第161回国会 参議院憲法調査会 第5号


平成十六年十一月二十四日(水曜日)
   午後一時開会
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   委員の異動
 十一月十八日
    辞任         補欠選任
     家西  悟君     前川 清成君
 十一月二十二日
    辞任         補欠選任
     喜納 昌吉君     白  眞勲君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         関谷 勝嗣君
    幹 事
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                武見 敬三君
                舛添 要一君
                鈴木  寛君
                簗瀬  進君
                若林 秀樹君
                山下 栄一君
    委 員
                秋元  司君
                浅野 勝人君
                岡田 直樹君
                河合 常則君
               北川イッセイ君
                佐藤 泰三君
                桜井  新君
                松村 龍二君
                三浦 一水君
                森元 恒雄君
                山下 英利君
                山本 順三君
                江田 五月君
                郡司  彰君
                佐藤 道夫君
                田名部匡省君
                高嶋 良充君
                富岡由紀夫君
                那谷屋正義君
                白  眞勲君
                前川 清成君
                松井 孝治君
                松岡  徹君
                松下 新平君
                魚住裕一郎君
                白浜 一良君
                山口那津男君
                仁比 聡平君
                吉川 春子君
                田  英夫君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       立教大学大学院
       法務研究科教授  渋谷 秀樹君
       関西学院大学大
       学院司法研究科
       教授       永田 秀樹君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (司法、特に憲法裁判・憲法裁判所(憲法の公
  権解釈の所在を含む))
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○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 「司法、特に憲法裁判・憲法裁判所(憲法の公権解釈の所在を含む)」について、委員相互間の意見交換を行います。
 まず初めに、各会派から一名ずつ、それぞれ十五分以内で御意見をお述べいただきたいと存じます。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は順次御発言願います。舛添要一君。
○舛添要一君 自由民主党の舛添要一でございます。
 まず、司法全体について申し上げますと、今非常に裁判に時間が掛かる、これは私は大変問題であろうというふうに思いますので、裁判は迅速に行う、迅速でない裁判は裁判ではないと、そういうプログラム規定を述べるべきであって、被害者が亡くなっているのに加害者の方のその裁判が全く進まないと。具体的な例を言いますとオウム真理教の裁判なんかそうですけれども、こういうことは許されるべきではなかろうというふうに思っております。
 それから、今最高裁判所をトップとした司法体系ができておりますけれども、一つは専門の特別裁判所を作るべきであると。行政事件、知的財産権その他専門的事項に関する事件を処理するための特別の裁判所を設け、しかしそれは終審裁判所としては事件処理はできずに、最高裁判所の下に設置されるということを一つ御提案申し上げたいと思います。
 それから、憲法九条との絡みで、これは特別裁判所はできないことになっていますけれども、憲法九条で自衛権及び国際協力のために自衛隊が認められるとすれば、その規律維持やその組織に対する処置のためにはやはり軍事裁判所というのを設けるべきであるというふうに思います。これは憲法九条の改正と裏腹の問題でございます。
 それから、違憲立法審査権が今最高裁判所に置かれておりますけれども、やはり憲法裁判所というのを設けるべきであろうというふうに思います。各国で憲法裁判所的なものを設けておりますけれども、新たに設ける憲法裁判所は、一切の法律、条例、命令、規則又は処分がこの憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する一審かつ終審の裁判所とするべきであろうというふうに思います。
 じゃ、その憲法適合性の裁判というのをどういうふうにして行うかということでありますけれども、大きく二つのカテゴリーに分けるべきであろうと思います。第一のカテゴリーは、具体的な規範統制でございます。第二のカテゴリーは、抽象的な規範統制であります。
 まず、第一の具体的な規範統制ということでございますけれども、これは憲法裁判所以外の、つまり一般の司法裁判所において係属する事件の裁判に関しまして、当該司法裁判所がその法律、条例、命令、規則又は処分の憲法適合性の判断を求める必要があるという判断をしたときにこの憲法適合性の判断を憲法裁判所に移送すると。
 分かりやすく言うと、ある具体的な事件が起こって、ある法律に基づいてその事件に判断を下さないといけないと、しかし司法裁判所の、例えば東京地方裁判所、そこの裁判官が、どうもこの法律が憲法に違反しているような感じがすると、したがって自分としてはそのことがクリアできなければ判断下せないというときに、その裁判所は憲法裁判所にその当該法律が違憲なのか合憲なのか判断してくださいよと、こういうことを移送する。これが具体的なケースに対する具体的な規範統制のカテゴリーにおける憲法裁判所の機能であります。
 それから、もう一つが抽象的な規範統制と呼ばれる第二のカテゴリーでありますけれども、これは、個々具体的な係争、その事件についてではなくて、国会で法律が制定、公布される、それから地方の議会で条例が制定される、つまり、法律、条例、命令又は規則が制定若しくは公布されてから例えば三十日以内とか十五日以内とか、そこの日にちは決めればいいんですけれども、例えば三十日以内に当該法律等についての内閣総理大臣、衆議院議員若しくは参議院議員の一定の議員から申立てがあったときには憲法裁判所に移送すると。つまり、具体的に言うと、我々が国会である法律を作りますと。その法律が、どうもこれは違憲のにおいがするということを例えば参議院が判断したときに、今のところ参議院議員若しくは衆議院議員の三分の一以上の議員が申立てをすれば、その法律は憲法裁判所に移送され、憲法裁判所が違憲立法審査権を行使するということになります。
 それから、衆参両院とともに内閣総理大臣も同じことを、つまり内閣総理大臣が申し立てて、当該法律の憲法適合性についての判断を憲法裁判所に仰ぐことができると。
 条例につきましては、地方自治体、同じように地方自治体の首長さんないしは地方議会の議員の三分の一以上の議員から憲法適合性の裁判を求める申立てがあったときには、憲法裁判所はその適合性の判断をしないといけないと。
 そして、憲法裁判所が最終判断を下すまでは制定、公布された法律等は有効であると。国によっては一般国民から憲法異議の訴えができることもありますけれども、これだと余りに多くの案件が移送される危険性がありますので、今言ったように、内閣総理大臣ないしは首長、国会議員ないしは地方議員というふうに限っております。
 ただ、ここで一つ申し上げますと、特に二番目のカテゴリーの抽象的規範統制について言いますと、私は今、衆議院議員若しくは参議院の三分の一以上の申立てがあったからということを言いましたけれども、例えばイラクに対する特別立法を国会の過半数で通過させました、制定しました。しかし、野党の皆さん方の中で、これはどうも違憲であると一生懸命抵抗したけれども通ること、阻止することできなかったと。そこで、三分の一集まることは、国会で二分の一以上で通ったものをたかだか三分の一ぐらいの議員で、野党の議員が違憲だと言ったことで憲法適合性の裁判をやっていいのかどうなのかという問題が残ります。
 ですから、二分の一の過半数で国会ないし地方議会で制定された法律等が三分の一の野党の申立てによって憲法適合性を審査する憲法裁判所に移送されてよいのかどうなのかと。これは後ほど皆さん方、じっくりと議論をしていただきたいというふうに思います。実を言うと、これは立法府と司法の間の三権分立のチェック・アンド・バランスの一つにもかかわるところでございますんで、憲法裁判所を設置するときにはこういう問題が起こると。
 それからもう一つは、統治行為との問題でございまして、今までは最高裁判所が違憲かどうかという判断を求められても、これは統治行為であると、司法が判断することではございませんよという形で政治の場に球を投げ返していた。
 今回は、必ず憲法裁判所はどんなことでも判定を下すんですか、それともどうするんですかと、やっぱり統治行為論というのはずっと残るんですかと。もし新しい憲法裁判所のシステムを入れるとすると、今まで統治行為論である意味で判断を回避してきた最高裁判所のやり方というのをどう変えるのかということが問題であろうと思います。
 それから、私は先ほど憲法裁判所を新たに設置するということで具体的な内容を御報告いたしましたけれども、実を言うと、運用の側面においては、これは内閣法制局をどうするかということと裏腹の問題でございます。内閣法制局が一元的に憲法解釈権を握っているような形で、我が立法府において、それは合憲です、それは違憲ですと、いろんな御意見をおっしゃる、これをどうするのかと。憲法裁判所ができたときに、もう内閣法制局なんて要らないのかどうなのか、このことも是非皆さん御議論いただきたいと思います。
 決定的なのは、立法府の権限と司法の権限とのチェック・アンド・バランスを一番いい形で、憲法裁判所という形で実現させるということでございます。
 そこで、憲法裁判所にだれを裁判官として任命するかということでございますけれども、これは今日の後半の部分で参考人が、御専門の先生が具体的な例をお挙げになると思いますけれども、例えば、フランスは九人、そして三人ずつ、それぞれ立法、行政、司法が選ぶ。そして、大統領経験者は自動的にそれに加えてメンバーとなるということでございますんで、そういうことを参考にいたしまして、国会、立法府、最高裁判所は司法、内閣、行政、それぞれの三権が推薦する名簿に基づいて、天皇が内閣の助言と承認に基づいて任命するものとするということでございますけれども、まあ広く言えば、フランスのように、例えば三権の長の経験した方々、衆参両院の議長経験者、内閣総理大臣経験者、最高裁判所長官、こういう方々は終身のメンバーとして入れた方がいいのかどうなのか、そういう問題もございますし、任期を九年にするのかどうするのかという、この問題を考えるときに、アメリカの連邦最高裁の任命を考えると分かりますけれども、共和党の大統領が共和党に近い人を選んで、そしたら次が民主党の政権になって、民主党が行うことに共和党系の連邦最高裁がどんどん違憲判決を出すというような政治性も現れてきますから、この裁判官の任期というのは非常に慎重に、九年にするのか四年にするのか六年にするのか考えないといけないというふうに思います。
 それからあと一つ、司法について、まあ小さな問題なんですけれども、現行憲法の七十九条、八十条に、裁判官の報酬は在任中これを減額することができないと最高裁も地方裁も書いてあるんです。そういう規定があることを国民の皆さん御存じですか、このデフレの時代に皆さん給料下がっているでしょう、憲法で給料下げちゃいけないって決めてある職があるんですよ。皆さん御存じありません。
 ここの意味は、その裁判官の独立を害するような形で政治的にサラリーを下げられることが問題なんで、そこを明記しないと、私の理解している限りでは、国家公務員を含めてほとんどみんな、国会議員もそうですけれども、このデフレ時代に、報酬が削減されたときにたしか裁判官も削減されたはずなんですけれども、額面どおり読めばこれは憲法違反になりますから、裁判官独立を害することになるような報酬の減額は、これはしてはならないというような形に書き換えておいた方が裁判官の方々のためにもよろしいかと思います。
 以上、憲法裁判所の設置を中心として司法について述べさせていただきましたので、むしろ私の御報告は、皆さん方のこれからの活発な御意見を挑発したいという形での提案でございます。
 以上です。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 郡司彰君。
○郡司彰君 民主党の郡司彰でございます。
 それでは、憲法における司法の在り方につきまして、私の考え方を申し述べさせていただきます。
 申すまでもなく、我が国の統治の仕組みは三権分立であり、その下で三つの機関が相互にバランスを保ってチェックをし合う、この仕組みは民主主義を推進していく上で極めて重要な仕組みであります。問題は、その仕組みが本来想定されたような機能を十分に果たしているかどうかであります。
 我が国の歴史は、明治以来、行政が圧倒的な権限と力を握り統治してきたことは間違いありません。戦後、民主主義政治に切り替わり、立法府を国権の最高機関と位置付け、司法府、行政府とともに三権分立の機構が整備されました。
 しかし、今日振り返ってみて、果たしてそれぞれの機関が十分にその機能を果たしてきたと言えるのでありましょうか。多くの識者の指摘をまつまでもなく、行政が戦後においても事実上大きな力を持ち、立法府、司法府の力は相対的に小さかったと言えると思うのであります。特に司法はその存在感が薄かったことは否定できません。
 私は、その理由の一つは行政とのかかわりの中にあるのではないかと考えております。どのような社会、組織においても、権限の源は金と人事権にあることは否定できないわけでありますが、すなわち司法府の予算の実質的な配分権限を行政府に握られていることにあると考えているからであります。
 これは私、予算委員会のときの勉強のときに知ったことでございますけれども、象徴的な出来事が既に五十年以上前、一九五二年度、昭和二十七年度の予算編成の際にありました。最高裁判所の要求する予算額と政府が主張する予算額が異なりまして、最後まで調整が付かなかったため国会に提出する予算書には両案が記載をされ、国会に最終判断をゆだねるというものでありました。その後、国会での審議の途上において、残念なことに最高裁判所が自らの案を撤回をしたことでこの問題は終わりました。今となっては事の真相は明らかではございませんけれども、当時の会議録等によれば、政府が圧力を掛けたのではないか等々のことが言われております。
 法令上は、司法府始め独立機関の予算には配慮する規定が財政法の十七、十八、十九条にありますけれども、表向きは一見法令どおりの予算編成が行われているように思われますが、それ以降、予算書への両案の記載ということが起きていないということを見ましても、行政府優位の予算編成になっていることは否めません。
 半世紀という長い期間でございますから、一般的には両者の意見が食い違うということが数度あってもおかしくないのではないかと思うわけでありますが、ちなみに司法府と同じ独立機関であります立法府、すなわち国会の予算も行政府にその実質的な配分権限を握られている点は同様と思います。ただし、国会の予算につきましては、これまで、最後まで調整が付かず、両案が予算書に掲載されたことは記録上ございませんでした。
 話を元に戻しますが、司法の存在感が薄かったもう一つの理由は、憲法第七十九条の規定によりまして、最高裁判所裁判官を内閣が任命をしていることであります。あらゆる点について検討をし、裁判官としての識見を十分に備えている人を選んだ、公正無私な任命を行っている、当然内閣の側は言われると思うわけでありますが、しかしどんなに公正無私な人選をしようとしても、行政府、内閣の意向、考え方が入り込むことを止めることはできないと思うのであります。
 こうした状況を改善するには、例えば内閣と国会がその半数ずつを選任をするとか、あるいは国会の同意人事とするなど、人事権を内閣だけに集中させない何らかの方法を模索すべきではないんでしょうか。司法の存在感を国民の前に示し、真の意味で三権分立の統治機構が十分に機能するようにするためには、金と人事権、すなわち予算編成と任命の在り方をこの際まずは見直すことが必要と考えるものであります。
 なお、裁判官の身分保障について、裁判官の国民審査でございますけれども、この仕組みが十分に機能を果たしているとは思えないわけであります。司法の存在感が薄いがゆえにそうなのかもしれませんが、国民の大多数は最高裁判所の裁判官の氏名を知らないどころか、具体的な公判で各裁判官がどのような判断を下したのか知らないのではないかと思っております。充実した情報公開がされていない現状の下で、この制度を維持することにどれほどの意味があるのか、疑問を禁じ得ません。
 次に、最高裁判所の違憲審査とそこから派生している問題、すなわち、先ほども出されましたが、内閣法制局の存在の是非及び憲法裁判所導入論議について意見を申し述べたいと思っております。
 司法の存在感が薄いということにつきましては既に申し述べましたが、それを具体的に示しているのが最高裁判所における違憲審査で、余りに消極であるとの批判が後を絶っておりません。憲法は第八十一条において、最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する最終裁判所であると定めており、違憲審査を行うことを明らかにしております。
 違憲審査制の目的は、人権保障とともに憲法秩序の維持にあり、我が国でもそのような観点から様々な努力がなされてまいりました。そのことには一定の評価をするものでありますが、しかし、モデルとなったアメリカで見られますように、活発な違憲審査権の行使が我が国では見られておりません。最高裁判所が実際に違憲判決を下した例は半世紀を超える歴史の中でも数が少なく、中でも法律の規定をめぐる違憲判決はわずか六件にすぎないわけであります。
 さらに、憲法判断の裁判においては、これも先ほど舛添議員の方からも出されましたけれども、通常の事件に比べて判決が出されるまで極めて多くの年月を要することに批判が出されておることも事実であります。今後、成熟した民主主義社会を更に発展させていくためには、違憲審査制を活発にするとともに、判決に至る日数を可能な限り短縮をし、国民の憲法に対する親しみと理解を更に深めていくことが重要であるという意見に私も賛成であります。
 我が国の違憲審査に一定のハードルを設けることになったのは一九五二年、昭和二十七年でありますが、警察予備隊の合憲性が争われた警察予備隊違憲訴訟、昭和二十七年十月八日でございますけれども、それにおきまして、現行制度、裁判所に与えられているのは司法権を行使をする権限であり、よって特定のものの具体的な法律関係につき紛争の存在する場合においてのみ裁判所にその判断を求めることができるのであり、裁判所が具体的事件を離れて抽象的に法律、命令等の合憲性を判断する権限を有するとの見解には、憲法上及び法令上何らの根拠も存在しないという判断を示し、それ以後、この司法消極主義と呼ばれる姿勢を取っていることに違憲審査の数が少ない理由があると言われております。
 さらに、違憲判決が少ない理由として指摘をされているのが内閣法制局の存在でありまして、内閣が提出する全法案の事前審査で違憲の疑いが少しでもあれば法案の国会提出ができない仕組み、我が国独特の仕組みと聞いております。法案の審議権は国会にのみ与えられた固有の権限であるにもかかわらず、内閣法制局が事前審査を行い、その審査を通過をすれば法案が完全無欠であるかのような印象を与えている現在の制度、仕組みは、唯一の立法機関である国会の権限に抵触する疑いがあるのではないかとの疑義を禁じ得ません。
 民主党は、本年六月にまとめた創憲に向けて中間提言の中で、憲法解釈の機関として立法府に設置をされている衆参両院の法制局を強化し、執行機関の一部局たる内閣法制局は縮小すべきであるとしています。
 司法の消極主義の姿勢に対しても、近年、現在のアメリカ型の司法審査制度に代えてヨーロッパ型の憲法審査制を導入すべきであるという議論が高まっております。つまり、現在の我が国の違憲審査制が制度疲労を生じており、それを克服するためには現行制度を改革する必要があるという考え方であります。
 ヨーロッパ型憲法審査制の導入を主張する場合、その念頭に置かれているのはドイツの連邦憲法裁判所であることが多いようでありますが、そこでは三つの権限が注目をされております。
 一つは、具体的な権利、利益の侵害とは関係なく判断が示されるという憲法の番人としての権限。二つ目は、下級裁判所の裁判で法律の合憲性が争われた場合には裁判手続を中止をし、連邦憲法裁判所にその法律の合憲性の判断を求めるもので、法律の合憲性の判断の権限を連邦憲法裁判所が独占をするというものであります。
 三つ目は、公権力によって基本権などを侵害された者が、他の法的救済を尽くした後に、最後の手段として連邦憲法裁判所に提訴することができるというものであります。
 今日、我が国で議論されている憲法裁判所制度導入論では、これらの三つの権限を有する憲法裁判所を憲法改正によって導入、創設すべきであるとする議論を中心にその他様々な考え方があるようでありまして、資料にも記載をされておりました。
 民主党のさきに述べました中間提言では、内閣法制局を縮小すると同時に、現在の司法裁判所に充実した憲法審査部門を設けるか、あるいはヨーロッパや韓国などが取り入れている憲法裁判所若しくは憲法院など違憲審査のできる固有の審査機関を新たに設置することを検討すべきであるとしています。
 しかし、この問題を考える際に、何よりもまずそうした制度の導入、あるいは新しい機構を創設をすれば現在の消極的な状況が改善するのか否か、改善をするとすればどの程度改善するのかなどなどの検討がまずなされることが必要と考えております。
 一般的に、我が国では、ある仕組みや制度、システムがその機能を十分に果たしていないという指摘や批判が行われますと、その組織、機構を変更、改廃しようという方向に力が動いているわけでありますけれども、しかし必ずしも根本的な解決にならなかった例も多いこともあったわけであります。ヨーロッパにはヨーロッパの長い歴史があり、そこではぐくまれてきた風土や思想が根底にあって今日の各国の法律や制度など社会の仕組みができ上がっているわけであります。ヨーロッパと一概に一くくりで言えないそれぞれの国の歴史もあることも事実でございます。同様に、我が国においても長い間に社会の隅々にまでしみ込んでいる考え方や社会の仕組みがあります。そうした人々の物の考え方や風土、歴史を基盤に据えた仕組み作り、制度作りを行っていくことが必要ではないかと考えております。
 戦後、急激な変化の中で、司法制度についてはアメリカ型の司法審査制を導入したわけでありますが、今日それが十分に機能しないからといって、今度はヨーロッパ型の制度を導入して果たしてうまくいくと言えるのでしょうか。今は現在の制度をいかに有効に機能する制度として定着させていくかの努力を図っていくべきだと思っております。私は、我が国においては、劇的な組織、機構の変更、改廃よりも、問題の所在を明らかにしつつ、我が国の歴史や人々の物の考え方の中で実質的に機能するにはどうしたらいいかを検討し、法律上の明確な規定が必要な場合には新たな立法措置を施すなど、機能不全に陥っている要因を一つ一つ取り除くことにより力を注ぐべきで、組織、機構の変更、改廃は最後の手段とすべきではないかと考えております。
 また、我が国のキャリア裁判官制度が違憲審査制の運用に影響を与えているという見解もあるようでありますけれども、キャリア裁判官の問題を即ヨーロッパ型憲法審査制への転換に結び付けるのではなく、その前にまず現行憲法の下で実質的に違憲審査の活性化に結び付くような法令の見直しによる事態打開の可能性を視野に入れて考えるべきではないかと思っております。
 蛇足を承知で付け加えますと、この日本の歴史の中でも劇的な変化を遂げたことももちろんあるわけであります。しかし、その際は、外因かどうかは別にして、国の形、価値観が一変をするような際に起こっているようなことでございまして、現下の状況の下で司法の改革だけが本当に劇的な変化を遂げられるのかどうか、政治の今の在り方も含めて疑問を持っていることも付け加えさせていただきます。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 山下栄一君。
○山下栄一君 公明党の山下でございます。意見を述べます。
 現行の憲法体制における基本的な規範内容を維持し、根本的な変質や破壊を防止する憲法上の仕組みは立憲国家にとって極めて重要です。この中核が憲法裁判制度であり、憲法上どのように位置付け、制度を運営していくかは憲法の在り方を考える上で最も重要な問題の一つと言えます。
 憲法裁判の仕組みとして各国の参考になっているのが、今もいろいろございましたけれども、アメリカの憲法裁判所である違憲審査制度とドイツの憲法裁判制度かと思います。アメリカとドイツの憲法裁判の制度のどちらが良いかは司法にとどまらず、統治システム全体にわたり、また各国の政治、歴史、文化とも密接にかかわる問題です。
 これまで発表されております各党、各界の憲法改正試案等を見ますと、ドイツ型の憲法裁判所の設立に積極的な立場が多く、それは我が国の違憲審査制度が余り活発でないことがその理由とされております。すなわち、憲法裁判所の設置が支持される背景には、現在の最高裁判所が、多くの上告事件を抱え多忙なため憲法判断の責務を十分に果たしていないように見える、また憲法判断に消極的で憲法規定を正面に押し出すことなく法律レベルで解決を図るケースが多い、さらに時間が非常に掛かり迅速な救済ができないなどが指摘されております。
 しかし、最高裁判所の違憲審査制度の実績が過小評価されている面もあるのではないか。最高裁判所に問い合わせたところ、昭和二十三年から平成十五年までに実質的憲法判断を行った件数は、民事事件で合憲が五百三十三件、違憲が四十九件、刑事事件で合憲が千六百七十二件、違憲が二百五十五件とのことで、決して少ない数ではありません。積極的に合憲と判決し、一定の憲法解釈を示したことに大きな意義がある例も多々あります。
 例えば、いわゆる成田新法事件平成四年判決と川崎民商事件昭和四十七年判決で、適正手続に関する憲法三十一条と令状主義に関する三十五条、黙秘権の保障に関する三十八条が刑事手続以外に行政手続にも及び得ることが認められ、憲法の間隙を埋める形で国民の人権保障に大きな役割を果たしております。また最近では、平成十二年に成立したいわゆるストーカー規制法について、ストーカーをする側の行為や表現の自由を規制する一面があることから合憲性が争われましたが、法の目的の正当性と規制手段の合理性、相当性が認められ合憲と判断されました。
 法律に憲法違反と主張をされる可能性がわずかでもある場合、最高裁がお墨付きを与えることで関係者にもたらされる利益は大なるものだと思います。さらに、実質的に十三条を根拠に新しい人権概念を認定することにより多くの権利救済に寄与してきた点は高く評価されるべきであり、最高裁の果たしてきた役割の大きさがうかがわれると思います。
 しかし、やはり最高裁判所が憲法判断を回避する傾向が見られることは事実であり、司法消極主義に傾く現在の最高裁の在り方を改善していくことが重要です。しかし、憲法裁判所のような新しい制度を導入することにより本当に期待どおりの成果を上げ得るのか、慎重な検討が必要と考えます。ただいま郡司委員の見解もございました。
 憲法裁判所を設置しようという場合、主として積極的な憲法判断の迅速な解決が期待されていると思います。しかし、法令違憲判決こそ、五種六件と少ないものの、最高裁には五十年以上違憲審査を行い二千五百件もの憲法判断の実績があり、多くの場合について合憲というお墨付きを与えています。しかも我が国では、内閣法制局により内閣の法案提出前に詳細な違憲性のチェックが行われ、違憲判断が下される可能性が非常に低いという状況もあります。憲法裁判所を作っても、違憲でないものを違憲とするはずがなく、合憲性を迅速に追認する意味しかないことになりかねません。
 さらに、憲法裁判所を作り、抽象的規範統制、予防的規範統制までも違憲審査対象にした場合、国会の立法機関としての機能が大幅に制約されることになり、立法府の上にスーパー立法府を置くことになりかねない危惧があります。ドイツの例でも、憲法裁判所の存在により政治の裁判化、裁判の政治化という現象があり、多数決原理で運営される議会の決定を一部少数者の意見、意思が過度にゆがめる結果をもたらしかねないことを懸念します。
 また、独立的審査制度を取るか、付随的審査制度を取るかにかかわらず、憲法裁判機関は人を得ないと機能しないとされる点は極めて重要だと思います。
 例えば、アメリカ連邦最高裁の判事は、人格、識見ともに優れた存在として大統領以上に国民的尊敬を集めていると言われます。大統領の指名後、上院の助言と承認を経て任命される過程はマスコミでもしばしば取り上げられ、国民的関心事項となっております。このような慎重かつ開かれた手続があってこそ、適任者が選ばれ、その判断結果が権威あるものとして尊重されるのだと考えます。
 これに比べると、残念ながら、我が国の最高裁判事の任命手続は若干見劣りがします。長官は内閣の指名に基づき天皇が任命、その他の裁判官は内閣が任命することとなっておりますが、最高裁当局の事実上の関与は別として、本当に適任者であるか、国会などの外部機関が検証する機会がありません。内定後の官房長官記者会見で公開される選考過程、選考基準も形式的なものにとどまっております。国家の基本法たる憲法の最終的な解釈権者をこのような手続で選出するのが妥当か、アメリカの例なども参考にしながら十分に検討すべきと思います。
 裁判所法では、まず識見の高い法律の素養のある者を最高裁裁判官に選任することを要求しておりますが、現在の選任においては、個々人の資質よりも十五人の判事の出身バランスが重視されているように見えるのも問題であり、例えば裁判官六人、弁護士四、検察官二、行政官一、外交官一、大学教授一という比率が長く踏襲されております。他国の憲法裁判所と比較すると、我が国最高裁が上告審機能を併有する点を考慮しても、裁判官を含め官僚ないし公務員が三分の二を占めること、学者枠がたったの一名と比率が著しく低く、しかも憲法学者が常に選任されるとは限らないことは問題であると考えます。
 最高裁発足当初には、内閣は諮問委員会の答申を受けて任命していましたが、第三者機関に諮問する、国会、特に参議院が関与する機会を設けるなど、何らかの改善策を講じるべきであります。特に、憲法学者が関与せずに憲法判断がなされる現状は、憲法の最終解釈機関の在り方としては遺憾であり、早急に改善する必要があります。
 さらに、一人の最高裁裁判官は所属する小法廷で二千件の事件に関与し、そのうち主任として判決を書く事件が四百件と言われ、多くは六十歳代である裁判官には相当な激務であります。裁判官のスタッフとして東京地裁判事等が最高裁判所調査官として事前の資料の下読み、論点整理や判決の方向性等の実質的サポートを行っているそうですが、この体制では、憲法裁判に関する裁判官個人の判断に司法官僚の論理が大きな影響を及ぼしかねません。スタッフの充実は不可欠ですが、民間研究機関や憲法学者を始めとする法律学者など裁判所以外の人材を求めることを積極的に検討すべきではないでしょうか。
 最高裁の組織的見直しに踏み込んだ改善策としては、最高裁判所の中に憲法訴訟を専門的に扱う部門、例えば憲法部を設けたり、最高裁判所の機能を憲法裁判に特化させ、上告審としての機能は、現在の高等裁判所と最高裁判所の間に設ける特別の高等裁判所に担わせるなどの案が見られます。
 最高裁が上告審機能を有することを考えると、現在の法曹実務家を重視する任用やスタッフ体制の在り方を抜本的に変更することは困難でしょうが、憲法専門の部署なり機関に特化して、所属判事を憲法学者出身者としたり、外部登用を含めた専門的スタッフの充実を図るのであれば、実現可能性は高いと思われます。
 次に、内閣法制局及びその憲法解釈について一言申し添えます。
 最高裁判所が憲法の公権解釈の最後の担い手であることは憲法上も明らかですが、憲法判断を控える事項もある結果、内閣法制局による憲法解釈の比重が大きくなり、憲法解釈の唯一の公的機関のような印象を与えております。
 内閣法制局には内閣の憲法解釈の統一性、整合性を図る機関としての役割があります。法制局の解釈が意に沿わないという理由で憲法裁判所を作ることには疑問があります。仮に憲法裁判所を導入しても、事前審査機能、諮問的権能まで付与するかどうかは別問題だとし、唯一絶対の権威になるのがよいのかも疑問に感じます。
 内閣法制局は内閣の機関です。それとは別に、立法府の立場として国会内に何らかの機関を持ち、議会としての立場で自ら憲法解釈を行うこと、イタリアがその一つの例ですけれども、そういうことを考えてもよいのではないでしょうか。
 そして、内閣は内閣として、国会は国会としての憲法解釈を提示し、最終的には最高裁が憲法解釈を確定する、そのような姿が三権分立制の下にふさわしく、同時に、多数決民主主義から離れて司法が果たすべき役割であり、国会としてもこれを受け入れるべきと考えます。
 最後に、司法制度改革について所感を述べます。
 現在の日本は、過去の事前規制調整型社会から事後監視救済型社会へと転換しつつあり、司法の役割は重要度を増しております。しかし、基本的人権と法の支配が具体化する我が国の司法制度については、一、法曹人口が極端に少ない、二、行政訴訟の間口が狭い、三、司法の消極主義、四、司法に対する社会的期待の高まりなどの観点から改革が求められてまいりました。
 こうした求めに応じて現在進められている司法制度の改革は、この国の形にかかわる諸改革の最後のかなめとして位置付けられるものであり、国会において立法を図る段階まで進んでおります。これらの司法制度改革の中でも特に重要であると考えるのは、裁判員制度を中核とする司法への国民参加です。
 これまで裁判は職業裁判官によって担われてきましたが、第百五十九国会で成立しました裁判員の参加する刑事裁判に関する法律は、重要犯罪に関する刑事裁判に国民が裁判員として裁判官と共同決定することを定めました。これにより、一部で社会通念に反するところがあると言われてきた裁判に国民の常識感覚が反映されることが期待されております。また、裁判員制度の導入により必然的に訴訟の迅速化が進み、国民の裁判を受ける権利にとってもプラスの効果をもたらすものと考えられます。
 しかし、この裁判員制が実効的に機能するためには、国民、裁判所双方の努力が必要であることは言うまでもありません。本年五月に行われた読売新聞の世論調査では、裁判員制について、仕組みをよく知っている、仕組みをある程度知っていると回答した割合は三割強、三三・八%にすぎませんでした。裁判員制が実際に施行されるのは平成二十一年四月からとされており、この五年間に国会として国民に対してこの制度の周知を十分に図る必要があると考えます。
 さらに、裁判所を国民に対して開かれたものとする努力も必要です。多くの国民には、裁判所を自分とは縁の遠い存在と考えているのではないでしょうか。裁判所が国民にとって身近に感じられ、また国民の知る権利にもこたえるべく、裁判所の積極的な広報活動や相談窓口業務の充実が求められます。
 また、法廷見学制度を国民に積極的に活用してもらうことで、裁判所に対する国民の理解も進むと思われます。そうなれば、形骸化していると言われる最高裁裁判官の国民審査も新たに積極的意義が与えられることになると思います。
 司法制度改革についてはなお様々な議論はあるものの、これらの改革の実現は、憲法裁判の充実に寄与するだけではなく、憲法が司法権に期待する法の支配と人権の確立に大いに貢献するものと考えます。
 以上で意見表明を終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 仁比聡平君。
○仁比聡平君 日本共産党の仁比聡平でございます。
 私は、前回の調査会において、人権保障の永久不可侵性について意見を述べさせていただきました。
 我が国の違憲審査制は、第二次大戦後、この人権保障の永久不可侵性を中核とした憲法の最高法規性の維持、すなわち憲法保障のために導入されたものであり、世界各国においてこのような動きが共通をしております。
 問題は、諸外国と比較をして我が国憲法下の違憲審査制がお世辞にも積極的に活用されてきたとは言い難いという点にあります。最高裁が法律の条項を明確に違憲と判決をしたのは五十七年間でわずか五種六件であり、このような違憲審査制のありようが、日本の現実政治、立法府や行政において憲法に対する緊張感をなくしている。つまり、少々のことでは裁判所によって違憲と判断されることはないという誤った安心感が、本来、民主的政治過程と呼ばれる立法や行政の中にあるのではないかという厳しい指摘までがなされています。
 我が国の違憲審査制は、司法裁判所が具体的紛争の解決に伴って適用法令の合憲性審査を行ういわゆる付随的審査制と呼ばれているものですが、このような現状から、違憲審査権の活性化のための方策として、違憲審査を専門に行う憲法裁判所の導入が語られています。
 しかし、我が国の違憲審査制が十分に機能していない原因は本当に付随的違憲審査制にあるのでしょうか。最高裁の司法消極主義、違憲判断消極主義の一方で、下級裁判所による違憲判決が勇気を持ってなされるとき、これが人権保障を大きく前進をさせ、憲法を光り輝かせてきた経験を私たちは度々持ってまいりました。
 私は、私自身が経験してきたそのような瞬間の一つとして、前回本調査会の意見陳述においてハンセン病問題をめぐるらい予防法違憲国賠訴訟の熊本地裁判決言渡しの瞬間を御紹介をしましたが、この判決は、強制隔離政策が医学的見地からも同法成立時から既に公共の福祉による合理的な制限を逸脱しており、遅くとも一九六〇年には隔離規定はその合理性を支える根拠を欠く状況に至っており、その違憲性は明白になっていたとして、遅くとも一九六五年以降にこの規定を改廃しなかった国会議員の立法不作為につき国家賠償法上の違法性と過失を厳しく断罪をしたものでした。
 このような憲法訴訟の闘いの経験に見られるのは、我が国憲法が採用した違憲審査制が、それ自体として憲法保障に無力なのではないということだと思います。これが活用されてこなかった点にこそ問題があるのであって、その問題を明らかにし、国民、市民のための真の司法改革を進めることにより違憲審査制による憲法保障を全うさせることが大切だと私は思います。
 我が国の付随的審査制には、憲法裁判所型との比較において三つの利点があることが指摘をされています。
 第一は、具体的事件に即したきめ細かな憲法判断を可能とする点です。著名な民事訴訟法研究者である兼子一教授は、特に憲法問題については、政治的に論議され、真に具体的利益を代表する者によって真剣に争われ、十分に双方の主張や資料が出尽くすのを待ってこれに必要な限度で裁判所が初めて最後の断を下す仕組みとして意義を持つ、こう述べられています。
 第二は、下級裁判所にも違憲審査権の行使が可能となる点です。
 事実に即した憲法判断も、事実認定と格闘する下級裁判所においてこそ可能となります。また、下級裁判所の憲法判断は多様なものとなる可能性を持っており、これが上級審の判断や下級裁判所相互の対立を経て、新たな判例理論発展の基礎となることが期待できるものです。
 第三は、訴訟当事者として市民が参加をし得る点です。
 市民にとって一番身近な人権救済機関であるべき一審裁判所から最高裁に至るまで、訴訟事件に自ら利害関係を有する市民がそれぞれの裁判所を説得するために旺盛な訴訟活動を行うことにより、当該問題についての社会的関心が高まり、その問題の裁判上の解決はもちろんのこと、政治的、社会的な解決が促されてきたことは多くの憲法訴訟に見られる重要な経験だと思います。
 違憲審査を活性化させるという場合にまず考えなければならないのは、付随的審査制のこのような利点を生かすような制度作りと運用ではないでしょうか。
 では、このような利点が生かされてこなかったのはなぜでしょうか。私は、最高裁の憲法判断の在り方と裁判官の市民的自由の確保の二点について申し上げたいと思います。
 最高裁判所の実際の判決の在り方は、先ほど述べたような本来の付随的違憲審査制とはかなり趣を異にするものです。統治行為論や立法、行政の裁量論を始め、憲法判断回避のルールと呼ばれるものが極めて自己抑制的に働いてきました。また、具体的事件の解決のために憲法判断をするとされながら、最高裁判決において事実関係が参照されることは少なく、専ら上告主義に応答するという形で、抽象的な憲法原則の提示、法文解釈が示されるのが常となっています。
 事実関係とのかかわりにおける判断よりも判断内容を重視するこの傾向は、一方では違憲審査のための間口を著しく狭めながら、他方で、具体的事件の解決による人権救済よりも、憲法、法令についての有権的解釈を示すこと、すなわち法秩序維持機能を重視しているんだという有力な指摘がなされているところです。
 他方で最高裁は、朝日訴訟では生活保護受給権の訴訟承継を認めず、訴えの利益を認めず却下をしながら、念のためとして、生存権が具体的権利でないことをるる判示するなど、時に事件の解決に必ずしも必要とは言えない憲法判断を行ってきました。こうした傾向をとらえて、最高裁は単なる司法消極主義ではなく違憲判断消極主義なのであり、合憲判断についてはむしろ積極主義的であるとの有力な指摘があります。
 本来、違憲審査制は、国家機関による憲法規範の逸脱を統制するところにその目的があります。ですから、違憲判断にこそ真髄があると言うべきです。とするなら、事件解決に不必要な場合にも合憲判断をためらわず、違憲判断については厳密に事件解決に可能な場合に限定するという最高裁の姿勢は、違憲審査制の意義を没却するものではないでしょうか。このような、言わば秩序維持を重視する最高裁の姿勢が、最高裁判決が判例として事実上の拘束力を持つことのほか、違憲判決を下した裁判官に対して差別的な待遇がなされることによって下級裁判所による違憲審査の活力を著しくそいでいるという点がもう一つ重要な点だと思います。
 このような違憲審査のありようは、憲法制定直後からのものではありませんでした。最高裁は一九六〇年代に、官公労働者の争議権を禁止した法律が労働基本権を保障した憲法に違反する疑いがあるとしてその適用範囲を狭く限定をした全逓東京中郵事件判決や都教組事件判決を始め、画期的な判決を相次いで出しました。
 これに対し当時の政府・自民党は、最高裁が左翼に偏向していると非難をし、最高裁判事の任命権を利用して政府の意向に従う判事を送り込むなどし、この時期を境に最高裁は、時の政権に従い、下級審の裁判官に対しても様々な官僚的統制を行って、裁判を政府や大企業の利益に偏ったものに変えていきました。最高裁は裁判官の採用、任地、昇給昇格などの人事権を利用して裁判官の差別的人事を行い、物言わぬ裁判官づくりを行ってきました。憲法や基本的人権を大切にしたいと考える裁判官は差別をされ、昇給を遅らされ、他の裁判官よりも、ある元裁判官の証言によれば、月給で十四、五万円少ない給料を五年以上続けられるなどの屈辱的な扱いを強要をしています。青年法律家協会に属する下級裁判官の再任拒否や任官拒否、脱退強要が行われ、一方では、裁判官会同や裁判官会議などを通じて判決の内容まで統制し、裁判官を法務省に出向させ訟務検事として行政側の代理人をさせる判検交流を行って、行政に追随する意識が裁判官に醸成されることになりました。
 このような官僚統制により、裁判所内に自由な空気が失われ、上意下達的な意識が裁判官に植え付けられ、その中で、裁判官の中で人間的な関係が希薄となる一方、事件数の激増の中で超過密な仕事に追われるという状況も生まれています。
 一方では、裁判の公開という憲法上の要請にもかかわらず、裁判所構内の撮影すら許可をされないという国民不在ぶりです。
 これらの司法抑圧の政策の弊害は極めて大きいものとなっており、正にこうした官僚的裁判官統制をやめ、憲法と基本的人権に忠実に、法と良心に基づく裁判を実現することが今最も求められているのではないでしょうか。
 日弁連の調査によりますと、裁判官の平均的労働時間数は週八十時間であり、三年ごとに繰り返される転勤により地域とのつながりがほとんどない、そのために市民感覚から懸け離れ、国民との間に壁ができていると語る裁判官があります。
 記録映画に「日独裁判官物語」というものがあります。これは我が国と憲法裁判所の存在する典型とされるドイツの裁判官の在り方を対比をした本当に有意義な記録映画だと思いますが、この中である裁判官は、人事上の差別の大きな要素として、任地上の差別、二つ目に給料、三つ目に部総括裁判官、いわゆる裁判長への指名を受けられないことが裁判官の市民的自由を著しく制約をし、家に引きこもって忙しくてほかのことは何もできない、このような裁判官の状態を解決をすることが司法権が行政、立法から独立をして存在をする意義につながるんだと指摘をしています。
 最高裁の独立と裁判官の市民的自由が十分確保できるように裁判官の任命方法を改めること、国民の裁判参加の道をより広げること、国民、市民のための司法改革を進めることこそが求められているのではないでしょうか。
 一方で、憲法裁判所を導入をすれば違憲審査制が活性化して、本来の機能を果たすようになるとの保証はどこにもありません。それは、いかなる裁判官が選任されるかによって大きく左右されるものであり、それは現在の付随的審査制におけるのと同様の問題です。
 国会や内閣に対して毅然とした態度を貫く裁判官が極めて少ないのは、国民の批判の届きにくい官僚的裁判官制度や運用の問題であって、憲法裁判所を設置すれば解決できる問題ではありません。むしろ、一般の係争事件において憲法判断を求める主張が排除され、憲法裁判所以外の裁判官から憲法判断の権限を奪うことになります。
 また、憲法裁判所導入の改憲論の一部には、国論の分裂回避や迅速な憲法裁判の処理を期待する議論がありますが、これは人権保障の全うという憲法本来の姿と異なるものであることを指摘をしなければならないと思います。
 現行憲法下での本来の司法改革こそ必要だということを申し述べて、意見陳述とさせていただきます。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 田英夫君。
○田英夫君 社民党の田英夫です。
 我が国の司法制度については、各党の皆さんから御指摘がありましたように、時間が掛かるとか最高裁の問題とか、非常に問題が多いことはもう事実でありますが、その中で特に憲法に対する司法の判断が非常に、良く言えば慎重なのかもしれませんが、出てこない、明快に出てこない。このことは今の日本の司法制度の中の最大の問題だと思いますが、なぜそうなってしまったのか。
 特に、最高裁の役割が非常にあいまいですね。最高裁の判事を内閣が任命すると、このことは三権分立を配慮したことでしょうけれども、結果として、自民党政権が長い間続いてきた、はたと気が付くと最高裁の判事はみんなその政権によって任命された人たちになってしまっているということに気が付きます。それは制度上そうならざるを得ないというか、当然のことかもしれませんが、このことが一つの原因だと思います。
 国民審査はありますけれども、国民は最高裁の判事のことをほとんど承知していないと。言わば、形式的な審査をやっても、結局は丸を付けておけばいいという程度の結果しか出てこない。本当に最高裁の何たるかを知るようにするにはどうしたらいいかということも一つの問題でしょう。
 もう一つは、今も言われていましたが、違憲審査、特に違憲審査を明快にしないということが続いております。自衛隊ができてもう長い歴史が積み重なっているにもかかわらず、自衛隊の違憲ということに対して明快な判断が最高裁から出てこない。私は、自衛隊は極めて違憲のおそれが強いと思いますよ。戦力という言葉、日本人で戦力という言葉を正しく知っている人は、今の憲法第九条第二項のあの言葉と、世界で五指に入る自衛隊の正に戦力とを比べてどう考えるんでしょうか。もうそのことに対しては国民の皆さんはあきらめてしまっているのかとさえ思います。
 そこで、日本と同じような憲法を持ち、本当にそれを保ち続けて実行しているコスタリカという国のことを話してみたいと思いますが、実は、この憲法調査会は昨年、ちょうど一年ほど前に代表団を送ってコスタリカの憲法を調査してまいりました。私は残念ながらこの代表団には入りませんでしたけれども、最近、今年の九月に私ども社民党の代表団が、国会議員は三人でしたが、このコスタリカを調査してきました。それは、コスタリカで極めて注目すべき違憲判決が出たからであります。
 もう皆さん、代表団の報告がありますが、この調査会でも団長だった市川一朗さんが詳しい報告をしておられて、もちろん速記録に載っておりますから、昨年の十二月三日の調査会で詳しい報告をしておりますから中身は申し上げませんけれども、要点だけ言えば、コスタリカの最高裁は、憲法裁判所ではなくて最高裁の中に四つの部門を持っていると。その四つの部門の中の一つが憲法法廷。つまり、日本と同じ最高裁判所の中に役割分担をして憲法判断をする部門を作っていると。つまり、今、日本も憲法裁判所を作れという御意見もあるようですけれども、そういう変化を、改正をしなくても、今の最高裁の中にはっきりと役割分担をして憲法判断をする部門を作ればいいということをコスタリカの現実は教えています。
 そして、これももう皆さんよく御存じのとおりですが、コスタリカは日本と同じように軍隊を持たないという憲法を一九四九年に作っております。自衛のためにやむを得ず必要な場合には軍隊を持つということを決めている点が日本と違います。日本の第九条は、軍隊は持たない、戦力は持たないというんですから。にもかかわらず、現実はコスタリカの方が以後、軍隊を持たないし、戦争もしないということを守り抜いている。
 それどころか、今年の四月にコスタリカの一人の大学生が、コスタリカ政府がアメリカのイラク戦争を支持したということを取り上げて、これは憲法に反するという訴訟を起こしました。それはアメリカが戦争を始めた昨年の三月、その直後から、この一人の学生は改めて自分の国の憲法のことを学び、国際法を学び、そしてそれをまとめて訴訟を起こした。これに対して、コスタリカ最高裁は今年の九月に判決を下して、コスタリカ政府の決めたアメリカのイラク戦争支持は違憲であると、同時に国連憲章にも違反するという明快な判決を下しています。
 なぜこういうことになってくるのか。残念ながら、コスタリカでは一九四九年に、先ほど申し上げたように、つまり日本のこの現行憲法ができた直後にコスタリカでも軍隊を持たないという憲法を作ったわけですけれども、その後、歴代の大統領、政府、そして国民の皆さんもこの憲法を守ることに誇りを持ってやってきています。
 例えば、一九八六年、アリアス大統領、この人は中米和平の、真ん中のアメリカですね、中米和平の五か国会議というのを作り、中米に続いていた内戦や紛争を解決してしまったために、その功によって一九八七年、ノーベル平和賞を受けていますが、歴代のコスタリカの大統領はそうした伝統を守ってそれぞれの平和活動をやっています。
 なぜあの中米の、あそこの国の人たちがそういう平和主義になったのか、これはもっと調べなければ分かりませんが、私は、八七年のノーベル賞を、平和賞を取ったアリアス大統領とは、金大中、韓国の金大中氏の紹介でソウルで会ったことがありますが、いかにも平和主義者の穏やかな人物だったことを知って、改めて、やはりこれはそういう国民性がこの平和憲法のために築き上げられてきているんだろうかとさえ思ったわけであります。
 我が国の憲法、そして、にもかかわらず、それに違反するおそれのあるような軍事力を持っている現状に対して最高裁が正しい判断を下さないということに対して極めて強い遺憾の意を申し上げて、終わりたいと思います。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で意見陳述は終了いたしました。
 それでは、ただいまの意見陳述に対し、一時間程度、意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いいたします。
 御発言は着席のままで結構でございます。
 なお、まず最初に各会派一巡するよう指名いたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 山下英利君。
○山下英利君 自由民主党の山下英利でございます。ありがとうございます。
 今の御発言の中をずっと伺っておりまして、やはり一番大事なことは、立法府の権限と司法の権限のチェック・アンド・バランスをどう利かせていくかということであると私は思っております。
 したがって、今、日本における違憲審査制度に関する問題として、やはり最高裁に対して多数の上告事件に忙殺されて憲法判断という責務がおろそかになっているというような声もありますし、しかし一方では、憲法三十二条で裁判を受ける権利、そして八十一条では終審裁判所としての最高裁の位置付け、これがある中で、最高裁は上告審でありまして、違憲審査について最終審という二重の責任を負っているというようなところで任務が過大であるというふうなことも言われているところでございます。
 大事なことは、我が国の違憲審査制度にあっては司法府がより積極的に、いわゆる消極姿勢というようなことが言われる中で違憲判断を含めた憲法判断を行うということが大事ではなかろうかなと、私はそのように思うわけでございます。
 そういった中で、最高裁判所の改革案として先ほど来お話も伺いましたが、憲法裁判所の導入であるとか、あるいは最高裁憲法部といいますか、最高裁の中に憲法を専門に扱う部署を作るとか、あるいは下級裁判所を設けて、そちらに一般審を持っていくとか、いろんな案が出されているところでありますけれども、憲法保障の役割として、司法の中でいわゆる憲法判断がしっかりと出されるようにすることがまずこの改革の一番の大事な点ではないかなと思っております。
 そういった中でやはり更に議論を深めていかなければいけないのは、この違憲審査制度において、付随的な審査制度、これを取るのか、あるいは抽象的な審査制度を取るのかというところが大きなポイントではなかろうかなと、私はそのように思っております。最高裁が憲法判断に消極的であるということに対しても、やはりこの付随的審査制度あるいは抽象的審査制度というものをしっかりと踏まえながら、この組織体制、そして最高裁の機能強化というものを図るべきであるというふうに思います。
 そして一方、内閣法制局という問題でございますけれども、内閣法制局は、すなわち、これは憲法の適合性を内閣において法律発効前に審査するという形であります。したがって、あくまでも司法は司法として独立してしっかりとこれは判断するということが必要なのであって、従来、法制局の憲法解釈を受け身の形で容認してきたということについての私は反省があると思いますし、そしてまた一方、憲法判断に消極的であった裁判所だと言われることがやはり国民にとって近い存在でないということが言えるのではないかなと、そのように思います。
 実際には幾多の案件審査をしておりますけれども、違憲ということで言えば数が少なかったということではないかなと。しかし、あくまでも憲法判断に対しては違憲、合憲を含めた積極的な取組姿勢というものを確立することが必要だというふうに私は思います。
 そのような中で、今、司法制度改革が行われておりまして、身近で早くて頼りがいのある司法を目指す改革と言われておりますけれども、国民の感性が本当にこのままでいくと、いわゆる日本も欧米型の訴訟社会といったものに同化していってしまうというふうなことは私は一つは懸念としては持っておるところであります。したがって、これは社会的な要請ということでもあるかもしれませんけれども、日本が長年培ってきたやはり感性というものを大事にした司法制度改革、これは必要ではないかなというふうな意見も述べさせていただいて、私の発表とさせていただきます。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 那谷屋正義君。
○那谷屋正義君 民主党の那谷屋正義でございます。御指名ありがとうございます。
 本日のテーマであります司法、特に憲法裁判、憲法裁判所に関する私の考え方を述べたいというふうに思っています。
 我が国の司法が違憲判断に消極的態度を取っているということは今るるお話ありましたけれども、法令違憲が示された事例数の少なさからも一目瞭然ではないかというふうに考えるわけであります。そもそも、我が国で立法がこの数字が示すほど完全なものだったのかどうか。むしろ憲法秩序を守る制度的保障の重要なすべがここ日本では十全に機能していないとの不安を感じるところであります。
 今の日本は人権意識も高まり、プライバシー権等、新しい人権に対する意識も国民に定着しつつあります。しかし、二大政党制に近づく情勢の中で、少数者の声が国政に届きづらくなっているのではないかという懸念もあります。
 多数決民主主義から漏れた少数者、弱者の個人の尊厳を守るには、裁判所、特に違憲審査権が彼らを救う大きな力となり、また最後のとりでになるのではないかというふうに考えています。法の支配を守り、少数者の人権を守っていくことが司法権に期待される最も大きな役割であり、憲法裁判や違憲審査権もその観点から検討されなければなりません。
 この点に関して、違憲審査を活発化させるために憲法を改正して憲法裁判所を設置すべきという意見もあるわけであります。ただ、憲法裁判所を作ったからといって、司法が積極主義に転じ、違憲判断が増加するとの保証は全くないわけであります。実際、憲法第八十一条が明確に違憲審査権を最高裁判所に規定しており、条文の解釈として下級裁判所にも違憲審査権は認められていると解されているにもかかわらず、十分に活用されていないのであります。
 また、憲法裁判所が政治的に利用されやすいのは、外国の例を見ても分かるとおり、古くから指摘されているところであり、人権保護の点からも好ましいものではありません。さらに、この憲法裁判所には法律の憲法適合性審査の機能を持たせ、現在、内閣法制局が果たしているような憲法の公権解釈の機能を持たせるアイデアもあるようですけれども、まず第一次的には、この機能は民主的基盤の下に、立法をつかさどる我々国会内に持つべき機能だというふうに考えます。イタリアの上院では、憲法問題を担当する第一委員会がこの機能を担っておりますが、このような形で国会内に設けることは可能であるし、憲法改正も不要であるというふうに考えます。思うに、多数決によっても侵すことのできない人権を守るために、最終的に憲法判断を行う裁判所の機能はもっと重視されるべきであり、司法による積極的な憲法判断が期待されるところであります。
 消極主義に至る原因として、最高裁における係属事件の多さや裁判の長期化、これも先ほど来指摘されていましたけれども、長期化による既成事実を覆すことの困難さ等が言われております。また、そういった技術的な要因のほかに、裁判官自らが無個性を尊び、政治的判断を留保することこそ美徳であると見る向きがあるとも言われます。しかし、違憲審査権を規定する憲法第八十一条は、彼らに法の支配に基づく立憲主義を支えるための使命を託している事実を忘れてはいけないであろうと考えます。政治部門への過度の遠慮は一方の使命を抑制してしまう弊害を生みます。
 私は、司法の消極主義が現憲法にビルトインされているとは思いません。まずは最高裁判所の機構改革により、現実の事件の負担軽減を大幅に行うことが必要なのは言うまでもありませんが、次の段階として、憲法部など、憲法裁判に集中する小法廷を設けるなどの工夫を行うことは、違憲審査に積極的に踏み出し、民主主義と個人の尊厳という大きな命題を両立するための第一歩となるでしょう。現行憲法はまさしくそのことを期待しているのであると私は考えております。
 以上です。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 山口那津男君。
○山口那津男君 公明党の山口那津男でございます。
 憲法裁判の在り方について意見を、個人的な意見を申し述べたいと思います。
 現状が司法消極主義に傾き過ぎているという国民の不満といいますか、見方というのは定着しているだろうと思います。いろいろな原因が指摘されるわけでありますが、一つには上告事件が余りにも数が多く多忙であってその違憲判断に十分な時間と議論を重ねることができていないという点であります。また、憲法判断を回避する傾向が強くて、その憲法規定を正面からとらえて解決を図るというよりは、立法のレベル、その解釈を通じて解決を図るということに終始しがちであるということ。また、全体にその司法判断、最終的な判決までに時間が掛かり過ぎるということなどから国民の不満は生じていると思います。これに対して、現状の制度というものが一定の限界を持っていることも確かであります。
 仮に、憲法裁判所を作るべきであるという考え方に立って問題点を考えてみますと、一つは、今のその付随的審査制とかあるいは事件性の限界と言われるもの、これを取り払って一般的に憲法判断をできるとした場合に、果たしてそれを求めるような社会的なニーズというのがどれだけあるのかということであります。何のためにそういう判断を求める必要があるのか、この点をよく吟味する必要があると思います。仮に、それらのニーズがあったとして、それを何でもかんでも憲法裁判所で取り上げるということはすべきではないと思います。
 そこで、どういった条件、要件を付してそれを絞り込んでいくかということであります。さらにまた、その憲法裁判所の判決にどういう効果を持たせるかと、それによってその機能と意味は大きく変わってくるだろうと思います。それらの議論を十分に尽くす必要があると思います。
 それからもう一点は、おのずと政治性の高い問題というものが持ち出される可能性は高く、それに対する憲法裁判所がどれほどの責任を負えるかということであります。
 まず、現状では任命権は内閣にある、裁判官の任命権は内閣にあるわけでありますが、憲法裁判所を持つ多くの国々が、これを国会あるいはその他の分野から任命権者を選ぶという国民的基盤をどう広げるかというところで腐心をしているわけでありまして、まずその政治的な判断をしなければならないとした場合にその正当性の根拠というものをどこに求めるか、そういう制度をどうやって仕組むかということが非常に重要な課題となりますが、これは今の制度を大きく変えるものでありまして、まだ十分な議論が尽くされているとは到底思えないと思います。
 そこで、この現状を一応の前提として、それぞれの三権の役割というものに言及したいと思います。
 一つは、立法府がもっと司法府の判断を尊重し、積極的に行動すべきであると思います。例えば、選挙制度に関して、投票価値の平等をめぐってしばしば違憲判決が出されるわけでありますが、これに対する立法府の迅速な回答というものがない。だからこそ訴訟が繰り返されると、こういう点が一つあります。
 あるいは、現状で司法が憲法に対して判断を加えるというのは、言わば消極性の前提で、よくよくのことでありますから、たとえそれが傍論であったとしても、これは大きな意味を持つ。それを立法府が真摯に受け止めなければならないということであります。
 何度も言及しておりますが、永住外国人の問題で、これは憲法が否定をしていない、永住外国人の参政権を否定していないと言っているにもかかわらず、傍論であるからといって無視するような議論が行われているというところ、ここは非常に問題があると思います。立法府はもっとここを真摯に取り上げるべきであると思います。
 それと、司法それ自体、ここが国民審査制度をもっと生かすとすれば、この消極主義をもっと自ら改めていく余地は十分にあるだろうと思います。その判断の結果によって国民審査が、つまり国民の目がより司法府に厳しく及ぶということも出てくるわけでありまして、その点の司法府自体の改革というものが必要だろうと思います。
 それから、内閣法制局、現状においては、この憲法尊重遵守義務を負う立場で憲法についての有権解釈をするという事実上の重要な機関であります。立法府の憲法論というのは、改正論を受けての議論というものも可能でありまして、必ずしもこの憲法尊重擁護義務の裏付けある発言とは限りません。でありますから、内閣法制局がその義務の裏付けを持って一つの見解を示すというのは非常に重要な機能を持っている。それだけに、この役割、中身というものを私はもっと重視すべきであるというふうに強く思うわけであります。
 以上、何点かについて私の意見を述べました。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 仁比聡平君。
○仁比聡平君 ありがとうございます。
 私は、先ほど意見陳述の中で御紹介をしました「日独裁判官物語」という記録映画の中で紹介をされているドイツの裁判官の市民的政治的自由を享受をしている姿を御紹介をさせていただいて、この調査会の調査に、提出をさせていただきたいと思います。
 この記録映画は、まず冒頭に、我が国最高裁判事が黒塗りの車に乗ってSPの護衛を受けて裁判所に出勤をする姿に対して、ドイツの連邦憲法裁判所の判事が自らスクーターを運転してヘルメットをかぶって裁判所に出勤をするという姿を象徴的に描いています。
 この判事は、四十七年間の間にドイツ連邦憲法裁判所が五百件以上の違憲判決を下してきたことを紹介をしながら、その原点が旧ナチスによる犠牲者、この犠牲を当時の司法が作り出してきたことへの深い反省を語りながら、裁判所は市民へのサービス機関でなければならないということを強調をしています。
 ドイツでは、このような裁判そのものへの市民参加についても参審制が取られ、あるいは法律扶助制度が極めて充実をしているなど、見るべき点があるわけですけれども、裁判官の市民的自由という点で見ますと、日本の裁判官が任地や昇格に、任地や昇格において差別をされる、統制をされるということに比して、ドイツでは一方的な任地の異動というのはあり得ないという身分保障がされています。ですから、地域に密着をした裁判官が当事者と同様に社会の中で一人の市民として生きることが非常に重要であり、裁判官である前に一人の市民として市民的な自由を持っていることが裁判に当たる上でも大変大事なのだということを何人もの裁判官が語っています。
 例えば、裁判官の労働組合、裁判官組合が、市民との交流と裁判をもっと身近なものにという趣旨でビアホールで喜劇仕立ての演劇を市民の皆さんに披露をする、そういう姿も紹介をされています。
 同時に、裁判官の政治的自由も保障されています。ある裁判官は、ドイツの社会民主党の党員で、裁判官であると同時にその地の区会議員を務めておられるそうです。月に数回は党員集会に参加をする。
 このように、社会活動、政治活動は保障されているどころか活発に行われています。この記録映画撮影時のドイツ法律家反核協会の会長は高等裁判所の裁判官であり、ドイツ自然環境保護連盟の法律顧問としても裁判官がかかわっています。このオフィスには原発はもう要らないというポスターが張られていました。
 このような政治活動と司法判断は全く別問題であるという指摘がこのドイツの裁判官たちから共通して語られます。裁判官が市民と同様に言論の自由という権利を持って自ら発言をしたり意思を表示をすることに何の圧力も受けない、団結権もあり、好きなように組織を作って入ることもできる、もちろん男女両性は平等であり、このように市民と全く同等の働く者と同じ立場であるからこそ、市民より高い立場にあるのではない、これであってこそ市民の立場での裁判ができるということを指摘をしています。
 ドイツでは高校で法学の授業が行われるそうです。ここでは裁判官がボランティア活動で講師を務め、表現の自由とデモについて、生徒が反核バッジを付けてデモに参加したことを理由に処分をされた事例を材料にして講義を行っていました。少年事件の担当の判事が裁判所の法廷を公開して提供し、校内暴力を根絶をするための市民集会をそこで開き、参加をしています。法律扶助の相談にボランティアとして参加をする、そのような裁判官もいます。
 司法が人権保障の本来の役割を全うするために司法の独立が何よりも不可欠であることはこの場でも語られたとおりですが、その中で、裁判官の独立こそがその司法の独立の中核を成すこともまた明らかではないでしょうか。
 このような裁判官の市民的、政治的な自由が本当に全うされる、保障されてこそ、民主主義の国家における本来の裁判の姿が実現をできるのだということを改めて強調して、私の意見といたします。
○会長(関谷勝嗣君) 田英夫君。
○田英夫君 山口那津男さんの言われたこととダブるかもしれませんが、立法府、行政府、司法、そういう三権のその組織の中で憲法に最終的な判断を下すのはどこかという問題ですね。当然それは最高裁であるということだと思いますが、同時に、内閣法制局、それから衆参両院に法制局があります。
 私の経験では、衆参両院の法制局という存在は私どもにとって極めて重要であることは言うまでもないんですが、議員立法で法案を作ろうとしたときには法制局に意見を求める。私が驚いたのは、ODA基本法というODA全般をきちんと組織的にやるための法案を作ろうとしたら、当然私は参議院法制局に相談をいたしましたら、一番先に日本国憲法との整合性を検討するんですね。当たり前といえば当たり前ですけれども。で、ODAですから、発展途上国に援助をするというときに、私が民主主義的な国家でないものは応援しないという意味の文章を入れようとしたら、それは憲法と整合しないおそれがあると、こういう意見を言われました。
 内閣法制局は正にそうした立場で、まず憲法との整合性を政府提案の法案に対して検討をするということから始めるわけで、たまたま集団的自衛権というものは憲法に反すると、こういう判断をしたと、それに対しておかしいじゃないかと、こう意見を言うのは自由でしょうけれども、行政府としてはこの内閣法制局の意見を尊重しなければならないと思います。
 まずそういう姿勢からお互いに行政府も立法府も憲法に対して気を配るといいますか、検討をする、そして最後に、やったことが、一方のそれに反対する人たちからすると憲法違反だということで意見を求めるのは最高裁だと、こういう構造をもっときちんとしないといけないのじゃないか。最高裁が判断をしないというのは、そういうところも原因になっているのではないかという気がしております。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 各会派を一巡して御発言をいただきましたが、他に御意見のある方は挙手をお願いをいたします。
 簗瀬進君。
○簗瀬進君 御指名をいただきましてありがとうございました。
 この立法と司法の関係というのは極めて難しい、ある意味では哲学的な部分までさかのぼって議論をしなければならない非常に重い問題だと、皆様の御意見を聞いて感じました。
 私は、まず国家とは何かと大変大上段に振りかぶった議論で恐縮でございますけれども、それを考えてみたときに、国家とは私は法秩序であり法規範の総体であると、こういうふうに思うべきであると思います。ただ、国家とは一方で地理的な存在でもあり歴史的な存在でもありますから、特に日本のような昔から一つの、海に囲まれた閉鎖空間の中で地理的同一性あるいは歴史的な同一性というようなものが自然に保障された国にあっては、先ほど申し上げたように、国家は法規範であるというその認識が極めて薄れてしまうのではないのか、私は、そこがまあ一つ、この日本民族といいますか、この日本という島国に住んでいる我々が常に考えておかなければならない一つの弱点なのではないのかなと思っております。正に、そういうところで憲法を頂点とする法規範のヒエラルキーというようなものが、非常に、時には軽んじられて、国家とはすなわち法規範の総合体であるという考え方が薄れてしまうのではないのか。私はこれを非常に、今後とも一つの我が民族のウイークポイントとしてしっかりと認識をしておくべきなのではないのかなと思っております。すなわち、法の支配が非常に大切だということであります。
 法はしかし、じゃ民主主義は作るものであると、こういうふうに考えれば、法の支配と民主主義というのはこれは矛盾をしないものだと簡単に結論を出すことも可能かもしれません。すなわち、多数決ですべてが決まればそれで良しと、こういうふうに考えることも可能かと思いますけれども、実は長い間の人類の歴史を見ますと、多数決は時に大きな間違いを犯してきたことが多々あるわけでございます。
 例えば、かつて大審問官のピラトが、張り付けにするのはイエスか、あるいはバラバかと、盗賊のバラバとイエスとどっちを張り付けにするんだと聞いたときに、多数の民衆はイエスを張り付けにしろと、救うのはバラバだと、ということで見事に多数決によってイエスは張り付けにされてきました。
 例えば、現代においても、ヒトラーをいわゆる総統という大変な独裁者に選び出したのはだれかといえば、当時のドイツ国民の国民投票によって、極めて民主主義的な手続でヒトラーは独裁者の地位を得たわけであります。すなわち民主主義、多数決も非常に間違えることがあると。ということをやっぱり我々常に反省をしながら、やっぱり法の支配というようなものを守っていくためには、時には民主主義は暴走をする、それも前提としながら国の仕組みというようなものを、すなわち立法と司法との関係というようなものを作っていくべきなのではないのかなと思っております。
 通常、三権分立という観点で司法と立法の関係を見たときに、非常に対立関係に置いて見る場合が多いのでありますけれども、実際は三権分立でも極めて微妙な抑制と協調と、このバランスの中で物を考えているんではないのかなということをやっぱり諸外国の憲法裁判の例を見ながら我々は学ぶべきなんではないのかな。一方で、日本国憲法を見たときに、どうも私はその抑制と協調の微妙なバランスという、そういう観点から見たときに、どうも日本国憲法、現在の我々が持っている日本国憲法は、抑制というよりも協調的に振れやすい、そういう一つの憲法的な癖といいますか、それがあるんではないのかなと思わざるを得ません。
 例えば、裁判官は内閣が任命をします。内閣は議院内閣制でありますから、当然多数党がそれを握っているわけでございます。また、大変任期が長い。また、国民審査という、忙しい国民にとってみれば、やっぱり裁判官を厳しくまた詳細にチェックをするということは困難な制度でチェックをしたような擬制を取っている。
 私は、そういう、全体的に言ってみると、日本国憲法は、司法と立法の関係で抑制と協調の微妙なバランスを得べきところがやっぱり協調の方に若干振れているんではないのかなと、こういうふうに判断をすべきなのではないのかな。それを前提にしてこの問題について私の考えを述べさせていただきますと、やはり諸外国の憲法裁判の例の中で、ドイツ型的なアプローチをやっぱり考えるべきなんではないのかなと思います。
 これから参考人の皆さんのお話の中でそれ出るかもしれませんけれども、ドイツ型を五点ほどその特徴を言わせてみますと、ドイツの最高裁判所の選任については議会が関与をいたしております。議会がその選任の最初から関与をしている。二番目に、その資格は、議会が選ぶのではあるけれども、法曹専門家であるということ。三番目は、任期が必ず議員の任期、国会議員の任期とずれていると。でありますから、いったん選んだ議員たちがいなくなった後も裁判官が残っていると。そういう形での議会の関与が入っているわけであります。また、第四番目に、両院が交互に選出をしていると。これも一つの微妙なバランスの取り方なんではないのかなと思いますし、そして、それらをもって第五番目に、抽象的規範統制、すなわち法律の当否についてもチェックをすると。こういうふうな形になっているわけでありまして、このようなドイツ型へのアプローチを憲法改正をする際には大いに参考にすべきではないのかなというのが私の意見でございます。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 愛知治郎君。
○愛知治郎君 自民党の愛知治郎でございます。
 あくまでもこれは参考ということでお話をさせていただきたかったんですが、昭和二十三年、私の生まれるずっと以前からの話なんですけれども、実質的に憲法判断を行った例という数字を私自身お伺いをしまして、いただいた数字なんですけれども、民事において五百八十二件、そして刑事事件において千九百二十七件の実質的な憲法判断が今まで行われてきたという例を聞いております。
 事実関係、後でまた確認をしたいと思うんですが、その中でも違憲判決、違憲の判断が少なくとも下級審において行われた例が民事において四十九件、刑事において二百五十五件であります。まあ三百件超ということなんですけれども、その判断がされた中で、最終的に最高裁において違憲判断がされたのが五種六件ということであります。たった六件しかないと。この点が、一般的に言われているように、司法が余りにも消極的なんではないかという話を裏付ける数字だとは思うんですけれども、具体的にいろいろ憲法裁判所の話等々ございますけれども、この数字を実質的に担保するような制度をやはり作るべきだという私自身の考えがございます。委員の先生方にも、この点をしっかりと把握した上で現行の、現行というか、これからの制度の構築に当たっての参考にしていただきたいというふうに思います。
 具体的に問題とされる、想定される事例として見れば、すべての判断、憲法裁判所に送られ過ぎて、より煩雑な手続の下、非常にまた判断をしにくい状態というか、忙し過ぎて憲法判断を避けるような状態が同様に出てくるんではないかという懸念がありますので、この点、実質を含めた上での議論を是非お願いしたいというふうに存じます。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 前川清成君。
○前川清成君 民主党の前川清成でございます。
 何人かの議員の方から憲法裁判所の設置について積極的な御発言がありましたが、どなたもその判決の効力については明確に言及されなかったように思います。その個別的な事件を離れて、一般的に法令と憲法との適合性を判断するのであれば、その憲法判断の効力も一般的に当該法令の改変にまで及ぶ、改変にまで及ぶと、こういうことになりますが、それはもう正に立法権を裁判所が行使することになってしまいます。その場合には、じゃ、その当該憲法判断を行う裁判所の民主的基盤をどうするのかという点も議論しなければならないのではないか、こういうふうに思っています。
 二番目に、憲法裁判に関連して舛添議員の方から、個別的な事件の解決に当たって裁判官が違憲という心証を抱いた場合には、その司法裁判所から憲法裁判所に事件を移送するんだというような御提案がありました。しかしながら、この御意見に関しては実際的なのかなというような疑問を持ちました。といいますのも、その事件にどの法律を適用するかというのは、証拠調べも済んで争点整理も終わって最終的な段階にならないとどの法律を適用するかというのが明らかにならないということが多いかと思いますが、その最終的な場合に、最終的な段階に至って、更に憲法裁判所に移送するということになれば、判決が更に遅滞してしまうんじゃないかな、そんなふうな懸念を持っています。
 それと、自民党の山下議員と私たち民主党の那谷屋議員の方から、最高裁に憲法裁判の専門部を設けたらどうかというような御提案がありましたけれども、何年か前に民事訴訟法が改正されました。その民事訴訟法の三百十二条の一項で、現在、実際上は上告理由は憲法違反に限定されているのではないか、こんなふうに理解をしています。
 どなたも、皆さん積極的な憲法判断が必要だというふうにおっしゃいます。この点について私は、むしろ人事の問題が大切なのではないかと思っています。仁比議員の方からもありました。憲法違反の判決をした裁判官は、実際は出世ができない。日本の裁判官制度として司法試験に通って司法修習が終わったら、その後定年になるまでずっと裁判所で働いていると、そういうような官僚システムの中でいったん憲法判断を、違憲判決をしたならば出世できないというような風潮がある以上は、どの裁判官も実際の問題として憲法判断に消極的になってしまう。そこで、むしろ憲法判断を積極的にするのであれば、人事の問題で、アメリカの法曹一元制度のように裁判官も一定期間の任期制にする。そして、その任期が済んだら例えば弁護士なり検察官なりに戻っていく、そういうふうな人事の問題に踏み込まなければならないんじゃないか、こんなふうに思っております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 舛添君。
○舛添要一君 今御質問がありましたので、先ほど時間の制約でその効力についてお話しできませんでしたので申し上げますと、第一カテゴリーの具体的な規範統制については、もし憲法裁判所が違憲の判決をしたときは、その係争事件に関しては何人もこの違憲の判決に拘束されるということです。
 それから二番目に、抽象的な規範統制の場合、つまり法律が制定、公布されてから例えば三十日以内に申立てがあって、それについて違憲の判決が下りたときには、その憲法裁判所の違憲の判決が下された日の翌日からその該当する法律などの規定はすべて無効になると、こういう形でございます。
 それで、先ほどの具体的な規範統制に関して、下級の司法裁判所がなかなかその違憲の申立てをするまでに、憲法適合性の判断を憲法裁判所に申立てするまでに時間掛かるんじゃないかということありますけれども、これは検察、警察レベルで証拠調べや何か終わっても、もう一遍裁判所でやるわけですから、裁判に掛かった段階ですぐこれは違憲の可能性ありとして裁判官、判断することは十分できるわけです。
 例えば、具体的に言うと、先ほど田英夫委員からお話がありました例えば自衛隊が違憲であるというようなことがあったときに、例えば有事法制違憲であると思った人が、例えば有事法制に違反した人が逮捕されたと。で、例えば司法裁判所がそれについて、その裁判官が、あっ、これはその有事法制自体が憲法違反であると、したがって彼が逮捕されるのは不当であると、こう判断したときには憲法裁判所に移送することができますから、その判断をいつやるかに懸かるわけですから、これが自動的に裁判を遅らせる原因にはならないと思います。
 そして、先ほど来、皆さん方から疑問が呈されたのは、三権分立の中で、要するに内閣が裁判官任命したらその内閣に有利なようになる危険性があるということですから、憲法裁判所をなぜ設置した方がいいと私が言ったかというのは正にその点なんで、内閣だけじゃなくて国会、つまり三権が代表して、三権を代表するような人が入っているとバランスが取れるというふうに思いますから、そのチェック・アンド・バランスの側面から、今のままの最高裁判所に違憲審査を任せるんではなくて、あらゆる国民の階層、三権から代表された人が裁判官となるような憲法裁判所で憲法適合性を判断してもらった方がよかろうと、そういう趣旨でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 前川清成君。
○前川清成君 確かに実際上、有罪、無罪を争わない大部分の刑事事件については、起訴状に公訴事実とともに適用するべき刑罰法令が明記されますから、舛添議員の指摘はそのとおりだと思うんですけれども、私は民事事件を念頭に置いて、民事事件においては、そもそもその具体的な事実自体がその裁判所の審理を通じて確定されていきますから、その確定するのに十年掛かる、二十年掛かるというのをやっている。すると、やっぱり法令を、どの民法の法律を適用するとかいうのは最後の最後になっちゃうということを指摘させていただいたと。
○会長(関谷勝嗣君) 岡田直樹君。
○岡田直樹君 自由民主党の岡田直樹でございます。御指名ありがとうございます。
 先ほど来、委員の皆様から、内閣法制局について、これは憲法尊重擁護義務に基づき有権解釈を下す大事な意義を持つ、あるいは行政府は内閣法制局の意見を尊重すべきであると、こういうふうな御発言がありましたけれども、私は、内閣法制局というのはそんなに信頼を置くことができるのか、ちょっと疑問を感じているところであります。一体そういう権限をだれから付与されたのか、どうもその法的な根拠に乏しいように思うわけであります。
 それと、大変、政治的あるいは憲法的に重要な問題についての解釈を下すことがあるわけでありますけれども、例えば九条に関して、集団的自衛権は有しているけれども行使することはできないと、何かその不可解な、詭弁のような解釈を内閣法制局がいったん打ち出すと。そうすると、首相も閣僚も、それを金科玉条のようにしてそこから一歩も出ない、そういった大変私ども新人の議員から見ますと不可思議なことが続いているわけであります。あたかもこれが最高裁の判例であるか、判例以上のような重みを持ってこの解釈を取り扱っていることが甚だ不可解であります。
 やはり先ほど舛添委員がおっしゃったように、何らかの憲法裁判所というものを設けて有権的な解釈機関とすべきではないか。内閣法制局というのは、その権限を縮小して、まあ事務的なといいますか、個々の法律のその審査に当たらせることが適当ではないか。
 また、その憲法裁判所、先ほど同僚委員が言われましたけれども、イタリアの上院では憲法問題を担当すると。そうした意味で、この参議院、我々参議院というものは、この憲法裁判所にどういうふうに関与あるいは参画していくことができるのか、そうしたことを参議院改革の一環としてまた検討をしていくべきではなかろうか、こんなことを思います。
○会長(関谷勝嗣君) 吉川春子君。
○吉川春子君 ありがとうございます。日本共産党の吉川春子です。
 私は、裁判官の報酬の問題について一言述べたいと思います。
 憲法は、最高裁、下級裁判所もそうですが、その報酬は在任中は減額することはできないとして、裁判官の独立を報酬の面から担保しているわけです。在任中、理由のいかんを問わず、任命権者の恣意による減額を許されないのはもちろんですけれども、懲戒処分によっても減額はされないというふうに理解されています。これはやっぱり報酬の減額によって間接的に裁判活動に影響を及ぼすことを防止するものです。やっぱり裁判官が良心と法律にのみ拘束されて判決を言い渡すことを強く現在の憲法では保護しているわけです。
 先ほど、自民党の舛添議員が、一定の場合には裁判官の報酬を減額することができるようにする方がいいんだという御発言がありました。これは、今月発表されました自民党の憲法改正草案のたたき台でも、裁判官の独立を害することとなる報酬の減額はこれをしてはならないという形で、独立を害しないという判断であれば報酬の減額ができるという余地を残すように憲法を変えるという提案がされておりますけれども、私は現在、給与法という形で内閣から出される法律でもって裁判官の給料も決められているわけですから、それをあえて憲法を変えて、憲法の中に減額ができるという規定を設けるのは非常に裁判官の独立という点からいかがなものであるかというふうに考えて、賛成することはできません。
 むしろ、今、下級審も含めて、違憲立法審査がなかなかなされない、その現状の改善が求められているというふうに思います。憲法は、やはり違憲立法審査権がもっと活発に活用されるのではないか、そういうことを予想して国民の人権保障のためにこういう規定を設けているというふうに思います。
 私は、中央省庁の再編のときも感じたんですけれども、非常に内閣の権限の強化ということが中央省庁再編のときになされました。総理の公選というのはちょっとこの委員会でも余り積極論がなかったように思いますけれども、今やっぱり三権分立ということで、権力のチェックという点でやっぱり司法の果たす役割というのがもっと大きな役割を果たすように、現憲法下の下で行われることが望ましいと思います。
 そのためには、今裁判官は多忙を極めているわけですから、定数を増やすとかそういう形で、やっぱり実質的に憲法判断ができるような、そういう体制を作っていくということの方が重要ではないかと思います。
 以上で終わります。
○舛添要一君 会長。今の。
○会長(関谷勝嗣君) では、舛添先生の意見で終わらせていただきたいと思います。
 御承知のように、お二人の参考人の方をお呼びしておりますので、余りお待たせするのも恐縮でございますので、では、舛添先生の反論で終わります。
○舛添要一君 今、吉川先生からお話しありましたけれども、私は、政治的に介入して報酬を減額することができるためにそれを置くのではなくて、正にこのデフレという経済状況において、例えば、ほかの公務員がみんな報酬をカットされているときに裁判官だけ、そういう意味での物価調整というか物価スライドというか、その面での報酬の減額までできないというのはかえって権威を傷付けることになるのではないかという意味で申し上げたので、したがって、それを書き換えるなら、名目、実質、経済学の用語で言えば名目、実質という言葉で書き換えて、ノミナルであってもレアルであっても下げないというのは良くないので、これは江田先生が知っていられたら教えていただきたいんですけれども、先ほど申し上げたように、実質的にはたしか下げたはずだと思います。
 ですから、そういう憲法解釈をしたので、ただ、明確にした方がいいのでそういう規定を置きましたので、政治的に介入させるためではございません。
○会長(関谷勝嗣君) 誠に恐縮でございますが、今日の意見……
○江田五月君 会長。
○会長(関谷勝嗣君) では最後に、江田五月君。
○江田五月君 今の舛添さんの提起については、そういう疑問はありますが、国会では、これは憲法違反ではないということで、前回、裁判官の給与を下げました。反対の会派もあったと思います。
○会長(関谷勝嗣君) いいですか。
 それでは、意見交換はこの程度とさせていただきます。
 速記を止めてください。
   〔速記中止〕
○会長(関谷勝嗣君) 速記を起こしてください。
 「司法、特に憲法裁判・憲法裁判所(憲法の公権解釈の所在を含む)」について、立教大学大学院法務研究科教授の渋谷秀樹参考人及び関西学院大学大学院司法研究科教授の永田秀樹参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、渋谷参考人、永田参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず渋谷参考人にお願いいたします。渋谷参考人。
○参考人(渋谷秀樹君) ただいま紹介いただきました立教大学の渋谷と申します。
 本日は、参議院の憲法調査会に参考人としてお招きいただき、意見陳述の機会を賜りましたことは誠に光栄に思っております。感謝申し上げます。
 会長の御指示に従いまして、着席のまま意見を申し上げます。
 さて、私に意見を求められた事項は、「司法、特に憲法裁判・憲法裁判所(憲法の公権解釈の所在を含む)」についてということですが、資料などから拝見いたしますと、この問題は既に本院の憲法調査会におきまして随分詳細な検討が、かつ様々な角度からなされているようです。また、憲法裁判の在り方につきましては、後ほど、御専門の永田先生の方から比較法的な見地を含めた詳細な御意見が述べられる御予定ですので、ここでは、私としましては、この問題を考えるに当たっての前提とも言うべき憲法保障の一般論を述べました後に、あるべき憲法保障の方向性と、その際論点の中核部分に位置付けられる憲法の解釈権はだれにあるべきかについて私の意見を述べさせていただきたいと思います。
 さて、憲法保障と憲法解釈権を持つべき者の問題はどのような関係に立つかをまず説明しておく必要があります。
 憲法というものが作られるようになりましてから、しばしば憲法の番人はだれかという議論があります。これはお手元にお配りしました資料にも、私の本の中にもその辺は若干書いてございます。現在は裁判所がこの任務に当たるとするのが世界的な趨勢でございますが、ここに番人という言葉があるように、解釈権の所在は、憲法がその審判から守るのはだれかという問題、つまり憲法保障の主体の問題と表裏一体のものと考えられています。
 ですから、そもそも憲法保障とはどういうことであり、また現行憲法はそれをどのように実行しようとしているのか、そして現実はどうなっているのか、そしてその改善策はあるのかを順番に考えていくのが憲法解釈権を持つべき者を明らかにするための問題点の所在を明確にするために有効であると思います。
 以下、このような私の問題意識と流れに従いまして、永田先生の御報告はより具体的な制度論ということになりますので、主として総論的な観点から意見を述べさせていただきます。なお、私に与えられた時間は二十分ですので、適宜簡単なコメントにとどめる部分もございますので御容赦いただきたいと思います。
 それでは、レジュメに従いましてお話し申し上げます。
 まず、一、憲法保障の意義と類型ということで、意義なんですが、これは、レジュメには簡単に申しまして憲法の最高法規性を護ること、これに尽きるわけです。より詳しくは資料にあります。これは資料の、参考人資料として書いてありますページ数のところですが、より詳しく申しますと、「法律などの憲法より下位の法形式や政府機関のその他の活動によって、国の最高法規である憲法規範の意味内容が変更・侵害されることを事前に予防し、または事後に是正して、憲法秩序の存続と安定を保つこと」ということになります。
 その手段にはどういうものがあるかというのが次の類型という問題になります。
 レジュメは(2)に移りますが、類型につきましてもお手元の資料に書いておきましたが、レジュメにございます一番の組織的保障と未組織的保障の区別は、憲法の中に組織化、制度化されているかという観点に基づくものです。二つ目の憲法内的保障と憲法外的保障の区別というのは、これは憲法秩序が維持されているか否かに基づくものです。当調査会におきましても既に調査がございまして、ここに参憲資料第十一号というものですが、これで既に主要国におけるその概要は明らかにされております。
 未組織的保障、それから憲法外的保障は、これは基本的にはといいますか、原則的には抵抗権とか国家緊急権など、緊急事態にかかわる問題で、今回の検討事項から外れると思います。
 また、未組織的かつ憲法内的保障として、これはドイツの国法学者であるイェリネックの言うところの社会的保障と位置付けられます。マスメディアに保障、マスメディアが批判することによって憲法秩序を守るということですが、これは今日では非常に重要な意義を持ちますが、ここではこれは除いて、組織的ないし憲法内的保障を中心に日本国憲法に即してお話ししたいと思います。
 次の項目二、日本国憲法における憲法保障のお話に入りたいと思います。これは日本国憲法が全体としてどういう形で憲法を守ろうとしているのかと、そういう話でございます。
 まず一つ目の構造による保障。これは政府の組織構造に憲法保障をどのように組み込んで制度を設計するかという問題です。
 一般的に権力分立原理の制度設計と言われるものがこれに当たると思います。権力分立というのは、これは皆さん承知のことですが、政府の活動を三種に分けて、それぞれ別の者に担当させて権力の暴走、独裁を防ぐというのが眼目ですが、その中に重要な機能として、互いの憲法違反を監視、抑制するということは当然のことながら含まれているということになるでしょう。
 その一つが議院内閣制。議院内閣制といいましても、これは必ずしも憲法問題に特定されないわけですが、しかしここにありますように六十二条、これは国政調査権、七十二条は内閣総理大臣の報告義務、六十三条は大臣の国会への出席権あるいは出席義務、六十九条は、これは究極的な形で内閣不信任と衆議院の解散ということになっております。これも当然憲法に関してこういうことがあり得るという形で憲法保障の一端を担っているということになるでしょう。
 それから、その次の裁判所の抑制。これ、レジュメはちょっと条文数が実は間違っておりまして、八十一条、いわゆる違憲立法審査権が構造的な保障ということに付けられようかというふうに思います。これは本日の中心テーマということになります。
 それからもう二つ、規範による保障。これは案外議論されておりませんのでここで述べたいと思いますが、これは、憲法が規範、ルールとして憲法を守るように定めるというようなこともございます。
 これは、一つには、日本国憲法は十三条において政府の活動目標を定めている。つまりこれは、国民の生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とすると。これは立法その他国政の上でこれが一番大事だということを定めているわけで、正に日本国憲法、それから日本の国の政府の目標をこの条文が明示しているということになります。
 それから九十八条というのは、これは憲法の最高法規性を定める規定でありますが、これは法規範の階層構造、ヒエラルキーを明確にするもので、憲法が法規範の頂点に立つこと、つまり憲法の最高法規性を明示しています。
 それからもう一つ、憲法九十九条、これは天皇以下すべての公務員に対して憲法遵守義務を課しているわけで、これはいわゆる法の支配の思想。つまり、憲法は、権力をあずかる者を名あて人とし、これらの者に憲法を尊重、擁護すべき義務、つまり憲法遵守義務を課して、憲法が保障されることを担保しているということになります。
 三つ目の手続による保障と申しますのは、これはどういうものかといいますと、まず一つ目は、ここに、レジュメに書いておきましたが、憲法の最高法規性、さっきも、先ほど申しました憲法の最高法規性というのは、改正手続に加重要件を課す、つまり、憲法改正手続の要件を厳しくして簡単に基本的な国家秩序が改変されないことを保障しています。これは九十六条の規定ですが、これはその改正手続に厳格な要件を課しているということになります。
 それに加えて、案外見落とされているのは、理論的に設定された憲法改正権の限界ということも留意する必要があります。
 一般的にその憲法規範というのは、中核的、基本的な根本規範、改正規範、憲法律と三種のものがあって、憲法にある改正手続によって改正できるのが憲法律だけであるという理論。これは、憲法で定められた改正手続によっても改正できないものがあるということによって、一時的な国民感情によって憲法の基本的な価値が改変されないことを保障している。これは現在でも通用している一般的な考え方ということになります。
 そういう形で日本国憲法における憲法保障というのは成り立っているということになります。
 その次の憲法保障の実態ということから本日のテーマに大分接近していくわけですが、まず、その違憲審査権に関して、まず機能の問題と原因で、機能に関しては、結論的に言えば機能不全ということになるわけですが、それとその原因をお話ししたいというふうに思います。
 機能としましては、八十一条解釈の問題に入っていくわけですが、下級審にも違憲審査権はあるけれども、この違憲審査権は具体的事件に付随して行為されるという、付随的、具体的違憲審査制が通説、判例となっております。このように、具体的な紛争がないと違憲審査をしないという構造的限界が設定された結果、違憲判決が非常に少ない。つまり違憲判断消極主義、つまりは機能不全と言っても過言でない傾向が見られるというふうに一般的に言われています。それは法令違憲の判決がわずか数件しかないというようなことからそういうことが言われております。
 では、その原因はどこにあるかということ。これは永田先生の方から詳細が述べられる予定ですが、簡単に申しますと、沿革としましては、実際の必要性に迫られて作った制度ではないということ、それから事件の量と質という問題としては、最高裁に係属する事件が大量で憲法問題がその中に埋没してしまっている、また訴訟当事者自身も憲法問題をうまく最高裁に提示できないという問題があろうかと思います。
 それから、法曹の質という点でも、最高裁判所が憲法問題の終審裁判所でありながら、最高裁判所の裁判官に憲法の研究者あるいは権威と考えられる人が任命されていないという人的な問題もあるでしょう。さらに、法曹全体が憲法の知識不足。これは、憲法は司法試験の科目になっておりますが、司法研修所に憲法の科目自体はありません。これは研修制度自体の大きな欠陥であったかというふうに私は思っております。
 それから、今日の焦点の一つ、内閣法制局のことに入りますが、内閣法制局の機能といたしましては、違憲審査権が司法権の行使に付随して行われるものとして位置付けられた結果、すべての局面において最高裁判所が憲法判断の終審裁判所、つまりラストワードを持つ機関として機能することが不可能となっております。
 しかし、日々制定される法律、それから締結される条約、その他政省令などの行政立法、さらには個々具体的な行政活動などは、先ほど申しましたように、憲法にのっとってなされねばならないと。その際、現場の判断に揺れがあってはそれこそ不公平、さらには不公正ということになりますから、行政権のトップに位置する内閣が統一的な見解を示す必要が当然出てきます。そして、現に内閣法制局が事実上の公定解釈を示していることは周知の事柄ですし、当調査会でも関係者からその旨の意見陳述が聴取されております。
 私は、基本的にこれは必要なことで、内閣法制局はその職分を厳に忠実に守っているという評価をしたいというふうに思います。ただ、その内容に関しては憲法学者の方から多々批判があろうかということは、これはまた別問題ということになるでしょう。
 それから、なぜこういうふうに言うかというと、これをやめるとどうなるかと考えれば分かると思います。つまり、法令その他の違憲判決が非常に少ないというのは、これは内閣法制局が事前審査をやっているということが一つの原因というふうに、これも指摘されていることです。実際、薬事法違憲判決というのはありますが、これは議員立法であり、また合憲性に問題があるので政府提出法案とはならなかったというふうに言われております。仮にこれをやめるとすれば、いわゆる政治部門と裁判所が直接対決するという場面が増えてくるわけで、果たして、そのようなコストに政治部門の方が果たして堪えられるかというような問題も考える必要があろうかというふうに思います。
 それから、内閣法制局の活動根拠、これは憲法自体には当然そういうことは直接的には書いてないので、これを考える必要が出てくるわけです。
 いかに考えるかという話なんですが、つまり内閣法制局の権限、活動を支える根拠としては、政府の憲法遵守義務、これは九十九条に究極的に求めることができようかというふうに思います。
 これは、先ほど申しました九十八条は憲法の最高法規性、九十九条は大臣の憲法遵守義務というのを規定しているわけで、当然、内閣の憲法遵守義務はこの条文に根拠を求めることはできるわけですが、さらに憲法七十四条は内閣の職務を列挙しておりますが、その一号に法律の誠実執行義務が規定されております。この規定は、憲法の誠実執行義務は当然の前提としていると考えられます。ただし、憲法解釈についてはラストワードを持っているのは憲法八十一条によって最高裁ですから、内閣法制局の解釈は最高裁を拘束するものではないということになります。
 次に、実質的に考えていきますと、憲法の文言というのは非常に一般的、抽象的ですから、対内的に、国内的にということですが、対内的に、また対外的に、国際的にということですが、一貫した憲法解釈を示す必要があります。一貫したということは、さらに従来の解釈との一貫性、整合性ということも含みます。これは国の国際的な信用にも懸かっているというふうに考えられます。
 内閣には、法律の提案権、条約の締結権、予算の提案権などがあります。法律、条約、予算というのは国政の正に中核を占めるもので、その職務の提案に当たり憲法を遵守することは当然の前提となっていると考えられます。そこで内閣の中に憲法解釈を統括する機能を持つ部門が必要とされ、かつそれは内閣の一部門として置かれる必要性があるのは言わば当然のことであろうかというふうに思います。これは、内閣法制局のいわゆるその憲法秩序の中の位置付けをいえばそういうことになろうかというふうに思います。
 それでは、じゃ今の制度がすべてうまくいっているかというと、まあそうでもないということでこういう議論が、ここでの議論がなされているわけで、改善の方向性ということを考えていきたいと思います。
 方向性としては三つ、運用による改善、法律制定による改善、憲法改正による改善ということで、これは時間の関係もあるので簡単に申したいと思いますが、運用による改善というのは、これは制度自体はいじらないということになりますが、一つ目は憲法裁判のルールの構築。
 ですから、これは裁判所自体が憲法問題をどう扱ってよいかよく分かっていないということもありますので、これをもうちょっとちゃんとしたルールを作れば裁判所がしっかり憲法判断をすることになるのではないかという、そういう問題意識です。これは私の本来の専門とする憲法訴訟論ということのテーマですが、本日のテーマとは若干離れますので、そういう問題があるということで、ここでは省略いたします。
 それから、二つ目、憲法判断の正統性の確固たる地盤の確立というお話をしたいと思います。
 これは、資料としては、私が一般市民向けに岩波新書で書いたものを資料として付けていただきました。この項目でこれを付けた理由といいますのは、やっぱり理由がございまして、これまでの調査会の意見の中に、内閣法制局が憲法解釈を事実上統括するのは不健全であるというようなトーンが見受けられます。これは実はどういう趣旨かというと、法制局がそのような意見を出すことがそもそもいけないのか、あるいはそれとも法制局の出す意見がそもそも気に入らないのか、中身が気に入らないのか、どうもその辺のところを両者が混同しているように見受けられます。
 ここで仮に、後に言いますように、最高裁の改革、さらには憲法裁判所を設置して積極的に憲法判断を示すことになると、そこで出される憲法解釈が気に入らない場合、今度は内閣法制局に向けられた批判が裁判所あるいは憲法裁判所に向けられる可能性があるということを十分留意する必要があると思う。これは実際、公務員の労働基本権の制約につき限定解釈を施した最高裁の判決が実はありましたが、これは当時の与党からの偏向判決の批判を受けて全面的な判例変更を行ったことがあります。ですから、そういうこともありますので、慎重に考える必要があろうかというふうに思います。
 ですから、どのような改善策が施されるにせよ、なぜ一定の機関が憲法解釈の最終権を持つのかという根本問題をしっかり押さえていく必要があろうかというふうに思います。
 それから、その次の項目は、最高裁判所裁判官任用の改善、これ、先ほど申しましたように、やはり憲法の専門家が入っていないということが問題かなというようなところでございます。
 時間がなくなってきましたが、あとは法律制定による改善というのは、これは憲法を改正せずにも法律レベルの改変でも足りるのではないかということで、これは既に最高裁の中に憲法部を作る、あるいは特別高等裁判所を作って最高裁判所を憲法問題に特化するというような形で議論があって、これはそれぞれメリットがあると思います。これにつきましては後ほど永田先生からも御意見があると思いますので、私の意見は御質問があればその中でお話ししたいというふうに考えております。
 それから、三つ目の憲法改正による改善ということですが、これは憲法裁判所の創設ということになりますが、これは、新聞等によりますと、割とそういう主張をなされる方が多いというふうに思います。
 ただ、問題点としましては、どういう形で制度設計をするかということがやはり重要で、仮に抽象的違憲審査、つまり具体的紛争がないのに法令のみの合憲性を求めるような、あるいは判断できるような制度にしますと、やはり一番問題点は、裁判所が政治的紛争を解決する場になってしまうということ、問題点があろうかと。これはしっかり考えておく必要がありまして、それを認めた上で憲法裁判所を設置するということにしないと、先ほど申しましたように批判の矛先が内閣法制局から憲法裁判所の方に向いていくというようなことになって、結局またどうやろうかという制度改革の議論になってしまうと、そういう問題点があろうかというふうに思います。
 それから、あえて憲法改正による改善をやろうとするのであれば、裁判所の構造改編に加えて、先ほど申しました憲法九十九条である憲法遵守義務の実効化ということを図るべきではないか。これは、ドイツ基本法にも大統領の憲法違反したときに弾劾という制度がございますが、実際そういう形で、実際公権力を握る人が憲法をしっかり守るというようなことを担保するような制度が必要であろうかということで、それも含めて考える必要があろうかなというふうに考えております。
 以上、大体時間が参りましたので、私の意見陳述はこれで終わらせていただきます。
 どうも御静聴ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 次に、永田参考人にお願いいたします。永田参考人。
○参考人(永田秀樹君) 本日は、憲法調査会にお招きいただきまして、ありがとうございます。関西学院大学の永田です。
 憲法裁判所型違憲審査制の意義について意見陳述をさせていただきます。時間が限られておりますので、早速本論に入ります。レジュメを用意しておりますので、これに沿ってお話しさせていただきます。
 初めに、違憲審査制度は、世界最初の憲法を制定したアメリカに始まり、多くの国々で採用されるようになっています。今や、違憲審査制度を持っていることは、民主主義国家、立憲主義国家のあかしとしての意味を持っているように思われます。戦後、飛躍的に拡大した違憲審査制、それらは違憲審査革命とか憲法裁判権の勝利の行進とか言われていますが、西ヨーロッパに限らず、圧倒的に多数を占めているのは、アメリカ型ではなく、集中型の違憲審査制です。なぜそうなったのかは後で述べますが、ともかく、憲法裁判所方式の採用によって議会制民主主義の活性化や人権水準の向上に成功した国が多いように思います。
 違憲審査制の三つのタイプ。かつてのフランスの憲法院のような政治的機関による違憲審査、これは現在の日本での内閣法制局による法律の事前審査とも似ているところがありますが、これを違憲審査制の一つのタイプとして分類する方法もないわけではありません。しかし、このような政治機関による違憲審査は本来の違憲審査とは性格が違い過ぎますので、ここでは分類の外に置きます。政府から独立した裁判所による違憲審査制ということでいいますと、その中を集中型、非集中型、混成型の三つに分けることができます。非集中型は分散型と言うこともあります。
 資料を見てください。ちょっと大きな表になっております。これは、拡大前のEU諸国を中心として、各国の憲法裁判制度を表にしたものです。これを見ても分かりますように、ヨーロッパでは違憲審査権を特定の憲法裁判所に集中させる集中型違憲審査制が多いということが分かります。混成型というのはポルトガルや南米諸国に見られるタイプで、従来、通常裁判所に違憲審査権が認められていた国で、通常の裁判所による違憲審査権も存続させながら新たに憲法裁判所を作り、両者に違憲審査権を与える制度です。このような競合を認めると非常に複雑な仕組みになりますが、なぜこのような制度が成立したかの事情については、資料に付けた私の論文「スペインおよびポルトガルの憲法裁判」を参考にしてください。
 ポルトガルにおいても、新しい憲法価値の担い手として従来の裁判所だけでは不十分だと考えられたという限りでは、憲法裁判所設置の目的は他の国と共通するところがあります。
 四つの波。憲法裁判所による違憲審査制が導入されるについては四つの大きな波がありました。一、二の例外を除いて、いずれも時代の大きな転換期において国内で革命などが起こって支配者が交代し、新しい憲法が制定されたことが契機になっています。そして、その革命や政治変動の性格は、それまでの君主制や独裁体制が倒されて、民主主義が宣言され樹立されたということです。その民主主義体制の樹立と合わせて憲法裁判所が設置されたということが重要です。
 一、オーストリアの憲法裁判所は、第一次大戦後に君主制が崩壊したことが契機になっています。これによって国民主権に基づく議院内閣制ができたのですが、議会少数派の権利を擁護する機関として憲法裁判所が構想されました。これは議会の多数決支配を緩和して立憲主義との間にバランスを取ろうというケルゼンの理論にのっとっています。
 二、その次は、第二次大戦後のドイツ、イタリアです。いずれも連合国と戦った枢軸国ですが、ナチズム、ファシズムを経験した後に、人間の尊厳などを憲法価値とする新しい民主主義の憲法を作りました。そこで、新しい憲法価値の担い手として憲法裁判所が作られたわけですが、議会制民主主義との関係では、政治的な決定について法的なチェックを加えることで多数決民主主義の欠点を補うことが期待されました。この点はオーストリアと同じです。
 ドイツにおいては非常に大きな役割を果たすようになっており、重要な法律で与野党で激しい論争があったものは、成立後ほとんど憲法裁判所の審査を受けます。そのため、国家の政治的意思は議会での多数決だけでは決まらず、第二ラウンドたる憲法裁判を経て初めて決着するということになっています。この点については私が論文の中で紹介しているイプゼンの理論を参考にしていただきたいと思います。
 三、その次は、ギリシャ、スペイン、ポルトガル等が続きますが、これは、これらの国が第二次大戦後もナチズムの影響を受けたフランコ政権のような独裁政権が長く続き、七〇年代の後半になってからやっと民主勢力が独裁政権を倒して民主化に成功したという事情があります。その場合の新しい民主主義のルールと人権保障の確保のために、ドイツやイタリアの成功例に倣って憲法裁判所を導入したものです。
 韓国も、長い独裁や軍事政権の後に民主的な憲法が制定されることによって憲法裁判所の設置が実現しました。そういう点ではスペインなどと同様です。初期には裁判官の自覚もあって、すなわち、従来の最高裁判所とは違うという自覚もあって、古い体質からの脱皮と民主主義の定着において貢献したと、多くの文献が憲法裁判所の活動を肯定的に評価しています。
 第四の波は冷戦後です。旧社会主義国が民主主義革命を遂行し、近代立憲主義に基づく憲法を制定しますが、その中で西側で成功を収めていると考えられた憲法裁判所による違憲審査の制度の導入に多くの国が踏み切るわけです。旧ソ連邦から分かれた国などたくさんの国がありますが、私はこの地域の研究はまだやっておりませんので表には取り上げておりませんが、大体同じような制度です。憲法裁判官の任命は、議会が選任するか、大統領の推薦に基づいて議会が選任するというパターンが多いようです。
 南アフリカは、御存じのように、アパルトヘイトによる白人の支配が終わった後に新憲法が制定され、それに伴って憲法裁判所制度が導入されました。その意味では、同じく革命的な変化が憲法裁判所の設立を促したということが言えると思います。
 各国が憲法裁判所型を採用した理由、以上四つの波があったことと、それぞれの事情を簡単に見てきましたが、各国が憲法裁判所型を採用した理由をまとめますと、一つは新憲法価値を積極的に実現してくれる機関としての期待がありました。不安定な政治状況の中で古い体制へ後戻りさせない保障として、憲法裁判所による違憲審査制度を位置付けたということです。
 ドイツの場合は、ナチズムへの恐怖から、これが極端な形で現れて政党の解散禁止まで制度化してしまいました。憲法裁判所に憲法保障機能を担わせることは、民主主義の運営を議会任せ、政府任せにしないという立憲主義に基づくものです。第二の波のドイツのところで述べましたように、強力な違憲審査権は議会と裁判所との間に緊張関係やあつれきを生じさせることになりますが、それが議会制民主主義にとっても有意義であると考えられたからこそ、従来の水準を大きく上回る強力な司法権が作り出されたのです。
 なお、フランスの憲法院が憲法裁判所としての位置付けを与えられるようになったのは一九七〇年代からです。憲法院が人権問題について法律をチェックするようになったことと、議会の少数派の議員、すなわち野党勢力に提訴権が認められるようになったことで、事前の規範統制が政府に対する対抗的な意味を持つようになり、これによって、単なる大統領の諮問機関、体制擁護のための機関ではなくて、憲法裁判所としての評価を与えられるようになったためです。
 二つ目の理由は、意外と知られていないのですが、君主制時代、独裁時代の旧裁判所、旧司法権に対する不信があります。
 ドイツの場合でいえば、ワイマール時代の官僚的司法は国民から疎遠であった。政治的に中立を装いながら、その実、権力に迎合し、ヒトラーが政権を取ると、それに全面的に協力するような恣意的な司法を行ったという評価が基本法制定会議の中で優勢を占め、それが最高裁判所やその他の裁判所ではなく憲法裁判所に違憲審査権を与えることになったのです。これはイタリアでも同じで、戦後しばらくは暫定的に最高裁判所に憲法訴訟を扱わせたのですが、消極的過ぎるということで、結局、憲法裁判所が設置されることになったのです。私は、憲法裁判所の設置を考える上で、キャリア裁判官に対する不信というのはかなり重要な要素だと思っております。
 三つ目の理由は、違憲審査権の政治性の認識です。
 憲法は、政治権力を規制しようとするところに他の法にない大きな特徴があります。したがって、憲法裁判は多かれ少なかれ政治的な性格を帯びてきます。これは人権保障にかかわるものでも同じです。例えば、外国人の人権をどこまで認めるかというのはしばしば大きな政治問題になります。それを政治性があるから裁判所の仕事ではないと言っていたのでは憲法の番人は務まりません。
 昔、ドイツのシュミットは、違憲審査権の行使は政治的決定であるから、そもそも非民主的である裁判官に与えてはならないと言いました。確かに、この問題はすべての違憲審査制度に共通する難問であると思われますが、ドイツなどは、この問題について、憲法裁判官には他の裁判官とは異なる資質を要求し、また法律家としての専門性だけでなく民主的正当性を求めました。すなわち、違憲審査権という国家機能にふさわしい機関の選任方法として議会が重視されることになったのです。
 もう一度言いますと、機能の政治性を自覚した上で、もちろん憲法裁判が厳密な法解釈と適用によるものであることは当然の前提ですが、裁判官の選任方法が工夫されたのです。
 日本の違憲審査制が機能していない理由。
 日本の違憲審査制が十分機能していない、とりわけ、最高裁判所が憲法の番人としての役割を果たしていないことは学会の常識になっています。一つの理由として、上告審として通常の民刑事事件の処理に忙殺されて憲法訴訟に集中的に取り組むことができないということが挙げられています。
 しかし、私は、制度的にそういう面がないとは言いませんが、基本的には、日本国憲法の価値を擁護し社会的に浸透させようという裁判官の意欲と資質に一番の問題があると考えています。統治行為論や部分社会論、さらには立法裁量論など、消極主義的手法によって憲法判断を回避しようとする姿勢が濃厚です。単なる国会に対する謙譲というよりは、政治部門の決定にはそのまま従うという自らの存在意義を疑わせるような判決もあります。
 一、制度的原因。なぜ意欲と資質が欠如しているのか、制度的原因としては二つのことが考えられます。
 一つは、裁判官の養成・登用システムです。従来型の純粋司法、民刑事事件の処理を本来の使命として養成されてきた日本のキャリア裁判官にとっては、時に政治的な問題が絡んでくる違憲審査権が重荷になっているということがあると思われます。最高裁については、キャリア裁判官だけでなく広く人材を確保するようになっていますが、現状では、中心部分はやはりキャリア裁判官が占めているので、違憲審査制が負担になっているというのは最高裁においてもそう変わりません。
 人材の登用に際して一番重要なのが、だれが実質的な選任権を持つかということです。これが制度的原因の二つ目にかかわる問題ですが、最高裁判所も含めて、内閣による任命というシステムは、どうしても人事が与党サイドになることは避けられません。ドイツ等では議会が選任し、しかも三分の二以上とかいった特別多数決の仕組みが取られていますので、実際には候補者推薦について与野党の間でバランスが取られるようになっています。
 ドイツでは、現在の仕組みを作るのについて、政府裁判所か議会裁判所かということが言われたことがあります。幾ら司法権の独立とはいえ、人事の面ではこの二つの政治部門が重要な権限を握るわけです。それで、政府によって一方的な人事が行われないようにするために議会裁判所型が選択されたわけです。アメリカでも上院の承認が必要となっています。
 政治的、社会的原因。
 もちろん、政府・与党が一方的な人事権を持った政府裁判所であったとしても、適度に政権交代が行われるならば議会裁判所と似たような結果をもたらすと思われます。しかし、確実な話ではありません。日本の場合、戦後、基本的なところでは政権交代が行われていないわけですから、人事の停滞が起きることにもなります。これが違憲審査制が機能しない政治的要因ということになります。
 いずれにしても、与党と野党がある程度入れ替わらないと積極主義への転換は難しいと思います。
 社会的原因ということで特に申し述べることはありませんが、国民の間での裁判官像のイメージの変化も求められていると思います。裁判官は単に法律を機械的に適用する法律ロボットではない、民主主義社会の中で多様な価値観を持った人々が裁判官でもあるという、そういう意味で市民的裁判官像というものが形成される必要があるように思います。これは、裁判官から市民への歩み寄りも大切になってくるわけで、裁判員制度などが根付いていくことで変わっていくのではないかと期待しています。
 日本の違憲審査制度についての改革。
 先ほど述べましたように、私は、最高裁判所の選任に議会が関与しない方式になっているというのは大きな問題があると思いますが、これを改善するためには憲法改正が必要になります。現行憲法の枠内でこれを改善しようと思えば、第一回目の最高裁判所裁判官の任命のときのように諮問委員会を作って、その際、必ずしも法曹界の代表に限る必要はないと思いますが、人選に当たって幅広く各界の意見を反映できるようにし、そこでの諮問を内閣が尊重するようにするという方式も考えられます。
 また、候補者の資格ですが、法律家以外の出身者からも人材を求めることができる現在の裁判所法の考えはこれでよろしいかと思いますが、実際の運用には問題があると思います。
 ヨーロッパの例を見ますと、違憲審査権を与えられている憲法裁判所は教授裁判所とも言われることが多いように、憲法の専門家が相当の割合を占めています。ドイツなどは十六人中の九人が教授出身者です。日本においては教授のポストは長年一つだけで、しかもそれが必ずしも狭い意味での憲法学の専門家ではないというような状況が続いております。
 また、しばしば内閣法制局長官が最高裁裁判官に就任していますが、内閣の統一見解が裁判所に持ち込まれるというのはどうなんでしょうか。これは後で述べることとも関係しますが、政治部門たる内閣の統一見解を覆すことも裁判所には求められていることを考えますと、このような運用には疑問を感じます。
 女性のポストも現在のところまだ一つしかありませんが、改善すべき課題だと思います。ドイツは十六人中五人が女性裁判官です。
 ともかく、最高裁判所あるいは裁判所全体の裁判官が憲法問題についての知識と判断能力を高める必要があります。
 憲法裁判所の新設について。
 さて、憲法裁判所の設置ですが、私は、憲法を改正することなく憲法裁判所を設置することはできないと考えております。現在、学会では日本国憲法の司法権概念について事件性の要件は要らないという有力な学説があり、私もこれを支持しますが、そのことから直ちに憲法裁判所の設置が可能だということにはなりません。憲法制定者が憲法裁判所も射程に入れていたならば、憲法制定時点でどちらのタイプにするかをめぐって、ドイツのような憲法裁判所か最高裁判所かという厳しい議論が行われなければならないはずですし、ドイツのようにそのことが明文で規定されなければならないと思うからです。
 読売新聞社や各政党の憲法改正案の中に憲法裁判所を新設する案がかなりあります。これがどういう趣旨で出されているのか、提案者でないのでよく分かりませんが、これまで述べてきたようなヨーロッパの憲法裁判所をモデルとしているのであれば、立憲主義の拡充強化がその目的ということになるでしょう。しかしながら、改憲案の中には、立憲主義の拡充強化の方向ではなく、立憲主義の後退を内容としているものが見られます。
 ここで私が立憲主義と言っているのは、憲法によって国家権力を制限し、それによって国民の自由を確保するということを意味しますが、その憲法の存在意義を否定し、憲法の意味転換を図るような提案も行われているようです。例えば、国家権力の制限ではなく、国民の行為規範や道徳規範としての意味を憲法に与えようとしているものがあります。国民に対する行為規範であるような法は普通の法律の中に昔から幾らでも存在するわけですが、それを憲法で規定する必要はありません。それらが人権を侵害しないように、国民の側から言わば下から上に向かって権力を制限するのが近代憲法の役割であり、それを支えるのが違憲審査権を与えられた裁判所の役割であります。
 したがって、戦後六十年近くたったこの時点で、日本国憲法の立憲主義を支えている三原則を更に拡充強化する、そのための憲法裁判所という提案、従来の国会や政府では拡充された権利を遵守させることが難しく、立法の怠慢の結果放置されるおそれがあるので、特別に憲法裁判所を作るというのであれば分かります。例えば、高等教育の無償化を憲法二十六条に挿入するとか、ドイツの基本法のように死刑の廃止を明文でうたうとか、外国人に対する平等保護規定を明文化する、そのための司法権強化というのであれば分からなくもありません。しかし、そうではなく、逆の方向において、すなわち国民の国防義務を新設するとか、天皇の元首化を復活するとか、あるいは集団的自衛権の承認など、憲法の三原則の後退と併せて主張されるのであれば、憲法裁判所の意味がありませんから、そのような憲法裁判所には私は賛成できません。
 既に繰り返し述べましたように、ヨーロッパの憲法裁判所は、政治の舞台だけで国家の意思決定を完結させるのではなく、法的なチェックを行う場所としての意味を持っています。そして、そこでは政治権力に対しては基本的に対抗するものとして働くことが期待されています。決して強化された政治権力の行使に法的なお墨付きを与えるものとしては考えられていません。議会制における多数者支配を是正するのが基本的な役割です。
 もう一つ重要な問題は、憲法裁判所を作って違憲審査権を憲法裁判所に集中させると、既に従来の裁判所に違憲審査権が与えられている場合、これらの裁判所から違憲審査権が奪われるという結果になります。ドイツやイタリアでなぜ憲法裁判所に独占させたのかという理由は、戦前の官僚的裁判所は信用できないということがありました。日本は既に六十年近い分散型の違憲審査権の歴史があります。下級裁判所には政治的表現の自由領域においての優れた違憲判決があります。それだけでなく、衆議院の解散に関する違憲判決や自衛隊に関する違憲判決さえあります。日本の場合、むしろ下級審の方が積極的だったということが言えます。もちろん数は多くありませんが、これが開花しなかったのは司法の危機等を通じて上から押さえ込まれたという事情があります。最高裁の消極主義と統制がなければもっと発展した可能性もあるわけです。したがって、下級審から違憲審査権を奪っていいのかということが問題になります。
 両立させる方法としてはポルトガル型があるわけですが、その場合でも憲法裁判所にどのような人材を配置するのかが問われることになると思います。
 最後に、内閣法制局が有権解釈を行っている現状は問題が多いので有権解釈権は憲法裁判所に集中させるべきだ、そのためにも憲法裁判所が必要だという議論があると伺っております。これについての私の意見を述べます。
 違憲審査制を伴う立憲主義国家において政府あるいは政府の一機関が最終的な有権解釈を行っているというのはいびつな姿であって、権力の分立からいっても好ましいことではありません。最高裁判所の司法消極主義がこのような現実を生み出したのだと思います。
 しかし、だからといって、その問題の解決のためには内閣法制局の有権解釈権を奪い取るべきだとかいう主張や憲法裁判所を設置すべきだという主張は理解できません。法制局が法律を事前に審査し、更に裁判所が法律が可決された後に、制定された後にこれを事後的に審査を行うというのは法治主義、立憲主義にとって当然のことです。これは憲法裁判所設置の必要性とは無関係の問題だというふうに思います。
 憲法とは裁判所がこれが憲法であるというところのものにほかならないといって裁判所の最終的有権解釈権を印象付けたのは、チャールズ・エバンズ・ヒューズでした。彼は現在の日本の違憲審査制のモデルであるアメリカの最高裁判所の裁判官、長官を務めたということに注意を促したいと思います。
 大変早口で失礼いたしました。
 以上で私の意見陳述を終わります。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言を願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いいたします。
 荒井正吾君。
○荒井正吾君 自由民主党の荒井正吾と申します。
 両先生とも大変有益なお話をしていただきまして、ありがとうございました。
 この場では、我々は、憲法を頂点とする法の支配の実効性を議題に、話題にしているように理解いたしております。とりわけ、司法の役割、憲法規範の実効性に対する司法の役割を議論しているように感じております。とりわけ、違憲立法、憲法規範の実効をあらしめるための違憲立法審査権の実効性ということを両先生、お触れになったように思います。
 ところで、憲法規範の内容の問題と憲法規範の実効力の問題と議論の方向は二つ違っていると思いますが、そこで両先生にお聞きしたいんですが、憲法規範、我が国の憲法規範の実効性、うまく実行されているかどうかという点について、両先生とも違憲立法審査の改革ということを強調されておりますので多分うまくいってないというふうにお感じになっておられるようにも聞こえるわけですが、憲法規範がうまく実行されているかどうかということ自身も少々議論があるので、どのように、うまくいってないとお感じでありましたら、どのような部分でどのようなところが実効性を欠けているのか、その予想されたように司法が憲法の番人として機能しないという面は、予想された体系では実行されてないという面は御指摘があったように思いますが、ただ、憲法規範そのものが日本流の何らかの形で実行されているんじゃないかという意見もあるように思いますので、憲法規範が具体的にどのような部分が実行されていないというふうにお感じなのかを両先生にまず聞かせていただきたいと思います。
○参考人(渋谷秀樹君) 今日の議論とは、テーマと若干外れると思いますが、ですから余り詳細に考えてきてこなかったわけですが、御質問の趣旨は憲法規範が守られていないのは一体どこかというお話だと思いますが、思い付くままに申しますと、例えば公務員の労働基本権の問題というようなものが挙げられようかと思います。これは、憲法制定された当初は公務員には労働三権があったわけですが、それがGHQの指示に基づいてなくなって、それが続いているというようなことも一つかと思います。
 そのほか、憲法九条に関しては、これはいろんな解釈があり得まして、ただ内閣法制局の解釈は、これ一つの選択肢であり得るということで、そういう意味では実効性は保たれているというふうに思います。
 思い付くところを簡単に言いますと、その二つだけここでは取りあえず申したいと思います。
○参考人(永田秀樹君) 憲法の規範性、規範力ということですけれども、刑法などでしたら、国家権力によってその規範性は担保されているわけですから、実効性は一〇〇%あるというふうに言っていいわけですけれども、憲法の場合は国家権力自体を制限しようということでありますから、国家権力の自主的な規律に依拠するところが多いわけで、元々規範性は一〇〇%確保するのは難しいというふうに国際的にも言われているわけですね。
 それで、それを、例えば同じ国家権力の機関ではあるんだけれども、いきなり国民がというんじゃなくして、裁判所に違憲審査権を与えてやらせようということでやってきているんじゃなかろうかというふうに思うわけで、そこのところで、あとのところは裁判所の違憲審査権がどれだけ機能するかということがその国の憲法の規範性の確保、実効性に大きくかかわってくることだろうというふうに思っています。
 特に日本でということだったんでしょうか。
○荒井正吾君 質問の趣旨をもう少し平たく申し上げますと、憲法の規範というのはとても大事なもので、我が国民に大変浸透しておると思いますが、それがどのような形であれ世の支配法則になっておれば、そのやり方は余り問われてこなかったのではないかという見方をちょっと聞いたわけでございます。
 この憲法調査会の調査の中で、この違憲立法審査権、司法の役割が多分大きな最初の議題にならなかったのは、先ほど渋谷先生触れられましたように、冷戦後の国際秩序が変わる中で軍隊の役割が変わってきて、戦争に対してよりも紛争とか見えない敵にどう対処するか、あるいはそれが国際的法規範の中でどのようにコントロールされるかという中で、我が国の憲法九条を中心とする規範が国際的な基準にマッチしていないんじゃないかという声が大きく沸き上がったのがこの憲法調査の大きな動機になっておるようにも感じるわけでございますが、ただ、そのほかの人権だとかいろんな権利は大変戦後定着してきた、その定着の仕方が違憲立法審査権の行使という形じゃなしに、先ほど先生触れられましたように、行政の解釈とか立法とかという形で実行されてきたような面もあるように思うわけでございますので、そのようなことをちょっと御感想をお聞きした次第でございます。
 次の質問でございますが、これも両先生にお聞きしたいんですが、解釈と、憲法の解釈ということの権力あるいは権利というのを大変強調されました。解釈というのは大変重要でございますが、司法の最終的な公権力による解釈ということになりますので、司法の解釈がいろんなことに積極的にされるのが望ましいと私も考えます。最近、司法制度改革で、積極的司法活動というのが出ておりますので、この違憲立法についてもそのような意識が浸透してくるんじゃないかと期待しておるわけでございますが、日本人の憲法の解釈の仕方というのに外国と違う面があるんじゃないかというふうにも思っております。
 例えば、日本のお経というのは、インドのお経を中国語訳して日本音で読んでいるわけなので、言ってみればちんぷんかんぷんというようなこともあるわけでございますが、憲法はそれほどではないんですが、不磨の大典と言われるごとく、変えないということを前提にして解釈でいろいろ分かれて実行するということがはびこりますと、日本の仏教が、こう言ってはあれですが、宗派仏教と言われますように、解釈が分かれて整合性の取れた仏典の解釈はできていないという、マルチン・ルターがいなかったという国情にあろうかというふうに思うわけでございます。
 その解釈ということに余り重きを置くと、その不磨の、条文を改正するというのと解釈するというのと、改正するという勇気と動機が、余り日本で憲法を持ったのはそう、歴史上そう何度もないわけでございますので、聖徳太子と明治天皇と昭和天皇というぐらいかもしれませんが、その自分の憲法を改正するというその経験が余りないわけでございますので、そういう点について、日本の憲法の解釈ということについてその外国のいろんなやり方と比べて独特なものがあるのか、あるいは、先ほど制度の構造の面をいろいろ言われました、あるいはまた人、憲法の専門家がいないというふうに言われましたが、日本の難点は本当にどこにあるのか。憲法が日常使われる物差しではないようにも思うわけでございます。それは意識なしに実行されているからなのか、余りいいことが書いていないお経なのか、余りお経を信じていない国民なのか。その辺りは、憲法という大事なお経をどのように解釈されて、日本流で解釈、実行されればいいと、ちょっと抽象的な質問で恐縮でございますけれども、両先生にお聞きしたいと思います。
○参考人(渋谷秀樹君) 非常に本質的な御質問だというふうに思うわけですが、まず、解釈ということの問題ですが、これは憲法にとどまらず法律にも当てはまると思いますが、細かく具体的に規定するという方法と、それから非常に一般的、抽象的に法律等を書くという二つの方法があろうかというふうに思います。
 しかし、憲法の場合は、政府といいますか国家の基本法を骨太に示すということですので、これはある程度抽象的、一般的にならざるを得ないと、その中に具体的に命を吹き込んでいくのが立法とか各行政権の、行政、立法の在り方であろうかというふうに思います。
 日本国憲法はお経であって機能していないのではないかというような趣旨のお話ですが、しかし、そうではなくて、憲法というのは皆さんが参議院議員になられているということも憲法の規定に基づいてその地位にあられるわけですね。これは特段に不都合は生じていない。そのほか、政府の活動に関して特段の不都合が生じていないということは、むしろ憲法がうまく機能しているということのあかしではないかというふうに私は考えております。ですから、よほど不都合がない限りは、それは改正する必要はない。当然、不都合が生じれば改正すべきであろうというような議論になっていこうかというふうに思います。
 以上です。
○参考人(永田秀樹君) 御趣旨をひょっとすると正確に理解していないかもしれませんけれども、一つは、日本国憲法が九十六条で改正規定を持っているということは、不磨の大典ではなくして、もしも、一切これで一言一句動かさないというのであれば改正規定は要らないわけですから、したがって、改正を保障しているというのは、時代に合わせての変化も考えているということは言えます。
 そしてあとは、しかし、その現在ある大枠の中で解釈、運用を通じながら、対応できる問題については対応していこうというようなことはどこの国でも行われていまして、プライバシーの権利のようなものであれば、アメリカなんかでも特別そのために憲法の修正は行っておりませんし、ドイツのように盛んに憲法を改正する国でもプライバシーの権利は認められていますけれども、それは条文の改正という形ではなくして、割と融通の利く一般的な条項の解釈、運用によって対応しているということになっております。
 したがいまして、憲法改正ということになると、新しい状況で新しい権利を認め拡大していくような場合に、現在の憲法規定がそのための障害になっていて先へ進むことができないというようなときに憲法改正規定を使って改正が行われるということだろうと思います。その点は日本でも外国でもそんなにその本質の部分においては変わりがないのではないかというふうに考えております。
○荒井正吾君 最後の質問を永田先生と渋谷先生、それぞれ別の質問をさせていただきたいと思います。
 永田先生には、外国の法制にお詳しいわけでございますが、憲法規範は各国とも、例えば基本的価値、民主主義でございますとか市場経済主義、人権主義、人間の安全、権利保障というようなものは大概取り入れられて似通っていると思うわけでございますが、その憲法規範のその傾向、あるいは、日本の憲法はそんなに、軍隊の統制を除いては余り各国の憲法と際立って異なっていないように思うわけでございますけれども、比較して、日本の憲法の輪郭についての御感想をお聞かせ願いたいということと、渋谷先生には、もしできましたら、その軍の行動に対する法の支配、民主的統制という面について、戦前やはり軍の統制が法の下に行われなかったというのはいろいろ戦後も影を落としているように思うわけでございますが、今後そのような、その軍人の違法行為あるいは軍令違反といったものはどのような場所で扱われ、判断され、処罰されればいいかということについて、お考えをもしお持ちであれば聞かせていただきたいと思います。
 以上、二問で終わらせていただきます。
○会長(関谷勝嗣君) それでは、まず永田参考人、お願いします。
○参考人(永田秀樹君) 日本国憲法については三原則というものがありますが、基本的人権の尊重と国民主権ということについてはいわゆる近代憲法の原理ということになりまして、世界各国の憲法に共通する原理であるというふうに思っております。それから、平和主義については、いわゆる近代憲法じゃなくして現代憲法の原理であるということで、特には国連憲章ができて以降、平和主義が国際的な共通認識になって以降の原理でありますが、そういう点で世界に共通する原理に基づいているというふうに、大きく言えばですね、言えると思います。
 何か、先ほど御質問で、軍隊の統制については共通、世界各国に共通するものがあるというふうにおっしゃいましたけれども、日本国憲法の平和主義については、常備軍の設置は認めていないような規定になっておりますので、この点は外国とは違うというふうに私は考えております。
○会長(関谷勝嗣君) 渋谷参考人、お願いします。
○参考人(渋谷秀樹君) 私に対する質問は軍の統制の問題だというふうに承知しましたが、戦前の軍の統制がうまくいかなかったというのは、統帥権の独立を認めた明治憲法の構造的な欠陥があったということになるでしょう。
 日本国憲法下においては、これは常備軍、先ほどの言葉で言いますと常備軍というのは置かれないわけで、これはないということになるわけですが、仮に憲法改正によって置かれるとすれば、これはいわゆる特別裁判所ということになるかもしれません。いわゆる軍法会議においてそれは裁かれる。さらに、その軍法会議を特別裁判所で置くかということには若干問題があって、最終的には通常裁判所において統制するということになろうかと思いますが、しかし、これはあくまで仮定の上の話ということになろうかと思います。
 以上です。
○荒井正吾君 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 松下新平君。
○松下新平君 民主党・新緑風会の松下新平と申します。
 両先生、本日はどうもありがとうございます。
   〔会長退席、会長代理簗瀬進君着席〕
 お話をお伺いいたしまして、立法府と司法府のチェック・アンド・バランス、そのときの時代あるいは政治状況によって見方も大きく変わるものだなと思っておりました。健全な政権交代が実現していれば解決しているというか、うまく更に機能する分野もたくさんあるというのも感じております。司法が憲法の番人として機能していないという厳しい御意見もありましたけれども、立法府と司法府との関係について両先生にお伺いしたいと思います。
 違憲審査制として憲法裁判所をもし我が国が創設するとした場合、ちょっと古いんですけれども、昭和三十九年の内閣憲法調査会報告書にはデメリットとして、国会で争われた政治闘争が裁判所に持ち込まれ、憲法裁判所が政争の渦中に巻き込まれる、裁判官の地位の独立、不偏性を脅かす、政治問題を法律的に取り扱ってしまうことになる、他の国家機関に著しく優越する機関を設けることになり三権分立を侵す、裁判官は一般に保守的傾向を持つため、公正な判断が妨げられる不安があるなど挙げられておりますけれども、憲法裁判所が政治闘争の場とならないような歯止め策が必要なのではないかと思っておりますけれども、具体的に有効な策がおありでしたら教えていただきたいと思います。
○会長代理(簗瀬進君) どうぞ。お二人の参考人にそれぞれということで。
 それでは、永田参考人、どうぞ。
○参考人(永田秀樹君) 基本的な認識のところで、私、先ほど論述の中でも述べさせていただきましたけれども、違憲審査制を導入するということは、憲法裁判所であるかそうでないかを問わず、憲法というのはそもそも政治に関する法であるわけで、政治権力を規制する法であるわけですから、当然その訴訟は憲法裁判所でなくても政治的な色合いを帯びてくることは避けられないというふうに思います。
 そういう点では、裁判所がある種の政治闘争の中へ巻き込まれるというのもあらかじめ認めた上で、違憲審査権というのは裁判所に与えられているというふうに考えています。しかし、それは、衆議院と参議院とかいった、両方とも政治的な機関であって、第一コース、第二コースということでそこを回るということではなくて、裁判所という場所であるわけですから、あくまでも憲法というルールをどう厳格に解釈するかということに懸かっているわけで、その結論が何らかの政治的な色合いを帯びるというところは、これはもう避けられないところだというふうに思います。
 そういう点だと、議会制民主主義が衆議院、参議院のところでストップしてしまうんじゃなくして、もう一段階法的な審査を事後的に受ける場としてそういう憲法裁判所、考えられているわけで、それは、憲法裁判所の場合、特にそうですけれども、そうでない場合であっても違憲審査権は大なり小なりそういう面を持っているということです。
 そして、これはもちろん、下手をすると混乱のもとになって、非常に大きな、その国の民主主義のデメリットになるわけですが、それは、国民がそういうようなのを民主主義の健全な仕組みだというふうに考えて、それが、与野党がスムーズに政権交代をする上においても調整的な機能を違憲審査権が持っているんだということを承認すればそれはいいようにいきますし、それが国民の間でどうしても受け入れられないということになって、そのために議会制民主主義が逆にぎくしゃくしてくるというようなことになるとこれはデメリットになると思いますが、ドイツなどの例を見ますと、時々憲法裁判所自身が非常に厳しい批判にさらされるわけですけれども、やはりそれはあくまでも法の厳格な解釈ということですよね。そして、法的な意味での一貫性が保たれているかどうかというところでの国民の信頼に掛かってくると、こういうふうに考えております。
○参考人(渋谷秀樹君) 御質問は、その憲法裁判所を設けた場合、政治的な闘争の場にならないようにする処方せんはいかがかというような御質問かと思いますが、私は二つ考えるべきであろうと思います。
 一つは、やはりその議会あるいは内閣も含め、政治部門で行われるあるいは決定されることは、いわゆる民主主義に基づいて決定される事柄であると。国民の多数が望んでいるから決定されるという事柄である。そこに正に政治部門の立脚点があろうかと思います。これに対して憲法裁判所あるいは違憲審査権を行使する通常裁判所の立脚点は、正に立憲主義、憲法という政治部門のまだ上に立つ法に立脚すると。ですから、その二つ、お互いの立脚点は違うと。さらに、法律が憲法裁判所に行って仮にそれが無効となるというような場合には、それは憲法によるチェックを受けたということを明確に自覚する、そういうことによって全員が納得するというようなことが必要かと思います。
 もう一点は、これはそういった役職を担当するやはり人、人の問題であろうかと。これはだれもがやっぱり納得するような人が入る、あるいはそういう人選をすることによって憲法裁判所の権威を保つというようなことが考えられようかと思います。
 以上です。
○松下新平君 ありがとうございました。
 ちょっと、そのテーマをちょっと掘り下げてみたいんですけれども、憲法裁判所の機能として、一般法律の違憲性について審査し、違憲の場合にはその法律自体を無効とするということを判断することになった場合に、国会よりも裁判所の方に立法に関する上位の判断権を与えるということになる指摘、それでも構わないということでしたけれども、いわゆる消極的立法行為を行うことになるという点については、立法府の一員として大変危惧を感じます。
 現行憲法で取られてきた三権分立を侵すものではないかという意見について、それぞれ参考人の先生方、どのように考えていらっしゃるでしょうか。また、第四の権力とも言える消極的立法権という機能があると考えれば、本来の立法権を持つ国会には補完的な措置が必要ではないかと思うのですが、両方よろしくお願いいたします。
○参考人(渋谷秀樹君) それでは、まず私の方からお答えしたいと思います。
 憲法裁判所が法律を無効とするのであれば第四権の立法権になるのかというお話ですか。これは、考え方としましては、まず議会が法律を作るわけですね。憲法裁判所が法律を作るわけじゃない。法律を作った後それを審査するといいますか、レビューするという形で、これは、かつ、それは憲法違反の法律であればこれは無効になるというわけですから、これは第四権ではなくて立法の事後審査、あるいは逆に言えば立法を後で確認するという、合憲性を確認するという立場ですから、第四権というとらえ方はよろしくなかろうかというふうに思います。
 かつ、これは例えばアメリカでも法律を作って後は大統領が署名するとか、あるいはかつて日本では天皇が裁可するというようなことがございました。それと同じような役割を憲法裁判所が果たすんだというふうな理解でよかろうかというふうに思います。
○参考人(永田秀樹君) 議会と裁判所の役割はやはり違うわけでして、日本という国家をどういう方向に運営していくのかということで、国会がイニシアチブを取って様々な法律を作っていく、こういう仕事は決して裁判所には与えられていないわけでありまして、先ほど渋谷参考人がおっしゃいましたように、その国会が作った法律が憲法という大枠に合致しているかどうかをチェックするということであります。事前に内閣法制局がその合憲性をチェックし、更に事後的にそれをチェックするということであります。
 この性格をどう見るかというところで、それが法的に見た場合に消極的立法という機能であるというふうな評価は私は可能であるというふうに思いますけれども、そのような機能を裁判所に与えたのが違憲審査権であるというふうに理解しております。
 しかし、基本的な国会の役割と裁判所の役割はその場合であっても分けられていて、従来のように違憲審査権が与えられていない裁判所と国会とは関係が大分違ってきますけれども、三権分立というふうに言ったときに、その程度司法権が強いものになっても私は別に問題はないというふうに考えております。しかし、それは憲法裁判所ということではなくして、現在の違憲立法審査権が活性化した場合の状況を想定して申し上げております。
○松下新平君 はい、ありがとうございました。
 では、ちょっと話が変わるんですけれども、渋谷参考人にお伺いします。
 先ほど説明をいただいた中で、レジュメの二ページ目の四の「改善の方向性」の(2)ですけれども、最高裁判所は大変件数も多くて忙しいから、憲法部を設置したらどうかという御意見でしたけれども、ちょうどこの先生方の御意見をお伺いする前に前川委員の方から指摘があったので、再度ここで取り上げたいんですけれども、民事訴訟法三百十二条の一項をちょっと読み上げますと、「上告は、判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲法の違反があることを理由とするときに、することができる。」ということが書いてありまして、実際は憲法部は設置できるのではないかという指摘があったんですが、このことはどのように考えていらっしゃいますでしょうか。
○参考人(渋谷秀樹君) 憲法部の設置の問題で、これは二つ考えることがあろうかと思います。
 一つは、下級裁判所の憲法判断権はどうするかという話、それから最高裁判所の機能を裁判所の内部でそれを分けてしまうのが果たしてよかろうかという、そういう話があろうかと思います。
 私自身は、現行憲法の解釈として憲法問題を特定の、例えば最高裁判所に集中するということは、これは可能であろうというふうに考えております。それが一つ。
 それから、憲法部に関しましては、これはまあそういう意見がございますが、しかし最高裁判所の中で憲法だけを扱う部門を設けるということは、やはりその一般事件を扱う部門とこう分けてしまうということが果たしていいのかという問題がありまして、私、先ほど詳細に述べることができませんでしたが、これは、最高裁は通常裁判所のトップである、これは憲法七十六条の位置付けと、それから憲法問題の終審裁判所という位置付けが最高裁の中で分裂してしまうということは二つ組織を作るのでこれはよろしくないというふうに考えております。
 むしろ取るべきは、特別高等裁判所のアイデアの方が非常によろしくて、通常裁判所のトップを取りあえずは特別高等裁判所にして、判例変更あるいは法令解釈の変更という場合には最高裁が扱う、最高裁はそのほか憲法問題を扱うと。これは、実質的にアメリカの最高裁判所はこういうふうになっておりまして、そういうふうにしますと、非常にいい憲法判決が出るのではないかというふうに考えております。ですから、民事訴訟法だけではなくて、裁判所法自体の改正も要るのではないかというふうに思います。
 以上です。
○松下新平君 はい、ありがとうございました。
 時間になりましたので、これで終わります。
○会長代理(簗瀬進君) 魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。両先生、今日はありがとうございます。
   〔会長代理簗瀬進君退席、会長着席〕
 私どもは、この憲法調査会、二年前に派遣議員団を送りまして、イタリア、フランス、ベルギー各国においてこの憲法裁判所に相当する機関、訪問をいたしました。事前審査制を始めとするいろんな憲法裁判制度を勉強してきたところでありますが、特にベルギーで、永田先生のこの一覧表に載っておりますが、仲裁裁判所に行ったときに、スーパー立法者、そういう自負を持って憲法判断に、裁判に当たるという、そんなお話もございまして、よく聞いてみますと、形式的な三権分立の発想を放棄して、よりこの憲法の持つ価値観を実質化させる取組だと、そういうふうに私ども受け止めた次第であります。
 ただ、こういうことを我が国で同じような制度を導入してもどれほどの成果が上がるかはちょっと疑問を持ったところでございますが、今日は両先生にちょっと御意見を伺いたいと思っております。
 まず、渋谷先生にお願いをしたいんですが、両参考人ともに司法消極主義には大変厳しい批判がございました。そして、それを前提にしてこの憲法裁判所型を採用した場合、第一段階の司法消極主義、すなわち憲法判断に踏み込まずに解決できる場合は憲法判断を行わない、こういうようなスタンスの是非について、この憲法裁判所を採用した場合に影響するところがあるのかどうか。さらに、積極主義への影響につきまして、この憲法裁判所を取ることによって三権分立の意義と密接な関連を持つと思いますけれども、各国憲法裁判所の判断傾向と我が国に関する予想ですね、どういうふうにお考えになっているか、この二点について、渋谷先生お願いいたします。
○参考人(渋谷秀樹君) 憲法裁判所を創設したときに司法消極主義はどうなるかという、そういうお話かと思います。
 これは、憲法判断といいましても、御指摘がありましたように、まずそもそも憲法判断をするかしないかという段階と、具体的に問題となっております法令等の違憲判断をするかしないかという二段階がおありということで、御指摘いただいたとおりでございます。
 憲法裁判所を設けた場合は、これ当然、憲法問題に特化してその問題が上がってきたわけですから、それを扱わないという選択肢は憲法裁判所はないわけですね。ないわけですね、基本的にはないと。さらに、違憲とするにしても合憲とするにしても、これは当然、詳細な理由を付す必要があるわけで、詳細な理由を付す必要があるということになれば、それは当然中身の濃い憲法判断が出てこようかと思います。結果的に、それが違憲が多いか合憲が多いかというと、これは実は内閣法制局が機能している場合には恐らく合憲が多くなろうかというふうに思うわけですが、それは予測の範囲にとどまります。
 以上です。
○魚住裕一郎君 次に、永田先生にお願いいたします。
 立法不作為に対する違憲審査というのは非常に悩ましい問題だと思います。今もお話ありましたように、憲法判断が積極的に行われますと、いわゆる国会の立法裁量の問題になってきますし、民主的な正当性を持たない裁判所に、先ほど申し上げたようなスーパー立法者としての第四権というような位置付けにもなるわけであります。
 ただ、憲法上、明確に特定の立法が要求されているような場合に、合理的な期間内に立法を義務付ける必要性はやっぱりあるんではなかろうかというふうに思うんですね。例えば、定数格差みたいな場合、衆議院でも参議院でも、もう合理的期間内にしっかり直しなさいよみたいなことをきちっと最高裁に言われるわけでございますので、それはやっぱりそういう必要性があるんだろうなと参議院でも鋭意議論を進めているところでございますが。ただ、それが具体的に特定立法を要求をされているようなものにつきまして裁判所が監視するというシステムになるわけで、それがいいのかどうかと。憲法価値の実現の監視役を憲法裁判所が担うというようなシステムになるわけでありますが、逆に、議会内に常設的に憲法の実現状況を監視する機関を設けるべきだと、そういう案も当然あるわけですね。
 こういう機関について、永田先生の御意見はいかがでございましょうか。
○参考人(永田秀樹君) ちょっといろいろな問題が含まれていたように思うんですけれども、定数是正を効率的、合理的にやるのにどうしたらいいかということで、憲法に適合するような状況を迅速に実現するということを考えた場合に、それは事後的な裁判にまつのではなくして、機械的に処理できるような基準を作っておいて、それを委員会がチェックするというような方式で構わないのではないかと思いますけれども、しかしその場合でも、やはり事後的に司法権によってそれが再度チェックされる可能性はあるという余地は、法の支配である以上、違憲審査権が裁判所に与えられている以上、残しておく必要があります。
 しかし、事前にそういう行政なりなんなりの、あるいは国会の附属の委員会みたいなものがチェックをきちっとやるようになれば、当然裁判所での審理の数も減っていくし、合理的になるのではないかというふうに思います。今、ちょっとその具体的なその問題に関してだけで言えば。
○魚住裕一郎君 再度、渋谷先生にお願いしたいんですが、先ほど内閣法制局のお話がありました、薬事法の判断に関連してでありますが。ただ、議員立法といえども、衆議院、参議院、それぞれ法制局、一生懸命職員頑張っていただいているところでございますが、国会の憲法解釈の在り方として、先ほど申し上げた、イタリアに伺ったときに、イタリアの上院では、常任委員会の一つに第一委員会というのがございまして、そこで憲法とかあるいは地方制度の関係など多くの所管事項を抱えているんですね。権限争議みたいなものも含めてやっているんですが、そういう権限のほかに、ほかの委員会の諮問に応じて法案の憲法適合性を判断している。そういう権限を第一委員会持っておりました。あ、なるほどなというような思いでありますし、また、この委員会は、憲法学者を始めとする法律学者とかあるいは地方行政の経歴を持つ議員が所属して、かなり専門性の高い委員会であったわけであります。
 かつての内閣憲法調査会ではこのような委員会方式は否定的に解釈をされていたわけでありますけれども、この我が国でもこれを採用する余地があるのではないかというふうに考えるところでありますが、先生の御意見をいただければと思います。
○参考人(渋谷秀樹君) 議会の憲法解釈権という話で、私は当然、各議院に法制局がございまして、当然そこでチェックされるということは非常にいいことで、これは別に、内閣法制局がそういう形で解釈権を独占するということは、あえて言えばおかしいというふうに考えております。
 先ほども、一番初めのときに申しましたが、憲法擁護義務というのはあらゆるところに機能するわけですから、そういう組織を設けるということはむしろ望ましいというふうに考えます。
 それから、議院の中にそういう組織を設けるのはいかがかと。私は、アイデアとしてはすごく面白いというふうに思います。特に、例えば参議院の中にそういう問題をチェックするような委員会を設けてチェックすると。特に、その中に専門家も入ってというような制度は、これは私自身は、憲法問題をあらゆるところでチェックするのは、それはむしろいいと思うわけで、望ましいと思います。ただ、それをどういう形で組織するかというのはなかなか難しい話で、憲法改正が要るかどうかという話もございますので、組織面では難しいと思いますが、それは選択肢としては非常にいいものとしてあり得るというふうに思います。
○魚住裕一郎君 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 仁比聡平君。
○仁比聡平君 日本共産党の仁比聡平でございます。
 先生方、本当にありがとうございました。
 私の持ち時間の範囲内で、それぞれ先生方に一問ずつお尋ねしたいと思うんですけれども、まず渋谷先生にお伺いをしたいのですが、違憲審査制の機能不全という問題の原因について、先ほど、沿革やあるいは事件の質、量の問題と併せて、法曹の質という点の御指摘があったかと思います。その点で、永田先生からは憲法価値を守ろうとする裁判官の意欲と資質の問題だという指摘がなされたところですが、その点での渋谷先生のお考えを伺いたいと。
 あわせて、こういう機能不全が付随的審査制においては制度上不可避のものなのかどうかということをお尋ねをしたいと思うんです。
 先ほど先生からも御指摘がありましたように、労働基本権をめぐる全逓中郵事件や都教組事件判決、こういった事件の判決も、これ付随的審査制の下で人権保障を果たした例として、そういう時代があったわけですけれども、その付随的審査制と今の機能不全というのが不可避のものなのかどうかということも含めてお伺いしたいと思います。
○参考人(渋谷秀樹君) 機能不全、最高裁判所の機能不全の原因の問題ですが、裁判官の資質の問題と言いましたが、これは資料の中にも書いたものがございますが、今の裁判官の気質といいますか、気質としまして、政治的なものはなるべく避けると。あるいは、そういうものは政治部門の役割で、それはそちらにお任せして、法律の解釈、適用した者、適用に習熟した者が理想的な裁判官ではないかというようなどうも像があるような、これはあくまで印象ですが、そういう問題があろうかということをお話ししました。
 それから、付随的審査制と司法消極主義が結び付いている、あるいは最高裁判所の機能不全が結び付いているのではないかというお話ですが、それは必ずしもそうではないと思います。
 付随的審査制のいいところは、具体的に問題が起きて、その具体的な事例に応じてこの法律にこういう問題があったから何とかしてくれというような形で裁判に上がってきますので、むしろ問題の所在を明確にするという意味では非常にメリットがあろうかと思いますと。ですから、問題は、逆に、じゃそういう場合にだけ憲法判断を限定するのかというようなことになろうかというふうに思います。
 付随的違憲審査制を維持しつつ、もうちょっと憲法問題を考える時間的な余裕のあるような制度改善をすると、むしろいい結果が出るのではないかというふうに私は考えております。
○仁比聡平君 ありがとうございます。
 私も、その現行の付随的審査制の下でより良い憲法保障の役割を裁判所が果たされるのではないかというふうに考えておりますので、今の先生の御意見を参考にさせていただきたいと思っています。
 次に、永田先生に、同じく裁判官像の問題でお尋ねをしたいのですが、憲法価値を守ろうとする裁判官の意欲と資質という、このお話を考えるときに、私は裁判官の市民的、政治的な自由が市民と同様に保障されるということが不可欠の前提ではないかと思っています。ここを侵害している現在の官僚的な統制こそがまず改めるべきであるというふうに思うのですが、この市民的、政治的な自由の享受という点について諸外国でどのようになっているのか、先生の御存じの限りで少し御紹介いただければと。
 もう一点は、その一方で、我が国では、そういった裁判官の市民的、政治的な自由の主張をすることが偏向裁判官として激しい攻撃にさらされてきたという経過があるかと思います。
 例えば、今春の小泉首相の靖国神社参拝を違憲とした福岡地裁判決への攻撃などにもそういった裁判官への攻撃というものが現れているのではないかと思うんですが、こういった裁判官の自由の行使と適正な裁判との関係についても併せてお伺いをできればと思います。
○参考人(永田秀樹君) 裁判官の市民的、政治的自由ということですけれども、ドイツなどでは六〇年代辺りに、従来のただ単に法律を機械的に解釈する裁判官では駄目なんだということで、市民の様々な権利の擁護者、人権の担い手としての裁判官像を目指さなければいけないということで、裁判官のその自治的な団体の中からそういう運動が起こりまして、ちょっと誤解を与えるような言葉ですけれども、我々は政治的裁判官を目指すという、ちょっと日本でいったらもうこれは完全に過激な何か思想のような感じがしますけれども、ドイツでは、それは普通の一般市民と同じ裁判官なんだということでそういうのが目指されて、内部から大分変わっていって、裁判所の造り、構造、そういうものも変わっていって、それから市民に親しみやすい裁判所造りというのが進められたということになっております。
 今のは一般の、通常の裁判所ですけれども、憲法裁判所については、先ほど言いましたように、戦後造るときにナチスとかかわった人は一切排除するということで、新しい憲法価値を持っている人でないといけないということで、かなり厳しい審査が行われたわけですけれども、そのときに、議会が結局人を選ぶということになって、そのことが憲法裁判を担う人についての信頼にもつながっていくということでしたので、日本とは政党状況がかなり違いますけれども、憲法裁判官が皆どこかの政党に所属しているというわけではありませんけれども、何らかの政治色を持っている人たちで、与党寄りの人、野党寄りの人というような形で選ばれていっておりまして、憲法裁判所を構成しているところは、韓国なんかは違いますけれども、ヨーロッパだと皆それなりに、裁判官自身にそういう政治的な色が付いているというふうに言ってもよろしいかと思います。
 しかし、だからといって、あの裁判官は恐らく社民党寄りの判決を書くだろうな、意見を書くだろうなと思うと、それは必ずしもそうなってはおりませんで、逆にそういうふうに見られますから、どれだけ法律解釈を厳正にやったかというところでもってその人の価値が決まってくるということでありますけれども、最初に選ぶ段階において裁判官の市民的、政治的自由がないというような状況では全然日本とは違うということが言えようかと思います。
○仁比聡平君 永田先生にもう一点。
 今、御紹介をいただいたような裁判官像というのは、我が国の憲法下ではこれはあり得ないことなのかどうかという点について最後にお伺いしたいと思います。
○参考人(永田秀樹君) いや、あり得ないというふうに言われると困りますが、別に、憲法が禁止しているとかいうようなことでいえば、決してあり得ないことではなくて、日本の少なくとも最高裁判所の人選を規定している裁判所法などは、かなり広く、いわゆるキャリアの裁判官だけでないような人材を広く求めようというふうにしていますので、それは広い意味での市民的な裁判官が最高裁判所の中に入っていくことを期待しているということが言えようかと思いますけれども、先ほど言ったように、現在の付随的違憲審査制であっても、もう少し憲法教授が裁判官になっていかないとなかなか積極的な判決は出てこないんじゃないかなというふうに思います。
○仁比聡平君 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 田英夫君。
○田英夫君 社民党の田英夫です。ありがとうございます。
 初歩的な質問ですが、渋谷先生に伺いたいんですが、憲法の冒頭、前文の一番最初のところで国民主権ということを言っていると思いますが、明治憲法はすべての上に天皇があるので、国民主権を強調しているのは当然だと思いますけれども、そのことと三権分立というこの問題との関係が、しかも三権が実は現実にはお互いに同じ権限があるというふうになっていなくて、じゃんけんぽんならグーがパーに負けるけれどもチョキには勝つという、そういうふうになっているからこれはいいんですが、そうなってないように思いますね。
 率直に言うと、やはり司法が何か影が薄いといいますか、それは一つには憲法判断をしないからだということかもしれないと思っているんですが、国民主権で、しかもその国民の代表である立法府というのがあって、それで立法府が首班指名によって内閣を作るという、そういう関係はあるんですが、その内閣が実は最高裁の判事を任命しているという、そこを、何となくじゃんけんぽんになりそうでいてなかなか現実には、国民の皆さんの意識からすると、影が薄いと言うと失礼だけれども、そういう感じがするんですがね。
 この国民と三権分立ということとの関係はどういうふうに考えたらいいんでしょうか。
○参考人(渋谷秀樹君) 非常に難しい御質問ですが。
 憲法の掲げております国民主権というのは、国会議員を選任するということに尽きるのではないというふうに考えます。つまり、ここで言う国民主権というのは、基本的には憲法を作る、つまり国の一番基本的な法を作るというところに典型的に表れると。国民としては、憲法を作るというところで主権を行使して、じゃこれから生活していく上で何が必要かというときに、一つの部門に権力を集中させると場合によっては国民の生活が立ち行かなくなるという場合があると。それは、権力は集中すれば暴走する可能性があるということで、ですから国民主権、つまり国民の生活をより良く保つために権力を分割するという形で、非常に単純化しますと権力分立と国民主権は結び付いている。もうちょっと難しい議論はあるんですが、基本的にはそういうことになろうかというふうに思います。
 それから、三権分立の中で司法が影が薄いというのは、実際はそういう印象があろうかと思いますが、しかしやはり司法というのは、結局は法律を立法府が作って、それを行政府が適用して、困ったときには裁判所に行くという、そういうある意味循環構造になっておりますので、ある意味司法の影が薄いというのは、日本の立法あるいは行政がむしろうまくいっているということのあかしというふうにも言えようかというふうに思います。
○田英夫君 永田先生に伺いたいのは、憲法八十一条に最高裁は憲法判断の最終のものだということが書いてあるわけですが、一方で、先ほどから憲法裁判所というものを、事実、ヨーロッパでは非常にそのことがむしろ普通になっているという状況はあります。この状況の中で、日本の場合、なぜ最高裁が積極的に憲法判断をしないのかという問題、いろいろ原因はあると思いますけれども、一つの方法としては、先ほどおいでいただく前に意見陳述で私はコスタリカの例を申し上げたんですけれども、最高裁判所という形になっておるけれどもその中に四つの部があって、その一つは憲法判断をする部署であるという、このことを日本の場合ももっと明快に法律で定めていくというような方法はできないんだろうかという考えもあるんですが、いかがでしょうか。
○参考人(永田秀樹君) それは何人かの方もう既に提案しておられるわけですけれども、最高裁判所の中に専門の憲法裁判部を設けて、そこで憲法問題については判断させるべきだということですけれども、幾つか問題があると思いますけれども、私は、一番大きな問題は、その構想が出てくるのは、現在出ているのは、先ほどの質問の中にもありましたけれども、最高裁が上告審として忙し過ぎるので憲法問題に専念できないと、したがって憲法専門部を作ったらどうかということになっているけれども、私は、見ているところだと、今までのところは、従来のキャリア裁判官を中心とする裁判官が熱心に憲法問題を取り上げようとしてこなかったという、そこに一番大きな問題があるというふうに考えています。
 それで、制度を、憲法専門部のようなものを作る場合には、従来のキャリア裁判官中心の裁判じゃなくて、それこそ先ほどから何度も言っておりますように憲法の専門家をそこへたくさん入れたような形にすれば、そうすると従来の最高裁とは違うような判断が出てくる可能性もあるかなというふうに見ておりますけれども、ただ単に、従来の人事構成は変えることなくその中のうちの何人かを、第一小法廷の部分を憲法裁判法廷にするというだけでは実態は余り大きな変化はなくて、期待できないのじゃないかなというふうに思っております。
○田英夫君 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後四時四十五分散会

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