つまり、現行憲法は人間性の尊重を最高の指導理念とするものであるから、個人に優先する全体の利益ないし価値などというものは存在しない。人権に対抗できる価値などあり得ないわけであって、国家そのものすら人権に奉仕するために存在する。それゆえ、公共の福祉は、全体の利益と異なり、あくまで人権相互の間の矛盾、衝突を調整するための実質的公平の原理と見るべきであって、人権制約の根拠となり得るのは他の人権しかない。だから、たとえ国家や国民全体のためであっても、人権を制約することはできないことになると主張されるわけです。
 しかしながら、果たして現行憲法は個人に優先する全体の利益を一切認めていないのでしょうか。もしそうであるとするならば、現行刑法が、個人的法益以外に、社会的法益や国家的法益を守るために、これらの法益を侵害する国民の様々な行為を処罰の対象としていることは憲法違反の疑いありということにならないでしょうか。
 それはともかくとして、実際には、直接他の人権の侵害に当たらないような行為であっても、最高裁は、公共の福祉を理由として、国民の権利や自由の制限を合憲としてきましたし、諸外国の憲法や国際人権規約等の条約を見ても、同じような人権の制限が認められていることが分かります。
 そこで、幾つかの例を挙げてみることにしましょう。
 第一に、公共の安全や秩序、公共道徳、国民生活全体の利益などの維持のためなされる人権の制限の例が考えられます。
 思い付くままに言えば、(a)公共の安寧秩序の維持のための集会やデモ行進の規制があります。確かに集会やデモの規制の目的の中には、同じ公共の広場や道路を同時刻に利用しようとする人々がいた場合、その調整を図るといったこともあり得るでしょうが、それだけでなく、公共の安寧秩序の維持、つまり差し迫った危険を避け、地域の平穏や安全を維持するといった目的も考えられますし、最高裁も、東京都公安条例事件判決の中で、デモの事前規制を合憲としています。また、諸外国では、日本国憲法のように無条件で集会やデモの自由を認めている国は少なく、例えばスペイン憲法のように、平穏にかつ武器を持たないで集会する権利のみを認め、その上更に、公共の秩序の侵害が明らかに予想される場合には集会を禁止できるとしている例もあります。
 次に、(b)青少年の保護や健全な育成のための有害図書の規制です。この有害図書の規制については、有害の意味があいまいだとか、大人の知る権利の制限につながるといった批判もありますが、最高裁は岐阜県青少年保護育成条例を合憲としていますし、ドイツ基本法などは憲法でもって表現の自由は少年保護のために制限されると明記しています。確かに、違憲論にも言い分はあるでしょうが、だからといって青少年の保護のためには有害と思われる図書が全く野放しのままで良いとは思われません。
 さらに、(c)、最小限度の性道徳の維持のためのわいせつ文書頒布等の規制が考えられます。この刑法百七十五条については、やはりわいせつの概念があいまいであるとかいった批判があり、違憲論も有力ですが、これについてもわいせつの概念を可能な限り明確にした上で合憲としたチャタレー事件以来の最高裁判決は、結論的に支持できます。現に、国際人権規約B規約では、表現の自由については、国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護のため、一定の制限を課すことができると規定しています。
 次に、憲法秩序や国家の存立の維持のための人権の制約に移ります。
 このうち、国家の存立の維持のための緊急事態における各種人権の制限についていいますと、財産権や職業選択の自由あるいは居住・移転の自由の制限などが考えられます。
 例えば、我が国が外国から武力攻撃を受け自衛隊が防衛出動する場合、国家の存立を維持し国民の生命や安全を守るために、一時的に国民の財産権が制限されたり、業務従事命令によって職業選択の自由が制限されたりする場合があっても、これはやむを得ません。この点、国際人権規約では、国民の生存を脅かす公の緊急事態の場合は、事態の緊急性が真に必要とする限度において、この規約に基づく義務に違反する措置を取ることができると定めて、各種人権の制約可能性を認め、ドイツ基本法などでも、レジュメに書きましたように、居住・移転の自由の制限、職業選択の自由の制限、公用収用の際の補償条件の緩和、自由剥奪期間の延長、信書・郵便・電信電話の秘密の制限等の制約を認めております。
 公共の福祉をめぐる問題はこの辺にしまして、次に基本的人権の限界一般について何点か問題提起をしてみたいと思います。といいますのは、公共の福祉というのは言わば人権制限の限界という問題でありまして、実はこの一番基本的な議論が戦後の憲法学はなおざりにしてきたのではないかという思いがあるものですから、あえてこの問題について考えてみたいと思います。
 第一点は、人間は国家権力をもってしてもその本質を侵害することはできないとされていますが、他方では国家あっての人権ということも忘れてはならないということであります。言わば、パラドックスという言い方ができるかもしれません。
 言うまでもなく、近代立憲主義は国家権力の濫用を防止し国民の人権を保障するべく憲法を制定することにありますから、国家権力といえども人権の本質を侵害することはできません。人権が理念的に国家以前の権利であると説明される理由もここにあります。しかしながら、その国家以前の権利とされる人権も、現実に保障されるためには、平和で秩序ある独立した国家の存在と裁判所等による人権救済制度が必要です。このことは、例えば国家の庇護を離れた難民や亡命者たちのことを想起すればすぐ分かることです。
 また、人権の中には、その性質上、国家の存在を前提として初めて成立する権利、例えば参政権などもありますから、外国人に対しては、たとえ地方参政権であっても付与できないのは当然であります。
 第二点目として、戦後憲法学における国家論の不在ないし国家論の混迷が、公共の福祉をめぐる議論や人権論に様々な影響、ありていに言えば悪影響を及ぼしているのではないかということです。人権以上の価値を認めず、国家といえども人権に奉仕するためにあるとした宮沢説など、その典型と言えるのではないでしょうか。この点についての説明はお手元に配付させていただきました拙稿「国家論なき戦後憲法学」を御参照願いたいと思いますが、要約して言えば次のようになります。
 まず、国家論の不在ということですが、戦後憲法学では国家についてまともに論ぜられることは余りありませんでした。また、国家について触れる場合にも、国家とは国民、領土、それに主権から成り立っているといった、いわゆる国家三要素説が紹介される程度でした。もう一つは、国家論の混乱ないし混迷という点です。それは、国家と政府を混同するもので、その結果、国家とは権力であり、権力は必要悪である、それゆえ国家とは必要悪であるといった、単純といえば単純な議論が支配的でした。
 基本的人権とは、本来、国家からの自由を意味するものと考えられてきましたが、ここで言う国家とは、権力機構としての国家、つまり政府にほかなりません。とすれば、立憲主義の立場から国家に対して懐疑的となるのはある意味で当然でしょうし、戦後はこのような国家に対する批判的、否定的な風潮が蔓延しているようにも思われます。そして、国家を単なる権力機構と考えれば、人権をもって最高とし、国家といえども人権に奉仕するために存在するとする宮沢教授のような見解が支配的となったのも分からないではありません。
 このような国家論の背景にあるのは恐らくジョン・ロック流の社会契約説だろうと思いますが、国家ではなく、あくまで政府の説明としてであれば、社会契約説が言うように、国家、つまり政府をもって国民の合意の所産と考えたり、国民が国家のためにあるのではなく、国家が国民のために存在すると考えることも可能でしょう。したがって、このような国家論を前提にすれば、人権以上の価値は存在しないとする宮沢説も分からないではありません。
 しかしながら、国家と政府は同じでしょうか。このことは、国を守るという場合の国、つまり国家とは何かを想起してみればおのずから明らかとなるはずです。ここで言う国家とは、国家からの自由と言う場合のそれと異なり、政府をも含む国民共同体としての国家であるはずです。つまり、先祖以来、歴史的に継承されてきた共同体としての国家のことであり、そうであればこそ、我々国民はこの国を守っていかなければならないわけであります。
 このような国家論は、かつてヨーロッパで主張された国家有機体説に通じるものがあります。その代表的な提唱者は例えばヘーゲルやバークでありまして、例えばヘーゲルによれば、国家とは、個を含む全体であるとともに、個の独立性をも許容し、高次の統一と調和を実現する有機的統一体であると、そういった言い方をしておりますし、エドマンド・バークによれば、これもよく知られた言葉でありますが、国家とは、現に生きている人々だけでなく、死者や将来生まれてくる人々との共同体である、こういった言い方がなされています。また、ブルンチュリー、ゲルバー、ギールケなどといったドイツの国法学者たちも、国家とは、単に法的組織にとどまらない、文化的多様性を持った歴史的存在としての倫理的・精神的有機体、つまり生命体であるとしております。
 したがって、ステート、つまり権力機構としての国家というのは、厳密に言えば政府のことであって、ネーション、つまり共通の文化、伝統を持った国民共同体としての国家とは別であり、ネーションとしての国家こそ国家の本質を示すものと言えましょう。そして、このような国民共同体としての国家を前提にして初めて、個人を超える価値、つまり国家の存立といった価値を認めることも可能になり、国家の緊急事態においては、その存立を守るため一時的に人権が制約を受けるということはやむを得ないということになります。
 ちなみに、田中美知太郎博士は、「市民と国家」と題する論文の中で、古代ギリシャのポリス、都市国家とその市民の関係について次のように説明しておられます。
 古代ギリシャ人にとっては、国家は自己をその一部分とする全体であり、国家は市民を保護する。しかし、国家の危機に当たっては、市民は自己の生命、財産を犠牲にしてでも国家を守る。市民の資格の大事な一点は、国を守るということにあったからであると。
 そして、これは何も古い昔の話で片付けられるものではないと思われます。現に諸外国では、国家と国民は依然としてこれと同様の関係にあるからであります。
 第三は、人間とは何かとか人間の尊厳とは何かを考えようとしない人権論の問題点であります。
 宮沢教授によれば、人権は当初、神によって与えられたものと考えられたが、今日では神を持ち出すことはかえって有害であり、単に人間性とか人間の尊厳ということでもって人権を根拠付けるべきであるとされます。この点、別の論者、例えばジャック・マリタン教授なども、人権は前科学的、前道徳的な確信を言い表したものであって、人間の尊厳ということを自然科学的に証明することは不可能であると言っています。確かに、人間の尊厳ということを科学的に証明することは不可能でありましょう。しかしながら、証明できないからといって、なぜ人間が尊厳かを考えようともしない戦後憲法学の風潮には疑問を覚えます。
 実際、人間とは何か、人間の尊厳とは何かを教えないまま、命の大切さということだけを教えてきたのが戦後教育であり、その背景には戦後憲法学の影響があったものと思われます。一国の総理までが、人の命は地球より重いなどと語ってきました。そのような教育が戦後半世紀以上にわたって行われてきたにもかかわらず、地球よりも重いと言われる人の命を虫けらのように殺したりする青少年による凶悪犯罪は後を絶ちません。
 この点、小中学校の学習指導要領では、道徳の目標として、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めるようにすることが示され、それを受けて、生命の尊さを理解し、掛け替えのない自他の生命を尊重するようにするとされています。にもかかわらず、学校では、人間の力を超えたものや、それに対する畏敬の念など教えられず、ただ生命の尊重ということだけが教えられますから、自分の肉体、生命や自分の欲望を満たすためには他人の命くらい抹殺しても構わないと思う子供たちが現れても決して不思議ではないでありましょう。
 昔から私たちの祖先は、森羅万象の中に宿る人知を超えた大いなるものに対して畏敬の念を抱き、その加護によって生きるのではなく、生かされていると信じ、感謝の思いを持ち続けてきました。そして、その人間の力を超えた大いなるものとは、宗教的に言えば神であったり仏であったりしますが、そのようなものを前提として初めて人間の尊厳や人権の重みといったことも言えるわけです。
 現に、アメリカ合衆国の独立宣言では、すべての人間は平等に造られ、造物主、つまりキリスト教の神、ゴッドでありますが、この造物主によって生命、自由、幸福追求の権利などが与えられるとしております。そして、この独立宣言は今もアメリカ国民の中に生きているわけであります。また、ドイツ基本法でも、前文の冒頭で、ドイツ国民は、神と人間とに対する責任を自覚し、この基本法を議決したと述べ、神の存在に言及しています。
 このように考えるならば、我が国においても、人間を超えた大いなるもの、つまり神や仏等について想像を巡らし、そこから人権の意義や限界を考え直してみる必要があるのではないかと思います。
 限られた短い時間の中でちょっと話を広げ過ぎてしまいましたので、最後の国民の義務については触れる時間がほとんどなくなってしまいました。
 レジュメでは、憲法典上の義務の問題、そしてもっと大事なことは、それ以上に大事なことは、憲法典以前の問題として考えてみる必要があるんじゃないか。
 例えば、遵法の義務、これは憲法には書いてありませんが、法治国家における国民として当然の義務であります。ところが、戦後の誤った成文法至上主義、法律や憲法典に書かれていなかったならばそれは義務ではないし守る必要がないといった、そういった成文法至上主義の立場から憲法典以前のそういった問題がおろそかにされてきたのではないか。
 あるいは、人権に対する誤解の問題もあります。さらに、人権の担い手の意識の問題、自覚の問題があります。つまり、憲法十二条が言いますように、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と。つまり、国民自身が自由や権利を行使するにふさわしい国民とならなければならないということを憲法は示しているわけであります。
 また、さらに、先ほども触れました法の前提としての道徳の問題、これについてはまた議論があれば後で御質問にお答えしたいと思いますが、やはり法の基礎にある道徳というもの、この道徳というものの大切さ、つまり、目に見えないものを畏敬し、身を慎み、自己の義務を自覚することによって一人一人の人格を掛け替えのないものとして尊重できるようにする、そういう教育がまずなされなかったならばいけないのではないかということを考えているわけですが、これにつきましては後ほどまた触れさせていただきたいと思います。
 以上をもちまして私の意見陳述を終わります。
 どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終わりました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 松山政司君。
○松山政司君 それでは、両先生におかれましては、大変お忙しい中、本日は御出席賜りましてありがとうございます。早速御意見をお伺いさせていただきたいというふうに思います。
 憲法第十二条、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と、このようにうたっているにもかかわりませず、我が国は、戦前、過度に国家や社会を強調し過ぎた、そのために戦後はその反動として逆に権利と自由が過度に主張されて、個人が必要以上に強調されているように思われます。その結果、自分さえよければよいという、そんなエゴイズムが社会全体に蔓延するようになってきたのではないかというふうに思っています。
 例えば、成田空港の問題でありますとか、これも典型的なことだと思いますけれども、国家的な大プロジェクトが円滑に進まないというのもこのためだろうと思いますし、さらには昨今のモラルハザードが原因と思われる事件や事故、そしてスキャンダルにまで及んでいるものというふうに思います。
 憲法が制定されてから既に半世紀が経過した今、そろそろこういう極端から極端に振られた振り子を真ん中に戻して、普通の姿に戻していくと、そんな時期に来ているのではないかというふうに思います。そのために、まずこの憲法の公共の福祉の規定を見直す必要があるのではないかと私は考えます。
 先ほど百地先生のお話にもございましたけれども、この憲法上の公共福祉の内容については、今現在は、一般的に基本的人権相互間の矛盾や衝突を調整するための、そのための公平の原理というふうにする説が有力であって、公共の福祉は国家や公共の利益とは異なるものであるというふうにされてきました。そのため、たとえ国や国民全体の利益のためであっても、人権を制限することには過度に抑制的な対応が取られがちでありましたし、このような公共の福祉についての解釈をまず見直す必要があるのではないでしょうか。
 それが一点と、さらに、この憲法上の公共福祉の概念というものを独立させて、その内容をより具体的に明記をするという考え方もありますけれども、その点について両先生の御所見をお伺いしたいというふうに思います。よろしくお願いいたします。
○会長(上杉光弘君) 参考人御両人に対してですか。
○松山政司君 はい。
○参考人(中島茂樹君) 先ほど、公共の福祉という条項につきまして、人権調整のための公平原理という、そういう御指摘があったかと思うんですけれども、先ほど私が御報告を申し上げましたように、日本国憲法の条項の中では、公共の福祉は四か条出てくるわけですね。十二条、十三条というのは、先ほど百地参考人もおっしゃいましたように、人権の総則的な、訓示的な規定、それから二十二条一項、それから二十九条二項というのは、これは経済的自由についての規定なわけですね。しかしながら、公共の福祉については、なかなかその概念、これが公共の福祉だという中身が一義的に特定し難いという、そういう問題点を持っているわけですね。
 歴史的に見ますと、そういう不確定な法概念を援用することによって、その中に例えばその時々の支配的な国家的な意思とかそういったものを持ち込むという、そういうことによって公共の福祉という概念をにしきの御旗にしてすべての人権を制限できるという、そういう運用の仕方に対する反省から、公共の福祉ということを用いずに、先ほど御報告しましたように、基本的人権の制限の在り方という、そういう人権保障ということを前提にして、基本的人権の保障と制限、特に裁判的保障ということを問題にしまして、先ほど来、比較衡量論とか、あるいは表現の自由の優越的地位の理論、あるいは別名二重の基準論、そういう形で事柄が学説では展開してきているということを申し上げさせていただきました。
 そういう観点からしますと、改めて、かつて批判の対象になったような公共の福祉という概念を正面からまた持ち込んで回復させるというのではなくて、先ほど経済産業省の中間まとめにありましたようなそういう、政府それから企業、個人、様々なそういう団体、そういったものがそういう共同社会を形成していく上でどういうような在り方を今後追求していかなければならないのかという、そういう方向で問題を処理し考えていくというそういうことが重要なのではないか。そういうことでいいますと、国家と個人という、そういう伝統的な人間的な枠組みの中だけで問題を考えまして、それで国家の側が公共の福祉の内容を決める、国民はそれに従えという、そういうようなやり方というのはもう二十世紀に置いておきまして、二十一世紀はそういう、経済産業省のこの答申、全部読んでいませんからすべてそれが正しいというふうに今言い切る自信はありませんけれども、ここで示している方向というのは、最初の発言の中でも言いましたように、今後議論する出発点になるようなそういう考え方だというふうに私は思っています。
 以上です。
○参考人(百地章君) 今御質問にありましたように、戦前の反動という面があるからでしょうか、人権至上主義的なそういう発想が強い、個人を超えるような価値というものを認めない、そういう風潮が蔓延しております。そこで私は、その一番の問題点として、国家とはそもそも何なのかと、それの誤解、国家論の誤解が実は非常に大きなその原因となっているんじゃないかということであえて国家論を展開させていただいたわけであります。したがって、実はこの問題を更にもっともっと戦後憲法学は突き詰めて考えていく必要があるのではないかということであります。
 ちなみに、もちろんそれは個人よりも全体を優先するとかそういうことを言おうとしているわけではありません。やはり個人と国家のバランスといいますか、公益と私益のバランスというものをもちろん絶えず念頭に置きながらバランスを取っていくということ、これが必要だろうと思います。
 それから、公共の福祉の問題ですが、確かに今お答えもありましたように、中島先生からお答えがありましたように、この言葉自体は不確定概念でありまして、確かにこれが乱用されるならば、国家のためには私権がもう全面的に制約されるとかそういうこともあり得る。つまり、危険があります。だからこそ、それを具体的に明らかにしていくという試みをしたのが本日のお話、その一端であります。
 現に、このような個人を超える価値、つまり社会的な利益、国家的利益を守るために様々な形で人権の制約基準を定めている憲法はむしろ諸外国には無数にあります。また、国際人権規約等でも具体化しているわけであります。したがって、公共の福祉という言葉をもって直ちに制約するのではなくて、例えば社会的利益としては公共の安全、秩序とか公共道徳、国民生活全体の利益の維持のためにはやむを得ない。じゃ、こういった人権については何が根拠になるかという形で具体的に考えていく。あるいは、国家的な利益として考えれば、最高の国家的な利益といえば国家の存立そのものを維持していくということであります。
 憲法と言う場合には、実は成文憲法のみを前提に考える議論が非常に多いわけですが、やはり不文の憲法も含めて考えなくてはいけない。実質的意味の憲法というのは正に不文の憲法も含めたものであります。そう考えますと、国家の基本法であるところの憲法が、不文の憲法が国家は滅びても構わないということを命じているはずがないわけであります。したがって、そのような不文の憲法というものを考えれば、国家の存立こそ最大の公益でありまして、そのためには一定の人権の制約、一時的な制約はやむを得ないという議論が出てくるだろうと思います。
 したがいまして、そういった国家以上の価値を認めないそういう戦後の議論に対して、もう一度公共の福祉の概念を明らかにしていく。制限基準というのはあくまでも制限基準であって、何のためにじゃそのような制限基準が用いられるのか、何のために制限できるかということについては、実は余り私は議論されていないんじゃないかなという疑問を持っている次第であります。
 以上でございます。
○松山政司君 ありがとうございました。
 次に、国民の義務の問題についてお伺いをさせていただきます。
 日本国憲法は、国民の義務として教育の義務、勤労の義務、そして納税の義務と、この三つを掲げておりますけれども、一般には、権利は義務と表裏一体の関係にありますし、絶対的な自由や権利などというものはあり得ずに、自由には責任が、そして権利には義務が必ず伴うというふうに思います。しかし、だからといって、憲法に義務について数多く規定をすれば、国民生活は非常に窮屈なものになると思います。必ずしも、何でもかんでも憲法に書けばよいというものではないと思いますが、とはいっても、日本国民としてこれだけは果たすべきであるという必要最小限のものはやはり国民の義務として憲法により明らかに明記をしておく必要があるんではないかなというふうにも考えます。
 例えば、投票の義務でありますとか、これも昨今は大変低い国政選挙の投票率が長年続いております。また、公務員の憲法遵守擁護義務というものは現在掲げられておりますけれども、国民の憲法及び法律厳守義務などでありますけれども、また外国の例を、先ほど御説明ありましたけれども見てみましても、国を守る義務でありますとかあるいは環境保全の義務を憲法できっちりうたっているという国もあります。
 こんな諸外国の例も我が国の憲法に非常に参考になるのではないかと思いますが、今申し述べましたその憲法と義務という問題について、両先生の御意見をお聞かせをいただきたいというふうに存じます。
○参考人(中島茂樹君) 先ほどの私の発言で、若干誤解されるといけませんので一言先に付け加えさせていただきますと、私は、人権があれば国家は要らないんだとか国家はどうでもいいんだというようなことは一言も申しているわけではありません。例えば、この点については、有名な政治学者でハナ・アーレントという最近脚光を浴びている女性の学者がいますけれども、彼女はヒトラーによって、ユダヤ人ですから迫害されてアメリカに亡命したわけですけれども、そこで全体主義の研究というので、「全体主義の起源」という非常に膨大な研究を行っていますけれども、そこで国家あるいはそういう国家から見放された流浪の民になった個人がどういう悲惨な目に遭うのかということを「全体主義の起源」という、そういう書物の中で書いています。
 したがって、そういうことで、人権さえあれば国家はどうでもいいというような、そういう観点から言っているのではなくて、憲法というのはあくまでも国家権力を制限するための枠組み、それを決めるのが憲法だということで、そういう面で人権保障というものがまず第一義的な目的だということをこの間お話しさせていただいたわけです。
 それから、先ほどの義務の関係で一つ。日本国憲法には義務が少ないということで、もっと国民が政治に積極的に参加できるように、投票なんかについても投票の義務というものを加えたらどうかというふうに御指摘でした。しかし、投票の義務ということについては、現在の国民が投票になかなか足を運ばないのはなぜなのかという、そういうことを考える必要があるというふうに思うんですね。
 現在の選挙制度の下では、非常に世界でも最も厳しい部類に属する規制をしいている国が日本なわけですね。そういう中で、選挙というものが公式に始まりますと途端に世の中は静かになりまして、選挙はどこでやっているんだという、そういう雰囲気になるわけですけれども、そういうことで、選挙活動あるいは選挙運動の自由というものをもっと広く認めていくことに、これも国民の中に自由に議論させることによって、それで国民が投票なんかに行くことになるんではないかというふうに考えます。
 事柄の次第はそういうことで、憲法に投票の義務というのを書き込んだから国民すべてが、はい分かりましたということで投票に行くかということになりますと、必ずしも私はそうは思えませんので、そういうような例えば投票の義務ということについては、投票に行きたくなるような政治、それから投票に行きたくなるような選挙制度というものをもう少しやっぱり考えていく必要があるんではないかというふうにも思います。
○参考人(百地章君) この義務の問題でありますが、確かに近代立憲主義というのは国家権力の行使から個人の自由を守るというところに基本がありますから、したがいまして人権のカタログが中心になるのはこれはやむを得ないことであります。
 しかしながら、忘れてはならないのは、憲法は制限規範、つまり国家権力の行使を制限すると同時に授権規範でもあると。国家権力の行使の根拠を与える規範でもあります。したがって、そういう見地からすれば、ただ国家権力を一方的に制限すればいいということにはならないはずであります。そうなりますと、国民国家としての国民として、あるいは国民国家を維持するために必要な義務については憲法に明記していく必要があるということが言えると思います。
 ただ、それをすべて憲法に明記するのがいいかどうかということにつきましては、さっきもちょっと触れましたように、私自身は憲法以前の問題として、国民がそのような教育等によって、国民が自覚を高めていきさえすればそれで解決する問題もあると思いますが、しかし、例えばあの国旗・国歌法のときの議論にもありましたように、具体的な慣習法では認めないと、慣習法などというものは認めない、成文法が存在しなかったならば日の丸を国旗、君が代を国歌と認めないというような、そういう風潮も他方で蔓延しております。となりますと、やはり憲法にはっきり明記することによって国民の義務を明らかにしていくということも必要になるんじゃないか。
 例えば遵法義務、こんなの当たり前のことでありますが、やはり書いた方がいいかもしれないし、あるいは国を守る義務という問題につきましても、もちろん徴兵とかそういう具体的なことを言うんじゃない、あくまでも精神的な心構えの問題あるいは道徳的な意味を持つものでありますが、国を守る義務というようなことも当然定める必要もあるかもしれない、あるいは定めるべきではないかというふうに考えます。
 それから、強制選挙制度のような問題ですが、これは私は正直強制選挙制度までは、外国ではそういうものを採用している国もあります。しかし、それに違反した場合には罰金を科すとか、そういう国もあるようでありますが、それについては私はちょっと賛成いたしかねます。やはり国民の正に政治的な啓蒙といいますか、によるしかないのではないかというふうに考えております。
○松山政司君 ありがとうございます。
 それでは、時間中で最後の御質問にさせていただきたいと思います。
 ちょっと突っ込んだ細かな議論ですけれども、納税の義務と所得税の課税最低限ということについてお伺いしたいと思うんですけれども、今、日本国憲法は、教育、勤労と並んで納税の義務というものを掲げておりますけれども、納税をめぐる問題については、思い起こされますのは、かつて、代表なくして課税なしといったこのスローガンにアメリカの独立戦争があった、戦われたことでありますが、このように、納税の義務はある意味では民主主義の根本を成していると言えるのではないかと、こう思うわけであります。
 それで、我が国では税制の問題、今、所得税の課税最低限の水準の問題というのがしばしば議論を呼んでおるところでありますが、現在、政府の資料によりますと、我が国の所得税の課税最低限は夫婦子供二人の標準世帯で三百八十四万二千円、そしてその結果、所得税の非納税者数は平成十二年度で千六百七十三万人にも及んで、就業者全体の四分の一に達しております。このような所得税の課税最低限の金額については、ほかの欧米先進国も、アメリカが三百十五万三千円、ドイツが三百八十三万三千円、フランスは二百九十八万一千円、イギリスは百三十七万八千円と、同様に高めの傾向にあります。
 しかし、納税の義務が民主主義の基礎であり、国民が自ら国家運営の参加意識と税金の使い道についての関心を持ってもらうためにも、この課税最低限を大幅に引き下げるとともに、わずかな金額でもできるだけ多くの国民に税金を納めてもらうというのも一つの考え方であると思います。必ずしも私自身がこのような考え方を絶対的に支持しているというわけではありませんが、考え方としてはこのような選択肢も前向きに議論をしていかなければならないというふうに思われます。
 そこで、両先生にお伺いしたいと思いますが、このような所得税の課税最低限の現状を憲法の納税義務との関係でどのようにお考えになっておられるのか、お聞きしたいというふうに思います。よろしくお願いいたします。
○参考人(中島茂樹君) 納税の義務につきましては、憲法では三十条で納税の義務というものを定めています。納税の義務についての今日の基本的な考え方というのは、今の世の中というのは国民主権という世の中ですから、納税の義務についても納税者主権という、そういう考え方で納税の義務を考えていこうという、そういう考え方が最近では強くなってきています。
 先ほど御発言の中に、同意なければ課税なしというような原則がアメリカの独立革命につながっていったという御発言がございましたけれども、正にそのとおりで、そういう納税の義務という形で憲法上規定していますけれども、それの具体的な内容については納税者主権という、そういう形で問題を組み立てていくという、そういう方向で考えるというのが現在では大きな流れになっているのではないかというふうに思います。
 そういう中で、課税最低限をどうするのかという、そういう問題なわけですけれども、憲法上は課税最低限について、例えば先ほどの御発言ですと、アメリカとかイギリスとかフランスよりも日本は高いから引き下げろという、引き下げるのも一つの手ではないかというような御発言があったわけですけれども、憲法上、どこまで行けば課税最低限を憲法から見て逸脱することになるのかということについては、これは一義的に、これが基準がそうだということにはなかなかならないというふうに思うわけですね。
 それについては、国家の、特に国家財政の在り方の問題とか、その中での社会福祉、社会福祉行政についてどういう形で対応するのか、これから迎える高齢者、少子化という、そういう中でどういうふうに考えていくのかという、そういう物事を、事柄の状況を全体的に判断して考えるほかないわけですけれども、しかしながら、その場合でも、日本国憲法では十四条で法の下の平等の原則というものを定めています。さらに、二十五条で生存権というものを定めています。
 そういうことですから、そういったとりわけ社会的弱者と言われるようなそういう人々に対する一定の配慮というものが、きちっと行うということは憲法上の要請だろうというふうに今思いますけれども、ただ、一定の、どの額まで行けばどうなるかということは、憲法論のレベルで、この線を超えるとこうだということは憲法論のレベルとしては言えないんではないかと。ただ、方向としては、そういう国家財政の在り方とか福祉行政をどうしていくのかとか、あるいは社会的弱者に対する対応、同じですけれども、そういうこともどうしていくのかと、総合的にやっぱり判断して決められるべき事柄ではないのかというふうに思います。
 以上です。
○参考人(百地章君) 私も、この納税、税金をめぐる細かい専門的な議論は分かりませんので、ごく一般的なお答えになると思いますが、世界的な傾向としては、直接税よりも間接税に比重が移りつつあるということは言えるだろうと思います。しかし、それにしても、我が国における課税最低限は先進国の中でも極めて、かなり高いというふうに言われておるわけであります。したがいまして、これについてはやはり検討の余地があるのではないかというふうに思います、具体的にどうするかはちょっとお答えできませんが。
 つまり、納税の義務というものを現実に果たすことによって、その国のお金の使い道に対してももっと関心を持ち、そしてそれを監視していく、国民としてのそういう何と言いますか自覚も高まってくるのではないかと思いますので、そういう意味では、課税最低限を下げるという方向で検討するということは大いに検討してみる必要があるのではないかと考えております。
○会長(上杉光弘君) 時間が参っております。
○松山政司君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 大塚耕平君。
○大塚耕平君 民主党の大塚と申します。中島先生、百地先生、どうもありがとうございました。
 早速なんですけれども、両先生とも公共の福祉という言葉と公益という言葉を両方使っておられましたので、これはほとんど同じ意味で使っておられるという前提で質問をさせていただきたいと思いますけれども、まず、私も憲法は別に専門じゃないですし、しばらくこういう分野から離れていましたので、憲法学の世界で公共の福祉とか公益というものについて通説とか皆さんが共有しておられる定義があるのかなと思って拝聴していたわけですけれども、中島先生のレジュメの四ページにも、経済産業省の答申を御引用になられて、「公益の具体的内容を確定することが難しくなっている。」と、こう書かれておりますし、それから百地先生のレジュメを拝見しても、三ページに、「「公共の福祉」の内容や、人権の制約根拠などについては、必ずしも論議が深められているわけではない」と、こうお書きいただいているんで、なるほどなと思ったんですが。
 私は公共政策学というような分野は随分かかわってきたんですけれども、例えばその分野でダウンズという有名な学者がおりまして、やはり公益とは何かと。このダウンズというのはその世界のオーソリティーですけれども、一般的合意は全くない、定義できないというふうに言っているんですね。ところが、結局、この憲法調査会の設立当初は私はいなかったので分かりませんけれども、なぜこうやって憲法の議論をするかというと、やっぱりその公共の福祉とか公益というものについての国民の認識に、あるいはそれぞれが持っているイメージにギャップがあるからこうやって憲法論を闘わしていると思うんですけれども。
 そこで、両先生に、公益の定義について、先生方が問われたらどのように定義をされるのかということをそれぞれにお伺いをさせていただきたいと思います。
○参考人(中島茂樹君) 御指摘のとおり、公益あるいは公共の福祉というのは、それ自体ではやっぱり十人の方にお伺いすれば十人違った答えが返ってくるんではないかというふうに思われるような内容なんですけれども、ただ、日本国憲法との関係で、あるいは日本国憲法下の人権保障ということとの在り方の関係で公共の福祉なり公益なりということを考えていきますと、やっぱり一定の問題の立て方ということはできるんではないかというふうに思うわけですね。
 御存じのように、日本国憲法の三大原則というのは、基本的人権の尊重、それから平和主義、それから権力の分立等々、そういう重要な原則がございます。あるいは地方自治の問題も含めてもいいですし、そういう原理があるわけですけれども、そういった日本国憲法上重要な人権の保障というものを中心にしまして、統治機構の関係では、権力分立あるいは法の支配、法治主義、地方自治の保障の問題あるいは議院内閣制の在り方の問題とか、そういった形から接近していきますと一定の枠組みというのは考えることができるんではないかというふうに考えます。
 そういうことで言いますと、先ほどの議論の中で、レジュメの一番最後、名古屋大学の名誉教授の室井先生の「国家と法の公共性分析」という、そういう形で提起されている内容があるかと思うんですけれども、そこでは人権の尊重というものをまず第一に実体的な判断の内容にしていく。そういう人権を保障するための政治制度、民主主義というものを手続的な側面として重視して、さらに日本国憲法のもとでは平和主義というものも大きな原則になっていますから、そういうような憲法上の原則ということから問題を設定していけば、一定の公共性の中身ということが明らかになってくるのではないかというふうに考えます。
 したがって、問題は、そういった一般的、抽象的に公共の福祉あるいは公益とは何なのかということだけではなくて、そういう憲法原理に即して問題をどう立てるのか。さらに、こういう原理のほかに、現在では特に事柄が、問題の事柄が公開されている、開かれているという、そういうことが非常に重要だと思いますし、さらに一定の社会的な有用性があることですね、事柄について、そういったことも重要なメルクマールに今なってくるというふうに思います。
 そういうことを総合的に考えて判断するほかない中身でありまして、一言でこれを、公共の福祉とか公共性だというふうに言えというふうにちょっとおっしゃられてもなかなか一言では言えないということで、どうも申し訳ありませんけれども。
○参考人(百地章君) この公益ということの意味でございますが、確かに一言で定義するというのは非常に難しい、あいまいなところも確かにあります。つまり、様々な局面がありますし、それぞれの局面に応じて公益は何かという、そういう議論の仕方もありますから、したがって定義はある意味では難しい。
 しかし、また別の意味で考えれば、公益というのは私益に対立する概念であります。そして、公益といえば、カテゴリー的にいえば、先ほども言いましたように、例えば刑法では社会的利益、国家的利益という範疇を設けているわけでありまして、個人的利益に対して社会的利益、国家的利益という、そういう考え方をしているわけです。したがって、公益というのはカテゴリー的にはそういうふうに分けることができるんじゃないか、それが第一点であります。
 それから次に、公共性とかいう問題が最近議論されている。つまり、従来の国家と個人、二元論的な考え方に対して、その間に公共性というようなものを持ち出して考えるといった、そういう考え方もあるようであります。確かに、こういう考え方も成り立つと思いますし、例えば先ほどお話ありましたNPOがいろんな公益の担い手、社会的な利益を担うという面もあるかもしれません。
 ただし、これはある意味では一種の多元的国家論に属するものかと思います。そういう考え方に近い。つまり、国家も会社も組合もその他の団体も国と相対的な違いしかないんだという、そういった考え方が基本に入ってくるんじゃないかと思うんですが、私はそれは支持できません。といいますのは、国家というのは、国家のみが主権というものを持っている。これは歴然たる事実であります。つまり、国民に対して包括的支配権を持つのは国家だけでありまして、いかなる団体であろうとも主権を行使することはできません。
 そのように考えますと、やはり国家にしかできないもの、あるいは国家のための利益というものも当然あるはずでありまして、国家の安全とかあるいは外交上の利益の問題とかそういった、あるいは国民全体の利益を国家として考える、そういった立場で考えるものもあるはずでありますから、したがって、従来の国家の利益、個人の利益に対して公共性の利益だけでいくという考え方がもしあるとするならば、そういった考え方は私は必ずしも採用できないというふうに考えております。
○大塚耕平君 ありがとうございます。
 大学の講義を聞いているようで、分かったような気もするんですが、何となく分からないような気もするんですが。
 というのは、例えば中島先生におかれては、基本的人権とか平和主義とかそういうお言葉で御説明くださって、最終的には、しかしなかなか総合的にしか言えないものだということだったんですが。それから、百地先生におかれては、主権は国家のみに属して、国家は、お二人とも多元主義、プルラリズムを前提としておられるわけですが、多元主義の中で国家はほかの主体とは必ずしも同列ではないというふうにおっしゃったんですが、国家の定義というのも必ずしも明確ではないわけですね。だから、人権というものも、人権と一口で言っても、これは私自身もよく分からないですし、多分ここに聞いておられる先生方も、じゃ一言で定義してみろと言っても、なかなか難しいと思います。じゃ国家とは何ぞやということもなかなか定義が難しい。だから、最初の質問につながりますけれども、公益というものも定義し難いというふうに私自身は思っているんですけれども。
 時間も限られていますので、そういう問題意識の下で百地先生にちょっとお伺いをしたいんですけれども、先生の御説明ないし事前にいただいた資料を読ませていただいて非常に参考になりましたのは、国家と政府というものを分けておられると。これは非常になかなか気付かなかった点だなと思うんですが、私も恐らく国家と政府、当然、先生の定義ですと、その時々のステータスである政府よりも国家の方が上ですね。そして、じゃ今度は、政府と中島先生のおっしゃる人権とは何か序数的な序列を付けられるのかということが一つ問題になってくるんですが、百地先生にお伺いしたいのは、その一方で、レジュメの中でも「人間を超える大いなるもの、」という表現も使われて、人知を超えたものがあるというふうに言っておられるんですが、国家と政府と人権という今、私がコンセプトを出しましたが、じゃ、国家と先生がおっしゃる人間を超える大いなるものとの優劣関係はどのようにお考えになっておられるでしょうか。
○参考人(百地章君) ちょっと御質問の意味が正しく理解できたかどうか分からないんですが、私は、国家と政府というものを区別しまして、国益と政府利益、その時々の政府の利益、これは分けるという立場に立ちますから、当然国家の利益というものを中心に考える。
 例えば、教育の中立性という場合には、その国に教育権があるわけですが、その場合の国というのは時々の政府の判断という意味ではなくて、やはり教育は国家百年の大計と例えば言われるような、そういう意味での長期的な国家というものを前提として教育を考えなくちゃいけない。そういう場合の国家を考えているわけであります。
 したがって、そのような国家、国益というのは当然政府利益にも優先するわけであります。
 そこで、目に見えるもの云々というものとの関係がどうかということでしたが、それは序列とかそういう問題とはちょっと次元の違う話を申し上げているわけでありまして、実は、共同体としての国家というものを考えますと、やはり共同体を支える精神といいますか、あるいはそれぞれの国の宗教だとか道徳とか、そういった様々なものがあります。そういう共同体としての国家を支えるものとして、日本的に言えば目に見えない大いなるもの、ある人によれば神であり仏でありというようなものがある、それによって国家共同体というものが支えられてきているんではないかと、そういう言い方はできるんではないかと思います。
○大塚耕平君 ありがとうございます。
 それでは、中島先生の方にも一つお伺いをしたいんですが、先生は経済産業省の答申を引用されて、明確に多元主義というものを認めておられるわけですけれども、経済産業省のこの答申をちょっと読みますと、「それぞれの多様な価値観をベースとして、多元的に公益を企画立案・実施する時代に入っていると考えられる。」と、経済産業省がここで多元的に公益を実施と書いてあるんですが、この公益が定義できないわけですから困っているわけですので、そうすると、この多元主義を経済産業省もこうやって認めているわけですが、中島先生は、この多元主義ということはみんながいろいろなことを言うということですから、どういう形で落としどころを、個別具体的な政策課題において、憲法の、例えば訴訟でも結構ですけれども、どういう手続で一つの落としどころを見いだしていくべきだというふうにお考えになっておられますか。手続というか、概念でも結構です。
○参考人(中島茂樹君) 経済産業省のこの答申については出たばかりで、インターネットからダウンロードしたんですけれども、ダウンロードをぱっと始めたら終わらないんですね、なかなか。見ていたら百何ページまでずっと続いていくという、非常に膨大な文章でして、そういう点で、ここで書かれている限りのそういう指摘についてはそれなりに納得がいくという、そういうことで御紹介をさせていただいているわけですね。そうはいっても、細部の問題についてはまたこれから検討させていただきたいと思っているんですけれども。
 いずれにしましても、そういう形で公共性ということを確定していくということを言った場合に、先ほど来申し上げさせていただいていますように、やっぱり人権というふうにいっても、これは単純なそういう私益とは異なると思うんですよね。やっぱり、一定の歴史的なそういう展開の中で裏打ちされて、これが非常に人間の存在にとって不可欠だというふうに認識されてきたものが人権として社会的に認知されていくという、そういう事柄に今なってきていると思うんですね。
 例えば、信教の自由が保障される。信教の自由は人権の非常に重要な部分だということはだれしも疑わないわけですけれども、これについては、だから、特に絶対王政の時代に、信教の自由について権力によって非常に侵害した、そういう経験があるからあえてこれを保障しなければならないという形で歴史的に確定してきている。
 例えば、環境権についても、環境権については裁判所は認めていませんけれども、環境権という言葉が日本社会の中で認知され、一定、好意的に受け止められている。そういうものをキーワードにしながら、公害について何とかしなければならないというコンセンサスが形成されてくるというのは、やっぱりそういう一定の歴史的な背景があるからだというふうに言えるかと思うんですね。
 したがいまして、先ほど言った、歴史的に展開されて裏打ちされてきたそういう人権観念、それから先ほど来同じことの繰り返しになるんですけれども、法治主義あるいは法の支配の原則とか、あるいは地方自治の保障の原則とかいうこと、そういったものはやっぱり、先ほどの御指摘とまた同じことを言っているんじゃないかという御指摘を受けそうですけれども、結局そういう形で問題は考えるほかないのではないか。
 ただ、その際に、問題は、かつてのように国家のみがこれを一方的に決めることができるんだという、そういうかつての伝統的な考え方というのはもう時代が通用しないと。それについては、やっぱり経済産業省の答申というのは非常にいい指摘をなさっているんではないかというふうに思います。
 問題は、だから、そういう方向で、憲法上の重要な原理、歴史的に確立してきたそういう原理というものを非常に大事にしながら、国民が開かれた議論の中でオープンに議論していって問題を決めていくということが、遠いようですけれども、やっぱりこれが一番重要なことじゃないかというふうに思います。
○大塚耕平君 ありがとうございます。
 御指摘とおっしゃられましたが、今日は御意見を拝聴しているんで、別にそういうつもりではございませんので。
 時間も限られておりますので、先生方の御参考にもなればと思うんですが、まず最初に、先に百地先生に一言、私なりの意見を言わせていただきますと、結局、先ほどの質問に対して、やはり国家というのは非常に崇高なものであって、ある意味で目に見えないものとかそういうものとは、あるいは人間を超える大いなるものというふうに先生がおっしゃったものとはちょっと次元の違うものであるというようなお話だったんですが、私もそれはそうだと思うんですけれども、問題は、国家というのはだれかが運営しなきゃいけないわけです。これを運営するのは人間なわけですね。
 人間は、自利と利他という言葉がありますが、官僚の皆さんにしろ我々政治家にしろ、非常にパブリックな気持ちもあると同時に、行動インセンティブの中にどうしても自利的なものが入ってくるわけです。だから、国家そのものは崇高なものであっても、国家を運営するのが人間であるからいろいろ問題が起きるんではないかと、私はそのように思っておりまして、そういう問題意識でちょっと聞かせていただいたんですが。
 それで、もう最後に、質問というより、あと二、三分、いただいている時間の中で意見を言わせていただきますが、先ほど申し上げました公共政策学という分野においても、本当に一体何が公共政策なのかということの定義をめぐって大変みんな迷っているわけです。
 ラズウェルというやはり有名な方が、だれが何をいついかにして得るかという、こういうタイトルの本。原著はフー・ゲッツ・ホワット・ホエン・ハウという、こういう本なんですけれども、そこで六つ条件を挙げていまして、公共政策の定義、公益の定義。第一は、それによってだれが受益を得るのかと。第二は、どのような受益を得るのかと。第三は、それをいつ得られるのかと。第四に、それをいかなる方法で獲得するのかと。そして第五は、だれの負担でと。最後には、どのようなプロセスでと。こういう幾つかのファクトを定義して個々のイシューについて議論していかないと、公共政策とか公益というものは定義できないんじゃないかということを言っているんですが、それでもなおかつ、その六つについていろいろ整理しても議論が分かれて、第七の要素というのがあって、これは何のためにという目的なんですね。
 目的が最も重要なんですが、今日は両先生のお話をお伺いしていて、その目的の部分について、中島先生は人権が重要だとおっしゃられて、百地先生はそれは国家という主権が侵されてはならないと言っておられるんですが、最初の質問に戻りますけれども、結局、人権とか国家の定義すらもなかなか難しいから悩んでいる部分がございますので、これは私ども議席をお預かりしている国会議員も考えていかなくてはいけない問題ですけれども、是非、学界におかれても、人権とか国家というものを何かもう既に定義された言葉であるかのごとく独り歩きさせないようにしていただきたいなということをお願い申し上げまして、私の質問を終わらせていただきます。
○会長(上杉光弘君) 次、山口那津男君。
○山口那津男君 両参考人におかれましては、貴重な御意見を賜りまして、大変ありがとうございました。
 公明党の山口那津男でございます。
 初めに、共通の御質問をいたしますので、中島先生、百地先生の順でお答えいただきたいと思います。
 人権と公共の福祉の関係につきまして、個人や国民を離れて国家という存在はない。したがって、この公共の福祉というものも言わば人権の集合体としての、何というか、個々の国民の持つ人権の集合としての利益というものから出てくるのであって、この公共の福祉というのは言わば人権が最大限に満たされた状態と、こう考えるべきであると、このような考え方もあるわけでありますが、こういう考え方についてどのように思われますでしょうか。
○参考人(中島茂樹君) 私たちが日本なら日本という、そういう国家でともに生活しているというのは、これはそれぞれが個々の人間として、自らの存在というのはたまたまいろんないきさつで生を受けまして、その中で一つのそういう共同体の中で生活しているわけですね。
 そういう中で、先ほどおっしゃったように、個々の人間のそういう事柄を最も大事にするということが公共の福祉だというふうにおっしゃられれば、それはそのとおりで、それ以上でも以下でもないという、そういうことになるわけですね。
 ただしかし、何度も繰り返していますけれども、憲法という領域で人権の保障とかあるいは公益とか公共の福祉ということを問題にする場合には、やっぱりまず第一には国家権力を枠付けるという、それがまず第一義的に発想の中になければならないだろう。国家というものは、個人からしますと、強大な権力、力、実力を持っているわけですね。国家のみが例えば意に反して課税を強制的に徴収することもできますし、場合によっては死刑も執行することもできるわけですね。
 したがって、そういうものに対してやっぱり国家権力の発動というものが誤りがあってはならないという、そういうことで、きちっとしたそういう法の支配とか法治主義とか、そういった原理に基づいて問題を組み立てる。その場合にも、目的はあくまでも人権の保障が中心に運用されなければならないという、そういう脈絡でやっぱり憲法ということを考えるというのが筋ではないかというふうに、一般的に国家とか人権とかいうことを問題にしているわけじゃなくて、憲法における人権の保障、憲法という枠組みの中で問題を立てれば、やっぱりそういうふうに考えなければならないのではないかというふうに私は思います。
○参考人(百地章君) 公共の福祉を、個々の国民の言わば利益が最大限に保障されている状態を指すと、そういうふうな定義をされたと思うんですが、もちろん個々の国民を離れて全体の利益とか国家の利益ということを私自身も主張しているわけではありません。
 ただ、個々の国民の利益というものが前提にあることは当然でありますが、同時にそれだけでは説明が付かない問題があるのではないかということを申し上げているわけでありまして、それが例えば国家的利益とか社会的利益という場合でありまして、例えば国家の存立という問題、もちろんそれを更に突き詰めていけば個人の生命とかいうものに行き着きますが、しかし、直接個人の利益という言い方とはちょっと矛盾すると思うんですよね、そういった場合の国家の利益というのは。
 あるいは、友好な外交関係を維持するために海外渡航の制限をすると。そういった場合には、やはり友好な外交関係というのは最終的には国民の幸福とか国民の利益につながりますが、しかし、だからといってそれが個人の利益そのものかといったら違うわけでありまして、やはり個人の利益を基礎としながら、しかし同時に、個人の利益に最終的には支えながらも、個人の利益とは一線を、一つ離れた国家的な利益というものもあるんじゃないかと。
 だから、そういった利益を含めて公共の福祉を考えていかないと、例えば国を守る義務だとかそういった問題についても、全然、人権が先であって人権に勝る利益なしという立場に立てば、国を守る義務なんというのは当然出てきませんから。
 したがって、そういう従来の公共の福祉論に対する私は批判といいますか、を申し上げたわけで、その辺の個人の利益と国家、公共の利益のバランスというものを考えた上で公共の福祉を考えていきたい、いくべきではないかということを申し上げたわけです。
○山口那津男君 次に、中島先生にお尋ねいたします。
 公共の福祉というのは人権を制約する原理として援用されることもあるわけでありますけれども、一方で、あらゆる人権を見た場合に、公共の福祉以外に何か制約付ける考え方というのがあるのかどうかという点に関しまして、最近、訴権の濫用、裁判で訴える権利の濫用という考え方を出した判例が現れました。裁判を受ける権利というものも保障された人権の一つでありますけれども、この言わば人権の使い方が濫用にわたる場合にはそれが認められない、そういう裁判所の考え方が現れたものだと、こう理解しております。
 そういう言わば人権の制約の別な考え方というものはあり得るのでしょうか。また、どのように考えていけばよろしいのでしょうか。
○参考人(中島茂樹君) 公共の福祉という概念との関係で、裁判を受ける権利というのは日本国憲法では明文で保障されているわけですけれども、しかしながら、最高裁判所が、どの判決でというのは頭にちょっと今浮かんでこなくて申し訳ないんですけれども、そういう何でもかんでも裁判所に訴えてくるな、裁判所も忙しいんだということなんですけれども。
 訴権の濫用ということで、訴訟制度上のそういう技術でもって裁判所の判断を門前払いにしてしまうという、そういう事柄というのは、訴権の濫用ということを問題にする以上に、むしろ問題は逆ででして、例えば先ほど御紹介しました公害関係の裁判というものでは、大体民事訴訟で裁判を起こしているわけですね。それに対して、例えば大阪空港公害訴訟の最高裁の判決なんかですと、空港の在り方の問題というのは行政権、国の航空行政権の内容だと、それは公法的な関係だから私法的な関係では訴える資格がないという形でむしろはね付けている例の方が多いんですね。
 そういうことを考えますと、訴権の濫用ということで、一般論としましては、日本ではまだそこまで、訴訟社会というところまで行っていませんけれども、例えばドイツとかアメリカ、ドイツなんかで私も生活したことありますけれども、ちょっとあれば何でもすぐに裁判所に訴えるという、そういうことになっているわけですけれども、日本もそういう訴訟社会に向けて司法制度改革というのを進められているようですけれども、現在の日本の状況というのは、むしろ訴権の濫用ということで規制するのではなくて、むしろ国民のそういう人権保障という観点からむしろできるだけ吸い上げていくような、裁判の土俵にのるような、そういう制度、枠組みというものを構築していく必要があるんじゃないかというふうに私は現在のところ思っています。
○山口那津男君 百地先生にお尋ねいたします。
 先生は、永住外国人の参政権は認めるべきではないというお考え方のようであります。
 一方で、これに対する反論も有力に主張されているわけでありますけれども、その反論の理由の一つとして、永住権というのは一般の外国人と異なって正に国が与えた権利である、日本人と共通の利益を持ちながら生活できるということで一般的に対立するものではないということを前提にして国が永住権を認めているものであるから、地方自治の場面において一般的な利益の対立ということが予想されない以上、この部分について参政権を認めるのは当然だと、こういう考え方があるわけでありますけれども、これに対する反論、あればお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(百地章君) この永住権の問題と国籍取得ということは明らかに法的にも概念が違うわけでありますし、効果ももちろん違います。
 分かりやすい例を挙げますと、アメリカの場合、いわゆるグリーンカードというんですか、永住権を取得することは比較的容易だと言われます。しかし、永住権を取ったからといって参政権が与えられるわけではありません。参政権を取るためにはいわゆる市民権、日本流に言えば国籍を取得するしかないわけですね。しかも、アメリカでは、その市民権を取得するに当たって忠誠宣誓までしているんです。つまり、これまで帰属していた母国ですね、母国に対する忠誠を放棄させた上で、そして新たに合衆国に対して忠誠を誓わせる。そういう忠誠をさせた上で初めて市民権、つまり国籍が認められ、そして参政権が認められるというものであります。
 したがって、永住権の取得ということと国籍の取得というのは明らかに違いますから、したがって永住権を持っているから参政権を認めるというような国は恐らく例はないんじゃないかというふうに考えます。
○山口那津男君 続いてまた百地先生にお尋ねいたしますが、戦前、明治憲法下で兵役の義務というのがありました。先ほど、先生のお話の中でも国を守る義務というものは認められてしかるべきだと、こういうお話もあったかと思います。一方で、国を守る義務を認める当然の帰結として徴兵制とか皆兵制とか、こういうものを認める国も存在するわけであります。また、日本国憲法におきましては兵役の義務は定めておりません。また他方、十八条におきましては、奴隷的拘束を受けないとか、あるいは苦役に服させられないと、こういったものを人権として認めているわけであります。
 今、有事法が議論されているさなかにありまして、最終的にこの徴兵制ないし兵役を義務として認める余地があるのか、あるいは逆に人権としてこれを認めてはならないということになるのか、その辺についての考え方をお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(百地章君) この問題につきましては、立法論と解釈論を分ける必要があると思います。私が、国を守る義務とかそういったものを明文化すべきではないかと言いましたのは立法論のことでありまして、現在の憲法の解釈上どうなるかといえば、明文の規定はありませんが、私は当然あると思いますが、明文上はないと。
 それからもう一つ、国を守る義務を定めれば当然徴兵制につながるとおっしゃいましたけれども、世界の国々を見れば必ずしもそうではないわけであって、国を守る義務というのは言わば道徳的な義務であって、それぞれの時々に応じて、国に応じて志願制を取ったり徴兵制を採用したりする、これが常識でありまして、したがって、国を守る義務を憲法に定めたからといって徴兵につながるということにはならないというふうに考えます。
 それから、解釈論としましては、もちろん今の九条の下では徴兵制というのは当然いろいろ問題が出てくるでしょう、恐らく憲法違反という議論が出てくるでしょうし。
 それから、もう一つの、意に反する苦役に当たるという議論がありますが、私はこれについては反対であります。
 といいますのは、国際人権規約におきましても、国家の緊急事態における国のための役務というのは、これは強制労働には当たらないと、例外とするというそういう規定がありますし、したがって、そういう緊急時において国のための役務に就かせるということは諸外国でもやっていることであります。
 それからまた、もし意に反する、その徴兵が意に反する苦役であるということになりますと、じゃ自衛官は、意には反しない、自らの意思で志願した、しかしやっていることは苦役なのかということになります。これは大変自衛官に対する冒涜であります。
 したがいまして、意に反する苦役に、反するから徴兵制はできないという議論は私は反対であります。
○山口那津男君 ありがとうございました。
 これで終わります。
○会長(上杉光弘君) 宮本岳志君。
○宮本岳志君 日本共産党の宮本岳志です。
 お二人の先生方には大変今日はありがとうございます。
 公共の福祉による基本的人権の制約ということが今日の議論のテーマになってきているわけですけれども、中島先生も、そして百地先生も、公共の福祉というにしきの御旗でもうすべて人権が好き勝手に制約できるという立場はお取りになっていないと思うんですね、どちらも、少なくとも。
 それで今、他会派の議員からも、今、正に国会で議論になっている有事法制ということも触れられましたけれども、今度の法律、私たち見ますと、明瞭に、これは基本的人権、自由と権利を制限するという項目が出てまいります。しかし、その中身は、実は今後二年にわたって、二年以内に整備する事態対処法制で個々具体的に、どのような権利をどのように制限するかというのは後で決めますと、こうなっているのが非常に重大だと私たちは考えております。
 そこで、両先生にお伺いしたいんですけれども、このような形で具体的にどのような権利をどう制限するかということを後に、積み残したままひとまずこれを制限すると、この根拠が公共の福祉であると、だからこういう答弁も出ているんですけれども、こういう論が、なぜそんなことができるかと尋ねたら、公共の福祉という憲法の規定に基づいて可能なのだという答弁が出ているんですけれども、このような公共の福祉論というものについてどのようにお考えになるか、お聞かせいただけますか。両先生に。
○参考人(中島茂樹君) 現在、国会に上程されている有事関係三法案との関係で御質問いただいたわけですけれども、有事関係三法案を問題にする場合には、これは武力攻撃事態法案の第二条で定義を行っていますけれども、有事についての定義を行っていますけれども、外国から武力攻撃があった場合、それから武力攻撃のおそれがある場合、それから武力攻撃が予測される場合という形でやっていますね。
 その中で、先ほど言いましたように、首相への、そういう事態になった場合に内閣総理大臣への権力の集中、他方で国民の様々な人権の制約ということが内容として含まれているわけですね。これは、憲法学の領域で言いますと、典型的な国家緊急権についての規定なわけですね。国家緊急権の規定ということになりますと、現行日本国憲法は憲法の前文で平和主義を定めています。それから、第九条で戦争の放棄、それから十三条では人権の保障について定めているわけですね。そういう観点からしますと、現行憲法というものを前提にして今回の有事関係三法案ということを問題にしますと、これはかなり憲法上重大な問題をはらんでいるんではないかというふうに思います。
 問題は、順序はむしろ逆で、もしそういうことであれば先に憲法改正ということを明確に行って、その上で、憲法上、国家緊急権について明文の規定を置いて、その上でこういう国家緊急権、典型的な国家緊急権についての定めですけれども、そういった定めを定めるというのが本来の筋ではないかというふうに思います。
 そういうことから、公共の福祉云々というそういう問題についても、現行憲法上、そういう武力攻撃事態法案を始めとする有事関係三法案について、何をもってその正当性を論証するのかということになりますと、先ほど言いましたような日本国憲法が国家緊急権の規定を持っていませんからなかなか難しい。そこで持ち出されてきたのが公共の福祉じゃないかというふうに私は評価しているわけですね。
 そういうことになってきますと、その公共の福祉という概念についての私の意見からしますと、かなり乱用的な用い方ではないかというふうに思います。
○参考人(百地章君) 現在審議されております有事法制案の内容について、詳しいことは私必ずしもフォローしているわけではありません。ただ、新聞等で見る限りでお話し申し上げたいと思いますが。
 一つは、要するに国民の権利が制限される場合が出てくるわけであります、自衛隊が防衛出動する場合ですね。この場合、人権制限の根拠が公共の福祉であるということは、もうそういう言い方をするしかないのではないかと。
 ただし、その公共の福祉とは何かということを私がるる申し上げましたように、例えば国家の存立を守るためには、これはある程度の制限はやむを得ないんじゃないかとか、あるいは何も自衛隊のための行動、自衛隊のための、利益のために行動しているわけじゃなくて、国民の生命、安全を守るために行動しているわけですから、したがって、そのためにはある程度戦闘地域の住民が強制的に退避させられたり、あるいは物資の収用をさせられたりとか、そういうことがあってもやむを得ないんじゃないかということでありまして、それを一口で言えば公共の福祉の制限と言うしかないと思います。それを明確にしていくことが大事ではないかと。それが第一点であります。
 それから、第二点目としましては、現在の有事法制、特に武力攻撃事態法ですか、こちらでは私権の制限が幾つか掲げられておりますが、しかし、その基本的な部分は、現在、自衛隊法の百三条で規定されているわけですね。例えば、病院等の施設の管理、土地、家屋の使用、物資の収用、あるいは医療、土木建築工事、あるいは輸送業者等に対する業務従事命令とか、こういったものは政令でもって定めることができることになっているわけであります。
 したがって、共産党さんは自衛隊を違憲とされているとすればこれは根拠になりませんが、大多数の国民は自衛隊を認めておりますし、もちろん有権解釈としては政府、国会とも自衛隊法を合憲としているわけでありますから、したがいまして、自衛隊法が合憲であるという立場に立って考えれば、政令でできるはずのことをやはり政令でやるのは、できるだけ多くの国民が納得した上で、多数の合意の上で法律でもって定めた方がよかろうということでそれを具体的に法案化しているんじゃないかと私は考えますので、その点、既に自衛隊法にある事柄を、しかも全面的ではないようですね。例えば、従事命令にしても制限があったり、あるいは罰則についてどうするかとか議論がありますが、既に認められていることを具体化しようとしているものだと私は理解しております。
 それから、しかしながら、これも解釈論ではなくて立法論として言うならば、中島先生がおっしゃったように、私も、憲法に自衛隊の合憲性を明記し、さらに緊急事態の問題についても、あるいはさらに人権制約にしても、やはり一片の法律でやるのではなくて、可能な限り憲法に明記した上で制約していくというのが望ましいと思います。
 それから三点目ですが、武力攻撃事態法、新聞で見た限りでありますが、ここではやはりそういうことについては配慮しておりまして、武力攻撃事態への対処においては憲法の保障する国民の自由と権利が尊重されなければならず、制限が加えられる場合は必要最小限度のものであり、かつ、公正かつ適正な手続の下に行われなければならないと、そういう規定もありまして、この精神に従って、立って作られれば全く問題ないというふうに考えております。
○宮本岳志君 私どもも、やはりこれは憲法に重大に触れることですから、先生正におっしゃったように、これは憲法論抜きに進められるものでないという趣旨で少しお伺いしたわけであります。
 それで、中島先生にお伺いいたします。
 改めて公共の福祉の中身ということが問題になってこようかと思うんですけれども、先生は資料でも、公共の福祉というのは資本主義経済秩序から不可避的に生み出される弊害の是正ないし社会的、経済的な弱者保護という政策的な目的からする制約に服することが憲法上承認されていると、これが憲法の言う本来の公共の福祉である、二十二条並びに二十九条の公共の福祉による制限ということをめぐってそういうふうにお書きになっておられます。
 それで、私どもも、正に公共の福祉と言った場合に、国家目的による権利の制限という議論が出てくるわけですけれども、むしろそういった形の、やっぱり経済的弱者を保護したり、あるいは資本主義経済秩序から生み出される弊害の是正という点での私権の制限ということが非常にこの間の社会の発展の中で重要になってきたんじゃないかというように思っておりますけれども、この点少し、私どもは大企業のリストラ等々についてもやはり法的に規制すべきであるというふうに考えておりますし、また産業空洞化ということについてもやはり最低限のルールを守らせることが必要だというふうに考えておりますけれども、この点について先生のお考えをお聞かせいただけますでしょうか。
○会長(上杉光弘君) 両参考人にお聞きですか。
○宮本岳志君 中島先生です。
○参考人(中島茂樹君) 冒頭の意見の中でも申し上げさせていただきましたけれども、日本国憲法では、十二条、十三条、それから二十二条一項、二十九条の四か条でしか公共の福祉が出てこないわけですね。
 公共の福祉というのは人権の制約ということではにしきの御旗にされているという、そういう状況の中で、そういう不確定な法概念については、不確定な法概念によって人権を制限するということはできるだけ避けた方がいいというのが原則ですから、そういうことになりますと公共の福祉という文言を使わなけりゃいいというのが一番いいわけですね。人権を制限するという場合には、一方の利益と他方の利益というものを同一平面できちっと比較考量する、それも裁判的に保障するという場合には、裁判制度の中でのきちっとした手続というものを踏まえて問題を処理していくということが非常に重要だと思うんですけれども、ところが、日本国憲法では明文で公共の福祉という文句が出てきているわけですね。これに付き合わざるを得ないという、解釈論の問題としましては、そういうことになってきます。
 そうなってくると、個別の基本的人権、例えば表現の自由とか信教の自由とか学問の自由とか、いろいろあるわけですけれども、そういう個別の自由の中で公共の福祉という文言を使って人権の制限を憲法自身が明文で認めているというのは、これは経済的自由だけなんですね。二十二条の職業選択の自由と、それから二十九条の財産権。日本国憲法では、経済的自由の保障類型というのはこの二か条だけでしか保障していないわけですね。それをあえて公共の福祉による制限というものを憲法が明文で定めているということですから、憲法学の常識というふうに言っていいと思うんですけれども、特に公共の福祉ということを理由にして人権を制限できるというのは経済的自由の制限ということに限られると。それ以外についてはできるだけ公共の福祉という文句を使わないようにしようというのが大体憲法学の合意だというふうに思うわけです。
 そういう中で、具体的に経済的自由をどういう目的のために制限するのかという、そういうことになりますけれども、ここまで行きますとまた問題は、非常に事柄は単純じゃないわけですね。
 ただ、その場合でも、日本国憲法は二十五条以下の四か条で社会権の保障規定を定めているわけですね。生存権、教育を受ける権利、勤労の権利、それから労働基本権というものを定めています。したがいまして、そういうものと調整が付くような方向での経済的自由の制限ということをやっぱり第一義的に考える必要があるんじゃないかというふうに思います。
 そういう脈絡で問題を考えていきますと、例えば経済的自由という点について問題になった判決としましては、三菱樹脂事件という、御存じだと思うんですけれども、そういう判決で企業には労働者を雇い入れる理由があるんだと、したがって、雇い入れる自由がある以上、労働者についてはきちっと解雇する自由も認めているんだということで、フリーハンドで大体最高裁は認めていますね。これについては、しかし、学説は行き過ぎだということで強い批判をしているところで。
 そういう、特に現在のそういう世の中で、市場経済というのはこれは前提になるわけですけれども、そういったことを具体的に運営していく上でも、そういった権利との調整というのはそういう念頭に置きながらやっぱり運営されていく必要があるんではないかというふうに思います。
○宮本岳志君 百地参考人に最後に一問お伺いいたします。
 先生は、事前の資料で、政教分離の原則についても触れておられます。国家がどこまで宗教とかかわることができるかということとは別に、宗教団体がどこまで政治とかかわることができるかということについて述べておられまして、この問題について、憲法がいかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならないとしているのは、宗教団体が国や地方公共団体から正式に統治権を授けられて行使することを禁止したものであるので、それ以外の宗教団体による組織的な選挙活動や政党の結成、更には政権への参加は問題はないという主張がございますけれども、これについて先生はどのようにお考えになりますか。
○参考人(百地章君) 政府見解は、宗教団体が政治の権力を行使してはならないと、この定義につきまして、国から統治権を与えられて、正式に統治権を与えられて、それを行使することであるというふうに定義しておりまして、実は私はそれに対しては疑問を持っているわけであります。
 もちろん、宗教団体であろうとも政治的な発言をしたりといった一般的な自由は当然あるはずであります。しかしながら、政治活動といいましてもいろんな幅が、段階がありまして、単に投票を促進するとかいうことから始まって、議会で多数を占めてそして事実上その政治を左右してしまうような段階から、さらに正式にその統治権を付与される場合とか、いろんな段階があると思うんです。
 つまり、個々の例えば宗教団体のメンバーであってももちろん一国民として自由に政治活動できるわけでありますし、また、宗教団体も言わば利益代表としてある人の、その一定の代表を送るというようなことも当然あり得るはずです。しかし、それから始まって、だんだんグレーゾーンみたいなのが出てくると。そして、統治権の行使になれば明らかにこれはブラックであると。
 そうすると、このグレーゾーンをきちんと議論しないまま、ただ統治権の行使だけはいけないんだという形で議論しておりますので、やはり政治活動には一定の制限があるのではないかということを私はこれまで申し上げてきたわけであります。
 残念ながら、この議論、なかなかほかの人たち参加してくれませんので、私としてはそれなりに考えて議論しているつもりですが、今後更に議論していきたいと考えております。
○宮本岳志君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 平野貞夫君。
○平野貞夫君 国会改革連絡会という会派でございますが、この会派は自由党と無所属の会というところが構成しているところでございます。私は自由党の所属でございます。
 基本的なことを再度、何度もお聞きして誠に恐縮でございますが、両先生に公共の福祉という憲法の、英文ですとパブリックウエルフェアですか、この定義を、ちょっとお二人とも早口なものですから、ちょっと私付いていけないものですから、これをまず教えていただきたいと思いますが、公共の福祉という言葉の定義をどのようにお考えか。
○参考人(中島茂樹君) 公共の福祉とは何かということになりますと、同じ答えの繰り返しになるんですけれども、やっぱり十人いればなかなか十人違ったような答えが返ってくるんではないかと。ただしかし、先ほどの御発言の中にもありましたけれども、やっぱりみんなの利益を大切にすることだというようなことはやっぱり最大公約数としては言えるかと思うんですね。ただ、それをどういう方向で実現していくのかという、そういうことになってくるとやっぱりいろんな見解が対立してくるという。
 人間社会ですので、その主人公が一人一人の生身の人間ですから、その人間が幸せになるようなそういう社会なりシステムなりを実現していく。その中できちっと、人権と言ったらまた人権説明しろと言われたらまた困りますけれども、そういう、すべてがそういう幸せになれるようなそういう状況を作り上げていく、それが最大公約数だという。
 その場合にどういう方向で実現していくのかということになりますと、やっぱり現行の日本国憲法の下では、先ほど言いましたように、やっぱり憲法上の重要な原理、国家が様々な権力を発動する場合に、強大な権力を持っていて、意図するしないにかかわらず、無意識のうちでもやっぱり少数者の人権というのか少数者の生き方というのを否定しているんではないかという、そういうおそれがやっぱりあるわけですね。しかし、権力を持っている側は、だからそれだけ余計に気を付けなければならないという、そういうことになるわけです。
 そうなってくると、やっぱり国家権力がそういう権力を発動する場合のやっぱり原則というものは確立してきているわけですから、その場合には、やっぱり人間として生まれてきた以上譲り渡すことのできない、人間としての存在を維持できるようなそういう権利は保障しようではないかと。さらに、権力を発動する場合には、意の赴くままに勝手にやってはいいということじゃなくて、やっぱり選挙で国会議員を選んで、そこで議会を形成して、そこで審議されて法律というものが制定されているわけですから、そういう法律に基づいてやっぱりきちっと物事を決めていこうではないかと。
 そういうような原理原則、その中でも更に権力分立の原則とか議院内閣制とか、同じことになりますけれども、地方自治の原則とか、重要な原理があります。そういったものをやっぱり踏まえて一つ一つ大事にしながら運営していくということがやっぱり全体の公共の福祉の実現、公益の実現ということにつながっていくんではないかというふうに私は思います。
○参考人(百地章君) この公共の福祉を言わば事象で例えば定義するような形で何かと言われますと、これは非常に難しいところがありまして、必ずしも憲法学者も明快に言い切っているわけじゃない。若干その辺の違いがありますが、例えばその一つの例として、万人共通の共存共栄の利益とこのレジュメに書きました。こういった意味で解する説が有力ではないかと思います。
 ただ、それでいいかもしれませんが、その上で、しかしこれだけでは確かに抽象的であるし不確定概念であるということから、それを更にもう少し具体化していくと先ほど言いましたような議論になってくると。個人的な利益から始まって、社会的利益、公共的利益にかかわる共通の利益というふうに考えていいんじゃないかなと考えます。
○平野貞夫君 大変失礼なことを申し上げますが、定義においては両先生ともそう違わない印象を受けます。
 私は、率直に申しまして、この公共の福祉という言葉が物すごく軽い。本当はもっと重い、そのパブリックなんという英語は物すごく何というか重い言葉だと思います。公共の福祉に反しない限りというような言葉は、両先生がおっしゃった、国家だけじゃないと思うんですが、みんなの仲間の、あるいは社会の何か非常に崩壊といいますか、あるいは連帯がなくなるようなことでない限り人権を保障しろと、もうちょっと重く私は解釈し、運用すべきだという意見なんですが、日本国憲法の公共の福祉という用語が日本人のイメージの中で非常に軽い言葉で表現されているところに私は非常に問題があるという意見を持っております。
 そこで、中島先生にお尋ねしたいんですが、私はほぼ五十年昔、憲法というのを大学で習ったんですが、たしかそのときには、先生のお話にあった、要するに国民の権利を無制限ではないぞというような意味でこの十三条の解釈なんかはかなり限定的に制約的に習ったことを覚えておるんですが、その後勉強していないんですが、今日なんかも話を聞きまして、何かこの十三条が一種の総則的なもので、憲法の明文がなくともほかに、やっぱり憲法上の基本権というのはほかにもあるんだと。それは裁判が作るというような感じになると思いますが。
 そういうふうに、制定時と現在と相当この十三条の位置付けが変わってきたというふうに思うんですが、その点についてはどのようなお考えでしょうか。
○参考人(中島茂樹君) 憲法十三条の生命、自由、幸福追求権ということですけれども、この条項については、公共の福祉との関係で人権保障の一般的な条項として公共の福祉以外に使っています。
 その当初の用いられ方は、そういう公共の福祉を理由にして人権は制限可能だというそういうことだったわけですけれども、現在では、日本国憲法では、基本的人権というのは歴史的に権力によって侵害されたり制限されたりする、そういう重要なものが列挙されているだけなんですね。表現の自由とか信教の自由とか学問の自由というのが典型的にそうですけれども。
 しかし、現在ではそれ以外に様々な権利が問題になっているわけですね。例えば知る権利とか。あるいは環境権については、裁判所は認めていませんけれども、学説では大体圧倒的多数が賛成しているとか。あるいはそういう知る権利との関係の中で、明文に知る権利とは言っていませんけれども、情報公開というのが、知る権利という言葉は入っていませんけれども、そういう制度もできてくるという。新しい、どう言うのか、歴史の進歩に合わせて新しい人権というのが当然問題になってくるわけですね。
 憲法というのは法律と違いまして一定のやっぱり安定性というものが必要ですから、ちょっと何かあるとすぐにどんどん変えればいいというそういう問題ではないわけですね。そうなってくると、新しい人権というのはどこで保障するのかという問題になってくるわけですね。裁判との関係で、裁判上問題にする場合には、一般的にそういう権利があるというふうに裁判所に言っても裁判所は認めないわけですね。憲法の第何条でこういう権利として保障しているから、だからこの権利は裁判でも保障されるんだという。それは裁判で問題になった相手方に納得させるというためにはやっぱり客観的な基準、憲法なら憲法という基準で定められている、だから保障されるんだという、そういう脈絡になってくるわけですね。
 現在、十三条についてはそういう、特に新しい人権というふうに言っていますけれども、そういった権利を憲法上保障させるための根拠規定というそういう意味合いで憲法十三条が用いられている。そういう憲法十三条を根拠にした人権として、例えば先ほど言いました環境権の問題であるとか、あるいは知る権利の問題であるとか、そういったものが定着してきているという、そういう状況にあるかというふうに思います。
○平野貞夫君 十三条の変遷といいますか発展といいますか、私はそういうような理解をするんですが、これ誤解のないようにお聞きいただきたいんですが、第九条の戦争の放棄の規定も、私たち自由党の発想は、やっぱり国際連合の活動については、憲法の制定の経過からいっても国際情勢の変化によって活動に参加できると。もちろん国権の発動としての武力行使というのはこれは駄目ですけれども。私どもは九条についてもそういう憲法の一種の発展というような発想でとらえているということをこの機会に申し上げて、これについては御意見は要りませんから。
 それから、先生がお話の中で、公共性をめぐる新しい概念というお話、もっともそうだと思います。経済産業省でもいろいろ議論があるということについて、私も大変結構なことだと思いますが、同時に、人権についての新しい概念も要るんじゃないかと思います。それは、著しい技術の発展、特に情報社会の、十九世紀、二十世紀の人間が想像できなかった混乱というか混迷というのがあるわけですが、そのためにやっぱり私どもは人権を一人の人間のものだけでなくて公共財的なもの、これも別に国家だとか地方行政団体というんじゃなくて、地域でもいいですし家族でもいいですし、そういう人権というものを個人じゃなくてもうちょっと一緒の仲間のものだという、そういう概念を作るべきじゃないかと。特に、十九世紀に作られた国家権力と対立するもの、そういう部分もありますけれども、そういうものだけではないんだという、新しい人権の概念を作るべきじゃないかと。
 特に、憲法調査会なんかでは、新しい憲法を僕らは作ろうという意思、論なんですが、そういうことを議論すべきじゃないかという問題意識を持っておるんですが、その点についてはどのような御所見でしょうか。
○参考人(中島茂樹君) 御指摘のとおりでして、その問題については、例えば従来、伝統的には人権というのは国家と個人というそういう枠組みの中だけで考えていたわけですね。おっしゃるように、だから、人権というのは国家からの自由だというふうに言われていたわけですね。
 ところが、現代社会では、そういう人権の侵害主体、個人からしますと強大な権力を持っている主体というのは多々存在するわけですね。例えば、一番典型的には会社、企業というのが入ってくると思いますし、政党も個人からしますと強大な権力を持っているという、そういうことになってきます。労働組合も個人からしますと非常に強大な権力を持っている。
 したがって、そういう関係から、人権の問題というのは国家と個人というそういう枠組みの中だけではなくて、そういう、憲法学では社会的権力というふうに言っていますけれども、そういったものも人権を問題にする場合の枠組みの中に取り入れて、きちっと人権保障の在り方の問題として議論していくという、そういうことが重要になっているということは確かに御指摘のとおりだというふうに思います。
 それともう一点、人権という場合に、国家と個人という枠組みの中だけで問題にしていたということとの関係がするんですけれども、最近、被害者の人権、いろいろな犯罪が発生した場合に被害者の人権ということが最近よく言われるようになりました。これは、かつては人権という、そういう局面で人権を問題にする場合には、国家と被疑者の人権というそういう枠組みの中だけで考えていたわけですね。国家というのは権力を濫用しがちだと、無実の者を冤罪にする可能性がある、だから被疑者について手厚く保護しなければならないという、そういう枠組みの中だけで考えていたわけですね。
 ところが、今日ではそれだけでは話が済まなくて、やっぱり犯罪被害者の人権というものをどういうふうに考えていくのかということが非常に重要な局面になってきまして、そういう面では、三面的な局面で問題を考えていくということで、やっぱり現代社会のありよう、発展に即して、すべてはやっぱり人権の保障のためにということになるんです。そういう目的に合わせて、そういうような状況の中でやっぱり手厚い人権保障のシステムをどう作っていくのかということが課題になっているんではないかというふうに思います。
○平野貞夫君 百地先生にはいつも御指導いただいておりますのでもう御質問いたしませんが、時間のある範囲でちょっと百地先生の国家論、私、非常に大事なことだと思っています。ところが、国家論というと、これ大変国民的抵抗のある用語でございまして、言葉でございまして、ただ、私、今日のお話の中で、人間とは何かという究明が必要だということ。私、社会的動物である人間というのがやっぱり自由と秩序、この対立をどう弁証法的に調整するかということの役割が国家社会共同体の役割であると、百地先生の御意向をそういうふうに理解していますということを申し上げて、ちょうど時間でございますので、終わらせていただきます。
○会長(上杉光弘君) 次、大脇雅子君。
○大脇雅子君 まず、中島先生にお尋ねをいたしたいと思います。
 有事三関連法案を説明するときに、政府は、公共の福祉からこれは当然であって、規定してあることは国民の受忍限度の範囲だということを絶えず繰り返しているわけですが、その主張の当否をめぐって非常に私は疑問に思っているんですが、先ほど先生は、こうした政府見解というのは代表的な用い方だというふうに言われたんですが、これはいわゆる軍事的な言わば公共性という点から用いられているとお考えなんでしょうか。それとも、外在的な制約説の観点も踏まえて用いられていると解釈したらいいのでしょうか。例えば、室井先生の憲法原理に即したいわゆる公共性の分析なんかから見ると、これはやっぱり目的合理性を超えて公共の福祉論ということで有事法制を説明するというのは非常におかしいのではないかなという気がするんですが、この点どういうふうにお考えでしょうか。
○参考人(中島茂樹君) 日本国憲法の解釈論のレベルで問題にしますと、先ほど言いましたように、公共の福祉という条項は、人権保障条項との関係、その中で公共の福祉という条項が出てきているわけですね。したがいまして、公共の福祉ということが問題にされる局面というのは、具体的なそういう人権の保障と制限の在り方という、そういうことを問題にする局面の中で公共の福祉という概念を用いられている。その中でも、先ほど来申していますように、公共の福祉という概念が不確定法概念で、そういったあいまいな概念で人権を制限するということはできるだけ避けようではないかということが大体憲法学の常識に今なっているわけですね。
 そういう脈絡からしますと、公共の福祉というのは、政府の説明がどういう脈絡できちんと説明されているのかというのは、国会でなかなか憲法論をめぐって議論が十分私たちに分かるような形で展開されていませんので、どういうふうな脈絡で使われているということはなかなか承知しないわけですけれども、先ほど来申していますように、今回の有事関係三法案というのを正当化するというためには、そういう従来争いがある公共の福祉という概念ですべて説明するということではなくて、日本の総合的な安全保障の在り方の問題というものをどうするのかということを正面に据えて憲法論を展開していく。その際には、特に国家緊急権の在り方の問題について国民に分かりやすい形で問題を提起して、きちっと議論する。その上で、その有事法制が必要であれば必要だという形で問題を進めていくのが筋ではないかというふうに私は思います。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 百地参考人にはいいですね。
○大脇雅子君 はい。
 それで、百地先生にお尋ねしたいのは、先生は、この有事法制は、国家存立の危険性ということがあるから当然に国家緊急権の制定は必要だというふうに先ほど説明されましたけれども、この政府の説明している公共の福祉から国民の受忍限度だというそういう論拠ということをどう説明されるでしょうか。それとも、先生の書かれました「新憲法のすすめ」などの本を読ませていただきますと、憲法九条二項改正論というふうに言っておられますので、これはどちらに先生はお立ちになるわけでしょうか。
○参考人(百地章君) この問題も、繰り返し申し上げますように、現在の憲法の下でどのように解釈をするかという解釈論の問題と、それから現在の憲法にいろいろな問題があると考えた場合にいかに改正すべきかという立法論、これを混同してしまいますと非常に議論がおかしくなりますので、はっきりこれ分けさせていただきます。
 初めに、九条二項改正論というのは、私は、これは立法論としまして、理想としては少なくとも九条二項を改正して自衛隊を合憲の軍隊とすべきであるということを申し上げているわけでありまして、もちろん、現在、解釈としても合憲とは思っておりますが、明記すべきだということで、これは立法論でやります。
 同時に、もう一つの方は、今おっしゃったのは、現在有事法制として議論されているのは、これは解釈論であります。自衛隊が合憲であるという位置付けの下にいかなる法律を作るかという、そういう問題ですから、解釈論の問題になると思います。
 私、緊急権の必要性があるとか言いましたけれども、これも実は立法論の問題として憲法に本来ならば設けておくべきであろうと。例えば、外国から武力攻撃を受けた場合には国がいかなる行動を取り、そしてその場合に国民のいかなる人権がどのように制約されるかということは、本来ならば憲法に定めておくべきであろうということを申し上げたわけであります。
 解釈論として言いますと、正に、私も国会の議論を逐一追っているわけじゃありませんので、どういう文脈で公共の福祉が使われたか分かりませんが、しかし、少なくとも武力攻撃事態ということを考えれば、正に国家の存立そのものが危険にさらされている事態でありますから、したがって、この国家の存立を維持するというのは正に最大の公共の福祉の維持ということになると思います。
 したがいまして、そのために人権を制限するということは当然でありまして、これは諸外国でも当然のものとしてそのような規定を置いておりますし、国際人権規約でもそれを認めております。
 ただ、その問題と、しかし現在の政府が進めているところ、いろんな安全保障政策等が妥当かどうかとか、あるいは具体的な法律案の中身がどうかという問題は、これは更に別の検討を要しますので、それについてはあえてここでは申し上げません。
 武力攻撃事態は、正に国家の存立の維持にかかわる重大な事態でありまして、これをおいて公共の福祉というものを考えるということは考えられないということを申し上げたいと思います。
○大脇雅子君 中島先生が新しい公益概念というか公共概念ということを言われまして、国境を越えた市民社会が多元的に形成されつつある現代の問題を考えた場合に、行政や企業やNPOあるいは個人が作っていく新しい形の市民社会ということは、そしてその中での公共空間とも言い公共性とも言われる問題提起というのは、私は非常に二十一世紀における新しい我々の考えるべき人間の尊厳に立脚した空間概念だと私は思っているんですが、この場合に、私権の制限というふうにそれを対峙したとき、何かどういう基準でそれを考えたらよろしいのでしょうか。
○参考人(中島茂樹君) 主権概念それ自体をどういうふうに今定義するのかというのは、これ自体大きな問題ですけれども、最も有名な定義では、ドイツでカール・シュミットという憲法学者がいましたけれども、例外状態について決断を下すというのがこれが主権だというふうに言っているわけですね。そういう意味での主権を一元的に国家権力なら国家権力が独占して、ほかの一切の関与を許さないという状況は、二十一世紀ではもうそれは時代後れだというふうに今、私は思っています。
 例えば、外交という国の進路をめぐる非常に重要な問題につきましても、これは外交権について政府、中でも外務省が独占的に今権限を行使することができるという状況では既にないわけですね。これは、この間のいろいろ国会では鈴木宗男議員の問題がありましたけれども、当初の発展はNGOの参加をどうするのかという、そういうことだったわけですけれども、そういった外交の在り方あるいは日本の安全保障をどういうふうに考えていくかという、そういう問題につきましても、政府のみが独占的にすべて問題を決めていくというのではなくて、地方公共団体もいろんなチャンネルを通じてそういう、特に東アジアの国々の人々との友好関係を維持していくようなそういう手はずをする。あるいは、NGOならNGOがアフガニスタンについてのそういう様々な支援措置について独自のチャンネルで問題を展開していく。環境保護なら環境保護という問題についても、そういう日本一国だけでなくて、国際的にやっぱり問題を解決していかないと環境問題について解決しない。そういった問題についてのやっぱりNGOなりあるいは地方公共団体なりが果たす役割というのは非常に重要になっているというふうにも思うんです。
 そういうことになってきますと、先ほど言いましたように、公というものをかつてのように国家が一元的に独占する、それと個人が私益を代表する、私益にこだわる個人が対峙しているんだという、そういう脈絡だけで問題を処理していくということはもう既に、二十一世紀になるともうできないんではないか。
 先ほど言いましたように、公とその私の間には共というそういう、公共の共ですけれども、そういうものが存在する。そういった、例えばNGOとかNPOとか、そういったものを国家の政策的判断を決定していく枠組みの中にどういう形できちっと取り込んでいくのか、そういうシステムをどういうふうに作り上げていくのかということが今私たちに求められている喫緊の課題ではないかというふうに私は思っています。
○大脇雅子君 そうしますと、二十一世紀の基本的人権というものはどのように考えたらよろしいんでしょうか。そういう公共空間との関係で、公共性の中で、いわゆる今までは国家が制約しないとか、あるいは国家が保障する経済的な自由とかあったわけですが、そうした二十一世紀型の基本的人権というものは、そういう新しい市民社会を考えた場合にどのような形で保障されていくのでしょうか。
○参考人(中島茂樹君) そういう面では、例えばその環境権というのを見ますと、環境権というものを日本の一国の中だけで考えて、環境権、良好な環境の中に日本人が生活できるという、そういう条件はもはや今日のような社会的条件の下では困難になってきている。そうなってきますと、世界の様々な国々で同じようにそういう環境権というものを実現していくような、そういう方向をどういうふうに追求していくのかという、そういうことが問題になってくる。
 さらに、経済的自由、企業の経済的自由という、そういうことを考えても、日本の国益あるいは一企業の経済的利益のみを考えて、経済的自由の行使だということで一国の中だけで考えていくということはもうもはやできないわけで、そういう面でいくと、とりわけ中国、韓国、台湾含めて、そういうアジアの国々がともに実現していくような、そういう方向に向けた協力、共同、社会的連帯というものが必要になってきているんじゃないかと。そういう面で言えば、人権の保障というそういう側面でも伝統的な国民、国家の枠組みというのは既に崩壊し、崩れつつある。しかし、だからといって他方で、そういう国家の存在というものが非常に大事だということは他方でそうですけれども、他方では、そういうかつてのような無謬性を誇ったような、そういう存在ではなくなっているということも事実ではないかというふうに思います。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 百地先生に最後にお尋ねしたいのですが、先生は国際人権規約の問題にも触れられまして、兵役の義務ということを言っていらっしゃるわけですけれども、兵役拒否の自由というものは当然に良心と宗教上の自由から認められるべきだと思いますが、この点についてはどうお考えでしょうか。
○参考人(百地章君) 確かに、欧米諸国の中には兵役の拒否の自由というものを憲法で認めている国もありまして、これが特に信仰に基づくような場合はそういうことがあってもやむを得ないというふうに私は考えております。
 ただ、どうもドイツあたりの現状を見ますと、それが信仰だけじゃなくて更に広がってきているようでありまして、単に兵役に就きたくないからというような、そういう動機の人たちもかなり広く認められているような現状もあるようでありまして、こうなるとかえって問題が出てくるということもある。
 それからまた、ドイツでは、これも新聞等で聞いたことでございますけれども、例えば、兵役拒否は増えているけれども、しかし、兵役拒否をしたような人たちは社会的にはやはり高い地位という言い方はともかく、別として、そういうところにはなかなか就けないとか、国民としての当然の義務を尽くしていないわけだから、したがって、やはりそういう評価も一方ではなされているところもあるといった話も聞いております。
○大脇雅子君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後三時三十一分散会

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