第159回国会 参議院憲法調査会 第2号


平成十六年二月二十五日(水曜日)
   午後一時開会
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   委員の異動
 二月十八日
    辞任         補欠選任
     大脇 雅子君     江田 五月君
 二月二十四日
    辞任         補欠選任
     大渕 絹子君     大脇 雅子君
     角田 義一君     辻  泰弘君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                武見 敬三君
                保坂 三蔵君
                吉田 博美君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
            ツルネン マルテイ君
                若林 秀樹君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
    委 員
                阿南 一成君
                岩井 國臣君
                扇  千景君
                亀井 郁夫君
                桜井  新君
                常田 享詳君
                福島啓史郎君
                藤野 公孝君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松村 龍二君
                松山 政司君
                森田 次夫君
                山崎  力君
                江田 五月君
                大脇 雅子君
                小林  元君
                辻  泰弘君
                中島 章夫君
                平野 貞夫君
                堀  利和君
                松井 孝治君
                白浜 一良君
                山口那津男君
                山本  保君
                井上 哲士君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                田  英夫君
                岩本 荘太君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       関西学院大学法
       学部教授     豊下 楢彦君
       法政大学人間環
       境学部教授    本間  浩君
       拓殖大学国際開
       発学部教授    森本  敏君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (平和主義と安全保障
  ―憲法と集団安全保障、集団的自衛権、日米安保)
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○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「平和主義と安全保障」のうち、「憲法と集団安全保障、集団的自衛権、日米安保」について、関西学院大学法学部教授の豊下楢彦参考人、法政大学人間環境学部教授の本間浩参考人及び拓殖大学国際開発学部教授の森本敏参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、豊下参考人、本間参考人、森本参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員とも、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず豊下参考人にお願いいたします。豊下参考人。
○参考人(豊下楢彦君) 豊下でございます。このたびはお招きをいただきまして御礼を申し上げます。
 本日、私お話ししたいことは、焦点となっております集団的自衛権でございます。趣旨は、今、集団的自衛権を論ずる意味ということでございます。
 大変細かいレジュメで恐縮でございますが、まず最初に政府解釈の変遷でございますが、これはもう既に十分御議論されておるところでございますので、極めて大ざっぱにまとめておきますと、五四年、自衛隊が発足しました年に、集団的自衛権というものは交戦権の禁止に触れる、言わば九条二項ということで違憲であるという見解が出されました。六九年には、国際紛争を武力で解決することに至るのではないかということで、言わば九条一項で違憲であるという、そういう趣旨の見解が出されました。そして、七二年、八一年の政府答弁でございますけれども、これは今日まで続く有名な定義でございまして、自国が直接攻撃を受けていないのに密接な関係にある外国に対する武力攻撃を実力をもって阻止すること、そういうふうに定義をいたしまして、これは自衛権発動の要件である必要最小限度の範囲を超えるということで、言わば九条全体として違憲であるという見解が出されました。
 ところが、八〇年代以降、日米軍事協力が急速に進みまして、ところが、それを政府は、言わば個別的自衛権の枠内で解釈しようとしまして、武力行使一体化であるかどうか、あるいは後方支援であるかどうか、あるいは非戦闘地域であるかどうか、そういった新しいタームを出すことによっていろいろ説明をしてきたわけでありますけれども、それに対しては、こそくであるとか欺瞞的であるといったふうな批判が噴出してきているというのが今日の状況だろうと思います。今や、そういう政府の解釈を根本的に改めるべきであるとか、あるいは明文改憲をして集団的自衛権を明記すべきであるといった議論が出てきているわけでございます。
 そこでの議論の幾つかの点について考えてみたいと思います。
 まず一つの議論は、旧安保条約前文の表現でございますが、そこに、「これらの権利の行使として、」という表現がございます。これは、前後の文脈からいたしますと、間違いなくこれは個別的、集団的自衛権の権利の行使としてというふうに読めるわけであります。そういたしますと、日本は一九五二年から集団的自衛権を行使していたということになるわけでございます。ただ、実は問題の核心は、ここの文章は米軍駐留のリーガルベーシス、法的根拠を問題にしたところでございまして、当時、実は外務省は、独立後の日本に米軍を駐留させるときに、九条の下でそれをいかに論理的、法的に正当化するかということに大変腐心いたしました。
 当初、外務省は、国連の決議でもって日本に米軍を駐留させるといった、そういったやり方を取ろうとしましたけれども、もちろんそういうことは現実には無理でございます。そこで、何とか国連との関係を維持するために五十一条に着目いたしまして、日本は基地を提供する、その代わりにアメリカが日本を防衛すると、そういう意味での集団的自衛権の関係を設定しようとしたわけであります。
 しかし、アメリカは、御承知のように防衛義務ということを拒否いたしました。したがいまして、当時の西村条約局長によりますと、集団的自衛の前の関係という単なる駐軍協定に終わってしまったということでございます。これがようやく六〇年の安保改定におきまして言わば双務的になりまして、これでようやくアメリカ軍は日本に駐留する法的根拠というものが一応説明が付くことになったということになりました。
 そこで、当時、岸政権は、政府答弁の中で、基地提供も集団的自衛権である、経済援助も集団的自衛権であるといったような答弁を繰り返しておりましたけれども、それは、今申しましたように、五〇年以来の集団的自衛権の関係、つまり米軍との関係においてそのようなリーガルベーシスを作るということがようやく六〇年安保改定で一つ完結したんだということが前提になっているだろうと思います。
 そのことはまた、言い換えますと、集団的自衛権というものを広義と狭義、狭い意味と広い意味で考えていた。その狭義といいますか、集団的自衛権の中核と申しますけれども、としましての他国防衛のための海外派兵、武力行使、これは五四年の参議院の決議以来一貫して禁止されているという、こういう立場ではないかというふうに思います。
 さて、次の問題は、この間、集団的自衛権というものが自然権であるという議論が大変多く出されてきております。いろいろ調べてみますと、この自然権論というものはどこから出ているかといいますと、恐らくニカラグア事件の判決、国際司法裁判所にニカラグア事件がかかりました、これはたしか八六年の判決であります。
 この国際司法裁判所におきまして集団的自衛権の問題が初めて審議されたということで大変注目されたわけでございますけれども、その判決文の中に、集団的自衛権というものは固有の権利であるとして、しかも、括弧して自然権であるというふうな規定がございます。恐らく、今の自然権論というのはそこから来ているのではないかというふうに思いますが、もし自然権というふうにとらえるとしますと、これは実定法を超えたホッブズ的な自己保存の権利というふうにまで行ってしまいまして、制約なき戦争の自由というところに行ってしまう危険性があるのではないかというふうに思います。
 そこで、改めてこのニカラグア事件の判決を読んでみますと、今の自然権という規定の前に武力攻撃の発生という前提条件が書かれております。これはもちろん憲章五十一条の規定でございます。さらに、どのような場合に集団的自衛権が行使できるかといった場合に、被害国が自らが被害を受けたと宣言する、それからまた、その被害国が他の国に支援を要請する、こういった条件が必要だというふうに書かれております。それからもちろん、安保理が必要な措置を取るまでの間ということになっております。つまり、これだけ多くの要件を抱えておる場合に、これは自然権というふうには当たらないというふうに思います。
 なぜそうなるかといいますと、結局、集団的自衛権というものは一九四五年のサンフランシスコ会議における当時の政治情勢を反映した言わば発明された新しい方式として打ち出されたものが集団的自衛権であるから、そのような様々な制約と申しますか要件が付されているんであろうというふうに思います。
 ただ、重要なことは、この自然権という議論が今別の文脈で非常に重要な意味を持ってきているのではないかと思います。と申しますのは、今のイラクの戦争でございますけれども、アメリカがイラクに対して戦争をやる法的根拠の問題でございます。
 確かに、当初、ブッシュ政権は、安保理決議一四四一等々、安保理決議によって戦争を行ったというふうに申しておりましたけれども、その後、ほとんどその問題に触れずに、例えば本年の年頭教書でも、あくまでこれはアメリカの安全を守るためであったんだという点をずっと強調しております。つまりは、個別的自衛権の発動としてのイラクへの戦争であるということになっている。
 じゃ、その個別的自衛権の発動の根拠でございますけれども、今月上旬にNBCのテレビのインタビューに答えまして相当ブッシュ大統領詳しくそれを述べておりますが、その中でこういうことを言っております。つまり、アビリティー・ツー・メーク・ウエポンズ、つまり大量破壊兵器を作る能力があったということと、サダム・フセインはデンジャラスあるいはマッドマンであるということでございます。つまり、製造能力と指導者の本性、これがあれば自衛権が発動できるという、そういうことを主張しておるわけであります。
 これは大量破壊兵器が見付からなかったからこういう弁明をしているのかということになりますけれども、実は御承知のように、二〇〇二年の有名なブッシュ・ドクトリン、つまり国家安全保障戦略で、その中で強調されておりますことは、これまでの国際法における自衛権概念というのはもう古いんだと、それでは新しい戦争を戦えないんだということを言いまして、そこでケーパビリティーズ・アンド・オブジェクティブズということが要件として書かれております。つまり、能力とたくらみといいますか、意図と申しますか、計画といいますか、これによって自衛権が発動できるんだと。つまり、従来の自衛権発動要件の概念の根本的な変更というものが打ち出されておるわけであります。
 改めて憲章五十一条を読んでみますと、原文ではイフ・アン・アームド・アタック・オカーズ、これを日本語では武力行使が行われたと、発生したということで言っておりますけれども、これは国際法学者の大部分、それから日本の政府もそうでありますけれども、決してセコンドブローではないと、たたかれてからたたくんではなくて、相手が攻撃を開始した、あるいは着手した段階から対応できるんだというのが大体通説でございます。
 しかし、今のブッシュ・ドクトリンはそれをはるかに超えたところの自衛権概念というのを展開している。こういうブッシュ・ドクトリンに似たような前例はあるかと考えてみますと、実は一九八一年、有名なイスラエルがイラクの原発を攻撃したときでございます。このときのイスラエルの論拠は、イラクは明らかにイスラエルに対して敵意を持っている、しかも原発は今や完成間近である、したがってイスラエルの行動は正当な自衛権の発動なんだと、そういうふうにイスラエルは主張したわけであります。
 それに対して安全保障理事会は、明確にそれは二条四項に違反している、つまり武力行使禁止の原則に違反している、したがって自衛権の発動の根拠は認められないというふうに安保理は決議をしたわけであります。日本ももちろんイスラエルの行為を非難いたしました。アメリカも賛成票を投じたのでありますけれども、その自衛権概念のところではイスラエルの議論に理解を示しておりました。そして、今やブッシュ大統領も言わば公然とこのイスラエルの主張をしておりました自衛権に近づいてきたといいますか、そこに至ったんではないかというふうに考えざるを得ないと思います。
 そういたしますと、これはかつての予防戦争の論理に行き着いていくんではないかと。つまり、予防戦争と申しますのは、相手のパワーが増大化してきて、相対的に自分の、自らのパワーが弱体化する以前にたたくんだという、そういう戦争の論理でございますけれども、それこそ先ほどの自然権的自衛権論みたいな、そういうところに行ってしまうんではないかと。だからこそ、アナン国連事務総長が国連の原則への根本的な挑戦だというふうに指摘したのは、正にそういう問題がはらまれているからだと思います。したがって、もしこういう自衛権概念が、それこそインドもパキスタンも中国も台湾も取り出しますと、これは国際的なアナーキーの問題になってしまうんではないかと。
 さて、問題は、以上のように考えていきますと、日本では今九条が時代後れであって、したがって五十一条の集団的自衛権を行使するようにすべきであるという議論になっているわけです。ところが、アメリカではその五十一条がもはや時代後れだということを言っておりまして、したがって先制攻撃や今申しました予防戦争ができるようにすべきであるということになっておるわけです。
 そうしますと、今、日本は一体どこを目指すのかということになります。私たち今、集団的自衛権を議論する場合に、国会でもマスメディアもそうでありますけれども、何か自明のこととして、何か共通の見解がある、共通の認識があるという前提で話がされておるようでございますけれども、その場合に、集団的自衛権を論ずるときに、一体憲章五十一条に基づいた集団的自衛権なのか、あるいはアメリカ的、あるいはイスラエル的自衛権の概念に基づいた集団的自衛権なのか、この点をきっちりと峻別して議論する必要があるんじゃないかというふうに思います。
 次に、集団的自衛権を主張される場合に、問題はその行使できる権利を獲得することであって、実際にそれを使うかどうかということは別問題なんだと。だから、集団的自衛権の権利を確保したからといって、それはしかしあくまで慎重に、主体的判断でもって対応するんだという議論が行われております。その前提にありますのは、集団的自衛権に入ることによって日本はアメリカとの間で対等のパートナーになれるんだという、そういう考え方、認識があるんではないかと思います。
 しかし、改めて考えてみますと、七〇年代、八〇年代以来このような議論はずっとあったわけでありまして、日米関係において日本が軍事的役割を増大させるたびにこのようなイコールパートナー論というものが出てまいりました。しかし、私は、かつて「安保条約の論理」という本を出しましたときに、それはやはり自立幻想の論理、つまり軍事的役割を増大させたからあたかも一人前になったかのようなわけですけれども、実際はより一層アメリカの軍事戦略の中に包摂されていくんではないかというふうに思います。
 そもそも、この間、集団的自衛権の議論が出てきましたのはアーミテージ報告であって、日米軍事共同作戦の障害を排除するためにということで強く主張されてきました。したがって、例えば、具体的に考えますと、仮にあしたでも小泉政権が解釈を変えて集団的自衛権が行使できるというふうになった場合には、直ちにアメリカは名実ともにアメリカの軍事作戦体制の中に自衛隊を組み込むだろうと思います。その段階で拒否をするということになりますと、いわゆる主体的判断するんだということになりますと、これはアメリカからすれば正に裏切りということになるんではないかと思います。
 よく考えてみますと、周辺事態法のときに、当時の小渕首相は、アメリカから要請があれば、日米同盟の本旨からして、つまり安保条約の本旨からして拒否をすることはあり得ないというふうに申しました。これは誠に私は正直な御答弁だったと思います。つまり、戦後日本外交の路線そのままを小渕首相は言明されたんではないかと思います。つまり、ここの前提は、日本の国益とアメリカの国益、日本の政策目標とアメリカの政策目標が自動的に合致する、したがって拒否することはあり得ないという、そのようなお立場だろうと思います。
 しかし、もし今、主体的判断あるいは歯止めを掛けるんだということがあれば、この小渕首相の論理というものを超える必要があると思います。それは恐らく、戦後日本外交総体を検討し直すところから出てくるんではないかというふうに思います。したがって、私は、主体的判断論が出てきたことはある意味で大変結構なことであって、戦後の外交全体をもう一遍洗い直す機会になるんではないかというふうに思います。
 それで、戦後の日本外交を考えますときにしばしば言われますことは、日本外交の路線は何かと、それは日米基軸であるというふうに言われますが、私はそれ自体は実は何も言っていないに等しいんじゃないかと思います。と申しますのは、アメリカの政権は、政権が変わるたびごとに外交政策は百八十度変わったりします。今のクリントン政権からブッシュ政権、明らかであります。また、同じクリントン政権であれブッシュ政権であれ、当初とその中間、それから後半段階において大きく変わります。とりわけ、対中政策などということでは非常に大きな転換を示しました。そうしますと、日米基軸論でいきますと、アメリカの政権が変わり、また政権の内部で政策が変わるたびに日本が振り回されてしまうということになりかねないということであります。
 したがって、大事なことは、まず日本の外交戦略の柱をきっちりと固めて、その上でアメリカと一致するところがあればそれで対応していくと、そういったふうな考え方に立たないと主体的判断の論理というのは出てこないんではないかと。つまり、問題は軍事の論理ではないと思います。軍事レベルの役割が増大したから主体的判断ができるというものではないんじゃないかというふうに思います。あくまで問題は外交戦略のレベルの問題である。
 実は、日本の場合に、戦後日本のリアリズムというものがかなり不幸な前提を背負ってきたと思います。と申しますのは、日本のリアリズムというものは非武装中立といった理想主義に対するアンチとして出てきましたので、安保条約に、言わばひたすら安保条約の路線に乗っていくことがリアリズムというふうに理解されてしまったわけでありますけれども、本来のリアリズムというのはもっとダイナミズムのあったものだと思います。それは、安保条約というものを目的とせずにあくまで日本の国益のための手段として考えるという、それが本来のリアリズムであろうと思います。したがって、主体的判断論が出てきた場合に、そのような戦後の日本のリアリズムというのを根本的に検討し直す機会になればいいんではないかと思います。
 例えば、今このような議論があります。つまり、北朝鮮問題を抱えているからイラク問題でアメリカのサポートをせざるを得ないんだ。しかし、よく考えてみますと、北朝鮮問題とのバーゲニングは実は日本の基地提供でございます。参議院は、沖縄の特措法のときに恐らく八割を超える方々が賛成されました。あのときの議論は、沖縄に対してこれ以上犠牲を押し付けるのは忍びないけれども、北朝鮮問題があるからだという論理だったと思います。そうとしますと、北朝鮮問題と沖縄の基地提供というのは、それこそがバーゲニングになっているんではないか。したがって、ダイナミックなリアリズムで問題を考えていきますと、そのようなアメリカとの関係におけるバーゲニングの在り方ということ自体ももっと別の観点から見ることができるのではないかというふうに思います。
 あと、日本外交の在り方について、独自的視点についての外交戦略について書いてきたんではございますけれども、もう時間が来ましたので、また後の議論で機会があればお話をしたいと思います。
 どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、本間参考人にお願いいたします。本間参考人。
○参考人(本間浩君) 法政大学の本間でございます。このように私の意見をお聞きいただく機会を設けていただきまして感謝いたします。
 初めに、本院憲法調査会の先週行われました憲法と日米安保条約に関する第一回会合における参考人の方々の御意見を速記録を介して拝読し、それについて国際法学を研究する立場から一言申し述べたいと思います。
 条約についてにしろ憲法についてにしろ、その法文に忠実に従って解釈することは大切であります。それと同時に、法文の背後にある真意、歴史的経験を酌み取り、それを参照しながら現在において求められている解釈を確定することも同じ程度に大切であります。
 本論に入ります。
 国連憲章における集団的自衛権の意味ということについて、まずお話ししたいと思います。
 国連憲章五十一条に定める集団的自衛権を個別的自衛権と一体的に見る見方がございます。したがいまして、個別的自衛権を有するということは当然に集団的自衛権を有することである、それの証拠として個別的自衛権も集団的自衛権もともに固有の権利である、あるいは自然権であると、こういうふうに明示されているということであります。
 それに対して私は、こういう違った考え方を取っております。
 集団的自衛権は個別的自衛権とは異質な概念である。集団的自衛権の本質は、武力行使の一般的かつ原則的な禁止原則、これは国連憲章の二条四項、それから安全保障理事会による武力行使の事前許可原則、これは五十一条に定めてありますが、これに対して、軍事同盟に基づく事前許可なしの武力行使の違法性を阻却すること、このことに集団的自衛権の本質があると私は考えております。
 国連憲章の作成過程においては、その草案には集団的自衛権という概念はありませんでした。それが審議の過程において集団的自衛権という概念が挿入されたわけであります。そこで固有の権利という言葉が付け加えられましたけれども、これは個別的自衛権と並べることによって新しい概念に正当性を与えるための法的粉飾であると、こういうふうに見ることができます。そして、この挿入の政治的意味というのは、集団的安全保障体制という、国連の集団的安全保障体制という理想と軍事同盟による対抗的安全の確保というこの現実の要請とを妥協せしめることにあると思います。
 集団的自衛権が権利であって義務ではないからそれを行使するもしないも自由だという、こういう議論もありましたけれども、これは軍事同盟の実質から見ると日米安保条約の存在意味を無力化するものであると言わざるを得ません。これは権利という言葉じりをとらえた見方なんだと思います。実態的には、権利という表現によって事前許可を必要とするというその原則に対する違法性、それを阻却した上に軍事同盟条約により防衛義務関係を構築すること、集団的自衛権概念はその構築の足掛かりであるということであります。
 それでは、その憲法九条下の自衛権ということについてどう考えるかということですが、政府の伝統的解釈、先ほど豊下参考人から紹介がありましたけれども、その政府の伝統的解釈というのは自衛隊の設置及び維持を合憲化するための論理であると、そこからこの他国防衛のための集団的自衛権行使の合憲性を引き出すことはできない、こういうことになってくると思います。
 ただ、この政府の伝統的解釈は、次第に増大化するアメリカの防衛協力要求を拒否する根拠になり得たという意味において、この限りでは効用があったと私は評価しております。しかし、この伝統的解釈では、アメリカの増殖する軍事協力要求をかわし切れないこと、それから自衛隊の戦力増強要請を制約することができないという、こういう意味で限界又は矛盾を含んでいたというふうに見ます。
 これに対する、これに対するというのは政府の伝統的解釈に対する非武装論についてですが、非武装論の真意は、日本の軍事力自己増殖に対する懸念、それにあったんだと思います。この懸念にこたえるというのは、これは日本国民の要請であると思います。ただ、この非武装論というのは、現実のこの安全保障をどうするかと、そういう問い掛けに対して具体的な答えを用意できなかった。それから、この非武装論は、実は米軍の沖縄駐留条件ということを前提にしていた。つまり、沖縄に米軍が駐留するということなしには非武装論が成り立たないという、こういう矛盾を抱えていたということも言えると思います。
 したがいまして、私の論理からすると、現状ではある程度の自己防衛能力、これを持たざるを得ませんし、それから他国による防衛協力への依存ということもこれもまた認めざるを得ない。これはやむを得ない選択であると言わざるを得ないと思います。
 問題は、自衛隊の自己増殖しようとする内的な力をどういう、それにどういうような歯止めを掛けるか、それからアメリカの増殖化する軍事協力要請をどのように制約するか、場合によってはノーと言えるようにするかということであります。
 駐留米軍の目的の変更ということについては、特に一九九七年のガイドラインに示されておりますように、駐留米軍というのは日本以外の地域の防衛に当たるんだと、日本施政下領域の防衛は主として日本独自でやるんだと、こういうことが明示されております。それから、駐留米軍が軍事的に対応する地域的範囲も極東からアジア、更に中近東に広がっている、対応すべき紛争も国家間紛争から他国の内戦、更には国際テロリストの軍事行動、こういったものも対象にするようになってきたと。こうなってくると、そういう対応の必要性ということについて考えなければならないんですけれども、少なくとも現行安保条約上の要件との整合性ということには疑義を生ぜざるを得ないと思います。
 ただ、一層重大な問題となるのは、在日基地から出動する米軍の軍事行動が国連憲章など国際法に対する違反を生じた場合、又はその疑義を生じた場合に、その行動にどのような制約ができるかということであります。例えば、米軍の軍事行動が国連決議を根拠にしていると、こう主張するわけですけれども、その主張に疑義がある場合とか、それから国際社会で認められていない先制的自衛権という概念に基づいて軍事行動を起こしたような場合ということです。それからもう一つは、日本国憲法上許されない行為、措置、つまりこういう新しい措置のために立法しても、その立法が違憲の疑いを生ずるようなそういう措置、そういう措置をアメリカが軍事協力として日本側に求めてきた場合にそれを拒否できるのかと、こういう問題が残っているということであります。
 そこで、次の日米安保体制の効用と矛盾ということについてお話ししたいと思います。
 アメリカの日本防衛の根拠は、日米安保条約に基づく防衛協力義務としてこの集団的自衛権行使、すなわち違法性を阻却される武力行使を行うことにあるということであります。で、日本の施政下にある領域で日米共同の軍事行動が行われる場合に、自衛隊の軍事行動の根拠を日本の集団的自衛権行使に置くという見方については、これは論理的に一種の清涼剤になり得ても、逆にアメリカの増殖する軍事協力要求の主張を誘発する要因になりかねないという意味において危うい一面があると言わざるを得ないと思います。
 それから、またアジア諸国が日米安保条約の維持に期待しているわけですけれども、その期待の真意は日本の軍事力増大化に対する警戒感にあります。そうすると、自衛隊の戦力増強を抑え込むためには日米安保体制が必要だということになる。つまり、瓶のふた論ということが言われているわけですが、それと、この日本の憲法では、これは建前ということになりますが、憲法の前文を見ますと、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」というこの文言は何を意味するかというと、日本の安全保障、これを国連軍にゆだねるという発想であります。しかし、国連軍は存在しません。将来、形ばかりの国連軍が結成されたとしても、日本の安全保障に効果的な措置が取れるという可能性が生まれるのかどうかということについて、現在の状況ではなお疑義があると言わざるを得ません。
 こういうことになってきますと、総括的に申し上げますと、いわゆる政府の伝統的解釈はそれなりに私は評価すべきであると思います。その集団的自衛権についても、日本はその自衛権の行使、これはそういう考え方を取るべきではないということになると思います。つまり、対米協力、これは日本の個別的自衛権の一つの戦術技術的な面の問題として対応できると、私はそう考えます。
 それから、米軍の駐留に伴う諸問題と地位協定の問題について触れておきたいと思います。
 駐留米軍は、基地周辺住民を始め、日本国民の理解を欠かせないはずであります。それにもかかわらず、とりわけ沖縄県民に大きな負担を負わせておりまして、皆さん御存じのように、全国の米軍専用基地の七五%が沖縄に集中しているという状況があります。日本の安全保障上、米軍の日本駐留を認めることがやむを得ない選択であるとしても、住民、国民の負担を少しでも軽減していかなければならない。また、現行のその地位協定の改定に国会はもっと強い関心を寄せていただきたい、こうお願いするわけであります。
 そういう要請に対して、アメリカの軍事力に依存している以上、安保条約、地位協定の見直しに日本側から言い出しにくいという、こういう見方があります。それに対して私はこういうふうに反論をします。
 地位協定の改定問題には緻密な対応が必要であって、また可能である。というのは、地位協定というのは米軍、米軍関係者の法的地位に関する協定の側面と基地協定の側面と両方持っているということであります。住民の立場から地位協定の改定を求めることは、これはアメリカ側はしばしば、これはナショナリズムの問題だというふうにとらえるわけですけれども、そうではなくて、人間らしい生活を求める国民の声の、あるいは住民の声の叫びであると見なければならないと思います。
 そこで、若干の具体的な問題を取り上げたいと思いますけれども、まず基地の整理、縮小問題に関しては、冷戦構造崩壊後も対ソ戦略に対応する規模、機能が維持されております。とりわけ沖縄基地の場合、本土ではもう当然問題になるであろうと思われるんですが、住民の福祉に重大な影響を及ぼしている地域にその基地が置かれている、こういう基地を迅速に整理しなければならない、整理、縮小しなければならないと、こう考えるわけであります。
 それから、二番目には、米軍の基地使用についても、原則的に日本の国内法上の基準が適用されると解釈すべきであります。ボン協定、つまりドイツ駐留NATO軍の地位に関する補足協定でありますが、この協定は一九九三年に大改正になりまして、この協定では、ドイツの国内法が原則的に適用されるということが一層明確にそこに定められたわけであります。
 それから、イタリアに駐留する米軍についても、基地使用に関する実施取決めというそういう条約が一九九五年に締結されまして、この条約においてもイタリアの国内法が原則的に適用されるんだというんです。
 これはどういう法的意味を持っているのかというと、今の外務省の解釈ですと、地位協定に定めのない限り日本国の国内法は適用されない。だから、逆に言いますと、日本国の国内法に定めていないことについてはアメリカは何でもできるんだと、こういう解釈になっていくわけであります。これが日本国の国内法が原則的に適用されるということになれば、その地位協定に定められていないものについては、米軍はその基地の使用権、これがないんだと、こういうふうになるわけであります。
 それから、次の刑事手続問題でありますが、これについては、とりわけ米軍人の被疑者引渡問題ということで大変問題になっているところでありますが、これについてもこの十七条の五項、引渡しについては十七条の五項ということが扱っているわけですが、この(a)項では、引渡しについて相互協力、相互援助するんだということが定められている、そして(c)項において日本の公訴提起まで米軍当局がその被疑者の身柄を拘禁すると、こういうことになっているわけであります。
 日本の外務省は、内々には(a)の原則、つまり引渡しについて相互援助するという原則を日本に当然に引渡しがなされるものだと、こう理解していたように思われます。ところが、現実には、公訴提起、日本側の公訴提起まで米軍当局が拘禁すると。つまり、例外が原則化されているということであります。
 それから、次の経費負担問題についても、これはNATOでもこれは大変な問題になっているわけでありますが、これは前回の会議において田岡参考人が指摘したことでありますが、日本がこの、何といいますか、経費負担についてルーズなやり方をするということによって、NATO諸国に実は、アメリカ以外のNATO諸国に迷惑を掛ける可能性があると言わざるを得ないと思います。
 時間になりましたので、あと、結びに代えてというところがあるんですが、そこでは私、前回のこの会議において平和主義ということについても述べられましたので、それについてお話ししようかと思ったんですが、時間になりましたので、また御質問があったときにお答えしたいと思います。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、森本参考人にお願いいたします。森本参考人。
○参考人(森本敏君) 本日、当憲法調査会において参考人として所見の一端を述べる機会が与えられたことを光栄なことと存じ上げます。私は、主として安全保障の政策並びに実務を政府の人間として長く担当してきましたので、私は法の専門家ではありませんが、安全保障の政策を専門とする立場から意見を申し上げたいと思います。
 自分の立場、ポジションを明らかにするために、まず基本的なことについて二つだけお話をすると、私は、現在の憲法は国家の自然権としての自衛権を禁止しているものではないと、したがって個別的及び集団的自衛の権利をともに国としては持っており、これを国家の権利として行使できることは当然であると考えています。
 しかしながら、現在の憲法の前文並びに憲法条文はこの点について国内のみならず諸外国にも疑義を与えるような表現となっており、憲法解釈についていろいろな議論を国内に引き起こしてきたわけで、その意味において、本来、憲法とは国の在り方を表現する基本的な法規である以上、条文について解釈が国の中で分かれる、あるいは諸外国に誤解を与えるというようなものであってはならず、したがって、憲法を疑義なく解釈できるよう明確かつ正確な表現とすることは我々の当面する義務であると考えます。したがって、私は、繰り返しになりますが、現在の憲法は国家の自衛権を禁止しているものではなく、当然集団的自衛権を行使できるが、しかし今の条文を疑義なく正しい表現に変えることが必要であると。
 その際、どのように変えるかということについては、憲法の前文及び憲法第九条の条文を改正し、少なくとも、憲法第九条一項についてはこれは不戦条約の趣旨に従って書かれたもので、この点について改正の必要はないと考えますが、第二項については、我が国が国家として自衛権を有していること、この自衛権を行使するため国家の防衛軍を保有すること、その防衛軍は主として我が国の防衛に任ずるとともに、必要に応じて国際社会の平和と安定のために国際貢献その他の活動に参加、協力ができること、さらに、国家の緊急事態に際して、内閣総理大臣が法の定めるところにより内閣を代表し国家及び国民を統括することができることなどを明記する必要があるのではないかと考えます。
 以上が、私が今から申し述べる基本的な立場についてでございます。
 集団的自衛権につきましては、お二人の参考人が過去の経緯についてお触れいただきましたので細かく触れませんが、私は、過去、日本政府の集団的自衛権の有権解釈なるものは、その当時日本が置かれた国際情勢における立場と、戦後の日本の国内社会の世論の中で、自衛権を領域外において、仮に同盟国を助けるあるいは行動をともにするとはいえ、日本の防衛力を領域外において武力行使に当たるような活動をすることができるという説明にすることは、昭和二十九年に創設された自衛隊というものの国内政治的な論拠というものを危うくする。裏返して言うと、この自衛隊というものを、あくまで領域の中における個別自衛権を行使するためのいわゆる集団であるという認知を国内的にも国際社会でも与えるというために行った政治的な判断に基づく解釈であって、文章を解釈した条文解釈ではないと、このように考えます。
 しかしながら、その後の国際社会の現実は、日本が他の国と並んで国際社会の中で必要な貢献を行い、それを行うに必要な日本の国家の地位というものが向上するに従って、湾岸戦争後にいろいろな領域外の活動が始まるにつれて、現在の憲法解釈の中で、特に武力行使という問題と集団的自衛権という二つの問題の制約要因がかえって自衛隊の活動を阻害し、かつ隊員の身の安全を危うくするという事態が発生する可能性が高く、この二つの問題、すなわち武力行使、領域外における武力行使を禁止しているという解釈、集団的自衛権を行使できないというこの解釈は、日米同盟というものを片務的なものにするだけではなく、我が国の領域外における活動をむしろ阻害するという状況が現実問題として出ている限り、この二つの問題についての解釈をよりすっきりとした形にする必要があるのではないかと考えます。
 特に、日本の領域内及び日米安保条約の範囲の中で行われる日米協力については、今後国会で審議が行われる予定の有事関連法案がすべて成立すると、おおむね法的整備が完了するということになると思いますが、しかし、それを超える領域での活動については、従来特別措置法あるいはPKO法などで対処しておりますけれども、その活動内容が、今申し上げた武力行使あるいは武器の使用などの面について不合理な点が多く、現在の法律は憲法の枠の中で行い得る最大の限界に来ているのではないかと。裏返して言うと、これ以上の活動を、新しい法的枠組みの中で領域外において活動することには現行憲法上にもはや無理があるという考え方に立っております。
 しからば、どのような活動を今後領域外で行う必要があるのかと。アメリカを始めとする同盟国あるいはその他のアジアの国々が日本にどのような協力を求めてくる可能性があるのかということについては、一つは米軍に対する支援、後方支援の活動を、現在の周辺事態法の中に規定されている支援活動をより広げたものにする必要が将来出てくると思われること。それからさらに、これは米軍の活動に対する直接の支援や協力あるいは参加活動が必要に応じて広がっていくと考えられること、それから、米国だけではなく、例えばアジア太平洋その他の国々が安保理決議に基づいて多国籍軍型の活動を行い、これによって国際の平和と安全を維持回復するための活動が行われる場合、日本として必要な協力をする場合に、現在の法律の枠の中ではもはや憲法解釈上無理があると思われることであります。
 その際、集団的自衛権問題の取扱いを考慮するに当たっては、憲法解釈上いかなる活動が法的に可能であるかという観点から従来は政策論議が行われてきたわけで、必ずしも日本の国が国益を追求するためにどのような活動をすべきかということより、むしろ憲法の枠の中で何ができるかという観点に立って政策議論が行われてきたのではないかと考えます。
 我々としては、憲法の枠の中で何ができるか、憲法がどこまで認めているかではなく、日本の安全保障と日本が追求すべき国益とどのような関係になるのか、どこまで国益を追求し、そのために負うリスクとの兼ね合いを我々はどのように考えるべきなのかということが、むしろ基本的な評価基準として日本の領域外における活動を我々は議論をし、そのための法的枠組みを考えるという必要があるのではないかと考えます。
 その際、実は集団的自衛権という問題と並んで領域外における武力行使の一体化という議論があり、この問題は必ずしも集団的自衛権問題とイコールではない。多くの部分がオーバーラップしていますけれども、例えば今イラクの中にいる自衛隊が武器を使用できる条件は、御承知のとおり、イラク特別措置法で、自己並びに自己の管理下にある者を守るために武器が使用することができるが、裏返して言うと、それ以外の場合に武器を使用することができないということであります。これは集団的自衛権の問題ではなく、領域外における武力行使がどこまで認められるのかという、従来伝統的な一体化の議論であります。
 集団的自衛権の問題という問題と、この一体化議論を混同して議論する向きがありますが、日本の安全保障にとってみれば、この二つを同時に解決しなければならず、集団的自衛権問題が解決できても、領域外における武力行使という問題が解決できなければ集団的自衛権は当然行使できないわけであって、したがってこの二つの問題を同時に解決するという必要があるのではないかと思います。むしろ、現実の領域外活動を行うに際し、武力行使の一体化問題の方が個々の隊員の活動について制約要因が多く、この問題を解決するということが我が国の領域外における活動の幅を広げるということになるのではないかと考えます。
 以上のことを考えた場合、我々として当面対応すべき点は、以下の五つの点であります。
 まず、当然のことながら、当参議院を含め、国会並びに政党で憲法論議を一層進め、国内世論を起こし、憲法及びその根底にある国のあるべき姿あるいは国益などについて幅広く議論を国内に起こし浸透させるということが必要であると考えます。
 第二は、憲法改正のための手続法を審議すると同時に、この手続法を実施するための国内の体制を整備するという必要があると思います。さらに、憲法改正ということになった場合、憲法改正だけでは問題はとどまらず、この憲法改正に伴って既存の国内法並びに条約や協定の改正についても、この際、総合的に検討しておくという必要があるのではないかと思います。この中に安保条約や地位協定をどのように扱うかという根本的な問題があるのではないかと考えます。
 第三に、日米間で集団的自衛権の問題に関する協議を行い、双方がいかなる意図を持っておるのか、特にアメリカが日本に何を期待するのか、日本が集団的自衛権を行使するということが真にアメリカの意図なのか、あるいは日米間が、日本が集団的自衛権を行使できることによってどのような役割分担に発展するのかということを突き詰めて考えると、これは日米同盟のあるべき姿を模索するということにほかならないと思います。このような問題はまだ日米間で真剣に討議をされている形跡はありませんが、集団的自衛権というのは国家のありようを、将来の姿を決めるということになるわけで、国際社会の中で日本が集団的自衛権という問題をクリアすることがアメリカと日本の将来にわたる同盟関係にどういう影響を与えるかということは率直に討議をしておく必要があるのではないかと思います。
 私が最も重視すべき点は、第四の点です。
 それは、憲法改正手続というものが完了するまでの間、国としてはいついかなる危機に見舞われるかもしらず、したがって、あらゆる事態に対応するために、当面、国家緊急事態対処法を整備するとともに、日本の特に自衛隊の海外活動の基準に関する法体系を整備するという必要があるのではないかと考えます。その際、当然のことながら、領域外における武力行使及び武器使用に関する基準を他国と同様の基準を適用できるよう配慮し、この一連の法整備を進めていくという必要があるのではないかと思います。
 最後に、立法府並びに政党間で、できれば党派を超えて国益とは何かということを審議し、国益という言葉ですべてを済ませるのではなく、国益とはいかなるものであるかということを個別具体的に内容を考え、これに優先順位を付けるという作業をする必要があるのではないかと考えます。
 御承知のとおり、アメリカには超党派で国益委員会というものができ、具体的な国益が幾つかのカテゴリーで具体的に規定をされていることにかんがみれば、我が国において国益とリスク、あるいは日本の防衛の在り方というものをともに併せて今後の法整備の基礎として検討するという必要があるのではないかと思います。
 以上が所見の一端でございます。ありがとうございます。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いいたします。
 舛添要一君。
○舛添要一君 どうもお三方ありがとうございました。
 これはお三方に共通した質問でございますけれども、私もずっと国際関係の歴史を勉強してきた者として、先ほど本間参考人おっしゃったように、この集団的自衛権という概念はたかだか五、六十年のもので、つまり国連憲章五十一条以外にはなかった。例えば一九二五年のロカルノ条約なんというのは、これを議論したときに、英語で言うとコレクティブセキュリティーということは言っていました、集団的な安全保障。しかし、コレクティブセルフディフェンスということですね。セルフディフェンスって、セルフというのはインディビジュアルであることが言葉の本来の意味なんで、コレクティブなセルフディフェンスというのは言葉からいっても非常に矛盾である。しかし、これは御指摘のとおり、五十二条の地域的取決めがあって、その地域的取決めが五十三条で発動させるためには国連の安保理事会の許可を得ないといけない。しかし、あの冷戦下においては拒否権が発動されるということで違法性阻却ということでなったと思うんですけれども。ただ、それから五、六十年たったときに、これは豊下参考人おっしゃったように、ニカラグアの事件の国際司法裁判所の判決で、五十一条の国連憲章で決めたこと、それがその後の国連総会の諸決議に基づいて国際慣習法として成立している、こういう判決が下されていますけれども、そこで問題は、国家の固有の、これは森本参考人、これはもうあらゆる国家も個別的、集団的な自衛権というのは固有のものとして、もう自然権として持っているんだと、こういうことをおっしゃったんですけれども、これはもう全くお三方で考え方異なると思いますので、集団的自衛権というのは国家の固有の権利としてもう確立したと見るのか、そうじゃないのか。これ、豊下、本間、森本三参考人、順次お答えください。
○会長(上杉光弘君) 全部御三方にお聞きしますか。
○舛添要一君 そうです。
○参考人(豊下楢彦君) この問題はコスタリカの場合を考えると分かりやすいと思うんですけれども、御承知のように、コスタリカは憲法第十二条で軍備を禁止しておりますけれども、場合によったら再軍備できるという可能性を残しています。したがって、個別的自衛権は当然持っている。また、コスタリカはリオ条約に入っておりますので、集団的自衛権を持っていると。しかも、行使しているといっています。その行使の内容につきましては、リオ条約に入るときにコスタリカは海外派兵はしないという前提でリオ条約に入っているわけであって、したがって行使の内容は、例えば加害国に対して外交関係を断絶するとか、被害国に対して経済援助をするとか、そういったことで行使しているということになっております。したがって、コスタリカの場合、今申しましたように集団的自衛権を保持しており行使しておるけれども、海外派兵という行使はしないんだという形で対処しているんではないかと。
 だから、日本の場合に、先ほど言いましたように、従来の政府解釈が集団的自衛権イコール海外派兵ということで限定してきている。そのことがいろいろ議論を呼んできている。なぜなら、基地提供自体集団的自衛権だということはもうはっきり言えるわけですから、その狭義と広義の辺が非常にあいまいな形で進んできたのが問題じゃないかというように思いますけれども。
○参考人(本間浩君) 集団的自衛権が国際慣習法として確立されているかどうかという問題についてお話ししたいと思います。
 私は、先ほど御説明申し上げましたように、集団的自衛権という観念そのものが国連憲章によって作られた概念であると。したがいまして、集団的自衛権という概念は国連憲章を離れては存在し得ないんだと。つまり、その意味では国連憲章の下の国家の活動を、それを国際慣習法の成立を認めるものというふうに見れば、ある意味で国際慣習法の成立を認める可能性というのが集団的自衛権の場合にもないではないと思うんですけれども、しかし、現実的に言えば国連憲章も条約であります。条約の枠組みを超えたところで、この国際慣習法としての集団的自衛権というのは私は存在し得ないと、そう考えます。
 ただ、アメリカがこの自衛権ということについて非常に広義に理解していて、いわゆる自己保存権的な自衛権、それをアメリカの伝統的な自衛権の解釈の根拠にしております。したがいまして、アメリカは、自国民が他国にいるときにいろいろな不利益を受ける、それを武力をもって救済に出掛ける際も、これも自衛権行使と言っているわけです。それに対して、先ほど豊下参考人から御説明がありましたように、国連憲章では、武力攻撃が発生したときに、これは日本語訳ですけれども、発生したときに自衛権を行使できるんだと、こうなっているわけですね。これは集団的自衛権の場合であっても、国連憲章の定める集団的自衛権であっても条件は同じである。こうなってくると、アメリカの主張する自衛権、これが集団的自衛権というものをアメリカがその中に含めて考えるんだとすれば、これはアメリカだけがそういう解釈をしているということであって、他の国連加盟国ではこれは受け入れられないと、そういうふうに見ております。
 以上です。
○参考人(森本敏君) 現在の国連憲章の中で、憲章五十一条に言う個別的及び集団的自衛の固有の権利をすべての締約国にともに認めているこの経緯は、そもそも国連憲章起草のプロセス、段階の中ではこのように区別されて、当初は区別されていなかったわけで、それが最終段階で、この国連憲章採決の後、中米諸国が同盟条約を結ぶということが内々分かっていたので、同盟条約を結ぶ中米諸国の権利を認めるために個別的な自衛権とともに集団的自衛の固有の権利を憲章で認めるという最後の文章になったわけです。
 したがって、本来、自衛権と一言書けばそれでよかったのですが、当時の同盟条約の国際法上の根拠を作るために「集団的自衛の固有の権利を」と書いたということであって、この経緯にかんがみれば、すべての国がともに国家として持っておる自然権と当時はみんな考えていたのではないかと思います。
 さらに、今、本間参考人のお話ですけれども、私がこの集団的自衛権と個別的自衛権というものを考えた場合に、実はその二つを区別し、これがどちらかを行使できるできないという議論をし、そのような扱い方を有権解釈としてしているのは世界の中で日本だけだと思います。
 例えば、アフガニスタン戦争というのは、御承知だと思いますが、これは、アメリカは国連憲章第五十一条に言う個別的自衛権を行使してアフガニスタン戦争を行い、国連安保理決議はありません。一方、NATO諸国は、同盟国アメリカが個別的自衛権を行使することを容認して、同盟国として集団的自衛権を行使してこの活動に同調したわけであって、その場合、アメリカが個別的自衛権を行使してアフガニスタン戦争をやるということをNATO諸国はすべて認めて集団的自衛権を行使して参加したわけで、その意味において、本間参考人のお言葉のように、アメリカだけがこの個別自衛権をこういう形で行使、解釈しているということは、必ずしもそうであるかどうか、私には少し分からないところです。
 私は国際法の専門家ではないんですが、明らかに、世界の中で双方を区別して議論している国は多いのですが、どちらかだけを行使できないという区別をしているのは日本だけだと、このように解釈しています。そして、それは国際法上の解釈として不自然ではないかと考えます。
○舛添要一君 今、本間参考人の意見との比較が出ましたけれども、本間参考人にお伺いしますけれども、そうすると、今の森本参考人おっしゃったようなアフガンの例なんかを見ましても、冷戦は終わったんですけれども、国連憲章第五十三条のこの地域的取決めと強制行動、これ事実上、有名無実って、これなくても何でもやれると、集団的自衛権という概念を持ってくればということになりますね。それ、どうお考えですか。
○参考人(本間浩君) それは先生がおっしゃるとおりだと思います。
 その意味で、国連憲章五十三条のその地域的取決めが、国連の許可の下に活動できる、行動できるというこの原則について、十分まだ分析が行われていない、そしてプラクティスも重ねられていない、そういう状況にあるんだと思います。
 そのことは、これまで、特にアメリカが国連の許可を受けない形で武力を行使するということをずっとこれまで続けてきた、そういう状況の中でその五十三条を持ち出すということは、アメリカにとって自分で自分を制約することになりかねない。そういう点があるから、これまでこの五十三条についてなかなか議論になってこなかったんだと思います。
 これからは、特に冷戦後の国際社会を考える場合に、この五十三条をどういうふうに活用していくかということは、これからの国連の存在意義を高めるという意味でも一層重要な問題になってくると思います。
○舛添要一君 続けて本間参考人にお伺いしますけれども、やっぱりそこで、そのアライアンスというか同盟とは大体何だろうかということが問題になってくると思いますけれども、五十一条、五十二条、五十三条、国連憲章、この辺りはリージョナルアレンジメント、地域的取決めということを言っているわけですけれども、要するに、国連軍、最終的なアルティマレシオを持った国連軍というのはあればいいわけです。それができていない。そのときに、リージョナルアレンジメントも働かない、そうすると、同盟しかないじゃないかと。
 それで、先ほど本間参考人おっしゃったように、今のような状況では日米同盟に頼るしかないということをおっしゃいましたけれども、これはもう純理論的に言うと、それならば現実的に日米安保を認めるんならばそれでいいんですけれども、本間参考人のずっと解釈でいくと、要するに日米安保というのは憲法違反になりませんか、純法理的に言うと。
○参考人(本間浩君) 確かに憲法違反の可能性ないではないと思います。
 ただ、憲法違反かどうかということを議論している間にも日本が武力攻撃を受けるかもしれない、特に新しい形の武力行使として国際テロリストの活動がこの日本に及ぶかもしれない、そういう状況においては、一種の自衛行為として日米安保の存在を、その意味で、その限られた意味で暫定的に認めていくという現実的な選択を取らざるを得ない、私はそういうふうに考えます。
○舛添要一君 そうしますと、結局は、歴史的考察、法理論的考察はあるんですけれども、現実的な政策判断でいろんなことを、新しい政策や同盟関係を結ぶことはできるということになるわけで、そうしますと、例えばそれを憲法改正という方向に持っていくときのハードルが高いのか低いのか非常に分かりにくくなると思うんですけれども、改めて本間参考人、そこはどういうふうにお考えですか。
○参考人(本間浩君) 私は、憲法九条、そしてその憲法九条についての政府の伝統的解釈、これが、日米安保条約を現実的選択として認める際にどの範囲で認めるか、逆に言うとどの範囲から認めないのか、そういうことを考える上の基準を確定する上で効用を持っていると、そういうふうに思います。ですから、その意味で、憲法九条を改正する必要はありませんし、そして、この政府の伝統的解釈、これにも問題があるんですけれども、原則的には維持すべきであると、私はそう考えます。
○舛添要一君 森本参考人にお伺いいたしますけれども、仮に憲法改正をしなくても、解釈を、政府の解釈を変えて、日本国が集団的自衛権を保有しかつそれを行使する権利があるというふうに変えた上で、要するに、これまでPKOとか周辺事態法、それからイラク特措法と次々と個別的な法律で対応してきましたけれども、恒久的な法律を体系的に作るべきであると、私は例えばそういうふうに考えるんですけれども、その意見に対していかがお考えでしょうか。
○参考人(森本敏君) 御指摘のように、冷戦が終わった後の各種の危険とかリスクに対応するために、従来、日本の領域の中、それから安保条約で認められた領域、すなわち具体的に言うと安保条約第六条の考えている領域以外の、つまりそれを超える地域での国際的な協力については日米安保条約では対応できないわけですから、したがってその領域の外に自衛隊を活動させるためには国内法上の根拠が要ることは明らかで、したがっていろいろな国内法、例えば、PKOについてはPKO法、あるいは国際援助隊法等いろんな法律ができ、それからさらに、二〇〇一年のテロ特措法によってインド洋に、そして昨年のイラク特別措置法によってイラク及びその周辺に自衛隊をこうやって活動させている。
 この法律を、事態が起こるたびにその都度立法の措置をするということになると二つの問題が起きます。
 一つは、それだけ時間が遅れ、対応が遅れる。それからもう一つは、法律そのものの制定のたびに手続その他、部隊の任務、あるいは持っていくべきいろいろな装備、指揮関係等をその都度法律の中で新しく決めなければならないということになり、もしその基準となる法体系ができており、政府が政策判断をすれば一つの法律の枠組みの中で派遣させることができるのであれば、むしろ時間的には直ちに対応するという即応の体制が取れるということのみならず、自衛隊がその法に従って日ごろから訓練を行い、装備を整え、いろいろな体系が取れるという利便性があるのではないか考えます。
 したがって、一般に言われているような恒久法その他の基準となる法律を作る必要があると考えますが、その際二つのことを考えないといけないと思います。一体その基準となる対象は何かということです。自衛隊を単に領域外において活動させるための基準を作るのであれば、一体現在の自衛隊法を改正するという手段によってなぜできないのかという問題が出ます。したがって、これは恒久法というより自衛隊法改正、抜本的な改正、つまり任務を含む抜本的な改正という問題でなぜ処理できないのかと。そうではなく、自衛隊の領域外における活動を含む国としてのトータルな国際協力、国際貢献の基準を作るための法というのであればそれは自衛隊法の改正ではできないわけで、もう少し広い範囲と広い領域を持つ基準法ということになりましょうから、その場合は恐らく何らかの基準となる法律というものが必要なんだろうと思います。
 いずれにしても、その法律を制定するときに我々が考えないといけないことは、一つは、そのようなリスクを負って領域外に自衛隊を出すことに係る日本が追求すべき国益とは何かということが明確でなければならず、第二に、自衛隊をこのように海外に展開させるということが日本の防衛の在り方との関係においてどういう意味を持っているかということです。
 我が国憲法の中で、日本を守るため必要最小限度の防衛力を我が国は持っていて、それを今やゴラン高原、東チモール、そしてインド洋、イラク、それでとどまらないと私は思いますが、このように領域外で活動する自衛隊のありようとその防衛力は、現在の防衛大綱の中では予期せぬ事態だと思います。このような防衛力というものを現在の大綱はそもそも予定し、予想し、防衛力を整備してきたのかというと、私は必ずしもそうではないんだろうと思うんです。したがって、我が国の防衛の在り方とは一体何なのかと。この二つを追求し、その基準を明確にした上で法整備を進めていくという必要があるのではないかと考えます。
 以上でございます。
○舛添要一君 最後に、豊下参考人にお伺いいたします。
 先ほど予防戦争論を、予防戦争的になっているんじゃないかと、自衛権がブッシュ・ドクトリンで非常に拡大されたんじゃないかとおっしゃった。八一年のイスラエルのイラク原発攻撃の例も出されましたけれども、やっぱりこれは二〇〇一年の九月十一日の同時テロ、多発テロへの影響が非常に大きくて、いわゆるローインテンシティー・ウオーフェアというか、テロリズムというか、こういう現実の変化で、ある意味で自衛権の拡大解釈みたいなところにいったんだろうと思います。
 そういう意味で、原則的なことはありながら、現実の国際情勢の変化というものにかなり影響されざるを得ない、どっかでそこは妥協点を求めざるを得ないのかなと、そういう感じがしていますけれども、いかがでしょうか。
○参考人(豊下楢彦君) おっしゃることは分かりますけれども、先ほど申しましたように、国連加盟国全体がその論理を取っていけば国際的アナーキーになると思うんですね。それから、今よろしいですか、二十分ですけれども。
 それで、私は、九月十一日の場合は非国家的アクターによる攻撃なものですから、自衛権の発動についてもいろいろ国際法学者で議論ありました。しかし、いずれにしましても、私は今、集団的自衛権を論じる今日的意味はないんじゃないかと思う。
 というのは、集団的自衛権というのは国家と国家の間の戦争を前提にしてきたわけであって、だから、AがBに対して攻撃を加え、そしてBと密接な関係にあるCがBを助けるためにAと戦う、Bをアメリカとし、Cを日本とした場合に、今果たしてAという国家があるのかということなんですね。アメリカに対して国家として武力攻撃を掛ける国家が今あるならばリアリティーありますけれども、現実にはない。しかも、今仮に九月十一日のようなことが再び起こったとしても、当時はタリバンの支配するアフガニスタンという国家がありましたけれども、今は存在しません。そうしますと、アメリカは攻撃しようにもどこも攻撃しようがない。そうしますと、あり得るのはアメリカによる予防戦争だと。
 したがって、私は原理的な意味において、今、集団的自衛権を論じるリアリティーは実はないんだというふうに考えております。
○舛添要一君 終わります。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 松井孝治君。
○松井孝治君 民主党の松井孝治でございます。
 三人の先生方、大変興味深いお話をありがとうございました。
 まず、基本的なことを伺いたいと思いますが、豊下参考人と本間参考人に伺いたいんですが、現在の自衛隊の存在あるいはその活動実態を踏まえて、これは森本参考人は既に御発言がございましたが、憲法第九条第二項というものと現実の自衛隊の存在及び活動というのは整合的であると考えられますか。あるいは、質問を変えれば、憲法第九条二項違反の実態が現実に起こっているとは考えられませんか。
○会長(上杉光弘君) 御三方ですか。
○松井孝治君 いや、豊下参考人と本間参考人です。
○参考人(豊下楢彦君) 自衛隊がいわゆる合憲か違憲かという議論でございますけれども、私は、いわゆる芦田修正によって解釈としては合憲という解釈が取れるかもしれませんけれども、私は、先ほども出ておりましたように、疑義を残さないために、個別的自衛権ということのために軍隊を持つというふうな修正はあってもいいと思いますけれども。その際は、前提条件として、それこそ侵略戦争をやらないとか、核を含めた大量破壊兵器を持たないとか、非常に明確な歯止めを持った憲法を定める必要があるんじゃないかと。
 その際に、じゃ集団的自衛権をどうするかと。先ほど言いましたように、集団的自衛権の根拠、リアリティーというものは私はなくなっているという判断ですから、それは必要ないということでございます。
○参考人(本間浩君) 私、これまで申し上げたところに沿ってお話ししますと、現実的な選択として、自衛隊の存在は、これは合憲と認めざるを得ないんだと思います。ただし、その意味は、あくまでも暫定的なものでありまして、将来はやはりこの自衛隊の、現在の自衛隊の在り方ということを変えていかなければならないと思います。
 しかし、武力のない、武装をしない、そういう国家の存立というのがあり得るのかということになりますと、これまでの経験からすると、これはまあ一種の理想論であると。で、理想論はそれなりの社会的効用、歴史的効用を持つわけですけれども、しかし現実においては、なお問題を抱えざるを得ない。
 そうすると、自衛隊の存在ということを合憲と見ざるを得ない、今の段階では合憲と見ざるを得ない。その際に、今、豊下参考人からお話がありましたように、この自衛隊の、何といいますか、内的に増殖していこうとするその力をどうやって歯止め掛けるか、こういう問題についてもっと真剣に考えざるを得ないと思います。
 先ほど私、時間が足りなくてお話を切ってしまったわけですけれども、私が理解する平和主義ということについて、この自衛隊の問題と関連しますので、ちょっとお話しさせていただきたいと思います。
 私は、平和主義というのは、国際紛争を解決する手段として武力を行使しないということだけを平和主義というのではないと思います。それは、憲法の前文に、全世界の国民が、平和のうちに生存する権利がある、権利を有するんだと、それから、平和を維持しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいんだと、こういうことが述べられているわけですけれども、これを具体化する一つの方法として軍縮の呼び掛けということを日本そして国会、この国会から打ち出していく、発信していく、要するにその呼び掛けを法規範化していく。その法規範化ということが、これは対外的な政策に絡む問題でもありますが、もう一つは自衛隊の増殖に対する歯止めになっていく、そういう条件が整えられたときには自衛隊の活動ということにもっと積極的に合憲というふうに認めることができると思います。
 以上です。
○松井孝治君 今の本間参考人の合憲であるというところは、ちょっと、どこをどう読んで今のようなお考えで合憲とされているのかやや不明なところがありましたが、ちょっと質疑の時間も限られておりますので、森本参考人にお伺いをしたいわけでありますが、今までの質疑の中でも、これは集団的自衛権という概念が意味があるかどうかというのはいろいろ議論があって、意味のないという御意見が多かったように思いますけれども、自衛権、いずれにしても自衛権の行使というのは、これは主権国家が自然権としてという表現がいいかどうかは別として、持っているということは、私自身はそう思いますし、森本参考人もそのような御意見であろうと思いますが、この自衛権の行使の範囲というものをどこで歯止めを掛けるのかというところが今の我々の国会の議論でも欠如をしているのではないかなと思っております。
 その際に、先ほど森本参考人から最後の四番目の項目でも御提言がございましたが、森本参考人としては、自衛権、日本が持つ、主権国家としての日本が持つ自衛権の範囲をどのように主体的に判断するのかというのは、基本的に法律の制定によるものだとお考えなのか、それともその法律の制定のみならず、例えば最後の項目でおっしゃったような国益の在り方というようなものをもっと国会において議論をし、その総意の反映としての法律を制定すべきだと考えられるのか、これはまず一義的に、森本参考人に自衛権の行使の範囲をどこでどう確定すべきかについての御意見をいただきたいと思います。
○参考人(森本敏君) 結論だけを申し上げると、私は、国家の自衛権を行使するに必要な手段としての国家の防衛力に歯止めあるいは制約要因を法的に掛けることには反対です。いかなる国であれ、日本以外の他の国でその国が持っておる国軍というか軍隊に活動の範囲について歯止めを掛けている国はないと私は思います。軍隊とはそういうものではないと思います。それは法的にという意味です。
 どのような活動をさせるかということについては、そのとき国家が国益に照らして認知をする。例えば、その国の指導者がその国の部隊指揮官にどういう活動をしろ、どういう任務を与えると言って、それを、時の政権がそれを認可するという活動によって行われるのであって、法的に自衛権が行使される範囲や自衛権そのものに歯止めを掛けたり制約要因を掛けるというのは、これは国家の防衛力が独り歩きするという国民の自信のなさを示すものであって、国家とはそういうものではないと思います。
 本来、軍隊の活動を議論するのは民主主義国家の中で責任を持たされている指導者であり、その軍隊に与えた作戦計画あるいは任務がおかしければそれは立法府の中で審議されるべきものであって、しかしながら、法律の中で明文で初めから歯止めを掛けるというようなことを武装集団である国家が防衛力に課すというのは、そもそも自然権の行使の中で初めから手足を縛って軍隊を持っているようなもので、それは私はあってはならないのではないかと、かように考えます。
○松井孝治君 そうすると、従来の政府解釈は、国際法上、我が国は当然集団的自衛権、自衛権を持っている、しかしながら、国家権力の行使の在り方として、日本国憲法は集団的自衛権の行使を認めていないという解釈を取っているわけですが、これはおよそ、今おっしゃった法律による自衛権のコントロールを憲法という一番基本法たる法典によってしているというこの限界、現在の政府解釈はおよそ森本参考人としては適切とは思われないという御意見になるでしょうか。
○参考人(森本敏君) 現在の有権解釈が、先ほど申し上げましたように、自衛権というものを認めながらその自衛権の一部を行使できないと考えていること自体は国として不合理である、かように考えます。
○松井孝治君 本間参考人と豊下参考人にも、今、森本参考人にお伺いした質問と基本的に同義の質問をしたいと思いますが、自衛権を国が持っている、その制約の在り方について、両参考人はそれぞれどのような形で、両参考人それぞれの違う言葉で使われましたが、主体的判断をするあるいは歯止めをする、それはどういう形でそれを主体的に判断するのが適切と考えられるかについて、時間もありませんので簡潔にお答えいただければ有り難いと思います。
○参考人(豊下楢彦君) その問題は、日本の場合に非常に難しいことは、NATOなどと違いましてアメリカとの二国間同盟であるという問題、それから参考資料にも載せておきましたけれども、極東条項というものを持っている。この極東条項はほかの同盟条約にない極めて特異なものであって、平和と安全のためという極めてあいまいな概念でもって作動できるような条項でございます。
 そうしますと、そもそもが武力攻撃の発生という五十一条の前提を欠いたものが極東条項であり、また周辺事態も同じような概念だと思うんですね。したがって、歯止めを掛けるといった場合に、二国間の中で極めて日本は弱い立場にあると。だから、先ほど申しましたように、小渕首相の日米安保の本旨からして拒否はあり得ないというふうな、そのような了解になっている。したがって、よほど私は歯止めが必要じゃないか。
 その場合に、先ほど言いましたように、言葉の表現としまして、やっぱり集団的自衛権という概念を自明のごとくやはり使うべきじゃないと思うんですね。アメリカ的あるいはイスラエル的自衛権に日本がどうかかわっていくのかどうかというそこのレベルで問題を考えるとなりますと、もっともっと違った形で問題が見えてくるのじゃないかというふうに思います。
○参考人(本間浩君) 先ほど森本参考人から、自衛権について自ら制約するということについていかがなものかという御意見が述べられました。これこそ自衛権でありますから、その権利の使い方というのはそれぞれの国の国内政策によるわけでありまして、日本は第二次世界大戦という経験を経ているわけですから、それに基づいた国内政策の取り方というのはあるんだと思います。
 ちなみに、一九五五年に締結されました、これはヨーロッパの連合国でありますけれども、オーストリア再建条約といいますか、いわゆる通称国家条約ですけれども、この国家条約の十三条というところを見ますと、オーストリア軍は次の武器、これは武器の制限という形で制限を置いているわけですけれども、次のものの保有、製造、実験を行ってはならないということを決めておりまして、その中には、原子力兵器とか大量破壊兵器、誘導ミサイル、それから水雷、魚雷の類、それから潜水艦、それから三十キロ以上の射程の銃、それと毒ガス、生物兵器と、こういうものをオーストリア軍は持たないんだと、こういうことを定めているわけですね。これも一種の自衛権行使の制約の在り方だと思います。
 これは、ただ、条約という多国間の合意の中で制約を求められているということでありますから、自ら自衛権の行使の仕方を制約しているというのとちょっと違うと言えば言えますけれども、法律によって武力行使の仕方に制約を置いている一つの例かと思います。
 以上です。
○松井孝治君 森本参考人に、今の本間参考人、豊下参考人の御意見も踏まえて、やはり法律による、法律は国家意思の一つの反映ですから、それは不断に見直しをして作り替えればいいという考え方はあると思うんですが、それでもやはり森本参考人としては、基本的に、自衛権の行使の在り方については、法律による規制を求めずに、むしろ政府が弾力的にその時々の政府の判断で判断あるいは自らの歯止めを課すべきだというふうにお考えでしょうか。
○参考人(森本敏君) 我が国の自衛権の行使に歯止めや制約を掛けるべきでないとの趣旨を申し上げましたが、無制限で何でもできるということを申し上げたのではなく、自衛権ですから、当然国際法上、自衛権を行使するとはいかなるものであるかということについての一般的な常識というのはあるんだろうと思います。
 さらに、日本は、自衛権を行使する際、三要件というものを明らかにし、これは法律には書いてありませんが、政府が従来から明らかにしている自衛権行使の、自衛権発動の三要件というものは明文で明示してあるわけでありまして、そういう制約、つまりそういった要件を満たす限り、自衛権を行使する際、法律の中で別途の歯止めは要らないとの趣旨を申し上げたのは、そのときの国益は時代とそのとき国家の置かれた状況によって変化するわけで、その変化する国際情勢の中でその時々の国益をどのように判断をし、それを立法府で政府が説明をし、立法府でこれが認可され、したがって、その認可される範囲の中で自衛隊の海外活動にある一種の任務を与えてこの国益を追求するというときに、自衛権を行使する範囲を、例えば、例えば余り例は良くないのですが、北欧には行くべきでないとか、あるいは中東湾岸だけが限界だとか、あるいはこれこれの兵器を持っていくのは限界を超えるとか、あるいはそういった個別具体的な範囲といいますか制約要件を法律の中で書き込む必要はない、そのときの国益を自ら判断し、立法府が審議を行い、政府が責任を負い、責任を持ってこれを実行するということで十分であるという趣旨を申し述べたわけでございます。
○松井孝治君 分かりました。
 法律によってあらかじめ外形的に決めるというよりは、この最後の御提案の(5)の国益委員会のようなところで政府方針を議論をして、そこで個々具体的に制約の在り方については考えるべきだと、そのように解釈してよろしいですね。もう答弁は結構です。
 最後に、もう時間もなくなりましたので、森本参考人に伺いたいんですけれども、アナン事務総長も来られて国会演説をされました。テロリズムというものが従来の主権国家による安全の侵害ということ以外の平和への脅威として非常に大きな問題になっている、あるいは大量破壊兵器など、従来の国連憲章などが想定していた主権国家の平和、安全への脅威以外のもっと急迫な大規模な侵害がある中で、正に先ほどから参考人の皆様方からありましたような予防戦争論、あるいは自衛権の拡大解釈というようなものは国際的に大きな問題になっていると思うんですが、森本参考人はアメリカのイラク攻撃の正当性はそういう国際的な環境の変化によって正当化されるんだというふうにお考えなのかどうか、その辺りを御意見をいただきたいと思います。
○参考人(森本敏君) イラク戦争の大義を、大義という言葉が仮に国際法上の根拠であるというふうに考えれば、この国際法上の根拠をアメリカは豊下参考人のお話のようにブッシュ・ドクトリンに求めたのではないかと思います。しかし、ブッシュ・ドクトリンを適用して武力行使するということはいかようにも現在の国連憲章を中心とする国際法上認めがたいとする多くの同盟国の反対に出会って、アメリカは二〇〇二年の九月、ブッシュ大統領の国連演説並びに国家安全保障戦略の中で、できるだけ国際協力を取り付ける努力をするが、もしそれが取り付けられないのであれば、そして必要だと考えるときにはアメリカは単独でも行動するということを明文でコミットします。実際にはアメリカの言ったとおりになり、新たな安保理決議が通らず国際協力が得られなかったのでアメリカは武力行使を踏み切りますけれども、このときの説明はあくまで安保理決議六七八、すなわち湾岸戦争が起きたときの一九九〇年十一月に国連を通過した安保理決議にその法的根拠を求める説明をしたんだろうと思います。
 私個人は、これは無理があると。この説明は、これは少しアメリカの説明は無理、無理があって、そもそもイラクはクウェートに侵攻したときに、これによって破壊された秩序を維持回復するために国連が通過させた安保理決議六七八を、大量破壊兵器という根拠をもってイラクに武力攻撃をする国際法上の根拠とすることには、どう考えても合理的でないと考えます。したがって、国際法上の根拠という大義であるというふうに大義という言葉を解釈すれば、イラク戦争の国際法上の大義は確定されてないというのが私の考えです。
○松井孝治君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 山本保君。
○山本保君 公明党の山本保でございます。
 今日は大変難しい、私にとっては難しいお話でございまして、今日初めてこの調査会で質問させていただきますので、分かりやすくお答えいただきたいとは思っております。
 最初に、順番にお聞きしたいと思っておりますが、豊下参考人にお伺いいたします。
 お話の中では大変興味がありまして、今、実は森本参考人も触れられたことだったので、豊下参考人はお話の中で、もし今、日本の総理が、集団的自衛権ですか、これを認めるというようなことになったらアメリカの大きな戦略の中に組み入れられるであろうと。これは、アメリカという国はすぐ変わって危険であるというか、余りそれにはがえんじないということをおっしゃいまして、日本の外交政策の柱をしっかり立てるべきだと、こうおっしゃいました。この辺もう少し、先生はどういうふうな、アメリカの戦略というのは我が国の国益とか将来像の中でどういう問題があり、我が国としてはどのような戦略を立てていったら、戦略というのは、外交戦略を立てていったらいいとお考えでございましょうか。
○参考人(豊下楢彦君) 短時間ですので端的な例を挙げますと、私は、イラク問題が深刻化する前から主張していたんですけれども、今世界で大量破壊兵器とテロリズムが結合する最も危険な地域はどこかといいますと、それは北朝鮮でもイラクでもイランでもリビアでもなくて、パキスタンなわけですね。パキスタンは間違いなく核保有国であり、強力なミサイルを持っており、しかも他の国に核技術を輸出しており、しかも国内ではアルカイダの残党がばっこしておると。仮に今大統領が暗殺されるということになればどんな事態が起こるかと。予想を超えるわけです。
 実は、九八年にパキスタンが核実験をやったときに、日本は非常任理事国として決議案のために奔走いたしまして、全会一致で非難決議を上げて、そして制裁に踏み切ったわけです。ところが、九月十一日が起こりますと、ブッシュ大統領は、アルカイダと闘うということの理由があったんでしょう、パキスタンに対する制裁を解除して、そして訪米した小泉首相に対しても、日本も制裁を解除してほしい、そして核保有国の政情を安定していなければならないから緊急の経済援助をやってくれという要請をした。それで、小泉政権はそれにこたえて、〇一年十月に制裁解除しました。パキスタンはNPT体制に入るとも何も言っておりませんが、制裁解除いたしました。そういうことで、論理的に考えますと、テロリストと闘うために核拡散を認めると、これは正に倒錯した論理であります。
 アメリカにはアメリカの様々な軍事戦略があるでしょうけれども、日本はやはり被爆国としてNPT体制をきっちりと守っていく、あるいはそれを再構築していくという視点からしますと、パキスタンに対する制裁を解除したことは、私は根本的に誤りだと思うんですね。だから、今、日本がやるべきことは、パキスタンなりインドなりにもう一度核を放棄してもらって、もちろんイスラエルに対してもそれを要求する。もうちょっとよろしいですか。
 イスラエルの場合は、私は、日本は非常にある種優位な立場に立っておると思いますのは、ユダヤ人問題としての過去を持っていないわけですね。ヨーロッパ諸国と違って、日本はナチと同盟しましたけれども、日本はユダヤ人に対して差別や迫害をした歴史を持っていない。だから、正面からイスラエルに対して核の問題も、それから今日の占領の問題も、何十年にわたって安保理決議を違反してきたことについて日本は堂々と言う権利を持っている。そのことによってまたアラブ社会の支持を得ることもできるだろう。
 ただ、もちろん諸外国からしますと、日本はアメリカの核の傘の下にのうのうといるじゃないかという批判があります。だから、今の北朝鮮問題とかかわって、日本と朝鮮半島全域を非核地帯にする、そして周辺のアメリカとロシアと中国はそれに対して攻撃を加えないという、そういった協定を北東アジアで結ぶという、そういった言わばNPT体制を根本的に再構築していくようなそういう方針があれば、先ほど言いましたように、簡単にパキスタンに対する制裁を解除しなかったというふうに思うんですね。
 ちょっと長くて失礼しました。
○山本保君 ありがとうございます。
 大変示唆に富むお話で、もっとお聞きしたいんですけれども、また続いてこれからも勉強したいと思います。
 それでは、本間参考人にお聞きいたします。
 同じようなことなんでございますけれども、お聞きしたいなと思っておりましたら、先ほど同僚の議員から先生へのお伺いの中で、最後に残された平和主義ということについて、今、豊下先生からも、ちょっと違った角度ではありましたけれどもお話ありました。
 私も、実は去年イラクへ行かしていただきまして、そして国会の中で、日本はもっと長期的な、アジアとか、また東アジアとか、又はアメリカとか、様々な形で平和行程表を考えて出していく責任があるんじゃないか、そして、日本国憲法前文というのは世界を平和にする使命が日本にあるということを宣言しておるのではないかということを主張させていただきました。ただ、それゆえに私はイラクには助けに行かなければならない。今まで一度もやらなかったんだけれども、ここでこういう形で踏み切る。もっとはっきり言えば、しかし日本はアメリカやイギリスのように、幾ら暴力団であっても、それを武力で放逐するようなことは日本はしない。基本的には外交手段で行う。しかし、それだけのまだ外交力もないし、力もない。ですから、その理想と現実の間を少しずつ埋めていくしかないというふうに考えております、私自身は。
 是非、先生、本間先生、先ほど平和主義についてございましたけれども、もう少しその辺を教えていただければと思いますが。
○参考人(本間浩君) 御質問ありがとうございます。
 先にイラクの問題からお話ししたいと思いますけれども、イラクの問題で日本が支援に行く、そのために今自衛隊始めとして多くの関係者を派遣するということ自体、それはイラクの再建ということだけを取り上げると、それはどうしても必要なことと、日本が正にその最も貢献すべき活動の一つと言ってもいいかもしれません。しかし、それと同時に、先ほど森本参考人からも御指摘がありましたように、アメリカが国連憲章に基づかずにイラクに対して武力攻撃をしてしまった、そのことの違法性の今後の扱いをどうするのか。この問題は、日本がやっぱりアメリカの同盟国であるがゆえに、その問題をきちんと国際的に処理していかなければならない問題だと思います。
 具体的にどうしたらいいのかということは私も妙案ないわけですけれども、しかしこれはやっぱりどこの、どこの部分においてアメリカが国際法違反を生じたのかということについて歴史的事実あるいは法的事実としてきちんと確定していく、国際社会の評価を確定しておくということがやっぱり必要になるかと思います。
 それから、平和主義の問題でありますけれども、私、先ほど軍縮の呼び掛けということを平和主義の具体的な方策として打ち出してみたらどうかということを申し上げたわけですけれども、それ以外あるかもしれません。しかし、アジアの貧困の問題、この問題は実は軍への国家財政の投資、この問題と実は裏腹に絡んでいるわけであって、アジアの貧困を少しでも少なくしていくためにも、軍縮を行って軍備に掛けている費用を福祉の方に回すという、そういうことを考える、そういうきっかけとしてやっぱり軍縮ということを呼び掛ける必要があるんではないか。どうしても、軍を拡張するということは、軍の拡張をやった隣接諸国に対して非常に警戒感を与えて、その国がまた軍備を拡張するということになりかねない。そういう悪いサイクルを断ち切る、そういうきっかけを日本から発動していくということが必要ではないか。ただ、具体的にそれじゃ現在の自衛隊を縮小していけるのか、いくのかということになりますと、これは周辺諸国の姿勢次第によるということになります。
 ですから、当面そういうことについて実現できないということがしばらく続くかもしれませんけれども、そういう日本の外交の基本方針としてそれを打ち出す、それが次第次第にアジア諸国に浸透していくということになればいいかなと。そういうことが平和主義の一つの在り方ではないかと、そういうふうに考えております。
○山本保君 ありがとうございます。
 それでは、森本参考人にお聞きしたいと思います。
 先ほども、国連の今回のイラクのことについて、アメリカの行ったことについて丁寧な分析があったと思います。先生のお話は大変現実に即したところがありまして非常に参考になるんですが、結論としてこれ一つお聞きしたいのは、先生、その中で、日本はもう国益とか国のあるべき姿をしっかり考えなくちゃいけない、注意深く御自分の意見を言わずにお話しになりましたけれども、そこはどのように考えておられるのか。
 特に、そのような、はっきり申し上げて、昨日、アナンさんは多極主義と言われましたけれども、現実には、アメリカ中心の力の国になっていっている。そしてアメリカは、先ほど森本先生おっしゃるように、場合によってはその状況の中でまず力を出す。こういう国とずっと付いていって日本はよろしいんでしょうか。この辺をどのような将来像の中で先生は日本の国益を考えておられるのか、ちょっとお聞きしたいと思います。
○参考人(森本敏君) 九一年の十二月にソ連が崩壊して以来、十二年に及ぶ冷戦後の世界で、新しい冷戦後の秩序を説明する論理はいまだ発見されていないものの、現実世界は、アメリカの一極主義と多国間協調主義の混在する世界であるというふうに考えます。
 アメリカのユニラテラリズムというものを、マルチラテラリズム、すなわち国際協調主義の中にいかに調和させ、これを取り込み、我々として国際の平和と安定を維持するかということは、今日我々に課せられた非常に重要な課題で、その意味において、アメリカを国際協調主義の中に引き込むのは、同盟国として重要な役割の一つではないかと考えます。アメリカを批判するだけだと簡単ですが、そうではなく、アメリカと価値観を共有するところはきちっと価値観を共有する活動を行いつつ、アメリカに対し説得力を持つ活動をやりながらアメリカを国際協調の場に引き出し、常に主要国が協調しなければ世界のいろいろな問題を解決できないという現実世界の中で我々はアメリカをとらえていかないといけないということだと思います。
 アメリカに対して我々が考えることは、実はアメリカという国は少し、自分の国の国益を追求する際、他国の思惑あるいは地域の状態、宗教や民族の機微な感情をいささか無視して自分たちの価値観を国際社会の中に当てはめようという、言わば一国主義の傾向を強く持っていることは我々として深刻に考えていかないといけないと思いますが、いや、だからといって、私は、フランスやドイツのように単にアメリカを批判するだけで、主要国の中を分裂させ、国連を機能させず、問題解決に、国連安保理決議には参画するが実際の活動には参加しないというやり方は、私は同盟国としていかがなものかと考えます。
 日本がやるべきことというのは、きちっとした協力をしながら、日本がこのアメリカの持っておる力を日本の国益追求のために最大限に利用し、活用するという手だてを日本として長期的に打ち立てた上で、必要な場合にアメリカを利用し、これを活用し、日本は必要な場合にだけ、無制限にではなく節度を持って協力をし、その限りにおいてアメリカに影響力を常に維持し、アメリカに必要な物を言うということをやってきたし、またそれをやりつつあるんだろうと思います。その意味において、日本の外交は少し十分に国民に説明していないと思いますが、今までの十二年間、日本がやってきた道は、そう大きな誤りではなかったのではないかと思います。
 今後のことを考えると、アメリカという国は必ず揺り動かしというのがあって、極端な方向に行くと、また極端な方向に行かないようにアメリカを中庸な形に動かすというか、揺り戻すためのダイナミズムというのはアメリカの国自身が持っていて、それは病にある人間の体を自然に治癒する治癒力のようなものに近いと思いますが、アメリカの長い歴史の中でこのような揺れ動かしは常に行われてきたわけで、その中で日本の存在感をできるだけ多くしておくこと、それが、いかなる政権ができるにせよ日米関係を健全な形にしておくすべではないかと、このように考えます。
 したがって、私は、今の外交政策そのものが非常に大きな欠陥を持っているとは思いません。今申し上げたように、国民にもう少しうまく説明できるところがあるのではないかと日ごろ考えますが、日本はやっぱり何が日本の国益なのかということをもう少し具体的に追求し、議論をし、どういう国益を追求するからどこまでアメリカにお付き合いするかということを国民にちゃんと提示するということができなければならないのではないかと、かように考えます。
○山本保君 どうもありがとうございました。
 時間が参りましたので、また個別的にいろいろ教えていただきたいと思っております。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 井上哲士君。
○井上哲士君 日本共産党の井上哲士です。
 今日は三人の参考人の皆さん、貴重なお話をありがとうございます。
 まず、豊下参考人と本間参考人に、国連憲章の基本的な理念と集団的自衛権についてお伺いをします。
 集団安全保障というこの基本理念の大本には、かつての個別的安全保障の中心にある軍事同盟による勢力均衡という考えが、この世界大戦を回避できなかったという反省があると思います。そういう中でこの集団安全保障へと発展をさしてきたわけですが、この国連憲章が成立する過程で、しかし先ほど来のお話にもありましたように、この古い勢力均衡の考えに固執をする米ソ等の動きがあって、本来の理念と矛盾をする集団的自衛権が取り入れられてきたというふうに思うんですね。
 そうしますと、今この米ソ対立というのがなくなった新しい国際情勢の下で、この国連の集団的安全保障というのを真に機能させることができる、そういう可能性、情勢というものがあろうかと思うんですが、そういう中でこの集団的自衛権の行使への道を日本が歩むということは、むしろ大きなこういう流れに反するのではないかと私は思うんですが、その点について豊下参考人、本間参考人からそれぞれお願いをいたします。
○参考人(豊下楢彦君) 先ほどの繰り返しになって恐縮ですけれども、集団的自衛権に関する日本政府の解釈は、密接な関係にある国との間ということになっておりまして、国際法学者の多数もそういう説を取っております。そうしますと、日本の場合に密接な関係にあるというのは、どうしてもアメリカということになります。そうしますと、今、先ほど申しましたように、国家としてアメリカに対して武力攻撃を掛ける、そのような国家というものは恐らく存在しない。もしあったら挙げてもらいたいわけですけれども。したがって、そこのリアリティーがないわけでありますから、密接な関係にある相手がアメリカである以上、実は集団的自衛権というものを論じる前提がないんだというこの点がどうも一般の議論の中で欠けているわけであって、したがって、何といいますか、先ほど申しましたように、現実にあるのはアメリカの予防戦争ではないかと。
 私は、森本参考人おっしゃいますように、何もアメリカを批判していればいいという話ではなくて、むしろアメリカの中のそういう、何といいますか、国際協調派と同じようにやっていけるような、そういう議論の組立て方を日本もやっていく必要があるというふうには思いますけれども、集団的自衛権に関する限りは、先ほどから申しましたように、アメリカの自衛権概念がすっかりもう五十一条と離れてしまっている、そこに非常に大きな危険性があるんじゃないかというふうに感じます。
○参考人(本間浩君) まず、集団的自衛権とそれから集団的安全保障の問題から整理しておきたいと思いますけれども、国連憲章の二条四項ということがこれまでの議論で余り取り上げられてきていなかったと思いますけれども、二条四項というのは、武力行使の一般的かつ原則的な禁止という、これが国連憲章の大原則になっているわけです。その考え方を追求していきますと、同盟ということもこれは本来否定されるべきである、こういうことになると思います。
 集団的安全保障というのは、国際社会において武力を行使するということをすべて国連のコントロールの下に置くという、こういう考え方であります。ところが、現実にはこの国連憲章そのものが矛盾を抱えていると思います。国連が集団安全保障ということで現実にその方式を打ち立てるためには、国連軍を創設しなければいけない。その国連軍というのが、実は各国の軍隊の提供によって成立する。そうすると、各国が軍隊を効率的に動かしていくためには、一種の同盟関係のようなものを設定しておく方が軍事的には効率的であるというふうに判断される場合もあるということになってくる。そういう矛盾を含んでいるわけですが、それは論理的な矛盾であって、現実には、先ほど申し上げましたように、米ソを中心とする同盟条約をたくさん抱えているそういう国々が国連の集団安全保障方式を制約するようなそういう原則を何とか国連憲章の中に持ち込もうとして、そこにできたのがこの集団的自衛権という考え方であったということです。
 ですから、この集団的自衛権ということについては国際的に慎重にその行使の在り方ということを考えていかなければいけないわけですが、その中にあって、アメリカは、この国連憲章に定められた自衛権、個別的自衛権も集団的自衛権も含めて、これは本来アメリカが考えているようないわゆる自己保存権的なそういう非常に拡大された自衛権、それを国連憲章はもう一度再確認したにすぎない。そこで、武力攻撃が発生したときということが出てくるけれども、これは一つの例示であって、武力攻撃が発生したとき以外の場合であっても自衛権を行使できるんだというのが、これがアメリカの解釈であります。こういう解釈は、主としてアメリカの国際法学者の間では支持されておりますけれども、ヨーロッパ諸国の中では必ずしも支持されていない、こういうふうに見ることができると思います。
 こういうふうに、集団的自衛権というのは国連憲章そのものからしてクエスチョンマークが付くところはいろいろあるということを考えますと、これを日本の対外政策の基本に据えて、それを原則としていろいろな問題を考えていくということについては慎重な態度が必要とされると思います。
 以上です。
○井上哲士君 ありがとうございました。
 次に、集団的自衛権の濫用の歴史について、豊下参考人と森本参考人にお伺いをします。
 あの九・一一のときにNATOの各国が集団的自衛権を発動したということもありましたが、それまでの歴史を見ますと、これを発動しましたのはソ連、アメリカ、イギリスの三国だけ。中身的には、代表例でいいますと、ソ連のアフガンへの軍事介入であり、アメリカのベトナム戦争であったということがありまして、やはり戦後の歴史を見ますと、集団的自衛権が、実際には、発動されたときには軍事介入であったり内政干渉の口実にされてきたと思うんですが、こういう濫用の実態についてはどのようにお考えか、お願いをいたします。
○参考人(森本敏君) 集団的自衛権というのを狭義にとらえるか広義にとらえるかということによりますし、また、集団的自衛権そのものの根拠である同盟条約というんですか、同盟条約の在り方にもよると思いますので、一つの原理原則ですべての過去の事例を解釈するというのはなかなか難しいんだろうと思います。
 アメリカのベトナム戦争というのは、ベトナムとどのような同盟条約の文書になっていたかということを少し思い出してみるんですが、さっと頭に出てこないのですが、北大西洋条約のように、いずれか一方に対する武力攻撃をすべての条約の加盟国に対する攻撃とみなすということによって集団防衛を規定しているような条約だとは必ずしも理解しませんので、実際には、国際社会の中で集団的自衛権の行使というのは、そのときに国として自衛権、広い意味での自衛権をどのように考えるかということによって運用されてきたのではないかと思います。
 先ほどアフガニスタンの作戦についての自衛権行使の説明を申し上げたんですが、私の記憶するところがもし正しいとすれば、九・一一事件の直後、アメリカの中に、日本はあの九・一一事件の中に日本人の犠牲があったので、日本も個別自衛権を行使してアメリカと共同歩調が取れるのではないかという議論をアメリカの中でしていた人がいたことを思い出すと、アメリカの自衛権というものの考え方は相当我々とは違うということではないかと思います。
 また、集団的自衛権というのは、必ずしも同盟条約がなければ集団的自衛権を行使できないということでは必ずしも私はないと思います。
 例えば、アジアの中で、例は良くないのですが、多数国が例えば国家かどうか分からない主体である、例えば大規模な組織された海賊にいつも襲われるというときに、これを防止するために多国籍の海軍が出て共同活動をすることによってこの海賊に対応するというとき、この共同活動に参加し必要があれば武力行使をするという場合も、広い意味で、例えばある国が他の国、すべての国から海軍を出してくれと要請されてこれに応じた場合、公海上でそのような活動をするのを国際法上は集団的自衛権の行使と言えるんだろうと思います。つまり、同盟条約とは限らないということだと思います。
 そういう意味で、日本がこれから考えるべきことは、先ほど冒頭申し上げたように、アジアの中でというか、地域の中で同盟条約、同盟関係にあるとは限らない国の正式な要請を受けて活動する場合も集団的自衛権の行使に当たるということがあり、そのようなケースは将来あり得るかもしれない。
 もう一つは、集団的自衛権の行使というより、むしろ日本が憲法の枠の中で制約を受けているのは武力行使に当たる活動であって、例えば、先ほど申し上げたように、イラクの中で自衛隊が行う武器の使用や武力の行使が現在の憲法の中で制約を受けていることは御承知のとおりでありますが、これは何もアメリカという同盟国と共同活動するための集団的自衛権行使ではなく、そもそも憲法解釈上、日本が領域外において武力行使に当たる行為を今の憲法は有権解釈として認めていないということによって制約要件を受けているわけであって、これは別に日米活動をやるために制約を受けているのではないということを考えてみる必要があるんだろうと思います。
 その意味において、冒頭申し上げたように、集団的自衛権という問題よりもむしろもっと根本的な問題は、領域外における武力行使というものを日本の憲法は認めていないということに係る問題の方がむしろこれからの日本の海外活動、対外活動の大きな制約要因になるのではないかと考えられます。
 以上でございます。
○井上哲士君 同じ質問を豊下参考人にもお願いします。
○参考人(豊下楢彦君) 御指摘のように集団的自衛権というのは確かに濫用の歴史でありまして、先ほど出ましたニカラグア事件の判決も、実はアメリカが主張した集団的自衛権は認められないという判決を下しているわけですね。
 したがって、私は、日本がいろいろガラス細工のような解釈してきましたけれども、とにかく集団的自衛権というものを海外派兵ととらえて、それはできないというふうに限定してきたことは、例えばベトナム戦争とか、今のイラク戦争もそうですけれども、言わば泥沼の中に正面切って入っていた、そのこと、可能性から考えますと、これまでの解釈というのは一つの歯止めになってきたというふうに思いますけれども、しかし、実はアメリカの外交政策全体の中で今、集団的自衛権が問題になっているのは日米関係だけなわけです。
 実は、九月十一日以降アメリカで最も議論になっていますことは、例えばフランシス・フクヤマとかハンチントンとかマイケル・ウォルツァーなんか言っていますことは、正戦という場合には国連の枠の外で戦争していいんだという、そこが実は焦点になっていると。それが、だから、今私たち議論すべき問題だろうというふうに思います。
 それから、全くちょっと別の文脈なんですけれども、今、先ほどから言っていますように、集団的自衛権というものは私はリアリティーないと思っているんですけれども、全くこれを組み替えて考えたらどうかと。
 と申しますことは、集団的自衛権の前提は、先ほど言っていますように、密接な関係にあるとか連帯関係にある国と国との間ということが言われています。そうしますと、例えば、私たち、韓国との間に集団自衛権結ばれないか、中国との間でどうなのかということを考えましたときに、その前提は韓国なり中国と密接な関係を取り結ぶ、連帯的な関係を取り結ぶということの政治的な問題がまず前提になります。そうしますと、そういうふうに問題を設定していきますと、集団的自衛権というのは、組み替えますと不戦関係のネットワークというものを作っていけるんだと。それがある種の集団安全保障みたいになっていくんだと。したがって、リオ条約の場合も実は対外的な敵から守るというだけじゃなく、リオ条約の加盟国の内部でどれか敵対的な活動をしたら、行動をすれば、それをみんなで制止するという、言ってみたら集団安全保障と集団的自衛権の両方を兼ね備えたものが実はリオ条約なわけですね。
 それから、私は軍事力行使のことを言っているんではなくて、先ほどから言っていますように、密接な関係にあるとか連帯的な関係にあるという、そこをとらまえて中国や韓国とそのような関係を取り結ぶというふうな発想に立てば、これは不戦関係のネットワークを広げていく一つのてこになるかもしれないという、そういうふうに考えております。
○井上哲士君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 田英夫君。
○田英夫君 豊下参考人にまず伺いたいと思いますが、最近の状況を見ていると、日米安保条約というものは崩れてしまっているのではないか。特に、第六条の規定があるはずですが、極東条項などというものは全く無視されていると言ってもいい。ベトナム戦争当時はまだ、北爆に行くのに日本の基地から出てクラーク基地に寄って、ワンクッション置いて行くというようなアメリカなりの配慮はあったと思いますが、今は全くそれなしにイラクに在日米軍が直行しているという事実があると思いますが、この点はどうお考えですか。
○参考人(豊下楢彦君) 実は私、参考資料に掲載しておりますけれども、旧安保条約に極東条項が入った経緯は、結局ペンタゴンとしましたら、国連決議に基づかずに在日基地を使って活動できる、そういう何というか枠組みが欲しいということで、極東条項というものがそもそも出てきたわけですね。
 したがって、その場合にペンタゴンが考えておりましたことは、アメリカ軍の配置というものはそもそも地理的限定を受けないんだと。だから、日本ではいろいろ議論ありますけれども、当時、ペンタゴンが極東条項の挿入をダレスに迫ったときには、もうニュージーランドからソ連から、あらゆる地域が極東に入っているという。だから、今の状態は、五一年段階でペンタゴンが考えておったそのとおりが展開されているんだというふうに理解できるんじゃないかと思います。
○田英夫君 極東条項については国会で随分議論がありまして、佐藤内閣のときに、私も記憶しておりますが、フィリピン以北、日本の周辺で台湾、韓国を含むという統一見解が出ていた、それくらいかなり大騒ぎをいたしましたが、今や全く、力関係なんでしょうか、無視されているということだと思います。
 安保条約が出てきたので、もう一つ申し上げたいのは、安保条約第十条でこの安保条約をなくすことを規定していると思いますが、その二番目の方の、日本の周辺で、日米が認め、国連がこれを認めるこの安全保障体制が、機構ができたときにはこの安保条約を破棄することができるという意味の規定があると思いますが、最近、六者協議に関連をして、この北東アジアに一つのASEAN地域フォーラムと同じようなものを作っていったらどうかという意見が出始めて、中国もそういう意向があると言われていますが、こういうものが、日本政府とアメリカ政府が認めるという一つの非常に高いハードルがあるわけですが、これは一つのアイデアとしてこの十条が適用できる方向に行き得るとお考えになりますか。
○参考人(豊下楢彦君) 私はレジュメの一番最後に極西という言葉を書いているんです。これは京都大学の高坂正堯先生が昔おっしゃったことですけれども、日本は極東ではなくて極西だと。つまり、西側の価値観が最も西の果てまで来た国だということなわけですね。韓国は昔から自由主義圏でございましたけれども、軍事独裁政権であったと。したがって、西側の価値観は日本で止まってしまったんだと。これが冷戦時代の発想でございました。
 私、実は今、相変わらず日本は極西として位置付けられているような感がいたしまして、しかしもう韓国は文字どおり自ら民主化を成し遂げましたし、中国も共産党の支配でありますけれども、実質的に正に資本主義経済と同じようなもの。そうしますと、このような情勢変化を踏まえて、実は、そこに私、西方外交と書いていますけれども、韓国なり中国がそういうふうに大きく変化してきた段階で、日本は本格的な西方外交という外交戦略を持つべきだったわけですね。ところが、今は全く逆に、アメリカの軍事戦略の方に、いよいよ正に極西というものが再生産されるような、そういうことを危惧しております。
 もう一つ、私その問題と絡んで危惧いたしますことは、今、実は東アジアにおきまして、これまではやはり日本というものは経済大国であり、何かやるときには日本に相談する必要があるという前提だったわけですけれども、中国がこういうふうに大きな影響力を持ってきますと、中国と韓国とASEANとインドという組合せによって一つの安全保障的なものが形成される可能性がある。そうしたら、日本がひたすらアメリカとの軍事協力だけで進んでいきますと、その間に完全に日本が埋没してしまう。あるいは、かつてのニクソン・ショックのように、気が付けばアメリカと中国が結んでいるというふうなことになるんではないかと、それは非常に危惧しております。
 したがって、正に西方外交と申しましたけれども、そういった中国なり韓国なりASEANなりインドなりとどのような安全保障体制を作っていくかという、そういう外交戦略というものが今ほど必要なときはないんじゃないかというふうに感じます。
○田英夫君 本間参考人に伺います。
 非常に身近なことなんですけれども、今、自衛隊がイラクへ行っておりますが、アフガニスタンのときの海上自衛隊も含めて、これはやっぱりアメリカの軍事行動に協力をしているということで、政府が行使できないと言っている集団的安全保障、いや、集団的自衛権の正に発動ではないでしょうか。
○参考人(本間浩君) どこまでが集団的自衛権行使の範囲なのかということについて、これは非常に微妙な問題でありまして、国連憲章では、この国連憲章に基づいて合法的な行動をしている国に対して他の加盟国は援助するようにということが定められているわけであります。その場合の国連憲章に基づいて合法行為を行っている国に対する援助というのが、これも集団的自衛権行使の一部として考えられるのかどうかということですが、私は、それは集団的自衛権行使の範囲の中に入らないんだと思います。
 要するに、集団的自衛権行使かどうかということが問題になるのは、ある国が自衛権行使と称して武力行使をする、その武力行使が国連憲章によらずに、自衛権ですから国連安全保障理事会の許可なしに行動を行った、その行動に対して自衛隊が協力するということが集団的自衛権行使と言えるかどうかという問題になります。
 そういう、どこまでが集団的自衛権行使の範囲内なのかということが非常に微妙な問題であるだけに、この問題については、やっぱり基本には、国連憲章に基づいて行動すると。国連憲章に基づいて行動するということであれば、最初に武力行使を行った国の行動が国連憲章上合法的な行為であって国連としても是認する、そういうふうになった場合にそういう国に対して援助するということは、これは集団的自衛権ではないと。
 問題は、そういう国連の承認が得られない間の行動についてどういうふうに理解したらいいかという問題が残ると思います。
 その点は、これは非常に慎重を要するわけですけれども、やっぱり武力に直結するようなそういう援助というのはこれは避けなければならない。そういう意味で、やっぱり日本がそういう援助をする場合にも、それが集団的自衛権の枠内の行動なんだというふうに評価されない、そういう範囲に限られるべきであると、そう考えます。
○田英夫君 森本参考人に伺いますが、先ほどのお話の中で憲法第九条について触れられて、第一項は不戦条約の、あの一九二九年の不戦条約だと思いますけれども、不戦条約の流れで、そのままでよろしい、第二項の方を改めるべきだと。
 これは陸海空軍を持てという意味だと思いますが、そうなると、第一項で戦争をしないということを生かしておいて第二項で軍隊を持つということになると、これは日本だけではなくてほかの国もそうですが、そこをわざわざ変えていくということになると非常に一つの矛盾を生むんじゃないかと思いますけれども、その辺はどういうふうにお考えですか。
○参考人(森本敏君) 憲法第九条一項の趣旨は、あくまで国際紛争を解決するための言わば戦争行為というものを不戦条約の趣旨と国連憲章の趣旨に従って憲法九条第一項の規定ができているので、この趣旨は今日なお有効であり、我が国は憲法九条の一項の精神は踏襲すべきであると思いますが、これはあくまで国際紛争解決の手段としての武力行使を禁止したもので、これはいかなる国でも現在の国際法、国連憲章を中心とする国際法上当然のことである。しかし、自衛のための戦争というのは、基本的にいかなる国家であれ、自然権として認められる限り、自衛権を行使することは国家として当然の義務である。裏返して言うと、国家として武力行使できる場合は、自衛権を行使できる場合と国連憲章第五十一条に言う自衛権を行使する場合と、失礼しました、国連憲章第五十一条に言う自衛権を行使する場合と、国連安保理決議に基づいて武力行使が容認されている活動に参加し、協力し、これを行う場合、この二つに限られるんだろうと思います。
 前者の問題、すなわち自衛権の行使については、我が国の憲法第九条第一項だけではこれは国際紛争を解決する手段としての武力行使を禁止しているというだけであって、国家の自衛権というものを明記していないわけで、その意味においてバランスが取れない。つまり、国として基本的な自然権を憲法の中で明文では規定していないということになりますので、あくまで国際紛争を解決する手段としての武力行使は禁止しながら、一方において自衛権を認めるという、バランスの取れた自然権を憲法の中で明文で認めることが必要であり、その条項は憲法第九条の第二項を改正する以外に方法はないと考えます。
○田英夫君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 岩本荘太君。
○岩本荘太君 無所属の会の岩本荘太でございます。三人の参考人の先生方、大変御苦労さまでございます。私、最後の質疑者でございますので、よろしくお付き合いのほどをお願いいたします。
 前回も三人の参考人の先生方に、非常に幼稚なというかプリミティブな質問をさせていただいたんですが、先生方の御指摘もあったと思いますけれども、憲法に対する国民的議論も盛んにこれから広がっていくと、我々も国民との仲介といいますか、そういう意味で一般国民がどういうふうに理解できるか、そういうレベルの、専門家的でないレベルの議論も出てくるかと思いますので、そういうときのための参考にといいますか、ひとつ、前回と同じような質問でございますけれども、お答えを、教えていただきたいと思っているんですが。
 基本的に、日本国民といいますか一般国民は、日本は戦争をしない国だと、こう思っているわけでございまして、事実、イラクの自衛隊派遣も、これは戦闘地域でないということですから、いまだに日本は平和憲法の下に戦争をしていないというのが事実だろうと思うんですけれども、そこで今日の議論にしましても、いわゆる集団的自衛権にしろ個別的自衛権にしろ、これは結局は戦争の大義が何かというような議論に集約されていくんじゃないかと。最終的には戦闘あるべしということがあるんじゃないかなというような気がするんです。これは私、別にあえて否定するつもりでもないんですけれども、それが世界的な情勢であればまたそれも、そういうことも検討しなきゃいけないことは理解できるんですけれども、そのときに、その国民としては戦争をしない国と思っていることと、そういう戦争があるべしという議論の中の議論をする場合の基本的な問題として、やはり先ほどからちょっと出ておりますけれども、平和主義といいますか、私自身が平和主義ですけれども、平和主義をどこまでも押し通そうというつもりはございませんし、日本の国の国民がどう理解し、どう考えればいいかということで日本は進むべきだと思いますけれども、いわゆる本当に基本的な問題として、戦闘行為をすべて放棄する社会というのがあり得るか、来るのかということを根底に考えることによって対応が随分変わってくるんじゃないかというような気がするんです。
 これは先ほど来お話しいただいております憲法解釈とか国連憲章の解釈とか、そういうものもございますでしょうけれども、そういうことにとらわれずに、三人の先生方、この辺について、個人のお考えで結構ですけれども、そういう社会、これは近い将来は無理かもしれませんが、遠い将来も含めてお話をいただけたらと思うんですが、本間先生は先ほどからいろいろお話しいただいておりますけれども、理想論だというところまでしかお話しいただいていませんので、もう一つ、もう少し突っ込んでお話をいただけたらと思っております。
 三人の先生方にお願いいたしたいんですが、私の質問はこれだけでございまして、持ち時間十五分でございますので、その時間の中でお話をお願いいたしたいと思います。豊下先生から。
○参考人(豊下楢彦君) 大変重要な質問だと思うんですね。結局、いろいろ憲章をどう理解するか、憲法をどう理解するかということの議論もございますけれども、結局、今の国際情勢をどうとらえるか、今の脅威をどうとらえるかという、そこの根本問題だというふうに思うんですね。
 例えば、テロリズムと闘うんだ、これはだれでも言うわけですけれども、じゃ、どうやったらテロリズムに勝利できるんだということは、実は説得できることは何もないわけです。例えば、プリミティブに考えますと、パレスチナがある意味でテロの根源みたいなことでございますけれども、あるデータによりますと、一九九四年から今日まで十年間、自爆テロの件数を立証したデータでございますけれども、九四年から二〇〇〇年までは年平均わずか三件しか起こっていない。それから、二〇〇〇年に、当時、リクードのシャロンさんがイスラムの聖地に乗り込んで第二次インティファーダが起こります。それから今日まで、そのデータは十倍に跳ね上がります。年間三十件、もっとです。
 ということは、結局、問題は、仮に過激派が自爆テロを行っても民衆の暗黙の支持がなければそれは長続きしない。逆に、そういう自爆テロをやって民衆の側がやむを得ないんだというふうに考えればどんどんエスカレートする。そうしますと、パレスチナ問題を考えますときに、結局は軍事の問題というよりも政治的枠組みの問題なんだと、ここのところから問題を出発させる必要があるだろうと思います。
 それからもう一つ、今、国民世論もやはり脅威というものを感じられているだろうというふうに思うんですけれども、しかし、その脅威が一体どこからきているかということを改めて考える必要があるだろうと思います。例えば今、この間、アメリカが具体的に軍事力を行使いたしましたのはビンラディンのアルカイダと、それからフセインのイラクでございます。しかし、よく考えてみますと、一九八一年一月、レーガン政権が発足しました国家安全保障会議の最初の議題は、実は国際的テロリズムとの闘いだったわけですね。そのときの主要なターゲットはソ連のアフガニスタン侵攻とホメイニのイランであったわけです。この関係において最も重要な同盟者が実はビンラディンとフセインだったわけですね。
 だから、今私たちが直面している脅威というものは、ナチズムやファシズムやスターリニズムとは違って、アメリカのある外交軍事戦略の道具として使われた対象がモンスターとなって脅威として現れてきたと、こういう性格の問題を根本的に考える必要があると思うんですね。
 だから、湾岸戦争を総括するときに、私は大多数の方と違うだろうと思うんですけれども、トラウマとして残っている、つまり金だけ出して何もできなかったというトラウマが今の日本外交を規定していると思うんですけれども、私は全く違って、少なくとも正規のレベルで日本はフセインに対して兵器輸出をしなかった。アメリカもイギリスもフランスも旧西ドイツもソ連も、大量の兵器をフセインに投入することによってモンスターに仕立て上げた。中東という極めて不安定なところの独裁者でありかつ侵略者であるそういう指導者に兵器を供与することがいかに危険なことかと。そのことが我々の遺産として今日まで脅威として残っている、こういう総括をするかどうかと。今日の脅威の性格をどうとらえるか、ここが私は分かれ目だというふうに思います。
 長くなって失礼しました。
○参考人(本間浩君) 本当に根本的な問題を提起していただきましてありがとうございます。
 この問題について一言でお答えするのは大変難しいわけですけれども、一つは、かつて、パレスチナ問題を取り上げますと、パレスチナの地区においてイスラエル人とユダヤ人とそれからパレスチナ人が協調的に生活していた時期もあるわけです。それがこんなに激しく憎悪し、そしてテロを掛け合うという、こういう状況になってしまったその背景にあるのは何なのかというようなことも考えてみる必要があると思うんですけれども、その原因は非常に複雑で、ここでちょっと語るにその余裕がありませんからあれなんですが。
 一つ指摘できることは、アメリカのユニラテラリズムといいますか一方的利益主義といいますか、これはこういう民族間対立を一層激しくしているという面があるということが言えると思います。それは経済においては貧富の格差を大きくする。その貧富の格差というのが民族間格差と結び付く。こういう形で一層混乱が深まるということがあるんだと思います。やっぱり、こういう問題がある限り、お尋ねの戦闘行為が存在しなくなる社会というのは実現されるのかというと、私はこれは極めて否定的と、否定的にならざるを得ません。
 ですから、逆に言うと、そういう民族間格差を少しでも少なくしていくにはどうしたらいいかと、そういう具体的な政策を打ち立てていく必要がある。それを、先ほど豊下参考人からお話がありましたように、ユダヤ人差別をしていない、そういう差別という経験のない日本から打ち出していく、こういうことが非常に重要になってくるんではないかなというふうに思います。
 以上です。
○参考人(森本敏君) 戦闘行為がすべてなくなる、あるいは放棄されるという状態は恐らく予見し得る将来ないのかなと私は思います。
 人間が欲望を持ち、国家が野心を持っている限り、生存本能として戦闘行為というか、戦争手段に訴えるという行為が現実世界の中で常にあるということは、これは原始の時代からずっと続いたある種の生存本能であり、これをすべてこの世の中から根絶させるということは理想でありますし、また理想があるから国際法があり国際秩序というのがあり、我々は戦闘力を持ち、国家の自衛権というものを論ずるということだと思います。もし、かかる戦闘行為が一切ないというのであれば一切のこの議論は必要ない。そういう時代は恐らく来ないんだろうと思います。ただ、できるだけ少なくする努力を主要国が一緒になってやるということしかないわけで、日本だけが頑張ってこの世の中からすべてかかる不法行為が根絶できるとは思いません。
 しかるに、どのような協力があり得るのかということについては、多くの人が多くの人を語り、妙案があるわけではありませんけれども、やはり私は二つ考えないといけないと。
 一つは、やっぱり紛争が起きてからこれを解決するのは大変なエネルギーとコストと予算とそしてリスクを伴う。どのようにして未然にこれを防ぐか、これを我々は、冷戦後、予防外交あるいは予防戦略等議論してきたわけで、人間の安全保障もそうでありますが、つまり、紛争を未然に予防するという紛争予防という努力をしないといけない。
 もう一つは、やはり戦闘行為に訴える主体、国であれ団体であれ組織であれ、やはり何か弱者の理論であります。豊かで民主主義を享受している国がテロを行ったり戦闘行為を行うことによって自己の生存を確保しようなんということは余り必要ないわけであって、したがって、これを突き詰めて考えると、やっぱり僕は開発という考え方なんだろうと思います。できるだけ民族が共存し、貧しき人が豊かな生活ができるように生活のレベルを上げるということによって貧困という問題を解決し、このことによって紛争を少なくするという努力をする以外に方法がないのではないかと思います。その意味において、さきに申し上げた紛争解決という問題と、開発戦略というか地域開発というものは非常に密接な関係があるのではないか。この点について日本は努力する余地があるのではないかと考えます。
 最後に、全体を通じて、私は、まだずっと外務省にいて外交政策を議論していたときに何を考えていたかというと、やっぱり戦後日本というのは、なかなか国際社会の中で軍事力を行使して国際社会に貢献するということは、当然のことながら日本の政治的、法的制約要因の中でできないと。したがって、日本のODAを使って日本の国力を背景に非常に重要な外交努力をするということでした。もっとはっきり申し上げると、軍事力というものを背景に外交ができるような国はうらやましいなと思いつつ、それができない日本のハンディキャップを我々は感じながら外交をずっとやってきたという印象が非常に強いのです。
 今現在は、徐々に日本の防衛力が海外に出、他の先進国と大体同等の活動ができるようになって、果たして日本の外交というものがこの防衛力に基づく国際貢献をフルに活用するような外交を展開できているのであろうか、私の答えはどう考えてもノーであります。つまり、日本の防衛力が国際社会の中で自由な貢献ができるようになって、これを日本の外交のためにフルに使うという手だてというものを考える、これが我々にとってもう一つの大きなかぎであります。これは我々が知恵を出して今後考えなければならない一つの問題で、これがもし効率的にうまくいけば、戦闘行為を含む戦争というものをこの世の中から根絶することはできないまでも、少なくとも日本の国家の安定を維持し、世界の平和のために日本が貢献できる余地があるのではないかと考えます。
 以上でございます。
○岩本荘太君 大変ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 速記を止めてください。
   〔速記中止〕
○会長(上杉光弘君) 速記を起こしてください。
 ただいまの参考人質疑を踏まえて、一時間程度、委員相互間の意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いいたします。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は挙手をお願いいたします。
 山崎力君。
○山崎力君 今、三参考人から主に平和、安全保障、そういった中での憲法との関連のお話ございましたけれども、私自身の個人的な感想というか、感覚でまず言わせていただければ、特に集団的自衛権の問題というのはある種の徒労感を伴う議論でございました。なぜならば、正に世間に評判の悪い、神学論争と言われている、有すれども行使できぬ権利を有すると言えるのかという、この問題に収れんされると思うからであります。そしてそれは、すなわち憲法第九条における自然権の自衛権、自然権的たる自衛権をどう担保するのかという、自衛隊違憲・合憲論の根本にかかわることでありますし、戦後、新制度になってから一貫して憲法学界においてこの問題を掘り下げた議論というのは、少なくても一般の我々には目に届かないところでしか行われてこなかった。裁判で出てきたところも、群民蜂起であるとか、いわゆる軍隊でないものが自衛権の担保装置として一流の裁判官、学者から例示されるという、そういうことであったわけです。
 そのことをもう少しはっきりすべきだという意見と同時に、それをやってしまうと日本は再び危険な道に陥るという考え方の違い、そして、それに伴うアメリカとの付き合い方をどうするのか、あるいは、もうなくなりましたけれども、むしろソ連邦との付き合い、社会主義国家群としての付き合いに親近感を持った議論というのが繰り広げられてきたということは、皆様方、客観的事実としてお認め願えるんじゃないかと思います。
 しかし、そこで今、私自身考えるところ、それでいいのかと。だから、それでいいというのは、そういったことだから、もう既に自衛権を持って、集団的自衛権もそのまま持っていいのかどうか、そのままそれ行けどんどんでいいのかという議論になれば、そこは国民も大勢の方が一抹どころかかなりの不安感を持って見ていることもあるであろう。それは法律的な議論にいろいろあります。
 ただ、時間の関係でそこのところを省いて言えば、少なくても、戦前における我が忠勇なる臣民の聖戦と呼ばれた行為が、単に負けたというだけではなくて、諸外国の、国際社会の断罪を我々は受けて、そしてそれを、その諸外国のみならず、日本国民が振り返ってみて、日本の行為というものを、少なくても責任者たる軍部が説明できる行為をしなかったと、できなかったということもまた事実であります。そのところのことをどう考えるかという、戦後のスタートに当たって、我々が一億総ざんげという言葉で済ませてしまって、本格的な総括をしてこなかったということがここに至っている大きな原因ではないかと私自身思っているわけでございます。
 そしてそれは、今私が個人的な発想で言えば、自国民、いわゆる我が日本国民が、こういったいわゆる戦争を考えてといいますか、所期の目的とした自衛力、軍隊というものを持ち得る近代的、民主的国民かどうかというその判断を自分たち自身にもたらされているのではないか。それができないという不安感を持つ人たちがいろいろな理由を付けて、私は、その方向に行くのを何とか歯止めを掛けようとしているのではないかというふうに思えて致し方ないのでございます。
 ただ、それについて言えば、私自身の中にも若干の不安があると。これを克服するにはどうしたらいいかというのが一番の、私個人にとっても、恐らく大勢の方々にとっても一番の問題だろうと思います。国際社会並みの西欧的な、特にアメリカ的な割り切り方でいいんだろうかと、これは経済の問題も含めてですが、軍事力の行使のアメリカのやり方を見て、ちょっとね、付いていけるかねという議論というのは当然出てくるし、彼らの背景にある、そしてその対戦、反体制側といいますか、アメリカと対峙している方たちも言っていることはすなわち大義という言葉であり、そこの裏付けになるのは原理主義という表現で行われている言葉であります。
 我々にそれがあればそれなりの判断は付くんでありましょう。ところが、その戦争における、天皇制における大義を失った我々は、民主主義制度というような大義、非常にあやふやな大義を掲げていたけれども、それは一本化した大義ではなかった。それを、改めて自分たちが憲法の中にどう織り込むかということが私はこの問題も含めた根本的な問題だと思います。憲法に我々日本国民の大義を含めるのか、それとも、大義というものはむしろ危険なものであるからして、それを薄めた形で何らかの形の成文を得るのか、両方とも一長一短だと思います。その辺のところを今考えさせられたというのが今回の集団的自衛権を含めての憲法論議だったというふうに私は今の時点で言葉を選べば総括したいというふうに思っております。
 以上であります。
○鈴木寛君 本日、森本参考人から憲法解釈上いかなる活動が法的に可能かという議論ではなくて、日本の国益とリスクに基づいて憲法議論をすべきであると、しかもその国益とリスクというものをきちっとブレークダウンをし、その内容と優先順位について認識をし議論をすることが大事であるという主張がなされましたが、私もその指摘については強い感銘と共鳴を覚えるものであります。我が憲法調査会の任務も正にこの点にあるということを改めて確認をさせていただきたいと思います。
 さらに、従来は自衛隊の海外派遣についてその都度この特別措置法で行われてきたけれども、我が国が実力部隊を用いて海外で国際貢献活動をする場合の基準をあらかじめきちっと議論をし、法体系を整備をするという御指摘がございました。この点もその趣旨においては私も賛同をするわけでありますが、しかしその際に正にセルフディフェンスを名乗る自衛隊がその活動の主体にアプリオリになると考えることについては深い議論が必要ではないかというふうな気がいたしました。ですから、森本参考人の主張に加えて、やはりその組織論、組織体系ということの議論が必要だというふうに思っております。
 ただ、従来は起こってしまった事態に後追い的にこれ対応せざるを得ないというのも、国際的な社会の中で日本の使命としてやむを得ない事情も否定はできない。そういう中で、直ちに活用できる数少ない実力部隊の一つとして自衛隊の機能に着目をし、直面する問題について速やかに結論を出さなければならないという観点から、自衛隊法を特別措置法で任務追加を逐次行ってきたと、そういう立法パターンを取らざるを得なかったということが従来の歴史だったというふうに思います。正にこの繰り返しとそれをめぐる様々な神学論争に終止符を打つというのも、私はこの憲法調査会ないし我々の、今、国会に議席をいただいている者の務めだというふうに感じております。
 それで、私が申し上げたいのは、海外で活動する実力部隊イコール自衛隊という前提について、やはりきちっと論点を明確化した上で議論を深める必要があるというふうに思いますし、そうした論点を提起できるのもこの調査会の非常に重要な仕事だというふうに思っております。そして、正にそうした根本論をやれるのがこの調査会の意味だというふうに思います。特に海外において、海外、国際的な貢献活動を行う部隊というものを自衛隊と別の組織にする、あるいは別の行動原理によって行う、あるいは別の指揮命令系統によって行う、あるいは追加的な国際社会の十分な理解と賛同を得られる手続、フレームワークというものの在り方について、従来のものとどれだけ創意工夫ができるのかということについてきちっと議論をするということは、アジア諸国を始めとする国際社会の十分な理解ということと、それから一方で日本が国際的な貢献活動をきちっとやっていくというこの二つの命題を同時に実現をするという観点から、国益上極めて重要なポイントであるのではないかなということを強く思いまして、この点について調査会でも御議論を深めていただきたいということをお願いを申し上げ、指摘を申し上げたいと思います。
 以上でございます。
○山口那津男君 集団的自衛権について、これまでの国会論議を振り返って、私の現在の所感を述べたいと思います。
 集団的自衛権をめぐる政府の憲法解釈はにわかに変える必要はないと考えております。その理由を三つ述べます。
 まず一つは、長年にわたる安定した、定着した考え方でありますということであります。
 これについて幾つかの批判があるわけですが、その一つは、保有しているのに行使できないのはおかしいというものであります。国連憲章を始めとする国際法秩序と憲法を頂点とする国内法秩序を混同した批判でありまして、説得力に欠けるものと思います。国際法上の権利を持っている、しかしそれを国内法で制限をするということは十分可能でありまして、そういう立法例は数々あるわけであります。
 次の第二の批判として、内閣法制局の集団的自衛権の定義がおかしいというものもあるわけでありますが、国連憲章や憲法に定義が明記されていない以上、内閣法制局が定めた定義に従って、同じ定義を使ってその当否を論ずるという議論をしなければ到底かみ合わない、空回りの議論になっているということであります。
 三番目の批判として、武力行使が片務的であるのはおかしいと、こういう批判もあります。しかし、同盟関係というのが武力行使の双務性を必須としているというわけでもありません。現に日米安保条約は片務的と言われながらも長年存在してきたわけであります。また、NATOの同盟の中にも、アイスランドは基地を提供し、自ら軍隊を持たないで同盟関係を維持していると、こういう在り方も存在するわけであります。
 四番目の批判として、在日米軍基地への攻撃に集団的自衛権を使うべきであると、こういう主張もあるわけでありますが、しかし、こういった場合を想定するときに、日本の領土、領空、領海、すなわち領域を侵すことなくしてそういう事態は考えられないわけでありまして、これは個別的自衛権の行使で十分に対応できる、我が国の安全は確保できると、こう思います。
 いずれの批判もにわかに変更を必要とする論拠としては十分な説得力を欠いているものと、こう考えます。
 第二番目の私の主張の理由でありますが、この長年政府が取ってきた政策は、日本の国益を決して損なってきたとは言えないということであります。そして、この点の議論というものが国会論戦の中には不足をしていると、こう思います。森本参考人が申し上げられたように、そのメリット、デメリット、これをブレークダウンして議論をする、こういう態度がこれからもっと必要だろうと思っております。
 それから、三番目の私の主張の理由として、この長年日本が取ってきた政策を変更するという大きな情勢の変化というものは見られないということであります。我が国の政策に対して近隣諸外国の理解はかなりの進んだものがありまして、そういう国々が我が国の政策の変更を現在望んでいるとも言い切れないと思います。そして、日本のこの政策は、長い間いろいろの国際情勢の変化はありましたけれども、ほぼ一貫して取られてきた政策であります。これを現在にわかに覆すだけの大きな状況変化、情勢変化が現れているという認識は持ち得ないわけであります。
 以上、三つの理由からいたしまして、この集団的自衛権の行使を認める政策を日本が取るべきだという結論には至らないというのが私の現在の所感であります。
 これで終わります。
○吉川春子君 先ほど豊下参考人が集団的自衛権を論じる前提を欠くのではないかと、こういうふうに言われました。自民党憲法調査会会長の保岡氏が、昨年末、新聞のインタビューで自衛隊や集団的自衛権の行使を憲法上明記すべきだと述べていますが、改憲論者の最大のねらいはここにあるのではないかと私は思っております。
 自衛権とは、田畑先生の定義によると、外国からの違法な侵略に対して自国を防衛するため緊急の必要がある場合、それを反撃するために武力を行使し得る権利とされています。これに対して集団的自衛権は、自己に対して加えられた武力攻撃ではなく、他国に対して加えられた武力攻撃なのではあるが、それを自国に対する武力攻撃とみなして行動するというのが本質であると、これは昭和三十六年の憲法調査会の報告です。したがって、万が一というか、福田元総理の言によると、日本が外国から侵略される可能性は万々々々が一と言っておられましたが、日本が侵略されたときは固有の自衛権発動ということになります。
 集団的自衛権は日本が侵略されたとき以外に発動されるものです。侵略があったか否かの判断は国連ではない、ありません。国連憲章の三十九条は、安保理が侵略行為の存在を決定すると規定しますけれども、こうした国連決議のないときに発動されるものです。日米安保体制の下の日本が集団的自衛権の発動が必要とされるときというのは、アメリカが侵略されたときということになります。したがって、憲法を改正して集団的自衛権の行使を認めるということは、アメリカの侵略に対処するために自衛隊を日本の外に出せるようにするということになるのではないでしょうか。集団的自衛権を行使するために憲法改正を行うということは、アメリカのための憲法改正ということにほかならないのではないでしょうか。これは本当に日本のためになるんでしょうか。
 最近は、日本はアメリカに追随し過ぎているのではないかという声も非常に多いわけです。
 例えば、後藤田正晴元副総理、これは二〇〇二年の八月五日の新聞、あるいは昨年末のNHKのイラク問題特集のときに述べておられますが、日本が憲法九条によって武力を放棄する中で日本に対して侵略があったときは、日米共同作戦で平和を守るというのが日米安保だと。その性格は、仮想敵国を前提とする軍事同盟だと。しかし、九〇年代に入り、ソ連が崩壊して仮想敵国がなくなったのに基地はそのままにし、対象地域をアジアから太平洋まで拡大する、拡大解釈する根拠はどこにあるのか。日本と中国との間に日中友好条約があるように、日米間でも安保条約ではなく日米友好条約に変えることを考え始めてはどうか、このようにおっしゃっておられます。
 また、大江健三郎さんは、イラクに自衛隊を派遣しないともたないような日米関係は根本的に変えていかなくてはならないというふうに述べております。
 アメリカ、とりわけブッシュ政権との関係を良くするために小泉内閣はイラクに自衛隊を派遣したと思います。アジア諸国はイラクへの自衛隊派遣を歓迎していません。イスラム諸国を含むアジア諸国との関係を損ねる危険が非常に大きいと思います。また、第二次大戦の被害を受けたアジア諸国は、特に日本が、戦争放棄の第九条の改正を歓迎しておりません。
 一月一日の小泉総理の靖国神社参拝は、中国、韓国などアジア諸国を大変怒らせました。一例を挙げますと、中国の解放日報では、イラクに派兵するのは、日本政府は法律の条文上では平和憲法を改定していないけれども、行動の上では事実上、平和憲法の核心、九条に襲い掛かっていることを物語るしかない。また、日本の真の目的は、国外に出て、地域、ひいては全世界で影響力を発揮する軍事大国になることのようだ。日本の指導者が自分の政治的利益から歴史問題で誤った態度を取っているために、日本はアジア諸国の信用と支持を得られずに、普通の国になるという目標の実現にかえって不利になっていると述べています。
 最後に、アジア諸国の信頼関係を打ち立てるために必要なのは、集団的自衛権を憲法に書き込むことではなく、日本国憲法、とりわけ前文と九条の戦争放棄を守り、侵略戦争反省の態度を明確にすることです。そのことによってASEAN諸国との間に信頼関係と友情を築くことが可能です。これは二十一世紀の日本の繁栄の道でもあるということを主張して、発言を終わります。
○松井孝治君 本日の参考人質疑の中で、森本参考人の御意見に私は非常に関心を抱きました。
 集団的自衛権、個別自衛権の区別が有意義であるかどうかについては参考人の間でも意見が分かれておりますが、やはりいずれにしても、その自衛権というものの制約というのをどのような形で行うのかという議論は、やはりこの参議院において重点的に行わなければならないのではないかと思います。それを政府の一部局である内閣法制局の解釈のみにゆだねるというのは、私はむしろなし崩しに今の憲法解釈を広げていくという危険があると思っております。
 自衛権の発動の制約というのは、法律でやるという考え方もありましょうし、森本参考人がおっしゃったように、憲法の九条の第二項に具体的な理念を書き込むということも必要かもしれませんし、その上でやはり個別具体的に立法府が政府の判断をどのようにチェックしていくのかという意味において、私は本日の森本参考人の最後の国益委員会的提言というのは有意義な提案ではないかと思います。
 今後、具体的にこのような自衛権の発動の在り方については本調査会で議論を深めていくべきだと思います。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) ほかにございませんか。
 大脇雅子君。
○大脇雅子君 私は、本間参考人の提起された問題点というのは、私どもがこの憲法調査会で受け止めるべき今日的な課題を言われたのではないかと思いました。
 とりわけ、今の状況の中で、我が国における憲法に掲げる平和主義の国際的な意義と、そしてそれを国際的に今積極的にどう活用すべきであるかということがやはり大きな私どもが胸に刻むべきことではないか。とりわけ、第二次世界大戦を経過した歴史というものを持つ我が国にとって、やはり憲法に掲げる平和主義というのは国際的に見て軍縮政策のいわゆる呼び掛けを普遍化するべきであると。そして、自衛隊の増殖化に対する制約的な枠組みを考えるべきであるという提言に私は共鳴をいたしました。
 特に、軍事に対する立法権によるコントロールということがやはり重要な問題として、国会にある我々にとっては考えるべき問題ではないかと。とりわけ、集団的自衛権の論理は本来ならば集団的な安全保障と言わばセットで不戦のネットワークの構築に向けて考えるべきだという点については共鳴をいたしましたので、意見を言いたいと思いました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 井上哲士君。
○井上哲士君 豊下参考人から集団的自衛権というのは濫用の歴史であったという御発言もありました。九・一一の同時多発テロでNATO各国が発動した集団的自衛権についても、その後、多くの罪なき市民の命を奪い、またテロの温床を広げているということからの検証が必要だと思います。
 更に重要なのは、それ以前に集団的自衛権を掲げて行われた戦争、武力行使というのは三つの国しかありませんで、まず旧ソ連が、アフガニスタンの軍事介入、六八年のチェコスロバキアへの軍事介入、五六年のハンガリーの軍事介入。それから二つ目の国がアメリカでありまして、ベトナム戦争に加えて、七九年のニカラグアへの介入、八三年のグレナダへの軍事介入。そして、イギリスが、六四年のイエメン介入、五八年にアメリカと一緒に行ったレバノン、ヨルダンへの介入というのがありますが、いずれもすべて国連や国際社会で強い批判を浴びた侵略であり、内政干渉でありまして、結局、この行使というのは侵略や内政干渉に使われ、平和のルールを犯すものだったというのが戦後の歴史だったと思います。
 しかも、今日の日本におけるこの集団的自衛権論議の大きな流れは、アメリカの例のアーミテージ報告で、日本が集団的自衛権を否定していることが同盟協力を束縛するものになっている、これを撤回することはより緊密で効果的な安全保障協力を可能にすると、こういう報告に端を発し、その翌年に小泉総理が、今後集団的自衛権を行使できるというなら憲法改正をすることが望ましいと、これに応じたという大きな流れがあります。
 今アメリカが掲げている先制攻撃の戦略については、国連のアナン事務総長も、国連憲章の原則に対する根本的な挑戦だと批判をしているわけで、しかも、この戦略が単なる戦略じゃなくて、イラク戦争でも実践をされてきているという中で、このアメリカの要請にこたえて集団的自衛権の行使に踏み出すということは、やはり濫用の中に日本が組み込まれていくということになると思います。
 それから、各参考人から国連憲章の基本理念との関係のお話もありました。二十世紀の二つの大きな戦い、大戦の痛苦の教訓から、武力の行使をそれぞれの国に任せたら駄目だと、こういう安全、集団安全保障の理念で憲章が作られましたけれども、その経過の中で、これと矛盾をする集団的な自衛権が取り入れられました。
 この集団的自衛権の考えを土台に、その後、世界に様々な軍事同盟が張りめぐらされましたが、一九五四年に結成された東南アジア防衛条約機構はベトナム戦争が終わった一九七五年に解体をされておりますし、それから、アメリカ大陸で戦後最初の軍事同盟であるリオ条約に基づく米州機構も五一年に作られましたけれども、八九年のアメリカによるパナマ侵略に際して、国連総会とともにこの米州機構も総会を開いて、この侵略を批判をする決議を採択をしました。それ以降、事実上機能停止という状況になっております。
 国連の本来の理念に反して集団的自衛権ということを取り入れる背景にあった、いわゆる米ソの対立というものがなくなり、また、その後作られてきた多くの軍事同盟が、こういう解体とか機能停止という状況になっているという、大きなやはり歴史の流れの中で、国連の本来の集団安全保障というものが真に機能するような条件が作られてきていると思います。そういう中で、日本がこれに逆行する集団的自衛権の行使に踏み出すということを、解釈であれ明文改定であれ行うということは、やるべきでないということを申し上げまして、発言とします。
○会長(上杉光弘君) 他に御発言ございませんか。他に御発言もないようですから、本日の意見交換はこの程度といたします。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後四時十二分散会

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