第156回国会 参議院憲法調査会 第2号


平成十五年二月十九日(水曜日)
   午後一時一分開会
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   委員の異動
 二月十二日
    辞任         補欠選任
     広中和歌子君     松井 孝治君
 二月十八日
    辞任         補欠選任
     大脇 雅子君     福島 瑞穂君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         野沢 太三君
    幹 事
                市川 一朗君
                武見 敬三君
                谷川 秀善君
                堀  利和君
                峰崎 直樹君
                山下 栄一君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                亀井 郁夫君
                近藤  剛君
                桜井  新君
                椎名 一保君
                常田 享詳君
                中曽根弘文君
                福島啓史郎君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                伊藤 基隆君
                江田 五月君
                川橋 幸子君
                木俣 佳丈君
                高橋 千秋君
            ツルネン マルテイ君
                松井 孝治君
                若林 秀樹君
                魚住裕一郎君
                山口那津男君
                宮本 岳志君
                吉岡 吉典君
                松岡滿壽男君
                福島 瑞穂君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       関西学院大学法
       学部教授     平松  毅君
       青山学院大学法
       学部助教授    申 ヘボン君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (基本的人権
   ―「人」の保障)
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○会長(野沢太三君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「基本的人権」のうち、「「人」の保障」について、関西学院大学法学部教授の平松毅参考人及び青山学院大学法学部助教授の申ヘボン参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、平松参考人、申参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず平松参考人にお願いいたします。平松参考人。
○参考人(平松毅君) 平松と申します。このたびは憲法問題について所見を述べる貴重な機会を与えていただきましたことを大変光栄に存じます。
 時間の都合もありますので、レジュメの中の3の(1)までお話し申し上げて、あとの問題につきましては御質問があればお答えしたいと存じます。
 まず、憲法の前提となっている基本価値、憲法改正によっても変えることができない基本価値というものがあるのかどうかという問題から議論したいと思います。
 ドイツでこの問題が提起されるきっかけとなりましたのは、ブラント社会民主党政権が推進した、離婚における破綻主義の採用、妊娠中絶の非処罰化、ポルノの非犯罪化などの政策でありました。野党であるキリスト教民主同盟などは、これに対しまして、法及び社会は普遍的に妥当する道徳的価値観を前提としている、これを放棄することは国家の自己破壊を生ぜしめる、このような前国家的な基本価値は多数決の対象ではないと主張したのであります。
 自由な国家は市民に多くの自由を保障いたしますが、その自由は世界観の多元性をもたらします。にもかかわらず国家が無政府状態にならないのは、共通の倫理的な基盤が存在するからであります。国家が教育、給付、助成、調整などの多様な活動を国民の協力を得て行うことができるためには、共通の価値基盤が不可欠であります。
 では、この倫理的な基盤はどのようにして保障されるのかにつきましても二つの立場があります。
 一つは、国には憲法以前に憲法によっても改正できない基本価値が存在し、多数派はこれらの基本価値が侵害されない限りで少数派の忠誠を当てにすることができるのである以上、この価値を擁護することが政府の役割であるという思想であります。
 このような思想が発生いたしましたのは、ナチスによる不法国家の経験から、法律も不法であり得るということを経験し、国家秩序の最後のよりどころといたしまして法律の影響を受けない道徳しかないとして、ドイツでは自由の制約原理といたしまして道徳律が加えられました。このことが一つのきっかけとなりまして、法律及び国民共同体の基礎には普遍的妥当性を有する道徳的価値観が存在するのであり、国の法秩序は社会に存在するエートスに根拠付けられていなければならないと主張されたのであります。
 これを基本価値と言い、この基本価値というものは無定見な公衆の喝采に対しても国家はこれを守る義務があるから、それは多数決の対象ではない。すなわち、多数決という民主主義原理もそれに潜在する価値によって拘束されている、そして、基本価値を擁護することは政治家の義務であると考えるのであります。
 では、この基本価値とは何かにつきましては、少なくとも自由とか正義、連帯、人間の尊厳等々が含まれることは共通した見解であります。もう一つの見解は、国家により確保されるべき実体的価値は存在することを認めますが、その基本価値が存続するかどうかは政治的意思形成にゆだねられており、それは憲法に具体化されているという立場であります。
 なるほど、憲法は特定の価値にコミットすることは自制しておりますが、この自制というものは自明なるものの承認を前提としております。国家は、経済、社会、教育、文化等の領域で自由と多元性を保護するために調整することによって、社会の多元的諸勢力による生産的共同のために開かれ続けることに価値的に拘束されている。すなわち、国家は、自由、多元性及び正義の価値に拘束され、その価値被拘束性によって多元主義的社会を支える。それは諸主体間の価値コンセンサスに由来し、憲法によって客観化された価値秩序となっているというふうに説くのであります。
 このように、基本価値に関しましては、憲法以前に存在しているという説と、基本価値は憲法の中に具体化されているという説とに分かれますが、共通しているのは、議会の多数決に対しても守らなければならない倫理的な価値が存在し、それを守るのが政治家の役割であるという考え方であります。
 レジュメの2に移りますが、ドイツにおけるこのような基本価値論争に触発されまして、我が国においてもこのような基本価値が存在するのであろうかということについて考えてみたいと思います。
 我が国におけるこれまでの憲法の運用を見てまいりますと、憲法条文とはかなり異なった運用がなされている例が存在いたします。その幾つかの例を挙げてみたいと思いますが、これはレジュメの二十五ページに書いてございます。
 まず第一に、天皇は、この憲法の定める国事行為のみを行いと定められているにもかかわらず、現実の必要性から、天皇は、国会開会式のお言葉、国体や植樹祭などへの出席など国事行為以外の行為を天皇の公人的行為として行っております。
 あと第九条の問題がありますが、これは省略いたします。
 また、第三十三条を見ていきますと、これは令状主義を定め、その例外を現行犯逮捕の場合に限定しているにもかかわらず、やはり現実の必要性に基づいて、令状によらない緊急逮捕を認めております。
 また、第三十九条は、英米法に言う二重の危険の禁止を定めておりますが、最高裁は、ここに言う危険とは検察官による上訴を含まないと解し、この条文は事実上棚上げされております。
 また、総司令部は、衆議院の解散権を第六十九条の場合に限定する趣旨であり、当初はそのような運用がなされましたが、その後、衆議院の解散権の根拠を天皇の国事行為に基づかせることによって、内閣は随時解散することができるという慣例が形成されております。
 第七十二条に言う内閣の議案提出権に関しましても、予算と条約については規定があるにもかかわらず、法案を内閣は提出することができるという規定がないにもかかわらず、内閣は法案を提出することは当然の慣行とされております。
 第八十条では、下級裁判所裁判官の報酬は在任中これを減額することができないと定められておりますが、このたび減額されております。
 第八十九条は、公金は公の支配に属しない教育の事業に支出してはならないと規定されておりますが、公の支配に属しないを、公の支配に服しないの誤訳であるとして、私学助成が行われております。
 これらは憲法条文の文理解釈とは異なった解釈をすることにより、憲法条文を空洞化している例であります。
 ここから、次のような推論を引き出すことができるかと思います。
 第一に、これらの憲法条文の無理な解釈を行っている事項は、当初予想されなかった事情の変更によって生じたのではありません。天皇の公人的行為にせよ、緊急逮捕の規定にせよ、内閣の法案提出権にせよ、内閣の解散権にせよ、私学助成にせよ、日本人に理性的な洞察力があれば予想することができたことでありました。しかし、現実には、議会に選出された数百人の日本の知性はその欠陥に気が付かなかったのであります。このことは、日本人には規範を形成する能力に欠けているのではないかという推論が成立いたします。
 例えば、事件が発生した場合、それらの事件に共通する要素を取り出して、そこから普遍的な法則や規範を見いだす能力という点では、日本人は西欧人に太刀打ちできないのではないかという点であります。このことは、日本の立法の多くが西欧諸国のそれをモデルにしていること、世界の最先端を行く立法が日本から生まれた例はほとんどないことなどからも推論することができます。
 とすれば、憲法を改正したといたしましても、改正の直後から何らかの憲法の欠陥が明らかになり、現実に適応させるために無理な解釈をしなければならない事態が発生するであろうことが予想できます。そのような予想ができるのであれば、むしろ現行憲法の運用を維持した方が国民のアイデンティティーを確保する上でも適当ではないかと考えられます。
 第二に、このことは、逆に申し上げますと、日本人は規範がなくてもその時々の状況に対応した行動の基準を見いだして秩序を維持することができる民族であることを意味いたします。
 このことは多くの事例によって実証されております。例えば、阪神大震災に際しましても窃盗がほとんどなかったことが外国の特派員を驚かせたのもその例であります。すなわち、規範がなくてもその時々の事態に対応して融通無碍に行動し秩序を維持することができるという特性を有するわけですが、その反面、すべての人が遵守すべき普遍的な規範を見いだす能力、その規範に従って是非、善悪を判断し行動する能力という点では、日本人には欠陥があるのではないかということを推測せしめます。
 このことを、同じ状況に置かれながら日本人と対照的な行動を取ったドイツ人とを具体的な例を挙げて論証したいと存じます。
 戦後、総司令部は官公労組合が過激な労働運動を指導したことをきっかけに我が国の公務員の政治的中立性を要求し、公務員の政治活動を禁止し、公務員から被選挙権を奪いました。これは、スポイルズシステムが行われていた英米において、下級公務員に政治的中立性を要求していた制度を我が国にも採用することを求めたものでありました。しかし、これは、スポイルズシステムとは無縁の我が国の公務員にこれを要求し、公務員から被選挙権を剥奪することは人権侵害の疑いが濃厚であり、許されるべきではなかったと思われます。しかし、政府は総司令部の要求を無批判に受け入れ、その結果、公務員の政治的行為の禁止と被選挙権の剥奪が規定されたのでありました。
 実は、総司令部は、敗戦国ドイツの公務員に対しましても同じことを要求したのであります。しかし、ドイツは、官僚に政治活動の自由を保障することはドイツ官僚制の伝統であるとして、この要求を拒否しようとしたのでありますが、敗戦国ドイツはこれを正面から拒否する力はなかったのであります。そこで、憲法には、公務員、裁判官の被選挙権は法律でこれを制限することができると定め、法律で公務員の政治活動を保障し、特定の管理職を除いて在職中における被選挙権を保障したのであったわけです。
 この結果、ドイツやフランスなどにおきましては、政治家の過半数は公務員出身者であり、公務員は政治家の最大の人材供給源となっております。そして、今日、公務員の有する専門的知識なくしては議会は有効に機能しないであろうとさえ言われております。すなわち、ドイツ人は、規範の有効性を予測する能力という点で我が国よりも一日の長があると考えられるのであります。
 今日、この問題は重要な憲法問題になっております。すなわち、公務員という身分を理由に選挙権の前提となる被選挙権を一律に奪うことはドイツでは憲法違反と考えられておりますが、日本においても同様であろうと考えられます。
 そこで、3の方に入りたいと思いますが、これまで日本の憲法の運用について述べましたように、日本では憲法条文の文理解釈が憲法を運用する基準とはなっておりません。このことは、憲法以外に何らかの価値の基準があり、それによって憲法が運用されているのではないかとの疑いを起こさせます。その意味におきましては、日本にも憲法改正によっても変えることのできない基本価値が存在し、それを前提に憲法の運用がなされているのではないかと推測することができるわけであります。
 では、日本において、憲法よりも高次の、憲法の運用を支配している基本価値とは何か。それは、ドイツにおけるような自由、正義、連帯などであろうか。幾つかの資料に基づいて、日本人が前提している価値について考えてみたいと思います。
 まず第一でありますが、日本におきましてそのような価値が存在するかどうかを住民の意識に基づいて考えますと、その手掛かりとなりますのが各市において制定されております市民憲章であり、その市民憲章において最も多く採用されている文句が、聖徳太子が制定した十七条憲法にある和であります。
 十七条憲法が仏教、儒教、法家などの古典から引用されていることは既に立証されておりますが、和がどこから来たのかにつきましては漠然としたことしか分かっておらず、これはなぞとされております。専門家は、これは和合の精神であると解し、これをハーモニーと翻訳する人もおりますが、私は、これは仏教の因縁生起、すなわち縁起の思想を表したものであり、西欧で言う連帯と同じ趣旨の規定であると解するのであります。なぜならば、縁起の説こそ仏教の根本思想であり、これが十七条憲法の基礎になっている仏教の基本理念だからであります。
 因縁生起に言う因とは、結果を生じさせる直接的な原因、縁とは、それを助ける間接的な原因であり、あらゆるものは因縁によって生滅する。次に、生起とは、あらゆる存在が互いに関係し合って生起すること、相互に持ちつ持たれつの関係にあることを言いますので、因縁生起とは、あらゆる存在の因果性、相関性、相互依存性を表す言葉であります。
 すなわち、いかなる現象も固定普遍ではない、現象世界は常に変化して一瞬も停止することがない、これを諸行無常と言います。また、すべてのものは孤立、独尊するのではなく、他に依存して他との関係において存在いたします。これを諸法無我と言います。この思想によれば、命あるものはすべてこれまで何度となく生まれ変わり死に変わりして、お互いに父母であり兄弟であった。そこから、相手の中に自己を発見し、相手と一つになって共感する心が生まれます。したがって、他人を欺いたり軽んじたり苦しめたりしてはならず、一切の生きとし生けるものに対して無量の慈しみを行うべきだと説いたのであります。
 こうして仏教は、あらゆる生命と物質が相互に依存することによって世界が成立している以上、他の存在に対する感謝の気持ちを持ち謙虚でなければならず、そこからそれらの生命に対する人々の責任が生じます。人々の行為が因となり縁となって人は卑しい人とも聖なる人にもなるとし、人間の努力の重要性を説いております。すなわち、仏教はあらゆる生命体との関係性と調和的な共生を重んじております。そして、十七条憲法に言う和とは、このような共生の思想を説いたものと言うことができますので、それはドイツで説かれている基本価値のうちの連帯に相当する思想であろうと言うことができるかと思います。
 時間が参りましたので、あとの問題につきましては、御質問がありましたらお答えしたいと存じます。
 私の陳述をこれで終わりたいと思います。
 どうもありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、申参考人にお願いいたします。申参考人。
○参考人(申ヘボン君) 本日はよろしくお願いいたします。
 私の専攻は国際人権法で、特に国際人権規約等の人権条約の実施を研究しておりますが、本日は人間の尊厳、個人の育成というテーマで、特に女性や子供の人権をという要請がございましたので、個人の自己決定権をめぐる問題を中心としまして、女性の人権や子供の人権に特に言及しながらお話し申し上げたいと思います。
 まず第一章ですが、個人の自己決定権という問題を考える際に現在の日本で最も重要な出発点になりますものは、憲法はもちろんですが、一九九九年に制定、施行された男女共同参画社会基本法であると思われます。
 お手元のレジュメに法律の前文と第四条を抜粋してございますが、まず前文では、少子高齢化の進展等、我が国の社会経済情勢の急速な変化に対応していく上で、男女が互いにその人権を尊重しつつ責任も分かち合い、性別にかかわりなくその個性と能力を十分に発揮することができる男女共同参画社会の実現が緊要な課題となっているとされ、男女が性別にかかわりなく自己実現できる社会の実現が二十一世紀日本社会の最重要課題であるとされています。
 そして、第四条では、社会における制度又は慣行が、性別による固定的な役割分担等を反映して男女の社会における活動の選択に対して中立でない影響を及ぼすことにより、男女共同参画社会の形成を阻害する要因となるおそれがあることにかんがみ、社会における制度又は慣行が男女の社会における活動の選択に対して及ぼす影響をできる限り中立的なものとするよう配慮されなければならないとされております。
 日本は女性差別撤廃条約を一九八五年に批准し、それに伴い、男女雇用機会均等法の制定など、国内法制にも大きな変化がありました。しかし、後で述べますとおり、雇用面ではむしろ男女の職務分離が進み、賃金格差も縮小しないという様々な問題が山積しております。
 女性差別撤廃条約は、女性差別は男女の役割分担の固定観念からくる部分が大きいことから、そうした偏見をなくすための措置を取ることも国に義務付けておりますが、この男女共同参画社会基本法は、男女平等を目指すと言うにとどまらず、男女が社会のどの分野で活動するかの選択に際して、社会の制度や慣行が特定の方向に人を誘導することのないようライフスタイル中立的なものとするべきことを基本理念としている点で、個人の自己決定権の実現にとって画期的な意義を持ち、今後の日本社会の変革の基本的な枠組みになるべきものと考えます。
 先ほど、平松先生が御報告の中で、日本が諸外国に先駆けて法律を作った例はほとんどないとおっしゃられましたが、この男女共同参画社会基本法に限って言えば、諸外国の差別禁止法を超える先端的な法律であると思います。
 以下では、個人、とりわけ女性の自己決定権をめぐる日本の現行法制度と社会慣行について、既に最近は議論のあるところではありますが、問題の所在と今後の方向性を述べたいと思います。
 レジュメの二章に入ります。
 まず、雇用面から見ますと、男女雇用機会均等法ができ、その後改正されて強化されたとはいえ、これにより現実には多くの企業が、一般職、総合職といういわゆるコース別人事等によって、男性を基幹的労働力とし女性を補助的労働力とする雇用慣行を取るようになりました。これは均等法の下でも雇用管理区分に基づく異なる雇用管理を行うことは違法ではないとされているためでありまして、均等法の制定により、結果的にはコース別雇用による男女の事実上の職務分離がかえって進んだという指摘がございます。そして、雇用区分が異なる結果として、男女の賃金格差や待遇の格差が正当化され、一向に改善されない現状が続いております。
 もちろん総合職として対等に働いている女性もたくさんおりますが、家庭を持つ段階になると、女性は一様に家庭と仕事との両立に苦しむことになります。そして、子供は持たないか、あるいは一人目の子供が生まれた段階で女性の方が仕事を辞めざるを得ないというケースが非常に多くなっております。昨年の厚生労働省の調査では、働く女性の実に七割が第一子出産後に離職しております。これは、雇用というものが、長時間労働することができ、辞令一本で転勤もできる、そのような男性社員を標準に考えられていることから生ずる避け難い結果であります。独身か、あるいは結婚して家庭責任のほとんどを女性に任せることができる、そして長時間労働ができる男性と、結婚すると家庭責任のほとんどを負う女性とでは、労働力として対等に太刀打ちできないのは自明の理であります。つまり、日本の従来の雇用慣行は、一家の大黒柱として家計を担う男性の長時間労働を前提に成り立っており、その結果、多くの場合、女性は非効率な労働力として排除されるか、又はパート労働に回ることになります。
 しかし、こうした従来の雇用の在り方は、女性だけではなく、男性の生活設計や、より大きく社会の少子化の問題にも大きくかかわっております。男性にとっては、一市民としての文化的な生活や家庭生活を奪われている状況があります。また結婚した夫婦でも、男性が家庭責任を担えないために子供はせいぜい一人しか持てないという家庭が増えております。
 さらに、昨今の不況による雇用不安は、一家の稼ぎ手としての役割を期待されている男性にとって極めて厳しい状況を生んでおります。住宅ローンや教育費を抱えた中高年男性の自殺の率は、諸外国には例を見ないほど高い数に上っております。
 専ら男性の長時間労働による家計の維持を前提とした従来の日本の雇用慣行は、現在のような雇用不安の状況下では、家族全員の生活設計を男性の雇用に依存させ不安定にさせるばかりではなく、男性にとっても大変に過酷な状況を強いるものであります。雇用が流動化した現在の社会情勢下では、男性だけではなく女性も就労することによって、家計に複数の収入源を確保することが家族の生活にとって重要な安全弁になるはずであると考えます。
 二章の(2)に入りますが、このような男性中心型の雇用は、単に企業の雇用慣行というだけではなく、税制や社会保障制度上の法制度上支えられてきたものでもあります。
 既に御承知の事柄ばかりかと思いますが、主な点を挙げれば、所得税や住民税の配偶者控除の制度は、女性を専ら家庭での無償労働に従事させることを促す効果を持ち、就労する場合でも、あくまで補助的なものとして労働時間を制限する方向に促すものになっています。
 また、国民年金の被扶養配偶者、いわゆる第三号被保険者制度は、明らかに専業主婦世帯を優遇し、共働き世帯に高い負担を課すものです。収入のない専業主婦に保険料を課すのは酷であるとか、家事労働を負担しているからという議論もありますが、専業主婦世帯の方が往々にして世帯全体の収入は高く、また共働き世帯であっても家庭責任を多く担っているのは圧倒的に女性であることからしても、こうした専業主婦世帯優遇の社会保障制度は見直しの必要があると思われます。
 しかし、他方で、このように専業主婦を優遇する法制度であっても、一たび離婚ということになれば、女性にとっては極めて不安定な生活が待っているのが現状です。すなわち、女性が離婚し、その後就労しても、正社員の四分の三未満の短時間就労にとどまる場合には、女性が受けられる年金は、満期の四十年間加入したとしても生活保護水準よりも低い基礎年金だけであって、老後の経済的保障には全く不十分です。そして、そのことがまた、結婚生活が事実上破綻しており本来は離婚を希望している場合でも、女性側が離婚を思いとどまる大きな理由の一つになっております。
 日本でも、夫による妻への家庭内暴力は深刻であり、近時はドメスティック・バイオレンス法、いわゆるDV法の制定にも至っていますが、夫が妻に頻繁に暴力を振るうにもかかわらず、妻が離婚に踏み切らないときの最たる理由の一つは離婚後の経済的不安であります。女性が経済的に自立していない状況は、女性に対する家庭内暴力を温存する重大な一要因でもあります。
 折しも、昨年六月に、政府税制調査会がまとめたあるべき税制の構築に向けた基本方針は、税制の見直しに当たって、男女共同参画社会の進展の中で個々人の自由な選択に介入しない中立的な税制を提唱し、具体的には配偶者特別控除を一部廃止する方針を示しました。また、同じく昨年六月の経済財政運営と構造改革に関する基本方針二〇〇二は、男女共同参画社会を構築し、女性が働くことが不利にならない制度設計にするとして、税制の配偶者控除の見直しや、男女共同参画社会の理念と合致した年金制度を構築することを打ち出しました。これらは男女共同参画社会基本法に沿った方向性として妥当と評価できますが、今後、より広く、男性中心型の経済社会制度から、男女ともに仕事と家庭を両立しながら社会に参画することができることを促す法制度に向けて具体的な改革が必要な時期に来ていると思われます。
 次に、第三に入りますが、男女共同参画社会の実現と子供の人権の関係について述べたいと思います。
 法制度を個人のライフスタイルに中立的なものにするとしても、子供のいる家庭の場合には子育てを支援する法制度を整えることが非常に重要になってまいります。
 女性の就労をしやすくすると同時に、子供を安心して預けられる保育所や学童保育施設の整備が不可欠です。現在の日本では、これらは十分と言うにはほど遠い状況にあります。しかし、他方でまた保育所の完備が重要であるといっても、長時間労働、長時間通勤の現状にただ合わせて、ひたすら保育時間を深夜まで延長するというのも子供にとっては望ましいと言い難いものがあります。保育園を整備するだけではなく、子供が両親と家庭で過ごす時間を確保するためにも、女性だけではなくやはり父親である男性の長時間労働を是正することが不可欠であります。
 また、子供の人権といったとき、最近日本でも急速に顕在化している大きな社会問題として、家庭内での子供の虐待があります。子供の虐待は親が再婚した場合に義理の父母によって行われるケースも多々ありますが、実際に率として最も多いのは子供の実の母によるものであります。これは一見意外なようではありますが、日本の現在の育児環境で、父親が夜遅くまで帰ってこない、核家族化により祖父母の存在も薄いという中で、社会から隔絶されて育児、家事に奮闘している母親の状況から生まれている現実であります。
 こうした子供の虐待を防ぐためにも、母親一人を家庭に閉じ込めて家事、育児を押し付けるのではなく、男性と女性がともに家庭責任を担っていくことができる社会を実現することが焦眉の課題になっております。
 日本では一九九一年に育児休業法が制定され、九五年には国際労働機関、ILOの家族的責任を有する男女労働者の機会及び均等待遇に関する百五十六号条約も批准しておりますが、実際に育児休業を取る男性は一%にも満たない状況であります。ILO条約で求められている男女労働者の実効的な平等の実現のためにも、男性に育児休業を取りづらくしている様々な要因をなくしていくとともに、場合によってはスウェーデンのように男性も一定期間育児休業を取ることを法律で義務付けることも考えられてよいと思います。
 最後にまとめに入りますが、結局のところ、女性だから男性だからというジェンダー的な差別や男女の役割分担を前提とした法制度及び慣行は、女性だけではなく男性にとっても自己決定権を妨げる大きな障害になっていると考えます。また、そうした社会のゆがみが子供を持てないという少子化をもたらし、他方では子供の虐待といった形で子供の人権侵害につながっております。
 男女共同参画社会基本法が、男女が性別にかかわりなく自己実現できる社会を掲げたことは、日本社会の変革に向けての重要な第一歩でしたが、今後はその方向性を更に具体化し、すべての人の自己実現、自己決定権が尊重される社会の実現に向けての取組が求められていると考えます。
 ここで、具体的な提言として三点申し上げたいと思います。
 まず第一点は、税制上の配偶者控除制度、それから年金の被扶養配偶者制度のような制度は根本的に見直しを行い、基本的には廃止の方向とすることです。
 これは既にそのような方向で議論が進められているものと理解しておりますが、もし一足飛びの廃止が難しいという場合には、例えば年金であれば、現実的な案としては、妻の分の保険料を夫の分に上乗せして徴収する、もし妻にパート収入等があればそこからも徴収するといった策が考えられるかと思います。これに対して、子供を持つ家庭への支援は必要であって、私は、子供を育てている家庭への直接的な支援として、すべての子供に対する児童手当を現在のような所得制限なしに普遍的に支給することが望ましいと考えております。この点は、所得制限を完全になくしてしまうことがどうかという意見もあるかと思いますが、少なくとも現在の所得制限では厳し過ぎるという意見を持っております。
 第二点として、雇用の平等に関して、ILOの雇用及び職業についての差別待遇に関する条約、百十一号条約を批准すべきと考えます。
 この条約は、ILO加盟国百七十五か国中百五十七か国が批准しており、先進国と言われる国で批准していないのは日本とアメリカだけですが、アメリカは公民権法できちんとした性差別禁止法制を持っております。日本はこの条約を批准するとともに、併せて必要な国内法整備を行うべきと考えます。
 そして第三に、その国内法整備とも関連しますが、明確な性差別禁止を定めた性差別禁止法を制定することです。
 現在の均等法では女性差別のみが禁じられており、逆に、改正までは女性のみの募集、採用も許されていたために、男女の職務分離が事実上かえって進んでしまっております。これを女性差別のみという平面的なものではなく、包括的な性差別禁止法とすることが望ましいと考えます。
 またあわせて、ILO百十一号条約で禁止されている差別待遇には、性別だけでなく、未婚、既婚の別、家族状況、例えば子供がいるかいないか、それから妊娠、出産を理由とした差別等が含まれておりますが、これらも含めて性差別禁止法に盛り込むことが望ましいと考えます。
 多くの先進国、例えばカナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった国の性差別禁止法は、こうした様々な事由に基づく差別を包括的に禁止するとともに、違反があれば被害者の申立てによって人権委員会等が事案を審理し、是正を命じることができる救済機関と手続を設けております。日本でも一刻も早くこうした実効的な差別禁止法を制定する必要があると考えております。
 以上でございます。
 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 福島啓史郎君。
○福島啓史郎君 自由民主党の福島啓史郎です。
 今日は、平松先生、申先生には御多忙の中、有益な憲法調査に関する意見の開陳をいただきまして、大変ありがとうございます。
 まず、平松参考人にお聞きしたいと思います。
 レジュメの中の2のところにありますように、日本におきましての憲法運用の中で、文言に反する運用を行っていると数例挙げられたわけでございますが、その中で省略された憲法第九条に関してお聞きしたいと思うんですが、文言に反した運用の理由として、法制定後の事情の変更、あるいは制定時における憲法の運用に関する洞察力の欠如ということを要因として挙げられているわけでございますが、まず憲法第九条はどちらになるのか、その点のお考えをお聞きしたいと思います。
○参考人(平松毅君) ありがとうございました。
 九条を除きましたのは、九条につきましては、制定後の事情の変更によって解釈の変更が必要になった例ではないかと思いまして、これは除いたわけでございます。
○福島啓史郎君 事情の変更ももちろんあるかと思うんですが、それと同時に、国家が本来持っております固有の機能であります自衛権というものを放棄できないということに対する、ある意味では洞察力の欠如ということも言えるんじゃないでしょうか。いかがでしょうか。
○参考人(平松毅君) この点につきましては、特に私、独自の意見を持っておりませんので、お答えできません。
○福島啓史郎君 次にも平松先生、お聞きしたいわけでございますが、日本におきます基本価値の存在として和がこれに該当するんではないか、この和は連帯ではないかということを言われたわけでございます。これは、この基本的な価値は多数決によっても奪われない倫理的な価値であって、政治家はそれを守る義務があるということを言われているわけでございます。
 私は、後の方でも述べておられますけれども、宗教に代わる国民共同体の連帯の必要性を述べておられるわけでございます。私は、この国民共同体の連帯の、何といいますか、源泉といいますか、基となるものとしまして、私は憲法第一条があるのではないかと思うわけでございます。つまり、天皇の地位、国民主権でございます。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という、これは私は国民共同体の連帯を象徴するといいますか、意味しているものだというふうに考えるわけでございます。
 これについての御意見と、関連いたしまして、私は基本的には変化はしていないと思うんですが、国民のこうした天皇観、この憲法第一条に表れております国民の天皇観に変化は、変化しているのかどうか、その点も併せてお聞きしたいと思います。
○参考人(平松毅君) お答えいたします。
 確かに、天皇の存在が国民の連帯を醸成するために重要な役割を果たしているということは認めざるを得ないと思います。したがって、ドイツなど君主制を有しておらない国におきましては大統領制を採用して、そして大統領に象徴としての役割を果たさせることによって国民統合の役割を果たしているということが言えますから、天皇がそのような統合の象徴であるということが国民の連帯をはぐくむ重要な要素であるという点につきましては、お説のとおりだと思います。
○福島啓史郎君 二番目の質問で、国民の天皇観、この憲法第一条に盛られておりますこと、そうした国民の天皇観に変化があるのかどうかについてはいかがでしょうか。
○参考人(平松毅君) 単なる個人的な主観的な感想しか申し上げられませんが、天皇から大権が除かれたことによって国民の天皇に対する感情が非常に純粋に国民統合の象徴というように純化されたということは良かったのではないかというふうに考えております。
○福島啓史郎君 結論の方で時間がなくて省略されたわけでございますが、平松参考人にお聞きしたいと思いますけれども、状況に対応した適切な判断を行うことに憲法が障害とならないようにするためには、国民の多様な要求を盛り込み、時代の変遷にも対応できるような規範の制定が必要だと、しかしそれは日本人にとっては至難の業であると言われておるわけでございます。むしろ、現在の憲法はそのままにして、それを柔軟に運用してきた知恵を生かすことが日本のアイデンティティーを保護することになるだろうと、それが知恵だということを言われておられるわけでございますが、なぜ日本人にとって至難の業であるのかということをまずお聞きしたいと思います。
○参考人(平松毅君) 実は、憲法の問題だけではなくて、例えば最近問題となっております、国会でも取り上げられました国際会計基準の問題にいたしましても、ISO9000の問題にいたしましても、例えばISO9000について言いますと、本来、市場競争は品質と価格による競争でありますが、この品質と価格による競争に太刀打ちできない西欧諸国は、新たに事業場ごとにおける新たな規格を、規範というものを設けまして、そしてそのような規範を達成しておらない企業からは商品を輸入しない、こういったふうなルールを作ったわけであります。
 これは経済の分野でありますが、いろんな分野におきまして、国際社会を動かしておりますのは、深層において動かしておりますのはねたみや恨みの感情でありまして、そういったふうなものが外見上公平であるような規範となって、そして我々を直撃しているというふうに考えまして、しかし、これに対しまして日本は常に負けてきたということがあります。もし、これにつきましても詳しく申し上げる機会がありましたら申し上げたいと思いますが、そういうふうな経験から、規範を作る能力という点では日本は到底太刀打ちできないのではないかというふうに考えております。
○福島啓史郎君 そういう点はあるわけですが、やはり私は、日本人としてそうした将来を見込んだ規範を制定する。例えば、先生も言っておられるわけですが、例えばドイツ法のような、何人も他人の権利を侵害せず、かつ憲法的秩序又は道徳律に違反しない限り自らの人格の自由な発展の権利を有するといったような一般的な、つまり幅広い権利保護規定のような規定の仕方もあるんではないかと思います。
 先生、ありがとうございました。
 次に、申参考人にお聞きしたいと思います。
 まず第一に、申参考人は役割分担思想が言わば古いもの、あるいは男女の差別につながるものというふうに理解されておられるやに私は受け取ったわけでございますが、それが誤解なのかあるいは正にそのとおりなのか、まずその点をお聞きしたいと思います。
○参考人(申ヘボン君) 私が申し上げましたのは、特に女性差別撤廃条約との関係で、この条約は女性差別が男女の役割分担の発想から来るところが大きいという考えに基づいていまして、正にそれを古いものとして考えているということでございます。私自身も同じように考えております。
○福島啓史郎君 ということは、役割分担思想というのは、言わば何といいますか、現代社会においてはマイナスな思想であるということなんでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) もちろん、女性のみが子供を産むことができ、母乳等を上げることができるというのは生理的に明らかな事実でありますが、だからといって、男性が仕事、女性が家庭と一律に考える、そういう役割分担思想は望ましくないと考えております。
○福島啓史郎君 男性が仕事、女性が家庭という、そういう一律的な考え方はする必要はないと思います。しかし、何といいますか、生物的あるいは社会的あるいは文化的な伝統の中で、何といいますか、育ってきたといいますか、認識として持たれてきた役割分担というのはそれなりの、何といいますか、有用性あるいは合理性があるんではないかと思うわけですが、いかがでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) その場合、それなりの有用性、合理性とおっしゃる場合、どのようなことを具体的にお考えでいらっしゃいますか。
○福島啓史郎君 正に言われましたように、生物的な状況でございますね、一つは。それから二番目には、何といいますか、文化なり伝統として培ってきたもの、つまり、それは一つは教育の問題でもあるのかも分かりません。
 要するに言いたいことは、私の言いたいことは、全く平等だということは、生物学的な観点あるいは文化、伝統の中で果たしてあり得るんだろうかということでございます。もちろん、それが差別であってはならないわけでございますが、差別でない、区別といいますか、あるいは何といいますか、正に役割分担だろうと思うんですが、それはあってしかるべきだと思います。
○参考人(申ヘボン君) そうしますと、今のお考えというのは、男女が生物的に違うということから文化的、伝統的な違いも直接導いていらっしゃる、つまり結び付けていらっしゃるかのように思われるのですが、私は先ほど申しましたが、生物的に男女の体が違うと、女性は出産という身体的な役割を持っているというのはそのとおりだと思う反面で、文化的、伝統的な面に関しては人間が社会の中でただ培ってきた固定観念の面が非常に強いと思います。ですから、その生物的な面と文化、伝統の面とは必ずしも、生物的にこうだから文化、伝統が必ずこうだというふうにあるものではなくて、社会の変化によって十分変わっていき得る可能性があるものであると思っております。
 実際に、そういう文化的、社会的な相違というものが実際にジェンダーという言葉で最近は言われておりまして、先ほど申しました男女共同参画社会基本法もそのようなジェンダーの観念による差別を否定していく、そういう法律であると理解しております。
○福島啓史郎君 もちろん差別はあってはならないわけでございまして、しかし、区別なりあるいは役割分担はあるんではないかと思います。
 次に質問を変えたいと思いますけれども、申参考人は、特に提言の三でも言われておりますけれども、特にニュージーランドの人権委員会制度を高く評価されておられるわけでございます。それに相当するのが今回、さきの通常国会、百五十四通常国会から提案し、提出され、かつ継続審査になっております人権擁護法案がこれに当たるんではないかと思います。
 比較をしますと、ニュージーランドの人権委員会制度では差別が中心なわけでございますが、今回継続審査となっております人権委員会、人権擁護法案では、差別のほか公権力等を含めた虐待も入れていると。また、私人間の介入、これはいずれも対象にしている。また独立性につきましてもお互いに持っているということで、ただ、違う点は、特別な、何といいますか行政審判制度は持っていない。ニュージーランドは持っているわけでございますが、日本は持っていない。この点については法案の提案の際に十分検討され、他の例、例えば労働委員会等の経験に照らしても早く訴訟に持っていった方がいいという判断から、訴訟援助という規定を設けてそれに対応しているということでございます。
 そういう点からいえば、今回の提案しております、政府が提案しております人権擁護法案の早期成立を図ることが必要だと思うわけでございますが、これについてはいかがでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) 人権擁護法案は、今までになかった試みですので高く評価はしてはおりますが、ただ、第一に、禁止される差別に関して人権擁護法案では、人種等による差別ということで、「「人種等」とは、人種、民族、信条、性別、社会的身分、門地、障害、疾病又は性的指向」となっております。私は、これだけではなくて、やはり諸外国の差別禁止法によくありますように、報告でも申し上げました家族的状況といったようなものを盛り込む必要があると考えております。
 それから、独立性に関しましては、確かにある程度確保されている面もあるかと思いますが、ただ、やはり法務省の管轄下にあるということは、昨今も頻発しているような刑務所内での虐待であるとか、あのような正に法務省の管轄下で行われている人権侵害に対してどれほど効果的に対処できるのかという疑問点が残ると思っております。
○福島啓史郎君 後者につきましては、この人権委員会は法務大臣の、法務大臣からの指揮監督がない、要するに及ばないというふうに位置付けられておりますし、また法律上も、第七条で、人権委員会の委員長及び委員は、独立してその職務を行う、その職権を行うというふうに規定されておりまして、独立性は十分確保されている。ただ、御心配の法務局への委任規定がございまして、それについては、委任も、今申しました独立してその職権を行う、それの委任でございますから、正に独立してその職権を行わなければならないということで、十分独立性は担保されているのではないかと思うわけでございます。
 それで御質問は、こうした日本におきます人権擁護法案の成立後の状態を考えたときに、私、先ほど申しましたニュージーランドの場合に行政審判制度があるわけでございますが、それを今回取っていない、その理由を申し上げたわけでございますが、それについての御意見なり御感想はいかがでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) 私は、やはり単なる訴訟という類型ではなくて、もう少し国民一人一人が手軽に利用しやすい人権委員会のようなものを設けて、そこに申立てをすることができる制度を取るべきであるというふうに考えております。
○福島啓史郎君 もちろん、その人権委員会、申立てできるわけでございますが、私が質問いたしましたのは、行政審判制度というのを前置にしている、あるいはそうした特別な審判制度を設けているということ、それを今回、人権擁護法ではそれは設けずに訴訟援助ということでもって対応しているという、その方が早期の訴訟での解決が望ましいということから設けたというふうに理解しているわけでございます。
 いずれにしましても、申参考人の言われましたように、一日も早い人権擁護法案の成立を果たすことが人権の、一層の人権擁護の進展になるということを申し上げまして、私の質問を終わります。
○会長(野沢太三君) 時間ですね。
 川橋幸子君。
○川橋幸子君 民主党・新緑風会の川橋幸子と申します。
 参考人の先生方には、本日はありがとうございました。
 二十分、私も時間をちょうだいしておりますので、今の同僚議員の御質問の引き続きで、まず申先生の方にジェンダーの話を続けて聞かせていただきたい。後で、残った時間を平松先生の方に、今日は憲法と道徳、宗教、哲学と非常に大きな問題を提起していらっしゃいまして、私、世代が同じなものですから、何か世代観として感覚的に共感できるものと、それと、まるで理解できないものと混じり合っているような複雑な気持ちでございますが、残った時間、平松先生にもお伺いしたいと思います。
 さて、国会の中は女性の議員の数は少ないですね、御存じかと思います。私ども、男女共同参画社会基本法を通しますときも、その後のDV法を考えますときも、それからもろもろ、雇用の均等を考えますときも、いつもジェンダー、ジェンダー論でこれだけ大勢いらっしゃる有力な男性を説得するのに物すごい苦労をしているところでございます。今日は、どうやったら明快な答えで論理的に、反発を許さず納得していただけるかと、その手法も伺いたいところでございます。
 よく、人権は普遍だという人権普遍主義と、いや、各国によって文化は様々違います、人権は西欧社会の中から生まれたものであって、東洋には別の文化がある、ジェンダーといいますか、役割、性別役割分業はむしろアジアないしは日本の価値観ですと、こういうことを言われて、どこが悪いのですかというこういう質問があった場合には、申先生はどのようにお答えになりますか。
○参考人(申ヘボン君) 今おっしゃられたような議論は何年か前までよくアジアの人権論という形で一世を風靡したものでありますが、私は、これに対しては、人権は基本的には全く普遍的なものであって、どこそこ地域の人権とかどこの国だけの人権ということを語ることは、社会、その地域というものをただ一元的に見るマクロ的な思考であって、個人を抑圧する方向に働くと思います。
 人権は基本的に個人単位の考えですので、社会の価値観とか共同体の価値観ということをもって個人を抑圧することとは逆の方向性を持つものですね。ですから、ある社会なり共同体に個人が属しているとしても、その共同体なり社会の価値観と個々人の価値観が同じとは限らないわけですので、私は、そういうある地域や国や共同体の文化、価値観といったもので個人の人権を制限することには基本的には反対の考えであります。
○川橋幸子君 例えば性差別禁止ですとかジェンダー差別の解消とかといいますと、男性の方々は男女が同じになることを要求しているように誤解なさる向きが多いわけです。
 先ほども申先生がおっしゃったように、男性にはできない出産、授乳というセックスという性別の機能分担は必ずやあるわけでございますけれども、ジェンダー、社会的、文化的価値の平等といった場合のジェンダーの場合は、その延長線で同じでなければならないというふうに男性の方が思い込まれている部分はどのように説明すればいいでしょうか。セックスの延長でジェンダーを考えるとどうしても違っていいというそういう考え方が今のところ多数ではないかと、この会場の中は多数ではないかと思いますが、いかがでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) ジェンダー論はかなり実際には複雑なところがありまして、フェミニズムの議論等によりますと、従来は男女の性別というセックスがまずあって、それに文化的、社会的なジェンダーが付いてくるんだという議論が当初は支配的だったんですが、最近のフェミニズムの議論では、そうではなくて、セックスの方は実際には例えば性転換者であるとか男女という伝統的な一般的な性を超える存在が出てきているわけですね。そういうことからして、セックスは少しボーダーライン的なものがある存在であって、むしろジェンダーの方が我々が最初から決めて掛かっている社会的な通念であると、そこから始まっているんではないかという議論が最近は有力になっていると聞いております。
○川橋幸子君 それでは、今日のレジュメの方に話を移しまして、先ほど、レジュメの中には男女共同参画社会基本法の前文、条文等が書かれまして、先生、提言までおっしゃったわけです。大部分賛成でございます。私も支持したいと思いますけれども、それだけでは質問になりませんので、少し意地悪質問の方からさせていただきたいと思います。
 男女共同参画社会基本法というのは非常に優れた日本で誇り得る法律だというふうにおっしゃいましたけれども、しかし、なかなか性に中立的な税にしろ年金にしろあるいは雇用システムにしろ、社会をこれで動かすというのは猛烈難しい部分、この法律だけでは動かない部分がございますね。非常に優れた、言っていることは優れているかもしれないけれども、それの実施ないし施行、そういう面での力を持たない法律というのはそんなに優れた法律と言えるのでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) 私は、この法律自体は非常に条文としても短いものですし、もちろんこの法律に必要な要素すべてが盛り込まれているわけではないと思っております。むしろ、基本的な出発点としては、日本は八五年に批准しました女子差別撤廃条約という国際的な人権法の枠組みに入っておりますので、その条約の観点から、この法律を含めて、より広くほかの法律も併せて実施していくことが必要であろうと思います。
 女性差別撤廃条約の中には、女性差別を生む要因というのは人々の偏見や固定観念からくるものが多いということから、その偏見を取り除くような措置を国は取るべきであるというようなものが入っておりますので、そのようなことを踏まえて、人々の意識を徐々に変えていく取組を国がする必要がある、それは必ずしもこの基本法に基づくものでなくてももちろん構わないと思います。
○川橋幸子君 ニュージーランドの例を資料としてちょうだいしているわけでございます。
 ニュージーランドの人権法という、何が差別かという規定からはっきりさせる人権法があって、その人権法の施行について人権委員会、それに該当するかしないか、該当した場合は解消させる、是正させるという救済措置を持っているシステムですね。先生がここに書かれたのは、多分、ニュージーランドのこのシステムは先生きっと評価していらっしゃるから私どもにお示しくださったんじゃないかと思います。
 先ほどの男女共同参画社会基本法とこうした人権法との法の性格ないし法の持つ役割というものを考えますと、日本の場合も、むしろ差別禁止法といいますか、人権とは何か、人権は普遍的なものであって差別してはならない、そういう規範をはっきり意識した上で、その後で、それじゃジェンダー差別を解消してより良い日本をつくりましょうと、プロモートする方の機能に入っていった方がよかったのではないかと私は個人的には思っています。
 男女共同参画社会基本法は、言葉は麗しいのですけれども、どこかで人権差別は許しちゃいけないんだよという規範的な意識を逆にこれは薄めさせてしまう部分があるのではないかということを危惧しておりますけれども、申先生はいかがでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) 私も基本的には同じ意見です。つまり、本来はきちんとした差別禁止法を持つべきであったところが、それをせずに、言わば一足飛びに男女共同参画社会基本法を制定したわけです。
 これ自体は非常に先進的な法律ではありますが、いまだに日本には均等法を除けば性差別を含めた差別を禁止する具体的な法律がないわけですね。もちろん憲法十四条がありますけれども、これは個々人に直接適用されるものではありませんので、実際に差別を受けた個人は費用と時間を掛けて裁判に訴え、そして憲法十四条の精神を民法に読み込むという間接的な形で救済してもらうしかない、そういう形になっているわけですね。
 ですから、人権擁護法案も国会に掛かっておりますけれども、私は人権擁護法案の中に、してはいけない差別を書き込むだけではなくて、やはりできればより明確な差別禁止法を併せて制定し、それと併せて例えば人権委員会法とかいうものを制定するのが望ましいんではないかと思います。
○川橋幸子君 今国会は再び人権擁護法の審議に入るわけでございますけれども、前人権高等弁務官のメアリー・ロビンソンさんでしたか、メアリー・ロビンソンさんが小泉総理に向かって再三、三回ぐらいですか、親書をよこされて、パリ原則に反するではないかという懸念を表明されているわけです。
 今のところ、閣法の提出者の側は反していない、独立性は保たれているということを説明いたしますけれども、独立性というのは、人事権にしろ、あるいは予算にしろ、様々な指揮命令権にしろ、そうしたのを主観的にこれが独立である独立でないというよりも、客観的に何かそのリソースが独立していると、法務省から独立している、そういうものが求められているのがパリ原則ではないかと私は思いますけれども、申先生はいかがでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) 私も、現在の人権擁護法案の人権委員会が法務大臣の所轄に属するというのは、やはり独立性の要素を満たしていないというふうに基本的には考えております。
 じゃ、どこに所属させたらいいかといいますと、法務省よりは、内閣府という省庁を横断する調整的な機能を持つ組織の方に所属させて、その上で人権委員会に例えば人事上の独立的な権限を持たせるといった形で、やっぱり法務省とは別の権限をしっかり確保するのが望ましいと考えております。
○川橋幸子君 申先生は国際人権条約の御専門でいらっしゃいますが、いただいた資料の中でも、自由権規約第一選択議定書が未批准であることを述べておられます。それから、現在、女子差別撤廃条約にも選択議定書が採択されまして、かなりの数、もう五十か国を超えたか超えないかぐらいの批准国数があるわけです。B規約の方の選択議定書の批准国は、先ほどILO百十一号条約の批准の状況をアメリカと日本ぐらいが批准していないとおっしゃいましたけれども、それと正に同じような状況が自由権規約の選択議定書の批准状況だと思うのです。この件につきましては、申先生はどう思われますでしょうか。
 日本は人権を大事にする国、あるいは国連中心主義と言いますけれども、どうも自分の都合のいいところだけやっている、ダブルスタンダードではないかなというのが私の感想なんですけれども、人権が普遍だということであれば、むしろ都合の悪いことでも国際社会の中でも守らなければいけないと、それが普遍というものの意味だと思いますが、この個人通報制度を持つ条約の批准が遅れていることについてどう思われますでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) 私は、個人通報制度は日本が入っている人権条約に関しては、やはり是非入るべきだと思っております。
 つまり、例えば国際人権規約、これは二つございまして、今おっしゃいました自由権規約に個人通報制度があるわけですが、条約本体に入っていて、これこれの権利を確保する義務があるというものを負っていながら、その侵害の訴えを個人に認めないというのは、結局その人権の主体たる個人に侵害の申立ての権利を与えない、閉ざしてしまっているという意味で、本当の意味で条約本体の義務を守っていると言えない状況ではないかと思います。
 つまり、条約本体の義務をきちんと守っているという確信があれば、個人通報は単なる手続ですので、それを認めることも十分できるはずなのですが、その道をかたくなに閉ざしているということは、やはり人権条約上の本体の義務をまだ十分に果たし切れていないという国としての自覚があるのかもしれないというふうに考えております。
 この辺りは、個人通報制度に入るべきかどうかということをめぐって、例えば非常に新しい制度であってまだその機能がよく分からないとか、委員会による運営が余り信頼が置けないとか、そういう場合もあるいはあるのかもしれませんが、少なくとも自由権規約の個人通報制度のようにもう何十年もの実績があり、百以上の国が既に入っている。日本のように例えば司法権の独立というようなことを言って入っていない、それを理由に入っていないというような国は一つもないわけですね。ですので、日本がこの期に及んでいまだにその道を閉ざしている理由は実質的には何もない、ただ政治的決断のみではないかというふうに思います。
○川橋幸子君 それでは平松先生に、済みません、時間が短いですが、一問だけ伺わせていただきます。
 私は、やっぱり憲法というのも人間が作った法律、法律中の法律ではありますが、人間が作るものでございます。ですから、その社会を結び合わせるものといいますか、社会を成り立たせるものの基礎には道徳なり文化なり宗教なりというものが非常にインフラとして大事だということは思っておりまして、その点は多分平松先生とそう変わらないのではないかなと思うところでございます。
 そこで、でも、伺いたいのは、その日本の社会のアイデンティティーともいうべき基本価値の存在のところで和をとても強調なさったわけでございます。和というのは、単なる争わないよと、言挙げしないよと、まあまあなあなあで済まそうよと、こういうふうに誤解されるところが多いところ、先生は和というのはむしろ話合いによって人間社会の中で連帯を生んでいくものだと、このように、ちょっと言葉が足りませんけれども御紹介になられたと思います。
 そこで、この憲法以前の価値というふうにおっしゃるわけでございますけれども、日本が持っているその和の価値観がもし連帯を意味するものであるとすれば、人権なりあるいは憲法上の規約なりにこういう和というか連帯を感じさせるような条文というのは今のところは何もないということなのでしょうか、それともあるのでしょうか。そこだけをお伺いしたいと思います。
○参考人(平松毅君) 御質問ありがとうございます。
 私の問題提起は、憲法の中にそのような連帯というものを盛り込む条文がどうもないのではないか。従来、そういったふうな機能は宗教が担っていたように思います。しかし、現代、ニーチェが神は死んだと言われますように、宗教の権威が薄れつつあるとともに、国民のモラルも低下しつつあります。その結果、これまで宗教が担っていた国民の道徳的基盤を形成する役割をいや応なく憲法が担わざるを得なくなっているのではないか。
 では、宗教がこれまでどういうふうな機能を担っていたのかということを見ていきますと、これはすべての宗教に共通していると思いますが、例えば日本のおとぎ話におきましても、舌切りスズメの話があります。この話を取りますと、おじいさんが大きなつづらと小さなつづらのどちらを選択するかを問われて、小さなつづらを取ったおじいさんは宝物を得、大きなつづらを取ったおじいさんは不幸になるという話がありますが、これは、小さなつづらを選んだおじいさんは自分より困った人に大きなつづらを与えようとしたのでありまして、ここには他人との連帯を考慮して行動したことがたたえられておるわけであります。
 同じような思想は……
○川橋幸子君 もう少し伺いたいので、先生、ここでもう質問を入れさせていただいていいでしょうか。
○参考人(平松毅君) はい。
○川橋幸子君 大変恐縮でございます。時間がないもので急がせていただきました。
 私は、非常に大切な価値観であって道徳律ではあろうと思いますけれども、それを憲法に求めるということは難しいのではないかという、そういう論者なのですが、社会が持っているべき非常にファンダメンタルな社会のインフラとしての価値観であって、人間が成文法として規定する憲法の中に書ける価値とはちょっと異質のものではないかと思うのですけれども、先生、その辺りはいかがでしょうか。
○参考人(平松毅君) これは、先ほども申し上げましたように、ドイツにおきましては法律が不法であったわけです。すなわちナチスの制定した法律が不法な法律であった。そこで、戦後の憲法におきましては、法律が不法でもあり得るということを前提といたしまして、法律によっても動かされない価値というものを憲法に盛り込もうと考えて道徳律というものを入れたわけであります。すなわち、道徳は、法律が不法であっても道徳を守りなさいということでこれを入れたわけであります。しかし、日本にはそういったふうなものが入っておりません。そういったふうな点が私は問題だと思いますが。
 それから、人権に関しましては、人権ということの機能がこれから変化する可能性があります。したがって、人権規定をどんどんどんどん増やすことは必ずしも将来のことを考えますと得策ではないと考えております。
○会長(野沢太三君) 時間です。
○川橋幸子君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 山下栄一君。
○山下栄一君 お二人の参考人の方にお聞きしたいことが、特に家庭、家族ということの役割、意義、重要性という観点からお聞きしたいことがございます。
 申先生がおっしゃっている、子供の人権の観点からも、男女がともに家庭責任を担える社会の実現が焦眉の課題というふうにおっしゃっておりますけれども、私も焦眉の急ということでは同じような認識なんですけれども、男女共同参画社会、家庭の中で男女共同参画ということが物すごくやりにくくなっているというか、いろんな背景があると思うんですけれども、私は、もう一度、人を育てるとか子供を育てる、後継者を育てることがいかに大事かということが問われているなというふうに思っています。
 動物も大体やっぱり後継者をちゃんと育てて、使命を終えて死んでいくわけですけれども、人間も社会的動物という観点からしますと、我が子を育てる両親の役割ですけれども、これが問われているんではないかなというふうに思います。それは母親だけではなくて父親も共同参画で必死になってやらないと、やっても育たないかも分かりませんけれども、そういうことをやっぱりもう一度見直す必要があるんじゃないかなということを物すごく感じます。
 今、子供が育ちにくい世の中にどんどんなっていっているように感じるわけですね。それから、家庭も地域も企業社会も、学校もそうかも分かりませんけれども、直接的な触れ合いということがどんどん希薄、薄くなっている。それはIT社会とか様々な文明社会の発達ということがそういうことをもたらしたかも分かりませんけれども、大自然の人を育てる役割、私はあると思うんですけれども、その自然を破壊しているから更にそういう人が、子供が育ちにくい、どんどんそういう環境に先進国はなっているというふうに思っています。そういう意味で、社会の原点である家族、ここにもう一度焦点を当てた、それも両親が共同で必死になって子供を育てるということをやらないかぬのではないかなというふうに思います。
 そういう意味で、そういうことを可能にするような、先ほどおっしゃった、例えば育児休業の保障も含めて見直す必要があるというふうに思うんです。最低の責任として後継者ぐらいはちゃんと育てろよと。それは学校に任せたり保育所に任せたりという、そういう支援は大事なんですけれども、原点としてそこは両親にあるんだということが、非常に再確認する必要があるのではないかというふうに思っております。
 家族というものができたのは、哺乳類の中でも、特に人間が誕生してから家族というのが成立したんだという家族人類学の話もあります。雄が父親になる、それは人間からだというようなこともなるほどなと思ったんですけれども。
 そういうことも含めてもう一度、子供を育てる責任は第一義的には両親にあるということの、そのためにも男女共同参画社会というのが極めて大事だというふうに思うんですけれども、その点の私の考えなんですけれども、申先生はどのようにお考えでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) おっしゃったことに全く同感でございます。
 ですから、子供は両親が育てる責任があり、両親がかかわらなければならないわけですが、現在の日本の育児環境では、先ほど申しましたように、父親の長時間労働等によって主に母親にその負担が掛かり過ぎていて、そこにゆがみが生じているというのが実態ではないかというお話を申し上げました。
○山下栄一君 ありがとうございました。
 子育て支援とか保育所の充実とか、アウトソーシングの体制をどんどん、子育てのアウトソーシングですけれども、そういう体制作りは、支援は物すごく大事な時代ですけれども、その前の確認が大事だということを物すごく感じますので申し上げたわけです。
 それで、これに関連して平松先生にお聞きしたいんですけれども、宗教、道徳の役割、特に先生の場合は家庭内の規範をもう一度作っていく必要があるのではないかなというふうな意味のことをおっしゃっていたと思うんですね。共同体の規範を目に見える形で示すことが憲法の前提として地域規範、家庭規範というか、それは慣習法的なものかも分かりませんが、そういうことを目に見える形で示す必要があるとおっしゃっているんですけれども、例えば家庭の規範というのはどういうことを目に見える形で示すべきだと、中身ですけれども、規範の中身ですけれども、おっしゃろうとしているのか。そのまた表し方についてお聞きしたいと思います。
○参考人(平松毅君) ありがとうございました。ただいまの御意見、私も同感でございます。
 家庭には家庭の論理があります。ところが、我々は社会における例えば家庭内の紛争というものをすべて裁判とかいうふうな外の規範に基づいて解決しようとしております。
 以前、こんな事件がありましたが、ある人が、夫が家庭内にピストルを屋根裏に隠していた、妻がそれを警察に告発した、そこで夫はその妻を離婚した、そこで妻はこの離婚を争ったという事件におきまして、裁判所は、家庭内には家庭内の規範がある、夫が罪を犯した場合にはそれをかばうのが妻の役割である。これは法律には反するわけです。しかし、家庭には家庭内の規範がある。これを、このような原則はイタリア憲法には補完性の原則として規定されておりまして、ドイツにおきましてもそれは憲法原則とみなされております。
 すなわち、家庭内の問題は家庭内でまず解決する、そこには国の法律は入ってきてはいけないんだと。そういうことを確保するために家庭裁判所という非公開の機関があるわけで、家庭裁判所は国の法律ではなくてお互いの合意に基づいて、家庭内の規範に基づいて解決すべきであると。そして、解決できない場合に今度はそれを地域共同体の規範で解決する、なお解決できない場合に国の法律によると。こういうふうな段階構造というものが補完性の原則でありまして、この原則というものは我が国においては採用されておりませんが、こういったふうな原則を考える必要があるのではないかと考えております。
○山下栄一君 ありがとうございます。
 ただ、家庭の規範を形成する力がどんどん弱くなっているというふうに思うわけですけれども、もう一点ちょっとお聞きしたいことは、日本の憲法には教育を受ける権利というのがあるわけですね。学習権と同じではないのかも分かりませんが、これは物すごく大事だと思うんですけれども、私は社会権としての教育を受ける権利と、もう一つ、教育の自由といいますか、そういう観点を確認する必要があるのではないかなと特に感じております。
 それは、教育活動というのは本来、特に子供に焦点を合わせましたら、それは本来はやっぱり両親にあると。国とか地方自治体ももちろん学習権を保障するために様々な施策が必要だとは思うんですが、その前に、教育の自由といいますか、そういうことも憲法的な観点として大事なのではないかというふうに思うんです。
 特に、宗教とか道徳にかかわる、今、道徳教育と叫ばれておりますけれども、この観点は特に、社会権規約ですか、国際人権規約の方にも書いてあるというふうに私は思うんですけれども、両親並びに保護者は、我が児童を宗教的また道徳的教育を行う権利を確保すると、そういう自由を有しているんだというふうな意味のことが国際人権規約A規約に書いてあると同時に、また世界人権宣言でも、冒頭申しましたけれども、子供を育てる権利は第一義的には両親にあるんだという、本来そこが担うべきことを、日本の場合でしたら明治以降、国家が乗り出していって義務教育制度とかそういうことをやっていったわけですけれども、本来、子供を育てる義務を伴う権利というのは両親にあるという、私的教育の自由といいますか、そういうことが確認された上で教育を受ける権利という、両面あるのではないかと。社会権的な教育権ということと自由権的教育権というか、そういうことを物すごく感じるんです。
 道徳教育を叫ばれれば叫ばれるほど、それは国がやることかと。確かにモラルは低下しているけれども、それはまず両親ということを、担わにゃいかぬというふうなことを確認することを国際社会はやっているというふうに思うんですけれども、日本の社会ではそういう意識が弱いのではないかなと感じているんですが、お二人の参考人からそれぞれお考えをお聞きしたいと思います。
○会長(野沢太三君) まず、それでは平松参考人からお願いします。
○参考人(平松毅君) ただいまお話ありましたように、教育を受ける権利の前提といたしましては、教育の自由、これを我々は学習権と呼んでおりますが、個人が自分の力で自分の能力を発展させる自由でありますが、こういうものがあるわけです。
 しかし、ヨーロッパにおきましては、この自由ということが両親の宗教教育の自由というふうに受け取られまして、両親が自分が信仰している宗教の学校に子供をやる自由というふうにみなされまして、そして、その結果、そのような宗教教育の自由というふうに実際には機能したわけであります。
 ところが、公教育にはやはり宗教教育とは違った機能がある。したがって、宗教教育を行っているものに対しましては公金を補助しないという規定が設けられまして、それが日本の憲法の八十九条に受け入れられたわけであります。日本におきましては、そういったふうな伝統がありませんので、親の教育の自由というものが説かれる場合に内容がはっきりしておらないわけです。したがって、何が教育の自由かということにつきましても、人によって様々な見解が説かれております。
 しかし、基本的な考え方としましては、教育の自由というものがあって、それを補完するものとして公教育があるという考えには賛成でございます。
○会長(野沢太三君) 申参考人、お願いします。
○参考人(申ヘボン君) 教育の権利というものが、社会権でありながら父母にとっての自由権の側面も持つという指摘はそのとおりであろうと思います。
 ただ、その点につきましては、道徳教育といいますと、やはり子供に何か社会なり国なり父母なりが一方的に教え込むという形になりやすい面もございますので、その点は、日本が現在入っております子どもの権利条約、いわゆる児童の権利条約に沿った原則に基づくことが必要であろうと考えております。
 児童の権利条約には、第三条に子供の最善の利益という一般原則の規定があります。つまり、子供に関する措置を取る際には、まず子供にとっての最善の利益を考えるべきであると、親とか国ではないということが書かれております。
 それから、教育に関しては、特に二十九条に教育の目的という条文がありまして、「締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。」とあって、児童の人格、才能並びに精神的、身体的な能力を最大限度まで発展させることでありますとか、あるいは二十九条の一項(c)というところには、児童の文化的アイデンティティー、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成することといったものが入っております。
 ですから、こういった児童の権利条約の条文も踏まえながら、何が望ましい道徳教育であるのかを考えていく必要があると思います。
○山下栄一君 よく分かりました。
○会長(野沢太三君) 次は、宮本岳志君。
○宮本岳志君 両先生、ありがとうございます。
 私、日本共産党の宮本です。
 まず、平松参考人にお伺いしたいと思います。
 先生は、資料の中で、特に規制緩和が商業道徳を一緒に洗い流そうとしている、こういうゆゆしき傾向についてもお触れになり、そして規制緩和が資本力による競争を放任する結果を招くおそれがある分野においては慎重な考慮が必要だ、あるいは雇用に直接影響を与える分野における規制緩和は個人のモラルや国民の連帯感に直接のインパクトを与えるので慎重な考慮が必要だと、こういうふうに論文でお述べになっていると思うんですね。
 私も同感なんですけれども、この辺りについて平松先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(平松毅君) ありがとうございました。
 現在の国際社会の深層を動かしている原動力は今も昔もねたみや恨みの感情でありますが、日本の八〇年代の高度成長は欧米人のねたみの感情を刺激し、その結果が現在日本が対応に苦慮している国際会計基準やISO9000などの規範の創設となったのではないかと疑われる節があります。
 最近、ある企業人から、このような、次のような手紙を受け取ったのですが、それによりますと、西欧人が形成した近代法の体系の下で日本人が闘うことに大きなハンディがあるのではないかということであります。
 最近、国際会計基準が整備され、グローバル経済の下ではこれに従った決算でなければ評価されなくなっている。この中には固定資産の減損会計というものがあり、固定資産の評価を取得価格によるのではなく、生み出す収益から逆算して定めようというものです。これはバブル崩壊後の日本企業を追い打ちするものです。土地の下落や賃料の下落によって固定資産が生み出す収益は激変しており、収益から還元して算出した評価額は取得価格を大きく下回り、その差は損失として計上されます。同様の影響を与えるものに、年功序列を採用し、退職金水準が高い、退職金債務を現在の価格で評価し毎年少しずつ費用として計上する退職給付会計というものもあります。これは、退職水準が高い日本企業をねらい撃ちしたような制度です。現在の状況でこの基準を適用することは日本企業にとって不利ですが、しかし基準の内容はもっともなもので、これに反論することは難しく、これに代わる代案を提示することはできませんと、こういうふうに言っております。
 したがって、やはりこのような政治の世界におきましては、外国人のそのようなねたみとか恨みの感情、それを緩和する、そしてこのような措置というものを予防する、そういったような措置が政治の世界では必要なのではないかというふうに思われます。
○宮本岳志君 同時に、少し今度は、平松先生のお書きになったことで、私、あれっと思ったところがあるんですね。いじめのことについて先生お書きになっておられます。
 学校にいじめがあると、いじめる者が悪いという単純な発想になるけれども、いじめには原因があって、独善的な行動、わがままな行動、過度の依存心、行動の幼児性、協調性の欠如など本人の社会性に問題がある場合が多いと、こういう論をお書きになっておられます。
 私は、子供側の人格的にも発達途上にあるわけですから社会性がまだ未確立なことはすべての子供にあり得る話でありますけれども、それをいじめというやり方で解決しようとすることについて今問題になっておって、そういう場合でも、いじめというようなことをやってはならないという議論がやられているんだと思うんですね。先生御指摘のような社会性に問題がある未熟な点について、それでいいという話はないわけでありまして、しかし、いじめをやっていいという話は恐らくないんだろうと思うんですね。
 また、先生のおっしゃる日本の伝統的な共同体というものにも、やっぱりそういう異質なものも含めてお互いに認め合っていこうというものは、むしろ逆に伝統的なものだと思うんですけれども、この点は少し、先生、私の考えいかがでしょう。
○参考人(平松毅君) ありがとうございました。
 実は、これは私の経験でありまして、私も小学校高学年から中学校にかけて激しいいじめに遭いまして、何度も家で自殺のまね事等もしたことがありますが、学校でいじめに遭いますと、今度は家に帰りまして弟をいじめたわけです。そして、その腹いせをしたわけです。
 これは万引きも同様でありまして、万引きをした人を捕まえたらそれで問題は解決するのかといいますと、実は外で万引きを唆している人たちがいるわけです。その人は嫌々ながら万引きをしている、だから捕まってしまう。そうしたら、その唆していた人たちは逃げてしまうわけです。
 それから、セクハラも同様でありまして、セクハラをする人たちは必ずやはり自分たち自身が何らかのいじめとかセクハラ、何らかのそういったふうなストレスに遭っているわけです。
 したがって、学生時代にいじめに遭った人たちの三割の人たちが成人してから犯罪人となるといったふうな統計資料を見たことがあります。したがって、いじめがあった場合にいじめた者を処分することによって問題が解決したというふうに考えるのは、これは一面的な見方ではないかというふうに考えることを申し上げたのであります。
○宮本岳志君 それでは、申先生にお伺いいたします。
 先生の論文の中で、とりわけ自由権と社会権について論じられている点がございます。憲法二十五条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と、これは本当に大事な規定だと思うんですけれども、しかし現実にそれがどう扱われているかという点で先生の御指摘というのは非常に示唆に富んだものだったというふうに思うんですね。
 自由権の方の保障に比べて社会権の、社会的権利の実現は国家の経済的事情に依存するものということを所与の前提としておって、これらの権利も人権であるという認識は希薄であるように思われる、しかしこれはおかしいという論を、先生、お書きになっておりますが、この点をもう少し語っていただきたいと思います。
○参考人(申ヘボン君) 今日お配りしてある資料は私が書きました「人権条約上の国家の義務」という本の抜粋でありますが、私がこの本の中で論じましたことは、日本において特に人権条約を実施する際に、国際人権規約の中に社会権規約、いわゆるA規約と言われるもの、それから自由権規約、いわゆるB規約というもの、二つが含まれていますが、その自由権規約の方は即時実施とか各国の義務とか言われるのに対して、社会権規約の方は専ら漸進的な実施の対象であってすぐにはできないと言われることが余りにも多いことから、それに対する批判的な検討をしたものであります。
 私は国際法の観点からそれをやったわけでありますが、憲法の分野では比較的、自由権、社会権の相対性ということは認められているように思います。
 例えば憲法二十五条の場合でも、生存権は基本的には社会権ではありますが、例えば最高裁の朝日訴訟判決のように、生活保護水準が余りにも低過ぎるという場合には、二十五条に照らしてそれを違法とすることは当然できるというような考え方が取られて定着しておりますので、そういった考えは憲法ではもう定着していると思いますが、国際法では必ずしもそうではなかった傾向があるんですね。
 そういった面で、私が人権条約の実施を研究しておりまして、国際人権規約のうち自由権規約の方に余りにも重点が置かれ過ぎて、社会権規約の中にもたくさん大事な人権があるにもかかわらず、それはすぐにはできないからやらなくてもいいと言わんばかりの状況であることに非常に危機感を持って書いたものでございます。
○宮本岳志君 先生がその直後に引用されている、「これらの権利が」、つまり社会権が「実現困難と思えるのは、既存の財や資源の配分が何ら変更を受けないことを前提としているからにほかならない。」と、この指摘は非常に大事だと思っておりまして、これは正に憲法二十五条の運用上も大事な点だと受け止めました。
 時間ございませんので、次のことをお伺いいたします。
 リプロダクティブヘルス・ライツについてお伺いしたいんですが、都道府県の男女共同参画条例の中に性と生殖に関する健康と権利という規定が盛り込まれる、こういうことがずっと広がってきております。私は当然のことだと思っているんですけれども。これが随分議論を一部呼びまして、これが依然として議論の余地があるというようなことが議論になってまいりました。
 昨日、一昨日ですか、十七日、午後の記者会見で福田官房長官は、これは男女共同参画社会基本法とか男女共同参画基本計画の趣旨に照らして問題はないと明確に述べられたということで、これは当然の立場だと思うんですが、ちょっとこのリプロダクティブヘルス・ライツの日本における、何といいますか、認知といいますか、その運用について先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(申ヘボン君) リプロダクティブヘルス・ライツというのは性と生殖に関する権利・健康と訳されておりますが、これは、例えば日本よりもっと深刻なのがいわゆる途上国の状況でありまして、女性が避妊の手段等全く持たない中で、ただぼこぼこと子供を産まざるを得ない、結局、それによって何十人も子供を産んで、何十人というか十何人も子供を産んで、自分の人生を自分で決められないような生活をせざるを得ない。そういうことに対して、女性は自分で子供を何人持つか、いつ持つかということを決める権利があるという形で出てきた権利だというふうに理解しております。
 今の御質問の趣旨というのは、日本でこの権利がどれほど認知されているかということでしょうか。
 日本では比較的最近になって論じられるようになった権利で、そもそもこの言葉自体、日本の訳語としてはまだ定着していない面が多いのではないかというふうに思っています。つまり日本語としてぴったりする言葉がなかなかない。性と生殖という言葉が一応使われておりますけれども、これは実は女性だけの権利ではなくて、例えば夫婦の相手方である男性も含めて、男女ともに性と生殖に関する事柄を自分たちでコントロールする権利があるんだという考え方であります。
○宮本岳志君 改めて人権擁護法案についてお伺いするんですけれども、先ほど自民党の方からもお話がありました。
 そこで、申先生のお立場を改めて確認させていただきたいんですが、私どもは、人権擁護法案はパリ原則に基づいて国際的に努力されているものに比べてもほど遠いものになっていると。それは、とりわけ法務省の外局として置かれる独立性の問題、あるいはメディア規制の不安ということも当初ありましたし、今ももちろん完全にということではないのかもしれません。それから、労働分野での差別的取扱いを特例として委員会の対象から外していること等々、これは何といいますか、むしろこの法案については、作られるならば重大な後退になるというふうに私たちは見ているんですけれども、申先生のお立場を確認させていただけますでしょうか。
○参考人(申ヘボン君) 現在の人権擁護法案に対しては、先ほど申しましたような、人権委員会の独立性が十分確保されていない、特に所属官庁の問題、これが第一にありますが、そのほかにも、例えば人権委員会の人数の問題もあると思います。
 パリ原則では人権機関の多元性の保障という要素が入っておりますが、現在の人権擁護法案の人権委員会の委員数はたった五名、その中で常勤委員は二名とされております。こういった形でどれだけ全国の様々な人権委員会を十分扱うことができ、しかも委員の多元性を保障できるのか明らかではないというふうに思います。少なくとも十人程度、できればもっと大人数の人権委員会を設置し、それと併せて、男女比であるとか、いわゆる社会の少数者、マイノリティーの方々の含まれることも含めて、多元性の保障という要件を置く必要があると思っております。
○会長(野沢太三君) 時間が来ています。
○宮本岳志君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 平野貞夫君。
○平野貞夫君 お二人の参考人の先生方から貴重なお話を承りまして、ありがとうございます。
 最初に、平松参考人にお尋ねいたしますが、お話の中で、憲法の基本価値を擁護することは政治家の義務であるというお話がございました。肝に銘じておくべきだと思います。
 そこで、私たちが実際職業としております議会、国会、議会民主政治の基本価値といいますか、これは多数決が原理でございますので、議会民主政治の規範とか倫理観、これは非常に大事なものだと思いますし、これは必ずしも明文化されてないと思います。日本人というのは、こういう明文化されていない規範というものに対して、規範作りすることを不得意という御指摘、そのとおりだと思います。しかし、非常にこれを無視すれば大変な問題になると思うんですが、大正から昭和初期には憲政の常道というある種の規範というものがあったと思うんですが、特に一九八〇年代ごろから非常に我が国の議会ではこれがでたらめになっていると思います。
 若干事例を申し上げてその評価を、評価といいますかコメントを平松先生からいただきたいと思いますが、例えば昭和五十四年に大平、福田四十日抗争というのがございまして、自民党から二人首班指名が出しまして、結局絞ることができずに衆議院の本会議で決選投票までやったと。これ、ルール、規範からいえば、本来そういうときには自由民主党は分裂しなきゃ駄目なんですけれども、これは分裂しない。なぜこういうことをやったかというと、当時の野党第一党の社会党が憲法に禁止規定がないからいいと容認したんですよ。私は、そのときに国会事務局員で、非常にこれで日本の議会は崩壊したと思ったんですが、その後、その直後、飛鳥田委員長がアメリカに行ってアメリカの憲法学者から注意されるんですね、日本というのは議会制民主主義が行われていないと。それでびっくりしたという。飛鳥田委員長といえばもう著名な弁護士で、日本の法曹人がそういう感覚では困るわけなんですが、当時、やっぱり重大なのは、学者、マスコミがこれを容認したことですね。
 私は、それがずっと続いて、平成に入っては続発していると思います。議論があると思いますが、平成六年の村山政権の成立とか、それから平成十二年の森政権の成立とか、昨年の暮れの野党第一党の要職にある人が与党の党首になるという、こんな倫理性のない、規範性のない、これが私は日本の現在の停滞の根本原因だというふうに思っております。恐らくキリスト教文化圏に議会を作った国ではこういうことは許されないと思うんですが、最初、先生の御意見といいますか、簡単で結構でございますが、御感想をお聞きしたいと思います。
○参考人(平松毅君) ありがとうございます。
 議会制というものは、例えばイギリスにおきましては与党席と野党席との間が約三メートルほど離れておりますが、なぜ離れているのかということを聞きますと、それは相手が反論した場合に、剣を持って戦った場合に相手に剣が届かない距離を置いたんだというふうなことを聞いたことがありますが、これはどこの国も同じような経験を経て次第に成熟してきたのではないかと思います。
 したがって、政治の成熟度が足らない場合には、選挙におきまして、例えば小選挙区制をしくことによって議会における代表される意見の数を絞ることによって政権の安定を図るわけですが、しかし政権がだんだん成熟してまいりますと、議会に、比例代表制によって議会に多数の政党が代表されておりましても、お互いの駆け引きや妥協によって一つの統一的な意見を形成することができるようになる。日本はそのような段階に達しておりますので、今、比例代表制によって多数の政党が代表されておりますが、内部におきましては妥協とか駆け引きによって一つの統一的な意見を形成しておるわけですが、そういったふうないろんな経験を積みながら、次第に国民の様々な意見というものを、これは専門的に考えるべき問題、これは世論に従って解決すべき問題、これは議員の良心に従って解決すべき問題、それぞれの問題ごとに最も適切な解決方法というものを見いだす能力というものが次第に政治的な成熟度によって達成できるのではないかと思います。
 したがって、そのような経験は議会政治の成長の上にとって非常に貴重な経験ではないかと思います。
○平野貞夫君 貴重な経験とおっしゃられると、評価されているとなるとちょっと私の論旨とかみ合わない部分があるんですが、私はこのような日本人の議会制民主政治のやり方、良く言えば融通無碍、悪く言えばでたらめ。その原因に、先生が引用された聖徳太子の十七条憲法の第一条の和をもって貴しとなすという言葉の誤解が日本の伝統文化になっているんじゃないかと、これがその原因の一つではないかというふうに思っております。争うな、強いものには巻かれろ、それからなれ合い、談合しろというような、やっぱり民族心理の中にあるんではないかと。
 しかし、それはとんでもない話で、十七条憲法の十七条目には、大事は独り定むべからず、必ず衆とともに論ずべしと、こういう趣旨のこともあるわけでございまして、私、先生が和を連帯というふうに解釈したことは非常に僕は画期的な解釈じゃないかと、こう思っておるわけなんです。
 実は、私、憲法調査会が発足時、十七条憲法の成立経過、その国際的東アジアの背景とか、あるいは日本の国内の状況、そういう経過から見て、成立プロセスと内容は現代からもう一度見直して評価すべきじゃないかと、学ぶことがあるんじゃないかということを申し上げたら、某進歩的新聞から時代錯誤だといってとんでもない批判を受けたことがあるんですが。
 そういう意味で、せっかくの機会でございますので、平松先生、十七条憲法の全体の現代的意義をどう評価されるか、お話しいただければ有り難いんですが。
○参考人(平松毅君) 確かに十七条憲法といいますのは、憲法という名前が付いておりますが、現代法の体系に照らして見ていきますと、それは言わば国家公務員法に相当するものでございまして、到底憲法と言うことができるものではありません。したがって、ここにおきましても憲法として引用したのではなくて、言わば基本価値というものがあるとするならば、その根拠にそういうものがあるのではないかということを申し上げたにすぎません。
○平野貞夫君 分かりました。
 私も近代憲法だとはもちろん思っていませんですが、役人、政治家も含めて、公務員の倫理規程といいますか規範を定めたもので、私は、やっぱり憲法のある部分、一部分にはなるのではないかという、こういう理解をしているものでございます。ありがとうございました。
 申参考人にお尋ねします。
 極めて具体的なことで恐縮でございますが、私、今一つ悩みを持っております。といいますのは、四野党で民法を改正して選択制夫婦別姓の採用をしようという協議が始まっておりまして、私は選択制夫婦別姓の制度化については反対ではございません。議論して作るべきだと思っておるんですが、ところがもう一つくっ付いているのが、御承知のように、現行の民法では両親の許可を得て結婚する年齢が女性では十六ですか、男性では十八ですか、これを女性を十八に引き上げようと、いわゆる男女平等にしようという案が提出されております。自由党も野党なものですから賛成しろということで、福島先生辺りから大分厳しく言われておるんですが。
 私は、母親が十六で結婚しているからというわけじゃないんですけれども、やっぱり両親の許可を得るということ、これは一種の規制でございまして、言わば自由ということから言えば、十六と十八に男女を分けたのはある意味で意味があると思うんです。男はそれだけしっかりしていないからですよね。そういう意味で、女性の十六を十八に引き上げるということは、どうも女性の人権を、持っている権利を侵すんじゃないかと、そういう論を持っています。そうしたら、協議の中で、それじゃ男を十六に下げましょう、そうしたら賛成してくれますかと、こう言われておるんですが、これ、ちょっとすぐ、それで平等かというものじゃないと思うんです。
 といいますのは、マルクスは、人類の最初の分業は男と女だと、こう言っておるわけなんです。男性と女性だと言っているわけなんです。これはやっぱり生理的なものを理由とする機能分担だと思うんです。
 この十六を十八に上げる、あるいは十八を十六に下げるということについて、ちょっと私、よく自分なりに、何というか、論理を追求できないんですが、何か参考になる話がありましたらお願いいたします。
○参考人(申ヘボン君) 今の婚姻年齢のお話ですが、私は、今おっしゃられた女性の婚姻可能年齢を十六から十八に引き上げると女性の人権を侵すのではないかという趣旨がよく分からずにおります。私からすると、むしろ、なぜそもそも違うのかと、違うには何か合理的な理由が必要であろうと。むしろ、十六にせよ十八にせよ、それはどちらでも議論の余地はあると思いますが、基本的に平等であるべきで、なぜ違わなければいけないかというところに正当化が必要であると思います。
 恐らく、従来の女性が十六で男性が十八というのは、男性が基本的に高校まで終えて高卒で就職する、できる年齢、女性に関しては、そこまで学問を身に付けなくても子供が産める体であればいいという観念があったんではないかというふうに推測しますが、私は、やはりそういう女性は教育を受けなくても家庭を持てればいいということではなくて、やはり十六にせよ十八にせよ、基本的には同じ年齢にすべきという考えであります。
○平野貞夫君 そうしますと、男性の十八を十六に下げるということについてはどういう御意見でございましょうか。
○参考人(申ヘボン君) 実際には十六では恐らく低過ぎる、つまり人間としての成熟度がまだとても十分ではないと思いますので、十六に両方下げるというのは、合わせるというのは余り得策ではないと思います。
 恐らく十八に女性も上げる、高卒程度で婚姻できるようにするというのが現実的ではないかというふうに思います。
○平野貞夫君 一応、お話は分かったんですが、ただ現代人の肉体的発育の状況それから教育の問題等を入れまして、いわゆる十八といえばもうかなり完全な大人ですね。それから、私たちは参政権、投票権を十八にしようと、こういう運動もしているわけなんです。いわゆる十八を成人にしようという意見なんですが。
 ちょっと私なんかに言わせれば親の許可が要るという、結婚に、これは最大の人間に対する規制だと思うんですよ。言わば、人権というものに対する法的規制だと思っておるんですが、十八という年というものはもう社会人として一人前だと思うんですが、むしろ十六に下ろした方が、十六という年だって結構しっかりしている、今の人間は、日本人は、そういう意見を持っていますが、いかがでございましょうか。
○参考人(申ヘボン君) 確かに、おっしゃられましたように、十八歳ぐらいになれば肉体的にはかなり成熟しているという事実があると思います。ですが、実際に男女が結婚するとなると、やはり子供ができるというのが常識的な考え、大部分の夫婦の状態でありまして、そうするとやはり子育ての責任がありますので、十六歳、十七歳といった段階で子供を持つことがどれだけ望ましいのかという問題を切り離して考えられないと思います。
 余り一概には申し上げられませんが、例えば新聞等でよく報道される子供の虐待等のケースを多々見ていますと、やはり十代で子供を持ってしまった夫婦が子供が遊びの邪魔になって虐待の対象にするというケースはかなり多く生じているように見受けられます。ですので、そういう場合、いわゆるできちゃった結婚というのかもしれませんが、ただ肉体的に成熟して子供ができた、じゃ結婚しようかということで結婚する、それが十六でもいいんではないかということではやはりなくて、もう少し慎重に子供に対する責任ということを考えれば、精神的にも成熟する十八歳ぐらいの方を目安にするのが望ましいというふうに考えます。
○会長(野沢太三君) 福島瑞穂君。
○福島瑞穂君 今日はどうも本当にありがとうございます。社民党の福島瑞穂です。
 私は、憲法と現実の間に残念ながら乖離があると思います。ただ憲法改正ではなく、現実をどうやって憲法の求めるところに上げていくのか。例えば、申ヘボンさんが研究していらっしゃる、やってこられた国際人権法も、条約に合わせて現実の様々な人権侵害をどうやって条約の水準に上げていくのか。同じように、様々な憲法訴訟で問われてきた中身は、憲法が提起している人権状況にどうやって現実に起きている人権侵害を引き上げていくのかということだと思います。ですから、私は、憲法改正は千年早い、現実をどうやって憲法に合わせていくのかという、その努力こそ今本当に必要なのではないかというふうに思っています。
 今日は申ヘボン参考人の方から女性と子供のことを語っていただきましたが、現行憲法下における人権問題として先生が考えていらっしゃるのは、ほかにどのようなものを考えていらっしゃるか。どのようなものを特に重要、重要と言うと変ですが、問題のある人権侵害だと考えていらっしゃるか、教えてください。
○参考人(申ヘボン君) ありがとうございます。
 現在の憲法下での人権問題ということですが、現在、社会では様々な人権侵害が生じておりますが、私は憲法というものはそもそも、法の目的が国家権力を縛ることにありますので、社会の人権問題すべてに対処は十分にできないという考えであります。
 もちろん、憲法の精神を個々の法律に読み込んで解釈する、それを社会の統一的な法秩序にするという考え方は可能なわけですが、実際に起こる例えば差別というのは、公権力によるものよりは私人間、例えば企業による差別等の方が圧倒的に多いし、身近なわけです。そういうものを憲法ですべて防止、救済するというのは不可能であって、私は実際には、具体的な法律を作って、これこれこういう差別をしてはいけない、したら法律違反になるという、個々人の行為規範として目に見える形で法律を作らないと社会の人権問題はなかなかなくならないというふうに思っております。
 その上で、今の御質問にありました現在の日本での人権問題、どのようなものがあるかというふうにおっしゃいましたが、今日取り上げました女性の人権の問題、子供の人権の問題、両方深刻ですが、そのほかにも、日本が国際人権条約にも入っていて、それに合わせて措置を取る義務を負ってもいながら十分に対処し切れていない様々な問題があると思います。
 例えば、人種差別撤廃条約に日本は入っておりますが、その中で人種差別を受けない権利、例えば運送機関とか喫茶店とか劇場とか飲食店とか、そういうところへの入場等に関して人種による差別を受けないというものがありますが、そういうことを具体的に担保する法律は今のところ国内法がないわけです。この条約を使って実際に裁判する例も幾つか出てきてはいますが、まだまだ一般の人がそういう人種差別をしてはいけないんだという目に見える形で意識できるものがない。
 一般の人というのは条約に国が入ったということを必ずしもよく知って行動しているわけではないと思いますので、そのような形で人種差別も女性差別も条約上もいけないんだということをやはり国内法で担保する必要があって、そこのずれがまだ日本では各方面で続いていると思います。
○福島瑞穂君 国際人権規約、自由権規約、社会権規約の話もしていただきましたが、勧告が出ていて、例えば今問題になっている革手錠なども、それについては自由権規約から勧告を受けていると。ですから、様々な勧告が出ているわけですが、その勧告、そういう国際人権保障についてちょっとお話しください。
○参考人(申ヘボン君) 日本は、国際人権規約、女性差別撤廃条約等様々な人権条約に入っております。これに入りますと、条約に入った当然の義務として報告制度というものを適用されます。五年に一度とか四年に一度という定期的なペースで、どのように条約を実施しているかについて報告書を出さなければいけない。それによって、出した結果、条約で作っている条約機関、いわゆる委員会の審査を受ける形になります。こういうシステムというのは、従来の国際法で、国内の人権問題は全く国内問題、国際的には関係がなかったのに比べると正に画期的な、現代の国際法の進展であって非常に新しい、いわゆる国際的な説明責任を日本が、それぞれの国が果たす義務を負っているということになるかと思います。
 この報告制度が各条約の下で適用されていまして、毎年のように様々な審議が行われていますが、各条約の委員会から日本はいろいろな人権問題を指摘されております。今、福島さんが出されました革手錠の問題にせよ代用監獄にせよ女性差別にせよ、様々なことを日本は改善するように指摘されておりますが、ただ、今のところ、その条約機関の勧告に対して必ずしも責任を持って対応する省庁も明確でない、十分な対応がなされないまま、また四年後五年後、同じような勧告を繰り返し受けるという残念な状況が生じているように思います。
 もちろん、この勧告自体は裁判の判決とは違って何の拘束力も持ちませんので勧告にとどまるわけですが、少なくとも、条約に入って規定を守る義務を負っている以上は、その規定上問題があるという指摘を受けたら、やはり国内にそれを持ち帰り、責任ある省庁でしかるべき対応をする、何らかの改善策を伴ってまた四年後五年後の審査を受けるべきであるというふうに考えております。
○福島瑞穂君 選択議定書の話をしていただきましたが、女性差別撤廃条約、国際人権規約の選択議定書も批准すべきだと思いますが、日本が批准している拷問禁止条約も、もし選択議定書を批准しますと国際機関からの査察を日本の刑務所が受けなくてはいけない、受けることがあり得ると。そうしますと、随分やはり変わるだろうと思うんですね。
 その選択議定書について一言お願いします。
○参考人(申ヘボン君) 国際人権規約等の選択議定書は、ほとんどは個人が人権侵害の申立てをできる個人通報制度を設けるものでありますが、今お話にありました拷問禁止条約の選択議定書といいますのは、それに入った場合に国内の刑事施設等に立入検査ができる、そういう調査制度を設けるものであります。
 実際に、日本でも最近、刑務所内での人権侵害等よく報道されておりますが、残念なことに密室内の人権侵害はなかなか根絶が難しいのが現状でありますので、こういった制度を是非とも受け入れることによって人権問題をなくしていくという努力が日本でも必要であると思います。
 それから、国際人権規約自由権規約のような個人通報に関しても、日本は、もうそろそろこれに本格的に向き合い、入る時期に来ていると思います。
 いわゆる先進国、日本も入ると解されていますが、の中でこういう個人通報制度に全く入っていないのは本当に日本だけであります。アジアでも、韓国、フィリピン等は人権規約の個人通報制度を受け入れております。これがなぜ日本ではできないかということ、それを本当に真剣に検討していただきたいというふうに思っております。
○福島瑞穂君 選択議定書の話をしていただきましたが、例えば国際刑事裁判所の設置やいろんなことがこれから必要だと思いますが、今後日本は、日本とアメリカは条約の批准が少ないということも言われておりますが、今後どういう条約を批准すべきかという点について御教示ください。
○参考人(申ヘボン君) 今挙げられました国際刑事裁判所規程は、日本が是非とも入るべき条約の一つであると思います。
 そのほか人権条約に関しては、いろいろなものがありますけれども、今日の報告で申し上げましたILO条約、これは労働関係の条約でありますが、その中で労働者の人権に関する条約と言ってもよい内容のものが多数ありまして、そういうILO条約で日本が入っているものがそれほど多くないという現状がありますので、日本はまだ入っていない主なILOの条約に入るべきであるというふうに考えます。
 そのほかの国連の人権条約に関しては、日本はかなりの数のものにもう入っているとは思いますが、ただ、その実施が極めて不十分であって、とりわけ、条約本体に入っていながら個人通報に一切入っていないのが日本の大きな特徴であって、言わば個人の観点からする本当の意味での人権保障、手の届く、道の開かれた人権保障をまだ実現していない面があると思いますので、今後は、条約本体というよりも、その実施制度を強化して、もう少し風通しの良い、個人から申立てができる制度に是非とも積極的に入っていくべきだと思います。
○福島瑞穂君 例えば北朝鮮も国際人権規約、自由権規約に入っていますので、例えば去年国連から勧告を受けるというふうなこともあり、中国も社会権規約に今度入り、批准をいたしました。世界じゅうの国が国際人権という観点から、日本も含めて、人権と民主主義を根付かせていくということがとても必要だと思います。
 ですから、戦争による安全保障ではなく、国連も提唱している人間による安全保障、国際人権法が紛争や戦争を最もなくす有効な手段であるというふうに考えられているのですが、その人間による安全保障、戦争による安全保障ではなくという点について教えてください。
○参考人(申ヘボン君) 正に今おっしゃられましたように、現在の国際社会の中で人権、民主主義という価値観が非常に広く共有されるようになっていて、その価値観を持っているかどうかが問われる場面が非常に増えていると思います。軍事的な安全保障は従来の安全保障でありましたが、実際にそれだけでは安全は守り切れないということは昨今のテロ事件でも明らかなとおりで、例えば郵便物にばい菌を付けてテロ事件を起こすということは、もうこれは軍事では防ぎ切れないわけです。したがって、各社会、それぞれの社会を草の根から安定させて、人々が尊厳を持って生きていける社会を作り、結果的にテロをなくしていくという方向があり得ると思うんですね。
 その人権と民主主義という価値観に関しては、日本は、先ほども申し上げましたが、表面的には各人権条約に入ってはおりますが、まだ個人通報制度に入っていないことからしても、まだ真に深いところまで個々人にそれを認めて個人の権利を共有させるところまでは行き切れていないところがあると思うんですね。
 そのほかに、例えば死刑廃止といった面でも日本は先進国の中ではアメリカとともに孤立しております。御存じのとおり、日本はヨーロッパ審議会のオブザーバー資格を持っておりますが、死刑を近々廃止しなければオブザーバー資格を停止するとまで言われております。そのぐらい人権的価値観からする日本の態度が国際的に問われている時代に来ているんですね。
 ですので、国際人権条約の遵守、国内での広報、教育徹底ということも含めて、その価値観に日本が本当にコミットしていくことが必要だと思います。
○福島瑞穂君 おっしゃったとおり、ヨーロッパ評議会に入るのは、EUに入るためには死刑を廃止しなければならず、オブザーバーステータスを有している五つの国の中でアメリカと日本のみ死刑を廃止していない。二〇〇一年六月のヨーロッパ評議会に行きましたが、二〇〇三年三月三十一日までに日本とアメリカで前進がない限りオブザーバーステータスを剥奪するかどうか決議が出るのではないかと、決議を出すということが言われております。韓国は死刑廃止運動が活発ですから、日本がオブザーバーステータスを剥奪され、逆にほかの国がオブザーバーステータスを取得していくという、そんな現象も起きるのではないか。日本の国会の地位が実は大変低くなってしまうということでは大変危機感を持っております。
 ところで、最後に、女性差別撤廃条約、今年は六月にニューヨークの女性差別撤廃委員会で日本の報告書が審理されるわけですが、女性差別撤廃条約の意義について一言お願いします。
○参考人(申ヘボン君) 条約の意義でよろしいですか。
○福島瑞穂君 はい。
○参考人(申ヘボン君) 今日の御報告でも日本がこの条約に八五年に入ったことを申しましたが、この条約は、男女雇用機会均等法の制定、国籍法の両系血統主義への改正等、非常に大きな国内的な影響を与えた条約であります。一世代前に作られた国際人権規約などの条約に比べて、この条約は、女性差別撤廃条約は女性の社会的、経済的地位の強化という、女性の地位の底上げも含めた措置を取ることによって差別を撤廃するという考えを非常に大きく備えている、そういう条約であって、私は非常に高く評価しております。
 この条約に最近個人通報を認める選択議定書ができておりまして、日本は当然まだこれには入っておりませんが、そういう状況で、しかも十か国以上が入って、もう既に発効しているということを踏まえて、日本はまだ国内で残存している女性差別に関して、選択議定書によって個人が条約違反を申し立てる現実的可能性もあるということを念頭に入れて、国内的な改革を進めていくべきだと思います。
○福島瑞穂君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後三時二十分散会

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