第159回国会 参議院憲法調査会 第7号


平成十六年五月十二日(水曜日)
   午後一時二分開会
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   委員の異動
 四月二十一日
    辞任         補欠選任
     小川 勝也君     福山 哲郎君
     大脇 雅子君     江田 五月君
 五月十一日
    辞任         補欠選任
     江田 五月君     大脇 雅子君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                武見 敬三君
                保坂 三蔵君
                吉田 博美君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
            ツルネン マルテイ君
                若林 秀樹君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
    委 員
                阿南 一成君
                岩井 國臣君
                亀井 郁夫君
                桜井  新君
                椎名 一保君
                中曽根弘文君
                福島啓史郎君
                藤野 公孝君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松村 龍二君
                松山 政司君
                森田 次夫君
                山崎  力君
                大渕 絹子君
                大脇 雅子君
                川橋 幸子君
                小林  元君
                角田 義一君
                中島 章夫君
                平野 貞夫君
                福山 哲郎君
                松井 孝治君
                山口那津男君
                山本  保君
                井上 哲士君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                田  英夫君
                岩本 荘太君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       名古屋大学大学院
       法学研究科教授  浦部 法穂君
       駒澤大学法学部
       教授       竹花 光範君
       京都大学大学院
       法学研究科教授  土井 真一君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (総論
  ―改正、最高法規)
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○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「総論」のうち、「改正、最高法規」について、名古屋大学大学院法学研究科教授の浦部法穂参考人、駒澤大学法学部教授の竹花光範参考人及び京都大学大学院法学研究科教授の土井真一参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、浦部参考人、竹花参考人、土井参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず浦部参考人にお願いいたします。浦部参考人。
○参考人(浦部法穂君) 名古屋大学の浦部でございます。
 時間が限られておりますので、前置きは省略させていただきまして、早速意見陳述に入らせていただきます。
 今日、私がここでお話ししようと思っておりますのは、憲法改正の概念というものをどうとらえるかということであります。
 憲法の改正というのは、これは普通に言われていることでありますが、既存の憲法典の存在を前提として、その定める手続に従って個々の条項を廃止、変更又は追加するという行為であるということが言えます。ですから、あくまでも、これは既存の憲法典の存在というものを前提として行われるというものでありますから、改正の前後を通じて憲法の同一性、継続性が認められるという限りにおいてこの改正というものが成り立つということになります。したがいまして、その同一性、継続性を損なうような憲法の変更というものは、たとえその憲法の定める改正手続に従って行われたとしても、これはもはや改正ではなく、既存の憲法の廃棄と新憲法の制定というふうにみなさなければならないということになります。これは、まあ憲法学におきましては、ほぼ通説的な見解と言っていいかと思われます。
 なぜこのことが問題になるのかということでありますが、私は、これは二つの点で非常に重要な問題を持っているというように考えております。
 一つは、憲法の正当性という問題にかかわるということであります。その憲法の正当性ということが特に問題になりますのは、憲法について特に問題になるというのは、その憲法というものが国法秩序におけるその最終の授権規範、授権というのは権限を授けるという意味での授権でありますが、その国法秩序における最終の授権規範であるということ。したがって、その憲法に対してその制定権限や手続、あるいはその内容を授権する上位規範が存在しないということのために、その憲法の正当性ということが特に問題になるわけであります。
 これは、通常の法律の場合と比較してみますと分かりやすいと思いますけれども、通常の法律の場合には、その上位規範である憲法によってその制定権限を与えられた者ないしは機関がその憲法の定める手続に従って制定し、で内容的にもその憲法に反しないということによってその手続的及び実体的正当性というものを獲得できるということになります。すなわち、法律が法律として通用するのは、このような憲法の定める手続及び内容に従っているということに基づいているわけであります。
 これに対して、憲法の場合にはそういう上位規範が存在いたしませんから、手続的にも実体的にも、その実定法秩序内部でその正当性を根拠付けるということは極めて困難であるということになります。つまり、憲法というものが何に基づいて制定され、あるいはだれが制定権限を持ち、その内容は何に基づいて正当とされるのかということについては、少なくとも実定法上はそれを根拠付ける法というものは存在しないということになります。つまり、先ほど実定法秩序内部で正当化できないというふうに言いましたのは、要するに合法性という観念によっては憲法は正当化できないということであります。
 で、ただ、憲法改正につきましては、その憲法自身がその制定権限、手続というものを定めておりますので、実定法秩序内部で正当性を根拠付けることができるということになります。で、この場合、その憲法所定の改正手続に従って行われたということは、実はこれは手続的正当性の根拠付けでしかないということになります。
 憲法改正の中身の正当性、すなわち実体的正当性というものはどこから出てくるかといいますと、それは既存の憲法の実体的正当性、つまり内容の正当性を継承しているということ以外には実定法秩序内部でそれを根拠付けることはできないということになります。
 すなわち、憲法の定める改正手続に従って憲法の変更が行われた。その場合に、手続的にはそれで正当化できるわけですが、しかし内容的、実体的正当性というものは、その現行憲法の正当性を継承しているということでしかその正当化はできないということになります。逆に言えば、現行憲法の正当性を継承していない内容のものであるならば、それは実体的正当性を持たないということになります。
 こういう観点から、レジュメに書きましたように、憲法の同一性、継続性というものを損なうような憲法の変更、同一性、継続性が認められないという場合には、その変更後の憲法、すなわち新憲法というものは、変更前の憲法、旧憲法の正当性を継承していないわけでありまして、したがって、このような変更をも改正というふうに呼ぶということは、憲法所定の改正手続に従ってなされたということによってその変更に合法性という衣を着せて、実体的正当性を持たないことを覆い隠してしまうという作用を営むことになります。
 そういう意味で、その改正であるのか、現憲法の廃棄と新憲法の制定であるのかということは、はっきりと区別しておく必要があるというように考えます。現在議論されております憲法改正論議というものは、実はこの区別というものがほとんど意識されずに行われているように私には受け止められます。そういう意味で非常に問題であろうというように考えております。
 現行憲法を廃棄するという場合には、当然それなりの必要性が認められなければならないわけですし、また、その憲法制定権者である国民にもそれなりの覚悟というものが要求されるというふうに思われます。その改正であるのか、現行憲法の廃棄と新憲法の制定であるのかということでは国民の側の受け止め方にも大きな違いがあるはずでありまして、この国の在り方の根本的な変革が提起されながら、国民の側がそれほど大きな変革だということを十分に理解せずに、単に部分的な変更だということで簡単に考えてしまうというようなことがあれば、これは将来に重大な禍根を残すことになるのではないかというように考えます。
 したがいまして、その現行憲法の廃棄と新憲法の制定ということを提案する、主張するのであれば、はっきりとこの言葉でもって、つまり、現憲法を廃棄して新憲法を制定するんだということを明確にして提案すべきものであろうというように思われます。それを、単に改正であるというような形で提案をするというのは、今申し上げたような意味で適当ではないというように考えております。
 それから、改正と、その憲法の廃棄と新憲法の制定ということを区別しなければならないもう一つの大きな理由は、現行憲法には憲法の廃棄の手続を定めた規定は存在しないということであります。改正手続を便宜上援用して廃棄と新憲法の制定を行うということが直ちに不当だということは言えないとは思いますけれども、しかし、そのことをもって新憲法の正当性の根拠とすることはできないということは先ほど申し上げたとおりであります。
 現行憲法の廃棄と新憲法の制定ということをもし行おうというのであれば、これは本来的には国民の大多数が賛成するという状況の下で行われるべきものだというふうに考えます。国民のぎりぎり過半数程度の支持ということであるとするならば、半数近い国民が支持しない憲法ということになってしまいまして、憲法の実効性というものに疑問符が付くことになりますし、憲法をめぐって国論を二分するような対立を国民の中に作り出すということにもなりかねないわけでありまして、政治的にもこれは望ましいことではないというように思われます。
 現行憲法の廃棄と新憲法の制定という作用をなし得るのは憲法制定権力の保持者である国民のみであります。この憲法制定権力を有する国民の大多数がそのことに賛成をするという状況があって、初めてこのことは可能になるというように考えるべきことだろうというように思われます。したがいまして、その点をきちんと確認できるような手順というものを踏む必要があるというように考えます。つまり、現憲法の廃棄と新憲法の制定というものを行うためには、国民の多数がそれに賛同しているということをはっきりと確認できるような手続を踏む必要があるということであります。
 レジュメには、例えばということで、国民投票における投票権者総数、これは投票総数という意味ではございません。投票権者総数の過半数の賛成を必要とすると。つまり、国民の過半数が確実に新憲法の制定、現憲法の廃棄と新憲法の制定に賛成しているということが確認できるような手続というものを取るべきであろうというように思われます。
 これでも完全ではないがというふうに書きましたのは、先ほども言いましたように、過半数ぎりぎりというようなところでは本当は憲法の廃棄と新憲法の制定というようなことを行うのは望ましくないという意味でありまして、ただ、現実的な考慮をいたしますと、これが最低限の要求というふうに考えていいのではないかというように思われます。
 投票権者総数の過半数というと、これは非現実的な数字のように思われるかもしれませんが、例えば七〇%の投票率で七二%が賛成すれば過半数に達するわけでありまして、その現行憲法の廃棄、新憲法の制定というような重大な事柄にこの程度の数字を要求することは、これは決して無理なことでも非現実的なことでもないというように思っております。
 要するに、これは改正ではないということでありますから、九十六条の定める改正手続に従って行えばいいということではなくて、国民の憲法制定権力の発動として、国民の多数がそれを支持しているという状況が明確に確認できるような手続を踏まなければならないであろうという趣旨であります。
 そういう意味で、改正であるのか憲法の廃棄と新憲法の制定であるのかということは、それを行う手続においても重要な違いをもたらさざるを得ないという意味ではっきりと区別すべき事柄であるというように考えます。
 それでは、現行憲法の廃棄と新憲法の制定とみなされるような場合というのはどういう場合かということを、若干の例のみでありますけれども、指摘させていただきたいというように思います。
 まず第一は、憲法全体を変更するという場合であります。憲法の改正というのは、最初に申し上げましたように、既存の憲法について、個々の条項を廃止、変更、追加するということでありますので、憲法全体の変更というものは、少なくとも日本国憲法は予定しておりません。そのことは、九十六条が憲法改正について、「この憲法と一体を成すものとして、」というふうに表現しているというところからも明らかであります。一体を成すものという以上はその本体の存在というものを当然前提にしているわけでありますから、憲法全体の変更というものは予定していないということになります。
 したがって、複数の条項が改正の対象とされる場合には、国会の発議及び国民投票のいずれにおきましても、それぞれの条項ごとに賛否を問うということが必要になってくるというふうに考えられます。つまり、一括して賛否を問うということは、要するにそのセットで今の憲法と置き換えるということを意味いたしますから、それは全体の変更ということにつながってくるというように考えられます。
 それから、二番目は、第九条の変更であります。第九条を変更して、例えば自衛戦争や武力行使を認めたり、戦力の保持を認めるというようなことは、現行憲法の基本原理の大きな変更となるだけでなく、その現行憲法の構造にも大きな変更を加えざるを得ないものでありまして、これもやはり改正ではなく現憲法の廃棄と新憲法の制定というふうにみなすべきものというふうに考えます。
 この点、九条二項の変更は憲法の同一性に影響しないとする説も学説にはございますが、日本国憲法の平和原理というのは前文、それから九条一項及び二項が一体となって歴史的及び比較憲法的に有意なものとなっているわけであります。ですから、九条二項の変更というものは、現行憲法の平和原理自体の重大な変更とならざるを得ないということになります。
 それからまた、武力行使や軍事力の存在を認めるということであれば、例えば国会がそれにどう関与、統制するのか、あるいは軍の最高指揮権はだれにあるのか等々、当然憲法で定めるべき事項というものが幾つもあるわけでありまして、個別の条項の部分的な改正では済まないということになります。
 それから三番目は、改正手続の変更であります。憲法改正権というのは、いわゆる制度化された制憲権、憲法制定権力でありまして、したがって制憲権者である国民が自らの手に留保している権限を制約、縮小するような改正規定の変更というものは、その制憲権の所在とその権限に変更を加えるということになりますから、これはもはや改正とはみなし得ないということになります。
 例えば、国民投票を廃止して国会の議決のみで憲法改正が可能となるように九十六条を変えるということは、国民代表による国民の制憲権の簒奪ということになりまして、これは法的な意味ではクーデターにほかならないということになります。国民代表は国民からゆだねられた事項について、国民の代表として行動することができるわけですが、国民が代表にゆだねることなく自らの手に留保した権限を簒奪することはできないというのは当然のことであります。
 それから、最後の例として、国民の義務の追加あるいは義務の強調ということでありますが、この現行憲法は主権者、憲法制定権者である国民からの国政運営担当者への命令という性格を持っております。最高法規の章に置かれた憲法九十九条が公務員の憲法尊重擁護義務ということを定めているのはそのことを表すものであります。国民の義務の強調というのは現行憲法のこの基本性格を大きく変更することになります。特にその国家に対する国民の義務を憲法で強調するということは、現行憲法が向けている国民から国家へというベクトルを国家から国民へというように完全に逆転させることになるわけでありまして、憲法自体の基本性格の大きな変更になるというように考えなければならないというふうに思われます。
 以上、私の持ち時間終わりましたので、意見陳述を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、竹花参考人にお願いいたします。竹花参考人。
○参考人(竹花光範君) 竹花でございます。お招きをいただきましてありがとうございました。
 私も時間の関係で憲法改正の概念の明確化、浦部先生と同じような内容のお話を申し上げることになりますが、見解はかなり違いがございます。全く逆の見解であると言っていいかと思います。
 憲法改正というのは、レジュメにも書いてきましたけれども、一般に成文の憲法につきまして、憲法典が自ら定める手続に従って改定、削除、追加という方法で意識的に変更を加えることであるということであります。
 アメリカ憲法の場合は特有な改正方式でありまして、憲法典増補といいますけれども、憲法典の末尾に改正箇条を増補していくと。増補された箇条と既存の箇条との間に矛盾がある限りにおいて既存の箇条が変更されたことになるということであります。
 日本国憲法もこうした方式の改正が可能であるかのようなことを申される方もいらっしゃいますけれども、日本国憲法はいわゆる成文の憲法典でありますし、我が国はいわゆる大陸法系の国家であるということを考えますと、改正というのは日本国憲法の条文を書き改めるという、そういう方式で行われるべきであると、そういうふうに私は考えております。
 先ほどの浦部先生のお話にも出てきましたけれども、九十六条の二項に「この憲法と一体を成すものとして、」という文言が確かにございます。これは合衆国憲法の第五条、アズ・パート・オブ・ディス・コンスティチューションに由来していると言われております。恐らく私もそうだろうと思いますが、ただ、この文言は日本国憲法の文言でありますから、アメリカ憲法の解釈をそのまま持ってくる必要はないんであります。
 この文言につきましては、私はこの日本国憲法と同じ国の最高法規としての形式的効力を有するものとしてと、こう解すればいい、あるいはこう解すべきであるというふうに考えております。したがって、この文言があるから、アメンドメント方式といいますけれども、憲法典増補方式、アメリカ憲法の改正方式と同じような方式が取れるかというとそういうことではないということであります。
 それから、この文言を理由にもう一つ、全面改正は日本国憲法の下ではできないんだという見解がございます。全面改正したものが日本国憲法と一体を成すものなんということは言えないからだというわけでありますけれども、私は、こうした考え方は余りに条文の文字面に引きずられた解釈ではないかと思います。今申し上げましたように、これは日本国憲法と同じ日本国の最高法規としての効力を有するということを意味している文言なんでありまして、決して全面改正を禁止している、そういう趣旨の文言ではないと、このように理解しております。
 なお、改正の内容につきまして注目して、ある特定の条項、特に憲法の基本原理と言われるような条項の変更、これは合法的な手続に従って行われたとしても、憲法秩序の全面的な交替を意味するのであるから憲法改正とは言えないんだという見解がございます。ただいまの浦部先生、そのような見解に立っておられるかと思うのであります。いわゆる憲法改正限界説でありますけれども。
 私は、同一の憲法典の中に改正できる条項とできない条項があるといった考え方は取りません。すべて同じ憲法の一条項であるわけでありまして、それらの間に優劣、上下はないというふうに考えております。主権者、それが決断するならばいかなる条項も改正が可能である、現行日本国憲法の下では国民が主権者でありますから、国民が決断すれば日本国憲法のいかなる条項も改正が可能である、こういった改正無限界説が私は妥当であろうというふうに考えます。
 なぜなら、憲法改正というのは、言葉を換えて言えば、主権者が憲法の定める手続に従って主権を行使することによって憲法典に変更を加えることにほかならないからであります。この場合の主権は憲法制定権力の性格を有します。憲法改正権も実は憲法制定権力でありまして、改正権の場合は、憲法の定める条件の下に、憲法改正手続が定める条件の下に行使される憲法制定権力である、こう解すべきだろうと思います。
 こうした見解は、例えばフランスではもう通説的な見解として広く受け入れられているところであります。例えばフランスの代表的な憲法学者G・ヴェデルによりますと、憲法制定権力というのは憲法を作る力と憲法を改める力を含んでいると。憲法を作る場合には、無条件的にそれが行使されるのである。憲法を改める場合には、その憲法が定めている条件の下に行使されるんだと、こういうことであります。私もこうした見解に立っております。
 それから、こうした憲法の改正は、当然、単純に法の形式についても行われますし、また内容についても行われるわけであります。一般に憲法の改正といいますと、法形式の変更がそのまま法内容の変更を招来するというのが通例であります。しかし、厳密に言いますと必ずしもそうとは限りませんで、例えば片仮名文を平仮名文にするとか、旧仮名遣いを現代仮名遣いにするとか、あるいは明らかな用語の誤りを正すといったような、表現方法を変えるといった法形式の変更は、そのままでは法内容の変更にはならないということでございます。
 それから、若干前後いたしますけれども、先ほど憲法改正の限界の問題について触れました。従来、我が国では、この問題については専ら内容的限界が議論の対象となっておりますけれども、私は時期的限界の意義というものを考えてみる必要があると思います。
 先ほど言いましたように、憲法改正というのは、主権者がその主権を行使して憲法典に変更を加えるということだということになりますと、主権者の意思表明が自由に行えるというのが大前提であります。そうした自由な意思表明ができないような時期での改正を禁止すると、これが時期的限界ということの意味でありますけれども、日本国憲法は御存じのように占領下に作られたわけであります。GHQ民政局のスタッフによって原案が作られたことは歴史上の事実であります。こうした経験を持っている我が国におきましては、やはりこの時期的限界の持つ意味というものを重く考える必要があるんじゃないかと思います。
 ちなみに、一九四〇年、ナチの侵攻によりまして第三共和制が崩壊して、ナチのかいらいとも言われるビシー政権が成立いたしまして、その下で一九四〇年憲法が作られました。フランスは、戦後になりまして、この一九四〇年憲法は無効であったという宣言をいたしまして、こうした経験を踏まえて、一九四六年の第四共和制の憲法では、占領下における改憲禁止の規定を置いたわけであります。これが代表的な時期的限界に関する立法例と言っていいと思います。この規定は現行の第五共和制憲法にも引き継がれまして、八十九条におきまして、領域の保全に侵害が加えられている間の改正は認められないという趣旨の定めとなっております。
 将来、日本国憲法の改正という場合には、改正条項にこうした時期的限界に関する規定を追加するということを考えてみる必要があるのかなと、そんなふうに思っております。
 憲法が国の最高法規である、あるいは基本法であるということは今更言うまでもないわけでありまして、日本国憲法は最高法規の章の九十八条の一項にそのことを確認的に定めているところであります。このことは、憲法には普通の法令よりも高度な安定性が要求されるということでもあるわけでありますが、しかし憲法も法でありまして、時代の私は産物であるというふうに呼んでおります。
 カール・レーヴェンシュタインというドイツ生まれのアメリカの著名な憲法学者はこんなふうに言っております。「全ての憲法は、いわばその制定時に存在する現状を統合するだけで、将来を見越すことはできない」。同じ趣旨のことをイギリスの著名な憲法学者K・C・ウィアも述べておりまして、彼によれば「憲法とは、その憲法を採択する当時において働いている政治的、経済的かつ社会的な諸々の力の平行四辺形の合成である」というわけであります。
 ちなみに、日本国憲法は、このK・C・ウィア流に言うならば、昭和二十一年当時において働いていた政治的、経済的かつ社会的な諸々の力の平行四辺形の合成であるということになるわけでありまして、その後、半世紀以上の時の経過は、不可避的に憲法の規定と現実の政治的、経済的、社会的な諸々の力との間に大きなギャップを生み出しているということになるわけであります。憲法が成立した当時、考慮の外にあった事態が現実となったときに、その現実と憲法とを適合させて、更に長期にわたっての適用を確保する。憲法改正というのは正にそのための手段だということになります。それだけに、それは当然平和的にスムーズに行われなければならないのでありまして、必要に直面してからどのような手続によるかを議論するというのでは遅いというわけであります。そこで、多くの憲法が自ら定めを置きまして、そのような事態にいつでも対処できるような措置をあらかじめ講じているということであります。日本国憲法も九十六条にそうした定めを置いているわけであります。
 不磨の大典と言われました明治憲法にも、七十三条に改正手続が置かれておりました。明治憲法の起草者であります伊藤博文が、同憲法の解説書であります「憲法義解」の中でこう言っております。「法ハ社会ノ必要ニ調熟シテ、其ノ効用ヲ為ス者ナリ、」、法は社会の必要に調熟してその効用をなすものなり。したがって、法というものは社会が変化すればそれにつれて変わらざるを得ないんだ、憲法もしかりと。その際には、この手続を踏んで改正を行ってほしいんだと、そういう趣旨で七十三条を置いたというふうに説明をしているのであります。
 さてそこで、時間が迫ってまいりましたけれども、レジュメの一ページ目の2、「改正手続の問題点」、そこに入ってまいりたいと思います。これは、日本国憲法九十六条の手続について問題点を私なりに指摘したところであります。
 現行の九十六条で一番大きな問題点は、国民投票制をどうしたらいいのかということだろうと思います。現在はあらゆる場合に国民投票が要求されております。これを強制国民投票制といいますけれども、こうした制度は世界的に見ましても極めて希有な制度でありまして、多くの諸国は国民投票制を取っていましても任意的あるいは選択的な制度としてであります。
 フランスの場合は、大統領の任意でコングレと言われる両院合同会にかける方法と、それから国民投票にかける方法を選ぶことができます。コングレに掛けますと、有効投票の五分の三の賛成で改正が成立をすると。国民投票にかける場合は、両院で総議員の過半数で可決し、その上で国民投票にかけるという方法であります。
 それから、イタリアの例も参考になるかと思いますが、イタリア憲法だと百三十八条になろうかと思いますが、両院で総議員の過半数で三か月を隔てて二度可決をすると改正。その後、一院の議員の五分の一、あるいは五十万人の選挙権者、五つの州議会、この三者のうちのいずれかが要求した場合には国民投票にかけられると。この三者から要求がなければ、総議員の過半数で三か月を隔てて二度可決すればそれで改正は成立と。それから、二度目の投票におきまして両院で総議員の三分の二の多数で可決されれば、もうこれは国民投票にかけない、それで改正が成立するということであります。
 こういった任意的、選択的な制度として国民投票制を取るということが我が国の場合も考えられるのかなというふうに私は考えているところであります。現行のような強制国民投票制はいかがなものかということであります。
 それから、改正手続では、表決数につきましても総議員の三分の二とされておりますけれども、国民投票にかけるということであれば必ずしも三分の二は要求する必要がないのではないか。イタリアのように過半数、あるいはそれでは少ないというんだったら法定議員数の五分の三ぐらいの賛成でいいのかなと、そんなふうにも考えているところであります。
 それから、そのほか改正手続に関しましては、例えば改正案の発案権者がだれであるのか、それから改憲国会における表決数の基礎が法定議員数なのか現在議員数なのか、こういうことも明らかにする必要があると思います。つまり、現状では九十六条は使えない規定になってしまっているということです。
 発案権者につきましては、現憲法に明記がないため、特に内閣にそれを認めるべきかについて議論がありますけれども、私は、国会が自由に修正も否決もできるということであれば、内閣の発案権を認めても問題はないというふうに考えています。
 それから、議員発案の場合でありますけれども、これは何人の議員で発案するのかということ、この点については国会法の改正によって国会法で明記しておく必要があるかと思います。
 それからさらに、改正案が発案された場合にその後の審議はどうするのかと、この点もはっきりしておりません。これも国会法の改正で明記する必要があると、そんなふうに考えます。
 それから、両院で総議員の三分の二の賛成が必要だとされていますけれども、その総議員とは何ぞやと、これもはっきりしていません。これはまあ解釈上の問題ということでしょうけれども、はっきりさせる必要がある。私は、これは法定議員数であるというふうに解しております。
 それから、そのほか、改正ということが実現するという段階になりましたら、先ほど申し上げましたけれども、改正手続条項に憲法改正の時期的限界に関する規定を置くべきだろうと。具体的には、被占領下における改正の禁止と、それから非常事態宣言が発せられている間の改正の禁止と、こういうことが考えられるかと思います。
 それから、九十六条では、両院で総議員の三分の二の可決の後に国民投票にかけてその過半数の賛成が必要だとされておりますが、その国民投票の実施についての法律がいまだ制定されておりません。日本国憲法が施行されて半世紀以上もたつのにこうした状態というのは、立法不作為という声もありますが、そこまで言わないまでも、私は、憲法改正の発議機関で、憲法で唯一の立法機関とされている国会として怠慢のそしりは免れないのではないかと、そんなふうに思います。
 最後に、最高法規の章について若干触れておきたいと思いますが、現行の規定のうち、章のタイトルと一致する内容は九十八条の一項だけではないかと思います。九十九条については若干の関連性はありますけれども、九十七条は、本来、権利・義務の章に置けばよい定めだろうと思います。それから、九十八条の二項につきましては、むしろ新たに外交・防衛といったような章を立てまして、その冒頭に置くべき定めではないかと、そんなふうに考えております。
 それから、むしろ新たに最高法規の章には国のシンボルに関する定めを置くということが考えられるのではないか。具体的には国旗・国歌等に関する定めということであります。
 国旗や国歌など国のシンボルに関する定めは最近の憲法に多く見られるところでありまして、例えばフランスでは第一章に国旗・国歌についての定めが置かれておりますし、ドイツでは第二章で国旗の定めがある。イタリアでも冒頭の基本原理の章に国旗の定めが置かれているところであります。
 私も、憲法改正が実現するということになりましたら、最高法規の章にはこうした定めを置くべきではないかなと。下位の法規にこうした国のシンボルに関する定めをゆだねるのはいかがなものかと、そんなふうに考えております。
 大体与えられた時間が来たようでございますので、これで私の陳述を終わりまして、足らないところは後ほど御質問を受けた際に補充させていただきたいと思います。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、土井参考人にお願いいたします。土井参考人。
○参考人(土井真一君) 京都大学の土井でございます。
 本日は、意見を述べる機会を賜り、光栄に存じます。私の方からは、改正及び最高法規に関する問題について、国民主権と硬性憲法典の意義にかかわる理論的観点から意見を述べさせていただきたいと思います。
 私の話を始めるに当たりまして、憲法改正をめぐる二つのエピソードを紹介させていただきたいと思います。
 第一のエピソードは、一七八九年から九〇年にかけて、アメリカ独立宣言の起草者であるトーマス・ジェファーソンと、アメリカ憲法の父と称されますジェームス・マディソンの間で交わされた書簡であります。一七八九年、パリにおきましてフランス革命を目の当たりにしましたジェファーソンは、当時、ジョージ・ワシントンが初代大統領に選出され連邦政府の樹立を見た母国アメリカのマディソンにあてて一通の書簡を書いております。その書簡におきましてジェファーソンは、ある一つの世代が後の世代を拘束する権利を有しているのか、言い換えれば、現在の世代が過去の世代によって拘束され、その負債を背負わなければならないのかという問題を提起した上で、生ける者こそがこの世界を享受するのであり、死せる者はそれに対して何らの権限もまた権利をも有さないという見解を記しております。そうして、その原則に基づけば、いかなる社会も不朽不滅の憲法を定めることなどできないのであり、憲法は死者の手による拘束等出さないように、それを定めた世代が去り行くとともに消え去らなければならない。それゆえ、すべての憲法は十九年、これは当時の平均寿命など基づいてジェファーソンが算出した数字のようですが、十九年を経過するとともに当然に失効し、新しい世代が新しい憲法を定めなければならないという意見を説きました。
 しかし、それに対してマディソンは、そのような考え方は人間社会の基本的な在り方にそぐわないという批判を加えております。我々は、過去の世代の負債だけではなく過去の世代が残してくれた果実をも享受しているのであり、また将来の世代に対しても責任を負うべき存在なのではないか。歴史の英知を尊重し、無益な政争と権力の空白がもたらす危険を回避することこそが憲法の役割なのであって、憲法改正の道が開かれている限り、現在の国民もまた憲法を支えていると言ってはよいのではないか。
 最終的には、恐らくジェファーソンはこのマディソンの意見を受け入れたのではないかと言われております。といいますのも、合衆国憲法が施行されて十九年が経過したそのときに大統領の職にあったのはジェファーソンその人であり、そして自らの後を託したのはマディソン、このマディソンだったからであります。
 二つ目のエピソードは、これは一九四六年二月、東京においてGHQ民政局で交わされた議論であります。
 当時、GHQ民政局は我が国の憲法草案を検討していましたが、本調査会におけるリチャード・プール氏の紹介にもありますように、その最初の案には、憲法改正について制定後当初十年間は禁止し、その後十年ごとに国会の特別会議を召集して憲法を改正の審議をさせるという旨の条文と、将来制定されるいかなる憲法も、この憲法が保障する権利を制限し破棄してはならない旨を定める条文が置かれていました。つまり、明文で憲法改正禁止規定が設けられていたということであります。
 これらの規定を擁護する立場からは、現代は既にある発展段階に達している。日本が再びファシズムに陥ることを防ぐためには、民主政治の樹立だけではなく、今日における社会及び道徳の進歩を永遠に保障すべきであるという見解が示されました。それに対して、この規定に反対する立場は、自由主義的な憲法は責任ある国民の存在を前提にしなければならないのであって、一つの世代が他の世代に対して自らの問題を決する権利を否定してはならない。原案による限り、権利章典の変更は革命によるほかなく、それは非実際的であり実効性を持たないという批判をしております。そして、厳しい論争が続いた後、マッカーサーの最終判断によってこれらの憲法改正禁止規定は総司令部案から姿を消すこととなります。果たしてこの二つのエピソードが何を物語っているのでしょう。
 そこでまず、憲法の最高法規性の観点からこれを考えてみたいと思います。
 なぜ日本国憲法は国の最高法規なのか。それは、憲法九十八条にこの憲法は国の最高法規であると書かれているからだと。一見もっともに見えるこの議論は、必ずしも十分な議論ではありません。といいますのも、私はうそをつきませんと言う者がすべて正直者であると限らないように、この文章は最高法規であると書かれている文章がすべて最高法規になるわけではございません。つまり、自分の襟首をつかんで自分を高く掲げて見せるということはできないという自己言及と言われる問題であります。
 そこで、一体だれがこの文章をどのような目的で定めたのかということが問題になります。これが主権論あるいは憲法制定権力論と言われるものでありまして、唯一不可分にして至高の権力、つまり主権を有する者が国家の根本法として定め、その最高法規性を宣言したがゆえに最高法規として妥当するという論理が取られることになります。日本国憲法の前文が、日本国民は、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と述べていますのも、この理を明らかにするものであると思われます。
 しかしながら、この論理、主権の論理というのは同時に一つの問題を引き起こすことになります。それは、憲法を生み出す最高の権力が自由な力として常に存在し自ら決定を続けるとすれば、同時にそれは憲法を破壊する力となり得るのではないかと。比喩的に言いますと、光の力というものとやみの力というのはその淵源において同一のものとして立ち現れるのではないか。ジェファーソンが提起した問題は正にこの点に触れるものでありますし、後に取り上げます、あるいは両参考人が既に述べられました憲法改正限界論もまたこの問題に対処しようとする試みにほかなりません。
 この問題を考える際に私が何を重要だと考えているかと申し上げますと、本来最高の権力を有するとされている主権者がなぜ憲法を定めるのかということではないかと思います。そもそも人々が国家という共同体を作るのは、それによって秩序を築き、共同の利益を確保して人々の生活をより豊かなものとするためではないかと考えられます。主権というのは、本来この目的を実現するために国政の在り方を決める最終的な力であって、もしそうだとすれば、秩序を築き共同の利益を確保しようとするその力自身が、自ら秩序付けられ共同を可能とするものに構造化されていかなければ、本来の目的を実現することができない。
 国民は主権者として国の在り方を最終的に決める最高の力を有する存在だと、国民主権の原理の下では理解されます。しかし、このことは、国民が全知全能の存在であるということを決して意味しているものではありません。国民もまた過ちを犯し得る存在だということを前提にしなければならない。
 例えば、例を挙げますと、人間というのは、往々にして短期的利害にとらわれやすく、長期的利害というものを見失いがちであります。このことは、歴史的に見れば、国民を代表する議会政治においてもしばしば見受けられてきたところであります。
 確かに、議会政治もまた政治である以上は、そこに何らかの権力抗争は不可避であり、政党政治の持つ党派性というものを潔癖なまでに排除をしようとする姿勢は、つまるところ、議会政治を否定することであって、賢明な姿勢ではないというふうに思っております。
 しかしながら、そうした争いの中にあっても、やはり行ってはいけないという事柄がある。その典型例が、皆さんも御存じのように、戦前のロンドン軍縮条約をめぐる統帥権干犯論でございます。
 これも御存じのように、当時野党であった政友会は、衆議院の場において、統帥権の独立論を持ち出し、海軍の一部や枢密院と連携して、民政党の浜口雄幸内閣を倒閣しようとしました。
 しかし、これは、こういうやり方は、倒閣のための戦術としてどれほど有効であろうとも、つまるところ、議会政治の自己否定なのであって、実際、最終的には戦前における政党政治に致命傷を負わせることになります。
 また、表現の自由などの人権保障の問題も、たとえそうした自由を認めることがある政策を実現するための障害になり得たとしても、民主主義を長期的に支えるという観点からは、それを保障することに意義が認められます。
 このような誤りを極力回避するために、自らの限界を自覚した者が自らに対して事前に制限を課すことでできる限り賢明な結論にたどり着こうとする努力、国民主権との関係で申し上げれば、国民自らが賢明な判断を下すことができるように、適切な統治機構を定め、自らを権力の抑制と均衡のシステムの中に構造化していこうという努力、これが硬性憲法典というプラクティスであり、マディソンがジェファーソンに対して最終的に説こうとしたことの意味ではないかと思われます。
 しかしながら、このような拘束は決して盲目的な拘束ではございません。自らが賢明に行為するための合理的な制約である以上は、時代の変化に伴って、その拘束の合理性それ自体が適切に、批判的に検討される必要があります。これが憲法改正の問題であり、この道が合理的に確保されている限り、幾世代にもわたって主権者たる国民が賢明に自己決定を行うことを担保することになるのではないかと思われます。
 この点に関して触れておかなければならないのは、先ほど来出ております、いわゆる憲法改正限界論であります。学説上、限界論は多岐にわたっておりますので、ここで厳密に紹介することはできませんが、私のように、主権者による自己拘束論というものを前提にした場合には、この問題は各々の憲法において、主権者、憲法制定権者と憲法改正権者がどのような関係にあるかを見た上で議論を整理する必要があろうかと思います。
 例えば、憲法制定時には、主権者たる国民の意思を明らかにするために特別の憲法制定会議を招集して、憲法草案を国民投票にかけて採択したんだけれども、憲法改正については、その便宜性あるいは迅速性を考えて専ら議会にゆだねるという決断をした憲法があるとします。この場合には、憲法制定者と憲法改正者は存在として異なるものですから、憲法制定者たる国民が改正権者たる議会に対して憲法改正について法的制限を課すということは決して不合理ではありません。ただ、そのような制限を超えて憲法典を変更する必要が生じたときには、例えば、再び憲法制定会議を招集するというような事態になるのかもしれません。
 しかしながら、憲法制定者と憲法改正権者に同質性が認められる場合、先ほど浦部参考人の言葉にもありましたが、憲法改正権者が制度化された憲法制定権者であると考えられる場合には、問題が異なってまいります。
 日本国憲法は第九十六条で、改正に際して国民投票を要求していることから、この改正権者を国民であると位置付けております。しかも憲法制定時には、実際この日本国憲法草案は国民投票に付されたわけではありません。こうした状況を考えますと、憲法改正権者たる国民の法的権威はかなり高いものであるというふうに理解されます。
 したがって、現在のところ私自身は、主権の所在の変動を伴わない限り、基本的に、憲法改正権者に課される拘束は主権者の賢慮による自己拘束の問題にとどまると解しております。もちろん、賢慮による自己拘束だからといって問題が瑣末なものになるわけではありません。憲法改正権者の判断によって国が滅びるということも起こり得るわけです。ただ、憲法改正に関するすべての責任は主権者たる国民に帰責されるべきであって、より高次の法的権威により拘束されるような問題ではないということを言っているにすぎません。
 ただ、一方で、憲法の基本原理をすべて変更するのであれば、それはもう元の憲法とは同一性がないんであって、それは憲法改正ではなく、新しい憲法の制定として用語上明確にけじめを付けるべきであるという、先ほどの浦部参考人のような立場があります。私自身はそのような用語上の考え方まで否定するものではありませんが、しかしこの立場は、憲法の変更の法的正当性、限界の問題までを意味するものではないという点に注意する必要があるのではないかと思います。
 このように、憲法九十六条に定められた憲法改正権を制度化された憲法制定権力であると理解する場合には、憲法政策論の問題として注目すべきは、現状におきましては、国民が憲法改正に関する限り、受動的、受け身の立場に置かれているという点であります。
 もちろん、学問的には公共選択論などが示すように、どの順序でどのような内容の議案を提示するかによって結論が大きく左右される可能性があるということを考えますと、原案の作成を国民の代表者の手による慎重な審議にゆだねるということについては一定の合理性があろうかと思います。しかし、とらわれの主権者という言葉が示しますように、国会が憲法改正の扉を開くかぎを有しているということは、同時にその扉を閉ざすかぎをも有しているということであります。その意味では、憲法改正案の審議の段階についても国民の考え方が適切に反映されるように、例えば諮問的な国民投票の導入の可否を含めて、何らかの工夫を検討する必要があるのではないかと考えております。
 最後に、憲法改正に際して主権者たる国民が十分な権利を働かせる上で重要だと思われますのは、憲法とは国家において生起する問題に対する解答を示すものであると同時に、それ自体が後の世代に対してなされた問題設定でもあるということです。ある問題に対して具体的、現実的な解決策を示すだけではなく、ある事態がいかなる問題としてとらえられるべきか、あるいはそもそも一体何が問題なのかということを示すこと自体が憲法の大きな役割であると考えます。
 憲法九条に関して言わしていただければ、我が国の安全保障に対する具体的な処方せんとしては、自衛の在り方を含めて時代の変化の中で問題となる点が生じていることは否定できないであろうと思います。その意味では、同条の改正について議論をされること自体には理由があるというふうに思っております。
 しかしながら、国際協調や国際平和ということ自体を真摯に受け止めて考えなければならないという問題設定自体が誤っているわけではないということも事実ではなかろうかと思います。この点を冷静な現実認識を踏まえた上で基本原理に立ち返って、この国を形作る物語としてどのように再構成をすることが適切なのか、何が変更を必要とする点であり、その中で何が見失われてはいけないのかという点を将来を見据えて冷静に見極める必要があろうかと思います。それが国権の最高機関であり国民の代表機関である国会に期待される役割であろうかと思います。
 主権者たる国民といえども、自ら賢明に行為するためには、なんじ己を知れという、かのデルポイの託宣を真摯に受け止めなければならない、この点を強調しまして、私の意見を終えたいと思います。
 ありがとうございます。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 山崎力君。
○山崎力君 自由民主党の山崎力でございます。
 三先生方、貴重な御意見、ありがとうございました。
 まず、そもそも、いわゆる最高法規ということになると憲法のそもそも論のところが入ってくると思うんですが、そこのところでちょっと教えていただきたいのは、三先生、順次御発言お願いし、もし最初に発言された先生と同様でしたら、それで結構ですと、同じですと言っていただければいいんですが、要するに憲法という成文法以外に、これは自然法というか、そういう表現されていると思うんですが、いわゆる自然権的なものがいろいろ想定されていると。まあ一番今度の我々の世界でいえば正当防衛権であるとか緊急避難権であるとかというのは、そういった問題と関連しているというふうにも言われているわけですが、こういった生存権といったような自然権に対して憲法がある程度の制約を加えるような憲法はそもそも成り立つのかどうか、その辺の関係をどのように憲法学者の先生方は御認識なのか、まず三先生、短くて結構ですから教えていただきたいと思います。
○参考人(浦部法穂君) 自然法とか自然権というその内容にもよりますけれども、憲法学におきまして通常自然権というふうに言っておりますのは、近代人権宣言の基礎となったいわゆる自由権であります。そういうものの存在を前提にして憲法が成り立っているということ自体については、これはほぼ共通の了解はあろうかというように思われます。ただ、それを前提にして憲法というものを考えなければならないのかどうかということについてはいろいろ議論のあるところではあります。
○参考人(竹花光範君) 私もこの点については浦部参考人とほぼ同じ見解でございまして、いわゆる近代自然法に基づいて近代的憲法が作られているということはそのとおりだろうと思いますが、その近代自然法と言われるものがかなり漠たるところがございまして、自然法のカタログを描くことはほとんど不可能に近いなどと言われる方もいらっしゃるぐらいであります。
 したがって、その自然法に反するような内容の憲法が果たして憲法と言えるのかと、憲法として認められるのかということでございますけれども、それはそのような憲法が制定権者によって作られれば、少なくともそれを作った制定権者たちを拘束することにはなる、そういう意味においてはそういった憲法が当然あり得るだろうというふうには考えています。
○参考人(土井真一君) 私も両参考人と同様の意見でありますが、自然権、自然法といいますか、世の中には道理があるというようなこと自体は否定できないだろう。ただ、一体何が道理なのか、何が自然法なのかという点については様々な意見があるわけです。
 それをめぐって対立があって、それをいかに調整するかというのが政治の場であると。それを更に憲法の段階でどういうふうに議論するかというのが憲法改正という問題、あるいは新しい憲法の制定という問題で、その際に主権者が議論したことというのは、当然、まあ暫定的ではありますけれども、効力を持つものと考えるのが適切であろうというふうに思っております。
○山崎力君 ありがとうございました。
 今、三先生のいわゆるお話をお聞きしても、この辺の関係というのは、自然権というのはあるようで、あるんだろうと。そこを基にして作られているということなんですが、問題は、そこのところがやっぱりそれぞれの置かれた集団、これは民族でもいいし国家形成の国民でもいいわけですが、そういった人たちの歴史的な価値観とかそういった背景があって、そこから来ているものだというのは否定できないと思いますし、そこのところでどういう議論をしてどういう成文憲法を作るかというその辺のところの議論というのも、日本の場合はその成文法的な憲法典というのは大陸法の方から主に来ておりますから、そういった点での価値観と日本人の在来的な価値観、これを陋習とかそういった形の古い劣ったものとして捨て切れるかどうかというところを我々国民というのはいまだに引きずっているんじゃないかと思うんです。
 その辺を割り切って法理論だけでやっていいのかというのを、結局、政治に携わって一般の国民、失礼な言い方をすると、皆様方よりも一般の国民の意識、考え方に接する機会の多い我々としてそこをどう調整するかというところを是非考えて、こういった形にしていただきたいなという気がするという要望を申し上げておきたいと思います。
 それはせんじ詰めれば、日本国民あるいは日本の国民性に対する信頼というものを我々がどう持つべきなのか。日本の国民というのは何かあるとかっとなって戦争するのが好きな国民だから縛っておこうと、公には余り言いませんけれども、そういう気持ちでいろいろなことを発言されたり行動されたりしている方も私の目から見ると見受けられるということなんです。
 それで、その辺のところで浦部参考人にお伺いしたいんですが、先生の御発言の中でちょっとといいますか引っ掛かっているところが、憲法の正当性の根拠という改正の問題についてございましたが、この議論をお聞きすると、当然のことながら我が現行日本国憲法の成立の正当性というものが問題になってくると思うんですが、その点について全然触れられていなかったんですが、いかがでございましょう、その辺は。
○参考人(浦部法穂君) 現憲法はもちろん旧憲法の改正手続に従って行われましたけれども、同一性はございませんから、これは新憲法の制定ということになります。したがいまして、当然、その正当性ということは、本来、制定時点で議論されるべき問題であっただろうというように思います。
 ただ、既に六十年近い期間正当なものとして憲法が妥当してきているという事実というものは、これはもう否定できない事実でございますので、六十年前にさかのぼってもう一度正当性の議論をするということは意味のないことではないかというふうに考えております。
○山崎力君 そうすると、先生は、正当性がなくても時間がたつと正当性を持つというふうな考え方、いわゆる変遷論的なお考えだと考えてよろしいんでしょうか。
○参考人(浦部法穂君) 変遷論とは若干異なりますが、正当性というものは獲得されるされ方というものにはいろいろなされ方があるということで、先ほど申し上げたのは、今の時点で新しい憲法を作るというのであれば、きちんとその正当性というものを確認した上でやることが必要であろうということでありまして、国民が長年の間に支持をしてきて、もう疑いを持たなくなったということによって正当性が獲得されるということは、これは十分にあり得ることだというふうに考えております。
○山崎力君 浦部先生、その辺がちょっと私の理解を超えるところでございまして、もちろん占領下で憲法ができるかという部分、正当な、正当性を持つ憲法を施行できるかという、作ることができるかというそもそも論、これは繰り返しませんけれども、そのことの正当性に、我が日本国憲法の正当性に問題があるんだということを憲法学者の方たちがどの程度今まで言ってきたのかという部分と、国民の皆様方が新しい、戦後の新しい社会を作る基礎になるこの憲法という教育の仕方、そういったものからして疑問を持つような形で、今まで、私、戦後生まれで憲法とほぼ同時の人間ですけれども、記憶がないんですね。
 要するに、占領憲法だから改正しろとか、あの当時までは、作り方の正当性の問題もまだはっきりしていない、押し付け憲法だという確証もないじゃないかという議論もあったくらいで、その辺のところの、この憲法ができたのが本当は正当性がなかったんだと、今の形からですね。そこのところを踏まえた上で、それで先生の議論を、ただ、ここのところはこういった形なんだという、そもそもの土台を踏まえた議論でなければ、ここのところを、正当性のない憲法をまあずっとやってきたんだねという、それは今言ったってしようがない、無駄じゃないかというと、これは普通の我々レベルの、民間レベルの話であって、憲法学の話ではないんじゃないかという感想を持つんですが、その辺いかがでございましょう。
○参考人(浦部法穂君) その点は憲法学でも議論されていないわけではなくて、いわゆる八月革命説というのはその点を意識した議論であったわけです。
 戦後の憲法学というのは、当然、日本国憲法の正当性という問題についてどう説明できるかということには細心の注意を払って議論をしてきた。その一つの学説的な帰結点として宮澤先生が提唱された八月革命説というものが受け入れられて、学問的には受け入れられてきたという経緯であろうというふうに考えております。
○山崎力君 まあこの議論、革命説が出てきてというのは、たしかもう僕も四十年近く前、三十年以上前に聞いた記憶があるんですが、あの時点で憲法的には革命だったんだと、日本のあれは革命があったんだということを、憲法学者の方はそれでいいのかもしれませんが、国民自体はその辺のところを全然意識していない。じゃ、革命の主体はだれだったんだということになれば、国民だったわけはないわけで、その辺のところがやっぱり憲法改正の、この最高法規とか、余り正当性の議論を深めない原因ではないかなというふうに思っておりました。
 そればかり言っているとあれなんで、これは浦部先生と、どなたでしたか、竹花先生もおっしゃったのかな。ちょっとその辺のところなんですが、いわゆる憲法改正の支持率ですね、賛成率と言ってもいいんですが、賛否の国民投票におけることで絶対的過半数、絶対過半数を主張されていましたが、これは選挙のときによく出る議論なんですけれども、この議論というのは棄権者を反対と同様にカウントするということに結果的にといいますか、技術的にはそうなるわけでございますね。
 ということになれば、これはどういう根拠を持って投票しなかった棄権者をいわゆる憲法改正反対なら反対と同列に扱うのかということの法的な根拠が分からないんですが、浦部先生から教えていただければと思いますが。
○参考人(浦部法穂君) 改正の国民投票については私はそんな絶対過半数ということは申し上げておりません。改正の国民投票については、先ほどは申し上げませんでしたけれども、有効投票の過半数ということでいいだろうというように考えております。
 先ほど申し上げたのは、改正ではなく、現憲法の廃棄と新憲法の制定という行為を行うのであれば、総投票権者総数の過半数が賛成しているということが最低限確認できるような手続が必要だという趣旨で申し上げております。
○会長(上杉光弘君) 竹花参考人にも御質問ですか。
○山崎力君 そうです。
○参考人(竹花光範君) 私も、国民投票で、その過半数というのは総有効投票数の過半数であるというふうに考えております。
 ただ、先ほど申し上げましたように、国民投票法の制定がいまだでございまして、これは是非国会でお願いしたいところなんですが、その際には国民投票が成立する場合どの程度の投票率が必要なのかと、その辺のところも明記してほしいと思うのであります。例えば最高裁判所の判事の国民審査の場合はたしか規定があったかと思いますが、それに類するような、国民投票が成立するに必要な投票率、総投票権者の何%が投票すれば成立したということになるのかと、この辺はきちっと定めてほしい。可能なら、私は総投票権者の過半数の投票があって国民投票が成立するということが望ましいとは思っております。
 それから、浦部参考人の場合には、例えば九条の改正とか改正手続規定の改正、あるいは全面改正、これは憲法の廃棄、あるいは新しい憲法の制定だというふうなことをおっしゃっておられたかと思いますが、私はそういう改正もこれは九十六条の手続を踏めばできる、改正に限界はないという見解に立っておりますから、そのような改正の場合にも国民投票で総有効投票数の過半数の賛成があれば改正は成立すると、そういうふうに理解しております。
○山崎力君 今のお話で、お伺いしたんですがお答えいただけなかったのは、重要なことなんだからということで、浦部参考人の話で、ちょっと聞き間違えたのかなと思ったらそうではなかったといいますか、いわゆる改正ならいいけれども、いわゆる新憲法の制定の場合はやっぱりそのくらいのことが必要だろうということなんですが、私が御質問申し上げたのは、そういった場合、棄権者を反対票を投じた人と同列に扱う、結果的にそうなると、そういったことになるんで、そこのところの法的な考え方はどうなのかと、そういう意味で質問させていただきました。
○参考人(浦部法穂君) 先ほど申し上げたように、現憲法の廃棄と新憲法の制定ということをやる場合には、やっぱりそれなりの必要性というものはきちんと認識される必要があるだろうと。とすれば、そのことを積極的に支持する国民が少なくとも過半数は必要であるという趣旨でございます。棄権した者を反対とみなすということではなく、積極的にそれを支持する国民が過半数きちんと認められなければ、新憲法の制定というような行為は行うべきではないだろうという趣旨です。
○山崎力君 考え方は分かりましたけれども、どうもちょっと申し訳ない、付いていけない部分があるんですが。
 いずれにしろ、この憲法の改正限界説、非限界説、専門家の方の考え方ではそういったことありますし、学問的には重要なことだろうと思うんですけれども、我々国政を預かりまして、憲法改正を発議して三分の二、各院で取るか取らないか、取れるものにするにはどうしたらいいか、あるいはそうでないものはどこが問題なのかというようなことの観点から見ていきますと、皆様方の考え方と国民の考え方と、我々の考え方と、微妙にずれているところがあるなと。
 それをどういうふうにやっていくのが一番いいのかといったときには、最後に私どもがよりどころとするのは、やはり選挙で選ばれてそれなりの考え方を代表する、しかもそれが我が現憲法の代表制民主主義を取っているということによるくらいしかないんじゃないかなというふうに思っているんですが、その点、最後に土井参考人、お聞かせ願いたいんですけれども、主権者による自己拘束論といいますか、そういう考え方でやっていましたけれども、そこのところが一番の問題、逆に言えばそこのところの成果といいますか具体的なあれというのは、選挙でどんな考え方のどんな人間を代表者として国政に送り出すのかというのが一番のポイントになるのではないかというふうに私は思うんですが、その点についてのお考えを伺って私の質問を終わらさせていただきたいと思いますが、よろしくお願いいたします。
○参考人(土井真一君) 私自身の考え方を申しますと、憲法改正の発議に関する権限を国会に認めているということは、今、山崎委員がおっしゃられたとおりのことであろうと。意見の中で、それはあくまで国民の責任において解決すべき問題であって、それより優位する何らかの法的権威が国民を上からコントロールするという話ではないと。その意味で、憲法の改正の限界というのは、一点、主権の所在の変動ということだけは別、法理論的に別の問題だけれども、それ以外については基本的に自らの賢慮で解決すべき問題だというふうに思っております。
○山崎力君 どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 松井孝治君。
○松井孝治君 民主党の松井孝治でございます。
 三人の参考人の先生方、貴重な御意見ありがとうございました。
 まず、私は浦部参考人にお伺いをさせていただきたいと思うんですが、新憲法の制定手続、具体的に浦部参考人がおっしゃった改正ではなくて、ある一定以上の改正というか、憲法の変更というのは新憲法の制定だとみなすべきだという御判断がございましたが、どういう項目についての変更が新憲法の制定に当たるのかという判断というのがだれによってなされるべきであろうかと、そこについて浦部先生の御意見を伺いたいと思います。
○参考人(浦部法穂君) これは、だれによってといいますか、まず理論的にどこまでが現憲法の一体性、同一性というものを確保する変更に当たるのかどうかということを、これはまず理論的に検討されなければならない問題だというふうに思います。
 それを具体的に、じゃ手続としてだれが発議し、どういう形で提案するかということについては、これは憲法に規定がございませんので、先ほど申し上げましたように国民の憲法制定権力という、この原則にのっとって、それに適合的な手続を考えていくしかない。その際に、改正規定を援用するということは、これはあり得ることであろう。つまり、国会がそれを発議するということはあり得ることであろうと。ただし、その場合には、それはあくまでも援用であって改正ではないという観点からすれば、それは国民投票における投票の在り方等々も新憲法の制定にふさわしいものにしなければならないというふうに考えております。
 ですから、まず理論的にそれは確定されるべき問題だろうと、こういうことです。
○松井孝治君 具体的に御意見をお聞かせいただきたいわけですが、例えば、それでは、今おっしゃっていたようなことを実現するために改正手続に係る規定を改正する、要するに新憲法の創定についての手続ですね。先ほど参考人がおっしゃっていたような要件の変更を憲法に加えるとするならば、それは憲法改正に当たるのか、それとも憲法改正という範疇ではとらえられない新憲法の創設ということになるのか、その点についての先生の御意見を伺いたいと思います。
○参考人(浦部法穂君) 改正手続としてそれを加えるということでしょうか。
 つまり、憲法を廃棄するための手続を憲法に新たに加えるということになりますと、少なくとも現行憲法は憲法の廃棄ということを予定しておりませんから、それは現行憲法の枠内の問題ではないということになろうかと思いますが。
○松井孝治君 それでは、そうすると、そういう規定を設けることは現行憲法の改正の手続の中では行えないとなると、そういう規定の追加というものはどのような手続において行うべきなのか。要するに、国会における議決の要件あるいは国民投票要件は何に基づいて判断すべきなんでしょうか。
○参考人(浦部法穂君) それは憲法か法律かという趣旨でしょうか。
○松井孝治君 はい。
○参考人(浦部法穂君) 具体的にそれをやる場合には、これは法的な意味では一種の革命に当たりますので、これは八月革命と同じように法的な意味では革命に当たるということでありますから、そのことを明記した上でそのような提案をするということになろうかと思いますが。
○松井孝治君 私、ちょっと個人的には今の解釈はよく理解できないですが、これは継続しても時間に限りありますが。
 そういう意味でも、今おっしゃったような私は浦部参考人の御意見になると、論理的に、少なくとも今の我々国会議員として、国会に身を置く者としては、じゃ、そういう改正をどういう規定で、憲法上のどういう根拠で行うのか、そのことで論理的矛盾を生じてしまうんではないかなというふうに感じましたが、別の質問に移らせていただきたいと思います。
 土井参考人にお伺いをさせていただきたいと思います。
 土井先生もおっしゃったように、一般的に日本国憲法のこの改正手続を判断して硬性憲法と言われています。同時に、正にこの九十六条自身が抱えている問題でもあるわけですが、非常に日本国憲法は簡短概括型と言いましょうか、憲法の規定というものが非常に詳述型ではないですね。必ずしもすべてを規定していない。
 そういう状況の中で、結果として憲法の条文に軽重はないということかもしれませんが、しかしながら、これは本来であれば憲法に規定するべきことなのかどうかというような条項も含めて憲法にあったり、他方で、本来であれば、例えばよく言われるのが公職選挙法の一部などがそうですが、本来であれば基本法的に憲法に位置付けるべきではないかと言われているような部分、これは内閣法や国会法、あるいは選挙法、地方自治法などに相当そのような規定があると思いますけれども、これが憲法典以外に置かれている。あるいはもっと言うならば、本来であれば憲法に規定すべき項目が規定がないということもそうですし、あるいは内閣法制局による憲法解釈によって、本来であれば憲法改正を経て、国民的議論を経て判断されるべき重要事項が、それを経ずに解釈の変更によって行われている、重要事項の政策の変更が行われているという実態はあると思います。
 土井参考人、土井先生におかれまして、こういう事態、要するに簡短概括型の憲法、しかし、その簡短概括型の憲法を変更するに当たっては非常にハードルが高い硬性憲法である。結果として、それが憲法典以外の一般法の中に、本来であれば憲法典に盛り込んでもいいような法律事項が盛り込まれる、あるいは内閣法制局による解釈によってそういう政策変更がなされる、こういう在り方をどう思われるか。
 あるいは、それを踏まえまして、さっき竹花先生の方からは、この憲法改正規定というものをもう少し柔軟にすべきではないかという御意見があったわけですが、土井先生は先ほど来国民の自己拘束ということをおっしゃっていますが、今の日本の政策変更の現状、あるいは政策、統治機構の在り方も含めて、それが憲法以外のところに逃げる方向性があるということについてどう判断され、憲法の改正手続というのを今後どうとらえるべきとお考えか、御意見をお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(土井真一君) 憲法にどのような内容を盛り込むかということ自体、一つの重要な決定でありまして、日本の場合は、今、松井委員の方からおっしゃられましたように、比較的概括的、抽象的な規定にしていると。その代わりに、余り動きがないようなシステムがよいのではないかというのが元々の案だろうと思います。
 大日本帝国憲法もほぼ同じ考え方で作られている。しかし、各国の憲法を見たときには、中央政府を統制する憲法、あるいは州政府レベルでの憲法等ありますが、非常に詳細なものがございます。民法典や刑法典と変わらないのではないかというぐらい詳細なものがございます。州憲法レベルで言いますと、私がいました、留学でいました州ですと、消費税率とか公債の発行に関する基準のようなまで憲法に書き込もうとする。
 実は、そこのところは何を背景にしているかといいますと、国民の国会あるいは議会に対する信用度の問題なんですね。比較的信用するという立場であれば、抽象的、概括的なことを憲法に定めて、その趣旨を生かして国会で立法化を図ってくれという立場を取るのに対して、非常に議会に対する信用度が低いという国については、詳細にわたってまで憲法で決めて議会を拘束するんだというような立場を取るところがあります。それは、その各国の歴史ですとか当該国民の代表に対する信用度の問題があるというふうに思います。
 現状で、日本国憲法の定めているものが概括的なために、多くの問題が法律問題に落ちていて、憲法の問題が活性化しないという点は、確かに御指摘のとおりの部分があろうかと思います。そこの点は、実は私自身は、最高裁判所の役割との関係でも問題がありまして、最高裁判所がもう少し積極的に憲法解釈を示すということになりますと、当然それでは問題だということになれば、じゃ国権の最高機関で憲法の改正を検討しようかという動きになるんですが、最高裁判所の方がかなり国会のおやりになることに対して敬譲を払っておられるために、事実上かなりの幅を持って認めてしまっている。だから、そこのところが統治機構全体の中でどういう形にすれば議論が活性化するかということは今後考えていかないといかぬだろうというふうに思っております。
○松井孝治君 ありがとうございました。
 私も同じような感想を持つわけでありますが、さすれば、それは最高裁判所の憲法判断を統治行為論で慎重にならずに、もう少し活発に憲法判断を最高裁判所によってしていただくという手もあろうかと思いますが、それ以外に、現実の法律あるいは憲法解釈の在り方も含めて、だれかが、この日本国憲法の条文あるいは精神に照らしてそれが適切であるかどうかということを判断する主体が必要なのではないか。それが、しかも内閣法制局のように民主的統制が働かない場所ではなくて、ある程度民主的統制が働く場においてそのような議論がなされるべきではないかと私は個人的には思っているんですが、そのような場があるとしたら、それはやはり国会に置くべきなのかどうか、その点について土井参考人の御意見を伺いたいと思います。
○参考人(土井真一君) 内閣法制局はあくまで内閣の法制局であって、その法制局の解釈に国会が拘束されるという筋合いではありませんし、かつ最高裁判所がそれに拘束されなければならないという筋合いでもない。あくまで、内閣がある法案を提出される際に意見としてお聞きになるということだろうと思います。
 国会において独自に憲法の解釈をするために必要な措置を講じられるということ自体は、国権の最高機関としておやりになり得る事柄であって、そこで明確に憲法解釈を示されるということは差し支えないだろう。
 ただ、逆に言いますと、しかし、だからといってその解釈に最高裁判所が拘束されるというわけではありませんので、そういう形で両者の見解が活性化される中で、国民が、じゃどっちの解釈が正しいんだと。どちらの解釈を取るかについて国民投票にかけて意見を聞くべきだというような議論が出てくれば、憲法問題というのは活性化されるだろうというふうに思っております。
○松井孝治君 貴重な御意見、ありがとうございました。
 私も同感でございまして、そういう形で国会自身が憲法についての見識を示す必要があるんじゃないか。おっしゃるように、それと、また最高裁判所、司法が示す憲法に対する解釈あるいは評価というものを場合によっては最終的には国民の判断にゆだねていくというような在り方も、今後そういう考え方を憲法にひとつ入れ込むのも私どもとしては積極的に検討すべきであると、そのような感想を抱きました。
 先ほど、これも土井参考人にお伺いをしたいんですが、憲法を変えるそのかぎというものは結局今の状況では国会が持っている。国民は当然それに対してチェックはできるわけでありますが、しかしながら、憲法を変える、その提案をする発議権を国民に持たせるという可能性について土井参考人は言及されませんでしたが、何らかの形で、本来であれば、それは今の現行憲法手続が想定しているように、それは議会制民主主義の国ですから国会が発議権を持つのは当然のことだと思いますが、例えば憲法の改正に必要な国民投票法がこれだけ長い期間整備されていない。明らかに普通の感覚でいえば国会の不作為であり、それは怠慢というそしりを受けてもやむを得ないことだと思います。
 本来であれば、それは、選挙において国民の意思というものがそういう国会に対して判断が下るべきであると考えますが、しかし、なかなかそれが争点にならないという現状であるとするならば、何らかの形で憲法改正についての発議について、国民がそれを発議をする、かぎを開ける、あるいはその開けるかぎを国民が持つ手法というものについて、土井参考人、御意見がございましたらお伺いしたいと思います。
○参考人(土井真一君) 国民発案、イニシアチブの制度を憲法改正規定を改正して導入するということも、一つの検討する内容ではあろうかと思います。
 ただ、それをするためにはやはり憲法改正をしないといけないわけで、ぐるぐる回ってしまうという可能性もあろうかと思います。私は、これはもう全く試みに考えているという点で確たるものではないんですが、一つ考えられるのは、法律、立法に関する問題についての諮問的国民投票制度を憲法上許されるのかどうかという問題がございます。国民投票制度で法律の承認を拘束しますと、四十一条の唯一の立法機関との関係で問題があるので、事前にこの案でいいのかどうかというようなことについて諮問的に国民に意見を聞くということの可能性が憲法上の問題になっております。学説はいろいろございますが、恐らく私の記憶では、内閣法制局が諮問的であればできるというような見解をお示しになっておられるんだと思います。
 それとの関係で、憲法改正の問題についても、具体的な内容そのものを諮問的にかける必要はなくて、それは正にその国民投票をやるわけですからなんなんですが、そもそもある問題について改正を国会で検討していいのかと、あるいはこの方向でその検討を始めていいだろうかというようなことを、事前にその国民投票的なものを諮問的にかけて、もし過半数が検討してほしいというふうに言えば政治的に検討をするというような形になり得るということもあり得るんじゃないか。
 そもそも改正の問題を検討するかどうかということ自体を国会の内部でぐるぐる御議論になるというのも一つの在り方ですが、こういう議論を始めていいのかどうかということを意見を聞くというのは、諮問的には可能なのではないかというふうに考え、まあ確実にそうだと言い切れているわけではありませんが、そういうことも考えられるんじゃないかというふうには思っております。
○松井孝治君 貴重な御意見、ありがとうございます。
 その意味では、これも土井先生にお伺いしたいわけでありますが、最初に、GHQ案の中に十年に一度改正をするという素案があったというお話を土井先生から伺いましたが、例えば、これは代議制が失敗しているかどうかという判断にもよると思うんですけれども、仮に今の国民の間に現在の議会制民主主義について何らかの部分的失敗があるという判断をするならば、例えば定期的に諮問的国民投票制を導入して、これは憲法問題に限らないかもしれませんけれども、何らかの国民全体の判断を仰ぐような、そういう制度的工夫あるいはそういう政策について土井先生はどのように思われますでしょうか。
○参考人(土井真一君) この十年ごとの会議の招集というのは、実は冒頭、第一のエピソードで申し上げましたジェファーソンの思想を受け継いでいるものだろうというふうに思います。
 現にアメリカの州憲法ではこの種の規定がありまして、二十年か、各州によって違いますが、ごとに必ず憲法改正に関する会議を招集するという形になっております。その場合必ず改正をしているかというとそれはそうではないわけで、取りあえず集まって何もないという状況もあり得るところです。問題は、案件があるときに議論するというのは別ですが、案件がなくても定期的にそういう会議を招集するというのはかなりの負担という部分もあって、理念はそうなんだけれども現実は難しいんじゃないかという議論もございます。
 定期的に何かをするというのはそういう短所の問題もありますので、その辺が適切かどうかということは憲法改正との関係で議論する必要があるところだろうと思います。
○松井孝治君 もう時間がありませんから、最後にもう一点だけ土井先生にお伺いして私の質問を終わりたいと思いますが、土井先生御自身は、先ほど浦部先生から御提起のあったような憲法改正についての限界、具体的にこの部分を改正すればそれは改正ということでは読めないのではないかというような点について何らかの限界があると思われるのか。それとも、竹花先生が明確におっしゃったように、そのような限界はないと判断されているのか。その点について御意見を承りたいと思います。
○参考人(土井真一君) 法的正当性という問題について限界があるとすれば、先ほども申し上げましたように主権の所在の問題であろう。これは、現行憲法に明治憲法から変わりましたときに旧憲法の改正手続を経ました。それを旧憲法の改正だと見るか、新憲法の制定だと見るかの議論があって、先ほど浦部参考人の方からありましたように、八月革命説とか出ましたのは、旧憲法の規定ですと憲法の改正権者は天皇にあったわけです。ところが、新憲法は国民主権を決めている。じゃ、国民が最高の権力を有するんだ、その根拠はなぜだというと天皇がお決めになったからだということになれば、どちらがじゃ最高なんだという議論があるために、それは法的に連続性が切断されることになるという議論が八月革命説等あったと思います。
 私自身も、憲法について最低限、法的正当性の問題はそこにかかわる問題で、国民主権そのものの変更というのは明らかに革命だというふうに言わざるを得ないと思います。それ以外の規定についての変更の問題は、正当性の問題としては出てこない。
 ただ、それが現在の憲法との同一性という問題からすれば、全く別の内容を持った憲法というのを同じだと言っていいのか、やっぱり新しい憲法を作ったというふうに見るのがいいんじゃないかというようなレベルであれば、それはいろいろな規定がいろいろなものと解されるでしょうけれども、それはそういう改正をしたからといってその改正が無効であるというような議論につながるものではないというふうに思っております。
○松井孝治君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 改正手続ということを考えていくと、例えば国会法の改正とか、あるいは国民投票法、いろいろ論点が多くて、本当に後々にしこりを残さないためにも慎重な議論を経た合意形成が必要だなというふうに痛感をしております。特に、憲法改正に限界があるのかどうか、また限界があるとして、その論拠は一体何なのか、また改正の内容の内容的限界というものについて見解が分かれているようであります。
 そこで、まず浦部参考人からお聞きしたいと思っておりますが、レジュメ、そして今の意見陳述等でございますが、憲法の同一性、継続性を損なうものという場合には、もう廃棄とプラス新憲法の制定とみなすべきだという形で限界というものをお述べになっておりますが、この事例の中で、例えば九条二項の改正というものも基本原理の変更である、戦力の保持も認めることは基本原理の大きな変更となるというふうになっておりますが、例えば小林直樹教授は、手段としての九条二項の改正を、改正削除しても、この民主憲法の同一性は損なわれないというふうに言っておられるところであります。
 そこで、まず、浦部参考人には、その改正の限界となるこの基本原理というのはどの範囲までを指すのか、またそれはだれが判断するのか。結局、国民なのか、国会の判断なのか。そしてまた、この九条二項も改正の範囲を超えるという理由をもう少しお述べいただけますでしょうか。
○参考人(浦部法穂君) 九条二項の問題ですが、先ほども申し上げましたように、九条二項の変更は憲法の同一性に影響しないとする学説があるということはおっしゃるとおりでございます。
 ただ、これは私の理解、それから昨今の安全保障をめぐる国際的な動き等々というものを勘案したときに、この九条二項の存在というものこそが日本国憲法の平和原理の大きな特徴を際立たせているということが言えるのではないかと。とりわけ、日本もその外交の柱というふうに位置付けております人間の安全保障という考え方というものは、徹底させれば九条二項の考え方に当然つながっていくということになるわけでありますから、言ってみれば、国の在り方、この国の在り方そのものにかかわる問題をはらんでいるというように考えております。そういう意味で、これを変更することは重要な変更になるというふうに今考えているところであります。
 どこまでがその基本原理と言えるのかというのは、結局は、この国の在り方としてどういう方向を目指していくのかという、そのことを変えるのか変えないのか、そこが基本であろうというふうに考えております。
○魚住裕一郎君 次に、竹花参考人にお願いをしたいと思いますが、先生のお立場は、主権者が判断をすればどういう改正も可能だというふうに理解をしたところでありますが、そうしますと、現行憲法、例えば前文の一項ございますね、「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」という文言、また、九条一項ではいわゆる武力の威嚇とか武力行使がありますが、「永久にこれを放棄する。」という文言がなされておりますし、十一条後段では「基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、」云々とございます。
 これは、見方によっては憲法自身が改正の限界を定めたものであるという、そういう学説も存在するわけでありますが、竹花参考人のお立場からはこれらの規定はどのように読み込むのか、あるいはどのような意味を持つというふうにお考えなのでしょうか。
○参考人(竹花光範君) 私は、それは、いわゆる立法者、この憲法を作った人たちの意思の表明ではあるけれども、決して改正の限界ではない。今日の主権者が過去の主権者に拘束されるということは、これはあり得ないはずであります。そういうことになれば、過去の主権者は主権者であり、今日の主権者は主権者じゃないということになりますので、そういうことはあり得ない。あくまで今の日本国憲法を作った人たちの政治的な意思、それがそこに示されているんだと。しかし、それに拘束される必要は我々はないだろうというふうに思います。
 それから、特に九条等において「永久に」云々という文言が使われていますけれども、これも正にその立法者の意思でありまして、それに拘束される必要はない。これに拘束されるような解釈というのは、正にその立法者の意思こそが最高であって、今日の主権者の意思はそれに従属すべきものだ、従うべきものだという、こういう考え方になるわけであります。
 それから、「永久」というような言葉に、余り言葉の意味といいましょうか、字面に引きずられた解釈はいかがなものかと、そんなふうに考えております。
○魚住裕一郎君 次に、土井参考人にお願いしたいんですが、いわゆる改正条項の改正でございますが、今のこの憲法は、各議院の総議員の三分の二以上という要件、さらに国民投票ということを要求しているわけでありますが、憲法が主権者である国民の意思と国会議員というか代表者の意思が必ずしも一致しないということを前提にしているというふうに考えられます。
 芦部教授も国民投票を廃止することは理論的には不可能であるというふうに述べられているところでありますが、そういうことを考えると、憲法が改正に際して国民投票を要求しているということは、主権者たる国民の意思による承認を経ない改正を認めないという趣旨ではないか。
 先ほど、土井先生の限界はどこなのか、主権の変動以外は改正はオーケーですよと言いながら、しかしやはりここは国民投票という主権者が登場してくる場であるわけでありますが、先生のお立場でこの国民投票をなくすことは、この点はいかがでございましょうか。
○参考人(土井真一君) 国民投票をなくすことの可否の問題、それを憲法改正の限界との関係でどう考えるかという御質問だと思いますが、私自身は個人的に可能であるというふうに考えております。
 というのは、先ほども申し上げましたように、憲法改正権が制度化された憲法制定権力であるがゆえに、私の場合は限界はほとんどないんだという議論をしたわけです。逆に、先ほど申し上げましたように、憲法の規定、詳細な規定に変えると、その代わり、必要に応じれば迅速に変える必要があるんだと、それで憲法の国民投票を要求していると時間的に問題もある、したがって国会限りで、少し要件は厳しくなるのかもしれませんが、改正をするという道を作るんだという決定をすれば、それは一つの決定だと。ただ、そうなってくると、先ほど申し上げましたように、憲法改正についてこことここは国会限りでは触れてはならないという規定が出てくれば、それは合理的な主権者による改正権者に対する制約ということになります。
 この種のやり方は一つのやり方でありますが、結局のところ、じゃ、そういう基本的には議会で変えてはいけないと決めたことを変える際にはどうするかというと、憲法典以外の方法で国民が現れて意見を言わなければならなくなる。そこのところが全体の法秩序の安定性ということからすると非常に不安定な問題を抱える。
 そこで、現行の憲法はできる限りすべてのものを取り入れて、できる限りこの規定に従って改正することを求めたんだと思います。もちろん、立場としてはそれ以外の立場を取るということも可能で、アメリカの憲法の場合にも、現在の議会を使うやり方と、それから国民会議を招集するんだというやり方は当然にあり得るわけで、それはその都度検討することが可能だというふうに思っております。
○魚住裕一郎君 また土井先生にお願いしたいんですが、憲法改正に限界を認めるということでございますが、限界を超えて改正が行われた場合、改正というか、条文の変更があった場合、その効力はどうなるのか。そしてまた、それがそういうことがないようにするための実効的な手段というものがあるのかどうか。
 この参議院の憲法調査会、コスタリカに調査に行きましたけれども、そこでは憲法裁判所に設置された憲法法廷が憲法改正について、手続的側面だけではなくて、内容的側面、内容に関する審査も行っているところでございますが、我が国の最高裁でもそのことが可能かどうかということも含めて、この点についての御意見をいただけたらと思いますが。
○参考人(土井真一君) 私自身が改正権者がだれかということが問題だと申し上げたのは、今、魚住委員がおっしゃられた点が問題でして、実際に国民が国民投票で改正を可としているものを他の機関がそれは無効であると言うことは、国民主権の概念からすると非常に難しい問題を抱えてくる。ところが、議会限りでやったものが、国民で定めたときにこれは変えてはいけないというものを破ったということ自体が違憲なんだという言い方を、例えば憲法裁判所を設けてやらせるというのは一つの在り方かもしれませんが、最終的に国民が変えるんだと言っているものを、最高裁判所があるいは憲法裁判所が国民に対してあなたたちのやっていることは間違いなんだというようなことができるかというと、非常に難しい問題が出る。それはフランスの憲法院でなされた議論の中にも出てくる一つの問題でして、それを考えると、国民投票制度を認めている限りは何らかの別の法的権威を用いてコントロールしようというのは理論的に難しいんじゃないかというふうに考えております。
○魚住裕一郎君 国民投票制度を考えた場合に、いろいろな問題があるんですけれども、例えば改正項目が複数ある場合、一体どうやってやるのかなと、非常に難しく考えられる、だんだん難しくなってくるんですが。
 そこで、浦部先生と竹花先生にお聞きしたいんですが、例えば世論調査を見ても、環境権とか新しい人権はいいけれども、どうも九条改正については慎重な意見も多い。もし、一遍に出した方がいいのか、個別的に、逐条的に投票をしてもらうのか、あるいは関係ある事項ごとにやっていくのか、いろいろな考え方があると思いますが、この点について一言ずつ御意見をいただければと思います。
○参考人(浦部法穂君) これは当然一つずつ賛否を問うという形にすべきものであろうというように思います。もちろん、関連する条項であればそれはまとめてやるということも考えられますけれども、基本的に一つのイシューごとに賛否を問うというのが当然のことであろうと思います。
○参考人(竹花光範君) これは発議機関としての国会が発議をする、国民に提案する際に決めるということだろうと思います。
 もちろん、改正の内容によって一括して賛否を問う方が望ましいという場合もあるでしょうし、個別的に問う方が望ましいということもあるかと思いますが、この点についてはやはり発議機関が決めるしかないだろうと、そんなふうに考えています。
○魚住裕一郎君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 井上哲士君。
○井上哲士君 日本共産党の井上哲士です。
 今日は三人の参考人の方々、本当にありがとうございます。
 最初に、浦部参考人にお聞きをいたします。
 先ほど来、いわゆる正当性という問題が議論になっておりますけれども、手続的問題と同時に歴史的問題、そして国際的な進歩の流れとか、そういうことも含めて私は見ていくことが必要かと思います。
 土井参考人が紹介されたエピソードで、過去の主権者が現在を縛るというだけでなくて、いろんな果実もあるんだというようなこともありました。やはり現憲法の制定過程ということを見たときに、人類の歴史でかつてなかったあの戦争の惨禍を踏まえて作られたということを見逃すわけにはいかないと思います。
 そういう点で、浦部参考人は、この改正に限界があるということを言われ、その中で九条の問題や、そして手続の問題なども含めて言われておりますけれども、そういう歴史や国際的な流れ、そういう文脈の中からこういう点を挙げておられることについて、少し背景などについて御意見をお願いしたいと思います。
○参考人(浦部法穂君) この改正の限界というのは、これは先ほど申し上げましたように、改正の実は概念の問題でありまして、現行憲法の廃棄と新憲法の制定とみなすべき場合というものを若干の例を挙げましたけれども、ここでは主として理論的な観点からこのような限界というものを考えるべきであろうということを申し上げております。
 九条に関しまして先ほど魚住委員の方からの御質問の際に若干触れましたけれども、その九条二項の問題というものについては、日本国憲法下の学説上、二項については同一性に影響しないという説もありましたけれども、今日の時点で、国際的な安全保障に対する考え方等も踏まえて、この二項というものを更に評価してみた場合に、これは今後、日本が進むべき道というものにとって非常に大きな意味を持った規定になっている。そっちの道を進むのか、それともこれを改めて、変更して別の道を進むのかというのは、これは日本の国の在り方の大きな進路の岐路になるという意味で、これについては、今変えるということについては、この憲法の同一性というものに非常に大きな影響を与えるというふうに考えざるを得ないであろうという趣旨で申し上げたところでございます。
○井上哲士君 次に、竹花参考人にお伺いをいたします。
 今の流れとも関係をするわけですけれども、やはり歴史的に見たときに、議会制度が機能しない中でああいう戦争にも突入をしていったと、そういう教訓から、その時々の様々な政治的情勢の中で、国会の構成がどうなってもやはりここは守るべきだという形をしっかり残すという点で私はこの憲法があり、そしてだからこそ改正手続というものについては様々なハードルがあるんだと思います。
 竹花参考人の御意見では、例えば法定議員数の三分の二以上の賛成があれば国民投票を要しないというようなことも考えられるんじゃないかと、こういうことが言われましたが、そうしますと、事実上、通常の法律とは変わらないようなことになりまして、憲法が持っている意味というものがなくなってくるんではないかと私は思うんですが、その点、いかがでしょうか。
○参考人(竹花光範君) 通常の法律の場合には、先生御存じのとおり、今の憲法では出席議員の過半数の賛成でいいということになっていますね。ですから、総議員の三分の二、しかも両院でということは、相当一般の法案との間に差を設けているわけですから、これだけの数の賛成を両院で得るということは大変なことだろうと思います。それぞれの議員が民主的な選挙で選ばれてきている国民の代表であるわけですから、その背後には国民がいるわけでありまして、国民の意思を無視した投票行動は取れないだろうと。したがって、主権者たる国民の意思が反映されて憲法の改正も行われていくということに当然なるわけでありまして、国民投票を経なければ国民の意思を背景とした改正ではないということではないんだろうと思います。
○井上哲士君 繰り返しになるわけですけれども、戦前のいわゆる大政翼賛会というような国会の下で、国民の意思を離れて暴走をしたというやはり歴史はあったと思うんですね。ですから、その時々の政治情勢でいろんな国会の構成になることはあっても、少なくとも国民の直接の意思なしにこの国の土台というものは変えるべきでないということがこの精神かと思うんですけれども、それでもやはり国民投票を必要がないというお考えでしょうか。
○参考人(竹花光範君) 必要がないと私は断定的に申し上げているわけではありませんで、国民投票にかけるかかけないか。
 例えば、先ほどイタリアの例を挙げましたけれども、有権者の一割なり二割なりの要求があるとか、あるいは両院のそれぞれの議員の何割かの要求があるというような場合には国民投票にかけると。それがなければ、両院で三分の二の賛成があればそれで改正は成立すると。こういう方法も考えられます。決して国民投票制を私は否定しようということではありませんけれども、すべての改正を国民投票にかけるというのはいかがなものかなと。
 先ほど申し上げましたように、改正には内容にかかわらない、表現を変えるというような改正だってあり得るわけですね。今の日本国憲法は旧仮名遣いを使っていますよね。これを現代仮名遣いに直すと。内容にはかかわりないわけでありますけれども、これも国民投票にかけなきゃいけないのかと。これは内容にかかわらないんだから、国民投票にかけないで、議会の三分の二の賛成でいいんじゃないか、こうした考え方も当然あり得るんだろうと思います。
○井上哲士君 次に、先ほど少し話題になりました、いわゆる憲法裁判所の問題で、土井参考人と浦部参考人にお聞きをいたします。
 改憲の議論の中で、憲法裁判所を作るべきという議論があります。その一つとして、内閣法制局が事実上、違憲審査権を行使しているという議論もあるわけですが、私は内閣法制局はあくまで政府の法案や政策に憲法の枠をはめる政府の内部でのチェック機能の問題だと思います。
 そして今、裁判所が憲法判断をしているわけでありますけれども、言わば具体的な事件の解決、処理、人権などの問題の、その中で必要だと考えたら裁判所に憲法判断を求めることができるという機能になっております。問題は、先ほどもありましたように、最高裁がなかなか憲法判断をしないということにあるかと思うんですね。
 憲法裁判所になりますと、一審でかつ終審ということになるわけで、今のように三審制度で、それぞれ具体的な問題を通じて憲法に基づく判断を一般の国民が表すことができるということが本来もっと機能すべきではないかと思いまして、私は憲法裁判所導入というのには否定的なんですけれども、その点、土井参考人、浦部参考人、いかがお考えでしょうか。
○参考人(浦部法穂君) 憲法裁判所自体に賛成か反対かと問われますと、これは憲法裁判所というものをどう構成し、どのような権限を与えるかによるというふうにしかお答えができない。つまり、憲法裁判所というものが、憲法についての最終的な判断をするにふさわしい構成が本当に担保されるのかどうか、そのような仕組みができるのかどうかということが問題であろうと思われますし、それから、だれがどういう要件で提訴できるのか、それによってもまた憲法裁判所の性格が変わってきます。それから、憲法裁判所は判決にどのような効力を持たせるのかによっても変わってきますので、憲法裁判所自体が賛成か反対かということについては、それ自体としてはどちらとも申し上げかねるということです。
○参考人(土井真一君) 今、浦部参考人の方から意見がありましたとおり、憲法裁判所の概念によるんですが、一般的にとらえて、すべての憲法事項について排他的な管轄権を持つ裁判所というふうに定義した場合に、それが望ましいかどうかという質問だと受け止めて答えさせていただきますが、これはあくまで学問的にどうだというよりは個人的意見に近いものでありますけれども、私は基本的に反対です。
 それは、裁判所の果たすべき役割については、私は人権を保障するという観点においては積極的に裁判所は役割を果たすべきだと。表現の自由を守る、信教の自由を守るという点については果たすべき役割は大きいと思いますが、統治機構の基本的な問題であるとか安全保障の根幹にかかわる問題は、私は国会議員を信頼すべきである。それは選挙によって選ばれた代表者において憲法を解釈し、守るべき事柄であって、裁判官に排他的にゆだねるべき内容ではないというふうに個人的には思っております。
○井上哲士君 次に、これも先ほど少し議論になりましたけれども、国民投票法がないというのが立法不作為だという議論がありますが、この問題で竹花参考人と浦部参考人にお聞きをいたします。
 元々、立法不作為というのは、国家賠償にかかわるように、ある法律があったり、あるいはなかったことによって、またそれを改善しなかったために、主権者国民の権限や権利が侵害されるということにかかわってくる問題だと思います。最近でいいますと、学生無年金者の問題で厳しい指摘も国会にもされました。
 ただ、この六十年間、それでは国民の憲法改正権がこれによって侵害をされたのかということになりますと、私はそういう事態ではないと思うんですね。そういう点で、この議論の組立てとしては、立法不作為論に立つべきではないと私は思っておるんですが、その点、お二人の参考人にお聞きをいたします。
○参考人(浦部法穂君) 国民投票法は必要になったときに作ればいいんであって、今まで必要がなかったからできなかったというだけの話だろうというふうに認識しております。
○会長(上杉光弘君) お三方ですか。
○井上哲士君 いや、竹花参考人お願いします。
○参考人(竹花光範君) 私も先ほど申し上げたかと思うんですが、立法不作為というような批判があると。しかし、私はそこまでは考えない。ただ、立法府として、それから憲法改正の発議機関としていささか怠慢だという批判は、これはあり得るだろうと。憲法改正ということが言わば政治日程にのる、現実化する、そのときに国民投票法を制定すればいいんだと、これはいかがなものかなと思います、そういう考え方は。ちゃんと九十六条に憲法改正の場合には国民投票にかけるんだということが明記されているわけでありますから、発議機関であり立法機関である国会は、憲法改正の是非論、あるいは憲法改正が政治日程にのっているかのっていないか、そういう問題はおいて、やはり必要な法的な整備というものは行う責任があるんだろうと思います。
 そういう意味においては、立法不作為とまでは言えない、まだ憲法改正ということが現実化しておりませんし、政治日程にのってきて従来いたわけではありませんので、そこまでは言えないけれども怠慢であると。甚だ、余り学問的な表現じゃありませんけれども、そんなふうには考えています。
○井上哲士君 最後に、改憲の議論の中では、現行憲法には国民の義務とか憲法遵守義務がないということを問題にする議論もあります。
 この点で最後に土井参考人にお聞きするんですが、近代の憲法論の中でいいますと、憲法というのは言わば主権者たる国民が言わば政府に対して縛りを掛けるといいますか、そういうものであるのであって、あくまでも主体は国民であるから、これに遵守という義務を入れる必要はないという議論もありますが、この点は土井参考人はいかがでしょうか。
○参考人(土井真一君) 義務の問題で、遵守義務の問題、それから一般的な義務規定が少ないんじゃないかという二つの問題であろうかと思いますが、実は権利を規定するということ自体一つの義務を課しているわけで、例えば表現の自由を尊重するという規定を設ければ、当然他者の表現の自由も尊重しないといけないわけですし、信教の自由を保障するということは、他者の信教の自由を保障しながら自分の信教の自由も尊重してもらうという形で、当然相互に人権を尊重をし合う義務というのは前提にされているだろう。
 ただ、それを超えて、公共の目的のために様々な義務を課すというような場合について憲法に書き込むかといいますと、それは非常に多くの義務が当然含まれてくるわけですし、いかなる義務を課すべきかということを実質的に議論されるのはこの国会の場なわけですから、じゃ憲法にすべての義務が列挙できるかというと、それは難しい。その意味では、権利章典というのは基本的に保障されるべき権利を列記し、その相互尊重義務を原則と定めた上で、それ以外の点については国会の法律に従ってほしいという規定にするのが一番合理的だろうと思います。
 憲法遵守義務につきましてはいろいろと問題がありまして、憲法に反するようなことをやれば直ちに何らかの法的な制裁が加わるのかと、個人の国民に対して加わるのかという問題があります。憲法の内容自体は必ずしも明確なわけではありませんし、国民自身は自由の主体ですので、その意味では、遵守義務というものを入れることについては私は慎重に検討した方がいいというふうに思います。
○会長(上杉光弘君) 田英夫君。
○田英夫君 大変いいお話をありがとうございました。興味深く伺いました。
 最初に、若干私の意見、感想を申し上げたいんですが、浦部さんが九条二項の問題について、これを改めるということは新しい憲法を作るということと並ぶぐらいの重要な問題だと言われたことに感銘しております。
 私は、この憲法ができたときに戦争から生きて帰ってきた、そういう状況の中でこの憲法を読みましたから非常に感動をしたんですが、あのときの状況というのは、後で伺いたいんですが、つまり、ある時代の産物であるとかあるいは世代の問題であるとか、それから土井先生、土井さんが言われたジェファーソンの例で、次の世代に押し付けるべきじゃないと十九年という期限を付けたというお話も本当に興味深い。どうして十九年なのか分かりませんけれども、非常に面白いことだと思います。
 その意味で、そういうことを含めて、九条二項というのは、単なるあの時代の、戦争に負けた日本のあの時代の所産ではなくて、今後とも、過去の果実ということも言われましたが、そういうものとして大切にしていかなければならないものだと私の世代からは思います。
 あのまま戦争が続いていれば、沖縄の状態が本土全国に及ぶ、あるいは広島、長崎のあの惨状が東京を始めとする全国に起こる、何百万の死者が出たわけですが、それが何千万の死者になっていたかもしれないという、そういう非常に差し迫った厳しい状況であったと。
 その戦争が終わった中で決められた、しかも、この九条に関する限りは、私の承知している限りでは、幣原喜重郎首相を始めとする日本側が発案をし、これをGHQに幣原さん自身が持ち込んでいって了承を得たというふうに理解をしておりますが、そういうことからして、本当にこの九条二項という問題についてはもっともっと若い皆さんも重要な問題として特別に考えていただきたいと、こう思っております。
 そこで、お三人の皆さんに伺いたいんですが、確かに、一般的に言えばその世代その世代、あるいはその時代の産物として憲法もあるわけですけれども、ジェファーソンのエピソードを言われましたけれども、結局はしかし十九年ということは通らないで、十九年で失効してしまうというような考え方は通らなかった。
 この九条二項に限りませんけれども、私は、本当に国家の重要な規定は、不磨の大典という言葉は使いませんけれども、特別に扱っていいのではないかと思いますが、お三人の方、簡単に御意見を伺いたいと思います。
○参考人(浦部法穂君) 私の印象的な話になってしまいますけれども、九条二項も含めて、どうも重大な問題が余りにも軽く扱われているというのが今の状況としてあるんではないか。特に学生などに接しておりますと、その問題の重大性というものを必ずしもきちんと認識した上で考えてはいないと。
 例えば、自衛隊の存在を認める、世論調査などでは見解が多いというふうに言われますけれども、しかし、じゃ自衛隊にどういう役割が本来的な役割として期待されているのか、その本来的な役割をもし自衛隊が果たすような事態になったときには、じゃ我々のこの日本はどうなるのか。そうなった場合には実は我々自身に非常に大きな惨禍が降り掛かることになるわけで、そういう事態というものを招かないようにするにはじゃどうしたらいいのかという、そこまで考えないとこの九条二項を変えるか変えないかというような問題は本来議論できないはずだろうというように思います。ところが、そういうことを抜きにして、何か、もう今時代に合わなくなったといったような非常に軽い雰囲気で議論をされているというところに私は非常に大きな危惧を感じております。
 そういう意味で、先ほど言われましたように、本当にこれを変えるというんだったら、国民の七割ぐらいは支持するというぐらいの機が熟したということでないとここを変えるべきではないだろうということを申し上げたかったということでございます。
○参考人(竹花光範君) 私も軽々に変えるべきだなんというふうには考えません。よほど慎重であるべきだろうとは思います。
 ただ、先ほど申し上げましたように、私は改正無限界説に立っておりますが、これは法的に無限界であると言っているのでありまして、当然主権者の政治意思にかかわる限界はあるわけでありまして、主権者が変えようと思わなければ変えられないということであります。
 今日の日本国民が九条についてどういう考え方を持っているのか、なかなかちょっと世論調査などを見ましても十分に読めないところはありますけれども、少なくとももう二度と戦争はしたくないと、ただし侵略があった場合には、いわゆる自衛のための抵抗戦、これは当然の権利だろうと、そのために必要な最小限度の武力というものは持つべきであると。現在の自衛隊がその範囲内のものかどうか、これは議論がありましょうけれども、大方の国民はその範囲内のものであるというふうに理解をしているわけであります。その少なくとも自衛隊を憲法上認知するというぐらいの私は改正は必要なのかなと。あれだけの武装集団について国家の最高法規である憲法の中に一言一句触れていないというのは、これは異常な状況ではないか、そんなふうに考えています。
 九条の改正に関しましては、場合によれば、私は一項も二項もそのまま残しまして、三項に解釈条項を置いて、自衛のための最低限度の武力というのは前項で言う陸海空軍その他の戦力に当たらないんだというようなことを定めて、それによって自衛隊を認知していくというような考え方もあるんじゃないかと、そんなふうに思っております。
○参考人(土井真一君) 憲法の改正の問題というのは非常に歴史的に難しい問題でして、十九年というジェファーソンの意見があった合衆国憲法は二百年を超える歴史を持っている。しかし、アメリカの憲法は二十七の修正を加えておりますが、その最大の修正と言われるのは十三条から十五条までにかけての修正、平等あるいはデュープロセスを定めた条項です。しかし、これを定めるためにアメリカは南北戦争を起こして、北軍が南軍を占領して、その占領下において修正を行わしている。それは正に奴隷制度をどう受け止めるかという問題をめぐって血が流された歴史があります。
 したがって、ある争点をその正規の憲法改正手続を経ることによって平和裏に解決をするのか、それとも血を流すことになるのかというのは、各国の歴史にかかわる問題であり、それがどのタイミングで何を諮るのかが一番重要だがゆえに、国権の最高機関が発議の権限をお持ちになっておられるということであって、それは非常に賢明な判断が必要なことだろうと。
 九条に関しましては、これは九条の法的規範性をどうとらえるかという問題も絡んでくると思います。理想として、やはり自衛のためであったとしても戦争をしないで済む世界というのが望ましいということが理想ではないとはだれも思わないと思うんですね。ところが、二項の書き方は非常に規範性の強い書き方をしているものですから、だからその理想云々の問題なのか、直ちにこれを実現しなければいけない問題なのかという点をめぐって大きな議論がやはり出てくる。理想そのものをどう書くかというやり方と、その理想に向けて現在どういう制度を設けるのかというやり方は議論があり得るところであって、そういうものを慎重に議論した上で一番いい規定の仕方があるというのであれば、それを検討するのが望ましいというのが私の考え方です。
○田英夫君 次の問題は全く今日のテーマから若干外れるかもしれませんが、憲法ということを考えて、土井さんに伺いたいんですけれども、今まで憲法というのはそれぞれの国家が国と国民の関係などを規定するという形で作られてきているわけですが、今度はEU憲法というのが出てくる。これは全く従来の憲法と違った、国家を超えてその地域の各国に共通のことを定めようとしているわけですが、これはどういう意味といいましょうか、今までの憲法の考え方では律しられないことだと思いますが、御意見を伺いたいと思います。
○参考人(土井真一君) 憲法における歴史と伝統をどう取り扱うかという問題はやはり非常に大きな問題でして、一番最初の段階で山崎委員からも御指摘のあった点だろうと思います。
 EUの問題というのは、確かに国家間の連合という形で実現していくわけですけれども、しかし同時に、やはりヨーロッパの伝統というものがある。個々に見れば言語も違えば文化も違うんですけれども、やはりヨーロッパが培ってきたキリスト教文化等を含めての伝統がある。その中でできるだけ大きな平和的な共同体を作りたいという意向で広がっていく。人権のような問題については更に世界的な広がりは持つということも考えられるかもしれません。しかし、全世界を見れば、やはり文化も伝統も考え方も違う民族があるわけです。それは現在あちこちで行われている紛争を見てもそういう形態を持っている。
 じゃ、一つの国家あるいは一つの伝統の中で生み出されてきたものが普遍なんだという形で徐々に説得をして広めていくということは可能であったとしても、これが唯一の解答であるという形で力で強制できるかというと、これは一つの大きな問題を引き起こす。
 だから、その憲法の中においても比較的普遍性のあるもので説得していくような内容のものもあれば、各国の伝統の中で培われてきているものもあるんであって、それは区別して議論する必要があるだろうと思います。
○田英夫君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 岩本荘太君。
○岩本荘太君 無所属の会の岩本荘太でございます。
 本日は、どうも参考人の皆様方いろいろありがとうございました。冒頭のお話並びにその後ほぼ一時間半近い間の皆様方の質疑をお聞きいたしまして、私、大変勉強させていただきましたが、と同時に、今までお聞きしたほかの課題と比べまして大分私にとりましては難しいなというような感じがいたしまして、したがいまして、いろいろ御質問することが私の勘違い、あるいはもう既にお話しになっていることに当たるかもしれませんが、その辺はひとつ御勘弁をしていただいて、簡明、簡潔並びに易しくお答えを願いたいと思っております。
 まず、浦部参考人でございますけれども、先ほどからいろいろ出ておりますけれども、同一性、継続性、改正の限界の問題でございますが、まあ私はこれ、冒頭のお話をちょっとお聞きしておりまして、いわゆる改正か、現憲法の改正か新憲法の制定かという違いは、それによって国民に知らしめる程度の違いというような感じでちょっと受け取っていたんですけれども、その後の皆さんの御質問でちょっと、先ほど新憲法の制定に当たるものであれば革命というようなことをちょっとおっしゃったような気がするんですけれども、それがちょっと引っ掛かるんですが、革命となりますと、革命というのは、私の解釈では現体制の否定ですよね。そういうものが革命だと思うんですけれども、そうした場合、現実に今この改憲論議をいろいろ伺っておりまして、先ほどから出ております九条二項にしましても、それ以外の新憲法制定に相当するというもろもろの要素は、現体制では恐らく、与党サイドといいますか、国会議員の中の体制を維持している側のお考えが強いんじゃないかなというような感じがするんですね。
 そういう中で、それを、現体制を否定して、もう革命ということで体制を変えていくというようなお考えであるとすれば、現実性が非常にないのかもしれませんけれども、その辺の革命といいますか、それ、そういうものをどういうふうにお考えになっているのか、その辺をちょっとお聞かせ願いたいと思うんですけれども。
○参考人(浦部法穂君) 革命というのは憲法体制の変革という意味で、法的意味での革命ということを申し上げたわけで、政治体制をひっくり返すという意味での革命になぞらえた言い方というふうに御理解いただければと思います。その政治体制の変革と同じ意味で革命ということではなくて、憲法体制を根本的に変革するという意味で革命というふうに申し上げたということであります。
 それと、私が先ほど申し上げた諸点は、与党の皆さん方にとっては別に変革でも何でもないということのようでありますけれども、だったら憲法を新たに制定する必要はないわけでありまして、現憲法で十分やっていけるという話になるんだろうと。そういう意味で、新しく憲法の基本的な原理までを含めて変革しようというのであれば、それなりの必要性というものをきちんと示す必要があるのではないかということを申し上げた次第です。
○岩本荘太君 そうしますと、新憲法の制定に相当するということは、先ほど冒頭申し上げましたように、そういう国民的な意識を持つべきであるというふうに解釈してよろしいわけですか。
○参考人(浦部法穂君) 正にその点を私は申し上げたかったわけで、きちんとそういう、それほどの重大なことだよということをきちんと国民に提示した上で議論を深めるべきであろうと。しかも、それは単に過半数が賛成しているとかといったようなレベルではなくて、国民の大多数がそれに賛同する、賛成するというようなことがなければやるべきことではないだろうということを申し上げたわけです。
○岩本荘太君 次に、竹花参考人にお願いいたしたいんですが、レジュメにもありますけれども、いわゆる憲法は普通の法令よりも高度な安定性が要求される、これもそのとおりだと思いますし、また時代の所産でありますから、全然変えないでいいというものでもないと思うんです。
 そういう流れだと思うんですけれども、国民投票にかけないでもいいじゃないかというようなこともお書きになっておりますけれども、その点をちょっと触れさせていただきますと、憲法と法律というのは、私、素人ですから、私が言うのもおかしいかもしれませんけれども、憲法というのは国民が国に対して課した、単純に言えば、そういう規定じゃないかと思うんですけれども、法律というのは逆に言えば国が国民に課したものだと思うんですけれども、そういうものを国民不在でやることによって、やることの是非というのが一つ何か問題があるんじゃないか。問題といいますか、ちょっと考えなきゃいけない点があるんじゃないかと。
 国民に対して憲法というものはもっと浸透させるべきものでないのかなというような感じが一ついたしますのと、それからもう一つ、お話伺っていて、そういうふうに簡単なことはいわゆる国会だけでやれるというような国民投票不要ということは、せんじ詰めてくると憲法に盛るべき項目を極力縮めるといいますか、そういうことにもなるんじゃないのかなというふうに私は解釈するんですけれども、その辺のお考えをちょっとお聞かせ願いたいと思います。
○参考人(竹花光範君) 私は国家と国民を分けるという考え方は取りません。少なくとも、民主国家において民主政治が機能していれば、国民の意思と国家の意思はイコールなはずであります。民主国家においては、憲法というのは国民が国家に与えたものということよりは、国民が自らに与えたと言ってもいいと思います。それから、法律も同様でありまして、その点においては法律も憲法も変わりはない。
 ただ、憲法というのは国家のもちろん最高法規で基本法であるということでありますから、効力は他の法令よりもちろん上位にあるわけでありまして、したがって、また改正の手続も他の法令に比べれば加重されるということだと思います。
 その加重の程度がどの程度であるべきなのか。例えば三分の二でいいのか、あるいはもっと加重すべきなのか、さらには国民投票にかけるべきなのかと。その辺はいろんな考え方があると思いますけれども、私は改正の内容によって国民投票にかける改正と国会だけで決めていい改正と、これはあり得るんだろうと思うんですね。すべての改正を必ず国民投票にかけなければ主権者たる国民がその改正を認めたことにはならないと、その改正にいわゆる正当性の根拠がないことになってしまうということではない。
 要するに、国会の議員も、先ほど申し上げましたけれども、すべて、民主政治が機能していれば、民主的な選挙でその国民の代表として選ばれてきた人たちでありますから、その議員の意思というものと国民の意思というものがそごするということは本来あってはならないわけでありましょうし、そういう考え方に立つならば、国会で改正の内容によっては決めて、国民投票にかけないということも当然あり得るんだろうと思います。
○岩本荘太君 今のお考え、私も大賛成でございまして、そういうものに近づくことがあらゆる問題が解決していくんじゃないかというような気がするんですが、現実として、どうもこういう世界に入っておりますと、必ずしもそうかなと言えるところもありますので、こういう質問をさせていただいた次第でございます。
 最後に、土井参考人に。
 ちょっとこれ、先ほどのお話の中で御説明あったのかもしれませんが、あれですよね、この憲法は国会で発議されますけれども、いわゆる国会は立法府で、いわゆる法律を制定する権限があるわけですよね。それで、憲法はその上位規範であるわけですね。そういう立法機関であるところが憲法を発議するということが何かしっくりこないところがあるということと、それで憲法制定権者である国民の意思は今の制度では反映すると思いますけれども、意見というのは果たして反映するかどうか。
 これ、考えようによっては、国会議員が代表ですから反映されるといえばそういうことになろうかと思いますけれども、国会議員もこれ、やはりそれぞれ任期のあるものですし、要するに当選した後、必ずしもそのまま一体であるかどうかというのは分からないという感じを持っておりますので、その辺の、立法府がその上位規範を発議するということについての妥当性といいますか、私の矛盾、矛盾というか、意味が分かっていただければ何か御意見をお聞かせ願いたいと思います。
○参考人(土井真一君) 今、岩本委員からいただきました御質問は、基本的に本人と代理人との関係だろうと思うんです。本人が行為するための要件が代理人の発案になっていることはどうかという御意見だろうと思うんですが、基本的に憲法の現在の考え方は、国会が国民の代表機関あるいは国権の最高機関として国政全般に対していろいろと配慮をされると。で、問題が生じた場合に、国会限りにおいて、つまり代表者限りにおいて解決できる問題は立法権限を通じて解決なされると。ただ、これは自分たち限りでは解決できない問題であって国民自身の意見を聞くべきであるという形で憲法の問題になる場合には、憲法の改正を国民に対して提案するという構造になっているんだと思います。
 ただ、おっしゃられるとおり、問題が発生しますのは代理人と本人の利害が一致しない場合。よく言われるのは、現在の議員にとって有利である、しかし国民からすれば現在の議員にとって不利な変更を望むような場合には、現在の議員にのみ発議権を認めると国民が求める改正ができないのではないかという問題は存在するところです。それが先ほど申し上げました各国で国民発案、国民の側から提案をするという制度をどういう形で組み入れるのが望ましいかというふうに議論されているところです。
 ただ、国民発案を広く一般に認めますと様々な案が出てきますし、一体その案のうちどれをかけるんだという問題が出てきますと、やはり代表機関が何らかの形で責任を持って処理されなければならないということになるわけで、発案制度というのは、必要性が指摘されると同時に、なかなか実現する場合に難しい問題を抱えているというのはそういう点ではないかと。その限りにおいて、日本国憲法の考え方は代表者に任せようということだと思います。
○岩本荘太君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 速記を止めてください。
   〔速記中止〕
○会長(上杉光弘君) 速記を起こしてください。
 ただいまの参考人質疑を踏まえて、一時間程度、委員相互間の意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いいたします。
 なお、発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は挙手をお願いいたします。
 森田次夫君。
○森田次夫君 自由民主党の森田次夫でございます。
 今日は最高法規の章、これに絞りましての私の私見を申し上げさせていただきたいと思います。
 去る五月三日でございますけれども、読売新聞社が憲法改正二〇〇四年試案、これを出されましたが、これは一九九四年にも出ておりまして、それについての発表でございますが、一九九四年の試案につきまして、ただいまの浦部参考人は、本日の配付された参考資料にもございますが、その中の論文の中で、現行の第十章、最高法規の章を削除したことにつきまして、憲法に対する無知、無理解と厳しく批判をされておるわけでございます。
 浦部参考人は、削除した理由といたしまして、ジス・イズ・読売でございますが、これは一九九四年の十二月号でございますけれども、これに掲載された解説を読んでみると、九十七条は「国民の権利及び義務」の章の第一条と重複している、それから九十八条二項は改憲試案で「国際協力」の章に移行した、それから九十八条一項と九十九条は前文に「この憲法は、日本国の最高法規であり、国民はこれを遵守しなければならない。」、このように規定をしている、以上の理由で読売試案は最高法規の章を削除したとのことであるが、浦部参考人は、九十九条は公務員に対して憲法の遵守を求めているものであって、国民一般に対して求めているものではない、最後の方の御質問の中でもこのことが出ておりましたし、それから主権者である国民の信託に基づき国政を担当する者、すなわち公務員でございますけれども、に対して遵守すべき基本事項を定めたのが九十九条であり、決して軽いものではないんだと、このように強調をされております。
 また、九十七条につきましては、経緯は多分に偶発的要素と、こう言っておりますけれども、これはホイットニー民政局長が自らこの条項を立案して、そうしたことで総司令部に我が国も配慮した条項と言われていることを指しておると思うんですけれども、この偶発的要素があったとした上で、人権保障こそが日本の最高法規であることを確認する意味からも十分に存在理由があるんだと、あっさりと削除されてよいものではない、このように述べておられます。
 そしてさらに、人権感覚のお粗末さと無関心の象徴の表れと、これまた読売試案を厳しく批判をしておるわけでございます。
 一方、駒澤大学の西修教授は論文の中で、九十九条は憲法の尊重擁護義務の主体として公務員が明記されているが、国民という文言は書かれていない。ということは、国民が憲法を尊重し擁護する義務があるのは当然のことで言わずもがなである。竹花参考人も同じようなお考えではなかったかと思います。しかし、そこまで条文から読むことができる人はそんな多くはないんだと。それゆえ、多くの国で憲法に国民の憲法尊重義務を明記していると、我が国でも九十九条に国民の文言を加えるべきと述べており、浦部参考人と意見を異にしておるわけでございます。
 これは私は国民も含んでいるとは思うんでございますけれども、どちらの意見が正しく、どちらの意見が誤りであるかと、これは私として正しく判断する知識は持っておりませんけれども、ただ、人によって憲法解釈が異なるような、そういった憲法はこれは問題である、このことだけは私は確かであろうというふうに考えております。
 さらに、九十八条第一項でございますけれども、憲法は国の最高法規であり、その条項に反する法令は一切無効であると、このように規定しておるわけでございますが、他方、第二項では、条約や確立された国際法規が誠実に守らなければならないとも、このようにもうたっておるわけでございます。
 そこで基本的疑問が生じるわけでございますけれども、果たして憲法に反する条約など誠実に守る必要があるのかと、こんなにも思うわけでございます。このことにつきましては、憲法優位説だとか、条約優位説あるいは折衷説があるわけでございますけれども、憲法と条約との優劣関係は大変重要な問題でございます。私はこうした議論があることこそ問題があると考えておるわけでございます。
 そこで、私は、簡明でだれにでも理解でき、そして時代に即応した憲法を日本人の手で作ることこそ今国民が求められているんではないかと、このように思うわけでございます。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 鈴木寛君。
○鈴木寛君 民主党の鈴木寛でございます。
 今日は正に「改正、最高法規」というテーマで、憲法制定権力あるいは改正の担い手の在り方について非常に三人の参考人の方から貴重な意見を聞けたことをよかったなというふうに思っております。
 それで、やはり今日再認識をいたしましたのは、改正の担い手というのはやはり国民にある、我々、国民主権というものをきちっと認識をしていかなければいけないと、こういうことだったと思います。しかしながら、私の意見といたしましては、こうした憲法調査会での議論を機に、やはり改正の手続といいますか、国民の民意あるいは総意というものをきちっと集約をしていく、あるいはそれを盛り立てていく、盛り上げていくということについてのやっぱり議論をこの際きちっと始めるべきではないかということを認識をいたしました。
 しかし、その中で、私は多少情報とかコミュニケーションということを勉強、研究をしてきた者の立場からいいますと、国民の民意あるいは国民の総意というものは、静的なものではなくて、極めてダイナミックであり、かつ進化するものであります。我々がこの改正手続あるいは新しい憲法を作っていく、あるいは新しい憲法を新しい時代のものに、そぐうものにしていく上でやはり極めて留意をしなければいけないのは、いかにこの多様で多層な民意というものをきちっとくみ上げていくのかと、その点については極めて丁寧にやっていかなければいけないと。それから、その中で、進化をしていく、動いていくものなんだということも十分留意をしなければいけないというふうに思います。
 その中で、私たち国会議員が確かに選挙によって国民の代弁者としてこの場にいるわけでありますが、我々はどういうことを国民の皆様方から信託をされているのか、任せていただいているのかということについてはきちっと謙虚にとらえるべきではないかと。
 私が思いますに、我々は民主政治の担い手として、それに足るふさわしい見識と能力を持っているであろうということを期待され、そしてそういう仕事をすることを期待されているんだと思います。すなわち、私たちが、国会議員が担うべきは、そうした民意を醸成をしていく、きちっと国のあるべき姿について国民全体の議論を喚起し、そして的確にその議論を深めるという、正に熟議、議論を熟す、そうしたことの正に進行係あるいは編集者として、私は、国会議員というのは十分にその職責を全うしていかなければならないのではないかというふうに思っております。
 いろいろな思いというものを情報という形に抽出をする、そしてさらにそれを国家、社会全体として共有をする、そしてさらに議論をするというのは、極めてそのためのきっかけでありますとか刺激でありますとか、いろいろな議論の材料でありますとかを提供するということが必要であります。
 それから、もちろん国会というのは最高の議論の場ではありますけれども、それに至る過程では、極めて多様なフォーラム、正に議論のための公共圏というものを精緻に、かつ丁寧に作り上げていく。その中で重なり合う公共圏、議論の場というものをきちっと設定をし、その中で十二分な議論が行われ、それが十二分に抽出をされて、これは何も時間を掛けろということを言っているわけではありません。でありますが、そこに我々は多大なエネルギーを注ぎ、そして極めて意義深い国民全体の議論を喚起をすると。そのための枠組み作りあるいはプロセスというものについて更に精緻な議論と熱心な検討が必要ではないかなということを再確認をさせていただきまして、正に我々と国民の皆様方のキャッチボール、対話、これは一方通行ではなくて、そのことを行うための手続法についての検討に着手すべきではないかというふうに考えました。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) 山口那津男君。
○山口那津男君 公明党の山口那津男でございます。改正について所感を述べたいと思います。
 今日の参考人の議論は、主要な論点というのは、改正に限界があるかというところであったと思っております。この憲法が国民の生存と秩序を保つ最高法規であるとするならば、その生存と秩序を決定的に脅かす事態に直面した場合に、その国民は新しい憲法を制定する、あるいは憲法を変えるということは許されてしかるべきだと思います。その制定や変更をどう説明しようとも、まあ限界がおのずから理論的にあるというのは承服し難いところであります。限界があると仮に言ってみても、それに違反した改正を無効とする制度というものが存在しない、あるいはこれを作ることが非常に困難でありますから、限界論を理論的に言ってみても余り意味のないことであるかもしれません。しかしまた、政治的な主張としては、この限界説というのは非常に大きな意味を持つと、こう思っております。
 そこで、憲法の予定する統治機構の下で憲法を変更しようとする場合には、改正規定、九十六条の改正規定の手続要件の大きな枠というものは守らなければならないと思います。必ずしも解釈が確定しているわけではありませんけれども、その大枠というものを全く無視するという改正はできないものと思います。
 この改正手続規定が厳し過ぎるから要件を緩めるべきである、そういう意味の改正をなすべきであると、こういう主張もあるわけでありますが、改正の内容を確定する、まあコンセンサスができるということと改正の厳格なプロセスを踏むということは同等の政治的なエネルギーが必要だろうと思います。したがって、これを緩めることは、より小さなエネルギーで紛争ないし論争を生むことを多発させるという意味で妥当なこととは思われません。
 九十六条には具体的な改正のプロセスが明示されていないわけでありますが、この九十六条に規定した大枠を実質的に緩和するような法律等の制定は許されないものと思います。国民投票法の制定が必要であるということは当然のことでありますけれども、しかし、改正の内容が成熟化していないのに、今からこの国民投票法を確定しなければならないというのは時期尚早だろうと思います。むしろ、改正の内容の成熟化と同じタイミングでこれを論議すべきであると思います。国民一般にもこの改正を視野に入れた上での手続への意見を述べる機会というものを十分に保障することが必要だと考えるからであります。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 小泉親司君。
○小泉親司君 「改正、最高法規」のテーマに関連をして発言させていただきます。
 今日は大変参考人の方々の御意見の非常に勉強になりましたが、やはり問題は私は憲法改正の必要性はあるのかという点であるというふうに思います。私ども日本共産党は、皆さんもよく御存じのように、今日の日本において憲法改正の必要は全くないと考えております。それどころか、憲法の精神及び原則を暮らし、政治に生かすことが最も肝心なことだというふうに考えております。
 これは議論の余地なく、日本国憲法は戦後五十九年一度も改正されておりません。その理由は、私は、最大の理由は、この日本国憲法が九条を始めとする恒久的な平和主義及び基本的人権、こうした点で大変先駆的な憲法であるということがあると。その結果として、この憲法が国民に深く定着しているということに最大の理由があるというふうに私は思います。
 この間、憲法調査会でヨーロッパやアメリカなどに行かせていただきましたが、例えば憲法九条の問題についても、アメリカの調査では、オークランドの市長が、大変、日本が侵略戦争をやった教訓や広島、長崎を経験した教訓から、こうした九条は維持すべきだということを述べられたことを大変今思い出しております。スペインやコスタリカでは、大変スペインの、私この憲法調査会でも申し上げましたが、護民官制度といって、いわゆる憲法がいかに国民生活の中に深く定着しているか、定着させていくかというような取組がなされていること、先ほども出ましたが、コスタリカで最高裁判所の憲法法廷の中でいわゆる駆け込み寺的に違憲の訴えができるような制度を持っていること、こうした点でも日本の憲法は大変、基本的人権が単なる個人の人権ばかりじゃなくて大変社会権なども含めた先駆的な憲法であり、この基本的人権がいかに生かされていくかというところを私は大変今後重視すべきなんじゃないかということを強く私は主張したいというふうに思います。
 憲法改正や改憲を主張される方々は、自衛隊が国際貢献のために改正が必要だとか、憲法は今日の国際社会の現状に見合ってなく、古くなったとかいう、いろいろ理由を言っておりますが、私は平和、安全保障の論議でも強調したことでありますが、日本が世界で有数の経済大国になり、その力を国際貢献に生かす道は自衛隊の海外派兵による軍事貢献ではないと思います。貧困の解決や医療、教育などの非軍事的手段での貢献を大いに展開すること、それが憲法の平和原則にかなった方向でありますし、イラクやアフガニスタンなどを含む国際社会から最も切望されていることじゃないかというふうに思います。
 憲法は時代に合わないと言いますが、私は国際紛争の平和解決、戦争の放棄、武力の威嚇及び武力の行使の禁止、こうした今日の規定は今日の国際社会の中でも大変強く輝いているというふうに思います。最近のイラクの事態を見ましても、あの捕虜収容所での拷問、虐待、こうした事件は私は軍事占領の必然的な結果だと。特に、これは国連憲章にも反してアメリカが強行したイラク戦争の結果でもあると思います。イラク戦争やアフガニスタンでの報復戦争の教訓は、戦争ではテロを根絶することはできない、軍事力の対応では平和で民主的な国づくりはできないということを証明していると思います。テロの根絶の戦いは何としても粘り強い国際社会の団結した取組以外にはない。その点から、日本国憲法の精神に立った国際社会への貢献が大事になっていると思います。
 私、昨年、憲法調査会の海外派遣でコスタリカに行ってまいりました。この国では、周知のように常備軍を持っておりません。有事の際には憲法上の軍隊を持てるという規定になっておりますから、九条のように徹底した恒久平和主義ではありませんが、私が感動したのは、コスタリカ政府が、憲法に基づいて自分の国は常備軍を持たないという方針で関係各国と対応するのだ、その理想を貫くのだという強い意思を持って中米の平和に貢献している姿でした。
 日本がアジアの平和を目指してこういう立場で対応することは決してできないことではなく、それは政府の政策と方針と確固とした意思がそうする必要があるので、この点で、私は、九条をいかに日本の平和、アジアの平和、世界の平和に生かす道を取るか、ここが最も大事な点だと思います。
 最後に、国民投票法案の問題について一言だけ触れておきたいと思いますが、法案は国会の外でいろいろ議論がされて、法案は国会には一度も上程されておりませんので、内容の真偽は定かでありません。しかし、今回の法案は、何を憲法の改正で変えたいのか全く分からないままに、九十六条の手続法だと言っておりますが、憲法は憲法の改正が必要な場合に特別の国民投票を定めているもので、改正が必要でないという立場に立てば全く不要なわけですから、私どもはこのような法案作成には反対であります。
 今、小泉総理が国会で自衛隊の国軍化だとか集団的自衛権の行使などと言っておりますが、この点では、我が党はこのような改憲は認められないということを強く主張して、発言とさせていただきたいと思います。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 他に御発言はございませんか。他に御発言もないようですから、本日の意見交換はこの程度といたします。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後四時二分散会

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