第151回国会 参議院憲法調査会 第3号


平成十三年三月七日(水曜日)
   午後一時四分開会
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   委員の異動
 二月二十一日
    辞任         補欠選任   
     清水 達雄君     北岡 秀二君
     岩本 荘太君     水野 誠一君
 二月二十二日
    辞任         補欠選任   
     大沢 辰美君     吉川 春子君
 三月六日
    辞任         補欠選任   
     小川 敏夫君     竹村 泰子君
     吉田 之久君     石田 美栄君
 三月七日
    辞任         補欠選任   
     佐藤 道夫君     西川きよし君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                海老原義彦君
                武見 敬三君
                野沢 太三君
                野間  赳君
                江田 五月君
                堀  利和君
                山下 栄一君
                小泉 親司君
                大脇 雅子君
    委 員
                阿南 一成君
                北岡 秀二君
                久世 公堯君
                世耕 弘成君
                中川 義雄君
                中島 啓雄君
                中曽根弘文君
                森田 次夫君
                吉川 芳男君
                脇  雅史君
                石田 美栄君
                川橋 幸子君
                北澤 俊美君
                久保  亘君
                竹村 泰子君
                寺崎 昭久君
                松前 達郎君
                魚住裕一郎君
                大森 礼子君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                福島 瑞穂君
                水野 誠一君
                平野 貞夫君
                西川きよし君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       大島 稔彦君
   参考人
       慶應義塾大学法
       学部教授
       弁護士      小林  節君
       政策研究大学院
       大学教授     飯尾  潤君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (国民主権と国の機構)
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○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 この際、今後の調査会の進め方について御報告申し上げます。
 今後の調査テーマは、総論、国民主権と国の機構、基本的人権、平和主義と安全保障の四つとし、今期国会ではまず国民主権と国の機構を取り上げることが幹事会で決定されております。
 本日は、国民主権と国の機構について参考人の御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 本日は、参考人として慶應義塾大学法学部教授で弁護士の小林節君及び政策研究大学院大学教授の飯尾潤君に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 参考人の方々から忌憚のない御意見を承りまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 本日の議事の進め方でございますが、小林参考人、飯尾参考人の順にお一人二十分程度ずつ御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員とも御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず小林参考人からお願いいたします。小林参考人。
○参考人(小林節君) では、座ったままで失礼いたします。
 国民主権と国の機構につきまして現行憲法をめぐる問題点の指摘をという御下命でございましたので、レジュメに従って説明させていただきます。
 最初に、御無礼を承知で用語の確認をさせていただきたいと思います。つまり、この国民という概念と主権という概念がそれぞれ文脈によって意味が異なることがありますので、その組み合わせ方次第でどこへでも話が行ってしまいますので、その点をまず確認させていただきたいと思います。既に御承知の方が多いと思いますけれども、御無礼をお許しください。
 この国民という概念でございますが、民族と有権者集団とどちらかに使い分けられることがございます。つまり、民族となりますと、過去、現在、未来、この国にいたし、いるし、いるであろう人々の総体でありますから、もとより抽象的な存在でそこに実力は帰属しようがない主体になりまして、でも逆に言えば、過去、現在、未来の流れでありますから、メンバーが変わることによって意思の取り直しが必要ない一貫した意思の主体に逆になり得るわけで、それに対して有権者集団を指して国民と呼ぶ場合がございます。それは、ある一定の時点でいわば統計をとるような形で時をとめて見詰めるわけでありまして、これは実在する存在でございますから、例えば第何回総選挙のときの有権者団ということでございますから、これは実在しますから権力掌握が可能な存在になります。
 主権という概念につきましては、三つ確認させていただきます。主権は、文字どおり権力、実力、つまり物事を決めていく力、国の名で物事を決めていく力ととらえる場合と、逆に力では全くなくて、その力を暴力とせず正義と呼べるその根拠になるありがたみのたぐいでございますが、正当性の由来を示す権威という意味で用いる場合がございます。また、次元が異なりますが、これは国際関係でありまして、内政干渉は許さないといったような場合に使われます対外的なその国の独立性を意味する場合がございます。
 本論に入らせていただきます。
 現行憲法について国民主権と国の機構という観点で私が問題点であると思いますものは、まず前提問題として、この憲法はもちろん標準的には間接民主制を原則とし例外的に直接民主制を採用しているわけでありますけれども、ただこのバランスをどう読んでいくか、あるいは二十一世紀に向けてよりよい国という道具をつくる場合にはどう組みかえていくかということで、どちらに重点を置くかということで改正の話題になっていくと思います。つまり、国民投票制とか首相公選制とか、こういう話題をどんどん切り込んでいきますと、今の憲法における間接民主制中心の原則からは離れていくのではないかということでございます。
 それから、立法府と行政府と司法府について順次申し上げてまいりますが、先生方はひしひしと感じておられると思いますけれども、国の三権のあり方について、機能不全という思いで今国民の不満が、いわばフラストレーションが高まっている状況にあると思います。
 そういう観点で、まず立法府につきましては、現行制度では国会議員はリコールできませんが、これに対する期待も一部に根強くございます。
 それから二院制の問題でありますけれども、要は二院制というのは、衆議院は典型的な民選院であって、あと参議院をどうするかによってそのパターンが違ってくるわけでありますから、参議院を一番よくない選択は第二衆議院にしてしまうことでありますが、むしろ参議院をいわゆる比較法の用語としての上院にするにはどうするか。となりますと、元老院型とかそれからアメリカ上院のような地方代表院のような形にするとなると、人口比例はとらないし、直接選挙はとらない方がいいのではないかという話になってまいりますと、現行憲法とも無理が出てくる。
 それから、立法権に対するフラストレーションとして国民投票制というのがさまざまに提案されておりますが、これをやりますと、では議会はどうなってしまうのかということももちろんですけれども、まずそもそも現行制度では国民投票というのは法的拘束力を持つ形ではできないというのが標準的な理解でありますから、これも憲法改正の課題になっていくと考えます。
 行政府については、最近非常に熱心に主張する方がふえてきました首相公選制の問題でありますが、これ、もちろん現在は御存じのとおり議院内閣制ですから、首相公選などというのは現行制度では全くあり得ないわけでありますが、ただ、世論調査というものが法的正当性、場合によっては社会科学的正当性を持つのかという疑問も一応留保します。
 その上で、一応世論調査などを参考にする限り、今、国の行政府のトップリーダーが、我々が選んだ覚えがないとか、我々の思いを体現してくれていないというフラストレーションのピークに達している歴史的瞬間であると思います。
 そういうギャップが出て、国民が主権者でありながら参加意識を持たなくなってしまう突破口として、首相公選制というのが大いに主張されているわけでありますけれども、しかし、こうなりますと、完全に、準大統領制とあえて申し上げますけれども、準大統領制になっていくわけでありまして、全国一人区で全国民から一気に選挙で押し上げられてくるという存在は、今の議院内閣制、積み上がるようにして総理の地位につき、またそれを集団で支えていく今の仕組みと全く違って、これはもろ憲法改正の話題であると考えます。
 それから、司法府に対するフラストレーションは、これも最近吹き出してしまっているようでありますけれども、要するに、国民というか一般庶民の常識からかけ離れた世界に行ってしまっているのではないかという疑いであります、実証されているとは私は思いませんけれども。
 そのために、司法の民主化とか開かれた司法とかいうことになるわけでありますが、ただ、これはちょっと気をつけなければいけないと思いますのは、司法というのは、わかりやすく言ってしまいますと、非民主的であるところにその本質、存在価値がある、あえて言いますけれども。つまり、民主的ということは、つまるところ国民の多数決過程によって裁かれると。国会がそうですね。それは、突き詰めてみると、人気、不人気で裁かれるということなんですが。
 そういうときに、つまり、世の中の全部がある一人の人を、やっちまえ、殺してしまえ、あいつ悪いんだと興奮していても、一カ所で、冷静な国家機関が、ちょっと待て、冷静に手続を踏んでみようじゃないか、彼にも言い分があるのではないかと言って、興奮した多数派から少数派の権利を守るときに冷静でいられるということは、多数決民主主義に支配されない、その外にいる、そういう意味で非民主的な機関であることに司法府の意味があったはずなんです。ですから、司法の民主化とか開かれた司法ということは、逆に言えば司法の独立を脅かすことになるのではないか。これは本当に微妙なバランスの問題で、気をつけてお考えいただきたいと思います。
 そういう意味で、陪審制、参審制、もちろん一面で司法も人間を裁くんだから人間的常識がなきゃいかぬとか、それから国民主権国家における権力であることに変わりはないわけで、他者から牽制されない権力は必ず堕落するわけでありますから、そういう意味では司法もどこかで民主的コントロールがきいていなきゃいけないんですが、きかせ過ぎると司法が司法である意味がなくなる。この緊張した問題があるということを指摘だけさせていただきます。
 あと、天皇について問題が未解決であると私は思います。第二次世界大戦で日本が負けて、この今の憲法ができたわけでありますが、その前と後で天皇制なるものは続いているという事実をとらえて、わかりやすく言ってしまえば、国体は護持せられたりというような説明で古きものがそのまま続いているような認識を殊さらに主張をする人々と、それから標準的な今風の理解でいくと、あの段階で天皇主権から国民主権に変わったではないかということで、今度逆に形ばかりである天皇制が残っているにもかかわらず、それを無視するがごとき、憲法改正で消すなら話は別ですが、現に存在する天皇制を無視するがごとき認識を振り回す、この二つの極端に分かれて、それが半ば平行線になっているような気がするわけであります。むしろ、きちんとこの問題を公平、率直に議論して、恐らく正義は真ん中にある、現行法の認識としてはですね。
 私は、誤解を恐れず、天皇制の廃止も含めて議論の対象とすべきである。つまり、国民主権国家日本において国王のたぐいがあること、こう言っただけで怒り出す人は随分いるんですけれども、話は最後まで聞いていただきたいと思うんですけれども、つまり議論はすべきだということを申し上げたかったんであります。
 これは、一国のあり方について、象徴というのは他国で言えば大統領とか女王とか、やはり国家がある意味ではつかみどころのない人間集団である以上、その国家のしるしになる、儀式では、あるいは対外的儀式では特に不可欠な人的存在があるわけですね。それが象徴であり、それを元首と呼んだり君主と呼んだり、いろんな種類があるわけですけれども、やはり日本国にもそれは必要なわけでありまして、ただそれについて国民的合意が存在しない言葉は現行憲法の重大なる運用上の問題点である。である以上、現段階でこれを検討してみる意味があるという意味であります。
 そうなりますと、先年法制化された君が代・日の丸、私はあのときも参考人として衆議院でしたか呼ばれて、賛成発言をさせていただいたんですが、ただ、君が代の君の意味づけについていまだに事実国民の中に定着していない。つまり、天皇を象徴としていただくこの国という理解が国語的にかなり苦しいんではないか。と同時に、やはり国民主権国家である以上、アクセントの置き方は国民の側にあるべきではないか。となると、いわゆる象徴君主にすぎない天皇を、昔のように形ばかりではあってもアクセントをつけ過ぎるのは意味づけとして無理があるような気が私はするんです。
 それで、むしろ、あのとき主張しましたように、日本語というのは当て字で、しかも、古来いっぱい歌われてきた歌でありますから、詠み人知らずで、むしろよく使われるように、あなたのよわいが長く、つまり相手の健康と長寿を祝い、願い、歌い合うような歌のような意味確認の方がよほど日本国憲法の時代における君が代の意味ではないかというような問題が残っているんではないかと指摘させていただきます。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、飯尾参考人にお願いいたします。飯尾参考人。
○参考人(飯尾潤君) 先ほど憲法学が御専門の小林参考人から包括的なお話がございましたので、私は政治学を専門にしておりまして、やや違った角度から憲法あるいは国民主権、国の機構、統治機構でございますが、それに関するお話をさせていただきたいと存じます。
 違った角度のまず第一は、憲法ということを考える場合には、六法全書に出ております憲法の一条から順番にある、まあ前文もございますが、そういう条文を検討することだというしばしば理解がございますが、ただ憲法だけで国の機構が成り立つわけではございません。国会も実は国会法でありますとかあるいは参議院規則でありますか、あるいは内閣も内閣法以下のさまざまな、いわゆる憲法附属法と言われるようなそういう法律もございます。あるいは慣習のようなものがございますし、それから国民あるいは当事者の共通了解あるいは共通理解のようなものもございまして、そういうものが合わさった形で生きた憲法という形で運用されるのが本当ではないか。
 そうしますと、実は書いてある部分が全く同じでも、解釈とかあるいは附属法の形の変わり方によって実は憲法の内実は大きく変わってくるのではないか。あるいは、憲法の条文を変えても、理解が古いままだと憲法の条文を変えても余り意味がないことが実はあり得る。そういうタイプの話をさせていただきたいと思います。
 しかも、実はきょうは統治機構に問題を限定いたしますけれども、しばしば日本では憲法改正がなかなか、長らく行われないこと、これは戦前の帝国憲法でも同じでございましたけれども、そのために、実は憲法は極めて重要なものであって、その憲法自体が目的になる。憲法を改正することが目的であったり、あるいは改正しないことが目的になる状態がたくさんあるように思われますけれども、私のような政治学者から見ますと、国を運営していくためのルールブックの一つでございますので、そういう点でいうと、いかなる国を目指すのか、それからその手段としての憲法が出てくると、そういうタイプの考え方をすべきではないかというふうに考えておりますので、そのような観点から論点を、時間がございませんので論点を絞ってお話をさせていただきたいと思います。
 まず、論点を絞った第一は、議院内閣制の問題でございます。
 しばしばこういうことが言われております。議院内閣制はリーダーシップが不足して弱いんだ、合議制だからなかなか意思決定ができない、そういうことが言われる場合がございまして、そして議院内閣制が批判される場合がございます。しかしながら、実は世界的に見ましても必ずしも、議院内閣制が指導力を不足しているということは必ずしも言えないわけでありまして、例えば英米を比べますと、アメリカは大統領制でイギリスは議院内閣制でございますけれども、イギリスの方がむしろ果断な政治をしている側面もございまして、なかなか普通の通説といいますか、一般の理解ではどちらがどうだということはなかなか決められないということが通説かと思います。
 しかしながら、実は、現在日本の議院内閣制については余り権力の集中も見られないし、どうもリーダーシップは弱いんだと。それで、先ほど御紹介のありましたような首相公選論が出てくるわけですけれども、そこに少し誤解があるのではないかというふうに考えるわけでございます。
 と申しますのは、実は日本国憲法制定のときの過程を見ますと、戦前は議院内閣制ではございません。そして、国民主権というのは、実はしばしば誤解されますけれども、戦前でも普通選挙、男子に限られておりますけれども、普通選挙は実現しておりましたので、戦後国民主権、内実は、実は国会を国権の最高機関と定め、しかも内閣を特に参議院を中心とする国会に基礎を置くものとして民主的統制が行政府にまで及ぶということに定めたところに現憲法の最大の意義があるわけでございます。
 しかも、その憲法の条文を見ますと、実は内閣総理大臣は内閣の首長であるというふうに規定されておりまして、内閣総理大臣を中心として、ですから内閣総理大臣のリーダーシップは非常に強く出ております。例えば、各大臣についての規定はございませんけれども、七十二条については行政各部の指揮監督権まで含めて、明文の規定を日本国憲法は置いているわけでございます。
 ところがでございます、実は私の見るところ、憲法改正がそのように戦後なされたにもかかわらず、どうも日本の現在の内閣制の運用は世界の標準からする議院内閣制になってないのではないかと思われることがございます。これが直接的には内閣法三条にございます分担管理の原則でございますが、分担管理の原則を強く主張することによって内閣総理大臣の権能が非常に制限されて、憲法が予定されているものは制限されているんではないかと思うわけであります。
 非常に簡単な比喩で恐縮ですけれども、行政府を議院内閣制の原理、民主政治、国民主権だということの意味は、有権者、一般国民が代表たる国会議員を選び、国会議員が総理大臣を選び、そして総理大臣が実は閣僚を任命し、自由に免ずることが、任意に罷免することができるということでありまして、閣僚を部下とすることによって実は行政権を握るということによって一本民主政治の糸がつながるということになっているわけであります。
 そういう中では、実は内閣総理大臣のところに国の基本方針というものは集約されまして、それをもとに各大臣はそれぞれの分担する事務をすることになりますので、一貫した政治が行われるということであります。もちろん、内閣総理大臣の指名に当たりましては指名選挙がございまして、普通の政党政治の原則にいたしますと、多数党あるいは多数との連合が内閣総理大臣側に立つわけでございますので、国会の多数会派と意思というところが内閣総理大臣のところに集約されるはずであります。それがそれぞれ個別の分野に応用されるはずでございます。
 ところが、分担管理原則を強く打ち出しますと、各大臣がまずそれぞれの分野について方針を定めて、それを持ち寄って閣議をすることになってしまいます。そうすると、一般原則ではなくて、個別の処理から一般原則は逆に出てしまうと、実は国会の多数派が持っている一般原則を樹立するというところと矛盾が出てくるわけでございまして、わかりやすい言葉で言うと、これをしばしば官僚内閣制と批判されるわけでありまして、各省で準備したものが自動的に持ち上がって閣議の結論になってしまう。国会ではまた別だと。それで、しばしば日本では内閣とは別に与党なるものの存在があって、与党で政策審議をするという原則がありますが、これは世界的に見て極めてまれな現象でございますので、そういう点でいきますと、日本国憲法の段階では議院内閣制を打ち出したにもかかわらず、分担管理の原則、実はこれはまさに戦前の内閣官制に淵源を持つものでありますが、一般にも、内閣というのは日本ではこういうものだという理解があったために、実は議院内閣制が十分定着しなかったんではないかというふうに考えるわけです。
 そういう点でいうと、現在リーダーシップの不足を原因に首相公選論が唱えられておりますけれども、首相公選論の前に議院内閣制の強化、総理大臣の権能の強化ということは当然考えられてしかるべきではないか。その上で、強化された議院内閣制と首相公選論、これは先ほど御案内にありますように大統領制でありますが、大統領制を比べた場合どちらがいいのだろうか、こういう議論をせねばならないのではないかと思われます。
 ただ、もしも首相公選論の意図が権力の集中、非常に民意が一点に集まることを目的にするんであれば、実はこれは違う結論を導き出されるだろうと思われます。と申しますのは、議院内閣制は立法府と行政府が総理大臣指名選挙によって一点に結びつく体制でございますから、民意は総選挙あるいはその選挙の一点に集まるわけでございます。ところが、大統領制をとりますと、議会の選挙と大統領選挙の結果が同じとは限りませんので、しばしば両院の矛盾が起こります。むしろ大統領制の方が権力分立を主張する、そういう形でございます。
 そういう点でいうと、しばしば主張されます三権分立というのは大統領制の原則ではございますが、議院内閣制の原則ではございません。そういう点で、日本国憲法の解釈として三権分立ということがしばしば教えられているのは、少し問題があるのではないかというふうに考えております。
 現在、日本に求められているのは、むしろ先ほどから出ておりますように、民衆、一般の国民が考えているところが一致して民意という形であらわれれば、それに従って果断な政治を行うことではないかと思われますので、そういう点では強化された議院内閣制、現在の日本ではございませんが、強化された議院内閣制の方がむしろ妥当ではないかと思われまして、憲法の条文よりも内実を変えるということの努力が必要ではないかと思われます。
 それが第一点でございまして、しかしながら、日本国憲法には議院内閣制を強化するために最大の障害と見られるもの、問題がございます。
 これは、実は二院制の問題でございまして、しばしばどこの国でも上院と下院で、下院は大体一般の民衆から、国民から選ばれておりまして、上院は貴族院であることが多いわけですけれども、貴族院が権能を失うことによって議院内閣制が確立すると。二十世紀初期にイギリスで見られたことでありますが、そういうことは各国とも行われておるわけでありますが、両院が同じような権能を持っている場合においては、実は先ほど大統領制のときに申し上げた大統領と議会との矛盾と同じことが衆議院と参議院で起こり得るわけでございます。そのことをめぐってしばしば議論がなされますが、結論から申し上げますと、両院が全く同じようなものであれば、実はこの矛盾を解くことは極めて困難だということでありまして、衆議院と参議院が何らかの形で違った権能を持たねばならぬということであります。もちろん日本国憲法も制定の当初からそのことは気づかれておりまして、両院の権能には差がございます。しかしながら、我々が最近経験したところでは、一般の法律案について参議院と衆議院の議決が変わったときに、衆議院の再議決に三分の二を要求している、三分の二以上の多数を要求しているということは、実は権能においてかなり近いものを要求しているというのと同じことでありまして、そういう点で矛盾を生じているのではないかと思われます。
 これは、別にこれが悪いということではありませんけれども、しばしば言われるように、衆議院が政権を争う権力の府であるとするならば、参議院が良識の、こちらは参議院でございますが、参議院が良識の府であるということになりますと、実は権力闘争の場と良識というものが両立し得るのかどうか、そのことが大変難しいところでありまして、良識の府たらんとすれば、やや権限をやはり制限するということが必要になってくる。ただし、制限するといっても他律的にされるわけではなくて、参議院が自発的にある自制をされるということが実は議院内閣制を運用する大きな必要要件になるのではないかというふうに考えます。
 それが端的にあらわれるのは政権交代の場でありまして、衆議院は解散がございますので、それに従って多数派が変わって政権交代が起こるということがございますけれども、参議院は解散ということを予定しておりませんし、しかも半数改選でございますから、民意を、直近の民意を知るということはできないわけであります。
 そういう点でいくと、やはり何らかの形での参議院側の自制ということがあり得るのはどういう方法があるのだろうかということの検討が必要であって、もしもこの現憲法がそのことについて十分な規定を置いていないとすれば、やはり憲法改正をしてその矛盾を解くということが一貫した政治のためには必要ではないかというふうに考えるわけであります。
 そこで、そろそろ時間になりましたので最後の問題でございますけれども、もう一つ、議院内閣制というのは、擁護いたしたわけでありますけれども、基本的に間接民主制、代議制でございます。しかも、間接民主制、代議制が有効に機能するためには政党政治が重要でございますけれども、ここがポイントでございまして、しばしば総選挙で勝ったからということが言われますけれども、総選挙の争点になる、あるいは参議院の通常選挙で争点になることはすべての案件を網羅しているわけではございませんし、あるいは政党の対立軸に沿ってすべての問題が処理されるわけではございません。
 良心的な問題、その他の問題について、実は国会議員の方も民意がどこにあるかわからないという問題が生じる可能性は十分あるわけでありまして、そういう点ですべてを代議政治に任せてしまうということがよろしいかどうかは問題でございまして、限定的な問題については国会が発議して国民投票を行うというタイプの、代議制民主制を補完するタイプの直接民主制というタイプのものはあってしかるべきではないかと。
 現憲法については、ここはまさにこの調査会で問題になっております憲法について、憲法改正については国民投票を規定しております。それがあるのみでございますけれども、そのほかにもそういうことがあってよろしいのではないかというふうに考えておりまして、それについても議論が深められるべきではないかという考えを持っております。
 以上、三つの問題を取り上げましたけれども、そのほかに、これを補足する問題として一つだけ加えないといけないという問題がございます。
 これは、先ほど申しました生きた憲法のためには、実は解釈とかそういうものは非常に重要になってきます。しかしながら、しばしば日本においては憲法解釈を例えば内閣法制局の見解に頼るということが行われておりますが、実は日本国憲法は内閣法制局という機関には何らの地位も与えていないわけでありまして、行政権の補佐機構でありまして、一次的な解釈権を持っているはずがないわけであります。むしろ日本国憲法は、一次的な解釈権は国権の最高機関とされた国会に与えておりまして、国会が立法することによって憲法の解釈を示すということを要請しているのではないかと思われます。
 それが何らかの形で矛盾を来した場合には、最終的に最高裁判所の違憲立法審査権というのを憲法は予定しているのに、どうもそこまで紛争が行かないように事前に提出の段階でチェックしてしまうというのは、実は国民レベルの議論を抑えてしまう効果がございまして、そういう点でいうと、内閣法制局の解釈というのは少し抑制的にとらえるべきであって、余り内閣その他が硬直的、しかも、かつて示された解釈は決して変えられない、国会は実は議決をすれば古い法律を廃止して新しい法律をつくることができるのに、憲法解釈は変えられないということがしばしばなされるというのは少し問題であって、憲法を生かすためには実はそこについても考えないといけないというのを最後に付言をいたしまして、私の陳述を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。野沢太三君。
○野沢太三君 自由民主党の野沢太三でございます。
 本日は、両先生におかれましては有益なお話をいただき、まことにありがとうございました。私ども自由民主党は、昭和三十年十一月に保守合同で結党して以来、立党の基本といたしまして、平和主義、民主主義及び基本的人権の原則を堅持し、現行憲法の自主的改正を図ることを党是としてまいりました。
 このたび、平成十一年七月に両院に憲法調査会の設置が決まりまして、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行うことになりました。我が党は、現行憲法の基本理念は尊重しつつも、新しい時代にふさわしい憲法のあり方について調査検討し、改正に向けて努力を重ねてまいるものでございます。
 そこで、きょうは国民主権と国の機構について主としてお話をいただいたわけでございますが、質問を幾つかさせていただきたいと思います。
 まず、現行憲法の基本的特徴である国民主権の原則については、前文の中に明記されてはいますが、条文としては第一条に天皇の地位と併記されているだけでございます。この点はもっと明確に位置づけをすべきと思いますが、いかがでしょうか。両先生にひとつコメントをいただきたいと思います。小林先生からひとつお願いできますか。
○参考人(小林節君) 私自身は今の憲法でも明確であると思っておりますが、ただ、先生の疑問もごもっともでございますので、念のためきちんとするのであれば、先年発表されました読売の試案にありますように、前文の中にも、そして第一条にも国民主権という文言を明確に入れてしまう、それで十分であるかと思います。
 以上です。
○参考人(飯尾潤君) 私の見解は、憲法の四十一条に「国会は、国権の最高機関であって、」と定め、しかも四十三条で「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と書いてあるところに実は国民主権というものは具体化されているというふうに解釈しておりますので、実は現状でもございます。
 ただし、誤解があるとすれば、それを明記するのも一つの方法であろうかというふうに考えております。
○野沢太三君 ここは集約して表現をする方がみんなにわかりやすいんじゃないかと私は今考えております。これは今後の議論に任せたいと思いますが。
 次に、議院内閣制について、ただいまも飯尾先生からは大変立ち入ったお話も伺ったわけでございますが、この議院内閣制の特徴というのは、立法府と行政府の意思疎通を円滑にしまして政策実現を容易にする制度というふうに考えますが、イギリスなどが比較的果断に政治を実行しているのに比べますと、日本のこの状況は必ずしも内閣のリーダーシップが十分でないと、こういうふうに我々自身も思っておるわけでございます。
 議院内閣制をよりよく機能させるにはどうすればいいかということで今までも議論を重ねてまいりまして、今回は省庁統合や国会改革をあわせ行いまして、副大臣あるいは政務官というような形で相当な人数が政府側に議会から入っていくということも考えまして、これについて取り組もうということになっておりますが、これは一つのチャンスだと思いますけれども、この議院内閣制をよりよく機能させるための方法その他、もう一度ひとつお話を伺いたいと思いますので、両先生にお伺いしたいと思います。
○参考人(小林節君) 先ほど飯尾先生のお話にもございましたが、確認的に申し上げますと、これは憲法条文の問題というよりも運用の問題でありまして、そういう意味ではここ最近いろいろ努力しておられる、内閣レベルでの首相の発議権とか、それから副大臣、政務官を、要するに政治家を集団で各省庁に、つまりやはり行政省庁の情報力が強過ぎる点があるわけですから、それから官僚答弁を排したとか、そういう運用上の工夫は現にしておられますし、これ、いずれ効果が出てくると私は思っております。
 あと二点は、これもよく言われることですが、立法府の機能強化、これは行政省庁に対抗し得るだけのやはり質量ともに、議会職員でございますが、充実しないと、これは戦いにならないと思います。
 それからあと一つは、やはり総選挙を政権(首相)選択選挙型に運用上位置づけないとまずい。これは新制度がまだうまく使われていない欠点だと思うんですが、ただ、この背景に日本の民族性があるような気が私はいたします。つまり、みんなで相談しながら先へ進む、突出したリーダーを好まないというか、むしろ出そうになったら引きずりおろすような、やはり長いこと平和な島国に暮らしてきたので、本当の危機管理の経験がないために強烈なリーダーを必要としない民族なんだと思うんですね。
 ただ、新世紀の曲がり角でそういうことを言ってられない状況になってきているような気がしますので、やはり総選挙を意識して、政権選択、首相選択の選挙だという運用を各政党が図らないと、この政治改革は最終的な着地が無理ではないかと思います。
 以上です。
○野沢太三君 ありがとうございました。
○参考人(飯尾潤君) 先ほど申し上げたところと少し重複がございますが、三点、やはり最小限すべきではないかということを考えております。
 一つは、第一点でございますが、内閣総理大臣の地位がやはりまだまだ明確でないので、これまでも改革はなされておりますけれども、やはり内閣法の分担管理の原則を弱めて、各主任の大臣は内閣総理大臣の下に立つことを明確化するようなそういう改正がなされるべきであるし、必要であると憲法の条文に追加するのもよろしいかというふうに思われまして、そういう点で分担管理の原則を緩和するということが第一の要件、必要な処置でございます。
 それともう一つ、これは慣例的に実際の問題としては行われているわけですが、政権党が与党と内閣側に分かれましてそれぞれ分担して政策をつくるという慣習をやめまして、政策の立案をやはり内閣側に集中する。私の理解では、副大臣、政務官制度の導入は、そういう与党と内閣の実質的な一体化をねらったものだというふうに思いますので、先ほどの野沢先生の御議論もその線に沿ったものだと思われますので、そういう点でその方向を一層推し進めること、ということでございまして、そういう点でいうと与党の有力者はすべて入閣するということがやはり重要なポイントではないか。
 それから、これはまた、これも内閣総理大臣の裁量の中でございますけれども、しばしば内閣改造をして閣僚を入れかえるというような慣習をやめてしまう、長期在任をするというふうなことで、内閣の地位を高めるというのが一つ重要な点ではないかと思われます。これは第二点でございます。
 第三点は、実は国会改革ではないかというふうに考えております。
 これは、先ほど申しました二院制の衆議院と参議院の権能を分けて、審議のあり方も少し変えるということによってやはり内閣と国会との関係を見直すということ。権力の府が衆議院であれば、権力闘争の場を衆議院に集中して、そのほかの法案のもう少し綿密な審査が必要なものは参議院で行われる、そのほかの工夫が必要だというタイプの二院のすみ分けの問題。それと国会改革の第二は、実は日本の国会が国会法その他、実はまず国会法というものが障害になっておりまして、実は衆参は両院が独立していることになっているのに、両院をまたぐ国会法という法律があって、それぞれ独自の機能を発揮することができないということは問題ですので、それを改正すべきではないか。恐らく両院規則で決めるべきではないかというのが第一点でございます。もう一つ、国会法上でもどうも三権分立ということ、原則が強過ぎまして、国会内における政府、内閣の位置が不明確でございまして、その点で、そこが原因となって政府と与党の分断ということが起こっているんではないかと思われますので、国会内における内閣あるいは政府の意味を明確化するということ、これが国会改革の第二でございます。
 そういう国会改革をするというのが第三のポイントで、この三点を少なくともやらねばならぬのではないでしょうか、というふうに考えております。
○野沢太三君 ありがとうございました。
 今の議院内閣制と関連のある課題として、先ほどからも先生方から御指摘がございます首相公選制の是非でございます。
 最近では、世論調査をしましても過半の国民の皆様が、首相公選いいじゃないかと、こういう御意見にもう傾いておりますし、また我が党有力者の方にもそういったことを御提案される方もおるわけでございます。
 また、元中曽根総理も、若かりしころは日本じゅうに看板を立てまして、首相を国民の手で選ぼうと、こういった運動もなさった経緯がございますが、反面、この制度については、今の議院内閣制との関係並びに天皇との関係等々、いろいろ問題があろうかと思います。人材がいい人いれば非常にこれは効果を上げますが、逆に単なる人気投票になっても困ると、こういう問題はあろうかと思いますが、この点について端的にひとつ御意見を伺えれば幸いでございますが。
 小林先生からお願いします。
○参考人(小林節君) 首相公選制をやりますと、さっき申し上げたように全国区一人区でどんと選ばれてきますので、それは選挙の社会的実態としてはアメリカの大統領制と似てくるわけです。
 そこで何が起きるかというと、それはある特定の小選挙区で長年当選を重ねて、第一党の派閥でぞうきんがけをして、そのボス同士の相談の中で一党の党首になって自動的に衆議院で指名された人と違って、全国民を背景に持ちますから、背景には自分の選挙区とか自分の派閥ではなくて全国民の意思というものを背景にしょって議会ともぶつかり得る立場になると。ここに一種のカリスマ性が生まれる。これはもう社会的事実であります。となると、それは事実上の準大統領制ではないか。すると、そのカリスマがある独任の地位に象徴性が生まれるのも当たり前でありまして、そうなりますと、日本の象徴を天皇としている現行憲法との衝突現象は起き得るんではないかという問題の指摘はさせていただきます。これはむしろ私などよりも平野先生などの方がお詳しいと思いますけれども。
 ただ、それもイスラエルの例などを見ていただけばわかりますように、公選で選ばれた首相はあくまでも首相と呼んで扱っているわけです。首相というのは、やはりそういう意味では行政の執行者であって、国の飾りではないわけです。そのほかに別に大統領というのを置くことによって象徴として扱っている。この仕切り分けが我が国でもできるならば、公選首相と天皇制は矛盾しないで使い分けることができる。これも議論をして、選択の問題だと思います。
 それで、総理大臣になるとリーダーシップが生まれるのはさっき申し上げたように事実なんですが、これはホームランと空振りの可能性が出てくるわけでありまして、それは、ただ私は、ここまで国民が政治が私たちを代表してくれていないというようなフラストレーションをしょっているならば、それは国民の責任においてやらせてみるのも、やってみるのも一つの、それは自分で滑って転んで直していけばいいわけでありますから、そういう意味では、憲法改正が自由にできるなら、準大統領制としての首相公選制も今申し上げたような筋道であり得るというふうに思います。
 その他にもろもろの条件、推薦人とかでそういう議会によるチェックの条件をつけるというのはいわば派生的な問題で、それはそのとき議論してお決めになればいいことだと思います。
 以上でございます。
○参考人(飯尾潤君) 今、象徴天皇とのかかわりについてはお話が出ましたので、二点簡潔にお話をいたしますが、首相公選論をやれば政治学的には大統領制に近い形になるはずでございます。
 そうした場合に一つ問題になりますのは、実は政党政治と大統領制というのは必ずしも相性がよくないという点でございます。そういう点でいうと、選択肢が十分に示されなければ国民は選ぶことはできないわけでありますが、しばしば日本でそれに近い制度をとっている知事、都道府県の知事で起こっておりますように、一たん選ばれた方に対して対抗馬がなかなか出せるような政党がない。そうすると総与党化現象というのが起こってくることを各地方で見ますと、実は国政レベルでも総与党化ということが行われますと、実は国会における論戦等も余りなくなって、実は国民にとってはわかりにくい政治が起こる可能性は現在ではございます。
 そういう点でいうと、政党政治の確立がなされれば大統領制に近い首相公選論も可能でございますが、そうであれば、政党政治が確立してしまえば議院内閣制も十分に運用できるわけでありますので、首相公選の意味はないというふうに私は思っております。
 以上でございます。
○野沢太三君 ありがとうございました。
 もう少し議論を深めたいところですが、時間が参りましたので、あと二院制のあり方とか憲法裁判所の必要性についても伺うつもりでしたが、また別な機会に譲りまして、私の質問をこれで終わります。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 久保亘君。
○久保亘君 両先生には貴重な御意見をお聞かせいただきましてありがとうございました。
 前もっていただきました先生方がお書きになったものも読ませていただきましたが、小林先生が「憲法調査会への期待」というものをお書きになっておりますが、その中に、自由で豊かで平和な国家生活を補強する内容を目指すものは憲法改正であり、これらの自由、豊かさ、平和を減殺する内容のものを憲法改悪という、これは明確に区別されねばならぬと、こういうことをお書きになっております。私も賛成する先生の御主張であると思っております。
 ただ、そうなりました場合に、この憲法というのはもともと理念法といいますか、私は法律のことを専門に学んだわけではありませんけれども、理念法、日本の憲法は理念法で、これは基本的人権、国民主権、恒久平和・戦争放棄という三つのことを掲げているわけでありますが、こういう立場に立ってこの憲法をなぜ変えるということが必要だと主張する人々が存在するかといえば、ずっとこの憲法が生まれてから今日まで、解釈改憲によって、この憲法の理念とするもの、先生の言っておられる自由、豊かさ、平和の国家生活、国民生活と言った方がよいのかもしれませんが、そこから現実が遠ざかっていくものを解釈改憲で憲法との矛盾はないということを言ってきましたが、それが限界に達しておる、そして憲法を変えなければならぬという動きがあるわけであります。
 そうなりますと、やっぱり先生が憲法改正と憲法改悪とを区別をされておりますその憲法改悪のこの動きが憲法改正という形をとって出てくる心配はないのかということを思うわけでありますが、特にその問題について、九条についてどのように先生のお立場からいたしますとお考えなんでしょうか。このことにつきましては、できましたら飯尾先生にも御意見を賜りたいと思います。
○参考人(小林節君) 九条の問題がきょう与えられた国民主権の問題かちょっと心配ではございますが、ただそういうお尋ねでございますし、ある意味では、この国を国際社会で独立を全うさせるという意味では九条問題は主権の問題でありますのであえて触れさせていただきますが、私の九条に関する改憲案は結論は簡単でございまして、解釈の争いの余地がなくなるように次のように箇条書きにしてしまう。
 文言は法制局に美しくしてもらうとして、要するに間違っても二度と侵略戦争をしない、これが一つです。
 それから、独立主権国家として、これは憲法にあるなしにかかわらず、国家の自然権として自衛権は有する、つまり不当に襲われたら何するんだと押し返す権利は持っている。
 それから、世界に依存し、ある意味ではここまで育ててもらった国として国際社会の安全保障、つまり世界の警察活動、つまり我々と直接関係のない紛争でもだれかがとめに行かなきゃならない場合には、国連の正式な機関決定を条件として我々も参加する、責任を負う。そのために必要な軍事力はその限りで持つ。
 それから、当然のことながら、軍事力に対するシビリアンコントロールの徹底を図るために、総理大臣を指揮官とし、そして国会が戦争権限を留保することによって総理大臣による出兵をとめることができる仕組みですね、それを憲法上明記する。今の憲法ではシビリアンコントロールがはっきりしていませんので、国会と無関係なところで、防衛庁の内局職員による制服職員に対するあちらでのシビリアンコントロール、本当は国会がすべきことなんですけれども、それが徹底していないような気がいたします。
 それからもう一つ、本当にその人の、とりわけ宗教的良心が多いんですけれども、良心に照らして銃をとることは生きている価値がなくなると本気で思っている人に背中に銃を突きつけて戦場へ送り出してもしようがないわけでありまして、良心的兵役拒否を、憲法には良心の保障の条文がございますが、別個九条の横に良心的兵役拒否を認める。
 簡単に申しますと、先生御存じと思いますけれども、いわゆる先進国の憲法及び憲法判例をワンセットで並べるとそうなるわけで、私は、そういう絶対に解釈上の争いの余地のない、ちょっと説明調な九条にしちゃえばいいという提案をさせていただいております。
○参考人(飯尾潤君) 九条についての御質問でございますが、まさに解釈改憲の問題を提起されましたので、実はその中身についてどうかというよりも、その憲法改正の意味について考えることでお答えにかえさせていただきたいわけであります。
 と申しますのは、実は先ほど申しましたように、政策が法律になるというのは多数決の世界でございまして、そういう点でいうと国会の多数でどんどん変えていくということがありますが、その他の法律と憲法と違うということは、これは日本国憲法は硬性憲法になっておりますけれども、実はさまざまにその法案をめぐる争いがゲーム、スポーツのようなものだとしますと、ゲームのルールを定めるのが憲法だというふうに考えております。
 そういう点でいうと、やはり普通の法律よりは変えにくくしてあるのも意味があることでありまして、その点から申しますと、九条問題を考えるときには、しばしば意見が対立しているその片方の側が押し切って改正をしようと、そういうふうな動きがあると思いますが、私の意見では、むしろ憲法に書くようなことは、実は多くの党派が納得するようなそういう共通了解を憲法に書いておけば十分であって、その範囲内で時の政権が自由に活動できるようなそういうふうな条文が必要であって、どうも日本国憲法の九条については、長年の論争の的になった結果、ルールとしての機能もどうも果たし得なくて、それが先ほどの解釈改憲のお話につながっているのではないかというふうに考えます。
 そういう点から申しますと、一般に政治では、内政に関しては争っても、外交、安全保障についてはできるだけ協力するというのがよい政治ではないかというふうに思われますと、安全保障問題について長い争いが熾烈に戦われたというのは実は余りよいことではなく、今こそ実は多くの会派、政党が納得できるようなそういうふうな憲法案を考えるべきときではないか。そういう点でいいますと、この憲法調査会のように超党派で検討されるというところで意見を深められるというのは、九条問題についても重要な意義を持っているのではないかというふうに考えております。
 よろしいでしょうか。
○久保亘君 両先生がきょう、主権と国の機構という中で共通してお取り上げになりましたのは、二院制の問題、立法府にかかわる二院制の問題、行政府にかかわる首相公選の問題であったかと思いますが、この参議院に籍を置いております私がこんなことを申すのはどうかなとも自分でも思うのでありますが、お話がございましたので、二院制の価値というのは、憲法に定めるものであるから、存在している以上価値あるものにというお立場なのか、やはり二院制というのは積極的にその存在価値を高めていかなければならないものというお立場なんでしょうか。そのことが一つであります。
 それから、首相公選の問題については、やっぱりこれは両先生御意見が分かれておる問題だと思いますけれども、首相公選制というのは、結局のところ、その基本では議院内閣制の否定の上に成り立つものであるのかどうか、議院内閣制と首相公選というのは両立するのかどうか、この点について御意見をお聞かせいただければと思います。
○参考人(小林節君) 二院制の価値は、たまたま旧憲法以来建物が二つあるとか、憲法に残したからとかいうことではなくて、私はあると思うんです。
 とても次元の違う話をしますけれども、例えば男と女が結婚しようと思ったとき、頭に血が上って一瞬思うわけですね、約束するわけです。ふっと、帰ってきて、あれでよかったのかなというようなこと。つまり、二度考えてみるということは人生いろんなところで重大なわけでありまして、つまりこの国会というのは国権の最高機関ですから、最高権力を行使して何かをどんと決めちゃう。場合によっては、それによって条件はまったら人権剥奪の事実関係も出てくるわけですね。
 ですから、セカンドゲスというやつでありまして、衆議院で決めて、ちょっと待てよと。全く同じ内容を別の人々が、しかも代表のされ方が違うし、違った角度から出てきた民意でもう一度考えてみるということはとても大事なことだと思うんです。そういう点で見ると、よく二院制があるのはそのコストがもったいないとかいう議論はありますけれども、そのコストに見合うだけの意義がそもそもあると私は思います。
 それから、議院内閣制と首相公選制が両立するか。これは、何というかしら、比較政治学的にパターンがあってAコースとBコースしかありませんよというのではないわけでありまして、例えば権力分立だって対立型があれば協調型があるように、バリエーションをつけて、つまり首相だけは公選するけれども、それに対して議会が不信任で動きをとめるという組み合わせも私はあり得ると思うんです。
 ただ、首相公選である以上、これは準大統領制だから、議会が、つまり国民から選ばれた、直接選ばれた首相を議会が地位に手を出すなんということはあり得ないという選択肢もあると思うんです、準大統領型で。だけれども、議会も国民から選ばれているわけですから、つまり選び方が違う以上、同じ民意を切り口を変えることによって、これだけ複雑な自由な社会ですから、民意はいろいろあって当たり前なわけですから、じゃ縦切りの民意で選ばれた総理を横切りの民意、民意をまんじゅうに例えますと、横切りの民意で選ばれた議会がちょっと牽制をしてみるというような組み合わせも僕はあると思うんです。それはまさに先生方が新しい憲法をもしお書きになるならそのときにいろいろ御議論なすって決めれる、つまりどっちかと決まったものではないということを申し上げたいと思います。
 以上でございます。
○参考人(飯尾潤君) まず、二院制の問題でございますが、私自身は、二院制はやはり意味があるというふうに考えております。しかしながら、これは実は小林参考人と少し違った理由からでございます。同じ問題を二度考えるという意味で意味があるのではなくて、恐らく違う問題をそれぞれ重点を置いて考えるべきではないか。
 先ほど少しお話をいたしましたが、衆議院がやはり政権を争う場であると、政権の対立する法案を多数決で解決するというタイプの法案にやはり重点が置かれることになり、しかしながら、実は多くの国会ではほぼすべての会派が賛成される法案がたくさんございまして、しかしながら、そういうものについても実はじっくりと考えてみてよりよい法案にするために例えば参議院が活用される、あるいはそういう政党対立の、ぎりぎりの権力対立にならない問題についてやはりじっくり時間をかけて、例えば基本法制のようなものについて時間をかけて審議をするということのためには、やはり二院制は参議院が衆議院と違う機能を持てば十分な意味があるというふうに考えておりまして、またこの機能を伸ばしていけば、例えば最近提出法案が多くなっておりまして、戦前にしばしばなされておりましたような逐条審議というようなものも大変数は減っておりますけれども、二院制を活用すれば、逐条審議をふやしてもう少し法案を細部まで国民の前に解釈を明らかにするという活動もできるわけでありまして、そういう点で、今と違った活用の方法があるんではないかというふうに私は二院制について思っております。
 それから、首相公選論に関しては、私自身の関心からしますと、政治権力はいかなる選挙、民意によって支えられるかによってやはり体制は大きく分かれると考えますので、やはり行政権のトップを選んだ時点で議院内閣制から大きく外れてくるというふうに考えておりまして、名前は首相であっても直接選んだ場合は大統領制にかなり近い。
 唯一、議院内閣制と大統領制のようなタイプのものを併存させる方法は、フランスの現在の憲法が定めておりますように、大統領というのは直接選ばれるけれども、別に内閣というのは議会に信任を得て日常の業務は内閣がするというタイプの、半分という字を書く半大統領制というものが唯一の解決方法であって、それ以外は、例えばイスラエルのようなものはなかなかやはりうまくいかないのではないかという考え方を持っております。
○久保亘君 どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 次に、魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 貴重な御意見、ありがとうございます。
 それでは、早速お尋ねをしたいんですが、まず小林先生、今、第二院の意義といいますか、お話ございましたが、先生のお立場だと、慎重にという趣旨だと思いますが、その場合でも第二院としての機能といいますか、やはり考えた方がいいんではないかというふうにお考えなんでしょうか。それで、その場合における具体的な機能といいますか、第二院のあり方というものはどのようにお考えになっているのかという点をお願いしたいと思います。
 それから、同じく第二院の問題につきまして、飯尾先生、ちょっと重点の置き方が違うということでございますが、先ほど参議院側の自制というような言葉が出たと思うんですけれども、ちょっとその辺もう少し詳しく御説明をお願いしたいんですが。
○参考人(小林節君) 二院制についてまとめて申し上げます。
 まず、先ほど来申し上げたのは、同じ民選型の参議院だとしても、とにかく衆議院と人が違う、それから原則として選挙のときが違う、それから選挙制度が違う。となりますと、今の果物、ミカンを考えてください、ミカン。ミカンを縦に切りますと、袋が二つ見えます。ミカンを横に切りますと、菊の御紋章みたいな景色が出ます。つまり、これだけ日本国憲法のもとで価値多元主義で五十数年来ていますから、我々は本当に多様な自分を持っているわけで、その一億人以上いる民意が一つのはずはないと思うんです、私は。ですから、民意を縦に切って出てくる民意なるものと、横に切って出てくる民意なるものと実は全く異なったものが出てくる可能性はあるんですね。
 だから、それを一カ所だけ切って、はい、これが民意です、衆議院総選挙で、はい、これが民意だというのも、ある意味では、それしかできないなら別ですけれども、技術的に予算的にできるならば二度切りというのは極めて民意の調査の精度が高まると思うんですね。そういう意味で、現行制度のままでも二院制は意義あり。しかも、さっき申し上げたように、同じことをちょっとタイミングをずらして考えますでしょう、このセカンドゲスというのはすごく意味があると思うんです。
 先ほど表現がまずかったんですけれども、あれ、言い返せば、心がぱあっと高まって何かの決断をした、でも後で帰り道冷静になって、これでよかったのかな、もっと別の選択肢もあったんじゃないか、人間ってあると思うんですね。それは人間集団でもあると思うんです。
 それから、逆にもっと制度を変えちゃう、方法でいうと私はむしろそれがいいと思うんですが、参議院はやはり上院、元老院型になるべきだと思うんです。それは民選でなくすべきだと思っております。そして、閣僚になる資格をそもそも初めから求めない。
 それから、分業化の一つで、ちょっとアメリカのまねに近くなってまいりますけれども、外交については、それからある一定レベル以上の高位高官の人事についてはとか、まさにそれが元老の仕事だと思うんですが、そういう全く機能分化という形での新参議院をつくれば結構いけるんではないかと思っているんですけれども、以上でございます。
○参考人(飯尾潤君) 参議院に自制をせよという大変おせっかいなことを申し上げたので、その意味を説明せよということでございますが、こういうことでございます。
 与野党間で非常に激しい対立があった法案について参議院側が実は政権の命運を握るような事態に立ち至ったとき、そういった事態をしたときに与党側がどのような態度をとるかと考えますと、実は参議院が自由に討論をして衆議院と違う、衆議院に基礎を置いた内閣と違う結論を出されると実は内閣がもう立ち行かなくなる。そうすると、実は参議院は解散できないわけでありますから、事態打開の方法がなくなる。そういうことをするときにはどういうことをするかというと、結局、参議院の独立性を失わせるような、例えば会派ではなくて院外の政党が党議拘束をかけて投票行動を確実にする、あるいは切り崩しを行う、そういう事態を行いますので、そうすると、参議院における自由な討論というのはなかなか行いにくくなる。
 そういう点からすると、自由な討論を行うためには、特に参議院の側が行うためには、やはりそういう命運がかかった法案について余り強い態度を示すということになってきますと、その矛盾は解決できなくなってしまうのではないかということでありまして、そのことをもって、もしも参議院が良識の府として自由な討論を大切にしたいということであれば自制が必要なんではないかということを申し上げた次第でございます。
○魚住裕一郎君 それから、先ほどちょこっと言葉出ましたが、小林先生、憲法裁判所をどのように考えておられるのか。特に、先ほど司法の民主化、開かれた司法、それ自体でまた独立性も害していくんではないのというお話もございましたが、より強い権限を持つ形になる憲法裁判所を考えた場合、それはどのように、今あるような、今国民投票制とか国民審査制やっていますが、もっとそれと違った形のコントロールということは考えられるのか、この点いかがでしょうか。
○参考人(小林節君) 基本的には、憲法解釈権を専管事項とする最高裁判所をつくるわけですから、かなりきちんとした政治的管理が必要にも見えますけれども、それはもし憲法裁判所が間違った判断をしたと国民が思ったら、それはそれこそそういう解釈しかできない憲法条文を変えてでもというような動きを議会がイニシアチブをとればいいわけでありまして、つまり何を申し上げたいかというと、近い将来に憲法改正がなされた場合には、まさに国民的議論の合意の上につくられるべきものであるからそうだとすれば、初めて我々が自分たちで憲法を持つわけですね。となると、その憲法をこれまでのような解釈改憲にゆだねるのではなく、使いこなしていこうという一つの手段として憲法裁判所もそこにつけるわけです。そして、訴訟でたまたま縁があって裁判になって、四、五年かかって最高裁へ行って、結局統治行為論で逃げられちゃうんじゃなくて、その憲法の論点だけぴゅっと先にとって、事件があろうがなかろうが有権解釈をぽんと下してくれる装置を一つつくった方が憲法機能しますよね。
 そういう形で使いいい、ただ、その憲法裁判所は当然政治的判断を必要としますから、人事権はいわば国会の多数決で行使するとか、それから総理大臣経験者を入れるとかそういう顔ぶれになっていくと思うんです。そうすると、これ逆に政治的ぶれが出かねないんで、それはまさに憲法を立体的に使って、そんなはずじゃなかったと国会が切り返す、憲法改正運動でもやってしまう、こういうダイナミズムの中で使いこなしていけるはずですから、改めて装置はそのためにつけなくて私はいいと思うんです。
○魚住裕一郎君 私も、特にドイツの憲法裁判所の事例等をかんがみてみると、かなり裁判官の個人的なといいますか、そういう資質がかなり大きくかかっているなということを感ずるので、またさらに私も研究をしていきたいと思っております。
 最後に飯尾先生、先ほど内閣の方で分担管理の原則、これどうして新憲法といいますか、現行憲法になったときに打ち破れなかったんでしょうか。
○参考人(飯尾潤君) それについてさまざまな解釈は可能だと思われますが、私の一番やはり強いのは、内閣というのはそういうものだというふうに思い込んでしまったことではないかというふうに思うわけですね。
 やはり戦前に内閣というのがありましたので、最近も内閣制度百何年ということを祝われたわけですが、戦前と戦後では意味は変わっているのに、やはり同じ名前の存在があると同じようなものではないかというふうに思ってしまったのではないかというふうに考えております。
○魚住裕一郎君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 吉川春子君。
○吉川春子君 参考人の皆さん、どうもありがとうございます。共産党の吉川春子です。
 まず、小林参考人にお伺いいたします。
 参考人は「憲法調査会への期待」という論文の中で、国民主権、日本における主権者、民衆の責任の自覚を促すためにも、「政府の行為によつて」という前文のこの文言は削除すべきとされています。
 しかし、この前文のこの部分は、「註解日本国憲法」などによっても、「過去において日本を戦争に導いた禍根を絶たなければならない。その禍根は、天皇が主権者として統治権を総攬し、軍閥及び官僚が、天皇の名において、統治権を恣にしたことにあるのであるから、この禍根を取除くためには、軍国主義と官僚主義を排することはもちろん、天皇が統治権を総攬する制そのものを廃し、主権が国民に存することを明らかにしなければならぬ。」と。これが憲法制定の理由であるとしておりまして、「政府の行為によつて」という文言を削除することは憲法制定の経過からも妥当ではないと私は思うのですが、いかがでしょうか。
○参考人(小林節君) 私も戦前の統治制度の仕組みと運用があのような愚かな戦争にこの国を導いていったという歴史認識は共有します。ただ、それを強調し過ぎるが余り、あの時代でも、結局政府が勝手に戦争したわけではなくて、一緒に乗せられて民族全体の意思のようにわっと行ったのではないかと私は思うんです。ですから、我々の責任ということも忘れなさんなという意味なんです。つまり、天皇制は打ち砕きました、ある意味では。そして、侵略戦争はいけないということも身にしみて日本民族は知りました。憲法に書きました。あと、この先もし何か間違いを犯すとしたら、我々が間違いを犯す可能性が私は高いのではないかと本当に心配しているんです。
 ですから、戦争というのは政府が勝手にやるのさという次元ではなくて、政府のイニシアチブというのは非常に重大ですけれども、それにお調子に乗せられていってしまう民衆も気をつけろという意味なんです、私がそこを取り払いたいと言ったのは。そういう趣旨でございます。もし、その趣旨が、先生がお考えになるように、あなたの言ったとおりにそれじゃならないよというのであれば、それはまた考えてみればいいことで、しっかり考えさせていただきたいと思っております。
○吉川春子君 昨年十二月八日から四日間、東京で女性国際戦犯法廷が開催されました。これは国際的な民間団体が日本軍の従軍慰安婦制度の責任を問うものでした。最終日に裁判長は判決で天皇裕仁は有罪と宣告をしました。フランスのル・モンド紙は、この昭和天皇に関する有罪判決について「ヒロヒトと日本の健忘症」という評論を掲載しました。
 その中でアメリカ人ダウアーは、「ビルマや中国からの帰還兵たちにとって、天皇の免責がどれほど理解しがたいものであったかを示している。天皇の名で彼らは「贖罪的」共鳴をもって戦争を遂行したのだった。裕仁に罪がないのであれば、誰にあるのか。東京裁判は、日本の指導者を断罪したが、真の被告を欠いた法廷は不公平だとみられた。当時、日本の世論の中では、戦犯裁判と裕仁の退位を支持する強い潮流が存在していたが、」云々と。こういうふうに評論をしたわけなんですけれども、参考人はこの天皇の戦争責任、国民主権という観点からどのようにお考えでしょうか。
○会長(上杉光弘君) どちら。
○吉川春子君 小林参考人に。
○参考人(小林節君) 法的責任と政治的責任と歴史的責任と、いろんな責任があると思うんです。よく私どもの世界では法的責任論が先に議論されて、当時、憲法上天皇は神聖にして不可侵で、かつすべてそのもとを締めて、総攬はしているけれども直接行使できる立場でなく、さまざまに協賛、輔弼されてしたので、これは典型的な立憲君主ですから、天皇はいわばその名義人であって、やった本人ではないから責任はないという議論がよく言われるんですけれども、私はそれは無理があると思うんです。つまり、名義人ならば名義人だった責任が僕はあると思うんですね、直接手を下さなくても。
 それから、いつも不思議に子供のころから思っているんですけれども、よくそういう天皇に責任がなかった論の人は、天皇はあの戦争をとめたという功績があるようによく言われますよね。でも、とめれる人だったら、やっぱりやれたからやった人になっちゃうんですね。とめたところだけ褒めて、黙認してやらせたところをあの人に責任なかったというのは、論理の問題として私は無理があると思うんです。私が救いに思うのは、昭和天皇陛下御本人が責任を自覚していたということなんですね、むしろ。周りの人は寄ってたかって免責という議論をしますけれども、あの方がこういう、私はどうなってもいいと申し出たと言われていますよね。その言葉を私は信じたいですけれども。
 繰り返します。法的責任論については、御専門家の先生もたくさんおられるので細かな議論は可能だとは私も思います。でも、そういう何というか言葉の遊びよりも、あの人の名前であの時代ああいうことが起きたということは、地位にいた者の責任だと私は思います。その意味では、法的責任と言ったら議論が噴き出してしまうならば、歴史的、政治的責任はあったと思います。
○吉川春子君 飯尾参考人にお伺いいたします。
 国会活性化法について画期的な内容だというふうに論文の中で参考人は評価をされています。国家基本政策委員会の設置、政府委員制度の廃止で政治家だけが答弁することになる云々と、こういうふうにお書きになっていますが、今でもそう思っておられるのかという点をお伺いするんですが、私はこの国会活性化法は括弧つきの活性化法であって、逆に国会の行政に対するチェック機能が低下したというふうに中にいて実際に運用してみて強く思っています。クエスチョンタイムは週一回どころか月に一回も開かれないこともあったと。予算委員会や本会議への総理の出席は激減いたしました。
 政治家の答弁というのは、政治家というのは小選挙区、衆議院の場合特にですね、小選挙区から選ばれてきて常に選挙区を気にしなきゃならないとか、あるいは一年ごとに地位が変わるとかいう、それだけではないと思うんだけれども、非常に答弁が雑駁に、率直に言って議事録読んでそういうふうに感じておりまして、この国会活性化法なるものが本当にその国会の立法権能以外の行政に対するチェック機能、これを低下せしめたんじゃないかというふうに思いますが、その点について、今でももう画期的な内容だったんだというふうにお考えなのでしょうか。
○参考人(飯尾潤君) 今でも画期的な内容であったと思っております。
 ただし、その成果がまだあらわれていないし、その法律を生かすような運用がなされていないというふうに考えておりまして、クエスチョンタイムはもっと毎週開かれるべきであるというふうに考えておりますし、行政のチェックというお話でございますが、憲法上行政権は内閣に属しておりまして……
○吉川春子君 行政に対するチェックです。国会のチェック機能。
○参考人(飯尾潤君) まず責任者は大臣たちであって、その上で、その責任を追及して、大臣たちが部下の責任を追及するというやはり順番にならないといけないのではないかというふうに考えておりますので、まだ不十分ではあるというふうに思っておりますけれども、方向性としてはよい方向に向かっているんではないかというふうに考えておりますが。
○吉川春子君 時間なので、終わります。
○会長(上杉光弘君) 大脇雅子君。
○大脇雅子君 社会民主党の大脇です。
 飯尾先生にお尋ねをいたしたいのですが、先生は首相公選制について、これは有権者の再編成と政治家の役割の再定義という点で中途半端な解決策だと御指摘をしておられます。
 私も、アメリカの大統領制を見たときに、政権が交代いたしますと、アメリカでは政治的な任用者という、いわゆる大統領の政策を担っているメンバーというかスタッフの人たちというのはほとんど総入れかえをされます。そして、そういうことが日本で首相公選制をとった場合は私はほとんど不可能だというふうに思いますし、それにやはり、今度ピューリッツアー賞をとりましたジョン・ダワーの、マサチューセッツ工科大学の日本歴史をやっている先生が「敗戦を抱きしめて」という本の中で、日本の官僚制というのは明治に生まれて戦争のるつぼの中で鍛え上げられて、戦後まさにGHQが統治にそれを使って肥大化をして官僚制が政治をしているんだというような記述もあるわけですけれども、私は、この官僚制の問題というのは日本でどういう方向に解体をしていくのか。そうしないと私はすべての政治改革というのはできないと思うんですが、この点について、首相公選制との関係も含めてどのようにお考えでしょうか。
○参考人(飯尾潤君) 少し大きな御質問でございますが、首相公選制と官僚制との関係でございますが、実は原理的には首相公選制をとってもとらなくても政治的任命制は可能でありますし、官僚制もいかなる形態もとり得ますけれども、実は現在の日本で首相公選制を入れた場合どうなるかという観点からいたしますと、やはり政治的任命を入れないとすると、人材がなかなかないとなると、やはり現在の官僚制が温存されがちであって、しばしば誤解されます。これは一般の国民にも誤解されていますが、行政権の主体が官僚であるというふうなタイプのしばしば誤解があるわけでありますが、そういう誤解を強化する可能性があって、それはなぜかと申しますと、選ばれている首長は一人だけでありますから、その補佐する人たちに周りを取り囲まれてしまうわけですね。そういう点で、それを打破するのは実は大変難しくなる可能性があります。ただし、これは首相公選制をしても、改革によって官僚制をもう違うものに変えるということは可能でありますから、絶対の条件ではございません。
 そういう点で、御質問の中の官僚制をどうするかということでございますけれども、日本の官僚制は基本的にやはり政権交代その他のことを前提にしておりませんので、つまり政権、選挙の結果によっては政策は変わるということが前提にされておりませんので、自分たちが営々としてつくったことが実はそのままずっと未来へも続くであろうという誤解がしばしば、持っている官僚の方がおられるように思いますので、その点を改めるということが、やはり大臣、内閣がかわれば実は官僚制がする、やる仕事も変わるんだという意識を持っていただくという点からいたしますと、日本の行政の最大の問題は実は政策の企画立案と執行が大変近い場所にあるということでありまして、政策執行については法のもとの平等の原則からしまして政治的中立性が求められる場面も多うございますので、それはそのコントロールが弱くても構わないわけですが、政策の企画立案に関してはやはり政治的なコントロールが強まるような、そういう方策を導入すべきではないかというふうに考えております。
○大脇雅子君 確かに、議員が自分の政策を立法という形でつくらないで関係省庁への陳情という形でやっていくという慣行がございます。
 例えば、城山三郎の「官僚たちの夏」という小説を読みますと、お荷物であった国会が終わり、暑い、その官僚たちが立法にかける熱い夏が来たというまことに私たちの心を突き刺すような一文があるわけですけれども、いわゆる政策企画立案を我々がやるというためには立法府の機能強化というものが非常に大切だと思うんですけれども、それについて両先生にお尋ねしたいんですけれども、立法府の機能強化のためにどういうことをすべきかということでサジェスチョンいただけるとありがたいです。
○参考人(小林節君) 要するに、質量ともに先生方のエイズ、つまりアシスタンツをふやすということに尽きると思うんです。
 ただ、そこで大事な点は、最初は一気に人を入れなきゃいけませんからさまざまなところから人を連れてくるのですが、やむを得ず行政省庁から人を引き抜いてくるときに、一方通行で絶対に戻さない、こちらの人にしてしまうことが大事であると思います。それをしないと、結局また向こうを向いて仕事をしてしまいますので何も変わらない、お役人のポストがふえただけで終わる、また行財政改革の対象がふえるというだけのことになるような気がいたします。
 以上でございます。
○参考人(飯尾潤君) 立法府の機能強化ということでございますが、やや御質問の趣旨とちょっとずれるかもしれませんが、私は特に衆議院ということを考えた場合には、やはり与野党対立になりますので、与党側は官僚たちを企画立案のために使うということはよろしいのであろう。ただし、政権交代をした場合には、官僚はその政党の方針に従った企画立案に協力するということは当然のことであります。
 しかしながら、そういうことを考えますと、実は現在の場合は野党のむしろ質問能力の問題がありまして、むしろそういう議院内閣制を前提にしますと、野党に対する政策を支援する能力をいかに強化するか、特に衆議院の場合はそういう課題があるのではないかというふうに考えております。
 ただし、参議院がもしも良識の府だというふうにいたしまして、与野党が少し境目があいまいになるということでありましたら、参議院については少し別の問題があるかと思われますが、議院内閣制をとっておりますので、政府提出法案が多いというのはこれはいたし方ないこと、これは総選挙で決着をつけられるべき問題ではないかというふうに考えております。ただし、その提出される法案が、本当に大臣が考え出して、そしてその部下として官僚がつくったものかどうかというところのことが本当の問題ではないかというふうに考えております。
○大脇雅子君 小林先生は、先ほど首相公選制というのは天皇制と何か相打つものであるというような感じの御発言があったんですけれども、首相公選制それ自体は小林先生は反対ということでございますか、御意見。
○参考人(小林節君) さっき迷いながら申し上げたので誤解を招いたかもしれませんが、基本的には一度やってみたらいいという意味での賛成派でございます。間違ったらまたやめればいいしという考えでございます。
 なぜならば、今のこの政治の閉塞状態、森喜朗総理大臣、たまたま個人的に存じ上げていますし、いい方だと思うんですが、ただ、あの人がなぜ首相でいなきゃならないかというフラストレーションがこれだけあふれてしまっているようなことが起きるこの制度は考え直してみる意味があるのではないか。そういう意味で、私の選んだ準大統領という経験をやってみてもいいのではないか。賛成でございます。
○大脇雅子君 飯尾先生は先ほど内閣法制局について言及されまして、行政の補佐というか、の一つとして非常に機能しているんですが、非常に法解釈については強大な権限を持ち続けてきたという歴史的な経過がございまして、GHQの占領時に停止されたのがまた復権をしているわけですけれども、内閣法制局とそれから衆参の法制局とございますが、私は、行政は行政の執行に徹すべきだと、そして立法はやっぱり立法府に属すべきだというふうに思うものですけれども、内閣法制局について何か御意見ございますでしょうか。
○参考人(飯尾潤君) 先ほどの御質問に対するお答えと重なっているわけでございますけれども、やはり行政部に属する官僚、行政官は上司たる閣僚の部下でございますので、その意を酌んでその意図が最大限実現するように努力するのが義務であるというふうに考えますので、内閣法制局が当該の内閣と独立の意思を持つというのはやはり問題であって、技術的なアドバイスをする機関というのが本来の趣旨でございますので、その本来の趣旨に戻るということで問題は解決するはずであるというふうに考えております。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 水野誠一君。
○水野誠一君 ありがとうございました。
 きょうは大変意義の深いいろいろ御意見を伺うことができまして、大変感謝をしております。
 まず小林参考人に御質問させていただきたいと思うのでありますが、先ほど先生のお話の中で参議院の機能の問題というのがございました。これは両先生ともに参議院の機能ということをおっしゃっているわけでありまして、まして先ほど飯尾先生の方からは、政権闘争の場ではない良識の府としての参議院、こういうことを明確にすべきだというお話もございました。全くそのとおりだと思います。
 私は無所属の会という立場でございまして、その政党と参議院というもののあり方というのはこれは非常にやはり大きな議論を呼ぶことではないかなと思っておりまして、私自身たまたま比例代表で選ばれているんですが、私は、むしろ無所属の会の立場として言えば、この比例代表制度というものもまさに政党に非常に、余りにも依拠するところが大きいということから、これは廃止すべきじゃないかと、こんな考え方も持っておりました。
 そんなところから伺いたいと思うんですが、先ほど小林先生が、まず参議院の権能として外交とかそういうものに特化したらいいんじゃないかということと同時に、民選ではない方式、選ぶ方式ということもちょっと触れられたような気がいたしました。これについて、参議院のあるべき選び方、議員の選び方ということではどんなことが必要なのか、いいとお考えなのか、その辺についてちょっとお尋ねをします。
○参考人(小林節君) 衆議院が民選院である以上、特色を出すとしたら非民選にする、すなわち推薦制にしたらと考えます。
 それで、どこで切るかがちょっとわからないんですけれども、首相経験者とか、それから議長、副議長経験者とか、そういう人は当然に、定数も決めずに当然に参議院議員になっていただくとか、それからあとは、よく職能代表院というような議論は世界じゅうで出て実際に成立したことはないわけですが、あれは、御存じのとおり職能の分類自体が星の数ほどありまして、例えば芸能人といってもいろんな芸能人がありますし、会議体である以上ある程度のサイズでなきゃまずいですしというようなことで、職能代表院というのは事実上不能だと思うんですね。
 そうすると、あとは、首相、議長、副議長経験者だけでもおかしい、まあ最高裁長官経験者とかその他は、一見乱暴な言い方なようですけれども、本気で考えておりますのは、元職の国会議員の中からくじ引きで何人とか、それから県知事経験者の中からくじ引きで何人とか、これは互選などというと案外そこでお金が動いちゃったりしても本当に国の恥になりますので、それで勲章の等級が上がるなんという議論もあり得るわけでありまして、本当に元老院、良識の府となるためには、なりたくてなったんじゃないというところが大事だと思うんですね。先生もそうでしょうけれども。
 そういう意味で、あえて、一見不謹慎ですけれども、一定の有資格者のグループの中からくじ引き、あるいは大学の学長経験者だっていいんですよね、それから日弁連の会長をやった人とか。でも、それを全部入れちゃうと人数、生きている限りは多いですからくじ引きで。そんなような形で集まればいいサイズの元老院になるんではないかと思っております。
○水野誠一君 今の同じ質問を飯尾先生に申し上げたいんです、伺いたいんですけれども、先生は選び方としてはどういう方法をお考えですか。これはあくまでも現行のままでいいとお考えなのかどうか、ちょっと一言。
○参考人(飯尾潤君) 現行はやはり少し問題があるのではないかというふうに思っておりますけれども、選挙制度は実は一義的な解答を得ません上に、しかも選挙をやれば御案内のように政党ということはやはり不可欠の要素になりますので、そういう点でいうと選挙のやり方を変えても根本的な解決はできませんが、少し要件を緩和することができるということで、むしろ仕事の内容を変えた方が、選出のやり方を何がベストかということを目指すよりはよろしいのではないか。つまり、選ばれてからそれほど、例えば無理に党議拘束をかけようとしないようなタイプの議論をしておられるとすれば、政党に所属をしておられても採決においては自由であったりということがあって問題の解決に近づくんではないかと考えておりまして、むしろ私自身は、職能代表的なものはこの変動する現代社会においては大変難しい問題をはらんでいるんではないかというふうに考えております。
○水野誠一君 飯尾先生は先ほど、分担管理原則の緩和を含めて、これ、機能の問題といいますか内実の問題であって、必ずしも条文の問題じゃないんじゃないかとおっしゃっていたんですが、この分担管理原則の緩和については憲法条文の書きかえみたいなこともちょっと触れられていたような気がして、私ちょっとそこのところよくわからなかったんですが、これは必要があると、場合によっては必要があるというお考えでよろしいでしょうか。
○参考人(飯尾潤君) これは、現行の条文のままでも解釈が変わって皆さん納得されれば必要ございませんし、それではどうも納得できないということであれば憲法を改正して明確化してもよろしいということでございます。
○水野誠一君 小林参考人に伺いたいんですが、先ほど天皇制についてお触れになりました。確かに、象徴という言葉の解釈といいますか、あいまいさというのがいろんな意味で私も問題があるのかなと。
 そこで、先生はむしろ君主なり元首なりといってもその権限とはイコールではないんだと、ですからそれは問題じゃないんじゃないかというような御議論をおっしゃっている、その点についてはやはりもう少し議論をしてみる必要があるなと思いますが、きょうは時間がないのでもう一つ、先生、論文の中でお書きになっている政教分離の問題というのがございますね。
 これは、確かに大喪の礼でも非常に、鳥居をつけたり取り払ったりという非常に不思議な行為を我々は見ていて、素朴な疑問として我々もそういう感じを持ったわけでありますが、海外の憲法、外国の憲法において政教分離の問題の取り扱いというのはどうなっているのか。それから、先生おっしゃるように明文例外ということで問題が解決できるものなのか。この二点についてちょっとお尋ねしたいと思います。
○参考人(小林節君) 海外と言われても、今私が責任を持って言えますのはアメリカのことなんですけれども、ただ、ヨーロッパのしくじり、中世ヨーロッパのしくじりを経験してはじき出された人々がつくった国アメリカで、政教分離という原則がまさに磨き上げられてありますので、我々もそれを継受しておりますので、その点で申し上げますと、ただアメリカは判例法国ですから、最高裁の憲法判例が憲法改正と同等の力を持つという意味で、原則はぼさらんと普通のことしか書いてないんですけれども、国教の禁止しか。
 ただ、あの判例の中で、それ以前からの歴史的慣行で、例えば議会で牧師が開会のときなんか祈るとか、そういう国民生活の中で公的に用いられてきた宗教行為はまさに例外として、特則として受容、許容した上での原則なんだという原則があるわけです。
 そういう観点からいけば、天皇制が好き嫌いは別として神道の体系であるわけですから、あの天皇制を残すよと憲法制定で決断した以上、神道の儀式に違憲性はないんですね。だから本当に変な言い方ですけれども、大喪の礼で鳥居を外したら昭和天皇陛下は、成仏という言葉変ですけれどもあえて崩して使います、成仏してないんじゃないかと。こういう不自然なことはしないでも説明がつくと考えます。
 以上でございます。
○水野誠一君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 平野貞夫君。
○平野貞夫君 最初に小林先生にお尋ねします。
 小林先生には新進党時代、憲法調査会つくりまして御指導を受けまして中間報告をしまして、今自由党がそれを継承しております。御世話になりました。
 そこで、国民主権といえばやっぱり一番最大のものは国民の憲法制定権、あるいは改正権だと思います。
 御承知のように、我が国ではその一番大事な国民主権を行使する制度が整備されてない、憲法の私は欠陥だと思いますが、そのことについて、これは国会の責任だと思うんですけれども、小林先生の御所見をまずお伺いしたいと思います。
○参考人(小林節君) この点は、私、先生としばしば話し合わせていただいたんですけれども、結論として本当に国会の怠慢だと思います。憲法調査会がなかったことも怠慢だと思っていました。
 つまり、抜けない刀にしていたようなものでありまして、やはりしょせん戦後の混乱期に神ならぬ不完全な人間がつくった憲法ですから、時代状況の中で使い勝手が悪くなることは当然予測できたわけですから、そういう意味でそのときに改正する権限が九十六条にある以上、それを発動できる手続を用意しておくというのは、つまり裁判所はありますよ、でも訴訟法がありませんというようなもんでありまして、これはやはり国会の準備不足の怠慢であると思います。
○平野貞夫君 飯尾先生に政治学者の立場からひとつ御所見をお聞きしたいんですが、先般、衆議院で内閣不信任案が否決されました。内閣不信任案といえば、これは憲法行為そのものでございますし、国民主権をどう国会の場で具現するかという本当に議会政治の根本だと思いますが、内閣不信任案を否決して、そして総理大臣を引きずりおろそうと事実上している動き、これは私、非常に、一体国民主権というものが果たして憲法上機能しているかどうかということを非常に危惧しておるんですが、憲法論、法律論上はいろいろな言い方があると思いますが、政治学的にこういう現象をどのように先生御理解して、どのような御所見をお持ちでしょうか。
○参考人(飯尾潤君) ただいま御指摘の点は、そういうことがあるかどうか十分に承知しておりませんけれども、そういうことがあるとすると大変残念なことである。やはり総選挙で内閣総理大臣を選んでいくというのは議院内閣制を機能させる一番重要なポイントでございますので、内閣総理大臣交代ということがあれば、まずやはり解散総選挙というのはやはり筋からいって十分当然のことでありますし、さらにそういうことを避けるために不信任案を否決するということであれば、やはり責任を持って支えるというのが重要な与党側の職務だというふうに考えております。
○平野貞夫君 そういう意味で、私は最近特に憲法の健全な機能が果たされてないということを非常に危惧しております。
 そこで、その話題になっております首相公選論についてちょっと触れてみたいと思いますが、実は昨夜、高知新聞の主催で高知県関係者の国会議員十名、自民党の先生方衆参五名、民主党の先生二人、共産党の先生一人、それから私と、十人で首相公選制をどう思うかという大討論会を二時間やりました。三月二十日の紙面に載せるそうですが。
 その中で、当初五分ずつ意見を開陳しましたところ、七人が賛成、三人が反対。そして議論の後ディスカッションをしまして、私は慎重論、反対論でございますので、説得する議論を展開しました。
 私が説得しましたのは、一言で首相公選制といってもいろいろあるわけでございます。ところが、世論調査で出てくるのはただ首相公選制ということで、例えば中曽根先生が若いころおっしゃっていたのは選挙を使った独裁制の確立なんですよ。それから、事実上の大統領制というのもありますし、それからイスラエル型の議院内閣制の首相公選というのもありますし、そのほかにもあると思いますが、さまざまな形があるのを一緒くたにして首相公選制賛成か反対かというので、八二%朝日新聞でも支持率があるわけですが、私は極めて危険なものであるので、ついどんどん議論したんですが、二人納得してくれまして、最終的には五対五になったんですが、その五人の人の主張は小林先生と同じ主張でございまして、いろいろ問題があってもこのシステムじゃどうしようもないから一回やってみたらどうかというのが五人の意見で、この方たちは説得ようしなかったんです。
 非常に私、困ったことだと思っておるんですが、もう少し首相公選制の具体的な問題提起に、内容に伴う議論をひとつ憲法学者の小林先生にも政治学者の飯尾先生にもお願いをしておきたいんですが、あと一分ぐらいちょっと時間がございますので、ちょっと感想をお二人にいただければありがたいんですが。
○参考人(小林節君) 今の先生の御下問につきまして近日中に活字にして発表させていただきます。その上で議論をまたさせていただきたいと思っております。
 以上です。
○参考人(飯尾潤君) 感想ということでございますので一言申し上げますと、憲法上、国会議員の権能の中に、立法とともに行政権、特に衆議院議員の場合は行政権を樹立するという権能がございますので、まさによい行政府を立てなければならない国会議員の方がその責任をどうも果たし得ないとみずから告白されるがごとき御主張は極めて残念なものだと考えているということを申し上げて終わりたいと思います。
○会長(上杉光弘君) 西川きよし君。
○西川きよし君 本日は御苦労さまでございます。
 私は、本日初めてこの調査会に参加をさせていただきまして、実はピンチヒッターでございますが、よろしくお願い申し上げます。
 憲法について全くの素人でございますが、憲法を論ずるということになりますと、素人にとっては何か近寄りがたいと申しましょうか、特に専門家の先生方の特定の分野であって、我々余り近寄りがたいと申しましょうか、正直なところ、そういうふうに思っております。
 そこでお伺いしたんですけれども、少し、憲法学者さんとお聞きしますと、きょうはかなり、何といいましょうか、日ごろの委員会とは少し違った緊張をいたしておりますが、大衆とかけ離れた存在のような印象を失礼ながら持っております。そんな中で本日両先生のお話をお伺いすることができて大変幸せだと思っておりますが、先生方がお書きになられた資料を拝見いたしまして、少し予習をさせていただきました。
 そして、たまたまその資料の中ですけれども、小林先生がお書きになられました中で、九九年十一月、「灯台」というタイトルが目に入ってまいりまして、その中で「風雪に耐えた母」、読ませていただきました。私も、お母様、風雪に耐えた母とか父とか家族とかということに私自身も大変弱いものでございますので、早速国会図書館でコピーをいただきましてそちらを読ませていただきました。先生の幼いころの出来事やお母様やお父様への思い、本当に正直に僕の心に熱く伝わってまいりました。そして改めて、子供にとって親、兄弟、そして家族の愛情がどれほど大切なことかということも認識をさせていただきました。そしてまた、そうした幼いころからお感じになられたさまざまなことが、今大変なそういうお仕事をなさっていく中で大きな影響を受けられたのだなというふうに私自身感じました。
 そこで、両先生に短い時間ですけれどもお伺いしたいんですけれども、一般大衆の中で憲法を考えるとか論じるということについて、どのような意味があるのかとお考えであるのか。
 また、例えば中学校の学習指導の内容では憲法の基本的な考え方を中心に理解させることは必要とされておりますが、条文の解釈などには深入りをしないようにとされております。現在、学校教育のあり方が大変大きく問われているところでありますけれども、この子供の教育、大変大切な部分ですが、この子供の教育における憲法についてのこの指導のあり方、本日両先生にぜひお伺いしたいなと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
○参考人(小林節君) 大学の教授にとっては大変難しい御下問なんですが、ただ、私もいろんなところで講演とかシンポージアムとか参加いたしますが、例えば私が私であるということはかけがえのない一つの事実でありまして、それを国家が規格にはめようとしない仕組みをこの憲法が保障してくれている。つまり、表現の自由というのはすべての人がだれでもないこの私が言いたいことを言える自由であり、それから信教の自由はだれでもないこの私が神様、仏様、選んだり選ばなかったり自由にできる、こういう我々の日常生活そのものに憲法がかかわっている。つまり、私が私であってあなたがあなたであることをお互いに尊重し合うということなんですよというのが人権論だと思うんですね。それから、権力というのは我々にサービスをしても意地悪もしてはいけませんというようなことですね。
 つまり、我々が幸福に生きるための道具としての国家機関がきちんと機能するように管理する道具が憲法でありますから、そういう意味で子供たちにもわかる話で、非常に自分たちの日常生活そのものにかかわるものだということを、条文見せると途端に拒否されますので、先生のその語り口で、発言力ありますから、なさっていただけたらこういう議論はもっと広がるのではないか、参考までに申し上げます。
 とりあえず、以上でございます。
○参考人(飯尾潤君) 今のお話と変わるところはないのでございますが、今、西川先生から素人であるとおっしゃいましたけれども、まさにしかし憲法と日々接しておられるわけでございます。そういう点からいうと、憲法というのは代表者を立てて政府を立てている一般の庶民、国民が政治家の方に託するお約束の一つでございますので、まさに難しい条文ではなくて、そういうものをかみ砕いて行動として生きた憲法を示して、その姿がまた例えば学校教育に使われるというふうなタイプで、もう少し条文で理屈から入るのではなくて、実際のあり方から憲法の姿がわかるような、そういうふうなことで国民がもっと憲法のことを深く理解するという状況になればもっとよろしいんではないかというふうに考えております。
○西川きよし君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) よろしいですか。
○西川きよし君 はい。ちょうど時間になりましたので、終わります。
○会長(上杉光弘君) 時間が参りましたので、本日の質疑はこの程度といたします。
 参考人の先生方には大変貴重な御意見を時間のない中でお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。(拍手)
 次回の調査会は三月十四日午後一時に開会することとし、本日はこれにて散会いたします。
   午後二時五十八分散会

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