第154回国会 参議院憲法調査会 第2号


平成十四年二月二十七日(水曜日)
   午後一時一分開会
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   委員の異動
 二月二十一日
    辞任         補欠選任
     岩本  司君     大塚 耕平君
 二月二十七日
    辞任         補欠選任
     大脇 雅子君     福島 瑞穂君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                市川 一朗君
                加藤 紀文君
                谷川 秀善君
                野沢 太三君
                江田 五月君
                高橋 千秋君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                景山俊太郎君
                木村  仁君
                近藤  剛君
                斉藤 滋宣君
                陣内 孝雄君
                世耕 弘成君
                中島 啓雄君
                中曽根弘文君
                服部三男雄君
                福島啓史郎君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松山 政司君
                大塚 耕平君
                川橋 幸子君
                小林  元君
                角田 義一君
                直嶋 正行君
                堀  利和君
                松井 孝治君
                柳田  稔君
                高野 博師君
                山口那津男君
                山下 栄一君
                宮本 岳志君
                吉岡 吉典君
                田名部匡省君
                松岡滿壽男君
                福島 瑞穂君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       近畿大学法学部
       教授       佐藤 幸治君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (国民主権と国の機構)
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○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「国民主権と国の機構」について近畿大学法学部教授の佐藤幸治参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、佐藤参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。本調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、まず佐藤参考人から三十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑に答えていただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員とも御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、佐藤参考人お願いいたします。佐藤参考人。
○参考人(佐藤幸治君) 佐藤でございます。本日、お招きいただきまして、大変光栄に存じます。座ったままで報告させていただきます。
 お手元に、簡単なレジュメでございますけれども、その順番でお話し申し上げたいと思います。
 昨年の六月十二日に内閣に提出されました司法制度改革審議会の意見書の第一章、「今般の司法制度改革の基本理念と方向」の冒頭に次のように述べられております。
 民法典等の編さんから約百年、日本国憲法の制定から五十余年がたった。当審議会は、司法制度改革審議会設置法により託された調査審議に当たり、近代の幕開け以来の苦闘に満ちた我が国の歴史を省察しつつ、司法制度改革の根本的な課題を、法の精神、法の支配がこの国の血肉と化し、この国の形となるために、一体何をなさなければならないのか、日本国憲法のよって立つ個人の尊重、憲法第十三条と国民主権、前文及び一条が真の意味において実現されるために何が必要とされているのかを明らかにすることにあると設定した。
 ここに我が国の司法制度、否、我が国社会の在り方そのものにかかわる根本的な課題が示されているように思われるわけであります。
 そこで、Ⅱの「日本国憲法と司法権」の方に参ります。
 最初のところに、やや古い文体でありますけれども、「三條太政大臣より岩倉外務卿への諮問」を紹介しております。「渙散せし国権を復し、制度法律駁雑なる弊を改め、専ら専断拘束の余習を除き、寛縦簡易の政治に帰せしめ、勉めて民権を復することに従事し、漸く政令一途の法律同轍に至り、正に列国と並肩するの基礎を立たんとす」。これは、その文体を別とすれば、今読んでも今日的な課題性を思わせる内容の文章のように思われます。
 ちなみに、最近聞いた信頼すべき知人の話によれば、世界の有識者の意識調査で日本の国社会の透明度はインドネシア並みに位置付けられているそうであります。
 ともあれ、このような問題意識の下に、我が国は欧米列強の国家体制の在り方を視察研究し、その成果を踏まえて明治憲法を制定し、諸法典の編さんを企てて、そして近代法治国家の体裁を整えて激動する国際社会に乗り出したわけであります。
 これは、この大変革に臨んだ当時の人たちの苦闘は想像するに余りありますが、一国の社会の体質は一朝一夕で変わり得るようなものではないということは確かなことのように思われます。この近代化は言わば上からの近代化であり、言われるところの法治国家に言う法は統治の手段としての性格が濃厚であったように思われます。
 明治憲法は、御承知のように、神権的国体観念を基礎としつつも、立憲主義的要素を導入し、三権分立構造を取り入れました。しかし、その三権分立は翼賛権限の分立であり、行政に圧倒的比重を置いておりました。行政権者は天皇でありまして、内閣も、御承知のように、内閣も内閣総理大臣という存在も内閣官制上のものにすぎませんでした。
 後で御質問があれば御説明いたしますけれども、このような体制の下でいわゆる各省割拠主義体制が現出し、権力は次第に部分部分に解体していきました。厳しい難局に的確に対応し得ず、あの悲劇的な戦争に突入していくことになったわけであります。
 立憲主義的要素の下で、帝国議会の協賛によって成立する法律による行政、法律による裁判の意義が説かれました。しかし、行政に圧倒的比重を置く体制の下で、行政あるいは統治の手段ないし方便としての法律観が根強く、結局のところ、形式上法律によりさえすればといった法律万能主義的な形式的法治国家が帰結されました。そして、司法権は民事、刑事の裁判に限定され、また、司法権の独立の意義が説かれたとはいえ、裁判所は人事、予算等の面で司法省のくびきの下に置かれておりました。
 「日本国憲法と「法の支配」」の方に参ります。
 明治憲法制定から約半世紀後、敗戦、そして外国の軍隊による占領という未曾有の事態の下で、日本国民は、国民主権と個人の尊重を基礎とする基本的人権の保障とを核とする日本国憲法を制定し、統治構造と法制度の抜本的な変革を試み、混乱と窮乏の中から再生の道を歩み出したのであります。
 この明治憲法から日本国憲法への転換の中で特筆すべきは、御承知のように、天皇主権から国民主権へ、それから臣民の権利から個人の基本的人権へということと並んで、法治国家から法の支配へという転換が特筆すべきものかというように思います。
 英米法学者にして後に最高裁判所裁判官を務められた伊藤正己氏は、次のように述べられたものであります、これは昭和二十年代の記述でありますが。
 法の支配、ルール・オブ・ローの原理は、言うまでもなく英米憲法、否、英米法全体の中核を占める伝統的な原理である。この原理的な意味での法の支配は日本国憲法の根底に脈打っており、我が憲法はこの原理が日本国民の信念と化することを期待していると言ってもよい。司法権に対して払われる尊敬と信頼、基本的人権の絶対的とも言えるまでの保障、憲法の最高法規性の強調のごときは、その具体的な表れであろう。人の支配、権力の優位を否定する法の優位の思想が日本国民の血肉と化したときこそ、この憲法の真に実現されたときであり、それが理想とする立憲民主政の完成したときであると言ってもよい。
 こうしたとらえ方は、独り伊藤氏にとどまらず、当時の多くの論者によって取られたところであります。
 それでは、法治国家と法の支配とはどこが違うのでしょうか。
 法治国家なる観念は言うまでもなく歴史的に変遷しておりまして、法の支配なる観念も、そしてまた法の支配なる観念も必ずしも一義的ではありません。多分に定義上の問題といった趣がないではありません。しかし、歴史発生的に見れば、法秩序形成観の上で両者は無視し得ない違いがあることは否定できないように思います。
 やや、以下はクリアカットに両者の違いを際立たせるように説明しますけれども、次のようになるかと思います。
 まず、ドイツ的法治国家観は、社会をカオスと見て、それに対して国家が理性の発露たる抽象的、一般的法規範の定立によって秩序付けるというものでありました。完結した論理的法体系を措定し、演繹的に具体的な規範を引き出して事を処理する。これを可能とするのは、全体性、画一性を備え、能動的に活動する組織であります。全体性、画一性、能動性、組織性というものがこの秩序形成観の特質であります。垂直下降型秩序形成あるいは行政型秩序形成と言ってもよいかもしれません。ちなみに、違憲立法審査権についての憲法裁判所型は、この秩序形成観の産物であると言ってよいかと思います。なお、この秩序形成にあっては、害悪発生の予防、事前調整ないし事前規制が重視される傾向があると言えるかと思います。
 それに対して英米的な法の支配観は、裁判所における具体的事件、争訟の適正な解決を通じて形成される法の意義を重視するところに特質があります。国民は専ら、行政あるいは法客体として存在するのではなく、法形成への国民の主体的、能動的参与を重視するわけであります。対等な当事者間の具体的事実に即した対話的討論を通じて法形成をすると、これを法秩序の重要な要素と見るところに特質があります。つまり、議会を中心とする政治のフォーラムと並んで裁判所を中心とする法原理のフォーラムを個人の権利、自由を維持する上で極めて重要なものと考えるわけであります。
 ちなみに、付随的違憲審査制はこの秩序形成観の産物であります。なお、この具体的事実重視は事後規制に比重を置く法秩序を帰結します、傾向としてですね。
 国際政治学者の中西寛氏は次のように述べておられますけれども、これも法の支配を理解する上で示唆的かと思います。
 紹介しますが、英米法における法の支配の特徴は、法と政治の密接なつながりである。それゆえに、立法者と法をつかさどる者とは近しい関係にある。英米世界の特徴は、政治的行為が法的に表現される一方で、法律の解釈が法の源泉にある政治を無視しないことである。このつながりによって、法が普遍的でありかつ公平を実現することが目指されると同時に、柔軟さと事例ごとの判断を許すのである。英米法のこうした特徴が、イギリスに見られるように、特定の憲法典なしに憲法体制を持つことを可能にしたのである。しかし、その特徴は、憲法典を持つ国家、アメリカやオーストラリアなどにも共有されるのである。要するに、それは、憲法典のあるなしではなく、法と政治の関係についての思考法の問題であり、行政を中軸とした政治と法を截然と分けようとする大陸法が前提とする国家観とは異なる前提に立つものなのであると。
 「司法権の内実と範囲」の方に参ります。
 日本国憲法は、このような法の支配の観念を基礎として、「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。」というように規定いたしました。ここに言う司法権の意義についてはさまざまな見解がありますが、私は事件争訟性を中核的要素ととらえつつ、次のように理解しております。
 すなわち、司法権の独自性は、公平な第三者、裁判官が関係当事者の立証と推論に基づく弁論とに依拠して決定するという、純理性の特に強く求められる特殊な参加と決定過程たるところにあり、これに最もなじみやすいのは、具体的紛争の当事者がそれぞれ自己の権利義務をめぐって理を尽くして真剣に争うということを前提にして公平な第三者たる裁判所がそれに依拠して行う法原理的な決定に当事者が拘束されるという構造であり、そしてこの法原理的に決定された権利に対して実効的救済を与えるというところに司法権の役割があるということであります。
 法の支配の理念として重要な点は、法の下ではいかなる者も平等、対等であるということであります。政府とて例外ではありません。明治憲法下の司法権とは違って、日本国憲法下の司法権には民事、刑事の裁判権のほか、行政裁判権も含まれるとされたのはその当然の帰結であります。また、この法には憲法も含まれ、裁判所が司法権を行使するに当たって違憲立法審査権を持つということも当然の帰結でありまして、憲法八十一条はその当然の帰結を明示したものというように解されるわけであります。
 司法制度改革審議会の意見書は次のように述べております。「法の下ではいかなる者も平等・対等であるという法の支配の理念は、すべての国民を平等・対等の地位に置き、公平な第三者が適正な手続を経て公正かつ透明な法的ルール・原理に基づいて判断を示すという司法の在り方において最も顕著に現れていると言える。それは、ただ一人の声であっても、真摯に語られる正義の言葉には、真剣に耳が傾けられなければならず、そのことは、我々国民一人ひとりにとって、かけがえのない人生を懸命に生きる一個の人間としての尊厳と誇りに関わる問題であるという、憲法の最も基礎的原理である個人の尊重原理に直接つらなるものである。」と。
 三節の方に参ります。司法権の制度的基盤であります。
 冒頭に、三淵忠彦初代最高裁長官の言葉を引用しておりますが、「裁判所は、真実に国民の裁判所になりきらねばならぬ。国民各自が、裁判所は国民の裁判所であると信じて、裁判所を信用し、信頼するのでなければ、裁判所の使命の達成は到底望み得ないのであります。」。これは昭和二十二年、初代長官がその船出に当たって読み上げたメッセージであります。占領下の慌ただしい政治状況下にあって、ともかく長年の懸案であった司法省のくびきから脱するという課題を果たし、組織の一新を図った裁判所が行政裁判権と違憲立法審査権という新たな権限を手中にして出発した当時の意気込みをよく示しているように思われます。
 ここで、もうるる申し上げることは控えますが、日本国憲法及びその趣旨を受けて制定された裁判所法は、司法権の十全なる行使を確保すべく、その制度的基盤を強化するための様々な工夫を凝らしました。
 すなわち、司法府の独立と裁判官の職権行使の独立を確保すべく意を用いる。これは例えば最高裁の規則制定権、司法行政権あるいは独立予算制度とか裁判官の身分保障等々であります。
 その一方で、司法府、裁判官が国民から遊離せず、国民的基盤に立って国民の信頼を得られるような工夫を凝らすことも忘れませんでした。これは御承知のように最高裁裁判官の国民審査、あるいは下級裁判所裁判官の任期制、あるいは裁判官の給源の多様性、多元性等々であります。
 それからまた、憲法は、明治憲法とは違って、弁護人、弁護士について言及しておりまして、司法における弁護士の役割の大きさを暗示しているかのごとくであります。
 昭和二十二年、司法修習制度とそれを所管する司法研修所が発足し、二十四年から現在の新しい司法試験が行われるようになりました。かくして法曹の入口における法曹一元が実現したわけであります。司法試験合格者数は二百数十人から次第に増加し、昭和三十九年には五百人台に達しました。
 司法制度の課題の方に移ります。
 昭和三十年代は、御承知のように様々な制度の見直しが行われた時代であります。が、その多くは具体的成果を見ませんでした。そして、日本は高度経済成長に向けてばく進することになります。
 司法の場合も例外ではありません。昭和三十七年に臨時司法制度調査会が設けられ、司法制度の運営の適正を確保するためとして、主として法曹一元の制度、この法律の定義によれば、これは、「裁判官は弁護士となる資格を有する者で裁判官としての職務以外の法律に関する職務に従事したもののうちから任命することを原則とする制度」というのがこの法律に言う法曹一元の制度であります。その問題と、それから裁判官及び検察官の任用制度及び給与制度に関する事項について調査審議いたしました。そして、昭和三十九年に答申を出したわけでありますが、結局はうまくいきませんでした。
 この昭和三十九年は、さきに述べましたように、司法試験合格者数がようやく五百人台に達した年なのです。けれども、その後は増えず、五百人前後の数字が何と平成二年、一九九〇年まで続くことになります。そして、法の支配という言葉も次第にその輝きを失ってまいりました。その結果が、二割司法とか小さな司法と言われる事態であります。
 いわゆる二割司法とは、その説の代表的論者によれば、日本の司法は本来の役割の二割しか果たしておらず、あとの八割は泣き寝入り、政治決着、暴力団による解決やごね得、あるいは行政指導というものであります。
 ちなみに、法曹人口は平成三年からようやく増加に転じ、平成十一年には一千人に達しました。法曹人口の総数は、平成十一年の数字で二万七百三十人であります。法曹人口一人当たりの国民の数は、約六千三百人です。国際比較をしますと、アメリカが法曹人口一人当たり約二百九十人、イギリスが七百十人、ドイツが七百四十人、官僚国家と言われるフランスでさえ千六百四十人であります。
 なぜ、こういう事態になったのでしょうか。これについては様々な説明があり得るかと思いますが、私はその大きな背景として、我が国社会の在り方が行政に圧倒的比重を置く体制であったということ、そして明治憲法下はもとより、日本国憲法下になってもそれは基本的には変わらなかったのだということではないかと思っております。
 主役は行政、端的に言えば行政各部、各所であり、行政各部は言わば教育ママのように国民の面倒を見、国民は教育ママに頼ると、比喩的に言えばそういうことであります。そして、司法は全くの脇役であり、いわゆる法曹関係者もその小さな殻に閉じこもってしまったのではないかというように思うわけであります。
 裁判所が三権の一翼を担う存在であることを端的に示すものは、行政裁判権と違憲立法審査権であろうかと思います。つまり、裁判所は、行政、立法に対するチェック機能を担い、国民の権利、自由の保障を最終的に担保する役割を期待されたわけであります。
 しかし、裁判所が果たしてこれらの役割を十全に果たしているのかどうかについては、これまで消極的な評価が少なくありませんでした。例えば、先ほど触れた伊藤元最高裁判所裁判官は、我が国における理想的な裁判官像は、ヨーロッパ大陸におけるのと似て、顔のない裁判官、共通した画一性のある裁判官職の持つ良心に従って、できるだけ没個性的な裁判をする裁判官のうちに求められており、こうした大陸型の官僚裁判官制度を取るところでは、個性的判断を要求される憲法裁判に積極的態度を望むことはいささか無い物ねだりの感じがするし、多彩な経歴を持つ裁判官をもって構成される最高裁にあっても、それはまず民事、刑事の通常事件の処理するに適任の者であらねばならないから同じような理想のイメージが働くように思われるというように述べられまして、そしてこう言われます。憲法保障制の現状を不満足と考えるとすれば、通常の事件の最終審は官僚裁判官制を前提とする最高裁としつつ、憲法裁判はそれとは別の憲法裁判所にゆだねる大陸型の方が望ましいのではないかと示唆されたわけであります。英米法学者でもある伊藤元裁判官の主張であるだけに、学界に大きな衝撃を与えました。
 Ⅳ節と言いますかⅣ章の方へ、時計文字のⅣの方に入ります。
 そこに司法制度改革審議会の意見書を引用しております、冒頭に。
  法の精神、法の支配がこの国の血となり肉となる、すなわち、「この国」がよって立つべき、自由と公正を核とする法(秩序)が、あまねく国家、社会に浸透し、国民の日常生活において息づくようになるために、司法制度を構成する諸々の仕組みとその担い手たる法曹の在り方をどのように改革しなければならないのか、どのようにすれば司法制度の意義に対する国民の理解を深め、司法制度をより確かな国民的基盤に立たしめることになるのか。
 意見書は、我々がこれまで取り組んできた政治改革、行政改革、地方分権推進、規制緩和等の経済構造改革等、
 諸々の改革の根底に共通して流れているのは、国民の一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画し、この国に豊かな創造性とエネルギーを取り戻そうとする志であろう。
というようにとらえるとともに、
 今般の司法制度改革は、これら諸々の改革を憲法のよって立つ基本理念の一つである「法の支配」の下に有機的に結び合わせようとするものであり、
 「この国のかたち」の再構築に関わる一連の諸改革の「最後のかなめ」として位置付けられるべきものである。
というように述べております。
 一連の諸改革に関連して、過度の事前規制・調整型社会から事後監視・救済型社会への転換ということがよく言われてまいります。要するに、それは教育ママ的行政依存型社会から自律的個人を基礎とするより自由で公正な社会、ルール依拠型社会への転換を図ろうとするものではないかと思われます。
 これを可能とするためには、その受皿といいますか、それ相応の社会的インフラを整備することがどうしても必要であります。そうした受皿、社会的インフラの中核にあるのは司法、法曹であるというように考えるわけであります。意見書は、法曹をもって国民の社会生活上の医師と位置付けていますが、国民はそうした医師をもっと身近に持ち、生きていく上で直面する様々な問題についてもっと容易に相談できるようにならなければならないと思います。
 一連の諸改革、なかんずく政治改革、行政改革は、政治の復権、つまり統治者、お上としての政府ではなく、国民の政府の確立を目指そうとするものだと私は理解しておりますけれども、そして、さきに我が国は従来行政主導、さらに言えば各省主導、各省割拠主義体制で運営されてきたと申しました。冷戦構造の下で高度経済成長に専念し得た時代にはそれでもよかったのかもしれません。しかし、冷戦構造が終わりグローバル化が進展し日本の高度経済成長も終わりました。こうした時代環境にあって総合戦略、総合調整力、機動性そして責任性といった政治の役割が非常に大きくなってきていると考えるわけであります。
 昨年一月、中央省庁が再編されましたが、その最大のねらいは政治の復権を図ること、内閣主導体制を確立することにあったというように理解しております。従来は、内閣を行政各府の方に追いやり、そうした行政、内閣と国会との分立を貫くというものでありましたが、むしろ国民、国会と内閣との一体化を図り、その内閣が行政各部の専門性、企画力を生かしつつ、それをコントロールするという構図であります。こうした構図にあっては、内閣と国会における与党との緊密な関係が必要となるとともに、国会における野党の役割が極めて重要になります。と同時にまた、司法の役割が極めて重要になることを強調しておきたいのであります。
 政治の復権と申しましたが、政治は多数決で物が決まる場、最終的には力が物を言う場です。したがって、政治をチェックする仕組みを用意しておかなければなりません。言ってみれば、エンジンを強化すると同時によく利くブレーキも用意しておかなければなりません。ここに司法のプレゼンスを高めなければならないもう一つの理由があるというように考えております。
 で、意見書は、司法制度改革の方策として、次の三つを掲げております。
 一つは、国民の期待にこたえる司法制度の構築、制度的基盤の整備であります。国民にとって、より利用しやすく、分かりやすく、頼りがいのある司法とするために、国民の司法へのアクセスを拡充するとともに、より公正で、適正かつ迅速な審理を行い、実効的な事件の解決を可能とする制度を構築するということであります。時間の関係上、その具体的な中身については省略させていただきまして、後で御質問があればお答えすることにいたします。
 それから二番目は、司法制度を支える司法の在り方、人的基盤の拡充であります。高度の専門的な法的知識を有することはもとより、幅広い教養と豊かな人間性を基礎に十分な職業倫理を身に付け、社会の様々な分野において厚い層を成して活躍する法曹を獲得するということであります。
 制度を生かすもの、それは言うまでもなく人であります。今回の司法制度改革の根幹中の根幹は、この人をいかにして、質量ともに豊かな人をいかにして得るかというところにこのたびの改革の最も基礎的な問題がある、改革の方向があるというように考えております。
 それから三番目でありますが、国民的基盤の確立、国民の司法参加です。国民は、一定の訴訟手続への参加を始め各種の関与を通じて司法への理解を深め、これを支えるというものであります。これも細部には入りませんが、御質問があれば後でお答えさせていただきます。
 裁判員制度、刑事事件についてでありますが、裁判員制度の導入を中核とする参加制度の仕組みを提唱しております。
 終わりにとしますが、和辻哲郎氏は、戦前、日本人は秩序を所与のものと考える傾向が強いということを言われました。我々は、日本国憲法下になっても、自らの力で豊かな公共性の空間を築く努力にやや不足するところがあったように思われてなりません。国会、内閣を中心とする政治のフォーラムと、裁判所を中心とする法原理のフォーラムは、この公共性の空間を支える二本の柱でありまして、政治改革、行政改革、司法改革等はこの二本の柱を何とかよりしっかりしたものにしようとする試みであるというように理解しております。
 昨年六月十二日、意見書を内閣に提出した際、小泉総理は、司法改革を国家戦略として位置付け、意見書を最大限尊重して取り組むというお話をなさいました。
 「この司法制度改革を含む一連の諸改革が成功するか否かは、我々国民が現在置かれている状況をどのように主体的に受け止め、勇気と希望を持ってその課題に取り組むことができるかにかかっており、その成功なくして二十一世紀の展望を開くことが困難であることを今一度確認する必要がある。」という意見書の一節を引用して結びにしたいと思います。
 どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終わりました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。愛知治郎君。
○愛知治郎君 私、愛知治郎は、自由民主党・保守党を代表しまして、質問をさせていただきます。
 本日は、大変お忙しい中にこの調査会、当調査会においでいただきまして、本当にありがとうございます。また、私自身としても、先生に……
○会長(上杉光弘君) 座ってどうぞ、愛知君。
○愛知治郎君 はい。あいさつなので。
 先生のお話をお伺いできるということで、大変光栄に思っております。
 では、座らせていただきます。
 時間の関係もありますので、三点大きくお伺いしたいと思います。
 まず第一に、我が国の違憲審査制について、それから第二に法曹の在り方について、時間の関係ですが、時間があればまた立法とのかかわりについてお伺いしたいと思います。
 まず、最初の違憲審査制についてですが、この国においては一般に付随的審査制と言われておりますが、この付随的審査制について、この制度は個別具体的係争事件においてより掘り下げられた深い議論の下で司法の審査が行われるという点で大変優れている、また特に立法過程においてでは、私たちがやっているんですが、その立法作業において抽象的議論にならざるを得ない、そういった立法の側面を補完するという意味でもこの制度は優れているものだと私自身は考えております。
 この制度について、憲法裁判所を置いて抽象的審査をするという説もありますが、この点で、違憲判断が頻繁に行われるなど政治の停滞を招いてしまうとか、あとは政治的判断を迫られてしまう、逆にその重要事項について裁判所に政治的判断を求めてしまうという危険性、またこうやって抽象的判断をすると、人権保護より、先ほどおっしゃられましたが、秩序維持の方向に走りやすいという問題点もありますので、私自身は、付随的審査制、非常に優れた制度だと考えております。
 しかしながら、現在の日本においてはこの付随的審査制というのが余り機能していないという批判がありますし、私自身もそう感じております。特に、違憲判断、最高裁においてはほとんど数えるほどしかなされておりませんし、立法への敬意を払っているという考え方もあるんですが、余りにも消極的過ぎるんじゃないか。また、手続上、時間がかなり掛かり過ぎるんじゃないか。これは最高裁の機能的な問題だと思うんですが、ちょっと時間が掛かり過ぎる。また、判断において、具体的事件性を扱うにもかかわらず具体性がちょっと足りないと感じられるのですが、このような現状の問題がたくさんあるんですが、ここで質問させていただきたいんですが、この現状行われている付随的審査制を十分に機能させるために、現実的に取り得る方法として先生がお考えの方法、考え方をお聞かせください。
○参考人(佐藤幸治君) お答えいたします。
 今御指摘の点、その付随的違憲審査制というのは、具体的な事実に即して判断する、そこに我々の、立法するときに分からない問題に直面して、その具体的な事件のコンテクストの中で憲法規範の意味を探り出していくというところに優れた特質があるという点は、私も全くそのとおりであるというように思っておりまして、憲法裁判所を導入するというのは、戦後、日本国憲法で、先ほど申し上げたように、法の支配という考え方を導入したのに、また違った、まあ言わば御承知のように日本は明治憲法が大陸法体系でありましたが、そこに憲法のところで英米法的な発想を持ってきたのに、また再び別の発想を接ぎ木するということになって、私個人としては今の付随的審査制を基本に考えるべきではないかというように思っております。
 今のお尋ねの点でありますが、私自身はこういうように考えております。
 現在の最高裁は十五人で、しかも最高裁は非常にたくさんの、三千件、四千件の事件を抱えております。これは、明治憲法下の大審院の機能にプラスして行政裁判権も持つ、違憲審査権を持つということになったわけでありまして、非常にたくさんの仕事をこなさなければならない。そういう中で、ともすると違憲審査権というのはややしんどい作業だということになっていて、どうしても消極的になる傾向があるというように思われるのであります。
 一つの方法は、これは実は昭和三十年代の初頭に試みられて、衆議院の解散になってお流れになったわけでありますけれども、中二階案という案が一度議論されたことがあります。つまり、通常の上告事件は、最高裁判所の中に設けますけれども、いわば中二階の裁判所に行わせて、そして本体の最高裁判所は九人の判事で構成して、そしてその九人の裁判官に憲法問題事件始め重要な問題を扱わせるというそういう構想でありました。
 そういう方法もあると思いますけれども、更に現行の制度を前提にしてどういう方法があるかといえば、現在、事件はすぐ小法廷に行きまして、これ大法廷に上げるかどうかを小法廷で考えるわけでありますが、むしろこれを逆にして、大法廷がまず受理して、そして自分でやれる事件を、やるべき事件をセレクションして、あとの問題の多数の事件は、通常の事件は小法廷に配分すると。そういうことによって大法廷が主導性を持って事件をピックアップして、そして大法廷が集中的にその憲法問題など重要な政治的な問題を含んでいる事件の処理に当たる、そういう方法を取ることも可能ではないかというように私個人考えておりまして、実は意見書の中でもこういう方法もあるではないかということを、最高裁でもうちょっと真剣に考えていただけまいかというようなことをちょっと示唆しているところであります。そういう方法もあるかと思います。
○愛知治郎君 ありがとうございます。大変参考になりました。
 その次に、法曹の在り方ということで、中心的にやはり裁判官というものを取り上げてみたいんですが、現在、官僚裁判官制ということで、まず一つ言えるのは、裁判官、顔の見えないということをさっきおっしゃりましたけれども、正にそのとおりで、ほとんどどこのだれだか分からないという状況であるのが現状だと思います。それで、確かに裁判官の身分保障というか、そうやって顔の見えない方が実際には事件の判断を直接するわけですから、具体的に言えば、事件にかかわって恨みを買うとかいろいろ問題がありますので、現実社会とは離さなくちゃいけない部分はあるんですが、実社会とは現実問題として余りにも懸け離れ過ぎているような印象を受けます。
 その点で、先生、先ほどおっしゃられたんですが、法曹一元化ということで、もう少しかかわりを持たせるべきじゃないか。いろんな場所から、裁判官だけにとらわれずに、弁護士が仕事をする、裁判をするというような形を取るのも一つ考えられることではありますが、私自身としてはある程度の歯止め、限定のようなものをしなくちゃいけない。例えば最高裁判所に限るとか、そのようなある程度の限定をしていくべきだとは考えるんですが、まず先生におかれましては、法曹一元についてこの是非、そして是であればその在り方というのを御意見をお聞かせください。
○参考人(佐藤幸治君) じゃ、お答えします。
 先ほどお話ししましたように、日本国憲法及び裁判所法は、裁判官の給源の多様性、多元性、これは裁判所法の四十二条にも、ごらんいただくと分かりますけれども、いろんなところから、例えば弁護士からあるいは検察官からとか、いろんなところから採用しようというように考え、まだ判事補は、冒頭に出てまいりますが、これは元最高裁長官の矢口洪一氏によりますと、この判事補の制度というのは元々はどうも過渡的なものとして考えていたんだということをおっしゃっております。この辺は違った見解もあるようで、私自身として断定はしませんけれども、本来はいろんな経験を持った人の中から裁判官になっていただくということをどうも考えていたんではないかということであります。
 しかし、現実問題として、なかなか良き裁判官が得られないということで、事実上この判事補から裁判官、判事になっていくということがほぼ唯一の道になってしまったというところであります。その根本的な、なぜそうなってしまったかというと、先ほど申し上げたように、日本の法曹人口が少な過ぎると。母体が小さ過ぎるところで法曹一元を直ちにやろうとしても、できる話ではありません。
 そこで、私ども、この審議会の意見、考え方は、まず質、量ともに豊かな法曹を得る、多数の弁護士を得る、そしてその中で弁護士任官を増やしていくと。それから、判事補を今直ちにやめるというわけにはいかないと、現実問題としてですね。それならば、判事補に社会の経験をしていただくと。裁判官職以外の法律職、特に弁護士中心でありますけれども、弁護士とかあるいは検察官とかあるいは行政官でもいいんですけれども、そういう裁判官職以外の法律職、専門職種を相当長期にわたってやっていただくということをしようではないかと言っているところであります。
 私自身も最終的には、社会の現場にあって人間の現実の生活にじかに触れている、そういう弁護士さんを中心に裁判官がセレクションされていくということは、優れた人が裁判官になっていくというのは好ましいというようには思っておりますが、現実問題としては、今申し上げたような手順を踏みながら進めていくしかないなというように考えている次第です。
○愛知治郎君 ありがとうございます。
 今、特にその中で、おっしゃられた中で、法曹の人口の問題点を指摘されましたが、常々私自身も疑問を持っておりまして、現在、試験で登用されるわけですが、その試験において、制度ですね、この試験制度自体が資格試験、ある一定の能力を有した者が通るという試験ではなく、事実上、競争試験になってしまっていると。その点で非常に問題があるんじゃないか。能力があってもそのときの事情によって合否に、判定というか、差が付いてしまうという経緯が現実問題としてあるとは感じられるんですが、その点について御意見をお伺いしたいんですが。
○参考人(佐藤幸治君) それではお答えします。
 今の試験は、言ってみれば一発試験であります。どういう教育を受けたかというよりもその試験に通ればよろしいということになって、その試験が非常に人数が限られているものですから、資格試験といいながら、おっしゃったように競争試験になって、五百人、今は千人になりましたけれども、非常に絞られているものですから、一番ひどいときは合格率が一・五%でありました。今、少し、千人になって二・数%になっておりますけれども、一・五%の試験というのは、これはもう猛烈な試験であります。試験は難し過ぎるとどうも優れた人を得るということが逆に難しくなるというような、試験というのはいろいろな面がありまして、それで敬遠する、こういう人こそ法曹になってほしいという人たちが初めから敬遠するというようなことがありました。
 それで、話はあれですが、この社会生活上、法曹というのは社会生活上の医師である。法律専門的なものを身に付けることはもとよりですけれども、豊かな人間性というものもはぐくんでいただかなけりゃいけない。そうすると、それにふさわしい養成制度というものをやっぱり考える必要があるんじゃないか。医師でありプロですから、プロを養成するための仕組みということを考える必要がある。そこでたどり着いたのが意見書の法科大学院構想なんです。
 日本は珍しいほどプロの教育を大学が担ってきていない。本来、お医者さんはちょっと、これはもう学部から行くわけですけれども、その教養、豊かな教養を身に付けた上でプロとしての教育をするということが日本では行われてこなかった。それをこれから教育改革の一環としてもプロを大学が育てるという役割を引き受けなければならないということで、キャッチフレーズ的に言っているのは点からプロセスへと。一発試験という点が従来のセレクションのシステムであったとすれば、これからは教養を身に付けてもらって、そしてその大学院に、法科大学院に入ってもらって三年、二年ということもあり得ますけれども、そこでじっくりと勉強してもらって、そしてそこで本当に勉強をすれば、大体七、八割ぐらい通れるようなそういう司法試験を考える必要がある。それで点からプロセスへというキャッチフレーズを使っているわけですけれども、そういう形で、これからは本気になって法曹の養成に大学が責任の一端を担わなけりゃならないというように考えておる次第です。
○愛知治郎君 ありがとうございます。
 ちょっと視点は別なんですけれども、私自身ちょっと考えたのは、現在の試験自体は裁判官の任用制度的な側面がありますので、実際上の法曹、司法の世界を見ますと、裁判官と、また実際の係争を行う、裁判を行う弁護士や検察官との能力というのは求められているものが随分違うような気がしますので、裁判官登用試験と、また弁護士、検察官の資格試験と分けるのも一つ考え方じゃないかと私自身は考えております。
 また、先ほど、ちょっと違憲審査制の問題でもありましたけれども、裁判官に対して、その裁判の、裁判官を補完する意味として陪審制を導入してみたり、先ほど言ったように、その試験を分けるという方法もあるのではないかと考えておりますが、その点について、ちょっと時間があれなんですけれども、お伺いしたいんですが。
○参考人(佐藤幸治君) 結論だけ簡単に申しますと、私はやっぱり資格としては一本であるべきだというように思っております。そして、厚い層を成している法曹の中から、ああ、あの人は立派だという人がやっぱり裁判官にその中から選ばれていくということがやっぱり望ましいんではないかというように考えております。
○愛知治郎君 ありがとうございます。
 もう一つ、法曹界がちょっと実社会、一般的な方々と随分乖離をしている、離れているという印象が否めないんですが、事実上、何か相談事があるときに、なかなか弁護士等、相談する方が分からないと。専門も分からないし、宣伝もされていないので、どのような方に相談してよいか分からない状態。
 アメリカが、すごく悪い例であるんですが、例えば余りにも過度な宣伝をし過ぎるとか、前に見たことがあるんですけれども、交通事故はお任せくださいと、幾らでもふんだくってやりますというコマーシャルが出るような状態はひどいんですが、ある程度やはり宣伝なり広報をしていくべきではないかと考えるんですが、その点について御意見をお聞かせください。
○参考人(佐藤幸治君) はい、おっしゃるとおりだと思います。
 そして現に、弁護士会も既に広告といいますか、それの自由化という方向に踏み出しているところがあります。ただ、そして専門性というのを、自分が何を得意にしているのかというようなことも、それが分かったら我々にとっていいわけですけれども、これまた下手に専門性を言われても本当に信じていいのかどうか分からぬところもあるものですから、その辺の仕組みをどうすべきかということをなお弁護士会では考えていらっしゃるようでありますけれども、基本的にはユーザーの、国民の立場に立って利用しやすい司法、法曹ということですから、そういう方向で考えられるべきことだろうと思います。
 これから弁護士も、ホームドクター的な弁護士もあれば、あるいは大病院、総合病院、専門病院というような、これは法人化が、弁護士の法人化がもう既に国会で通されて始まりますから、これからはユーザーの立場から情報を豊かに国民に流すような仕組みというものを工夫されていっていいんではないかというように考えておる次第です。
○愛知治郎君 ありがとうございます。
 その点でもう一つ、ちょっと弁護士さんとか法曹界が遠い存在というのが感じられるんですが、言葉が、法律用語というのがおよそ日本語とは思えないような言葉を一杯使われていると。まあ実際は多分ドイツ語であるとか外国語の直訳ということなので難しいかとは思うんですが、これは希望であるんですが、先生のような方が少し翻訳をしていただいて分かりやすい言葉に直していただければ有り難いかと思います。
 ちょっと質問する時間がなくなったので次に行きたいと思いますが、最後に、立法とのかかわりですが、最高裁の違憲判断、数少ないながらありますけれども、例えば刑法の尊属殺、条文が残ったまま、実際に運用はされていませんが条文が残ったままでありますし、あと定数の問題というのも結局参議院では全然是正されていない部分がありますので、このように裁判所の判断に対して立法機関が、ほかの機関が、三権が機能していない、言うことを聞かないわけじゃないんですがなかなか機能していないことについて、これで良いのか、具体的にどうあるべきか、先生の意見をお聞かせください。
○参考人(佐藤幸治君) 第一点の方でありますけれども、尊属殺重罰規定は、御承知のように随分、違憲判決が出たにもかかわらず随分残っておりました。ただ、刑法典を平仮名に直すときに改正されて、それでは二百条は削除されております。
 ですから、基本的には、最高裁の違憲判決が出ますと国会の方がそれを受けて改正してきているんです。けれども、議員定数の不均衡の問題についてはなかなかそういうようにいかないところがありまして、これをいかにすべきかということなんですが、基本的には国会の方が最終的な判断権を持っている最高裁の判断を尊重して速やかに直していくということが基本だろうと思いますけれども、国会がそれをしないときにどうするのかという問題は残ります。
 この点については、私自身はもう少し裁判所が強い、何といいますか、実現するための手段を持っていいんではないか、あるいはそれをこれから考える必要があるんではないかと、救済の。法の下の平等に反する、じゃそれを実現するためにどういう方法を取るのか。国会が変えればそれでいいわけですけれども、変えないときに裁判所が更にこういうことをやらなければいけない、する手段を裁判所として持つ必要があるかもしれない、この辺は今後の課題として考えるべき重要な点の一つかというように思っております。
○愛知治郎君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 角田義一君。
○角田義一君 民主党・新緑風の角田義一でございます。
 大変個人的なことで申し訳ないんですけれども、先生の御経歴を拝見しましたら私と生年月日が一緒でございまして、高名な学者と、私は一介の国会議員でございますけれども、今日はおいでいただいて御質問をさせていただくことを大変有り難く思っております。
 同じ世代ですから、先生のお書きになったものを拝見しますと共鳴する点も多々あるわけでありますが、日本国憲法の原理は、もう釈迦に説法ですけれども、国民主権と基本的人権尊重と平和主義、これは三位一体と言われておりまして、もう一つ大きな法の支配というのはちょっとこのごろないがしろにされているような気もしないではありませんけれども、その法の支配を支えるものとして、先生が先ほどおっしゃった政治フォーラムですね、政治の広場。それは国民、国会、内閣と。私どもは国会議員ですからもう常に国民のことをいつも意識しておって、選挙がありますから、選挙という試練を経てみんな来ていますから、国民のことは忘れないし、そのことをいつも考えて行動しておるわけです。
 もう一つ、法の支配を支えるものとして、先生のお書きになったもの、御主張の中に、もう一つ法原理のフォーラムというのがある。その法原理のフォーラムというのをちょっと御説明いただきましたら、政治フォーラムに対してチェックをするというか、ブレーキを掛けるということが一つ大きな任務としてあると。しかし、そのブレーキを掛ける任務を持つ言わば司法、裁判所といいましょうか、あるいは裁判官というのは、国民主権との関係でいえば、辛うじて最高裁判所の裁判官が国民審査を受けるということぐらいかなと思うんです。
 身内に一人最高裁の判事がおりまして、あのマル・バツが非常に嫌がっておりまして、なぜ嫌がるかというと、順番が一番右に来る人が一番バツが多いんだそうですね。バツ、バツ、バツとやって、ちょっと最終ぐらいはマル付けようかというので、変な話ですけれども、笑い話だけれども、本人にすれば深刻な話なんだと、そんな笑い話もありますけれども。
 要するに、主権在民が司法に及ぼす影響というのは最高裁判所の国民審査ぐらいしかないのかなということを考えますと、その司法に携わっている人たちが国民主権ということについてどういう認識を持つべきなのか、また持たせるべきなのか、その辺の、システムとしてそれがどうあるべきかというのは、私は今日の国民主権と国の機構、特に司法権との関係で非常に重要な問題だと思っておるんですが、その辺は先生はどんな御見識を持っておられましょうか、お尋ねいたします。
○参考人(佐藤幸治君) 国民主権と司法権の独立あるいは違憲審査制との関係というのは非常に難しい問題でございまして、アメリカなど、まあ日本でもそうですが、非常に多々いろんな議論がございます。
 私自身はこういうように、非常に単純化して申しますとこういうように考えているんです。
 国民主権、主権者である、主権が国民にあるというのは、憲法制定権力は国民にあるということである。そして、国民の最も深い意思が憲法典に体現されている。これを実現するというのは、政治のフォーラムもその憲法の考え方を実現し推進していく必要がありますが、それと違った方法で裁判所の方が憲法を実現するということを託されているんだと。政治のフォーラムの方は、さっき申しましたように、数、選挙を中心とする、選挙で勝つか負けるかということで決まっていくところが最終的には、もちろんそれだけではありませんけれども。それに対して、そしてその政治のフォーラムを満たすのが抽象的規範です、法律という。先ほども御質問にございましたけれども。
 それに対して、その生み出された法が我々の現実の生活の中にどういう意味を持っているのか、どういう問題を生み出しているのか、これを検証する必要がある。そして、その問題を最終的な憲法に照らして合憲かどうかを、人権を保障する憲法に照らしてどうかということを、対話的な、裁判の場というのは公開であると同時に対等です、当事者は、当事者主義構造の下で。相手がだれであれ、大会社であれ政府であれ大労働組合であれ何であれ、対等な立場でそこでけんかをできるといいますか、そういうことをやって、そこで第三者である裁判所が憲法に照らしてどうかということを判断する場です。
 ですから、両者とも公開のフォーラムなんですけれども、その成り立たしめる原理が違うと。この健全な立憲民主制を維持するためにはこの二つのフォーラムが是非とも必要だということであります。
 それで、その国民主権と裁判官との関係なんですけれども、さっきも申しましたように、最高裁の裁判官については国民審査がある。それから、そうでない下級裁判所の裁判官については任期制と、任期十年と、「再任されることができる。」とありますが、このなぜ任期制を設けたのかということは、やっぱり国民から離れては困ると、裁判官、そういう思いがあるんだろうと思います。
 そして、ただ、裁判官の任命は、御承知のように下級裁判官の任命は、裁判所の裁判官の任命は最高裁が提出する名簿に、指名に基づいて内閣が任命するということになっております。従来は、もうこれでいいじゃないかと、司法権の独立なんだから、裁判官の職権行使の独立なんだからもうこれでいいんだと、あとは考える必要ないということだったんですけれども、国民主権の下での司法ですから、政治とは違ったやり方で、やはり裁判官は、自分は国民から信託されている、裁判権を信任されている、信託されているという思いをより強く持っていただくべきではないかということで、今回の意見書では、最高裁が指名の名簿を作る、指名の過程に国民が参加する諮問機関のようなものを作って、そこで個々の裁判官の任命について適応かどうかを判断させる、してもらう、そういう仕組みを設けようと。これによって、それは司法権の独立を侵害するんではなくて、むしろ司法権、裁判官の正当性を強化する、その中でもっと思い切ってやっていただきたいという考え方でそういうようにしているわけです。
 ですから、国民主権の、司法権の独立といっても国民主権の下での司法権の独立です。ただ、政治部門と司法部門が同じ国民主権の働きがするとなれば、これは何のために司法を設けるかという話にもなりますので、仕組みは当然違ってきて当然なんですけれども、やはり司法の正当性を高めるという工夫はやっぱり必要だろうというように考えております。
○角田義一君 大変難しい問題かもしれませんけれども、やはり国民主権と司法権ということを考えた場合に、今、参考人がおっしゃったようなシステムを大変苦労しながらも作っていかなければ、裁判官はやっぱり国民から離れてしまうとか、遊離してしまうとかいうおそれがあると思うんです。
 と同時に、私は弁護士を六年ぐらいやりましたけれども、私のつたない経験では、いかに立派な憲法典を持っておっても、あるいはいかに立派な法律があっても、権利というのはやっぱり闘いによってしかかち取れないというふうに、私は今でもそういう信念を持っています。裁判闘争というのはちょっときつい言葉ですけれども、やはり三十数年前、今とちょっと時代が違いまして、俗に言う刑事弾圧もあったり、それから労働者が首切られたり、大変な時代だったわけですが、それはもう法廷の中で一つ一つの権利というものを、闘いながらそれを獲得していく。したがって、法律にかなりのものが、きれいなものが、文章があっても、やはり現実の闘いの中、その法廷の闘いの中でしか権利というものは私は獲得できないという信念は今でも強く持っているわけです。
 したがって、そういう、裁判官になる人は、やっぱりそういう権利というものは闘いによってしか確保できないということを理解をした、理解をして、本質的に理解をしてもらわないと困るというふうに思うわけです。そこで、国民主権の立場からいえば、そういう闘い、国民としての闘いを経験をするというか、そういう者から裁判官が任用されていくというのが非常に好ましいと私は思う。したがって、そういう意味での法曹一元、弁護士を経験した者、そういう苦労をし、闘いをした者が裁判官になるということになると、やはり裁判所というのも、また全然また変わったイメージを裁判官は持たれると思うんですね。
 そういう意味で私は、単に試験を通って研修だけで、温室の中でやる者が裁判官になっていくというシステムは、幾ら数を増やしても本当の国民の信頼を得る裁判官はできないんじゃないかという気持ちを強く持っているんです、今でも。その辺いかがですか、先生はどうですか。
○参考人(佐藤幸治君) 基本的に共感するところが多うございます。審議会でも、判事の任命について、その裁かれる者の立場をもっと理解した人からなってもらうべきだと、今の制度はその点から見ると問題だという御意見も強く主張された委員もございました。
 そういう意味で、さっきも法曹一元に関連して申し上げましたけれども、弁護士の、主として弁護士になると思いますけれども、そういう経験をなされた人の中から、あの人はやっぱり裁判官としてふさわしいと思うような人が多数裁判官になっていただくということが必要であるというように思っておりまして、この意見書も、最高裁と弁護士が、弁護士会がもっと話し合って、弁護士任官が促進されるようにこれから恒常的に努めてほしいということをうたっているわけであります。
 それから、先ほど、判事補の他職経験というのもさっき申し上げました。
 それから、これは意見書でまた言っておりますけれども、検察官、検察官についても、福岡のああいう事件もあるということで、検察官についてもできるだけ、まあ何といいますか、弁護士とかそういう経験を積んでもらうというようにすべきだと、あるいはもっと広く言えば、法曹の三者の中の交流がもっと、弁護士から検察官になるとか、検察官から裁判官になるとか、そういう交流がもっと促進されるべきではないかということを強調しておりまして、是非そういう方向で改革が進んでほしいと願っております。
 ただ、一言だけ付け加えますと、先ほどちょっと申し忘れましたけれども、法曹というのはプロである、プロなんですけれども、プロというのはどうしても独り善がりといいますか、きつい言葉で言えば独善化するおそれがあります。そして、法曹一元も、一般の国民から見ると何だなれ合いじゃないかというように、法曹一元もむしろ逆にそういうように見られる向きもないわけではない。
 そういうことをも考えますと、法曹三者というのは、共通の認識といいますか、教養というものでベースにしないといかぬのですけれども、それぞれがその役割に就いたときに懸命に努力するということが必要でありまして、そのために一つの有力な方法として導入すべきだというのが裁判員制度なんです。
 この裁判員制度についてはいろんな評価がありますけれども、これは要するに裁判官、検察官、弁護士が一体本当にどれだけやっているのか、国民の分かりやすい言葉で、どれだけ懸命に取り組んでいるのかということを本当に自分の問題として聞くことになります。こういう裁判員制度の導入によって、専門、プロと、プロの限界を、プロというものと国民とのコミュニケーションといいますか、そういう関係を作っていく、これはもう意図的にそれを今からやっていく必要があるだろうというように考えておる次第です。
○角田義一君 裁判員制度については最後にお聞きしたいと思うんですけれども、お手元に一枚ぺらの紙が行っていると思うんですが、これは最近の司法試験合格者とその進路が数字で出ているんですけれども、確かに司法試験合格者は増えております。しかし、これは裁判官、検事は定数の問題もありますから必ずしも希望した者がすべてなれるというわけではありませんけれども、やはり率からいうと裁判官、検事、絶対数は私はまだ少ないと思うんですね。
 しかも、弁護士はどんどん増えるんですが、弁護士が増えることは私は否定はしませんけれども、要するにグローバル化グローバル化という名の下に、弁護士になった諸君が会社とか銀行とか証券会社とかそういうところに行って、ちょっと言葉はきついんですけれどもローヤーじゃなくてむしろマーチャントになって、商売というかそういうふうな方に行ってしまうのではないかというように私は非常に懸念するんです。そういう意味で、私はやや守旧派なんですけれども。守旧派ですわ。
 本当に、さっき言ったように闘う弁護士というか、そういう精神を持たないでマーチャントになっちゃって、そういう人たちが幾ら増えても果たして日本の司法は良くなるのかどうかというのが私の素朴な疑問として持っているんですけれども、先生はどう考えますか。
○参考人(佐藤幸治君) 私は、何といいますか、法曹が増えることによって様々な考え方、様々な能力を持った人が、多様な人材が得られる。その中から今おっしゃったように私は企業へ行く人もいいと思います。あるいは自治体の職員になる、法曹資格を持ってです。あるいは官僚になる、そういう者も出てくる。むしろ社会の様々なところに法曹が進出することこそが全体としてかさ上げすることになるんだという考え方を私は持っておりまして、質、量ともに増えれば必ずいろいろなタイプの人材が出てきて、そして社会に、総体的に見れば社会の法の支配の徹底に寄与する、そういうように考えております。
 いろんな弁護士さんは出てくるかもしれませんけれども、極端に言いますと、それはそれでいいじゃないかという思いさえしているところがあります。
○角田義一君 ちょっとその辺は意見が違うところなんですけれども、いろいろまた議論しなきゃいけない。
 最後に、ちょっと時間がありませんから、先ほどもちょっと参考人がおっしゃった裁判員の問題ですが、私も基本的には賛成なんですけれども、有名な映画で、ヘンリー・フォンダが出た「十二人の怒れる男」という有名な映画がありますね。皆さん見たことがある、陪審制度で、少年の殺人事件で、一人の男が異を唱えて、ずっとそれで十二人全部説得して無罪にしてしまうという映画ですが、あれは何回見ても非常にいい映画だと思うんですけれども。
 あれはやっぱり、日本の主権在民という、自らの司法ですね、国民が主体的に司法に携わるということになると、陪審でないにしても、今言った裁判員は犯罪の有無、成否、それから量刑まで意見を述べるということになるので、これはかなり進んだ制度というか取り入れていい制度だと思うんですけれども、これと憲法との関係についてはどういうふうに考えておられますか。最後の質問です。
○参考人(佐藤幸治君) はい。御承知のように、違憲論もあります。それから、合憲の条件として、答申に法的拘束力を持たせてはいけないというような主張もあることは承知しておりますが、私自身はかねて、陪審制も含めて憲法上一向に差し支えないというように考えております。
 明治憲法は法律に定める裁判官による裁判を受ける権利というのがありましたが、日本国憲法の三十二条は裁判所における裁判を受ける権利というように言っておりまして、そして確かに憲法は職業裁判官についての身分保障を書いております。陪審制については触れてありませんけれども、陪審や参審については触れておりませんけれども、それは裁判体を構成する、その都度構成するものとして考えると、裁判所を構成するのは決して職業裁判官ばかりではないというように考えておりまして、憲法上差し支えないと思いますし、それから、むしろ積極的に考えているんではないかと思われるものとして、三十七条に「公平な裁判所」という、英訳すると、日本語では裁判所になっておるんですけれども、英訳を見ますとトライビューナルなんです。トライビューナルなんです。これは、むしろアメリカの法廷のような陪審員も入ったそういうものを考えているんではないかとさえ思えるところがあります。日本語にすると一緒になるんですけれども、使い分けて、コートとトライビューナルと使い分けてあるというようなこともありまして、まあそれはちょっと傍証的なあれですが、基本的には一向に差し支えない、憲法上何の問題もないと。
 それは私の個人的な見解でありますが、審議会の方はもうちょっと慎重な書き方をして、審議会の意見書の方は書き方をしておりますけれども、私個人としては陪審制も参審制も、それから今回の裁判員制度も一向に憲法上差し支えないことだというように思っております。
○角田義一君 最後に一言だけ。
 顧問会議の、あの例の推進本部の顧問会議の座長さんを先生はお務めになっておられますから、どうぞひとつ御奮闘をいただきますことを最後に申し上げて、終わります。
○参考人(佐藤幸治君) ありがとうございます。
○会長(上杉光弘君) 魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 今日は、貴重な御意見、陳述、ありがとうございました。久しぶりに何か学生に戻ったような気持ちで教えていただいたものでございますが、何点か御意見をいただきたいと思います。
 先ほども、違憲立法審査権につきまして、付随的な審査制、それでいいと。ただ、いろんな意見がありますし、またこの調査会においても、例えば参議院の二院制の在り方論をやっている中で、参議院の中に憲法院みたいなものを作ってやったらどうかという意見もありました。時代がどんどんどんどんスピードアップしていく中で、もちろん速い司法というか迅速な裁判、一生懸命努力するのは分かるんですが、やはり事件性にとらわれて憲法判断がなかなか出てこないというのは時代のテンポに合っていかないんじゃないかと。また、当事者の負担も大きなものがあるというふうに考えますと、やはり何らかの形で、究極的な最終的な審査権限は裁判所にあるとしても、先ほどの中二階論あるいは先生の九人裁判官の前裁きというような制度もあり得ると思いますが、裁判所外にもいろんなそういうような、内閣法制局とかそういうのではなくして、もうちょっと客観的な判断ができる組織があっても悪くはないんではないかと、憲法論といたしまして。必ずしも現行憲法を否定する趣旨でもありませんけれども、在り方としてその辺はどういうふうにお考えでしょうか。
○参考人(佐藤幸治君) 確かに、その憲法裁判所というのは迅速に憲法問題について判断を下せる、出せるというところに長所はあるかと思いますけれども、一つの問題は、その憲法判断が観念化、抽象化する危険というのも同時にやっぱり大きいというように考えます。
 そして、その構成員をどういうように構成するのかと。そうすると、それはやっぱりいろんな政治的考慮で、ドイツがそうでありますけれども、憲法裁判所の非常に強い政治化というものがあります。日本の場合、戦前、枢密院が、言葉は悪いですけれども、ある意味では政治の不満分子の集まりだったというところもあるやに指摘されておりますけれども、憲法問題を扱うわけですけれども、そういう抽象的なものを作ったときの問題というものも少なからずあるんではないかという気がいたします。
 一つの、じゃ、しかしどうするかという一つの方法として、さっき申しましたけれども、中二階案とか、あるいは大法廷が主導性を持ってやるというのは今の下でできるじゃないかと申しましたけれども、もう一つの方法は、下級審がその事件を受理したときに、憲法上問題があるというときに最高裁に移送すると、憲法判断を最高裁に集中させるという方法もあり得ると思います。最高裁、憲法問題集中ですね、そういうやり方もあるいは現行憲法の下でできるかもしれない。
 いや、それはやっぱり個々の下級審の裁判官が、憲法判断自らできないわけですから、移送するかどうかの判断はするけれども本体の判断できないわけですから、それは日本国憲法の下で難しいんじゃないかという考え方と、いや、下級審の裁判官は違憲かどうかのイニシアチブを持つんだから、それは憲法をクリアできるんじゃないかという二つの考え方がありますけれども、一つの方法として、最高裁に移送するというような方法も考え得るかもしれないという思いもしておりますけれども。
 いずれにしても、抽象的違憲審査というのは、これはいろいろの見方があるんでしょうけれども、日本の憲法学の特質と言ったらちょっと言い過ぎですけれども、どうも観念化する、憲法判断が観念化する危険が大きいんではないかと。やはりその経験に即して事実関係、具体的な事実の中で判断するというその根本的な法の支配の考え方を維持した方が、せっかく五十年のこの経験があるわけですから、また別の原理を持ってくるよりもそちらの方が望ましいんではないかというのが私の判断です。
 ただ、それは、御指摘のようにいろんな違った考え方もあり得ることは否定しません。
○魚住裕一郎君 やはり国民に信頼されるというか、そういうのが一番大事かと思うんですけれども、違憲審査制について伊藤正己先生がそういう大陸型のものを考えたというのは私も初めて知ったところでありますけれども。
 ただ、確かにいろいろな問題があると思いますけれども、せっかく最高裁まで判断を持っていっても、政治問題であるとか事情判決とか、何か司法消極主義に逃げ込んでしまって、だんだんだんだん国民の更に自ら信頼を落としていくような今までの最高裁の在り方だったんではないのか、そこに業を煮やしていろんな在り方論というものが出てきたんではないのかなと。また、憲法を論ずる場合、やはりそういう今、先生から御示唆いただいた点も含めて、更にこの違憲審査制というのはしっかり議論をしていかなきゃいけないなと思うところであります。
 先生の陳述の中で、この司法制度改革審議会の意見書に基づいてのお話がございました。国民にとって、より利用しやすく、分かりやすく、また頼りがいがある、正にそのとおりだなというふうに思うところでありますが、要するに実効性のある司法というものが求められているというふうな認識だと思います。
 制度論というよりも、例えば実体論、実体法の問題かもしれませんけれども、例えば一国民が人権上侵害されたと。やはりスピーディーに救済されていくということが大事だろうと思いますけれども、例えば松本サリン事件の河野さんのような、本当にもう一国民が無防備状態になってしまったと。本当にそれに対応できるような司法制度になっているのかということも実はあるんでありますけれども、この辺、先生の御意見はいかがでございましょうか。
○参考人(佐藤幸治君) 利用しやすく頼りがいのある司法ということを言っておりまして、日本の司法は果たして本当に困ったときに本当に頼りがい、頼れるのかという点について疑問を持っている人たちが少なからずいるということは、それは確かであると同時に、専門家の中でも、例えば弁護士さんで奥さんが殺された人が、いかに日本の司法というのはいざとなったら余り頼りにならないものかということを述懐しておられることを読んだりいたします。
 なぜそうなのかということについては、これはいろんな理由がありましょう。あるいは、その証拠収集という手段が日本の場合に非常にまだ不十分であるというようなこともあるかもしれません。それから、基本的にはこれは結局は人の問題になるんですけれども、弁護士さんの数が少な過ぎて、例えばその事件に集中する体制というものが果たして本当にあるのかと。
 やっとこ法人化で大きな大病院、総合病院のようなものができてくる。そうなると、専門的に専門性を持った弁護士さんも出てくるでしょうし、集中的にその事件に取り組む体制というのも出てくるでしょう。そういう意味で、弁護士も増えると同時に、先ほどの御質問にも関連しますが、裁判官、検事の大幅な増員ということをやっぱり考える必要があるというように、意見書もその辺を強調しているわけです。
 民事事件は、今の民事事件について見ますと、今、我々、平均九・二か月ぐらい、人証調べをやると二十・五か月ぐらいだそうであります。これを審議会の意見書はおおむね半減する、期間をもう半分に減らすべきだということを言っているわけです。それをやろうとすれば、それは判事、裁判官の数を大幅に増やす必要がある。そういう人的な面と、それから制度的な、例えば証拠収集の手段が非常に限られているとか、まだ、不十分だとか、そういうものを改善する。それから、判決が出たらそれが実際に実現され得る、し得る、そういう執行面についての相当な手当てを考えていくことによって、もっと頼りがいのある、そういう司法になるのではないか、またそうしなければならないというように考えている次第です。
○魚住裕一郎君 私もこの司法制度改革審議会の意見書を読ませていただきましたけれども、先ほど敗戦後の新しい裁判所の出発に当たってこの違憲立法審査権と行政裁判権を得て張り切って出発したとお話があったんですが、意見書の中そのものでは司法の行政に対するチェック機能の強化という項目があるんですが、何となく扱いが小さいなというイメージがあるんですね。もっともっとその部分をさらに強化していくといいますか、本来の司法の役割自体もこの改革審議会の中ではどういう位置付けになっていたのかなと。
 これは憲法調査会というよりも何か司法制度改革審議会の中での話かもしれませんけれども、ちょっとこの点、御教示いただければというふうに思います。
○参考人(佐藤幸治君) お答えします。
 確かに御指摘のとおりで、立法、行政に対するチェック機能の強化というのは審議会として重要な課題でありました。
 ただ、日本は、先ほど申し上げたように、圧倒的に従来、行政主導でやってきた体制であります。実体法の仕組みもそうなっておる、訴訟制度もそういう仕組みになっております。これを根本的に改めよ、変えよということになりますと、行政の在り方も含めた全体のシステムをもっと根幹から考え直す必要があるということで、審議会そのものとしては、行政訴訟制度の在り方とか、それに具体的にこうすべきだということまでは言っていないんですけれども、早急に本格的な検討を始めてほしいということを言っております。
 これはちょっと違ったあれですけれども、私、実は行政改革のときに参考人に国会に呼ばれましたときに、行政改革で一番大事なのは地方行財政の在り方ではないか、中央省庁というのはむしろ周辺的な問題ではないかという御質問を議員から受けたときがあります。私自身は、その地方行財政こそ本丸だと、しかしいきなり本丸を攻めれるならある意味では容易なんだ、外堀を埋め内堀を埋めて、最後に残った問題としてその地方行財政の問題があるんだというお答えをしたことがあります。ちょっと比喩として適切かどうかは分かりませんが、行政に対するチェック機能、行政訴訟制度、これは正に日本の国の形を基本から変える契機を持っているものでありまして、それ自体もう少し大きな仕掛けといいますか、場で議論していただいて決めていただきたい。
 二年間に限られた審議の期間にあれもこれもということをいろいろ持っておったものですから、抱えておったものですから、そこには具体的に切り込んで、具体的にこうせいというところまではいかなかったということであります。
○魚住裕一郎君 あと一点だけ、意見書に関連して御質問したいんですが、法曹の中で弁護士あるいは法曹養成、更に裁判官、裁判員制度まで含めた議論が展開されたんですが、やはり大事な一分野であります検察官についても、その給源まで含めた大きな議論、その検察官の資質向上等については意見書の言及があるわけでありますが、もっと幅広の議論があってしかるべきだったんではないのかなというふうに思うんですが、この点はいかがですか。
○参考人(佐藤幸治君) はい、御指摘のようなところは確かにあったかもしれません。何としても法曹を、質、量ともに豊かな法曹を得る、そして良き裁判官を得るというところにまず私どもの、多くの人たちの考え方がありまして、検察官の在り方までなかなか十分な配慮が行き届かなかったという御指摘があれば、あるいはその御指摘は甘んじて受けるべきことかもしれません。
 ただ、ちょうど審議会の途中に、さっきも触れました福岡事件がありまして、法務省の方もかなり深刻にその事態を受け止められたようでありまして、それを契機に議論して、あの意見書のような記述にたどり着いたというのが実情であります。
○魚住裕一郎君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 吉岡吉典君。
○吉岡吉典君 日本共産党の吉岡です。今日はありがとうございました。
 私は、最初に非常に初歩的な質問をさせていただきますけど、司法改革の目的というか目標はどこにあるかという問題です。
 これは、今、先生のお話をお聞きしましても、私は、憲法が認める国民の裁判を受ける権利を保障すること、そのことを通じて国民の基本的権利を守っていくということにあると思います。この、先生も紹介されました意見書にもそのことがまず述べられていると思います。「法の支配がこの国の血となり肉となる、」というところから「国民の日常生活において息づくように」云々というようなところにそういう趣旨が書かれていると思います。
 私は同時に、これが私ではちょっと読み切れないところがありますのは、その次に書かれているところとの関係です。その次に「政治改革、行政改革、地方分権推進、規制緩和等の経済構造改革等の諸々の改革」云々ということがありまして、こういう一連の諸改革の最後のかなめとしてこの司法改革も位置付けられるということですね。
 ここには、現政権が推進している政策にもかかわる叙述になっているということ、またいろいろ議論もある、そういうこととの関連でこの表現が、実はこれは政権寄りあるいは財界寄りの司法改革につながりかねないじゃないかというような議論もあるわけですけど、この関係というのはどういうふうに取ったらいいのかということをまずお伺いしたいと思います。
○参考人(佐藤幸治君) 政治改革、行政改革あるいは今御指摘の地方分権推進とか、それぞれの課題に取り組んだものでありまして、それ自体様々な評価があり得るかというように思います。
 けれども、ここ、意見書でも「志」と、その諸改革に共通して流れる「志」というような言い方をしておりますけれども、それぞれの改革の意味がどういう、いろんな意味を持つにしても、その根底にはやっぱり共通のものがあるんじゃないかと。それは、やっぱり自律的な個人を基礎にしてより自由で公正な社会を作っていこうと、そこにやっぱり根底的な発想があるんじゃないか。事前規制・調整型社会から事後監視・救済型社会への転換ということが言われるのも、余りにも今まで行政が主導的に、教育ママのようにと言いましたけれども、そういうことからそろそろ脱却して、もっと個人が自律的に自由に生きれる、そういう社会を作ろうと。
 しかし、そういう社会を作るためには、その受皿といいますか、それはルールを中心にして、ルールは公正、透明なルールを作って、そしてそのルールはお互いに守ろうと、しっかり守ろうと、そういう社会にすることによってより活力のある社会を作ろうという、そういうところではやっぱり根底にはそういう哲学があるんじゃないか。これは、そういう考え方自体は、経済寄りだとかそういうことではなくて、日本の社会、国、社会の根幹にかかわる発想であって、その延長でこの司法改革というものを考える必要があると、そういうことなんです。より自由で公正な社会、透明な社会を作ろうというところでは一貫しているんではないか、そして、この司法改革が十分にできないと、結局は行政改革も政治改革もそれも中途半端に終わる危険が大きいんじゃないか。そういう考え方で、最後のかなめと、司法改革はいろんな諸改革の最後のかなめだと言っているのはそういう趣旨であります。
○吉岡吉典君 今の説明はそれとして分かりますけれども、私は逆に、この記述が行政主導を勇気付ける結果にならないように願うものでございます。
 その次にお伺いしたいのは、司法の現状に関連してですけれども、裁判が長く掛かる、十年も十何年も掛かるという問題があって、できるだけ早くということもこの意見書にも述べられているわけですけれども、私は主として、労働委員会にいたことがありますので、労働関係の訴訟、それからまた、戦争責任にかかわる、戦後処理問題に長い間かかわっていますので、そういう関係の訴訟を特に念頭に置いてみますと、長いと同時に裁判の結果もまた、一般的な常識から見るとこれが今の憲法下でこんな判決があり得るんだろうかと、これはもう血も涙もない、憲法にも反する判決ではないかという議論がよくあるわけですね。
 そういうことに関連して、私はいつも注目していますのは、日弁連の文書の中にこういう記述があるのが先生も御存じだと思いますけれども、日本の裁判所の裁判は国際法の拘束性についての理解が低いと、こういう指摘がなされたことがありまして、私も確かにそうだなという気がします。
 それは、例えばILOからの批判とか国連の人権委員会等からしばしば日本に対して意見が寄せられている。そういう点で、国際的に到達した時点、国際法、こういうものについて理解が低い、もっと言えば後れているというふうなことを私、強く感じているんですけれども、先生、どのようにお考えになるか、この点での御意見をお伺いします。
○参考人(佐藤幸治君) 一般論として、私も今御指摘の点は感じないではありません。特に国際人権規約の扱い方についての日本の行政、それから司法も必ずしも人権規約の重みというものの受け止め方がやや私は、軽いと言ったら言い過ぎかもしれませんけれども、十分でないところがあるんではないかという印象は個人としては持っております。
○吉岡吉典君 ずっとここで議論になりました裁判官選任方法の問題ですけれども、先ほどのお話の中で、裁判官法制度というのは今すぐやめるわけにはいかないという発言があったように思います。これは、将来的には改めていかなくちゃいかぬということを含みとしたものと取っていいのかどうなのかという点ですね。
 私、この問題いろいろございましたから、法曹一元化の問題、これも私は法曹関係だけでなく、裁判所の外で長い経験、実社会の経験持った人、それからしかも僕は学者も含めてもいいと思いますし、それからまた、これの選任の方法としても、私は、弁護士や国民各階層の代表から成る裁判官推薦制度というようなことも提案もされておりますので、そういう制度を総合的に運用すれば、まあ法曹界のなれ合いじゃないかというような批判は、これは起こらないようにすることもできるじゃないかということも含めて考えておりますので、今のこの判事補制度というのは将来的には廃止して改めていかなくちゃいかぬというふうにお考えになっているかどうか、お伺いいたします。
○参考人(佐藤幸治君) お答えします。
 私個人の考え方は、それはそれとしてあるわけですけれども、審議会でいろいろ議論していまして、一方では、御指摘のようにもう判事補は、制度はもうやめるべきだという考え方と、いや、やっぱり弁護士、弁護士からどんどん任官してほしいというのは皆さん共通しているわけですけれども、果たして本当にどんどん立派な人が任官してくれるかどうかということについてのやっぱりある種の不安というものがある、お持ちの委員も少なからずおられて、それで、やっぱり弁護士任官をどんどん進めるんだけれども、今直ちに判事補をやめるということは難しいというところで、そこまでは行けなかったと。
 ただ、一点は、特例判事補の制度でございますね。特例判事補は段階的、計画的にもうやめるということを言っておりまして、それをやろうとすればそこからも、その関係からも弁護士さんから、主として弁護士だろうと思いますけれども、どんどん任官者が、裁判官になる人が増えてくることを暗に期待しているわけでありまして、直ちに廃止ではないんですけれども、まあそういう方向で考えていこうとしているのが意見書ににじみ出ている、そう言ったら、ちょっと私言い過ぎかもしれません、会長としては言い過ぎかもしれませんけれども、そんな思いも個人としてはしていないではありません。
○吉岡吉典君 それと似たような質問で申し訳ありませんけれども、司法への国民の参加ということを今日ここでも先生強調されましたけれども、それをこの意見書よりもう一歩進めて陪審制度というところまで進む、これも将来的にはそういう方向だろうなということかどうか、この点もお伺いしておきたいと思います。
○参考人(佐藤幸治君) その点もいろいろ議論になったところでありますが、意見書の──意見書をお持ちでしょうか。
○吉岡吉典君 はい。
○参考人(佐藤幸治君) 百二ページから百三ページに掛けて言っているところなんですけれども、「制度設計の段階から、国民に対し十分な情報を提供し、その意見に十分耳を傾ける必要がある。」と。それから実施段階においてもとありまして、そして、「実施後においても、当初の制度を固定的にとらえることなく、その運用状況を不断に検証し、国民的基盤の確立の重要性を踏まえ、幅広い観点から、必要に応じ、柔軟に制度の見直しを行っていくべきである。」ということの中に、そういうことも含めて柔軟に考えて、将来の課題として考えていいんではないかという思いがこの表現の中に含まれているということは申し上げていいかと思います。
 ただ、ともかくまず導入する、裁判員制度を導入して新しい経験をまずやろう、そして考えていこうと、そういうスタンスかと思います。
○吉岡吉典君 最後に、違憲立法審査権に関連してですけれども、この問題についての先生のお考えはこれまでのいろいろ論議の中でよく分かりましたけれども、私、去年この意見書が発表されたときの先生の会長としてのインタビューの中で、朝日新聞に出ている記事はその点ちょっとニュアンスが、これどう取ったらいいかという点で誤解を与えかねないなというふうに読みましたので、真意をここではっきりさせておいていただきたいと思います。
 こう書かれております。「最高裁の違憲審査制が十分に機能していないとして、憲法裁判所創設論が出てきている。憲法改正の動きとして、現実性がないわけではないように思えるのです。事態を真剣に考えるなら、最高裁は違憲審査にもっと本格的に取り組む姿勢がほしいと思っています。」と。これは、いろいろお話しになったのをうんと短くしたために、何がお言いになるのかが、取りようによっては憲法改正の動きを肯定的にも取りかねないし、いや、だから最高裁がきちっとしなくちゃいかぬのだというふうにも取れるし、ちょっとそこら辺説明をしておいていただきたいと思います。
○参考人(佐藤幸治君) 先ほど来のあれですけれども、憲法裁判所を設けてもっと迅速に憲法問題それ自体を判断させるべきだという意見が憲法学者の中でも根強いものがありますし、それからさる新聞社から出された憲法改正案の中にもそういう考え方は出ております。ですから、それを支持する、先ほど御紹介したように伊藤正己さんもそれしかないんじゃないかと言われるぐらいになってきている状況がありまして、憲法改正ということを現実にやるとなれば、あるいは憲法裁判所というものを設けるということが一つの可能性として相当強いものがあるかもしれない。
 そういう状況を踏まえて、しかし私としては、先ほど来言ってきたように、やはり付随的違憲審査制の長所というものは十分やっぱり考えて、今五十年間うまくいかなかったから今度新しいものをというのはやや少し何といいますか、性急というのか、もっとじっくりとやるべきではないかという思いがありまして、それなら最高裁にもう少し頑張ってほしいという、そういう感じのことを申したのが今御紹介の表現になっているのかもしれません。
○吉岡吉典君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 吉岡君、いいですか。
○吉岡吉典君 はい。
○会長(上杉光弘君) 時間ですから。
 次、平野貞夫君。
○平野貞夫君 国会改革連絡会という会派の平野でございます。
 私は、政党は自由党に所属しておりますが、この憲法調査会では党派を超えたむしろ個人の立場での意見を申し上げておりますので、日ごろ大変御活躍されています佐藤先生に敬意を表しながらお教えを受けたいと思います。
 いろいろ重複する問題があるんですが、私は、具体的な問題で司法権の役割といいますか、在り方についての御質問を、お尋ねをしてみたいと思います。
 一つは、この調査会でも何回か取り上げてしつこいやろうだと言われるかもしれませんが、昨年、熊本地裁でハンセン病判決がございまして、小泉内閣がこれを控訴断念した、この問題について先生の個人的な意見を伺いたいんですが。
 御承知のように、私はあの判決は立法及び行政の不作為行為に対する司法権の、戦後僕は最大のかつてない司法権を、司法の在り方を示した判決だと評価しておるんですが、ところがそれに対して、政府、特に小泉総理はわざわざ控訴を断念した上で政府声明を出して、本来であれば、政府としては、控訴の手続を取り、これらの問題点について上級審の判断を仰ぐこととせざるを得ないところですが云々ということで、いわゆる理論的、論理的に控訴を断念したことを自己否定された。この矛盾は、私は非常に司法権の役割を冒涜したものであると。本来ならば、憲法学者あるいは最高裁は抗議の声明をすべきだったというふうな思いを持っているものでございます。
 このことについて、私は控訴を断念したということは、いわゆる一審とはいえ司法権の示した法の支配の中に入ったと、これに従属すべきだということだと思いますが、それに対してこういう声明を、行為をするということはいかがかと思いますが、まずそれについて先生の御意見を。
○参考人(佐藤幸治君) 私、その個人として答えたらいいのか、今はもう会長ではなくてあれなんですけれども、なかなか難しいお尋ねでありますが、私個人としてはかねて違憲審査の在り方として、立法の不作為も、場合によっては不作為も違憲だという可能性はあり得るという立場を、かねてそういう立場を取ってまいりました。それについては、立法の行為、積極的な作為に対してのみ違憲審査があり得るという考え方も根強いものがありましたけど、私は状況によっては不作為も作為とみなし得るような、そういうコンテクストでは不作為も司法として判断し得るという立場を取ってまいりました。
 その観点から、あの判決について個人としていろいろ共感できるものもありますけれど、政府のあれにつきましては、私ちょっとここは申し上げるのは少し控えさせていただきたいと思います。
○平野貞夫君 分かりました。そのことについては申し上げませんが、もう一点、これに関連して。
 小泉政権は、政府声明でそう出した上で政治的英断として控訴を断念したんだということを世間に出したと。マスコミもそれを大変評価し、太鼓をたたいたと。しかし、よく考えてみますと、あのハンセン病の問題は、基本的人権の問題であり、同時にこれはその中でも人間の尊厳という基本の問題だと思うんです。それを、こういったものは本来は憲法に定められる権利で対応されるべきものを、総理大臣という権力者の英断でそれが控訴を断念したんだと。これはとても憲法の道、憲法の論、近代法の態様ではないと思うんですが、その点の御意見は、お伺いさせていただきたいんですが。
○参考人(佐藤幸治君) 私個人としては、さっき申し上げたように不作為の問題はそう考えますし、個人の尊厳といいますか人格の自律という考え方からいって、ああいう判決が出る理由というものは私個人としては十分理解しております、その点は。正に法の支配の考え方に連なる判断であろうという、法の支配、それから個人の尊重と。
 私は、十三条の個人の尊重については、人格的な自律というものを、代え難い人格的な自律というものを根幹に据えて考えている条文であって、あの十三条こそが憲法の人権体系の根幹中の根幹だというようにかねて主張してまいりました。その観点から見て、あの判決には私個人としては十分理解できるものがあります。
○平野貞夫君 先生のお言葉の周辺に大変私、協調するものがございますので、これ以上申し上げませんが、お立場もありますからこれ以上申し上げませんが、私は小泉さんの人気はあれで固定したと思うんですね、八〇%の世論調査は。まあ最近変わってきましたので、私も多少日本国民の良識というのを信用していますが、権力者の政治的英断でああいう基本的、個人の基本権が云々されるのは、これは古代の話だというふうな感想を申し上げて、次に移りたいと思います。
 もう一つ、これは私、直接裁判にかかわったことなんですが、たしか平成七年、一九九五年に、参議院では行われませんでしたけど、衆議院で戦後五十年決議というのを、国会決議が行われました。これは自社さ連立政権のころでございまして、この決議の内容は、歴史観を国会の多数決で決めるというもの、思想の自由、それから法の下の平等といったものを国民に押し付ける国会決議だったと思います。
 私は、決して第二次世界大戦についての正当性、日本が全部が全部正しかったということを主張するものじゃありませんが、国会決議をやるならばやはりそういう基本的人権、個人の思想、こういったものを配慮してやるべきだと思うんです。ああいう歴史観を強要する国会決議ができるんでしたら、逆にあの戦争は正当なものであったという国会決議もできるという論理になりますので、当時の衆議院議長、土井たか子議長を相手に訴訟を起こしたんです、違憲訴訟を。ところが、受け取ってはくれましたんですが、結論は、統治行為論といいますか、政治問題といいますか、要するに裁判になじまないということではねられたんですが。
 今日の先生の司法権の割合、役割の中で、事実審といいますか、そういうものを中心にしろと、抽象的な違憲についての解釈をやることについては慎重でなきゃならぬ、そういった意味での憲法裁判所の設置について慎重でなければならぬという先生の御意見、私、大変勉強になりました。私は、党の憲法調査会では積極的な憲法裁判所設置論だったんですけれども、これはよくよく考えてみなきゃ駄目だというふうに勉強になりましたが。
 ただ一つ、今の日本の司法権というのは、決して、こういった国会決議が違憲かどうかということ、あるいは国会で行った行為、強行採決とかそういったこと、あるいは行政の様々な行為がありますが、そういうことについて、抽象的なこれは違憲解釈じゃないと思うんです。事実に基づく、いわゆる統治行為論ということで逃げているといいますか、本来の司法が示すべき判断、先生のお話の中に何回かありました、やはり政治に対するチェック、行政に対するチェック、そういう意味で、もうちょっとこの統治行為論というのを幅広く日本の司法権が機能してもらえれば、抽象的憲法解釈の違憲審査権というものも要らないんじゃないかという気がするんですが、その辺についてひとつお教えいただければ。
○参考人(佐藤幸治君) これもなかなか難しい問題でありますが、ちょっと話をずらすようかもしれませんけれども、これ、似たような問題は、例えば学会で決議をするというようなことがあります。私の所属している公法学会では、そういうたぐいの決議はできるだけしないと。いろんな、様々な人を抱えている、考え方があるわけですから、しないということでやってきておりますけれども、学会と国会の場合はどうなのかという問題も、違いもあるのかもしれません。
 それから、この戦争責任の問題についても、これもいろいろな考え方があるわけですけれども、私はあれはもちろん侵略戦争だったというように明快に考えておりますけれども、しかしその評価については、そしてどういう形でその責任を、国民全体、国民として負っていくべきなのかということについては、これはいろんな見方があり得るんではないかというように考えております。
 それだけに、その決議をされたということによって直ちに、例えば、議員の、反対の議員の良心の自由が侵害されたと、あるいは国民の場合だって一緒かもしれません。そういう決議をやられたことによって自分の良心が侵害されたというその思いはあるでしょうけれども、それが司法の場に乗っかる、乗っけられるような、その段階で、その段階で乗っけられるようなものであるかどうかということについては、これはそう簡単な問題ではない。事件に、訴訟の解決に応じて、必要に応じて憲法判断をするという今の仕組みからすると、それはそう簡単に乗っかる話ではないんではないかという感じはしております。
 答えになっているかどうか分かりませんけれども。
○平野貞夫君 いや、もう結構です。ありがとうございます。
 この二つの出来事でございますが、東京の文化人はほとんど理解してくれませんでした。関西の文化人はその点がすごいです。藤本義一さんとか、それから山崎正和さん、それから中坊先生もそうでしたが、私と同じ主張を、別に内輪でしたわけじゃないんですが、テレビとか新聞でやっていただいて、やっぱり関西の学者、文化人は、やっぱり物事の本質をよく見ていただいているなという感想を持ったことを御紹介して終わります。
○会長(上杉光弘君) 福島瑞穂君。
○福島瑞穂君 社会民主党の福島瑞穂です。今日は本当にありがとうございます。
 自律と責任といって民事事件はかなり議論されていると思うのですが、刑事裁判、司法制度改革といった場合に、刑事裁判、刑事の手続における様々な問題点がまだまだ議論が不十分ではないかということを思っております。例えば、代用監獄の制度であったり、証拠開示の問題であったり。まず、証拠開示の問題についてお聞きをしたいというふうに思っています。
 証拠開示は、民事でも重要ですが、刑事の裁判では極めて御存じのとおり重要で、財田川、免田、松山事件など、要するに検察官手持ち証拠の証拠開示、被告人に有利な証拠が再審段階でようやく出てきて、それで再審無罪がかち取れるという、要するに証拠開示が本当に無罪と有罪を分ける大きなポイントであると。
 ただ、現在の証拠開示は、原則として検察官の裁量で、例外的に裁判官が、それに対して個別例外的に裁判所が職権的に介入をしてその是正を図るということになっています。ですから、証拠開示は極めて不十分で、これは民事においても本当に真実発見が難しくなりますし、刑事においては、ましてや有罪と無罪を決めるときに、この証拠開示が、原則全面証拠開示がない限り、本当の意味で、裁判員制度を導入しても本当の意味でいい刑事裁判にはならないというふうに思っています。
 私自身も冤罪で再審無罪を争っている事件を担当していることもあり、この証拠開示、現在でも、もう裁判は確定をしておりますが、検察官は証拠開示をしませんし、裁判所も職権的に介入してくれないということで膠着状態になっています。この証拠開示の問題についてどうお考えか、教えてください。
○参考人(佐藤幸治君) お答えをします。
 証拠開示の重要性、あるいは収集ですね、証拠の収集、これらの重要性は、民事、刑事問わず非常に重要なものだということは私も全くそのとおりに思っております。そして、裁判員制度を導入しようとするなら一層その証拠開示の重要性が、刑事の場合、刑事司法の場合、証拠開示が重要になるということでありまして、意見書で、御承知のように証拠開示の充実が必要だということをうたっております。法令によって明確化するという必要もあるだろうということで、恐らくこれからこの刑事司法の検討会、推進本部でこの刑事司法の在り方についても議論されますので、具体的にどういう仕組み、どういうことをやる必要があるのかということについてはその検討会でもっと詰めた議論が行われるものというように思っております。
 私も審議会でいろいろ、ヒアリングやいろんな話を聞きまして、刑事司法の在り方、構造、そのとらえ方について非常に厳しい対立といいますか、考え方の違いがあるということは非常に痛感いたしました。けれども、今回は被疑者弁護の制度を導入するということ、これも非常に大きな構造変化だというように私は理解しておりますし、それから連日的開廷というようなことも言っております。裁判員制度の導入と。こういう全体的な仕組みの中で従来と違った、もっと直接主義、口頭主義的な裁判が行われる、それを実質あらしめるために必要なものについてもっとこれからいろんなところで詰めた議論を行っていただきたいというように思っております。
 今の段階ではその程度しか私は答えようがありませんけれども。
○福島瑞穂君 証拠開示について、証拠開示のルール化ということで是非もう少し積極的に提言が出ることを本当に心から期待をしております。
 先ほど、国際人権規約B規約の点でもう少し重要視すべきではないかというふうに言っていただいたんですが、御存じB規約の勧告は何回も、例えば代用監獄制度そのものについてなど勧告が出ておりますが、この点については個人として結構ですので、どうお考えでしょうか。
○参考人(佐藤幸治君) 代用監獄については指摘されているところでもあり、できるならばというように思っておりますけれども、現実的にその場所とか、どうして直ちにどうするかとかいう話になってきますと、なかなか今直ちにというところもいかない面もあるということも、ある意味では現状ではやむを得ないのかと思うところもないではありません。
 その辺、指摘されている実態というものが、日本の実態が指摘されているようなことそのものであるのかということについては、もう少し私個人としてはもうちょっと見極めたいと思っていますけれども、構造的にやめられるのならもうこしたことはないという認識です。
○福島瑞穂君 レジュメの中に「立法・行政に対するチェック機能の問題」ということが書かれていまして、先ほどからチェック機能をどうしていくかということをお話をされたと思います。全くそのとおりで、特に行政権の肥大化に関してどう裁判所が関与するかということは、現代の恐らく司法の抱える最大の問題の一つというふうに思うのですが、この行政権のチェック機能ということに関して、どういうことが重要なのか、どういうことが考えられるのかということについてもう少し話していただけたらと思います。
○参考人(佐藤幸治君) まず、基本的な私の個人の認識としては、行政、さっき申し上げたあれですけれども、法の支配に転換したといって、英米法的な法の支配だといって、そして司法権の範囲に行政事件の裁判も入ると言われながら、その実態は戦前の考え方を相当引きずった制度になってしまった。それに引き換えドイツの場合は、ドイツの場合は法治国家といいながら、法治国家でその考え方は捨てていないんです、法治国家という、戦前の。捨てていなくて、その法治国家の延長線上でドイツの場合は裁判権を強化して、もっとこのコントロールというものを、行政や立法に対するコントロールというものを強化しないといかぬという基本的な認識に立って、法治国家なので秩序形成観は変わらないんですけれども、裁判権を強化することによって戦前と違った在り方を追求したわけです。
 ところが、日本の場合は、今日申し上げたように法の支配だと。行政裁判権は司法の範囲に入りますといいながら、一つは、基本は二つあると思うんです。一つは行政というのは公益の実現者だということを余りにも強調し過ぎた点が一つ、それからやっぱり司法権は信用、信頼、もう一つ信頼し切れない。その考え方があって現行の行政事件訴訟制度はでき上がっていると、私はそれは個人の思いですけれども、個人の考えではそういうように思っております。
 ですから、それでドイツと今比較しますと、これは藤田さんが、東北大学の藤田教授がヒアリングでお見えになってお話しになったことなんですけれども、ドイツではもうすっかりもう過去の理論になっているのが、日本の場合にはまだそれを大事にされているところがあると。それで、藤田教授の言い方は、近代法治国家の在り方として行政訴訟制度を見たときにはかなり例外が多いと。これは内閣総理大臣の異議だとか行政の第一判断権を物すごく強調するとか、そういう考え方に見られる。近代法治国家の原理から見ても、日本のあれは非常に例外が多過ぎるというのと、もう一つは現代型訴訟、例えば行政計画についての審査について非常に慎重過ぎる、現代型訴訟に対しても十分に対応し切れない状況になっているということを御指摘になりましたけれども、私は基本的にはそういう認識を共有します。
 ですから、しかし、この問題についてはもちろんいろんな考え方がありましたけれども、最終意見書では、かなり今のその問題状況の認識としては大体問題点は指摘しているというように思っております。
 けれども、この認識を基にして、ではどういう訴訟制度を作るべきなのか、実体法をどういうような形で直していくのかというような問題については、我々自身がやるというよりもしかるべきところで、それは実際は検討会が、行政訴訟制度についての検討会ができておりますが、そこで本格的に議論していただいて、そしてもっと大きな問題として国民に提示していただいて、いい制度を作っていただきたいというように考えております。
 ちょっと長くなりましたけれども。
○福島瑞穂君 ありがとうございました。
 行政不服審査法や行政事件訴訟法、特に行政事件訴訟法は処分性が必要なのでなかなか勝つのが難しいわけですが、いろいろ御教示いただいて、ありがとうございます。
 行政権のチェックといった場合に、判検交流の問題やそういうことも取り上げているのですが、もう少し三権分立であればその辺をきちっとすべきだという点についてはいかがでしょうか。
○参考人(佐藤幸治君) 判検交流だけじゃなくて、私自身は法曹はもっと交流してしかるべきだ、相互に。それは検事から判事になる人、判事から検事になる人もあっていいし、弁護士から検事になる人があってもいい、あるいは学者からもですね。もっと相互に交流があってしかるべきだ。そして、それぞれは、一般の見方をすると何かなれ合いではないかというように、法曹のそういう交流すべきだという、そういう見方をなさる国民の、一般の国民の皆さんもおられますけれども、そうじゃなくて、法の支配の価値を共有しながら、それぞれのポストに就いたときにはそのポストにふさわしい倫理というものがあるはずですね。そういうものをお互いに大事にするということがまず根本でありまして、交流それ自体は私はもっと相互に促進されてしかるべきだという考え方です。
○福島瑞穂君 私も、交流するのであればいろんなところと交流すればいいと思うんですね。だから、行政とだけ交流する、大企業とだけ交流するのではなくて、どうせ交流するんだったらNGOにそれこそ行くとか、全部と交流するのであればいいんですが、今の交流が法務省に出向するとかという形が一番多いので、そういうことが問題ではないかと思いますが、どうですか。
○参考人(佐藤幸治君) それは、御指摘の点は私も共感するところがあります。この点は質、量ともに多くの法曹が出てくれば、もうこれは必然的に、例えばNGOで働く弁護士さんも増えてくるかもしれない。あるいはほかの、さっきからの人の、官僚になるという人も出てくるかもしれない。企業に行く人も出てくる。もっといろんな方面に法曹が活躍してほしい、そういう中で交流が行われることによって全体の法の支配のかさ上げができるんだというように私は思っています。
○福島瑞穂君 私は、裁判官……
○会長(上杉光弘君) 福島君。
○福島瑞穂君 ごめん、ごめん。二人でとんとん話してですね。
 裁判官が出向する先が……
○会長(上杉光弘君) 二人でやっているんじゃない。
○福島瑞穂君 よろしいですか。ごめんなさい。いいですか。
○会長(上杉光弘君) 福島君、どうぞ。
○福島瑞穂君 はい。裁判官が交流する先がNGOでもあってもいいということは、ちょっと心付けられました。
 裁判官の市民的自由についてはどうお考えですか。
○参考人(佐藤幸治君) この辺は考え方としてはなかなか難しいところがあります。ドイツの場合はよく挙げられて、ドイツの場合は市民的自由が、非常に裁判官の市民的自由が強調されていると言われます。それはドイツの場合は、御承知のように、戦後、ボン基本法で自由で民主的な基本秩序といういわゆる闘う民主制という方式、考え方を取りました。大きな枠をはめて、その中でできるだけ自由。戦前の、ドイツは戦前の経験から、一枚岩の組織というのはいざとなったらもろいものであると、むしろ一人一人が多様な考え方を持っているものが強いんだと、むしろ。そういう考え方から、ドイツはああいう行き方を取った。
 それに対して日本の場合は、そういうドイツの闘う民主制という考え方は取りませんでした。取らないで、大きなそこは全部自由にしたわけですけれども、かえってそのことが、私はドイツの行き方は正しいとは思っておりません。それは闘う民主制のああいう行き方というのは私は正しいと思っておりませんが、そのドイツと対照的に、そこが全体、自由だと言ってしまったものですから、どこでけじめをつけるかというところで、いろいろ日本のこの五十年があったんではないかというように考えております。
 けれども、これからは冷戦構造が崩壊し、そしてこれから本当に従来の発想にとらわれない、もっと自由な透明度の、最初紹介しました日本の社会の透明度がインドネシア、インドネシアには悪いんですけれども、そういうあれじゃなくて申し上げているわけですが、非常に程度がもう世界でも、正しいかどうかわかりませんですよ、国際的な有識者がそう思っているということは事実です、ようです。
 そういうように見られていることは非常に悲しいことでありまして、これからは従来の発想にとらわれないで、もっと伸びやかな自由な社会を作るように努力すべきだと。そのための司法改革、もろもろの改革はそのためにこそあるんだというように考えております。直接答えになっているのかどうかわかりませんけれども。
○会長(上杉光弘君) よろしいですね。
○福島瑞穂君 はい。時間が来ました。
○会長(上杉光弘君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 佐藤参考人には大変公務多忙の中、貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後三時十六分散会

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