第159回国会 参議院憲法調査会 第5号


平成十六年四月七日(水曜日)
   午後一時開会
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   委員の異動
 三月十八日
    辞任         補欠選任
     田村 公平君     舛添 要一君
 四月六日
    辞任         補欠選任
     福山 哲郎君     大塚 耕平君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                武見 敬三君
                保坂 三蔵君
                吉田 博美君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
            ツルネン マルテイ君
                若林 秀樹君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
    委 員
                阿南 一成君
                岩井 國臣君
                扇  千景君
                亀井 郁夫君
                桜井  新君
                椎名 一保君
                常田 享詳君
                福島啓史郎君
                藤野 公孝君
                松田 岩夫君
                松村 龍二君
                松山 政司君
                森田 次夫君
                山崎  力君
                江田 五月君
                大塚 耕平君
                大渕 絹子君
                川橋 幸子君
                小林  元君
                角田 義一君
                中島 章夫君
                平野 貞夫君
                堀  利和君
                松井 孝治君
                白浜 一良君
                山口那津男君
                山本  保君
                井上 哲士君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                田  英夫君
                岩本 荘太君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (平和主義と安全保障)
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○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本調査会は、平成十五年五月より、「平和主義と安全保障」をテーマに取り上げ、調査を進めてまいりました。
 これまで、学識経験者を中心に二十四名の参考人をお招きしたのを始め、委員相互間の意見交換を行うなど、広範な調査を重ねてまいりました。
 また、平成十五年六月四日には、「平和主義と安全保障」をテーマに公聴会を開会し、八名の公述人をお招きしております。
 本日は、これまでの調査を踏まえ、「平和主義と安全保障」の自由討議を行います。
 御意見のある方は順次御発言願います。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 武見敬三君。
○武見敬三君 では、所見を述べさせていただきたいと思います。
 二十世紀、人類社会にとりまして正に戦争の世紀であったと言われております。この二十世紀初頭、第一次世界大戦が起きたわけでありますが、その直後、ウィンストン・チャーチルが、十九世紀の戦争と比較をし、二十世紀の戦争の概念が変わったということを述べております。
 それは、十九世紀の戦争の場合、指導者自らが戦場で戦い、英雄となる軍人同士の戦争であった。しかし、二十世紀の戦争となると、指導者は後方の安全な場所にいて、その戦争は一般市民をも殺りくの対象とする大量殺りく、大量破壊の戦争となったと。このことが、正に十九世紀と比較をし戦争の概念が変わったというふうに彼は述べたわけであります。
 そして、二十世紀の戦争は、第二次世界大戦、広島、長崎の原爆投下により、その極致を極めたと言ってよいかと思います。
 したがって、我が国憲法が起案され制定された第二次世界大戦後の時代状況において、人類社会にとり戦争と平和という視点が最も重要となり、そして我が国においては、戦争体験に裏打ちされた、すなわち戦争の道具である軍事力そのものを悪として全否定する純粋な平和主義というものが戦後我が国の平和主義の基調となったのであります。
 憲法第九条は、国家、個人の自衛権を否定するものではありませんが、自衛隊は、軍隊、軍事力、交戦権等を想起させる用語は極力回避をされ、集団的自衛権の権利は有するものの、行使は禁止されるというところとなったのであります。この憲法九条は、大量殺りくの悲惨な戦争体験をした人々の平和を希求する純粋な理念と、日本を再び軍事的脅威としないという米国の日本占領政策方針とが合体した所産であったと思われます。
 その後、冷戦という時代状況は、純粋な平和主義にとり極めて居心地のいい時代状況でありました。
 その理由を三点述べます。
 第一、国内において、その純粋な平和主義の担い手となっておりました戦争体験の世代が社会の各層で指導的立場にありました。
 第二に、日本を取り巻く戦略情勢も、そのそれぞれ分断国家というものも固定、定着をし、特段、日本の再軍備、重武装、更には同盟国としての役割拡大を求めるものではありませんでした。
 第三に、国際協調あるいは国際社会において、豊かで責任ある国家という立場から自衛隊の海外派遣を求められるという、そういう時代状況でもありませんでした。
 したがって、憲法九条を拡大解釈する必要性が特に認められることがないという、大変居心地の良い時代状況であったのであります。
 しかし、冷戦が終結した後の時代状況は大いにその様相を異なるようになってまいりました。
 アジアにおいては、欧州において確かに冷戦は終結をいたしましたけれども、決してその冷戦というものが完全に終結した状態にはございません。台湾海峡及び朝鮮半島には二つの分断国家群が引き続き存在をし、軍事的緊張を発散し、北朝鮮は孤立した政治体制の存続を懸けて核兵器の開発にかかわり、そして中国の政治体制は当面その基本的性格を変えるということはないと予見される中で、着実に経済的に発展をし、そしてその軍事的な台頭というものも着実に予見し得るものであります。そして、その勢力範囲の拡大志向というものもまた同時に明白に予見されるものであります。
 したがって、このような非常に流動性が高まる不確実な分断国家現象、そして新たな大国の台頭といった時代状況の中で、日米同盟を基軸として一定の軍事力を我が国も保有しつつ、米国の軍事的プレゼンスを維持することによりアジア太平洋における勢力の均衡を維持し、地域紛争の勃発を抑止し、不必要なアジア諸国間の軍拡競争を回避することが求められると考えます。
 その際、集団的自衛権を行使し、同盟国としての一定の役割を確保し、米国の政策決定に対しても一定の影響力を行使する立場を確保することにより、我が国の外交政策の選択肢を着実に拡大させることが必要となります。
 他方において、冷戦終結、終了後、二十一世紀に入り、人、物、金、情報の国境を越えた交流拡大というグローバライゼーションは、国際社会の様々な相互依存というものを急激に増大せしめ、そのネガティブアスペクトとして、地球の裏側まで遠隔操作できるテロリズムの出現、組織犯罪の拡大、エイズ、SARSといった感染症の拡大といった、新たな暴力的あるいは非暴力的な脅威というものを生み出したのであります。
 こうした時代状況の中で、従来の国家安全保障という考え方やあるいは国家を単位とする考え方だけでは十分に対応できないという、そういう更により複雑な時代状況になりました。
 その中で、こうした時代状況に対処する新たな考え方が生まれるに至りました。その一つが、一九九四年、国連開発計画、UNDPが発表いたしました人間開発報告書の中での人間の安全保障、ヒューマンセキュリティーという考え方であろうかと思います。
 疾病、飢餓、失業、犯罪、社会紛争、テロリズム、環境破壊など多様な脅威を視野に入れて、死ななかった子供、失われなかった雇用、広がらなかった疾病、暴力につながらなかった民族対立、言論を制限されなかった反体制派といったことが人間の安全保障の一つの形であり、この概念が人間の生命と尊厳を守る普遍的価値に基づいた概念であること、そしてまた、紛争もそれを事前にいかに予防するかというところに、より重要性が置かれる考え方がこの中で指摘されるようになり、そしてさらに、国境を越えて、それぞれ地域を単位とし、その地域に居住する人々を対象とし中心として考える新たな安全保障の概念として、この人間の安全保障という考え方が創出されるようになりました。
 そして、この新たな脅威というものについて、それをいかにしてより非軍事的な手段によってその根源的な解決を図るか、また、そのときに、地域を単位としてそこに住む人々を対象とするという視点から、ただ単に国を代表する政府のみならず、国際的な機関、そして様々な市民社会におけるNGOというものが、それぞれの目的に合わせて連携をしネットワークを組み効果的に対処するという新たな安全保障の仕組みというものが、ここに人間安全保障という視点から求められるようになったものと思われます。
 この考え方は、私は正に未来志向のより強靱な平和主義というものを裏付ける考え方であろうと考えるものであります。二十一世紀における我が国の新しい平和主義の基調とすべきと考えます。そして、戦争体験をした多くの純粋な平和主義の担い手の人たちは今や時代から去ろうとされておられます。その中において、改めて我が国においてこうした純粋な平和主義に代わる平和主義として、私はこの人間の安全保障という考え方に示された未来志向の強靱な平和主義というものを我が国に確立することが必要だろうと思います。そして、私は、これから求められる新しい我が国の憲法においては、この未来志向の強靱な平和主義と予見し得る将来のアジア太平洋における戦略情勢への国家安全保障上の対応というものが適切にバランスを取って、そしてそれが十分に配慮された形で起案されるものと考えるものであります。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 江田五月君。
○江田五月君 私は、かつて本憲法調査会の審議の始まりに当たり、私たち民主党・新緑風会の憲法論議に対する論憲との態度を明らかにしました。護憲とか改憲とかをあらかじめ定めずに自由に憲法の論議をしてみたい、みようというものであります。その後、党内でも論憲を進め、昨年の総選挙で発表したマニフェストでは創憲への発展を掲げました。今、党の憲法調査会で新しい日本を構想する新しい憲法に向けて議論を進めている最中であり、私はその事務局長です。
 審議の初めにもう一つ、現憲法が占領権力によって押し付けられたものだから改正すべきだという立場は取らないと、このことも明らかにしました。その際にはそれ以上述べませんでしたが、この際、憲法制定過程についての評価を若干述べておきたいと思います。
 占領下の現憲法制定に占領権力の関与があったことは事実です。そのことを日本国家の屈辱ととらえ、これを払拭するための憲法改正が必要だという意見もあります。しかし、憲法は主権国家の基本法ですが、いかなる主権国家も国際社会と無関係に自国の歴史を歩んでいるのではなく、世界とともに歩んでいることを忘れてはなりません。しかも、世界の歴史は、自由、平和、民主主義、人権、共生といった共通の価値の実現に向けて、つまり理想に向けて歩んでいます。もちろん、ジグザグコースをたどったり価値の内容が変わったりはします。日本は第二次大戦の過程でこの世界の歩みから外れていったのであり、敗戦と戦後改革は元の道に戻る過程だったと言えます。しかも、現憲法は世界が共有している諸価値を高く掲げているのですから、世界の歴史の流れに正に沿ったものになっていると評価できます。だから国民もこれを心から受け入れたわけです。
 ここで、本日のテーマに即して現憲法の平和主義の原理を見ると、現憲法が世界の歴史の流れと正に軌を一にしていることに気付きます。
 国民国家の成立以来、何とかして国際社会をルールの下に置こうという人類の努力が積み重ねられ、一九〇七年のハーグ条約、一九二八年の不戦条約で侵略戦争を違法としました。しかし、第二次大戦が勃発し、戦争の性格は無差別殺りくへと変化をしました。核兵器はその最たるものです。
 この惨禍を乗り越えた世界は、国際社会の連帯強化を図り、個別の国家による武力の行使は原則的に違法とし、これを国際社会の連帯組織である国際連合に一元化しようとしました。これが集団安全保障という概念です。現憲法の平和主義は、正にこの国連の平和主義のルールと表裏一体のものとなっているわけです。
 国連は、冷戦期には活動が大変に困難でした。しかし、冷戦が終わった今こそ国連の時代となっているのです。一国主義の行動が国連の活動に困難を与えていますが、戦争の違法化や国際社会のルール化に逆行するこの動きは世界史の流れにも逆行しているのであって、私たちはこの流れにさお差してはなりません。
 以上述べたところからお分かりいただけると思いますが、私たちは、現憲法の平和主義の原則は、一国による武力行使の放棄と国連主導の集団安全保障への積極関与、この二点だと理解をしております。この二点は、武力衝突事案に対し、個別の国家による武力行使を禁止し、解決を国連の安全保障措置に一元化するという構想にのっとっているので、実は表裏一体のものです。そして、この構想は、憲法制定後、色あせるどころかますます光を増してきていると思います。
 言うまでもないことですが、国連憲章も自衛権を認めています。しかし、それは緊急やむを得ないものであり、かつ、これに対する国連の集団安全保障活動が作動する間に限定されたものであります。すなわち、主権国家の自衛行動による対処を、国際安全保障構想の中で例外的位置を占めるものとして、個別的であれ集団的であれ、自衛権を認めているのです。その範囲において自衛隊は合憲であると言えます。もちろん、自衛の域を超えて戦争を行うことは当然違憲ですし、そのような能力を持つことも認められません。したがって、専守防衛その他の防衛力整備に当たっての原則は憲法上の強い制約を持っています。
 現憲法は、この二原則を、これを制定した時代の制約の中で表現しました。時代の制約とは、一言で言えば日本が敗戦によって戦後の国際社会の構築にかかわる地位を失っていたということです。具体的には、第九条で国際紛争解決の手段としての武力行使の放棄と、その能力の不保持を規定したものの、国際社会へのかかわりについては前文で幾分抽象的表現があるのみということにとどまってしまったということです。
 しかし、その後、日本は独立し、冷戦時代を経てこれが終了し、二十一世紀になりました。今では敗戦後という時代の制約はもうありません。いや、むしろ冷戦終了後という時代に私たちはいるのです。冷戦を第三次世界大戦と考えてみてください。第二次世界大戦終了後の国際社会の構築は、日本はかかわることはできませんでしたが、第三次世界大戦終了後の国際社会の構築には、日本はかかわらなければなりません。その責任を負った、そういう国になっているのです。
 ところで、二十一世紀の世界と日本の状況の中で平和主義の二原則を遵守するためには、今の憲法の表現ぶりが有効なのでしょうか。
 私たちは現状でのイラクに対する自衛隊の派遣に強く反対しました。それは、法の支配を無視するがごとく、国連の決議や国連憲章の規定をないがしろにして、憲法が禁止する単独主義的な武力の行使を断行したからであります。それと同時に、私は、現憲法の規定は、今日生じている新しい問題に対処するには補うべき点が少なからずあるのではないかと考えています。
 第九条を文字どおり理解すると、イラクどころか、自衛隊の保持自体も怪しくなり、絶え間ない神学論争に陥ってしまいます。その上、いったんその保持を認めると、第九条ではその活動に何の歯止めもできず、活動地域は世界に広がってしまいます。日米安保の極東条項さえ今や有効に機能しないと、していないという始末です。このままでは第九条は規範としての機能を失ってしまいます。
 そこで、現憲法の平和主義の二原則を堅持しながら、表現ぶりにおいても、国民の意識の面でも、規範としての機能を持つように新しい表現を採用することを大胆に検討すべきではないかと考えます。
 集団安全保障に積極的に関与するということは、国連の実力部隊の行動に参加するということです。国連には憲章に規定された国連軍がまだできていません。それどころか、近い将来できるという見通しはありません。しかし、国際社会における軍事的な実力の行使は国連の警察的機能に一元化し、すべて国連の意思決定に従って行うようにするという理想を失ってはいけません。もちろん、国連の改革は当然の課題です。
 そこで、私たちは、日本は、平和構築に対し積極的にかかわる機能まで持つに至ったPKOにしても、国連の意思決定に裏打ちされた多国籍軍の行動にしても、これに責任を持って積極的に参加すべきであると考えます。その際、日本がこのような活動に参加するための部隊としては、日本の主権の行使に携わる自衛隊ではなく、国連待機部隊とすることを私たちは今検討しています。両組織、自衛隊と待機部隊との関係についての細かな議論は省略しますが、機能的な連携が必要なことは言うまでもありません。無駄を省くことも大切です。ここで肝要なのは、国威発揚的発想からの脱却です。
 自衛隊は、自衛権の行使に当たります。集団的自衛権についての議論があります。現憲法の解釈変更でこの行使を認めることは民主党は考えていません。いずれにせよ、個別的でも集団的でも、平和主義の精神からすれば、行使は抑制的に、必要最小限にすべきことは当然です。
 集団的自衛権の定義を内閣法制局のとおりだとすると、集団的自衛権の行使を認めることによって、日本の平和と安全から極めて遠い地域にまで自衛権行使の範囲を及ぼすことになります。個別的であれ集団的であれ、自衛権そのものを国連憲章の規定に従って位置付け、同時にその限界を示す規定を憲法の中に明記することを検討すべきではないかと考えます。
 国連安保の地域版として、地域安全保障システムを構築する必要があります、創憲ではここまで視野に入れるべきだと考えますが、今日は時間の制約上、問題点の指摘にとどめます。
 二十一世紀には、ますます国際協調が進み、主権国家の制約は強まり、確立された国際法秩序の下で、地球上のいかなる紛争の解決についても法の支配に基づく行動が求められるようになるだろうと思います。いずれにしても、私たちは今、地球憲法を構想する、そんな時代を迎えているのだろうと思います。
 私は、国連創設のときに世界が共有した理想の旗を決して下ろしてはならないと思います。逆に、今こそこれを高く掲げる時代だと思います。理想の旗は、下ろすと、一度下ろすと、次に掲げるのは容易なことではありません。むしろ、今こそ、国際社会に法の支配をあまねく及ぼすために、例えば国際刑事裁判所条約を早く批准をするとか、課題がたくさんあります。
 このような地球憲法を構想するといったスケールの大きな視野が今求められているということを改めて強調して、私の発言を終わります。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 憲法についての我が党の基本的な姿勢は、国民主権主義、恒久平和主義、また基本的人権の保障、この憲法の三原則を堅持することを前提に、憲法の在り方について議論をすることは避けない論憲の立場であり、この憲法の原則を踏まえつつ、必要な点においては加憲も考え得るという立場であります。
 憲法九条についても、堅持することを基本として、特に自衛権や国際協力、国際貢献の問題も含め、論点を浮き彫りにして、党内でタブーを設けないで議論を尽くした上で最終結論を得るということにしておりまして、現在、鋭意精力的な検討を進めているところであります。
 以下、個人的な見解を述べます。
 まず、国際平和主義と国際協調主義に立脚する現行憲法、とりわけ、それを具体化した第九条でございますが、不戦条約、国連憲章の流れをくむものであり、今後とも堅持すべきものであります。異論があるかもしれませんけれども、私は、制定後半世紀以上の歳月を経て、今や憲法は国民の間にしっかり根を張り、定着してきているというふうに見ております。また、憲法九条の内容については、政府の解釈や様々な実定法の立法化により明確な形で示されてきていると判断をいたします。とりわけ、自衛権や自衛隊を認め、また国際貢献ができるとする憲法解釈は既に確立しており、そのような中であえて今更憲法を改正する実益がどの程度あるのか疑問であります。むしろ、我が国の戦後の歴史を振り返るとき、様々に変化する国際環境の中で、我が国が平和国家として節度を保った対応が取られてきたのは、この九条、特に第二項の存在に負うところが大きいと言えます。
 このように、平和国家としての節度を保ちつつ、時代の変化に柔軟に対応し、かつ暴走に対する歯止めとして九条の存在意義は非常に高く、したがって、今後ともこのような九条は堅持すべきであるというふうに考えます。
 なお、この九条は堅持しつつ、今までの立場を明示するべく自衛隊を憲法に位置付けてはどうかという意見も党内にあることは御紹介をしておきたいと思います。
 次に、国際貢献でございますけれども、二十一世紀において我が国が目指すべきこの国の形は、自国の利益にのみとらわれる視野の狭い一国平和主義や一国国益主義の道ではあってはならない。積極的平和主義、すなわち国際貢献国家日本であるべきであり、平和、人道の国日本であると考えます。これは、正に日本国憲法、特に前文の精神の示す道であるとも考えます。
 我が国は、テロ、貧困、戦争、地球環境、人口、感染症など、今日の国際社会が直面する深刻な不安の解決に対し率先して取り組むべきであります。特に、その場合、一人一人の人間としての視点から、世界じゅうのすべての人々がこれらの脅威から解放され、人間として生存と尊厳が保障されるいわゆる人間の安全保障の確立が重要であると考えます。
 そのために、ODAを戦略的に活用し、また紛争地域の平和構築に国際社会と協力して積極的に貢献していくべきであると考えます。このような国際貢献の分野については、我が国は経済的貢献のみならず人的貢献、知的貢献など、その総力を挙げて取り組むべきであります。
 我が党は、国際平和貢献センターというものを設置して、国際平和の構築に資するため、各分野の専門的人材を育成し、派遣するとともに、国際平和貢献プロジェクトを我が国が積極的に世界に発信することを提唱をしております。
 また、このような観点から、NGOの育成や平和研究の推進、さらに軍縮の推進、国際刑事裁判所への参加、対人地雷除去の推進、難民の受入れの拡大なども今後我が国が取り組むべき課題であると考えております。
 次に、国連についてでございますが、平和の構築や貧困、格差の是正、地球環境など、二十一世紀の全人類が直面する課題の解決のために、国連が果たすべき役割も重要であると考えます。冷戦終結後の今日、国連がその本来の機能を発揮する道を切り開くことも可能となりました。我が国はこのような方向に向けて努力すべきであり、集団安全保障など、国連の機能強化を進めるべきであります。
 また、同時に、我が国は国連による平和維持、平和構築活動に積極的に参加するとともに、国連決議に基づいて正当な目的のために行われる活動に対しても、可能な限り協力を行うことも検討されるべきであると考えます。これは現在の憲法九条の下においても十分可能なことであります。
 次に、日米安保についてでございますが、我が国は国連への積極的な貢献を今後一層推し進めることが非常に重要でありますが、同時に日米安保条約を基軸とした従来からの日米間の協力関係は維持していく必要があります。日米安保体制は我が国の防衛のために必要であるとともに、世界第一、第二位の経済大国であり、またODAの二大供与国でもありますこの日米両国が協力関係を維持することは、アジア太平洋地域のみならず、世界の平和と繁栄のためにも重要であると考えるからであります。そのような観点から、我が国は今後とも日米間の協力関係の維持に努めるべきであると考えます。
 と同時に、中国を始めとする近隣のアジア諸国との平和友好関係の維持促進にも努力を傾注するべきであると考えます。そのためには、様々なレベルで、また広範な分野での人的交流の拡大を図るとともに紛争要因の除去に努め、地域の問題については可能な限り平和的解決の道を追求するよう努める姿勢が必要であります。また、長期的視点からは、今後、東アジア地域での安全保障の枠組み構築に我が国は積極的に取り組むべきであると考えるものであり、それがまた憲法の示す道であると考えます。
 最後に、集団的自衛権の問題についてでございますが、この議論に際しては、果たして具体的にどのような場合に実際に集団的自衛権の行使を認める必要があるのか、そしてそれが本当に集団的自衛権の問題であるのか。特に、この集団的自衛権行使をどうしても認めなければ国家存立が危うくなる場合は本当に存在するのか。またあるいは、憲法に集団的自衛権行使を明記した場合どのようなリスクが生じるのか。さらに、他の解釈との長短、優劣はどうなのか。以上のような問題を抽象的なレベルではなく、より具体的に事案に即して吟味し、議論、検討していく必要があると考えます。
 また、集団的自衛権については、その保有と行使を区別する政府解釈がしばしば批判されているところでございますが、国際法上、保有するということが認められた権利を実際に行使するか否かは、正に主権国家たるそれぞれの国が自らの判断で決すべき問題であり、具体的には主権者である国民の意思により制定された憲法等によって各国が各々決めるべき問題であると考えます。それは三月三日の本調査会における浅田、大沼両参考人の発言からも明らかであります。
 いずれにせよ、集団的自衛権の問題については、憲法を改正してまでその行使を認める必要があるのかどうかを十分に吟味する必要があります。個人的には、改正してまでその行使を認める必要性はないと考えるものであります。
 以上、平和主義と安全保障について私の見解を申し述べましたが、このような平和主義と安全保障の問題、とりわけ九条の問題を考えるに際しては、我が国の歴史、国民の体験を踏まえ、第九条が果たしてきた役割を振り返る歴史的視点、それと南北格差やテロリズムなど、国際社会の現状や動向に対するグローバルな視点、そして世界や日本の将来についての長期的な視点、この三視点を踏まえて総合的に考える必要があると思います。
 第九条の問題については、突き詰めれば、我が国が今後、普通の国としての道を歩むのか、それとも平和国家として我が国の長所を生かした形で世界の平和と繁栄のために貢献する道を歩むのかという選択の問題であります。私は、後者の道を選択するものであります。
 以上であります。
○会長(上杉光弘君) 吉岡吉典君。
○吉岡吉典君 日本共産党の吉岡です。
 平和と安全保障という問題について我々が大局的に誤らないためには、第一に、歴史的展望の中でこの問題を考えることが重要だと考えます。世界の歴史は戦争の歴史であったとともに、多くの先人たちが戦争を防止し、戦争のない世界を目指して努力し続けてきた歴史でもありました。私たちは、その戦争のない世界を目指す努力の到達点を受け継ぎ、発展させる見地に立つべきであります。
 私たちは、戦争史上最も大きな悲惨をもたらした二つの世界大戦の教訓を生かした国連憲章と、それを一層発展させたものと評価される日本国憲法を基本とすべきだと考えます。もう少し突っ込んで言えば、国連憲章に規定された平和の国際秩序を擁護し、この秩序を破壊するいかなる覇権主義的な企てにも反対するということであります。言うまでもなく、これは現行憲法を守ることを前提としたものであります。
 戦後、確かに国連は、米ソ対決の冷戦激化でその目指した機能を発揮できませんでした。しかし、ソ連崩壊、ワルシャワ条約機構解体による米ソ対決の解消によって国連への期待が強まったことは、一九九一年のロンドン・サミットの政治宣言が、今や国際連合にとって、その創立者の公約と理想を完全に実現するための条件が整っているものと信ずると宣言したことによっても証明されております。その点からいって、米英のイラク戦争をアナン国連事務総長が、昨年九月、国連総会で、過去五十八年間、世界の平和と安定が依拠してきた原則に対する根本的挑戦によって、国連が創立された一九四五年に勝るとも劣らない決定的な時期、岐路に立っていると警告したことは極めて重大です。世界各国は、国連の平和のルールを守るためにこそ行動すべきであると考えます。
 アナン事務総長は、最近も、安全保障理事会も国連も戦争を承認しなかった、イラク戦争や開戦の決定は米国と英国が主導する一部の加盟国によって行われたと述べております。
 日本は今、世界の歴史的到達点である国連憲章の平和の国際秩序を守る立場に立って努力するか、国連無力論を唱え、国連に挑戦する有志連合に走るかの選択を迫られております。
 次に、日本国憲法を、占領下強制された憲法、特殊な憲法のようにみなして、これを改定しようとする議論についてです。
 私どもは、これは歴史的な憲法の流れを無視した議論だと考えます。戦争のない世界を目指す歴史的な努力を振り返ってみれば、そのことははっきりします。
 この分野で学者の研究によれば、世界で初めて戦争放棄を憲法上明記したのは、二百十数年前のフランス革命のとき作られた一七九一年のフランス憲法であります。一八九一年のブラジル憲法にも征服の戦争を禁止しております。
 第一次世界大戦後、国際連盟の下、戦争違法化、犯罪化、二国間、多国間の安全取決めが進む中で、一九二八年には不戦条約の締結となります。この不戦条約を受けて、スペイン憲法、フィリピン憲法などに戦争放棄条項が盛り込まれました。
 第二次世界大戦後、戦争の違法化を武力行使禁止へと発展させた国連憲章の下で日本国憲法の制定となり、一九四九年にはコスタリカの憲法、またビルマ憲法など、戦争放棄の条項を盛った憲法が制定され、今日、それは十か国を超え、小国ではありますが、軍隊を持たない国が十七か国にも広がったという研究論文もあります。
 こういう世界の流れの中で日本国憲法も制定されたのであります。押し付け憲法であるように言うのはとんでもない一面的な見方であります。
 反対に、今、日本国憲法は、二十一世紀を平和で戦争のない世紀としようとする人々への導きの星ともなっております。これを守り抜くことへの世界の期待が強まっており、私どもはこれにこたえたいと思っております。
 第二に私が強調したいことは、世界の中で日本を見ること、一面的にならないよう多面的な見地に立って我が国の現状を見るということであります。
 戦後初めて戦争継続中のイラクに自衛隊を派遣したこと、さらに今、憲法改定の大論議がされていることについても、ブッシュ政権を始め歓迎する世界と、かつて日本に侵略された歴史的体験を持つアジアを中心として、歓迎しないどころか不安と警戒を強めている国もあります。日本はあの戦争の責任者も不明だという国会答弁がある状況で、アジアでは、戦争の真の清算がない国とみなされております。その日本の軍隊が再び海外に出兵するようになることへの強い危惧があります。これを無視した外交政策、安全保障政策は取るべきではないと思います。
 最近の議論にも現れている、自衛隊派遣抜きの国際協力、国際協調はあり得ないとする議論も、人々を誤らせる一面的な議論だと思います。日本が国際的に協力できる分野は、政治、経済、人的協力など、各分野にわたって多面的なものがあります。自衛隊派遣だけが国際的貢献ではありません。自衛隊派遣による国際貢献は、イラクへの自衛隊派遣が国連への挑戦と言われるアメリカの武力支配への支援とならざるを得ないことから、国際的にも強い反対、批判があることを、特に中東諸国との長年の良好な関係を壊しかねないことへの不安も重視しなければなりません。
 そして、アメリカの著名な人々も含めて世界的に広がっている、日本は憲法第九条を持つ国にふさわしい国際貢献を行うようにと望む声があることを重視しなければならないと考えます。世界の声が分かれているとき、我々が依拠すべきは、長期的展望に立ってどの声が歴史の進歩と二十一世紀の平和を固めるのに役立つかということを基本にすべきだと思います。
 小泉首相の下で一段と活発になった集団自衛権容認論に反対であることも言及しておかなければなりません。集団自衛権というのは実際は武力の乱用の歴史であったことも参考人の意見陳述で明らかになりました。国連の集団安全保障の例外として、日本が武力攻撃を受けておらず、また攻撃を受けていない下で自衛隊を派遣、派兵するということは他国防衛のための派兵にほかならず、我々の選択の対象にはならないと私は考えます。
 最後に、議論の対象にはなりませんでしたが、非同盟諸国会議について一言しておきます。
 冷戦下、日本は日米安保条約を締結してアメリカを中心とする軍事ブロック網の一翼を担いましたが、この時期、いずれの軍事ブロックにも加わらず、平和、中立、非同盟を目指す運動が広がりました。
 今日、非同盟諸国会議は百十四か国が参加して、アメリカの一極支配打破、国連の民主的改革、発展途上国の経済の擁護、核兵器廃絶などの諸課題を掲げて世界政治を動かす力になっております。アジアで非同盟諸国会議のメンバーでないのは、オブザーバーの中国と日本、韓国だけであります。
 以上の結論として、日本共産党は、日米安保条約を廃棄し、安保条約をなくして、日本がアメリカを始めすべての国との対等、友好の関係を結び、非同盟諸国に参加して平和、中立、非同盟の道を進むことを提起しております。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 田英夫君。
○田英夫君 憲法の平和主義を論ずるに当たっては、まず日本国憲法が制定された当時の状況を冷静に学ぶ必要があると思っています。
 その当時、既に社会人になっていた私にとっては生々しい記憶として残っておりますが、まず第一に、当時の国際情勢は、第二次世界大戦が終わって、その大戦のさなかに既に起草されていた国連憲章、その根幹は正に平和主義であったと思いますが、その国連憲章の精神が日本国憲法の中にそのまま生かされてきた。そういう状況の中で、ただし、アメリカ占領軍はその日本国憲法ができた直後から大きな矛盾を感じ始めていたに違いないと思います。つまり、第二次世界大戦が終わってわずか五年後にアメリカは朝鮮戦争をしたわけでありますが、私の見る限り、既に日本国憲法ができた直後からその戦争の準備が進められていたと。日本に対して平和主義の憲法を認めていながら、自身は次なる戦争の準備をしていたという状況を忘れてはならないと思います。このことが後々、日本に対して様々な影響を与えたことを忘れてはならないと思います。
 一方、日本自身の状況は、正に広島、長崎、あるいは東京の下町の空襲で十万の人が一夜にして死ぬというそうした悲惨な体験、そして、戦争に敗れた人たちが、兵士が次々に復員をしてくるというそうした空気の中で、二度と戦争はすべきではないと、そうした気持ちが日本国民の中に充満をしていたというその中での、日本国憲法の特に第九条が作られたということだと思います。
 その第九条を作った当事者は明らかに日本側であります。その当事者の責任者は終戦の年の一九四五年十月に総理大臣に就任された幣原喜重郎氏でありますが、その幣原さんが側近の人に語ったものを側近の人が文章にしたものを読んでみますと、その中にこういう一節があります。
 原子爆弾ができた今日、日本は二度と戦争をしてはならない。それにはどうしたらいいか考えあぐねた結論は、それには軍備を持たないことだ。軍備を持たない、非武装などと言うと、狂気のさたと言う人がいるかもしれない。しかし、考えてみると、戦争で殺し合うのと軍備を持たないこととどちらが狂気のさただろうか。こういう一節があります。
 そして、幣原さんはこの考えを持って当時のマッカーサー司令官、総司令官のところを訪ねて、そのことをマッカーサー司令官は後々、一九五一年にアメリカの上院外交委員会の証言の中でそのことに触れています。先ほど申し上げた考えを幣原さんはマッカーサーに話した。マッカーサーの証言によると、この小さな老人の手を思わず握り締めて、大変いいことだと私は答えたと。こういう一節が、これは上院外交委員会のことですから、速記録としてアメリカの公文書館に残っているわけですが、こういう形で作られたのが憲法第九条だということを是非後々まで、そして現在の若い人、特に考えていただきたい。私は、そのできたときに本当に感動したことを今も覚えております。
 そこで、この憲法をどうして今、特に第九条をどうして変えなければならないのかということについて私は全く理解ができない。今の国際情勢は、先ほども武見さんが分析をされました。私もその分析の限りにおいては全く同感なんですね。なぜか結論が違ってしまう。
 そこで、今のこの国際情勢の中でどうして日本国憲法第九条、特に第二項を変えなければならないのか。あのときに幣原さんを先頭にして私ども日本人は重大な決意を持ってこの第九条を決めたはずです。それを変えなければならないような国際情勢が今あるのか、そのことを本当に考えていただきたいと思います。今の国際情勢は、アメリカの突出した一国主義、そしてイラクへの派遣に、戦争に表れているような、そうしたことが目立ちますけれども、そしてそれに、それを支持してイラクに自衛隊を派遣したということが身近にありますけれども、決して世界のこの国連憲章の考え方を中心とした平和主義というものがなくなってしまったわけではない。世界の多くの人たちはこの国連憲章に表れた平和主義というものを支持して、そして何とかこの状況の中で平和を取り戻そうと努力をしているんだと思います。
 日本こそ本当に不戦の国、戦争をしない国ということを今こそ世界に向かって明快に発言をするときではないかと思います。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 岩本荘太君。
○岩本荘太君 今年になりましてこの憲法調査会に参加させていただきまして、早々にこの平和主義と安全保障の問題に、議論に参加させていただいたわけですが、私もちろんそういうものの専門家でもございませんので勉強させていただいた身でございますが、常々現場の率直な立場の意見をいろいろ聴して、お話を伺ったというような立場から、多少感覚的な理想論になるかもしれませんが、お聞き願えればと思っております。
 この問題につきましては、先ほど会長が申されましたとおり四回ございまして、私は四回とも質疑に参加させていただきましたことをまず感謝いたしたいと思いますが、その質疑を通しまして感じたことは、今の社会では武力による衝突やむなしが主流になっているとの感が否めないということでありました。それがまた、最近の日本社会一般に見られる風潮に思えてならないのであります。昨今の風潮の中では、平和主義を唱えようものなら、のうてんきだと非難の目を向けられそうな気がしてなりません。
 参考人の皆さんと交わした質疑の中で、私は、この先戦闘行為をすべて放棄する社会があり得るかとただしたのでありますが、ほとんどの方々は否定的な意見でございました。しかし、確かに有識者の客観的かつ冷静な判断はそうでありましょうが、戦争のない世界というのは皆さんだれもが願う世界であると思っております。そうして、そういう世界は、皆さんそれぞれ各人がそれを望み、努力しない限り巡ってはこない。そこに至る道のりがいかに厳しかろうと、希望の火を絶やしてしまえばそういう世界は絶対にやってこないということを認識しなければならないと思っております。
 かつて、私の経験では、私の記憶では、党派に関係なく戦争を忌避し、平和を求める声が凌駕していたと記憶しておりますが、世の中の、そういう世の中の風潮が何でこれだけ変わってしまったのか。第二次大戦の怨念を潜在的に持ち続けてきた人たちがやっと自己主張できる場を得たということなのか、あるいは熱さがのど元を過ぎてしまったということなのか、戦争の経験のない人たちが巧妙な戦争プロパガンダに踊らされているということなのか、あるいは経済的な行き詰まりに悩まされて、その行き詰まりをいかに打開しようかもがいているということなのでありましょうか。
 今の時代の状況は、軍事的制圧を念頭に置かなければならない社会だという判断は一面では認められるとしても、今の状況がこの先もずっと続いていくだろうということには疑問を持っております。今の状況も、顧みれば、最近になって大きく変わってきたものであると見ているところでございます。したがって、この先再び状況が大きく変わることも考えられるわけでございますので、そのことを考えますと、今の状況に合わせて、目先のことにとらわれて早々に軍備を容認する憲法改正を急ぐことが得策かどうか、慎重に検討することが必要であろうと考えます。
 また、この問題を結論付けるには、国民あっての国家であるという認識に立てば、本当に戦争に行かなければならない年齢の人々、階層の人々に本当に戦争も辞さない気持ちを持っているかたださねば現実的な答えにならないことを心しておかなければならないと思います。更なる意見交換を尽くすべきであると思います。
 最近のきな臭さが充満する世界状況を眺めておりますと、そのよって来るところは貧困層の拡大にあるのではないか、それはまた、とどまることのない発展途上国の人口増に起因しているとも言えるのではないか、そのせっぱ詰まった救いようのない状況が自爆テロを誘発する要因になっているのではないかというような見方もできると思います。
 特に、現下の世界は所得格差の拡大が進んでいると見ていいと思いますが、その弊害は、国内面、国際面の二面にあると考えております。したがって、その格差に起因する貧困の解消をその国の国内体制の欠陥を是正することに求めるだけでなく、先進国は自ら南北格差の大きさに気付き、その是正に今以上の役割を果たすべきであることを認識すべきであると思います。
 貧困と人口増の問題を何らかの形で解決できれば、世界は戦争のない安定した状態に到達すると私は信じてやまないものであります。その状態に到達するために、世界じゅうの人たちが国際連合の組織の下に協力する必要があると考えております。
 戦闘なき世界を求める手段として私が日ごろ考えていることを申し述べさせていただきますと、その一つは、人類はその進化の段階で戦争というものを作り出し、多くの不幸を招いてきたのでありますから、更に人類は進化して戦争というものを抹殺できるのではないか。そのためには、もっと歴史を学ぶ社会、歴史を学ぶ人類に我々が発展しなければいけない。その反省がまず必要であると思います。
 また、民主主義を情報の公開と合議制の徹底ということに定義するとすれば、戦時には民主主義は通用しないと私は考えております。そのどちらも軍事作戦に大きな障害となるからでありまして、そんなことを徹底しては戦争に勝てるわけがないと考えております。その手を逆用すれば、民主主義を徹底すれば戦闘はできなくなるということに着目できないかということであります。
 今、世界は、いかなる国も、その中身はイデオロギーによって多少異なることは確かでありますが、民主主義を基本としております。日本が戦後たどってきた道が正にこの民主主義であればこそ、戦闘ができなかったという、できないというその模範であると考えるところであります。もちろん憲法の規定は否定するわけではございませんが、それ以上にこの民主主義の徹底による合議制が戦争を回避してきたと私は考えたいと思っております。その我が国のたどってきた道を国際社会、特にいまだ民主主義を導入し得ていない国に宣伝すべきではないかというふうに考えております。
 さらには、一般的に申し上げまして、敵対する二者の間には利害の程度を異にする中間派が数珠つなぎにいることに着目しなければいけないと思います。時間を掛けましても、その数珠つなぎを丁寧にたどっていけば、極端な両者の、両端の二者が戦うことなく合意できる答えはおのずと見付かるものと確信をいたします。この役割は国連あるいは国際交流の活発化によってなし得るものと考えております。
 歴史は繰り返すものと単純に解釈して、現在の状況が歴史の必然と割り切って見過ごしていてはならないと考えます。歴史が繰り返されている間に兵器の威力は確実に向上し続けております。さきの第二次世界大戦では人類を滅亡させるに十分な威力を持つ兵器の出現を見たところであります。このまま同じ歴史を繰り返していては、たとえ一国が残っても、気が付いたときには周囲にはだれもいなかったということにならないか、その道は絶対にたどるべきではないと思います。
 次に、それでは現実の対応をいかにすべきかということでありますが、日本の場合、平和憲法を半世紀以上守ってきております。その国が今普通の国宣言をすれば、他国とは比較にならないほどの危機感を持って外国に受け止められる、特にアジアに受け止められるに違いないと思っております。その点を留意しなければならないと思っております。
 また、一国がいかに不戦を誓っても、それはよその国の行動を規制するものではない。すなわち、一たび戦闘状態に陥れば、日本の平和憲法など何の役に立たないのではないかというふうに考えるものであります。とすれば、自国を規制するだけの憲法であれば今までどおり平和主義を貫いていいのではないか、理想として日本は不戦国家であることを高らかにうたい上げるべきであると私は考えております。
 とはいえ、現下の世界情勢では他国からの侵略が危惧される気持ちも否定できません。自衛のための策も考慮しなければならないことは当然であります。その観点からすれば、五十有余年にわたる日本人同士の切磋琢磨の上に成り立っている現在の自衛隊は認めるべきであります。そして、現在よりも行動領域を拡大しないよう留意し、努力すべきではないかと思っております。さらには、自衛のための認識を明確にするためには、領土内、領海内以外では行動を起こさない、また国家権力の暴走を歯止めするためには、徴兵令と言っては言い過ぎでございますが、強制的にそういう役に就かせるようなことはしないということをはっきりと規定すべきであると考えております。
 以上、私の討論を終わります。
○会長(上杉光弘君) 藤野公孝君。
○藤野公孝君 先ほど、同僚の武見委員からも、この憲法、現憲法が制定されました状況の我が国の立場、あるいはその後の我が国を取り巻く世界の環境がどんどん変わっていったと、それによって憲法、現憲法、特に九条にいろいろ問題というか矛盾が生じてきたという分析等がございまして、私もその同じ認識、同じ見識でもって若干のポイントを絞ってお話を申し上げたいと思います。
 言うまでもなく、日本に限らず、主権国家の義務といたしまして、それぞれの国民の生命、財産を守るということは、これは当たり前のことであります。しかし、一方、いわゆる冷戦終結後の国際状況を見ますと、今まで以上により積極的に我が国が国際平和の維持増進に向けてかかわっていく、この必要性というものも期待され、また求められておるという状況にあると、このように認識するわけでございまして、ただ平和主義ということで戦争をしないという、そういう消極的な対応から、積極的に国際協調主義あるいは国際平和の維持に積極的にかかわっていくという対応を、姿勢を世界に示していくということがこれからの日本に求められる一つの姿であろうと、このように認識しております。
 しかるに、現在、こういう国内の国民の生命、財産を守るということ、それから対外的には国際平和に積極的にかかわっていくと、こういうことに関して現行の、九条を含めこれまでの憲法のままでいいかというと、これはいろいろ大きな障害が既に惹起していると、このように認識しております。憲法の解釈でいろいろつじつま合わせを、合わせるということはもう限界に来ておると、このように思っておるわけでございます。
 国際化が進むこの地球社会におきまして、我が国の最高法規でございます憲法に矛盾が生じているのではないか、あるいはそのような疑念をみんなが持つというようなことでは、国内、国外を問わず、我が国の本当の意思が理解をされないと、こういう問題も生じてくるのではなかろうかと思うわけでございます。
 そういう意味で、この憲法を改正し、主権国家日本の国家の意思を内外に明確にすると、その必要があるという立場から具体的に九条の在り方等についてコメントしたいと思っております。
 九条の第一項につきましては、不戦条約やそれに連なる国連憲章の精神等に沿いまして、国際法上も定着いたしました侵略戦争放棄の理念を明らかにしたものでございまして、この理念は当然今後も我が国が堅持すべきものであるということで、九条一項というものは、これは堅持すべきであるというふうに考えるわけでございます。
 しかし、九条二項につきましては、先ほど御意見もございましたが、条文上、自衛権も自衛隊も否定している、こういう意見も十分に成り立つ余地がある、あるいは成り立つということでございまして、こういう解釈が依然として主張されているということは、その後の政府の解釈の変更が重ねられた結果ますます難解さが増大してきております。不戦条約や国連憲章も自衛のための戦争までは禁止しておりません。
 それから、現実の国際社会の常識との乖離が余りにも大きくなって、もはや埋め難いという状況にあると認識しております。国内外を問わず、非常に理解しづらい、こういう認識でございます。しからば、どうするのかということでございますが、自衛権というものを明記すべきであるという立場でございます。
 主権国家が国際法上、個別的及び集団的自衛権を有しているということは、申すまでもなく国連憲章にも明記されており、我が国も独立主権国家といたしまして、国際法上の常識に合わせる上でも個別的及び集団的自衛権も有しているということを憲法に明記すべきである、このように主張いたしたいと思います。
 また、集団的自衛権に関しましては、これまでの解釈でもございましたが、権利は保持ないしは保有するけれども行使できないとの内閣の法制局の見解がございます。しかし、我が国の現状、先ほど申しましたような冷戦終結後の我が国の、あるいは国際社会からの期待等を見まして、一切行使ができないとするのは国の安全保障政策の遂行を妨げるおそれがあると考えるものであり、当然無制限な行使というものは認めるべきではありませんけれども、必要不可欠な場合には行使できるということを憲法上明確にすべきであると考えるわけでございます。
 次に、自衛隊、まあ自衛軍と言った方がいいと思いますが、自衛隊の明記であります。
 国家には自衛権があり、国民の生命、財産を守るための手段として軍事的な実力実行部隊は、これは必要不可欠でございます。今日では自衛隊が憲法違反ではないということにつきまして、国民的な合意はあると考えております。昨年九月の毎日新聞の世論調査等を見ましても、半分近い割合の方が、憲法改正を是とするの意見の回答理由のトップが自衛隊の位置付けを明確にしなさいという理由で改正を是としております。
 各国におきましても国防を担う軍について憲法に明確に位置付けられておりまして、我が国が持っておる自衛隊の防衛能力、装備も非常に近代的なものになっておって、この自衛隊を憲法に明記する際は国際社会から無用の誤解や疑念を受けることのないように、自衛に専念する自衛軍とすべきだと考えております。
 この自衛隊等のコントロール、統制につきましてこの調査会で志方参考人が御指摘になりましたように、軍事力とか、あるいは、軍事的な力というものは本来的というか本性的に暴走するということもあるから、法治国家であればだれがコントロールするかということについてはっきり文民統制のメカニズムを最高法規で決めておく必要があるという御指摘がありまして、そのとおりだと思っております。各国の憲法はこの点につきましてしっかりと明記しております。
 世界有数の予算を軍事力に使いながらそれを統制するシステムが憲法に明記されていないという事実は、国際社会から信用をかち取るための、あるいは憲法を改正する、そのことへの大きな障害になると思っておるわけであります。
 シビリアンコントロールの原則につきましては、憲法第六十六条第二項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」というような、そんな規定でしか今はございません。自衛隊法第七条に「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。」と、自衛隊法の方に書いてございますが、このような規定を明確に憲法で書くべき、規定すべきだと、このように考えるわけであります。
 それから、同僚の舛添議員からのかつての主張もございましたが、二番目の積極的に国際貢献、国際協調を果たしていくということ、これをやはり憲法の中で章立てに、章立てとして国際協力、国際協調をうたうと。戦争放棄の消極的対応だけではなくて、積極的に国際協調主義を宣言して、自衛隊を国際協力のためにも活用していくと、こういうことが必要であると思っております。特に、我が国は資源のほとんどを海外に頼り、我が国ほど世界じゅうが平和であることを必要とする国はございません。我が国が積極的に世界の平和のために全力を挙げてその責務を果たしていくということを示すことは、極めて重要なことだと考えております。
 また、自衛隊の国連PKOの活動、これにつきましても、内閣府の世論調査で見ましても八五%以上の国民の方々からの支持を得ているという調査もございます。また、イラクの派遣に関しましても、いろいろ先ほど来御指摘はありましたけれども、自衛隊とは別の組織を作って派遣すべきと、今後こういうことを含めて対応すべきという意見もございますけれども、日ごろの訓練による危機管理能力とか、あるいは装備の整備の点から考えましても、自衛隊の中での派遣ということが妥当だろうと、こういうふうに考えております。
 以上、第九条を中心にして意見を申し述べました。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 小林元君。
○小林元君 民主党の小林元です。
 憲法第九条の戦争放棄の考え方は、日本の平和主義のシンボルであり、世界に誇るべきものと強く認識しております。戦後、日本の平和主義は国際社会に広く受け入れられ、アジア諸国と良好な関係を保ち、米国から軍事力増強の圧力に対する盾となって軍事費の負担を減らし、高度成長を支える重要な柱となってきました。国民の幸せや国の平和と独立を守りながら、地球の平和を作るための貢献をしていくことが日本の国の在り方であります。専守防衛という形でこの国を守っていくことは、これからも当然のことと認識しております。
 そこで、集団的自衛権についてでありますが、これにつきましては、国連憲章五十一条、そしてまた日米安保条約前文にも明記されているところでありますが、政府は、憲法解釈、集団的自衛権につきまして、保有すれども行使せずというこの有権解釈にこだわり続け、このためにその都度、後方支援、非戦闘地域、武力行使一体化などそれぞれテクニカルタームを使いまして、自衛隊の海外派遣に当たって海外における武力行使とは全く異なることを言わばこそく的に欺瞞的に説明してきたことが、これが不毛の議論、あるいは神学的論争と言われるゆえんのものであろうかと思います。国を守るための組織であると言いながら、この自衛隊が海外で行動すれば武力行使と取られることを危惧したものと考えられます。集団的自衛権の行使を認めることとした場合、我が国の方からその行使に何らかの制約とか条件を付けることは困難ではないでしょうか。
 現実には日本の防衛政策はアメリカ指導下にありました。これから日本として独立的、自主的に判断できるかどうかがポイントだと思います。
 九条の限定的な解釈につきましては、国民は感銘を受けたことも事実だったと思いますし、アジアの国の皆さんにも安心感で迎えられたことと思います。これから、この考え方を国連の下での集団安全保障の枠にぎりぎり入れていく方法もあろうかと思います。
 日本の国際貢献の理念でありますが、憲法では戦争の放棄と平和主義が定められ、日本は世界平和のためにやるべきことをしっかりやると誓っておりますが、これからも真摯に実践していかなければなりません。
 しかし、国連も多くの問題を抱えており、これからの国連改革を進めて、私としては、日本は安全保障理事会の常任理事国となり、議論に参加をし、決議の提出もかかわることが必要でありますし、国連出資金の二十数%を支出している日本が常任理事国にもなっていないこと自体が問題であり、お金を出しているだけというのはいかにも残念であり、一層の国連活動への参加が必要だと考えております。
 五十年の間に日本は大きく発展を遂げ、その国際的な責任と役割は増大しました。それに対応して経済的な支援を中心にやってきましたが、冷戦構造が崩壊し、国家間紛争は減少傾向にあるものの、核ミサイルの拡散、国際テロの発生など新たな緊迫した事態が発生しているため、日本としても国際的な安全保障に関して責任ある態度を取らなければなりません。
 今、日本に求められていることは、後方支援活動が他国の武力行使と一体化するか否かというような建前の論理に縛られることなく、国連憲章に基づく集団安全保障への参加について議論を展開することであります。九〇年代以降、PKO協力法、テロ対策特措法、イラク復興支援特措法と国連決議を根拠に政府は所要の措置を取り、自衛隊を派遣してきております。
 ここで、イラク支援について触れてみたいと思います。
 イラクは、現在また新たな事態が発生しておりますが、アメリカは、イラクに対する国連の対応が議論されている中、大量破壊兵器の存在は明らかであるということで先制攻撃を開始しました。
 国際法的にイラク戦争の大義について考えてみたいと思います。
 日本国憲法第九条は、国連が構築を予定していた集団安全保障の体制を前提にして、戦争のない社会を目指すように組み立てていると思われます。改めて、イラク問題についても国連の指導的役割を吟味する必要があるのではないでしょうか。既に自衛隊の本隊が現地で活動しておりますが、既成事実となれば無益な議論というのは短絡過ぎます。
 アメリカによるイラク攻撃の武力行使は自衛権の発動なのか。国連決議によらない武力行使が認められていない中で、国際的に認められた形での武力行使というのは大変言いにくいことではないかと思います。また、ブッシュ・ドクトリンと言われる先制攻撃の正当化論については、先制攻撃が自衛権の発動だとはとても思えません。
 自衛隊の派遣は、憲法上どうか。戦闘地域概念、武器弾薬の輸送と武力行使の一体化、武器使用基準、占領行政と交戦権の認否などの問題が議論されておりますが、非戦闘地域の線引きを始め、これらの議論は不毛であり、限界に来ております。果たして、テロ掃討作戦は戦闘でないのでしょうか。
 イラク自衛隊派遣の人道支援に加えて、もう一つの柱の安全確保支援活動があり、米英軍への後方支援もされておりますが、これについての憲法上の位置付けも議論をいただきたいと思います。
 なお、憲法の方から見る見方と、国連中心の国際協力や集団安全保障から判断する見方もあるかと思います。
 イラク支援に限らず、これらの措置は国連の集団安全保障の枠組みの中で、我が国として憲法に反しない範囲で国連憲章上の責務を果たしていくべきではないかと思います。
 さらに、これらの問題に加え、先ほど江田委員からも話がありましたが、民主党の中でも日本の国連集団安全保障活動への参加の在り方について検討しております。国際連合の現実に理想から懸け離れた部分があることは否定できませんが、世界平和の破壊や不正義が残念ながら地球上に存在する限り、国連の不完全さを理由に傍観者然と振る舞うことはできないと思います。したがって、国連決議による多国籍軍や国連平和維持活動という集団安全保障について、日本が主体的に関与すべきであると私たちは考えております。この関与の形につきましても、国連待機部隊あるいは自衛隊をどうするか、こういう議論もあろうかと思います。このことに関しても議論を深めていただきたいと思います。
 以上で終わります。
○会長(上杉光弘君) 白浜一良君。
○白浜一良君 公明党の白浜一良でございます。
 本調査会でたくさんの参考人の先生方の御意見を伺う機会をいただきましたので、その先生方のお考えを引用しながら私の考えを述べさせていただきたいと思います。
 まず、お話し申し上げたい点は、憲法の前文や九条における平和主義に対する基本的な認識でございますが、明石元国連事務次長がいらっしゃって、こういうお話をされております。我々は、平和を能動的に弾力的に受け止める必要があるが、戦後は九条の護符に隠れ、九条九条と言っておれば我が国が平和であり得るという錯覚があったのではないか、前文と九条一項の精神はそのままでありたいが、平和は何も戦争のない状態以上のものでないといけないから、平和の持つ経済的、社会的、文化的背景などに思いを寄せながら日本の役割を探る必要があると、このようにお話しになっておりました。
 狭義の憲法解釈に逃げ込んだ論理というのが戦後日本は多かったわけでございますが、ここまで大きくなった日本の現状を踏まえますと、どこまでそういう国際的な貢献が日本ができるのかと。そういう名誉ある日本の国際国家の中での在り方というものを探るべきだということが私は基本的な認識として必要だということをまず申し上げたいと思います。
 その上で三つのことを述べたいと思います。
 一つは、日本の外交安全保障上の基本的な立場の問題でございますが、五百旗頭神戸大学の教授がいらっしゃって、こういうお話をされました。日本外交は国連尊重を踏まえるべきだが、その一つの基準にゆだねることは良くない、幾つもの外交原則や基本方針を重層的に組み合わせてこそ安定した展開ができると、このように五百旗頭先生がおっしゃっておりました。
 ですから、国際的ないわゆる世界各国の協調の場というのは国連であることには間違いございません。その上で、日本はやはり日米関係が基軸でございますし、また日本がアジアの中であるというその立場をどう考えるかということも大事なので、日本の今後の外交安全保障上の立場を考えるときに、この国連と日米とアジアと、この三つの軸でしっかり考えるべきだということをまず申し上げたいと思います。
 それから、二点目に申し上げたいのは集団的自衛権の問題でございますが、これも先ほどの五百旗頭先生がこのようにおっしゃっております。
 集団的自衛権は、最終的には高度な政策判断の問題であり、法制的に縛るのではなく、国際的な共感を維持し、共同で国際的なチャレンジに対応する姿勢を取りつつ、極めて平和主義的、軍事の発動に最も慎重な国でありながら必要な場合には判断するという、自ら実態を見詰める中で判断する能力が非常に大事だと、こういうお話をされているわけでございまして、そういう面では、国際法上、権利を有するが行使できないというのはまあ理解し難いことも私ども十分承知しておりますが、日本はさきの大戦を始め、そういう経験の中で戦後の歴史が流れているわけで、ですからこの問題も私は時代の流れの中で判断していくべきものだと、このように理解をしております。
 それから三つ目ですが、これは武器の使用の問題で、カンボジア以後、自衛隊の諸君が海外で大変活躍してくれているわけで、その場合のこの武器の使用というのは大変大事なことになるわけでございます。
 最初、私も思い出しますが、PKOで初めてカンボジアに行ったとき、機関銃が一丁か二丁かというのが大議論になりまして、そういう本当に初期の段階でしたのでそれが大きな問題になったわけでございますが。海外でそれなりに危険な地域で活動するわけですから、国際的なそういう基準があるべきだと、こう思うわけでございまして、佐々元内閣安全保障室長も当調査会でこのようにおっしゃっております。日本の自衛隊法の武器使用の最大の問題点は、武器使用規定が警察職務執行法を準用したことであり、警察と自衛隊は明らかに任務が違うので、自衛隊武器使用法や使用規定など明確に武力の行使と区別した武器の使用の基準をきちんと作ることが今一番大事なことではないかと佐々さんはおっしゃっているわけで、武力の行使というのは憲法上否定はされておりますけれども、いわゆる憲法上認められるこの武器の使用というのは、これ自衛隊に即して考えるべきだということも喫緊の課題だということを申し上げて、私の意見とさせていただきます。
○会長(上杉光弘君) 小泉親司君。
○小泉親司君 日本共産党の小泉親司でございます。
 私どもの基本的な平和と安全保障の議論のまとめについては吉岡委員が詳しく述べられましたので、私は三つの点について発言をさせていただきたいと思います。
 一つは、憲法九条に基づく非軍事力での国際貢献を大いに積極的に進めるべきだという点であります。
 調査会の議論でも、憲法九条と国際貢献が何か矛盾する、ないしは九条が国際貢献の妨げになるというような議論が展開されました。私は、そうではなくて、九条はやはり軍事力でない貢献、特に戦争という大変悲惨な状況を回避すること、このことが最も肝要なことで、これに基づく私は大いなる主張を私たちが展開すべきだというふうに思います。
 特にイラクの問題で私非常に懸念するのは、この間自衛隊の海外派兵がどんどん進められてまいりましたが、今度のイラクの事態は、本当に軍事が外交を席巻してしまうというような、私非常に危惧を持っております。その意味でも、やはり憲法九条に基づいて戦争を回避すること、こうしたことは、今度のイラク戦争をめぐりましてもフランスやドイツが国連でその主要な役割を果たしたことからも、日本がこういう点で私はもっと積極的な役割を果たすべきだと思います。
 同時に、非軍事的手段で国際貢献を進めること、特にアフガニスタンやイラクの事態を見ても、軍事力による国際協力では逆の結果を生んでしまうということがだんだん明らかになりつつあるというふうに思います。私は、医療や教育や人道的な分野で、いわゆる非、人道的な分野で貢献を大いに進めること。先ほど同僚委員からも強靱な平和主義とか積極的な平和主義ということが主張されましたが、そうであるならば、私は、九条を擁護して大いなるこれに基づく貢献を行うべきだという点を指摘しておきたいと思います。
 二つ目は、憲法前文で自衛隊の海外派兵は正当化できないという点を発言をしたいというふうに思います。
 憲法調査会で、この間も平和、安全保障の中でも前文論が大変出てきた。私は、長くこの安保問題、憲法問題に自分なりに携わってまいりましたが、憲法前文を使って自衛隊派兵を正当化するというのは、九〇年代に入りまして、例えば読売新聞や当時の小沢一郎氏などが、こうした前文を引き合いに出しての自衛隊海外派兵が可能だという主張を展開してきました。今度のイラクの派兵の問題では、小泉総理がそれを同じように憲法前文で正当化してきた。
 しかし、私は、憲法前文は、これまで改憲を主張する人々にとりましては大変憎しみの対象で、例えばこの前文というのは、文章が、あんな文章は支離滅裂だとか、マッカーサーが書いた英文を翻訳したもので全く理解できないとか、その平和を愛する諸国民の正義と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意したなどというのは、他国に日本の安全を依拠するもので独立の信念がないとか、総理の引用した部分では、政治道徳の法則は、普遍的なものというような前文の部分は、普遍性を明記するのはけしからぬなどと言ってまいりましたが、私、こうした憎しみの対象にしてきた前文を拡大解釈して自衛隊海外派兵を正当化するというのは私は大変矛盾したもので、前文での自衛隊海外派兵の正当化がいかにやはりごまかしの議論であるということをこの点で証明しているんじゃないかというふうに思います。
 最後に、私は、なぜ今集団的自衛権行使なのかと、ないしは集団的自衛権なのかと。
 私も長年アメリカでいろんな人々に取材してきましたけれども、アメリカ国民は果たして日本への集団的自衛権行使など憲法改悪を求めているのかと。私が取材した人々は、政府レベルの方、特にアーミテージさんなどはこぞって集団的自衛権の規定、行使を求めていますが、国民的に、私、そういう主張はないと言っても差し支えないというふうに思います。
 例えば、昔、B29で日本を爆撃したオーバービー博士は、九条の会を作り、憲法九条にノーベル賞を与えようと言っている。こういうふうな主張ばかりではなくて、最近、昨年逝去されました思想家のエドワード・W・サイード氏は、日本の平和憲法は世界の目標だと、改定されるなら悲劇だという主張をしていることからも明らかだと思います。私もアメリカの憲法調査に行きまして、日本に大変詳しいジェリー・ブラウンというオークランドの市長さんが、やっぱり憲法九条は守るべきだというような主張を展開してきたことを大変強く思います。
 その意味でも、憲法九条の解釈改憲、明文改憲も含めて、いかなる意味での改悪も許さないということを申し上げて、発言を終わりたいと思います。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 福島啓史郎君。
○福島啓史郎君 自由民主党の福島啓史郎であります。
 これまでの憲法改正についての論議も踏まえまして、私、次の三点につきまして述べたいと思います。
 第一点目は、日本国の在り方についての憲法上の考え方ないし哲学が第一点。第二点目は、集団的自衛権の保有と行使について憲法上明確化しなければならない理由。三点目につきましては、関連する重要な問題としてシビリアンコントロールの問題、それから集団的自衛権ないし集団的安全保障の運用の問題、それから三番目には国際協力の問題。これらにつきまして所感を述べたいと思うわけでございます。
 まず、日本国の歴史を振り返ったときに、明治維新、これは欧米列強支配の当時の国際社会の中で、いかに我が国の独立と繁栄を確保していくかということから、富国強兵という政策が取られたわけでございます。すなわち、教育なり司法なりあるいは産業なり制度を創設する、と同時に、徴兵制あるいは軍備強化という、富国と強兵が同時スタートしたわけでございます。
 その当時におきますその調和点が、私は、明治二十二年の明治憲法の制定であったというふうに考えるわけでございます。この明治憲法の制定を受けまして、大正デモクラシーあるいは政党政治が発展したというふうに考えるわけでございます。
 しかしながら、その後、昭和恐慌の下、政党政治の腐敗もありまして、富国強兵のうち、強兵の比重が増してきた。その結末が、去る日中なり太平洋戦争の敗戦という結末であったわけでございます。
 こうした経験、多数の人の生命、財産を失うという悲しいかつ厳しい経験を十分尊重した憲法改正でなければならないと、まず考えるわけでございます。
 と同時に、国際情勢の変化を検証しながら、すなわち、北朝鮮、中国、ロシア等、また国際テロ、そういう顕在的、潜在的な脅威を削減して、国家国民の繁栄を図るとともに、個別的及び集団的自衛権の行使を明確化する、と同時に、合理的な我が国の安全保障体制を確立するということ。言わば、明治の、明治維新の富国強兵の時代から、私は、富民保力、民を富まし力を保つ、富民保力の時代にあるというふうに考えるわけでございます。
 具体的に、憲法九条に関連した議論でございますが、一つは、まず私は今の第二章、私は、章の順番につきましては、今の天皇を第一章にすることから国民主権というものを第一章にすべきだと考えますが、それはさておきまして、この第二章の章名を今の戦争放棄から国際紛争を解決する手段としての戦争放棄という章に改め直しまして、現行の九条一項は保持、維持をするという考えでございます。
 それから二番目は、その次に第三章として安全保障という章を設けまして、その中身は三つあります。一つは、個別的及び集団的自衛権の保有と行使権能を持つということを明確化するということ。それから二番目には、そのために、その目的のために自衛隊を保有する、まあ自衛軍、自衛隊を保有するということ。三番目には、国際協力のためにこの自衛隊を派遣することができるということでございます。三番目は、国際協力の章を設けて、そちらに規定する方法もあるかと思います。
 私は、この二章、三章を一緒の章で書くという考え方もあるというふうに思っておりましたけれども、性格的に考えれば分けた方がいいというふうに最近考え方を変えておるところでございます。
 それで、次に二番目の議論でございます。
 なぜゆえに、憲法上、個別的及び集団的自衛権の保有と行使を明確化しなければならないかということでございます。
 まず、これは一つは、物と人との協力から人と人との協力に変えなければならないということでございます。そうしなければ日本の真の安全保障は確保されないということでございます。他人であるだれが、その他人のために血を流さない国のために血を流すでしょうか。極めて素朴な問題でございます。
 それから二番目には、国際法上、集団的自衛権を保有しながら、しかし憲法解釈上その行使が許されないという、世界でもまれな、例のない不正常な国の形を変えなければならないと、正常の形に持っていかなければならないということでございます。
 三番目には、そのことが私はアジア地域を含めた地域安全保障取決めの推進に資するというふうに考えるからでございます。
 その次に、こうした政府の憲法解釈の変更、集団的自衛権につきましての憲法解釈の変更の方法でございます。
 これにつきまして私は五つの考え方があると思います。
 一つは、政府の解釈を変える。具体的には、官房長官談話あるいは閣議決定等により政府の解釈を変えるということ。二番目に、国会決議でございます。それから三番目には、議員立法で明らかにするということ。四番目には、安全保障基本法といったような法律の中で明らかにするということ。それで五番目には、憲法改正によって集団的自衛権を保有すること、保有、行使することの権能を憲法改正によって明らかにするということでございます。
 これらにつきましては、昭和五十八年二月二十二日の内閣法制局長官の答弁、また、それを受けての外務大臣、防衛庁長官の答弁もあります。要するに、憲法につきましての解釈につきまして、憲法九条の解釈につきましていろいろな議論があるときに、それをいわゆる立法的に解決するというのが考え方としてあると。集団的自衛権の行使を憲法上認めたいという考え方があり、それを明確化したいということであれば、憲法改正という手段を当然取らざるを得ないということを法制局長官、五十八年二月二十二日の衆議院予算委員会の答弁でございます。これを受けまして、安倍、当時の外務大臣、谷川防衛庁長官もその答弁、そのとおりだということを述べております。
 先日、本年二月二十七日、参議院本会議におきまして、山本香苗議員の質問に対しまして、小泉内閣総理大臣が同様の趣旨の答弁をしております。要するに、「私としては、」、つまり内閣総理大臣である私としては、「憲法について見解が対立する問題があれば、便宜的な解釈の変更によるものではなく、正面から憲法改正を議論することにより解決を図ろうとするのが筋だろうと私は考えております。」という答弁をしております。
 私も、先ほど述べました五つの方法をいろいろ考えますと、従来からの解釈論、国会での議論の経緯等を踏まえますと、憲法改正により対応するのが望ましいというふうに私も考えるところでございます。
 次に、派生する問題のまず第一のシビリアンコントロールでございます。
 先ほど藤野委員からありました。ありましたけれども、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、アメリカにおきましても、憲法上明記しております。
 私は、憲法上、一つは、「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。」といったような自衛隊法の七条のような規定、あるいは、防衛庁長官は、内閣総理大臣の指揮命令を受け、自衛隊の隊務を総括するといったような自衛隊法八条のような規定を憲法上設け、かつまた、自衛隊の使用なり派遣の個々の場合につきまして国会の関与を憲法上規定すべきだというふうに思います。これは個別法の憲法上の根拠を与えるものだというふうに考えるわけでございます。
 そういうことから、この憲法改正を受けました自衛隊法なり安全保障会議設置法等の見直しが必要であろうというふうに考えるわけでございます。
 次に、集団的自衛権ないし集団的安全保障の運用でございます。
 私は、日本の歴史を振り返れば、一つは日英同盟、二つ目は日米安保条約でございます。
 先に、日米安保条約について述べます。
 日米安保条約におきましては、旧安保条約におきましては、第一条におきまして、極東における国際の平和と安全の維持に寄与して、かつ日本国に対します外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために米国の軍隊が使用されるというふうに規定されているところでございます。要は、この集団的安全保障ないし集団的自衛権の運用について問題なのは、どういう性格、発動対象の性格論と地理的範囲が問題になるわけでございます。
 改正後の現安保条約におきまして、その点を、「日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威」というものに対する対処ということで四条を定め、五条でもって、具体的な武力行使は「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」と言っているわけでございます。そうした発動対象の性格と地理的範囲が日米安保条約上示されているわけでございます。
 また、かつて日英同盟につきましては二回の改正を含めまして三回持っているわけでございます。それぞれの時代背景、つまり極東、それから韓国、清国、それからインドと、それぞれの歴史的な状況の変化に応じましてその対象が変化しております。また、発動の要件も、当初は中立義務、それから更に第三国が交戦に加わった場合の参戦規定、参戦といいますか支援規定だったわけでございますが、その後は即時の参戦協力規定になっております。そういったこと、また日露戦争に関しての規定もあります。そうした時代時代を踏まえまして、発動対象の性格及び地理的範囲を限定しているわけでございます。
 こうしたことから、私は、当面私は日米安保条約だと思いますけれども、その周辺事態の扱いも含めまして、どういう場合に、またどういう範囲でこの集団的自衛権を行使し得るようにするかということにつきまして、現行と同じ扱いにするのか、あるいは周辺事態の扱いも含めまして検討する必要があるというふうに考えるわけでございます。
 最後に国際協力の問題でございますが、これは国連軍への参加も含めまして、国際協力のための自衛隊の派遣と、その派遣自衛隊の武力行使ないし武器使用は集団的自衛権の論議とは別なものであるというふうに私は考えるわけでございます。国連ないしこれに準ずる国際的なスキームの下での派遣であるわけでございます。したがって、これは集団的自衛権の論議とは別なものであると、国際協力基本法、国際協力基本法の制定などによってその点を明確にし、武器使用ないし武力行使の範囲を明確に、目的に照らして合理的な範囲で認める方向で明確化すべきだというふうに考えるところでございます。
 以上で終わります。
○会長(上杉光弘君) 平野貞夫君。
○平野貞夫君 元自由党で、現民主党所属の平野貞夫でございます。
 なぜこんなことを言うかといいますと、私は、過去三年間、この参議院の憲法調査会で自由党として毎回、ほぼ毎回発言をしまして、誤解を受けたりひんしゅくを受けたりしてきたわけでございますが、自由党で実は平成十二年暮れに「新しい憲法を創る基本方針」というのを決めておりまして、それに基づく発言を繰り返してきたわけでございます。
 この九条問題につきましては、先ほど江田議員が非常に見事に整理されて、ほぼパーフェクトに自由党のそのときの考え方を導入されて紹介していただいて、非常に私、光栄に思っております。ただ私は、今度の七月の任期でもう議員を辞めまして、恐らく安全保障問題について国会議員として発言するのはこれが最後ということで、言い残したことというより、先生方に是非お願いという意味でのことで申し上げたいと思います。
 一つは、九条の制定された事情についてでございますが、もちろん連合軍側の強い要請で作られたということは、これ事実だと思います。しかし、もう一つの重要なポイントを私は忘れてはいけないと思っております。先ほど田先生からも御指摘がありましたんですが、私やっぱり九条が作られたのは、唯一の原爆被爆国として、全日本民族の悲願として平和の確立と戦争放棄というのが九条に明記されたということは田先生の言うとおりだと思います。私は国民学校四年生でございまして、もう物心付いていましたので、その雰囲気は十分に承知しているつもりでございます。したがって、今後九条の議論をするときに、この原点を忘れてはいけないと思っております。
 私、非常にこれから申し上げる点が心配なのは、昨年秋、総選挙中に毎日新聞が世論調査をしました、衆議院に立候補した先生方を対象に。そして、当選された方の集計の中で、何と八十三人、一七%が、我が国も国際情勢によっては核武装を検討すべきだという回答をされております。ほとんどは自民党議員のようでございますが、残念ながら我が民主党議員も中にいらっしゃる。これも非常に私は深刻に感じております。したがって、これから憲法論議をやる際に、核武装はしないという大前提で九条をどう考えるかということが私は一つお考えいただきたいことの大事な点でございます。
 実は、この九条改正論の中の大きな流れに二つございまして、一つは、やっぱり普通の国並みの軍という形に自衛隊を持っていくべきだという論だと思いますが、これは私は核武装をするという流れになる議論だと思います。
 私どもは、もう一つの流れとして、自衛権の行使を極めて限定的なものとして、やはり国連の機能を強化して国連の権限の下で国連に協力する形で、言わば国連待機軍という形で世界の平和を確立するのは、これは私は九条を作ったときの精神そのもの、これは日本を世界に置き換えてやらなきゃいかぬ一つの問題だと思っています。
 その際、これが理想で夢みたいな話だといって、率直に言いまして党内にもありますが、実はこれが一番私は現実的、しかも人類が一番希求し、活動しなきゃ、作らなければならないものだと思っております。国連待機軍そのものを憲法に規定するわけではございませんが、そういう活動が日本国の、日本国民の判断で参加できるという、そういう憲法の行間といいますか文字というのは、今の憲法九条の精神を尊重し、それを発展、理念を発展させるものだと、そこまでやはり二十一世紀になりましたら私どもは大きく一国を越えた世界の平和のための貢献はすべきだと、こういう意見でございます。どうかよろしく、先生方、お願いします。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 山口那津男君。
○山口那津男君 公明党の山口那津男です。
 前回、集団的自衛権をめぐる、行使をさせないという政府の解釈、これをにわかに変える必要はないという理由を三つ述べました。法的安定性があるということ、国益を失うということが明白ではないということ、また変更すべき情勢変化はないということを主張したわけであります。
 これに関連するものとして何点か述べたいと思います。
 この九条というのは、元々政府の行為を制限するという趣旨の規範であります。せんじ詰めれば、その核心は他国の領域での武力行使を禁じることにあると思います。その理由は、人的、物的損失が非人道的であるということはもちろんでありますけれども、我が国においても国益を著しく失うという点があるからでありまして、これは国連憲章が戦争を違法化していることと軌を一にするものと思います。そして、その例外として論じられる点を何点か指摘いたします。
 この原則の例外として、他国の領域で武力行使が認められることも観念的にあり得ると、そういう主張もあるわけでありますが、これを安易に運用可能な制度とすることは厳に慎むべきであると考えます。自己保存のための武器使用は許されているわけでありますけれども、これが政府の行為として武力の行使になっていくということは、国際社会の承認がない限り独り歩きしないように制度的な保障を確保していくことが重要だと思います。
 また、武力行使との一体的な行為は許されないという政府の解釈があります。これは確かにそれ自体武力行使ではないとしても、それが武力行使と一体的になされる限り武力行使と同じ評価を受けるということは当然のことだろうと思います。しかし、これもつぶさにその行為の許される、許されないの限界を画することはなかなか技術的にも解釈的にも難しいわけでありまして、そこで政府はそれ以後、この解釈を主張した以後、その限界と思われる部分よりももう一歩外側に一つのゾーンを設けて、そしてそれの外枠で行動をするという立法をしてきているわけでありまして、これは賢明な立法の在り方だと思っております。
 それからもう一点、公空、公海での武力行使というものは現行の解釈上も必ずしも禁止はされておりません。しかし、これも無限定に許されるというものではありません。集団的自衛権の行使を認めないということによって一定の制限が課されているわけでありまして、この憲法上の解釈を変えるということはやはりその限界が憲法上なくなるということを意味するわけでありまして、その点も注意深く考える必要があると思うわけであります。
 憲法は、制限規範であるということから一定の歯止め機能を持っているわけであります。これを憲法上フリーにして法律にゆだねるという在り方を取りますと、多数決のレベルを低くして、より可変的なものにするということになるわけであります。しかし、私は、国会の中での多数決で物事を決めるのではなくて、国民、民意の多数というものも重ねる、そういう意思決定の在り方が望ましいと思っております。
 最後に、内閣法制局の役割でありますが、事実上我が国の有権解釈を実質的に行うただ一つの機関であると、こう思っております。そして、長年安定した解釈を取ってきたということは、行政府そのものを拘束しているわけであります。この憲法解釈を司法権に求めようとしても、今の司法制度の下では事件性の限界、あるいはこれがよしんば訴訟になり得たとしても、統治行為の限界によって司法権の憲法解釈は示されにくいものと思われます。
 また、立法府の役割を考えた場合に、単なる決議をする、法律を作るというレベルではこれは多数決のレベルを落とすものでありまして、現に憲法はこの改正手続という立法府の関与を既にビルトインしているわけであります。
 したがいまして、私は、この憲法の手続の在り方、また規範の重要性を考えて、この集団的自衛権の従来の政府解釈をにわかに変更するべきではないということを補足させていただきたいと思います。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 井上哲士君。
○井上哲士君 日本共産党の井上哲士です。
 いわゆる冷戦後の国際情勢から、九条を変えるべきだという議論が今日もありました。私は逆だと思います。冷戦後、アメリカの軍事力中心の一国支配主義というものがむき出しになり、そのことが国連憲章との対立を浮き彫りにしているというのが現状だと思います。今日の改憲論はこのアメリカの戦略と密接に結び付き、九条を変えて集団的自衛権の行使を可能にすることにその中心的なねらいがあります。そのことは、二〇〇〇年十月のいわゆるアーミテージ報告で、日本が集団的自衛権を禁じていることが日米両国間の同盟協力を制約していると述べられ、これを受けて、翌年の四月に小泉首相が今後集団的自衛権を行使できるというなら憲法改正をした方が望ましいと述べ、その後、改憲論議が拍車を掛けられてきた、この事実を見ても明らかだと思います。
 アーミテージ・アメリカの国務副長官は、最近は一層そのねらいをあけすけに述べております。今年の三月に発行されたある月刊雑誌では、アーミテージ氏は、憲法九条が日米同盟の邪魔者であるとした上で、連合軍が共同作戦を取る段階で引っ掛からざるを得ないということです、それが偽らざる所懐です、ここまで発言をしておりまして、正に日米が軍として共同作戦を取るために九条を変えることが必要だということを述べております。
 今日、先制攻撃戦略を打ち出して、国連事務総長からも国連憲章への挑戦だと批判を受けているアメリカと海外での軍事行動を可能にすることがどんな事態をもたらすかは、イラクの事態が明確に示しております。イラク戦争から一年がたちました。その大義なき戦争と占領の破綻は、ここ数日のイラクでの泥沼とも言える事態でも明らかでありますし、世界でも大きな批判の声が広がっております。
 スペインでは、次期首相のサパテロ氏が状況が変化しなければ六月末までに軍隊を撤退させると明言をいたしました。ホンジュラスも派兵を継続する条件がなくなったと撤兵を表明し、既にニカラグアも撤退をしております。さらに、ポーランドの大統領が我々は作り話にだまされたと語ったと報道をされました。そして、元イタリアの首相であり、現在欧州委員会の委員長のプローディ氏も先日、新聞に書簡を出して、イタリア軍のイラク撤兵を要求をし、国際紛争の解決手段として戦争を放棄するとしたイタリア憲法について、五十年以上たってもその価値を全く失っておらず、むしろ時がたつにつれてますます強い現代性を帯びてきたと述べ、憲法遵守を呼び掛けております。
 ポーランドとイタリアという、多くの兵を派遣をしている国の有力な政治家がこう述べていることは大変大きなことでありますが、それに比較をして、テロに屈するなと述べた小泉総理は、イラク戦争に向かう過程でもいち早く支持をいたしまして、その姿勢が際立っております。むしろ、日本はこうした無法への参加を可能にする道を歩むべきではなく、憲法九条を持つ国にふさわしい、国際的な、外交的な貢献をする道こそ歩むべきだと思います。
 最後に、集団的自衛権の行使は可能にして、その中身についてはその時々の政府の政策判断にすべきだという議論もあります。しかし、イラクへの自衛隊派兵が、当時国民の多くの反対の声を無視して強行されたことを見ても、時の政権のあれこれに任されない、やはり国民の意思として九条を堅持をし、それを生かしていく。このことが今必要だと思います。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 岩井國臣君。
○岩井國臣君 私の個人的な色合いが強くなっているかと思いますけれども、世界平和と国際協力ということにつきまして、私の意見を申し上げたいと思います。
 今後、イラクはどうなるのか。北朝鮮問題も深刻ですけれども、当面、イラクの問題は世界最大の問題として我が国を大きく揺さぶっております。問題は極めて深刻であります。しかし、私はかねがね、もっと深刻な問題として、現在の科学文明そのものの問題があると考えてきました。このままいけば人類は終わりを迎えるのではないか。世界に誇る哲学者、フランシス・フクヤマという人がおりますけれども、「人間の終わり」という誠にショッキングな本を書いておられます。それが気になって仕方がないわけであります。
 私はかつて、哲学者はサボっているのではないかというようなことを何かに書いたことがございますけれども、しかし、それは私の大きな勘違いでございまして、近年、中村雄二郎さんだとかあるいは中沢新一さんだとか、今、日本を代表するすばらしい哲学者が活躍しておられます。そして、そういう哲学者の働きによりまして平和な国づくりの道筋が見えてきたように感じております。
 私は、国連も国際世論もおろそかにしていいと決して思いませんけれども、国連とか国際世論というものに頼り切るわけにはいかないのではないか、そんな感じもするわけであります。
 アメリカは国連や国際世論とは違う形でイラク戦争に突入していきました。今、私はアメリカが善いとか悪いとか言っているのではございません。善悪はともかくといたしまして、今世界の歴史を動かしておるのは何といってもやはりアメリカであり、国連でも国際世論でもないということであります。
 将来、世界規模で平和運動が展開されて、国際世論がどのように高まっていくのかと大いに関心があるわけでございますけれども、アメリカの力の政策というのがちょっとやそっとでそう変わるのかなという感じも実はするわけであります。国連活動も必要だし、平和運動も必要であります。それはそれで当然やるべきでありますが、しかし、私はやはりアメリカとの関係というものを重視していく必要があるように思います。日本の中にも親米派を増やしていかなければなりませんし、アメリカの中にも親日派を増やしていかなければならないのではないか、そのように考えております。
 アメリカは自由の国家であるし、また多民族国家であります。アメリカの中には様々な人がいて、ハト派というか穏健派も少なくないわけであります。世界各国にいる親米派とのネットワークによりましてアメリカを変えていこうという動きも確かにあるわけであります。
 そういう人たちはどのようなアメリカを目指しているのか、そこが問題ですけれども、浅海保という人のアメリカ多数なき未来という本がございます。それによりますと、目標は価値観の多様化といいますか、ダイバーシティーということだそうであります。いろんな価値観を許容するいわゆるダイバーシティー国家を理想とする人たちが少なくないということのようであります。
 アメリカという国の持つ二面性、すなわち強い者が生きるのは正義であるというアメリカの傲慢さ、そしてダイバーシティーの進展こそが将来の繁栄を約束するものであると見るアメリカの良識、この二面性について私たちはそのまま正しく認識しておかないといかぬのではないかと思います。
 アメリカは今後も世界をリードしていく力を持っております。軍事的にも、経済的にもです。しかし、文化的な面ではどうでしょうか。違いを認める文化という視点に立ちますと、私は、世界は日本を必要としているのではないかというふうに思います。日本は、軍事力はありません。しかし、経済力ではアメリカに次いで世界をリードする力を持っております。さらに、経済力のほかにも実は日本には違いを認める文化というものがあるのではないかと思うわけであります。もし、その文化面で日本が世界に大きく貢献できれば、世界は変わります。ここに日米同盟の新たな意義があるのではないかと思うわけであります。日米同盟は日米だけのためではない、私はそう思います。世界のために日米同盟はより強化されなければならない。世界平和にとって日米同盟がその基軸になるように思います。
 我が国のアイデンティティーは違いを認める文化にあります。これをどのようにして世界の文明にまで高めていくのかということがこれからの課題ではないかと思います。今後、我が国はともかく世界の人々に来てもらわないと始まらない。できるだけ多くの人々に来てもらって日本の文化に触れてもらわなければならない、日本の人々と触れてもらわなければならない、草の根の国際交流を広めていかなければならない、そう思います。日本人が海外に出掛けていくことも必要ですけれども、世界の人々に日本に来てもらうことがより大事ではないかというふうに思っております。
 二十一世紀は平和の時代であり、コミュニケーションの時代であり、旅の時代だと思います。そして、何よりも感性の時代だと思います。その新しい時代の動きに対応して我々のライフスタイルも変革せざるを得ないのではないか。そこで、新しい国土政策というものも求められますし、新しい産業政策というものも求められるのではないかと思います。
 私は、ビジター産業というようなことを言っておるわけでありますけれども、国際交流というのは特定の人だけでやるべきものではありません。国際交流は国民参加の下で進めなければならない、そのことをよくよく考えなければならない。世界平和のための国際貢献、これこそ我が国の最大の課題ですけれども、その基本は国際交流を深める。そして、国民参加の国際交流で一番大事なことはやっぱり世界の人々に来てもらうということだと思います。そこで、私はビジター産業というようなことを言っておるわけであります。
 それで、ODAの問題でございますけれども、国民の間に今大変な不信感が満ちておりまして、ODA、余り評判が良くない面もあるわけですけれども、やはり私は積極的にODAの予算を増やしていく必要があるのではないか。顔の見える支援ということでいいますと、一番いいのはやはり草の根無償資金だと思います。草の根無償資金は現地のニーズに強いもの、対応が難しい小規模な案件に即応できるという特徴を持っているんですね。言わば足の速い援助として非常に有効なわけであります。
 しかし、現在の草の根無償というのは海外のNGOが主たる対象でございまして、日本のNGOはほとんど対象になっていないんですね。日本のNGO対象には日本NGO支援無償資金協力というのがありますけれども、予算規模も非常に見劣りがするのではないか、そんな気がしております。したがって、日本のNGO育成のために、外務省はもとより政府を挙げて総合戦略を持って取り組む必要があるのではないか。
 技術協力につきましても総合戦略がないように思えてなりません。昨年八月に閣議決定されたODA大綱では人材の活用が大事だとされていますので、今後いろいろな施策が始まっていくと思いますけれども、やはり必要なのは総合戦略だと思います。日本の場合、アメリカなどに比較して人材不足が甚だしい、こう言われておるわけでありまして、今後、日本としては、関係各省の協力を得て、総合戦略の下、人材育成と開発研究に特段の力を入れるべきだと思います。
 以上、私の思いの一端を申し述べましたけれども、世界平和のための国際貢献、これこそ我が国の最大の課題であり、その基本は日米同盟を基軸といたしまして国際交流を広めていく、こういうことだと思います。
 以上で私の意見を終わります。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 川橋幸子君。
○川橋幸子君 民主党・新緑風会の川橋幸子と申します。
 私は、個人的な立場を申し上げますと、なぜ今憲法改正をしなければならないのかということで大変懐疑的な意見の持ち主でございます。
 今日は時間が短いのですけれども、できれば三点からお話しさせていただきたいと思います。
 一点目は、冷戦後の世界秩序という面から、二点目は、バブル崩壊後のこの国の形という論議の点から、そして三点目は、平和の創造のための国際協力という観点から意見を述べたいと思います。
 世界秩序、冷戦後の世界秩序といいましたときに、私は、国会議員になりたてのころに、クリントン前大統領が来られて国会で演説されたことを非常に強く記憶しております。あのとき、どちらかといえば普遍性を強調されたと思います。平和、自由、平等、人権といった普遍的な価値を共有しようということを強調されたように思いますけれども、このところはむしろ、この世界秩序は力の支配か法の支配か、これが拮抗していると私は見ております。力の支配というものは、力の持てる者は抑制する努力をしなければならないと思いますが、法の支配というものは、改めて考えますと、何よりも法を維持する努力、たゆまない努力が必要なのではないかと、このように考えます。
 今日、昼のニュースで、靖国参拝に対する、小泉総理の靖国参拝に対する一審判決ですか、出ていたようでございますが、違憲という、そういう結論でした。
 これがどのようになっていくのかはさておきまして、小泉総理は絶えず、常識、常識というふうに主張なさった。ああ、やはり私はそこに、法の支配というのは維持する努力が必要なんだなということをその小泉総理の発言から私は非常に強く感じたのでございます。
 そういう意味では、私は、内閣法制局の役割は評価する立場でございます。すっきりしないという様々な批判のあることは確かでございますけれども、私は、日本国憲法の有権解釈を、現実の厳しい中で、自衛権はあるけれども、集団的自衛権は行使しないと、こういう論理を立ててきたこと、これはやっぱり私は、日本国民の努力が法制局見解に表れているというふうに考える人間でございます。
 二点目は、「この国のかたち」という言葉でございます。司馬遼太郎さんの言葉をかりまして、バブル崩壊後の日本の再生のためにこの国の形を考えようという議論が盛んになされました。そして、構造改革とこの憲法論議があるわけでございます。
 かつて、憲法論議といいますと、いつも、改憲と護憲が政局を絡めて議論するという、そういう生臭さがございましたけれども、最近では、まあ私の個人的な印象では、政界再編と絡めた憲法論議という、そういう意味合いを持っておりまして、本当のところ、一人一人の日本人、日本の国民が、自分はどんな生き方をしたく、その集積であるこの日本という国の在り方がどんなアイデンティティーを持つべきかと、こういう価値観を個人参加の下に再構築する、そういう作業はないがしろにされていたのではないかというふうに思います。
 九五年の不戦の決議というものも、私、議員になってから割合早い時期でしたので、強く覚えているわけでございます。
 個人的では、カンボジアの地雷除去の作業、カンボジアのNGOに対して日本政府及び日本のNGOが協力しながらやっている地雷除去作業でございましたが、その現場に立ち会わせましたときに、大変安い、廉価でできる地雷でございますけれども、その地雷の生産国に安保理の五大国の名前があり、あるいは韓国も北朝鮮の製造元の印もあるというようなものを見たときに、地雷除去作業の人たちがいかに日本をたたえてくれたか、日本を頼りにしてくれたかということを個人的には非常に体験論として強く感じております。
 日本の国の在り方、アイデンティティーというものを考えたときには、やはりこの平和主義というのは日本の国の基本なのではないかと思います。核を持たないということ、あるいは武器輸出をしないということがいかに日本の在り方、国際社会の中における日本の在り方を強くアピールするものであったか、現地の住民の方々からいかに信頼されるものであったかということを私はお伝えさせていただきたいのであります。
 三点目は、平和の創造。これは武力で創造することもあるのかもしれませんが、私は、長期に見ました国際協力の重要性を主張したいと思います。
 緒方貞子さんが様々な御本で書いておられますけれども、テロ、紛争がどのようにして生じるかというと、著しい極貧の中で不公平、不公正、不正義というものがあったときにそれがテロの温床になる、そこからテロが生まれるというよりも、その人たちを人質にしてテロ勢力が力を伸ばす、このような言葉を本の中で書いておられます。
 今、世界人口六十億中十二億の人口が一日一ドル以下の生活、これを絶対貧困と言って、ミレニアム開発目標の中では二〇一五年までに半減したいという目標を国連で掲げて、日本もこれを積極的に支持し、むしろミレニアム開発目標を作る方に努力した国であったというふうに聞いております。
 私も、終戦のとき、小学校一年生でございましたから、給食の始まった世代、ララ物資だとか脱脂粉乳とかということを知っている世代でございますが、日本がここまで来れたことは、あの当時、世銀を始め、非常に国際社会から大きな支援があったから来られたわけでございます。
 物の本によりますと、新幹線に対する借金を返したのもつい最近の、返し終えたのも最近のことだということでございます。私たち日本の場合は特に相互依存関係が強い。海外に食料も依存しなければならない、エネルギー源も依存しなければならないという、そういう国であった場合には、やはり私は、人間の安全保障とか、先ほど申し上げましたミレニアム開発目標に対する日本の貢献というものをむしろ推進すべきだと思います。
 ほかの委員会で参考人の方の御意見を伺ったときに、こういう気持ちというのがどうして今の世代に伝わらないのだろうかというふうにお尋ねしましたら、それはやっぱり学校教育の中で開発教育というものをやらなければいけないのではないかと。それは北欧が非常に進んでいるそうでございますけれども、先進国諸国の中では学校教育の中に開発教育の意義というものがしっかり位置付けられているというお話がありました。
 そういう点、教育も含めまして、日本の平和の創造に対する国際協力ということをもっともっと私はやらなければいけない国なのではないかということを申し述べさせていただきます。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 田英夫君。
○田英夫君 残った時間をいただきまして意見を述べさせていただきたいと思います。
 先ほどから憲法と関連をして国際協力の問題が皆さんから御意見が出ておりますが、日本の場合は、私は、やはり自衛隊を派遣するというような軍事的な協力はやるべきでないと思います。
 そして、その大前提として日本には憲法九条があるということをもっと国際的に広げるといいますか、皆さんに、世界の皆さんに知ってもらうということが必要ではないかと。
 今、日本は憲法九条を持っているにもかかわらず、ささやかに自分たちの憲法として持っているだけですけれども、私は、日本政府が、できれば両院の決議に基づいて不戦国家であるということを世界に宣言をする。これも、できれば国連の場であえて総理大臣が演説をされて、その中で宣言をされれば最も明快になると思っています。
 つまり、日本は戦争をしない憲法を持っている国なんだということを世界に知らせる。そうなれば、おのずから軍事的な国際協力ということではなくて、ほかの方法で協力をすることができると。自民党の岩井さんがさっき言われましたODAの問題などは本当に私も同感であります。
 今、イラクに自衛隊が行っておりますけれども、実は、行っている陸上自衛隊の責任者の皆さんは困惑しているのではないかと思います。イラクの人たちは、日本が来るということで経済的な協力をしてくれるに違いないと、こう思い込んでいたところが、自衛隊の任務からして、また能力からして、イラクの人が期待しているような問題については、例えば水を作るということ、水を供給するということはやり始めているようですが、浄水場を造るというようなことになると、これはとても自衛隊の手には負えないと。
 しかし、日本には十分それをやる能力もあるし、お金を出すこともできる。つまり、そこでODAを、無償援助を、もちろん現状では非常に難しいかもしれませんが、やることによってその期待にこたえることができると。こういうことをもっと積極的に考えるべきではないか。
 あるいはODAについても、先ほども岩井さんが言われましたが、政府全体としての戦略がないんですね。外務省に政府全体の各省庁にまたがるODAの実態を出してくれと言っても外務省では出せない。各省庁が縦割りでやっているわけですね。こういうことでは正に戦略にならないと。もっと大きく日本全体としてODAを活用する。今、財政の問題もありますけれども、ODAが削減されているなどということは全く逆行だと思います。
 さらに、非常に今ささやかなやり方ですが、青年海外協力隊というのが本当に地道な活動をしています。私はできる限り年に二回、出発する人たちを見送ることにしておりますけれども、本当に二十歳そこそこの男女の若者がそれぞれの任務を帯びて、しかも多くの場合、単身で行っております。これをもっともっと拡充して、人数も増やす、項目も増やすという、そういう努力を政府全体としてすべきではないかと思います。
 最後に、そういう国際協力をやるということになる一方で、自衛隊というものは明らかにやはり憲法九条二項の戦力と言わざるを得ない現状をどう変えていくか。自衛隊に憲法を合わせるんじゃなくて、憲法が先にあったわけですから、憲法に自衛隊を合わせる。それは一体どういう現実になるかということをみんなで議論すべきじゃないかと思います。
 一言で結論を言えば、それは二十四万の失業者を今出すことができないことは私どももよく、当然理解をしておりますが、そうかといって、憲法九条二項と整合性のあるものにするにはどうしたらいいか。しかも、日本の国際的な役割ということを考えたときに、やはり一つは非武装の国際協力隊、もう一つは国内国外を含めて災害救助隊、これももちろん非武装ですが、そうしたものに現在の自衛隊の一部を組み替えていくということも考えの一つになるんじゃないかということを申し上げます。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 本日の自由討議はこの程度といたします。
 委員各位には、貴重な御意見をいただきまして、誠にありがとうございました。
    ─────────────
○会長(上杉光弘君) この際、御報告申し上げます。
 幹事会における協議により、次回からは「総論」をテーマとして調査を進めていくことを決定いたしました。
 今後とも、委員各位の御協力をよろしくお願い申し上げます。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後三時二十三分散会

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