第161回国会 参議院憲法調査会 第3号


平成十六年十一月十日(水曜日)
   午後零時四十分開会
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   委員の異動
 十月二十七日
    辞任         補欠選任
     井上 哲士君     仁比 聡平君
 十一月九日
    辞任         補欠選任
     高嶋 良充君     藤末 健三君
     松井 孝治君 ツルネン マルテイ君
     松下 新平君     工藤堅太郎君
     仁比 聡平君     紙  智子君
 十一月十日
    辞任         補欠選任
     工藤堅太郎君     松下 新平君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         関谷 勝嗣君
    幹 事
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                武見 敬三君
                舛添 要一君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
                簗瀬  進君
                若林 秀樹君
                山下 栄一君
    委 員
                秋元  司君
                浅野 勝人君
                魚住 汎英君
                岡田 直樹君
                河合 常則君
               北川イッセイ君
                佐藤 泰三君
                桜井  新君
                藤野 公孝君
                森元 恒雄君
                山本 順三君
                江田 五月君
                喜納 昌吉君
                工藤堅太郎君
                郡司  彰君
                佐藤 道夫君
                田名部匡省君
            ツルネン マルテイ君
                富岡由紀夫君
                那谷屋正義君
                直嶋 正行君
                藤末 健三君
                前川 清成君
                松岡  徹君
                松下 新平君
                魚住裕一郎君
                白浜 一良君
                山口那津男君
                紙  智子君
                吉川 春子君
                田  英夫君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       元防衛研究所研
       究部長
       元ボン大学客員
       教授       西岡  朗君
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  本日の会議に付した案件
○参考人の出席要求に関する件
○日本国憲法に関する調査
 (憲法前文と第九条(国際平和活動、国際協力
  等を含む))
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○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 参考人の出席要求に関する件についてお諮りいたします。
 日本国憲法に関する調査のため、必要に応じ参考人の出席を求め、その意見を聴取いたしたいと存じますが、御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○会長(関谷勝嗣君) 御異議ないと認めます。
 なお、その日時及び人選等につきましては、これを幹事会に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○会長(関谷勝嗣君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。
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○会長(関谷勝嗣君) 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 「憲法前文と第九条(国際平和活動、国際協力等を含む)」について、委員相互間の意見交換を行います。
 まず初めに、各会派から一名ずつ、それぞれ十五分以内で御意見をお述べいただきたいと存じます。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は順次御発言願います。舛添要一君。
○舛添要一君 自民党の舛添要一です。
 今日は、第九条と憲法前文について意見を申し述べます。
 まず、第九条ですけれども、戦後のずっと時代の流れを考えてきたときに、そこにある理想は理想として、やはり明確にこれを改正すべきであるというふうに思います。そのポイントが二点ございまして、第一点は、個別的及び集団的自衛権を明確に認める形で書くという、改正するということであります。
 第九条には明記はされていませんですけれども、憲法以前の自然権として自衛権はあるという解釈をこれまで取ってきております。しかし、今の問題は集団的自衛権をどうするのかということでございまして、これは現内閣、日本政府の解釈では、集団的自衛権は持っているが行使しないということであります。持っている権利を行使しないということ自体がそもそも矛盾でありますし、行使しないような権利を持っていてどうするんですかということでございますので、これは明確に認める形で改正すべきだというふうに思います。
 そもそも集団的自衛権という言葉が国際条約の中で出てきたのは、国連憲章の中に初めて出てくるわけでありまして、これは旧敵国条項との絡みで出てきております。旧敵国条項を廃止するとともに、この集団的自衛権についての位置付けも、我々は明確に我が国の行使できる権利として所有することを認めるべきだというふうに思います。
 ちなみに、私は、この旧敵国条項を含めて国連憲章の改正ということと、我が日本国の常任理事国入りということと、第三に憲法改正、この三つをワンパッケージで行うべきだというふうに思っております。小泉総理のように、憲法を改正しないで常任理事国になるということは矛盾が多過ぎるというふうに思いますし、常任理事国について拒否権を持つのか持たないのか。私は持つべきであるというふうに思っていますから、国連安全保障理事会はユネスコや経済社会を扱う諸機関と違うわけで、正に安全保障のための理事会ですから、当然のことながら、憲法改正、すなわち集団的自衛権を認めることがなければ、そういう常任理事国入りに手を挙げるということは単なるパフォーマンスにすぎないという批判を免れないというふうに思います。
 このことを申し上げているのは、実を言うと、過去十年間、国際社会の中で自衛隊が海外に出てPKO活動、その他の国際協力活動を行っている現実と今の憲法九条とが余りに乖離しているからであります。
 そこで、第二の大きな問題として、国際協力ということを第九条に明記すべきであるというふうに思います。第一点は、個別的、集団的自衛権を認める。第二点は、国際協力のために我が国の持てる力の一つである自衛隊を活用するということであります。様々な条件がそこに付くことは当然でございますけれども、大枠の議論をいたしますとそういうことであります。
 つまり、第一点と第二点をまとめますと、個別的及び集団的自衛権を我が国が保有し、それを行使する、そしてまた国際協力のために自衛隊の持てる力を活用すると。こういうことを明確な形で憲法九条に書き込むということが、憲法九条をめぐる神学論争を果てしなく続けるという、このエネルギーのロスをやめることになるというふうに思います。
 今まで、最近のイラク特措法、それから九・一一を受けたテロ特措法のように個別的な法律でもって自衛隊を海外に派遣することを担保してきた。しかし、その解釈というのは、解釈でそれを行うというのはもう限界に来ている。ここで憲法を改正しないでこれ以上のことをやることは不可能です。
 今、サマワにいる自衛隊の活動についていろいろな議論がございますけれども、この点について言うと、今、オランダ兵と日本の自衛隊が二人で歩いていてオランダ兵が攻撃を受けたときに、我が国の自衛隊員はこれを反撃することはできません。じゃ、どういう状態でできるかというと、オランダの兵隊さんが病気ないしけがで我が自衛隊の野戦病院の中で治療を受けているときに攻撃を受けたら我が自衛隊は反撃できるということでありますから、つまり、自衛隊の管轄下というか、に入るという形を取らない限りは、邦人であれ、NPOで活躍している青年であれ、外国の軍隊であれ、これは自衛隊によって守られる対象にならないわけで、まあ、けがしたり病人になったら守りますよという、そこが今の憲法解釈上認められている上限でありますから、そういう活動、そのように自衛隊の活動に制限が付いたままで常任理事国になるなんということはおよそ笑止千万なことだと私は思っております。
 特に、テロとの戦いということを掲げて国際社会が団結するならば、我々の持てる自衛隊という力を国際協力のために使うことが必要だというふうに思います。それが憲法九条につきまして大きな二つの改正すべき点だというふうに思います。
 その絡みで、憲法第七十六条、これは第六章司法の初めに書いてある項目ですけれども、その中に「特別裁判所は、これを設置することができない。」とありますけれども、私は、憲法九条改正とともに七十六条を改正して軍事裁判所を設けるべきであると、つまり特別裁判所を入れるべきであるというふうに思っています。
 つまり、七十六条というのは憲法九条と裏腹であって、軍隊というものを持たないからそういうものが要らないということになっていますけれども、ちゃんと自衛隊というものに、これを認知するならば、七十六条を変えて特別裁判所を設置することが必要であろうと思います。
 さらに、この憲法九条との絡みで申し上げますと、緊急事態の規定がございません。やはり国家の基本的な法律である憲法の中に緊急事態にどういうふうに対応するのかということについて明確な規定があった方がよかろうかというふうに思います。
 それから、そういう安全保障、国際平和活動、国際協力などとの絡みにおきまして、憲法の前文について申し上げたいと思います。
 大変に理想的ないい文章で書いてありますけれども、私は、この憲法の前文というのを英語の、日本国憲法の英文の方と比較して読んで常に疑問が解けないのは、ネーションステートの枠組みというのをこの日本国憲法はどう考えているんだろうかということであります。
 国際連合というのはユナイテッドネーションズであって、ネーションステートが束になったものであるわけです。しかし、今現在見たときに、テロリズムというのは、アフガニスタンであれ、イラクであれ、サウジであれ、例えばアルカイダにしてもそうですけれども、これ国境を越えて動いている、ネーションステートの枠にはまらない。さらに、イスラムという文明を考えたときに、そのイスラムファンダメンタリズムというのは、ネーションステートの枠にはまらないからこそ、例えば文明の衝突というような現象が起こってくるわけであります。
 そこで、ネーションステートの枠組みということから、皆さんもう一遍、英語と対照しながら憲法の前文を読んでいただきたい。
 例えば、日本語の方の憲法でいいますと、我らは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信じると。これは、ネーションという言葉を使ってあります。ノーネーションとか、アザーネーションズとかいう言葉を使ってありますから、ここの記述は完全にこれはネーションステートということを前提に置いていて、国が単位である。
 ところが、その前の、例えば、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と。「平和を愛する諸国民」と書いていますので、日本語の文字面でいうと、それぞれのネーションステートの中にある人たちでネーションステートの枠組みかなと思うんですけれども、ここではピースラビング・ピープルズ・オブ・ザ・ワールドになっている。ピープルズ、ピープルというのは余りネーションステートの枠組みに入らなくてもピープルなんで。
 なぜそういうことを申し上げるかというと、このネーションステートの枠組みについての明確な認識というか、概念規定というのは、実を言うとこの憲法の前文にはっきりしていない。で、ネーションステートのその枠組みの中で考えているならば、それはユナイテッドネーションズ、国際連合、いろんな協力ということを言っていいんですけれども、正に今起こっている国際テロリズムというのはピースラビング・ピープルじゃなくて、全くその逆のピープルがいるわけである、人々がいるわけですから、これを国際社会でどう協力して封じ込めるかということであって、とてもじゃないけれども、そういうテロリストの公正と信義に信頼して我らの安全と生存を保持しようと決意したところで、そんな決意は何の重みも持たないわけであります。
 是非、皆さん、このネーションステートとの絡みにおいて憲法の前文というのをしっかり書き直す必要があるんではないかということを私は御提言申し上げたいと思います。
 それからもう一つ、最後にですね、日本国民は、国家の名誉に懸けて、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。全力を挙げてということになっているんですけれども、英語の元の文は、「ツー アカンプリッシュ ジーズ ハイ アイデアルズ アンド パーパシズ ウィズ オール アワ リソーシズ」になっている。リソーシズ、私たちの持つすべての資源を使ってとなっている。
 で、リソースの中には経済力もあれば、自衛隊という年間五兆円もの予算を使っている大変立派なリソースがある。なぜイラクに自衛隊行くか。ほかの我々が持っているリソースでは行けないから、自己完結型の自衛隊しか行けないから行っているわけでありまして、そうすると、戦力の保持を禁止する、そういう憲法の字面だけ読むと、自衛隊いないはずですから、このオール・アワ・リソーシズの中に自衛隊が入らないことになってしまう。
 ですから、やっぱりこれは憲法九条、前文だけじゃなくて、もう一遍、是非、英語と対照しながらみんなが見る必要があるんだろうと。そして、逆に、日本国憲法をきちんとした日本語で書くときには、それを例えば英語やフランス語の正規の翻訳するときにはどういう言葉を使うかというのは非常に重要な作業になると思いますので、少なくとも私は前文について、今私が申し上げたようなことは余り皆さんおっしゃらないんだけれども、憲法の起草した方々がネーションステートというものを一九四五年、六年、七年、こういう戦後の混乱期にどういうふうに思われたのか、そして今またネーションステートの枠組みを超えるいろんなチャレンジが起こってきている、それに対してどういうふうにして新しい憲法を書くのかということなんで、重要な問題だと思いますので、この点を提起して私の意見陳述を終わります。誠にありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、直嶋正行君。
○直嶋正行君 民主党の直嶋です。今日は、発言の機会をいただきましてありがとうございました。
 まず、本題に入る前に、民主党としての憲法についての問題意識と民主党の憲法調査会の現状について報告をさせていただきたいというふうに思います。
 今、世界は文明史的転換期にあるということがしばしば指摘をされます。今も国際テロの話がございましたが、事実、最近、世界各地で生じる様々な事件や現象を見ていますと、私自身もそう思わざるを得ません。こうした時代の変化、変動に対応し得る生きた憲法の確立を目指して議論を積み重ねてきました。
 一方、日本国憲法の現状を見ますと、解釈改憲といいますか、それを繰り返す政府によって憲法の形骸化、空洞化が進んでいると思います。そして、国民の憲法に対する信頼を大きく損ねつつあると、こう思います。こうした状況を克服し、憲法に基づく政治を確立するためにも、二十一世紀の新しい時代にこたえる創造的な憲法論議が必要ではないかというふうに思っています。
 そもそも日本の国は中央集権システムの下で官僚による恣意的な行政が横行し、法の支配が形骸化するという傾向が根強く続いてきました。その上、ルールなき自衛隊の海外派遣が繰り返されて、あたかも日米関係が憲法を超えるかのような政治の実態が生まれてきています。民主党が掲げる創憲は、このような危うい政治の現実に対して、立憲政治を立て直し、法の支配が確立された社会をつくり出すことにその大きなねらいがあります。過去を振り返るのではなく、未来に向かって新しい憲法の在り方を考え、積極的に構想していく、そういう意味での創憲を標榜いたしております。
 また、新しい憲法をつくるに当たっては、現日本国憲法が掲げる国民主権、平和主義、基本的人権の尊重の三つの根本規範を尊重し、さらにその深化、発展を図ることを基本にすべきと考えています。
 こうした考えの下、民主党憲法調査会では、本年六月に憲法提言の中間報告を取りまとめました。中間報告では、以下に述べる五点を大略の方向として打ち出しています。
 第一に、国際テロや地球環境問題を始め、新しい共通の脅威に対応するため、国際協調による共同解決が主流になりつつあります。またグローバリゼーションと情報化に伴う新しい変化や価値の転換により、国家あるいは国民という概念、今のネーションステートもそうかもしれませんが、こういった概念も変化しつつあると思います。例えばヨーロッパに見られるような国家主権の移譲や主権の共有、私どもとしてはアジアとの共生なども視野に入れる、そして新しい憲法を考えることが必要だと思います。
 第二に、政治主導の政府運営と国民主権の深化に向け、内閣総理大臣の執行権の明確化や政治任用の拡大、国民投票制度の在り方や憲法裁判所、行政監視院等の設置の根拠を盛り込むことであります。
 第三に、分権国家日本をつくり出すために、中央、地方の対等原則や補完性の原理、地方自治体の独立した立法権と課税自主権、住民自治に根差した多様な自治体の在り方の保障などを明記することであります。
 第四に、新しい人権の確立と、人権擁護のためにプライバシー権、名誉権、知る権利、環境権、自己決定権等を憲法上に明記することや、独立した第三者機関としての人権委員会やオンブズマンの設置を盛り込むことです。
 そして第五に、自衛隊のなし崩し的海外派遣という事態を許さず、国際協調主義で平和を確固たるものとするために、国連の集団安全保障活動への積極的な参加、そして専守防衛に徹した限定された自衛権を明確に位置付けることです。
 以上の五点の中で、憲法九条の問題に焦点を当て、民主党の基本姿勢と検討の方向を以下申し上げたいと思います。
 そもそも日本国憲法は、国連憲章とそれに基づく集団安全保障体制を前提としています。憲法前文にうたわれている国際協調主義は国連憲章の基本精神を受けたものであり、第九条の文言は、前文の平和主義を具体化したもので、国連憲章の条文を反映したものでもあります。
 日本は、憲章が掲げる基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小国の同権に関する信念を国際社会と共有し、その集団安全保障が十分に機能することを願い、その実現のために常に努力することを決意をしてきました。日本は、憲法九条を介して、一国による武力の行使を原則禁止した国連憲章の精神に照らし、徹底した平和主義を宣明しています。それはまた、日本国憲法が、その精神において、自衛権の名の下に武力を無制約に行使した歴史的反省に立ち、武力の行使について強い抑制的姿勢を貫くことを基軸としていることにも反映されています。
 以上の原則的立場については、現日本国憲法の前文及び九条の平和主義を国民及び海外に表明するものとして今後も踏襲していくべきだと考えます。
 この考え方に立った上で、憲法九条の問題を解決するためには以下の三点を明確にすべきだと思います。
 第一は、憲法の中に国連の集団安全保障活動を明確に位置付けることであります。国連安保理若しくは国連総会の決議による正統性を有する集団安全保障活動には、これに関与できることを明確にし、地球規模の脅威と国際人権保障のために日本が責任を持ってその役割を果たすことを鮮明にすることであります。
 第二は、国連憲章上の制約された自衛権について三つの要件を明記することであります。すなわち、緊急やむを得ない場合に限ること。つまり、他の手段をもっては対処し得ない国家的脅威を受けた場合に限定すること。国連の集団安全保障活動が作動するまでの間の活動であること。かつ、その活動の展開に際してはこれを国連に報告することであります。
 第三に、武力の行使については最大限抑制的であることの宣言を書き入れることです。国連主導の下の集団安全保障行動であっても自衛権の行使であっても、武力の行使は強い抑制的姿勢の下に置かれるべきであります。我が国の安全保障活動は、この姿勢を基本として、集団安全保障への参画と専守防衛を明示した自衛権の行使に徹するものとすべきであります。
 以上が民主党憲法調査会の中間報告として取りまとめた考え方でありますが、今後の検討課題として、以下、私見も交えて一、二申し上げたいと思います。
 まず、自衛権に関する問題についてであります。
 集団的自衛権の行使については否定的な見解も多くありますが、私は国家の自然権として認められている以上、個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、その権利を有しており、自衛権の行使については恣意的な解釈で対応するのではなく、条文を疑義なく解釈できるよう明文化した上で、具体的な行使の場面においては先述した考え方に沿って限定的かつ厳格に考えていくことが日本の国益に資すると考えております。
 ただ、集団的自衛権ということで一言付け加えますと、集団的自衛権を考える場合、当面は日米安全保障条約を念頭に置くことになりますが、同盟のカウンターパートナーである米国は世界じゅうに七百以上の軍事基地を展開し、文字どおりグローバルに活動しています。したがって、集団的自衛権を有しているからといって無制約にその自衛権を行使することになれば、世界じゅうで集団的自衛権を行使することにもなりかねません。現に、今でも自衛隊は極東を越え、イラクに派遣されています。したがって、我が国の基本的立場を逸脱しないようきちっと議論を詰める必要があることを申し添えておきたいと思います。
 次に、国連の集団安全保障活動についてであります。
 国連安保理若しくは国連総会の決議による正統性を有する集団安全保障活動に基づく平和維持・創造活動に対して日本が参画する場合に、国権の発動たる武力行使との関係をもきちんと整理しておく必要があります。現憲法下でも、正統性を持つ国連の平和維持・創造活動への参加は憲法九条の禁じる国権の発動たる武力の行使にそもそも該当しないという考え方があります。
 その一方で、日本として参加の有無を決定する以上、国権の発動に該当し、憲法九条の制約を受けるという考え方もあります。また、両者の中間的な考え方もあると思います。これらについて、先ほど述べた武力行使は最大限抑制的であるべきとの考え方を踏まえ、日本が国連の安全保障活動に参加するにしても、どのような活動まで可能であるのか、また、主権国家との関係においても明確にすべくしっかりとした議論が必要であります。
 日本の主権の行使と国連の平和維持・創造活動とを明確に区分する意味で、国連待機軍若しくは待機部隊という構想は重要な選択肢であると思います。迅速な派遣、国民の理解やアジア諸国からの理解の得やすさ等長所もあります。自衛隊との組織の切り分けの考え方、現実論などの観点を踏まえて積極的に検討すべきではないかと思います。
 その他にも、憲法で明確化する国連中心の安全保障活動への関与と日米安全保障条約や将来的に誕生することも想定される日本とアジアの地域安全保障のかかわり方について、どのように整理していくかなどについても幅広い議論をしていく必要があると考えます。そして、これらに関する憲法上の規定は可能な限り明快で簡潔であるべきだと思います。
 このため、これらの原則を法規定として明確にした憲法附属法としての性格を持つ安全保障基本法を同時に定めることも必要と考えます。今や憲法は、国民の日常生活や現実生活とは遠いところに置かれています。どのように立派な法であっても、それが不断に守られ、生かされるのでなければ、国の枠組みや在り方を規制する基本法としての役割は果たせません。憲法の形骸化、空洞化に歯止めを掛け、世界の潮流、時代の流れに対応し得る新しい憲法をつくることが重要である、このことを強調して、私の発言を終わります。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、山下栄一君。
○山下栄一君 公明党は、現行の日本国憲法は戦後の日本の平和と安定、発展に大きく寄与してきたと高く評価しております。中でも、国民主権主義、恒久平和主義、基本的人権の保障の憲法三原則は普遍のものとしてこれを堅持すべきだと考えます。
 憲法九条は、アジアの諸国民に多大な犠牲を強いたさきの戦争に対する反省、再び戦争を繰り返さないというメッセージを諸外国に発信してきた平和主義の根拠であり、戦後の日本の平和と経済的発展を築く上で憲法九条の果たしてきた役割は極めて大きいものがあったと認識しております。
 しかしながら、日本国憲法は、制定以来六十年近い歳月が経過しております。憲法が制定されたころとは時代状況が大きく変化し、制定時には想像されることがなかった新たな問題が提起されております。冷戦終結後、憲法前文でうたわれた国際協調主義の具体的な実践として、国連を中心とした紛争予防、平和維持、平和構築の活動に我が国としてどうかかわっていくのか、貧困や飢餓、感染症対策など、個々の人間の生命、生活、尊厳の確保を目指す人間の安全保障の実現にどうかかわっていくかなど、我が国を取り巻く環境も大きく変化してきております。
 我が党は、現行憲法は維持しつつ、そこに新しい条文を書き加え補強していく加憲という立場を打ち出しております。諸外国においても修正条項を加えて補強するやり方を取っている国が多く、最も現実的な方式であると考えます。
 こうした認識の上から、本日のテーマについて、以下、述べてみたいと思います。
 まず、恒久平和主義の理念の現代的意義を強調したいと思います。
 国際平和主義と国際協調主義に立脚する現行憲法、とりわけそれを具体化した第九条は、不戦条約、国連憲章の流れをくむものであり、平和憲法と呼ばれる根幹的な意味を持つものであると認識しております。アフガニスタン情勢や泥沼化するイラク紛争を見るとき、憎しみと報復の連鎖が続き、いわゆるならず者国家、反人道国家から民衆を救うべき戦いがかえって民衆を犠牲に巻き込む現実があります。
 この現実を見るとき、紛争予防の重要性を痛感せざるを得ません。紛争の火種を未然に摘み取ろうとする紛争予防措置の確立に貢献することこそ、日本国憲法の平和主義に基づいた我が国が果たすべき重要な役割であります。
 特に、九条一項においてパリ不戦条約の精神を継いで人類の悲願である戦争の根絶、戦争の根絶という理想に真正面から立ち向かおうとしていること、さらには国権の発動たる戦争の放棄をうたい、国家主権をあえて制限して国連にゆだねることを示唆しております。この九条に投影された国家主権の自己限定の考え方を基に、国連による普遍的な安全保障と紛争予防措置の確立に向け主導的な役割を果たすことこそが、憲法前文に示された我が国が歩むべき道であると考えます。こうした平和憲法の理念、精神性は堅持すべきであり、むしろ今こそ国民全体で再確認し、今後、より積極的に国際社会に対しこの平和主義からのメッセージを力強く発信すべきであると考えます。
 二十一世紀において我が国が目指すべきこの国の形は、自国の利益にのみとらわれる視野の狭い一国平和主義や一国国益主義の道であってはならない、積極的平和主義、すなわち国際貢献国家であり、平和人道国家を目指すべきであります。一国だけでは解決が困難な国境を越えた人道の危機を克服するには国家中心の安全保障では限界があり、人間に焦点を当てた安全保障が必要であるというのが人間の安全保障の考え方であります。
 我が国は、小渕内閣の時代に人間の安全保障を外交の柱に位置付けることを掲げました。そのために、ODAを戦略的に活用し、また紛争地域の平和構築に国際社会と協力して積極的に貢献していくべきであります。
 我が党は、既にマニフェストで掲げておりますとおり、国際平和貢献センターの設置や国際協力に通じた専門家の育成、難民支援、地雷除去支援など、多面的な国際平和への取り組みを我が国が積極的に行うべきであると考えます。
 二十一世紀をテロと報復の世紀ではなく、共存と対話の世紀へとするために、日本の果たすべき役割は極めて大きいものがあります。
 我が党は、第九条の問題について、タブーを設けず、加憲の対象として論議を積み重ねてまいりました。その主な論点は、自衛隊の存在、国際貢献の在り方、集団的自衛権の行使などに立て分けて考えることができます。
 これまでの党内論議では、現行九条を堅持すべきとの議論が大勢であります。個別的自衛権の行使については、あえて明確にすべきだとの意見もありますが、既に現行憲法でも認められているとの解釈が主流であります。一方、専守防衛、個別的自衛権の行使主体としての自衛隊の存在を認める記述を憲法に置くべきだという意見、その反対に、既に実態として合憲の自衛隊は定着している、あえて書く必要はないという指摘もあります。
 一方で、我が国の戦後の歴史を振り返るとき、様々に変化する国際環境の中で我が国が平和国家として節度を保った対応が取られてきたのは、この九条、特に第二項の存在に負うところが大きかったと言えます。平和国家としての節度を保ちつつ、時代の変化に柔軟に対応し、かつ暴走に対する歯止めとして九条の存在意義は極めて大きいものがあったのも事実であると理解しております。
 既に政府の解釈や様々な実定法の立法化により自衛権や自衛隊の存在は確立されており、その自衛隊が国際貢献できるとする憲法解釈も定着しております。また、国連憲章は、国連による国際公共の価値を追求するための集団安全保障における武力行使を認めていますが、日本政府は集団的安全保障にあっても武力行使は許されるべきではないとしています。我が党においては、あくまで民生中心の人道復興支援を主体とすべきだとの意見が大勢であります。
 平和の構築や貧困格差の是正、地球環境など、二十一世紀の全人類が直面する課題の解決のために国連が果たすべき役割は重要であります。
 冷戦終結後の今日、国連がその本来の機能を発揮する道を切り開くことも可能となりました。我が国は、このような方向に向けて努力すべきであり、集団安全保障など、国連の機能強化を進めるべきであります。また同時に、我が国は、国連による平和維持、平和構築活動に積極的に参加するとともに、国連決議に基づいた正当な目的のために行われる活動に対しても可能な限り協力を行うことも検討されるべきであります。これには、現在の憲法九条の下においても十分可能なことであると考えます。
 その上で、国際貢献については明文化を望む指摘もあります。九条に書き加えるか、前文に盛り込むか、別建てで起こすか、あるいは法律で対応すれば済むというように意見が分かれております。
 集団的自衛権の問題については、個別的自衛権の行使は現行憲法でも認められていますが、集団的自衛権の行使は認められていないという意見が大勢であります。
 集団的自衛権の議論に際しては、果たして具体的にどのような場合に実際に集団的自衛権の行使を認める必要があるのか、またこの集団的自衛権行使を認めなければ国家存立が危うくなる場合は本当に想定されるのか、あるいは憲法に集団的自衛権行使を明記した場合どのようなリスクを生じるのか、以上のような問題をより具体的に事実に即して吟味し、議論、検討していく必要があります。
 また、集団的自衛権については、その保有と行使を区別する政府解釈がしばしば批判されておりますが、国際法上、保有するということが認められた権利を実際に行使するかどうかは、正に主権国家たるそれぞれの国が自らの判断で決すべき問題であり、具体的には主権者である国民の意思により制定された憲法等によって各国がいろいろ決めるべき問題であります。
 いずれにせよ、集団的自衛権の問題については、憲法を改正してまでその行使を認める必要があるかどうかを十分に検討する必要があります。
 その他、ミサイル防衛、国際テロなどの緊急事態についての対処規定がないことから、新たに盛り込むべしとの意見もありますが、あえて必要ないという意見が大勢です。
 最後に、総括的に述べたいと思います。
 平和主義と安全保障の問題、とりわけ九条の問題を考えるに際しては、我が国の歴史、国民の体験を踏まえ、第九条が果たしてきた役割を振り返る歴史的視点、それと南北格差やテロリズムなど国際社会の現状や動向に対するグローバルな視点、そして世界や日本の将来についての長期的な視点を踏まえて総合的に考える必要があります。
 国民の間には、憲法九条を変えることに対する危惧があることも事実であり、見直しについては、国民的な合意を形成する観点から、慎重に議論を進める必要があります。なかんずく、制定から六十年たった今日、憲法前文及び九条に盛り込まれた平和主義の理念、精神性が果たしてどれだけ国際社会に発信され、具体化されたのか、今後更にこの平和主義の理念と精神をどう世界に広げていくのか、こうした検証と展望を持った国民的議論が不可欠であると考えます。
 今後の九条論議に当たっては、九条一項の戦争放棄、二項の戦力不保持の規定を堅持するという姿勢に立った上で、自衛隊の存在の明記や我が国の国際貢献の在り方について、派遣の議論の対象としてより議論を深め、検討していくべきものと考えます。
 以上で見解の発表を終わりたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 日本国憲法前文と九条について私の見解を述べます。
 憲法前文は、政府の行為によって戦争の惨禍の起きることのないようにすることを決意し、過去の侵略戦争に対する反省が日本国憲法制定の動機であるとしています。
 私は、戦争の犠牲になった人々に対するいわゆる戦後補償問題について取り組んできました。民主、共産、社民、野党三党共同提出の戦時性的強制被害者問題、いわゆる慰安婦問題解決促進法案の提案者です。内容は、日本が慰安婦とした七万とも二十万とも推測されるアジア地域の女性たちに対して謝罪と補償を行うというものです。
 二〇〇二年三月に提案されたこの法案は、参議院内閣委員会で二回審議されました。同法案の提案理由は、今次の大戦及びそれに至る一連の事変等に係る時期において、旧陸海軍の関与の下に、女性に対して組織的かつ継続的な性的行為の強制が行われたことにより、これらの女性の尊厳と名誉が著しく害されたこと、このことに対して我が国が十分な対応を行ってきたとは言えない状況を踏まえて、我が国が誠意を持ってこの問題解決に取り組むことが緊要な課題になっていることにかんがみ、被害を受けた女性への謝罪と償いの意を表するための措置を我が国政府の責任によって講ずるためと述べています。
 政府がさきに行ったアジア女性基金の償い事業がとりわけ韓国や台湾から激しい批判を受けましたので、私たち野党の法案が関係諸国にどう受け入れられるのか、民主、社民の議員の方々と一緒にそれらの国を訪問し、慰安婦被害者の皆さんやNGO、そして大臣や政府高官、国会議員にお目に掛かり、法案の内容の説明と意見交換を行いました。
 韓国国会では、私たちの帰国後、常任委員会である女性委員会、林委員長が提案者となって私たちの法案の制定促進決議が提案され、本会議で全会一致で可決されるなど、各国から歓迎を受けたことは喜ばしいことでした。
 しかし、同時に、私が訪問した各国では日本の残した戦争の傷跡が今なおいえていないことも実感しました。
 オランダはインドネシアを植民地支配しているときに日本に占領され、多くの人々が収容所に入れられ、二、三百人の若い女性たちは慰安婦にさせられました。
 一昨年、私は、日本の裁判所に提訴しているオランダ・ハーグにある対日道義請求財団を訪ねましたが、日本政府の対応には厳しい批判を浴びせられました。
 彼らの案内で日本との戦いの犠牲者の碑、インデヒモニュメントに献花をしました。私は記者のインタビューを受け、私の写真と記事が現地で報道されました。それを見た市民から、NGOの事務所に、なぜ日本人に献花をさせたのかと抗議の電話が入りました。私のオランダ訪問の目的を説明したら納得したそうですが、ここは十数年前、日本の総理大臣も訪れ、花輪がすぐに投げ捨てられたと言われる場所で、事前に私も日本人は近づけない場所とは聞いていました。
 私は、この経験を通じて、日本国憲法と九条の今日的大切さを痛感しました。憲法は、日本の侵略戦争におけるアジア二千万人の犠牲、日本国民三百十万人の犠牲の上に、日本の侵略戦争への反省を示し、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないとし、二度と再び戦争はしないと世界に宣言し、国際紛争の平和的解決の方向を人類の取るべき道として示しました。利己的、独善的な国家主義に対し決別の意思を表しています。この憲法の基本原則に沿った政治、外交が行われることが国際社会において名誉ある地位を占める道ではないでしょうか。
 慰安婦問題等は早急に解決されなければなりません。しかし、強制連行や毒ガス問題などを含め多くの戦後処理問題は裁判に持ち込まれましたが、敗訴し、いまだに解決をしていません。そればかりかかえって、侵略戦争の精神的バックボーンでありA級戦犯が合祀されている靖国神社へ総理が毎年参拝することに対し、日本へのアジア諸国の批判は増幅しています。靖国神社への参拝は、裁判所も言うとおり憲法違反です。侵略戦争への反省が不十分という批判がアジア諸国に抜き難くあるのが現実です。
 一昨年、ソウルの青瓦台の反対側にある西大門刑務所を訪れたとき、日本語のできるガイドの説明を受けました。植民地時代に独立戦争をする朝鮮の人々を投獄した場所ですが、私は日本人として正視に堪えませんでした。ここは、日本の植民地支配についての学習の場として毎年大勢の学生生徒が見学に来ます。日本支配はいまだに韓国国民のぬぐい難い記憶であることを私は痛切に感じたのです。
 韓国の国会議員は日本をどう見ているか。雑誌「世界」八月号の青木理氏の記事によると、今年四月の総選挙で圧勝した与党ウリ党の新議員の学習会で、今後最も重点を置くべき外交通商の相手はどこかという質問に対して百三十人が回答しました。第一位が中国、六三%、次はアメリカ、二六%、三位はASEAN、四位はEU、そして日本はわずか二%で最下位でした。
 さらに、日本の首相の靖国神社参拝についてどう考えるかとの設問に、外交摩擦を避けつつ遺憾表明によって立場を明らかにするが四三%ですが、外交問題が生じても日本に強力に抗議して断固たる措置を取るべきという回答も四〇%だということです。
 憲法前文は、いずれの国家も、自国のことのみに専念し他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は普遍的なもの、この法則に従うことが各国の義務としています。この文言に込められた侵略戦争への反省を二度と再び繰り返さないとの決意を忠実に実現していくことが、戦争で犠牲を強いた諸外国の人々と友好関係を築く道であり、アジアで日本が信頼をかち得る方法であると思います。
 一部には、我が国の歴史、伝統、文化、日本のアイデンティティーを憲法前文に盛り込むべきとの見解がありますが、この見解は基本的人権の制限や過去の国家主義的考えに基づくものであるならば時代錯誤です。
 憲法九条と参議院の自衛隊を海外に出さざる決議により、第二次大戦後九〇年代初めまで海外派兵は行わず、平和国家としてアラブ、アジアなど、世界で一定の信頼を日本は得てきました。しかし、今イラクでは、悲しいことに日本人も標的になっています。イラクのほぼ全土に非常事態宣言が出され、米軍が病院や橋まで攻撃し、ファルージャ総攻撃を行って死傷者が多く出ています。イラク戦争は泥沼化しており、武力行使が何の解決にもなっていないことを改めて示しています。
 国際紛争を解決する手段として、武力による威嚇ではなく外交など平和的手段で行うとの憲法原則に立ち返り、自衛隊はイラクから直ちに撤退すべきです。
 日本の憲法九条は海外からどう見られているのでしょうか。
 国際民主法律家のロラン・ベイユ氏は、日本憲法を歴史的にとらえれば、第二次大戦と結び付いて軍国主義の復活に予防線を張った条文だが、第二次大戦後の世界の思想の進歩に照らせば、憲法の条文は今日全く違った永続的かつ基本的な意義がある、九条と日本を世界の進歩の最先端に立たせることになったと語っており、私も同感します。
 憲法九条を変えて実態に合わせようとの動き、中でもアメリカからの度々の要請に呼応し、国際社会との協力を明文として集団的自衛権行使を明記する動きには同意できません。歴代政府は、日米軍事同盟の強化で日本を戦争のできる国にするための法体制、周辺事態安全確保法、武力攻撃対処法、武力攻撃事態対処法を次々に成立させました。
 憲法九条を変えることは、文字どおり戦争ができる普通の国に日本を変えていくことです。アジア諸国はそれを望んでいるでしょうか。
 タイのチュラロンコン大学のチャイワット・カムチュー部長は、改憲にアジアは反対する、もし九条が変わったらアジアに衝撃が走ると述べています。私は、これによって日本と世界が失うものは極めて大きいと思います。
 集団的自衛権の行使、自衛のための戦力の保持、国の防衛及び非常事態における国民の協力義務を設けるとの主張は、徴兵制の道につながるおそれがあります。
 私が毎年訪問する上田市の無言館には、戦死した東京美術学校、現芸大の画学生がかいた遺品の絵が展示されています。彼らが生きていたらどんなにすばらしい画家になっていたでしょうか。
 俳優の三國連太郎さんは、戦前、日本にいなきゃ軍事教練もしなくていいし、戦争に行かなくて済むと思い、中国大陸と朝鮮半島を放浪したそうです。二度目の放浪のとき母親に出した手紙で、お母さんが警察に届け、消印で三國さんは捕まりました。僕みたいな子供がいると世間からつまはじきにされる、弟妹がかわいそうだということか、母親を恨んだことはないと赤旗インタビューに答えています。
 徴兵制で若者を戦争に駆り立てる歴史を繰り返してはなりません。核保有国が増え、核兵器の小型化がアメリカによって進められ、イラク戦争でもアメリカは劣化ウラン弾を使用しています。
 政府の安全保障と防衛に関する懇談会で武器輸出三原則の見直しも言われています。ミサイル防衛、MD構想に参画する上で武器輸出三原則が邪魔になってきた、武器の共同開発、生産、核兵器の製造、輸出につながりかねない圧力が武器商人から掛けられています。
 しかし、核兵器廃絶は世界の願いです。今年も原水爆禁止世界大会へ各国首相からメッセージが寄せられています。ニュージーランドのヘレン・クラーク首相は、「いま、核兵器の廃絶を」というメッセージは明快で説得力を持っています。この目標は重要であり、ニュージーランド政府は強く支持します。また、バングラデシュのイアンジュディン・アハメド大統領は、核軍縮の前進は、世界の平和と安定を達成するため、より強固なものに強化されなくてはならない。スウェーデンのヨーラン・ペンション首相は、時の経過とともに長崎、広島の恐ろしい経験は忘却のかなたに消えてしまう可能性がある、それを決して容認してはならない。ラオスの人民民主共和国カムタイ・シハンド大統領は、ラオス国民は戦争を拒否するとともに、平和でどのような大量破壊兵器もない世界のために協力していくことを誠実に望んでいると述べています。
 日本の核兵器廃絶運動への期待は大変高いものがあります。憲法九条の歯止めを取れば、広島、長崎の被害を負う我が国が核兵器製造、核武装へと進んでいくと思います。それは日本の戦後の歴史を一挙に無にするに等しい暴挙です。
 最後に私は、九条の会のアピールの一節を引用します。
 二十世紀の教訓を踏まえ、二十一世紀の進路が問われている今、改めて憲法九条を外交の基本に据えることの大切さがはっきりしています。日本と世界の平和な未来のため、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、改憲の企てを阻むために一人一人ができるあらゆる努力を今すぐ始めることを訴えます。
 以上です。ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、田英夫君。
○田英夫君 憲法第九条を論ずるに当たっては、まず、第九条はどういういきさつで、どういう空気の中でつくられたかということを知っていなければならないと思います。そういう意味から、私どもが調べた限りの第九条がつくられた経過をまず申し上げたいと思います。
 私どもの意見では、この第九条は幣原喜重郎首相を中心としてつくられたと思っています。幣原さんは、昭和の初め、若槻内閣とか浜口内閣で外務大臣をやられ、軍縮交渉の全権となって活動され、軍縮条約をのんだために軍部や右翼から罷免をされたという平和主義者だと思いますが、一九四五年、つまり昭和二十年の戦争が終わった直後、その十月から昭和二十一年の五月まで総理大臣をやられ、憲法をつくることに加わっておられます。そして、その後の吉田内閣のときに、国務大臣として国会での憲法審議の答弁をしておられます。
 その幣原さんの憲法をつくられたいきさつを平野三郎さんという、この方は衆議院議員をやられ、後に岐阜県知事をやられた方ですが、その平野三郎さんが幣原さんから聞いたことを、「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」という本が、文書があります。これは内閣憲法調査会が一九六四年二月に作ったものですけれども、それを私どもも調べました。
 平野さんが質問するのに対して幣原さんが答えるという形でこの文書はできているんですけれども、まず幣原さんが言われたことは、原子爆弾ができた以上、世界の事情は根本的に変わった。今後は交戦国の大小の都市は灰じんに帰すだろうと。世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。戦争をやめるにはどうしたらいいか考えあぐねた結果、それは武器を持たないことだという結論に達したと。平野さんは、そのような大問題は大国間で議論するべきことであって、日本のような敗戦国がそんなことを言っても、偉そうなことを言ってもどうにもならないではないかと言ったのに対して、幣原さんは、負けた日本だからこそできる。軍拡競争は際限のない悪循環を繰り返す。集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられないネズミの大群のようだと。世界が一斉に軍備を廃止すること、もちろんそれは不可能だと思う。となれば、非武装をする狂気のさたの国が出なければならない。世界は一人の狂人を今必要としている。世界は軍拡競争のアリ地獄から抜け出すことができない。これに対して、軍備を持たないと言う一人の狂人はすばらしい狂人であると。世界史の扉を開く狂人である。まあ、こういうことを幣原さんは言っておられます。
 そしてさらに、もちろんこれが憲法九条の根幹になるわけですけれども、この考えを持って、総理大臣としての幣原さんはマッカーサー司令官を訪ねておられる。その事情についてマッカーサー司令官は、一九五一年の五月四日、アメリカの上院の外交委員会で証言をしています。マッカーサー元帥は、そのときには、これはまだ朝鮮戦争が行われているさなかですが、言わば首になって、で上院に喚問をされているということで、その中で日本占領当時のことも議員の質問に答えて話をしている。
 そこの中で、日本人はどの国民よりも原子戦争がどんなものか了解している。それは理論上のことではなくて、彼らは死体を数え数え埋葬したのだ。幣原首相は私のところに来て、唯一の解決策は戦争をなくすことです、軍人であるあなたにこの問題を差し出すのは非常に不本意ですが、そしてあなたは受け入れないでしょうけれども、しかし、私は日本の憲法にこの条項を挿入するよう努力したいのです、こう述べた。マッカーサーは、私は思わず立ち上がってこの老人の手を握って握手をし、これは大変な偉大な建設的な措置だと言わざるを得なかったと。しかし、世界は恐らくそれを受け入れず、嘲笑の的にするだろう、そのあなたの考えを貫徹するには大変大きな道義上の気力が必要だと思うと、こういうことをマッカーサー元帥は証言をしております。
 結局、マッカーサー元帥はそのことを、これを了承して、最終的に憲法第九条というものが入れられたと。まあ言わば第九条というのは幣原さんとマッカーサー元帥との間でできた、そうした経緯があると思います。
 なお、マッカーサー元帥は太平洋戦争の総司令官をやり、朝鮮戦争の指揮を執ったわけですけれども、その後、実はこの証言をしたときには非常に平和主義者になっていると思われる言葉があります。
 有名だったマクマホン上院議員の質問に答えているんですが、軍縮交渉はどうあるべきかというマクマホン上院議員の質問に対して、マッカーサー元帥は、軍縮交渉ではなくてアメリカの一方的な軍備廃止によって戦争を非合法化することだと。正に、幣原さんの言われたことをマッカーサー元帥も理解をして、議会の証言の中でこういうことを言っているということを、私どもは憲法を、九条を考えるときにはやはり知った上で、今のこの国際情勢の中で憲法というもの、九条を改正するとかそういうことを考えるのがいいのか、それとも、この幣原さんが考えられた一つの人類というスケールで物を考えたこの考え方を今も大切にしていくのかと。そのことを私どもは考えなければいけないと思っています。
 そして、日本が、この憲法第九条という条項を持っていることを、つまり、日本は戦争をしない国なんだ、軍隊を持たない国なんだということを現在の世界の人たちがどの程度知っており、そして正しく理解しているのか。いや、日本人すらも私はそういう気がしてなりません、正しく理解しているのかどうか大変疑問に思うんです。
 そのことのために私どもは日本人は何をすべきかということを私は考え続けてきたんですが、その一つの結論は、日本が世界に向かって不戦国家宣言というものを出すべきではないか。これは、私が何年か前にモンゴルを訪ねたときに思い当たった考え方です。
 御存じの方あるかもしれませんが、モンゴルは今非核国家宣言というものを出して、国連総会でそれを認めております。一九九二年に、モンゴルは大統領の名においてモンゴルは核を持たない非核の国だという宣言をしました。そして、それから国連に働き掛けて、一九九八年に国連総会がこのモンゴルの非核国家という宣言を承認をしました。今、世界でただ一つ、本来ならば日本がそれを先にやるべきですが、モンゴルは非核国家であるということを国連総会において承認をされています。
 その話をモンゴルで聞いて、私はやはり日本の憲法第九条を、まず衆参両院で全会一致で、この憲法を守っていく国だという意味を込めて日本は不戦国家であるという決議をし、それを政府が受けて、総理大臣の名において世界に向かって日本は不戦国家であるという宣言をする。そして、それを国連総会に持ち込んで、国連総会において日本は不戦国家であるということを承認をしてもらう。世界が認めた戦争をしない国、軍隊を持たない国ということを決定をすれば、これは憲法第九条を改正しようとか、改正して戦争のできる普通の国にしようとか、そういうことを考える必要は全くなくなります。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で意見陳述は終了いたしました。
 それでは、ただいまの意見陳述に対し、一時間程度、意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いをいたします。
 御発言は着席のままで結構でございます。
 なお、まず最初に各会派一巡するよう指名いたしたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 秋元司君。
○秋元司君 自由民主党の秋元司でございます。こういった機会をいただきましてありがとうございます。五分という限られた時間でございますので、概論的な話と、そして今回テーマとなっているこの前文とそして九条、この点について話をさせていただきたいと思います。
 まず冒頭に、今回、現在の日本国憲法というものを考えてみた場合において、やはりこの憲法というのは、戦後、アメリカによってある意味押し付けられた憲法であり、そしてまた、戦後六十年近くがたつ中に様々な国際情勢の変化というのがありました。そういったものに関しまして、やはり全く変わらないというのはおかしい。そしてまた、いよいよ戦後六十年ということの中で、日本人が自らの意思で物事を考えるという点から、しっかりとした日本人による自主憲法というものをまずは制定していかなくちゃならない、そういった観点から今日は議論をさせていただきたい、そのように思うところであります。
 まずこの前文についてでありますけれども、この内容につきましては、やはり国民主権、そして基本的人権、そして平和主義というものがしっかり明記されている中に大変理想的なすばらしいことが書いてある、そういうふうに思うわけでありますけれども、私がこの憲法というものを恐らく初めて読んだときというのは小学生の後半か中学生のときであったと思うんですが、非常に、ただ読む中については非常に分かりづらいな、そんな考えを有しました。
 一般的に言われている議論でありますけれども、やはり翻訳的であるということが言われております中に、やはり分かりやすい、まずきれいな日本人としての言葉の文章を構成をする。そういったことの中で、この平和主義に近づけられる形で今現在、日本の立場を考えますと、やはり国際貢献、国際協力というものは強調して明記すべきであるな、そのように思うところであります。
 また、これに付け加えまして、やはりここの前文にも国連というものが非常に大事であって、国連で判断したことをどう日本が受け止めるか、そういったことも付け加える必要があると思います。
 次に、九条についてでありますけれども、一項、二項とも普通に素人的に読めば、これだれが見ても、まあ解釈論はさておきまして、やはり戦力の不保持、こういった言葉から、ある意味自衛権も放棄していたり又は今存在している自衛隊もこれは違憲だ、そんなことのように受け止められるわけでありまして、しかし現在、実際には安全保障、そういった立場と又は自衛隊が今果たしている役割というのは、国内の災害に対する仕事もしっかりする、災害対策もしっかりする、そういったことから実際存在しているわけでありますから、やはり自衛隊というものをしっかり、自衛権というものもしっかり明記をし、そしてまた、戦力不保持という言葉も改めて自衛隊というものをしっかり持つ、そういった言葉に私はすべきである、そのように思うところであります。
 そして、自衛権についてでありますが、従来から議論されているこの個別的自衛権、そして集団的自衛権であります。当然、私のように戦争を知らない世代になりましても、私の気持ちからは到底戦争を始める、そんなことはあり得ない、そのように思うわけでありますけれども、やはり過去の反省、過去の歴史を振り返ってみますと、自衛権の拡大という観点からやはり戦争というものに突入した、そういった例があるわけでありますので、やはりあえて明記するとすれば、この個別的自衛権についても不法性、必要性又は均衡性、こういったものをしっかりとある意味入れておく必要があるのかな、そのような気がいたしております。
 そしてまた、集団的自衛権についてでありますけれども、これは前文で国際貢献ということを明記しておけば、私はあえてここで明記しなくてもいいんじゃないかなという気がいたしております。今現在の日米安全保障条約の下に非常に日本の立場があいまいな中で、ある意味アメリカに押し切られてしまうということもあるやに思う次第でございますので、やはりこういったものを、前提条件をしっかり整備する、そういったことの中で、最終的に集団的自衛権をどう考えていくんだ、最終的にはやっぱり国連というものに付随してやっていく、そういった考え方をしていかなければならないと思うわけであります。
 それと同時に、この常任理事国入りと、こんなことが叫ばれておりますけれども、やはりこれは、先ほど舛添議員のお話にもありましたとおり、これは必ず安全保障という議論なしにしてはあり得ない形でありますので、やはりこの憲法改正とそしてこの常任理事国入りというのは表裏一体の議論として私は考えていくべきだと思うところであります。
 最後に、やはり総合的に、今ある現在の憲法、解釈論ということが先行しますと、どうしてもそのときの政治のパワーバランスによってある意味偏った判断がされがちだと。そういった危険性から、しっかり、国民に分かりやすい、そして見える形での憲法というものをしっかりうたった上での国の基本方針というものを定めるべきである。
 そのことを最後に付け加えさせてもらいまして、また最後に、自国のことは自国で守っていく、そういったことをしっかり打ち出しながらこの議論を進めていきたい、そのように思う次第でございます。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、喜納昌吉君。
○喜納昌吉君 民主党・新緑風会、喜納昌吉と申します。
 私の憲法観を述べます。
 二十一世紀を迎え、地球規模の問題が山積する中、真の全球化に適応できる国家の枠組みを作ることは、日本のみならず全人類にとっての大きな命題だと言えると思います。チェルノブイリの事故、酸性雨の問題、地球温暖化、そして戦争など、国境線を越えて存在している様々な問題は、安全保障を含めて地球規模の問題となっています。病は地球単位であるのに、治療は国家単位で行っていたら間に合うはずはありません。今後、国益は人類益との整合性を図らねばならない時期に来ていると思います。持続可能な発展とは健康な地球と付き合うことを意味するのです。そういう意味で、日本国憲法の前文と九条は世界をリードする概念であり、理念であると言えるでしょう。
 国際協調が叫ばれる中、国連憲章の重要性はますます高まってきていますし、その国連憲章に勝るとも劣らない日本国憲法の前文と九条を珠玉にして国連改革をうたい、日本がグローバリズムの先頭に立つという気概を持って憲法改正に努めるべきではないでしょうか。
 日本はペリーの砲艦外交による文明開化で門戸を開きましたが、そのショックは現在も日本民族の精神のトラウマとして残っています。幾多の戦争を重ねた末、第二次世界大戦で敗北し、GHQと米国務省の双頭体制によって占領政策が行われ、日本の憲法学者を巻き込み、陣痛を繰り返しながら日本国憲法が制定されました。
 国連憲章に基づいて人類の規範となる憲法をつくろうと試みたマッカーサーの自然法的理想主義とダレスに代表されるドミノ理論へとつながる実定法的現実主義との葛藤のもつれが顕著に現れている憲法九十八条の呪縛は、いまだに日米安保、日米地位協定という形で日本を縛り続けています。護憲論者も改憲論者もそのことに気付いているでしょうか。我々は、護憲や改憲という視点を超え、まず憲法を独立の次元からとらえなければならないと思います。
 ローマ法典に基本を置く自然法的理想主義と実定法的現実主義を地球規模の観点から更に発展させ、真のグローバリズムのひな形を日本から構築するような新憲法を提唱すべきです。力によって押さえる全球化ではなく、宇宙に開かれた全球化を成し遂げるためには、地球こそが人類の聖地であるという理念に向かって、日本が憲法前文と九条を世界にプレゼンテーションすることだと私は思います。
 すべての武器を楽器に。
 どうも。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、白浜一良君。
○白浜一良君 公明党の白浜でございます。
 前文につきまして三点ほど意見を述べておきたいと思います。
 一つは、現在の憲法前文には人権尊重の理念が明確に表記されていないと、こういうこともございますし、前文という性格からは、もう一度憲法三原則ですね、国民主権、基本的人権、平和主義と、こういう三原則を明記した方がいいのではないかと、こういう意見を持っております。
 二つ目は、いわゆる国際貢献ということに関してでございます。
 前文の中には、国際社会の名誉ある地位を占めたいと、こういうふうにございますが、それ以上の内容はございません。ですから、いわゆる国際貢献、特に最近は人間の安全保障という、国家としての安全保障ということも当然大事でございますが、その枠組みでとらえ切れない概念、実態というものがあるわけで、人間の安全保障という理念も含めて国際貢献ということを明確にした方がいいのではないかと、このように考えております。
 三つ目は、どちらかというと全般的に人類の普遍的理念を中心に書かれておりますが、日本国の憲法として考えれば、日本人のアイデンティティーをどのように共有できるかということはございますけれども、そういうものも書き及んでいいのではないかと、このように考えているところでございます。
 それから、憲法九条の問題、またそれに類した集団的安全保障、集団的自衛権の問題ですが、これは本調査会で、かつてこのテーマで私も意見を申し上げました。ですから、重ねて申し上げるつもりはございませんが、ただ、戦後日本を考えた場合、この日本の平和と繁栄という面でこの九条の果たしてきた役割は事実上大変大きなものがあると、このように思うわけでございますし、私どももこの憲法のフォーラムを全国で開催しておりますが、率直に、参加されている方からは、この憲法九条を大切にしてほしいという、こういう意見が大変多くあるわけでございます。
 ですから、私どもの考えとしては、当然、一項の戦争放棄、二項の戦力不保持というものを前提として、あとは現実に自衛隊の存在そのものが国民の皆さんの中に大変定着もしております。また、PKO法案が大変な騒ぎの中で成立して以降、国際貢献という、自衛隊だけではございません、ODAも含めてでございますが、大変国民の中にも浸透しているわけでございまして、この問題をどのように考えるかと。これはもう現実問題、国民の皆さんの中に定着しているわけでございますから、この辺を我が党としても、私自身としても今議論をしているところだということだけを述べさせていただいて、意見表明を終わりたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、紙智子君。
○紙智子君 日本共産党の紙智子でございます。
 九条について意見を述べたいと思います。
 私、今年の九月に沖縄での米軍ヘリ墜落事故の現場に調査に参りました。宜野湾市に行って、本当に死の恐怖を味わったという県民の声や、戦後六十年になろうとしているのにいまだに基地が置かれているこの実態に触れて、県民にとってまだ戦後は終わっていないということを感じましたし、それから沖縄のこの負担を軽減するというようなことで、駐留している海兵隊の訓練の移転をめぐっての、まあ名前が見え隠れしている問題で、関係の自治体を訪問し、話をしたわけですけれども、非常に不安な気持ちを抱いていると。
 どんな戦力も保持しないという憲法九条の内容に照らしてみても、やはり現実とこの憲法との間に大きな乖離があるということを思います。憲法が現実に合わなくなっているんだから憲法の方を変えていけばいいんだという意見もあるわけですけれども、その焦点は九条だと思うわけですが、しかし、この憲法九条から懸け離れた現実を作り出してきたということの方が私は問題だというふうに思います。
 アメリカから押し付けられてきたものじゃないかという意見や、あるいは時代の変化に追い付いていないという意見も聞くわけですけれども、私はそうは思いません。
 先ほどもどういう経緯の中でこの憲法九条をつくられてきたのかという話もありましたけれども、やはり憲法九条の持つ現代的な意義についてやはりきちっととらえていくということが大事だというふうに思います。
 一つは、やはり九条が、これまで二回にわたる世界大戦の深刻な反省に立って、戦争のない世界を目指した世界の大きな流れの中で生み出されてきたものだと思います。だから、単に侵略戦争の反省ということにとどまらずに、戦争のない新しい世界を展望する、そういう決意も表明していると。それが、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄すると、九条の第一項で、国際関係において武力による威嚇又は武力の行使を禁じた国連憲章に条文を取り入れたものなわけです。そして、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」というこの文章も、国際憲章に盛り込まれた内容だと。これは、個々の国が勝手にやっぱり戦争をやることについて認めないと、平和のルールが守られるような世界秩序を作り上げようとした国連憲章の立場を日本で具体化したものだと思います。当時つくられた各国の憲法にもこの戦争のない世界を目指す流れが生かされたと思います。今日、百九十一の国連加盟国のうちで、多くの国でこの平和を求める立場というのが憲法の中にも明記されていると思います。
 さらに、この中では、第二項を作っているわけですけれども、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と。ここに世界の平和の流れの中でも先端を行く到達点があるというように思います。これは、かつて日本の天皇制政府が国際紛争を解決する手段としての戦争を禁じた不戦条約を破って自存自衛あるいは大東亜共栄圏と、こういう口実で侵略戦争をやった、そういう経験から、それを踏まえての問題として明記していると。国権の発動としての戦争と武力行使に幾重にも縛りを掛けているというのがこの中身だというふうに思います。
 それからもう一つの、やはり現代的な意義ということでいえば、二十一世紀を迎えて世界の平和秩序を求める流れが大きく広がってきて、正に今がしゅんというふうに言えるような新たな力を九条というのは持っていると思います。
 一九九九年のハーグ世界市民平和会議で、公正な世界秩序のための基本十原則、その第一項で、各国議会は日本国憲法第九条のように政府が戦争することを禁止する決議を採択すべきであるということも言っていますし、二〇〇〇年の国連ミレニアム・フォーラムでは、すべての国が日本国憲法九条に述べられる戦争放棄の原則を自国の憲法において採決するというような提案も取り上げられました。それから、来年の夏には、アナン国連事務総長の呼び掛けで、武力紛争予防のための市民社会の役割を議論する国際NGO会議がニューヨークで開かれるわけですけれども、そこでもこの九条の問題というのも取り上げられるべき問題として準備をされているということでもあります。
 今、アジアでも注目すべき新しい流れもあって、九月に北京で開かれた第三回アジア政党国際会議と、これは三十五か国八十三の政党が参加しているわけですけれども、ここで採択された北京宣言がまさしくこの憲法九条とも重なるような、国連憲章のやっぱり戦争のない世界、テロをなくす、そういう方策などを含めた内容になっているということや、東南アジア友好協力条約という条約ができましたけれども、ここでも紛争の平和的手段による解決、武力の威嚇又は行使の放棄を基本原則として確認をしているんですね。正にこの九条と重なってくる中身だと。
 こういう流れが今アジアの中でも作り出されてきているときに、逆に日本が九条を捨ててしまって、戦争をする国に変わってしまったらどうなるかと。それこそアジアでも国際社会でも日本が孤立することになるのではないかというふうに思います。
 時間ですね。ということで、ちょっと最後一言だけ。
 集団的自衛権の発言がありまして、使えるように明記すべきだというのがありましたけれども、これについてはやっぱり実態、今までの実態として集団的自衛権がどうだったかというと、過去に使われた例で、その名前で使われた例でいうと、主にアメリカのベトナム侵略や、旧ソ連のチェコ侵略やアフガンへの侵攻や、国連総会や国際司法裁判所で国際法違反だとか、そういうふうに問われたものがあるわけで、そういうことを合理化するために持ち出された議論ということもあると思います。
 そういう実態を踏まえるならば、やっぱりこれは明記すべきでないということを申し上げて、終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、田英夫君。
○田英夫君 憲法九条を改正して国際協力を自衛隊ができるようにもっと明快にした方がいいという御意見があります。確かに国際協力ということは日本の立場から重要だと思いますけれども、日本らしい、九条に沿った国際協力というものをもっと知恵を出してやる必要があるんじゃないか。今のイラクに行っている自衛隊のような有様は日本らしくない、私は思っています。武装をして、そして実はそれは戦闘をしないんだと、復興支援だと。復興支援するのになぜあれほどの武装をする必要があるのかと思います。
 それよりも、自衛隊の中から一部を独立させて、国際協力隊といいますか、あるいは国際災害協力隊という、そういうものを考えることも一つの知恵でしょう。事実、陸上自衛隊は今新潟で活動していますけれども、災害に対する非常に優れた機材を持っているんですね。武装する必要ありません。非武装の集団としてその既にある機材を使って国際的に協力をすると。災害の現場などにすぐ飛んでいけるようにするということも一つの知恵でしょう。
 あるいは、皆さんの中で、青年海外協力隊というのを皆さん御存じだと思います。国際協力事業団だったのが国際協力機構に今なって、緒方貞子さんが理事長をしておられますけれども、この機構が毎年青年たちを世界各国の、各地の、特に発展途上国に送り出している。
 私は、時間が取れる限りその出発式に行くことにしております。本当に感動をいたします。女性一人で行く場合ももちろんあります。大体一人で、一か所に一人で行くというのが最初でした。最近はグループになって行くこともあるようです。農業技術とか工業技術とかいうものも自分で持って行くわけですけれども、中には柔道を教えに行くとか、女性はお花を教えに行くとか、そういうことまで含めて非常にきめの細かい日本的な友好と親善、同時に協力という、ちょうどここに国際協力事業団の今までみたいな本がありましたが、この手紙はちょうどおととい私のところに送ってきた。最近は青年だけではなくてシニアの海外派遣も相当の数に達して、今年派遣する人たちの顔写真を紹介してくれています。
 海部俊樹さんが非常に熱心に取り組まれて、一九六五年に発足して以後、総理大臣のときも出発式にも来られて、育てたと言っていい。こういうことを、もっと予算を投入し、いろいろな職種にわたって希望する国に派遣をするという、こういうやり方も本当に日本らしい国際協力と言えるんじゃないでしょうか。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 各会派を一巡して御発言をいただきましたが、他に御意見のある方は挙手をお願いをいたします。
 簗瀬進君。
○簗瀬進君 大変、今日はそれぞれ大変有意義な御発言を聞かせていただきましてありがとうございました。
 そこで私は、憲法の特に前文について是非このような内容を入れるべきではないのかという提案をさせていただきたいと思っております。
 それは、日本も国を挙げて新しい信頼回復をしていく、あるいは日本に対する信頼の創造をもう一回生み出していく、そういう国家を挙げての信頼回復の取組をしていくんだという、そういう決意を前文に明らかにしておくべきなんではないのかなと思います。そして、その中核には未来志向の歴史検証作業を置くべきなのではないのかなと、このように考えます。
 そして、過去を振り返ってみますと、私は、ある意味でシビリアンコントロールに完全に失敗をし、軍隊が暴走することによって諸外国に大変な迷惑を掛けてしまった。私は、そういう意味では、戦前の歴史というのはシビリアンコントロールに失敗をしたという、ある意味でこれから未来に向かって臨む前の大変な教訓があるのではないのかなと思っております。それを常に振り返りながら未来に向かっていくんだという、それを我が国国民一人一人も決意を明らかにし、またそのような取組をしているということを諸外国の皆さんにもしっかりと分かっていただくことによって、本当の意味でのアジアを始めとする世界の信頼というようなものが我が国に回復されるんではないのかな、このように考えております。
 私がこのように考えるのは、いわゆるドイツの国民の英知に学ぶべきだということでございます。同じように第二次世界大戦で失敗の歴史を持っておりますドイツが、戦後に信頼回復に向けての大変な努力をいたしました。その第一番目に置いたのは、私は歴史の検証作業を永続的にやっていくということだと思います。それから第二番目に、大変膨大な予算に上る個人補償を特にユダヤの皆さんに対してやったということ。それから第三番目には、国際貢献に非常に積極的であったということ。このような三つの大きな柱を立てながら、ドイツは自らに対する失われた信頼を回復するために全力を挙げていったと思います。
 私自身、調べてみましたら、特に歴史検証という部分で言わせていただきますと、敗戦直後の一九四七年から既にドイツは自らの失敗の歴史を検証するという意味での研究所を作りました。そして、一九四七年、たしか四七年だったと思うんですけれども、このスタートした歴史研究所が一九五三年には非常にしっかりとした形に整えられて、ミュンヘンに本部が置かれ、現在も活動を続けております。そういうことで、非常にその研究作業を続けながら、平和を希求する真摯な努力をしているんだということを大変海外にアピールをしていった。
 私は、現在EUという新しい国家の枠を超えた取組をヨーロッパで行われているわけでありますけれども、その中心にドイツやあるいはフランスがあるわけでありますが、正にそのようなドイツが信頼をして、新しい国家の枠組みを超えようといった動きの中心にドイツがリーダーシップを取れるようになったということも、このような大変な真摯な歴史検証作業を行った、その結果としての信頼の回復があったんではないのかなということ、これを我が国も真剣に学ぶべきなんではないのかなと思っております。
 ある意味では、ヒットラーが武力で成し遂げようとしたEUの統合というようなものを、ヨーロッパの統合というようなものを新しいEUという発展的な形で、しかも平和を創造するという旗印の下にそれを成し遂げようとしつつあるのがドイツなんではないのかな。非常に、そういう意味では歴史の失敗に大変きちんと学んだ例なんではないのかな。それを日本もしっかりと行っていくべきだと思うし、そのような決意を前文にきっちりと明らかにしておくべきなのではないかなと、このように考えております。
 皆様の御意見いただければと思っておりますけれども。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 浅野勝人君。
○浅野勝人君 憲法九条の改正について、政党、自民党とかかわりなく、自民党の見解、考え方とかかわりなく、自らが常に思っているその思いを述べさせていただきます。
 私は、シビリアンコントロールの強化を前提に、自衛のための軍事力の存在、つまり自衛隊の存在位置をはっきりと明記をすべきだと第一に思っております。
 二つ目は、国際協力、国際貢献の義務付けをはっきりさせること。これは、ここまでは舛添教授と全く同じなんですけれども、集団的自衛権の行使については、教授のように明確に割り切れると私もすっきりするんですけれども、国連が合意した場合のみに認めるのかなと、はっきり考えを固め切っておりませんけれども、そんなふうに考えております。集団的自衛権という意味合いの、行使という意味合いが、自衛隊がよその国に行ってよその軍隊と一緒に戦をするという意味である限り慎重にならざるを得ないと考えます。
 国連軍の創設に限って参加すべきだとかねて思っておりましたけれども、過去六十年近く国連軍は創設されたことはありませんし、今後も恐らくその可能性が皆無に近いということを予測しますと、ちょっとこれは世界の国々とのお付き合いの中でハードルが高過ぎるかなと。
 今思っていることは、安保理ないしは国連総会が決定した、国連の総意で決めた事態に対しては集団的自衛権をともに行使をしていくという、これは相当厳しい限定だと思いますけれども、そんなふうに考えております。
 仮に、安保理の常任理事国になったとしても、国連ないしは安保理の決定に対して日本が自らのその事態に対する明確な態度を示しながら、その決定にイエスなら参加するし、ノーならやはりそれは加わるべきではないと。たとえアメリカがどういう態度を取ろうとも一緒に行動をすべきではないということであるとすれば、国連の常任理事国になることと自己撞着は起こさないと考えます。
 現実が憲法から乖離し過ぎているので、そこのところをきちんと考えるべきだという指摘は多いと、ありますけれども、陸海空の戦力はこれを保持しないといっても、保持しているんですから、現実が憲法から乖離をしたのではなくて、憲法が現実に取り残されたと私は思っております。
 ただ、ただ、平和憲法と言われる我々が今持っているこの国是の基本理念は大事にすべきだと。安易に、安易に扱ってはいけない。ある意味では、世界に冠たる政治哲学だと思っておりまして、そのことと、今の憲法の基本理念を大切にしていくということと、私が三点申し上げたことを書き換えるということの整合性は決して矛盾をしない事柄だと思っております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 那谷屋正義君。
○那谷屋正義君 民主党・新緑風会の那谷屋正義でございます。初めての発言をさせていただきますので、失礼がありましたらお許しいただけたらと思いますけれども。
 憲法を国民がより理解し、そしてより良いものとする議論の必要性というものを私は否定するものではないというふうに思うわけであります。そういうふうに考えているわけでありますけれども、今、現実の乖離論というふうなことのお話がございましたが、しかし陸海空のその武力を持たないというお話で、持っている、実際にはあるじゃないかというお話なんですが、しかし自衛隊そのものは、海外での集団的自衛権を行使するために元々生まれたわけではなくて、やはり自衛隊は今、日本の国民の財産なり命なりをしっかりと守るために頑張っている、そういうふうな形になっているんではないかと。今回のイラクに行った、海外へ行った自衛隊については、やはりこれはもうあくまでも違憲であるというふうに言わざるを得ないというふうに私は考えていたところでございます。
 そういう意味で、この九条の一項、二項について、一項については、これはほとんど党派を超えて、いわゆる戦争をするものではない、平和な国を目指すんだというそういう精神は多分同じように理解をされているんではないかというふうに思うわけでありますが、その具体的な在り方として、二項の中で、じゃ国際貢献はどうするんだというふうなところで今論議が非常にされてきているのではないかというふうに思っているところであります。
 そういう中で、これまでやはりこの九条が成り立ってきた、そしてこれが、九条が果たしてきたそうした役割を考えると、やはりこれを今変えるということは、とりわけアメリカでブッシュ政権が引き続いたということの中にあるならば、今、正に武断外交に追従する形になっている、そういうふうなところでこの文言を入れるということ、憲法にそうした集団的自衛権あるいは自衛隊云々というものを入れるということは、そこに入れるということの重みというのは非常に大きいものがあるんではないかというふうに思うわけであります。
 じゃ、世界的なそうした貢献はどうするんだという、そういう問題が出てくるというふうに思いますけれども、それについては、前にこうした会にも意見が幾つか出されたというふうに伺っておりますけれども、やはりそうしたいわゆるその平和を守るための、あるいは安全保障のためのいわゆる基本法なるものをそこにやはりひとつ置いていくということが私は今一番現実に合った、そしてこの憲法の精神をこれまでのように生かしていく、そのためにはそういったものが今必要ではないかというふうに思っています。その安全保障、例えば基本法という、仮称ですけれども、そうしたものを置くことによって、国民及び近隣諸国の理解を得ることができる、またそのことが重要であって、日本への信頼と抑止力にもなっていくんではないかというふうに思っているところであります。
 これは、ある会で八十八歳になる方が述べられていたことでありますけれども、その方はお二人のお子さんがいらっしゃいますけれども、一人のお子さんがまだおなかの中にいるときに夫を戦争に送らなければいけなかったと。そして、そのおなかの中の子が生まれて小学校に入るころには、もうお父さんはいない子供になっていた。そして、学校で、今日は、図工の時間に、今日はお父さんの絵をかいてみましょうというふうに、そういう授業があったときに、その子はどうしていいか分からずに、ただただ泣くばかりであったと。そして、ふだん我慢強い子であるけれども、その子は家に帰ってもお母さんの胸に飛び付いていって、すごい悲しい顔をして泣いていたと。そうすると、お母さんは、その子を抱き締める中で、こんな悲しい思いはもう私の娘、私だけで十分だと、絶対に未来の子にはそうした思いはさしてはならないという、そういう思いを強く持って八十八年間頑張ってきましたというような話を聞くならば、これは単なるそうした話だけでなくて、その精神というものを私たちは引き継いでいかなければいけない。
 そういう意味でも、学校教育の中でもやはりそうした平和教育をすることによって、武力による様々な成果を収めようとするものはあり得ないんだということを、イラクにおいても、今回NHKで珍しくテレビでやっていましたけれども、イラクの病院に入院している子供たちが出ていました。そして、その子供たちが何を言うかといったら、六歳の子ですけれども、それが、僕は大きくなったらあのアメリカ兵をやっつけるんだと。アメリカの飛んでいる飛行機を落として、そしてその飛行機を乗っ取って僕はその飛行機に乗ってアメリカ本土を攻めていくんだと、こういう言い方をしている。
 いかに大義があるかないかはともかくとして、やはりそうした武力によって事を収めていこうということはやはりあり得ないということ、そのことは肝に銘じていく中で、その精神が今の九条の中に生きているのではないかというふうに思います。
 そういう意味で、九条は今は変える必要ないというふうに思いますし、今後世界貢献の中では、平和基本法なるものをひとつ制定していくということが大事ではないかというふうに考えるところです。
 済みません、長くなりまして。
○会長(関谷勝嗣君) 愛知治郎君。
○愛知治郎君 ありがとうございます。自民党の愛知治郎でございます。
 私自身、戦争の体験はしたことはないですけれども、もちろん戦争は体験したくございません、これからもですね。一番犠牲になるのは、若い兵士であり、女性であり、子供たちである。いろんなお話ありましたけれども、戦争はやはりしたくないし、避けなければいけないものだともちろん思っております。ただ、先ほど田委員からもお話ありましたけれども、私自身も小さいころに、武器持たなければ紛争は起こらないのかななんて思ったこともありました。しかし、今現実をいろいろ見て、なるほど、学んできたというか、そう簡単にはいかないんだなという思いをいたしております。
 といいますのも、例えば、もっと単純に考えて日常生活に照らし合わせてみますと、私自身今独り暮らしをしているんですが、家から出てきてこちらの国会に来るときに必ずかぎを掛けます。また、家に帰ってもかぎを掛けます。もちろん、法律上は人の家に侵入しちゃいけないですから、法律はありますけれども、やはり自衛の手段、かぎは掛けます。怪しい人がうろうろして怖いなと思ったら、警察に電話をして、済みません、怖い人がいる、何とかしてくださいとお願いすることもあります。
 現実には様々な法律があって、特に刑法上、人を殺してはならない、傷付けてはならない、物を取ってはならない、いろんなこと決まり事はありますけれども、それを実際に守らせるために実行力というのはどうしても必要、警察が要らないと思う方はまずいないと思います。そして、この国内でも警察官の方々、もちろん日ごろから武術、体を鍛えて鍛錬をして、またピストルを、武器というものを持って、そして現実的な平和、安全を、治安を担保している。このような組織、単純に比較することはできないかもしれないですけれども、国際社会、大きな世界の中でも同じようなこと、似たようなことは言えるんじゃないでしょうかというふうに申し上げさせていただきたいというふうに思います。
 例えば、もちろん自国を守るために侵略を許さない、生命、財産を守るためということもございます。例えば、もう一つは、この間のような災害があったときに警察組織、いろんな方々が、じゃボランティアで助けに、ボランティアというか、そういう協力をしに行きましょう、貢献しに行きましょう、災害復旧しましょうということもあるかもしれませんし、ごくごく日常でもそうですけれども、例えば道を聞いた、迷子がいたらちょっと保護してくださいと頼みに行くこともあるかもしれません。極端な話かもしれないですけれども、暴力団が、大規模な組織が大きな抗争をしそうだという状況になったときに他県から、全国から警察官応援に来てもらってそれを抑制しようという実行力が必要になる場合もあるかもしれません。
 いろんなケースがあって、自衛隊と直接、全く置き換えるわけにはいかないですけれども、これは現実と向き合って、いかに日本、自国の安全、そして世界の平和を守っていくか。これは実際の形を見ながら、もちろんその乱用を防ぐという形は必要ですけれども、現実を見据えた上でしっかりと憲法上もその制度を構築していかなければならないと私は思います。
○会長(関谷勝嗣君) 喜納昌吉君。
○喜納昌吉君 陸海空を保持しているというお言葉が出ていたんですけれども、厳密に言えば、陸海空を保持させられていると言った方が正しいと私は思うんですけれどもね。いつも、朝鮮半島から風が吹くとアメリカ風邪にかかるというのが日本の僕は歴史だという感じがするんですね。
 思うに、結局、日本国憲法に、基本的には皆さん、その何というんですか、憲法九条は、あれは前文というのは六十年前のものであって古くなったと言うんですけれども、私から見ると、この憲法、日本国憲法にでき上がった自衛隊そのものがおできとなって、病となって膨れ上がってしまっているという。これは自国の本当の軍隊であることに疑問があるということですからね。だから、我々は、その中にあるそのアメリカのとげを取らなくちゃいけないということ。この自衛隊をどこで、それじゃ我々はそのうみを出すかということにすると、これは国連しかないんですよ、国連。我々は国連の中にこの軍隊を、そのうみを出すことによって、そうして自衛隊というものを浄化して、集団的自衛権というものも基本的には国際協調の名の下に認知させていくという考え方が必要だと私は思っているんですね。
 そのためには、一つ安全保障というものを作っていくために、日本が、今現実的な問題として述べていたんですけれども、そういうワクチン、この戦争が、この日本が抱えているひとつ病を治すワクチンを、沖縄をうまく使えばいいんではないかと私は思っているんですよ、これは。まあちょっと極端な言い方なんですけれども、沖縄を独立させるぐらいの気持ちを持てばいいです、これ。それは国連に委託するんです、信託統治でもいいですから、そしてそこにひな形を作っていくという。そうして、自衛隊は正に人類の先頭に立って、自衛隊の武力が人類の先頭に立って、この全人類から武器を解体していくという方向にベクトルを国連と協調しながら作っていくという一つの概念も持ってもいいんではないでしょうかと思っていますね。その意味では、中国ともEUともアメリカとも、あらゆる全人類を招きながら話合いをしていくという方法もあるんではないかと私は思っています。
 是非、沖縄を、このトランスフォーメーションの流れの中で危険な場所にするのではなくして、平和の配当という形、平和の配当という言葉がありましたが、今度こそ沖縄を平和の地政学として使ってほしいという気持ちがありますね。
 よろしくお願いします。
○会長(関谷勝嗣君) 舛添君。
○舛添要一君 まず申し上げたいのは、今非常に抽象的な概念として平和ということを語っていますけれども、平和というのは極めて具体的なものであるということを再確認したいと思います。
 私自身、カンボジアに参りました、このイラクにも参りました。カンボジアで殺された中田君という大阪の青年がおります。私と彼とはポル・ポトの攻撃にさらされる可能性があったときに、インドネシアの精鋭のパラシュート部隊の機関銃によって命が守られました。私は、このときほど武器というものが有り難いと思ったことはない。ですから、機関銃そのものがいい悪いという話ではなくて、どういう使い方をするかです。
 しかし、シェムリアップの北の方に中田君が行ったときには武器がなかった、したがって彼は殺された。こういう現実に対して、どういう答えを皆さん出されますかと。私がイラクに行ったときは、アメリカ軍の武器によって命が守られた。
 つまり、具体的なものであって、抽象的なものじゃない。日本というのは戦場になったことがない。戦争というのはどういうものかというのは具体的な形で体験したことがない。そこから出てくる抽象論というのは、現実に紛争が行われている世界にあっては全くある意味で説得力を持たないんではないかということをまず申し上げたいと思います。
 それから、先ほど浅野委員の御発言もございましたけれども、確かに皆さんおっしゃるように、この地球上から武器がなくて一切の紛争がなくなって、みんなが本当に平和を愛してテロリストも一人もいなくなると、そういう理想の社会が、世界が来ることをみんな願っていると思います、ここにいる調査会のメンバーも。しかし、それはいつ来るんですかと。
 現実に、九・一一以降の世界はテロとの戦いということで、今行われている米軍のトランスフォーメーションを含めてすべての政策がそういう方向に向かっているときに、その現実を見据える必要がある。理想は理想として、現実を見据える必要がある。抽象論ではなくて具体論が必要だと。
 そこで、第九条のその第一項の理想的なことは、これは私は別に変える必要はないと思うんですけれども、しかし、それならば、国連と我が国の関係をどうするかということを真剣に考えないといけない。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」。しかし、国連が、我々は国連のメンバーである、国連が武力の行使によって侵略した国を制裁するといったときに、国連のメンバーとしてどういう行動を取るのかと。
 国連軍ができるとして、国連軍の中に自衛隊を入れるという発想、国連待機軍という発想を持っている方々もおられますけれども、そうすると、国際紛争を解決する手段として永久にこれを放棄するなら、武力の行使できない。武力の行使を国連軍がやろうとするときにどうするのか。そのことは、憲法と国連憲章との関係をしっかり考えておかないといけないというふうに思います。そして、国連軍ができない間は、国連憲章は国連のメンバーになっている国の軍隊を使うことができるということになっていますから、国連軍できなくてもその問題は起こってくると思います。
 ですから、日本国と国連との関係を念頭に置いたときには、九条の一項ですら若干の矛盾が起こってくる可能性があるということを指摘しておきたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 富岡由紀夫君。
○富岡由紀夫君 今ちょっと国連との話もありましたけれども、国連に加盟していたら、いろんな軍事、国際紛争の解決に必ず国連軍に参加しなくてはいけない、国連の集団安全保障に参加しなくちゃいけないというのは、ちょっと私は異論があります。もしそんなような国連だったら、すぐに直さなくちゃいけないと、国連に対して異議を申し立てなきゃいけないんじゃないかと私は思っております。
 国際貢献のやり方について、私はちょっと考えてみる必要があると思うんですね。何も国際貢献するのに、すべての国が軍事的な武力行使によって国際貢献、国際紛争の解決をしなくちゃならないということは絶対ないと思います。
 世界の中で、さっきお話、田議員からありましたけれども、モンゴルでしたっけ、非核宣言みたいのを国連の中で採択して堂々と発表する。日本も、先ほど日本は戦場になっていないというお話がありましたけれども、日本は一番悲惨な目に遭った国だと私は思っております。あの東京の大空襲、沖縄のいろんな攻撃、そして広島、長崎のですね、広島、長崎の核爆弾の投下とか、一番悲惨な体験を負っている国だと思っています。だから、この日本がやる、国際社会の中で振る舞う立場というのが私はあると思うんですね、日本だからこそ言えるような立場。
 例えば、さっき言いましたけれども、不戦宣言みたいのを国連の中で堂々と発表して宣言しちゃって、それを国際世論の中でどんどんどんどんそういう仲間を増やしていくような、国際世論を広げていくような活動というのも一つのやり方じゃないかなと思っています。
 何も世界各国、世界のほかの国と同じような行動を、軍事的な武力行使によって国際紛争をする行動だけを、日本も同じ、世界のそういった国と同じようなことをそれはしなくちゃならない必要は絶対ないと思います。いろんな立場立場の国があって、日本は日本のそういう経験があるわけですから、その経験を踏まえた上で、日本は平和憲法を持っていて、そしてその非軍事的な平和貢献を日本は目指す国だということを堂々と高らかに宣言してそれに同調する国をどんどんどんどん増やしていくような、そういう在り方もあると思います。
 で、さっき言ったように、国連の中でいろんな、一つの方向に向かなくちゃいけないなんというふうな国連で決議があるんであれば、そんな国連にお金を出す必要はないと思うんですね。一九%も日本はお金を出しているということになっていますけれども、全くそれが、意見を入れられないような国連であればもうどんどんどんどんお金を引いちゃって、国連の中で日本の議論をもっともっとステータスを上げるような議論に持っていくべきだと私は思っております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 直嶋正行君。
○直嶋正行君 ちょっと議論があっちこっち出ているんですが、私が最初にお話しした、民主党の考え方を申し上げましたが、これは国連による平和維持活動、平和創造活動には我々は参画すべきだということを申し上げました。
 で、これは結局、我が国が憲法九条によって自ら武力行使やあるいは国際紛争解決の手段としてその武力を行使しないと言っている意味合いは、国連憲章の中で、第二次大戦あるいは第一次大戦も踏まえて、それぞれの国は国際紛争を解決する手段として自ら武力行使はしないようにしましょう。そして、それは国連の枠の中で解決をしましょう、話合いで解決しましょう。そして、もし万が一その話合いではなくて武力によって物事を解決しようとする国があるならば、国連が警察力という形で国連軍を出してそれを鎮圧しましょうと。まあそういうことが国連を作った意味合いであって、基本的に日本のこの憲法第九条も私はそういう観点に立っていると、これは前文と九条を併せて読むとそういうふうに読めるというふうに思っています。そういう意味で、国連を前提にした、国連の平和維持活動を前提にした考え方を、この前文、九条の考え方を明確にすべきだということをさっき申し上げたわけです。
 ただ、もう一つは、先ほど来いろいろ議論がありますが、日本はしかしその中で三軍の戦力は持たないと。
 政府の見解によると、自衛隊を創設した当時から一貫して政府が言っていることは、自衛隊は武力ではありませんと、戦力でもありませんということを公式に言っているわけであります。したがって、しかし実態は、実態が離れたのか憲法が離れたのか分かりませんが、我が国の憲法で決めて書かれていることと現実の自衛隊の間には大きな落差がある。で、それが国民の目から見ると一体何だと。しかも、国会でいろんな議論がされます。例えばイラク特措法のときも様々な議論がありましたが、国民の目から見るとどうもよく分からないというのが今の実態じゃないかと思うんですよ。
 ですから、もう一つ私が申し上げたのは、日本は専守防衛という立場を明確にして自衛のための武力は持つことは当然必要じゃないでしょうか。これは自然権として認められていることでありますから当然じゃないでしょうかと。ただし、そのレベルとか使い方については国連の考え方に沿って、つまり、自ら武力によって物事を解決しない、それから武力の行使はできるだけ抑制的に行うと、こういうことはやはり明確にしておかなけりゃいけないんじゃないかと。それから、武力をもし使うとしても、それはあくまでも国連の活動、集団安全保障活動が始まるまでの活動であって、最終的には国連にゆだねるんだと。これは、今の日米安全保障条約もそういう前提で今条約はできているというふうに理解しています。
 したがって、そういったことを再確認をして、明文化をして、そして実態と憲法、まあ憲法が空洞化している、形骸化していると私、申し上げたのはそのことでありまして、それと実態ときちっと整合性を持つ形にすると、そういう努力をしなければいけないんじゃないかということを、九条に関して申し上げるとそういうふうに申し上げたつもりであります。
○舛添要一君 三分間、発言の機会をお与えください。
○会長(関谷勝嗣君) では、舛添君。
○舛添要一君 今の富岡議員にちょっと反論をさせていただきたいと思います。
 理想は理想として非常に結構でございますし、今おっしゃったことは、私が予算委員会で小泉総理に御質問したら、小泉総理も同じようなことでおっしゃいました。しかし、この国際連盟、国際連合というのは歴史をしっかり見る必要があると。国際連盟がなぜついえて、ヒットラーやムッソリーニの台頭を許したかと。それは、力によるこの独裁者に対抗するという手段を持たなかったからであります。
 したがって、その軍事的・非軍事的強制措置というのを国連憲章が決めたわけでありまして、それで、しかも我が日本国総理は安全保障理事会の常任理事国になりたいとまで言っている。しかし、国連憲章の三十九条は、安保理は、平和に対する脅威、平和の破壊、侵略行為の存在を決定することができ、さらに三十九条で、平和と安全の維持又は回復のための勧告。事態の悪化を防ぐために、必要又は望ましいと認める暫定措置に従うよう関係国への要請を行うことができる。これ、四十条です。
 さらに、四十一条と四十二条には、さらに、軍事的・非軍事的強制措置を決定し、加盟国にその履行を命じることができる。したがって、その履行しなさいといったときにやらないよということは、加盟国のメンバーとしての義務に背反することになる。
 で、国連軍がまだ指揮されていませんから、したがって今の間はPKOという形で我々は参加し、また多国籍軍という形で参加するということ、もちろん国連安保理の決定があった上でのことですから、ですから、今の御意見で、国連の中で頑張るというのは非常に難しくなるんじゃないかなというふうに思います。
○喜納昌吉君 今はよろしいですか。
○会長(関谷勝嗣君) 幹事会でも……
○喜納昌吉君 ちょっと、三時ぐらいということですから……
○会長(関谷勝嗣君) ちょっとお待ちください。ちょっとお待ちください。
 幹事会でも一時間を目途にということになっておりまして、あと第二弾目を午後三時五十五分から参考人に来ていただいて、そこでまた論議をするわけで、その間に他のスケジュールがあるものですから、この合間を取っておるわけですから、まだ皆さん大勢希望者はあるんでございますが、今日の前段はこの時間で、一応幹事会でも決定をしておりますことで、皆さんのお許しをいただいて一度閉じさせていただきたいと思います。
 したがいまして、午後三時五十五分に再開することといたしまして、休憩をいたします。
   午後二時四十八分休憩
     ─────・─────
   午後三時五十八分開会
○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 「憲法前文と第九条(国際平和活動、国際協力等を含む)」について、元防衛研究所研究部長、元ボン大学客員教授の西岡朗参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、まず西岡参考人に二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えをいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、西岡参考人にお願いをいたします。よろしくお願いします。
○参考人(西岡朗君) ただいま御紹介にあずかりました西岡でございます。
 時間が余りないようなので、早速レジュメに従ってお話を進めてまいりたいと思います。
 この三つの、主権国家の絶対性、政軍関係の厳格な支配、軍隊のイメージということをまず押さえておいていただいて私の話を聞いていただければ有り難いと思います。
 主権国家の絶対性と申しますのは、主権国家の自由、行動の自由、これは絶対的なものであるというふうにまず考えております。そこから出てきますのが国家主権の自由の絶対性。それから、もう皆さん余りお耳になじみがないと思いますけれども、我々の時代には、国家理性に基づく戦争は国家の至高の権利、至高というのは極めて高いですね、高い権利であるというふうなことを言われておった時代がございます。
 実は私が考えますのに、この国家理性に基づく戦争というものを憲法九条は否認しておる。それ以外に、しかし、主権国家の行動の自由を確保するためにそれ以外にも主権国家には軍事力が必要ではないか。皆さんすぐ思い至られると思いますけれども、実は自衛隊、これは名前のとおり自衛隊です。
 それから、今余りそういうことは、今まで余りそういうことは言われておりませんけれども、主権国家として国際社会に存続していくために国際社会の安全保障を共同して行う、国際的安全保障について軍事力の役割は多分あるであろうと。その部分は、今言いました国家理性に基づく戦争以外に我々が持たなくてはいけない軍事力であろうというふうに考えております。そういう意味で主権国家の行動の自由の絶対性ということをとらえております。
 それから次に、政軍関係における厳格な支配、これはもう絶対的なものでありまして、ここに書いてある「いかなる武装団体も、」というのは、これは実はフランス革命のときに、フランスの最初の憲法をつくる前にフランスの国会でこういう宣言をなされております。この意味が、この言葉が実は五八年、一九五八年の第五共和国発足まで憲法の中に含まれておりました。現在の憲法には含まれておりませんけれども、その趣旨は今でも生きておるというふうに言われております。
 それからその次に、軍隊のイメージ、この軍隊のイメージというのは皆さんいろいろお持ちでございましょうけれども、シビリアンコントロールないし政軍関係というときに持っていただきたい軍隊のイメージというのは、ここに書いてありますように、机の上に置かれてある手入れの行き届いたピストルである。
 どういう意味かと申しますと、ピストルは無機物でありまして、引き金を引くほかの人がいなくては発動できない。軍隊もそのようなものであって、引き金を引かなきゃ動いてはいけないものである。シビリアンコントロールのときにいいますならば、それを、引き金を引く唯一の者はシビリアンである。多分、現在の日本のような先進的な民主主義国家ということであれば、議会の信任を受けた政府、その首長である首相以外にそれを持てる人はいない。
 そういう意味の、そういう意味で、机の上に置かれてよく手入れされたというのは、常に自衛隊というのはいつでも引き金を引かれれば弾丸が出るようにしていなくてはいけない、そういう意味でございますが、常に発動できる体制が常に整える、しかし引き金を引かれなければ動けない、そういうものが軍隊のイメージであるというふうに持っていただきたいと思うわけでございます。
 それで、実は私のペーパーにも少し書いたのですが、軍隊について不吉なということをハンチントンが言っておりますね。不吉なイメージが人々の間に残っている。実は私は、これはもう今の民主主義社会においては多分払拭されているのではないかと。
 昭和天皇は、多分十五、六歳ぐらいのときに乃木大将と非常に、常に接触しておられた。ある軍人像をお持ちになっておったと思うんですね。ところが、昭和になって、大日本帝国の元首になられて、自分のところに来る軍人のイメージというのは、はいはいと言って聞くけれども実はその自分と違うことをやっていくような、そういうのが続いたというふうに昭和の戦争の歴史では書かれておりますけれども。まあ、そういうふうなイメージはもう今や民主主義国家の軍隊にはないだろう。現実に私も、今日ここに来るまでにいろいろな国の、少なくとも第二次世界大戦以降、この政軍関係を見てみましたらそういう問題は起こっておりません。
 ということは、近代民主主義国家の軍隊というのは、もうある意味でシビリアンコントロールの原則は受け入れているということになっているのではないかと。不吉な感情というものは潜在的にあるかもしれないけれども、実はもうなくなっているのではないか、そういう感じがいたしております。
 なぜ、それじゃ不吉なというふうなことをハンチントンは言ったか。このハンチントンというのは例の、最近では有名な文明の衝突ということを言い出した人ですが、この人が若いころに政軍関係の本を、「軍人と国家」という本を書いておりまして、実は私の本もかなりもうそこから恩恵を受けておるものであります。
 そこで言われていることは、元々シビリアンというのは一体何なんだというと、これはここに書きましたように、王侯貴族その他取り巻きの特権階級に対して我々シビリアン、要するにコモン、コモナーですね、あの平民。それが政治を持つ。これはフランスの啓蒙思想の思想から受け継がれているわけですけれども。
 このシビリアンコントロールということを言い出したのは実はアメリカでありまして、これは、アメリカの独立戦争と我々は言いますけれども、実は革命戦争とアメリカ、英語では言っているみたいですね。その革命する、何の革命かというと、英国の国王に対する反乱軍であった。それがシビリアンコントロールの始まり。
 そういう意味で、その国王とか貴族とか特権階級に対する一般市民という意味がシビリアンコントロールのその含意としてあるということで、少なくとも私が主張していますような近代的民主主義がそのシビリアンの要件かどうかということについては、その発足当時には果たしてそうであったかというのは分かりません。
 なぜかと申しますと、その当時は、実はアメリカのその革命戦争をリードしたのはアメリカの植民地の大農園主。ある意味では特権階級であったわけです、平民ではありますけれども。そういう意味で、シビリアンというのは、果たして我々が今考えているような民主主義の政治家であったかどうかということについてはやや疑問がありますけれども、元々はそういうことであった。
 それから、この次、そのコントロールの本質というところに行きたいと思いますけれども。
 これは、皆さん多分、日ごろそういうことに御関心がずっとお持ちであろうと思いますけれども、だれかを支配する、だれかを服従させる、それは実は金、処遇、暴力というふうに、暴力というのはちょっと強い言葉ですけれども、ある場合には、ある人のスキャンダルを、種をつかまえて言うことを聞かせる。そういう意味では、その支配・服従関係というのは一般の間には成り立っているわけですね。
 ところが、政治と軍事の関係において言えば、ここに当たる暴力というのは実は軍隊そのものが持っているわけです。ですから、政治が軍隊に対して統制を利かせようとすると、実力行使というのは政治からはできない。結局その暴力に代わるものは何かというと、政府に対する国民の支持、国民の支持のある政府に対して軍隊反抗すると、そのときはひょっとして成功するかもしれないけれども長もちはしない。そういうところにあると思っております。
 ですから、シビリアンコントロールの、我々現在考えるシビリアンという意味を反映させるとすれば、政府に対する国民の支持、それが暴力、一般の支配関係における暴力に代わるものである、そういうふうな認識を持っております。
 そういう意味で、いかにしてシビリアンコントロールを担保できるかというところに移りますが、これは、実はこういう言い方をすると身もふたもないんですけれども、実は暴力を持っている者がもう強いのは当たり前なんですね。これは今のブッシュのイラク戦争と言われるものをお考えいただいてもそうでありまして、一番強い人がもうアメリカの利益と言ってその軍事力を振り回せば、これはどうにもしようがない。これはもちろんブッシュ大統領はシビリアンですけれども、その軍事力を振り回すという点についてはだれも抵抗できない。それを軍人が振り回すと困るというわけでございまして、じゃ、シビリアンコントロールを担保できるのは何かというと、結局もう軍隊の側でその原理を受け入れるという姿勢がない限り実は有効に機能しないものであると、実はもう私はそのように割り切っております。
 そういう意味で、実はハンチントンが挙げておりますのは、だから、政治の不信感、民主主義政治に対する軍隊の中に不信感があればこれは成り立たないのであると。その要因として、これを一から四まで挙げておりますけれども、多分私が考えますのに、今の日本でいえば、まず二、三というのはまずない。一と四がひょっとしてあるかなということになると思います。
 憲法の理念に対して国民間にコンセンサスがないということに関して言いますと、私はたまたまドイツで少し生活したことがありますので、ドイツの例で考えますと、ドイツは実は憲法改正について三分の二、皆さん御承知だと思いますけれども、やはり日本の憲法と同じで三分の二の枠がはめられているわけですけれども、それでも五十一回やっている。日本ではできなかったという、そこに何かやはり、どっかにそういうものが残っているのではないかと私は考えております。
 それから、政府の決断と能力に対して不信感が増大している。これは実は私、自衛隊におりましたときに言われたことは、戦前の日本は政治のリーダーシップがないために軍は何でもできたと。しかし、戦後の日本の自衛隊は政治のリーダーシップがないために何もできないという不満を私は自衛官から聞いたものであります。そういう意味で、自衛官ということに関して言えばそういうものが少し残っているかなという気はしないではありません。しかし、最近の状況はうんと違っておると思います。
 その次、時間がございませんので次に移りますが、現在の我が国のシビリアンコントロールの特色というのは内局制度と自衛隊の行動の法制化でございます。ただ、これはシビリアンコントロールの必須の要件ではない。内局制度というのは我が国の行政カルチャーから出ているものだし、それから行動の法制化というのは警察予備隊、警察というのは一つ一つの行動自身に法律の裏付けがなければ行動できないというのは御承知のとおりだと思いますが、それを実は警察予備隊から受け継いでいる。
 これは軍隊のものではありません。軍隊というのは無法の状況の中でその実力を行使するものでありますから、一々枠がはめられていたんでは自由な行動ができない。だから、軍隊について言えば、これはシンプル・イズ・ベストで、こういうふうな、ここの別紙に付けましたような自衛隊の行動、これ、最近もっと詳しくなっていると思いますけれども、数が増えているかもしれませんが、こういうものが列記されておりますけれども、実はこれは警察的発想であって、軍隊というのはもっと自由でなくては、せっかく高い予算を払って維持しているにもかかわらず、不効率な運用しかできないということになります。
 そういうところが我が国のシビリアンコントロールの特色としてあるわけですが、次は、じゃ我が国のシビリアンコントロールについて考えてみますと、自衛官は私はシビリアンコントロールの原則を受け入れていると思います。ただし、これは積極的に多分受け入れているわけではなくて、こういう状況ではもう当然のこととして、あるいはやむを得ず、自分に何かいろいろな物の考え方があったとしても、こういう民主主義社会の中で軍事力が突出することというのはあり得ないんだという、そういうふうな認識の下でそういう状況があるんだと思いますが、ここに列記しましたようなことがあると思います。
 多分四番目のところが私の本に書いてなかった部分でございまして、統治勢力と政治観、憲法観、歴史観が一致している、あるいは危機感を共有しているということがやはり日本の自衛隊がシビリアンコントロールを受け入れている以上に今の自民党永久政権に対する親和感というものがあるんだと思っております。それが現在の日本のシビリアンコントロールのかなり大きな心理的要素、維持の心理的要素だと考えております。
 ちなみに、自衛官の憲法認識というのは、私の認識は多分今でも間違ってないと思いますけれども、一つはアメリカの押し付けである。それから、国家が国民の権利義務を決定する形式の憲法ではない。要するに、今の憲法というのは、国家は国民に対してこういうことはしませんよ、それによって自由な空間を国民社会に作るということなんですが、そういうのはちょっとなかなか一般的な憲法認識として持っていないようでございました。今でも多分そうじゃないかと思います。それから、軍事に対する規定がない。これはやっぱり自分自身のアイデンティティーの問題にかかわりますので。しかも、その条文を読めば否認するかのごとき条文になっておる。これは自衛官のプライドの問題としてかなり大きな問題があるのではないか。
 それで、ここのところに、例えば徴兵制の問題について、政府見解などを皆さんに事前にお配りしたと思いますけれども、要するに憲法の条項で、そういう例えば奴隷的拘束とは言わないにしても、過酷な労働はさしちゃいけない、多分十七条だったですか、そういうことが日本国憲法が徴兵制を禁止する理由だというふうに言われたんでは自衛官はたまらない。これは当時問題提起をした竹田五郎さんの言うとおりだと思います。
 だから、憲法、私の考えますのに、日本国憲法というものは、実は九条だけではなくて、そういうほかのところでもやはり自衛隊の自衛官のそのプライドにやっぱり傷付ける条文が、私はそれを条文として使う政府見解の方がおかしいとは思っておりますけれども、現実にそういうことがあった。今そういうことは言われておらないと思います。これは中曽根内閣の出る前、鈴木内閣のときにそういう政府見解が出ておりまして、その後多分なくなっていると思いますが、そういう時代があった。で、そういうものがやはり自衛官の中にうっせきしておるということはあると思います。しかし、これは私が防衛庁を退職して十何年かになりますので、もう今ではかなり皆さんの御理解が得られてこういう問題はないのかもしれませんが、そういうものが残っていると思います。
 結局、結論として、まとまりないんですが、それぞれシビリアンコントロールというのはその国の政治的伝統によって維持されるものであって、特別にこういうものがあるから維持されるというものではない。だから、ある程度の基本原則を踏んだ上で、やはり我々自身が確保していくものであろうというふうに考えております。
 かなり雑駁な話になって恐縮でございますが、時間になりましたので。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いをいたします。
 荒井正吾君。
○荒井正吾君 自由民主党の荒井正吾でございます。
 大変参考になる御意見ありがとうございました。幾つか限られた時間で御質問をさせていただきます。
 まず、戦前のことを聞いて恐縮でございますが、現在の外交で日中関係あるいはアジアとの関係である程度影を落としておりますのが、戦前の軍の行き過ぎ、軍の政治介入あるいは民主的な政治関与の排除という面があると思います。その際、戦前の軍が使った概念で統帥権という言葉が、考えがございます。統帥権は、政治権力からの軍事行動への介入を排除して、むしろ天皇の下の軍隊だという考えかと思いますが、そういたしますと、軍事行動の責任が天皇に及ぶという危険な内容を包含しておる面もあろうかと思います。
 戦前の統帥権の概念あるいは軍の取った行動についての先生のお考えがもしあれば、お聞かせ願いたいと思います。
○参考人(西岡朗君) 統帥権の問題は、多分明治時代と昭和では変質しているというのが私の考え方でございます。「坂の上の雲」を皆さんお読みになっておられると思いますが、要するに、あの当時は元老とかそういう人たちが集まって明治天皇と一緒に国家の意思決定を決めたわけでございますね。ところがそれが、これは司馬遼太郎なんかが言っているんですが、大正になってから学校制度が整備されて、そして帝国大学の法学部が政治を行い、軍のエリートが軍事を行う。そういう形ができたところに、昭和天皇は、自分に責任を及ぶように憲法は作られておらずに、何か問題があればそれは大臣以下の責任になる、どういう問題があっても。そういう形になっておりますものですから、自分の意見を強制されなかったわけですね。そうすると、意見は述べられたにしても、相手がもうノーと言えば、相手あっての軍部ですが、ノーと言えば、そのままでいったというのが実は昭和の姿なんでございます。
 ですから、私が考えますのに、その問題は、実は軍が昭和天皇の意図が分かっているのにそうでないことをしたというところに問題があるのでありまして、もし天皇がそういう、実は自分の平和的意図に反するような意識を昭和天皇自身がお持ちであったならば、天皇に責任が及ぶことがあるべし。しかし、現実にはそうではなくて、軍部がその天皇の意図は分かっていながらそれと違うことをやった、それが幾つも幾つも重なって、結局我々は破滅を見たということでございますので……
○荒井正吾君 ありがとうございました。
○参考人(西岡朗君) 失礼しました。
○荒井正吾君 次は、政治が軍事行動に関与するのに、分野として、戦前の言葉で軍政と軍令ということがあろうかと思います。軍政は今で言う防衛力、防衛力整備、軍令は作戦構想、防衛構想への政治関与でございますが、軍政への関与は予算、金が掛かりますので、予算統制という形で戦前も今も比較的政治関与がしやすい。しかし、軍令、作戦はなかなか情報が共有されないので難しい。今日は海上警備行動が発令されましたが、そのときの情報開示というのが十分かどうかというような問題があろうかと思います。
 アメリカの軍の行動では、軍はポリティカルデシジョンメーカーにバトルフィールドインフォメーションを正確に即時に届けるという大きな義務を感じておるというように聞いておりますが、日本の自衛隊は、そのバトルフィールドインフォメーションを政治決定者、政治責任者に届けるというような点で十分であるんでしょうか。お考えでしょうか。どのように見ておられますでしょうか。
○参考人(西岡朗君) 実は、申し訳ないのですが、私はその点についてタッチしたことがないので、ちょっと確かな……
○荒井正吾君 失礼しました。じゃ結構でございます。
 じゃ、次はシビリアンコントロール、いかにしてシビリアンコントロールを担保するかという点でございますが、最近では特に軍の行動に対する法の支配ということが各国とも言われておると思います。日本もそういう面があろうかと思います。軍事行動の責任をどう取るかと。先生の今の御意見では、その担保は軍人の姿勢だという点が強調されたわけですが、そのコントロールを外れたときの責任をどうするかという点も私は議論する必要があろうかと思います。
 軍事行動の責任で、例えば軍令違反、例えば満州事変を関東軍が起こしたということは、今、行き過ぎた判断で軍令違反を起こしたときに、どういう裁かれ方が軍人さん、されるんだろう。軍事法廷はないわけで、当時も軍事法廷でありましたが、その軍令違反は人事、左遷で終わったわけでございますが、それが大きく禍根を残した。同じことは、政治介入をした二・二六事件、五・一五事件の場合でもその軍事法廷で裁かれて、刑法の例えば殺人罪に今だとなるような罪を裁かれなかった面があると思いますが、法の支配を今徹底する、シビリアンコントロールの支配を徹底するための法の支配というようなことについて、先生の御見解が聞かせていただければ幸いでございます。
○参考人(西岡朗君) これは軍隊に軍法というものがございまして、今例示をされました件についてはすべて軍法、法で処理されました。じゃ一般の刑法をそういうふうな軍の行動に対して適用できるかというと、多分どこの国でもそれは適用しておらないと思います。
 ですから、そういう意味で、今の日本国の在り方ですと、これは全部刑法の問題になっているわけですね。軍法を持っていないわけです。それがいいのかどうかということです。少なくとも戦前のそういうケースの場合には、軍法をやる法務官、あるいはどこかから圧力掛かったのかもしれませんが、随分甘い処置をしているなという感じはしますが、しかしそれは軍法の処置の中で行われた。
 だから、その軍法を特別持つことが必要なのかどうかということよりも、軍の内部における法の適用でございますね、もし軍法を作ったとしても。今の日本国憲法の下ですと、軍法は作っておりませんので、一般的に刑法の適用を受ける。そのときに、何といいますんでしょう、きちんとした情報開示を軍が裁判所にして、それにふさわしい刑罰を受けられるようなところまでインフォメーションが出されるかどうかというふうな問題になるのではないかと思っております。
○荒井正吾君 今日、海上警備行動が発令されましたが、軍隊の行動に対して、警察の行動は警察官職務執行法で武器を使う場合は厳しく制限がございます。これは警察及び海上保安庁も同じでございます。要は、相手に、警察比例の原則で、蚊を殺すのに大砲をもってしちゃ駄目だ。例えば懲役三年以上の罪と思われる場合でしか危害射撃をしてはいけない、そのほか威嚇射撃、正当防衛、緊急避難ということに限られておるわけでございます。軍にはこの警察官職務執行は適用ない中で、その治安維持あるいは警備行動ということが現在あるわけでございます。
 一方、したがってROEのような、その危機の状態でのその法、あるいはガイドライン、基準を作るべきだという考えありますし、私も必要だと思うわけでございますが、今の軍法というと、軍の、市民法、刑法との調合とかという面も出てくると思いますが、軍の目的であれば政治、例えば政治不信があれば軍人がそれを直すといって軍事介入をすれば総理も殺せるという軍法の中の裁きになる心配もしないわけではありません。海上警備行動などの場合の法の適用について、軍の行動に対する法規範について、先生のお考えを聞かせていただければと思います。
○参考人(西岡朗君) 軍の行動に対する法規範というのは、先ほどの御質問に関連すると思うんでございますけれども、私の記憶では、その点について研究したことはございません、ただ単に記憶で申し上げるんですが、自衛隊法に武器の使用という項目がございまして、それに基づいて自衛隊は行動しておる。そのときに、先ほど御指摘のありましたような警察比例の原則は軍隊が毛頭守る必要はない、指揮官が必要であると思う武力行使をやればいいのでありまして。そういう問題であろうかと思います。
 要するに、私も最初、さっきの私の話の中で述べましたように、シンプル・イズ・ベストでありまして、軍隊の行動について法規範を考える、民生協力とかそういうものは別としまして、軍隊が本務であるところの防衛行動あるいは治安行動あるいは警備行動、武器を使うですね、そういうところでその法規範を法によって縛ろうとするのは実は軍の本質とは抵触するものではないかというのが私の考え方でございますので。ちょっとお答えになっておりませんでしょうか。
○荒井正吾君 今のは思想的に大変厳しい対立を呼ぶ点だと思いますが、先ほど議論ありました平和構築のために自衛隊が海外に行って治安維持活動をするといったときの発砲原則を、国際基準と日本の軍隊の法規と合うのかどうかと、あるいはどちらがいいのかどうかという問題にも惹起するわけでございます。
 治安維持の、現地に行って、東ティモールなりルワンダなりカンボジアなりに行って、外国の軍隊の基準と彼我を比べてみる経験は自衛隊にとって大変必要だと思いますが、今の先生の御意見だと、その国際的な基準との整合性とかというのは何かお考え、特にありますでしょうか。
○参考人(西岡朗君) 私が考えておりますのは、軍、自衛隊は実は二元的支配、その国内法と国際法の二つのその法の支配を受けているんですが、一般論で申しますと、普通の国の軍隊は国際法に違反をしなければ何をしてもいいというのは、これは原則でございます。
 ですから、今のその御質問によりますと、その国際的に認められている、そういうものにさえ従えばいい、それに違反すれば自衛隊はけしからぬということになるんでございましょうけれども、その国際のその慣行に従っている限りにおいては何ら非難されるべきものではないと思います。ただし、今言いましたように、日本のその法制自身が法の二重支配ということをやっておりますので、それをもしぎくしゃくするようなことがあるとすれば、それは政治の側でそういうことの起こらないように処理すべき問題であろうと考えておりますが。
○荒井正吾君 最後の質問をさせていただきます。
 各国の軍は、アメリカも含めて、警察勢力に近づこうとしております。陸軍、米軍の再編成も、機動性とともに火力を小さくして、機動力を増して、情報で照準を正確にすると。それはテロのような非対称的な脅威に対応するための戦力の、能力の変換、存在よりも能力というふうに米軍が展開しておるところは御承知のとおりでございます。
 その際に、軍が警察化するときに、軍と警察は基本的な違いがございますが、警察は証拠を隠滅をしちゃいかぬ。証拠を取ってコートに出すと。ブッシュ政権も軍を使うときに、フセインの悪行をコートに持っていくと、ジャスティスの基準を提供すると言って軍を使ったわけでございます。破滅させるんじゃなしにコートに出すには警察のための能力が私は必要だと思うんですが、法規を逸脱する超法規的な軍の行動というのは、それは厳に戒めないかぬ世相だと思いますが、国際紛争に対応する日本の自衛隊、あるいは国際紛争の元になる、テロの温床になる国境犯罪、国際犯罪に、軍が、日本の自衛隊が寄与できるかどうかについて、大変重要な問題だと思うんですが、その軍の機能について、そのような観点の最近の世相について、先生はどのように判断されておりますでしょうか。
○参考人(西岡朗君) 今、世界の軍隊が、むしろ戦争よりも、先ほど申しました治安維持ないし警備行動の方に、実際行動するのはそういう方面に行っているというのは事実でございまして、その場合に治安問題をどういうふうに考えるか、治安行動をどういうふうに考えるかということについて私の考え方を申し上げます。
 それはどういうことか。実は戦争というのは無法の中で行われますが、その後で実は、警察が、警察活動ができるように地ならしをするのが治安行動だと思っております。そうしますと、その中では、実は警察のように一々法律によって縛ってできる活動もあるかもしれませんが、それではできない部分もあると思うんですね。
 そういう意味で、やはり軍隊については法の縛りは掛けないというのは一つの前提でありまして、その状況その状況によって法が適用のある場合もある。そのときに、いや、それをだれが決めるかというところで、多分そこでまたシビリアンコントロールの重要な問題が出てくるのではないかというふうに考えております。
○荒井正吾君 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 簗瀬進君。
○簗瀬進君 民主党の簗瀬進でございます。
 私は、このシビリアンコントロールの論議というのは、実は今までかなり不十分であると思っております。
 なぜかといえば、自衛隊が軍隊かどうかというそもそも論の論議が非常に我が国の憲法論議ではウエートを占めておりまして、その結果として、自衛隊の活動範囲がどんどんどんどん広がり、海外にも活動するような状況になっておりながら、自衛隊をどういうふうにコントロールしていったらいいのか、あるいはどういうふうに管理していったらいいのかという部分についてのオープンな議論が、今まである意味では封じ込められてきたと。これは非常に重要なポイントだと思います。
 軍隊かどうかという論議はさておき、自衛隊というものを前提とした上でも、憲法で、新しい憲法をつくる、あるいは憲法改正を論議をするといったときに、この自衛隊のシビリアンコントロールについての基本原理を憲法の中にやっぱりきちんと定めておくような、そういう姿勢は絶対必要なんではないのかなと。
 そういう観点から、先生の御著書にございます二つの憲法が結構詳細に引用されております。
 一つは、一七八七年にできたアメリカ合衆国憲法であります。アメリカ合衆国憲法の第一条第八節、議会の権限ということがここにあるわけでありますけれども、その第十一項には戦争を宣言するのは議会の権限であると。正に、戦争を開始するかどうかということの決定は議会がやるということが、これきちんと憲法に定められております。それから、歳出の予算についても、これは二年を超える期間にわたることはできないと、こういうふうなことが極めて明定されております。これは憲法事項になっておるわけであります。それから、陸海軍の統制及び規律に関する規則を定める、これについても議会の権限であるということがきちんと明らかになっている。これがアメリカ合衆国憲法であります。
 同じように、敗戦をした西ドイツ。西ドイツ基本法というようなものがありますけれども、これも先生の御著書に引用されておるように、西ドイツ基本法の六十五条では、防衛に対する議会の責任というようなもの、基本法というのは、これは西ドイツの憲法ですから、正に防衛に対する議会の責任というようなものがきちんと六十五条で原則規定が置かれた上で、七十三条には、防衛に対する専属的な立法権は議会にあると。それから八十七条で、これは軍隊ということでありますけれども、その出動条件は基本法、すなわち憲法によって明示されていなければならないということが憲法上きちんと定められております。その後に、百十五条のaの一というところで、防衛事態の確定は議会の同意が必要であると、こういうふうなことも憲法できちんと定められております。また、予算についても議会が定めなければならない。また、議会の要求による出動停止ということも憲法事項として、これは八十七条のaの四項で定められているわけであります。
 さて、日本国憲法をこれから考えていく場合に、私は今もって、議会の権限について、これは立法でも様々な対応になっています、事前だったり事後だったり。こういうふうなことであっては本当の意味でのシビリアンコントロールはできないと思います。でありますから、憲法でその辺はきちんとやっぱり書いて、しっかりとコントロールできるような、そういう原則を憲法に置いておくべきなんではないのかなと考えますが、いかがでございましょうか。
○参考人(西岡朗君) それはおっしゃるとおりだと私は考えておりますが、もう一方で、私が今考えておりますのは、その国その国によって憲法のつくり方があると思うのでございますね。ですから、今おっしゃいましたようなものを憲法に入れるような憲法をこれからつくるのか、あるいは今までの、現在、日本国憲法のように、そういう条項は何もないけれども、しかし現実にシビリアンコントロールはきっちり貫徹しておるというのでいいのではないかという憲法をつくるのか、それは選択の問題だと思って、どちらが正しいという問題ではないと思っております。
 特に、私が申しました、これから余り防衛出動とかそういう問題がない時代、先ほど御指摘がありましたように、国際協力に関して軍事力を使うということはあったとしても、そういう時代に移っていくのであればという気もしないわけではないのですが、御指摘のとおりだと。ただ、それは選択の問題だと思います。そうでなくてはいけないかどうかということについては、私は言い切る自信がございません。
○簗瀬進君 もし憲法にシビリアンコントロールの原則を書き込むとしたら、先生のお立場として、これとこれだけは是非とも入れるべきであるとお思いになることをちょっと整理して御説明いただければと思います。
○参考人(西岡朗君) これは、例のルイス・スミスの原則があったと思いますが、議会では戦争の宣言ですね、それから予算。それから立法府では、だれが指揮権を持つかということは大変、非常に大切なことでございまして、指揮権を持つのは行政府の長であろう。それから裁判所は、軍隊がひょっとして国民の自由を侵すようなことを不法にした場合には、ちゃんと裁判所がそれをけじめを付けることができるような制度にしておくと。この三点は、シビリアンコントロールということを規定に置かれるならば落としてはならないことだと考えております。
○簗瀬進君 済みません、時間がないのでちょっと早口になっておりまして、お許しください。
 シビリアンコントロールを文民統制というふうに新聞で訳されることも多いんです。しかし、直訳はそうかもしれませんけれども、先生の御著書を読んでみますと、シビリアンコントロールはもっともっと広い概念であるべきであると。民主的統制あるいは国民の、主権者による議会の統制というようなものがシビリアンコントロールの本質であると、こういうふうに御著書では御説明なさっておりますけれども、シビリアンコントロールとは何かというように言われた場合は、そのポイントをどのように御説明なさるんでしょうか。
○参考人(西岡朗君) それは、近代民主主義的立憲政治による軍隊の統制であると。それはイコール政治統制ということに現実にはなると思いますが、シビリアンという意味を強調するんであれば、近代民主主義的立憲政治によるという、その政治にその上が掛かると思いますが。
○簗瀬進君 先生の本で私も非常になるほどなと思ったのは、シビリアンを文官というふうに訳してしまいますと、実はヒットラーも文官であったと。というふうなことで、ヒットラーもちゃんとシビリアンコントロールはやっていたんですよという、こういうふうなことになってしまう。それではちょっと違うんじゃないのという御指摘があるんですけれども、その件についてはどうでしょうか。
○参考人(西岡朗君) それは、私はそのように考えております。そのシビリアンの意味、今、最初にちょっと御説明しましたけれども、最初は、王侯貴族に反抗する者である、それから特権階級でない者である、それから制服を着ていない者である、それだけのことであったんですね。しかし、我々のような成熟した民主主義国家になれば、当然にそういう人たちは、ヒットラーのようなただ制服を着ていないというだけのコントロール、これは単なる政治コントロール、専制主義による政治コントロールである。それと区別する意味で、民主主義的な政治を背景にした政治コントロールを文民統制という、あるいはシビリアンコントロールという、そういうふうに考えております。
○簗瀬進君 先ほど同僚議員から戦前の話でございました、いわゆる統帥権の独立、あるいはそのほか帷幄上奏というようなことで天皇と軍隊が直結をする、その結果として政治的な統制、あるいは不十分ながらもあった民主的統制がすり抜けられてしまったと、こういうふうな歴史が私はあったと思います。
 ちょっと昨今の話に急に飛んで恐縮でございますけれども、現在、防衛参事官制度を廃止すべきであるというふうな議論がございます。また、防衛事務次官が現在統幕よりも上位で持っている自衛隊に対する監督権、これを、防衛事務次官が現在持っている自衛隊に対する監督権、これを統幕長の方に移すべきだと、こういう議論があるようでございます。
 これが現実のものになってしまいますと、正に、天皇ではないけれども、首相と自衛隊が直結をするという形で、新たに平成の統帥権独立制度、あるいは平成の帷幄上奏制度を作ってしまうんではないのかなと、私はそのような懸念を持っておりますが、先生の御所見をいただきたいと思います。
○参考人(西岡朗君) 今の御指摘でございますけれども、首相とその統幕議長の間には防衛庁長官という国務大臣が入ると思います。
 それで、私の考えでは、このペーパーで説明できなかったのですが、内局制度というものは、これは行政カルチャーからきている。実は、統幕議長も実は官僚のトップなわけですね。ですから、それは政治家に従わなくてはいけない、そういう問題。そうすると、その政治家が実はすべてのアイデアを出して、そしてそれを命令化するのが統幕あるいは各幕なんです。ですから、そのことがなされていないがゆえに、先ほどのあの例によりますと、昭和天皇は、自ら責任を負うような憲法に作られておらないために、部下にそういう責任を全部負わせるのは悪いと言ってそういうリーダーシップを発揮されなかったという。
 ところが、今の憲法ではそういう遠慮は毛頭ないわけでありまして、だから、その政治家が自分の頭でどういうことを軍に指令するか。その指令が間違っているんならば、それはそれを選んだ国民の問題になると、そのように考えておりますが。
○簗瀬進君 若干の残り時間がございますので、重複するかもしれませんけれども、現在はもちろん憲法には、この差し入った自衛隊に対する管理とかあるいはコントロールについての基本的な原則というのはもちろん書かれていないわけです。一方で、PKO、あの周辺事態法、イラク特措法と、こういうふうな個別法律が作られました。しかし、個別法律の中で国会の関与がどういうふうに位置付けられているかというと、事前であったりあるいは事後であったり、今もって国会の関与についての原則的な決めができていない状況になっている。非常に国会の関与が混乱をしたシビリアンコントロール法制が日本の現状であると私は認識をいたしております。
 この部分は私は大変問題なんではないのかなと思っておるんです。きちんとしたやっぱり、海外に自衛隊を出すについても議会の関与はこうあるべしという原理原則を、せめて法律の中でも統一したものをやっぱり作るべきであるし、そうでない限りは、本当の意味で議会がいわゆる自衛隊に対するコントロールというようなものはこれはできないと思うんですね。
 このような現在の混乱した法制について、先生の御感想と今後の方向性についての御提言があれば聞かせていただきたいと思います。
○参考人(西岡朗君) 特別措置法によっていろいろ行われているということは、その状況状況によって政府が、この問題は議会にあらかじめ諮らなくてはいけない、あるいはそういう問題は事後承認でもいいんじゃないかというふうに政府がそういうふうに判断したわけでございます。
 ですから、一般的に、私は軍事の問題、最初から言っていますように、縛るのは良くないというのが基本的な考え方でございますので、そのときそのときの情勢によって政府が国会に、これはあらかじめ言っておかなくちゃいけない、あるいはこの問題は事後でもいいんじゃないか、その決断はやはり政府にゆだねるべき問題ではないかというのが実は私の考えでございます。
○簗瀬進君 私は、若干御意見の中に矛盾があるような感じがするんですけれども、参考人としてのお話でございますので、そのまま承らせていただきまして、私の質問は終わりにさしていただきます。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。今日はありがとうございます。
 今、話にも出てきましたけれども、やはりシビリアンコントロールが十分機能するというためには、国会が果たすべき役割、非常に重要だと思っております。
 今、先生もお話しになりましたように、このルイス・スミスの五つの機能しているかどうかという判定基準の中でも、国会が、和戦の決定でありますとか緊急事態における権限の付与、予算の議決及び軍事政策執行に対する究極的な監督権の行使を行うこと、これを述べられているところでございますし、また我が国にも現在、国会によるシビリアンコントロールは十分機能しているというふうに考えるところでありますけれども、他方で、参考人のこの「現代のシビリアン・コントロール」という御著作の中でも言っておられますように、今の先進国家が要するに行政国家化していく、議会優位の民主主義体制から行政優位の形態に変貌しているという、それはまあ我が国でもそうだろうと私は思うわけであります。
 したがって、シビリアンコントロールの面においても、より専門性や機動性を持った行政府によるシビリアンコントロールにウエートが実質的には増していくんではないか。逆に、国会によるこのシビリアンコントロールが次第に形骸化していくんではないのかなというふうに懸念するものであります。
 ドイツのように、連邦議会に防衛受託者というような防衛オンブズマンですか、あるいは強力な調査権限を持ち、閉会中も開かれることが保証された防衛委員会が設けられている国もあるわけでありますが、我が国において、国会によるシビリアンコントロールを形骸化させず、むしろ実質的に高めていくにはどういうふうにしたらいいだろうかというふうに、特に具体的にどのような案件を国会の議決事項とすべきか、この点について先生のお考えをいただきたいと思います。
○参考人(西岡朗君) 今の点でございますけれども、これはルイス・スミスの挙げております立法府、行政府、それから裁判所の機能をしっかりすることによってシビリアンコントロールは成り立つと思っておりますので、これは現在の日本の法制度の中でも十分に守られ得るものであると考えております。
 特別に何をするかということについて、例えば、御指摘ありましたように、ドイツのように防衛受託者を多く国会に置く。それは実は、軍人の身分を守るために置いているわけですね、不当な扱いをその実力組織の中で受けていないかどうか。そういう意味で、軍人の身分を議会がサポートしてやるという機能は今の日本の行政組織の中にも議会にもございません。それは欠けております。ですから、それは自衛官のためにしていただければとても自衛官は喜ぶことだと思います。
 ただ、それ以外の予算、それから戦争の権限を議会、予算を持つ、戦争の権限を議会が行うというのは、実はこれは現在の日本国憲法でもそのとおりにできることでございますので、それ以上特段な、何回も申しますが、軍事力というのはなるべく縛ってくださいますなということが私の考えの基本でございます。
○魚住裕一郎君 この先生のレジュメの中で、我が国の特色として、内局制度と自衛隊の行動の法定化、この二点挙げられているところでございますが、ただ、必須要件ではないと、こういうふうに書いてあります。
 ただ、これ二つがあることによって、欧米諸国よりも更に一層徹底したシビリアンコントロールになっていたんではないのかというふうに考えるわけでありますが、この点につきまして、内局をもうやめようという意見も含めて、ちょっとコメントをいただければと思うんですが。
○参考人(西岡朗君) おっしゃる一面は確かにあると思うんでございますけれども、欧米以上にコントロールしていることがいいのかどうかというのは私の疑問でございまして、こういう制度を作って、しかもこれ、内局制度というのは、何ら責任を負う必要のない官僚が軍隊を結局はコントロールしている。これは自衛官にとってこれほど屈辱的なことはないわけです。官僚ならおれたちだって官僚じゃないかと、じゃ、なぜその文官官僚の下にユニホームだといって置かれなきゃいけないのかと。その説明は実はなされていないわけですね。
 それは単に我が国の、こういうことを言うとあるいはお気に召さないかもしれませんが、今までの政治が、こうしろということを決定するのを官僚組織に任していた、それが自衛隊にも来ている。だから、その部分が、すべての政治問題について、政治がこうしろと言って官僚、例えば大蔵省に指示してそれをずっとやらせる、そういうふうな制度になるのが実は私は正常な形だと思っています。それを、政治がそのことをしないがためにこれが有効に機能しているというのは、実はおかしいのではないかというのは私の基本的な考え方です。
 ちょっと時間、申し訳ないんですが、これは大蔵省の主税局と国税庁の関係を考えていただければいいと思うんですね。主税局である基本方針を作って、で、実はそれを大蔵大臣の決定にして、それを国税庁に実施させる、そういうイメージでその自衛隊、内局とその自衛隊と防衛庁長官、あるいは総理大臣の関係をイメージに抱いていただければ、少し私の申すことが御理解していただけるのではないかと思うんでございますが。
 失礼いたしました。
○魚住裕一郎君 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 先ほど参考人は、軍隊のイメージが不吉だという、これは払拭されたのではないかというふうにおっしゃいましたけれども、その根拠について伺いたいと思います。
 憲法九条について改正是か非かというアンケート調査やると、九条に関していえば変えない方がいいという国民世論が過半数を、どのアンケート調査によっても超えているんですけれども、その底にはやっぱり軍隊のマイナスイメージというのが強烈に残っている面もあるんじゃないかと思うんですが、その点はいかがですか。
○参考人(西岡朗君) その点は否定すべくはないと思います。しかし、それは幻想であるというのが私の考え方です。もう今やこういうふうな高度に複雑化した社会で、軍隊が政治をどうしようということは軍隊の能力を超えているということは、もう自衛官が十分に承知していることでございます。
 これは、こういうことを言うとまた差し障りがあるかもしれませんが、政治家の皆さんにとっても実は超えるような部分があるんではないかと。そういうところを単なる軍事専門家である者がコントロールできるわけがない、そういう自覚はあります。もちろん、たくさんの軍人が、自衛官がおりますから、突拍子もない考え方を持つ人間は絶無ではない、それはあり得るでしょう。しかし、それが軍隊を動かすような、いや自衛隊を動かすような力になる、そういう世の中にはもはやなっていないというのが私の認識でございます。
○吉川春子君 私、昔から憲法六十六条の意味が分からなくて、どう理解していいのかなってずっと考えてきたんですね、学生のころから。いまだにちょっと分からないですが、憲法九条の下でシビリアンコントロールの意味ですね、これはどういうものなんだろうか。
 先ほど来お話がありました、自衛隊がいろいろ暴走しないように国会に報告、事前にあるいは事後に行えとか、これも憲法六十六条の規定によっていると参考人はお考えですか。
○参考人(西岡朗君) 申し訳ございません、六十六条はどういう規定でございましたでしょうか。
○吉川春子君 済みません、文民でなくてはならないという規定です。
○参考人(西岡朗君) それは全然別の問題からあの文民条項はできている。戦争に負けた当時、軍人が復活するのではないかと恐れて、かつてユニホームを着た人は排除しようという条項だけであったというふうなのが私の理解でございます。
 それで、今おっしゃいましたようなことを私は最初に言ったつもりでございますけれども、実は我が国の憲法九条は、国家理性に基づく戦争をしないということを国民の皆さんに政府はお約束をし、そして、あれは、九条というのは「日本国民は、」と書いてございますね。ですから、日本国民、あれは、憲法の規定では「日本国民」と主部になっているところはまずほかにはないと思うんですが、日本国民はそれを世界に宣言した。それは何かというと、国家理性に基づく戦争はしないということを宣言したのでありまして、自衛力を持つ実力組織を持つ、あるいは先ほどから問題提起なさっておられるような国際安全保障に関して日本の武力が使えることがあれば、それは九条の問題でも何でもない。九条が禁止しているのは国家理性に基づく戦争だけであろう。
 ですから、交戦権があるから駄目じゃないかと言われますが、あの交戦権というのは、実は国家理性に基づく戦争の権利というふうに理解するのが、かなり私はそれが一番と思っておりますが。
○吉川春子君 ちょっと話が変わりますが、参考人は元ボン大学の客員教授でいらしたと、この肩書を拝見いたしました。
 それで伺いたいんですけれども、さきの戦争に対しての戦争責任の取り方が日本とドイツとは大変異なっております。個人に対する払った補償の金額ももう、日本は基本的には個人に補償はしていないわけですけれども、ドイツの場合ではユダヤ人に対する迫害などについて相当の補償を払っておりますし、それから、今もまだ続いているんですけれども、企業のそういう戦争責任については何百社かの企業と政府が折半して基金を出してそこから、金額は少ないんだけれども、やっぱりその責任を明確にするという意味で払っているというふうに聞いております。
 私、ポーランドに行ったときとオランダに行ったときに、私、政府の代表でもないんですけれども詰め寄られたのは、ドイツの首相は地面にひざまずいて謝ったと、何で日本はしないんだと、私全く野党なんですけれども、そういうふうにおっしゃった方もいるんですね。
 そういうことから見て、先生はドイツに一定期間御滞在になったと思いますが、戦争の責任の取り方が、彼我の違いですね、そういうことについてはどういうふうにお考えでしょうか。
○参考人(西岡朗君) 戦争責任と申しましても、私の認識ではドイツと日本では異質であろうかと思います。
 それはなぜかと申しますと、ドイツの場合は国民が一致してヒットラーの下に、しかもヒットラーが近隣諸国に軍事力を、それに国民が一致して支持した。日本の場合は、これは実はああいうふうにヒットラーの頭の上から下ろしてきたもので国民一致して行動したものではない。そういうふうに一致して行動したからこそ、ドイツ人は戦争責任を引き受けるについてほとんどの人がやぶさかでない。もう私がドイツにいたときはそうでない人にも会ったことありますけれども、それが一般的だと思います。
 ところが、日本の場合には、そういうふうに自分たちの昭和の戦争を認識している人がそれほどいないんですね。その部分の違いだと思います。だから、我々自身がどういうふうに昭和の戦争の責任を認識しているか。それが、例えばブラントがワルシャワでひざまずいてユダヤ人の墓に参ったというのと、それから、A級戦犯が靖国神社に祭られておられても何ら心理的抵抗は感じないと言われるのと、それはそこの違いだと思います。
 だから、これは要するに国民がそのことを認識しているか、していないかの差でありまして、その行動が国に現れているというふうに考えます。
○吉川春子君 最後の質問なんですけれども、先ほど自衛官の憲法に対する意識の中で、奴隷的拘束、十八条ですか、憲法、これが大変嫌なんだというお話されましたけれども、私、前に自衛隊員の意識、もう十年以上前なんですけれども、平和を守るために自衛隊に入るんだと答えているということを見たことがあるんですけれども、今はやっぱり自衛官の意識が時代とともに変わってきて、これ、当然そういう規定が憲法にないのはけしからぬと、こういうふうに変わってきたということなんでしょうか。
○参考人(西岡朗君) そういう規定とおっしゃいますのは。
○吉川春子君 いやいや、さっきおっしゃったその、軍事に関する規定がないというふうにおっしゃいましたね。そのことです。
○参考人(西岡朗君) 軍事に関する規定がないというのは、ほとんどの自衛官のプライドの問題だと私は理解しておりますが、一方で、先ほど御指摘があったように、別の条項では苦役、奴隷的拘束ではないにしても苦役であろうというふうなことを、はっきり申しまして自民党政府の総理大臣がそういう答弁書を国会に出しておられる。これは、やはり皆さんもそのお立場になってごらんになれば、やはりそのプライドの問題として受け止められるんじゃないでしょうか。
 ただし、何回も言いますように、こういう政府見解は今はないと思います。しかし、あの当時、戦後三十年もたってもそういうことが言われておった、しかも保守政権の下で。そのことはいかに、その自衛官のプライドを、現在、今は違うと思いますが、政治は知らず知らずのうちに傷付けてきたのではないか。そのプライドを傷付けられたことによって、昔の軍隊ならわっと怒ったんでしょうけれども、今の自衛官はもっと民主主義に対する認識が強いからそういうことはしませんというふうに私は認識しておりますが。
○吉川春子君 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 田英夫君。
○田英夫君 シビリアンコントロールは自衛隊発足以来大原則であったわけで、これはもう守らなければいけないのは当然と言えるんですが、最近、私などが感ずるのは、この大原則が危なくなってきているんじゃないだろうかという気がいたします。
 自衛隊の制服の、特に幹部クラスの皆さんとは私も時々意見交換をします。例の日米ガイドラインの審議をしたときなどは、こちらから頼んで、日米間の交渉に出ていた制服の人とも話しまして、非常に、むしろシビリアンよりも憲法に対して非常に忠実といいますか、そういう感じさえ持ちましたから、これから申し上げるようなことを言うと失礼に当たるかもしれませんけれども、ある意味ではシビリアンコントロールというのは安全弁であるということが言えるのではないか。
 今まで皆さんがおっしゃらないところを言おうとしているわけですが、つまり、戦前の体験から考えて、軍部の暴走ということがありました。あるいは軍隊の五・一五、二・二六というようなことがありました。そういうことを私も若干少年時代覚えておりますから、思い浮かべてみると、やはりシビリアンコントロールというのは守り抜かないと危ないと。自衛隊といえども、本当に失礼ですけれども、武装集団ですから、そういうことを考えておかなければいけないのではないかという気がするんですが、先生はどういうふうにお考えになりますか。
○参考人(西岡朗君) 基本的にはおっしゃるとおりだと思います。
 ただ、何回も私は申しておりますように、もう私自身の認識では、軍隊に対する不吉なという認識の目でもって自衛官を見るような時代ではない。時代ではないというのは、彼らの意識が変わっている。それは、変わっているのはなぜかというと、こういうふうな、皆さんよくおっしゃいますが、要するに、放縦と飽食の時代において昔のような軍隊の行動に出る、まあこういう言い方するとそれこそ自衛官にしかられるかもしれませんが、そういうことをバックボーンにして、かっと目を見開いて政治を正してやろうというふうにはならない、そういう時代になっているというのが私の認識でございます。
○田英夫君 実は私は、新聞記者をやっていたころに、右翼の巨頭になっていました三上卓という人にしばしば会いました。それは、五・一五事件の犬養首相を問答無用と言って撃ち殺した本人でありますが、軍法会議で処刑されたはずが、戦後、忽然として現れて、本人に会ってみたら、満州へ行っていましたという話なんですが。
 それはともかく、彼に当時の、なぜああいう、五・一五というのは一種のテロですね。そんなに人数多くなくて、それで青年将校が集まって、海軍が中心ですが。二・二六事件というのは、私はこの目で現場を見ていました、赤坂見附辺に集結しているのを。これはクーデターだと思いますね。昭和天皇が、先生も書いておられるけれども、一生の中で数少ない判断を下された中で、これは反乱軍であるということで間もなく鎮圧されたわけですけれども。
 どうしてああいう行動にあなた方は出たんだということを三上卓氏に聞いてみたところが、要するに、政治と財界の腐敗だと言うんですね。ここに書いておられるとおり、不信感というか、そういう支配層に対する不信感が武装集団の中で芽生えると危険なことになると。今、あたかも、ここで言うのもおかしいんですが、政治家から腐敗が出てきていると、財界の中でも腐敗があり、以前は常識では考えられないような、指導的な立場にある会社の指導者がおかしくなってきていると。こういうことを、この状況を、純情であればあるほど自衛官の幹部の人たちは不信感を増大さしているんじゃないかなと思いますが、いかがですか。
○参考人(西岡朗君) それは、多分そのとおりだと思います。
 ただ、そうであったとしても、それが武器を持って政治に向かうというレベルのものではない、それは、何回も申しますように、平和と繁栄というものがその人々の、自衛官の中にも入り込んでおりまして、武器を持ってしなければこの腐敗を直せないとは決して考えておりません。この腐敗を直さなくても日本国民はそこそこちゃんとやっていける国民である、そういうふうな認識の方が武器を持って立とうという認識よりもはるかに高いというのが私の自衛官に対する認識でございます。
○田英夫君 自衛隊の実態は私もある程度承知しているつもりです。むしろ、若い下士官クラスの人から下は、もう昔の軍隊と比べたら全く雰囲気が違うと。むしろ少し元気がないんじゃないかというか、自殺者が結構出ていたり、そういう問題がありますから。
 しかし、このシビリアンコントロールということを考えたときには、本当に五・一五、二・二六等が起こっていく中で、結局戦争が拡大していったんですね、正に二・二六のこの年に日華事変が拡大したわけですから。そういう過去のことを考えると、本当に今の現実、自衛隊という集団があって、そして腐敗が起こっているというこの現実の中で、私も政治にかかわる者としては本当に真剣に考えなけりゃいけないところだと思っております。
 ありがとうございました。終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人におかれましては、大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後五時二十分散会

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