第147回国会 参議院憲法調査会 第7号
平成十二年五月二日(火曜日)
午後一時一分開会
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委員の異動
五月一日
辞任 補欠選任
本岡 昭次君 円 より子君
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出席者は左のとおり。
会 長 村上 正邦君
幹 事
久世 公堯君
小山 孝雄君
鴻池 祥肇君
武見 敬三君
江田 五月君
吉田 之久君
魚住裕一郎君
小泉 親司君
大脇 雅子君
委 員
阿南 一成君
岩井 國臣君
岩城 光英君
海老原義彦君
扇 千景君
片山虎之助君
亀谷 博昭君
木村 仁君
北岡 秀二君
陣内 孝雄君
世耕 弘成君
谷川 秀善君
中島 眞人君
野間 赳君
服部三男雄君
松田 岩夫君
浅尾慶一郎君
石田 美栄君
北澤 俊美君
笹野 貞子君
高嶋 良充君
角田 義一君
直嶋 正行君
円 より子君
簗瀬 進君
大森 礼子君
高野 博師君
福本 潤一君
橋本 敦君
吉岡 吉典君
吉川 春子君
福島 瑞穂君
平野 貞夫君
佐藤 道夫君
事務局側
憲法調査会事務
局長 大島 稔彦君
参考人
元連合国最高
司令官総司令
部民政局調査
専門官 ベアテ・シロ
タ・ゴードン
君
元連合国最高
司令官総司令
部民政局海軍
少尉 リチャード・
A・プール君
(通訳 池田 薫君)
(通訳 長井 鞠子君)
(通訳 西村 好美君)
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本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
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○会長(村上正邦君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
日本国憲法に関する調査を議題といたします。
本日は、憲法調査会設置後、明五月三日、初めての憲法記念日を迎えるに当たり、日本国憲法のいわゆるマッカーサー草案起草に携わった当時の連合国最高司令官総司令部民政局関係者の方々から日本国憲法の制定過程について御意見をお伺いした後、質疑を行いたいと思います。
本日は、参考人といたしまして、当時、調査専門官として草案起草に携わり、人権に関する小委員会に所属されていたゴードン女史、また、当時、海軍少尉として草案起草に当たっては、天皇・条約・授権規定に関する小委員会の責任者をされていたプール氏に御出席をいただいております。
なお、当時、陸軍中尉として草案起草に当たっては、行政権に関する小委員会に所属されていたエスマン氏にも御出席をお願いしておりましたが、健康上の理由により、私のところに出席不可能の通知を診断書を添えていただいております。残念ながら、そういうことで欠席されることとなりました。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、本調査会のため、はるばるアメリカよりお越しいただきまして、まことにありがとうございます。調査会を代表して厚く御礼申し上げます。(拍手)
また本日、委員各位におかれましても、大変、連休の谷間に何かと御用御煩多の折にもかかわらず、全員御出席を賜って御協力を賜っておりますことを会長として厚く御礼申し上げます。
参考人の方々から忌憚のない御意見を賜りまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。
本日の議事の進め方でございますが、ゴードン参考人、プール参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、委員各位からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まずゴードン参考人からお願いをいたします。ゴードン参考人。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君)(通訳) 参議院の皆様、私は、本日呼ばれましてこの重要な場でお話をすることができますことに御礼を申し上げます。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、ベアテ・シロタ・ゴードンと申します。
きょうは遠くから来た方もいると思います。しかし、私が一番遠いところから来たと思います。ニューヨーク市から来ました。憲法調査会が私を呼んでくださったことを大変光栄に思います。ありがとうございます。
そして、憲法調査会ときょうのお客様の間にこんなに多くの女性も参加しているのは本当にうれしいです。これは第二次大戦の前には考えられなかったことですので、五十五年の後にこのようなことが実際に起こるというのは夢みたいです。女性参議院議員四十三人が今活躍していることは、本当におめでたいです。アメリカのセナトよりずっといいです。アメリカで女性はセナトに九人だけです。ですから、日本の女性たち、おめでとうございます。
一九四五年の十二月に、私はアメリカの軍属としてニューヨークから日本へ飛んできました。私は五年間日本を見なかったので、破壊された東京を見たときに心が痛みました。私はウィーンで生まれましたが、五歳半のときに家族と日本に移りましたので、東京はオーストリアのウィーンより私のふるさとでした。
私の両親は戦争中、軽井沢にいましたので、私はマッカーサー総司令部の仕事を始める前に軽井沢へ行きました。食料不足と燃料不足で苦労した両親は、私に戦争中の様子を教えてくれました。また心が痛かったです。二日間滞在の後は、私は東京へ帰ってマッカーサー総司令部の民政局に入って仕事を始めました。
私の最初の仕事は、女性政治運動そして小さい政党の運動のリサーチでした。そして、一カ月そこで勤めたころ、二月四日の朝十時に民政局長ホイットニー准将が私たちを呼んで、次のことを発表しました。あなたたちはきょうから憲法草案制定会議のメンバーになりました、これは極秘です、あなたたちはマッカーサー元帥の命令で新しい日本の憲法の草案をつくるのが任務です。これを聞いたのは二十人ぐらいでした。みんな随分びっくりしました。
マッカーサー元帥は、その二月四日まで自分のスタッフにこの仕事を与えるつもりは全くなかったので、松本烝冶無任所大臣に何度も民主的な憲法の草案を頼みました。松本さんはいつも明治憲法と余りにも変わらない草案を書きましたので、最後にマッカーサー元帥はこの仕事をホイットニー准将に頼みました。
ホイットニー准将の発表が終わった後、ケーディス大佐が憲法草案の仕事を振り分けました。人権に関する草案は三人に与えられました。男性二人女性一人、その女性が私だったのです。
その後、三人で人権の草案についてはだれがどういう権利を書けばいいかと相談したときに、二人の男性が、ベアテさん、あなたは女性ですから女性の権利を書いたらどうでしょうかと言いました。私はすごく喜んで賛成しました。しかし、女性の権利のほかにも学問の自由についても書きたいと言いました。みんなで賛成して、私は間もなくジープに乗っていろんな図書館へ行っていろんな国の憲法を参考に集めました。この仕事は極秘だったので、一カ所の図書館だけに行ったら、図書館長がなぜ司令部の代表者はこんなにいろんな憲法に興味があるのか疑うといけないと思い、私はいろんな図書館に行きました。事務所へ帰ってきたら、みんながこの本を参考に見たがったので、私は引っ張りだこになりました。
マッカーサー元帥の命令ではこの憲法を早く書かなければなりませんでした。それで、私は朝から晩までいろんな憲法を読んで、何が日本の国に合うのか、または自分の経験で日本の女性にはどういう権利が必要であるかをよく考えました。
私は、戦争の前に十年間日本に住んでいましたから、女性が全然権利を持っていないことをよく知っていました。だから、私は憲法の中に女性のいろんな権利を含めたかったのです。配偶者の選択から妊婦が国から補助される権利まで全部入れたかったんです。そして、それを具体的に詳しく強く憲法に含めたかったんです。
例えば、最初の私の草案には次のことを書きました。
「家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の協力に基づくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、本居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定さるべきである。」。
ほかの条項には私は次のことを書きました。
「妊婦と乳児の保育に当たっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女たちが必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は、法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に、成長することにおいて機会を与えられる。」。
そしてまた、私は次の言葉を書きました。
「養子にする場合には、夫と妻、両者の合意なしに、家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長男の単独相続権は廃止する。」。
そのほかにも私は子供の教育の平等についても条項を書きました。
すなわち、「公立、私立を問わず、国の児童には、眼科の治療を無料で受けさせなければならない。また、適正な休養と娯楽を与え、成長に適合した運動の機会を与えなければならない。」。
そういう詳しい点を草案に含めました。
それで、カーネル・ロウストとプロフェッサー・ワイルズに私の草案を見せて、二人とも賛成して、次に民政局の運営委員会と私たちのコミッティーの会議があったときに、それを推薦しました。
その運営委員会には三人がいました。カーネル・ケーディス、ケーディス大佐ですね、コマンダー・ハッシーとコマンダー・ラウエル。みんな弁護士であってみんな男性でありました。
そして、その男性は、私が書いた草案にあった基本的な女性の権利に賛成しましたが、私が書いた社会福祉の点について物すごく反対しました。そういう詳しいものは憲法に合わない、そういうものは民法で決めなければならないというようなことを私に言いました。私はがっかりして、こういう社会福祉の点を憲法に入れなければ、民法をつくる男性はそういう点を絶対民法に入れないと私は言いました。
ケーディス大佐は、あなたが書いた草案はアメリカの憲法に書いてあるもの以上ですよと言いました。私は、それは当たり前ですよ、アメリカの憲法には女性という言葉が一項も書いてありません、しかしヨーロッパの憲法には女性の基本的な権利と社会福祉の権利が詳しく書いてありますと答えました。
私はすごくこの権利のために闘いました。涙も出ました。しかし、最後には運営委員会は私が書いた条項から次の言葉だけ残しました。すなわち今の第二十四条、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」、それだけが残りました。
ホイットニー准将がこの草案を日本の政府に渡したときには、私が一番最初に書いた基本的な女性の権利についての言葉がまだ入っていました。すなわち、「結婚と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であるとの考えに基礎を置き、親の強制ではなく、相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく、両性の協力に基づくべきことをここに定める。」、日本の政府は、その「親の強制ではなく」と、「かつ男性の支配ではなく」という言葉をカットしたんです。
とにかく、私は運営委員会が私が書いた草案をあんなに縮めたということについてはもちろん随分がっかりしました。しかし、運営委員会が私みたいな若い者より、私はそのときに二十二歳でした。だからその運営委員会が私より随分権力を持っていたので仕方がないと思いました。一番基本的な権利が第二十四条に入っていることで、心が重たくても受け入れなければならないと思いました。
一週間の間に憲法の草案ができ上がって、民政局部長ホイットニー准将がマッカーサー元帥にそれを提出しました。その次にホイットニー准将は草案を日本の政府の代表者に渡しました。それで私たちの仕事が終わったと思いました。でも、そうではありませんでした。
三月四日にまた極秘の会議が開かれました。この会議に参加したのは民政局の運営委員会と日本政府の代表者でありました。
私もその会議に呼ばれたのは、草案を書いたからではなく、通訳として呼ばれました。通訳は五人いましたので、通訳部長はジョセフ・ゴードン中尉でした。一年半ぐらいたった後、私はそのゴードン中尉と結婚しました。だから、憲法の草案の仕事からいろんな結果が生まれました。
十時に極秘会議が開かれました。会議が終わるまで部屋からは出られないことが命令されました。お食事もその部屋で食べなければならなかったんです。おいしくないアメリカの陸軍から出たCレーション、お肉などの缶詰と、そしてKレーション、これは乾物。そういう食事が出ました。
私は、会議が三、四時間で終わると思いました。しかし、最初からいろんな議論がありました。特に天皇制についての議論が長かったです。意味だけではなく、言葉の使い方、どういう字を使うか、全部議論になって、大騒ぎでした。日本側は、我々のつくった草案ではなく、日本政府がまた新しくつくった草案を基本にして、私たちは私たちでつくった草案を基本にして、それを比べるのは本当に複雑でした。日本側は英語がわからず、アメリカ側は日本語がわからないので、通訳の仕事はとても大変でした。日本政府が新しくつくられた憲法の条項を順番に翻訳しなければならず、そしてそれを運営委員会が読んで日本側に返答しなければならず、随分時間がつぶされました。
私は通訳が速かったので、アメリカ側と日本側の両方の通訳をしました。日本側は私によい印象を持ちました。運営委員会議長ケーディス大佐はそれにすぐ気がつきました。夜中の二時に男女平等の条項がまた大変な議論になったのです。日本側は、こういう女性の権利は全然日本の国に合わない、こういう権利は日本の文化に合わないなどと言って、また大騒ぎになりました。天皇制と同じように激しい議論になりました。もう随分遅く、みんな疲れていたので、ケーディス大佐は日本の代表者の私への好感をうまく使いたいと思いました。そして、こういうことを言いました。ベアテ・シロタさんは女性の権利を心から望んでいるので、それを可決しましょう。日本側は、私が男女平等の草案を書いたことを知らなかったので、ケーディス大佐がそれを言ったときに随分びっくりしました。そして、それではケーディス大佐が言うとおりにしましょうと言いました。それで、第二十四条が歴史になりました。
翌朝の十時まで通訳の仕事を続けました。二十四時間通訳の仕事をしました。ケーディス大佐はうちへ帰りなさいと言って、私は神田会館へ行きました。その日はよく寝ました。ジョセフ・ゴードン中尉は憲法の仕事を続けて、午後の六時まで働きました。いろんな詳しい言葉の使い方を調べました。
さて、日本の国民は新しい憲法を喜んで受け入れました。日本の政府はそのときに余り喜ばなかったのです。日本の国民は、日本の憲法がマッカーサー元帥のスタッフによって書かれたということは知りませんでした。しかし、一九五二年に占領軍がアメリカに帰ったときに、ある日本の学者と新聞記者はそのことを知って、この新しい憲法は日本に押しつけられたものであるから改正すべきだと主張しました。
マッカーサー元帥が憲法を日本の政府に押しつけたということが言えますでしょうか。普通、人がほかの人に何か押しつけるときに、自分のものよりいいものを押しつけませんでしょう。日本の憲法はアメリカの憲法よりすばらしい憲法ですから、押しつけという言葉を使えないかもしれません。特に、この憲法が日本の国民に押しつけられたというのは正しくありません。日本の進歩的な男性と少数の目覚めた女性たちは、もう十九世紀から国民の権利を望んでいました。そして、女性は特別に参政権のために運動をしていました。この憲法は、国民の抑えつけられていた意思をあらわしたので、国民に喜ばれました。
憲法草案に参加した我々は、この仕事について長い間黙っていました。一つの理由は、これが極秘であったからです。もう一つの理由は、次のような私の気持ちから出たものです。
憲法を改正したい人たちが私の若さを盾にとって改正を進めることを私は恐れていました。それだから黙った方がよいと思って、私は日本の新聞記者のインタビューを受けませんでした。五年前まで親しいお友だちにも何も話しませんでした。一回か二回だけ、一九七〇年ごろ、ある学者に少しこの話をしました。
私は、私の若さについて一言申し上げたいと思います。
当時の二十二歳と今の二十二歳の人を比べれば、大きな違いがあります。私は、二十二歳のときに六カ国語をしゃべれました。私は、十九歳半で大学を卒業しました。六歳のときからピアノとダンスを習いました。六歳のときからいろんなコンサート、オペラ、芝居などを日本で見ました。第二次大戦が始まったときにアメリカにいた私は、日本にいた両親から隔離されたので、一人でお金を稼いで生活しなければならなかったのです。十九歳から二十二歳まで三年間、難しい翻訳、リサーチとジャーナリズムの仕事をしました。その上に、私の大学ミルズ・カレッジは進んでいた大学であって、フェミニズムがまだ流行ではないときにフェミニストでありました。私は、二十二歳のときにも世界を回ったことがあって、ヨーロッパとアジアのいろんな国に旅行しました。
私は、小さいときから日本の軍国主義を自分の目で見ました。私は、憲兵隊のことをよく知っていました。憲兵隊は、毎日私のうちへ来て、私の女中さんたちにいろんなインフォメーションを頼みました。
私は、六歳のときから日本の社会に入って、日本のお友達と遊んで、虐げられた女性の状況を自分の目で見ました。私は、奥さんがいつでも主人の後ろを歩くことを自分の目で見ました。
○会長(村上正邦君) 大変恐縮ですが、おまとめをお願いいたします。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、奥さんがお食事をつくって、だんなさんとだんなさんのお友達にサービスして、会話には参加しないで、お食事も一緒にとらないで、全然権利がないことをよく知っていました。好きな人と結婚できない、離婚もできない、経済的権利もない、それもよくわかりました。
家庭の中では女性が力を持っていることも知っていました。女性は、子供の教育と主人がうちへ持ってきた給料をコントロールしていました。それも私は知っていました。ですから、私は、二十二歳のときに何にも知らない小娘ではありませんでした。
ある方は、この憲法は外から来た憲法であるから改正されなければならないと言います。日本は、歴史的にいろんな国からずっと昔からよいものを日本へ輸入しました。漢字、仏教、陶器、雅楽など、ほかの国からインポートしました。そして、それを自分のものにしました。だから、ほかの国から憲法を受けても、それはいい憲法であればそれでいいではないですか。若い人が書いたか、年とった人が書いたか、だれがそれを書いたということは本当に意味がないでしょう。
○会長(村上正邦君) お時間でございます。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) いい憲法だったらば、それを守るべきではないですか。
この憲法は五十年以上もちました。それは世界で初めてです。今まではどんな憲法でも四十年の間に改正されました。私は、この憲法が本当に世界のモデルとなるような憲法であるから改正されなかったと思います。
日本はこのすばらしい憲法をほかの国々に教えなければならないと私は思います。平和はほかの国々に教えなければなりません。ほかの国々がそれをまねすればよいと思います。
一九九九年の五月十五日に……
○会長(村上正邦君) 恐れ入ります。大体結論が出たようでございますので。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 少しだけ、それじゃ一番最後のことを済みませんですけれども言いたいと思います。
私は、日本の女性をすごく尊敬しています。日本の女性は賢いです。日本の女性はよく働きます。日本の女性の心と精神は強いです。
私は専門家ではありません。私はシロタと申します。けれども素人でございます。私はお母さんでありおばあさんです。だから、私は子供と孫の将来について心配しています。平和がないと安心して生活ができないと思います。私は外人ですから、皆様日本人は私の声を聞かなくてもいいと思います。私は日本で投票できません。
しかし、日本の女性の声を聞いていただきたいのです。私の耳に入っているのは、日本の女性の大数が憲法がいい、日本に合う憲法だと思っているということです。
日本の憲法のおかげで日本の経済がすごく進歩しました。武器にお金を使わないで、そのお金をテクノロジー、教育、建築などのために使って、日本が世界の中で重要なパワーになりました。隣のアジアの国々も日本について安全な気持ちを持っています。日本の女性はそれをよくわかっています。
だから、私は一つのお願いがあります。日本の女性の声を聞いてください。
ありがとうございました。(拍手)
○会長(村上正邦君) きょうの女性議員の皆さん方の晴れやかな、あでやかなことだと思って聞いておりました。
では、次にプール参考人にお願いをいたします。プール参考人。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) それでは、まず本会の主催者であられる方々に対しまして、御招待いただいたことを御礼申し上げます。
憲法について述べよということでございますけれども、本論に入ります前に、ぜひ御紹介申し上げたい本がございます。新刊書でございまして、セオドア・マクネリーという人が書いた本なんです。この方は一九九七年に開催されましたフォーラムに参加なされた方でありまして、著名な学者でもあり歴史家であられるということで、特に日本における進捗については権威的な存在の方でございます。
マクネリーさんから御依頼を受けましたので、ぜひ皆様方にこの本を差し上げたいと思います。調査会の方々、ぜひお受け取りくださいませ。進呈させていただきます。
○会長(村上正邦君) ありがとうございます。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) それでは、私の日本での経歴をかいつまんでお話し申し上げたいと思います。
まず、私は横浜生まれでございまして、誕生日は一九一九年の四月二十九日です。もうかなり年をとってしまったんですけれども。たまたま私の誕生日は実は昭和天皇と同じ日ということでございまして、これは単なる偶然なんですけれども、その後になりまして複雑なことになりました。日本では五世に当たります、私の兄弟も含めまして私の代で。私の曾曾祖父の一人は、一八五四年にペリー提督が締結した条約のもとで日本に初めて派遣された二人の米国領事の一人でございまして、以来、私の家族の各世代はそれぞれ、私の世代も含めてずっと日本に滞在した経験を持っているという家系です。私の先祖のうちの四名は、実は日本のお墓に眠っております。
横浜に住んでおりまして、一九二三年の関東大震災が起こりまして、幸いにも命は助かりました、その他はすべて失ってしまったんですけれども。その後、神戸で二年過ごしまして、予想に反して私の父は、当時勤めていた会社の命令でニューヨークの事務所の長になるということで転勤を余儀なくされましたので、一九四五年に私が日本に戻ってくるまで私の家族は日本を離れていたわけです。
しかし、私は日本に対して深い愛着の心を持っております。また、日本の国民に対してもそうです。アーマといいましょうかお手伝いさんと申しましょうか、私の母のお手伝いをしていた人たちが私の面倒を見てくれたということで、とても愛着心を持っています。そして、時々連絡が途絶えたこともあったんですけれども、その連絡を後で復興させることができましたし、深いきずなを日本に対して抱いております。
そして、日本の文化からも大いに影響を受けております。例えば、掛け物ですとか広重の浮世絵ですとか家具ですとか、いろいろなもの、伊万里焼などのお皿も持っておりまして、私の先祖から代々伝わってきた日本の工芸品をたくさん我が家が所蔵しております。そして、日本の文化に対して、また日本の文化的な進捗に対して深い敬意を持っておりますし、また西欧に対しても日本の文化が大きく影響を与えたということを十分踏まえております。
一九四五年に、また私は日本に戻ってまいりました。当時は若い海軍将校でありました。当時、外交官としての勤務から、休暇を与えられてこちらに参っておりました。当時、そもそも陸軍と海軍との合同の形で九州に上陸、侵攻の計画でしたが、それは免れて横浜という私の出生地にまず上陸いたしました。
横浜に二度目参ることができたということで、当時、GHQ、スキャップの民政局の方に配属されました。連合国最高司令官総司令部です。そして、一週間のうちに憲法草案を起草する仕事を補佐するように命じられまして、驚きました。それから、二人で構成する天皇及び条約改正、条約締結などのその他の事項を担当する委員会の長となりました。ベアテさんほど若くなかったんです、当時私は二十六歳でしたから。それでも、私自身も外交官としての経験がございましたし、国際法、商法ですとか憲法ですとか海洋法ですとか、国際関係、歴史等々の学問を修めておりました。そして、常に私は日本に対して関心を生涯を通じて持ち続けておりましたので、それも関係して、私はまだ位は低かったんですけれども、この職に多分配属されたんだと思っています。
ケーディス大佐は民政局の長であられたということで、かつ運営委員会の議長を務めておられていたということで、ケーディス大佐いわく、占領軍にかかわっている人たちは、長い間日本に住んだ経験を持っているアメリカ人については猜疑心を持っているんだといったような話をしていました。でも、私の場合は例外になるかもしれない、六歳のときに日本を去っているからというふうに言われたものです。
さて、憲法の起草の背景については皆様方もうよく御存じだと思います。この件については九七年の憲法フォーラムでも詳細が語られております。これは日本の国会議員の先生方がスポンサーになって開かれたフォーラムでありまして、皆様方の憲法調査会の背景情報の源にもなっているかと思います。
当時、私ども三人招待されました。今回は二人だけですが、我々起草にかかわった人たちで生き残っている数はもはや少ないんです。
東アジア・太平洋に対して行った日本の侵略によりまして、明治憲法は改正すべしということになったのです。というのは、狂信的国粋主義者と軍国主義者が明治憲法を隠れみのにして侵略を行ったからです。ポツダム宣言及びその他の連合国の声明も、変更を要求しておりました。
このようなことから、連合国最高司令官は、占領当初から、日本政府に対して、民主的な行動をとることと憲法改正に着手することを指示いたしました。米国政府がガイドラインを示しましたが、これはSWNCCナンバー二二八ということで国務、陸軍、海軍三省調整委員会が提示しておりましたけれども、ベアテ・シロタさんがおっしゃったように、マッカーサー元帥は、日本の人たちにまずは憲法改正をするようにと最初は考えていたわけでありますが、同時に発生した二つの出来事により急遽スキャップ、連合国最高司令官が直接かかわるようになったのです。
まず第一は松本案で、これがあるということをスキャップは知らなかったんです、新聞に漏れるまでは。そして、結局その松本案は明治憲法の表面的な改正だけのものであるということがわかりまして、受け入れられないものだということが判明いたしました。
ですから、そのような案をもとに討議するよりは、連合国最高司令官が草案をつくることを決定いたしました。いわばこういった例がありますよということを日本側に提示することで討議を進めようとしたわけであります。そして、それをたたき台に討議をいたしましょうというふうに提案いたしました。
そして、もう一つの要素は、ソ連がちょうど極東委員会に加わったということで、同委員会では米国、英国、中国、ソ連が拒否権を与えられたということから、ソ連がベルリンの場合と同様な問題を起こすおそれがありました。そして、連合国軍として民主的なことを達成したい、しかしその邪魔をするかもしれないと思ったわけです。
またもう一つ、達成不可能なことがありました。それは四月十日の選挙に間に合うような形で憲法を起草できないかという点でした。国会が憲法草案を承認し、国民投票といったような形で総選挙の機会を得て、憲法に対しても国民の審判を仰いだ方がいいんじゃないかという話もあったんです、当時は。しかし、これは時間がなくて無理でした。
そして、連合国最高司令官からの圧力を含めて、異常な状態で憲法改正議論が始まったことに不満のある方は、次のことに留意してほしいと思います。
すなわち、最高司令官の草案は、数多くの日本の学者や研究機関及び有識者の方々の見解を反映させたものであること、そして内閣との御検討もされまして、その結果、ある程度改正について合意されたということ、そしてその結果、政府の承認した改正案として国会に提出されたということ、そして結果、長時間の討論の末に追加の修正が合意をもって行われ、最終的には圧倒的多数で承認されたということをぜひ御留意いただければと思います。
さらに、忘れてならないのは、天皇陛下御自身が内閣での意見対立の解消に尽力され、草案の国会提出を支持されたことです。
ちょっとそれますけれども、約五年前のことだと思いますが、新しい天皇皇后両陛下がワシントンにお見えになりました。ちょうどケネディ・センターで日本の芸能をなさるということでそのオープニングにいらしたんですけれども、そのときに、天皇陛下は自由にお客様と交わられておりました。私は、向こう見ずにも陛下に自己紹介し、実は日本の憲法の起草に加わったんだということ、特に天皇条項について私は役割を持っていたということを申し上げましたら、天皇陛下はお笑いになって、そうですね、私の指示だったんですよというふうにおっしゃったわけです。つまり、私の印象では、皇室の方々は、天皇陛下の役割については、憲法の草案に入っていた条項について満足なさっていたということだと思います。もちろん、最終的には若干修正された形で採択されたんですけれども。
私の考えでは、憲法起草の過程よりも、その結果に焦点を当てる方が重要であると思います。
連合国が意図したところは、平和な日本に真の意味での民主主義を樹立することでありました。そして、歴史に逆らおうとする人たちが悪用できないような制度をつくろうということだったのです。そして、制度として正式に記載するのは、主権在民であり、基本的人権であり、真の民主主義であり、政治的権限を持たない立憲君主制であり、戦争の放棄であり、またこれらの原則がいかなる理由によっても縮小されたり停止されたりしてはならないということだったのです。
憲法は、これらの原則を樹立し、それらを実現するための機構を定めていることから、私は、これによって日本国民の利益が守られ、日本が西側の民主主義国家に仲間入りできるようになったと信じております。
しかし、だからと申しまして、憲法改正の可能性が否定されるものではありません。改正は憲法自身が認めているところです。しかし、私の意見では、憲法全体を改正しようとすれば、手に負えないような提案がなされてパンドラの箱をあけるようなことになるので、必要が生じた場合にのみ個々の問題についての改正を検討すべきだというふうに思っております。
憲法問題に関係する人たちもしくは憲法修正に関心ある人たちは、国民の間に本当に憲法改正への要求があるのか、またそうした要求がもたらす結果を和らげる方策があるのかについて、広く意見に耳を傾けるべきであると思っております。
ある人によっては、二十一世紀のニーズを満たすために憲法を近代的なものにすべきと言う人もいます。例えば、環境問題、人口増加、世界的な疫病、麻薬、犯罪、さらには新技術の発展を規制する問題等々です。しかし、これ以外にどんな問題が発生するのか予見するのは困難です。
このように指摘されている問題及び予見できないような問題を憲法改正で処理しようといたしますと、細かい事柄まで立ち入ることから、さらに多くの変更が必要となるので、むしろ法律や司法上の解釈によって解決されるべきだと私は考えております。したがって、憲法というのは幅広い文書であるべきだから、日本政府としましても法律制定もしくは司法上の解釈によって解決できるものではないでしょうか。
それでは、二つの具体的な条項について意見を述べたいと思います。
一つは、天皇に関する条項です。
これには私自身直接関与しておりました。私の少人数の委員会は、ケーディス大佐を長とする運営委員会と密接な協議も行っておりました。ですから、協議を行った上での草案ということです。
明治憲法では主権はすべて天皇に付与されておりましたが、この規定と憲法上の権利を停止させる権限を悪用して、天皇の名において軍事的な侵略を行い、反対者を抑圧したのが内閣と枢密院内部の狂信的国粋主義者と軍国主義者でありました。これは改正する必要があったのです。
さらに、連合国の一部と米国議会からは、裕仁天皇を戦争犯罪人として裁判にかけ、天皇制を廃止すべきだと要求しておりましたが、そのようなことをすれば、占領軍にとって重大な問題が発生したでありましょう。
日本の侵略について天皇御自身が個人的にどのように思っていらっしゃったかはだれにもわかりませんが、天皇が放送で降伏を表明し、武装解除を呼びかけたこと、一般大衆が天皇の声を聞いたのはこのときが初めてだったんですけれども、及び一九四六年一月一日にみずからの神格を否定して改革を呼びかけたことは、結果的には連合国にとって都合のよいことでありました。新憲法草案では天皇の役割を大幅に削減することになっておりましたが、天皇がこれを支持したことも有益でありました。
我々が目指したのは立憲君主制で、そこでは天皇は統治権を持たず、国家及び主権者である国民統合の象徴としての役割を果たすものでした。しかし、天皇には、儀礼的な行事を行う以外に、内閣の承認を条件に数多くの役目を付すことで、ある程度の意義ある役割が与えられたのです。
「象徴」という言葉の翻訳には困難が多少ありましたが、しかし、この問題は、起草者の意図した、また草案を承認した日本政府の意図した意味を備えた「象徴」という言葉を使うことにより満足裏に解決されたのです。ですから、私の印象としては、この言葉は我々が意味し、日本国民が一般的に理解し受け入れた意味を伝えたのです。
天皇の地位についての当初の論争はおさまり、その後これについて改正しようという要求は私の知る範囲では出ていないと思っております。
二番目は、第九条についてです。
第九条は、いまだに憲法での最大の論争となっていると伺っております。もちろん、一九四六年に国会は疑念が生じないように修正を行ったにもかかわらずです。
現在の第九条のもとになった考え方は、ホイットニー准将及びマッカーサー元帥かあるいは二人が発案して幣原首相に伝えられたのか、またはマッカーサーのメモワールにあるように幣原の発案だったのか、また、この条項及び民政局へのその他の指示を含む鉛筆書きのノートがマッカーサーによって書かれたのか、あるいはマッカーサーの指示でホイットニーが書いたのか、これらの疑問点については多くの書物が書かれております。
でも、私はもう今となってはどちらでも構わないと思っております。余りにも遠い昔のことでありますし、問題は現在だからです。
私自身は第九条については何ら関与はいたしませんでした。
ただ、将来、日本が平和条約を締結して主権を回復した後でも軍事力を永久に放棄するのかという点について懸念を表明したことはあります。起草委員会が初めのころ、全体で会合を開きましたときに、意見を言い合う機会が与えられました。
その議長を務めたのはケーディス大佐だったんですけれども、最終的に第九条に盛り込まれた幾つかの点というのは、前文に意図表明として書かれるのはよいが、憲法本文に書くのはどうかという疑問を持って私は発言したのです。ケーディス大佐いわく、この条文の由来はどこだか知っていますかというふうに言われまして、彼は大佐でしたし、私は一本線の一介の海軍将校でしたから、いや知りませんというふうに言いました。そしたら、これは元帥から来た考えなんですよというふうに言われたわけです。元帥といえば一人しかいません。何かこれ以上質問があるかねと言われまして、もうありませんと私は答えました。この問題と私のかかわりはこれですべてです。でも、この問題についてはずっと私の個人的な関心として残っております。
私は、憲法改正をしてもいいんじゃないかというふうに思っております。でも、憲法全体を見直すという大変な作業のことを言っているのではありません。しかし、この点は検討してもよいのではと。
特に、第九条の前段の部分は、戦争と武力による威嚇または武力の行使を国際紛争解決の手段としては放棄しております、国権の発動たるということで。そして、一九二八年のケロッグ・ブリアン不戦条約に合致するものであり、この条約は約六十五カ国によって受け入れられていたことから、この第一項は論争の対象にはなっておりません。
しかし、論争が起きるのは第二項の方です。そちらのところでは、上記の目的達成のために陸海空軍を永久に保持しないと定めてあります。そして、交戦するという権利も認められないというふうに書いてあるというふうに思いますけれども、でも、日本は自衛隊という名のもとに軍隊を持っておられることは事実です。ただ、名称が違うということでありまして、軍隊であることに変わりはございません。
今日の現実に照らし合わせ、そして日本が他の主要な民主国家と同様に国際問題で責任を果たす必要があることを考えれば、現在のあいまいさは終止符を打つべきだというふうに私は考えております。そのために軍隊の役割は防衛に限定すべしと定めるのです。ここで言う軍隊とは、既に存在しているものですから、この役割とは既に制度的に存在するものについてであり、その役割は防衛に限定されるが、防衛とは自衛のみでなく、最近見られるケースのように、自分の国境を越えての防衛行為も正当化される場合があります、特に国際協力の枠組みのもとにおいて。ですから、自衛ということだけではなく、国際平和維持活動等にも参加するということで、国連のみならず、もちろん最たるものは国連だと思いますけれども、枠組みとしては。でも、そのほかにも国際合意がされる場合もありますので、その中で活動をするといったようなことで、この場合、日本国民の意思を明確にし、日本国民及び過去において日本の侵略に苦しんだ国々に対して、二度とそのような行動をとる意思が全くないことを保証することが不可欠でありましょう。
以上です。御清聴ありがとうございました。(拍手)
○会長(村上正邦君) ありがとうございました。
今のお話の中に、五年前天皇訪米の折と、こういうお話がございましたが、これは単なる訪米の時期の間違いだと思いますので確認をいたしますが、恐らくこれは昭和五十年、一九七五年に訪米なさったときの、昭和天皇のときのお話であると、こう思います。間違いございませんでしょうか、参考人。
今の天皇様が憲法に携わったということについてのお話になるものですから、この憲法調査会、正確にこれは議事録に残ってまいりますので、後ほどでも結構でございますので、その点のひとつ精査をお願い申し上げておきます。
次に、本日欠席されましたエスマン氏から発言の予定原稿が提出されておりますので、幹事会の協議によりまして、武見幹事に代読していただきたいと思います。
武見幹事、どうぞこちらへ来て、私のところへ来てやってください。
○武見敬三君 それでは、
エスマン氏の予定原稿を読み上げさせていただきます。
一九四六年二月に連合国最高司令官総司令部民政局所属の人たちが日本国憲法を起草する任務を受けたが、彼らは当然のことながら政府についての米国的な哲学や経験に影響されていた。米国での憲法という概念は、国民の基本的権利と自由を守り、常に変化する社会のニーズを満足させるために十分な権限を政府に与え、政治的秩序の安定と継続性を保障する、立憲政治の憲章である。憲法は何十年、何百年という長期間にわたって存続するよう意図されたものであるから、政府の生きた憲章として、制定された当時には予想されなかったような状況の変化にも対応できるような柔軟性を持たなければならない。
当時、私は新憲法起草のために選択された方法には反対を表明した。権威主義的な明治憲法に取ってかわる民主主義を鼓舞する新しい政府の憲章が必要ではあったが、私は民主主義的考えを持つ日本の学者とオピニオンリーダーが新憲法起草の仕事に参画し担うことが重要だと考えた。それができないことには、新憲法は外国から押しつけられたものと見られ、占領時代が終わった後には存続できないと考えたからだ。当時の私は総司令部の中では若い下級将校だったために、私の反対意見は簡単に退けられた。しかし、その後の展開で私の考えが間違っていたことが証明された。すなわち、日本国民の大多数はマッカーサー昭和憲法を自分たち自身のものとして受け入れ、熱心にこれを擁護してきた。その理由は、憲法の条文がぎこちないものであったにもかかわらず、彼らの真の政治的願望を表現しているからである。
当時、私と私の同僚が日本政府の高官から頻繁にかつ厳しく受けた警告は、日本の大衆は民主的政府を運営するまでには成熟してもいなければ、そのような教育も受けていないということ、それに必要な教育を施すには少なくとも一世紀はかかるということ、そして民主主義体制を性急に設立しようとすれば、その意図が善意なものであっても何らかの災難につながるということであった。私たちは、こうした警告を真剣には受けとめなかったし、日本国民の政治的成熟度と健全な判断に対して私たちが抱いていた尊敬の念が正しいものであったことが十分に証明されてきている。
どの憲法でも同様だが、昭和憲法にも個々の条項が盛り込まれている。しかし、何よりも重要なのは憲法に生命を吹き込んだ基本的原理である。これらの原理は、憲法の条文を将来の新しい課題や変化するニーズに対応させるための指針である。私は昭和憲法には九つの指針が含まれていると思う。
一、日本国は主権者たる国民が選挙された代表者を通じて国会で発言し、行動する立憲君主国である。これらの代表者は定期的に、選挙によって自由に選ばれる。
二、行政権は総理大臣を長とし、すべて文民によって構成される内閣によって行使される。内閣は国民の代表者に責任を負い、常に衆議院の過半数の信任を得ていなければならない。
三、すべての個人に与えられた信仰、表現、結社、集会等の基本的人権は不可侵のものであり、政府によって保護されなければならない。
四、すべての人々は法のもとに平等である。人種、信仰、性別、民族、門地によるいかなる差別も不平等な取り扱いもあってはならない。
五、法の支配が常に優先し、何人も、法の定めによらない限りは生命、自由もしくは財産を奪われ、またはその他の刑罰を科せられない。裁判官は政治的影響に一切左右されることなく、憲法と法律を適用しなければならない。
六、政府は社会福祉、社会保障及び公衆衛生を促進し、学校教育を無償で、義務として、かつ平等に提供しなければならない。
七、国会の具体的承認なしに税を徴収したり、支出を行ってはならない。
八、地方公共団体は可能な限り最大限の自治権を持たなければならない。
九、日本は二度と再び侵略的軍事行動を起こさず、平和を愛する諸国の国際社会に積極的に参画する。
五十五年近くも前に総司令部民政局で昭和憲法の起草に尽力した人は私たちを含めて数少なくなってしまったが、彼らがもう一度一堂に会することができるならば、彼らが最も重要だと考え、後の日本政府に求めたものは、啓蒙された民主主義政府のためのこれらの原則であったということに全員が賛成するだろう。これらの指針としての原則が尊重される限り、日本国民と政府が将来直面するであろう問題は憲法の条文によって十分に対応できるであろう。
それならば、憲法を新しい時代に即したものにし、将来の世代に効率的に役立つようにするにはどうすればよいのか。個々の条文を超えたり、国家の基本的制度を変更するためには正式な憲法改正が不可欠になることもある。私の国でも、奴隷制度の廃止、婦人参政権の採択、大統領の三選禁止のような場合には憲法改正が必要であった。また、日本で総理大臣または大統領を直接選挙で選出しようとすれば、これは国家体制の変更であるから、同じく憲法の正式な改正が必要となる。しかし、日本でも我が米国と同様、正式な憲法改正の手続は煩雑で、国民の大多数が改正を必要だと考えても、団結した少数派によってこれが阻止される嫌いがある。
そこで、憲法を変化する状況に適合させる一般的な方法は、上記の指針としての原則に照らして、新しい状況にふさわしいようにその条文を解釈することである。米国ではこうした方法によって、連邦政府が航空機の運行規制、インターネットでのプライバシーの保護、化学的物質からの環境の保護というような二百年前の憲法起草者には考えられなかったような新しい問題を解決してきた。五十五年前に昭和憲法を起草した人たちも、憲法の解釈によって政府が必要なことを行い、国際的義務を果たせるのだということを知っていた。
憲法が具体的権限について明記していなくても、政府は憲法の条文から合理的に導き出せる行動をとることができる。したがって、すべての国家が自己防衛のための権利を持っているとの理由から、国会と裁判所が第九条の解釈を通じて自衛隊を認知したのは正しいことだったと私は考える。同様に、憲法前文に、「いづれの国家も、自国のことのみに専念してはならない」と規定していることは、国際平和と秩序の恩恵を大きく受けている日本が、国連の平和維持及び平和強制活動に応分の金銭的、物質的、そして軍隊を含む人的貢献をすることを義務づけられていることを意味する。
ここで私が思い出すのは、一九四六年当時の私の同僚たちは、欧州とアジアで六年間にわたる悲惨な戦争を経験してきたばかりの人たちだったということだ。彼らは核戦争を恐れ、人類が過去の教訓から国際協力を通じて戦争をなくすることを希望し、戦後の日本が平和を愛する諸国と力を合わせて国際平和の維持に積極的に参加することを望んでいた。彼らが、日本による国連平和維持及び平和強制活動への参加を禁止したり制限したりするような条項を憲法に挿入しようとしたとは考えられない。
この憲法調査会に次の三つのことを言い残しておきたい。
一、一国の憲法は、国民の選ばれた代表者が慎重かつ十分な討議の末に国家のために必要だと考える政策または行動を促進するためのものであり、これらを妨害したり阻止するためのものであってはならない。
二、新たな課題に直面し政策を変更するための最も一般的かつ実践的な方法は、憲法の条文とその底流となる大原則に基づく合理的な解釈によるべきである。正式な憲法改正は最後の手段として残すべきである。
三、一九四六年に民政局にいた人たちは、新しい国連について楽観的な希望を持っていた。国際協力の必要性を強く感じていた。さらに、日本が国際社会に復帰したら、国連が主宰する国際平和と秩序の維持のための活動に主導的役割を果たして参画することを彼らは希望していた。
以上でございます。(拍手)
○会長(村上正邦君) 以上、参考人の意見陳述を行いました。
時間も大分超過いたしておりますが、話が非常におもしろいものですから、なかなか時間どおりここでおやめくださいというわけにもいかないし、遠いところから来てもいただいておりますし、時間が延びておりますことをおわびいたします。
本来ならば十五分の休憩をとる予定でございましたが、五分の休憩ということで、五分後に再開いたしたいと思います。
五分間休憩いたします。
午後二時十五分休憩
─────・─────
午後二時二十三分開会
○会長(村上正邦君) ただいまから憲法調査会を再開いたします。
休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
これより参考人に対する質疑に入ります。
なお、時間が限られておりますので、委員の御発言は、まずお答えをいただく参考人のお名前をお示しいただいた上で簡潔にお願いをいたします。
質疑のある方は順次御発言願いますが、あらかじめ事務局の方へお名前を各会派から提出いただいておりますので、各会派一応一巡をさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。まず、久世公堯幹事。
○久世公堯君 日本国憲法の生みの親とも言うべきお二方には、遠路はるばる来日をされ、ただいまはまた大変貴重なお話を拝聴いたしまして、ありがとうございました。
○会長(村上正邦君) 所属会派をおっしゃってください。
○久世公堯君 自由民主党・保守党でございます。
日本国憲法の制定以来五十数年、我が国の社会経済環境は内外ともに大きく変化をいたしました。国際的には、冷戦構造の終結による国際情勢の変化、それに伴いまして我が国の国際社会における役割、使命はますます大きくなってきております。国内的には、産業構造や国民生活が変化をし、国民の価値観も大きく変革をいたしております。
社会経済的環境の変化によって憲法と実態との乖離は極めて大きくなっております。このような変化に対応するために今日まで憲法の最大限の拡大解釈をいたしてまいりましたが、しかし限界でございます。憲法の見直し、憲法改正論がほうはいとして起こり、今衆議院、参議院には憲法調査会が設置されている次第でございます。
私は、そこで、国際的、国内的危機管理と憲法という視点から、お二方に御質問をしたいと思います。
ここ十数年来、国際的、国内的に人心を震駭するような事件が多発をいたしております。北朝鮮ミサイル発射事件等朝鮮半島に係る安全保障問題、あるいは阪神・淡路大震災、サリン事件等、我が国の安全神話が崩れかかってきております。予測できない多様な危機が発生し、今また有珠山の噴火を憂慮するところです。国家や国民の安全を脅かす多様な危機にいかに対応するか、国民的に大きな関心事となっております。
そこで、まずプール氏に御質問いたしたいと思いますが、プール氏は、先ほど、憲法全体を改正しようとすれば手に負えない、憲法改正は必要が生じた場合にのみ個々の問題について改正を検討すべきであると、こう御指摘になりました。そして、その例として憲法九条を御指摘になりました。プール氏は、憲法九条につきましては、防衛と国際平和維持活動だけに役割を限定された軍隊の規定を明確にすべきであるという御意見でございました。
御指摘のとおり、私どもは、一九五四年の自衛隊法を初めとして、PKO法やあるいは日米ガイドラインによる周辺事態法によりまして、防衛面における危機管理体制を整備しております。さらに、現在、有事法制についても検討中です。日米安全保障体制のもとに半世紀、この五十四年の間、憲法九条を最大限に拡大解釈して対応してまいりました。今後、国際情勢の変化に適切に対応し、我が国の安全確保に万全を期するためには、解釈の対応だけでは限界でございます。
ただいま御指摘ありましたように、防衛や国際平和維持活動に関する限り、そのネックとなる点、例えば集団的自衛権や国連の集団安全保障等について、拡大解釈ではなく国民合意のもとで九条をきっちりと改正をすべきであると思いますが、この点について御所見を承りたいと思います。たしか、一九九七年、先ほどお話にありました、来日をされましたときには、九条を改正すべきであるということを明言されたことを記憶をいたしております。
危機管理、特に国内的な危機管理と行政権の対応について実はエスマン氏に質問を予定しておりましたが、エスマン氏は来日されません。もしプール氏に御回答願えればありがたいと思います。
危機は多岐多様にわたり、本来的に予測不可能であり、かつその生起に対して万全の即応体制が必要でございます。憲法には、非常時の規定として五十四条の参議院の緊急集会があるだけで、行政上の特別の規定はございません。加えて、行政権の主体は合議制の内閣であって、総理大臣の権限は弱うございます。危機管理体制の万全を期する上で、非常時における危機管理体制の整備は憲法見直しの重要事項であると思いますが、これについてのプール氏の見解を承りたいと思います。
最後に、ゴードン氏に対して質問を申し上げたいと思います。
ゴードン氏は、女性の権利、女性の福祉について憲法制定当時にさまざまの提案をされたことを先ほど承りました。我が国におきましても、昨年、一九九九年に男女共同参画社会基本法が制定されまして、女性の立場は一段とまた高くなってきております。さらなる前進でございます。
基本的人権の確立や実現はもちろん重要でございますが、他方、危機等におきましては、公共の福祉、安全確保のために事態によっては個人の権利が大きく制約されることも想定されます。天災を初めとして内外にわたる危機に備えるため、国家と国民、公への義務と個人の自由との関係をどのように考えられるか。国民の生命、財産はもちろん、国民の暮らしや社会を守るという公共の福祉による人権の制約についてのお考えを承りたいと思います。
この点に関連いたしまして、先ほどお話がありましたように、憲法の起草当時、「家庭は、人類社会の基礎である」という条文を憲法に入れるべきだということを主張されたということでございますが、今、我が国の社会の現状においてこの必要性は非常にございます。それを痛感するだけに、この点について現在どうであるかということを承りたいと思います。
以上でございます。
○会長(村上正邦君) では、プール参考人から今の御質問に対してお答えいただければありがたいと思います。どうぞ。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) もう一度質問を明確に言い直していただければ大変助かるんですが。より単純な言い方に言いかえていただければと思います。あなたの声が大き過ぎて通訳がよく聞こえませんでした。ですから、もう一度申しわけありませんが繰り返していただけますでしょうか。
○久世公堯君 大変失礼をいたしました。
先ほど御指摘になりましたように、憲法九条については……
○会長(村上正邦君) 久世さん、演説はいいから、一つこれ、一つこれと。
○久世公堯君 憲法九条については、防衛と国際平和維持活動だけに役割を限定された軍隊の規定を明確にすべきであるということをおっしゃいました。それは私も同感でございまして、この問題についてネックとなる点、例えば集団的自衛権や国連の集団安全保障について拡大解釈を今までしてまいりましたが……
○会長(村上正邦君) 一つ一つね。一つ一ついかないと、どうもやっぱりお年を召しておられるから。
○久世公堯君 九条改正についてどのように思っておられるか。憲法九条についてのお考えを重ねてお願いいたしたいと思います。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 既に申し上げたことになるかと思いますが、繰り返しになるかと思いますが申し上げたいと思います。
憲法九条については明確化すべきだと思います。やはり兵力、軍隊ということの役割をより明確にすべきであります。というのも、軍隊というのは別の名称のもとに既に存在しているからです。憲法九条によって軍隊がつくられたわけではありませんが、既に軍隊が存在しているということがあります。ですから、その点を明確にすべきであります。憲法と現実とを沿ったものにすべく明確にすべきであります。その明確化によって、希望としては、今九条をめぐって意見が分かれている点にある程度の解決が見られればと思います。いわゆるアームドフォーシズ、軍隊、兵力のあり方が、防衛ということ、そして国際的な平和維持活動への参加ということに制限されるということを明確にすればということです。それだけのことです。
さて、その論拠はということなんですが、日本は今や世界の大国になっております。しかも、民主主義諸国の一つの国であります。ですからこそ、ほかの民主主義国と同じベースで国際的な平和維持活動に参加すべきだと思うからです。しかし、日本の占領のもとで苦しんだ国々からは確かに問題視されることもあるでしょう。しかし、私の提案は、新たに軍隊をつくるというものではなく、既にある、存在している兵力をどのような意図のもとで行使されるのか、使われるべきなのかということを明確にするということだけであります。
そして、日本は、例えば湾岸戦争やカンボジアの紛争に助力を提供されました。非常に有益な助力を貢献されたわけです。そして、それがほかの国からも感謝されております。しかし、日本は、ほかの国々とともにもし必要とするならば国際的な平和維持活動のもとで軍事活動に携わるということにちゅうちょしています。もちろんこれは慎重に進めるべきことであります。というのも、特に昔、日本の占領のもとで苦しんだ国々の反応を考えますと。
しかし、私が憲法の改正と言った場合、その意図するところは、あくまでもそれらの国々に対してもより明確化すべきであるということです。明確にすべきことは、以前のような侵略戦争は一切するつもりはないということ。私が提案した文言は当然改善し、よりよいものにできましょう。これが私の提案です。そしてまた、日本の侵略によって苦しんだ国々に対しても安心感が与えられます。ただ、そのような修正を必要とするかどうかは日本の国民が決めるべきことです。
これでお答えになるかどうかわかりませんが、私の最善のお答えをいたしました。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) もう私は余り、しゃべりましたから簡単に返事いたします。どうも済みませんでした、本当に。
私は、人権をカットするということは非常に危ないことだと思うんです。だから、そのために今度憲法を改正するのはまた危ないと思います。だから、こういうことについては、どうしても、法律をつくることはできるので、民法か何かの中にそういうことを決めてもいいんじゃないかと思うんです。
それで、とにかく、日本は自由権規約委員会に入っていますね。そして、それを一九七九年にサインしたみたいなんですね。だから、そこからもそういう言葉が出てきているみたいです。いろんな何ですか、パブリックウエルフェアというものを、いろんな使い方があるから、それがちょっと危険があるから、危ないから、よく考えなければならないから、もちろん私は政治学者じゃないですけれども、こういう場合にはどうしても気をつけて、憲法を改正しなくてもいろんなほかのインタープリテーションして、どうか、法律か何かつくることが多分できると思います。
○会長(村上正邦君) では、笹野貞子委員に参りましょうか。
○笹野貞子君 民主党・新緑風会の笹野貞子と申します。
最初に会長にお礼を申し上げたいと思います。
二十世紀最後のときにこのような大変な憲法調査会のイベントをなさるということは、とてもすばらしいことでありますし、今、自民党の皆さんから憲法改正の……
○会長(村上正邦君) 私にはいいですよ、いつでもお話ができますから。どうぞ、貴重な時間ですから。
○笹野貞子君 いえ、とてもこれも重大なことです。
憲法の改正がほうふつとあるという意見でしたけれども、少なくとも女性にはそんなほうふつと意見がありません。この憲法がすばらしいという、女性のほとんどが思っているということでございます。
○会長(村上正邦君) それは私に対しての質問……
○笹野貞子君 これからが会長に対する私の意見です。
やっぱり人の意見をきちっと聞くということは大変重要なことですから、これから、今後とも、この憲法調査会は急ぐことなくみんなの意見を聞いて、二十一世紀に通じるような憲法をひとつみんなで論議していただきたい。
まず、そのことを申し上げまして、非常に会長の女性に対する温かい御配慮、ありがとうございました。
○会長(村上正邦君) 精力的というのと急ぐということは違いますから、精力的にやってまいります。
○笹野貞子君 でも慎重にやってください。
ベアテ・シロタさんにまず御質問をいたします。
まず、質問の前に、先ほど大変重要な部分をもしも会長が急がせて読み落としていたとすれば、どうぞ先にその読み落とした部分を御発言いただいても結構かと思います。
続きまして、先ほどからシロタさんは大変に女性の人権のことで精力的になさったということを聞いておりますが、私が、やっぱり一番シロタさんのすばらしい意見だというところがありました。これは、憲法二十四条にもちろん残っておりますが、それよりもシロタさんは勤労権のことを言っております。シロタさんの草案を見ますと、「女性はどのような職業にもつく権利を持つ。 その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。 同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける権利がある。」ということを草案の過程で書いておられます。これは私にしたら、婚姻も家庭も重大ですけれども、同一労働同一賃金という勤労権というのをかつて五十年前にきちっと草案にされたということは、本当に私にとっては敬意を表します。
そして、今、日本の同一労働同一賃金を見てみますと、労働省の調べによりますと、昭和二十三年のとき、男一〇〇に対して女性は四一・八%、平成四年は男一〇〇に対して六三・九%ですが、年齢が五十歳になると五三・三%に下がります。これは男性の半分の賃金、現状でも今そういう状態です。
私はそこでシロタさんに、この条文を書いたとき、女性が働くということに対してどのような理想を持っていられたか、また、今の日本の現状で男性の約半分という女性の賃金に対して、我々女性にもし御助言がありましたら、よろしくお願いいたします。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) これは日本の女性の問題だけではないです。アメリカでも随分時間がかかりました。私たちはもうデモクラシー長くありますので、今でも男性が一ドルをもうけていれば女性は八十セントです。だから、考えればあなたたちは五十年だけこの権利を持っているので、もう六三%になったのはすごいですよ、本当、アメリカと比べれば。二百年に八十セントになって、あなたたちはもう今六三にできる。だから本当にまたここでもおめでたいです。女性が活動的だから、一生懸命やっているからそういうふうになったと思います。
でも、五十五年というのは歴史的立場から見ると全然長くないんです。こういうものはどうしても暇がかかると思います。そして、あのときには日本は保守的な国だったので、今は随分変わったので、しかしここからここまでジャンプするのは難しいです。私は今から多分もっと速く全部が進むと思います。それは、コンピューターとインターネットとそのグローバリゼーションというのがあるから。私は、多分日本の女性が今度からは非常に速く進歩すると思います。
○会長(村上正邦君) もう一問だけね。
○笹野貞子君 こういう現象も、シロタさんがそういう物の考え方を今の憲法二十七条の中に残してくれたということが大変に日本の女性には意義深かったというふうに思いますので、この憲法が一〇〇対一〇〇になるように私たちも頑張りますし、それまでにこの憲法改正が逆戻りしないような方向で頑張りたいと思います。
続きまして、憲法の学問的な理解度なんですが、シロタさんが憲法をつくったときに日本の社会は、大学あるいは高等学校を含めまして、このすばらしい憲法をみんな学習いたしました。ところが、昭和三十年ぐらいからこの憲法を徐々に教えなくなりました。特に女子大では憲法は全部選択になりました。そして、男性の大学でも法学部を除いて憲法は選択制に変わっていきました。現状ではほとんど女子大学では憲法を知らない学生がたくさん出てまいりました。こんな女性の権利を保障した憲法を今知らないで日本の国民は改正云々を言っているということは、大変に私は不思議だと思います。
この女性の大学で憲法を全部外し選択にしたという現状、また男性の大学でも憲法を学ぶ機会が非常に少なくなったという、こういう現状に対しまして、シロタさんの御見解を伺いたいと思います。
これは文部省の方針でやっていることですが、私は大変危険なことだというふうに思っております。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) これは私への質問ですね。
またこれはアメリカとちょっと同じなんです。今の若い人たちは、なぜだかわかりませんけれども、投票もしないんです。だから、日本と同じです。何だかもう興味がなくて、ちゃんとやっていないみたいです。だから、今の教育がよくないからそうでしょうか。あるいは、ある政治家について余り安心していないか何か、興味ないか何か、日本とアメリカは同じことだと思います。
だから、私が前に言ったのは、あのときの二十二歳と今の二十二歳は随分違います。あのとき私たちは必ず投票しました。そして、女性運動、いろんな政治的運動もやりました。だから、今のことはどうしても、ちゃんとおたくがみんな出て、講演して、一生懸命みんなに教育を与えて、もっと憲法を読ませて、そういうことをしなければならないと思います。でも、どこでも同じです。
○会長(村上正邦君) ありがとうございます。
けさNHKに出演なさっておられて、日本の男女の力関係に私は満足していますと、こういう御発言がございましたので、私からつけ加えて申し上げます。
○笹野貞子君 いや、それはちょっとお世辞があると思います。
○会長(村上正邦君) では次に、高野博師委員にお願いいたします。
○高野博師君 公明党・改革クラブの高野でございます。
お二人の貴重な証言に感銘しておりまして、ありがとうございます。
最初に、ゴードン参考人にお伺いいたしますが、ゴードン参考人が、当時二十二歳の若さで、人権に関する小委員会の中で女性の権利を初めとして子供の権利等について極めて重要な役割を果たされたことについて、改めて敬意を表したいと思います。日本に住んだ経験をお持ちで、日本の伝統や文化や日本の女性の社会的地位について深く理解をされておられた女史ならではの、貴重な存在であったと思います。
また、外国人の権利についても小委員会の原案の中に盛り込まれていたということについては驚いております。
女性の権利に関するゴードン女史の主張のかなりの部分は削除されたようでありますが、それでも現行憲法に男女平等が厳然とうたわれている。
そこで、当時の日本人女性と比較して、現在の日本人女性の地位の向上に果たした憲法の役割は極めて大きいと思いますが、その点についてどのような御感想をお持ちか。大体今のお話でも回答は出ているのであります。
もう一つ、二十一世紀の日本の女性に対して何かメッセージがあればぜひお伺いしたいと思います。
それから、プール参考人にお伺いいたします。
これまで日本国憲法が改正が一度も行われなかったということについて、どのような感想をお持ちか、お伺いしたいと思います。
憲法と現実の乖離が指摘されていながら、解釈でこれに対応してきた。しかし、今限界もあるんではないか。そこで、九日間でつくられた憲法が五十年も改正されなかったということは予想していなかったのではないかと思います。ちなみに、当時プール参考人は、ミステリアスな考えをする日本人だから、民主主義を学ばせるために十年間は憲法改正を禁止すべきだというような趣旨の発言をしておられるということも書いてありましたが、どういう感想をお持ちか、お伺いします。
それからもう一つ、これも先ほどのお話でもう回答が出ているんですが、憲法の改正をしてもいいではないか、あるいは九条をあいまいなままにしておいては、これのあいまいさに終止符を打つべきではないか、あるいはもう一つは国際平和維持活動に協力することができるようにすべきではないかというような発言をされておられたと思います。
もう一つ……
○会長(村上正邦君) もういいんじゃないの、その辺で。
○高野博師君 もう一つだけ。
マッカーサー元帥が、この九条については自分の考えを貫いたと、こう言われているんですが、世界で初めて戦争放棄を誓わせることによって、軍事指導者のみならず偉大な政治家として後世に評価されることを意識していたと、こうも言われているんですが、その点は、そういうことは当時感じられたかどうか、お伺いいたします。
以上です。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) メッセージですね。
私が言いたいメッセージは、女性が今から男女平等のために毎日毎日闘わなければなりません、それをストップすることはできません、いつでもそのことをしなければならないんです。そのほかにも、もちろん自分の国の政治運動をやらなければなりません。そして、国際的運動にも入らなければならないんです。北京に行ったときに、日本から五千人の女性が行ったということをすごかったと思いました。本当によかったと思います。
そして、全世界は今全然平和がないみたいと思います。どこへ行っても戦争ばっかりなんです。だから、多分、二十一世紀の一番大きい問題は平和の問題です。なぜだかは私知りませんけれども、女性が男性より平和的だと思います。だから、これは女性の任務だと思います。平和のために毎日毎日闘って、頑張ってください。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) たくさんございましたよね、質問。私あての質問は何だったでしょうか。
○高野博師君 じゃ、最後の一つだけ。
○会長(村上正邦君) 一つだけに絞ってやってください。
○高野博師君 マッカーサー元帥が、当時、憲法九条で戦争放棄をうたうことによって後世偉大な政治家としての評価を受けるだろうということを意識していたと、こういうことも言われているんですが、その点について感じられたかどうか、お伺いします。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) マッカーサー元帥の心の中は全くわかりません、将来について何を思っていたかということは。
ただ、わかっていることは、元帥が日本を去った後おっしゃったことなんですけれども、この憲法は自分が行った業績の中でも占領軍として最も光り輝いていたものだというふうにおっしゃっていました。ただ、政治的な動機が働いていたのか、その辺のところは率直に言って全くわかりません。ただ、ある意味においては、第九条はマッカーサー元帥が堅持し、かつ賛成していたものでありますが、朝鮮動乱が勃発いたしまして、もしかしたらその後考えが変わったかもしれませんね、本当に憲法第九条が現実的であったかということについては。でも、これは私の憶測なんです。彼は心のうちを私には明かしてくれませんでした。
それで、ちょっとそれますけれども、どうも私が申し上げたことが誤解を呼んでいるようです、先ほどの天皇陛下とお会いしたときのこと。これは明仁天皇のことを申し上げていたんです。
新たに天皇になられた直後だったんですけれども、期日としては多分四年か五年前のことだったんです。ちょうどそのときにケネディ・センターでレセプションが開かれまして、天皇皇后両陛下がお見えになりましてゲストと交流なさったんです、会場を回られて。そのオケージョンというのはケネディ・センターで日本の舞台芸術を上演するということで、それで、私ちょっと大胆だったかなと思うんですけれども、天皇陛下に対しまして、実は私、日本の憲法の中の天皇条項の草案にかかわったんですと申し上げたんです。そうしましたら、天皇が面白がられて、それが私の指示だったんですよといったようなことをおっしゃったわけです。つまり、今の昭和憲法には私に対する指示が入っているとおっしゃったわけです。つまり、天皇陛下の役割を規定しているのは憲法だといったような意味でおっしゃったわけです、その指示というのは。いわば自分の役割というのは憲法によって定められているといった面持ちでおっしゃったわけです。かなりリラックスして、御理解なさっておられるということで、天皇みずからこの天皇条項について問題を持っているといったような印象は全くございませんでした。
ですから、それ以前の裕仁天皇訪米のことではないんです。
○会長(村上正邦君) はい、わかりました。
高野委員の質問は、わかりますか、私が今通訳しますから、彼の言っていることを。──いや、よろしいの、それで。
○高野博師君 もう結構です。
○会長(村上正邦君) 結構、はい。
一つ一つぴちっぴちっとお聞きになられた方が非常にいいと思いますので、どうぞ今までのやりとりを聞きながら、参考にしてひとつ質問してください。
では、次に移ります。吉川春子委員。
○吉川春子君 私は、日本共産党の吉川春子でございます。
お二人の参考人の皆様に心から感謝申し上げます。大変感動的な、そして興味深いお話をお聞きいたしまして、ありがとうございました。
まず、リチャード・プールさんに質問いたします。
日本国憲法の制定はポツダム宣言の受諾によるものですが、その内容は、第一次世界大戦後の歴史の流れ、とりわけルーズベルト大統領の四つの自由、それを受けての大西洋憲章や連合国共同宣言、国連憲章、ポツダム宣言と、このように発展する連合国文書に示される反ファシズム、反軍国主義、民主主義と人権という基調に立ったものであると思います。
そして今、その日本国憲法、とりわけ九条への世界の関心が高まっています。世界を未曾有の戦禍に陥れた第二次世界大戦の火つけ役を果たした日本が、その戦争の反省と戦争のない世界を目指して第九条を持つ憲法を制定したということを私は誇りに思っています。
それで、プールさん、この憲法に直接かかわったということで、どのような感想をお持ちでしょうか。
それからもう一点ですが、最近の日本国内の論議に、GHQの草案はわずか二週間でつくられたものだ、こういう非難があります。アメリカでは、開戦と同時に大規模な戦後日本の研究が始まり、その研究の中には、日本国憲法についての研究もあったことがアメリカの学者、日本の学者の研究で明らかにされています。
そこで、伺いますが、GHQの日本国憲法草案はそういう研究成果も踏まえたものだったのでしょうか。それとも、そういうアメリカの研究成果とは無関係なGHQだけの作業によるものだったのでしょうか、お伺いします。
それから、ベアテ・シロタ・ゴードンさんに続けて伺います。
あなたは、日本国憲法の草案に女性の権利を書くという歴史的な仕事をされた際、子供のときに見た不幸な日本の女性の姿を思い、各国の憲法を読み直し、女性の権利で見落としている事柄はないか、気がつかなかったばかりに後で日本の女性が苦労することがないようにと念を入れてチェックをされました。
また、民間情報局のウィード中尉が、女性参政権の意味を指導するために関西、東北地方を回って、女性参政権はマッカーサーの贈り物ではなく、戦前から女性たちの積み重ねがあってかち取ったものですと強調されたと日本の大新聞に報道されています。GHQの中に日本の女性に心を寄せ激励してくださった女性たちがいたということを非常に私は感動的に受けとめています。
それで、伺いますが、日本にも第一次世界大戦後、女性の参政権獲得運動を含む民主主義の運動がありました。GHQ憲法草案づくりには、このような日本の運動も念頭に置かれたのでしょうか。
また、あなたの著書の中に、GHQ憲法草案の論議について、戦勝国の軍人が支配する敗戦国の法律を自分たちに都合よくつくるなどという傲慢な雰囲気はなかった、理想国家をつくるといった夢に夢中になっていたとありますけれども、これは人権、平和に関して、当時、世界の到達していた最高水準の憲法の規定を日本の憲法に盛り込みたいという意味なのでしょうか。お伺いします。
以上です。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 一つだけでしたか、幾つかの質問があったように思うんですが。
たしか、私が理解した限りでは、最後の質問はこういうものだったと思います。GHQの民政局の草案者たちは国務省の研究について知っていたかどうか、そしてそれが反映されていたかどうかというのが趣旨だったと思います。
国務省の見解は伝えられました。一九四五年の十一月に、先ほど申し上げましたSWNCC二二八号の資料の中で国務省の見解というのは伝えられておりました。このSWNCC二二八号という文書は、国務・陸軍・海軍三省調整委員会、すなわち国務省と陸軍、海軍との調整委員会のつくった文書であります。
当時、極東問題担当部署、今は東アジア問題担当部署と言われているところのヒューボートン博士がその草案に大きくかかわったと言われております。彼の補佐をしたのはマーシャル・グリーンでありまして、グルー大使の個人的なアシスタントでありました。グルー大使はその後駐日大使になった方です。
国務省からそのような見解が二二八号を通じて我々にも伝えられたわけです。ですから、我々が日本側に提示すべき憲法の草案づくり、起草をしたときには、そのような文書はもちろん我々のところにありました。
マッカーサーは、実は余り国務省と相談したがりませんでした、本当のところを言いますと。マッカーサーの政治顧問とは実はマッカーサーは距離を置こうとしたわけです。彼は政治的アドバイスなど要らないと思っていたのです。ということで、いわば密室で憲法の起草というのが行われたわけですが、ワシントンに対してもこれが行われているという情報が伝えられたのは事後になってでありました。ポリティカルアドバイザーのオフィス、これは国務省のもとにありますが、そこも知らなかったんです。
私自身は、もともと外交官でしたからこの件については少し変だなと感じていたんですが、当時は私は軍人ということで、若い将校として参加していたということで、ポリティカルアドバイザーオフィスに注進するということはしませんでした。また、彼らのアドバイスを受けるということも求めませんでした。
SWNCC二二八号の文書は、我々にとってはガイドラインでありました。将来の憲法の草案のためのガイドラインとなったわけです。これは、国務省と陸軍、海軍によって共同でワシントンでつくられた文書でした。
これで御質問のお答えになったでしょうか。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) ウィードさんのことですけれども、ウィードさんは、総司令部の中ではなかったので、ほかの仕事をやっていましたから、私、多分一回か二回だけ会ったと思います。
そして、もちろん私たち、この憲法を書くときにはそれは極秘だったから、だれとも話すことはできませんでした。しかし、ウィードさんがすごくいい仕事をしたということは私の耳に入りました。そして、私あの後十年後ぐらいにウィードさんにニューヨークで会って、いろんなことを聞いて、あの方は本当にすごいいいことを日本の女性のためにいろんなところでやったと思います。教えてあげたと思います。
そのリサーチというのを、GHQの草案を書くときに、日本でどういう女性の運動、そういうことを私はやっていたんですね、一カ月ぐらい。もうその草案を書くときにはもちろん暇がなかったんですよ。ちゃんとほかの国の憲法を見て、それでだれとも話すこともできなかったから。私は知っていたんですよ、日本に女性がもう前からいろんな運動をしていた、そういうことを知っていましたけれども、そう詳しくは知らなかったんです。それは後で、私が市川房枝先生の通訳だったときに、それは一九五二年だった、そのときにいろんなそういうことを教えてくれました、先生は。
人権について、私たち、それを書いたときに、もちろん理想的な憲法をつくりたいと思いまして、一番いいものを、人権、何でも入れたかったと思うんです。そして、私は、平和についてのクローズと全然何も関係がなかったんです、私はそれを書かなかったので。
しかし、もちろんそれがあったということは、私たちは、そのときにすごくいいと思ったのは、一つは、ほかのアジアの国も随分苦労したので、軍国主義がもう全然日本になければ、今度安全に生活することができると思って、そして全世界のためにも、こういう平和的な憲法があれば、それがモデルになって、ほかの人たちも、ほかの国もそれをまねすればいいと思って、それはもちろん私たちの頭には入っていました。
○吉川春子君 ありがとうございました。
○会長(村上正邦君) ありがとうございました。
続きまして、大脇雅子幹事。
○大脇雅子君 社会民主党の大脇雅子と申します。
遠路はるばるお出かけくださいまして、貴重な証言を興味深く拝聴いたしました。どうもありがとうございました。
まず、プールさんに伺いたいと思います。
マッカーサー草案が策定されました当時、日本のジャーナリストや研究者で構成する憲法研究会の手によって、主権在民説をとる憲法草案要綱など私擬憲法が作成され、発表されてもいました。先ほど、マッカーサー草案は、数多くの日本の学者や研究機関の見解を反映させたものであるとの御発言がありましたが、それはどういう人たちにヒアリングされ、あるいはどの資料を参考にされたのか、具体的に覚えていらっしゃるでしょうか。
○会長(村上正邦君) じゃ、一つ一ついきましょう。どうぞ。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 団体の名前を言うことはできるんですけれども、それはちょっと探さないと。
それはケーディス大佐のスタディーの中に出てくるのですが、私の担当のセクションのところでも幾つかそういったドラフトを参照しております。特に運営委員会自身が、憲法についての作業を行う前に民政局の法務班を担当していたラウエルさんが主として検討していました。
あなたがお聞きになっている憲法研究会というお名前ですね、憲法研究会というところだったと思いますよ。ラウエル中佐はそれについての研究を以前していたんです。これは一月の十一日に、このドラフトにはいいところがいろいろあるというふうに彼は思ったわけです。それが一つですね。これはケーディス大佐が後でリストとして出しましたものの中に入っております。
全部これを読んでほしいですか、どういう草案を見たかというリストを。
○大脇雅子君 読んでください。
○会長(村上正邦君) いやいや、時間がありませんから。
○大脇雅子君 でも。──それじゃ後で。
○会長(村上正邦君) 時間がありません。それはだめです。
○大脇雅子君 しかし、それは非常に歴史的な証言ですから。
○会長(村上正邦君) いや、だめです。時間が、もう皆さんの、まだ質問者ありますから。あれを全文読むなんて大変なことですよ。後で資料をいただきましょう。
○大脇雅子君 じゃ、ぜひ後で資料をください。
○会長(村上正邦君) そうしてください。後で資料を。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) コピーをすればできると思いますよ。この部分をコピーすればいいと思います。ケーディス大佐がつくったリストです。
あとほかにもあります。ほかに学識経験者がやったものというのもあります。これも影響力のあるものでありました。全体のプロセスに影響力があったと思います。残念なのは、時間がなかったためにこういったすべての資料などを精査に検討することができなかった。時間がなかったんです。
それからまた、すべての世界の憲法を網羅するということもできなかった。シロタさんもいろいろと集めてくれたというのは本当に役に立ったんですけれども、その中の幾つかを見ることはできました、アメリカの憲法も含めてですけれども。しかしながら、全部を検討するということはできなかった。残念だったと思っております。
とにかく、いろんなソースがあったことは事実です。憲法の草案者たちが書いた源になるようなものはいろいろありました。いろいろな影響力をいろいろなところからとったというところはありました。あの草案内容というのは突然どこからか一週間かけて完全な形で生まれてきたというものではありません。いろいろなものがあって、そこから生まれてきたというものであります。源はたくさんありました。
○大脇雅子君 どうもありがとうございます。
もう一つプールさんに御質問したいのは、そのマッカーサー・ノートが、「エンペラー・イズ・アット・ザ・ヘッド・オブ・ザ・ステート」という文言から始まっていますが、これはどういうふうに内容として認識されたんですか。私がとても興味があるのは、シンボルという言葉はいつ、だれが発案したものなんでしょうか。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) まず第一に、マッカーサー元帥というのは憲法学者ではありませんでした。マッカーサー氏は元首とそれから首脳の区別というのははっきりと認識していなかったと思います。その「アット・ザ・ヘッド・オブ・ザ・ステート」ということを書いたときには何を意味していたかはそんなに明確ではなかったと思います。そこで、こちらが彼はこういうことを意味しているのだろうと決めたわけです。それは立憲君主のことを言っているんだろうというふうに思ったわけであります。図を書けば、一番上にいるのが象徴的な地位になって、それから内閣があって、それから国会があって、そして国民がいるというふうになるんだろうと。これは何も重要度で順位がつけられるというわけでは必ずしもありませんけれども。
そこで我々は、ケーディス大佐の同意も得まして、そこでシンボルという言葉を使うことにしたのです。我々がこの言葉を発明したわけではありません。前に使われているところもあります。しかしながら、私の知る限り、まさにこの憲法草案の一部として使われたのはそのときが初めてだったと思います。でも、ほかの言葉を考えてもよかったわけですけれども、我々がその当時考えていたものをあらわす一番いい言葉がそれだったのです。象徴という言葉を使ったわけです。そして、それが我々が考えていたことの意味を一番よく伝える言葉だと思ったからなんです。そしてこの条項というのがみんなに受け入れていただけるというものになりました。
○会長(村上正邦君) ありがとうございます。
もう一問ね。
○大脇雅子君 もう一問、ベアテ・シロタ・ゴードンさんにお伺いします。
憲法二十四条の個人の尊厳と男女の本質的な平等というのは、もう私たちの魂の奥深く、勇気を与える言葉でありました。
一九七七年にスーザン・J・ファーさんという方にお述べになりましたときに、スーザン・J・ファーさんという学者の方が、ともかくどの分野で改革を必要とするか選定する権限というのは上部から人権委員会に課せられたものではなくて、委員会に任された、下から始められたものだというふうに述べておられるのですが、それは事実でしょうかということ。
それから、憲法二十四条の精神をめぐって、占領軍当局の軍人と文官の意見対立、それから日本政府の反対というのがあった。そして、女性運動はそれをどう受けとめていたのか。その当時のことについてもう少し詳しく話していただけるでしょうか。具体的に、どういう反対があってどういう対立があって、この憲法二十四条……
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 運営委員会の中でですか。日本の代表者じゃなくて、ケーディスとラウエルさんと、その人たちですか。
○大脇雅子君 そうです。それから日本政府も。先ほど日本文化に関すると言っていたんですけれども、ぜひ教えてください。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) それはちょっと長くなるかもしれませんけれども、どうぞ制限してください。
アメリカのケーディスとラウエルとハッシーは、本当にアメリカ憲法から来た人なんです。あの人たちは弁護士だったからすごくアメリカの憲法をよく知っていたんですよね。そこには女性については別に何も書いてありませんね。だから、アメリカの憲法にも社会福祉のこと、女性のためにも書いていなかったから、そこから来た人だったから、これは今度民法にどうしても入らなければならないけれども憲法には合わないという、そういう考え方だったんです。だから私がヨーロッパの憲法はそうじゃないと言っても、それはあの人たちにそんなに印象を与えなかったみたいです。
しかし、ケーディスさんが亡くなる前に、それは二年前だったんです、私に、もちろんあなたが言ったことは私たちよく聞いて、そしてそれを全部縮めることはすぐ決めなかったんですって。ホイットニー准将とそのことを話して、ホイットニー准将と相談して、そしてその後はそれを全部カットしちゃったんです。でも、すぐ決めることではなかったんです。だから、何かそのことはあの人たちの心に入ったみたいです。
しかし、今度運営委員会と日本政府との最後の会議には、日本側が、これはこういう権利は日本に合わない、文化に合わない、全部そういうことを言いました。しかし、大騒ぎであったんですけれども、余り議論にはならなかったのは、そのときには今度ケーディスさんがそれを制限したんです。だから、余りいろんな、ほかに私が今言った上には日本の代表者は何にも言いませんでした。それだけだったんです。
○大脇雅子君 女性運動の方の受けとめ方は何かその当時御存じでしたか。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) あのときの日本の女性運動ですか。
○大脇雅子君 例えば選挙がございましたね、その後。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) もちろんそれは私、自分の目でよく見ましたよ。私、最初の選挙に行って、そしてすごくびっくりしちゃった。だって、おばあさん、若い人、みんな出てきて投票したんです。だから、今もそういう人たちがみんな出てきて投票すればいいじゃないと思うんですよ。あのときはすごかったです。だから、あのときの二十二歳とあのときの五十歳も、今の二十二歳と五十歳よりよかったんじゃないですか。ごめんください。
○会長(村上正邦君) 続きまして、平野貞夫委員。
○平野貞夫君 参議院クラブの平野でございます。
きょうはまるでGHQの中で憲法草案をつくっているような、非常に緊張感をかいま見るような会議でございまして、大変私も勉強になっております。
プール参考人に、憲法改正規定の、GHQで御苦労なさった話を二点お聞きしたいと思います。
ラウエルさんの文献によりますと、憲法改正の規定について、当初、憲法制定後十年間改正を禁止する、そして十年後日本の国会は憲法改正を審議すればいいという構想があったというふうに聞いておりますが、この考え方は、日本の民主化を定着させるため十年間はGHQの指導による憲法で日本の政治を行い、十年後は日本人自身の判断で憲法改正を行えばよい、こういう発想だったでしょうか。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 実は、修正条項についてはいろんな形で論議が当時されておりました。いろんな案が出ていたんです。ですから、今おっしゃったラウエルさんの文書ということはよくわからないんですけれども、日本に対して提出されたものはそういうものではなかったということで、我々内部で討議していたことはあるんです。改正の条件ということで、今おっしゃったような案も含めて討議はされておりましたけれども、アイデアとして日本政府に当時提出したものではないです。あくまでも内部討議の材料として討議されただけです。
人によっては、改正をしにくくした方がいいと言った人もいました。そして、迅速に改正されない方がいいんだという意見もありました。日本が主権国家に復帰してすぐに憲法を捨ててしまうのはよろしくないんじゃないかと思った人たちもいました。
その意見を反映したのが今おっしゃった文書ということだと思いますが、これはあくまでも非公式のメモといったような形ぐらいでなかったんじゃないでしょうか。日本の政府が憲法を例えば十年に一度見直す義務を負うというアイデアも出ました、一方では。でも、これはあくまでも出てきたいろんな考えということで、別にその意見をまとめて日本政府に提出したということではないんです。
今の形で憲法の改正規定というのが入っているわけですから、改正はいつでも可ということになっていると思います。日本の政府と国会と日本の国民が合意すれば、いつでも改正可能というふうに今規定はなっていると思います。
ただ、アメリカの憲法でさえ改正するのは非常に大変なことなので、皆様方は十分この日本政府に提出した憲法改正規定案の内容はどういうものであったのかを御存じだというふうに思います。
○会長(村上正邦君) もう一度どうぞ。
○平野貞夫君 二問目も重複しましたので、結構でございます。
○会長(村上正邦君) 佐藤道夫委員。
○佐藤道夫君 佐藤でございます。先ほどゴードン参考人の話に登場いたしました、戦前からの日本では最も著名な婦人運動家である市川房枝さんの始められた二院クラブに属している佐藤でございます。どうか御記憶くださいませ。
そこで、プール参考人にお尋ねいたします。
憲法学説上、憲法改正には限界があると。要するに、やみくもに何でもかんでも改正はできない、憲法の基本理念を改正することはこれはできない、新しい憲法をつくる、一種のクーデター、革命であるというような考え方があります。
今の日本の憲法の原則というのは三つありまして、一つは国民主権、主権が国民に属する。もう一つは国民の人権を最大限に尊重する。それから三番目が平和主義であります。国民主権ですから、これをやめて天皇にもう一回主権を戻そうということは今の憲法の枠内ではできないという考えです。それから、国民の人権を大幅に制限することも許されない。最後の一番問題は平和主義でありまして、第九条は戦争放棄ということで、その目的のために軍隊を持つことを禁止している、こう考えてもいいと思います。
これが実は憲法の基本原則で、この憲法の枠内で軍隊を持つことが許されるのか許されないのか。伝統的な憲法学の考えからいうと、これはできない、もう今の憲法を廃棄して新しい憲法をつくるしかないんだ、一種のクーデターだ、こういう考えがむしろ普通だと私は思っておりますけれども、こういう考えが憲法制定の際に議論されたかどうか。それから、議論されなかったとしても、今どのようにお考えなのか、その辺をお聞かせ願えればと思います。
それからもう一つ、ゴードン参考人に対するこれは要望でありますけれども、今青年劇場というところで「真珠の首飾り」という、これまた著名な劇作家のジェームス三木が作並びに演出している演劇が行われているそうでありまして、これは一週間で今の憲法の草案を大急ぎでつくった、その苦労を取り上げている。こういうことで、何か昨日ゴードン参考人も行かれたということが報道されておりますので、どうか、一見に値する演劇なのかどうか。結論だけで結構でありますから、ここに何百人という人がおりますから、皆さんこの問題には関心を持っておりますから、大変見るに値する演劇だということならば私も率先して参ろうかと思っておるわけでありまして、その点の感想を簡単にお願いできればと思います。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) どのような改正が検討されるかという点については制限はないと思います。ただ、賢明ではない提案が受け入れられることはないようにと思っております、日本の国民あるいは日本の国会によっても。それが制約と言えるのかもしれませんが。
しかし、もともとの草案では、第三章の市民の権利については改正がなされないということが言明されておりました。すなわち、国民投票にかけて日本の国民に諮られることなしにはと。しかしながら、これはマッカーサーによって、そういう制限も設けてはならないということになったわけです。当然日本政府が市民の権利の規定について変更を試みないであろう、そして天皇の役割の規定についても、あるいは憲法の理念そのものを変えるということはないだろうということでした。
しかし、技術的にはもちろん改正はできるわけです。ですから、明治憲法に戻りたいならばそれもできる、それも可能なんです。ただ、それは賢明ではないと思いますし、日本の国民もそれを受け入れないだろうと思いますが、法律的にはそういう制限は一切ないわけです。ですから、何を改正してもいいわけです。
しかし、先ほど申し上げましたように、やはり全部の見直しということになりますと、パンドラの箱があけられてしまうということになりますので、それは賢明ではないだろう。ただし、検討されるべきことは個別に取り上げて検討されるべきであろうと思います。ですから、憲法全体を見直すということは避けられるべきでありましょう。もし憲法全体の見直しということになりますと、パンドラの箱があいてしまうということになりますので。そうしますと、憲法は今とは全然変わってしまうということにもなってしまうでしょう。
もともとの疑問であります、本当にこれは日本の憲法なのかということですが、日本の国民もそれを受け入れたわけです。日本の内閣によっても受け入れられました。日本の内閣と交渉をし、そして受け入れられました。日本の国会も上程されたものを受け入れたわけです。そして、この受け入れるということを通して日本の憲法となったわけです。
ですから、何もこれまで変わらなかったという事実によっても確認されたのではないでしょうか。本当の意味で日本の憲法になったと言えると思います。
占領時代につくられた憲法だというそのものの起源という問題から受け入れるのが難しいという疑問もあるかもしれませんが、その問題は憲法の文言や憲法が何をするのかに比べ、はるかに重要性の低いものです。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は素人と言いましたね。しかし、文化交流を四十年の間いたしましたので、芝居については私は本当に専門家です。だから、「真珠の首飾り」は本当に推薦できます、本当にすごいいい芝居ですので。そして、女優二人私の役割をやっているんです。一人は若いベアテ、一人は年とったベアテ、その二人が出ますから、どうぞ見てください。
○会長(村上正邦君) 佐藤先生、どうぞお行きになられてください。
一応各会派一巡いたしました。御協力ありがとうございます。
なお、あと三十分か四十分の時間ございますので、時間があれば審議に加わりたいという申し出をいただいております小山孝雄幹事、円より子委員にそれぞれお願いをし、なおあと二名ほど、時間がございますから、発言がございますれば事務局の方へ。
はい、わかりました。今注文とりに行かせますから。
では、小山孝雄幹事。
○小山孝雄君 両参考人にお尋ねをいたします。
先ほどSWNCC指令のお話が出ておりましたが、いわゆる降伏後における米国の初期の対日基本政策、その中に冒頭に、日本国が再び米国の脅威となり、また世界の平和及び安全の脅威とならざることを確実にすることというのが占領政策の基本政策の重要な柱として第一番目に掲げられております。憲法草案をつくる上において、そのことは知っておられましたか。
私は、憲法の制定作業もその線に沿ってつくられた憲法だと、このように認識をしておりますし、多くの国民の中にも、現憲法を日本弱体化憲法、占領憲法、あるいは諸悪の因、現憲法という言葉すら語られているわけでございますが、当時そのことを認識しておられたかどうか。
そのための憲法作業だということは知らないまでも、そういうSWNCC指令の中身にそういうことが書かれていたということを承知していたか否か。これを両参考人にお尋ねします。
なお、先ほどゴードン女史からお話がありましたが、一番最初に民政局に呼ばれて憲法草案の作業を命ぜられたときがこのことだと思いますが、一九四六年二月四日、ラウエル中佐、たしか司法担当の委員長だったでしょうか、GHQ草案を日本がのまない場合、力を用いて、脅すだけでなく力を行使してもよいという権能をマッカーサー将軍から与えられていたということを記録に残しておりますが、そのことは承知していたか否か。
そしてまた、そのことを、皆さんがつくったんだということを検閲するマスコミの検閲が厳しく行われていたということ、それは承知していたか否かをお尋ねします。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 最初に、SWNCCメモの内容を知っていたかということですか。
もちろん起草したときにはそのメモは我々の目の前に置いてあったのです。それぞれの起草グループはそれぞれそのメモをちゃんと前にして作業をやっていたということですから、内容のことはしっかりと知っていました。
最後の点ですけれども、ホイットニー准将が言ったと伝えられているところによると、もしこの草案が日本側によって拒否されたのであれば、マッカーサーは国民、人民に直接働きかけて支持を得ようとするというふうに言ったということであります。率直に言ってどこまで本気だったかはわかりませんが。ただ、そこまで行かないことを望むということで、日本政府のレベルで十分討議をするということで受け入れてもらえるということを期待していたということです。すぐに受け入れてもらえるとは期待しておらず、草案として、たたき台として受けとめてもらえればというふうに思っていました。
内閣の方では、松本氏も発言して、GHQ草案はもう最初から拒否すべきだというふうに言っていた人もいます。それは賢明ではないと思っていた閣僚もいたわけで、内閣も意見が分かれていたということです。
でも、天皇陛下自身はこれを受け入れることを支持されたのです。もちろん文字どおり一言一句そのまま受け入れるということではなく、少なくとも交渉のためのたたき台として討議はできるんじゃないか、そういった形で受け入れてもいいではないかというふうに思われていたということです。
これでお答えになったでしょうか。
率直に申し上げて、もし憲法案が拒否されたら、直接日本の国民に呼びかけて受け入れてもらうようにしようといったようなことは、単に会話の中で出てきたものかもしれません。そこのところは私にはわかりませんが、ワシントンから来た指示ですとか、マッカーサー元帥がおっしゃったことから考えますと、日本の国民の意思に反して憲法を押しつけても、その憲法は国民に受け入れられるものとしていずれ育たなくなると思っていたし、それは占領軍のやりたいことに反することでもありました。
ですから、実際に交渉されたものとしては最終的にはほとんど原案と変わらなかったじゃないかというふうにおっしゃるかもしれませんけれども、いろんな修正も加えられ、日本政府が最終的にはそれを日本の草案とすることを受け入れて、国会に提出されたということは確かです。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 済みませんけれども、ちょっと私への質問を。私は全部プールさんの質問になったと思って。ちょっともう一度私へのことを。
○小山孝雄君 簡単に言いますと、憲法草案の作業中に、これはラウエルさんが文書に残して、ラウエル文書ということで残っておりますけれども、たしかゴードン女史は何かにそのことを語ったことを記憶しておりますが、日本側が皆さんの草案をのまなければ力を用いてもいいよということをマッカーサー将軍から与えられていたということをホイットニー将軍が語っていたということをラウエル中佐が文書に残していますね。
それからもう一点が、GHQが日本国憲法の草案をつくったんだということを、新聞の検閲を、マスコミの検閲を厳しくやっていたということについて御存じでありましたか。私は、言論の自由を盛り込んだ現憲法制定の過程でそのような検閲が行われたということについてどう考えていらっしゃるかなということを聞きたかったんです。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) そのことについては私は本当に何も知らないんです。
ラウエルさんがこのことについて何かそういうマッカーサーの気持ちを伝えたということは私はどこかで読みましたけれども、私はそのことを本当に何も知らないんです。だから何も言えません。それは本当かうそかはちょっとわかりません。
○小山孝雄君 先ほどの証言の中で、日本国民の人は自分たちがこういう作業をやっているということを知らない、また知られまいとしたという努力を、そしてあちこちの図書館を回ったと、一カ所の図書館ではなくてあちこちの図書館を回ったという証言がありましたね。それからいくと、知らせまいとしたと理解したんですが、それは違いますか。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) そのこともちょっと本当に何も言えません、ちょっとわからないんです、ここは。
私たちはみんな本当に別々でやっていたんですよね。だから、私は人権のことだけやって、そしてその人権つくる人の間にもミスター・ロウストとワイルズがいましたので、その三人でも、ほかの人が何を書いた、何を考えたか、それを一緒に話しする暇もなかったんですよ。だって七日で、朝から晩まで自分の書くテーマのことについて随分それぞれに注意をしなければならなかったから、そういうディスカッションみたいなものは余りなかったから、ほかの人たちがどういうことを書いたか本当に知らなかったんです、あのときに。
○会長(村上正邦君) ありがとうございました。
では、円より子委員。
○円より子君 民主党・新緑風会の円より子です。
私は、憲法調査会の正式メンバーではないのですが、きょう、憲法起草にかかわられたお二人をお迎えするに当たってお話をぜひとも聞きたいとの思いのもと、委員として加わらせていただきました。その上、こうして発言の機会をいただけた幸運を大変感謝しております。
まず、ベアテ・シロタ・ゴードンさんにお伺いしたいのですが、占領下という状況、そして時間的に大変制約された中で、戦勝国の人間が敗戦国の憲法をつくるという状況、大変だったと思います。
その中で、ベアテ・シロタ・ゴードンさんら三人の方々、人権条項の起草に携わった方々や、またそれ以外の方々も、この憲法を、単に日本の国民のために民主政治を樹立するだけでは不十分で、それまでに人類が達成した社会及び道徳への進歩を永遠に保障するという理想を掲げようと大変情熱的に取り組まれたことを、さまざまな書物やまたお二人のお話から知り、私たちはとても感謝しております。
今、この憲法を押しつけられた憲法だと言う人がいるんですが、日本人の、それも権力を持つ一握りの男の人たちがつくった帝国憲法に縛られて生きがたい人生を生きてきた女たちから見れば、そのとき松本私案、松本烝冶さんがつくられた、甲案、乙案があったと聞いておりますが、この憲法が押しつけられなくてどんなに幸せだったかと思っております。
さて、この松本私案ですが、これについては毎日新聞がスクープしたと聞いておりますけれども、ベアテ・シロタ・ゴードンさんはこれをお読みになったのか。また、もしお読みになったとしたら、この中には人権条項も女性という言葉もございませんが、それについてどう思われたでしょうか。
まず、それについて伺います。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) がっかりしました。随分がっかりしました。
○円より子君 それでは、この人権条項をつくるに当たりまして、「オール・ナチュラル・パーソンズ」、つまり、「すべての自然人は」という言葉が、最初あなた方がつくられた草案の十三条でしたかに入っていたと思うんですけれども、この言葉は皆さんがどのような思いで入れられたんでしょうか。
もし、こうした人権の本質は民族や国によって束縛されるものではないとの思いから入れられたとしたら、そのまま残っていれば、在日外国人に指紋押捺を強制したりというような、そういったことがなかったのではないか。さまざまな外国の方々と日本人との関係性がもっとよくなったのではないか。そういったこともいろいろ考えるのですが、この「すべての自然人は」ということをお入れになった思いを教えていただけませんでしょうか。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) そのことも私全然知らないんです。それはドクター・ワイルズさんが書いたんです。あの方はとてもおしゃれな方だったので、とても難しい言葉が好きだったんです。だからそれを書いて、だれも本当にわからないんです、その自然人という意味というのは何だかわかりません。
私、ケーディスさんとそのこともお話ししましたけれども、ケーディスさんもちょっとわからないと言いましたよ。そして、もうドクター・ワイルズが亡くなっていたから、もうあの方と話しすることができなかったから、何も言えません。
○円より子君 そうですか。
ワイルズさんは、インドでのカーストの制度を十分見てきて、人の間に差別を入れるとかそういうことをとにかくなくして、国と国、そういったものをなくした上での人権の本質、民族や国によって束縛されるものではないという思いを入れられたというふうに聞いていたんですが、そのことについては、その当時はじゃお聞きにはならなかったわけですね。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) そうです。済みません。
○円より子君 はい、わかりました。
では、もう一つお聞きしたいと思いますけれども、先ほども他の委員からもお話がありましたが、例えば、働く権利ですとか同等賃金等のことについても、すべてのこと、既婚未婚を問わずといった文言も最初のベアテさんが書かれた草案には入っておりました。そうした草案が、ただ単に細か過ぎて憲法にはそぐわないという理由でカットされたのか、それとも起草した人たちの中に、アメリカ憲法よりも私たちはいい憲法をもらえたと思っておりますけれども、男性優位の壁が結局大き過ぎたのか、そのあたりのことについてお伺いしたいと思います。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) ケーディス大佐は、私が書いたいろんな社会福祉とかそういう点については本当に反対していなかったんです。それはケーディスさんが亡くなる前に私に言いました。でも、憲法には入れたくなかったんです。それは憲法には合わないです、民法には合うと、そういう考え方です。私はそれは本当だと思います。
○円より子君 ただ、ベアテさんは先ほど、もし憲法に書いていなければ、民法をつくるのは男の人たちだからそれが入らないおそれがあるとおっしゃいました。今でも……
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) それは言いましたけれども、それはそうじゃないと思ったかもしれない。
ケーディスさんは日本の官僚的な人と経験がなかったんです。戦争の前に日本にいなかったでしょう。私はそういう経験がたくさんあったんです。それは、私は私のお父さんとお母さんの通訳だったんです。時々パパとママがどうしても警察かどこかに行かなければならなかったんです。そのときに官僚的な男性に随分いじめられるということがあったんですよ。だからそれも私の頭に入っていたんです。でも、ケーディス大佐は多分そういうことはわからなかったので。
そしてもう一つは、ケーディスがそのときに私に言って、四年前にも言ったのは、それはケーディスは、そのときには、占領軍がまだ日本にいるときに民法にちゃんと書かれると思ったんです。だからそのときに、まだいるからそれをぜひ民法に入れることを、進歩することだったんです。しかし、そうにはならなかったんです。だから最後に私が言うとおりになったんです。
○円より子君 残念です。今でも民法改正など、夫婦別姓などしますと日本の文化にそぐわないと言われておりまして、私たち頑張らなきゃいけないと思っておりますけれども。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) それはよく知っております。残念です。
○円より子君 あと一つ大丈夫でしょうか。
○会長(村上正邦君) いや、もう時間が参りましたので、そこら辺で御遠慮願いたいと思います。
○円より子君 そうですか。わかりました。
本当にありがとうございました。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) こちらこそありがとうございました。
○会長(村上正邦君) 扇千景委員。
○扇千景君 調査会長にこうして機会を与えていただいて、これはこの参議院に憲法調査会が設置された当初から私の希望を申し上げておりましたので、きょうは心から御礼を申し上げたいと思います。
るる御意見を伺っておりまして、私は一つずつ順番に行きたいと思いますので、まずゴードン女史にお伺いしたいと思います。
私は、女性の権利をこれだけ高めていただいたことには感謝申し上げますけれども、現実に日本の今の我々の生活、日本が今日あるということに関しては、この憲法の中から、これは日本国でなければならないという、女性というものが、女性の創造が見えてこないんですね。それは、日本の伝統文化というものが、今の日本の中でいかに伝統文化が重んじられていないかという点、そして義務と権利の民主主義のあり方等々も私は女性としては大変問題点もやっぱり今現実には起こっているであろうと。
ですから、権利は与えられたけれども、それに対する本来の、ゴードンさんが先ほどおっしゃった、女性の虐げられたという言葉をお使いになりましたけれども、虐げられただけではなくて、日本の女性のいいところがこの五十五年の中で失われてきたということも私どもは大いに勉強しなければならない、また私たち自身も反省しなければならないことだと思います。
一つ、ゴードンさんが今まで自分が憲法を草案したということを公表なさらなかった、あるいはしばらく沈黙を守ってきたという中に、当時、皆さん方が作成していただいたこの憲法に関して、アメリカのニューヨーク・タイムズも述べておりますけれども、それは「新草案が陸・海・空軍を全面的に廃止し、日本は今後その安全と生存を世界の平和愛好国の信義に依存すべしと宣言するにいたっては、余りにユートピア的であって、むしろ現実的な日本人として草案を軽んずるにいたらしめるであろう。」というふうにニューヨーク・タイムズは評しています。
また、その当時、同じくニューヨークのサイエンス・モニターというところにも、「草案自体はなんら難点はないが、これをもって日本の憲法である、これにより日本は民主的な平和愛好国となるという主張は問題にならない。これは日本の憲法ではない──日本に対するアメリカの憲法である。」と断言をしたんですね。
ですから、私は、ゴードン女史が今まで自分が草案したんであるということを黙っていたという中には、当時のアメリカの新聞にこういうふうに評論されたことも原因の一つではないか。また、日本の女性が虐げられたというだけで日本女性のよさというものもむしろなくされて、ユートピアをむしろこの憲法に求められたというふうに評されたことに対して、どういう御感想をお持ちでしょうか。まず、ゴードン女史、一問伺います。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、それがニューヨーク・タイムズに書いてあったということを知らなかったんですよ、全然。初めて聞いているんです。
しかし、おたくが言った、いろんないいものが、伝統的なものが日本にあるので、それを失うということは、私ももちろんいつでも残念だと思います。私は、文化について特別に、いいものを守らなければならないと思うんです。
しかし、女性の権利については、女性は全然権利がなかったでしょう。だから、どうしても初めから、でも女性だけじゃないですよ、権利がなかったのは。男性も権利がなかったんです。だから、それはそのときはそうだったんです。
だから、でも女性の方が圧迫されていましたから、どうしても圧迫されている人に援助しなければならないという気持ちで私は草案を書いたんです。そして、私は自分で、女性ですから、もちろん女性のことをもっと考えました。今のところはまたちょっと変わったかもしれません、今は男性もサポートしなければならないと思うんです、私は。だから、それも女性に今度は頼みます、今の男性にどうぞサポートしてください。
でも、本当にそれは平等じゃないとだめなんです。どうしても、どっちかでも、自分の力がないと楽しく歩くことができないんです。だって、男性と女性が結婚して一緒にいるので、そして男性が発展して女性が発展しなければどうにもならないと思うんです。また、同じことで、女性だけ進歩して男性がそうしなければ、また本当に自分の家族の中でも幸せになれないと思います。
そして、私は、どうしても将来について考えると、平和は一番。家庭の中で動くのもすごく重要なもので、家庭は社会の一部であるから、その社会で動くのはすごく重要なことですから、だからそういうものに全部、女性と男性が一緒にサポートして歩かなければならないと思うんですから。そういう気持ちです。
○扇千景君 いや、それではなくて、私が申し上げているのは、平和憲法を持っているから平和であるということではならないと。諸国に対しても、世界じゅうに対しても我が国は平和憲法を、先ほどゴードンさんが理想だとおっしゃいましたけれども、平和憲法を持っているから平和になるということではない。平和ということに対してはやっぱりある程度の責任を世界に対してもしなきゃいけないということを申し上げたかったんです。
それから、一九九七年に皆さん方においでいただいて、憲政記念館で皆さんの御意見も聞きました。きょうは残念ながらエスマン氏がいらっしゃいませんけれども、私はエスマン氏がおっしゃった中でどうしても聞きたかったことが一つあったので、プール氏に改めて伺いたいと思います。
この憲法草案をつくっていただくときに、アメリカは絶対一院制ということを主張なさった。けれども、私どもは、今これ参議院という二院制で、参議院で今おいでいただいたわけですけれども、あくまで日本は二院制を主張し、アメリカは一院制だということをおっしゃって、エスマン氏が前回、一九九七年のときにはどうしても二院制というものを受け入れたくなかったということをおっしゃったんですけれども、その当時の一院制と二院制の論議を、プール氏が覚えていらっしゃる程度で結構ですけれども、何か御開陳いただければ参議院としてはありがたいと思います。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) この問題は、実はマッカーサー自身が一院制ということを主張していたんです。たしかそうだったと思います。彼が考えていたのはこうだったと思うんですが、貴族院というのは余りにも民主主義的でなかった、だからほかの形でも再現したくなかったということです。ですから一院制を主張したのではないかと思います。ということで、一院制をもとに草案をつくったわけです。すべての修正とかいうことが本当にとらえられたかどうかわかりませんが、国会については一院制ということでもともと考えておりました。
ところが、それを変える必要が出てきました。その当時の理解では、これは交渉に付されるべき点であると。日本政府は二院制をより好んでいるのかどうか。上院という名前にするのか、上院という名前の方が皆さん気に入るかもしれませんが、今参議院という名前にもなっているわけですが。民主主義的な選挙によって選ばれた議員から構成される参議院と。しかし、これは交渉の対象になる点として譲歩されたのです。マッカーサーもこの点は理解し、交渉における日本側の得点ということになりました。
○会長(村上正邦君) どうもありがとうございました。
時間も迫ってまいりましたが、大体十五分ほどおくれておりますので、その時間を、せっかくのこういう機会ですから一人でも多くの方の御質疑をと、こう思って、今希望者からの届け出がございましたが、会長の整理権においてお許しをいただきたいと思います。
最大限あとお三方にお願いをしたい。特に女性の先生方が参考人に対していろいろお聞きしたい、こういうことですから、福島瑞穂議員。そして魚住幹事、最後、当調査会の吉田会長代理に締めくくって、質問を終わりたい。共産党さんも、おれのところもじゃもう一人いいじゃないかと、こういう今申し入れを受けましたが、ここはひとつ泣いて、会長からお願いを申し上げます。
では、福島委員から。ただし一問です。
○福島瑞穂君 今日も日本の家父長制と闘っている日本の女性たちに大変勇気を与え、武器となる憲法をプレゼントしてくださって本当にありがとうございます。ベアテさんに一つ質問をいたします。
憲法が改正され、九条が改正され、日本が軍を持つということになれば、アジアに対してどういったことを意味するのでしょうか。憲法九条の意義について最後に御質問したいと思います。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 九条について、あなたが今聞いているのは、ほかのアジアの国に対してどうということですね。
○福島瑞穂君 はい。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、ほかの国々は、アジアではまだずっと戦争のときの日本の軍国主義を忘れていないと思います。今この平和憲法があるから安心していると思います。しかし、それを今度改正すれば、そこから何が出るかと疑うと思います。
○会長(村上正邦君) 魚住幹事。
○魚住裕一郎君 公明党・改革クラブの魚住裕一郎です。
プール参考人にお聞きしたいんですけれども、先ほどプール参考人は、明治憲法に返ることも可能だというような御意見を陳述されました。ただ、日本国憲法ではかなりいわゆる硬性憲法、改正が難しいという、そういう憲法につくっておりますし、また憲法の前文にも、いろんな国民主権主義等を書いた上で、「この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅」という表現になっておるんですね。
これは憲法の前文ですが、GHQの中で議論をされている段階あるいは日本政府と議論をしている段階では、この点について、改正の限界ということについて議論はなされていたのでしょうか。マッカーサーはないというふうにおっしゃいましたけれども、もう一度その辺、憲法の委員会の中での議論を御紹介ください。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) でも、憲法の中には別に修正できる対象について何の限度もまた制約も設けていないということで、日本の方々の英知をベースにして、また選挙によって選ばれた日本の政府の方がお決めになることということでございまして、これは普遍的にいかなる憲法にも当てはまるものだと思います。憲法というのは、いわば国民の利害を満たしていくという限りにおいてずっと存続するというものです。
前文がいわゆるトーンを定めているということで、後に続く憲法の本文のトーンを定め、その中で言っているように、人々による人々のための人々がつくった憲法ということです、リンカーンがいみじくも昔言ったように。いわば民主的な憲法だったらずっと続くことができるということを意味しているのです。
もちろん、修正するということは可能であり、もし望むのであれば憲法全体を書き直すということももちろん可能性としてはありますけれども、でも、私の意見としては、全部を書き直してしまうとか多数の条項を修正するのは賢明ではありません。大変な作業になるということだと思います。でも、理論的にはもちろん可能なことです、そうはいいましても。我が国の憲法も改正して憲法そのものを消滅させてしまうこともできるわけです、皆が賛成すれば。でもそんなことはいたしません。
ですから、民主的な憲法というのは、国民の利害が満たされる限りにおいてはずっと存続が保障されるということだと思います。
○会長(村上正邦君) はい、ありがとうございます。
非常に能率的な質問でございますので、もう一人入ります。吉岡吉典委員。
○吉岡吉典君 では、お二人に……
○会長(村上正邦君) お一人にしてください。
○吉岡吉典君 簡単な質問ですから。
○会長(村上正邦君) まあ、一人にしてください。
○吉岡吉典君 それでは、ゴードンさんにお伺いします。
日本で今、憲法をめぐる論議の中で、わずか一週間でつくり上げられた草案だということが非常に問題にされております。その一週間でつくられた草案だということから与えているニュアンスは、非常に短時日につくられた、十分練り上げられていない無責任な憲法草案が押しつけられたのではないかというニュアンスの議論があります。
きょうのお二人のお話を聞く中で、私は、そうでなく、一週間の大変な作業でつくられたものではあるが、それはアメリカでの対日政策についての研究成果を踏まえ、かつ日本の学者の意見もよく聞き、また日本の歴史についてのいろいろな知識をも念頭に置きながらつくられた。作業は一週間であったかもしれないけれども、そういう作業の結果つくられたものだということを私は強く感じました。
そういうふうにとっていいのか、やはり時間が足らなくて非常に不十分なものになったということなのか、お伺いしたいと思います。
○参考人(ベアテ・シロタ・ゴードン君) 私は、一つは、ほかの憲法も参考にしたので、その憲法を書いた人も多分自分の憲法について随分考えたと思います。だから、そういう憲法から一番いい点を私たちはこの憲法に入れたんです。だから、私たちの考え方だけじゃなくて、ほかの世界じゅうのいろんな人の考え方が入っています。そして、もちろん日本の憲法研究会というのが随分いい草案をケーディスさんに渡したんです。社会党もすごくいい草案をつくったんです。それはみんな運営委員会の方がよく知っていましたので、私たちに教えてくれました。だから、日本の考え方が入っていないということは、本当にそういうことは、そうじゃないんです。ちゃんと入っています。
そして、それを七日だけでやったということは、私たちは、ちゃんと私たちが考えたことを七日の中で憲法に入れることができると思いました。そして、朝から晩までやりましたけれども、十分だと思っていました、そのときには。
そして、その憲法が今度、今まで改正されなかったので、そして何だか本当に日本の国に合うみたいな感じが随分ありますので、だから多分その一週間でつくった憲法はいい憲法だと思います。
○会長(村上正邦君) どうもありがとうございました。
最後に、吉田会長代理から、本日のこの歴史的な審議を終えるに当たりまして、締めくくり質問をお願いして、終わりたいと思います。吉田会長代理。
○吉田之久君 会長から大変大事な任務を承りまして恐縮いたしておりますが、本当にきょう、ゴードンさん、プールさん、遠いアメリカから御多忙の中こうして日本へお越しいただきまして、先ほどから憲法制定の経過についていろいろと御苦労いただいたお話をるる承りまして、非常に深い感銘を覚えた次第でございます。
特に、お二人が、それぞれ深く日本を御理解いただき、日本を愛しながら、日本と世界のためにいい憲法をつくろう、こう思ってあらゆる努力をいただきましたことがよくわかりました。本当に改めて敬意を表しますと同時に、この憲法がいよいよ我々にとって身近な感じを一層濃くした次第でございます。
さて、私どもが今一番問い詰めながら悩んでおりますことは、やっぱり世界の平和の問題であります。
今までの歴史上の世界の戦争は、我が国も含めまして、全部世界の平和のためという名において戦争が行われて、それが紛れもない侵略戦争であったことが極めて多いわけでございます。それだけに、その反省に立って、この憲法ができたときに、我々は二度と再び戦争をしてはならない、世界に戦争を起こしてはならない、そういう意味ではもう軍隊それ自身も否定した憲法、それが最上のものであろうと。でなければ、いかに平和のためと言いながら、ともすれば侵略戦争につながらないわけではない今日の歴史を知っておりますだけに、一層、陸海空軍一切の戦力を持たないこの憲法は最高に平和な理想的なものだというふうに思ってまいりました。努力をいたしました。
しかし、世界の情勢は必ずしもまだその状況にありません。そして、今も世界で国連のPKO活動なんかがいよいよ必要な時期に来ております。そして、我が国もこれほど大きく立派になった国家として、それなりの貢献をしなければならないということを知っているわけでございます。そこに来て、この国の自衛隊が軍隊なのか軍隊でないのか、憲法との整合性をどうすべきか、憲法と現実とがミスマッチしていないかという点で非常に苦労しているわけでございます。
先ほどプールさんからも、どうしても変えるならば、それは被害をかつて与えたアジアの国々に対しても十分に理解を求めながら、二度と再び恐れられる国家になるような日本ではないということを十分に丁寧に説明しなければなりませんというお教えをいただきました。
そこで、私どもは、いかに文言でそういうことをうたってみても、なかなかに世界というのは信用してくれない。だから憲法を適当にそのように変えるとしても、事前に十二分に諸外国に説明をする必要があるのではないだろうか。あるいは、憲法だけではなしに、その他の経済協力とか文化の交流とか、あるいは今、日本とアメリカが結んでおりますような安全保障条約をさらに多角的、集団的に安全保障条約を結ぶことによって、より安心してもらえる状況の中で日本がこれから世界に貢献していくべきではないかというふうなことを非常に考えているわけでございますが、そういう点で、さらにそういう外交面での努力について皆さん方のお考えがあればお教えをいただきたいと思います。
それからいま一つは、この憲法というものは、日本の憲法も確かに普遍的な哲学的なすぐれた憲法であるとは思うんですが、世界でも改正しない古い順番で四番目ぐらいの憲法になっていると聞きます。
憲法というのはずっとそのままなるべく原則的なものとして、理想的なものとしてそのまま存続して、後は解釈で処理していった方がいいとお考えになるのか、むしろやっぱりこういうテンポの速い時代に、時々刻々、せめて十年置きぐらいには見直して、そして国民合意の中でよりよく改正していく方が新しいこれからの世界の憲法なんだろうか、その辺のところもまたお気づきがあればお教えいただきたいと思います。
○会長(村上正邦君) どちらの参考人にお聞きしますか。
○吉田之久君 プールさんに。
○会長(村上正邦君) では、プール参考人。これが最後の質問でございますので、本日の締めくくりで、何かまたこれだけは言っておきたいというようなこともございますれば、あわせて御発言を賜りたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。
○参考人(リチャード・A・プール君)(通訳) 吉田さん、ただいまのお言葉ありがとうございました。
私なりに考えますと、あなたは現実的でもあるし理想主義的でもあると思います。私は、この両者の間には矛盾はないと思うんです。あなたが言っておられるようなこと、あなたが提案しておられることというのは、私が信じていることとも相通じるものがたくさんあります。ですから、あなたの今の御意見を本当に多といたします。
それで、私は、憲法というのは現実に適応させていくということはできると思うんです。そして、そのやり方も、隣国を安心させるようなやり方で、すなわち日本の今の役割というのは以前の役割とは違うんだということをはっきりと言って、全く日本の国の意図として過去の軍国主義に戻ることはないのだということをはっきりと言うと。そして、やり方としてはいろいろあり、広報活動あるいは外交活動、そういったものによって対応するということもできると思います。それによって隣国の人たちも安心することができるはずであります。
それからまた、他方、皆さん方の方でも、これが国民が望んでいるのだということをはっきりとつかむということが必要であります。
こういった二つの条件があれば、憲法を改正するということ、特に九条の問題というのがありますけれども、これが、まさにこの二つの条件というのが大事なものであります。これが改憲の手続によって成るのか、もちろんそういったことはなし得ることはできるわけですけれども、本当にそうなるかどうかというのは、それはまだ答えの出ていないものであります。
私は、皆様方の審議というのがこれから五年間続くというふうに伺っております。私は百歳まで生きるつもりでございますので、ですから、必ずやまた議論に参加できる、五周年目の会合にはまた私もぜひ参加できるものと確信をしております。
○会長(村上正邦君) ありがとうございました。
時間が参りました。本日の質疑はこの程度といたしまして、また次の機会、今おっしゃいましたように五年後にはぜひ来ていただいて質疑をしてみたいな、こう思っております。
なお、幹事会の協議によりまして、本日の会議録の末尾に参考資料として英文の会議録を記載いたしたいと存じております。
両参考人に対しまして、大変率直な、貴重な御意見をお述べいただきましたことを感謝申し上げます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
本日はこれにて散会いたします。
午後四時十七分散会
〔参照〕
憲法調査会(平成12年5月2日)の英文会議録
CONFERENCE OF RESEARCH COMMISSION ON THE CONSTITUTION
THE HOUSE OF COUNCILLORS
May 2, 2000
ATTENDANCE :
Guest Speaker :
Ms. Beate Sirota GORDON,
Former staff member, Government Section,
General Headquarters of the Supreme Commander Allied Powers
Mr. Richard Armstrong POOLE,
Former staff member, Government Section,
General Headquarters of the Supreme Commander Allied Powers
Research Commission on the Constitution :
Chairman Mr. Masakuni MURAKAMI
Director Mr. Kimitaka KUZE
Mr. Takao KOYAMA
Mr. Yoshitada KOUNOIKE
Mr. Keizo TAKEMI
Mr. Satsuki EDA
Mr. Yukihisa YOSHIDA
Mr. Yuichiro UOZUMI
Mr. Chikashi KOIZUMI
Ms. Masako OWAKI
Member Mr. Issei ANAN
Mr. Kuniomi IWAI
Mr. Mitsuhide IWAKI
Mr. Yoshihiko EBIHARA
Ms. Chikage OOGI
Mr. Toranosuke KATAYAMA
Mr. Hiroaki KAMEYA
Mr. Hitoshi KIMURA
Mr. Shuji KITAOKA
Mr. Takao JINNOUCHI
Mr. Hiroshige SEKO
Mr. Syuzen TANIGAWA
Mr. Mahito NAKAJIMA
Mr. Takeshi NOMA
Mr. Minao HATTORI
Mr. Iwao MATSUDA
Mr. Keiichiro ASAO
Ms. Mie ISHIDA
Mr. Toshimi KITAZAWA
Ms. Teiko SASANO
Mr. Yoshimitsu TAKASHIMA
Mr. Giichi TSUNODA
Mr. Masayuki NAOSHIMA
Ms. Yoriko MADOKA
Mr. Susumu YANASE
Ms. Reiko OMORI
Mr. Hiroshi TAKANO
Mr. Junichi FUKUMOTO
Mr. Atsushi HASHIMOTO
Mr. Yoshinori YOSHIOKA
Ms. Haruko YOSHIKAWA
Ms. Mizuho FUKUSHIMA
Mr. Sadao HIRANO
Mr. Michio SATO
Secretariat :
Mr.Toshihiko OSHIMA,
Director-General, Secretariat of the Research Commission on the
Constitution
─────────────
(MINUTES)
CHAIRMAN: Ladies and gentlemen, we would now like to open the Research Commission on the Constitution under the House of Councillors. The agenda item is the "Investigation on the Constitution." Ever since the Research Commission on the Constitution was established at our House, we will be for the first time celebrating tomorrow the date to commemorate the Constitution. We are indeed privileged to have the experts who were involved in the drafting of the so-called MacArthur Draft of the Constitution, which eventually became the Japanese Constitution, to give their views on their experiences during that time.
As a guest speaker we are privileged to have Ms. Beate Sirota Gordon, who was on the Subcommittee on Human Rights. We also have Mr. Richard Poole, who was the Naval Ensign at the time, and who was a member of the Subcommittee on the Emperor, Treaties and Enabling Provisions, as a guest speaker. We also invited Mr. Milton Esman, who was the First Lieutenant of the Army at the time and who was involved in the Subcommittee on the Administrative Authorities, but he has been taken ill, so he has informed us with a doctor's note that he will not be able to be present at this Commission Session. I would like to express my heartfelt gratitude to the guest speakers. Thank you very much for traveling such a long way to attend the Research Commission on the Constitution. On behalf of the Commission, I would like to express my sincere appreciation.
I would also like to thank the members of the Research Commission on the Constitution. Even though we are amidst the Golden Week Holiday season in Japan, I am sure you must be very busy, but I would like to thank you for taking the time to attend this Research Commission. As the Chair of the Commission I would like to thank all of you as well.
Perhaps this may be only natural - of course, please do not put this into the record of the meeting - but this is something required of you. I very much hope that the guest speakers will be very frank and candid in their views and opinions. As to how we should be proceeding, we would like to first of all ask Ms. Gordon, and then Mr. Poole, to speak to us for twenty minutes each, and then go on to question and answers. I would like to ask both the guests speakers as well as the members of the Commission to please be seated while you speak.
May I invite Ms. Gordon, first of all.
GORDON: Ladies and gentlemen of the House of Councillors, I want to thank you for inviting me to speak on this important occasion.
Good day, everyone. My name is Beate Sirota Gordon. I think there are people who have traveled from far away, but I guess I have traveled the longest distance. I came from New York City. It is a great honor to have been invited here by the Research Commission on the Constitution. Thank you very much for inviting me.
I am so glad to see so many women participating as the members of the Research Commission and in the audience today. Before the War, it was unthinkable to have such a large group of women participating in a meeting like this. After fifty-five years, this is happening in front of my eyes. And it is almost like a dream for me.
There are 43 women members of the House of Councillors. This is something to be congratulated. This is much better than the Senate in the United States, where we have only nine women senators. So congratulations to the women in Japan.
In December 1945, I was associated with the American military establishment and flew to Japan from New York City. I had been away from Japan for five years, so when I saw the destruction, my heart sank. I was born in Vienna. When I was five and a half years of age, I came to Japan together with my family. So Tokyo is closer to me than Vienna. Tokyo was almost like my hometown. During the War, my parents were in Karuizawa, so when I began my work, or before I began my work with General MacArthur's GHQ, I went to Karuizawa. With food shortage and fuel shortages, they were having a very hard time. When they told me how things were during the War, my heart again ached for the suffering people of Japan. After I stayed with them for two days, I came back to Tokyo and I was assigned to the Government Section of the SCAP of GHQ.
The first work I did was research with respect to the women's political movement. In a month or so, on the 4th of February, at 10:00 o'clock, General Whitney, Head of the Government Section, told me: "You are going to be a member of the Constitutional Assembly from this day onward, and this is to be completely confidential. You are going to act upon the orders of General MacArthur, and your job is to draft a Japanese Constitution." Twenty or so people received this briefing and they were all stunned by it.
General MacArthur, until the 4th of February, had no intention of giving this task to his staff members. Minister Matsumoto, the Minister without portfolio, was asked by General MacArthur to draft a Constitution, but he came up with the draft which was not so different from the Meiji Imperial Constitution. So, in the final analysis, General MacArthur gave up and gave this task to General Whitney.
After the announcement by General Whitney, Colonel Kades assigned various tasks of drafting the Constitution. Regarding civil rights, three people were given this task, two men and one woman. And that woman was me. Afterwards, the three of us got together and decided who was going to write which section of the portion. And then the two men said: Beate, you are a woman, so you should draft the rights concerning women. I was so happy and of course I agreed. But other than women's rights, the freedom of study was something that I wanted to write. Everybody agreed. So I got aboard a jeep and made rounds of various libraries and collected constitutions of various countries for our reference. This was to be done confidentially, so I didn't concentrate on one library. If I concentrated in one library, the director of the library would wonder how come a member of the GHQ was so interested in various constitutions. So I went to various libraries. I came back to my office, everybody used the documents for reference; so I was very popular amongst the staff members. Everybody wanted to use the documents I had collected.
The order of General MacArthur was to draft the Constitution as quickly as possible. So from morning till night, I read various constitutions. I looked into what part would be suitable for Japan, and from my own experiences, I thought very hard about what kind of rights would be needed for Japanese women.
Before the War, I had lived in Japan for ten years, so I knew how Japanese women were. I knew Japanese women were totally without any rights. So, in the Constitution, I wanted to incorporate various rights of women, such as the selection of a spouse and the right to be assisted by the state when pregnant. I wanted to incorporate all of these rights in the Constitution, and I wrote them concretely and strongly. For example, in my first draft, the following was included: Family is the basis of the human society, and its tradition, for good or evil, permeates society at large. Therefore, marriage and the family must be based upon the equality of both sexes. This is not by the collusion of the parents, but must be based upon the agreement of both sexes. And it is not to be under the domination of the man, but must be based upon the cooperation of both sexes. This Constitution shall stipulate this and if laws run counter to these principles, they will be rescinded. Property rights, inheritance, the selection of the domicile, marriage, divorce, and all matters pertaining to families shall be based upon the dignity of the individual as well as the essential equality of both sexes. Based upon that notion, laws must be promulgated.
Regarding other provisions, I wrote the following: As far as pregnant women and the nurturing of infants are concerned, mothers doing this nurturing, irrespective of whether they are married or unmarried, are entitled to be protected by the State. Legal assistance must be provided to give them what they need . In the case of an illegitimate child, he or she should not be discriminated against by the law. Regarding material and societal development, equal opportunities must be provided just as in the case of a legitimate child. In the case of adopted children, the husband and the wife must agree with each other, otherwise the adopted child cannot be a member of the family. In adopting a child, other members of the family must not be placed at a disadvantage. The eldest son's sole power of inheritance should be abolished.
I also talked about the equality of the education of children, arguing that, irrespective of public or private schools, children should be entitled to have free medical care for ophthalmologic treatment, for example. Good rest and entertainment, and good opportunities for exercise for growth, must be provided. Such detailed provisions were included in my draft.
Colonel Roest and Prof. Wildes read my draft and the two of them agreed. Then we went to the Steering Committee of the Government Section of GHQ and we recommended our draft. There were three people on the Steering Committee: Colonel Kades, Commander Hussey, and Lieutenant Colonel Rowell. All of them were lawyers and all of them were men. These men read my draft, the basic rights for women. They agreed with the basic rights, but they were adamantly opposed to what I wrote about social welfare. They said that such detailed provisions are not appropriate for a constitution and should be stipulated by the Civil Code. These were the opinions of the members of the Steering Committee. I was so disheartened. Such social welfare must be included in the Constitution, in my opinion. The Civil Code drafters are men and I told them I was absolutely sure that men would not incorporate such points into the Civil Code.
Colonel Kades said, "Beate, your draft contains more than the American Constitution." And I said, "Naturally. The American Constitution does not even include the word 'woman.' But the European Constitutions include women's basic rights as well as social welfare rights in great detail."
I fought so fiercely for these rights. I even shed tears. But in the final analysis, the Steering Committee only adopted my wording for the current Article 24 of the Constitution: "Marriage shall be based upon the mutual consent of both sexes and it shall be maintained through mutual cooperation with equal rights of husband and wife as a basis. With regard to choice of spouse, property rights, inheritance, choice of domicile, divorce and other matters pertaining to marriage and the family, the laws shall be enacted from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes." This was the only part of my original draft that remained.
General Whitney showed this draft to the Japanese Government. When he did so, my wording regarding basic women's rights still remained when it was handed to the Japanese side. I wrote that marriage and the family must be based upon the concept of the essential equality of the sexes, and that parents' collusion must not be a factor and there must be mutual agreement between both sexes. It must not be placed under the domination of men but must be maintained with the cooperation of both sexes. This still remained in the preamble. The Japanese Government omitted these phrases concerning parental collusion and the domination of men.
In any event, I believe that the Steering Committee shortened my original draft, and I was so disappointed about the fact that my draft was shortened. But at that time I was 22 years of age, so the Steering Committee members were older than me and had greater power, so I thought this was unavoidable. But the very basic right was included in Article 24, and I was comforted by the fact that what I wanted remained in the Constitution.
The draft was completed in a week and the Government Section presented it to General MacArthur. Then General Whitney gave this draft to the Government of Japan. I thought our work was completed, but that was not the case. On the 4th of March, another confidential meeting was held. The people who participated were the members of the Steering Committee as well as representatives of the Japanese Government. I was called to this meeting, not because I was a drafter, but as an interpreter. There were five interpreters. The Head Interpreter was Lieutenant Joseph Gordon, and eighteen months later I married this Lt. Gordon. So you could say that the drafting of Constitution had various consequences for me.
At 10:00 o'clock the Confidential Meeting started, and I was not allowed to come out of the room until the meeting was finished. All meals were served in that room. These meals consisted of American Army provision, C-ration, which was canned meat, and K-ration, which was dry food. I thought that meeting would be over in three to four hours, but from the very beginning all kinds of discussion and arguments started, especially regarding the Emperor system. These discussions went on and on, not only about the meaning but also the usage of the words, what characters should be used, and so on. On the Japanese side, the Japanese version of a new draft was used as the basis, while our side based ourselves upon our draft. Then we compared the two. The work was very complex; the Japanese side could not understand English and the American side could not understand Japanese, which made the job of interpretation very hard.
The Japanese Government came up with a new draft, the provisions and we translated each provision one after another. Then this had to be read by the Steering Committee, which had to respond to the Japanese draft. This was a very time-consuming exercise.
I was very quick at interpretation and I interpreted for both the U.S. side and the Japanese side. Colonel Kades realized that the Japanese side had a very good impression of me. At about 2 o'clock in the morning, when the provision about the equality of the sexes came up, this turned into a huge argument. The Japanese side said that this kind of women's right is not at all appropriate for Japan and not congruous with Japanese culture. It was such a big fuss. Just like the discussion on Emperor system, the discussion became very heated. It became very late and everybody was tired.
Colonel Kades made use of the good impression that the Japanese side had of me, saying, "Ms. Beate Sirota fervently wishes these rights for women, so let us adopt it since she is so enthusiastic about it." The Japanese side did not know that I was the drafter of this provision and when Colonel Kades told them, they were stunned, so when Colonel Kades says let's adopt this, the Japanese side agreed. And so Article 24 became history.
The job of interpretation continued until 10 o'clock the next morning - I was working round the clock as an interpreter. Colonel Kades told me to go home, so I went to Kanda Kaikan. That day I slept very well. Lt. Joseph Gordon continued the work on the Constitution until 6:00 in the evening, looking into the complex use of words and so forth.
Were the Japanese people happy about the Japanese Constitution? Of course, they were. The Japanese Government at that time was not so happy about the Constitution, but the Japanese people were. When they found out about the Japanese Constitution, the Japanese people didn't know that it was drafted by the staff members of General MacArthur's GHQ. But in 1952, when the American Occupation Forces went back to the United States, one scholar and one journalist found out that the new Constitution was something imposed by the Occupation, by the Allied Powers. And they insisted that such a constitution must be revised.
Can we say that this draft of the Constitution was imposed by General MacArthur on the Japanese Government? Generally speaking, when somebody imposes something on someone else, do you think he or she will impose something better what they themselves already have? The Japanese Constitution is even more wonderful than the American Constitution, so it shouldn't be regarded as an imposition. You do not impose something better than what you already have. It is therefore wrong to say that this Constitution was imposed on the Japanese people. Progressive Japanese men and a minority of enlightened women started from the 19th century a campaign for human rights, especially for women's suffrage. So Japanese women were working in the movement for women's suffrage. At that time the Japanese people were repressed, and this repressed will was reflected in this movement, which is why it was welcomed by the Japanese people.
We, the drafters of the Japanese Constitution, were reticent about what we did for many years. One reason was that the whole exercise was supposed to be confidential. Another reason was my feeling that people who wanted to revise the Constitution would use my youthfulness as a pretext. So I thought that I'd better keep quiet. So I never accepted an interview by any Japanese newspaper companies. Up until five years ago, I never said anything about it even to my closest friends. Only once or twice, around 1970, I told something about it to one scholar.
Regarding the fact that I was young, I want to say something here. At that time, I was 22 years old, but I think there is a huge gap between being 22 years old in the present day and being 22 at that time; I was able to speak six languages. When I was 19 and a half, I graduated from university. Since I was six I had learned piano and dancing, and from the age of six I went to opera, the performing arts and concerts. When the war broke out, I was in the United States and I was separated from my parents, so I had to be alone and I had to earn my own living. From the age of 19 to 22, I was in charge of the research and translation of difficult journalistic topics. Mills College was a progressive college. And although these were not the days of feminism, I was already a feminist at that time. When I was 22 years old I traveled the whole world, to Europe and to Asia. From early childhood I saw militarism with my own eyes. I knew about the military police very well. Every day they would come to my house and ask our maid many questions. When I was six, I was in Japanese society and played with Japanese friends. So I had first-hand knowledge of the repressed situation of Japanese women. The wives were always hidden behind the husbands when walking. I saw these things with my own eyes.
CHAIRMAN: I am sorry but the time is up. Could you please conclude.
GORDON: I knew that the Japanese wives would only cook the meal and would not take part in the discussion, and I knew that these women were totally devoid of any rights. You could not marry a person you liked, you could not divorce, you didn't have economic rights. I also knew that in the family women may be powerful, that they had their say about the education of their children, and that they controlled the salary the husband brought home. So, at the time of 22 years of age, I was not a novice, I was not just a little maiden who knew nothing about the Japanese situation.
Someone has said that since this is the Constitution imposed from the outside, it must be revised. But historically speaking, Japan has always imported and adopted good things from outside. Chinese characters, Buddhism, porcelain, court music are all things imported from outside and they have been adapted to the Japanese way. So it's good that the Constitution comes from outside as long as it is a good constitution. It doesn't matter whether it was drafted by young people or old people - who wrote the constitution is not really relevant.
CHAIRMAN: I am sorry, but time is up.
GORDON: If it is a good constitution, I think it must be adhered to. This Constitution has lasted as long as fifty years. In the past, whatever the constitution, it was destined to be revised in a forty years time. I think this Constitution should become the model of the world, and that is why it has not been revised for as long as fifty years. Japan should be proud to have this Constitution and should teach other countries about the wonderful nature of this Constitution. Peace must be taught to other countries. Other countries should emulate the Japanese Constitution and the concept of peace.
In May 1999, . . .
CHAIRMAN: I'm very sorry, but I think you have already made your conclusion.
GORDON: Just the very last piece of my presentation. Sorry, the very last piece.
I respect Japanese women very much; they are very wise and work very hard. Japanese women's hearts and minds are very strong. I am not an expert. I am only a person called Sirota and I am an amateur, which is "shiroto" in Japanese. I am a mother and a grandmother, so I worry about the future of my children and grandchildren. Without peace, we cannot live in a secure way. I am a foreigner, so you Japanese don't have to listen to what I say. I don't have the right to vote in Japan.
But I want you to listen to the voices of Japanese women. What I hear is that the majority of the Japanese women prefer the Japanese Constitution. They agree that the Constitution is an appropriate constitution for the Japanese context. Thanks to the Constitution, the Japanese economy grew very rapidly. You didn't have to spend money on weapons and could divert that money to technology, education and construction. And because of that, Japan became one of the greatest powers in the world. Other Asian countries, Japan's neighbors, think that Japan is a safe country. Japanese women understand this point very well.
Finally, I have one plea, one request to make. Japanese women's voices must be heard. Please listen to the voices of Japanese women. Thank you very much.
CHAIRMAN: I have been listening very carefully to the words of Mrs. Gordon and watching very carefully the women members of the Commission.
Now, may I turn to Mr. Poole, the next guest speaker. Mr. Poole, please.
POOLE: I would like to express my deep appreciation for being invited to discuss the Constitution. Before proceeding, I have here a book that's only just been published by Prof. Theodore McNelly, who participated in the forum in 1997, and who was a recognized scholar and research historian and authority on developments in Japan, in particular. So, he has asked me to present you with a copy of this book for the Commission. May I?
CHAIRMAN: Thank you.
POOLE: A little bit about my own background in Japan. I was born in Yokohama on April 29th, 1919, which makes me rather old, but also that of course happened to be the birthday of Emperor Hirohito, which was a coincidence compounded later on. On one side of my family, my brothers and I are the fifth generation in Japan. My great great grandfather was one of the first two American consuls sent to Japan pursuant to Commodore Perry's treaty with the Japanese, and every generation since then has lived in Japan, including my generation for a few years. I might mention that four of my forebears are buried in Japan.
We lived in Yokohama until the great earthquake of 1923, when we were lucky to get out alive. We lost everything. Then we spent two years in Kobe, after which my father was unexpectedly transferred by his company to take over the New York Office. And so we did not return to Japan until I came back in 1945. But that has left with me a real affection for the Japanese people. I remember fondly our old amah, who had been my mother's amah. This affection has lasted, although there was a little break in our relationship, which has been repaired, and I still maintain that bond. Amongst our possessions, our proudest possessions are the result of Japanese culture. Our "imari" plates, our "kakemono," the prints, Hiroshige prints, furniture, all of which, or almost all of which were inherited. To me this is a sign of our appreciation for Japanese culture and cultural development and the influence of Japanese culture on the cultures of the West.
I returned to Japan in 1945 as a young naval officer on leave of absence from our diplomatic service. Instead of invading Japan with the group, I was a member of the joint Army Navy unit that was slated for the invasion of Kyushu. I was spared that and invaded Japan down the gangplank in Yokohama where I had been born and found that poor Yokohama had been destroyed for the second time in my lifetime. I was assigned to the Government Section of GHQ General Headquarters, to the Supreme Commander for the Allied Powers. I was astonished to be given the task of helping prepare a draft constitution in one week and at being assigned to head the two-man committee on the Emperor and various miscellaneous provisions including amendments of the treaty-making powers and so forth. I wasn't as young as Beate Sirota, since I was an old man of 26, and perhaps the fact that I had had foreign service experience and had studied constitutional law, international law, commercial law, maritime law, international relations and history, and the fact that I had always been interested in Japan throughout my life had some bearing on my assignment despite my very humble rank. Colonel Kades, who was the Executive Officer of the Government Section, and who chaired the Steering Committee, remarked to me that most of those involved in the Occupation were a little bit suspicious of Americans who had lived in Japan for a long time and who they felt were associated with the old order. But they thought maybe they could make an exception for me since I had left at the age of six.
The background of the drafting process is well known to all of you, I am sure. For instance, this was discussed at length in the 1997 Forum on the Constitution, which was sponsored by a large group of Diet members; and we could perhaps in some way provide some background for your studies. The three of us who were invited, and unfortunately there are now only two, were the dwindling group of survivors of the drafting process.
Briefly, the Japanese aggression in East Asia and the Pacific made clear the need to revise the Meiji Constitution, which had been misused by ultranationalists and militarists to provide cover for their actions. The Potsdam Declaration and other Allied pronouncements called for change. Consistent with these, SCAP from the outset of the Occupation instructed the Japanese Government to take various democratic actions and to embark on constitutional reform. Washington provided guidelines in the form of what is called the State-War-Navy Coordinating Committee, SWNCC, No. 228, which presented outlines for guidance drafted for the Constitution. However, as Beate Sirota mentioned, MacArthur left the actual constitutional amendments to the Japanese until two concurrent developments induced rapid, direct SCAP involvement.
The first of these was the Matsumoto draft, which had been unknown to SCAP until it leaked to the press and proved to be a mere cosmetic change to the Meiji Constitution and unacceptable. So it was decided that, rather than discuss the Matsumoto draft, which would have been a profitless undertaking, SCAP should prepare a draft constitution to be given to the Japanese as an example of what would be acceptable, and that we were prepared to discuss this draft.
The other element was that the Soviets had just joined the reconstituted Far Eastern Commission, and under this reconstitution the power of veto was given to the United States, the United Kingdom, China, and to the Soviet Union, which might soon be causing considerable mischief as it has already been doing in Berlin in attempting to undermine everything that the Democratic Allies wished to achieve.
There was another element that was not possible to achieve, and this was the April 10 elections. There were some who thought in the beginning that perhaps the Constitution could be drafted in time to, or the draft could be approved by the Diet in time to include it in the elections as a form of plebiscite, but time did not permit that.
For those who are uncomfortable with these unusual origins, including the aspect of pressure from SCAP, it should be remembered that the SCAP draft reflected many of the views emanating from learned Japanese scholars, and that discussions with the Cabinet resulted in certain modifications, that it was then submitted as the Government's approved draft to the Diet, where it was discussed at length, and where certain additional agreed changes were made before it was approved overwhelmingly. It should also be remembered that the Emperor himself helped resolve the divisions in the Cabinet, and supported the draft in submitting it to the Diet.
I might mention as a little digression that I think it was about five years ago that the new Emperor and the Empress were in Washington in connection with the opening of a Japanese performance at the Kennedy Center. A reception was given in which the Emperor and the Empress circulated quite freely amongst the guests, and I had the temerity to introduce myself to the Emperor and to tell him of my role in helping draft the Constitution concentrating on the Articles on the Emperor. He smiled and said, "Yes, those are my instructions." But my impression from this is that the Imperial Household is quite agreeable with what constitutes the role of the Emperor as it was contained in the draft constitution, which was eventually adopted in an amended form.
But in my view, it is more important to focus on the end product of the drafting process than on the process itself. The motivation of the Allied Powers was to see true democracy and a peaceful Japan under a system that could not be misused by those who might wish to turn back the clock. This system would enshrine the people's sovereignty, fundamental human rights, genuine democracy, a constitutional monarchy without governmental powers, and the renunciation of war, with assurance that these principles could not be abridged or suspended for any reason. In establishing these principles, and in providing the mechanisms to do so, I believe the Constitution has well served the interests of the Japanese people, and helped Japan join the family of Western democracies.
This does not preclude the possibility of amendments, which, of course, are permitted in the Constitution itself. But in my opinion, an individual amendment should be considered only when and if needed, rather than through a sweeping revision of the entire Constitution, for the latter process could well open a Pandora's box of proposals. Those concerned and interested in a particular amendment or amendments would be wise to consult widely to determine whether there is real public demand for the change or whether this might be tempered by some reserve as to where the process might lead. Some have advocated modernization of the Constitution to meet the needs of the new century, such as increased emphasis on environment, overpopulation, worldwide disease, drugs and crime, and now problems of regulating new technological advances. But it would be difficult to foresee what else the century will bring. Questions such as these, as well as unforeseen problems, can better be handled by legislation and judicial interpretation, I believe, than by burdening the Constitution with too many operational details that tend to invite further changes.
Thus I believe the Constitution should be a broad document which will encompass changes incorporated through the changes in the conduct of the Japanese Government that can be achieved by legislation and/or judicial interpretation.
Now I wish to turn to just two specific provisions. First, the Articles on the Emperor, in which I was directly involved. But I hasten to add that my small committee consulted closely with the Steering Committee headed by Colonel Kades, and was not the sole author of the language that we used. The Meiji Constitution vested all rights of sovereignty in the Emperor, and it was this provision, together with the provisions authorizing the suspension of constitutional rights, that was used by the ultranationalists and militarists in the Cabinet and Privy Council to act in the name of the Emperor in launching military adventures and in muzzling the opposition. This had to change.
Moreover, there were some demands in Allied countries, and in the U.S. Congress, to try Emperor Hirohito as a war criminal and to abolish the Emperor institution, steps which would have caused enormous problems for the Occupation. No one really knows what the Emperor's personal views were on Japanese aggressions. But in the end, he had been useful to the Allies in broadcasting the surrender and calling on the military to lay down their arms - the first time his voice had been heard publicly - and on January 1st, 1946, in renouncing his divinity and calling for constitutional reforms. Later, his support for the new draft constitution was indeed helpful, even though it reduced his role.
What we aimed for in the draft was a constitutional monarchy, with the Emperor divested of sovereign rights and governmental power, serving as a "symbol of the state and of the unity of the people" who are sovereign. Nevertheless his role was given some significance beyond pure ceremonial by providing a number of functions subject to approval by the Cabinet.
The word "symbol," "shocho," raised some problems in translation, but this was resolved satisfactorily by the use of the term "shocho," which acquired the meaning that was intended by the drafters of the Constitution and by the Japanese Government which approved the draft. So, my impression is that this conveys what we meant and that it is generally understood by the Japanese people and accepted by them. So the initial controversy surrounding the position of the Emperor seems to have been set to rest, and I for one am unaware of any substantial demand for amendment.
Second, there is the question of Article 9. I am told this remains the most controversial provision of the Constitution, although the Diet in 1946 made some changes in hopes of resolving doubts. Much has been written as to whether the idea that became Article 9 originated with General Whitney and/or General MacArthur, who conveyed it to Prime Minister Shidehara, or whether it originated with Shidehara, as maintained by MacArthur in his Memoirs, and whether the penciled notes containing this and other instructions to the Government Section were written by MacArthur or dictated by MacArthur to Whitney; I don't think it really matters at this juncture. That was a long ago, and we have got to look at the present. I myself had nothing to do with this provision, except to express some misgivings with respect to the permanent renunciation of any armed forces following the Peace Treaty. By the way, this was in a meeting of the entire drafting group where we were allowed to comment on whatever was under discussion. It was one of first meetings and it was chaired by Colonel Kades.
But I thought perhaps some of what became Article 9 had a place in the preamble as a declaration of intention, but I question whether this belonged in the structural part of the Constitution. Colonel Kades turned to me and said: Do you know where this provision comes from? He was a Colonel, and I was ranked Ensign with one stripe. I said, "No, sir." And he said, "The general." That meant only one person. He said, "Have you any further questions?" and I said, "No, sir." And that was the extent of my involvement.
But I have continued to be interested in the question to the point that I am an advocate of constitutional change on this one provision. That doesn't mean you open up the whole constitution for massive review, but I think this could be looked at, that I think the first part of Article 9, renouncing war as a sovereign right and the threat or use of force as a means of settling international disputes, conforms to the 1928 Kellogg Briand Pact adopted by some 65 countries, and hence I think it is noncontroversial.
However, the controversy remains with respect to the second paragraph, stating that in order to accomplish the foregoing, land, sea and air forces will never be maintained. I believe it also says that the right of belligerency will not be recognized. In point of fact, Japan does have armed forces in the form of the so-called "Self-Defense Forces." You just have a different name. And I think in the light of today's reality and the need for Japan to assume responsibilities in international affairs on much the same basis as other leading democracies, it strikes me that the current ambiguity should be removed by providing for armed forces and that the role of the armed forces should be limited to defense. Now the armed forces already exist, so this would be talking about the role of an institution that already exists. This role would be limited to defense, not just self-defense. There are other possible occasions, and we have seen them in recent years, where defense beyond one's borders is justified in connection with international cooperative arrangements. In other words, this role would be defense, not just self-defense, and participation in international peace-keeping operations, and not just the United Nations, but certainly prominently the United Nations, because of other international agreements.
I think here is a case where it would be essential to determine the will of the people and to assure them, and to assure the countries that suffered under Japanese conquest, that there is absolutely no intention to endanger them again.
Thank you very much.
CHAIRMAN: Thank you very much, Mr. Poole. Mr. Poole stated that the Emperor visited the United States five years ago, but I believe that was an error in timing, so I would like to reconfirm. I think it was back in 1975 when Emperor Hirohito visited the United States. I believe he was referring to that.
Mr. Poole, am I correct? It is not that the present Emperor has been involved, but in order to be very accurate and precise for the minutes of the meeting, I would be grateful if you could once again clarify later. I believe you were referring to Emperor Hirohito's visit to the United States back in 1975.
Now, Prof. Esman, who is not present today, has already submitted to us the paper to be presented to this Research Commission on the Constitution. I would like to ask Mr. Takemi, the Director of the Commission, to read the paper on behalf of Professor Esman. Mr. Takemi, would you be kind enough to come over here?
TAKEMI: Ladies and gentlemen, allow me to read the paper submitted by Professor Esman.
The members of the Government Section of SCAP, who were called upon in February 1946, to draft a new constitution for the Japanese nation, were naturally influenced by the American philosophy and experience with the government. The American concept of a national constitution is a charter of limited government that safeguards the basic rights and freedoms of the people and provides government with powers sufficient to satisfy the ever-changing needs of society, while insuring the stability and continuity of the political order. Since it is intended to endure for a long period of time, for decades and even centuries, a constitution must serve as a living charter for government, flexible enough to adapt to changing conditions that could not have been anticipated at the time the constitution was enacted.
At that time, I expressed my opposition to the method that was chosen to draft the new constitution. I believed that while a new democratically inspired charter of government was needed to replace the authoritarian Meiji Constitution, it was important that a group of democratically oriented Japanese scholars and opinion leaders should participate in and contribute to this project. Otherwise, the new constitution would be regarded as a foreign imposition that would not survive the end of the Occupation. But since I was a young and very junior officer in the military headquarters, my objections were easily brushed aside. Subsequent events, however, have proved me wrong. The great majority of the Japanese people adopted the MacArthur-Showa Constitution as their own, and have zealously defended it, because despite its awkward language, it expresses their genuine political aspirations.
My colleagues and I at that time were frequently and solemnly warned by senior officials of the Japanese Government that the Japanese public was not sufficiently mature or educated to operate a democratic government, that the necessary processes of education would require at least a century, and that any effort, however well-intentioned, to install a democratic regime prematurely would lead to certain disaster. We were not impressed by these warnings, and our respect for the political maturity and sound judgment of the Japanese people have since been fully vindicated.
Though the Showa Constitution, like all constitutions, contains many specific provisions, far more important are the basic principles that inspire it. These principles were intended to serve as guidelines in future years for applying the language of the charter to fresh challenges and changing needs. I believe the Showa Constitution incorporates nine guiding principles:
One: The Japanese state is a constitutional monarchy in which sovereignty resides with the Japanese people speaking and acting through elected representatives at the National Diet. These representatives are freely chosen in periodic, competitive elections.
Two: Executive powers are exercised by the Cabinet composed entirely of civilians and chaired by the Prime Minister. The Cabinet is responsible to the peoples' representatives and must at all times command the confidence of a majority of the House of Representatives.
Three: Basic human rights for all individuals, including freedom of belief and expression, of assembly and association, are inviolable and must be safeguarded by government.
Four: All persons are equal before the law. There may be no discrimination or unequal treatment because of race, religion, gender, ethnic background or class origin.
Five: The rule of law shall prevail at all times and no person may be deprived of life, liberty or property, or condemned for criminal behavior except as provided by law. Judges must apply the constitution and the laws completely independently of political influences.
Six: Government shall promote social welfare, social security and public health, and provide free, compulsory, and equal access to public education.
Seven: No taxes shall be levied or moneys expended except as specifically authorized by the Diet.
Eight: Regional and local government shall be based on the principle of maximum feasible autonomy.
Nine: Japan will never undertake aggressive military action, but will participate actively in the international community of peace-loving nations.
If we were able to assemble once again the men and women of the Government Section of GHQ, whose labors produced the Showa Constitution nearly 55 years ago, instead of the very few of us who now remain, I am confident they would agree that what matters most and what they hoped would infuse Japanese Government in the years ahead are these basic principles of enlightened democratic government. As long as these guiding principles are respected, the language of the Constitution would provide ample scope for dealing with problems that would confront the people and their government in future years.
How then are constitutions brought up to date, so that they can effectively serve future generations? Formal amendments are sometimes unavoidable in order to overcome specific language or to change the basic institutions of the state. Such was the case in my country when constitutional amendments were found to be necessary to abolish slavery, to enfranchise women, and to limit the tenure of Office of Presidents to two four year terms. Any proposal in Japan for the popular election of a President or Prime Minister, since it would alter the institutional structure of the state, would similarly require a formal amendment. But procedures for formal amendments in your constitution as well as in ours tend to be cumbersome, and to allow small but determined minorities to block measures that are considered necessary by the great majority of the public.
So, the more common method of adjusting the fundamental law to changing conditions is by interpreting the language of the constitution in the light of these guiding principles to apply to new circumstances. This has been the method used in the United States, and that has enabled the Federal Government to cope with problems such as regulating airline traffic, safeguarding privacy on the Internet, and protecting the environment from chemical pollution, that could not possibly have been foreseen by the authors of our Constitution more than two hundred years ago. The men and women who drafted the Showa Constitution 55 years ago were familiar with this method of constitutional interpretation for enabling government to do what is needed to stay up to date and to meet its international obligations.
Governmental action that can reasonably be implied from the language of the constitution is permitted, even though it is not explicitly authorized. Thus the Diet and the Supreme Court interpreted Article 9 correctly, in my opinion, to authorize a self-defense force on the reasonable assumption that all nations enjoy the inherent right to self-defense. Likewise, the preamble recognizing that "no nation is responsible to itself alone" implies Japan's obligation as a major beneficiary of international peace and order, to contribute its share of money, materials and personnel, including military units, to UN sponsored peace-keeping and peace-enforcing missions.
In this connection, I recall that my colleagues in 1946 had just witnessed and many had directly experienced the horrors and terrible suffering caused by six years of unrestricted warfare in Europe and Asia. They dreaded the prospect of nuclear warfare. They were hopeful that mankind would finally have learned its lesson, that it would find the means through international cooperation to prevent future warfare, and that post-Imperial Japan in the company of other peace-loving nations would participate fully in maintaining international peace. I cannot believe they would have favored any constitutional provision that would prevent or limit Japan's full participation in UN sponsored peace-keeping or peace-enforcing missions.
These then are the main thoughts that I would leave with this distinguished Committee:
One: A national constitution should facilitate, not obstruct or prevent policies or course of action that its elected representatives, after careful and thoughtful deliberation, consider necessary for the good of the nation.
Two: The most common and most practicable method for meeting fresh challenges and for revising public policy is by the reasonable interpretation of constitutional language and of the great principles that underlie the charter of government. Formal amendments should be attempted only as a last resort.
Three: The men and women of the Government Section in 1946 had optimistic hopes for the new United Nations. They believed strongly in the need for international cooperation. They expected that once it had been restored to honored membership in the community of nations, Japan would become a leading supporter of and full participant in UN sponsored activities to achieve international peace and order.
Thank you.
CHAIRMAN: Thank you very much. We have heard the presentation of the two guest speakers plus the reading of another guest speaker who could not come.
We are behind schedule, but the presentations and remarks were very interesting, so we to exceed the allotted time since we couldn't just stop the presentations midway. Our guests have traveled a long distance to be with us today, so I felt I couldn't interrupt their presentations. We were supposed to have a fifteen minute break, but we will break for only five minutes. So let us resume this session in five minutes.
[BREAK]
CHAIRMAN: Ladies and gentlemen, we will now be resuming the session for the Commission. We would like to continue with our research on the Constitution through questions from the members of the Commission. Since the time is limited, I would like to ask the member asking the question to address it to the guest speaker concerned and to please be very brief in your question. We have already asked the members to give their names to the Secretariat, and we will be having one round of all the political parties in the House of Councillors.
First of all, I would like to call upon Mr. Kuze.
KUZE: I would like to thank the two guest speakers who are indeed the founding father and mother of the Japanese Constitution. Thank you very much for traveling such a long distance to attend the Commission.
CHAIRMAN: Could you please state which political party you belong to.
KUZE: I am a member of the LDP and the New Conservative Party.
Ever since the Constitution was enacted, Japan's society and economy have been undergoing various significant developments. On the international front, there have been requests for a bigger role and mission or Japan to play in the international community as the situation has changed after the ending of the Cold War. And because of the changes in the industrial structure as well as the national livelihood, the values of the public are also changing. In order to respond to such changes, we have been doing our utmost to expand the interpretation of the Constitution, but we have come to its limit. Consequently, there have been many voices asking for the review and amendment of the Constitution. Thus we now have established Research Commissions on the Constitution both in the House of Councillors as well as the House of Representatives.
I would like to ask a question to the two guest speakers from the point of view of international as well as domestic crisis management. There have been many developments which scare us very much. For instance, the security issue on the Korean Peninsula including the launching of the missiles by the DPRK as well as the sarin gas attack in the Japanese subway and the big Kobe earthquake. The Japanese public are indeed very frightened that the security and safety in Japan is at stake. We are also very worried about the eruption of Mt. Usu. Very recently we have many problems relating to crisis management.
I would like first of all ask a question to Mr. Poole. Mr. Poole, you mentioned earlier that it would be very demanding if we are to have a comprehensive review of the Constitution, but perhaps we need to scrutinize some of the specific articles. You mentioned the example of Article 9, that the provision of the armed forces to be limited to just international peace-keeping operations as well as self-defense should be made clearer. I know you are well aware that with regard to the self-defense forces law established in 1954, the peace-keeping operation law, and the defense cooperation guidelines between Japan and the United States on surrounding areas' emergencies, we will be increasingly establishing a system for crisis management. We have been responding to changes as they occur and have been engaged in an expansive interpretation of Article 9. But the interpretation of Article 9 itself alone would be restrictive; it as its limits. When it comes to self-defense as well as international peace-keeping operations, there will be bottlenecks such as collective self-defense as well as collective security under the United Nations. More than an expansive interpretation, perhaps we need to amend Article 9 through a national consensus. Could you please state your views on this particular question.
When you visited us back in 1997, I believe you stated that Article 9 needs to be amended. I think that was your position then. I was planning to ask Professor Esman about crisis management, especially the relationship between domestic crisis management and the executive powers responding to it, but since he is not here, I would be grateful if Mr. Poole would be kind enough to give his answer to this question. Since many crises may not be predictable, we need to have sound and solid preparedness and readiness.
As for provisions for a national emergency, there is only Article 54, the convocation of an emergency session of the House of Councillors. There are no other provisions relating to national emergencies. Since is the collegiate panel of the Cabinet that has executive power, the power resting with the Prime Minister is perhaps too weak. So I would like to hear the views of Mr. Poole as to the review of the Constitution vis-a-vis the development of a good system for crisis management.
I also have a question for Mrs. Beate Sirota Gordon. You have made various proposals for the women's rights as well as women's welfare. In 1999, we were able to establish the basic law for a gender equal society. Thus the status of women has been made stronger and being reinforced. I think this represents very good progress in Japan.
The establishment of human rights is indeed very necessary. But on the other hand, at a time of crisis, in order to protect the public welfare and the safety of the people, individual rights may be severely restricted. Natural disasters and other crises may occur. How would you regard the relationship between the state and the people and between public obligations and individual freedom and rights? That is to say, human rights should be restricted at some times in order to protect the public welfare. What is your view on this?
As Ms. Gordon has already mentioned, at the time of the drafting of the Constitution, you urged to have the home to be the basis for the mankind and to be inserted into the language of the Constitution. When we observe the Japanese society right now, I feel strongly the necessity of the insertion of such wording. What is your view on this?
CHAIRMAN: Mr. Poole, would you be kind enough to respond to the questions asked by Mr. Kuze?
POOLE: I'd appreciate it very much if you could rephrase your question clearly and simply, because your voice is so loud that I can't hear the interpreter. So could we try again?
KUZE: I am very sorry about that, sir. As you have stated earlier, regarding Article 9. . .
CHAIRMAN: Please do not repeat the speech. Could you be very brief?
KUZE: Yes. Regarding Article 9, self-defense and international peace-keeping operations should be the two things to which use of the armed forces is restricted. I agree with you on this. But there are certain bottlenecks, such as collective self-defense as well as the collective security under the United Nations.
CHAIRMAN: In view of Mr. Poole's age, could you ask the questions one by one.
KUZE: Could you state your views on Article 9 once again, please.
POOLE: Well, I will repeat the views that I have already expressed, but my suggestion is that Article 9 should clarify the role of the armed forces. And as the armed forces already exist under a different name, I am not suggesting that the Article create the armed forces because they are already there. The suggestion is to clarify the point of bringing the Constitution in line with reality. And hopefully this clarification would go some distance in putting to rest the dissension over Article 9 and the dissension over the interpretation of Article 9. Make it clear. My suggestion was to state that the armed forces should be limited to defense and participation in international peace-keeping operations. That's it.
But the rationale for it is that we hope that Japan now, as a major power and a member of the democratic nations of the world, should participate on the same basis as other democratic nations. I realize the difficulties, particularly when looking at the countries that suffered under Japanese occupation. But this suggestion doesn't create armed forces; they already exist. It would define what they should do, and the definition is what's controversial now.
I have to add, and I should have mentioned this in the first place, that Japan has contributed assistance to operations such as the Gulf War, Cambodia, and elsewhere, providing very useful assistance. And that is appreciated. But Japan is reluctant to join other countries who feel the need to take military action under international peace-keeping operations. So you have to proceed with caution because of the likely reaction, particularly amongst the countries that suffered under the Japanese occupation. Therefore my suggestion is that any intention to make this change be clarified to those countries, making it clear that there is no intention of resuming aggressive warfare.
Now, the language I suggest obviously can be improved, but this is the suggestion. And also, besides assuring the countries that suffered under Japanese aggression, that it should be determined whether the people want this change.
I don't know whether that answers your question, but that's the best I can do.
CHAIRMAN: Thank you very much. Mrs. Gordon, please.
GORDON: I have already spoken too long, so I shall be very brief. I have to apologize for my earlier too lengthy statement.
To cut down on human rights is very dangerous. Thus, amending of the Constitution may be dangerous in this regard. You can establish a law, on the other hand, so perhaps under the Civil Code you could insert new provisions. Japan is a member of the Human Rights Commission, and the convention was signed in 1979. And many languages included in the question, I believe, have been sourced from the Convention. But the word "public welfare" may be very risky, inherently risky, in the way how you use it. I am not a political scientist myself, but I think you need to be cautious. Rather than amending the Constitution, of course, you can resort to interpretations of the Constitution as well as establishing laws.
CHAIRMAN: Thank you very much. I would now like to turn to Ms. Sasano.
SASANO: First of all, I would like to thank the Chairman of this Commission. This is the last year of the twentieth century and this Research Commission is a major event. It is wonderful to have an event like this.
Mr. Chairman, the LDP people . . .
CHAIRMAN: You can always talk to me, so you don't have to address me at this moment.
SASANO: But this is very important. I have to say this. The revision for the Constitution seems to be the majority view, you said, but amongst women at least, there is no such movement. We believe that current Constitution is a wonderful thing. That is the view of women and it is my own opinion. After all, it is very important to listen to others' views. I hope that the Chairman will listen to the others' views. You should not make too much haste. I hope that you will lead the discussion so that we can come up with a Constitution which would be good for the 21st century. That is my introduction.
Mr. Chairman, you have a very warm consideration for women. Thank you very much.
CHAIRMAN: Well, being energetic and making haste are different.
SASANO: Please be cautious. You can be energetic, but please be careful.
I have a question to Mrs. Gordon, first. But before asking this question, I think I heard something very important, and if you couldn't read some important part because the Chairman urged you to make haste, you can read again what you intended to read.
You were very enthusiastic about women's rights. Mrs. Gordon's wonderful opinion was something that I would like to mention. In Article 24 of course it is retained, but more than that, Mrs. Sirota, you referred to work and the right of work. According to your draft, women have the right to be employed in any profession, and this includes the political profession. And women have right to be receive equal pay with men in any profession. So, marriage and the family are very important, but I think the same work and the same pay, and the right to work, are also very important. Such a good draft was made fifty years ago. I would like to pay my deepest tribute to you, Mrs. Gordon.
But although we talk about equal work and equal pay, according to the Labor Ministry's statistics, in 1948, women received 41.8 percent of the pay of men. Eight years ago, this percentage was 63.9. But when women reach a certain age, 50 and over, it decreases, comes down to something like 53 percent. So I have a question, Mrs. Gordon. When you drafted this provision that women can work and should work, what kind of ideal did you have?
And also, do you have any comment on the reality in Japan, where Japanese women's pay is about one half of what men receive?
GORDON: This is not only a question for Japanese women. In the United States, it took a lot of time to come to where we are. We have a long tradition of democracy. Even today, if a man earns 1 dollar, a woman would earn only 80 cents. So, come to think of it, you have only 50 years of history, and still you have 63 percent. It's wonderful. It's enormous, compared with the long history of the United States; 80 percent in 200 years. But you attained 63 percent in 50 years only. So, again, congratulations to you, Japanese women. Japanese women are very active; you have worked very hard. That's why you have achieved this.
But come to think of it, historically speaking, fifty-five years is not a long time. Such issues take time. In 1945, Japan was a conservative country, but now Japan has made drastic changes. So it is very difficult to make a leap from there to here.
I think from now on you will make sweeping advances. You have the computers, you have the Internet, you have the process of globalization. So I am positive that from this point onward Japanese women will make great strides forward.
SASANO: Mr. Chairman.
CHAIRMAN: I will allow you to ask one more question.
SASANO: Mrs. Gordon, in Article 27 you have left a very important concept, and I think it was very significant for Japanese women. I hope that we will work hard to reach 100 percent. And I hope that the current constitution will not undergo any backward changes.
Next, I would like to talk about the academic understanding of the Constitution. Mrs. Gordon, when you drafted the Constitution, in Japan, including universities and high schools, this wonderful Constitution was taught in educational institutions. But from around 1955, the Constitution has been taught less and less in educational institutions. Especially in the case of women's colleges, the Constitution has become an elected subject. And in universities, except for the Faculty of Law, it has become only an elective subject and not a compulsory subject. Most graduates from women's colleges don't know anything about the Constitution. The Constitution is wonderful guarantee of women's rights, and yet the Japanese people are beginning to discuss the revision of the Constitution without really learning about it or really knowing its contents. The reality is that the Constitution is not a compulsory subject; even in men's universities, there are less and less opportunities for men to study the Constitution.
Mrs. Gordon, do you have any opinion about this reality? This is the policy of the Ministry of Education. I think it is very dangerous. That is my view.
CHAIRMAN: Mrs. Gordon.
GORDON: Again, this is also the situation in the United States. Nowadays, young people, I don't know the reason, don't go to vote. So situation is the same as in Japan. They have lost interest; they don't know, and they don't act according to the rights they have provided with. Probably this is the quality of education, or that people are disenchanted with certain politicians or simply not interested. I think generally the situation is the same in those countries I mentioned earlier. 22 years old at that time and 22 years old now are so different. At that time, we went to vote. We never abstained. And we were engaged in various political movements. Even women were involved in political movements.
So I hope that you will go out and give lectures to educate people so that they will read the Constitution. I very much hope you will do this. The situation is the same in the United States.
CHAIRMAN: This morning Mrs. Gordon appeared on NHK and she said that she was satisfied with gender relations in Japan. I just wanted to make that addition.
SASANO: I think she made just a flattering comment.
CHAIRMAN: Let us go on to the next person.
TAKANO: My name is Takano and I am from the New Komeito and Reformers Network. I would like to thank the two guest speakers for their great contribution.
First of all, allow me to ask a question to Ms. Gordon. When you sat on the Subcommittee on Civil Rights, you were only 22 years old and had been living in Japan. Regarding the questions of women's rights and children's rights you played an important role, for which I would like to express my heartfelt appreciation and respect. You had experience of living in Japan and you were cognizant about the social position of women and familiar with tradition and culture of Japan. You were a rare commodity.
And I was surprised to learn that the original draft by the Subcommittee even contained a proposal concerning the civil rights of foreigners. I take it that the substantial part of the section you drafted on women's rights was omitted in the end. The Constitution strictly upholds the equality of the sexes.
This question is not directly related to the Constitution, but I would like to ask your views concerning Japanese women then and now. What is your reaction to the Japanese women of that time and Japanese women now?
Finally, do you have any message that you would like to give to women in Japan in the forthcoming 21st century?
Let me go on to my question addressed to Mr. Poole. What do you think about the fact that the Japanese Constitution has never been revised to this day? People have pointed out the gap between the Constitution and reality, and I believe this has reached its limit. I don't think you could have foreseen that this Constitution drawn up in just nine days would not be revised for more than fifty years.
Incidentally, when the Constitution was drafted, I hear you made a remark saying that since the Japanese people have a mysterious way of thinking, we should prohibit any amendment of the Constitution for ten years to ensure that Japanese people learn the meaning of democracy. Do you have any reaction to this?
I have another question. You have already referred to this in your answer to a previous question, but allow me to ask you this question nevertheless. You have mentioned that the Japanese Constitution can be amended and that Article 9 has to be made more clear, enabling the Japanese forces to take part in international peace-keeping operations, activities, and so forth.
CHAIRMAN: Please be brief in asking your question.
TAKANO: General MacArthur was said to have upheld his idea on this matter of Article 9. Do you think General MacArthur wanted to be regarded as one of the great statesmen in the history books published in the future? Did you have that impression of General MacArthur at the time?
GORDON: My message to Japanese women in the 21st century is: On a daily basis Japanese women have to fight toward gaining the same rights as men, achieving the same position as men, and this struggle has to continue without any suspension. You also have to get involved in political activities, including international activities. When the Conference was held in Beijing, five thousand Japanese women were said to have taken part, which was a remarkable thing. And at the same time, I think we still cannot find peace in the world because there are various different regions suffering from conflict, so peace will be a major issue in the 21st century.
I think women are more peaceful than men. It's a mission given to women that for the sake of peace, on a daily basis, women have to fight hard. And I encourage Japanese women to take part in this.
CHAIRMAN: Mr. Poole, would you give your answer please.
POOLE: There were several questions. Which was the one directed to me?
TAKANO: Let me just rephrase my last question. About General MacArthur, it was said that General MacArthur insisted that the renunciation of war should be included in Article 9. Do you think he insisted on this because he wanted to be described as a great statesman in the history books?
POOLE: I really don't know what MacArthur's own motivations were for the future. But I do know that he said afterwards, after he left Japan, that he considered the Constitution his prime achievement in the Occupation. But whether it was political motivations, the political situation in the United States, I frankly don't know. But in a way, I think, while this Article 9 was promoted by him or agreed to by him, I imagine that when the Korean War broke out, for instance, he had some other thoughts about whether Article 9 was realistic. But this is pure speculation. He didn't tell me.
I will make one point, and I am digressing: I think there was a misunderstanding earlier about my meeting with the Emperor. This was Emperor Akihito, shortly after his accession. I can't tell you exactly how long ago this was; it was something like four or five years ago, at a reception at the Kennedy Center, where he and the Empress were present, and they circulated freely amongst the other guests. The occasion was a Japanese presentation at the Kennedy Center for the performing arts. I was perhaps a little bold in mentioning to him that I had had a role in drafting the articles on the Emperor. But he was amused and said, "Those are my instructions." In other words, the existing Constitution, the Showa Constitution, comprised his instructions with respect to the role of the Emperor. That is all. I thought he was quite relaxed in saying this, and it indicated to me that he had no problem with that article. But this was not the earlier visit of Emperor Hirohito. It was Emperor Akihito.
CHAIRMAN: All right. I understand.
Did you get Mr. Takano's question? Let me try to rephrase the question for you. Are you satisfied with the answer given? Okay. It would be helpful if you enumerate your question and ask them one by one. Let us go on to the next question.
May I now call upon Ms. Yoshikawa?
YOSHIKAWA: My name is Yoshikawa and I belong to the Japan Communist Party. I have questions for the two guest speakers. I would like to express my heartfelt gratitude for your very impressive as well as very interesting statements.
May I first of all ask Mr. Richard Poole the following question?
The Japanese Constitution was enacted under the acceptance of the Potsdam Declaration, and the content of that was based upon President Roosevelt's Four Freedoms Policy as well as the Atlantic Charter, the Charter of the United Nations and the Potsdam Declaration. Anti-fascism and anti-militarism were the bases of the spirit of the Four Freedoms Policy as well as all the documents I have cited. There is heightened interest in Japan in this spirit.
I am proud that Japan, which played a role in sparking World War II that caused devastation to the world, learned a lesson from the War and adopted Article 9. Mr. Poole, as a person directly involved in the drafting of the Constitution, what are your feelings and impressions of this? Could you also comment on the fact that the GHQ-drafted Constitution was prepared in just one week, which is a focus of criticism. In many of the studies on the Japanese Constitution, the State Department had for many years been involved in the study of the constitution prior to the War or before 1945. So would you say that the drafting by GHQ of the Japanese Constitution was the culmination of the many years of study by the Department of State, or was it totally independent from this study? This is my question to Mr. Poole.
Now, turning to Mrs. Gordon, in drafting the historic Constitution in Japan, I am sure you had read the various constitutions of different countries, and that you had also observed the very unfortunate fate of Japanese women, and had perhaps considered the women's rights that had been overlooked in of Japan. You were also trying to come up with precise and detailed language so that Japanese women would not have to suffer subsequently. This was not a present from MacArthur, but as Lieutenant Weed mentioned when he visited the various villages, it was the product of the fight of all Japanese women for many years before the War. I was very impressed that amongst the staff of the GHQ there were many who were very friendly and very close to Japanese women. As we have seen from the campaign for democracy, including the demand for women's suffrage ever since the First World War, GHQ was able to incorporate these movements before the War into the campaign of Japan's women.
In your book, I believe you mentioned that there was no arrogant atmosphere of imposing on Japan a constitution drafted by the soldiers of the victorious country. Rather, it seems that you were so immersed in trying to come up with the ideal nation that you wanted to incorporate into the new Japanese constitution state-of-the-art rules and regulations. That is my question for Mrs. Gordon.
CHAIRMAN: May I first of all ask Mr. Poole to answer the question? Mr. Poole, were you able to understand the gist of the question to you?
POOLE: Only one question? There seemed to be several, but I believe you the last one you asked was: Were the drafters and GHQ SCAP in the Government Section aware or drafting in accordance with State Department studies and positions on the subject?
The State Department view was conveyed in November 1945, through the document I referred to, called the State-War-Navy Coordinating Committee, SWNCC 228. This document was prepared both in the War and Navy Departments, which were then separate departments, and in the State Department. And Dr. Hugh Borton, who then was in the Bureau of Far Eastern Affairs, which we now call East Asian Affairs, had a very major role in drafting that. He was assisted by Marshall Green, who had been personal assistant to Ambassador Grew, and who later on became Ambassador to Japan. These were views conveyed by the State Department in this document. That document was before all of us when we drafted the Constitution, or prepared the draft of the Constitution for presentation to the Japanese.
Now, MacArthur, I must say, was not inclined to consult the State Department very much. The political Advisor to General MacArthur was kept very much at arm's length. MacArthur didn't consider that he needed political advice.
So the Constitution, as you know, was drafted behind closed doors, and Washington wasn't even informed that this was going on until after the fact. The Office of the Political Advisor, which was the State Department Office, did not know this was going on. Of course I felt a little doubt about that since my basic career was in the diplomatic service, but I was in uniform and I was under instructions, and I was acting as a young naval officer. I did not run over to the Political Advisors Office to tell them what was happening, nor to ask for better advice. But, as I say, this document, SWNCC 228, which provided guidelines for a future constitution, was drafted jointly with the State Department and the two military departments in Washington.
Was that the question, and was that the answer?
CHAIRMAN: Yes, I believe so. Yes. Mrs. Gordon, please.
GORDON: About Mr. Weed, he was not a member of GHQ; he was involved in some other job. I think I met him once or twice. When we drafted the Constitution, this was quite confidential. We were not able to consult with anybody outside. But I knew that Mr. Weed had done a superb job. And after ten years or so, I met with Mr. Weed in New York, and I learned many things from him. I agree with your view that he has done a lot of good things for Japanese women.
Regarding the question whether, in preparing the GHQ's draft constitution, we did research into past movements of Japanese women, I did not have enough time to do research. Of course I did refer to the constitutions of the other countries, but I was not able to consult anybody else. I knew that the Japanese women were engaged in many movements for the rights of women, but of course I did not know the details. I was able to come to know the details long after that, in 1952, when I served as interpreter to Ms. Fusae Ichikawa, who was a Diet member at the time.
As for human rights, when we drafted the section on human rights, of course we wanted to draft an ideal constitution. We wanted to have the best to be incorporated into the draft constitution. I myself did not have any direct involvement in the clause on peace or security, but of course I knew that the clause would be inserted. I thought that it would be good for Japan because other Asian countries had suffered from the consequences, and if militarism was categorically denied and eliminated in Japan, it would give a sense of security to these other countries. And if a peace constitution could be established, this would become a good model to be emulated by other countries. That was our hope. Yes, we did have that in mind.
CHAIRMAN: Next, I would like to call upon Ms. Masako Owaki.
OWAKI: Thank you very much. My name is Owaki and I represent the Social Democratic Party. Thank you very much for coming such a long way to share with us your invaluable comments. Thank you very much for your participation.
First of all, I have a question for Mr. Poole. At the time the MacArthur draft was made, the Research Committee on the Constitution composed of Japanese journalists and researchers prepared and released their own constitution including an outline draft based upon the doctrine that sovereignty resides with the people. You have stated that the MacArthur Draft reflected many of the views of Japanese scholars and research institutions. But do you recall specifically who these people were who were consulted, and what kind of materials were referred to? Do you remember concretely who they were and what kind of materials you consulted?
CHAIRMAN: Mr. Poole.
POOLE: I can give you some of the names of the organizations, but I'd have to look into my notes. They appear in one of Charles Kades studies. I know that in my little section we did have an opportunity to look at a couple of these drafts. I think they were particularly studied by the Steering Committee itself, by Colonel Rowell, who, before the constitutional exercise, was in charge of the Judicial Branch of the Government Section.
Now, did you mention the Kenpo Kenkyukai, the Constitution Research Group?
Yes, actually Colonel Rowell made a study of that earlier on January 11th, and he found a lot of merit in that draft. And that was one of the ones that Colonel Kades later lists. I don't know whether you want me to read out the lists of drafts that were looked at.
OWAKI: Yes, please read it.
CHAIRMAN: No, we do not have time.
OWAKI: But it's very important.
CHAIRMAN: I'm sorry, but it's going to waste time. Other people have questions. It will take too much time if he reads it out, so please could you submit the material later on so that we can read it.
OWAKI: Please give us the list later on.
POOLE: I could make a photostat of what Colonel Kades wrote and give it to you, but that was one example, and there are others mentioned here that were prepared by learned groups. And these were, of course, influential in this whole process.
I think one of my regrets is that there wasn't time to make a study of all the proposals nor was there time to examine all of the constitutions of the world. Beate Sirota collected some of those for our benefit. We had time to study some of them, including our own. But anyway, there were many sources for the action taken by the drafters of the draft constitution. There were many influences. It wasn't just born full-formed from that one week session. There were other influences.
OWAKI: Thank you very much, Mr. Poole. Now, I have another question for you, Mr. Poole. The MacArthur note began with the words "the Emperor is at the head of the state." And as translated into Japanese, what was the content of this phrase, "the Emperor is at the head of the state"?
And who came up with the idea to use the word "symbol"?
CHAIRMAN: Mr. Poole.
POOLE: Well, first of all, General MacArthur was not a constitutional scholar, and he didn't make a distinction between a chief of state and a head of government. When they wrote "the Emperor is at the head of the state," it wasn't very clear what he meant. So we decided that he meant a constitutional monarch. If you draw a chart, you'd have him at the top, but in a symbolic position, and then you'd have the Cabinet and the Diet and the people. But that doesn't mean that that's a descending order of importance. And so, with the agreement of Colonel Kades, we used the term "symbol." We didn't invent the term; it has been used before. But this is the first time, to my knowledge, that it has been used as part of a constitution. We could have thought of some other term, but this conveyed what we had in mind, and I think the term "shocho" come to mean what we had in mind and that this provision has become acceptable.
CHAIRMAN: Thank you very much.
OWAKI: I have one more question, this time for Mrs. Beate Sirota Gordon. Article 24 on the dignity of individuals and the essential equality of men and women is something which is so drastically and fundamentally encouraging to all of us in Japan. Susan J. Pharr, a scholar who lectured in Japan in 1977, said that in whichever area a reform may be needed, the authority of selection was not given from somewhere high above, but it was given to the Committee itself. In other words, the authority to select the theme was spontaneous. Is it true? Is it true that it came not from above but from within?
Now, regarding the spirit of Article 24, was there any rift between the military and civilians in the occupying forces? I suppose there was opposition or resistance from the Japanese Government. And what was the attitude of the women's movement in Japan at that time? Can you elaborate on those things? In concrete terms, what kind of opposition and what kind of rift or confrontations were there?
GORDON: Within the Steering Committee, you mean?
OWAKI: Yes.
GORDON: You mean, not the Japanese representatives but between Colonel Kades and Dr. Rowell?
OWAKI: Yes. And also, in the Japanese Government, as I think you mentioned.
GORDON: Well, this may be lengthy, so please limit my remarks. This is going to take some time.
As far as Hussey, Rowell and Kades on the American side are concerned, they were lawyers, so they had very good knowledge of American constitution. There was no mention of women in the American Constitution, nor of the social welfare or women's rights. These people had that kind of background. They knew that the Civil Code must incorporate these matters, but they did not think it was not an appropriate subject for the Japanese Constitution. I said that European constitutions were different, but I couldn't convince them.
But before he passed away two years ago, Colonel Kades told me that they listened to what we said and didn't decide right away to shorten it. They discussed this matter with General Whitney and afterwards decided to cut it altogether, but it wasn't an abrupt or an easy decision. Perhaps something registered in their minds deep down.
But the Japanese representatives, at the very end of the process, at the last meeting of the Steering Committee and the Japanese Government, the last liaison meeting, if you will, between the two parties, the Japanese side said that such and such rights were not suited to Japanese culture, not congruous with Japanese civilization and so forth. But there was not much of a discussion because at that time Colonel Kades limited or restrained that kind of resistance.
So beyond what I said, there was not much resistance from the Japanese Government.
OWAKI: How about the reaction of the women's movement in Japan? Do you know any reaction from the Japanese women's movement?
GORDON: At that time, you mean? The Japanese women's movement?
OWAKI: For example, there was the general election in between.
GORDON: Of course, I saw it directly with my own eyes. It was the first general election. I went there and was surprised because old women, young women, everybody came out and cast their votes. I hope that they will all come out and cast their ballots today too. It was wonderful - it was an enormous achievement in those days. So I'm sorry to have to say that women of 22 and 50 were much better those of 22 and 50 today.
CHAIRMAN: Please continue. Mr. Hirano.
HIRANO: My name is Hirano and I am from the House of Councillors Club. It feels like the Constitution is being drafted again at this meeting here today, so I am very pleased to be here.
Mr. Poole, I have two questions about the debate at GHQ on the provisions of the revised constitution. According to Mr. Rowell's document, with regard to the revision of the Constitution, it was said that there was going to be a prohibition of any revision for ten years after the enactment of the Constitution. And later on, any proposal for revisions to the Constitution should be discussed at the Diet. Was the meaning behind this that for the initial ten year period the Constitution was to continue under the control of the Allied Forces but it could be revised by the Japanese people after ten years?
CHAIRMAN: Mr. Poole.
POOLE: Well, there were various versions of the terms of amendment under discussion, and I am not really sure what document you are talking about, because what was submitted to the Japanese Government was not what you relate. But while we debated amongst ourselves the terms of the amendments, there were various ideas including this one. But this was not presented to the Japanese Government.
What some wanted to do was to make it difficult to amend, and to prevent rapid amendment, the fear being that once Japan became a sovereign state again that the Constitution would be scrapped. And that was the idea, I imagine, behind the document you are referring to, which must be an informal memo of some kind. There were even thoughts that the Japanese Government should be required to review the Constitution every ten years.
But all of these different ideas were blended, or not really blended, but were not what was really submitted to the Japanese Government. You are familiar with the articles on amendment now that the amendment can be made at any time that the Japanese Government and the Diet and people agree to make it. But it is difficult just as amending our own constitution is not easy. You know the provisions of what was submitted to the Japanese Government. And if you would like, I will see if I can put my hands on it.
CHAIRMAN: Do you have a second question?
HIRANO: No, I am satisfied with the answer given.
CHAIRMAN: May I call upon Mr. Michio Sato?
SATO: Yes, thank you. My name is Sato. Mrs. Gordon earlier mentioned the name of Ms. Fusae Ichikawa in relation to the women's suffrage movement. I actually belong to the same party or group she belonged to, the Niin Club.
I would like to ask Mr. Poole whether he thinks there may be certain limits to the possible amendment of the Constitution. To change and revise the basic philosophy of the Constitution is something that needs to be prevented because this be a coup or a revolution. The current Constitution is based on three principles: firstly, that sovereignty rests with the Japanese people; secondly, that the human rights of citizens should be respected to the utmost; and thirdly, the upholding of peace and pacifism. Therefore reverting sovereignty once again to the Emperor is prohibited and it is not allowed to circumscribe the rights of the people. But Article 9 renounces war and perhaps prohibits the existence of the armed forces and the military. Within the scope of the Constitution, is it permissible to have a military or armed forces?
Some scholars say that we need to amend or abrogate the Constitution so that we can draft a new constitution, but this may be a revolution. In drafting the Constitution, did you also debate this? This is my question for Mr. Poole.
May I also ask a question to Mrs. Gordon? At Seinen Gekijo, "The Pearl Necklace," a theatrical presentation written by James Miki depicting the fact that the present Constitution was prepared in just one week, presents the view that you rushed to prepare the Constitution. I would like to hear your view whether we should really go and see this play. There are many people here, I am sure, who are very interested. Do you think that the play should be recommended?
CHAIRMAN: Mr. Poole, could you please give your answer first?
POOLE: There is no restriction on what amendments can be considered. One would hope that unwise proposals would not be accepted by the Japanese Diet and the Japanese people. And I think that is the restriction. But in the initial draft that was submitted, it was stated that there would be no amendment of the civil rights provisions, under Chapter 3 of the Constitution, without being submitted to the people in a plebiscite. But this was actually struck out by General MacArthur, who felt that there should be no restrictions. Naturally, one would hope that the Japanese Government would not attempt to alter the provisions on civil rights. We hope that they would not attempt to alter the role of the Emperor or to change the whole philosophy of the Constitution.
But technically, you could amend it so you go back to the Meiji Constitution. I don't think that would be wise, and I don't think the Japanese people would accept that. But strictly and legally speaking, there is no limit to what can be considered. I think it would be very unwise, as I have said, to open up the whole Pandora's box of looking at the whole Constitution. If there are particular things that need to be discussed, I think they should be discussed individually and particularly, and not to try to review the entire Constitution, which invites all kinds of what I've called the "Pandora's box" of proposals, that might convert the Constitution into something very distinct from what it is now.
And getting back to the original feeling, I think the question is asked whether it is really a Japanese constitution. Well, the origins were - were odd, I will admit, but the Japanese accepted it; the Japanese Cabinet accepted what was negotiated with them, the Japanese Diet accepted what was presented to them by the Cabinet through the Emperor, and it became the Japanese Constitution through this acceptance. And I think this is confirmed by the fact that it has remained unchanged. It has become a Japanese constitution. And the origins in the Occupation, I think, while they presented difficulties in accepting it, are far less important than the text and what the Constitution itself does. Thank you.
CHAIRMAN: Mrs. Gordon, would you like to respond?
GORDON: I mentioned that I am an amateur, but when it comes to cultural exchange, I have been involved in cultural exchange for the past forty years. I am actually an expert on theater, and I would recommend The Pearl Necklace, which is a superb play. There are actually two actresses playing my role; one playing the young Beate and the other the older Beate. I would recommend you to go and see this play.
CHAIRMAN: Mr. Sato, I hope you will go and see The Pearl Necklace.
I believe we have made the round of all the political parties in the House of Councillors. We still have thirty minutes or so to go, and there have been submissions of requests to ask questions from Mr. Koyama and Ms. Madoka, who would like to ask additional questions if the time allows. Since we still have some more time available, I would like to allow for two more questions from two people. If you could submit your questions in advance from the Secretariat, the staff of the Secretariat will go round to take the order. Mr. Koyama, please.
KOYAMA: I have questions for both of the guest speakers. You talked about the instructions coming from the SWNCC. After the surrender, you compiled the instructions for the United States to occupy Japan so that it should not become a threat to the U.S. and to the rest of the world. I think that was a major pillar constituting an important part of the Occupation Forces' policy vis-a-vis Japan. That's what the SWNCC note said at the very outset. So, in drafting the Constitution, did you know about this SWNCC note, which was in existence at that time? And was the Constitution drafted along the lines of the instructions contained in the SWNCC memo that Japan should not become a threat to the rest of the world?
I am of the view that this Constitution was made by the Occupation Forces, but some people here are very critical about Japanese Constitution. But did you know about the existence of the SWNCC's memo? And did you work along the lines of the instructions of the SWNCC, or were you aware of the existence of the instructions contained in the SWNCC note? This is a question addressed to both of the guest speakers.
And as Ms. Gordon had mentioned before, you were called upon by the Government Section and asked to draft part of the Constitution on February 4th 1945. Mr. Rowell, who was in charge of the judicial work, said that if this GHQ draft was not accepted by Japan, General MacArthur had said that force could be used in order to make Japan accept it. Did you know about this?
Did you also know that the mass media had imposed severe censorship on the draft of the constitution made by the SCAP forces?
CHAIRMAN: Mr. Poole, would you like to respond to the questions?
POOLE: Well, the first part of your question is whether we were aware of the SWNCC memo. It was right in front of us as we drafted the Constitution. This was one of the documents that each drafting group had before it. We were very much aware of it.
Regarding your last remark about, I believe it was General Whitney, who is reported to have said that if this draft was rejected MacArthur would go to the people to get acceptance, I frankly don't know whether there was any real intention to do that. The hope was that the Japanese Government would accept this as a draft to be discussed if they weren't asked to accept it immediately. There was some feeling, expressed by Matsumoto, that the Cabinet should reject this draft outright. There were those who felt it was unwise and the Cabinet was divided on the subject, but the Emperor intervened in favor of accepting it. This didn't mean verbatim acceptance, but negotiation based on that document.
I don't know whether that answers your question, but the question of going to the people if it hadn't been accepted for negotiation may have been just a talking point. I really don't know. But one important thing from everything we've got from Washington and from what MacArthur himself had said is that a constitution forced on the Japanese people against its will would not be an acceptable constitution over time, and would be counter to what the Occupation itself wanted to achieve. What was negotiated may look quite like what was originally presented, but there were a number of changes made, and the fact is that the Japanese Government finally accepted it as the Japanese draft for presentation to the Diet.
CHAIRMAN: Ms. Gordon.
GORDON: Sorry, I thought the question was addressed only to Mr. Poole. So, can you rephrase your question once again?
KOYAMA: When you were involved in the drafting of the Constitution, Mr. Rowell left it in his document saying that, and I think Ms. Gordon has been also reported to have said that if the Japanese side rejected the GHQ draft, Japan might be forced to accept this draft. And General Whitney was reported to say that that was an instruction which was mentioned by General MacArthur. Was this the case or not?
And regarding censorship, Allied Forces drafted the Constitution, but the strict censorship was imposed on the mass media and the press was constrained so that people did not find out that this draft was made by the Allied Forces.
GORDON: Well, I know nothing about that myself. I have read somewhere that Mr. Rowell had conveyed the intention of General MacArthur, but I don't know it myself. I haven't witnessed that myself, so I cannot say anything about it.
KOYAMA: In your testimony you have mentioned that the Japanese people did not know about the drafting of the Constitution. Your visits to libraries to collect the necessary information was surely confidential work. So maybe you were not supposed to let the Japanese people know that this work of drafting the Constitution was going on.
GORDON: I cannot comment because I don't know anything about that. That is to say, we were working separately from one another at the time. I was working on the human rights and civil rights issue solely, exclusively. And Mr. Roest and Mr. Wildes were also working on the same topic. Three of us were working on this, but we did not know what the others had been writing in their draft exactly, because we didn't have time to communicate with one another. All of us were kept very busy just doing our own work. And the highest degree of concentration needed to be dedicated to the work assigned to each individual.
So, I do not know what work was done by my fellow colleagues.
CHAIRMAN: Thank you. Now, let's go on to the next question.
MADOKA: My name is Madoka Yoriko. I am not a regular member of the Research Commission, but I knew that these two guests were going to be present. I was dying to listen to their views, so I asked for special permission to take part. I have also been given this opportunity to speak, so I would like to extend my special thanks to the Chairman.
My first question is to Ms. Beate Sirota Gordon. The time constraint was indeed enormous and it must have been very tough for the victorious country to draft a constitution for the defeated country. Together with other colleagues, you actually drafted the Constitution. Did you regard that this Constitution as good enough to establish a democracy? Didn't you think it was inappropriate? You had great ideals for the future of the mankind and you were very passionate in bringing about these ideals. I learned about this from books and other sources. I feel very thankful to you.
Some people say that this Constitution was imposed upon us. But among the Japanese people, a powerful minority of men drafted the Imperial Constitution, and under that yoke the Japanese women had a very hard time. Then they came up with Plan A and Plan B of Matsumoto Draft, but we were very happy that the Matsumoto Constitution was not imposed upon us. The Matsumoto Draft, was a scoop story carried by the Mainichi Newspaper Company. Did you read that newspaper report? If you did, there was no section about civil right or women's rights. What did you think about that?
GORDON: I was so disappointed and disheartened.
MADOKA: In drafting the civil rights section, "all natural persons" were the starting words in your original draft of Article 13, I think. What was the thinking behind this concept? Did you select to words "natural persons" to avoid limitation to one race or ethnic group?
We have the system of imposing the fingerprint taking on the foreigners living in Japan. If "all natural persons" was the concept adopted in the Constitution, then foreigners living in Japan would receive better treatment. What was the thinking behind this suggestion?
GORDON: I really don't know. That was the section drafted by Dr. Wildes, who was a very trendy person. He liked esoteric words. Nobody understood what the meaning of "natural persons" was. Colonel Kades and I discussed this, and Colonel Kades didn't understand it either. Dr. Wildes has already passed away, so we couldn't ask him what he meant, so I'm afraid I don't know.
MADOKA: Dr. Wildes knew the cast system in India before he came to Japan, and he was adamantly opposed to discrimination between peoples. So he wanted to eliminate discrimination of all kinds between all peoples or between all countries. But at that time you did not have any knowledge of this? Okay, thank you, I understand.
I have another question. Other people have spoken already, for example, about the right to work, equal pay, and equal work; these are rights irrespective of whether a person is married or unmarried. That was what you wrote in the original draft. Such rights should be given to all people, all women, married or unmarried.
Was the reason for the elimination of that particular section that it was too detailed and it was not attuned to a document like the Constitution, or do you think that the dominance of men was too great and that was why it was dropped?
GORDON: I for one believe that Colonel Kades, when he looked into my chapters of social welfare, and so forth, was not really opposed to my idea. Before he passed away, he told me he was not against the idea, but he opposed the idea of putting it into the Constitution. He thought that those stipulations would be more appropriate for the Civil Code. And I agree with that.
MADOKA: But as you said earlier, the Civil Code is drafted by men, and if it is not incorporated in the Constitution, there was a risk that it would not be incorporated in the Civil Code.
GORDON: Yes, I said so. But Colonel Kades had no experience with the Japanese bureaucracy. He was not in Japan before the war. But I had a plethora of experiences. I was the interpreter for my father and my mother when they had to go to police or other agencies. I knew there were many bureaucratic men and that they could be very nasty and tough on people like my parents. But Colonel Kades had no knowledge of the bureaucracy.
Another thing. Colonel Kades told me four years ago that the view at that time was that Japan was occupied and a Civil Code would be drafted. That was what he anticipated. He believed he would be there when the Civil Code was drafted and he was determined to see to it so that those provisions were incorporated into the new Civil Code. But it didn't happen. So, in the final analysis, it happened the way I predicted.
MADOKA: You see, in the field of civil codes, we make certain proposals, but always the Government says that it runs counter to the traditions of Japanese civilization.
Can I ask one more question?
CHAIRMAN: No, I'm sorry, time is up.
MADOKA: Thank you very much.
CHAIRMAN: Ms. Ogi.
OGI: Thank you, Mr. Chairman. I would like to thank the Chairman of the Research Commission on the Constitution for giving me the opportunity to ask a question. Ever since the House of Councillors has established this Research Commission on Constitution, I have been always asking to be given the floor. So I would like to thank you for this opportunity.
I have listened carefully to the statements made today and I would like to ask my questions one by one. My first question is to Mrs. Gordon.
I would like to thank you for all your efforts to improve the status of women in Japan. But when I look at the reality, and when I look at the status of Japan as it is in the international community, I cannot really see a clear picture as to the status and value of the women in the Constitution because traditional values are not being upheld in Japanese society and in the Japanese Constitution. So I do see some problems with the Constitution, and also in Japanese society. Although rights were given to women in Japan, as Mrs. Gordon has mentioned, Japanese women have been subjugated and caused great suffering. What has become of the good points of the traditional role of women, which has been quite lost in the past fifty years? We need to reflect upon what has been lost from Japanese society.
There is one thing I would like to ask Mrs. Gordon. You were one of the drafters of the Japanese Constitution, but you have kept this confidential and have kept your silence for very many years. As to the Constitution actually drafted by you, the New York Times in the United States reported that the new Constitution abolished the Army, the Navy and the Air Force, and that it would depend upon the Japanese people to be in favor of peace, and that this was so idealistic that it would lead to the slighting of the Japanese Constitution. This was the evaluation of the New York Times many decades ago. The Christian Science Monitor also reported that even though the draft was satisfactory in many respects, it was not a good Constitution for making Japan a peace-loving country.
Was the reason you kept your silence for so many years that the Japanese media was critical of the drafters, that the U.S. media was critical of you, and that although Japanese women were suffering greatly there were many good points, many advantages to the traditional role of women? What is your reaction to this?
GORDON: I never heard of this article or editorial of the New York Times.
Regarding what you said just now, that many of the good points about Japanese women, some of the traditional roles of Japanese women, have been lost or denied by the new Constitution, yes, it was quite unfortunate that this happened. I have great respect for culture, and the good points of culture need to be preserved. But as to the women's rights, Japanese women were not given any right at all. So you have to start from scratch. Not only Japanese women but Japanese men were denied their inherent rights, and that was the thing I wanted to correct. But, of course, Japanese women were more oppressed, so I wanted to extend a helping hand to the oppressed women of Japan. That was my motivation in drafting the Constitution. I had to think of Japanese women more than Japanese men.
Of course, things may have changed. Of course, men have to be supportive of women. I would like to ask Japanese women to ask your men to support you. You must have equal rights for men and women. You shouldn't be partial to either sex. If not, you will not be able to enjoy your life together with men. If men and women get married and live together without the development of either, no good can come of it. So the progress of women and men should go hand in hand. Even within one family, without equality between men and women, you cannot have happiness.
Now, when I think of the future, peace is the supreme consideration. Of course, you need to have some freedom in your family. The family is the fundamental unit of the society. And it is very good that you are active not only at home but also in society. Men and women need to go forward hand in hand, supporting each other.
OGI: No, that was not the point I was trying to make. The drafting of a peace constitution does not mean that peace will be brought to that country. For our own country as for other countries, the peace constitution is the ideal, but it does not mean that the ideal constitution will bring you the peace. You have to execute certain responsibilities, certain obligations.
When I invited you over to Japan in 1997, I listened to your views and statements at the Constitutional Hall of Japan. I am indeed very sad that Professor Esman cannot be here today. I would now like to ask Mr. Poole a question. In drafting the Constitution, I believe the United States was asking for just one House of Parliament, a unicameral system. But we have two Houses, a bicameral system. But I believe the United States was asking for a unicameral system. And when Professor Esman came here in 1997, he said that he did not want a bicameral system. But if you remember the debate of more than fifty years ago as to whether to have a unicameral or bicameral system, could you explain to us what kind of discussions you had?
POOLE: It was a particular point that General MacArthur himself wanted to propose a unicameral system. I think his thought process was that the House of Peers was such an undemocratic institution that it shouldn't be replicated in some other form; he preferred to propose a unicameral system of government. So, that's what we all drafted. But I am not sure that all the changes were incorporated. When we drafted it, when we spoke of the Diet we were speaking of a unicameral diet. And then this had to be changed. Now, it was understood that this was a negotiating point. If the Japanese Government preferred a bicameral system, with an Upper House or - would you like to be called the Upper House - and with a House of Councillors that was democratically elected, then this would be conceded as a sort of negotiating point. So, MacArthur understood that, and that was, of course that was one point for the Japanese side in the negotiations.
CHAIRMAN: Thank you very much. Time is running out and we are fifteen minutes behind schedule. But since this is a very good opportunity, I wanted as many persons as possible to be able to utilize the time given to us. We have had requests from the floor for additional questions, but let me exercise the Chairman's prerogative and ask three more people to ask questions. In particular, there are many women who would like to ask questions to Mrs. Gordon. So I would like to call upon Ms. Fukushima, Mr. Uozumi, and the Acting Chairman of the Commission to ask the last questions. The Communist Party may ask to be given the right to ask a question, but if you could, please give us your kind support and understanding.
Ms. Fukushima, would you like to ask your question? Just one question, please.
FUKUSHIMA: Thank you very much for giving us a constitution which is a weapon and ammunition for us Japanese women. My question to Mrs. Gordon is this. If the Constitution is revised, and Article 9 is revised and if we have military forces, what would it mean to other Asian countries? What is the significance of Article 9? What do you see as the meaning of Article 9?
GORDON: Regarding Article 9, what you are asking is the possible reaction to other Asian countries. Other Asian countries, still remember the militaristic Japan. Because of the Peace Constitution they feel rest assured. But if the Constitution is revised, they will become suspicious of what will come out of the revision of the Constitution.
CHAIRMAN: Mr. Uozumi?
UOZUMI: I am from the Komei Party Reformers Club. I have a question for Mr. Poole. You have mentioned that, of course, the Japanese people were not permitted to go back to the Meiji Constitution and revise that, but the Japanese Constitution is regarded as a constitution which is rather difficult to be revised. The preamble of the Constitution talks about the people's sovereignty and it says that it is based on universal principles and implies that the constitution is rather difficult to revise.
But you have talked about the internal debate within the Allied Forces SCAP. Did you also discuss the limits of revising the Constitution? Was there any internal discussion as to the limit that might be conceivable for the revision of the Constitution?
POOLE: Well, in the Constitution there is no limit on what can be revised. You have to rely on the wisdom of the Japanese people and their elected government. And that is true of almost any constitution anywhere, that it survives as long as it serves the interests of the people.
Now, the preamble sets the tone of the Constitution, and that it should be a constitution, as we like to put it, of the people, for the people and by the people, quoting Lincoln. And that in itself, I think, is the guarantee that a democratic constitution will continue. Now you can change it; there is nothing to prevent you from changing the totality of it. But I think you would be unwise to open it up for total review and possible multiple changes. I don't think it would be easy to do that. But theoretically, that is possible. Our own Constitution could be amended so that it disappears. But we wouldn't do it.
So I think that is the best guarantee for the survival of a democratic constitution.
CHAIRMAN: Thank you very much. That was a very logical question. There will be one more question. Mr. Yoshioka, please limit your question to just one person.
YOSHIOKA: Yes, my question is addressed to Mrs. Gordon. In the debate we have on the Constitution, it is frequently mentioned that the Constitution was drafted by just one week, too short a time. Because it was drafted in just one week, the implication is that it was made in haste; it was rushed and maybe a rather irresponsible constitution draft was forced onto Japan. That may be the insinuation or implication of this point.
But as I listened to the statements made by the two guest speakers, although it was prepared in just one week, they put tremendous efforts into this one week, and it was based upon the many long years of study made by the U.S. Government in the past. Also, reference was made to knowledge and expertise on constitutional studies in Japan. So although the actual work or preparation was done in just one week, it was based on tremendous effort as well as tremendous knowledge of the background. Is my understanding correct? Or would you say that because of the shortness of the time, the work was incomplete?
GORDON: We made reference to the constitutions of other countries as well, and the drafters of such constitutions would have put much thought into their preparation. So I think we were able to pick the best from all the other different constitutions. We were therefore able to collect and gather the best of the thinking and philosophy of the different drafters of different constitutions all over the world. So I think the draft we were able to prepare and submit to Colonel Kades was the best.
The Socialist Party was also able to come up with their views, and the Steering Committee was able to give us this information. So it is not that nothing originating from the Japanese was included. That is not true. We did include some elements which originated from the Japanese people.
We debated thoroughly what we thought should be included in the constitution from early in the morning till late in the night, and I think the draft we prepared was indeed adequate enough. And since the Japanese Constitution has never been amended to this date, and I think it is well suited to this country. So even though it may have been prepared in just one week, it was indeed an excellent constitution.
CHAIRMAN: Thank you very much. Acting Chairman, Mr. Yoshida, will make the closing remarks on this memorable, historic occasion. Mr. Yoshida, please.
YOSHIDA: Thank you very much for giving me such an important task. I don't know whether I can live up to the task given me.
Mr. Poole, Ms. Gordon, thank you very much for traveling such a long distance despite your very busy schedule to come to Japan. You have discussed with us various matters pertaining to the process of drafting a constitution. I was indeed very much impressed and moved by what you said. Especially, the two of you have a profound understanding of Japan. You love Japan, and for the cause of the world you worked very hard to produce a good draft of the Constitution. This is deeply significant. Having listened to your presentations, the Constitution has come closer to our hearts.
The most vexing question for us now is the issue of world peace. In the past, we have experienced various wars, including wars in which we took part. People always engage in wars in the name of peace, and there are apparent wars of aggression conducted in the name of peace. In the face of this historic fact, we must remind ourselves that we should never cause another war.
We have therefore come up with a Constitution which renounces war, which renounces use of the armed forces altogether. In the name of peace, sometimes people enter wars of aggression. We know that it happened in the past. So we should renounce all belligerent forces, and this is the first constitution of its kind in the world, and has the highest value in the world. However, the world situation is not exactly as we anticipated, and there are various places in the world where Japanese participation in PKO is required. Japan has also attained the global status as one of the great powers, and a contribution commensurate with this status is required of us.
So is the Japanese Self-Defense Force a military force or not? We need to have consistency between reality and constitution, but there seems to be some mismatch between them. That is the difficulty that we face.
Mr. Poole mentioned that if we revise our Constitution, we have to gain the understanding of the Asian people to whom we have caused so much trouble, and we have to offer our detailed, elaborate explanation to the Asian people that our revision of the Constitution will not pose as a danger regarding the use of militaristic power. No matter how much rhetoric you use, the world will not trust you, so we must not be careless about revising the Constitution. Before going into the process of revising the Constitution, we have to make thorough approaches to other countries to explain our position. Not only regarding the Constitution but also concerning economic cooperation and cultural exchanges, or relations between the United States and Japan, we can have security treaties and networks of security treaties where people can rest assured about Japan's intentions, and Japan can contribute accordingly to the settlement of conflicts in various places.
These are the questions which are on our minds. In terms of foreign relations we would like to continue our efforts, and if you have other views we would like to learn from you again.
Another point: We have been discussing the Constitution. Of course, the Constitution has universal philosophical value. It is the fourth oldest constitution in the world, I hear. The principles of the Constitution, of course, must be adhered to and the ideal state has to continue, and the rest can be dealt through interpretation. That's one way of thinking. Another way of thinking is that things are changing, so as times goes by, as the necessity arises, we should revise particular provisions, and probably that would result in a better constitution for the world of the future.
CHAIRMAN: Are you posing a question to Mr. Poole? Mr. Poole, having heard the Acting Chairman's comments, this is the last question. Do you have any concluding remarks, or you have some urgent message that you wish to impart to the audience? I would like to ask the audience to be quiet for a moment. Mr. Poole, please deliver your concluding remarks, or any responses to the remarks you've just heard.
POOLE: Thank you, Mr. Yoshida, for your remarks. To my way of thinking, you are both realistic and idealistic. There is no conflict between the two, and your suggestions, I think, very much correspond to what I believe. I do think that the Constitution can be adapted to reality in a way that reassures neighboring countries that Japan's role is a very different one now from what it was before, and that there is absolutely no intention whatsoever to revert to past militarism. There are different ways this can be handled, through public relations or diplomatic relations, so that your neighboring countries feel assured. I think also, on the other hand, that you need to make sure that this is what the people want.
I think these two conditions for revising Article 9 are essential. The question is whether it can be accomplished under the amendment procedures.
Now, I believe your deliberations will continue for five years. Since I plan to live to be a hundred, I am available to participate in your fifth anniversary.
CHAIRMAN: Thank you very much, Mr. Poole. I hereby close the Research Commission's deliberations. As you mentioned, in five years time I hope that you will all come again, and you will take part in the Research Commission's deliberations. Thank you very much.
Now, with the Board of Directors' agreement, we will attach an English version of the minutes attached to our official minutes.
I would like to thank our guest speakers, Mrs. Gordon and Mr. Poole. Thank you very much for providing us with your very frank and reserved opinions. On behalf of the Research Commission, I would like to thank these two guest speakers for their participation and contribution.
Thank you very much, ladies and gentlemen. The meeting is adjourned.
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