第162回国会 参議院憲法調査会 第3号


平成十七年二月二十五日(金曜日)
   午後一時一分開会
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   委員の異動
 二月二十四日
    辞任         補欠選任
     松岡  徹君     白  眞勲君
     魚住裕一郎君     山本  保君
     白浜 一良君     渡辺 孝男君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         関谷 勝嗣君
    幹 事
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                武見 敬三君
                舛添 要一君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
                簗瀬  進君
                若林 秀樹君
                山下 栄一君
    委 員
                秋元  司君
                浅野 勝人君
                岡田 直樹君
                河合 常則君
               北川イッセイ君
                国井 正幸君
                佐藤 泰三君
                桜井  新君
                田村耕太郎君
                藤野 公孝君
                松村 龍二君
                三浦 一水君
                森元 恒雄君
                山下 英利君
                山本 順三君
                江田 五月君
                喜納 昌吉君
                郡司  彰君
                佐藤 道夫君
                田名部匡省君
                高嶋 良充君
                富岡由紀夫君
                那谷屋正義君
                直嶋 正行君
                白  眞勲君
                前川 清成君
                松井 孝治君
                松下 新平君
                山口那津男君
                山本  保君
                渡辺 孝男君
                仁比 聡平君
                吉川 春子君
                田  英夫君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
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○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、これまでの調査を踏まえ、日本国憲法について、委員相互間の意見交換を行います。
 まず初めに、各会派からそれぞれ御意見をお述べいただきたいと存じます。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は順次御発言を願います。荒井正吾君。
○荒井正吾君 自由民主党の荒井正吾でございます。
 約十分ほどの時間で、私は、憲法と安全保障の分野についての会派を代表した意見を言わせていただきます。
 ちょっと難しい問題ですのでレジュメを用意いたしましたので、に沿って説明させていただきます。なお、レジュメは少々ワープロミスがございますので、訂正しながらいたします。
 レジュメの第一項で、なお、このレジュメは、自民党の中でも相当一致している意見もありますし、分かれている意見もありますし、余り議論されてない意見もありますので、これは私自身の個人の意見陳述ということでさせていただかないといけないと思います。
 始めさせていただきます。
 憲法第九条一項は保持する。第二項は改正し、自衛のための戦力の保有、及び我が国防衛のため及び国際社会において必要とされる場合の許される範囲内における武力の行使を認めるという意見でございます。
 平和主義及び国際協調主義が我が国憲法の基本原理であることを再確認、明確化する。丸が抜けております。
 なお、「前文を基本的に堅持する。」は改行して、その内容として、前文を基本的に堅持すると。少々の修文はあろうかと思います。そこから、国際法を遵守すること、国際協調を基本的態度とすること、自衛のための武力の行使は最後の手段であること等を憲法上明示する必要があるという意見でございます。
 三つ目は、自衛権の行使及び自衛隊の国際貢献の場合における法の支配を徹底するという意見でございます。
 自衛力行使に対する国会の自主的と、これは民主的統制の間違いでございます、大変失礼しました。民主的統制を徹底化し、憲法上明確化する。
 第六十六条の二項の保持、それから防衛出動、治安出動の国会承認の、今は自衛隊法でしょうか、それ憲法化する。自衛隊、戦力の保持を明確化する一方、国会承認を憲法化する。宣戦布告は議会の権利だということを明確化する。
 防衛関係予算、法律及び防衛の基本方針の国会決議の憲法化するという意見でございます。これは、軍政、軍令に対する議会統制の憲法上の明確化という意味でございます。
 それから自衛隊、それから法の支配の二点は、自衛隊員に対する基本的人権の保障ということ。これは、「裁判を受ける権利等」はその改行後のあれです。ドイツの再軍備に際するドイツ憲法の改正において大変重要視された点でございます。制服を着た市民であるということでございます。
 それから三番目が、その観点、自衛隊司法制度を確立する。
 自衛隊及び自衛隊員の行動規範に関する法の整備を。
 隊内の命令、服従関係、軍令関係でございますが、ROE、それから武器の使用の態様、あるいは緊急事態における市民との関係等の規定が、民主的統制の観点から、自衛隊員の行動に対する民主的統制の観点から法の規定がまず要ると思います。
 次が、法の執行でございますが、法務省監、次の監は必要ございません。法務省管轄下における防衛検事は、刑事裁判所の設置でございます。これは軍法会議の観点でございますが、意見はあろうかと思います。法務省管轄下にするとか特別の管轄にするとか特別裁判所をするとか、司法権の独立、七十六条、あるいは特別裁判所の設置の憲法事項に関する事項になろうかと思います。これはちょっと個別の意見でございます。
 それから、海外における自衛隊活動に対する法律の適用関係が、国際法の適用等整備されていないので、整備が要ろうかと思っております。
 自衛隊及び自衛隊員に対する訴訟手続法の整備がこの刑事法関係で要ろうかと思います。現在、刑事訴訟法の適用でございますが、不都合がある点があろうかと思います。
 それから、四点目の観点でございますが、集団的自衛権は憲法上認める。これは明示的に認めるか、いろんな関係の中で解釈上認められる場合もあろうかと思います。その次の括弧は最初は要らないと思います。集団的自衛権の発動の態様及び範囲については、国会の統制に服する、これはフルサイズの集団的自衛権は必要ないという意見があろうかと思いますし、私もそのように思います。
 その集団的自衛権発動の態様を決定せないかぬ場面として、日米共同対処の話、BMDシステム導入の話、地域的安全保障機構が東アジアにできた場合の参加したときの集団的自衛権行使の話、自衛隊の海外派遣等の場合の自衛隊活動の範囲、態様については法上明確にする必要があるんじゃないかと思います。
 それから、五点目でございますが、国家非常事態に関する憲法上の規定を整備する必要があるんじゃないかと考えております。
 国家非常事態の宣言及び国家緊急権の行使は、国会の民主的統合性、統制の間違いで、統制の下に置くことを憲法上明記する必要があるんじゃないかと思います。
 二番目は、国家非常事態を認定する基準、国家緊急権の行使の態様及び範囲は、法上明確にしておく必要があるんじゃないかと思います。
 国家非常事態における自衛隊の行動の政治的中立性の堅持については、私は、憲法上又は法上、できれば憲法上明確にしておく必要があるんじゃないかと思います。時の政治権力が武器を持った自衛隊を政治的なために使うということは、戦前のことから見て厳に許されない事項だと思います。
 この非常事態の観点で、一点ちょっと書き漏らしたことがございますが、憲法五十四条二項で、非常事態をするときの閉会中の参議院の緊急集会の規定でございますが、これは参議院の独自性の観点からも、国会閉会中に緊急事態宣言を発動するときの、参議院が、例えば解散で選挙中に非常事態の必要が生じたときに、参議院の活用という点は余り議論されていなかったと思いますが、参議院の独自性の観点からも必要のある規定かと思います。追加さしていただきます。
 六点目でございますが、国際貢献活動、非伝統的脅威に対する活動等平時における自衛隊の活動の範囲、行動の態様、これは武器の使用も含みますが、あるいは他省庁、他国の関係組織及び国際機関との協力の態様について法の整備が必要かと思います。
 国際平和協力事業など国際貢献のための海外での活動、あるいはテロ、生物、化学兵器の使用、地震、津波等大規模災害等に対する自衛隊の活動及び市民生活との関係、最近有事法制等で整備が進んでおる分野でございますが、自衛隊の戦力の明確化とともに、こういう法の整備も点検、整備の必要があろうかと思います。
 それから、国境紛争、国境犯罪に対する自衛隊の活動、これについては、自衛隊の活動は従たる活動になるんじゃないかと思いますが、その範囲等について法上の明確化が要るんじゃないかと思います。
 また、海外及び国内における邦人救助の場合の自衛隊、これはすべて自衛隊法で書かれておる分野でございますが、体系的な規定が要るんじゃないかという趣旨が入っております。
 それから、安全保障全般に関する情報収集、分析活動における自衛隊の役割、国家の非常事態の危機管理庁的な役割を果たすときの自衛隊の情報収集の役割の分担の明確化が要るんじゃないかと思います。
 最後でございますが、核兵器の非保有、非使用についての法上の規定の整備の必要性が私個人はあるんじゃないかと思います。現在、原子力基本法第二条で平和利用ということが書かれておりますが、安全保障に関する基本法的なものに規定する必要があるんじゃないかと思います。憲法上規定するという意見もあると思いますが、まだちょっとそれ以前に法上の規定が整備が必要じゃないかと思っております。
 大変はしょりましたことと、大変広範な範囲なので雑駁な意見になりましたが、一応整理したつもりで報告、意見陳述とさせていただきます。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、松村龍二君。
○松村龍二君 自由民主党の松村龍二でございます。
 私は、司法に関する項目につきまして御提言申し上げます。
 この憲法の調査というのは、調査をしている限りにおいて無限に時間が必要であるということでありますが、駐留軍は十日間で新憲法の草案をつくったそうですけれども、どこかでやはりえいやっと結論を出す必要がある。こういうことも踏まえまして、司法の部分が余り審議もされてこなかったという面もございますし、この司法に限りまして御意見を申し上げたいと思います。
 お手元に論点メモというのがお配りしてあります。
 司法については三つの項目に束ねることができるかと思いますが、一は司法権の独立の問題でございます。
 最高裁判所裁判官の国民審査の制度につきましては、バツを付けるということで、そのバツの数が少ないということから、マル・バツで判断させたらいいんではないかと、あるいは無意味であるからやめたらどうかと、こんな議論が戦後一貫して行われてきたと思います。司法関係者の中には、非常にやはり最高裁判所裁判官が偏向した場合に歯止めを掛けるという意味でこの制度を残したらいいという考えが強いわけでございますが、世界の中でも、このような制度を取り入れている国は小さな国が一か国あるだけでございます。
 国民一億二千万の中の有権者全体が判断して、この裁判は偏向であると、裁判官は偏向しているというようなことは、非常に理論的にはあり得ても現実には難しいということから、この制度はもうやめたらいいんではないかと。代わりに、弾劾裁判という意味とはまた違うと思いますので、強いて言えば、国民が最高裁判所裁判官をチェックする機能が必要であるということであれば、参議院にそのような審査する裁判所といいましょうか機関をつくって、しかもこれは、その政局、そのときの政治情勢によって簡単に弾劾されるということでは具合が悪いと思いますので、三分の二とか、非常に公正の歯止めの決定機関というふうにしたらいいんではないかと、こういうふうに考えます。
 それから、裁判官の任命、任期につきましては、裁判官の任期は十年とし、再任されることができると、こういうふうになっておりますが、これを三年から十年にしたらいいというような説があるようでございますが、最近は教員再免許というようなことも言われる時代ではありますけれども、運転免許証でも、五年といってもあっという間に五年来るわけございまして、現在の十年、再任することができるという規定でよろしいんではないかと、こういうふうに思います。
 それから、裁判官の報酬が我々国会の審議におきましてベースダウンの時期に、裁判官も他の公務員に倣って減額するという場合に、憲法七十九条の存在が問題になるわけでありますが、これはやはり中世、近世の世界において国王、独裁者から司法を守るという意味でできた条文かと思います。もうそのような歴史的な役割を終えているので、このような条項はもう削除をしたらいかがかと、こういうふうに思います。
 それから次に、裁判所の組織、権限等でありますが、一番この憲法を改正を審議する場合に違憲審査制の在り方と、憲法裁判所をつくるかどうかということが問題になるわけでありますが、日本の現在の憲法は、通常の司法裁判所が具体的な訴訟事件の審理に付随して、必要な限度で法令の合憲性を審査するという付随的違憲審査制になっておるわけでございます。大陸型に憲法裁判所が多いわけでありますけれども、これも、国王が行う裁判というのは刑事、司法の裁判所であると。国王をコントロール、牽制するために憲法裁判所ができたということからした場合に、戦後一貫して取っておりますこのような英米型の在り方がなじんでいるんではないかというふうに思います。
 そして、大陸型の憲法裁判所においても、何でも抽象的審査ができるということではなくて、大統領、首相だけが提案できるとか、あるいは国によっては議員三分の一の賛成があったら審議できるというふうに非常に固く縛り付けているわけでございます。そうしませんと、数限りなく訴訟は憲法裁判、抽象的な訴訟が行われるとか、あるいは政治的に非常に悪用されるといったことも指摘されるわけでありまして、戦後の日本の司法型の、英米型のこの憲法審査ということでよろしいんではないかと、こういうふうに思います。
 軍事裁判所につきましては、今お話がございましたが、言葉がちょっと仰々しいわけでありますが、我が国が自衛軍を有するようになって、秘密の保持その他、自衛隊、自衛軍についてだけ司法が必要になるという場合にも、これは最高裁の下位に属するということであれば、そういう形に収めるのがよろしいかと思います。
 行政訴訟につきましては、行政不服審査ということで、最後は司法に訴訟への道を開いているというふうな現在の仕組みでよろしいんではないかと、このように思います。
 そのほか、裁判の迅速化あるいは司法への国民参加ということが憲法改正をする場合に問題になろうかと思います。
 刑事につきましては、裁判の迅速化ということが書いてあるわけですけれども、日本国民からいたしますと、松本智津夫、麻原彰晃事件がいつまでも結審しない、あのような人間が死刑をもって問擬されないということにおいて司法が信用されないということがあろうかと思いますが、日本の制度が大陸型と欧米型を併用したために、欧米では自白すればもう結審というふうな制度があるのに、日本人は簡単に自白してしまうから信用できないから、自白したにかかわらず長々と裁判をするというふうな、欧米型と日本型の悪いところを取り入れているということで司法が非常に遅いということ、あるいは司法取引がないというふうなことにおいて能率が上がらないといった点がありますが、これは憲法によらないで今後の仕組みの改正にまてばよろしいかというふうに思います。
 また、司法への国民参加につきましては、先国会において裁判員制度が取り入れられたところでありますが、やはりこの際、そのようなことが四年後に始まるということを国民に強く認識させるという意味から、司法への国民参加ということについて一項目設けてもよろしいんではないかというふうに思います。
 以上で私の発言を、司法についての発言を終わりますが、先ほど申しました憲法九条と関係いたしまして、一言記録に残す意味で私の意見を発言さしていただきますと、やはり普通の自衛軍を持つという表現であるべきであるというふうに思います。このような規定を持った場合、それだけ国民の責任、政府の責任は重くなるわけでありますが、やはり戦後の日本の戦争の経験を踏まえて、自分で自分自身を信用できないということからがんじがらめに自分を縛り付けているわけですけれども、そこのところはフリーハンドにして、自分の責任でもうこの自衛の問題について判断するというふうにすべきであると、こういうふうに考えます。
 以上であります。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、藤野公孝君。
○藤野公孝君 自由民主党の藤野でございます。
 七章、財政について申し述べたいと思います。今日で二回目でございますので若干重複もございますが、少し先の議論をしたいという趣旨でございますが。
 まず最初に、現在、八十三条から始まっておりますが、その総枠的な、大枠的な精神というものを書いているところは、財政に対する基本指針というようなものがございません。いわゆる財政規律といったものについて明定する必要があると考えるわけでございます。財政の健全性ということは、これから本当に大きな国家的な課題ということでございます。対外的にも大きな意味を持つと思います。
 しかし、その書きぶりにつきましては、赤字幅の制約というか、規制につきまして数値をもって、例えばGDPの何%とか予算の何%とか、そういうふうな数値でもってこの幅を規定していくということは予算の弾力的運営に大きな支障を来すことも考えられますので、あくまでもその財政の健全性の趣旨というものをうたうにとどまり、個別具体的な数値による規制ということは避けるべきであるということが、まず第一点、財政の規律、健全性の確保に関する意見でございます。
 第二点目が、単年度主義についての意見でございます。
 いろいろ今の予算について、単年度主義であるがゆえに無駄な執行しているとかいろんな批判もございますが、私は、これから予算、特に税収の減少がどんどん続くようなことが考えられる中で、今までの右肩上がりの経済じゃない段階に入ってきたときに、原則として複数年度というような予算というのはなかなか責任の取れる私は予算の組立てではなかろうという判断で、それは運用でその弊害は取っていくということで、あくまでも単年度主義というものを堅持すべきであるというのが私の考えであります。
 第三点目が、予算の不成立の場合の規定が今ないと。
 明治憲法のときには、そういう不成立の場合には前の年度の予算を踏襲するという規定ありましたが、今はないということで、そのようにしろという意味ではございません、同じ明治憲法の規定を復活するという意味ではございませんけれども、予算不成立のときの規定、今はこれは法律で暫定予算ということになっていますけれども、これを憲法上もきっちり規定をしておく必要があると、こう考えるわけでございます。それが三点目でございます。
 四点目は、八十九条関係でございます。
 今、九条と八十九条は憲法改正必要性の両花形のようになって、私学助成の問題等出ておるわけでございますけれども、その前段の方がいわゆる宗教に対する公的、公金、宗教上の組織、団体に対する使用等についての禁止規定でございますが、これもいろいろ御意見はあります。
 そういう布教、宗教上の布教とかいうようなことに関することには、出すのはいいけれども、もう、ちょっとでも、社会慣習化した、玉ぐしとかまあいろいろ、地鎮祭とかあるいは公的な葬儀であるとか、いろいろなそういう慣習化した、宗教の形は取っているけれども布教ということとは関係ない部分についてまでやることないじゃないかというような考えもございますが、私は、前段はこのまま存置すべきだというのは、九条を変え、八十九条の前段まで変えると、大変これは外国に対するインパクト、それは誤解かどうかは別にして大変今インパクトが大きいと思いますので、八十九条の前段は存置すべきであり、それから後段は、私学助成ということだけじゃなくて、慈善とか博愛も含めて民間と一緒になって国もやっていくというニーズが大変高うございますので、これは後段は削除すると。
 なお、削除するだけじゃなくて、私学助成を積極的に規定すべきであるという意見がございます。
 今、第二十六条の中で、国民は教育を受ける権利を有するという、それから義務教育を受けさせる義務を親は持つ、それから義務教育は、これを無償とするということで国の責務が一応入っておるわけですが、もっと積極的にこの私学助成というものを明記するということは一つの方法かと思います。
 それから、最後、決算と会計検査院のことでございます。衆議院の方で予算の、もうこれ繰り返しになりますが、予算の方の先議、それからもちろん議決、それからその優先権というものが与えられておるということは、それで今後も結構だと思うわけですけれども、決算に関しましては、私は、参議院の先議、それから、これを報告ではなくて議案、議決案件とするということを求めます。私の意見でございます。
 なお、ベストの形がそうであるとまでは申しませんが、そこの決算に対する参議院の責任ということを強化するために、会計検査院を国会ではなくて参議院に附属させるというか所属させるということが、いろいろ他の考慮しなきゃいけない弊害等もあるとは思いますが、次善の策として私はそれがふさわしいと、こう思うわけでございまして、そうした仕組みをつくり、その決算の報告を、決算の議案を翌年度の予算に反映させる、しっかり拘束力を持つということを明定すべきであるというふうに考えております。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、浅野勝人君。
○浅野勝人君 私は、地方自治について見解を述べさせていただきます。
 地方自治は、国民主権、平和主義、基本的人権と並ぶ重要な権利ですが、それにしては、現行憲法はたった四条。しかも、簡単な規定で、いささか扱いが軽いと存じます。この機会に地方分権を一層推進し、地域住民が自主的に自らの課題を解決していく社会を築く地方自治を確立する必要があると考えます。
 九十二条の地方自治の本旨とは何かと。住民自治と団体自治を意味していることを憲法に書き込んだ方がいいと思います。つまり、地域の行政は地域住民の意思に基づいて行い、地方自治体は、国の下部機関や出先機関ではない独立した団体として自らの行政事務を処理することをはっきりさせるべきだと考えます。
 第二に、地方自治体は基礎自治体と広域自治体で構成される二層制の保障を明記しておく必要があります。市町村の基礎自治体と都道府県の広域自治体の存在がはっきりしておれば、仮に道州制に移行したとしても、広域自治体に当てはまります。
 それから三つ目に、行政事務の分担に関する補完性の原理が採用されていないのは、この憲法の欠陥です。
 地方自治の事務の第一次的な責任は基礎自治体が負い、広域自治体は基礎自治体だけでは処理できない広域的な事務を担当する、そのどちらにも処理できない事務は国が行うという行政事務の分担を明示する補完性の原理は、ヨーロッパの地方憲章を始め、各国で今憲法に導入されている原則であることは御承知のとおりであります。
 それから、九十三条の地方自治体の議会の議員と長は直接選挙で選ぶ今の規定はこれでいいと思いますけれども、首長に関しては、直接選挙だけではなくて議会による間接選挙、つまり議院内閣制型の行政主体とするか、シティーマネジャー制度を採用することができるといったような選択の余地を残した方がいいか、これは検討の要があると存じます。
 それから、この憲法、現行憲法にない重要な点ですけれども、いや九十四条の条例の制定権など自治体の権能は今のまま、現行のままでいいんですが、ここで欠けている重要な点は、これに加えて新たに、地方自治体が課税する権限と地方自治体同士の間の財政格差を是正、補てんする財政調整措置を国に義務付けておく必要があると思います。つまり、財源を保障する課税自主権と国の責任を明確にしておくことが欠かせないと存じます。課税自主権を設けても課税する相手がいないような財政力の乏しい地方というのはあるわけでありますから、そこでの自治体間の是正、補てん、財政調整措置を国の責任でやるということも併せて地方自治体の課税自主権と併記する、しておくことは重要だと思います。
 それからもう一つ、地方自治体の権限が国又は別の地方自治体から侵害を受けた場合の救済ですけれども、やはりこれは地方自治体の権限を保障する意味で、係争処理機関への訴え、訴訟権をきちんと新設しておく必要があるように思います。先ほど司法の分野で指摘のあった憲法裁判所の設置について、仮に憲法裁判所が憲法改正の中で設置されるとすれば、当然この係争処理機関は憲法裁判所にゆだねるのが適当と存じます。
 それから、特別法の住民投票を決めた九十五条は丸ごと削除していいと存じます。これは要りません。この規定の実例を調べてみましたら、昭和二十四年から昭和二十六年にかけて都市建設法として制定された十八都市、十五件あっただけです。それから半世紀余り全く機能しておりません。したがって、この規定は意味がないと、削除してよろしいのではないかと存じます。
 最後に、私は、個人的にはお勧め品でないので判断しかねますけれども、住民投票の是非、仮に必要だとしたらどんな規定にすべきか、この扱いについて更に多くの方々の英知を賜りたいと存じます。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、佐藤道夫君。
○佐藤道夫君 それでは、私から意見を述べさせていただきます。
 実は、私、憲法改正の問題を取り上げたいと思っております。この話は三、四回前の当調査会でも申し述べたので、皆さん方お聞き及びのことと思います。しかし、事柄の重要性にかんがみまして、再度この調査会において憲法改正の問題を取り上げたいと思います。
 実は、皆さん方御案内のとおり、明治憲法は一度も改正されていない。昭和憲法、これもまた改正はなされていない。日本人というのは憲法を大切にする気持ちは本当に深いものがありますけれども、それは大切な、本当に神様以上の大切なものだということで神棚に上げて飾っておいて、その改正を議論することすら甚だ不敬なことではないのかと、こんな考えもあるようでありましてね。明治憲法は天皇から下賜されたということで、これを論議するようなことは許され難いというふうな思いがあったことも事実ですが、その後ろ姿が昭和憲法にも引き継がれまして、昭和憲法という言葉があるかどうか分かりませんけれども、今の憲法にも引き継がれまして、なぜか憲法改正ということを議論する気は日本人にはなさそうであります。でき上がったものを、ああ有り難い有り難いといって神棚に飾ってそっとしておくと。そして、憲法の枠を乗り越えて現実の政治が動き出すと、まあそれはしようがないと、何しろ政府がやっていることだと、それに任しておけと、こんな感じで日本人というのは憲法と接してきたのではないかと、こういう皮肉も言いたくなるわけであります。
 具体的な話をいたしますと、これもこの前したことでありますけれども、憲法九条、これははっきり九条が、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」とはっきり書いておるわけであります。だれが見ても自衛隊は、何だあれは、もう軍隊そのものではないのかと、こう言いますと、政府は、いや、そうではないと、あれは、何かよく分からないけれども軍隊以外のものだと、こういうことを言う。かつて、あれをつくるときは保安隊とか警察予備隊とかそういう言葉があって、これは軍隊じゃないんですよという言い方もしておりました。それからだんだんだんだん深みにはまっていって、ついには今の自衛隊ができ上がって、あれはどこから見ても立派な軍隊です。憲法九条が書いている軍隊そのものと、こう言ってもいい。
 ここはもはや二十一世紀ですから、この期に及んで、あれは軍隊じゃないとか何だかんだという子供だましみたいな議論をするのはやめまして、本当にこの国に自衛隊が必要だと、こう言うならば、それは軍隊として頑張ってもらいたいと。
 今の自衛隊も、まだこそこそと陰で動き回っていると。政府は、イラクに派遣したと、そして戦争地域にはやらないとかなんとか言っている。本当に日本の武士なのかと、この連中はと、そういうことも言いたくなるわけでありまして、命を懸けて頑張っている、これは他国の軍隊ですけれども、日本の自衛隊はどういうわけかこそこそと陰に隠れて、動き回るわけでもない、怖いことには遭遇したくないと。情けないとしか言いようがない。
 本当にこの日本という国に軍隊が、自衛隊が必要だというのであれば、はっきりと憲法を改正して、あなた方の本当に双肩にこの国の運命が懸かっている、頑張ってくださいよと言って励ますのが当たり前のことではないのかと、こう思うんですけれども、どうもそういうことはなさそうであります。いつまで行っても、何しろ憲法があるからこれ以上のことはできないと、こう逃げ道をつくっておくつもりなのかどうか分かりません。
 はっきりと九条を改正して、そして必要ならば軍隊として活躍をしてもらうと。いろんな制限を設けること、それは構いません、何を設けてもね。ただ、自衛隊の基本は軍隊であると、なぜこういうことをお互い素直に議論をしないのかと、こういう気がして仕方がないわけであります。
 余り、憲法があるから憲法があるからと、こういうことを言い出したら切りがないんですよね。じゃ、やめておけと、しかし自衛隊は残すぞと。残された自衛隊は一体何だと。さあ、よく分からないけれども、軍隊じゃないことは間違いありませんと。そんなもの一体この世に存在するのかと。
 本当に必要ならば、自衛隊員の誇りということも考えて、軍隊として頑張ってほしいと、それが世界平和のために、日本国の安泰のために、そういうことなんだから君たちに本当に期待しているということにしてもよろしいのではないかと、こういう感じがしておるわけであります。
 この国に軍隊をつくり上げる、そしてその動きを、我々としても十分にその動きを監視すると、そういうことが大切なのではないかと、こう思います。
 しかし、中にはそんなもの要らぬと、軍隊なんか要らぬと、こういう貴重な考えがあることも私、認めるわけであります。じゃ、どうするかと。それは、最後に決めるのは我々じゃなくて国民ですからね。国民投票にかけてどういう形のものがいいのかということを議論してもらうと、それが民主主義としてのあるべき姿そのものだろうと、こう思います。
 よってもって、まずもって九条を改正して、必要があらば軍隊をきちっと設けて、その行動はいろんな意味で法律をつくって規制すると。それは当たり前のことですから、そういうことをやっていくと。それだけのことだという思いを国民も深く深く心に留めてほしいと、こう思うわけであります。
 それから、これもこの前言いましたけども、政教分離について今の憲法ははっきりと「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」と、こう書いている。ところが、現実には、何かよく分かりませんけども、これは、こういうことはいいんだといって宗教団体が国政に参加して、連立を組んで内閣に入って何かいろんなことを言っている。あれは立派に政治権力の行使ですから、こういうことがもし必要があるとするならば、憲法を改正して、これから我々ははっきりと内閣に入って政治権力を行使していく、よろしいですなと、こういうことを言うべきではないのかと。こそこそと入り込んでいて、国民の知らぬうちに大臣になったりいろんなことやっているんでしょう。大臣になって政治権力を行使していないなんていう、そんな人はいないと思います。あれもはっきり言いまして宗教上の問題。
 宗教団体が内閣に参加する、これも国のために必要だとはっきりそれをうたい上げて、そして選挙戦を戦い抜く、あるいは憲法改正を打って出て議論して最後の結論を出すと、これもやっていただきたい。それが民主主義だということを申し伝えておきたいと思います。
 最後は、今も話が出ておりましたけども、私学助成の問題なんですね。
 これも私、不思議で不思議でしようがないんですね。私学助成が許されますよという議論があるのは百も承知しております。しかし、それなら憲法の規定を改正してからじゃないだろうかと。憲法ははっきりと私学助成、公金、公の金は私学教育に関する事業を営む者に支出してはならないと、こう書いておりますね。何のことはない、それだけの話です。
 ところが、今まで四千五百億余りの私学助成金が支出されておって、これはまたどこの大学教授が考えるのか知らぬが、聞いていても恥ずかしくなるような議論を展開して、それでこれは合憲なんだよと、そういうことを平気で言っておって、四千五百億円ももらえば私も私学助成は合憲だと、それぐらいのことをどうしても言いたくなりますけどもね。しかし、明白に違憲だということを言っておいて、もらうものはちゃんともらって、これは皆さん方も研究されたと思いますけど、私学助成が合憲だという考えがあるんですよね。この日本という国に私学なんかないことになっちゃうんですよね。全部これは国が押さえて教育をさせていると、だから憲法もこれは何ら問題がないと、こういうばかげた議論を東大の教授が平気でやっておるわけですよ。一体おまえはだれだとどなり付けたくもなるわけですけどもね。
 まあしかし、もう二十一世紀、新しい時代、憲法を我々みんなのものにしようというところですから、おかしいと思えばそれで議論をして、そしてどうしてもやっぱり必要だと、憲法上認めてもらいたいと、こう言えば、それに相応したような条項に改正していけばいいだけのことなんですね。それが基本だろうと思います。そういうことをやめちゃいまして、そしてポケットに金が入れば何でもいいやと、あとは政府が適当なこと言ってまとめてくれるだろうと、うん、それでいこう、それでいこうということでもう六十年やってきたわけですが、先ほども言いましたけども、もはや二十一世紀ですから、こういう新しい時代に相応した憲法の規定、憲法改正を実現するということを国民に理解してもらうと。そのために我々もこれからも頑張っていくべきではないのかと、こういう気がいたします。
 以上、あれこれ勝手なことを申し上げましたので、あしからず御了解いただければと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、鈴木寛君。
○鈴木寛君 民主党・新緑風会の鈴木寛でございます。
 戦後六十年がたちました。私は、この二〇〇五年の現在において、新しいこの時代に合った憲法をつくり直すべきだという立場でございます。私からは、この時代、ポストモダンに差し掛かった時代とも言えますし、ハイパーモダンの時代とも言えるかと思いますが、このハイパーモダン時代になぜ新憲法をつくり直さなければいけないのかと、その目的について申し述べたいと思います。
 私は、このハードパワー時代において後塵を拝した我が国日本が、ソフトパワー、ヒューマンパワーの時代において、やはり世界の先導者、リーダーになる、そのことを目指すための新憲法制定であるべきだというふうに考えます。したがいまして、他国に先駆けて、我が国は経済大国中心主義を卒業して人づくり、文化、健康、環境と、そうしたことに立脚した正に立国を目指すべきだと。そのための価値の優先順位というものをこれから変えていくんだと、重点を移していくんだということのためにこの新憲法の制定というものが議論されるべきではないかというふうに思っております。
 正に新しい価値に裏付けられた、あるいはその実現をするための新世紀創造、そのイニシアチブを日本がソフトパワーにより取っていく、そして世界をリードしていく。そのことによって私は、我が国が各国から尊敬をされ名誉ある地位を占めたいというふうに思うわけであります。
 しからば、この重視すべき、重きを置くべきこの価値の優先順位というものを今から今後の新憲法においてどのように変えていくのかということについて、私の所信の一端を申し上げたいと思います。
 まず、大事にすべき価値でありますが、今までは富国強兵、経済成長の下に経済的価値というものを重要視をしてまいりました。引き続きもちろんこの価値は重要でありますが、それに加えまして、いわゆるライフ、生命、人生、生活という意味でのそうした価値を大事にする新憲法づくりというものを目指していきたいというふうに思います。
 それから、ハードパワーよりも、それも引き続き重要でありますけれども、やはりソフトパワー、ヒューマンパワーというものの要素をもっと大事にしていく。あるいは物質エネルギー、これも引き続き重要でありますが、加えて情報力といったものにこのウエートを置いていく、そうした国づくり、社会づくりが必要だと思います。
 その観点から申し上げますと、その重視すべき、大事にすべき組織の優先順位といいますのも、従来は経済利益最大化のためのヒエラルキー型の組織、すなわちは株式会社あるいは業界団体、あるいは生産者を所管、支援をする官庁というものが重要視をされましたが、これからは正にライフを支えるためのコミュニティーあるいはネットワークといったものが、そうした、それを支援するための組織、例えば学校あるいは保育所、あるいは医療機関、社会福祉施設、あるいはNPO、NGOというものが憲法上もより重要な位置付けをされるべきだというふうに思います。
 それから、現行憲法は個人の権利、尊厳というものを大事にしております。もちろんこのことは引き続き極めて重要な価値でありますが、加えまして、やはり子々孫々の利益といいますか、その価値ということについても私は新憲法で念頭に置くべきものであるというふうに思っております。その中には、子々孫々が生き延びていくあるいは豊かな人生を送っていく環境というものも含まれると思います。
 それから、新しい憲法制定における重視すべき活動の内容でございますが、今までは産業活動あるいは労働活動というものが憲法観の中心でありました。もちろんそのことは引き続き重要でありますが、加えまして健康とか文化、もう少しブレークダウンしますと、例えば出産とか育児とか、あるいは治療とか介護とか学習とか、あるいは交際、コミュニケーションと、こうした文化的な活動も、これからはその憲法制定のいろいろな仕組みづくりにおいて、あるいは権利設定において重視されるべきでありますし、今まではその生産、流通、消費活動というものに重きが置かれ、そのための社会システムというのができておりましたが、これからはそれに加えて文化創造あるいは人々のコミュニケーション、コラボレーションといったものが非常に重要になってまいりますし、知的創造、知的文化的創造活動というものがやはりその主眼に置かれるべきだというふうに考えます。
 そのために、この社会システムといたしましても、従来は国家共同体への従属、依存というものを助長する、あるいはそうしたものを促進をする社会システムが実態的にはかなり幅を利かせてまいりました。しかし、これからは共同体あるいは国家への自律的参加というものを促す、そうした社会システムづくりが必要だと思いますし、他者との競争というものが今までの主軸でありましたが、これからは他者との共同、コラボレーションというものも大事だと思います。
 それから、権利義務の在り方についても、従来、十九世紀型の国家の規制からの自由権というものが設定されておりましたが、現下の官僚主権の、極めて、余りにも過度な官僚主権になってしまった政府に対する対抗権という意味で、主権者による直接立法権でありますとか、行政に対する国民の側からの訴訟権、実質的訴訟権の確保といったようなことも必要だと思いますし、それから、従来は、この富の再配分を目指した国家に対する社会的請求権というのが二十世紀の憲法典において加えられました。これも当然に重要なものでありますが、加えて、ケーパビリティー、正にそれぞれの国民が豊かな人生、生活実現のための能力、機会を付与される、あるいはそれを支援される、実質的に支援をされる権利といったことも必要になってくるんではないかというふうに思います。
 それからもう一つ、権利と義務の設定でありますが、私は、これからは主権者の権利と主権者の義務と、これをきちっと憲法典に盛り込んでいくべきだというふうに思っております。
 当然、基本的人権は主権者の権利として引き続き深化、そして保障されていくべきだというふうに思いますが、加えまして、例えば次の世代、次世代、子々孫々の育成あるいは繁栄、あるいはその生存環境を守っていく、あるいは生育環境を整備をしていくと、こういったことも主権者の義務として再構成されるべきだというふうに思っております。
 そうした社会を実現する上で、統治システムについても議論が必要だと思っております。
 従来の憲法は、統治機構論の中では基本的にその重要な関心は国権にありました。そして、その国権を三権分立という、どのようにこの三権を分立させることによって国権のこのパフォーマンスを最大に上げていくかと、こういう配慮で憲法典が構成されていました。
 もちろん、この整備は引き続き重要でありますが、加えまして、この国家にだけ我々のこの社会生活の充実というものを依存できないという現実にかんがみますと、自助あるいは共助の権利というものも極めて重要な憲法上の関心事になってくるんではないかと。
 そうしますと、この自助、共助を支える公共権というものの設定を統治機構の議論の中で追加をしていく必要があると思いますし、それから、従来は権利と義務を設定し、その実施、行使あるいはその救済というものがこの統治システムの主眼でございました。この整備はもちろん引き続き必要でありますが、そうした行為規範を中心とした権利義務の設定ということに加えて、これから非常に重要なのは、権利と義務の行使に加えて、市民、国民が自発的に社会のために何か貢献をしていくと、そうした活動を促進をする社会システムというものを考えていかなければならない。
 そうしますと、人々はどうする、どういうときに自発をするのかというと、十分な熟議が、熟した議論が確保されて、そして、正に個々人のネットワークにおいてそうした自発的活動が共鳴をされると。こうした、正にフォーラム、公共権が社会の津々浦々に整備をされるということが極めて重要だというふうに思っておりまして、こういう観点も新憲法制定の意義であるということを認識しながら更に議論を深めていくべきではないかというふうに考えております。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、富岡由紀夫君。
○富岡由紀夫君 私の意見を述べさせていただきます。
 先ほど、議論の中で一部出てまいりましたけれども、私も憲法の中に財政規律の問題を盛り込むべきだと思っております。ただ、ちょっと先ほどの御意見と違うのは、数値目標も入れて検討してもいいんじゃないかというふうに思っております。
 と申しますのも、今の財政状況は本当に厳しい状況だというのは皆さん共通した認識だというふうに思っております。ヨーロッパ、EUなんかでは、その財政規律の問題について非常に厳しい条件、目標を立てて今取り組んでおります。マーストリヒト条約なんかでは、各国の加盟国の債務残高の目標値を立ててやっております。具体的には、それぞれの国のGDPに対する債務比率を、債務残高の比率を六〇%にするという目標を立ててやっているのが今のEUの実態だということでございます。
 一例でございますけれども、G7に加盟している各国の今の債務残高、国と地方、その国の債務残高の比率をOECDが二〇〇五年ベースで発表した数字がございます。それによりますと、イギリスは四四・九%、ドイツが六八・六%、フランスが七六・二%、EUの中ではイタリアがちょっとこれは高いんですが一一九・五%、そしてEUじゃないんですけれども、アメリカが六四・九%、カナダが六七・二%、これが各国のGDPに対するその国の債務残高の比率です。イタリアが一二〇%ぐらいでちょっと高いんですが、その他の国は大体四〇%台から七〇%台というのが今の各国の財政の状況でございます。これに対して、日本がどのぐらいかというと、一七〇%ということで、G7の中では極めて突出して財政状況が悪い国になっているというのが今の実態でございます。
 この財政規律の問題がどうして憲法で考えなくちゃいけないか。私は、これはもう皆さん釈迦に説法でございますけれども、国民の皆さんにも是非理解していただきたいと思うんですが、これはやっぱり最終的には増税という形で国民の負担に必ず返ってくる、そういう種類のものでございます。したがって、国民の所得とか財産が増税という形で奪われてしまうわけですから、これはやっぱり国として国民の生命と財産、その中の財産を守るということに極めて密接に関係してまいりますので、これは憲法の中でもうたっておくべきじゃないかというのが私の考えでございます。
 あと、今、日本の中で特に問題になっているのが債務残高、これを解消するためには増税が避けて通れない。今までのツケを将来の国民に対して負担を強いるというのが今の現状でございますけれども、更にもっと恐ろしいのが、今国債をどんどんどんどん乱発しておりますけれども、これが引受手がいなくなってしまうんじゃないかということが、更に大きな懸念として私は抱いております。
 国債を発行したけれどもだれも買ってくれない。じゃ、どうするんだ。最終的にはその利回りを上げるしかない。国債を消化するために金利を上げるということで、本来景気が回復して資金需要が上がってきてそれで金利が上がる金利上昇とは全く性質を異にする、国債を消化するために金利を上げる、利回りを上げる、長期金利を上げていく、そして短期金利にも影響してくる、こういったことは極めて経済にとって悪い影響を与える種類の金利上昇ではないかと私は思っております。インフレ、大きな悪いインフレにつながって、国民の皆さんが一生懸命将来に備えて蓄えていたとらの子の預金、これも本当に価値のないものに、価値が下がってしまう。結果として国民の財産を奪ってしまうことになるんじゃないかというふうに思っております。
 国債の大量発行、消化、これをするために金利の上昇、インフレにつながるそういった懸念、そして、将来必ず増税という形で返ってくる。もう既に増税の議論もされておりますけれども、返ってくるというこういったことからも、国の財政規律についてはしっかりと憲法の中で私はうたうべきだというふうに思っております。
 そして、次の点について申し上げたいと思います。
 あっ、済みません。ちょっと今の点で補足させていただきますけれども、今年の十七年度の一般会計予算の中の利払い費というのが約八兆九千億円でございます。これを一日当たりで置きますと二百四十三億円、一時間当たりでは十億円、一分当たりでは千六百八十六万円というふうになります。私がいただいている発言時間は八分間でございますので、この八分間の中でも一億三千四百八十八万円の利息が新たに発生し、国民にこれは税金という形でいただくような形になってしまっているというのが、今の日本の置かれる財政状況の実態だということを併せて申し述べたいと思います。
 そして、次の点、申し上げたいと思いますが、男女平等、女性の権利といったことが議論、もちろんされているんですけれども、この中で非常に気になっていることが私はございます。女性の社会進出、これは、外で働く女性は社会進出を果たしてすごく立派な人だと。じゃ、家庭の中で専業主婦をされている方はどうなのかというと、やや私は評価のされ方が低くされ過ぎているんじゃないかというのが非常に気になっております。外で働く人が能力を発揮して優れていると。一方、家庭内、家庭の中で家事や育児に専念している人はどうしても社会進出を果たしていない、補助的な仕事をしているんじゃないかといった認識が私は強過ぎるんじゃないかと思っております。
 家事とか育児というのは補助的な仕事なのでしょうか。私は全く違うと思います。それぞれ掃除とか洗濯とか食事、子育て、保育、これらを専門にしている人たちや専門にしている会社に働いている女性は社会進出をちゃんと果たしているけれども、家庭の中でこれらのことを、同じことをやると、どうしてもそれが補助的仕事みたいな形で見られてしまうというのが今の風潮じゃないかと思います。私はこれは大変大きな問題だと思っております。家庭を守って子育てに専念する、これは本当に非常にすばらしいことだと私は思っております。家庭がしっかりとした教育を行う、家庭のぬくもりをしっかりと教える、家族の温かさ、愛情をしっかりとはぐくむ、これが今一番必要とされていることではないかと私は思っております。
 よく何年か前までは、井戸端会議で主婦の方々がいろんな立ち話をして情報交換をしておりました。そういうことを通じて、地域のことや学校のことや世間話の中でお互いの理解が深まって、コミュニケーションが取れていたんだと思います。それがどんどんどんどん今少なくなっているんじゃないかというふうに思っています。家庭、そういった地域での情報の共有化、これは本当に防犯にも大きな効果を上げていたんだと思っています。家庭での教育、家族の大切さ、近所付き合いを通した地域間のコミュニケーション、地域活動を通した社会貢献に対する理解、そして、先ほど申しました情報を共有することによる防犯又は犯罪の抑止効果、こういったことを可能にするのはやはり専業主婦の存在が非常に大きなポイントを占めているんじゃないかというふうに私は思っております。
 このことを述べさせていただきまして、私の意見とさせていただきます。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、松下新平君。
○松下新平君 民主党・新緑風会の松下新平です。
 長年タブー視されてきました憲法改正がいよいよ政治日程に上がってまいりました。本調査会は約五年間にわたり様々な議論を重ね、精力的に取り組まれること、敬意を表します。
 私はこの調査会に参加してまだ半年ですけれども、政治家として歴史的に大きな意味を持つ憲法改正に携わることを喜びとし、国際社会から真に尊敬される国を目指して、憲法の存在の重みを自覚しつつ意見を述べさしてもらいます。
 我が国は、現在の日本国憲法の下に、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という三原則を中心に歴史的大改革を実現してまいりました。このことは、制定のいきさつにはいろいろなことがあったにせよ、現憲法の持つ崇高な理念に基づいた先人たちの不断の努力のたまものと高く評価されます。しかし、制定から六十年たった今日、内政、外交、安全保障などの分野において激しい変化に対応できないことから、時代に即した新憲法待望論が世論調査でも現れてまいりました。
 本日は、限られた時間でもありますので、私の、憲法改正に当たり、考えの一つでもあります地方の再生から二十一世紀の日本のあるべき姿を論じてまいりたいと思います。
 今、地方では、本来のその地方の良さであるはずの景観、自然環境など、いわゆる農村の原風景というものが失われつつあります。これはなぜ起こったのかと考えると、この国の在り方の問題であるという結論にたどり着きます。東京一極集中を招いたのも大都市集中を招いたのも、この国の在り方が中央集権的になっているためであると考えます。現状の国と地方の在り方を見渡すと、地方分権一括法が制定され、制度上は対等協力の関係に位置付けられたものの、今もなお国の省庁の縦割り行政がそのまま地方行政の現場に持ち込まれ、地方自治体の独自性にはほど遠く、国の出先機関とされている現実があります。
 例えば、経済学者の間でも、高度成長期以降、国が進めた規制の新設や強化、これらは取りも直さず各省庁の許認可権限などの利権でもありますが、これら規制が輸出産業以外の国内産業の競争を妨げ経済の効率化を遅らせたことや、地方交付税と補助金行政が中央依存を強め地方の活性化を阻んだことなどが指摘されています。
 また、七〇年代初頭から進められてきた国土の均衡ある発展という考えにより、確かに地方は豊かになり発展もしましたが、人口や産業を地方に分散させるとの中央から地方へのばらまき的な施策を取ることで、その配分を決定する省庁に陳情しなければならないという上下関係のような制度となってしまいました。また、ばらまき型の分散化政策により、その地方の実情や特色、採算性や効率性を度外視した箱物や道路などの公共事業が進められ、どこに行っても同じような景観となるような均質化、画一化が起こり、地方の個性は失われつつあります。
 こうした画一的な公共事業が展開されたことで財政負担も膨らんだ地方は疲弊してしまい、活力がなくなっていますし、地方の良さでもある田舎の風景、恵まれた自然環境などが失われつつあります。
 地方に活力と良さを取り戻すためには、地方分散、地方分権を進めることが求められているのではないでしょうか。これまでの国の形、機構の思い切った転換が必要であると考えます。身近な基礎自治体に財源と権限を移譲し、負担とサービスの関係を適切に住民が判断できるよう透明性を確保しながら、自ら考え自ら決めるという民主主義の原点に立ち返り、地方の自主性、自己決定能力を高めていくことが地方の個性を回復させるためにも必要であると考えます。
 先日の公聴会で、五十嵐敬喜法政大学教授が、地域でできることは地域にゆだねるという補完性の原理の考えを採用すべきと述べられたように、より身近なところで問題を解決するための仕組みとして住民投票制度を憲法に明記することも提案します。また、基礎自治体がより強い権限を有する分権構造をつくり上げるためにも、自治体への立法権の付与、住民憲章などの制定を制度的に憲法に規定することを求めます。
 住民自治を進め、透明性の高い負担と受益を確保するためには、基礎的自治体の規模は小さい方がよいと考えますが、現在の市町村と都道府県の関係、都道府県と国との関係のようなものではなく、いわゆる道州制や文化や風土、伝統などを考慮した地域、圏域という団体を取り入れることも検討されるべきであると考えます。
 私は、レトロフューチャーという社会の在り方を目指すことを提唱しております。
 レトロフューチャーとは、直訳すれば懐かしい未来。二十一世紀は二十世紀の様々な反省から、ぎんぎらぎんのメタリックな世界ではなく、自然の営みが回復され、人間もその中で懐かしい生活を行うような社会、そんな姿にしていくべきではないかと感じております。これから人口減となっていく少子高齢社会となる社会の発展方向を考えたときに、今までのような経済万能、物、金優先の社会ではなく、人間の心を重視した社会を目指すことが重要ではないかと思います。懐かしい日本の原風景を取り戻し、本当に豊かな幸せな生活を実現する、これがレトロフューチャーのコンセプトです。このコンセプトを今後の社会の在り方に置き換えれば、経済の発展と心の豊かさの面で調和の取れた社会、人々が多様な個性を生かせる社会をつくっていくこと、限られた資源の消費と汚染から国土を守る循環型社会をつくっていくことなどが必要であると考えます。
 人間らしい生活、生き方ができる社会をつくり上げていくためには、昔の田舎に普通に見受けられた温かいコミュニティー、結いの心の再生が必要です。田舎の原風景とともに、地域で生まれ、地域で育ち、地域で学び、地域で暮らすことが普通にできるようにすること、そのための権利を憲法に規定することは大きな意味を成すことではないでしょうか。
 具体例として、まず、地域で子供たちが健全に育つことを保障するためにも、子供の権利を書き込むことを提案します。
 我が国が子どもの権利条約を批准していることからも、当然検討されることに異論はないと思います。これには、子供が権利を享受し行使する主体であるという権利条約の精神を反映すべきであると考えます。すべての子供が教育を受けることができる権利を入れるのか、それとも現行のように義務とすべきなのか、こういう点について検討が必要であると思います。
 また、国連において障害者の権利条約案の起草作業が行われていることからも、障害者が地域で暮らすインクルージョンが世界の潮流であることからも、障害者の権利規定を置くことも検討されるべきだと考えます。
 さらに、自然豊かな中で人間らしい生活を送ることができる社会をつくるために、人権としての環境権並びに国家としての責務として環境保全義務を憲法に明記する意味は大きいと考えます。
 以上、本日は憲法改正に係る私の考えの一端を述べさせていただきました。ありがとうございます。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、山下栄一君。
○山下栄一君 公明党の山下でございます。
 今日は、私と渡辺、山本両委員の方から三名、意見表明させていただきたいと思います。
 まず、私から始めますけれども、今、憲法と並んで教育基本法、これは今まで一度も改正されてございませんけれども、中央教育審議会でも改正の方向の答申がなされておりまして、大きな課題になっております。そういう状況ですので、日本国憲法における教育条項、もう一度確認させていただきたいというふうに思います。
 まず、憲法と教育基本法の関係ですけれども、現行憲法と教育基本法は非常に直接、密接な関係ということで一体、そういうふうなとらえ方で制定されました。私は特にそういうふうに理解しております。
 昭和二十二年の帝国議会の時代ですけれども、新しい憲法が施行される前、昭和二十二年三月、教育基本法制定の帝国議会におきまして、その基本法提案理由の中に次のようにあります。新憲法に定められている教育に関係ある諸条件の精神を一層敷衍、具体化し、教育上の諸原則を明示する必要を認めたと、そういう観点で基本法をつくるんだと、このように提案理由されております。
 また、この法案は、教育基本法ですけれども、法案は、教育の理念を宣言する意味で教育宣言であるとも見られるし、また今後、制定されるべき各種の教育上の諸法令の準則を規定するという意味において実質的には教育に関する根本法たる性格を持つものと、こういうことで教育憲法とも言われるわけですけれども、そのために、普通の法律にはない異例の前文も付したと、このようにされております。
 また、後になりまして、これは最高裁の判断ですけれども、旭川学力テスト事件最高裁判決、昭和五十一年で、新憲法の、準憲法的性格について次のように言っております。教育基本法は、憲法において教育の在り方の基本を定めることに代えて、我が国の教育及び教育制度全体を通じる基本理念と基本原理を宣明することを目的として制定されたものだと、このような性格を最高裁は言っておるわけでございます。
 特に、基本法の前文では、憲法の理想の実現は根本において教育力に、教育にまつべきものだと、こういうふうに述べております。日本国憲法の精神にのっとり、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するためにこの法律を制定すると、このように基本法の前文にも書いてございます。したがいまして、現行憲法と基本法は一体のものとして日本国の在り方の根本を示したものであると、このように考えます。したがって、基本法を見直す、特に教育の目的を見直す、教育理念を見直すということは、現行憲法が目指す価値、すなわち憲法の精神にかかわるものを見直すということに通じると、こういうとらえ方で教育基本法の改正はとらえるべきだと、このように考えます。
 具体的に、憲法における教育条項ですけれども、旧憲法、明治憲法では教育条項はございません。小学校令と勅令という形で、例えば義務教育制度なんかも実施されてまいりました。これは戦前のことでございます。
 現憲法では二十六条、ここでは教育を受ける権利が規定されておるわけですけれども、これは教育の自由、特に教育の自主性、教育の政治的中立、もう、こういうことが前提とした条文であると。
 教育を受ける権利、教育を受けることによって自ら高めて、成長し、発展し、幸せになっていくんだという、これがいわゆる学習する権利、生涯にわたって学習し、学んで自己を高めていくという、そういう意味も込めて教育を受ける権利があり、これは十三条と併せて二十六条はそういう人間の学ぶ権利、成長する権利という幸福追求の権利というふうに通じる規定になっているというふうに考えます。
 また、二十三条の学問の自由、これは思想、良心の自由にもかかわるわけですけれども、教育基本法第二条、これは学校教育に限らず、社会教育も含めまして、家庭教育も含めた基本的な教育方針のところでこの学問の自由ということがうたわれておりまして、これは、したがいまして高等教育に限定して考えるべきものじゃないと。国民、人間の真理探求の自由ということがこの学問の自由の中に入っておるというとらえ方でございます。
 また、十四条、これは教育の機会均等にもかかわりますし、これは法の下の平等のところですけれども、男女共学の規定、こういう形で教育基本法に規定されておると。
 また、十九条、これ思想、良心の自由ですけれども、特に基本法では政治教育、これは政治的なイデオロギー、これは思想、良心の自由ということから政治教育にかかわっていくと。そういう関係で憲法と教育基本法の関連性があるということでございます。
 また、憲法二十条、信教の自由、ここは宗教教育の条項が基本法にございますけれども、そういう観点で憲法の精神が教育基本法に表現されていると。
 また、現憲法には八十九条があるわけですけれども、これは私学助成の在り方、今の規定ぶりでは分かりにくいというふうな指摘がされておるわけですけれども、公の支配に属さない教育事業については公金を支出してはならないという、法律で、例えば私立学校法とか、また、いわゆる学校法人という形で公の支配に服しているではないかという、そういう解釈もあるわけですけれども、NPO法人はどうなんだと、また会社法人はどうなんだという、そういうことに今は問題提起されておりますので、こういう観点からもこの八十九条というのは考えるべきだと。
 以上、現憲法でも、教育に関連する規定は順番に言いますと、十三条、十四条、十九条、二十条、二十三条、二十六条、八十九条と七条項にわたって関連性があるというふうに考えております。
 最後に、関連してですけれども、この教育基本法を考える場合に、憲法だけではなくて国際条約、この整合性もやはり考える必要があるというふうに思います。特に、日本が批准した条約についてはその観点からも教育基本法をとらえるべきだと。
 例えば子どもの権利条約、児童の権利条約という言い方もございますけれども、十四条では、子供の良心の自由、宗教の自由の尊重、こういう規定がございますし、人権規約A規約では十三条に、保護者、法定保護者の子供に対する宗教教育、道徳教育を確保する自由と、これは保護者が子供には一義的に持っておるんだという、そういうふうに条文にされておりますし、またB規約でも同様な規定があるわけでございます。子供に対して道徳、宗教の自由をうたい、その上で、人権規約において宗教教育、道徳教育については保護者に対してそれを確保する自由を有することをうたっております。
 また、義務教育の就学義務については、日本の今の制度では学校教育法に就学義務が書いてあるわけですけれども、憲法、そして教育基本法には直接的な就学義務はないと、こういうとらえ方でございますが、条約では、子どもの権利条約十八条一項で親の第一義的責任、これをうたっております。
 また、人権規約A規約においては、個人が学校設置権そして学習選択権を与えると、このようなことが書いてございまして、こういう観点からも現在の就学義務の規定の見直しが必要ではないかと、こういうふうに考えております。
 いずれにしましても、今、教育基本法の問題が憲法と並んで大きく問題提起されている中で、もう一度、現憲法における教育条項の規定、そして条約も含めた憲法との関連、また基本法との関連の中で議論をすべきではないかと、このように考えまして意見表明させていただきました。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 渡辺孝男君。
○渡辺孝男君 公明党の渡辺孝男です。
 私は、憲法に関して、二点について意見を述べさせていただきたいと思います。
 まず第一点は、我が国の憲法は、我が日本国民にとっての最重要の法であり、最も基本的な法であるがゆえに、現役世代のみならず将来世代のことを十分に視野に入れた内容のものでなければならないということであります。
 私は山形県の米沢市に住んでおりますが、当地の江戸時代の名君、上杉鷹山公は、世子治広に米沢藩を譲るに当たって、人君の心得三箇条、いわゆる伝国の辞を与えました。その第一箇条には、「国家は先祖より子孫に伝候国家にして、我私すべき物には之れ無く候」とあります。正に、現役世代が将来世代のことを考えずにわがまま勝手にしてはならないと戒めているわけであります。
 現憲法におきましても、前文の冒頭に、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、」、中略、「この憲法を確定する。」と書かれてあります。また、第十一条でも、「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と書かれており、将来世代のことを視野に入れて書かれています。この考え方は当然今後も堅持する必要があります。
 さて、地球温暖化の問題や多くの品種が絶滅している現状を考えますと、将来世代のことを考慮して環境の保護を憲法に明記する必要があると考えます。
 また、貴重な資源が枯渇しつつあることを考えると、資源の無計画な利用、資源の浪費を抑制し、将来世代のことを考えて、節度ある利用、再生が可能であれば再生を考えての利用が必要であります。正に循環型社会、持続可能な社会を目指すことを明確に打ち出す必要があります。
 ドイツでは、ドイツ連邦共和国基本法が近年改正され、第二十a条に、「国は、来たるべき世代に対する責任を果たすためにも、憲法的秩序の枠内において立法を通じて、また、法律及び法の基準に従って執行権及び裁判を通じて、自然的生存基盤及び動物を保護する。」とあります。日本も参考にすべきと考えます。
 将来世代のことを十分考慮するという観点からすると、財政の健全化や年金制度の世代間の負担と給付の公正化も重要となります。近年、財政規律や財政の健全化を憲法に明記すべきとの意見も出されています。十分に検討に値する課題と考えます。
 次に、第二点は、新しい人権と呼ばれているものの中に分類される自己決定権と生命倫理に関してであります。
 我が国の憲法は我が日本国民にとって最も重要であり、しかも基本的な事項を定めるものでありますが、その中には、日本の風土、伝統、文化などに根差した日本に独特のものが盛り込まれることもあり得ますし、また、重要で基本的であるがゆえに世界の国々の国民に共通するものも当然含まれてきます。基本的人権などは各国とも当然重要視していますが、その内容や憲法の書きぶりについては各国で差異も見られます。
 新しい人権と呼ばれている自己決定権や生命倫理に関しては、人工妊娠中絶や尊厳死、安楽死の問題、あるいはクローン技術、ヒト胚移植などの生命科学技術の研究や人への応用などの例で明らかなように、個人の希望と人間の尊厳、そして学問の自由などの重点の置き方の違い、思想信条、宗教の違いなどによってその対応は各国、各州で様々であります。
 私は、人工妊娠中絶や尊厳死、安楽死などはその影響が個人や家族あるいは医療関係者など、現役世代の国民の一部の段階にとどまる場合が多いと推測されますので、憲法レベルで特記する必要性は少ないと考えますが、クローン技術の人への応用や、動物と人とのキメラの形成につながるような生命科学技術の人への応用は、現役世代や同時代の生態系のみならず、将来世代や生態系に影響を及ぼす可能性があり、人間の尊厳、人類の生存あるいは地球の生態系に広範囲かつ長期的に重大な影響を及ぼす可能性がありますので、禁止できるように憲法のレベルで規制の条文を盛り込むべきと考えます。
 世界における具体例を見ますと、二〇〇四年六月採択の欧州憲法条約Ⅱの六十三条二d、「人間の再生的クローニングの禁止。」のような直接的な表現や、一九九九年採択のスイス連邦共和国憲法第百十九条一、「人間は、生殖医療及び遺伝子技術の濫用から保護される。」といった包括的な表現の条文があります。私は、憲法に盛り込む条文としては、スイス連邦共和国憲法のような包括的な表現のものがふさわしいと考えます。
 以上、二点に関して私の憲法に関する考え方を述べさせていただきました。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 山本保君。
○山本保君 私は、昨年この会に入れていただきまして、主に九条とそれからそれ以後小委員会でも参議院の役割について発言させていただきましたので、今日はそれについては割愛させていただきまして、四点ほどお話をさせていただきます。
 第一は、憲法前文についてであります。
 前文については、最近特に内容がはっきりしないから書き換えろというような議論があるようであります。もちろん書き換えることについて、私、その自体はやぶさかではありませんが、しかし、憲法前文には大変大事なことが書いてあると思いまして、余りそのことが議論されていない気がしますので確認をしたいと思います。
 正に、日本国憲法の平和主義というのは、抽象的な国際主義でもありませんし、又は一国平和主義でもないと思います。前文には、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」という表現がございます。また、我が国はその崇高な理想と目的、世界から戦争や隷従をなくするというこの崇高な理想と目的を達成することを国家の名誉に懸けて誓うというのが前文の最後の締めであります。
 私は、このことが、今やっと五十年、六十年たって初めて日本国というのが世界平和にそれなりの寄与をしなければならないという根拠条文だと思っておりまして、このことは、この前文をどうあれ、触るにしまして、この理念についてはより明確に書いていくべきだというふうに思っております。
 次に、憲法二十六条について二点ほど申し上げます。
 二十六条第一項は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」という有名な条文でございます。ほぼ同じ条文が教育基本法にもございます。ただ、この文章は「ひとしく教育」、「ひとしく」というのはイコーリーでございまして、全員がそれなりの権利を受けているという意味であります。この場合に、主たる教育を規定しておりますのは「ひとしく」の方ではなく「能力に応じて、」でございます。能力に応じた教育といいますと、能力の低い、未発達の子供にはその程度の教育でいい、こういう解釈がまかり通ってきたこともございますし、今後もあるのではないかと思います。
 実は、国連の児童の権利条約には、その締約国が子供に対して授けるべき教育の定義が、性格付けがいろいろしてありますが、その中には、児童の人格、才能並びに精神的、身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させる、こういう定義がございます。フルエストという言葉が使っております。私は、是非、今後もしこの辺を検討するのであれば、新しい人権概念でありますその持っている能力を最大限に発達させていくという文言を入れたいと思っております。
 二番目に、この条文の第二項には、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」とございます。こうありますが、一般的に文部科学省、これまでの整理は、義務教育というのは公立学校であると、こういうふうに言っております。
 しかし、これは私立学校というのが大変特殊な状況、戦前から戦後すぐにかけて、言うなればお金持ちの子供さんが行くということを前提とした解釈だと思います。今、NPOが学校をつくったり、またIT学校というようなものもこれからどんどん出てまいります。こういうときに、国公立学校と私立学校と、こう分けるような考え方はおかしいと思いますので、ここはもう一度この憲法の条文をよく考え直して、というかこれに基づいて現在の現状を変えるべきだと思っております。
 もう一つありますが、時間がないので、もう一つ八十九条について申し上げます。
 今もお話がございましたが、八十九条、条文は読みませんけれども、公に支配に属しない慈善事業に対して公金の支出が現在されているではないか、よってこの憲法条文は合っていないので変えるべきだという意見がございますが、私は反対だと思っております。
 この条文によって設けられましたのが共同募金会であり、そして言うならば社会福祉法人、学校法人の税制優遇措置がこの条文が基になってつくられておるわけであります。つまり、これまでこういう法人に関しては、自分たちが寄附をすればその分税金がなくなるという形で国家の関与なしにいわゆる共同のお金が集まる制度があったわけでありますが、しかし残念ながら、その当事者は全くそのことを活用せずに、国に頭を下げて国からお金をもらうということだけをやってきたのではないかと思います。今そのことが、NPOということになって初めてその意味が問い直されております。
 私は、この条文は、今や現代的な意義を持ってもう一度復活したと考えます。この条文を直すのではなく、この条文の意味する宗教や信仰や内面にかかわるようなものに対して国が手を入れるべきではない、手を出すべきではないというこの理念をもう一度しっかり確認すべきだと思っております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 日本国憲法制定経過、前文、基本的人権に関し意見を述べます。
 私は、世界政治の発展による到達点を尊重し、受け継ぎ、発展させた国連憲章や古くはマグナカルタにまでさかのぼる人権宣言などの精神を受け継ぐ日本国憲法を守り、戦争のない平和な世界への努力を一層強める決意と方向を明確にすることこそ、敗戦六十周年の年でもある今年、日本の重要な課題であると思います。日本は、ドイツ、イタリーとともに国際連盟を脱退して、世界を第二次世界大戦の惨禍に陥れた国だけに、世界の大きな流れを大事にし尊重することが重要です。
 二〇〇一年、二〇〇四年の二回、ポーランド上院議長、友好議員連盟の御招待で、ポーランド訪問団の一員として私はアウシュビッツへも二回行きました。そのときも、私たちが見学したドイツ占領下のポーランド・ワルシャワで、ワルシャワ市民が蜂起したワルシャワ蜂起の記念碑で、昨年八月、六十周年記念式典でドイツのシュレーダー首相が次のように演説しています。我々はナチ軍による犯罪を恥じる余り身が縮む思いだ、歴史をなかったことにすることはだれにもできない、歴史を書き換えたり誤った解釈を行うことは許されない、そうした企てに対しては今後とも断固として立ち向かう必要がある。ドイツ首相は、ノルマンディー上陸六十周年記念行事でも、アウシュビッツでもこうした態度を繰り返し表明しています。
 こうした姿勢がかつての被害国の人々やEUの中でのドイツの存在感を一定高めていることを思い、翻って、侵略戦争無反省の言動で近隣諸国とぎくしゃくする我が国のことを思うと、行く末を懸念せざるを得ません。
 しかし、私は、日本国憲法九条の存在は、アジア諸国民に対してはドイツ首相の演説以上に効果があることを確信しています。これを守り抜くことが、政治的、経済的に着実に存在感を高めているASEAN、アジア諸国に対して信頼関係を築くことにつながり、逆に九条改悪はアジア諸国との友好のパスポートを失うことになるのではないか、このように思います。
 憲法制定経過についてですが、改憲論の根拠の一つに、日本国憲法はアメリカから押し付けられたというものがあります。自民党、安倍幹事長代理が「自由民主」の一月四日、十一日合併号で、現行憲法を起草したのは数人の米国人だ、二度と米国に対してチャレンジできない国にしようという意図が入っていたかもしれない、国益を負っているわけだから、これを変えるのは我が党だと述べていらっしゃいます。
 当調査会で二〇〇〇年に、GHQのマッカーサー草案を作成に携わったベアテ・シロタ・ゴードンさんとリチャード・プールさんを参考人としてお呼びして、日本国憲法制定経過についてお聞きしました。お話は感動的で、短期間にいい加減なものをつくったなどという心ない誹謗は完全に吹き飛ぶような内容でした。他の憲法も参考にしたし、一番いい点を憲法に入れた、世界じゅうのいろんな考え方が入っている。日本の憲法研究会等も随分いい草案をGHQに渡している。だから、日本の考えが入っていないということはない。その憲法が今まで改正されなかったので、何だか本当に日本の国に合う感じが随分ある、多分一週間でつくった憲法はいい憲法だと思うとベアテさんは答えています。
 世界の憲法を勉強し、最も当時進んだ内容で草案はつくられていたことは、その後、数多くの日本の学者による憲法研究でも明らかになっています。
 次に、基本的人権についてです。
 九十七条は、この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の成果だと。そして、侵すことのできない永久の権利として信託されたものであるとしています。
 これも、自民党の論点整理は、前文に、我が国の歴史、伝統、文化を踏まえた国柄を盛り込むべきであるとし、憲法改正案にも、改正草案にもこの考えが登場しています。国家像として我が国のこれまでの歴史、伝統及び文化に根差した固有の価値を大事にする国民性、一言で言えば国柄を踏まえたものとの考えは、私は、基本的人権の普遍性を否定する危険性をはらんでおると思い、賛成できません。
 二〇〇〇年三月の憲法調査会、当調査会の参考人質疑で西尾幹二参考人は、西洋でもないし中国文化にも隷属していなかったというこの独自性を、日本の宗教、芸術、文化、教育、ありとあらゆる観点から日本人とは何かというものにさかのぼって、きちっと憲法をつくるのが本来の筋と思うとおっしゃいました。
 私は質問して、国連憲章の平和理念、国際人権規約という普遍的原理は文明の違いを超えて形成されたもので、日本国憲法の平和原則もそういうことで取り入れられたのではないかと質問しました。
 これに対して同氏は、人権は普遍思想だとは思っていない。フランス革命は、ヨーロッパ文明の極めてこの人権思想の中には一種の日本でいえば下克上といったような革命思想が内側に含まれている理念で、日本の伝統、文化とは違う思想。一貫して普遍的だというのは、言わばそういった方程式で世界が国連などで語られているため、便宜上そうなっているだけだ。日本人の持っている人権は、聖徳太子以来の合議の精神。下が上を倒す、あるいは地位の低き者が地位の高き者に嫉妬と欲情を抱いて、自分の権利を少しでも拡大してから権利を剥奪する、それを人権と称するたぐいの西洋的な人権思想は、我が国古来の伝統の中にはなかったとお答えになっております。
 私は、これは驚くべき考え方であり、日本国憲法の基本理念にも相反するものというふうに考えております。
 憲法二十四条ですけれども、国柄で見過ごせないのが両性の本質的平等と個人の尊厳をうたったこの条文を改正するという発想。これは、戦前のように家庭に女性を閉じ込める思想の復活の動きにつながりかねないと思っています。
 二〇〇四年六月に発表された論点整理は、婚姻、家族における両性の平等の規定は家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきであるとしています。今後の論戦の方向として、近代憲法が立脚する個人主義が戦後我が国では正確に理解されずに利己主義に変質させられた結果、家族や共同体の破壊につながってしまうのではないかということへの懸念である。権利が義務を伴い、自由が責任を伴うことは自明の理であり、我々としては家族、共同体における責務を明確にする方向で新憲法に規定ぶりを考えていくべきではないかとされています。
   〔会長退席、会長代理簗瀬進君着席〕
 明治憲法における家族制度は、封建的家族制度の残滓の下、女性を自立した人間とは扱わず、法的には無能力者とし、女性は人権を無視されていました。日本国憲法二十四条は、婚姻は両性の合意のみに基づいて成立すること、夫婦は同等の権利を有すること、配偶者の選択、婚姻、離婚、家族に関するその他の事項は、法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定しなければならないと定めて、参政権を初めて女性にも与えました。これを手にしたときの女性たちの喜びの声が聞こえてきます。
 その後も、女性の人権思想は国連を中心に特に七〇年代目覚ましく前進し、我が国も、男女共同参画政策推進は今や国策となって、女性の人権確保の基本計画を定期的に策定、改定しています。四十六都道府県で男女平等を目指す条例が制定されています。
 憲法二十四条を書き込んだ、さきに引用しましたシロタ・ベアテ・ゴードンさんは、当時、当調査会で、六歳のときから日本の社会に入って、虐げられた女性の状況、奥さんがいつでも主人の後を歩くことを自分の目で見て育った、戦争前の日本に住んでいましたから女性が全然権利を持たなかったことをよく知っていました、憲法の中に女性のいろいろな権利を含めたかったと語っておられます。日本側にこのGHQの憲法草案が示されたときに、日本政府は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って大騒ぎになったということも語られています。
 女性の人権保障は日本の国柄には合わないとしている論点整理と一九四六年当時の日本政府の首脳の考えととても似通っていて、この間時間が止まっていたのではないかとさえ私は思うほどです。
 このように歴史を六十年前に巻き戻そうとする動きに対して、多くの女性、女性団体から大反撃を受けています。
 日本の文化、伝統に関して、さきに引用した西尾氏は女性議員の質問に答えてこのように言っています。家庭というもの、今日、人間を結び付けている家庭という最後の核まで壊そうとしているものは、例えば夫婦別姓というものが登場しておりますが、この突如として飛び出してきた夫婦別姓という説明できない現象は何を意味するか、これは結局、人権と称して一種の個人、人間社会を個体に還元してしまう、そうすると最後のよりどころである家庭とコミュニティーまでも個に分解してしまう、個をアトムに分解してしまう、こういうすさまじい個体主義、これが今日、公共意識とか共同体意識とかいうものを壊している考え方です。これは、現在なお国会に夫婦別姓法案の提出を拒否し続けている人々の考え方と酷似していると私は思います。
 憲法二十四条の改正という考えは世界の女性の人権思想の発展に逆らうものであるということを私は指摘したいと思います。
 最後に、私人間の権利関係について一言申し上げます。
 私人間の人権保障について、憲法は国家の秩序や国家と国民の関係を規律する法律ですから、基本権もまた国家による干渉、介入に対抗する防御権を保障したものであって、私人間の利害関係の調整は憲法ではなく民法で行うべしとの見解が伝統的に取られてきました。
 しかし、企業対労働者の関係では社会的にも著しい力の差があり、人権侵害の救済を当事者間、司法レベルにゆだねることは憲法の基本的人権の保障が労働者に及びにくいことになります。これは日本国憲法が望まないことだと思います。
 三菱樹脂事件で最高裁は、私人間の権利、利害の対立の調整は社会的に許容し得る一定の限度を超えた場合にのみ法による介入が図られるとして、民法九十条あるいは不法行為等の諸規定の運用で解決を図るとしています。
 東京電力等電力会社が思想、信条を理由として賃金差別を長年行ってきた事件は、企業がその過ちを認め、和解しましたが、労働者の二十数年にわたる長い苦しい闘いによって初めて是正されました。また、以前には当然視されていた女性の若年定年制、あるいは丸子警報機パートタイム労働者に対する差別、最近相次いで勝利判決が出た女性の賃金差別、例えば芝信、野村証券、住友電工、いずれも裁判上あるいは和解勝利していますが、是正までには十年、二十年もの時間が掛かっています。
 私は、企業による性・思想差別等基本的人権侵害が認められなくなっていることは、国民の不断の努力によるもので貴重な成果であると思います。
 日本国憲法の人権保障が徹底するために、労基法、雇用機会均等法、パートタイム労働法の整備を行う必要があります。立法、司法、行政が人権保護のため日本国憲法の積極的活用、適用を行うべきである。そのために、憲法を、規定をいじる必要はありません。
 以上の観点から、民主党の創憲に向けての中間報告において、法の下の平等が確保されることは憲法上の重要な要件であることを踏まえ、差別禁止が私人間であっても適用できるものへと憲法の見直しを行うとしていることには賛成できません。
 以上を述べまして、発言を終わります。
○会長代理(簗瀬進君) 田英夫君。
○田英夫君 私は、憲法第九条を守るという立場から、憲法ができて五十八年になりますが、その間の第九条の役割、これから将来に向かっても果たすであろう役割について述べてみたいと思います。
 この憲法ができた当時の状況を鮮明に覚えておりますけれども、町には孤児があふれ、アメリカ占領軍の兵隊の靴磨きをして生きているというような状況。そして、お互いに日本人は、神国日本と言われた誇りも何もない、食料を買い出しに走るのがようやくという、そんな状況の中でつくられた憲法ですけれども、そんな中でこの九条を書かれた方の神経を本当に尊いものだと思います。
   〔会長代理簗瀬進君退席、会長着席〕
 幣原喜重郎首相が中心に書かれたと言われておりますが、平野三郎メモと言われる、岐阜県知事などをやられた平野さんですが、幣原さんが亡くなる前に述懐された言葉、こんな言葉を書き残しておられます。
 原子爆弾ができた以上、人類はもはや戦争をしてはならない。日本はもちろん。それではどうしたらいいか。それには武器を持たないことだと思い至ったと。非武装などというと狂気のさたと言われるかもしれない。しかし、国と国がお互いに殺し合う戦争と非武装と、どちらが狂気のさただろうかと。
 これは幣原さんが亡くなる直前に話された言葉だそうですが、本当にそんな中で九条というものができた。その九条が果たしてきた役割は実は計り知れないものがあると思います。
 アメリカは、太平洋戦争終わってわずか五年で朝鮮戦争を始めています。その当時、もし九条がなかったらどうなったか。日本は確実にアメリカ軍に動員をされて、日本軍が朝鮮戦争に参加をするという事態になっていただろうと思います。そうでなくても、九条があっても、アメリカは旧日本海軍の掃海技術の優秀さを知っていて、それを強制的に徴用しました。死んだ人もいるようです。そんな状況で朝鮮戦争に巻き込まれずに済んだのは、九条でしょう。
 しかし、それにつけてもアメリカという国は一体どういうことを考えていたのか、当時の。全く矛盾ですね。
 幣原さんのこの九条の構想を幣原さんはマッカーサー司令官に会いに行って話して、マッカーサーはその後、一九五一年のアメリカ上院外交委員会の公聴会で証言をして、その話を聞いて私は、思わずこの小さな老人の手を握ってそれはいいことだと言ったと、こういう言葉を残しています。これは、議院、上院の速記録にしっかり残っています。
 つまり、幣原さんがマッカーサーに言って九条をつくったということを証明しているわけですが、そうしたアメリカ、つまり九条を受け入れたアメリカ、それが日本を朝鮮戦争に動員できなくて大変困ったに違いない。アメリカの意思は本当にどこにあったのかと思います。今もそういう傾向はブッシュ政権の中にあるんじゃないでしょうか。
 その後、世界は実は大きく激動をしております。この朝鮮戦争はもちろん東西対立、冷戦構造のなせる技ですね。そういうアメリカを中心とした資本主義陣営とソ連を中心とした社会主義陣営が鋭く対立をし、朝鮮では熱い戦争になり、さらに、その後の六〇年代にはベトナム戦争も起こしています。
 こうした戦争が相次いだ中で、もし九条がなかったら、先ほど申し上げたように、ベトナム戦争でも日本はアメリカ軍に動員されたに違いない。いや、それどころか、九条があったおかげで、今の現状よりも、小泉内閣の現状よりも、はるかに当時の日本政府はアメリカ軍に対して、九条というものを背景にしながら、日米安保条約を守れと言って、嘉手納基地から出撃しようとするアメリカ空軍の飛行機、北爆に行こうとするのを、直接行くことを拒んで、アメリカは仕方なくフィリピンのクラーク空軍基地で給油をするという形で北爆をした。つまり、安保条約の極東条項を厳密に守ったわけですね。
 しかし、最近のイラクの問題、アフガニスタン戦争のときなどのアメリカ軍の行動はどうでしょうか。もうお構いなしに日本の基地から直接攻撃に飛び立っている。九条はさすがに無視はできないようですが。
 そんな中で、結局その後の世界は、この東西対立、冷戦構造というものが劇的に壊れていく。一九七二年という年がそのきっかけの年だと私は思っていますが、つまり、ニクソン訪中、田中角栄さんの日中国交正常化交渉、こういうものが相次いで社会主義陣営の一角を崩していくという変化の源になりました。そして、一九八九年、ベルリンの壁の崩壊が劇的に示したように、東西対立、冷戦構造というものは崩壊をする。ソ連も崩壊をする。世界は今、その後大きく変わりつつあります。
 その最も典型的なものはEUの誕生でしょう、拡大でしょう。敵であった元東欧まで含めて拡大をしたEUは、今そのEUの憲法を批准しようとしてます、つくろうとしてます、つくりつつあります。世界は昔の敵も含めて一つの地域的集団をつくろうとしている。
 EUはそのもちろん典型的なものですが、我々に近いところで、かつては本当にばらばらの姿勢を取っていたASEANが、ASEAN地域フォーラムという形に本当に結束をしつつあります。日本も憲法九条というものを本当に精神安定剤のようにして、つまりアジアのかつて日本が迷惑を掛けた国々、中国や朝鮮半島やあるいはASEANなどという国々に心配をさせないで、つまり九条という精神安定剤を持つ形でもっと密接に地域のフォーラムをつくるべきじゃないでしょうか。そういうことが考えられるのも九条があるからだと思います。
 アメリカは、一方で全く、特にブッシュ大統領になって顕著ですが、一国主義を取って、そしてアフガニスタン戦争、イラク戦争などにヨーロッパの反対を押し切って進もうとしている。日本は、今せっかく九条があるのに、そのアメリカの戦争主義に追随をしているという状況じゃないでしょうか。今後、日本は、世界がもっと激動して、激変していく中で一体九条を掲げて何をすべきかということを考えるときに来ているんじゃないでしょうか。九条があればできる。それは、かつての心配を掛けた、迷惑を掛けたアジアの近隣諸国ともっともっと密接になって、中国とも朝鮮半島とも、モンゴルやロシアまで含めて、この地域に一つの話合いの場、特に経済の交流を含めて、安全保障問題も含めて東アジア地域フォーラムというようなものをつくって、もっと密接な関係を築くべきじゃないでしょうか。
 北朝鮮問題があることは事実です。しかし、北朝鮮をも説得できなければ平和はない。北朝鮮も含めて、韓国と北朝鮮とモンゴルと日本と、この四つの国で非核地帯条約を結ぶことに成功すれば、北朝鮮問題の核の問題は完全に解決するじゃありませんか。
 事実、南北朝鮮は、実は一九九二年に相対立しながらも実は朝鮮半島は非核地帯であるという合意を世の中に発表している。これを取り消したということはありません。モンゴルは一九九二年に世界で唯一の非核国家宣言をしております。これも国連に承認をされています。日本には非核三原則があります。この四つの国とも非核ということを意識している。したがって、非核地帯条約ができないということはないと思う。
 日本政府はこの努力をすべきです。九条というものがある限り、この近隣諸国も安心をして日本との話をするんじゃないでしょうかということを私は実行に移していただきたいと思っています。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で意見陳述は終了いたしました。
 それでは、ただいまの意見陳述を踏まえ、一時間程度意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いいたします。
 御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は挙手をお願いいたします。
 舛添要一君。
○舛添要一君 自民党の舛添要一です。
 司法について述べさせていただきたいと思います。
 先ほど同僚の松村委員からこの件について御発言ありましたけれども、若干ニュアンスの違う立場でお話をしたいと思います。
 三権分立ということを考えたときに、私は、これは民主主義の基本的な枠組みであって、我が国の統治システムをうまく機能させるために不可欠だと思っています。
 ところが、行政、立法、司法という三権を考えたときに、行政と立法の間のチェック・アンド・バランスはかなり私はうまくいっていると思います。国会での日々の討議、野党の諸君が小泉内閣について批判をする。それから、同じ自民党の中でも郵政民営化について立法府と行政府でかなり違う。それから、我々がずっと努力をして、参議院に、これはもう全会一致で決算頑張ろうと、そして場合によっては会計検査院というのを参議院の中に置こうと、先ほど藤野委員がおっしゃったように。それは、行政、行政執行部が、執行権がでたらめな行政を行ったときに、我々は予算の執行、つまり決算をコントロールすることによって行政権をコントロールしようという試みであるわけですから、比較的立法、行政間はうまくいっていると思う。
 ところが、司法と行政、司法と立法の関係を考えた場合に、私はとてもじゃないけどうまくいっているとは思えない。例えば、行政をどう司法がコントロールするか。最高裁判所の判決にしても、例えば憲法九条関連で、これは統治行為であると、憲法九条違反ではありませんと、そういう判断を私はしませんと、統治行為論で逃げている。司法の怠慢ではないかと思います。
 ましていわんや、立法について、我々がつくる法律について違憲であるということはどれだけ言われたかということであります。国会は国権の最高機関であって、我々は国民から選ばれた代表であることに誇りを持ちますけど、傲慢になって、我々はだれからもコントロールできないと、そういうような傲慢さは捨てた方がいいし、我々は謙譲であるべきだと思っています。
 そういう意味で、今、内閣法制局が勝手に例えば憲法九条の解釈権を握っていると、これはけしからぬじゃないかという意見がある。それの延長線で、内閣法制局よりももっと権力のある憲法裁判所が我々の立法行為を制肘するとは何事かという意見がございますけれども、私はあえて反対の意見を申し上げたいのは、実を言うと、私たちの立法の違憲性というものを審査する機関がないと駄目だというふうに思います。私、今の最高裁判所が具体的な規範統制については、つまり具体的あるいは付随的な統制については行っていますけど、抽象的な規範統制は行っていない。私は、これを行うものとして憲法裁判所というのがあってもいいかなと思っています。
 内閣法制局との絡みで皆さん危惧ばかり述べますけれども、例えばフランスというのは非常にうまくいっています。どういう方が憲法裁判所の裁判官になるかという、その選び方がしっかりしていればいいわけでありまして、そして、例えば具体的に申し上げますと、フランスはEUのメンバーです。マーストリヒト条約で欧州統一通貨、これどうだろうかと、それから共通ビザ政策と、これはフランスの第五共和制憲法から、国家主権から見ると違憲なんですね。現実に憲法裁判所は違憲という判断を下した。したがって、そうですかと、それならば憲法改正をやりましょうということで、憲法八十八条、これはフランス国は諸外国と条約を結んでいいという、書いてある。それに加えて、じゃ、ヨーロッパ共同体、EUの中でフランスはどうあるべきか。ある一部の主権を移譲できるという条項を国民投票に掛けたんです。そうしたら、国民投票でこれは批准されたわけでありまして、そして憲法裁判所は、国民投票で決められたことについては一切ノーということが言えないわけであります。
 したがって、憲法改正を促進する立場からむしろ憲法裁判所はあった方がいいんでありますんで、そういう諸外国の例も謙虚に見るべきだと思います。
 具体的に言いますと、例えばテロ特措法、イラク特措法がこれは憲法違反であると言う方々がおられて、野党の方々がおられて、例えば三分の一が憲法裁判所に提案する。で、憲法裁判所がどう見てもこれは憲法違反であるという決断を下した場合に、我々は、じゃ、それならば国民に信問いましょうということで、憲法改正を提議しないといけなくなる。
 したがって、私は、そういう観点もある、松村委員の御懸念のことも十分分かりますけれども、今申し上げた観点をあえて申し上げまして、この憲法裁判所について、そして違憲立法審査権について、三権分立の在り方について、もっと議論を深めたいと思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 今の御意見に関連しまして若林正俊君が発言をしたいようでございますので、指名をいたします。
 若林正俊君。
○若林正俊君 舛添委員の意見に基本的に同意しております。
 補完する意味で、いわゆる現行憲法の八十一条の最高裁判所に与えられた違憲審査権とこれを最終裁判所とするというこの規定はやはり見直すべきだということでありまして、今、舛添委員が言われたような憲法判断、憲法裁判所を設けるとすれば、何か今までの三権分立の中とはまたさらにそれを超えたような形の判断機関というようなものを設けないと、国権の最高機関としての国会で多数決で決めた法律を司法の最高裁判所が最終結審するというのは問題があるんじゃないかと。その辺の調整を経た上で憲法判断の機関というものを考えなきゃいけないんじゃないかと思います。
 と同時に、憲法との関係ですけれども、地方分権が進んでいきますと、国と都道府県あるいは将来の道州制との関係、あるいは基礎的自治体である市町村と都道府県あるいは道州との関係、また市町村同士の関係、これらのその条例の制定が他の国あるいは自治体との権限の調整が必要になってくる、そういう裁定の機関というのも併せ持たなければならなくなるのではないかという意味で、現行の憲法のこの八十一条は見直すべきではないかという思いを持っておりますことを付け加えさせていただきたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 一会派にちょっと偏るんですけれども、愛知治郎君が関連で発言をしたいと言いますので、いいですか。
 では、愛知治郎君。
○愛知治郎君 会長、ありがとうございます。短くやりますので。
 今の憲法裁判所に関してなんですが、私自身は基本的には今の付随的審査の在り方というのは非常に優れたというか、いい考え方だと思っているんですが、憲法裁判所を否定するつもりはございません。ただ、舛添委員がおっしゃったように、フランスの例があるとおっしゃいましたけれども、やはりそこが一番大事。そこは何を言ったかというと、その裁判員の構成ですよね。非常にいい形で客観的にそういう人選を行って、そういうメンバーが行っているということ、これが大事で、一番なのは、政治的に悪用されるとか利用されて、憲法裁判所、客観的な法を監視するという役割が損なわれるのが一番恐ろしいなと。その点では、しっかりと議論をして、いい形、制度をつくれば非常に有効だと思います。
 それに加えて、先ほどの付随的審査の在り方、今の最高裁判所の在り方ですね。これは、なかなか統治行為論などを出して関与しないというのは国会に対する配慮だとは思うんですが、これはもっと積極的に具体的争訟の中でしっかりと審査をしていくべきだというふうに思いますんで、そちらもそのような形、具体的審査を通した違憲審査というものもやはり残していくべきじゃないか、これはしっかりと議論をした上でいい制度がつくれるんじゃないかというふうに思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 直嶋正行君。
○直嶋正行君 会長、ありがとうございます。
 今、憲法裁判所の話が、御意見出されていましたが、これについてちょっと一言申し上げたいと思うんですが、私は個人的には憲法裁判所については賛成であります。
 今の議論とちょっと別の角度になりますが、先ほど来、やはり今の憲法の規定と実態とが乖離している。例えば九条もそうでありますし、八十九条もそうでありますが、やはりこういうことが続いているということは、憲法を基本法として定め、法の支配によってこの我が国を統治しようと、そういう立場からいいましても、やはり法の支配を危うくするものであるというふうに思っています。ただ、憲法裁判所に小さなことから大きなことまであらゆることを持ち込むという、逆にそういう弊害も考えられますので、運用についてはもっと慎重な運用が必要だと思いますが、憲法裁判所の設置については私は賛成でございます。
 それから、今日は大変いい議論が幾つかございました。特に、地方自治の問題、それから予算制度の問題について若干私の意見を申し上げたいというふうに思います。
 今の憲法に地方自治をもっと明確に規定すべきだということについては大方の皆さんの意見が一致するんではないかというふうに思います。ただ、その中で、地方自治体として、先ほどの言葉を使わせていただきますと、基礎自治体と広域自治体を明記すべきだと、こういう御意見もございましたが、私個人は、基礎自治体の役割をきちっと明記をする、それと、補完性の原則に従って国、地方の役割を整理するということについては賛成であります。
 ただ、例えば今議論されていますような道州制等について、より広域な自治体というものの在り方まで憲法に書くというのについてはもうちょっと慎重な議論が要るんではないかというふうに思います。
 できるだけ、今の都道府県あるいは政令都市的な機能も含めて、できるだけ私は基礎自治体に多くの役割を担ってもらって、またそれに堪え得る基礎自治体をつくっていくべきだと。どうしてもその自治体間の調整の必要があるものについてはもちろん広域自治体構想というのもあっていいと思いますが、まず基礎自治体にできるだけ多くのことをしていただくということを前提にこれからの行政組織の在り方を議論すべきではないかと。今のように、国、都道府県、市町村という形の三層構造を描いたような形で例えば道州制を議論するとか、これは私は、そのことについてはもっと慎重であるべきじゃないかというふうに思っています。
 やはり、今の財政の状況等も含めて、例えばということなんですが、財政状況なんかも考えましても、この今の日本の財政を健全化していくという観点に立ったときに、やはりいかにスリムな形で、しかも自治体、国民に身近な自治体が仕事をこなす、そして全体としてスリムな行政組織にしていくと、こういうやはり原則は踏まえておくべきだというふうに思います。
 それで、そういう観点に立ったときにもう一つ考えなきゃいけないのは、やはり公的サービスの担い手はだれになるのかということであります。
 伝統的に日本の場合は、やはり公的サービスの担い手は、いわゆる最近の言葉で言いますと官が担うと、こういう発想が強かったと思うんですが、最近、いろんな自治体等でも民間にいろんな分野をお願いをしていくと、こういう傾向が強くなっていますが、私はそういう発想も含めて、公的サービスは、別に行政組織あるいはそこに属する人たちでなくても、例えばNPO等含めて、幅広く民間も含めて担い得るんだと、こういう視点でやはり地方自治の問題も議論をすべきじゃないかというふうに思っています。
 それからもう一点は、先ほどお話のあった予算の単年度主義の問題でありますが、これも、確かに単年度主義そのものにはいい点もあるのかもしれませんが、私はやはり今の予算を、使い切り型予算を組んでいるということがやはりこの財政の健全化に逆行していると、そういう面が非常に強いんではないかというふうに思います。したがいまして、これも単年度主義にこだわるんではなくて、複数年予算ということも、あるいはその予算の使い方の問題としても議論をすべきではないかというふうに思います。
 それから、ちなみに付け加えますと、決算を参議院で重点にやっていくと、こういうことは大賛成でありますし、先ほどございました会計検査院をやはり参議院に帰属させる、そして行政をきちっとチェックをしていくと、これも大賛成でございますことを付け加えさせていただきたいと思います。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 秋元司君。
○秋元司君 自民党の秋元司でございます。
 私は、新しい人権について何点か話をさせていただきたいと思います。
 まず一点目は、このプライバシーの権利であります。
 このことを憲法の条文に載っけるか載っけないかにつきましては様々な議論があると思いますけれども、今現在、我が国が置かれた状況として、やはり個人のプライバシーというものはしっかり権利確保をしていかなくちゃならない、そう思うわけでありまして、当然これはこの四月から施行されます個人情報保護法との運用の問題とも絡んでくると思いますが、今しっかりやっぱりこの分野について議論を深め、そして今よくインターネット等で、特に2ちゃんねると言われているああいった広報、ホームページにやたら書かれてしまう、そして、そのことが風評被害にとどまらず、下手すれば殺人事件にまで発展してしまうかもしれない、こういった状況を見る中に、しっかりとこのプライバシーの権利というものを憲法に明記すべきだと私は思っております。
 もう一つは、私、外国人参政権について、やはり憲法の場でしっかりと形を私は決めるべきであると思っております。この点につきましては、今の、現在の憲法下でも外国人参政権は否定されているという意見があったり、ある一部の裁判所の解釈によっては参政機会及び参政権を否定しているものでないというふうな解釈が二極化されているみたいでありますけれども、やはり私は、一つの国の国民、自国の人間がやはりこの参政権というものに、付与し、そして日本人であるならば日本人がしっかりこの参政権というものを活用する。言ってみれば、二つの心を持って参政権に入るということはいかがなものかなと私は思う次第でありまして、特に今、韓国との問題になって、このことが非常に韓国側からは、日本における外国人参政権を認めるべきじゃないかと、いろんな声があるようでありますけれども、こういった諸外国に対する日本の姿勢を貫くためにも、外国人参政権というものは日本には難しいということをしっかり憲法にうたうべきであると思っております。
 また当然、この権利に、同じく外国人の権利ということにも触れないわけにはいかないわけでありますが、先ほどの外国人参政権という議論の中で、日本で当然生活をし、経済活動をしている中で、税金というものが発生しているわけでありますから、それがイコール参政権を付与してもいいんじゃないかという議論はありますけれども、これは当然、経済活動又は生活をする中で日本にあるインフラというものを使っているわけでありますから、それがイコール税金というものに結び付くという観点から、日本で外国人の方が当然の普通の生活の行為をする中には、それに対価をする納税の義務がある、こういった形をしっかり憲法の場であるべきであるなと思っております。
 最後に、国防体制又は国の協力、このことについて触れてみたいと思います。
 これは当然、憲法九条にもかかわってくるかもしれませんが、やはり割合、特に私たちの世代はどうしても国とか国家とか、こういうものに対する意識が非常に薄くなっている。そして、どこのシンクタンクの私はアンケート調査か忘れましたけれども、いざこの我が日本国がピンチになったときにあなたは国のために働きますかというアンケート調査の結果によりますと、世界の中で、日本人が国のために頑張りたいと答えた人のパーセンテージは非常に低い数字であったというデータを見たことがあります。
 こういったことからも、やはり国家というものは自分たちの国であって誇りである、そういった意識付けをつくるためにもどこかに、憲法の場に国のためにしっかり協力をする、働く、まあちょっと抽象的な表現かもしれませんが、こういったニュアンス的なものをしっかり明記することが国家として大事じゃないかな、そう思いまして、以上、今三点、新しい権利としての明記をお願いしたい、そう思って発言をさせていただきました。
○会長(関谷勝嗣君) 白眞勲君。
○白眞勲君 民主党の白眞勲でございます。
 先ほど憲法裁判所の件につきまして、舛添委員等多くの皆様からのいろんな御意見を伺いました。その中で、諸外国の事例なんかを参考にすべきであると。非常にいい意見だと私も思いますが、ちなみに韓国の場合も憲法裁判所というのがあります。
 その中で、去年出た判決で一つ非常に注目すべき判決がありまして、ソウルの首都機能移転について憲法違反だというのが出たんです。一体何だこれということになっちゃいまして、そこまで憲法裁判所は言うのかというような意見まで出てきてしまいまして、もうけんけんがくがくの議論の中で、結果的に大統領がソウルの首都移転は、憲法裁判所がある以上、そう言っている以上やめようという形になってしまったということで、様々な意見も、この理由についてははしょりますけれども、この憲法裁判所ができたから最終のところで、最終だということになりますと、そういった関係で、もしそういうまた意見があると、またこの憲法裁判所の憲法裁判所もつくらなきゃいけないんじゃないかみたいな形にもなってしまうんではないかという部分から、この件につきましては、多くのやはり外国の例を取り入れていいものをつくるべきで、私、憲法裁判所自体について反対であるということではありませんけれども、その内容については極めて慎重に吟味をすべきであるというふうに考えております。それが第一点です。
 それともう一点、これは田英夫議員の関連して、私の個人的な意見にもなりますけれども、やはり戦後六十年間、日本はこの憲法の中で平和というものは保たれてきたという中で、この憲法の、特に九条について手を、いじるということが一体その辺がどうなのさという部分について、本当に国民的な議論が本当の意味で高まっているんだろうかという部分を私は非常に疑問に感じております。
 やはり、特に、またもう一つは、アジア各国が、今特にイラクに自衛隊が派遣されているというような中で、だんだんだんだんなし崩し的に日本の旗が装甲車とともにほかの外国に行っているというのを見ながら、やはりとうとう憲法まで手を付けるのかと。これが自衛のための憲法の改正ですよと言っても、今まで日本は自衛のために海外に進出しているじゃないかということもあるということからすると、極めてこの憲法改正というのは慎重に、アジアの人たちの意見というのも、あるいはアジアの人たちに対してきちんと理解をしていただくような形でやはり改正という議論を慎重に進めていくべきではないんだろうかというふうに思っております。
 それと、憲法改正について、自体の問題についてなんですけれども、この憲法改正というのは国民投票ということで、本当にじかに国民の人たちからの意見がそのままこの憲法に反映される、憲法改正に反映されるということから考えて、本当に憲法改正をみんなしたいのというふうにちゃんと聞いているのかなというのが私、一つ疑問として感じるわけです。
 例えば、渋谷とか原宿で歩いている女の子たちもやはりこの憲法に対して投票するわけですけれども、集団的自衛権ということを聞いたところで彼女たちが果たして、九九%の彼女たちはもしかしたら知らないって答えると思う。やはりそういったところで国民的な議論というのをもっともっと高めていく中で、この憲法改正という議論を進めていくべきではないんだろうかと。特にこの憲法改正というのは、いわゆる国民から選ばれた代表者たちで憲法論議をするべきではない、もっと多くの皆様の、本当に多くの皆様の意見というのを聞いていかなければいけないというふうに思っております。
 最後に、秋元委員から外国人の参政権問題についてお話がありました。
 私は、これは切り離して考えるべきであると。外国人の国政の参政権と外国人地方参政権については別のものであるというふうに、極めて別なものであるというふうに考えております。私は、やはり外国人、特に地域住民としての外国人もやはり地域住民の一員として日本がやはり意見を、その日本として、日本の地域、自治体がその人たちの意見というものをきちんと聞いてあげるというのに対しての、やはり地域住民としての権利としてやはりこれを認めてあげたらいいんじゃないかという意見です。
 地方の自治体も、多くの地方の自治体は外国人の地方参政権についてはいいんじゃないかという賛成の意見を示しているということからして、この件についてはやはりきちんとした議論が必要なんではないんだろうか。日本における国際化というのは、やはりまず外国の人たちの、外国人に対する国際化の前に、まずは日本における国際化という進めるためにも、この気持ちというのは私は大切ではないんだろうかというふうに思っております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 仁比聡平君。
○仁比聡平君 ありがとうございます。日本共産党の仁比聡平でございます。
 今日も幾人かの委員の方から御発言もありましたけれども、最近の改憲論の中で、憲法の本質あるいは憲法観そのものを根底から変えて、それともかかわって改正手続の緩和の主張が強くなされているということに関連をいたしまして、私は憲法の最高法規性と改正手続について意見を述べさせていただきたいと思います。
 近代憲法の典型として挙げられるアメリカ合衆国憲法、フランス革命の人権宣言、イギリスの市民革命を背景とした幾つかの人権宣言などに共通するのは、独立戦争や市民革命など、封建君主との激しい戦いに勝利をし、その絶対的な権力行使を制限又は排除するものとして生まれたという性格だと思います。そこでは、基本的人権は、個人の生活の一定の領域が国家干渉、国家権力の干渉や妨害を受けることのない権利であり、それは国家によって与えられるものではなく、人が生まれながらに享有する国家以前の権利であるということが明らかにされてきました。君主が絶対的権限を行使をする君主主権は排除をされて国民主権の原則が打ち立てられ、三権分立が採用されました。
 このように、近代憲法は、君主であれ国民の代表であれ、権力を行使する者の権力行使の在り方とその限界を定めることを目的とするものであり、権力制限規範であることが憲法の基本的特質だと思います。
 我が憲法が十章に「最高法規」の章を置いて、その最初の九十七条で、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」、こう人権の永久不可侵性をうたったことは、憲法の最高法規性が人権保障に実質的な根拠を有するものであることを確認したものにほかなりません。また、九十九条が、天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員の憲法尊重擁護義務を定め、国民について触れていないのは、こうした歴史の発展に基づく憲法の性格を踏まえているからだと思います。
 改憲論の中で近時強まっている憲法観は、憲法を国家と国民とのルールとする、ひいては国家権力を制約する法ではなく国民の行為規範であるとする議論であり、その一つの表れが、九十九条の公務員の憲法尊重擁護義務をなくし、逆に国民の憲法尊重義務を規定すべきだという議論だと思います。これは憲法の権力制限規範としての性格を限りなく緩和、縮小するものです。そして、逆に憲法を国民に対する行為規範として、時々の統治権力の政策を国民に押し付けさせる、そういう機能を果たしかねないものに変えるものにほかなりません。近代立憲主義の意味での憲法を否定をする、それは人類の歴史的英知からの離脱、逆流にほかならないと思います。
 このような憲法の最高法規性から、憲法は国民代表であり立法権を有する国会に対しても優位をするのが現代憲法の重要な性格です。だからこそ、その憲法を改正するには主権者である国民の直接の意思によることを求めたのが憲法九十六条です。
 九十六条は、衆参各議院の総議員の三分の二以上の賛成による発議と国民投票の過半数の要件を必要としていますが、改憲論の中で強まっているのは、まず第一に、在籍議員の三分の二以上の出席で出席議員の過半数、つまり総議員から見れば三三・三%にすぎない議員の意思による発議を可能とするもの。第二には、在籍議員の三分の二以上の出席で出席議員の三分の二以上の賛成があれば、つまり四四・四%、過半数に満たない議員の賛成があるなら国民投票を不要とするという、そういった議論です。このように憲法改正のハードルを著しく下げることは、ほかの法に対して重みを感じない軟弱憲法に変えるものだという指摘があります。最高法規性を放棄するものにほかならないと思います。
 ここには、同時に、内外の情勢に迅速機敏に対応するという名目の下で、国会の多数勢力や時々の統治権力によって使いやすい憲法にしてしまおうという意図があることを私は厳しく指摘をしなければならないと思います。また、国会の意思のみで憲法を改正できるとすることは、仮に人権侵害の法律が制定されるとき、それに合わせて憲法も変えてしまえば裁判所によるチェックすら及ばなくなる危険が生ずることになります。
 そもそも、憲法九十六条の定める憲法改正国民投票制は憲法を制定した主権者である国民の意思を端的に示したものであり、これを廃止することは改正の限界を超えるものにほかならないということを指摘をして、意見といたします。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、北川イッセイ君。
○北川イッセイ君 発言の機会を与えていただきまして、ありがとうございます。
 今、白委員の方から地方参政権のお話がございました。国政の参政権と地方参政権をきっちり分けたらいいやないかと、こういうお話でございますけれども、今の現状においてはそれがきっちり分けられないということもあるわけでございます。
 一つは、国防の問題に関しまして、知事がその国務に関与しておるというようなケースもあるわけです。例えば港の管轄というような問題があります。それから、もう一つ大きな問題は教育の問題です。これは、やはり都道府県あるいは市町村、そういうところの教育委員会、そういうようなところで教育の問題が非常に地方でかかわっておる。この問題も、地方参政権と国政の参政権をきっちり分けたらいいということであってもなかなか分けられないというようなことがあろうかと、こういうように思うわけでございます。現状においては、この地方参政権を外国人に認めるということは非常に難しいんじゃないかなというような思いがします。
 それからもう一つ、義務教育の問題ですけれども、義務教育についてはこれを無償にすると、こういうことなんですが、私は、義務教育について本当に大事なところは、無償にするとかなんとかいうお金の問題じゃなしに中身の問題だと、教育の中身の問題じゃないかなというような思いがします。
 今、私学が、義務教育の対象の子供たちにも随分私学を受けている方が多いわけで、これを無視するわけにいかないというようなことを考えますと、無償にするということではなしに、無償で教育を受けることができるというような形にした方がいいんじゃないかというように思います。そして、教育基本法の中で、義務教育というのは一体どういうものでどういう内容を教えていくのかということを教育基本法の中でしっかりとうたっていく、こういうことが大事じゃないかなというような思いがいたします。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 前川清成君。
○前川清成君 今日は松村委員から御提示があって、憲法裁判所の議論が盛んです。私も、舛添委員が指摘されるように、違憲立法審査権を活性化するというのは大賛成ですけれども、人事の問題に手を入れずにただ憲法裁判所を設置したならば、その意図と反してむしろ行政追認の、あるいはお墨付きを与えるだけの判決が繰り返されるのではないかと、こう思っています。
 昨年一月に参議院の定数不均衡に関して最高裁の判決がありました。通説は二倍以内、格差が二倍を超えれば憲法違反だ、こんなふうに考えています。ところが、その昨年一月の最高裁判決は、およそ五倍の格差について九名の裁判官が合憲だと判断しています。その九名の裁判官はおおむね裁判官出身であります。六名の裁判官は憲法違反だと、こういうふうに判決していますが、その六名はおおむね弁護士出身であります。
 官僚裁判官制度を維持したままでは、憲法裁判所をつくっても、むしろ違憲立法審査権の活性化に逆行してしまうんじゃないかと、こんなふうに思っています。
 それと、松村委員の方から七十九条二項の国民審査の実効性について御意見がありました。
 私もその実効性については疑問に思っていますが、例えば参議院の定数不均衡が憲法違反だというような判決が下されたときに、仮に参議院が適格性を審査したならば、その裁判官について不適格と判断してしまうんじゃないかと。やっぱり、政治と地方とはある程度距離を置かなければならないんじゃないかと。国会が満場一致で憲法違反の法律をつくることだってあるということを危惧しています。
 それと裁判官の報酬を減額してはならないという七十九条六項、八十条の二項という規定について、私はむしろ意味が大きくなっていると、その意味が大切になっていると、こういうふうに思っています。裁判官の官僚化が進んで、上だけを見て市民のことを顧みないヒラメ裁判官が増えている、そういう現状においては判断内容によって不利益な待遇を受けないんだということを制度的に憲法的に保障してやる必要があるのではないかと、こんなふうに思っています。
 それと九十五条について御意見がありました。一の地方団体のみに適用される特別法は住民投票をする、こういう条文ですけれども、これについても、例えばこの法律は奈良市に限って適用されると書けば、九十五条で住民投票が必要になりますけれども、例えば奈良市及びその周辺地域について適用される、こういうふうな立法技術を使えば住民投票が不必要になってしまいますと、こういう官僚の小細工によってこの九十五条が潜脱されているという事実もやはり指摘しなければ、ただ九十五条の存在意義はないという結論にはならないんじゃないかな、こんなふうに思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 舛添要一君。
○舛添要一君 舛添です。
 再び憲法裁判所の件についてですけれども、まず白委員の話は、たかだか十年前までクーデターやっていた国と、二百年前のフランス革命以来営々とリパブリックの、共和国の伝統があるフランスとの民主主義の成熟度が違うということを申し上げていて、先ほどのソウルの首都移転というのは、これは憲法に何も書いてないのに、不文の憲法だなんて全く訳の分からない判決下しているわけですね。しかも、判事九人のうち八人までやっていて、日本と同じように三分の二の発議で二分の一の、硬性憲法ですから、だから不可能だということになったんですが。もっと前の一九九三年、金泳三大統領が政権取ったときに、クーデターで政権取ったのは内乱罪に当たるかどうかということを憲法裁判所に聞いたわけです。そして、政権維持しているときは内乱罪じゃないけれども、政権降りたら内乱罪だという訳の分からないことを言って、全斗煥、盧泰愚両方を断罪したわけです。だから、こういう政治的な利用ということ、これは要するに民主主義の成熟度の問題だということがまず第一点。
 第二点。その憲法裁判所の裁判官の構成です。
 今、何か裁判官と、弁護士がいいようなこと言いましたけれども、関係者おられると思いますけれども、法曹界だけに限っていることが実は韓国の憲法裁判所裁判官の問題なんです。フランスは一切そういう制限ありません。全く資格はございません。そして、大統領経験者は当然のこととしてメンバーになるわけです。だから、前の大統領経験者がメンバーで入っている憲法裁判所が、お前はクーデターだから駄目だという判断するはずないんで、ですから先ほど愛知委員があったように、このフランスだとコンセーユコンスティチューショネル、憲法裁判所の裁判官をだれがどういう形で任命するか。
 そして、フランスと韓国の違い言いますと、両方とも裁判官の人数九名なんです。両方とも大統領と、失礼、フランスは大統領と上院と下院が任命するんです。韓国は大統領と国会と最高裁長官が三名ずつ任命するんですけれども、フランスと韓国の決定的な違いは、韓国は法曹界に限る、弁護士とか裁判官とかそういう資格持っている、法律学の教授とか。ところが、フランスはその制限ないんです。ですから、やっぱり広い範囲からリパブリックというのを、これをどうして守るかという観点からやっているんで、白眞勲さんがこの韓国の例を出されましたんで、私はフランスの例と韓国の例を両方精密に比較いたしまして、ゆめゆめ我が日本は韓国の例を倣ってはいけないと、倣うならフランスの例だと、こういうことを申し上げました。
○会長(関谷勝嗣君) それでは、まず白眞勲君。
○白眞勲君 舛添委員から民主主義の成熟度の違いだという非常に厳しい、韓国の人が聞いたら怒るような話だとは思いますけれども。(「事実です」と呼ぶ者あり)事実……。
 それはそうとしまして、ですから私が申し上げているのは、様々なそういう憲法裁判所があるということからして、やっぱりその諸外国の例というのを多く参考にしなければ、やはりきちんとした憲法裁判所ができるか、その人選問題も含めましていいところを指摘されたと私は思っておりますので、それをやはりもっと議論を本当に深めて、海外の例、いい例、悪い例、いろいろとそれぞれの判断に基づいてあると思いますから、それを考えていただきたいというふうに、私はそういうつもりで言ったわけであります。
 それともう一つ、北川委員からの御指摘の地方参政権についてなんですけれども、教育委員会とかあるいは港湾等の知事の権限についてということで話がありましたけれども、この定住外国人というのは基本的に日本がふるさとだと思っている方々がほとんどだと私思っております。定住してもう二十年以上、私は定住外国人の参政権は二十年以上というのが一つのポイントだと思っているんですけれどもね、永住権もらってから二十年と。そういう方々というのは、ふるさとを守るという考え方はやはり日本と一緒、日本人と全く変わらないという面で私は地方参政権というのを考えたらどうなんだろうかというふうに思っているということを付けさせていただきます。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 前川清成君。
○前川清成君 日本の裁判所法、現行裁判所法でも最高裁判事はたしか四十歳以上で法律学の素養のある者に限っているんです。法曹資格を持っている者に限っていません。
 ただ、日本というのは制定法が非常に整備された国ですし、判例の体系も非常に整った国、その意味では成熟した国なんです。そのために、どうしても法曹資格を持った人に最高裁判事が限られてしまう、これはやむを得ないと思いますし、また最高裁判事を補佐する調査官も法曹資格を持った者になってしまうと思うんです。だから、舛添委員のおっしゃることもよく分かりますけれども、やっぱり今の裁判官制度を改革しなければ違憲立法審査権の行使は活性化しないということをしつこく申し上げたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 簗瀬進君。
○簗瀬進君 大変白熱した議論に割って入るわけではないんですけれども、司法の強化が必要だと、三権分立といいつつ、三権の中で司法が一番弱いと、これを強化しなければならないという点で私はほぼこの調査会委員の皆さんは一致できるんではないのかなと思うんですね。
 ただ、その方法論として憲法裁判所だけが解決の道ではないと私は思っております。憲法裁判所も安易なつくり方をすると、先ほど前川さんが指摘をしたように、非常に単なる追認機関に成り下がってしまう的な弊害も場合によっては出てくることもあると。そういうふうに考えてみると、組織面と手続面と両方から司法の強化というようなものをやっぱり考えていかなきゃなんないんだろうな。
 御案内のとおり、裁判官は、憲法では最高裁判所長官に関しては内閣が指名をして、そして天皇が任命する、その他の裁判官については内閣が任命する、正に裁判官が誕生するその瞬間から内閣がつくる形になっております。正にそこに私は行政優位といいますか、司法の行政化、官僚化、最初の出発点があるんだろうなと思うんですね。
 でありますから、裁判官がいたずらにアメリカのような政治的な、任用的な扱いになるということについての問題点はあるかもしれませんけれども、正にそういう意味では、例えば参議院が最高裁判所の判事の任命については院として加わるという形でその任用の段階から民主的な基礎を付けていく、そういう形での司法の強化を図っていくというのが一つあるんではないのかなと思います。
 また、二番目には、やっぱり手続面でやらなければならないこと、たくさんあると思うんですよ。行政訴訟が非常に市民からもう遠い存在になっておるわけでございます。行政訴訟手続法も様々な改正は行われましたけれども、例えば団体訴訟がきちんと位置付けられたわけではございませんし、多くの行政法学者が違憲だと言っている内閣の異議権、正に、内閣が異議を出したら、その瞬間行政訴訟がもう意味がなくなってしまうという、こういう規定が今もって残っているんですね。
 正に、そういうふうな観点からいってみると、この行政訴訟をもっともっと市民といいますか、国民に使い勝手のいいものにしていくという抜本的な改正をやっていくというようなことによって司法の強化に資するんではないのかなと、このように思っておりますので、一言言わせていただきました。
○会長(関谷勝嗣君) 江田五月君。
○江田五月君 一言だけ。二つあります。
 舛添委員が民主主義の成熟度ということを言われたことについて一つ。
 確かに、この世界の中には、クーデターによって政権を倒したり、あるいは十年前まで一定の人種が市民権を全く与えられていなかったというような国も、南アフリカですが、あるわけですね。しかし、例えば南アフリカでは今憲法は持っていて、その憲法というのは、基本的人権条項というのは非常に優れたものができているわけですよ。
 逆に日本では、じゃ政権交代がどうだったかということになると、これは別に自民党の皆さんが悪いというのではない、我々の方に責任もあるんですが、この六十年の間で政権交代というのは本当の意味であったか、国民が政権を選んでいたか。それが実際にはできていない。その上、クーデターをやるだけのエネルギーも実はないというようなことになると、一体日本の民主主義の成熟度はどうなのかというようなことになってしまうわけで。
 私は、やはり民主主義の成熟度の議論ではなくて、やはりそれぞれの国民、それぞれの国がそれぞれ憲法について一生懸命考えながらいろんな制度をつくろうと努力をしてきている。そして、それは古くさかのぼればマグナカルタ以来、あるいはフランスにおいてもアメリカにおいてもイギリスにおいてもいろんな努力、そういうものを我々はずっとさかのぼって研究をしながら日本の議論をしていかなきゃいけないんだということだろうと思っておりますので、あえて言っておきます。それが一点。
 二点目は簡単です。
 裁判官の報酬の問題で、今日は、憲法の規定は役割を終えているという議論も出て、あるいはまた、いやいや役割を終えていないという議論もありまして、いつか何回か前に、去年裁判官の報酬を下げたことがあります。そのことについて私ちょっとだけ発言しましたので、そのときちょっと言い忘れたことが一つあります。
 これは、裁判官の報酬を全体の経済状況などを勘案しながらすべて一律に下げるということは認めようということで、これは憲法違反でないという判断を国会がして行ったわけですが、同時にそのときに、最高裁判所の裁判官会議の結論も得て私どもが決断をしたんだということをあえて付け加えておきます。
○会長(関谷勝嗣君) 愛知治郎君。
○愛知治郎君 済みません、今民主主義の成熟度という話だったので、一点だけ。
 本当に、ここで今このような議論というのはすごく私自身はすばらしいなと思いますし、大事なのは、憲法自体はやはり国民のものですから、国民の皆さんが知ってもらわなくちゃいけない。これは一番大事だと思います。もし改正するんであれば、やはり半分以上の方がしっかりと認識をした上で国民投票にかけなくちゃいけない、国民が分からなくちゃいけない。
 この国の歴史の中で憲法だけは、今まで本当に国民全員が一生懸命議論して考えられたことがあるのかというふうに言われると、まあ明治憲法のときは近代国家になるために外国に倣って持ってきた。国民はどういうふうに理解をしたか。憲法様がやってきた、それぐらいの理解しか多分なかったんだと、私自身は教科書とかいろんな中でそんな歴史を学んできたんですが、じゃ今の憲法はどうかと。戦後、まあ時間のないところで国民的議論の中であったのではない状態でつくられてきたということもあります。
 今ここで、この段階で、この憲法議論、国民を巻き込んでしっかりと憲法について学んで議論をしていくということが、この国が真の意味で国際社会の中でも世界の中でもリーダーとして本当に成熟した国として自立をしていくという意味において、本当に重要なことだと思います。
 私自身が一般の方にお話をしている中に、単に憲法というのは法律の偉いものというか、法律がちょっと強いものではないと。これは、歴史的なものを踏まえて、国に対する規範なんだと、それから法律というのは国民に対する規範なんだと、その本質的な違いですね。その点からも、いろんな議論を、これは分かりやすく、できるだけ分かりやすく説明しているところでもあります。
 それで、もうすぐ議論、終局しますけれども、是非、会長におかれましては、ここでの議論は非常にいい議論があると思うので、報告書にここでの議論をしっかりまとめていただいて、国民の皆さんにも理解していただきたいというふうに思います。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 鈴木寛君。
○鈴木寛君 行政訴訟についてでございますが、我々は行政訴訟の制度が現行どおりでいいとは全く思ってないという意見をこの場で述べさせていただきたいと思います。
 先ほどの簗瀬議員の御意見と重なりますが、原告適格などについては、例えば団体訴訟の可能性などについて十分検討すべきだと思いますし、それから、やっぱり何をもってしても、具体的なこの事件性、処分性を要件に事実上の門前払いというのが非常に横行していると、訴えの利益もそれでありますが。やはり、憲法裁判所、あるいは憲法行政裁判所、要するに、今日舛添議員から、あるいは若林議員からも議論になっています、司法が行政をきちっとチェックすると。やっぱり、この機能は憲法論を闘わす上できちっとやっぱり相当程度意識をしていかなければならないと思います。
 加えて申し上げたいのは、違憲立法審査というのも重要でありますが、実は官僚主権の政府の中で、省令とか通達とか、あるいは政令とかですね、これによって法律の授権範囲を超えて違法な、かなりグレーな違法状態あるいは違憲状態にある省令とか通達とかが放置されて、あるいは行政処分、あるいはその行政が放置されていると。ここに全く今の憲法はリーチできないという点をきちっと踏まえた上で、司法と行政との関係というものを私たちは再構成をしていくという必要性を強く感じているということを申し上げたいと思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 舛添要一君。
○舛添要一君 一言だけ。何度も済みません。
 江田委員からございましたけれども、私は、例えば韓国を侮辱するとか、そういう意味で申し上げたんではなくて、私が民主主義の成熟度ということを申し上げたときにデモクラシー、民主主義という言葉を使ったのは、ルール・オブ・ローということでございます。したがって、やっぱり軍事政権の下で基本的人権が守られていないというのは民主主義は成熟していないと、そういう判断でございます。
 それから、言葉のレトリックを一々取り上げることもないんですけれども、クーデターをやるエネルギーもないということをおっしゃいましたけれども、私は、クーデターや暴力によって政権交代は絶対にすべきではなくて、選挙を通じて政権交代をすべきだと思いますんで、そういう意味でルール・オブ・ローということが民主主義の根幹であるということを元裁判官殿に申し上げて恐縮でございまして、言葉じりをとらえる気はございませんけれども、一言申し上げておきます。
○会長(関谷勝嗣君) いろいろ御意見もおありでしょうが、江田五月君で、あともう一人で、予定の時刻も来ておりますので、それで終わりたいと思います。
 まず、江田五月君。
○江田五月君 法の支配の問題であるということを私は言おうかと思って、ただ、まあ新しい論点を出すのは遠慮しておこうと思って言わなかったんですが、全くそうだと思います。
 なお、クーデターをする元気もないと言ったのは、ちょっと言葉のあやで、民主主義を成熟させるためにはそれぞれの国がそれぞれいろんなその国なりの努力をしているんだということを言いたかっただけです。
○会長(関谷勝嗣君) 秋元司君。
○秋元司君 先ほど私が触れました外国人参政権の件でありますけれども、まず、私が言った基本的な考え方としては参政権、これは国政であれ地方であれ、なかなか分けるのは難しい、私はそういった論点に立った発言でありました。
 それと、先ほど白委員がおっしゃったように、ふるさとを愛し、そして一つの、我が国にあれば、日本に二十年以上も住んで日本の地域を愛す、又は国を愛していただいた方には、私はすべてを排除するという議論じゃなく、一応日本の今の現行の制度では帰化という制度がございますから、そういったものを利用する形で最終的に参政権を持ってもらう、そういった私は道は一応あると思いますので、それも私は選択枠に入れるべきだと思っております。
 以上です。失礼しました。
○会長(関谷勝嗣君) 時間も、予定しました時間、四時でございますが、吉川さん、ありますか。
○吉川春子君 いえ、いえ。
○会長(関谷勝嗣君) いいですか。何か今、こう手を挙げられたが、そうでなかった。はい。
 じゃ、今日はこれで終わらせていただきます。
   午後三時五十五分散会

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