第156回国会 参議院憲法調査会公聴会 第1号


平成十五年六月四日(水曜日)
   午前九時四分開会
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    会 長         野沢 太三君
    幹 事
                市川 一朗君
                武見 敬三君
                谷川 秀善君
                若林 正俊君
                堀  利和君
                峰崎 直樹君
                山下 栄一君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                荒井 正吾君
                景山俊太郎君
                亀井 郁夫君
                桜井  新君
                椎名 一保君
                世耕 弘成君
                中島 啓雄君
                中曽根弘文君
                福島啓史郎君
                松田 岩夫君
                松山 政司君
                伊藤 基隆君
                江田 五月君
                川橋 幸子君
                高橋 千秋君
            ツルネン マルテイ君
                松井 孝治君
                魚住裕一郎君
                山口那津男君
                宮本 岳志君
                吉川 春子君
                田名部匡省君
                松岡滿壽男君
                大脇 雅子君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   公述人
       東京大学学生   大井 赤亥君
       横浜国立大学教
       授        北川 善英君
       開倫塾塾長    林  明夫君
       主婦       藤井富美子君
       法政大学名誉教
       授
       テロ特措法・海
       外派兵違憲訴訟
       原告団長     尾形  憲君
       自営業      加藤 正之君
       駒沢女子大学学
       生        田中夢優美君
       学習院女子大学
       教授       畠山 圭一君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (平和主義と安全保障)
    ─────────────
○会長(野沢太三君) ただいまから憲法調査会公聴会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「平和主義と安全保障」につきまして、お手元の名簿の八名の公述人の方々から御意見を伺います。
 午前は、東京大学学生大井赤亥君、横浜国立大学教授北川善英君、開倫塾塾長林明夫君及び主婦藤井富美子君、以上四名の公述人の方々に御出席をいただいております。
 この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本調査会は、本年五月から「平和主義と安全保障」について調査を開始したところでございますが、本日は、「国民とともに議論する」という本調査会の基本方針を踏まえ、我が国の平和主義と安全保障の在り方について、特に憲法とのかかわりを中心に公述人の方々から幅広く忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の調査に反映させてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、まず公述人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきます。
 なお、公述人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず大井公述人、お願いいたします。大井公述人。
○公述人(大井赤亥君) おはようございます。東京大学の学生の大井と申します。今日はこのような場で話す機会を与えてもらって大変感謝しています。
 私の意見なんですけれども、レジュメがお手元に配られているかと思いますので、レジュメに沿って話をしたいと思いますので、よければごらんください。
 レジュメですけれども、大きく三つのことを話したいと思っています。
 一つは、一つ一番初めに話したいことは、私は、基本的には日米安保の体制に対して、それが今与えている、日本の安全保障に寄与しているということは認めるんですけれども、長期的には懐疑的な立場です。と同時に、じゃ、どういう日本の安全保障の在り方が長期的に望ましいのかということを、ちょっと抽象的な話になってしまうかもしれませんけれども、意見を述べたいと思います。
 二つ目に、イラク戦争の後の国連の役割、それから、その国連と日本が今後どういう関係を結んでいくかということについても自分の考えを述べたいと思います。
 最後に、時間があったら、この三月に一か月、アイルランドに行ってきまして、向こうのナショナリズムとか、その歴史に接する機会がありましたもので、そのことについて若干、日本のナショナリズムと比較の中でお話しできたらと思っています。
 基本的には、一番と二番を中心に述べたいと思っています。
 早速、一番なんですけれども、日米安保が日本の安全保障に寄与しているという議論は、もちろん国民の世論もあるし、一定程度説得力はあるかもしれないと思っています。ただ、イラク戦争が終わった後で、じゃ、この日米同盟の在り方を今後どうやってするのかということに関しては懐疑的な立場に立っています。
 簡単に理由を述べますと、一つはアメリカの単独行動主義と言われる、イラク戦争で顕著に見られた動きですけれども、これにずっと心中的に付いていくということが多くの犠牲を伴うものだと思っています。
 一つは、国連中心主義的な外交とアジアの一員ということが長らく建前的には日本の外交の立場だったと聞いておりますけれども、一つは、国連を全く無視するアメリカに付いていくということは、国連中心主義ということとは矛盾せざるを得ないわけです。
 もう一つは、アジアの一員として世界にその立場や利益を代表していくということも不可能にすると思います。今度、サミットに中国が参加するということがありましたけれども、それも、日本だとアジアの声が代弁できないという批判の一つの表れだというふうに解釈しています。
 もう一つは、日米安保一辺倒による日本の安全保障が本当に現実的なのかということについても疑問があるわけです。アジアの問題については、それはアジアの国同士で解決するという問題もありますし、アメリカの国益と全く関係しないという部分もありますので、そういうところで主体的な外交で解決しなくちゃならない部分があるんじゃないかと思っています。
 もう一つは、今言われている北朝鮮に関する問題です。自分自身の問題意識としては、北朝鮮の問題が戦争になるということは、これは日本でも韓国でも中国でもどうしても避けなきゃいけない事態だという真剣な問題意識を持っています。
 そこで、例えば日本と韓国の対応とアメリカの対応の余りの違いや温度差というものが報道されていますので、そこでも、この北朝鮮有事といったことに関しても決して現実的な同盟じゃないだろうという側面があるんではないかというふうに思っています。
 自分が言いたいことの一番大きなのは、レジュメの一のスモールな数字の四番ですけれども、もちろん一時的には日米同盟が日本の安全保障に寄与しているということは分かるんですけれども、ただ、それが長期的にはどうなのかということを考えているわけです。
 それはどういうことかというと、本来、例えばアジアの国、例えば日本や韓国や中国といったアジアの国同士でそれぞれの国の安全保障を考えるとか、地域的に連携して考えるとか、そういう外交的な努力を東アジアのアメリカ軍のプレゼンスが結果的に遅らせている側面があるんじゃないかということです。つまり、そういう努力をしなくても安全保障が、目の前の安全保障だけは保たれるということですね。ただ、それは、目の前の安全保障はあっても、長期的な安全保障にならないんじゃないかということです。長期的な安全保障は地域的な国々の努力自体によってしか生まれないんじゃないかということです。
 じゃ、そう考えると、例えば日米安保、もし、ある状態でも、ない状態でもいいんですけれども、アジアの国の独自の安全保障ということを考える場合には、やっぱりその国同士の主体的な努力が必要だと思っています。
 例えば、ここから先はまだまだ抽象的な議論になるかと思いますけれども、ただ、アジアの諸国の間で、例えば日本や韓国や中国それから台湾といった地域も含めて考える場合、多国間の平和条約とかあるいは経済的な機構を作るということは一つ考えられると思います。今の段階では、そういう、それを達成するような現実的な条件はなかなか見いだせないかと思いますけれども、ただ、この考えは歴史的にも昔からあるもので、今でも日本の学者の方、例えば東北アジア共同の家の構想とかいうことを述べられる政治学者の方もおられます。ですから、決してとっぴな発想ではないということが、一つ申し上げたいと思います。
 例えば、歴史的に見ましても、中国や韓国の方から日本にそういう言わば地域的な独自の平和なり経済の構想を立てようという呼び掛けは過去にもあったわけです。例えば、中国で言えば孫文とか、あるいは韓国の安重根という、日本では評判の悪い人ですけれども、あの人なんかも東アジアの平和構想を真剣に考えた論文があるはずです。ですから、歴史的に見てもとっぴなことではないということです。
 もう一つ申し上げたいのは、例えば東アジアにおける平和条約網、あるいは何らかの平和機構、友好機構を作るということに関して、例えば共通の価値がないとか、経済体制も異なる国で果たしてできるのかという疑念はよく聞かれます。
 確かに、考えてみると、日本と韓国は非常に近い市場経済と政治的な民主主義も達成している。ただ、北朝鮮や中国に関しては、経済体制も違えば政治体制も違うし、それから人権に対する考え方も大きな隔たりがあるということは認めざるを得ないと思います。
 では、しかし、同時に、そういうことが友好善隣関係の国際的な機構あるいは条約、非常にバイラテラルな条約網を作るということが果たしてそれでできないかといったら、そうではないと思うわけです。
 例えば、一つ例として挙げたいのはASEANの例なんですけれども、ASEANの中は、それこそ歴史的には、反共国家もあれば中立国家もあれば内政がやや混乱している国家もあって、到底共通の価値観とか人権意識の中でもコンセンサスは得られていない地域連合だと思いますけれども、ただ、それがASEANの歴史を見ると、非常に友好的に実効性を持って機能しているということが一つ挙げられると思います。
 ですから、必ずしも共通の価値観や人権意識を持っていない、あるいは文化が違うとか、いろいろな理由がありますけれども、そういうことで友好善隣の地域機構を作ることはできないというわけにはならないと思います。何よりも、主体的にそういう地域的な平和機構あるいは友好機構を作るというその過程自体が、相互の信頼やあるいは共通認識が生まれていく過程になるというふうに考えています。
 ですから、長期的に見れば、東アジアの平和機構なり、あるいはASEANのような地域機構を作るということが正にリアリティー、一番現実的のある日本の安全保障の在り方じゃないかというふうに思っています。
 以上が一番です。
 次に、二番なんですが、日本と国際連合の関係についてです。
 もし、例えば日米安保を維持するかしないかにかかわらず、日本の安全保障若しくは日本外交の軸足を国連に置いていくということは、一つ、イラク戦争の後の至急な課題として求められることだと思います。
 どうしてそう考えるかというと、イラク戦争で果たした国連の役割ということで、一般的には国際連合がうまく機能しなかった若しくは国連の権威が地に落ちたという報道もあります。それは、アメリカが既成事実的に国連の承認なしに戦争を起こしたからそういう報道がありますけれども、自分自身の考えとしては、それだけではないと思っているわけです。
 というのも、戦争自体は、イラク戦争自体は国連の承認なしに行われましたけれども、その開戦前の数週間にわたって国連安保理の場で激しい外交的なせめぎ合いが続いていましたよね、つまり国連の決議をめぐってですけれども。そのことが示している国連の意義ということがあると思うんです。
 つまり、今回のイラク戦争の開戦前の国連安保理の場の外交的なせめぎ合いで明らかになったことの一つに、つまり国連の決議のない戦争、若しくは国連の決議、承認のない武力行使は違法だということは、これは国際的にはっきり認められたわけだと思います。そのことは、アメリカ政府自身が最後まで国連安保理の場で、つまり国連決議を取るための多数派工作をしていたわけですよね。ですから、アメリカ自身の動きによってもそのことは明らかだと思います。
 つまり、それは世界的にもはっきり認められたし、つまり国際の場で、国連決議のない若しくは国連の承認のない武力行使は違法なんだということは、一つの共通認識として、一つの到達点だというふうに思っています。これは、イラク戦争に特徴的なことだと思います。
 従来から国際政治の場というのは、力が正義だとか、いわゆるホッブス的な世界とか言われておりますよね。例えば、既成事実的な力の行使が正当性を生み出したり、既成事実的にどこかの国に侵攻することがそこに駐留する正当性を生み出したりとか、正に力によって正義が生み出されてきた、あるいは正当性が生み出されてきた場所だったと思いますけれども、今回のイラク戦争で明らかになったのは、イラク戦争は、既成事実的な戦争はあったけれども、それと正義とかあるいは正当性の問題は別問題だという認識が達成されたところだと思います。ですから、力は力であるけれども、正当性はまた別にあるんだということ、これが認識されただけでも大きな成果じゃなかったかと思います。
 と同時に、今回のイラク戦争でいろんな国連の限界が見えてきたのも事実です。ですから、もっと実効性のある組織にするとか、あるいは国連の内部をもっと民主化するとかという課題は大きく残ったと思いますけれども、そこはひとつ、今後の国連の可能性として、つまり武力行使を正当化する機関は国際の場では国連しかないということを、その可能性を重視して、そこに、それを育てる立場に立つべきだというふうに考えています。
 そういった国連と日本との関係ですけれども、日米安保があるなしにかかわらず、国連中心の外交をするということは日本の安全保障にとっても重要な面だと思います。ただ、日米安保と違って、国連中心ということがすぐ日本の安全保障に寄与するとは言えないと思います。そこは現実的に考える必要があると思うんですが、少なくとも、アメリカの単独行動主義にずっと付いていくというよりも、国連中心のより法規的な、法を媒介にした、あるいは中立的な、国際的にも正当性を持った外交の要求をしていくということは日本の安全保障にとっても重要なことだと思います。
 最後になりますけれども、国連と日本との間の相違点が幾つかございます。
 日本国憲法は国連憲章と非常に大きな類似性があると思っています。ただ、紛争の最終的な解決ということに関してはやっぱり大きな隔たりがあるわけです。それについてどういう立場を日本が取るのかということは、国連の中心に軸足を置いた場合に問われることだと思います。
 ただ、例えば人権問題や、特に人権問題だと思いますけれども、そういうことで国連が妥当で正当な武力行使をするということは論理的にはあり得ると思います。その場合に日本がどうするかということに関してですけれども、日本はやっぱり憲法九条を持っているということ、それから、国際連合の活動はその国の特殊な条件に応じて、その条件に応じた働きぶりを求められるということが前提です。ですから、そういう場合は、日本の憲法九条が世界的にも普遍性を持っていると、それから同時に、国連憲章とも共通した精神なんだということを国際の場で理解してもらう、それしかひとつ道がないだろうと思っています。
 つまり、そういう側面からも日本が国連の場でイニシアチブを取って活躍できる国になるんじゃないかというふうに思っています。
 最後に三番の、今、政治家の人たちに言いたいことということですけれども、この三月にアイルランドに行ってきまして、いろいろアイルランドのナショナリズムについて、若しくはその歴史について触れる機会があったんですけれども、日本のナショナリズムと大きく違って、大国イギリスに対してちゃんと自分たちの文化的な独自性の尊重とか、あるいは生活の改善を歴史を通じて言ってきたわけです。その中でナショナリズムが育ってきた。だから、アイルランドのナショナリズムというのは、ある種正統性を持っているわけです。下から突き上げられるようなナショナリズムで、全く日本のとは違う印象を持ちました。
 日本のはどうかというと、どうも、いつもいつも中国とかあるいは朝鮮とかに向かって、つまり何か弱い者いじめのナショナリズムのような、そういう狭隘さがどうしてもイメージとして付きまとうもので、それとは全く違うナショナリズムの在り方もあるんだなと実感した次第です。
 ですから、今、有事法制とかあるいは北朝鮮に関連した議論が国会の場でも行われていると思いますけれども、そういう議論がこういう日本のナショナリズムというような狭隘なナショナリズムがベースになって行われているとしたら大きな危惧を感じざるを得ないということを申し上げて、ちょっと言葉足らずでしたけれども、発言を終わらせてもらいます。
 どうもありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、北川公述人、お願いいたします。北川公述人。
○公述人(北川善英君) 北川でございます。本日は、貴重な機会を与えていただきまして、感謝申し上げます。
 早速、三つの意見の要旨のうちの第一番目、国際社会における平和主義の歴史というところから話をさせていただきます。
 まず、十九世紀までの国際法においては無差別戦争観が採用されていました。そこでは、戦争の原因についても、戦争の決定あるいは開始についても各主権国家の自由であったわけです。したがって、そこで専ら問題になったのは、著しく残虐な行為あるいは中立国の権利侵害だけを規制する交戦ルールの制定ということであったわけです。その意味では、戦争を一部に囲い込む、あるいは戦争の、これは括弧付きなんですが、合理化あるいは人道化というのが目指されたわけです。
 このような十九世紀までの国際法においては、現在私たちが議論しているような国家の自衛権という概念は登場の余地がなかったわけです。
 次に、二十世紀の国際法は、戦争の違法化、更に武力行使禁止へと大きく進みました。
 周知のように、第一次大戦における大量殺りく兵器の登場、そして軍備拡大、この下で国際連盟が軍備縮小、紛争の平和的解決、集団安全保障、この三つの柱を立てて一時的な部分的な戦争の違法化に一歩を踏み出したわけです。
 続く一九二八年の不戦条約では、国際紛争解決の手段として戦争を禁止すること、国家政策の手段として戦争を放棄すること、これを日本、当時の日本を含む調印国に義務付けたわけであります。ただし、この段階では、禁止される対象としての戦争は、あくまでも宣戦布告あるいは最後通牒という戦意表明があったものだけが戦争とみなされたわけです。したがって、宣戦布告もなく、最後通牒もないものは、言わば事変という形で戦争扱いはされなかったわけです。
 そういう抜け道があったわけですが、他方で、ここで初めて例外的な正当化原因として自衛権概念が登場したということが注目されます。
 第二次大戦後は、国連憲章が戦争という言葉を基本的には使わない、実態的な武力行使と武力による威嚇の禁止という原則を打ち出しました。例外的には二つの場合の武力行使が認められることになりました。一つは、非常に厳しい条件を付せられた下での個別的・集団的自衛権の行使です。このことは先制的な自衛権行使は認められないということを意味しております。他方で、安全保障理事会が決定した軍事的制裁、この二つであります。
 いずれも、平和に対する脅威、破壊・侵略行為の存在が前提条件になっておりますが、問題となるのは侵略の定義をいかにするかであります。一九七五年の国連総会決議は、侵略の定義を攻撃と侵入という点に求めました。しかしながら、この国連総会決議は、あくまでも安保理事会の決定に対しては一つのガイドラインにとどまるという限界を持っています。
 最後に、二十一世紀の国際社会と平和という問題を考える際、アフガニスタンとイラク、特にイラクに対するアメリカの攻撃というところで現代的な二十一世紀の問題は先鋭化した形で表れております。
 これまでの十九世紀、二十世紀を通じての国際的な戦争と平和の流れ、ここから出てくることは、一方では先制的自衛権行使、他方で集団安全保障ということであったわけですが、アメリカの行動においては、先制的自衛権行使という点でも、一国単独行動主義という点でも、人類が二度の世界大戦に代表される膨大な犠牲の下で築き上げてきた二十世紀までの平和主義の流れにさお差すものである、むしろ十九世紀の無差別戦争観への先祖帰りであるというふうに言わざるを得ません。
 他方で、膨大な戦略核、戦術核やクラスター爆弾を始めとする非人道的大量殺りく兵器を有し、かつ唯一実戦で使用してきた、そして今またイランや北朝鮮で使用している世界最強の軍事大国、それはアメリカ合衆国だけであるということです。
 誤解を恐れずに申し上げますと、二十一世紀初頭の国際社会の冷厳なる現実、それはブッシュ政権こそが国際社会の平和にとって最大の脅威であるということです。人権と民主主義のためにアメリカの、正確にはブッシュ政権の武力行使が必要であるという議論もありますが、しかしそれは冷戦下に存在した社会主義陣営は平和的であり、資本主義陣営は侵略的であるというドグマの裏返しでしかないと言えます。
 ところで、アメリカによるイラク先制攻撃は日米安保条約の観点からも問題があります。私自身は日米安保条約に対しては否定的な立場でありますが、日米安保条約を前提とした場合にさえ大きな問題をはらんでいます。
 すなわち、日米安保条約の第一条は、平和的手段による国際紛争の解決、領土保全、政治的独立に対する武力行使の禁止、国際連合の目的と両立しない方法を慎むという国連憲章の規定を当事国である日本とアメリカ合衆国に対して義務付けています。このような日米安保条約の観点から申し上げましても、日米同盟関係の維持、そして国連中心主義というのは必ずしも両立できないものではなかった。すなわち、小泉首相のアメリカに対する支持表明は、必ずしも日米安保同盟という観点からいっても唯一の選択肢ではなかった、むしろ避けるべき選択肢ではなかったかと思われます。
 さて、今回のイラク攻撃をめぐるヨーロッパ大陸諸国とアメリカ合衆国との間の対立は、ヨーロッパ諸国の政府首脳レベルを超えた市民の平和主義の表れという点で、また新たな平和主義の動向といった点で画期的なものです。
 すなわち、戦後ヨーロッパでは、平和主義という言葉にはナチス・ヒトラーの侵略を許した腰抜けという消極的なニュアンスが与えられてきました。しかしながら、一九九九年のNATO軍、米軍も含みますが、NATO軍による旧ユーゴ空爆を機会として、平和主義には非軍事的な人道的介入という積極的なニュアンスが与えられつつあります。これは特にヨーロッパの国際法学者あるいはヨーロッパを中心とする国際的なNGO、例えば国境なき医師団など、こうしたところでコンセンサスを得つつある、そういう動向であります。
 このような動向は、二十世紀までの国際社会における平和主義の流れと、旧ユーゴ空爆の結果という現実とを踏まえた二十一世紀の国際社会における平和主義の新たな動向であると言えます。それは次に述べます日本国憲法の平和主義に相通ずるものであると言えます。
 次に、二番目の柱に移らせていただきます。
 日本国憲法の平和主義の理解については、本調査会第六回会議の上田勝美、渡辺治両参考人の見解と私の見解、ほぼ同じくしています。ここでは、お二人の参考人の見解の中で触れられなかった点について述べさせていただきます。
 それは、憲法前文で述べられている平和的生存権が持つ意味ということです。
 第一に、平和的生存権の持つ意味は、国家の安全と市民の安全と自由とを峻別したというところにあります。すなわち、人類の歴史は両者の不一致を表しています。むしろ、前者が後者を犠牲にしてきた。言い換えますと、武力は国家の安全にとって有効であっても、それを構成する市民の安全にとっては必ずしも有効ではなかったということを表しています。それは沖縄戦という私たちの経験でも言えます。また、現にアフガニスタン、パレスチナ、イラクなどで起きている現象は正にそのことを指し示しています。
 このことを自衛隊の陸幕の幹部、これは朝日新聞で引用されていますが、端的に表現されています。すなわち、自衛隊の任務は国家を守ることだ、それが国民の生命や財産の安全につながる、自衛隊は国民を守るためにあると考えるのは間違っている。正に軍隊というのは、正にそれを組織した抽象的な人工物としての国家を守ることはできても、個々の市民の安全を守ることは必ずしも任務としていない、こういう言い方をしています。
 第二に、このような国家の安全と市民の安全との峻別ということは、日本国憲法全体の構造を非軍事的構造として成立させました。すなわち、戦争放棄、武力不保持、交戦権否認、このように国家の軍事作用を憲法から一切排除することによって市民の安全を確保している、確保しようとしているということが言えます。言い換えれば、非軍事的、平和的手段による市民の安全の確保が国家の義務であるとしていることです。
 第三に、これは最も現在において重要なポイントであるわけですが、人類普遍の価値、理念の憲法化ということです。
 すなわち、殺すな殺されるなということは人間が人間社会を作るに当たっての最初にして最大の基本的な価値であり理念であります。そのような理念を国内政治だけではなく国際関係においても適用しようとした、そのような国が我々の国の形である、そのように明示したものであると考えます。
 別な言い方をしますと、我々は果たして子供や若者に対して人を殺すなと責任と自信を持って言えるであろうかということです。国内では犯罪である、しかしながら国外では、国際関係では殺人は許される、そのようなダブルスタンダードで果たして子供や若者に人を殺すなと言えるであろうかということであります。
 この点に関連しまして非常に参考にすべき材料があります。すなわち、欧米の研究では日本の若者の殺人犯罪率は極めて低いということが話題になっております。すなわち、五分の一から八分の一の発生率です。この原因として、アメリカの研究者は日本国憲法の平和主義と戦争への不参加による心理的影響というものに注目しております。
 このように、私たちは半世紀以上一人の戦死者も出してこなかった。そのような九条を維持してきたことにやはり自信と誇りを世界に対して持つべきではないであろうかということであります。
 最後に、三番目の柱に移りますが、二十一世紀の我が国の平和主義と安全保障。
 ここで申し上げたいのは、第一に日本の地政学上の位置とそこから来る現実的脅威の可能性です。
 中国、ロシアという核保有大国があり、他方で核保有を断念した韓国、台湾、そして世界最大の軍事大国の精鋭部隊を日本、韓国に駐留させるアメリカ、このような地政学的な状況の下で現実的な脅威というのは、極めてせっぱ詰まった暴発以外にはあり得ないだろう、あるいはミサイル、爆撃機による威嚇しか存在しないだろうということです。しかも、そのような威嚇あるいはせっぱ詰まった暴発というのは、アメリカの戦争シナリオの発動におびえた形で行われる確率は極めて高いということであります。
 そうしますと、第二で言えることは、最も現実の可能性として高い脅威というのは、アメリカの戦争シナリオの実施、そこに日本が関与していく、それによって日本の有事が生まれる、このようなものが恐らく唯一であろうということであります。すなわち、日米安保同盟、周辺事態法、テロ対策特別措置法による自衛隊の兵たん支援活動が、武力攻撃事態法案が定める武力攻撃予測事態、そして武力攻撃事態と連動することによって日本の有事は生まれるのではないのかということです。
 最後に、そのような日本の地政学上の位置、現実のあり得る脅威、その下で日本は何をなすべきか。基本的には、世界の大多数の人々が普通に生き、生を終えるということを至上価値とする点から、大国中心の武力による平和ではなく、武力によらない平和、大国の独走に歯止めを掛ける平和構想、それが目下の急務ではないでしょうか。
 以上で終わらせていただきます。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、林公述人、お願いいたします。林公述人。
○公述人(林明夫君) おはようございます。栃木県で開倫塾という学習塾をやらせていただいております林明夫と申します。
 今日は、これからの憲法を考えるということでこのような貴重な場所で発言の機会を与えていただきましてありがとうございました。心から感謝申し上げます。
 私の主張は二つであります。安全保障を考える場合に大事なことは、国の安全保障という考え方と人間の安全保障という考え方、二つあるということを今日は皆さんに是非御理解していただきたいと思います。
 国の安全保障を考える上で一番大事なことは、国家緊急権の規定が日本国憲法にありませんので、是非この規定を作っていただきたいと。それから、人間の安全保障を考える上でこれまた大事なことは、もしここにいらっしゃる参議院の先生方が憲法についてお考えになる場合に、是非、前文の中に、憲法の前文の中に人間の安全保障という最も新しい、これから五十年ぐらい、半世紀にわたって恐らく使用に堪えられるであろう安全保障の概念を入れていただきたいというふうに思いまして、この場に来させていただきました。
 私は、日本国憲法に限らず、あらゆる国の基本法である憲法は憲法制定権者の時代認識を強烈に反映したものであるというふうに考えます。日本国は、憲法制定当時に恒久の平和を念願したがゆえに、軍隊も持たず、国の交戦権をも否定した形で徹底した平和主義を憲法の前文と第九条に明記をいたしました。敗戦直後の憲法制定権者の時代認識の表れとして、これは日本国民からも、それから世界の有識者の方々からも高い評価を得たことは皆さん御承知のとおりであります。しかし、憲法制定後半世紀が経過した今日、果たして前文と現在の第九条の内容でこれから半世紀の日本国の安全を担保できるか、日本国民の生命、財産、生活を守り切れるかというふうに問われれば、大半の国民が不安に陥っているのが現状ではないかというふうに思います。
 今、国会では有事に関する立法が検討され、参議院でも何日か先にこれが通過するというふうな新聞報道があります。私は、国の安全保障については、国の在り方を含めて日本国憲法の中でどのように考えるべきか議論をまずは深めるべきことが先決であるというふうに考えます。憲法の中に明記すべきものは明記し、しかる後に、法令にゆだねるべきものはゆだね、法律として立法の処置を取るということが適切な手順ではないかというふうに考えます。
 すなわち、私は、日本国憲法に国家緊急権の規定を明確に置き、憲法の規定の下に有事に関する立法をなすべきものというふうに考えます。なぜなら、国民の基本的人権を一時期にせよ制約せざるを得ない国家の緊急時についての立法を、たとえ国会であろうと憲法の規定なしに行うことは不適切であるというふうに考えるからであります。
 さらに、もしこれからの平和や安全保障を本質のところで考えるならば、国家の安全保障を補うものとして日本国憲法の前文に人間の安全保障、ヒューマンセキュリティーの促進を明記すべきものというふうに考えます。これからの半世紀、日本国が国際社会になすべき貢献というのは、一人一人がどのような状況であっても人間として生き抜く力を身に付けること、エンパワーメントというふうに言うそうですけれども、このエンパワーメントを人間の安全保障という観点から支援することが大事であるというふうに考えるからであります。
 本年の五月一日に、緒方貞子氏、それからアマルティア・セン両氏が共同議長になられ、日本国政府の強力なイニシアチブの下に人間の安全保障委員会が最終報告書を出されました。故小渕首相の遺志も相当受け継いでいるというふうにお聞きし、私も国連大学の方で小渕元首相の演説を聞いて非常に感銘を受けた覚えがあります。その最終報告書が国連に、国際連合に提出をされました。
 人間の安全保障という見地から人々を守り、人々に力を付けること、プロテクティング・アンド・エンパワーリング・ピープルという、人々を守り、人々に力を付けるということを日本国の国是とし、憲法前文に明記することを提言したいというふうに思います。
 前文というのは、日本の個性、日本の国際的秩序、日本の個性を生かしながら世界の国際的秩序構築に向けた主体性を持った新しいものにしなければいけないと思います。国際的な平和構築の主体的な参画者となるべき信念に基づく考え方が必要だというふうに思います。私は、日本国が今一生懸命に人間の安全保障ということを外交の基本政策の一つとして取っているのであれば、是非これを入れていただきたいというふうに思います。
 私は、過去半世紀、日本国憲法が日本の平和と安全に果たした役割を高く評価するものであります。しかし、近隣諸国の軍備拡張という現実や日本国に宣戦布告に近い主権侵害行為を継続する国家の存在を目の当たりにすると、これからの半世紀、現在の日本国憲法で日本国の平和と安全保障が保障できるのかと極めて疑問に感ずる今日このごろであります。
 五月の三日の日に「二十一世紀の日本と憲法」有識者懇談会、通称民間憲法臨調が開かれ、そこで北朝鮮から拉致をされた家族の代表であられる蓮池さんのお兄さんのお話を聞き、日本国民の一人として深く考えさせられました。この公聴会に出させていただいたのも、そこで蓮池さんのお兄さんのお話を聞いて、何か私もしなければというふうな思いをして出させていただいた次第であります。
 是非、これからの半世紀の使用に堪えられるだけの国の基本法を目指し、日本国憲法の全面的改正を提言したいというふうに思います。
 ただし、憲法改正のための国民投票法等の手続法が不備なために、実際には憲法改正は不可能となっています。日本国憲法に改正条項が存在するのに、改正のための手続法の整備を怠ることは、たとえどのような理由があろうと、憲法尊重義務に反し、憲法秩序に反するものというふうに私は考えます。立法の不作為というふうに言っても言い過ぎではないと思います。これは、公正さ、フェアネスに欠けるものであります。是非、国会においては、憲法改正手続法制を早急に整備し、憲法秩序を整合性あるものにしていただきたいというふうに思います。
 憲法の担い手は、選挙で選ばれた議員の皆様だけではなく、日本国民の一人一人であるというふうに考えます。
 これからの半世紀のあるべき姿、国民の生命、財産、生活を守るための平和と安全保障のあるべき姿を、国際社会の現状を直視しながら、是非直視してください、直視しながら、本音で議論をし、国の基本法である憲法秩序を考え、憲法においてこそ国家戦略的思考を持って改めるべきことは改めることが重要であるというふうに考えます。
 インターネットのホームページを私も活用させていただきまして、この憲法調査会の公聴会を知りました。このように、インターネットのホームページを活用して、国や地方の議会や、国や地方の行政での意思決定過程の情報を開示し、国民からの意見を聞く仕組みを作り上げ、民主政治を促進することを私はe―デモクラシーというふうに呼びたいというふうに思います。
 この参議院で、憲法調査会、このように開かれ、また衆議院の憲法調査会が開かれ、その議事録や提出資料がインターネットのホームページで次々に公開されていることも、国の基本法である日本国憲法の再検討過程、再検討プロセスの透明性を増し、国民への説明責任、アカウンタビリティーを果たす上で意義深く、e―デモクラシーの推進に役立っているというふうに思います。
 野沢太三憲法調査会会長様、それからここにいらっしゃる委員の皆様始め、熱心に御議論なさっていることはよく分かります。事務局の皆様の御努力に対して、国民の一人として心からお礼を申し上げます。
 私は、一九九八年に世界銀行のセミナーがありまして、たまたま私は公共部門の民営化の勉強をしに行ったんですけれども、その手前でたまたまNATOの、北大西洋条約機構の五十周年を控えてセミナーがありまして、そこに参加しました。バージニア州のノーフォークで開かれた、オールド・ドミニオン大学で開かれたセミナーに参加しましたら、そこに数多くのNATO軍の最高司令官とかNATOの参加者、NATO参加各国の責任者がいらっしゃいました。これからどのように安全保障について考えるか、熱心に議論をしていました。
 日本人が行ったのは私と通信関係者の方一人だったんですけれども、そこで言われたことは、北朝鮮からミサイルが飛んできたのに、なぜ日本の人々は静かにしているのか、何十人もの方が質問を受けに来ました。非常に衝撃を受けました。
 日本の国内では歴史学者とか政治学者の方々が随分いらっしゃいますけれども、戦争の歴史の研究、それから現在の軍備状況を踏まえて戦争の抑止のための研究ということをなさっている方が余りにも少ないというふうに思います。是非、これからは日本の学者の方も、それから一般市民の方も、自衛隊やアメリカ軍の視察やセミナーにもっと参加をし、実情を踏まえた議論をする必要があるというふうに思います。
 それから、中国軍や韓国軍、北朝鮮軍ともどんどん交流を深めて、現実を踏まえた上でどうしたらいいか、お互いの国にとっての平和が達成できるのかについて考えることが日本にとって大事であるというふうに思います。戦争は猜疑心から生まれます。どんな国も戦争を望む国はありません。率直にお互いの立場を話し合い、認め合うことが大事だというふうに思います。
 私は、国際連合教育科学文化機構、ユネスコというのがありますけれども、たまたま民間企業でもユネスコ協会ができるということで、開倫ユネスコ協会というふうなものを設立させていただきまして、その会長を務めるものでありますけれども、子供たち、それから地域の方々と一緒に、どうやったら人間の安全保障というふうなものが促進できるかということを一生懸命考えて、この六月の十七日にも人間の安全保障を考えるという、そういうふうな勉強をさしていただきたいというふうに思っています。市民の一員ですけれども、こんなことを皆さんとともに考えていきたいというふうに思っています。
 それから、国の安全保障についてはどんなふうにだれが考えるかについてですけれども、是非、参議院の先生方は、お願いしたいのは、皆さんは国の、これから日本国憲法を考える上での憲法制定権者の中で一番大事な方々であります。ですから、是非御自由に議論をしていただいて、これからの日本の五十年後、百年後を考えていただいて、どうしたらいいか、日本国の安全保障をどうしたらいいか、根本のところから考えていただければ有り難いと思います。是非、御熱心な議論をしていただくことによって、日本国国民の信託にこたえていただければ有り難いと思います。
 大変僣越な話をさしていただきましたけれども、私も社団法人の経済同友会の憲法問題調査会というところで一生懸命、日本国憲法をどうするか、それから日本の国のありようをどうするか、仲間たちと、仲間の経営者の方たちと一生懸命考えていますので、どうか皆さんも国の代表として熱心に御議論していただくことを期待いたしまして、ごあいさつとさしていただきます。
 どうもありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、藤井公述人お願いいたします。藤井公述人。
○公述人(藤井富美子君) おはようございます。私は、五歳と三歳の子供がいる主婦で、藤井と申します。子供を持つ立場から今回お話しさせていただきたいと思います。
 このたびは公述する機会を与えていただいてどうもありがとうございます。では、早速ですけれども私見を述べさせていただきたいと思います。
 憲法、日本国憲法と今次有事法制の意味するものを考えてみますと、憲法制定時は日本が侵略国家であったのであり、周りは善であるという前提で作られているように思います。ですから、敵はいないんだと、作らないんだということで今までやってきたように思います。今回、有事法制が成立する見通しみたいですけれども、これは、今までならば超法規的に政治家が戦争を選択できないシステムであったものが、政治家が戦争を決断できる体制になることを意味しているというふうに思います。私は、憲法九条は、自衛も含めてあらゆる戦争を否定してきたと、否定しているというふうに解釈してきました。戦争を政治決断できなかった今までは、自衛の範囲まで事細かに定義する必要もなかったかもしれません。しかし、あらゆる戦争が自衛の目的で行われてきたことを考えるとき、戦争をできる国になろうとしている日本にとって、現実問題として自衛の定義付けは極めて重要な意味を持っていると思います。
 先日、新聞を見ますと、ミサイル攻撃を受ける場合を想定し、自衛隊が敵基地攻撃能力を持つことを検討に値すると石破防衛庁長官が国会で答弁したようですけれども、これは果たして自衛なのかということが問われるべきだと思います。
 現代は国家の安全保障の時代から個の人間の安全保障が重要視される時代になったとの認識を私は持っております。私たち人間は国家を選んで生まれてくることはできません。生まれてきたところに国家があったのであって、国家があったから我々が生まれてきたわけではないわけです。とすると、生物として生きるために生まれてきたわけですから、その生きる権利はだれにも侵されてはならないものであって、たとえそれが敵対国の人間だから殺していいということで、向こうの人間、例えば小さな子供を殺すというようなことは絶対に許されないというふうに考えます。
 現在、交戦時の条件として、意図せざる非戦闘員の殺傷が許容されているようですけれども、しかしながら、人間の安全保障が叫ばれる現在、これはもはや許されないというふうに考えます。攻めてこられたらそれをはね返すというのは正当な防衛権であると、これは当然の正当防衛権であるというふうに考えます。しかしながら、これが本当に正当であるためには、民間人を巻き込む誤爆というものは絶対に許されてはならないと思います。
 ですから、今この九条を、二項を削除するという案が出ているようですけれども、私は憲法を改正する、その部分で改正する必要はないとは思っていますけれども、もし二項を削除して自衛戦争が認められるというふうな解釈でいくならば、相手国領土に反撃しない範囲の自衛に限定すべきであるということを憲法に明記すべきだと思います。
 自衛権に関連することですけれども、自民党の憲法改正素案というのを新聞で見さしてもらいましたけれども、これは国民に国家防衛義務を課すということですけれども、これは国家は間違ったことをしないという前提に立っているように思います。間違ったことをしているか否かは各個人が判断すべきで、国家防衛義務によって、国家に不都合な情報が流されなくなるようなメディア統制や、個人の知る権利や思想や良心の自由を侵す危険が生じてくるので、私は反対です。
 民主主義社会とはいえ、政治に反映されない意見を持つ少数派にまで、戦争という生死を懸けた場面で、国家が国民一人一人に国家防衛に命を懸けなさいと言う権利はないと思います。どのように生き残りを懸けるかは最終的に各個人にゆだねられるべきものであって、強制すべきものではありません。ただし、本当に正しいことをしていれば、国民は義務など課されなくても政府を支持するはずです。
 集団的自衛権についてですけれども、現在の日米同盟は、日本は個別的自衛権、そして米国は集団的自衛権ということになっています。これは不平等だと。日本にとっては、アメリカに守ってもらっていて、日本はアメリカを守らない、何か悪いことをしているような負い目があるということで、同盟を確固としたものにするために集団的自衛権を行使すべきだという声があります。
 しかしながら、米国は予防的先制攻撃を是とする国になっています、今。その国と集団的自衛をするということは、米国と同様の立場を取ることを意味しています。私たち国民の命も危険にさらすということになるわけです。国民を守るための安保が、国民の命を危険にさらすという本末転倒になるわけです。国防方針を異にする国との集団的自衛権は認められないと解するのが妥当であると思います。
 その代わりに、極東アジア地域安全保障機構というようなものを創設して、この地域の安全保障をアジアの国々で定期的に協議する場を設けて、日本の安全保障が米国一国に左右されることがないようにしながら独自外交を持つようにしていけばいいというふうに思います。
 世界の集団安全保障についてですけれども、現在の世界の状況を見ますと、国家間の対立に対して国際社会は必ず戦争を回避できるシステムを持っていません。つまり、国連は必ず助けてくれるわけではないわけです。最後は軍事力の強大な者が勝利を収めて発言力を強めるというふうになっているわけで、今回、超大国米国の独走に歯止めを掛けれず、イラク戦争を止められなかったことがそのことを物語っていると思います。これでは自国を防衛するために軍拡を進める国は後を絶たないだろうと思います。
 こういった状況の下、日本も大国なんだから平和創造に尽力すべきであり、自衛隊の派遣は国際スタンダードに合わせるべきだという声があります。しかし、その前にちょっと考えてほしいわけです。この場合の平和創造は、現在の段階で米国の世界支配にくみすることを意味すると思うんです。それに対して日本も協力していくんだということになりますと、日本国民に対するテロの危険性も増してくると思われます。
 そもそも自衛と平和創造というのは、自分を、自分の身を守るという点から見れば対極に立つものだと思います。自衛というのは、命を保つため、守るために行うわけであって、戦争にならなければ最善である。ところが、平和創造というのは、自らの命をわざわざ危険にさらしに行って平和を作っていくという作業をするわけです。この場合、戦争に加担する可能性も出てくるわけです。そうすると、この国防というものと平和創造というものを両立させるためには、平和創造に国益とか国籍とか、そういったものを持ち込まないことが大事だと思います。
 ですから、今の、現在の世界の状況に合わせるというだけではなくて、日本は世界に積極的に提案をしていくべきであると考えます。
 国連憲章五十一条が有効に機能し、安保理が国際の平和及び安全の維持に必要な措置を必ず取ることができるように、自衛の範囲を、先ほど私が言ったような、他国の領土内に攻撃しない、反撃しないという範囲で明確に定義していくこと。そして、その自衛を超えた武力攻撃事態に対しては、国益を代表しない国際警察軍というようなものが必ず派遣され、各国の独立と安全を守るというようなシステムを作ることによって、国連は必ず助けてくれるんだ、じゃ自分たちの軍備はそんなに必要ないなということで、軍備は縮小に向かうだろうと思うんです。一応この国際警察軍というのは、元首相であった石橋湛山氏が昭和四十三年に「日本防衛論」という論文で述べておられるのをちょっと拝借したわけですけれども、こういった国際警察軍というようなものができれば、それは日米安全保障条約十条にもかなうことだと思います。
 安保条約十条には、この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本政府及びアメリカ合衆国政府が認めるときまで効力を有するというふうにあります。友好国でもあり同盟国でもある米国とともに、各国が同意できる国際ルール作りに取り組んではどうかというふうに思います。
 国益を代表しない国際警察軍ができれば、米国は超大国として世界ににらみを利かすことはできなくなりますけれども、浮き立たない分、米国もテロの危険性が低くなるという利益を得ることになります。
 最後にちょっとまとめたいんですけれども、憲法九条は、戦争では国際紛争解決しない、有事を想定しないことで、話合いによってのみ国家間の問題を解決する方途を示し、戦後五十有余年、私たち国民を戦争から守ってきました。残念ながら、有事が想定される時代に入ってきました。有事を想定し、国民を守るというふうに言うのならば、国民全員分の核シェルターの建設であるとか、危険な原発を廃棄して新しい発電手段を構築するとか、迎撃ミサイルの配備など、いろいろ求められますが、そんな財政的余裕はないでしょうし、北朝鮮問題には間に合っていません。では、敵基地攻撃を、攻撃すればいいんだという理論が出てくるわけですけれども、誤爆のない攻撃なんてあり得ないことを思えば、正当防衛とも思えません。
 私は、この九条が古いとか、理想であって現実的でないとか、そういうふうには思いません。これは将来の世界のあるべき姿を示していると思います。
 私は、現在の超大国アメリカの世界の警察的な行動を否定するものではありません。現在、世界平和のための警察があるわけではないので、世界に平和を築こうとしている米国の行動は一定の評価がなされてよいと思います。しかし、米国自身の財政負担と兵士の命を懸けて行うこの警察的行動は米国自身の国益に沿ってなされるがために、必ずしも世界に正当性を示すものにはなっていません。そこに米国に対するテロが生じる遠因があるのであって、国際社会はいよいよ米国の世界警察による世界の安定というものから、もっと公正な組織による警察的行動を構築していかなければならないと思います。
 以上です。ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 以上で公述人の方々の御意見の陳述は終わりました。
 速記を止めてください。
   〔速記中止〕
○会長(野沢太三君) 速記を起こしてください。
 これより公述人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 福島啓史郎君。
○福島啓史郎君 まず、大井公述人にお聞きしたいと思います。
 今回のいわゆる有事法と言われます武力攻撃等の事態に対処した国の安全確保、国民と国の安全を確保する法案でございますが、その中では国防、国を守る手段として三つの方策を定義しているわけでございます。一つは、要するに自衛隊によります武力でもって武力を排除する、終結させると、武力攻撃事態等を終結させるということ、それから二番目は日米安保条約に基づきます米軍との、米軍の行動でもって排除するということ、それに対する支援措置を講ずるということ、三番目には外交措置という、三つの手段を組み合わせることによって武力攻撃事態等を早期に終結させるというのがこの今回の法案の国の武力攻撃事態、つまり国防の基本的な手段として位置付けているわけでございます。
 それで、そうした考え方につきまして、その三つの手段でもって我が国の安全、国の安全を守っていこうという考え方を法案では意図しているわけでございますが、それについての大井公述人の考え方をお聞かせください。
○公述人(大井赤亥君) 今議論になっている有事法制の件ですけれども、例えば国家のいわゆる緊急時に自衛隊あるいは警察が超法規的に行動するということは望ましくないことだと思います。
 ただ、ほかの公述人の方の発言もありましたけれども、例えば、じゃ、有事法制が今までなかったわけですよね。つまり、そういう場合の法制がなかったわけですけれども、でも客観的な事実として、そういう法制がなかったこの五十年間は少なくとも日本が戦争に巻き込まれることはなかったという事実が一つあります。そこについてもしっかり評価される必要があるだろうと思っています。もちろん、北朝鮮のことがあるので脅威は、まあメディアの問題もあると思いますけれども、それが有事法制が必要だという議論に追い風になっているかと思いますけれども、ただ、冷戦のときだってそれは脅威、潜在的な脅威というのはたくさんあったわけで、ただ、その時代でも有事法制がない五十年間は日本は戦争に巻き込まれることはなかったということは一つ評価される必要があると思います。
 やっぱり、今おっしゃられたアメリカの支援や自衛隊の活動を定める法制ですけれども、今、国会で議論されている有事法制に関して言えば、例えばイラク戦争におけるアメリカのあの行動を見ても、これから北朝鮮とか台湾のことに関して、この有事法制を通すということは、やはり日本は戦争に巻き込まれる可能性というのは有事法制がない五十年間に比べれば高くなるという危惧を私自身は持っています。
○福島啓史郎君 私が申し上げたのは、今回の有事法でもって、有事法制でもって三つの方策によって国を守っていこうということを決めているわけじゃないんです。今までそうやってやってきた措置を更に円滑にしていこうということなんですね。公述人も、大井公述人に対する質問なんですが、も言われましたように、正に五十年以上にわたって日本の国に対します武力攻撃事態等がなかったということは、正にそうした三つの方策によって国が守られてきたということを意味するんじゃないかと思うわけでございます。
 それじゃ、その次に、二番目の質問を大井公述人にしたいわけでございますけれども、公述人は東アジアにおきます多国間の平和条項、これは平和・経済機構の創設に向けた外交努力が必要だというふうに述べておられます。私もこうしたものが望ましいと思っております。それで、現実的な対応としましては、まず経済的な諸国間の取決めをやっていこうと。基本的にはFTAという形でもって東アジアに今広げていこうと。御案内のように、FTAといいますのは、各国ともいろんなセンシティブな品目につきまして現実的な対応をしながら、できる範囲でもって貿易を、関税等をゼロにしていこうということなわけでございます。そのことによって貿易を促進しようということでございます。その上に立って、信頼醸成のための軍事当局による話合い等を積み重ねることによって東アジアの経済あるいは安全保障機構というのができていくんだろうと思います。
 そうした努力をしていかなけりゃならないと思うんですが、そのことと日米安保条約が矛盾するということを言っておられるようでございますけれども、私は、そういうことはない、むしろ、先ほど申しましたように、日本の安全を守る三つの方策を維持しながら、そうした東アジアの経済、安全保障機構を作っていくという考え方は矛盾しないと思うんですが、その点についてはいかがですか。
○公述人(大井赤亥君) 日米安保と矛盾するという、はっきり矛盾するというふうには思っていません。
 ただ、というのは、例えば韓国や中国などにも、日本が日米安保を維持して、日本の独自の軍事力、また軍事大国化するという懸念があるということは承知しています。ですから、日米安保が一部そういう不安を取り除くということで果たしている役割は現実的にはあるかと思います。
 ただ、同時に、その日米安保を結ぶということが、じゃ、例えば北朝鮮の問題に関して、今、日本と韓国の連携が非常に重要だと思っています。というのは、アジアの当事者で戦争が起きれば多大な被害を受けるのは韓国のみならず、日本も受けるわけですから、この日本と韓国。それから、今政治のレベルのみならず、若者とか民間の、韓国に私自身も友だちが何人かいますけれども、そういうレベルでつながりもできているわけで、日本と韓国の連携はすごい重要だと思っています。
 ですから、日米安保を結んでアメリカの軍事力によって極東地域をすべて……
○福島啓史郎君 済みません、ちょっと簡単にしてください。
○公述人(大井赤亥君) はい。まとめるということが、日本の主体的な努力をなしに済ませているという現実があるということを指摘したわけです。
○福島啓史郎君 次に、北川公述人にお聞きしたいわけでございますが、公述人は、国際社会における平和主義の歴史を振り返られて、第一次世界大戦後の不戦条約等の戦争の違法化等が進められたと。しかしながら、歴史を振り返ってみますと、間もなく、そうした動きから十年少しの間に、たつかたたないかの間に第二次世界大戦というのが勃発したわけでございます。そのことをどういうふうに考えておられるかということと、やはり自衛権、その内容として、武力を持たなければ、例えば戦後にもありましたですね、ソ連によりますハンガリー動乱あるいはプラハの春といったような事態をどうやって防ぐのか、その点についても併せてお聞きをしたいと思います。
 なぜ第二次世界大戦が起きたということと、そうしたソ連の侵入等の事態をどうやって排除するかということでございます。
○公述人(北川善英君) まず、前者の点ですが、国際連盟の問題も、そして国際連合の問題、やはり基本的なポイントは、大国を規制する具体的な方策が、実は大国の不参加、これは国際連盟の場合です、国際連合の場合には大国のみに拒否権を与えている安全保障理事会、こういったところにあるのであって、一般的にとにかくいいことは言っていたけれども駄目だったというとらえ方はできないと思います。それが第一点です。
 もう一点は、武力による平和ということなんですが、ハンガリー動乱、これは非常に特殊なケースですね。すなわち、ソビエトにとっては勢力圏であり、ハンガリーの、当時社会主義国であったわけですが、その場合、どういう経緯で社会主義国になったか、これは明らかにソビエトの衛星国としてなったという側面があります。その問題と、もう少し一般的に日本が武力ないままに平和を維持できるかという問題はやはり区別した方がよろしいかと思います。
 私が強調したのは、日本という地政学的な位置あるいは現実の東アジアの在り方、こういった点から見ますと、日本が武力を持って平和を維持するというときには、藤井公述人がいみじくもおっしゃったように、核ミサイル防衛しかないということなんですね。じゃ、核ミサイル防衛が本当に市民の安全を保障するか。
 核ミサイル防衛というのは、これは単純明快です。確実なミサイルを、相手方の弾道ミサイルを発射直後の空域に爆発させる。すなわち核爆発を起こさせ、そこに敵方の弾道ミサイルを突入させて蒸発する、これしか現時点では技術的には不可能であるわけですね。ところが、問題は偏西風が吹いております。偏西風に乗って死の灰はすべて日本列島に舞い降りるわけですね。しかも、それだけの問題ではなく、日本が核武装をすれば、周りの国はどうなのかということです。
 このように考えていきますと、実は最も非現実的であるような武力なき平和、あるいはそのための様々な努力が、実は最も現実的かつ有効ではないかというふうに私は考えております。
○福島啓史郎君 今回の有事法制、今参議院で審議しているわけでございますが、衆議院では九割を超える議員の賛成を得たと。
 私は、民主主義といいますのは、国民が議員を選ぶ、その議員が国会という場を通じて意思決定をしていく、その仕組みは世界の人間の歴史の中で達成された私は最善のシステムだと思います。そのシステムの下に我々は、自衛隊の運用にいたしましても、この民主主義に基づきますシビリアンコントロールでもって運用していく、運営していく、これもまた人類の英知だと思うわけでございます。
 そうした観点に立ったときに、北川公述人にお聞きしたいわけでございますが、なおかつ民主主義というものを、先ほどのソ連のハンガリー、あるいはハンガリー侵入、あるいはプラハの春と違うと言われましたけれども、そうした事態に市民が抵抗しても、それを排除していったわけでございますね、ソ連は。したがって、そうしたときに、それを排除する自衛権の代用としての武力を持つことは私は当然のことだと思いますが、そうした民主主義、シビリアンコントロール、それに基づく軍事力の行使、これについてはどういうふうにお考えですか。
○公述人(北川善英君) 私たち憲法学者の作る学会のここ数年のテーマは、民主主義と立憲主義というテーマを掲げています。それはどういうことかといいますと、簡単に申し上げますと、民主主義は過ちを犯すこともあり得るという前提に立っております。
 その根拠は極めて単純明快です。人間は神ではありませんから、幾ら多数決であっても、九割の人間で間違うことは十分あり得るわけです。民主主義というのは、近代の民主主義はそういうことを想定しまして、一方では三権分立というシステムを導入しております。他方で、近代の当初は、一人一人の個人の抵抗権という権利を宣言しておりました。それは、現代の憲法の下では表現の自由あるいは参政権、いろんな形で具体化されております。
 したがって、第一点の民主主義、すなわち九割の賛成で通したというふうにおっしゃいますが、しかしそのことからしますと、実はアメリカは九割以上の、ほとんど九十何%の支持でこの間のイラク攻撃あるいはアフガニスタンの空爆というのを通していますが、しかしヨーロッパ諸国を、代表的であるわけですが、中近東あるいはアフリカ諸国からも多くの反対が出ております。このことは決して九割以上で賛成したから常に正しいということは言えないということを示していると思います。
 以上です。
○福島啓史郎君 私は、司法的な審査、あるいは個人の権利をそういう表現の自由によって表明するのは構わないと、もちろんそれは権利でございますから。ただ、民主主義というのはそういったものによって国家として意思決定をしていくんだということは、私はそれを否定しますと国家として成り立たなくなるというふうに思っております。
 次に、林公述人にお聞きしたいわけでございますが、公述人は日本国憲法の中に人間の安全保障を明記すべきだというふうに言っておられます。このことは個別の、憲法の個別条文におきまして現在基本的人権というのが規定されているわけでございますが、それでは不十分だということなのか。したがって、その個別条文をこういう形でこういうものを設けるべきだという特別なお考えを持っておられるかどうか、お聞きしたいと思います。
○公述人(林明夫君) 福島議員には、質問をしていただいてありがとうございますと感謝申し上げます。
 日本国憲法の本文に規定してあるのは、日本国国民に対する国内における恐らく憲法の規定だと思うんですね、人権に関する。私がここで言っているのは、もちろん日本国民に対する人間の安全保障ももちろん大事だと思います。それはそれで徹底してやっていただきたいと思うんですけれども、ただ、国際貢献としての人間の安全保障、それから国際社会における日本の役割というのがありますけれども、これから果たすべき役割というのは、一人一人の人々に注目をしていただいて、その一人一人の人たちが、特に紛争前ですね、紛争前、特に女性の権利であるとか、それから貧困の絶滅であるとか、そういうことで戦争の原因になる、紛争の原因になるものを除去していただきたいと。それから、戦争の途中、紛争の途中、それから紛争の後、そういうプロセスに応じて、紛争のプロセスに応じて一人一人の個人に注目をしていただいて、力を付けていただくような、そういうふうな形で考えております。
 ですから、できれば憲法の前文が一番私はいいと思うんです、規定していただくんであれば、考えるのなら。ですから、先生おっしゃるのは、日本国民に対する文章が恐らく憲法の条文の本文の中であると思うんです。ですから、それはそれでまた日本国民に対する人間の安全保障をそこでやっていただきたいと、そういうことであります。よろしくお願いいたします。
○福島啓史郎君 林公述人の言われました点、十分考えていかなきゃいけない点だと思います。ただ、それと同時に、日本国憲法を、正に公述人も言われました、国の基本法を目指して、半世紀あるいは一世紀、更なる使用に堪えられるような基本法というものを作っていかなきゃいけない。そのために、自由民主党といたしましては憲法改正手続法制の検討をしております。既に法案という形でもまとまっておりますので、是非この手続法の制定を各派との話合いを経まして成立させていきたいというふうに思っております。
 ちょっと時間の関係で、次に藤井公述人にお聞きしたいと思います。
 藤井公述人は国連の役割を非常に高く評価されておられます。私も国連の役割は重要だと思うわけでございますが、その国連憲章の中で、現在、敵国条項があるというのを御存じでしょうか。
○公述人(藤井富美子君) はい。
○福島啓史郎君 それについてはどういうふうにお考えでしょうか。
○公述人(藤井富美子君) それは撤廃していく方がいいと思います。撤廃していく方がいいと思います。
○福島啓史郎君 要するに、国連憲章といいますのは、そうした時代的背景の下に生まれたということだと思います。それで、日本としましても、この五十三条の敵国条項はできるだけ早く撤廃、廃止をすべく国際社会に働き掛けていかなければならないと思っているわけでございますが、その関係で、公述人は国際警察軍というのを主張しておられます。石橋湛山元首相の言を引用されながら国際警察軍について言及されておりますが、これと、現在の国連憲章四十二条に基づきます、安全保障理事会によります武力行使との違いはどういうふうに考えておられますか。
○公述人(藤井富美子君) 安全保障理事会で行う国連軍というのは、結局安全保障理事会のメンバー、特に拒否権を持つ五大国の国益に沿わなければ、例えばこれは武力行使、武力行使というか、割って入らなあかんと思うところでも、まあまあまあという感じで、結局そこに仲介しに行かない可能性もあるということです。今のシステムのままであれば大国の利害で左右されるから、そうではなくて、もっと国際的にきちっとした、こういう場合には必ず部隊を派遣しますということをルールとして、それで、それに基づいた派遣がされるようにすべきであるという考え方です、私は。
○福島啓史郎君 しかし、国際警察軍というのは、仮に生まれたとしても、何らかの意思決定はしていかなきゃいけないと思うんですね。多分それを構成する国際警察軍も各国から派遣される、供出されるということになると思うんですが、その点はどういうふうに考えておられますか。
○公述人(藤井富美子君) 具体的な過程というのは各国で、それこそ国連の場できっちり話し合っていただきたいとは思うんですけれども、ただ、私が言いたいのは、そういうシステムを構築しない限りは、例えば今北朝鮮と日本との関係が不安定で、日本には例えばアメリカが、それから北朝鮮には中国が付くか分かりませんけれども、例えば大国中国が付くとして考えて、例えば戦争になったとした場合に、これはどっちが正しい間違いというのがなく、単なるけんかになるわけですよ。
 それが、例えば日本と北朝鮮が例えばもめて戦争になるというような事態に、どっちが手を出したというようなことをきちっと判断する場、例えば北朝鮮は先に手を出していないとかいう場合であれば北朝鮮側に国連のそういう国際警察軍みたいなんが付いて守ってやると、日本が悪くないんであれば日本の方にそれが付くというような公正な立場のものが必要じゃないかと。それは今国際社会には存在し得ないものだというふうな解釈なんです。
○福島啓史郎君 国際社会の中で……
○会長(野沢太三君) 福島啓史郎君、時間来ています。
○福島啓史郎君 はい。これを最後にします。
 ないものを前提に考えるわけにはいけない。したがって、今の仕組み、あるいは今あるものをできるだけ改善をしていく方向で日本の国の安全を確保する、そうした観点から、私は今回の有事立法は非常に意味あるものというふうに考えております。それを申し述べまして、私の質問を終わります。
○会長(野沢太三君) 江田五月君。
○江田五月君 四人の公述人の皆さん、今日は本当にありがとうございました。
 いや、本当に大変レベルの高い話、皆さんそれぞれ聞かせていただいて、感銘を受けて、非常に面白かったですね。しかも四人とも、いろんな違いはもちろんありますけれども、それぞれ個性があって、そして大体同じ方向を向いておると。午後はちょっとトーンの違う人も来るようですけれども、午前中は本当に皆同じ方向を向いていらっしゃるというんで、国民の意見の大きな方向を示しておるのかなという感じがしました。
 それと同時に、人の意見というのはよく聞いてみないと分からないと。藤井公述人が、憲法作ったときは日本だけが悪くてほかは全部善だと思っていたら、案外世界はそうでもなかったと、こう話を始められて、そこで、これは日本のオオカミの群の中における安全の保持のためにという議論に行くのかとちょっと思ったら、そうじゃなくて、本当に国際社会の共同の対処ということを非常に重視されると。面白かったです。
 四人に共通しているのは、まず、恐らく共通していると私は判断したんですが、個人の尊重が一番大切だと。これも藤井参考人の言葉によると、生まれてきたらこの国だったんで、国家があったから生まれたんじゃないというのは、本当にそのとおりですね。そして同時に、主権というものの相対性、相対化。主権というものが絶対的なものからだんだん相対化していく。同時に、それとの兼ね合いで国際社会というのが非常に重要になってくる。その国際社会をしっかりしたものに作り上げていくために日本はやっぱり果たさなきゃならぬと。大体そのような共通項があったと思うんで、これは私も大賛成で、その点についていろいろ議論をするということはもう大賛成ですから、みんな意見同じですからやめます。
 そこで、まず大井公述人に伺いますが、大井公述人の御意見ずっと伺っていて非常に面白いと思ったのは、これは御自身でお気付きになっているかどうか、プロセスというのを重視される、プロセスに大変な意味を置かれるというところがあると。
 例えば、アジア太平洋に一つの共通の国際秩序の機構を作っていこうと。そういう議論をすることがその地域の安全に寄与するんだということを言われましたね。あるいはまた、今度のイラクの戦争前の国連の議論についても、その議論の中で戦争の予防化というのがますますみんなの共通の認識になっていったんだというようなことをおっしゃったんですが、このプロセスの重視ということについて、もうちょっとそのことをとらえてお話ししていただけることがあれば、話してみてください。
○公述人(大井赤亥君) じゃ、簡単に二つだけお話ししたいと思います。いずれもすごい抽象的で、ちょっと学生にしては生意気なんですが、御容赦ください。
 一つは、プロセスのことなんですけれども、東アジアの問題でいえば、藤井公述人もそのようなことを少しおっしゃっていたと思いますけれども、つまり対話のチャンネルがないと相互不信が続くということですね。北朝鮮に対して今メディアの状況は非常に危惧していますけれども、それは、北朝鮮に対する正確な情報なり、あるいは政治の場でも民間の場でも対話のチャンネルがないからだというふうに思っています。
 ですから、民主主義もそうだし、信頼を作っていくという作業も、実際していく中で作っていくわけですよね。ですから、民主主義だってそうだと思うんです。うちの国はまだそういう素地もないし、情報も経済発展も低いし、国土も広いから民主主義はまだ早いんですというような理由で民主主義を受け入れていない国もありますけれども、そうじゃなくて、実際そういう中でもちゃんとそういうふうに踏み出していく、その中で育っていくものだと思うし、国際関係もそうだと思っています。ですから、対話をしていくそのプロセスの中で本当の目的が達成できるんじゃないかというふうに思っています。
 それからもう一つは、国連の場でのプロセスの重視ですけれども、これは、国際連合という、国連の場でそういう法規に基づいた組織が曲がりなりにもあるわけですから、そういう力の既成事実じゃなくて、法なり、そういう人間の法規がちゃんと支配しているんだ、そういうことを対外的には建前の上だけでもしっかり示すということは、今後の可能性ということでもすごい重要だと思っています。
○江田五月君 もう少し大井さんに伺いますが、国連の下での軍事行動が行われると、今はなかなか国連での軍事行動となっていないんですが、これから国連改革が進んで国連での軍事行動が行われるというシステムまで到達した場合に、日本はこれに参加をすべきか参加すべきでないのか、この点は大井さんはどうお考えになります。
○公述人(大井赤亥君) 難しい問題だと思いますけれども、だけれども、問い詰めて考えなきゃいけない問題だと思っています。
 一つは、国連の場でちゃんと、レジュメにも書きましたけれども、プロセスとしても正当性を持って、かつ、例えば一国の主権の中で多大な人権侵害が行われているとか、あるいは無法な国際的な侵略があった場合に、妥当若しくは正当、どうしても必要だという軍事行動がある場合はあるかもしれません。私自身としても、例えば一国内の人権侵害だとかあるいは不法な国際侵略に対してはちゃんとした態度を取るべきだと思います。
 ただ、同時に、国連憲章と日本国憲法は非常に類似性があると思いますけれども、これは価値判断になるかと思いますけれども、日本憲法の方が進んでいる点はあると思います。もちろんそれは実効性がないということで批判されるかもしれませんけれども、国連憲章も行く行くは憲法の、日本国憲法の方向に沿って改善の余地もある部分はあると思うので、そこはやはり憲法が普遍性を持っているんだということを国際社会に認知してもらって、その上で日本は非軍事的な、あるいは警察力の派遣とかはいろいろ議論があるところかと思いますけれども、そういうところで活躍していく。それでも十分国際社会の主要な構成員として名誉ある地位を果たせる役割できると思っております。
○江田五月君 そこのところは、最後、もう少し多分詰めた考察が必要なのかなという気がします。
 私自身は、日本国憲法と国連憲章、確かに違いがあるという立場もあるわけですけれども、しかし、むしろ二十一世紀ということで考えてみると、これからの世界全体の秩序、地球憲法を考えてみたらどうだろうかと。それもまあ国連憲章ですよね。その地球憲法と整合性のある各国の憲法ということで、世界の秩序やそれぞれの国の安全保障といったことは考察をしていった方がいいんじゃないか。そういうことから、各国の憲法と世界の憲法の実情とを考えたら、この二つのものは当然整合性を持ってこなきゃならぬし、日本国憲法の場合もそういう形で国連憲章と整合性があるという考え方は成り立ち得ると思っているんですが、時間の方が過ぎていきますので、次に北川公述人に伺います。
 この大多数の人間が普通に生き、生を終える、これは非常にいい言葉で、そうした方向に向けて人類普遍の価値、つまり殺すな殺されるな、これをそれぞれの個人の価値から国の価値へと変えていく、これが日本国憲法であって、これが日本の国の形だということは大変感銘を受ける言葉ですが、しかし、これはもう北川参考人御自身がそうおっしゃりながら恐らくお分かりだと思うんですけれども、現実の世界はなかなかそうではないぞという反論がすぐ出るわけですね。この現実の世界をどう作っていくかというのが実は現実の政治の大課題であると。
 北川公述人は、国連の集団的安全保障体制、これはどういうものができるかにもよりますし、百点満点ができるかどうかはなかなか難しいと思いますが、百点満点のものができたとして、日本はその集団安全保障体制に参加するということについてはどういうふうにお考えですか。
○公述人(北川善英君) 私は、国連中心主義というふうに一般的によく言われるんですが、必ずしも国連そのものを集団安全保障として日本が具体的にどうするかという段階ではまだないと思います。
 それよりも、むしろ日本にとって急務なのは、やはり東アジア地域で、例えば核兵器をなくすという意味での非核地域構想あるいはアジア集団安全保障、そういったものをやはり、先ほどの江田議員あるいは大井公述人からも出ていましたような正にプロセス的な思考ですね、そういう段階を踏まえた、今のところやはり東アジア地域でまず手を付けるべきではないのか。
 その際に、やはり問題になるのは軍事的な形で日本が参加していくのか、非軍事的な形で参加するのか、そういう重要な論点があると思われます。少なくとも、地球規模といいましてもまだ早い、取りあえず共通の文化圏という意味では東アジアでは可能ですから。そうしますと、やはりそこで問題になるのは、戦前の我が国の国家犯罪の問題が浮かび上がってきます。そのような記憶は、日本では忘れたいと思っても、被害を受けた国にとってはなかなかこれは忘れられるものではありません。
 そういった面からも、また最も有効に非核地域構想あるいは集団安全保障構想を実現するには、私はあえて日本は、憲法に書かれているからではなく、我々が現時点では平和的な形でそこに関与するんだという選択を行って、そしてリーダーシップを取るということが実は必要であると同時に最も有効ではないかと思われます。よろしいでしょうか。
○江田五月君 東アジアの集団安全保障体制、東アジアの信頼関係の構築、これを制度化していく、これは大変大切なことで、私もそこから始めなきゃいけないと思います。
 ただ、私が言っているのは、その先に更に地球的といいますか、国際社会全体についての一つの展望というのを持っておいた方が地域的な安全保障体制を構築するときに先が見えて説得力が出てくるのじゃないかということなんですが、分かりました。ありがとうございます。
 林公述人に伺いますが、日本国憲法前文に人間の安全保障の促進を明記すべきだということですが、憲法の前文に書くんだ、教育論と別に憲法の前文に書くんだということをもう少し掘り下げて説明をしていただくとどうなりますか。
○公述人(林明夫君) 日本国憲法の制定過程を少し勉強させていただきますと、やはり前文についてもGHQの影響は相当あったと思うんですね。もしこの際、参議院でも、それから是非議論していただきたいのは、日本国は一体どんなふうな国の形を目指すのか、それから世界に対して、国際社会に対してどのような役割を果たすことを目指すのかということを是非御議論いただきたい。そのときに私の考えでは、恐らくこれから先半世紀、五十年ぐらいの使用に堪え得るのは人間の安全保障というふうな概念ではないかと思います。そういうことで、私は人間の安全保障を前文にというふうな主張をさせていただきました。
 以上です。
○江田五月君 憲法前文というものが持っている法律論的な意味とか、あるいは法律論を超えた国の形としての意味とかという辺りを重視されるということなんだろうと思いますが、分かりました。
 最後に、藤井公述人に伺います。
 本当に大変に魅力的な議論で、もう共感し、ある意味では平伏いたしました。いや、本当に面白かったです。
 そこで、今回のイラク戦争、小泉首相はブッシュ大統領を全面的に支持したわけですが、これをどう思われますか。
○公述人(藤井富美子君) 日米同盟というもの、現実にあるわけで、アメリカ、お友達がそういうことをするのに、あんた、それはあかんやろって、そういうふうにはそうそう言われないと思うんです。ただ、気持ちを聞いて、分かるけどな程度で止めておいてほしかったなというふうに思います。
○江田五月君 そうですよね。支持というと、これはもう、その気持ちは分かるけれどもちょっとなとかいうんじゃなくて、もうそれがいいんだという話ですから、そこはちょっと違うという感じですよね。おまえ、それは間違っているぞというのが本当の友達だと言う人もいるんですけれどもね。
 それで、藤井さんは、私も、集団的自衛権はやばいよというあなたの説明は非常に興味もあるし、共感も呼ぶんですが、しかし一方で、集団安全保障はまた別の、集団的自衛権はまた別の観点からノーだということだと思いますけれども、日本にとってこの日米同盟が、日本は個別的自衛権だと、米国は集団的自衛権だと、これは不平等だとおっしゃるんですが、そして日本の負い目になっているんだとおっしゃるんですが──あ、そうかそうか、ごめんなさい、ちょっと言い換えましょうか。
 今の二つの日米の関係が日本にとって負い目になっていて、不平等で、だから集団的自衛権を行使すべきだという声があるということに対して、あなたは批判をされた。その批判の前提なんですが、日本にとって負い目ということになっているのかどうか、あるいは日本とアメリカと不平等なのかどうか。別に負い目でも何でもないんじゃないか。
 というのは、日本はアメリカに対して膨大な、しかも極めて重要な基地の提供あるいはいろんな経費の負担、これをやっているわけですよね。これほどやっているということが一方であるわけですから、日本は何もただ乗りしているとかなんとかじゃないので、そういうことを考えたら、これはお互い違った性質のものを提供し合っているということであって、てんびんに掛ければちゃんと両方は釣り合っていると。釣り合っているといったって、それはいろいろ多少の違いはあるでしょうけれども、というそういう見方もあると思うんですけれども、藤井さんはどう思われますか。
○公述人(藤井富美子君) 私もそう思います。
 基地の提供とか、もう資金的に随分出しているわけですし、もっと日本は堂々としていいんだろうと思うんですけれども、私、主婦で、テレビから流れてくる感じでいえば、何か日本はちょっとアメリカに対して後ろめたいというか、何かやらなければならないことをやっていないようなニュアンスでニュースからは伝えられてくる気がするんですよ。
 そういう意味で書いているだけで、私自身としては、もっと日本は堂々としていいと思いますし、そういう意味でも集団的自衛権というところまで踏み込んで、全く何もかも対等にいくんだと、お金も軍事も全部対等にいくんだとかいう、極論で言えば、そういうところまで行く必要はないというふうに考えているという点で書いているんですけれども。
○江田五月君 最後に、藤井さんの明快な議論で言うと、ちょっとこれ難しいかな、藤井さんの考える北朝鮮問題解決策というのは何かありますか。
○公述人(藤井富美子君) 簡単に言いますと、日本がなぜ北朝鮮からミサイル攻撃をされる可能性があるかといえば、米軍基地があるからだと思うんです。
 だから、結局、米軍が今のように先制的な自衛攻撃に出るという可能性を秘めていることを非常に北朝鮮は怖がっているわけですよ。それで脅してくるという形になっていると思うので、言ってみたら、今の現段階でいったらもう無理だと思いますけれども、もうアメリカさん出ていってくださいと言って、日本は独自でやっていきますと言えば北朝鮮からはねらわれないけれども、今度はアメリカからねらわれますよね、そういうことになりますと、その辺が難しいなと非常に思うところなんですけれども。
 それで、どうしたらいいかということで言えば、そういうふうにしたら日本は北朝鮮からはねらわれへんようになるだろうけれども、アメリカと敵対するというのはもっと怖いことの話で、結局日本はそういう選択を迫られているような状況ですけれども。
○江田五月君 そうやって議論していればちょっと漫才みたいになるけれども、しかし面白いですよね、こういう議論をしていて、そこから何か結論を、解決を見付けていかなければいけないと思いますよね。
 いずれにしても、さっきの、今のあなたの議論で言えばブッシュ大統領頑張れと、こう小泉さんが言うのはちょっと北朝鮮との関係でやばいんじゃないのという感じでしょうね。
 終わります。
○会長(野沢太三君) 魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 四人の公述人の皆様、朝早くから、また遠くから御苦労さまでございます。心から感謝申し上げます。
 早速ですが御質問させていただきたいと思います。まず、順不同になりますが、北川公述人にお聞きいたします。
 先ほど公述の中で、戦争観といいますか、戦争のとらえ方と国際法の中での動向ということをお示しをいただいたわけでございますが、今まで戦争というとどうしても国と国というのが常識的な感覚になるわけですが、例の九・一一のあのワールド・トレード・センターのあの状況、まだまぶたに浮かんできますが、やはりそこで戦争というものも新たな段階に入ったんだというようなことございますけれども、その戦争のとらえ方、あるいはこの大規模な殺りくも含めたテロというものに対して、国際法上といいますか、あるいは北川公述人としてどのようにとらえていくべきなのか、その辺についてちょっとお聞かせいただければ有り難いと思います。
○公述人(北川善英君) アメリカ的な考えですとテロも現代的な戦争だというふうに押さえて、で、その前提の上でアフガニスタン、イラクに攻撃をしているわけです。
 ただ、問題は、やはり国家組織の行う武力行使と、一定の規模であれ集団の行うテロはやはり区別する必要があると思います。この点、参考になりますのがヨーロッパの態度なんですが、フランス、ドイツ、これらの国は実はいろんな形でここ十年来テロに脅かされてきているわけです。しかし、いずれも新しい段階の戦争だという形で対抗しているわけではないんですね。やはり市民生活を直接脅かす治安の問題としてとらえられています。そうしますと、そこからやはり市民が積極的にテロについて何らかの姿勢を取るというふうになっていきます。
 このように、実は軍事的な国家的な対応をするということが、実は市民の主体的なテロに対する対応策あるいはテロ自体を根絶するための正に取り組みですね、そういったものを低下する危険性があるんではないのかというふうに私は考えております。よろしいでしょうか。
○魚住裕一郎君 おっしゃる意味分かりますし、私も国際刑事裁判所を、早くあれを批准してしっかりした機構を作っていくべきではないかというふうに考えておりますけれども、しかし、今までのテロと違うのは、やはり化学兵器であるとか、あるいは場合によっては東西冷戦構造崩壊後の核の問題、テロ組織が核を持つような場合、国家の戦争、ある意味ではそれ以上の惨状が考え得るというような事態も踏まえて、今、先生がおっしゃったような、公述人がおっしゃったような形でいいのかなというような気持ちを持ったものですから、ちょっとお聞きをした次第であります。
 次に、林参考人にお尋ねいたしますが、国家緊急権の規定をというふうにお話ございました。緊急事態には法はないというような法格言がございますけれども、ただ、それは超法規的な対応だけではそれはまずいよというようなことで今の有事法制等の議論をされているというふうに思いますけれども。
 ただ、このぎりぎりの段階まで本来きちっと法規にのっとった形で対応すべきというのが私の考えでありますが、憲法の中に明文のこのような国家緊急権の規定というものを入れてしまうということは、ある意味ではその部分、ぎりぎりの努力みたいな部分も放棄してしまうんではないのかなというふうな思いを持っているわけでございますが、公述人の考えている国家緊急権の規定という具体的な中身と、今の私の考えについてコメントをいただければと思います。
○公述人(林明夫君) 魚住先生には御質問していただいてありがとうございます。感謝申し上げます。
 私の基本的な考えは、今、有事法制について国会で議論していただくことは非常に国民としては有り難い話であります。今までは、三矢研究から始まって、そういうふうなものがほとんど研究すること自体がタブーとされていたというふうなことを覚えています。それから比べれば隔世の感で、国民の一人として本当に有り難いというふうに思います。
 ただ、もうあと何日かすると、もしかして参議院の方でも御審議が終わるようですけれども、今となっては遅いかもしれませんけれども、やはり法律論ですよね、国家の有事法制は。法律論で、果たして国民の権利義務を大幅に制約をする国家の緊急事態について実質的な憲法の状態を変えてしまっていいんだろうかというふうな思いがします。
 私の基本的な考えは、あくまでも基本的な人権を大幅に制約をするわけですね。最終的には、国家緊急時には、非常に言いにくい話でありますけれども、戒厳令まで引かなければいけないわけですね、ちょっと言いにくい話でありますが、最終的にはですね。そこまでどこの国でも規定があるわけです。戦争を、宣戦布告をするとか、講和を締結するとか、終戦をどんなふうにすること、それはどこの国でも国家緊急権の規定にはあると思うんですね、そういうふうなことに近いようなことを。
 それからあと、最終的には戒厳令に近いような形で国民の基本的人権を制約をするわけですから、そういうときには、もし可能であれば、有事法制がもう通ってしまえばそれは違う面で役割は非常に果たして有り難いとは思うんですけれども、もし可能であれば、この後、緊急事態はまだ来ていませんので、今平和のうちに本当にどうしたらいいかということをもう一回お考えいただいて、有事法制等も見直していただくことが私は一番大事だと思います。
 そういうことで、是非、国民の基本的人権を大幅に制約する、それが国家の緊急時ですから、それを世界の各国の憲法と比較をしながら、果たしてこの国はこんなふうなことでいいのかどうか。具体的に言いますと、近隣諸国で国家緊急権の規定のないところはないわけです。それから、ほとんどの国々で国家緊急権の規定があるわけですね。ですから、是非、何と言うとまた、済みません、私のところに投書が一杯来て生活ができないような状況になるので、なかなか言えないような、是非デモだけは掛けないでいただきたい、それをお願いしたいんですけれども。今は言論の自由がある代わりにいろんな形でプレッシャーを私も本当に感じている、こういうことで発言するのは。また、これが、ここで私が発言したことが原因でいろいろなことでまた責められるんじゃないかと非常におびえながら私は実際はここで発言しているわけですから、その辺、どこの国でも規定してあるような意味での国家緊急権という意味であります。それは御推察ください。
○魚住裕一郎君 身の安全も考えて、これ以上その部分については議論しないことにしますが。
 同じく林公述人にお願いしたいんですが、人間の安全保障という言葉ありました。江田委員からもありましたけれども、前文に入れるという、入れたいということは、それは理念として、その理念性が非常に強くなると僕は思っているわけですが、先ほどの事例として、例えば紛争の前、中、あるいはその後等についての対応を中心にお考えであるようでございますが、ただ人間の安全といいますと物すごく幅広いだろうと僕は思うんですね。今回、今騒いでいるSARSの問題にしてもそうかもしれませんし、あるいは拉致事件というのがありますけれども、それも本当にそのまま持っていかれるわけですから大変大きな問題かなと思っておりますが、この人間の安全保障という理念を掲げて、これをどういう具体的に具体化していくかという部分について、もうちょっとコメントいただけますか。
○公述人(林明夫君) もしかして皆さん御承知かもしれませんけれども、五月の一日に人間の安全保障委員会から報告がありまして、その中には、具体的なものとして、暴力を伴う紛争下にある人々を保護する、武器の拡散から人々を保護する、移動する人々の安全確保を進める、紛争後の状況下で人間の安全保障移行基金を設立する、極貧下の人々が恩恵を受けられる公正な貿易と市場を支援する、普遍的な生活最低限度の基準を実現するための努力を払う、基礎保健サービスの完全普及実現により高い優先度を与える、特許権に関する効率的かつ平衡な国際システムを構築する、基礎教育の完全普及によりすべての人々の能力を強化する、個々人が多様なアイデンティティーを有し多様な集団に属する自由を尊重すると同時に、この地球に生きる人間としてのアイデンティティーの必要を明確にする、このような報告が出ています。
 多分、これが一つのメルクマールにはなるかと思います。
○魚住裕一郎君 大井公述人それから藤井公述人、また御意見の中で北川公述人からもありましたが、北東アジア、藤井さんの方は極東というふうになっておるんですけれども、何らかの平和機構みたいなものを設置すべきではないか。私も全く同感で、そういう機構みたいなものができて、そしてそういう機構の中心点というか、本部といいますか、そういう機能は沖縄に置いたらいいなとか、いろいろ考えているわけでございますが、大井公述人はレジュメの中で平和・経済機構というふうな言い方をしていますね。
 そこで、大井公述人にお願いしたいんですが、時間がほとんどありませんが、あえて経済を入れているというのは特に理由があるんでしょうか。例えば、今EUになっておりますが、あれは出発点は石炭の連合体から出発をして、あえて平和の部分よりも先に経済のことから出発した、そういうお考えで入れたのか。ただ、それにしては経済体制がアジアの中では随分異なっている部分があるものですから、その点どのようにお考えなのか、大井公述人、お願いします。
○公述人(大井赤亥君) じゃ、短く申し上げます。
 まず初めに、この構想はまだ非常にユートピア的な要素が高いと思っています。なので、ただ大きな方向ではこういうのが望ましいのではないかということで提示したことです。
 一つ、ASEANの例を出しましたけれども、ASEANの例は、政治的な課題は余りタッチしないで、むしろ友好的な、テーブルの上では友好を演出するというようなことに傾いているというふうに理解しています。ただ、先生言われたヨーロッパの例だと、もう少しASEANよりもかなり共通した経済や政治のシステムなどもあるのが原因かと思いますけれども、もっと突っ込んだ政治や、EU憲法を作ろうという動きもありますよね、今現在。なので、そこでEU、ヨーロッパ統合の例も一つのイメージとなるんじゃないかと思って経済機構ということも入れたわけです。
○魚住裕一郎君 終わります。
○会長(野沢太三君) 平野貞夫君。
○平野貞夫君 私は、国会改革連絡会という会派が参議院にありまして、自由党と無所属の会で作っておるんですが、その自由党所属の国会議員でございます。本当は共産党の先生の順番でございますが、ちょっと所用がございまして、御配慮いただきまして先に質問させていただきます。
 最初に、大井公述人にお尋ねしますが、非常にいいお話を聞かせていただいたんですが、今度のイラク戦争で国連の限界と意義といいますか機能、ここで力と正当性は別の問題だということを世界に認識させたというお話がありました。これもう非常に、大変大事な判断だと思います。残念ながら、政治家にもそれから学者にもこういう発想をする人が少ない。大変高く評価しますが。
 私は、特に国連の安保理の今度の機能、安保理はもう崩壊しただとか、国連はもう機能を失ったというようなことを平気で評論家や新聞に載ったんですが、非常に残念なんですが、私は武力行使の決議を安保理がしなかったということが安保理の一つの機能だと思うんですよ。それから、安保理がああなったということは、安保理の機能の現象だと思ってむしろ前向きにとらえておるんですが、大井公述人のお話の観点からちょっと御意見、私の意見に対して御感想を言っていただければ有り難いんですが。
○公述人(大井赤亥君) つまり、結局採決に至らなかったわけですよね、安保理の場で。そのことがむしろ肯定的な意味を持っているということでしょうか。
○平野貞夫君 はい。
○公述人(大井赤亥君) いろんな立場から肯定面、否定面、とらえることができると思いますけれども、そうですね、僕自身の経験から言うと、実はちょうど三月にアイルランドに行っていまして、三番でも触れたんですけれども、そこでいつもテレビを見ると国連の安保理の場でせめぎ合いをやっている様子が二週間ぐらい続けてあったもので、それで非常にダイレクトに感じることができたんですけれども、いずれにせよ、私が考えているのは、国連安保理の場の承認がない武力行使は違法なんだということをアメリカ自身も認識していると思うんです。最後までそのお墨付きを得るという動きをしたわけだと思います。
 ですから、結局採決に至る至らないの問題もありますけれども、国際の場で軍事行動を正当化する機関は国連だけだということの認識についてすごい重要な関心を向けているということです。
○平野貞夫君 北川公述人にお尋ねしますが、実は昨日、武力攻撃事態特別委員会で、私、短時間でございましたが、周辺事態法、それからテロ特措法、それから今度の武力攻撃事態法、いずれも憲法違反だという議論をやりまして、自由党の党内から、おまえそんなことを言っていいのかといってしかられておるんですが。
 先生のお考え、ちょっとお聞かせしたいんですが、私は、日米安保条約それからPKO法までは日本国憲法の、まあ言葉にはかなりたがっていたんですが、前文も含めての精神を考慮して、まあまあ容認できるんですけれども、この周辺事態法から始まった現在の政権の有事法については非常に問題があると思っていますが、先ほどお話にあったんですけれども、安保条約も含めて、先生の違憲かどうかというお話を伺いたいと思います。
○公述人(北川善英君) 日米安保条約と申しましても、実は、七八年のガイドライン、そして九六年の日米共同宣言ですね、新共同宣言といいますか、新ガイドラインを制定する直前の共同宣言ですが、実は実態的にはどんどんその役割が変化してきているわけですね。だから、今の御質問の趣旨からしますと、恐らく旧ガイドラインまでの日米安保まではいいというお話だと思うんです。
 私も、基本的には日米安保条約というのはやはり非常に危険だという点で反対なんですが、少なくとも、御質問の趣旨に即して申し上げますと、やはり日米の、しかも、日米安保条約、PKOの場合、それぞれ、日米安保条約の場合には建前としてはあくまでも日本の言わば専守防衛ということをうたっております。また、PKOはあくまでも平和的な協力ということを一応建前としておりますから、それと米軍の後方支援に日本から出ていって自衛隊が行うという周辺事態法、テロ特措法というのは、これは明らかに一線を画しているんじゃないかと思います。
 私の立場からしますと、いずれも極めて日本の、これは憲法を盾に取るわけではなく、やはり私の公述の内容でもあります日本の現実的な地政学的な位置あるいはアジアあるいは世界の現実的な脅威ということから考えますと、非武装というものがやはり現実的だと思うんですが、そういう点からいいますと、日米安保条約、周辺事態法というのは憲法違反だとは思っております。
○平野貞夫君 私も十年昔は自由民主党にいましたし、今も政治的スタンスは決して左の方じゃございませんが。
 私は、意見として申し上げたいのは、九条という憲法を持っていて、それを作った時代背景もあって、それからその精神の生かし方もこれは限界まで来ておるわけなんですが、私は、要するにそういう国家の基本である法体系に欺瞞な態度で、それをうそをつくような形で政治をやったりあるいはシステムを作ったりすることが世界の一番不信の元、世界各国からの不信の元になるという意見なんです。ですから、これまでの話は護憲派と思われるかも分かりませんが、私は極めて積極的な改憲論者なんでございます。しかし、今の憲法の精神は守らなきゃいかぬ、原理は守らにゃいかぬという立場でございます。
 そこで、理論的には実は林公述人と全く同じ意見なんですよ。しかし、現実に憲法を改正するということがなかなか難しい。
 それから、私は、今の国民の過半数が九条のこの精神を厳格に運用しろという判断でしたら、政治は守るべきだと思うんですよ、それは。それは国民に憲法の制定権がありますから。しかし、そうではない、この精神は生かしながら、ここまではやっぱり対応しなきゃ駄目だという国民が判断するなら、これはそれを生かすべきだと思う。そういう意味で、とにかくごまかしが一番悪いというのが私のその根底なんです。
 そこで、お話にありました憲法改正手続制度なんですが、私は自分自身で立案したこともありますし、ある意味で、それを作るために国会議員になったようなものでございます。ところが、現実は難しいんです。原因は、自民党がそれでまとまらないんですよ。自民党はさっき作ると言っていましたけれども、もう駄目だという大物が何人もいるんですよ。死ぬまで憲法改正やるなという現職長老だっておりますからね。
 それからもう一つは、私は、憲法学者、それから司法試験通った人は右でも左でも、やっぱりこれは、立憲政治というが、立憲でやるならば、憲法政治やるなら、この国民の憲法制定権をほったらかしにして、政治的、法的不作為行為を続けていることが一番のこの日本人が堕落していくもとだと思っています。これには御意見要りませんから。
 それから、林公述人にお聞きしたいのは、憲法改正できないならば、僕は少なくても憲法の精神の限界で解釈を発展させるといいますか、あるいは変更させる形で、それもやっぱり基本法が要ると思うんですよ、特に九条については。その上で、こういったものをその指針の範囲で作るべきだと思うんですが、それがやられていない。なぜ気休めの、その場限りのものしか作れないかというと、今の政権だって、自民党の中にだってそれに対しては異論がある。それから、公明党と連立していますから調整できない。また、野党第一党だって同じ悩み持っているわけですよ。こういう日本人の政治選択に僕は非常に根本的な問題があると思うんですが、その辺について御意見をいただきたいと思うんです。
○公述人(林明夫君) もう本当に先生のおっしゃることは私が考えていることと同じなんで、もうこれ以上言葉がないということなんですが。ただ、それでは何でこの憲法調査会が存在するのかという話です。存在意義が問われますよね。是非この憲法調査会で憲法改正の発議をやっていただきたい。国民、子供たちを含めて、やはりうそが一番いけないと思うんですよね。自衛隊というものはもう軍隊ですよね、小泉首相おっしゃるとおり。ですから、あれが軍隊でないと言う人はだれもいないと思うんですよね。ですから、果たしてそれが本当に日本国で必要か必要でないかということも、必要でないと言う人は恐らく現時点ではそんなにはいらっしゃらないと思うんですよね。
 ですから、是非、国民の意思を反映した憲法調査会をやっていただいて、いろんな立場立場あるでしょうけれども、それは大同団結していただいて、例えば、もしこの先、この国会の上に某国から核弾頭が来て爆破されたらどうでしょうかね。一瞬にして国家の存在がなくなるわけですよね。ですから、そういうことも想定していただきたいんですよね。実際に、核を持っていると言っているわけですから、日本に向けてどんどん打ってくるよと言っているわけですから。それはもう現実的に、今までのことは今までのこととして考えていただくと。すばらしいこと、日本国憲法もすばらしかった、九条のおかげで日本の平和を守れたことはこれはすばらしかったこと。これは私も本当に高く評価して、江田先生始め皆さんの御活躍は本当に有り難く思っています。ただ、これからはちょっと考えを少し変えた方がもしかしたらいいんじゃないかと思うんですね。
 そういうことで、現実は現実、本当に現実の立場に立って、国民の幸福は何か。上から原爆、水爆が落とされたら二、三千万がこれ亡くなるわけですから、そういうことをもしかしたらやるというふうに毎日のように言っているわけですから、某国は。そういうことも是非お考えになって、是非やっていただきたい。
 ただ、私は基本的に言っていますけれども、北朝鮮にも名古屋空港からピョンヤンまで直行便で行かせていただいて、非常に北朝鮮については国民の方もすばらしい方で、知っています。それで、できるだけ、そういう戦争という形じゃなくて、友好的な形で交流ができて経済交流するのはすばらしいと思っていますので、それだけは誤解なくお願いしたいんですけれども。
 ただ、それにしても、我々はそういうことに対して、実際緊急なときに対してどんなふうに備えておくかということをせっかくの憲法調査会ですから是非御議論していただいて、そのときどうするかということを本気になって皆さん話し合っていただいて、大同団結ですね、していただければ有り難いかと思いますね。何ともない、何ともないと、そういうことはもうそろそろ卒業していただいて、本当に日本の国民の五十年後のためにお考えいただければ有り難いと思います。
 先生のお考えには全く賛成ですね。何も言うことはありません。
○平野貞夫君 藤井公述人にお尋ねしますが、大阪的文化でずばりお話しされて、私、非常に感心したんですが、大体、日本の議会主義というのは大阪の人たちが平均的、あの文化が一番合うんですよ。経済外強制、大阪の人は受けませんから、そこでずばりお答えいただきたいんですが、日本にとってアメリカと北朝鮮とどっちが危険だと思いますか。
○公述人(藤井富美子君) 今のブッシュ政権の方が怖いですね。
○平野貞夫君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 宮本岳志君。
○宮本岳志君 今日は四人の公述人の皆さん、本当にありがとうございます。日本共産党の宮本岳志です。
 まず、北川公述人にお伺いしたいと思うんです。
 北川公述人は大きな歴史の流れについて公述をされて、そして、世界の大きな流れがやっぱり戦争の禁止といいますか、戦争の不法化という方向に進んできたということをお話しになりました。
 それで、今回のイラク戦争をめぐる動きをとらえて、一部に国連無力論というのを説く向きもあるわけですけれども、私はそういうふうには考えていないのです。先ほど大井公述人もちょっと触れられましたが、イラク戦争に至る経過の中で、少なくとも昨年九月から今年三月に掛けて国連安保理を舞台に激しい外交的な戦いが繰り広げられた、そして、超大国の戦争を半年にわたって食い止めたというのは非常に大きな歴史的意義を持つものだと考えます。
 例えば、ベトナム戦争などを振り返ってみますと、十数年に及ぶあの残虐な戦争において国連は正に無力だった、侵略を抑制する何らの効果的措置も取れなかったということに照らしても、今回の安保理の流れというのは大きな歴史の進歩を私たちはそこに見なければならない。結論がアメリカによる戦争という方向に行ったということとは別に、これはしっかり見る必要があるというふうに考えるわけですが、是非この点について北川公述人のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
○公述人(北川善英君) 先ほどの平野議員、そして今の宮本議員のお二人とも共通されているのは、やはり国連の安保理事会がアメリカのイラクに対する武力行使に正当性を与えられなかったことは無力ではなく、むしろこれはこれで一定の役割を果たしたという点では私も同感いたします。しかも、私が付け加えたいのは、この武力行使に、アメリカの武力行使に対するお墨付きを与えないということが五大国の拒否権行使を伴わないで行われたというところに私は注目しております。
 これはどういうことかといいますと、もちろん五大国それぞれ政治的な思惑はあるんでしょうが、むしろ重要なことは、安保理事会自体が一種の公開のフォーラムで議論をきちっと検討したこと、そして、世界的な様々な反戦運動があり、それを背にして拒否権を使わないで武力行使の正当化も与えなかった。その意味では、実は冷戦下の安保理事会の在り方とやはり今回は非常に変わってきている、そういった点で私は高く評価したいと思います。
 以上です。
○宮本岳志君 ありがとうございます。
 大井公述人にお伺いしたいんです。
 大井公述人は、レジュメの最後に、「今、政治家の人たちに言いたいこと」というふうに書いてくださっております。若い学生、有能な学生である大井さんのような方々の御意見を率直に我々政治家が聞かせていただくというのは非常に有意義なことだと思っておりますけれども、同時に、ナショナリズムということについても触れられておられます。ナショナリズムという点では、政治家ももちろんですけれども、最近、学生の方々とお話をしておりますと、学生の中にもナショナリズムといいますか、様々な議論が少なくないということも私たち体験するところなんです。
 一つは、政治家に対する言いたいことを述べていただくと同時に、同世代の学生の中にもそのようなナショナリズムがあるということについて大井公述人はどのようにお考えになるか、お聞かせいただけますでしょうか。
○公述人(大井赤亥君) 今、宮本議員がおっしゃった二点目のことから。
 自分の経験なんですけれども、これは、僕は別に靖国神社とか、あの辺きれいなんで散歩することは好きなんですけれども、この前、九段の坂を下りているときに、隣に若い二人の僕と同年代の人が坂を上ってきたんですけれども、靖国神社も近いからいろいろそういう話をしていたのかとも思うんですけれども、北朝鮮うざいなと、本当、あんなところはとっこんでやるよと言っているんですよね。多分、特攻とそのとっこんでやるというのを掛けていると思うんですけれども、つまり、もう北朝鮮なんという国はとっこんで、本当、いざとなったらとっこんでやるよと言っているんですよね。そういう事実がある。
 だから、若い人の中には本当に、メディアの影響もありますけれども、北朝鮮に対して、つまり他国に対してあからさまにそういう分子的なことを言うのが許されるような雰囲気が、メディアの中にもあるし、それは若い人の中にも同時にあると思います。
 同時に、それ、例えば歴史教科書の問題もありますけれども、言わば歴史的な背景を知らないで今の例えば拉致事件とかそういうことを、ほぼそういうことで意識が独占していってそういう発言になるというのは、やっぱりこれは正にお互いの国の違いが広がっていくだけだというふうに思っています。
 だから、そういう意味で、日本のナショナリズムはおかしいということが言いたかったんです。
 それからもう一つ、アイルランドのことで言いますけれども、一か月いたんですけれども、例えば、イギリスからやっぱりすごい侵略の歴史を受けていて、十七世紀のクロムウェルの侵略以降ずっと従属しているわけですよね、経済的にも政治的にも。で、文化も違うのにイギリス王室に忠誠を誓わされたりすると。そういうことからナショナリズムが育っていくわけですけれども、やっぱり日本のナショナリズムと全然違って、独立闘争の歴史なんかを学ぶとすごいドラマチックだし、納得のいく背景があるんですけれども、日本のは、そうじゃなくて、やっぱり何というか、小さい方、弱い方、国内で言えば在日の人とか歴史教科書のこともありますけれども、それから、この前の東京大学の五月祭でも国会議員の方が発言をされたということもあります。ずっとそういう方向に視点が向いていって、そこで自分たちの優位性を何か保とうとするというような、有事法制の議論や北朝鮮の議論でも何かそのにおいが感じられて納得できないと思っているわけです。ですから、アイルランドのナショナリズムなんかもおもしろいなと思ったわけです。
○宮本岳志君 次に、藤井公述人にお伺いします。
 私も大阪の出身ですので、大変関西弁に、聞かせていただいて自分の感覚に合うわけですけれども、先ほど日米関係が釣り合っているかどうかという議論が交わされました。一方で米軍が日本を守る、もう一方で基地を提供する、あるいは経済的に日本が負担をする、釣り合っているじゃないかという、負い目を感じることはないという議論が交わされましたけれども、私は釣り合っているかどうかといえば釣り合っていないと。しかも、それは一方的に日本の側が基地を提供し、そして米軍というのは日本を守るために日本にいたことはないし、今でも海兵隊とか遠征軍とか殴り込みを目的にして日本の米軍基地に駐留している、さらにそこに膨大な駐留経費まで日本が負担しているというのは、極めてこの米軍基地の存在そのものが釣り合うどころか大きく日本の主権を損なうものだというふうに考えております。
 そういう点では、むしろ日本の米軍基地を使ってアメリカが正にああいう世界的な規模で様々な戦争に出掛けていくということをやり、それに日本は経済的負担までしているにもかかわらず、それを何か一層進めようと、そして日本の自衛隊まで参加させようというのは、極めて釣り合う釣り合わぬ以前の問題だというふうに思っているんですが、藤井公述人の日米安保条約そして米軍基地の役割についてのお考え、そしてこれはちょっと北川公述人にも付け加えてお話しいただければ有り難いと思っております。
○会長(野沢太三君) それでは、最初に藤井公述人。
○公述人(藤井富美子君) 私も将来的には日米同盟という軍事同盟というのから、先ほど私が公述しましたような東アジアあるいは極東アジアでの地域安全保障機構みたいなもの、それからもう更に遠い話になるかもしれませんけれども、世界全体での安全保障としての警察軍みたいなものができれば日米同盟自体は必要ないと思うんです。そういう方向に行ってほしいという将来像を一応私なりに、素人なので幾らでも言えるので提示したわけですけれども。
 ただ、今アメリカが日本に駐留していていろんな問題を起こしているということも、私もそれは非常に遺憾に思いますけれども、ただ、アメリカがいることによって何かしらこのアジア地域に安心感を生んでいるという側面もあると思うんですよね。それだけ日本がアジア諸国に信頼されていないんだなという裏返しだとは思うんですけれども、そういう意味でも今すぐ撤退とかそういうところまで私も言われませんし、またアメリカが自分を世界の警察と自称してやっている行動に対しても、ある程度のやはり抑えみたいなものは世界にあると思うんですよ。それはある程度やっぱり今の段階では、何というか、一定の評価をしていいと思うんですけれども。
 ただ、さっきも言ったように、アメリカ自身は自分の国益で動いていますので、警察的行動も、そういったところでやっぱりもっと世界の声を集めて、本当に公正な意味での何か世界での安全保障がもっともっと国連という場でも議論され、そしてまたそれが法制化されていくことによって地域地域それぞれの国々の安全保障を将来的に作っていかないといけないなというふうに思っています。
○会長(野沢太三君) 続いて、北川公述人、お願いします。
○公述人(北川善英君) 私の公述の中で、冷厳なる現実を直視することを強調しましたが、実はその点からいいますと、北朝鮮もアメリカも韓国も台湾も中国もすべて仮想敵国であるわけです。このことをもう少し推し進めますと、これは藤井公述人が端的に表現されましたが、一人一人の私たち個人にとっては今度は国家が仮想敵国の可能性を十分秘めているわけですね。そういうふうに突き詰めた場合、というよりは、そこまでやはり私たちはいったん突き詰めて考える必要があるのではないのかということです。
 そうしますと、日米軍事同盟というのをどこまで信用し切れるのか。恐らく多くの政治家の方々は建前だけで信用しているというふうにおっしゃって、必ずしも本音はそうではないと思っておりますが、それならば、やはりもう少しそれを国民の前できちんと明らかにして、そして、日米軍事同盟を維持するならばどういうメリットが日本にとって、特に具体的には一人一人の個人にとってあるのかないのか、これをやはり説明する責任があるんではないかと思われます。
 他方で、多くの国民、特に財界の方々が強調されるのは、日本の経済が成り立つためにはアメリカとの密接な関係が大事だということを非常に強調されます。しかし、その強調は逆に言いますと、ますますアメリカとの関係が一方的に、良く言えば緊密ですが、悪く言いますと、アメリカが風邪を引けば日本は、SARSにはなりませんが、大きな肺炎になってしまう、そういう関係をいつまででも続けることになると思います。そういった経済の観点からいっても、やはり多極間外交、多極的な、多面的な形の国際関係を作る、そういう方向にやはり私は動くべきだと思っています。
 その意味では、日米軍事同盟を今すぐどうこうするということよりも、そういう方向性を定めた上で、そのためにできることは何なのか、それをやはりきちんと議論していく必要があると思っています。
 以上です。
○宮本岳志君 もう時間がなくなって恐縮なんですが、林公述人に最後一問だけお伺いしたい。
 国民の基本的人権をたとえ一時期にしろ制約せざるを得ない国家の緊急時についての有事立法を、国会であろうと憲法の規定なしに行うことは不適であると考えると。これは、憲法に対する評価は恐らく林さんと私どもとは違うと思うんですが、少なくとも、今やられているこの有事法制というものが憲法と、今の憲法と両立しないという点では全く一致するものなんですね。そういう点では、基本的人権を尊重する有事法制というのはあり得ないと私は思うんですが、最後にその点について林公述人のお考えをお聞かせください。
○公述人(林明夫君) 憲法の中に国民の幸福を追求する権利ってあると思うんですね。これが一番基本的な権利だ、それが一番大事だと思うんですね。
 そういうことを考えれば、戦争というのは何か、是非宮本先生も各国に行かれて、紛争の当事国、いろんなところに行かれて、アイルランド、いろんなところに行かれて、私も一生懸命頑張りますので、実際、国と国とがどんなふうな形で紛争になるのか、それを一生懸命調べ、私も調べますので先生も調べていただいて。
 それで、そのときに、本当にそんなことは、基本的人権の制約は本当はしない方がいいわけです、もちろんね。ですけれども、何らかの形で、例えば移動の自由とか、もしかしたら、ここからここは行かない方がいいよとか、そういうことはあるかもしれない。それも一つの基本的人権ですよね。あと、それから営業の自由ですね、こういうようなものは作らない方がいいとかと、いろんなことがあると思うんです。そういうことも含めて、緊急時におけるいろんな基本的人権の制約というようなことを、少なきゃ少ないほどいいんですけれども、そういうことも考えられます。ですから、そういう意味で、最小限どんなことが必要なのかということも考えておく、それも考えておくことが大事かなと思います。
 基本的には先生と同じ考えですので、それだけ誤解なきようお願いしたいと。よろしくお願いします。
○宮本岳志君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 大脇雅子君。
○大脇雅子君 今日は、四人の参考人の方々の貴重な御意見、ありがとうございました。
 御意見を聞きながら私は痛感をしたのですけれども、市民の生活や、そうした生活の目線からこうしたテーマへの切り込みということは、私たちが議員として国家とかあるいは国益とかという目線で抽象的に今議論をしていたという、そういう言ってみれば穴を鋭くえぐられたなということを痛感いたしました。
 私はまず、順次お尋ねをしたいのですが、大井さんの御意見の中で、多国間の平和機構のプロセスから、それを作っていく中から共通の価値が生まれるのではないかと、そしてアメリカのプレゼンスがそうした多国間協議の主体的な日本の努力を失わせているのではないかという御指摘には大変大きな示唆を受けました。
 アメリカの軍隊の駐留について、大井さんは、現在又は将来、どんなふうなイメージをお持ちなんでしょうか。
○公述人(大井赤亥君) 一つは、自分自身の希望と同時に、日本の国内の国民世論といいますか、その合意が一つは大きなかぎかなと思うんですけれども、例えば今の、例えば北朝鮮が核を持っていると宣言しているわけですけれども、そういう状況ですぐなくすということは国民的な合意は得られないし、かつそれはできないだろうと思います。
 ただ、将来的には、フィリピンはなくしたわけですよね、そうですね。そういうことを考えると、それは日本の主体的な外交を取り戻すという作業と同じだと思いますけれども、それと同時というか、その過程と同じ過程でやはりなくなっていくのが望ましいと思います。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 北川参考人にお尋ねしたいのですが、非人道的な武器が出現する中で、アメリカの国家の危機というものが基本的に大きい脅威となっているんだということについて、私も同意見でございます。
 北川参考人の場合、世界平和の維持をするための世界的ないしは国内的な機構のイメージ、こうあるべきではないかという御意見について伺わせていただけると有り難いんです。
○公述人(北川善英君) 最終的には、世界の平和機構としてやはり国連が現実にありますから、だから、場合によっては、国連が残念ながら機能麻痺した場合には、またその次の段階でいかなる機構を作るか、そういうことを考えなきゃならない段階も来るかもしれませんが、差し当たり、やはり国連が特に警察力を行使して、できる限りテロを始めとする様々な紛争を抑え込む。そして、先ほどの、たしか魚住議員からの質問もありましたが、化学兵器あるいは核兵器の拡散をどう考えるのか、これとの関係でも、やはり警察力による対応の方が実は軍事力による対応よりもはるかに勝っているわけですね。しかも、事前の対応ですから、大きな被害を出す前にそういう対応が可能です。
 そのような世界のやはり警察力を中心とした、ただし、装備をどの程度にするかというのは、やはりそのときの対応がどんなものが必要とされるのか、それによってある程度は装備は決まってくると思うんですが、やはりそういう世界的な警察力のレベルで紛争を解決する、あるいは平和を維持する、あるいは様々な大量破壊兵器の拡散を阻止する、そういったことをやはり着手すべきではないのかと思っています。
 ただ、先ほども申し上げましたように、世界規模という形では直ちには実現困難ですから、やはり東アジアの、しかもやはり戦前については少なくとも責任のある我が国が、やはり戦後もその尾を引かざるを得ない東アジア地域でどうそれを具体化するのかということが今問われていると思われます。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 次に、林参考人にお尋ねしたいのですが、林参考人は、二十一世紀は正に人間の安全保障という概念が基本になるべきであると、そして、一人一人のエンパワーメントということこそ重要だということをおっしゃいました。
 私ども、様々な女性の会議に出ましても、結局、物事の一番の根底は一人一人の人間のエンパワーメントだ、エンパワーメントなくしては本当の改革はないんだということを言い続けてきました。そして、それがまた憲法で言う国民の幸福追求権というものに基底を置くのだという点については私も大変大きな示唆を受けたものでございます。
 しかし、先生、参考人の方は、憲法を改正して緊急事態の法制を作るべきだと。しかし、我々は戦前の苦しい状況を持っているわけですから、そうした戦前と違ったきっとイメージを持っていらっしゃるんだと思うんです。
 私は今、だから人間の安全保障と先生が言われ、エンパワーメントと言われることと憲法の緊急事態法制というのはちょっと結び付かないんですが、ちょっと説明をしていただけるでしょうか。
○公述人(林明夫君) たまたま三十年ぐらい前に慶應大学の法学部で学生だったころ、一生懸命憲法の勉強をさせていただきまして、情報公開法とそれから個人のプライバシー保護について勉強しました。同じような思いがしました。情報公開を進めれば進めるほど個人のプライバシーの保護と抵触するわけですね。今回も同じような話だと思うんです。
 ですから、安全保障を考える場合に、国家の安全保障と人間の安全保障、二つあるということを少し勉強させてもらって気が付きまして、私がお話させてもらったのは、今、日本国で一番大事なことは、日本国民にとって一番大事なことは、今考えるべきことは、国家の安全保障についてのことをほとんど考えずに有事法制を考えてしまったと。それからあと、人間の安全保障、これは今外務省、それから大脇先生始め議員の皆様一生懸命やっていただいたおかげで大分周知は徹底しましたので有り難く思っているんですけれども、この二つの点が大事かと思うんです。
 ですから、安全保障の中には二点ありまして、国家の安全保障と人間の安全保障、二つあって、これは私は全然矛盾しないと思います。国家の緊急時における安全保障も考えることは大事、それからあとは、一人一人の人間というふうなものに焦点を当てて、エンパワーメント、力を付けるというふうな、どんな事態であっても力を付けるように、そういうふうなことを日本国を挙げて、日本国民のために、また世界の国際社会のために尽くすということも全然私にとっては矛盾しないと思っているんですけれども、先生、お考えはどうでしょうか。済みません、何かまたお教えいただければ有り難いと思うんですけれども。
○大脇雅子君 いや、私は、恐怖と欠乏から免れて、平和のうちに生きる権利というのをこそ二十一世紀の私たちが持つ人間の安全保障であり、それを国家の政策サイドでまとめたのがいわゆる人間の安全保障ということでなかろうかというふうに思うものですから、それは武力による国家の緊急事態法制とは次元をむしろ異にして、対話と信頼醸成と平和的な外交で行うということを考えるものですから、緊急事態としての、言ってみれば憲法上ですね、そういうものを作るという考え方とどうしてもなじまないものですからちょっとお尋ねしたんです。
○公述人(林明夫君) 発言させてもらっていいですか。
○大脇雅子君 はい、どうぞ。
○公述人(林明夫君) よろしいですか。何回も済みません。
 別に私は、戦争が好きとか、そういうんじゃありません。戦争をしないためにきちんとした方がいいということです。ですから、戦争は本当に何が何でもしないでいただきたいと思う。
 ただ、そういうふうなことを、国家の体裁といいますか、仕組みとして持っていると持っていないとは全然意味合いが違いますので、戦争をしないという意味で是非形を作っていただきたいと。そういうふうなことで御理解いただければ有り難いと思います。
○大脇雅子君 藤井参考人にお尋ねしたいんですが、藤井参考人は私たちは国家を選んで生まれてきたわけではないと言われました。私もその言葉になるほどと同感をいたしました。
 石橋湛山の国際警察軍の提唱をされまして、やはり私は警察と軍隊というのは違うというふうに思うわけですが、戦争回避のシステムというものがないではないかという御提言ですが、この戦争回避のシステムをもし日本で、あるいは世界で作るとすればどんなふうなことをお考えでしょうか。
○公述人(藤井富美子君) 今の段階で、今のこの極東アジアの地域を考えますと、北朝鮮対日本とかアメリカとかいうことであるわけですけれども、また戦中のことでいえばアメリカと日本が対立するというようなことで、どっちが正しかったというのは、勝てば官軍なところがあって、結局今でもあの戦争は正しかったと言う人もいれば、いや違う、あれは間違った戦争だったと言う人もいるというのは、結局戦争というものが正しい正しくないというどこか基軸になるものがあって行われるわけじゃなくて、何かこう子供のけんかのような形で行われて、結局勝った者が何か相手をひれ伏させるというような形である国際社会というのは、徐々には改善されてきているとは思うんですけれども、それはいまだにそういうところがあると思うんです。
 それはイラク戦争でも示されたと私は思っていて、イラクは特にアメリカを侵略したわけでもないのに攻撃されたわけですから、それはアメリカの自衛権の範囲を超えるものであったけれども、しかしアメリカがそこで裁かれるわけではないという、国際社会のどこか納得いかない不正義があると思うんです。そこにこれから、正義というんじゃないけれども、やっぱりこういうルールを立てましょうと私が提唱するのは、確かに日本国憲法のように、非武装で話合いによってのみだけ平和が達成されるといいと思いますし、それは将来的に可能だろうと私は思っています。ただ、今、現段階では、それをすると、それが、どの国にとってもそれが基準になっているわけではないというところに、日本も、日本の国民にとってもいつ攻められるか分からないという漠然とした不安というのはあると思うんです。
 そういったところに、国際的なルールとして自衛の範囲というのは、たとえ攻撃されたとしても敵国にまで攻撃しに行ってはいけませんよと、そこにはちっちゃい子供もいますよと、赤ちゃんもいますよと、そんな子を殺していいんですかというところに踏み込むことによって、じゃ、もう自衛というのは、とにかく自分の国に攻撃してくることだけを排除するという範囲の自衛を国際社会で合意して、それを超える範囲のものに対しては、やっぱり公正な、どこかの国益を代表しているというものではなくて、国際警察軍と一応言っていますけれども、私もその辺りで、警察と軍隊というものの違いをまだ明確にちょっと規定し切れていないのは申し訳ないんですけれども、そういったもので、その相手国に手を出した者が裁かれるという、そういうルールがあってほしいというふうに思っているんです。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 公述人の方々には長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。本調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。お述べいただいた御意見につきましては、今後の調査に生かしてまいりたいと思います。(拍手)
 午後二時に再開することとし、休憩いたします。
   午前十一時四十九分休憩
     ─────・─────
   午後二時四分開会
○会長(野沢太三君) ただいまから憲法調査会公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日午後は、法政大学名誉教授、テロ特措法・海外派兵違憲訴訟原告団長尾形憲君、自営業加藤正之君、駒沢女子大学学生田中夢優美君及び学習院女子大学教授畠山圭一君、以上四名の公述人の方々に御出席いただいております。
 この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本調査会は、本年五月から「平和主義と安全保障」について調査を開始したところでございますが、本日は、「国民とともに議論する」という本調査会の基本方針を踏まえ、我が国の平和主義と安全保障の在り方について、特に憲法とのかかわりを中心に、公述人の方々から幅広く忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の調査に反映させてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、まず公述人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきます。
 なお、公述人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず尾形公述人お願いいたします。尾形公述人。
○公述人(尾形憲君) 私は、一九二三年生まれ、典型的な戦中派です。聞くところによりますと、私は戦争体験者としての公述人ということ、公式の記録にも残る公述である。間もなく消えていく年寄りの遺言としてお聞きいただきたいと思います。この機会を与えてくださったこと、心からお礼申し上げます。
 私が今住んでおります埼玉県の入間市には、戦争中、陸軍航空士官学校がありました。当時の同期生は、あらかた特攻で二十歳前後の若い命をなくしました。歩兵とか砲兵とかいう地上の兵士も大半が戦死ならまだいい、餓死したりしました。この戦争で死んだ軍人軍属二百三十万のうち、実にその六割の百四十万が餓死です。
 同期の一人は、九州の基地から特攻として飛び立ちました。特攻として出撃しました。離島に不時着して、基地に帰ってきたら、既に敵艦に突入したものとして二階級特別進級、天皇に上奏されていました。生きていた英霊があってはならないと、彼は航空軍の参謀によりマラリアの病室から引きずり出され、単機出撃させられました。処刑飛行です。
 私は、特攻が始まったころ、マニラの第四航空軍司令部で諜報を担当していました。特攻の同期が毎日、艦船情報を聞きにやってきます。おっ、今度はきさまか。だが、行ってこいよと言えないんです、もう帰ってこないんですから。
 成功を祈ると送り出した翌日、我、突入すという電報が入ります。航空軍司令官富永恭次は特攻隊を送り出すたびに、おまえたちだけ行かせはしない、最後には私も参謀長の操縦する飛行機でおまえたちに続くと言いながら、米軍がルソン島に上陸すると、真っ先に台湾に逃亡しました。
 特攻の一人は、操縦を誤って離陸できませんでした。富永さんに、おまえは特攻のくせに命が惜しいのか、すぐ出発せいとどなり付けられた彼は、別の飛行機で、田中軍曹、ただいまより自殺攻撃に出発します。
 しかし、彼らも、二千万の人たちを殺し、従軍慰安婦、強制連行から強制労働と多大の惨禍を与えたアジアの人たちの加害者だったことは免れられません。今度のサミットで拉致の問題が取り上げられていますが、戦時中、強制連行されたため離散した朝鮮の人たちは五百万人と言われます。その後始末は一切なされておりません。
 こうした悲惨な戦争の反省の上に作られた平和憲法は、戦後生まれが国民の四分の三という今日、なお圧倒的な支持を保っています。
 憲法制定議会で吉田茂首相は、自衛のための戦争も認めないと明言した平和憲法ですが、朝鮮戦争の勃発後、警察予備隊が発足し、それは保安隊と警備隊、更に自衛隊になりました。自衛隊法成立の際、この参議院では海外出動は認めないと附帯条件を付けております。
 その後、平和憲法は空洞化の一途をたどりました。冷戦の終結とソ連の崩壊でソ連を仮想敵国としていた日米安保条約も自衛隊も存在意義を失ったはずです。ところが、九六年、安保見直しの日米首脳共同宣言で、これまでの極東からアジア太平洋へと範囲を拡大、防衛と治安が使命とされた自衛隊は附則や雑則で海外の出動が本命になります。周辺事態法とテロ特措法は、アメリカが仕掛けた戦争に自衛隊が参戦することになり、自衛隊がインド洋に派遣され、自衛艦がインド洋に派遣されました。
 資料一の下から二段目辺りにありますが、韓国の議員の場合、東アジア地域の安全と平和への最も危険な要素は、北朝鮮の脅威というのはすぐ地続きなのにわずか三一・三%、これに対して日本の軍事力が四六・九%になっています。また、テロ特措法と自衛隊派遣については否定的な回答が圧倒的です。そして、その自衛隊、自衛艦は、テロ特措法を超えてイラク攻撃の空母に給油までしました。アメリカは世界じゅうに張り巡らせた衛星通信傍受網エシュロン、三百キロ上空から地上の自動車のナンバープレートまで読み取って即座に基地に知らせるスパイ衛星、沖縄の象のおりのようなあらゆる電波をキャッチできるスパイアンテナなどで世界じゅうのすべての動きをキャッチしています。そして、あれだけ絶大な武力を持ちながらしょせん武力で民衆の安全は守れないということを九・一一事件は如実に示しました。
 しかし、アメリカはなぜ攻撃を受けたのかということの反省もせず、九・一一の元凶というオサマ・ビンラディン氏をかくまっているとされるアフガニスタンを武力攻撃しました。私は、昨年の暮れ、アフガニスタンに行って方々の難民キャンプを回りました。継ぎはぎだらけのテントに暖房など一切なく、床は地べたに薄い毛布を引いただけです。零下二十度から三十度という寒さの中、朝になったら親子五人が固く抱き合ったまま凍え死にしていたという話も聞きました。こうした罪のない人たちの殺傷の手助けに私たちの税金が使われているのかと思うと、腹が煮えくり返る思いがいたしました。
 カルザイ政権ができて一年半になりますが、ビンラディン氏もタリバンのリーダーのオマル師も見付かっておりません。いまだに内乱状況で米軍基地にはロケット砲弾が撃ち込まれたりしています。政府首脳はカブールの外には出られません。そして、次はイラク戦争です。
 資料二をごらんください。
 ブレア首相のイギリスでですよ。世論調査で世界平和への最大の脅威はブッシュ大統領というのが四五%、フセイン大統領と同率です。アメリカを「世界支配をもくろむ弱い者いじめの暴れ者」とするのが四七%にも達し、「世界の善を推進する勢力」の二三%の倍以上になっています。二月十五日、全世界の六百都市でイラク戦争反対のデモが行われ、一千万人以上が参加、こんな盛り上がりはベトナム戦争以来のことです。こうした、さらにイギリスでは、イラク戦争に反対して辞任した閣僚まで現れました。こうした声に背を向けて、国連憲章も国際法も無視して、イラク戦争を始められました。
 ラムズフェルド国防長官は、十七世紀のウェストファリア条約に言う国家主権、内政不干渉はもう古いと言っています。つまり、アメリカが新しい世界秩序を作るというわけです。大量破壊兵器ということでしたが、今日なおそれは見付かっておりません。最近、ウォルフォウィッツ国防副長官は、あれは戦争を正当化するための口実だったと言っております。
 攻撃は三月二十日、大統領官邸の周辺への集中爆撃で始まります。アメリカが一国の元首を抹殺しようとしたケースはこれまでもありますが、これほどあからさまな殺人行動は今回初めてです。また、アメリカはイラク国民の解放と言っていますが、いまだに略奪、暴行は日常茶飯事で、治安は混乱の極です。
 アフガニスタン戦争は、そしてイラク戦争は石油と天然ガスのためだったのでしょうか。それへの日本の追随は何のためだったのでしょうか。ほかならぬ軍人出身の大統領アイゼンハワーは、一九六一年辞任のとき、軍部と軍需産業の癒着、いわゆる軍産複合体の危険性を指摘しました。
 九・一一以降の国防予算の増大で、九八年以降黒字になったアメリカの財政は再び赤字に転落しましたが、二百億ドルという年間売上げの七〇%が武器というロッキード・マーチンなどの軍需産業や、ブッシュ大統領のバックの石油産業は笑いが止まりません。
 私は経済学者の端くれですが、著名なるケインズによれば、公共投資は生産的なものではあってはならないのです。有効需要に比して生産力が高過ぎるから不況になっているので、弾丸道路やダムを造って生産力を上げたら、一時的に失業の救済はできても、またぞろ前に輪を掛けた不況になります。お札をつぼに埋め込んで廃坑にぶち込み、上を都市のごみで覆ってしまう、覆ったところでそれを掘っくり返す。それじゃ全く無意味な仕事であっても、それで失業者が救済できる。彼らは今まで買うことのできなかった消費財を買うことができ、生産財部門も息を吹き返す。ケインズは、地震、戦争、ピラミッド造りも役に立つと例に挙げています。
 そういえば、一九三〇年代の世界不況から初めに立ち直ったのは、軍拡に乗り出した日本とドイツだったことは特徴的です。アメリカはニューディール政策にもかかわらず、ほぼ完全雇用、といっても百万人ほどの失業者がいますが、に戻ったのは、何と一九四四年です。もっとも、長い目で見れば軍拡が経済を疲弊させずにはおかないということは歴史が証明しています。核軍拡競争によってソ連は国自体が崩壊し、アメリカも世界最大の債務国に転落してしまいました。これと対照的なのは、平和憲法のおかげで軍事費を抑制し、戦後奇跡的な高度成長を遂げた日本です。
 さて、武力で民衆の安全を保障できないとしたら、それは平和な方法によるよりほかありません。
 コスタリカは中米の小さな国ですが、一九四九年、憲法で常備軍を廃止しました。日本ではわずか六%の教育費が、ここでは四分の一、識字率も中南米で抜群に高い国です。隣国ニカラグアからは百万人の移民を受け入れています。ここの平和憲法はお題目ではなく、積極的な平和外交と結び付いたものです。アリアス大統領はニカラグアやエルサルバドルの内戦で粘り強く仲介して和平を実現し、八七年にノーベル平和賞を受けました。彼は九四年来日したとき、日本の軍備費強化を嘆き、その経済力を第三世界の貧困、環境、医療、教育のために使うべきじゃないかと言っています。
 年々五兆円の軍事費、クラスター爆弾を含めた弾薬だけでも一日五億円という無駄金を第三世界の民衆を救うために使ったらどれだけ感謝されるでしょうか。年間の倉庫料だけで百億円単位という備蓄米の半分でも、韓国の四十万トン供与に見習って北朝鮮に無償贈与したらどうでしょうか。
 そのようにして、世界から尊敬され、憲法前文に言う、国際社会において名誉ある地位を占めるようになった日本を武力攻撃する国がどこにあるでしょうか。有事法制やイラク新法は歴史に逆行するものです。
 私は、九七年に若者たちが主宰するピースボートでアフリカ西岸のカナリア諸島を訪れました。ここは日本の遠洋漁業の基地で、日本に対する関心が非常に深いところです。広島、長崎の原爆については地学の教科書にも載っており、ヒロシマ・ナガサキ広場があって、小さいながら学生たちの憩いの場になっています。そして、この広場には、なんと資料三でごらんのような憲法九条の碑があるのです。
 アメリカでは、オハイオ州立大学名誉教授のチャールズ・オーバービーさんが九条の会を作って、全世界に九条を広めようとしています。また、九九年のハーグ平和市民会議では、今後の行動十原則のトップに憲法九条が掲げられています。
 「剣に依って興る者は剣に依って亡ぶ」つたない遺言です。
 御清聴、どうもありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、加藤公述人、お願いいたします。加藤公述人。
○公述人(加藤正之君) ただいま紹介されました加藤でございます。
 本日は、公述の機会を与えていただきまして、誠にありがとうございます。お手元に配付されております私のレジュメに沿って意見を述べさせていただきます。
 日本国憲法の平和主義と安全保障について。
 私は、被爆地広島に住み、被爆者とともにノーモア・ヒロシマを願う市民として意見を述べていきます。
 私は、日本国憲法の唱える平和主義、すなわち、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確立するとの基本原則を支持します。
 したがって、国是である非核三原則を堅持するのは当然のこと、いかなる国の核保有にも反対、つまり非核・中立の立場を日本国が表明し、国の基本政策としていくことこそが国の安全を保障する根本であると思います。
 一、被爆者の心と願い。
 私は、広島の被爆者たちと様々な話合いをしてまいりましたが、その中で、「国破れて山河在り」で始まる中国の詩人杜甫の「春望」がよく話題になりました。長安の都は破壊されたが、山と川は変わるところは何もなく、「城春にして草木深し」と続くあの漢詩のことであります。
 しかし、八・六広島、八・九長崎は違いました。原爆投下によって戦争の様相は一変し、国破れて山河消えの脅威を現実のものにしてしまいました。核の炎は、人間のみならず山川草木や花鳥など、生きとし生けるものすべてを一瞬にして焼き殺し、あらゆるものを破壊し尽くしました。目に見えぬ放射能はその後も人間の体をむしばみ続け、今なお被爆者の体を痛め続けております。
 究極の兵器である核が地球をすべての生き物が住めなくなってしまう自然環境に激変させてしまうことを広島、長崎は犠牲をもって世界に指し示すことになりました。
 原爆の惨禍から生き残った被爆者たちは、ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ・ヒバクシャを叫びました。人類が核兵器の時代に入ってしまった今、三たび原爆投下を許してはいけない。日本は核武装してアメリカに報復してはならない。やられたらやり返せの核戦争を仕掛ければ人類が破滅してしまう。人類と核、人類と放射能は共存できない。核廃絶こそ、人類を破滅から救い、生き残る唯一の道であり、それこそが原爆で焼き殺された死没者の霊を弔うことに通じるのだという、人間としての心からの叫びの声であります。
 私たちは、国民全体の被爆体験として、被爆者のこの心と願いを共有しなくてはいけないと思います。
 二、被爆体験は憲法の平和主義に息づいている。
 私たちの前には、さきの大戦を反省し、二度と戦争を引き起こさないという決意の下に作られた二つの基本ルールがあります。一つは国連憲章であり、いま一つは日本国憲法であります。しかし、この二つには根本的な違いがあります。
 我ら連合国の人民は、我らの一生のうちに二度までも言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨禍から将来の世代を救いとうたう国連憲章は一九四五年六月に制定されましたが、このときにはまだ世界は広島、長崎を経験しておりません。一九四六年十一月に公布された日本国憲法は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意しとうたっております。
 国連憲章が、戦争に反対しながらも最終的には武力による正義、すなわち軍事的安全保障という考え方を取るのに対し、日本国憲法は、正義の戦争はあり得ない、すなわち非軍事安全保障をうたっております。この違いは一九四五年八月六日と九日という人類史の記憶に残さなくてはならない日付を経験した上での基本ルールか否かの違いにほかなりません。
 核兵器の時代に入ってしまった今日、軍事的安全保障では際限のない核軍拡に走ってしまい、核の脅威から人類を救うことはできません。核戦争に勝者も敗者もありません。国敗れて山河消えの破壊され尽くした地球環境をもたらすだけであります。日本国民全体が共有した唯一の被爆体験国としての英知が、核廃絶イコール核と人類は共存できないという理念を日本国憲法の根底に埋め込んだのであります。
 この非核、非軍事の平和理念は、国連憲章が超えようとして超えられないまま今なお戦火をなくすことができない国際社会に対し、核も戦争もない恒久平和の道しるべとして世界に提示し、この先見性と理念に誇りを持って絶対に堅持すべきであります。
 三、NPT条約では核拡散を防げない。
 いわゆるNPT核不拡散条約は、冷戦期の米ソ超大国の意向で作られました。既に核兵器を保有していたアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国の核保有を認めた上で、これらの国以外に核が拡散しない方が世界はより安全になるという仮説を前提にした条約でした。
 しかし、世界の大半の国々は、核兵器の使用を阻む唯一絶対的保障は核を完全に廃棄することによってしか得られないと確信していました。その確信は、NPT六条の核軍縮、七条の地域的非核化条約の項目に盛り込まれています。他の国々に核兵器の権利を放棄せよと説得するには、五大核保有国が新たな核を作らない、保有する核兵器も最終的には廃棄すると約束して初めて説得力、実効性のある条約となるはずでした。
 ところが、このような約束は結ばれることもなく、それどころか、五核保有国は自国の核開発を強めるばかりで、NPTに対して極めて不誠実でした。
 加えて、安保常任理事国でもあるこれらの国々は、冷戦下にあって、敵の敵は味方、味方の敵は敵といった軍事の論理で核拡散に手を染めてきました。パキスタンのカーン博士は、核兵器開発に必要な部品は世界から買い求めることができた、もしある国が拒んでも別の国から買うことができた、実に簡単なことだったと証言しています。さらに、ソ連のアフガン侵攻のときには、ソ連と敵対関係にあったパキスタンを西側諸国が援助し、パキスタンの核疑惑には目をつぶったのです。
 NPTが成立した七〇年以降、インド、パキスタン、イスラエル、南アフリカ、最終的には核兵器を放棄し、NPTへ核非保有国として参加、そして恐らく、北朝鮮が核保有国となってしまいました。
 このように、NPT条約は、その目的とは逆に核の拡散をもたらしています。
 五大核保有国は保有可能な核兵器を保有し、さらに国際的監視下にも置かれないまま核関連物質を続けています。他方、非核保有国だけウラン、プルトニウムなど核関連物質を国際監視下に置くというのでは余りにも身勝手、差別的であります。
 一部の国々が合法的に核を保有し、それに伴う利益を確保している限り、同じシステムにあるほかの国々も同じように核を保有したいとの誘惑に駆られるに違いありません。そして、その国を強圧的に大国が封じ込めようとするとき、世界に再び悲惨な戦争やテロの嵐が吹き荒れることになりかねません。
 四、北朝鮮の核兵器開発について。
 私は北朝鮮の核兵器開発に絶対反対です。
 拉致を始め数々の不法行為は許すことのできないものでありますし、核兵器開発を強行あるいは続行することは人類の存続を脅かす蛮行であると同時に、北朝鮮にとっても国際的孤立を深めるばかりです。
 しかし、北朝鮮に核兵器開発の断念を迫るのであれば、五大核保有国は自らの核開発を中止しなければ説得力はありません。そして、我が国としても、国の安全上、北朝鮮に中止を求めるのは当然でありますが、五大国を始め核保有国に対しても核兵器の即時廃棄と開発中止を迫っていかなければ、北朝鮮への説得力はゼロに等しいと言わざるを得ません。
 また、アメリカが昨年十二月に発表した大量破壊兵器の不拡散に関する新戦略、いわゆるブッシュ・ドクトリンについて、私は、核兵器の危険性を本気で長期的に抑えようとする意思が感じられず、世界の国々に心から支持されるかどうか疑問に感じます。
 この戦略を要約すれば、核兵器そのものが問題なのではなく、独裁国家やテロリストがそれを保有することが問題であり、この危険を取り除くには先制攻撃もその政権の打倒も辞さない。一方、アメリカ自身は大規模な核兵器庫を更に近代化させていくといった内容のようです。
 私は、次のように考えます。
 核兵器、核関連物質や核技術、専門知識が世界的に蓄積されればされるほど核拡散の危険は高まります。たとえ核兵器がなくなったとしても、核関連物質が存在するだけで拡散は進む危険があります。
 それよりも、まず核兵器を廃棄し、その上で核関連物質を国際的監視下に置く方がはるかに簡単で現実的であります。世界唯一の被爆国として、日本こそこのような国際的合意形成と枠組み作りのイニシアチブを発揮すべきだと考えます。
 五、非核・中立イコールいかなる国の核兵器にも反対を明確に。
 ここで、日本国憲法の平和主義のバックボーンである非核・中立の理念について私の意見を述べてまいります。
 まず、国内にあっては非核三原則や非核自治体宣言など、非核の国日本を徹底させていく。対外的には、五大核保有国やインド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮に対し核兵器開発の中止を申し入れ、核兵器の全面廃棄を要求していく。
 このように、世界唯一の被爆国として、いかなる国の核兵器、核開発にも反対との立場を表明すること。この姿勢こそが全世界の国々を説得し、支持を受けるに違いありません。ひいては、我が国の安全を根本的に保障していくと考えられます。
 しかし、残念なことですが、我が日本国政府はこのような方針から大きく外れてきています。国連総会では核兵器の使用禁止決議を何度も採択していますが、日本政府がこの決議に賛成したのは一九六一年だけで、一九八〇年と八一年に反対し、あとの二十回は棄権しています。あの五十八年前の惨禍を日本政府はいかに教訓とし、いかに国民の生命を守ることに生かしているのでしょうか。
 また、自衛のための核兵器を保有することは憲法の禁止することではないとする政府見解も大問題であります。このような日本政府の態度及び見解は、世界の平和と安全は最終的には核兵器の抑止によって保たれているとする核抑止論を容認しているからにほかなりません。
 しかし、核は人類と絶対に共存できないのです。核抑止論、すなわち必要悪的核容認論では核廃絶に近付くことはできません。私は、四十年前、部分的核実験停止条約をめぐって原水爆禁止運動が分裂し、その後の原水禁運動に取り返しの付かない影を落としていった不幸な歴史を思い出します。この条約では地下核実験が除かれていたため、核軍縮にどれだけ役立つか疑問でしたが、それ以上に不幸であったのは、社会主義国ソ連の核実験には反対すべきではないという主張が持ち込まれ、大混乱に陥りました。ソ連の赤い死の灰は許し、アメリカの死の灰には反対という主張と、いかなる国の死の灰にも反対という主張が衝突して、当時盛り上がりを見せていた原水禁運動は深刻な影響を受け、全国民的課題であるはずの核廃絶の運動に亀裂が入りました。
 核戦争の被害は、主義主張に関係なくすべての人間に降り掛かります。私は四十年前の悲しい記憶から、非核はすなわち中立でなければならない、いかなる国の核兵器に対しても等距離イコール中立を堅持してこそ正当性を主張できると考えます。
 したがって、世界に緊張関係をもたらしている現在の北朝鮮の核開発に対し、その中止を強く要求すると同時に、アメリカの小型戦術核の研究開発の最近の動きに対して中止を申し入れるべきです。北朝鮮の放射能は我慢できないが、アメリカの放射能には目をつぶるというダブルスタンダードの態度では、国際社会の支持も信頼も得ることはできません。緊張が高まっている今こそ、日本国憲法にうたう平和主義とそのバックボーンである非核・中立の真価が問われています。
 六、二十一世紀を戦争の世紀ではなく環境の世紀に。
 冷戦終結で米ソの核戦争の危機は遠のき、軍事的緊張と負担から解放されていくのではと、私たちは二十一世紀を明るい希望で語ろうとしました。また、持続可能な開発を合い言葉に、地球サミットで宣言されたアジェンダ21に盛り込まれている地球環境の諸問題、オゾン層、砂漠化防止、大気汚染防止、地球温暖化、森林保全、人口問題、貧困の撲滅等々に本格的に向き合っていく期待が膨らみました。
 しかし、その希望と期待はしぼみ、軍事一色の世界に様変わりしたようです。特に、九・一一同時多発テロ以降、アメリカのブッシュ・ドクトリンによって殺伐とした社会になってきました。圧倒的軍事力を背景に、先制攻撃と一方的軍事行動に支えられた単独行動主義の外交に対してどのように付き合っていけばよいのか、諸国は問われています。
 日本とて例外ではなく、日米同盟の軍事的側面が先に走っていくような方向は望ましいことではありません。大量破壊兵器の廃棄やテロ撲滅も、さらに地球環境の諸問題にしても、はっきりしていることは軍事力優先では解決しないだろうということです。
 国同士が軍事的安全保障イコール軍備で対峙し、紛争解決の最終手段として戦争に訴えるという時代は過去のものです。そのことは、これまで述べてきましたように、八・六広島、八・九長崎の被爆体験が明らかにしていることであり、核やミサイルで地球環境問題は決して解決できません。
 私は、日本国憲法の平和主義の理念、非核・中立と非軍事の安全保障の原則は、二十一世紀を貫く平和理念として堅持していかなければならないと思います。
 これからしばらくアメリカの一極構造ともいうべき時代が続くのでしょうが、そのときに、軍備は最小にしかつ国際協調の話合いを基本にした諸国の安保外交が重要だと考えます。
 私は、国の安全保障は、つまるところ諸国から信頼され、尊敬される国づくりにあると思います。国際的に通用する言葉で理念を語り、誠実に行動することが軍備を超える安全保障につながっていくと信じます。
 以上です。
 御清聴ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、田中公述人にお願いいたします。田中公述人。
○公述人(田中夢優美君) 十五分自分の考えを述べられるチャンスに恵まれたことに感謝しています。
 五月三日に新しい憲法をつくる国民大会で首席をいただいた作文を応募原稿にしました。これをまず読みたいと思います。
 大学生になったら私はチャレンジしていこうと決心していました。とても入りたかった大学に入学できて、この姿を六十二歳で他界した祖母に見てもらえたらどんなに喜んでくださっただろうかと思うと胸が熱くなりました。亡き祖母に、そして祝福してくださる元気な祖父とおじ、そして母に心から感謝して生きています。日ごろ、祖父に学ぶことが大切だといろいろ教えてもらっているので、ポスターを見て最初のチャレンジがこの作文でした。
 私は、日本国憲法施行から半世紀以上が過ぎている今こそ憲法を改正をするべき時期が来たと思っています。日本では半世紀以上もの間一度も改正がなされていませんでした。これは世界的状況下でとても珍しいことです。アメリカでは二〇〇一年の同時多発テロ事件後、本土安全保障省という新しい省を迅速に設置しています。私は、日本もこのように法律も諸官庁も状況を把握して必要なものを作ること、また必要な改正ができることが必要だと思います。
 二十世紀の有事想定の枠を超え、二十一世紀の同時多発テロは今までになかったことが起きています。このことを踏まえ、日本はテロを含む有事を想定しないわけにはいかないと思います。有事とは日本の望む望まないが基準ではありません。まして、自衛のみなので攻撃しないでと日本が一方的に言っても攻撃されないとは限りません。済みませんが軍隊はないので日本には何もしないでください、戦うとしたらアメリカが戦ってくださいという考え方はこのまま続けてよいものではなく、アメリカにも失礼だと思います。
 だれが自国を捨てて逃げる他国のために戦ってくれるというのでしょうか。世界のどの国を見ても、自分の国のために一生懸命なのだと思います。日本が戦争放棄していることが、イコール敵が出てこないと思い込んでしまっているのではないかと思います。
 私は、平和をもっと正しく理解する必要があると思います。日本という自分の国がある尊さを大切にすること、国家があって初めて日本人として存在できること、この二つがポイントだと思います。ですから、日本が戦争しないとうたっているから備えが不必要だということではありません。むしろ、世界には多くの国々があるのだから、他の先進国と見合わせても、備えをしっかりする考えに変えるべきだと思います。
 以前から靖国神社参拝への近隣国からの批判、テポドンの的が日本に向けられていること、それに普通に暮らしていた人が連れ去られ、北朝鮮にいたという拉致の事実。これは攻撃とも内政干渉とも無関係な単なる事件と済ませてよいのでしょうか。日本はもっと毅然とした態度を取るべきだと思います。
 そのために必要なのは、幼いころから日本に生まれ育っていることに誇りを持てるように教育することだと思います。そして、世論調査で戦争になったら逃げるという回答が少しでも減ることだと思います。自分の国は自分で守るという当たり前のことを是非教育するべきだと思います。そして、正しいこと、してはいけないこと、思いやりの心、何よりも感謝する心を持つ道徳的教育が大切です。
 最後に、二十一世紀からの日本は、国家の基盤である安全保障を充実させることを最優先するべきだと思います。
 作文はこれで終わりです。この作文で私は安全保障を充実させることが必要だと述べていますが、有事関連三法案が成立する見通しになったのはとてもよいことだなと思っています。作文に関連し、私の考えをここで申し上げます。
 平和とは、無防備でいることが平和ではないと思います。国家が国民と国家を外部から守り、安全な状態にしておくことが平和だと思います。安全保障は国の存亡にかかわる重大なことです。それには国民一人一人が愛国心を持って、日本人全員が日本人自身で国を守るという気持ちが必要だと思います。
 長い歴史の中で形成された日本という国に誇りを持ち、大切にしていかなければならないと思います。自分たちの国なのですから、勇気と誇りを持って国を守ろうという精神が必要だと思います。敗戦後に日本は愛国心よりも個人主義に走り、利己的になってしまったのではないかと思います。日本が戦争になったらどうしますかという世論調査に、いつも逃げるという意見があるのはこの表れだと思います。
 自分の国を愛する日本人としての誇りを持つ、これは国民にあって当然の精神です。これがあってこそ人々は国のために団結し、命をも惜しまぬ真剣さが出てくるのだと思います。私たちは、日本という国家がある有り難さ、国家があって存在できる日本人であるということを再認識する必要があると思います。
 国をめぐって、中東ではイスラエルとパレスチナの戦争が絶えていません。日本は、国を失うということは今までなく来れましたが、この後も攻撃されずにずっとあり続けるという保証はないのですから、安全保障の部分を充実させるのは大変に必要なことだと思います。
 そして、我が国を守るためにある自衛隊を国防軍として我が国に保持するというようなことを憲法にしっかり明記するべきだと思います。自衛隊が日本の国のために有事の際には命を懸けますので、そのためには、いつも自衛隊法上武器を使えるとか使えないという話がよく出ますが、この部分は改正して、しっかり、自衛隊の人たちの人権を守るためにも武器をしっかり使えるようにする必要があると思います。
 国民は、国家の安全のためにある自衛隊にもっと感謝と尊敬の念を抱いてよいと思います。アメリカでは、ブッシュ大統領がいつも演説の際には、諸君のおかげで米国はより安全になった、米軍の制服を着るすべての軍人に特別な言葉を贈りたい、米国はすばらしい仕事に感謝している、また、国家と大義への尽力に感謝するなどということをいつも演説に必ず述べられています。このように、国民は国家の安全を守っている自衛隊にもっと感謝と尊敬の念を持つべきだと思っています。
 以上です。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、畠山公述人、お願いいたします。畠山公述人。
○公述人(畠山圭一君) ありがとうございます。
 学習院女子大学の畠山圭一と申します。
 本日は、このような憲法に関する大変重要な調査会の場で私の考えていることについて述べさせていただく、そういう機会を与えられたことを心より感謝申し上げます。
 順を追って、私のレジュメに従って私の考えを述べさせていただきたいと思います。
 私は国際政治という学問分野を専門としておりまして、その専門の分野から今日の世界、特に冷戦後の世界というものはどのように変化をしたのか、それによって今後の我が国の安全保障政策というものはいかにあるべきかということについて、私が考えているところを述べさせていただきます。
 冷戦が一九八九年に終結をいたしたわけでありますけれども、終結に向かうそれよりもかなり早い時期から、徐々に冷戦後の世界というものの姿が、少しずつではありますが、見えてきておりました。
 とりわけ、冷戦が終結するということはどういうことかということについて、私は国際政治を専門とする立場から、まず第一に、仮想敵国というものが非常にイメージとして薄れていくだろうということをまず感じておりました。仮想敵国というものがまず冷戦時代ほど明確ではなくなっております。
 特に、イデオロギーに基づく共通の敵のイメージというものが、これが不明確になってしまいました。そして、そのことによって、これまでは東側あるいは西側といった形で一つのイデオロギーに基づく共通の敵というのがございまして、同盟関係というのもこのイデオロギーに基づく敵対関係がベースに存在していたわけであります。ところが、一九八九年十二月に冷戦が終結して以来、この状態が徐々にイメージが薄れていくというのが冷戦後の一つの戦略環境の特徴であります。
 それから、もう一つの特徴として、冷戦時代でありますと、今言ったように西側、東側というような二つの陣営がありましたために、その同盟国の主導的立場にあるいわゆる超大国というものの力というのが各同盟国に及ぶということがあり、いわゆる国内の対立あるいは近隣諸国との間の対立関係というのが言わば力によって抑えられているというような状況がございました。ところが、冷戦秩序が崩れてまいりますと、国ごとの対立、紛争というものが、むしろそういった信仰や民族感情といったような精神的価値に基づく紛争という形で登場してまいります。この結果、現実には、冷戦が終われば平和になると私たちは大変期待を持って迎えたわけでありますけれども、現実に出てきたのは、コソボの紛争に象徴されるようないわゆる多民族国家における内紛であり、民族紛争でありました。
 このような場合、私は大変厳しい問題だなと思ったのは、精神的価値観に基づく対立というのは、事、正義か否かということの議論ができない紛争でありまして、どちらに味方することもできない、敵対することもできない、ある意味では仲裁することもできないという大変厳しい状況がそこに登場してくるだろうということを感じておりました。
 そして、三番目の問題として心配していたのは、国家以上に安全保障の脅威となる非国家主体、いわゆる国際テロリズムといったものに象徴される非国家主体が存在をするということであります。
 このことは、冷戦後、私たちが、我が国が体験したオウム真理教による地下鉄サリン事件が見事に物語っておりました。いわゆる非国家主体、テロリズム、テロ集団が国家の安全保障に類する、安全保障の脅威になっていくということが、そのとき私たちの目に明らかになったわけであります。
 また、国家とは名乗っているものの、従来の国家観念から考えますと、まるで理性を失ったかのような、あるいは常軌を失ったかのような行動を取るそういう国家、いわゆるならず者国家というものが存在をしている。また、そういう国家が、冷戦後のいわゆるおもしの解けた中で必ずや台頭してくるに違いないということも、当時、私は冷戦が終わる直前から想像をしていたわけであります。
 そして、もう一つは、冷戦の、これは冷戦終結を早めた一つの原因でもありますけれども、いわゆる軍事上の革命と呼ばれる事態が進行していたということであります。それは、攻撃形態あるいは攻撃の手段、あるいはその手法であります。そういったものが急速かつ革命的に変化をしていると。これは情報化社会というその社会の変化に伴って起こってきた現象でありまして、単に軍事的野心といったものから起こったものとはいささかきっかけが違うわけでありますが、そうした軍事的、軍事上の革命というものが進行していたということ。
 そして、もう一つは、大量破壊兵器が使用不可能な兵器であるという不文律そのものが大きく冷戦の解決、終結によって崩れ去っていくだろうと、このようなことを想定して、私は感じていたわけであります。そして、一九八九年以降の世界は、見事にこれらの五つの視点を証明していたかのように私には映っております。
 このようになってまいりますと、私たちが考えなくてはならないのは、脅威というものは果たしてどこからやってくるのかと。敵対する国家からやってくるのか、それともほかのものから脅威というものが及んでくるのかということを考えてみなくてはならなくなったわけであります。
 これまでは、国益に基づき合理的な計算によって行動することを予定されていた国家同士が、それぞれの国益やそれぞれの国家の方針によって作られていた国際関係の摩擦、その対立によって起こってくると言われていた安全保障の大前提が崩れ去ってしまったわけであります。そしてさらに、不特定の主体による対応困難な新しい形式の、あるいは新しい手段を用いた攻撃が大変重大な脅威になってくるという、全く我々今まで想像したことのないような新しい事態が登場してきた。
 そうなってまいりますと、安全保障というものを考えるときの大前提である脅威とは何かという議論そのものの根本的な考え方を改めていかなければならなくなったというふうに私は考えています。脅威の実体というのは、仮想敵国という国家存在ではなくて、むしろ不特定の主体による攻撃形態、手段というものに移ってきているのではないか。もちろん仮想敵国というのは存在するわけであります。むしろ、この仮想敵国という国家存在と、もう一つは不特定の主体による攻撃、あるいは新しい種類の攻撃といったようなものを私たちは加えて考えなくてはならなくなった。
 安全保障戦略の策定も、そういう意味では、これまでのように仮想敵国だけを想定した発想法から超えて、脅威となり得る攻撃手段あるいは形態といったものに対してどのように国の安全保障を確保していくかというような根本的な発想の転換が必要になっているのではないかというように考えるわけであります。
 先ほど、私は不特定主体による対応困難な攻撃の話をいたしました。このことを私たちはかなり深刻にとらえてみなくてはならないわけであります。特に、国際政治を専攻している、研究をしている者にとりましては大変深刻な問題を提起しております。それは、従来、外交戦略において頻繁に用いられてきた抑止戦略というものと強制外交という戦略の非常に重要な柱であったこの二つの戦略がともに限界に達してきているということであります。
 抑止というのは、相手がある行動を起こすときに、そのコストとそれからリスクというものが期待した結果よりも上回ることによって、つまりコストが非常に掛かる、リスクが非常に伴うということで相手が行動を断念するというように状況を設定する努力であります。ですから、相手を攻めたらかえって報復によってリスクが高くなると相手が実感をいたしますと攻撃できなくなるというようにするのが抑止というものでありますが、これは何よりも相手が行動の利害得失を計算するということを前提としております。
 しかしながら、国際テロ集団となりますと、このリスクをいとわないというようなことをもし前提といたしますと、彼らはいかなる計算をしてもリスクを問わないわけでありますから、これはどのような状況があっても抑止力が利かないということになってまいります。
 しかも、さらに、抑止戦略が効果を及ぼすためには、その抑止戦略を行使する側がいかなる事態があっても相手の行動に上回るだけの反撃あるいはそれだけの報復をするという確固とした意思を表示しておかなければならない。あるいは相手が、少なくともこちら側がそういうふうに出ていくであろうということを最初から想定している、実感していなくてはならないわけであります。
 そのことを十分に伝えることが必要になるわけでありますが、まずそのためには相手がどこにいるかということが明確でなくてはならないわけでありまして、そして、その相手が明らかにそのリスク計算ができるということを前提としていなくてはならないわけでありまして、明確な状況に対するコミットメントをするという意思を、少なくとも抑止戦略を行使する側は持っていなくてはならないわけであります。
 ところが、民族紛争や宗教紛争に対しては、これはコミットできないたぐいのものであります。したがって、抑止戦略はほとんど通用しない、民族紛争、宗教紛争についてはほとんど機能しないというようなことが出てまいります。
 次に、強制外交というものなんですが、強制外交というのは、既に紛争が起こっている場合によく用いられるものであります。相手が武力行動を起こした場合、それを断念させるために、まず説得をするための前提条件として一定の威嚇や限定的軍事力を行使することによって、相手に対していったん戦争行動を止めて、そしてその上で説得を行うというのが強制外交でありますが、その説得を成功させるためには交渉、取引あるいは妥協の余地というのを残しておかなくてはなりません。
 ところが、最初から交渉、取引、妥協の余地がない相手に対しては、これは通用しない方法であります。しかも、そればかりか、相手が交渉、取引あるいは妥協が不可能であると判断した場合、つまり宗教的な目的を達成しようとするまではこの戦争は終わらないというような意思を持っている場合は、こちら側の威嚇はかえって相手に絶望感を助長することになり、相手はかえって非妥協的な態度に出るという、そういうことになってまいります。
 また、大国と小国との間、小さい国と大きい国との間でもこの強制外交は通用いたしません。大国による威嚇は容赦のないものになりやすく、逆に融和的であれば小国の方はかえって得るものが大きいと判断をしてこの妥協には応じてこないということになります。北朝鮮が核兵器をちらつかせてその見返りとして大国から何らかの援助を得ようとする戦略はこのたぐいであります。つまり、強制外交の裏をかいたような側面があります。
 このようなことを考えてまいりますと、この強制外交も非常に通用しにくい。ならず者国家あるいは宗教紛争あるいはテロリズムといったような問題を考えるときには、この抑止戦略も強制外交も通用しない。そのようになって、さらに核、大量破壊兵器の拡散現象が起こってきていて、その中で私たちがどのようにしてその大量破壊兵器の脅威から身を守っていくかという問題が重要になってくると思うわけであります。
 そこで、いったんここで締めたいと思うんですが、そのレジュメの二枚目のところに新たな戦略発想の必要があるということを述べておりますが、一つは地域ごとに脅威の形態が違っていると。冷戦時代のように単純ではない、そういう脅威の形態が非常に多様化した、そういう世界像の中でどのようにしたならば世界秩序を維持することができるのかということ。それから、抑止戦略や強制外交が通用しなくなった中で、いかなる安全保障戦略が考えられるのかという問題。そして、同盟国アメリカにとって本土防衛の強化が最優先かつ喫緊の課題となった中で、同盟関係をどのように調整していくのかということ。それから、弾道ミサイル攻撃や国際テロリズムやあるいは大量破壊兵器使用の可能性が増大していく中で、いかにして国土の安全を確保するのかというような、そういう新しい戦略発想が必要となっていくであろうと思うわけであります。
 当然このことは、これからここで御審議なさるであろう憲法第九条の問題と深くかかわってまいります。新しい時代の安全保障、国防をどのように考えるかということが第九条の中にまた反映されていくことになるだろうと思いますけれども、そのことを一言申し添えて、後の質疑応答でまた細かい点については意見を述べさせていただきたいと思います。
 以上でございます。ありがとうございます。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 以上で公述人の方々の御意見の陳述は終わりました。
 速記を止めてください。
   〔速記中止〕
○会長(野沢太三君) それでは、速記を起こしてください。
 これより公述人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 椎名一保君。
○椎名一保君 御指名いただきまして、ありがとうございました。自由民主党の椎名一保でございます。
 本日は、公述人の皆様方、本当にお疲れさまでございます。ありがとうございます。尾形公述人におかれましては、貴重な御体験から平和理念をお聞かせいただきまして、ありがとうございました。また、加藤公述人は広島県の御出身ということで、核軍縮、地球上から核を廃絶というその基本理念、私も同感でございます。そのような気持ちを持ってやっていきたいと思っております。
 初めに、田中公述人に御意見をお伺いしたいと思います。
 田中さんのような世代の方が勇気を持ってこういう場に臨んでいただいたということ、そしてその応募原稿、今の御意見をお伺いいたしまして、往々にしてこの安全保障を語るときに、平和的、平和理念を持たないで、相手がこうしたからこうするんだ、こうしなければいけないというような考え方で物事を語る方が多いんです。
 午前中の公述人のお話にもそういう若い人たちがいるというお話を伺いましたけれども、でも、あなたの、安全保障体制を整える、これは基本に平和理念があって、そのために体制を整えなければならない、やはり日本人の命を大切にしようということは他国の人の命も大切にすると、そういうお考えを感じさせていただきました。大変敬服をいたしました。恐らく、今日ここにおられる、少なくとも自民党の委員の先生方は同じ気持ちを持たれたと思っております。
 平和の問題を考える上で二つまずおっしゃられました。一つは、日本という自分の国がある尊さを大切にする、そして国家があって初めて日本人である自分が存在できる、この二点が重要であると、こう述べられました。これを踏まえて、日本という国を大切にすべく、誇りを持てる教育をすべきであると。そして、自分の国は自分で守るというその当たり前のことを教育することが必要であるということを述べられました。いずれにつきましても私は同感でございます。
 率直に申し上げまして、なかなか私どもは、田中さんと同じような世代の方々が安全保障とかということに関しましてどのような意見を持っておられるのか、その日常生活の中でこういうことが話される機会があるんだろうかと、恐らく多くの方はそうお思いだと思うんですけれども。こういう物事に対しての田中さんの世代の周囲の方々の御意見というものが田中さんからお聞きできるかと思うんですけれども、率直に新鮮な話を聞きたいと思うんですけれども、もしそういうことが、そういう機会がなかなかないようであれば、どうしたら、やはり日本人が平和を語る上で最も必要なことだと思うんですけれども、どういう機会を持ってこういうことを啓蒙していったらいいか、こういう機会を作っていったらいいかということについて御意見をお伺いできればと思います。
 ちょっと突っ込んだ話で恐縮ですけれども、先ほど田中さんの御意見にもございましたけれども、憲法九条の話。なかなか憲法九条というのは難しい解釈が必要で、現実、自衛隊というものが存在しているわけですけれども、田中さんの世代の方々が、もう大学生でございますね、恐らくもう中学、高校、憲法を読む機会を持ったり、時間があったと思うんですけれども、率直に言って、もっと分かりやすいものに変えたらいいとか、そういうような意見というのは田中さんの世代、そういう周辺でそういう話、意見を持った方がおられるかどうか、その辺りについてお聞かせいただきたいと思います。お願いいたします。
○公述人(田中夢優美君) 教科書で学ぶときには、教科書に書いてあるのですと、軍備を持たないと書いてあって、それで戦争を放棄しているイコール平和というような教科書があって、それのとおりに教えられるので、そんなものだなと思ってテストに書いているというような感じだと思います。
○椎名一保君 あともう一つ、お仲間の中でこういう安全保障とかこういったことについて意見交換をしたりという機会はおありになりますか。
○公述人(田中夢優美君) 私の周りではさほどないです、私の周りでは。
○椎名一保君 そうですか。
○公述人(田中夢優美君) そうです。
○椎名一保君 やはり大切なことなんで、もう田中さん御本人がこのようにこういう機会に勇気を持って臨まれているわけですから、同世代の方たちももっと積極的に平和理念を基に安全保障のことを話をする機会を持たれた方がいいと私は思うんですけれども、そういう機会を多く、そういう機会を作るためにはどうしたらいいでしょうか。
○公述人(田中夢優美君) 新聞とかで分かりやすく憲法について書いたら、興味を持って読む人が増えると思います。
○椎名一保君 ありがとうございました。
 続きまして、畠山先生にお伺いしたいと思います。
 ただいまのお話とレジュメの中で、先生は、軍事技術の進歩と脅威の性質の変化によりまして、我が国の国防政策が根拠としてきた防衛思想と申しますか、そのものが限界に来ておると。内閣法制局の集団的自衛権や専守防衛をめぐる解釈は、我が国を取り巻く安全保障の実態と懸け離れてきておるんではないかという意見を述べられております。その意見につきましては、私も、五月十四日の本憲法調査会の自由討議の場におきまして同様の意見を述べたところでございますけれども。
 そもそも憲法九条の解釈をめぐって、先ほど御意見ございましたけれども、後ほど少し突っ込んでお答えするというお話でございましたけれども、やはりこのような混乱が生じている根本原因は九条そのものにありまして、たとえ解釈を変更したとしても条文そのものを改正しなければやはり混乱は避けられないんではないかと思います。例えば、今の田中公述人のお話にもございましたけれども。
 そこで、憲法九条、特に第二項の改正について、その内容について具体的な提案があればお聞かせいただきたいと、それが一点。
 先生はアメリカの国防政策についてお詳しいというお話をお伺いしておりまして、今、いろいろ私は報道でしか知ることができないんですけれども、アメリカの国防政策、根本的に変わってきていると、そういうお話を聞いているんですけれども、今の日本がその点について特に留意をしなければならない点につきまして教えていただきたいと思います。
○公述人(畠山圭一君) 御質問についてお答えいたします。
 まず、憲法をめぐる考え、憲法をめぐるその背景にある防衛思想そのものが変化をして、非常に限界に来ているのではないかということについての御質問でありましたけれども、皆様のところにありますレジュメのところの六番と七番について私がその点をちょっと指摘していたわけであります。その中で三つの点を私は挙げております。
 一つは、まず、非常に相互依存体制が高度に進んでしまった世界であるということであります。その結果、我が国の安全保障ということで、我が国の国土の防衛ということだけを想定していたのでは恐らく我が国の生存を達成することができないという、そういう非常にゆゆしい事態がこの五十年の間に進んだということです。相互依存は大変すばらしいものでありますけれども、しかしながら他国の問題に無関心ではいられない時代になったという点であります。その点をまず第一点、言っておきたいと思います。
 それからもう一つは、軍事技術の進歩による、軍隊の機動力が向上してしまったということであります。したがって、必ずしも大部隊が準備を整えて我が国の海岸に押し迫ってくるというようなものではないということであります、今後の考えられる安全保障上の脅威というのは。もちろん、そういう攻撃もあるやもしれませんが、その蓋然性は極めて低いであろうと。むしろ、高まっている攻撃の形態というのは、例えばミサイルといったようなもの、あるいはテロリズムを多用、活用する、いわゆる国家によって支援されたテロリストの活動ですね、そういった国家支援テロリズムといったようなものがあり得るということであります。
 それからもう一つは、先ほど言ったように、国際テロリズムという形で非妥協的な、しかも国家以上のある意味では脅威となる手段を持ち得る集団が出てきたということであります。それから、いわゆる冒険主義と言われている、冒険主義を多用、使用する国家、具体的には北朝鮮のような国家がそれに相当するのだろうと思いますが、そういったものの増大、台頭が出てきていると。
 そうなりますと、我が国の憲法九条というのは、言わばいまだ大部隊が部隊を整えて我が国の周辺に押し寄せてくるということを前提とした防衛、そういうことを前提として作り上げられた憲法の国防規定であるということであります。そうしますと、状況が全く変わっておりますので、当然、その枠にはまらない部分が出てくる。例えば、解釈の問題で申し上げますと、集団安全保障の問題はさることながら、これはもちろん当然認められることでありますが、集団自衛の問題であります。果たして、我が国への攻撃ではなくても、それが我が国の生存にとって死活的な重大な事態をもたらすような紛争が起こった場合に、我が国はこの問題を手をこまねいて見ていることができるのだろうかという点であります。
 現在、後方支援といった形で多少なりともそのギャップを埋めようという努力はなされているわけですが、果たして後方支援で済むような段階でとどまるようなことが、今後もそういうふうにとどまるということを確信できるんだろうかということがまず一点であります。
 それから、先ほど言ったように、ミサイルといったようなものが飛んでくる場合は、例えば北朝鮮あるいは中国といったようなところから飛ばした場合、恐らく十分と掛からず我が国の上空に達してくるわけでありまして、これを防御するためにはどういう、いかなる手段をとらなければならないのか。そうすると、いろいろな議論が出てくるわけですね。先制攻撃だといった議論がやられたりします。しかし、私自身は、先制攻撃が果たして選択肢としていいかどうか、これについては正直言ってまだよく分かりません。それは状況次第だろうと思います。
 ただし、飛んでくるミサイルを自らその技術によってこれを排除するということは、自ら排除することということは、いろいろと手段はあるだろうと私は感じております。例えば、現在議論になっているTMDあるいはMD、ミサイルディフェンスなどはその部類に入ってくるだろうと思うわけです。
 そして、そのような、しかも機動力が非常に高いですから、非常に高機動力を持って我が国領土を制圧するという可能性もあります。我が国領土というのは、何も、我が国の本州あるいは九州、四国あるいは北海道といったような大きな島だけではありません。小さな島でも、いったんそこが占領されるといった場合に、私どもはどのような手段をもってこれを解放することができるかということを考えますと、我が国の防衛政策の中で一大欠点だと私が感じているのは、我が国の憲法解釈上、少なくとも他の国土に、他の国土とは言っちゃいけないですが、一つの領土に上陸するような部隊編成は持っていないということであります。しかし、もし我が国の島嶼部がどこかの軍隊によって占領されるというような事態になったときに、果たして上陸部隊を持たない自衛隊は我が国国民を解放することができるのだろうか、こういう危機感を私は抱いております。それを抱かせたのは尖閣諸島をめぐる混乱であります。
 尖閣諸島にもし仮に他国の軍隊が駐留をする、あるいは、尖閣諸島にはまだ国民はいないかもしれませんが、例えばこれが具体的に対馬といったようなところに他国の軍隊が駐留するというようなことになったときに、私どもはそれを排除する手段は持っておらない。なぜ持たないか。それは他国にとって脅威になるからであるという憲法九条の解釈がこれを止めているという現実を私は見ておく必要があるのではないか。このようなことを自衛隊の問題を考えるときに感じた次第です。
 ですから、もし、少なくとも、自衛する、自衛のための手段はこれを保持するという規定は絶対に必要だろうと思います。それだけは一点申し上げておきたいと思います。
○椎名一保君 アメリカの国防、あと三分程度でお願いいたします。
○公述人(畠山圭一君) アメリカの国防政策でありますけれども、アメリカの国防政策というのは単独主義ということをおっしゃる方がいらっしゃいますが、私はそうとは考えておりません。正しく先ほど申し上げたように、地域ごとに脅威の形態が異なっているということで、今までのような単純な安全保障戦略ではできないというのが、少なくともブッシュ政権あるいはその前のクリントン政権の時代から議論されてまいりました。
 どういうことかといいますと、グローバルなイシューについては、グローバルな問題については、これはグローバルな組織で対応すると。しかし、リージョナルな紛争についてはリージョナルな論理で対応していくと。簡単に申し上げますと、中東なら中東地域については、中東国、中東諸国の独自の安全保障体系が必要であろう、ヨーロッパについてはヨーロッパの独自の安全保障体系が必要であろう、アジアについてはアジアの独自の安全保障体系が必要であろうと。
 ただし、その際、各地域の安全保障体系だけを問題にしてまいりますと、いわゆるブロック化あるいは地域対地域の対立の原因にもなりかねないということから、ここについては世界の大国、まあそれはG8なのか、それとも安全保障理事会の常任理事国なのかは分かりませんが、そうした国々と相協力してすべての地域にそれらはコミットをしていく、それによって地域、リージョナルな特殊性を配慮した、しかし世界全体として平和を構築できるようなシステムに作っていきたいというのがどうもアメリカの戦略の方向性として出てきているというのが私の見解であります。
○椎名一保君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 峰崎直樹君。
○峰崎直樹君 今日は四人の公述人の方ありがとうございました。
 民主党・新緑風会の峰崎でございます。
 そうですね、多岐にわたっているのでどこから入ろうかなと思っているんですが。
 実は私は加藤公述人と同じように広島県に生まれ、そして育っておりまして、常々、原爆の問題とかそういうことについて、大変私自身も加藤公述人と同じような考えを持っているんですけれども、一点、中国の方々と一度話をしたときに、皆さんは原爆の被害のことを広島の問題について言われるけれども、広島という名前を聞くと、実は日清戦争のときの大本営が置かれて軍都として栄えた町であると、そのことに対する認識というのはあなたは持っていらっしゃらないのかと、こういう鋭い指摘を受けたことがございます。
 加藤公述人はその点についてはどういうふうにお考えになりますか。
○公述人(加藤正之君) 私も今の質問と同じ考えを持っております。ただ、今日触れなかったのは、ちょっと時間がなかったということで意見述べませんでしたけれども。
 確かに、言われるように、アジアの諸国には、半分、極端に言えば半分ぐらい、やっぱり被爆は仕方がなかったんだ、やむを得なかったんだという、そういう意見があるのは私も知っています。それに対して、広島の被爆者とか市民とかあるいは国民がそういうアジアの声というか批判に対してどのように向き合っていけばいいのかというのは、まだ大きな宿題として残っていると思います。まだほとんど手付かずと言っていいと思いまです。
 そういう点での日本国民全体のそれぞれの議論というか、これはもう戦争責任も含めた大きな問題に発展していくと思いますけれども、そういう問題はちゃんと問題意識として私持っておりますし、この憲法調査会の議論の中でもその辺はきちんと踏まえるといいますか、想像力の中に含めた上で検討していただければと思っています。
○峰崎直樹君 加藤公述人に、今、私、実は中国の方々も原爆が落ちたことはそれは正しかったと言っておられるんじゃないんですね、原爆の被害を受けたことに対するそれはもう大変なことだということは認めつつも、もう一方で加害者としての立場というもの、我々、ともすれば被害者としての意識はよく持つんですが、加害者であったという意識をともすれば忘れてしまうということがあるんですが。
 そこで、今の実は関連して、アメリカの国内において、日本の原爆投下というのはこれは正当化されるのかどうかという議論が実はあるわけですね。これはほっとけばもっと日本の抵抗によって被害がもっともっと大きくなった、だから原爆投下というのはやむを得なかったんじゃないかという意見と、いやいや、やっぱりあれは大量殺人兵器であり非人道的な兵器だからこれはまずいと、こういう意見があったということについて、加藤公述人はどんな御見解をお持ちでしょうか。
○公述人(加藤正之君) 私もそういう点について専門的に研究したわけではありませんけれども、私がいろんな本を読んだりいろんな話を聞いた中では、原爆の開発とかあるいは原爆を直接投下するかどうかというところにかかわったような、かつての軍人とかあるいは核の物理学者とかそういう方たちは大体必要じゃなかったというような意見を持っておられるように私は理解しています。その分と、アメリカの国民ですよね、一般レベルでは全く意見が違って、もう被爆のことを言えば、パールハーバーだ、あれは戦争の犠牲を少なくするために必要だったんだというのがわっとすぐ急速に一般レベルでは出てきて、それが大きな支配になっているという、そういう感じは持っております。
○峰崎直樹君 田中公述人にお伺いいたしますが、先ほど私が、中国の方々の、日本が加害者であったときの広島というのは、そこが基地になって、日清戦争の正に大本営が置かれたところなんですね。もっと歴史はいろいろと古く、さかのぼればいろいろあるんですが、近代以降、明治維新以降、この日本のいわゆる海外侵略といいますか、特にアジアの国々に対するそういう様々な出来事が起きたわけですね。そういうことに対する、田中公述人はそれをどう評価されているのか、まずお聞きしたいと思うんですが。
○公述人(田中夢優美君) 過去に戦争していない国はないというほどに思いますから、よく分かりませんけれども、事あるごとに日本に責任責任といつも話がありますけれども、もう戦争の責任はお取りくださった方々もいらっしゃいますし、何だか経済的な援助などもいろいろしているので、もうその点については十分だと思います。
○峰崎直樹君 例えば村山総理大臣の時代に村山談話というのを発表されているんですが、その中身については御存じですか。
○公述人(田中夢優美君) 詳しくは知りません。
○公述人(尾形憲君) 済みません、耳が遠くて、よく聞き取れないものですが。
○会長(野沢太三君) 御意見がありますか。
○峰崎直樹君 いや、尾形公述人には聞いておりませんから。
○会長(野沢太三君) 田中公述人、もう一度、じゃ。
○公述人(田中夢優美君) 特に詳しくは知りません。
○峰崎直樹君 決してこれ追及型で話しているんじゃないんですが。
 実は、ある女性の衆議院議員で、どの党とは申しませんが、戦前の日本の軍国主義の時代に様々な、例えば従軍慰安婦の問題やあるいは様々な戦争中の出来事を指摘をされたときに、それは私のように戦後生まれの人間にとってみたら実は関係ないことですと、こういうふうにおっしゃった人がおられるんですが、田中公述人はそういう、何といいましょうか、発言をされた議員に対しては、まあ今私がこういうふうにお話ししていて、そういう議員に対しては、それはそうだねえ、もう戦後生まれの人にとっては直接関係ないよねというふうにお思いか、それとも、戦前とやはり戦後というのは、日本という国は今あるのはそういう歴史の上にあるわけですから、やはりそれは私たちも責任があるよねと、こういうふうにお考えか、そこら辺どのようにお考えなのか、ちょっとお聞きしたいと思います。
○公述人(田中夢優美君) 責任は……。いつの戦争のことでしたっけ。
○峰崎直樹君 いや、明治以降でいいですよ。
○公述人(田中夢優美君) 明治以降で。
○峰崎直樹君 特に第二次世界大戦がやっぱり一番大きいんですけれども。
○公述人(田中夢優美君) 東京裁判などで責任をお取りくださった方々がいらっしゃるので、その点についてはもうそこで終わったことだと思っています。
 それよりも、平和時に北朝鮮に、平和時の日本から北朝鮮に拉致されてしまっている日本人について、日本はもっと取り返して日本人を帰国できるようにというふうにした方がいいと思います。
○峰崎直樹君 拉致の問題は私も同じように考えておりますので、これからも国際社会にも訴えながら、また北朝鮮との交渉の中でやっていかなきゃいかぬ課題だと思っています。
 さて、畠山公述人にお聞きしたいと思うんですが、ずっとお話を聞いていて、いわゆる脅威のありようが変わってきていると、そして安全保障の考え方も変えていかなきゃいけないということだったんですが、まず最初にお聞きしたいのは、国連を中心として日本はこれまでいわゆる安全保障の考え方を取ってまいりました。午前中のちょっと実は会議にもあったんですが、国連憲章の第五十一条を軸にして、まず最低限の自衛権というものの存在は、これはそれぞれの国があるだろうと。問題は、その自衛権すら、実は国連の安保理がある意味では安保理決議をして、その侵略を受けた国をある意味では応援するまでの間にのみ実は私は個別的な自衛権というのは存在しているんだろうというふうに思っていたんですが、そういういわゆる国連憲章の安全保障に対する考え方を、公述人は、むしろそこも実は見直していかなきゃいかぬと、こういうお考えなんでしょうか。
 集団的自衛権というものをもう、どんな国も、日本においても、先ほどの、内閣法制局の考え方はもう変えなきゃいけないとおっしゃっていますので、たしか集団的自衛権の問題は、内閣法制局は、権利はあるけれども現行憲法ではできないと、こう規定しているんですけれども、それを変える、変えなきゃいけないというのは、なぜ変えなきゃいけないのかということについて、もう一回ちょっと詳しくお聞きしてみたいと思うんですが。
○公述人(畠山圭一君) まず、国連憲章の条文の解釈でありますけれども、少なくとも国際法上の、しかも、いわゆる日本の国際法学者ではなくて、いわゆる世界の国際法学者の共通した意見の中では、今おっしゃったような形での自衛権解釈では私はないのではないかと承知しております。
 一般的な常識として、国家の自衛権を国連憲章が禁止しているという解釈をしている、少なくとも欧米の文献に私は余り見たことがございません。確かに、日本の国際法学者の中にはそのような説を唱えておられる方はいらっしゃいますけれども、必ずしもそれが国際的なスタンダードであるとは私は思えないんですね。
 この件は、私も国際法学者ではありませんので、具体的にどの法学者がどういうことを言っているかということについて十分承知しているわけではありませんけれども、少なくとも国連憲章の中でそのように解釈されているというようには私は承知していません。この点をまず明確に述べておきたいと思います。
 それから、九条の集団的自衛権の問題でありますが、集団的自衛権ということについては、これを政府の解釈が憲法上できないというのは、そこまでは私は言っていないのではないかと思うんですが、実際にそのように言っているんでしょうか、法制局の解釈は。少なくとも、その精神にのっとって現状として行使する権利はあるけれども、権利はあるけれども行使できないんだということは、確かに法制局の解釈としては出ていますが、それが少なくとも憲法九条の第二項から来ているというようにはっきりそれは明言なさっているんでしょうか。そこは、私自身もちょっと承知していないものですから、うかつなちょっとお答えはできないなという気がいたします。
 ただ、一言だけ申し上げておきますと、例えば今ちょっとお話の、田中公述人の中からもちょっとありましたけれども、拉致の問題でありますが、これは明らかに九条の問題にかかわる問題だと私は思っているんですね。少なくとも平和時に、全く罪のない一般の国民が他国によって、正に侵略ですね、侵略を行った。少なくとも工作員が入ってきてそれを侵略した。もしこれが軍に所属しているとすれば明らかに侵略でありますが、その人たちがやってきて、これを拉致していくということがあったとするならば、これを守れなかったのは法制上の問題なのか、それとも制度の問題なのか、それとも単なる我々の能力のなさなのか。さらに、それに抗議ができないとするならば、これは何をもって抗議できないのか、こういうことを考えていったときに、もしそこに九条の問題があるとすると、これは大変深刻な問題ではないだろうかということを一つ感じるんですね。
 それからもう一点、これは憲法十三条にももとるのではないかと私自身は感じております。それは、少なくとも日本国憲法の中には、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については国政上で最大の尊重を必要とすると言っているわけであります。これを尊重する義務を負っている我が国の憲法がこれを現実に実現できていないとすれば、それはやはり国家の在り方ということで根本的に改めて考えなければならない問題を含んでいるような事態だと私は思っております。安全保障というのは九条に尽きる問題ではないというのが私自身の考え方であります。
 以上のことだけ述べさせていただきます。
○峰崎直樹君 それでは、ちょっと畠山公述人に引き続きお聞きしたいんですが、我々も、脅威の性格が大分変わってきて、今現在、有事法制が参議院に掛かっておりますけれども、かつての三矢作戦で大問題になってきたわけですけれども、あの当時のいわゆる仮想敵国、ソ連軍が北海道を中心にして上陸をしてくるという、それをどう阻止していくかという軍事思想があったと思うんですが、おっしゃられるように、脅威の性格が、テロだとか、あるいは今、拉致の問題だとか、あるいは海賊船だとか、様々な問題が起きている、あるいは大地震とか大震災とか。
 そういう問題が脅威の主要な問題であるとするなら、やはりそこに焦点を当てた、ある意味では有事の対応を取る。憲法上規定がないからそれをどこに求めるんだというのは、先ほど、今おっしゃった憲法十三条の幸福追求権ですか、そういうものに求めるべきだという声もあるやに聞いておりますが、憲法上の規定は存在していないということの問題は別にしても、今、私どもが見ていて、やはりそうなってくると、そういう緊急事態と言われているものへの対応というものをどう考えるべきか。
 そして、その際に、国会の民主的コントロールと、それから国民の基本的な権利というものを最大限尊重していくと、こういう形で私たち民主党は考えてきたわけですが、その意味で、その点についてどのようにお考えになっているのか、お聞きしたいと思います。
○公述人(畠山圭一君) その点については全く同感であります。
 私自身も、今日出てきている有事法制だけでは不十分であるということは当然承知しております。ただし、だからといってこの有事三法が全く無意味であるかというと、私はそうは考えておりません。そこにはまだ時代後れの部分はありますが、ともかくもここまで来たということ自体が、私は、少なくとも国民的論議の下でここまで来たということ自体はやはり重要な意味を持っていることだと考えております。
 その上で、今、先生がおっしゃったような危機管理の問題、緊急対処の問題ということについてはまだ不十分であるということを認識した上で、しかも新しい脅威に対する対応としては不十分であるということを認識した上で新たなる法制度が必要になってくるのではないか。少なくとも、それに対応できるだけの制度を裏付けるようなものが必要になってくるのではないかというふうに考えております。
○峰崎直樹君 尾形公述人に最後にお聞きしたいと思うんですが、今お話をお聞きして、戦争を体験されて、かなり悲痛なお叫びも私どもの耳に届いて、本当に貴重な体験あるいは貴重な御意見だというふうに思うんですが、今日、日本国憲法を取り巻く状況からすると、尾形公述人からすると、最近の国民の憲法意識といいますか、先ほど、田中公述人のような考え方をされる若い方々も大分増えてきておるんですが、そういったことに対しては、尾形公述人、国民の意識の変化といいますか、そういったことについてはどのようにお考えになっているか、それをお聞きして、私、最後にしたいと思います。
○公述人(尾形憲君) よく聞き取れなかったんですが、最近の国民の憲法意識がどうかということですか。
○峰崎直樹君 そういうふうに理解していただいて結構です。
○公述人(尾形憲君) それについては、前々回だったでしょうか、日本経済新聞での三年前の意識調査、社説にありまして、そこでは、憲法は変える必要があるというのが非常に多いわけですけれども、どういう具合に何を変えるのかというのはありませんでした。議員の方々では、もう九〇%ですか、何か改革する必要があるというような御意見だったように載っていますけれども。
 私も憲法は変える必要があると思います。ただし、それは憲法の第一章、天皇条項です。あれを除かなければならないという具合に考えております。
 以上です。
○会長(野沢太三君) 山下栄一君。
○山下栄一君 今日、四人の公述人の皆さんに感謝申し上げます。
 こういう機会はそんなにないというふうに思いますし、そういう意味で、特に憲法の議論を本格的にやり始めて何年かたつわけですけれども、五年をめどにこの憲法の問題について、衆議院、参議院それぞれで意見をまとめようということで、今、約半分過ぎたという状況なんですけれども。
 今日、特に午後につきましては、さきの大戦を経験された方、尾形参考人、それから広島の、被爆地広島の代表として加藤公述人が来ていただいたわけでございます。また、世代の代表という意味で、若い世代を代表として田中公述人が来ていただきました。畠山公述人は、識者の代表でもあると思いますけれども、また世代の代表という意味でもあると思うんですけれども。それぞれ意義のある私は今日は公聴会になっているというふうに感じておりまして、来ていただいた皆様方に心からの感謝を申し上げます。
 私、午前と午後、聞かさせていただきまして、この憲法の平和主義、大事な日本の憲法の根幹を形成する考え方なわけですけれども、身近な問題としてちょっと全公述人にお聞きしたいんですけれども、暴力という問題でございます。
 戦争は大変な暴力の極致ともいうべきものだと思います。人を殺すことが正当化される。特に、この暴力に対する不感症といいますか、痛みが感じにくい、そういう今、時代状況ではないかなというふうに感じております。
 最近、議員立法で児童虐待防止法という法律作りました。また、家庭内暴力、ドメスティック・バイオレンス、DV法という法律も作りました。また、子供の世界におきましては、陰湿ないじめというのが小学校、中学中心に三万件、これはもうほとんど減らない状況ですし、校内暴力も、暴力の形態を変えておるけれども、ますます増えております。こちらの方も三万件を超えているという、そういう状況でございます。青少年の凶悪犯罪も、凶悪犯罪は特に増加する一方であります。
 イラク戦争もそうですけれども、ハイテク戦争で余り実感がわかない形で悲惨、残酷の極致とも言われる戦争がテレビで放映され目の当たりにするという、そんな状況の中でこの暴力についての非常に感覚がどんどん鈍っているのではないかと。足を踏んだ方は余り、鈍感だけれども、踏まれた方は絶対忘れないという、そういう意味では他者への配慮というようなものもこのごろ物すごく鈍くなってきているというふうに思います。
 家の中でも地域でも、特に学校の校訓なんかもそうですけれども、暴力は絶対駄目だと、こういうことをどれだけ徹底されているかというふうに言われますと非常に心もとない。我が家でもそうかも分かりません。家の中でそういうことを教えているのかというふうなことを考えましたときに、暴力というのは絶対悪だと、強そうに見えるけれども、それは弱さの象徴なんだというようなことも含めて、この暴力についての意識をしっかりとやっぱり育てていくというところから、そういうことを取り組むことが私はこの平和主義というふうに直接つながっていくのではないかというふうに感じておりまして、私は倫理観が、暴力は絶対悪だという倫理観が非常に育ちにくい、そういう今環境にあるというふうに思っておりまして、平和は勝手に来ない、作るものであるというふうに考えますときに、この暴力に対する考え方をもう一度国民的な問題として取り組むことがこの平和主義の議論につながるのではないかと感じるわけです。
 こういう考え方につきまして、それぞれの公述人の方から御意見をちょうだいしたいと思います。
○会長(野沢太三君) どなたから行きます。
○山下栄一君 順番で結構です。
○会長(野沢太三君) 順番ですね。
 それでは、尾形公述人からよろしくお願いします。
○公述人(尾形憲君) 暴力についてということなんですが、例えばアメリカでは五段階に分けてテロ警戒レベルというのがありまして、ついこの間、第二段階までは行ったが、またその後、第三段階になったりなんかしました。
 先ほど申しましたように、あれだけ絶大な武力を持っていながら、アメリカは民衆の安全は確保できなかった。したがって、暴力といいましてもいろんな形の暴力があるわけでして、これに武力でもって対処するということはできないということを先ほど私申し上げました。
 大体、今日のテーマの「平和主義と安全保障」ということなんですが、平和主義、大変奇妙な言葉ですよね。平和を望まない国あるいは人間はいないはずです。それじゃ、戦争主義というのはあるかと。そういう言葉はありません。ありませんけれども、現実に、先ほど申しましたように、アメリカは戦争国家になっています。ブッシュ大統領も言わば戦争を望む人間、そういう具合になっています。したがって、国家としての暴力、これは正しくテロです。イラク戦争、アフガニスタン戦争ともにテロです。テロに対してテロをもってする、これは絶対制圧できません。
 私が例えば先ほど申しましたように、アメリカの武力による考え方ですが、一九四六年から五十年後、九六年まで、アメリカが核、兵器のために使ったお金ですね、これをドル札で重ねますと、何と月まで行って地球近くまで戻ってくる、そういうような膨大な金額になります。
 したがって、武力に対し武力、目には目、歯には歯という形で制圧することは絶対できません。そういう武力が用いられないように、平和な方法で、いろんな形で、例えばイラク新法が問題になっていますけれども、イラクに対しては、例えばペシャワール会がパキスタンで展開しておりますような、ああいうような民衆の手での井戸掘り、医療、あるいは国境なき医師団、ああいうような平和な形で行われるべきだという具合に思います。
 例えば、カンボジアにしても、それからチモール、東チモールにしても自衛隊が行っていますけれども、土木工事は自衛隊でなければできない、そんなことないんです。国内に今不況でたくさん技術者がいます。そういう人たちを送って、現地で、現地の人たちの手をかりて、それで土木工事をやるがいい。そうしますと、地元に金も落ちる。そういうような平和な方法で暴力には対処すべきだろうという具合に思っております。
 以上です。
○公述人(加藤正之君) 暴力と一言で言っても、いろんなレベルで、家庭とか学校とか地域とかあるいは社会全体とかいろいろあると思いますけれども、私が最近一番関心があるのは、もう国家としての暴力といいますか、その最終的な究極的な形は戦争だと思います。その戦争がどうして起こるかということをいろいろ考えたりするんですけれども。
 ここで、私たちの生活というのは、生産と流通とそれから消費という流れの中で物を生産し、拡大して豊かな社会を作っていくという形を取っておりますけれども、戦争に使う武器というのは、生産のところでストップして、流通、消費のところは国民に全く返ってこない。それは考えてみれば当然でありますし、それは全部国が税金で買い上げて、戦争の武器、人を殺したり物を破壊したりする、そういうものに使われていく。
 それから、国家として、軍需産業といいますか、産業の民主化というか平和産業というか、そういうところに対して焦点を当てて考えていくということが私は余りにも少ないんではないか。もっともっとその点について国民とかあるいは国会においても議論してほしいなと絶えず思っています。
 作られた武器はどうしてもさばかなきゃいけない。そうしたら、必ず政治とその産業が結び付いていくんですね、政治と産業が。で、その使い先が必要になって政治が展開されていくという、そういう側面も私たちは歴史的に、現在もそのようなことを経験しておりますので、やっぱり産業、平和産業といいますか産業の民主化といいますか、まあ言葉はどうでもいいんですけれども、兵器がどんどんできていくということについてもう少し私たちは問題にしていくことが大事じゃないかと、最近特にそういうことを思っています。
 以上です。
○公述人(田中夢優美君) 暴力といいますけれども、国家が持つ武力というのは暴力ではないと思います。暴力というのは、一人の人が例えば勝手に、憎いからといって人を殺してしまったりするのは暴力になると思いますが、国対国、また国の安全を守るためにする武力行使というのは暴力とは違うと思います。
 あと、暴力が日本の社会では絶えないというのがありますけれども、学校の、青少年の犯罪とか、そういういじめとかいうのはよく今問題になって事件でよくありますけれども、これは、道徳の教育を小さいときからしっかりしておけば少なくなっていくと思います。日本では、私が小学校のときには、道徳の時間がありましたけれども、実際に道徳の授業はありませんでした。そういうところが欠けているから犯罪とかを平気でしてしまう人が増えてしまうんだと思います。
 以上です。
○公述人(畠山圭一君) 今、一般論として暴力ということが出ていますので、私も一般論として暴力ということについての考えを述べたいと思うんですが、もちろん、暴力というものは大変用いられるケースが増えている、これは大変ゆゆしいことでありますけれども、問題は、暴力を行使することが現実にこの地上からなくなるのだろうかということをまず一点我々は考えておかなきゃいけないだろうと思います。だからこそ暴力に対しては明確な罰というものがあるんだろうと思うんですね。
 ところが、果たして国内と国際社会においてこの罰というものをどのように考えていくかということの考え方が根本的に違うということを私たちはやはり理解しておく必要があるのではないかと思います。
 国内にあっては法というものがあります。そして、その法というものはいわゆる権威というものによってこれを執行する。時には力を行使して、言わば暴力をもって暴力を罰するということも行っているわけであります。そして、一つの暴力に対してこれを罪とし、あるいはこれを罰を加えるという形でできるのも、これまた国家があるからであります。
 私たちが裁判を受ける場合に、その裁判、人が人を裁くという行為を行っている、それが許されている理由は何か。それは、やはり国家という最大の権威たる権威があるからであると思うんですね。権威としての存在があるからでありまして、これは決して一人の個人が恨みを持って人に対して罰を与えているわけではないわけでありまして、これを作っているのは、正しく国家というものが存在し、それによって権威付けられた一つの統治の機構が存在するからだろうと私は思っています。
 しかしながら、国際社会ではどうか。国際社会においてそのような世界政府のような存在があるかといえば、これはないわけであります。そして、この世界政府といったものをまた各国がどのような形でこれを世界政府と認めるかということについては、恐らく当面、しばらくそのような権威ある存在は登場してこないであろうと思います。国連といえども単なる国際交渉の場であって、それを、国連もそれ以上の大変重要な役割は持っておりますけれども、決して万能ではない。世界に命ずるような、いわゆる武力あるいは力をもってその各国に制裁を加えるような力は国連も持っておりません。
 その中で、では国際秩序をどのように、その暴力というものをどのようにコントロールしていくかということを考えていくのが正しく安全保障でありまして、私ども国際政治学を専攻している研究者は日夜その問題に苦慮し、頭を悩まし、どのような国際秩序を構築していくことが必要なのか、そのための国家戦略、国際戦略とはどのようなものなのかというようなことを研究しておるわけでありまして、この点は、先生がおっしゃるように暴力に対する例は全く同感でありまして、私もそういう原点から発してこの国際政治を研究しておるものであります。
○会長(野沢太三君) よろしいですね。
 吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 四人の公述人の皆さん、本当に御苦労さまです。
 まず、尾形公述人にお伺いいたします。
 戦争体験者としての痛切なる御意見、本当に心に響きました。私はこの二月に韓国の西大門刑務所を視察いたしまして、植民地時代に日本がどういうことを朝鮮半島の方々に行ってきたかということをつぶさに見まして、非常に韓国やら朝鮮半島の方々が日本に持っている意識というもの、強い批判持っているわけですけれども、当然であろうなというふうに思いました。
 それで、私たちは、野党は、従軍慰安婦に対して補償と謝罪をする法律案を参議院に今出しておりまして継続中でございますが、先生が先ほどこういう問題について、強制連行その他の問題について何も日本はやってこなかったではないか、何もきちっとした処理をしてこなかったではないかとお述べになりました。戦後もう六十年近くたつわけなんですけれども、この時期にやっぱりこういう問題について何をなすべきとお考えなのか、尾形先生の御意見をまず伺いたいと思います。
○公述人(尾形憲君) 韓国の人たちからいろんな訴訟が出ております。慰安婦の問題、あるいは今出ました強制連行の問題等々、しかし戦後わずかな補償が出たのは台湾兵の補償だけです。
 去年の日朝首脳会談で、私、非常に残念に思ったのは、北が経済協力を求めるという、そういうことだけで済ませてしまっている。それじゃ、一体、北については、北だけでなくて南もそうですけれども、今言いましたような人たちについての訴訟をやっぱりきちんと取り上げて、国がおわびをし、きちんと補償もするという、そういうことをさせなければならない、そういう運動を私たちは進めたいというように思っております。
 私が現在かかわっておりますテロ特措法、海外派兵は憲法違反であるという訴訟、残念ながらたった三回で結審、六月の二十五日に判決を出す、そういうような、司法の独立はどこへ行ったのかというような、そういうような状況です。
 私たちは、非常に難しいことですけれども、今言ったようないろんな形で彼らと連帯をする。例えば、遺棄毒ガスの問題にしてもそうです、それからフィリピンの混血遺児の問題なんかもそうです。いろんな問題について、私たちは国際的な民衆と連帯しながら、私たちのできることをできるところでそれぞれがやっていくよりほかないんじゃないかという具合に思っております。
 以上です。
○吉川春子君 次に、田中夢優美公述人にお伺いします。
 今から六十数年前の戦争体験について、当時、大人であった方からお話を聞いていらっしゃるでしょうか。その点についてお伺いします。
○公述人(田中夢優美君) 聞いていません。
○吉川春子君 もう一つ、田中公述人にお伺いします。
 日本に生まれ育っていることに誇りを持てるような教育を行うべきであるというふうにさっき述べられました。私は自分が日本人であるということに誇りを持っておりまして、日本がもうとっても好きで、優れている点というのは一杯、自分としては誇りに思って持っているんですね。もちろん、いろいろ今申し上げましたような足りない点もあるから批判もしているんですが、非常に日本人であるということに私は誇りを持っています。
 それで、田中夢優美公述人としては、どのような誇りを日本に感じていますか。感じているとすれば、お答えください。
○公述人(田中夢優美君) 長い歴史の中に、詳しくはよく分かりませんけれども、武士道のような人の忠誠心とか、あとは深い思いやりの心とか、あとは、武士の時代には殿様のために一生懸命だったというのから、今になってくると国のために一生懸命になれる精神とか、そういうものが日本人の誇りだなと思っています。
○吉川春子君 続きまして、畠山公述人にお伺いいたします。
 さっき、仮想敵国の概念が不明確になってきたというお話がありましたが、私は、日本国憲法、とりわけ第九条とか前文の思想は仮想敵国を持たない、こういう立場に立った憲法だというふうに考えているんですね。その点についてどうお思いになりますでしょうか。
 それと、いろいろテロに対して、あるいは他国の侵略に対して武力による攻撃があった場合にどういうふうに備えるかという理屈でいきますと、限りなく軍備拡大、非常に財政的な負担も莫大に増えるというふうに思いますが、その二点についてお考えをお聞かせいただきたいと思います。
○公述人(畠山圭一君) 今御指摘の点なんですが、確かに憲法九条そのものは仮想敵国は想定しておらなかったかもしれません。その点については、私もそういう考え方は十分妥当性のある御意見だと思います。
 ただし、その憲法九条の想定した社会状況がいち早く崩れ去ったところから現実には安全保障体制を整えていかなければならなかったというのが実は残念ながら戦後の姿であったのではないかと。そこを、いろいろと憲法を変えずに、どうにかいろいろとその辺りの欠点を補いながらやってきたというのが実は戦後の歴史であったのではないだろうかと、私はそのように感じております。
 そもそも、これは憲法の制定過程の問題で、私自身が一つの国際政治を論じるときに必ず日本の出発点、戦後の出発点のところに必ず返って検討するんですが、少なくとも日本国憲法ができた当時はまだ冷戦は始まっておりません。したがいまして、少なくとも憲法が想定していた当時は、アメリカが少なくとも占領をし、そして、いわゆる平和主義国である連合諸国が連帯をすれば、日本には軍備は必要ないということを前提にして安全保障政策も想定されていた。
 ところが、それがわずか数年のうちに状況は変わっていく。これはいわゆる朝鮮戦争がきっかけでありますけれども、そのころから急速に環境が変わってしまった。それを、憲法の前提とする思想を変えることなく、取りあえずは解釈あるいはその時々の状況に合わせてどうにか日本の安全を守ってきたというのが現実ではなかっただろうかというように認識しております。
○吉川春子君 加藤参考人にお伺いいたします。
 加藤参考人が核は人類と絶対に共存できないというふうに述べられまして、私も全く同感でございます。
 広島、長崎に代表される戦争体験、そのほかいろいろあるんですけれども、そして、それと様々な平和運動が日本人をして日本国憲法第九条を今日まで守ってきて、そして、戦争はもう本当に嫌いということが肌にしみ込む、そういう国民性を育ててきたというふうに思います。
 国会に初めて憲法調査会ができまして、私どもはこの憲法調査会の設置に反対をしたんですけれども、設置された以上、大いに議論をしております。
 この日本国民の、戦争はもう絶対嫌だ、何とか戦争なしに平和のうちにもっともっと発展していきたい、繁栄していきたい、こういう意識を育てていくというか、多くの国民に持ってもらうために公述人は頑張っておられると思うんですけれども、そのことについて御意見があればお述べいただきたいと思います。
○公述人(加藤正之君) 大変大きな問題だと思いますけれども、私自身は、戦後の日本を振り返って、特に憲法をめぐる平和主義について、大体三つの意見を持っています。
 一つは、憲法を現実に合わないから解釈で変えようと、要するに解釈改憲と、それから、自衛隊の設置によって軍備をどんどん増強していくという、そういう保守的な政治の動向と、それから二つ目は、野党といいますか、当時は革新という形で言っておりましたけれども、革新というか野党の方が、三分の一という壁ですよね、三分の一国会議員を確保しておけば要するに国会で発議できないからそれでいいんだということで、つまり、国会で過半数を取って憲法を守るというか憲法を実現するんだという、そういう側面というのはほとんどなかった。ほとんどなかったというよりも、ゼロと言ってもいいぐらい。三分の一を守ればそれでいいという形での運動に終始して、ずっと今日まで来たと思います。
 それからもう一つは、裁判所、最高裁が特にそうですけれども、憲法問題をめぐって争う国民の民主主義というものをシャットアウトしましたよね。統治行為論とか何かいうそうですけれども、高度な何か政治的なことについては裁判所が関与しちゃいけないということで、民主主義あるいは憲法にうたわれておるいろんな項目について国民的な議論をどんどんやっていくという、そういう道が、さっき言いました三つの要件によって、私たち国民から見たら閉ざされてしまったと、非常に民主主義というものが衰弱してきていたんじゃないかというふうに私自身は思っています。
 したがって、この衰弱した民主主義をどのようにもう一回よみがえらせていくかということで、この憲法調査会の方たちが論議を深めていただきたいなと思います。そういう中で、私自身の意見は、先ほど言いましたように、やっぱり憲法の出発点、大前提、戦争を二度と繰り返してはいけないというそこにもう一回戻って、そこから議論を、戦後の日本のいろんな民主主義政治について問い掛けを発していきたいなというふうに思っております。
○吉川春子君 終わります。
○会長(野沢太三君) よろしいですね。
 平野貞夫君。
○平野貞夫君 私の所属しております会派はちょっと複雑でございまして、公述人の方々に事前に説明しておきますが、国会改革連絡会という会派でございますが、衆議院にあります自由党と、それから無所属の会というのが参議院にございますが、この二つの政党が、少数でございますので一つになって作っている会派でございます。
 それから、私は、今日二時から参議院の与野党国対委員長会談が一時間ございまして、誠に失礼でございましたんですが、四人の公述人の方々の話を直接お聞きしておりません。レジュメを読ましていただきましたので、それで質問させていただきます失礼をお許しいただきたいと思います。
 最初に、尾形公述人のお話、御意見でございますが、陸軍士官学校の戦争体験者としての立場からのお話、御意見でございます。実は私の兄も五十六期でございまして、大変共通した認識を持っておりまして、ただ自衛隊を私の兄は認めておりまして、アメリカに、やっぱり米軍にすべて支配されるやり方について大変疑問を持った意見なんですが、そこはちょっと先生と違うわけでございますが、率直に申しまして、私も、PKO法ぐらいまでは結構日本の政治も憲法の精神というものをできるだけ生かそうという形で立法をしておったんですが、周辺事態法以降は、全く私、やっぱり憲法の精神を踏みにじった、その場限りの有事法制の立法の仕方になっていると私も思います。今日も審議しております武力攻撃の事態法もそういう性格を持っておると思います。
 ただ、私申し上げたいのは、ならば、現実の問題もございますので、現在の憲法のままでいいのか、今の憲法の精神を体して少し変えるのか、あるいは変えずにこれで日本人はやっていくのかというきちっとした国民的な合意を今作るべきときではないかと思います。
 率直に言いまして、畠山先生のお話にもありましたように、それは憲法を作ったとき、占領時代と冷戦時代、今と違うわけでございまして、特に冷戦時代というのは、武力を使わない代理戦争を日本でソ連側とアメリカ側がやっていたわけでございまして、もうそういう時代じゃございませんので、しっかりとした日本人としての安全保障の在り方というものを確立する時期だという、そういう意味で、私は、憲法の見直し、新しい憲法を作ろうという立場でございます。
 そのことについて、尾形先生、ひとつコメントをしていただければ、何か御指導していただければ有り難いんですが。
○公述人(尾形憲君) これは、先ほど申しましたように、私は、憲法はもう絶対変えるべきではないという、そういう意見ではありません。ただし、世界に先駆けて非武装、不戦を主張した憲法九条、あるいは前文の思想、これは絶対守るべきだ。現に、これも先ほど申しましたように、これはびっくりしたんですが、カナリア諸島に憲法九条の碑がある、あるいはチャールズ・オーバビーさんが世界に憲法九条を広めようという運動をしている、あるいはハーグ平和市民会議でもって憲法九条が十項目の原則のトップに取り上げられている。そういう意味では正しくこれからの二十一世紀あるいはもっと先の世界の思想を先取りしたものだろうという具合に思っております。
 したがって、そういう点であくまでも平和に徹する、そういう方向で、この憲法を守るというんじゃないんですね、生かしていく、積極的に生かしていく、そういう必要があるのではないかという具合に思っています。
 以上です。
○平野貞夫君 ありがとうございました。
 加藤公述人にお尋ねいたしますが、実は私、昭和三十年の初め、初期ですね、原水爆禁止運動にかかわったことがあるんです。私の指導教授が安井郁先生でして、原水爆禁止運動の重要性というのも私も教育をされております。
 おっしゃるように、五大核保有国が何か核を持っていることを既得権にして様々な政治が展開されていることは誠に、もう本当に残念なことですが、これもまたどうにもならぬことでございまして、日本としてはこの核兵器廃絶運動というのが、これはもう我々民族のテーマだと私は思っておりますが、私これでも十年昔は自由民主党にいたこともある人間なんですが、どう五大国の核保有をなくしていくかという問題。
 私は、やっぱり地球環境保全、地球環境を一番壊すのは戦争だと思うんですよ。そういう意味で、地球環境問題と核保有との問題のジョイントというものを何かこう結び付かないか、理論的に結び付かないかと思っていますが、核兵器廃絶運動をやろうとすればどういうところにポイントを置いたらいいかということをちょっと教えていただければ有り難いんですが。
○公述人(加藤正之君) 大量破壊兵器の中で、生物兵器、それから化学兵器については一応国際的な禁止条約があります。それで何とか条約的な規制というのはある程度は可能だと思います。しかしながら、核兵器については世界の仕組みが複雑なんですよね。
 それは、先ほどNPT体制の問題点の中で意見述べましたけれども、私の意見は、日本こそ非核の国と、それから中立という、どこの核兵器に対しても中立を取るという。だから、今現在問題になっている北朝鮮の核開発について反対すると同時に、アメリカが最近戦術核といいまして、広島型の三分の一ぐらいの戦術核を研究開発しようということで、今表面化しておりますけれども、こういうアメリカの動きに対しても、私は日本としてそれはやめてくださいとはっきり言うべきだと思います。それを言えないと、唯一の被爆国としての悲願だとかいうことを言っても、やはり説得力がないし、世界の支持は得ることはできないというふうに思います。
 だけれども、どう言いますか、いわゆる核の傘と言われることがありますね、日本の安全はアメリカの核の傘によって守られているという。この理論に対しても、私はそれは違うんじゃないかというふうに思っています。
 具体的に言いまして、例えば核の傘から日本がもう離れますというふうに仮に態度を明らかにした場合に、果たして脅威が増すだろうか。おっ、核の傘を離れたぞ、やっつけろという国が実際に出てくるだろうかということを本当に考えた場合に、私はそうはならないと思います。あっ、日本はやっと本気になったかな、言うこととやることが大体一致してきたんじゃないかというふうに、私は世界は見てくれるんじゃないかと思います。
 そういう意味合いからいきまして、もう戦後五十年近く続いた核の傘に対する依存から離れて、やっぱり非核の立場というものを鮮明に世界に明らかにするという、そういう時期に来ていると思います。
 今言われたように、五大国の核兵器を廃絶させるためにはどうするかというのは、それはもう日本の今の状況だと、世界的な世論を日本を先頭にしてやっぱり巻き起こして、それぞれの五大国の国内政治がそれを反映して、やっぱり核はまずいぞというふうにそれぞれの五大国の政治が変わっていくのを私たちがどういうふうに援助してやっていくかということではないかと思うんです。
 それからもう一つ、環境との関係では、私ここに書きましたけれども、二十一世紀は環境問題が最大のテーマだと思います。
 率直に言って、戦争に対してこれだけのエネルギーと労力とお金を使っている暇はないんじゃないかなというのが私の本当の今の気持ちなんです。だから、軍備はもう最小限にして、いろんな環境上の諸問題に取り組んでいくということが大事だと思うんですが、遺憾ながら今のアメリカは、もう世界が寄ってたかって対抗しても、それを超えるような軍事力を持って、最終的には軍事で問題を解決してくるということで、この間、いろんなアフガンの戦争にしてもそうですしイラクの戦争にしてもそうですし。
 このアメリカを変えていくというのは私たちにはちょっと思い付きませんから、やはりここはアメリカとの距離を一定保ちながら、深入りせずに、軍事的な深入りというのは僕は絶対にいけないと思います。これ以上深入りせずに、これ以上というのは、私の場合は専守防衛という意味ですけれども、専守防衛に徹して、ある程度距離を取りながら、アメリカとかを中心とした世界のやっぱり国内の政治とかそういうものをじっと待つという時間が相当続くと思います。それが三十年になるか五十年になるか、私にはそれははっきり言えませんけれども、大体それぐらいのスパンでこの問題は見ておいて、その中で日本はどういう距離を保ちながら付き合っていくかということを考えなきゃいけないと思います。
○平野貞夫君 田中公述人に一つお伺いしたいんですが、日本人の誇り、そしてもっと毅然とした態度で臨むべきだというのはそのとおりだと思いますが、田中さんが高校生あるいは中学生のころ、憲法についてどのような教育を受けられたか、これは一言か二言で結構でございますが、憲法というカリキュラムがあったのかどうか、また、憲法について先生方からどんなお話を、教育を受けられたのか、ちょっと教えていただけませんか。
○公述人(田中夢優美君) 中学校と高校で公民と現代社会で憲法についての授業がありましたけれども、明治憲法と大きく違う点で、天皇陛下が象徴になっていることと、平和主義にしていることと、そんなことを大きく取り上げて、余り細かいことはそれほど授業ではありませんでした。
○平野貞夫君 畠山先生、時間が少なくて恐縮でございますが、やっぱりアメリカの外交政策、安全保障政策が我が国に決定的に影響を与えますし、また我が国の憲法運用もそれの影響を受けるわけですが、現在のネオコンと言われるブッシュさんのシンクタンクは将来どういうふうに展開するかということについて教えていただきたいんですが。
○公述人(畠山圭一君) ネオコンについての、ネオコンサーバティブという存在についての御質問ですけれども、私個人の考え方あるいは感じ方、それから、少なくとも私がここ十数年間ネオコンサーバティブという人たちの動きを見て感じるところを申し上げますと、少なくとも影響力はこれから衰退していくと思います。
 もう恐らく今回のイラクとの戦争に関して、それからいわゆるテロに、テロ攻撃を受けたその対テロ戦争ということについては、ネオコンの人たちの主張というのは大変ある意味で説得力を持っておりました。しかしながら、ネオコンサーバティブと言われている人たちの理論というのは、軍の近代化、特に情報化社会における軍の近代化、それから軍事作戦の近代化ということが主張でありまして、それ以上でもそれ以下でもないんですね。いろんなほかのことはいろいろ言っていますが、この問題を取り上げたのは、たまたま状況がそうした状況にかなっていた、その一つの理論的裏付けとして彼らの主張は説得力を持っていたということでありまして、ブッシュ政権内の人脈から見ましても、ネオコンサーバティブと言われている人たちは必ずしも主流ではないということを私たちは注意しておく必要があると思います。そこさえきちんと間違わなければ、今後ともアメリカに対してはある程度の信頼感を置いて大丈夫だと私は思っております。
○平野貞夫君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) よろしいですね。
 大脇雅子君。
○大脇雅子君 四人の先生方には、貴重な御意見、ありがとうございました。
 まず、尾形先生にお尋ねをいたします。
 先生は、テロ特措法・海外派兵違憲訴訟の原告団の団長をしておられるということで、憲法九条、あるいは先生の行っていらっしゃる訴訟に対する各世界の人々の反響というか、意見というか、そんなものにはどういうものがあるか、教えていただきたいと思います。
○公述人(尾形憲君) どういう方法があるかということですか。
○大脇雅子君 どんな意見が寄せられているか。反響。
○公述人(尾形憲君) 先ほど申しましたように、ハーグでの集まりとか、それからいろんなところに反響があるんですが、実は、これは先ほどお手元に差し上げました「なぜテロ特措法・海外派兵違憲訴訟なのか」という、そういうようなブックレットのおしまいにこの訴訟、それから有事法制についての世界各国からのメッセージが寄せられています。
 その中には、先ほど申しました憲法九条の会のチャールズ・オーバビーさん、あるいはアメリカこそテロ国家の親玉だと決め付けたノーム・チョムスキーさん、それからハワード・ジンさん、いろんな方々からメッセージをいただいております。
 日本は絶対有事法制を通しちゃいけない、憲法を固く守るべきだというような意見が寄せられています。ただ、その中には、自衛隊は認めると、よその国から引き揚げろという、そういうような感想の方もいらっしゃいますけれども、いずれにせよ、憲法九条を絶対守れ、あるいは発展させろという、そういうような御意見がたくさん寄せられています。
○大脇雅子君 お寄せいただいている方々のお名前を具体的に二、三読み上げていただけますか。どんな方たちから。
○公述人(尾形憲君) メッセージのことですか。
○大脇雅子君 そう。名前を。
○公述人(尾形憲君) 台湾の台湾促進和平基金会執行長、簡、これは何と読むんでしょう、かねへんに容易の易、貿易の易ですね、それからつちへんに皆という字、これは日本の漢字じゃないんですが、そういう方が台湾の平和十五団体の署名を集めて送ってきてくださっております。
 それから、アメリカは、先ほども申しましたノーム・チョムスキーさん、それからノリ・ハドルさん、それからハワード・ジンさん。ハワード・ジンさんは小泉首相あてにも平和憲法をきちんと守れという、そういうメッセージを送ってくださっています。それからトーマス・スタートヴァントさん、トム・アトリーさん、トーマス・ラッシュさん、マリー・パーセルさん、クリジストフ・ルワンドウスキーさん。この方、ポーランドです。それから、ニュージーランドのフレッド・オバマーズさん、クシラ・マーフィさん、それからエレン・コジマさん、ロバート・ホルトさん、それからジョナサン・アンド・ヒロミ・ヤマザキ・センダーさん、アリエル・グロスさん、それからブラジルのレダ・ユキコ・マタヨシさん、それからタカシ・タネモリさん、ハナ・ラパポートさん、マリオ・ジメネズさん、それから先ほど申しましたチャールズ・オーバビーさん、そのほか手元には持ってきておりませんですけれども、先ほども申しました違憲訴訟、裁判所がきちんとした事実審理を行い、きちんとした公正な判決を出せと、そういうようなメッセージがやはりたくさん寄せられております。もし必要ならば、後日また事務局の方に届けたいというように思っています。
 以上です。
○大脇雅子君 加藤さんにお尋ねします。
 広島で人文字ができて、ノー・ウオー・ノー・ディーユーというあの人文字は私も大変感動をいたしました。武器というのは使用することを前提としていて、廃棄をするということは考えていないので、例えば核の原子力潜水艦などもごみとするときに大変大きな環境問題を起こしますし、毒ガスなども砒素の処理に困ってしまうということで、ともかく武器を作ること、そして軍縮をすることというのは本当に大きな環境破壊をもたらすというふうに思います。
 核の廃絶の運動をされておりまして、憲法九条に対してどんな思いを持ち続けて運動されてこられたのか、お尋ねをしたいと思います。
○公述人(加藤正之君) 冒頭、私の意見で発表しましたけれども、核兵器と人類といいますか人間は本当に共存できないというのが、広島とか長崎の被爆者たちの本当の叫びなんですね。この廃絶に向かってどのように近づいていくのかということで、それぞれ取組があるんでしょうけれども、残念ながら世界はそうではなくて逆の方向ですね、核の拡散と核兵器はどんどん増えていって、それがもう環境破壊の最たるものにもしかしたらなるかもしれないという、そういう時代に入っていると思います。
 私、最近よく考えるのは、もしかしたら広島、長崎に次いで第三番目の原爆投下するのは、想像はしたくないんですけれども、アメリカかもしれないという非常に私、危機感持っています。今のアメリカの動き、開発の状況、あるいはブッシュ・ドクトリンと言われる戦略を見ると、核を声高にして、そんなに被害が及ばないような形で核を使っていくというのが最近非常に私、感じておりますので、そこの開発に対して、日本からそれはやめてくれというメッセージを、もちろん被爆者、広島市民とか長崎はもちろんですけれども、やっぱり国を挙げてそういう立場に立ってほしいと思います。
 それから、先ほどの劣化ウランの話ですけれども、アフガン戦争でも使われて、それからこのたびのイラク戦争でも使ったということはアメリカも認めています。この劣化ウランに関連して、ちょっと私、今資料を持っておりませんので正確は言えませんけれども、沖縄の方に米軍が配備したことがあったんですね。それはちょっと被爆国というか、日本人の感情からしてまずいので、どっか遠くにやってくれということで、あれどこでしたかね、鳥島かどっかに多分移ったと思うんですけれども。
 そういう、自分たちの国に対する核についてはある程度敏感に反応するけれども、イラクとかあるいはアフガンで使われた劣化ウランについては全く反応しないという、これはやっぱり世界の諸国にとっては日本はおかしいんじゃないのということを、決して信用されることじゃないと思います。
 だから、核兵器については、もうともかく非核・中立の立場からあらゆる国の核兵器について反対していくということを、もう日本を挙げて取り組んでほしいというのが私たちの願いなんです。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 田中さんにお尋ねします。
 田中さんが昔の戦争について経験談を聞いていないということは、私は大変ショックを受けました。今言われた劣化ウラン弾とか、あるいはデージーカッターとかクラスター爆弾とか、イラクでたくさん落とされて子供や女性や老人が亡くなったわけですけれども、そういうことに対してはどんなふうにお感じになりますか。
○公述人(田中夢優美君) イラクに関しては、市民への被害を最小限にしようとしてアメリカは、攻撃の作戦面のときに同時に話していまして、それで今までにないほどにやっぱりピンポイント爆弾だとかを使われていましたから、その市民への被害は最小限にできたことだと思っています。
○大脇雅子君 最後に、ちょっと私も、そういう考え方もちょっとショックなんですけれども、やっぱり愛国心というのは人類愛というのが基礎にならないと、やはり一つの命というのは地球より重いというふうには思う考え方もあるんだと、戦争体験者はそう思うんだと理解していただきたいと私は切望します。
 さて、畠山先生にお尋ねしますが、抑止と共生外交の効果の限界が来たと。確かに、冷戦構造後の国際情勢の中では違ってきます、国際的な日本の地位も違ってきますが、そういう中でアメリカとの同盟関係の未来というのを先生はどのように俯瞰しておられるでしょうか。
○公述人(畠山圭一君) 日米関係、特に日米の同盟関係の将来像ということなんですが、私は恐らく今後の流れからいって、日米同盟というのはますます強化される方向に動いていくと思います。それは、先ほども申し上げましたように、いわゆる同盟関係というものが二国の安全保障というものとは質を次第に異にしてきているということなんですね。地域の安全保障、地域の秩序の安定化のために必要な同盟関係というスタイルになっていくと私は思っています。
 これは、決してアメリカが、もちろんアメリカはアメリカの国益というのがあるんでしょうが、それだけではなくて、やはりこの地球をいかにして平和に保っていくか、安定させた秩序を維持するかということに尽きるわけでありまして、私は今までのお話を、皆さんのお話を伺ってきて、基本的には同じ考え、哲学の下に立っているんだろうと思います。
 例えば、広島にあるいは長崎にもう原爆投下を許さない、あるいはさせないという思想については、これは全く私は否定はしません。いわゆる、いかにすれば再びそういったものが撃ち落とされないようにするのか、また、いわゆる撃たれないようにするのかということと、それから相手に撃たせないようにするのかという問題なんですね。そうしたときに、安全保障というのは、そういった事態をいかにして作らないようにするかという知恵のようなものであります。しかしながら、人間というのは、人間の思考というのは決して万能ではありませんし、神ではありませんので、そして現実に暴力というものに訴えようとする、現実そういう存在がある限りはそこに知恵を巡らしてそれを少しでも解消していくように努力し続ける、ある意味では非常に絶望的な試みかもしれませんが、それが私たちの務めであろうかと思っているわけですね。
 今御質問の中にありましたけれども、日米安保条約というのは二つの条項が、二つの目的がございます。一つは、いわゆる日本の安全保障、日本の国防でありますね。それともう一つは、地域の安全のための貢献というのが安保条約のもう一つの柱でありまして、この部分についての日本の役割はむしろ高まっていると考えざるを得ない。しかも、今日の国際社会の中で、少なくとも世界の秩序を維持していく上でアメリカの力というのは決して無視できないものがございます。
 少なくとも日米同盟関係を通じて、日本がこの問題について日本側からも一つの戦略的提案というものがなされることによって、十分に地域の安全保障、地域の平和、安定のために日本側からもそこに積極的に参加することによって、秩序を維持するための、何というんでしょうか、政策立案に関与していくことというのはこれからは十分に可能になってきているのではないかと思っております。
 先ほど冒頭に、私の発表のときに言いましたが、アメリカというのは、グローバルなイシューについてはグローバルに対応しようということについては何ら否定していません。そして、地域のいろんな構造が非常に複雑になっている以上は、それぞれの地域特有の構造に合わせた安全保障を展開したい、そうなるならば、当然アメリカは、地域のリーダーとして立っていくであろう幾つかの国と密接に関与しながら地域の安定のために貢献をしていきたいというのがアメリカの発想法でありまして、グローバルにはグローバルな対応を、リージョナルなものについてはリージョナルな対応というのがアメリカの基本的コンセプトになっているという点が答えになろうかと思います。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) よろしいですね。
 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 公述人の方々には長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。本調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 お述べいただいた御意見につきましては今後の調査に生かしてまいりたいと存じます。(拍手)
 以上をもちまして公聴会を散会いたします。
   午後四時四十八分散会

ページトップへ