第154回国会 参議院憲法調査会 第5号


平成十四年四月二十四日(水曜日)
   午後一時一分開会
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   委員の異動
 四月二十四日
    辞任         補欠選任
     大脇 雅子君     福島 瑞穂君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                市川 一朗君
                加藤 紀文君
                谷川 秀善君
                野沢 太三君
                江田 五月君
                高橋 千秋君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                愛知 治郎君
                景山俊太郎君
                木村  仁君
                斉藤 滋宣君
                陣内 孝雄君
                中島 啓雄君
                中曽根弘文君
                福島啓史郎君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松山 政司君
                大塚 耕平君
                川橋 幸子君
                北澤 俊美君
                小林  元君
                角田 義一君
                直嶋 正行君
                堀  利和君
                松井 孝治君
                柳田  稔君
                高野 博師君
                山口那津男君
                山下 栄一君
                宮本 岳志君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                松岡滿壽男君
                福島 瑞穂君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       学習院大学法学
       部教授      戸松 秀典君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (基本的人権)
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○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「基本的人権」について学習院大学法学部教授の戸松秀典参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、戸松参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、まず戸松参考人から三十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員とも御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、戸松参考人お願いいたします。
参考人(戸松秀典君) 御紹介にあずかりました、私、学習院大学で憲法の講義を担当しております戸松でございます。参考人としてお呼びいただき、大変光栄に思っています。
 それでは、早速でありますけれども、私には、事務局からの依頼によりますと、当審査会では基本的人権についての検討に入るということで、まず総論的、全体にわたった話をするようにというふうに求められております。また、私がアメリカ憲法の研究をしている関係で、できたらアメリカの人権保障との関係にも触れてほしいという、こういう要望でございました。それらを含めまして、三十分ほどまずお話しさせていただきたいと思います。お手元のレジュメに大体沿ってお話ししていきたいと思っております。
 まず、全体の人権保障ということの私の考えている見方なのでございますけれども、人権保障の規定、条文というのは、どこの国の憲法の規定も大体同じことなんですけれども、そんなに詳細に、個別具体的に決まっているわけではないわけです。その一般的、抽象的に書かれていることだけを見て人権保障の在り方等が分かるわけではない、むしろ、その下で生じている実態を見て、実態との関係で議論しなくちゃいけないんじゃないかというふうに思われます。そういうことで、そのような観点から本日もお話しするという、そういうつもりでございます。
 それから、もう一つは、憲法秩序の形成ということをそこに記しておりますけれども、これはもう一つ、私の考察視点、考察姿勢というふうに言っていいかと思いますが、そういうものであるわけです。司法権の担い手である裁判所の判断を通して人権保障が実際に具体的に実現していくんだと、そういうことによって憲法秩序が形成されるという、こういうこと、これが重要な視点となるべきじゃないかということであります。
 ここには、もちろん立法とか行政の政治部門の作用がかかわっておりまして、それを無視するわけでありませんけれども、司法権による具体的実現ということが憲法という法というものを具体化し秩序立てていくんだという、こういうことでございます。
 そこで、まず人権保障の展開といいますか概観ということをしたいと思っております。ちょっと私、声が小さいから失礼しているかもしれません。
 まず、人権保障につきましては、今実態を見ろというふうに言いましたけれども、その発展過程というものが重要であるというふうに思われます。裁判を通して人権保障が実現されるということに注目するということになりますと、人権保障の発展過程というのは通常よく言われる憲法訴訟とか憲法裁判の展開過程と軌を一にしたものであるということが言えます。
 私もそのレジュメの一番下に番号を振って書いてある参考文献を触れながらお話ししたいと思いますけれども、二の「憲法訴訟」というこの本の中で、憲法訴訟の展開、発展過程を論述しております。該当ページがそれなんですけれども、そこではとりあえず萌芽期、成長期、成熟期などとよくやる分類をいたしまして、人権保障もこのような経過をたどってきていて、現在は成長期を経て成熟期に入り掛けているんじゃないかという、こういうような分析をしているわけです。
 ここには、日本の人権保障の発展過程を見ますと、アメリカの裁判法理の影響、ここでは裁判法理ということを言っていますのは、初めのところで言いましたように、司法を通した人権保障ということが重要だというそのこととの関係でございますが、アメリカの裁判法理が萌芽期、成長期、特に成長期辺りから盛んに影響を及ぼしているということは言えるかと思います。
 ただ、影響を及ぼしているというふうに言っても単純ではなくて、その文献の一のところで全体を見回した論述を展開したわけですけれども、簡単に言えば日本化ということがなせる、アメリカの法理を形としては取り入れておりますけれども、日本に合ったように、あるいはある場面では一見取り入れているようだけれども頑固に日本的な様相のものに変わっているという、そういうことが言えるかと思います。
 このことは、考えてみれば当たり前のことかもしれないわけです。人権保障というのは、その国の歴史的な伝統とか社会慣習とか、国民社会の人々の意識とか、そういうものなどに強くかかわるものでありますから、外国の影響によって直ちに日本的なものが変化してアメリカ的なものになるなんてことはなくて、日本的なものの発展、成長の過程に何かの刺激が与えられたり、作用が及ぼされているというふうに見ればいいんじゃないかと思います。
 そういうわけで、詳細な論述は避けますけれども、一の文献などを見ていただければよろしいんですけれども、いろいろ試みて、学説上もアメリカの法理を盛んに裁判の中に取り入れるように説いても、裁判の結果を見て分析してみますと日本的なものに変わってきているというふうに言えるんじゃないかと思います。
 ただ、そういう観察をした上で全体として見ますと、日本国憲法のこの五十年余の人権保障の経過は独自な、ある程度積極的な、分野によっていろいろな異なりがありますけれども、発展を示してきているんじゃないかということが言えます。
 その発展性、その国の独自性などということにつきましては、例えば三の文献で私はアメリカの平等原則の様相を分析研究いたしまして、更に日本の平等原則についての分析にも比較研究しながらやったのが三の文献ですけれども、そこで示しておりますように、その国の独自の発展の経緯ということに特に注目する必要があるだろうと。アメリカはアメリカの平等原則の展開をしているんだという、こういうことが言えるんじゃないかと思います。その点が、その三の文献の九ページから二十四ページをごらんいただきたいということで指定したのはそういう意味でございます。アメリカの平等原則の展開を見ますと、それは決して日本と同じではあり得ないし、そのまま日本に導入できるものではないということが言えるんじゃないかということが言えます。
 ただ、そうかといいましても、現在では諸国で展開されている人権保障の実態がお互いに影響し合っているということも見逃せないんではないかというふうに言えます。そのことがレジュメの一の三番目のところに指摘しております国際間での人権保障実現の動向ということです。これについても注目する必要があるんじゃないかということです。このことは日本国憲法制定時に比べまして、現在では非常に大きな違いを見せている点ではないかということが言えます。この国際間の人権保障の実現の動向ということを無視して、人権保障のことは考えられないんではないかというふうに思っているわけです。
 私がここで言うまでもなく、国際人権規約というものは存在し、この国会でも承認され、加入しておりますし、さらに女子差別撤廃条約、人種差別撤廃条約など日本が加入している条約、これらは国際的な人権保障の動向を示すものでありますが、ただそれだけではなくて、人権侵害に対する国際的な関心の傾向あるいは国際的世論というものの動向というのが大変影響し合っているということが言えるんじゃないかというふうに思います。
 非常に大ざっぱでありますが、人権保障の展開、概観をそのようにした上で、人権保障の特徴としてどんなことがあるのか、さらにどういう課題がここでは見られるのかということに少し触れてみたいかと思います。
 まず、日本の方を見ますと、この五十年余の間に非常に発展した領域と、そうではなくて、それほどの発展が見られず、むしろ学説上はあるいは裁判の動向を見ますと発展が特に求められる領域などというのに二分できるんじゃないかというふうに思われます。
 よく発展した領域というのは、平等原則、憲法十四条の法の下の平等の原則についてであるかと思います。これは性差別の問題だけではなくて、議員定数不均衡の問題で投票価値の平等ということもありますし、それだけではなくて、様々な社会での差別についての問題意識が浸透して、裁判で争われ違憲の判断が出ればいいというわけではないというのが私の考え方、それは二の「憲法訴訟」で書いていることですけれども、合憲の結論が出ても、そこでよく議論が尽くされていて法理が発展しているということが重要ですけれども、そういう面からいいますと、人権保障の発展過程で平等原則というのは非常によく発展しているということが言えます。この点は、別に日本だけではなくて世界的な動向と軌を一にしているんじゃないかということも言えます。
 次は、経済活動の自由の領域、財産保障とか営業規制に対する保障などというのは、これは日本的な特徴かと思いますけれども、裁判所も積極的に立ち入った判断をしていて、よく展開している領域じゃないかというふうに思われます。
 それから、これは比較的近年の傾向でございますが、憲法二十条及び八十九条の政教分離原則についての展開であります。これは訴訟提起の仕方も地方自治法の規定の住民訴訟のやり方がありますので、それを利用して多くの訴訟が提起され、裁判所がこれに対応し、愛媛玉ぐし料訴訟では最高裁が違憲の判断を出すというふうになっておりますので、これは非常に発展している領域であるというふうに思われます。
 この点は、社会において信教の自由、政教分離原則についての意識が浸透してきているからだということも言えますし、それから諸外国での動向も影響、特にアメリカの影響もその面ではあるというふうに言えます。影響はあると言うんですけれども、前の話に戻りますと、裁判法理なるものは、アメリカのものをそのまま使っているわけじゃなくて日本化がなされているという、そういう特徴も見られるわけです。
 次に、一層の発展が求められる領域ということでは、精神的自由の中でも特に表現の自由の領域というのは、どういうわけか日本の社会ではそれほどこの五十余年の間、発展したとは言えないんじゃないかということが言えます。これは法律等の規制がそんなになされていないからだということも言えますし、アメリカのように、州の段階での各法律、条例等の規定が乱暴であって、そのために違憲の判断が出しやすいのと比べて、日本は周到な法令の制定がなされているからということが言えますけれども、それを差し引いてもいろいろ議論があり、また、十分裁判法理上も展開していないところじゃないかというふうに思われます。刑事手続上の人権につきましても同じようなことが指摘できるんじゃないかと思います。
 これは、もうその国その国による犯罪等の実情、そういうものが影響しておりますので、手続上の議論としては、アメリカの影響がかなりあるかのように見えますけれども、実際上はそれほどアメリカの理論そのままは生かされてはいない領域だと。見方にこれはよりますけれども、もっと裁判所が踏み込んだ救済の手続をすべきではないかという、こういう議論もあるところで、もっと発展が求められているところであるというふうに思われます。
 このように、非常にこれも大ざっぱに見ましてどういう課題があるかということでありますが、これについては最初に申し上げました司法過程と政治部門との関係、特に司法過程を中心にした観察をした上でのことでありますけれども、裁判所の判断が政治の場面でもう少し生かされるべきであると。つまり、立法府による対応ということが求められるのではないかということが言えます。裁判所の判断が立法過程で十分対応されるという、そういう環境であると裁判所も積極的な判断ができるんだけれども、立法部門が対応できないような状況では裁判所が消極的な判断にとどまるということにならざるを得ないんじゃないかということです。そして、全体に見ますと、社会の変化への対応ということが望まれているんだけれども、それが十分ではないんじゃないかということが観察し得るわけです。
 そこでの裁判法理上の問題としまして、裁判所が積極的な対応が得られないためにどうしているかということですけれども、これは裁判法理で言いますと立法裁量論という、そういうふうに私が名付けている、私が名付けているというよりも、裁判所がそういう判断をしているところをとらえて言っているわけですが、それをまとめた論文集としまして四のものがございますが、アメリカと比べますと、最高裁を始めとする日本の裁判所は、立法府の政策判断を尊重して立ち入った、裁判所独自の立ち入った判断を控える傾向にあると。この点が先ほど言いました表現の自由のような精神的自由の領域でもなされる、ここに課題があるんじゃないかというふうに思われるわけです。
 これをどう克服するかということですけれども、その克服については、独り裁判所のみではなくて、政治部門が先ほど言った対応の姿勢を取ることが必要ではないかという、そういうことでございます。
 単純に言って、そういうふうに言いますと、立法府は対応していないかというふうに簡単に性格付けちゃうように受け取られるのも私も本意ではなくて、詳細に見れば、積極的に対応する分野と、それから立法府の裁量に全くゆだねている領域とそうじゃない領域というのが人権の各領域とかあるいは立法の性格等についてございます。
 経済活動の自由の領域につきましては、立法裁量論を前提として取りながらも、比較的裁判所は立ち入った判断をしている領域ではないかというふうに思います。最も立ち入った判断をして立法裁量論が排される傾向があるのが平等原則の領域で、その展開を見ると人権保障の在り方についての一つのヒントが得られるんじゃないかというふうに思われるわけです。
 もちろん、社会福祉にかかわる人権とか、それから租税法にかかわる人権、そういう領域については立法府の裁量を尊重せざるを得ない。これは、裁判所が立ち入って判断するよりも、政治過程の政策的判断に任せた方が良いというふうに思われる領域でありまして、そういうふうに分析しますと、一律に立法裁量論を克服すればいいというわけではなくて、人権保障の領域ごとに検討の必要があるということじゃないかと思います。
 これに加えて、国際的動向ということを先ほど言いましたけれども、国際的動向への対応ということが必要かと思います。特に外国人に対する人権の保障というのは現在の大変重要な課題になっておりまして、外国人ということで人権保障の在り方を日本国民と変えていいのかというと、そう単純ではなくなっているわけです。その人権保障の内容ごとに対応しなければいけない。選挙権などというものとそうじゃないものとの区別などということも、一つの重要な課題であろうというふうに思われるわけであります。
 今後、人権保障は、ではどういう展望がなされるかという、将来に向けてのことでありますけれども、一つは、先ほども触れていることに関係いたしますけれども、社会の変化への対応をする必要があると。これはどういうふうにしてやるのかということですが、社会の変化への対応というのは、一つは、人権保障の規定をもっと現在の状況に合わせて盛り込めばいいではないかという、こういう考え方も学説上もなくはないわけです。要するに、人権保障規定の憲法改正によって対応すればいいということで、よく取り上げられているのは、例えば環境権という権利でございますが、これを憲法にうたえばいい、うたうことによって環境保全ということが促進されるという考え方、あるいは現代社会の状況として、個人情報ないしプライバシーの侵害ということが非常に顕著であるから、だからこれを、プライバシーの保護、プライバシー権の保障ということを憲法にうたえばよいという、こういう考え方がありますけれども、私はこれについてはどうもそれほど魅力的な考えではないというふうに思われます。
 これは、そもそも最初に申し上げましたように、人権保障規定というのを一般的、抽象的な言葉で語るわけで、そこに何かの価値が盛り込まれているといっても、そこで一義的な価値が定まるわけではなくて、憲法に盛り込まれたところは立法によって具体化し、実現していかなくちゃいけない、さらに、司法過程によって個別具体化をする必要があるということであります。ですから、現在の日本国憲法の条文の規定によって何らかの人権の解釈が可能であるならば、憲法の改正をしなくても、その下に更に立法をして具体化すればいいではないかという、こういうことです。
 もちろん、これに対する反対の考え方がありますけれども、例えば環境権について、環境権の保障を憲法にうたうと環境保全が一気に促進されるなんということはだれも期待できないわけで、むしろ環境権を十三条なり二十五条なりそういうところから読み取って、憲法上の権利であるけれども、それを実現するためには環境保全にかかわる様々な立法をしなくてはいけなくて、その立法の下に具体的な施策がなされれば、それで環境権なる人権が具体的に保障が実現されるということになるんじゃないかという、こういうわけであります。
 諸国には環境権をうたった国がありますけれども、その下でどんな立法がなされているかということを見ない限りは、環境権の保障ということについての実態が分からないんじゃないかということは言えます。
 プライバシー権についても同様でございまして、もうじき制定され、実現されようとしています個人情報保護法の制定がなされ、そして制度化がなされて、その運用がなされる過程でプライバシーの権利というのが実際に具体的に保障されるわけですから、現在のように憲法十三条の生命、自由、幸福追求に対する権利という、この規定からプライバシーの権利を読み取れば読み取ることができるというふうに裁判法理上はなっておりますので、その下で十分じゃないか、むしろ立法による具体化、制度化ということが重要ではないかという、そういうふうに思われます。
 こういうわけで、人権保障につきましては、憲法の規定はとにかくあるとして、その下でどういう立法がなされて、どういう憲法秩序が形成されるかということが重要ではないかというふうに、私はいろいろ研究した過程で思っているわけであります。
 既に昨年度から制度化が具体化し、実施に移されておりますあの情報公開制度も正にそういうものでございまして、学説によれば、知る権利というのは憲法上の人権だというふうに言って、何条から読み取れるということを言っておりますけれども、それで知る権利の具体的実現がすぐなされるわけではなくて、今一年ほどたっております情報公開制度が運用されていく過程でこの知る権利というのが具体化され実現されていくということです。ですから、憲法上の根拠をどこに求めるかというのは解釈、技術上の問題にすぎなくて、知る権利の実態というのは、情報公開制度を含めて見ることによって把握できるんじゃないかというふうに思われるわけです。
 ほかに、これは言い出せばずっと全部そういうことの説明が成り立つわけですけれども、福祉給付権、生存権についても同様であるかと思います。
 生存権などは、特に二十五条の条文を幾らにらんでも具体的な内容は出てこないんではないかという気がいたします。もちろん、人によっては憲法二十五条は具体的な権利だと言う人がありますけれども、それはその人の思いを、希望、願いを込めて言っているだけで、憲法秩序上それが保障されるわけではなくて、二十五条の一般抽象的な言葉から様々な福祉立法がなされて、そしてそれが行政上実施されて、その過程で問題があれば裁判で争われ、そしてその裁判の過程で是正が求められて立法府に投げ返されて、立法府がその問題点については修正なり改正して対応して二十五条の権利が一層具体化し発展すると、こういうふうになっていくんじゃないかというふうに思われます。
 同じようなことを繰り返しませんが、女性差別の問題についてもそうであろうというふうに思われます。
 こういうわけで、私の目から見ますと憲法訴訟とか憲法裁判の機能が大変重要でありまして、それとの関係で政治部門が対応していくことによって人権保障が実現されていくんじゃないかと。この間では相互の関係が重要でありまして、決して司法が独自に独り歩きし先導しても社会の変化が得られるわけではないわけで、どちらかといえば司法というのは、立法府、政治過程で政策決定なされたところに後追いの形で憲法の名においてチェックしていくという、こういう過程、形がなされるんではないかというふうに思われるわけです。
 こんなわけで、人権保障の実効化、効果を十分発揮するということにつきましては、繰り返しになりますけれども、政治過程と司法過程との連携、政治部門と司法部門の相互関係ということを経てなされるんではないかというふうにとらえるわけです。
 こういうわけで、積極的な社会の変化に対応した立法が求められますけれども、立法されればそれでよいわけではなくて、それが社会に適用されて、様々な形で訴訟が提起されて、その訴訟が提起されますと極めて個別具体的な争点というのが明らかになりますから、それに対して裁判所が判断を下し、それが立法府なり行政府なり政治過程に投げ掛けられて、そこでまた再検討されるという、こういう過程がダイナミックに展開されることが必要じゃないかというふうに思われます。そこがダイナミックな展開が見られないと、人権保障が停滞しているとか様々な問題が指摘されることになるんじゃないかというふうに思われるわけです。
 そういうような考えを最後にレジュメのところに、番号振っていないものですけれども、昨年の一般向けの講演でやったところを雑誌に載っけておりますので、そのようなことを述べたのがそこの最後の規定でありまして、憲法価値の具体的実現ということを言いましたが、憲法はもちろん皆さん御承知のように様々な価値が込められているわけですが、その価値というのは一義的ではなくて、それを具体的に実現するというのは、今申し上げたような経過をたどってなされるべきであろうと、人権保障については特にそういう面が必要ではないかというふうに思われるわけです。
 およそ与えられました時間が過ぎたと思いますので、これで取りあえず説明とさせていただきます。よろしく。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終わりました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いいたします。
 野沢太三君。
○野沢太三君 自由民主党の野沢太三でございます。
 先生、ただいま貴重なお話をありがとうございました。
 ただいまいただきましたお話と、事前にちょうだいしております先生の著書、論文、それから我々が抱えております今日的な課題等を含めまして、二、三の質問をさせていただきたいと思います。
 日本の現行憲法がアメリカの憲法の思想並びに成立過程において相当大きな強い影響を受けて成立したことは既にこの場でも議論がなされておりますが、特に人権条項について見ましても、憲法十三条の基本的な人権にかかわる取決めとアメリカの独立宣言の中でうたわれております基本的な人権が生まれながらの権利という考え方、これがもう全く同一の、文章もほとんど似ているという状況で取り入れられているわけでございます。このことは非常に私どもとしても大事なことで、ただいま先生からお話がありましたように、この人権の問題を含めて、こういった課題は国境を越えて通用していく問題だと、こういう御指摘は誠に私どもも納得できるわけでございます。
 そこで、現在の日本国憲法をそういう意味でもう一度読み直してみますと、終戦後作られた憲法、今から五十五年前でございますが、その当時としては相当進んだ考え方であったのではないかと、かように見られるわけでございまして、既に一般的に通用しております表現の自由とか、あるいは思想、信条、職業、住居、婚姻等の自由、こういったものに加えまして、健康と文化的な生活を送る権利であるとかあるいは教育を受ける権利、言わば社会権といってもよろしいかと思いますが、こういうものが積み上げられて現行憲法を形成しておる、なかなかよくできた憲法とも言えるわけで、それがゆえに今日まで改正のチャンスもなかったということもあろうかと思いますが、半世紀を経まして、今日では既に一九六六年に国際人権規約もできておりますし、九〇年代には子どもの権利条約というようなものもできておる。そのほか、環境その他の取決めも随分進んでまいっております。
 そういった面から見ますと、この辺でやはり私どもの憲法がいかにあるべきかという議論を大いにやるべしということでこの調査会も成り立っておるわけでございますが、アメリカの憲法における人権条項というものを概観いたしてみますると、当初の成立過程では人権条項は余りまとまったものがなくて、その後、十項目にわたる修正でこの人権条項が盛り込まれた。さらにまた、百年近い年月を経た後、南北戦争という大変な犠牲を払って奴隷解放並びにそれに基づく人権条項の付け加えというものが十三条以下できてきたということが見られるわけでございます。
 こうして見てみますと、やはり社会情勢の変化を受けて一般法で対処するということがもうできなくなってきた段階では、やはり憲法を見直してそれに対応するということが極めて大事だと私どもは認識しているわけでございます。
 アメリカの憲法の成立から今日までの経過、二百年近い中で二十八回にわたる修正が行われたということでありますので、こういった現実的な対応の仕方、基本を変えずに、しかし必要なことは付け加えていくんだというやり方ですね、アメリカ的な私、現実主義とも考えるわけですが、こういったやり方と、今後の日本の憲法に対する取組について、抜本的に見直すか、それともアメリカ的なやり方がいいか、いろいろ議論があるところでございますが、先生の御意見をひとつお伺いしたいと思いますが。どうぞよろしくお願いします。
○参考人(戸松秀典君) どういうやり方がいいかというのは、この政治を担っていらっしゃる議員の方がお決めになればいいことですけれども、私は世界の憲法のいろんな見方を見ますと、個別的に見ていくやり方と、それから抜本的に改正とかいろいろあるかと思いますけれども、日本国憲法の第三章の人権保障の規定を見て、そこからおよそ解釈できないような困難な人権があってそれで人権保障がうまくいかないという、そういうことが指摘されれば何か加えるとか改正するということが必要かと思いますけれども、先ほども申し上げましたように、社会の変化に対応した新しい人権の解釈が可能かといいますと、十三条という大変広い内容を持った規定もございますし、それからアメリカと比べれば詳細な人権保障規定を置いておりますので、何か人権保障を加えなければ人権保障が推進できないというふうには私はとらえておりません。むしろ、先ほど述べたところの繰り返しになりますけれども、立法による具体的な対応をして進めれば十分それはできるんじゃないかというふうに思います。というのは、エネルギー論でありますけれども、憲法改正にエネルギーを投じるぐらいなら、立法の方に十分エネルギーを投じて人権保障の具体化をなされればいいんじゃないかというふうに思われます。
 アメリカのことをおっしゃいましたけれども、アメリカの人権保障規定を見ますと、非常に大ざっぱな規定、一般的な規定で、例えば生存権の保障の規定はございませんし、それから教育を受ける権利の規定もございませんけれども、だけれどもアメリカではそれなりのことがなされている、そういうことが言えますので、あえてそれほど強い改正の必要あるいは抜本的見直しは必要ない。それほどうまくできているんじゃないかと思われますし、それに、人権保障の規定というのはそれだけ一般化、抽象化なされていますから、十分対応できるんじゃないかというふうに思っております。
 もっとも、この後は政策論でありますから、どういう規定を置くことによって更にどういう人権領域を促進するという、こういう政策は十分取れるかと思いますけれども、そういうコンセンサスが国民の間で得られれば、それはそれでいいということも言えるかと思います。
 以上でございます。
○野沢太三君 現在の日本の憲法に先立ついわゆる帝国憲法、明治憲法の人権条項というものがこれあるわけですが、これを見ると、十五か条にわたる、一通り、当時既に問題になっておりました自由民権運動等で要望のあったことは盛り込まれておるわけですね。いわゆる公職の平等、住居の不可侵、言論の自由、あるいは請願権、裁判の権利等々ございますが、これが法律上の留保、法律の範囲内で認められるという制約があったと思うわけです。それから、その上に天皇の非常大権というものがあり、統帥権というような問題が裏にあったということ、さらには人権保障制度の根本的ないわゆる思想というかそういったものがない。今の十三条にあるような考え方が当時はなかったという、そういったことが大きな問題点として指摘されて、結果的には軍部が台頭して治安維持法みたいなものができて人権が大変抑圧されたと、こういう結果になっておるわけです。
 また、ドイツの憲法、今、基本法になっていますが、その前にワイマール憲法というのが、当時としては大変な社会的人権、そういった面では進んだ憲法と言われながら、結果的にナチスの台頭を許して、ユダヤ人の虐待と、こういった問題を生んでしまった。
 とすると、私どもはこの歴史の教訓を考えますと、やはり基本的人権といえども、それを支える国家の統治機構とかあるいは国民主権、そういった強い支えがないと人権の擁護も成り立たないのかなと、こういうイメージを持っておるわけでございます。
 その意味で、今後のこの基本的人権の更なる擁護拡大、これにはやはりそれに伴う国家の統治機構と、同時にこれを支える責任、義務、こういったものが国民に伴っていないと画餅に帰すという心配があろうかと思いますが、この辺の経過とそれから今後の我々の進むべき道について御意見ございましたら、よろしくお願いしたいと思いますが。
○参考人(戸松秀典君) 明治憲法のことを持ち出されましたけれども、明治憲法には基本的に人権規定の思想が、今御指摘のとおり法律の留保ということがありましたけれども、一応人権のカタログがあるじゃないかとおっしゃいましたけれども、根本的には平等原則に当たるものはございませんでした。ですから、国民が平等に扱われるという、そういう理念はなかったわけです。
 それからもう一つは、最大のものは、正に今おっしゃられました国家統治機構の仕組みの問題ですけれども、違憲な立法、違憲な国家行為に対して、国民が訴えてそれを是正する道がなかった。これを司法審査制と今、私呼んでいますけれども、現在の憲法八十一条の違憲立法審査権という言葉を使われるのが多いんですけれども、違憲の立法だけじゃなくて、違憲の国家行為すべてについて争う道ということで、違憲か合憲かどちらの結論でもいいんですけれども、一定の国家の機関で、これは裁判所ですけれども、裁判所で争って議論するという、こういう仕組みがなかったということであります。
 ですから、日本国憲法はその仕組みを備えておりますので、先ほど言いましたように、憲法訴訟、憲法裁判がなされる仕組みになっていますから、その点では新たに何かを付け加える、根本的に付け加えるということは必要ないんじゃないかと。ただ、違憲な立法を争うような機会をもう少し増やすような手続上の手だて、制度上の手だてが必要、これは更に立法で工夫するしかないというふうに思われます。そんなふうに考えております。
○野沢太三君 憲法と我々の日常生活、特に司法、行政、立法、我々立法府におるわけでございますが、絶えず憲法に適応するかどうかと、こういった問題を考えながら仕事をしているつもりではございますが、今、先生御指摘のように、憲法で決めてあっても、それを具体的に実行したり保障したりするそれぞれのレベルにおける機関が機能しないと意味がなくなると、こういった問題があろうかと思うんですが。
 それで、現行憲法でもこれだけ人権ということが第三章でうたわれていながら、今、今度の国会に人権擁護法というのが提案されておりまして、人権委員会を作ろうと、あるいは人権委員を選ぼうという、五十年してようやくこういうものができるというところまで来たわけでございますが、その意味で、今後の憲法の議論の中で、私どもは憲法裁判所というものがやはり検討すべき必要があるのではないかと。
 昨年、私どもドイツに参りまして、ドイツの憲法をいろいろ尋ねてみたら、憲法裁判所が相当忙しい仕事をしている。年間数千件に及ぶ訴訟が出てきて、それについて全部もう引き受けて、一手に引き受けていると、こういうやり方ですが、日本の場合には、一般裁判所がこれを判断し、最終的には最高裁が決めると、こうなっておりますが、この憲法裁判所の制度を作るのがいいか、それとも今日のような形で一般裁判所で憲法判断をしていく方がいいのか、先生はどちらの方がよろしいと思っていらっしゃるか、御判断をお願いしたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) その指摘につきましては、私は結論としては現行の制度でいい、憲法裁判所を作れば世の中が変わるということは、それはあり得ないというふうに思っています。
 まず、五十年間経験してきたことは、現在の違憲審査制、司法審査制というのは憲法制度として定着している、これを変えるということは憲法改正が必要であるというふうに私は思っています。八十一条の条文の解釈をして工夫すれば可能だという議論はなくはないですけれども、この積み重ねられた五十年の実態を変えるというのは憲法改正しかないじゃないかというふうに思われますので、それは大変なエネルギーが要ることだと。
 では、憲法裁判所にすれば、ドイツや隣の韓国も制度を取り入れましたけれども、うまくいくかというと、ドイツの制度は、ドイツ派の人は盛んにいいというふうに言いますけれども、私は決していいと思いません。憲法裁判所の裁判官が政治的な仕事をし過ぎているということで、大変まずいことだという指摘がなされることもあります。
 ですので、私は司法権というのは政治化しないこと、なるべく法的な物事を政治から離れてできるような、そういう制度が良いというふうに思われますので、それは全くそういうことが不可能、政治化しないなんてことはあり得なくて、先ほど私が説明しましたように、政治部門との対応関係、そこを考えて進めなくちゃいけないということがありますから、それは意識しながら、しかし司法部は純粋な法的な部門だとしての認識を持った処理が必要で、そういう法解釈が必要だと。そういうことをやってきたのは、あの五十年間のあの実績を見て決して間違いじゃなかったじゃないか。
 先ほど言いました違憲の判断が出ればいいというのは乱暴な議論でありまして、ドイツの憲法裁判所が違憲の判断をぼんぼん出しているとか、韓国の裁判所が違憲の裁判をどんどんやっているからそれでいいかという、私はそれで人権保障の実態がうまくいっているかというと、そこはいろいろな、それぞれの国で、ドイツでも韓国でも指摘がありますように問題がありますので、制度を変えれば良くなるというふうには決して思っておりませんし、むしろ日本の場合、憲法裁判所になったら、むしろ憲法秩序の形成上、政治化が余りにも進んでよろしくないんじゃないかということは、やってみなくちゃ分からないことですけれども、そういうふうに思っております。
 以上です。
○野沢太三君 それから、今度、法の下の平等という点がやはり大きな、憲法、特に人権の面では大きな課題であろうかと思うんですが、特に今後、国際化ということを考えますと、日本も相当いろんな外国の方もお見えになって暮らしておられる、あるいは、もう長いこと、昔は日本人だったという人もいるわけでございますが、そういう中で地方参政権をやっぱり与えるべきだ、あるいは必要だ、税金も納めておるんだと、こういう立場で相当根強い運動が今出てきておりますが、この憲法と人権という立場から考えた場合に、在留の外国人の方、特に永住をしておられるという方については地方の参政権は与えたらどうだと、こういう意見があるんですが、先生、この面についてはどんなお考えお持ちでしょうか。
○参考人(戸松秀典君) これは、一つは政策判断、価値判断の問題だというふうに思われまして、それで、私が一市民としてどう考えているというその考え方がありますが、憲法研究者が政策はどうであるかということを説くような立場じゃありませんので、私が言えるのは、憲法解釈上、国民主権原理からいって、国の、中央の議会の議員につきましては外国人に選挙権を与えられないという解釈、これは最高裁の解釈ですが、それは解釈上正当であろう、それが憲法秩序になっているだろうと。外国人の地方議会議員を選出する参政権につきましては、最高裁が言っているように、憲法は何にも言っていないんだ、禁止もしていないし、その保障もしているわけじゃなくて、立法政策の問題だというふうに言っている。これは巧妙な判断の仕方で、それによって外国人に地方参政権が与えられるというのは、それは一つのやり方ではないか。
 ですから、あとは議会における、つまり国会における政策決定でそちらに踏み込まれればいいんじゃないか。そうやっても決して現在の世界の憲法状況等から見ても憲法違反とは言えない、最高裁が言っているとおりではないかという感じは持っております。
○野沢太三君 もう一問、時間も来ましたので簡潔に申し上げますが、もう一つ同様の問題といたしまして、立法裁量論というものの範疇に属するかと思いますが、いわゆる一票の格差の問題がございます。
 今、大体、衆議院ですと二倍以内はいいだろう、合憲だろうと、あるいは参議院ですと六倍以下ならば合憲かなと、こういうことで判例も既に幾つかあるようでございますが、これが果たして今後このままでいいのかどうか、もう少ししっかりした判断が出てきてもおかしくないかな。あるいはアメリカの上院の選挙なんかを見ますと、もう何十倍という違いがあってもそれはそれとして認められていると。これも一つのお考えかと思うんですが、選挙における一票の格差、そして定数の問題、これについての憲法の面から見た先生のお考え、いかがでしょうか。
○参考人(戸松秀典君) これも、投票価値の平等というのはどの辺りが基準かというのは、一種の価値判断の問題でありますから、いろいろな考え方があり得るということですけれども、これを国の憲法秩序の中でどういうものに固めていくかというのは、やはり私が先ほど説明しましたように司法過程と政治部門との相互関係で決まっていくことだと思います。
 最高裁が当初三対一ぐらいのところでという言い方をしたのは、立法府の対応が得られる相場がそこだろうという、こういう判断でなされておりますので、議会が一対一の投票価値の平等になるべく近づけるように努力するような立法の姿勢が見られるならば裁判所もそちらに近づくであろう、あるいはそういう判断をしてもいいような訴訟制度ができればいいだろうということで、誠にあいまいな答えでありますけれども、どこであるのが必ず憲法の価値だということは一概に言えなくて、様々な議論を経て、政治過程、司法過程の議論を経て価値が形成されるというふうに見ていけばいいんじゃないかというふうに思われております。
○野沢太三君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 大塚耕平君。
○大塚耕平君 民主党・新緑風会の大塚でございます。
 今日は戸松先生には大変貴重なお時間を、わざわざおいでいただきまして、ありがとうございました。
 興味深いお話を聞かせていただいたんですが、今、野沢先生も触れられましたけれども、今日からちょうど人権擁護法が参議院先議ということで審議入りして、大変絶妙のタイミングで貴重なお話をお伺いできたなというふうに思っておりますが。
 先生、先ほど人権擁護法はいずれ成立すると思いますがというふうにおっしゃられましたが、これから審議しますので、別に成立が予定調和の原則として既にビルトインされているわけではありませんので、この人権擁護法、せっかく今日から審議入りしましたので、この問題とも絡めて、先生のもう少し御高説を賜りたいなと思うんですけれども。
 今日いただいたレジュメの中にも国際間での人権保障実現の動向とか、あるいはレジュメの真ん中の方には国際的動向への対応と、こういったフレーズが見られるわけですけれども、結局、先生が御指摘になっておられる点は、憲法というのは必ずしも、言ってみれば、先生の資料の中でもピラミッド型の法体系ということを言っておられますが、ピラミッド型の法体系の中で、最高の法理を形成する唯一のものではなく、国際法、広い意味での国際法ですね、条約とか国際慣行とか国際世論も含めた、そういったものにも日本国における憲法価値のピラミッドというものは、あるいは法理のピラミッドというものは拘束を受けるという、こういう理解でよろしいですか。
○参考人(戸松秀典君) これにつきましても、単純に言いますと、憲法優位説と、憲法と条約との関係で、条約優位説などという対立が、私の言う萌芽期辺りでは、日本国憲法制定後はしばらくありましたけれども、あれかこれかの問題じゃないというふうに私はとらえています。
 先ほど挙げました若干の条約の過程を見ていただいても明らかだと思うんですけれども、条約を加盟、承認するときには議会で議論いたしますよね。その過程は、要するに日本国憲法の秩序内に収まるものかどうかという議論がなされて、そして、受け入れられるならばいいんだ、そのまま受け入れられるならばそうなんだけれども、そうじゃないときには、女子差別撤廃条約のときが正にそうですけれども、様々な法改正を用意して、その条約に加盟、承認したときに憲法秩序が十分矛盾なく存在できるかどうかということを見据えてから条約を承認するわけですね。
 ですから、国際的な影響というふうにいいましても、憲法より高い価値が日本国憲法秩序の中に入ってくるというよりも、日本国憲法の秩序内に取り込むにはどうしたらいいかという議論を経て、ピラミッド型の秩序の中に収めるようにしているという、こういうふうになっているというふうに見るべきじゃないかと。
 最高裁判所もそういうふうに判断しておりまして、人権規約違反とか、どうかという議論をする、そういう主張をするのもいいんだけれども、だけれども、日本の法秩序、憲法秩序の中に収まっているからあえて条約違反ということを言わなくても合憲、違憲の判断はできるという、こういうような態度を取っておりますので、私はそれでいいんじゃないか。諸外国も大体そういうふうになっているんじゃないかと。つまり、条約優位か憲法優位かなんという単純な議論じゃなくて、議論をしつつ秩序の中に取り込むという、こういうダイナミックな形成過程がなされていると、こう見ればいいんじゃないかと。
○大塚耕平君 ありがとうございます。
 私は、必ずしも憲法優位論かあるいは国際法優位論かということを何かここではっきりさせたいということではなく、今の先生のお話にありましたように、ちょうど先生の資料でいうところの司法過程と政治過程のダイナミックな相互作用の中で憲法法理が形成されていく、憲法価値が形成されていくのと同様に、国内法と国際法のダイナミックな相互作用の中で今日的な基本的人権、普遍的な基本的人権が実現されていくものだと、こういうお話だったというふうに理解しています。
 そういう中で、例えば日本は御承知のとおり国連に加盟しているわけで、国連人権規約委員会から様々な勧告を受けているわけでありまして、もちろんその国連人権規約委員会の勧告がどういう法的意味を持つかということについては諸説あろうかと思いますけれども、先生の当然個人的御見解で結構でございますが、やはり国連に加盟して日本も人権規約の傘下にある国として、この規約委員会の勧告がやはり日本の国内法の法理や価値体系に影響すべきものであるというふうにお考えかどうかというのを端的にお伺いしたいんですが。
○参考人(戸松秀典君) 今言いましたように、国際的な議論を日本の憲法秩序形成の中に取り込んで議論するという過程からすれば、もちろんそういう勧告についても同じような過程を経て憲法秩序の中に取り込まれるべきであると、実際そうなっていくんだろうというふうに観察しております。
○大塚耕平君 ありがとうございます。
 そうすると、次に、その問題を踏まえた上で立法裁量論の許容範囲というものについてちょっとお伺いしたいんですけれども、例えば既に成立している法律や法解釈やその法律に基づいた様々な事象の行政的判断とか、そういったものに関して立法裁量論的な観点でいいか悪いかという判断をするということが先生の資料にも一杯書かれているんですが、例えば今、人権擁護法というのは、私たちこれから国会の審議で成立させるかさせないかということをやるわけですね。今、上程された人権擁護法が、先生も今おっしゃいましたある程度しんしゃくするべきではないかという国際法理から要求されているニーズを満たしていない法律構成になっているとすると、そういうものを立法府が立法することも立法裁量論の範囲内であるかどうかということについて、これは政治的な判断というよりも憲法学者のお立場で、ロジカルにそこの考え方をちょっと聞かしていただきたいんですが。
○参考人(戸松秀典君) 大変抽象的なおっしゃり方をされていて、国際的に要請されているところというふうにおっしゃっていますが、それは一義的に決まんないんじゃないかというふうに思われますよね。ですから、それが決まらないで立法府の裁量の範囲かどうかということも難しいわけで、そこのところは、やはり国際的に何が要求されているのかということを固めつつ立法過程で、つまり人権擁護法なら、その成立過程で議論されて、それが取り込まれているかいないかということが議論されていくんじゃないんでしょうか、というふうに私はとらえています。
○大塚耕平君 そうすると、また最初の質問に少し戻ってしまうのかもしれないんですけれども、国際法とか国際世論とか国際条約で日本の国内法、法体系といいますか国内法理に要求されているものというものは、文言の解釈や時代によってそれも変わり得るし、一概には言えないということを言っておられるわけですね。
○参考人(戸松秀典君) いや、そこで何を具体的にお考えになって言っているのか分からないんですが、国際的な、例えば具体的に申し上げますと、児童の権利条約などで取り決められている内容というのは世界の様々な子供の人権状況というのを見ながら作っておりますので、アジアのある経済的に貧しい国のすさまじい状況の子供の人権状況と日本の比較的豊かな状況とを、それも同じ文言で取り込んでいるということですので、それを国内法秩序に取り込むときには、日本としてはどこまでのところを付き合ってどういう意味で取り込むかということで入れているはずですので、非常に幅、伸縮があるということで、これも一義的に定まらないことじゃないかと思います。
 国際人権条約というのは、人権に関する条約というのはその辺が非常に多いところで、そこで加盟するときに賛否いろんな議論があったことは御承知のとおりかと思いますけれども、そういう面があるんじゃないかというふうに思っております。そういうとらえ方をしております。
 以上です。
○大塚耕平君 ありがとうございます。
 ちょっと視点を変えて質問させていただいて、また今の話に時間があれば戻りたいんですけれども、余り法律の原書というのは読んだことがないんですけれども、先生が資料の中でも言っておられる憲法価値の実現というときの価値というのは、英語だとこれはバリューになるんでしょうか、ワースになるんでしょうか、メリットになるんでしょうか。ちょっとそれをお伺いしたいんですが。
○参考人(戸松秀典君) 基本的にはバリューでいいんじゃないでしょうか。
○大塚耕平君 今、突然お伺いしていますので、恐らくバリューではないかと思うんですけれども、バリューかワースかメリットかによって、今日、先生に御教授賜っています基本的人権、これを憲法法理の中でどうやって実現していくかというときの意味が、僕、大分変わってくると思うんですね。
 ワースというのは、これは辞書によると、ちょっと今、委員会の前に調べてきたんですけれども、知的、精神的、道徳的価値であると。ある一定のモラルみたいなことを言っていて、バリューというのは実際的な有用性を加味した価値であると。メリットというのは称賛に値する、あるいは人々が望む価値という、こんなような違いがあるらしいんですね。
 私は、どちらかというと経済の方が専門なんですけれども、経済やあるいは経済政策の分野でも、実現すべきものがワースなのか、バリューなのか、メリットなのかということが、大変これ、日本の国の運営にとって今重要な違いになってきていて、これはどういうことかと申しますと、ワースというのはある一定の、それこそ予定調和、上から見た実現すべき価値、バリューというのは何かユースフルな価値であると。しかし、メリットというのは、同じ価値でも人々が本質的に欲しているもの、そういうどうも違いがあって、経済政策の分野でも実現すべきなのはワースやバリューではなくてメリットではないかということが言われ始めているんですけれども。
 そう考えたときに、今日御教授いただいている基本的人権というものがバリューとかワースということになると、これは先ほど先生がおっしゃったように、国際法理から要求されているものが必ずしも一概に言えないということになるわけなんですけれども、私は基本的人権というのはそういうものじゃないんじゃないかという気がしておりまして、したがって先生に先ほどそこのところをお伺いしたわけなんですが、私、今るる自分の私見を申し述べさせていただいておりますので、こういう意見もあるということを御理解いただいた上で、基本的人権というものが果たして、しかも国際世論や国際法理の中で要求されている基本的人権というものが、先生が先ほどおっしゃいましたようなある程度解釈の余地の広いものなのか、あるいは先ほどの先生のお話は、これは理解の仕方にもよりますので、あるいはもうちょっとぐっと狭まった割と厳格な解釈が成り立つものなのか、その辺についてちょっとお考えをお聞かせいただきたいんですが。
○参考人(戸松秀典君) 大変その点がお詳しくて、また独自のお考えを持っていて、それも一つの考え方で、私は、そういうものをひっくるめて、今、私が憲法価値と言ったのを英語に置き換えるとどうなるということは考えておりません。なぜ英語で置き換えなくちゃいけないかというその理由も分かりませんので。
 日本語の価値という言葉、そこにはおっしゃったようなバリューもありますし、イデオロギーもモラールもいろいろあると思うんですけれども、恐らくはそういう言葉で使われている。憲法の人権保障の中というのは、イデオロギーも入っているでしょうし、ワースもあるでしょうし、バリューもあるし、いろんなものがあるんじゃないかという、そういう多様なものがあるのを、いろいろな議論を経て、政治過程、司法過程を経ながら具体化していくという、そういうところに注目すればいいということで、私は、研究者として、これはこうであらなくちゃいけないという、何かを決めるなどという使命は持っていないし、そういうことをやるのは政治家であり宗教家で、いろんな人が、これがどういうものだということをおやりになればいいので、研究者はそれをやるものじゃないというふうに基本的に思っていますので、憲法学者が何かを言うと世の中が良くなるというそんな単純なものならいいんですけれども、そんなものじゃない。
 私は、いろんな議論を整理して、こういうものだというまとめをして議論の基礎となるものを提示すればいいというふうに思っていますから、私が何かの価値とか何かのイデオロギーなんかを持っていてそう決めているわけではないというふうに御理解、その意味では憲法価値といったときは大変広い概念だという、何か厳しい固まったものがあるというふうには思っておりません。
○大塚耕平君 ありがとうございます。
 少しまた視点を変えますけれども、先生も先ほど申し上げ、僕も申し上げましたように、政治過程と司法過程のダイナミズムの中で憲法価値が実現されていくということを言っておられますが、そこで言う政治過程の中には立法以外に行政というものも含んでいるというふうに考えてよろしいわけですね。
 そうすると、例えばそれも、今回の、今日から審議入りしました人権擁護法に引き付けてお話をし、私なりの考え方を述べさせていただきますと、これから争点になるところが、人権委員会とかあるいは地方に置く地方人権委員会という、こういう行政組織がどういうフレームワークの中でどういう機能を持って設置されるかということが一つの争点になってくるわけですが、今、先生、行政も含むというふうにうなずかれましたので、とすると、こういう行政組織の置き方の適否というのがやはり憲法価値を具体的に作り上げていく上で非常に重要な意味を持つというふうに理解してよろしいでしょうか。
○参考人(戸松秀典君) まず最初の、行政もというのは、特に日本の場合には中央政治の場合を考えますと議院内閣制でございますから、立法府と行政府というのは非常に相互関係というのが強いものですから、政治過程の中では、もちろん立法府は最終的に立法作用をするんですけれども、それには行政部門の作用が非常に働いているというふうに思っていますので、それはミックスして考えていいんじゃないかというふうに思います。
 そして、人権擁護のためのどういう組織、機構を設けるかということは、これは政策決定の問題で、憲法から一義的に出てくるんじゃないんじゃないかと思います。憲法から一義的に出てくるのは、なるべく人権保障が効率的にできるようにという要請ぐらいのものでして、この後は、自治体のどういう機関にどういうふうに置くかというのは、住民の信頼とか従来やってきた行政機関の実績とかこれに対するコンセンサスとかいろんなものが働いてくるのであって、私はそこで何が憲法上要請された適当な制度だということは一義的には言えないんじゃないかというふうに思います。むしろ、政策的に決定してこれでいこうという、それが説得力を持つかどうかということに懸かっているんじゃないかというふうに思っていますので、憲法研究者の立場から何がという答えは出てこないというふうに理解しております。
 よろしいでしょうか。
○大塚耕平君 もう時間がありませんので、最後に一つ聞かせていただきたいと思います。
 先生からちょうだいしました資料の講演の書き起こしの方ですが、「法学教室」の四十二ページに、上段から中段に掛けて、日本では精神的自由とか政治的意見表明に関して、やはり、やや憲法法理といいますか憲法解釈の観点で、まだ十分に体系化されていないし制限があるというようなお話があるんですが、今回、人権擁護法では、報道の自由ということもこれから争点になるんですが、報道の自由というのは、ここで先生が言っておられる精神的自由とか政治的自由の範疇に入るか入らないかという点だけ最後に教えていただきまして、終わらせていただきたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) 当然、最高裁は、ある大法廷判決で、報道の自由というのは国民の知る権利に奉仕するための重要な人権だというふうにうたっておりまして、それが先例となっておりまして、最高裁の判例では、報道の自由というのは、報道者の人権というのは、基本的人権、特に憲法二十一条の下での人権だということがもう既に確立しているというふうに言っていいかと思います。
 あとはこれをどう実現するかということで、その間はいろんな調整があるんじゃないかというふうに理解しております。
○大塚耕平君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 山下栄一君。
○山下栄一君 よろしくお願いします。
 参議院の憲法調査会では今日から基本的人権に対する議論が始まったわけで、最初に先生に来ていただいておるわけでございますけれども、初めに私、教えていただきたいことがありまして、それは、基本的人権という、また人権という考え方は特にそうだと思いますけれども、明治以降、日本にそういう考え方が入ってきたということだと思うんですけれども、これも元々はライトとかヒューマンライトという言葉を翻訳する作業が幕末とか明治初めとか自由民権運動の時期にあったと思うんですけれども、いわゆる欧米で言うところの人権、ヒューマンライトという言葉の意義なんですけれども、日本では権利という言葉を、権利ばかり主張してというふうな言い方もありまして、何か自己主張というか、自分ということをまず厳然とあってというふうな考え方があるように思うんですけれども、私は本来、欧米の方で言っていた人権というのは、人間の権利というのは、権利の行使においては責任が伴うんだというふうなことが元々あったのではないかというふうに考えるんですけれども、それが本来、人権というものなんだと。権利という言葉、概念、理念というのは責任が伴うんだという、それが本来の考え方であると、このように信じているんですけれども、先生の見識として、いわゆる日本で言う人権という、翻訳したわけですけれども、その言葉の元々の意味、これをちょっと教えていただきたいというふうに思います。
○参考人(戸松秀典君) 私は人権思想の研究をそんなにやっているわけでないし、言葉の意味を追求したこともございませんが、ちょっと切り返してで申し訳ないんですけれども、本来の意味がどうであったからどうであるという議論をするときには、現状を何か変えたいためにおっしゃるのか、それとも単にその言葉の語源を探るかという、その目的によって変わると思うわけです。
 基本的人権の権利、人権という言葉が、少なくとも明治憲法時代からいえば百年は過ぎますから、それでずっと定着してきて、およそ概念上、定着しているところを、それはそれとして、基本として義務の要素が欠けているなら、立法でそれに対する対応をすればいいことで、本来何であるからということでやる必要はないんじゃないか。現在、国民に義務的な要素が欠けているから、それに対する対応をすればいい、そういうことによって人権の保障の実現がするという、こういう発想でいいんじゃないかという気がいたします。
 でないと、本来、人権というのはさかのぼると、ドイツ語ではメンションレヒトと言っていたり、ヒューマンライトと言っているのは何かという、欧米にさかのぼってそれをやっていって何が生まれるかという気がします。外国語は、外国の言葉は、それは何かで出発して、それで発展をしておりますから、そこにさかのぼったからといって、外国語は外国語でそれなりの展開をしているはずですから、展開していることを捨象して元に戻ったって仕方がないんじゃないかという気がいたします。むしろ、生産的な議論をするには、こういう議論の方がいいんじゃないかというふうに私は思っております。
○山下栄一君 もう先生のおっしゃることは、一貫してそういうことをおっしゃっているわけですけれども、私は、日本の権利に対する言葉の感じ方、とらえ方が、やはり主張の方が強くて、余り義務とか責任という面が弱いのではないかという、そういう感覚を持っておりましたもので、本来、本来といいますか、そういうヨーロッパとかアメリカではどういう考え方でこういう言葉が使われておったのかなということを教えていただければと思いまして質問いたしました。
 次に、この人権保障、今日のペーパーの三番のところでしょうか人権保障の展望のところに、社会の変化に応じて、例えば環境権とか知る権利とかプライバシーの権利とか、こういうことを憲法改正によって人権保障規定の中に入れたらどうかという考え方はあるけれども、だけれどもそれは、そういう大変エネルギーが要るようなやり方よりも、立法による憲法秩序の形成という、そういうふうな在り方の方がいいのではないかというお考え、私もそのように感じておるわけですけれども。
 私、もう一面、大変エネルギーが要るようになっている背景というのが、国民が立法府、具体的に言うと政治家とか政党とか、そういうものに対する非常に不信感があると。特に、日本は非常に行政主導型、官主導型という言葉がございますけれども、役所に対する不信感といいますか、そういうものが基本にあると。今も大変あると。最近、特に様々な不祥事、余計そういうことになっていると思うんですけれども、これは別に立法、行政に限らず、例えば司法の面でもそうではないかなとは思いますし、司法におきましても司法制度改革で、国民参加型の司法制度というふうなことで今制度化が進んでおるわけですけれども、基本的に私は統治機構に対する不信感が国民に非常に強いと。
 だから、せめてこの基本的なルールである憲法は変えたくないといいますか、それを変えられたらもうたまらぬという、そういうものがまずあるから、この憲法改正に対する非常に慎重な姿勢になっておるのではないかというふうなことを感じるんですけれども、この点についての先生のお考えをお聞きしたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) 憲法改正に対する消極的な態度が国民のどういうところにあるかというのは、私は実証的にきちっと研究したことはございませんので、どうとも言いません。
 それから、不信感というふうにおっしゃられましたけれども、まあ不信感があるのかもしれませんが、しかし、国民主権原理の下では国民が最終的には責任を負うんですから、その不信感を持っていておかしくなれば、それは国民が責任を負わざるを得ないというふうに思っておりまして、だから、憲法改正に対してというふうに本当につながるのかどうかというのは私は分からない、お答えのしようのないという、これしか言えないことだと思っています。よろしく。
○山下栄一君 よく分かりました。済みません。
 次に、子供の人権ということなんですけれども、今家族の崩壊ということが言われて、生みの親が自分の子供を殺すというふうな事件もセンセーショナルに報道されております、児童虐待。また、これは家庭の話ですが、学校におきましても、今まで一応子どもの権利条約は日本は批准はしているわけですけれども、学校現場におきますと、小学校、中学校、高校、大学でもそうかも分かりません、いわゆる教師と生徒の関係の中で特に特別権力関係というふうなことが言われた、今、最近そうではないらしいんですけれども。
 例えば、行政不服審査すらそういう学校の世界では適用除外になっているというふうなことにも表われていますように、子供の側に立った権利、人権の主体者であるというとらえ方が非常に日本の場合は弱かったのではないかというふうに思うわけです。一個の人格として尊重するというものが非常に弱いというふうに思っておるわけですけれども。
 先ほどおっしゃっていただきました人権保障の特徴と課題という、ここはどちらかといいますと制度的な面でそういうふうにおっしゃったとは思うんですけれども、子供の人権という観点の日本の発展が非常に後れているというふうに私は感じるんですけれども、その辺に対する先生の御感想をお聞きしたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) 私もあるところで、具体的に言いますと、東京都の人権施策についての提言を会長として求められたことがありまして、少年の人権の扱いについても各団体、いろんな考え方の意見を聴取したことがございまして、その経験からいいますと、これは非常に悩ましい問題だということがまず第一です。
 私は、子供の人権を保障すればいいという、子供の人権というのをなるべく尊重すれば今の様々な社会で起きている問題が解決できるかというと、これはないんじゃないかと。子供の権利というふうに言うことによって、むしろ家庭、親子の関係を害するとか、先生と子供の関係を害するという、こういう面があるという、こういう考え方の人がいまして、その人の言い方も私は非常に説得力があるんじゃないかという気がいたします。
 この点は、アメリカの少年に対する扱い方の制度を導入しようとすることに対しての大議論がありまして、アメリカという国は常に揺れておりまして、激しく子供の人権を保障するようなやり方をやったりそうじゃなかったりと試行錯誤しているんですけれども、それを直ちに日本に、アメリカの人権保障型の少年待遇にする、保障型のものを取り入れていいかどうかというのは考え直した方がいいという方に私は大変興味を覚えている。なぜかというと、日本の家庭像というのは独特のものが伝統的にあって、それを基にした子供の処遇というのをまず考えるべきじゃないかというふうに思っていますので。ただ、そこから先はどうしたらいいのかは分からない。非常に悩ましい。
 だけれども、子供人権派の方は、虐待の場面を見ると、それは親子を切り離して子供を保護しなくちゃいけないじゃないかという、この実態を非常に強く示されます。それはそれで私も納得しますので、この点は私はどっちかというふうには言えなくて、非常に悩ましい問題だけれども、だけれども子供の権利を保障すればすべて済む問題じゃない、そういうことじゃないかという感じを持っている。この程度のお答えしかできません。
○山下栄一君 これ、議員立法で児童虐待に関する法律というのを立法府として努力をして作ったわけですけれども、そういう形で親権ということを表にした考え方は基本にはあるわけだけれども、やはり社会的にサポートする仕組みを作ろうという動きが出てきたということも大きな前進かなというふうに思っておりますけれども。
 最後に、ちょっとこれも二番目に書いてございます人権保障の特徴と課題というところですけれども、発展領域の中に政教分離原則というのが書いてございます。先生おっしゃいましたように、日本の裁判所のいろんな判決もございますし、明確に最高裁でもそういう愛媛の玉ぐし訴訟でも違憲判決が出ている、先ほど御紹介がございましたけれども、発展領域というところに書いてあるわけです。
 私は、一方で、例えば今大きな外交問題になっております首相の靖国参拝ですね。戦後、一宗教法人になったにもかかわらず、私人という立場だとは思いますけれども、そういうふうにこだわるという在り方は、非常にこの発展というよりも余り、後れているというか、そういうことを感じるわけですけれども、先生、この発展領域と書かれたところは、そういう裁判所の努力というか、そういうことでおっしゃったのかなと思うんですけれども、この辺についてのお考えをお聞きしたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) この点についても、政教分離の原則がどの辺が答えなのかというのはそう簡単に出てくるものじゃないというふうに思います。諸外国の例を出しながら 小泉首相の行為について批判する、そういう立場もあるかもしれませんし、小泉首相のやられた行為について諸外国で似たような例があるかというと、似たような例も幾らでも出せるわけです。だから、政治の場面からおよそ宗教性を全部排除するなんということは困難でありますから、その辺はいろいろ経験を積み重ねて政教分離原則の内容を構築していく必要がある、そういう性格のものであろうかと思います。
 ですから、靖国参拝をしたから直ちに違憲だという考え方とそうじゃないという考え方、これを縫って首相が自己の判断でなされたというそういう実態が今あって、それを憲法秩序としてどういうふうに形成していくかということを、これ訴訟で争えるなら争って裁判所の判断が出るでしょうし、ちょっと難しいですけれども、訴訟。そういう形で形成されていくというものであろうというふうに私は見ています。
 ここで私が小泉首相の行為が違憲だ何だと言ったって世の中は変わるわけじゃなくて、それは憲法学者の使命じゃないというふうに私は思っています。どういう議論、どういう要素をして議論すればいいかということを示すのが憲法研究者の役割だと思っていますので、御質問の期待にこたえないかもしれません。よろしく。
○会長(上杉光弘君) 山下栄一君、時間が参っております。
○山下栄一君 そうですね、済みません。
 私は、首相の参拝について先生に御判断を求めたわけじゃなくて、一層の発展が求められる領域の方に入るのかなと思ったもので、そういうことで申し上げました。済みません。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 小泉親司君。
○小泉親司君 日本共産党の小泉親司でございます。
 戸松参考人、今日は大変貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございます。
 私、まず初めに、先ほど参考人が述べられた人権保障の特徴と課題の中で、参考人は発展領域とそれから一層発展が求められる領域というふうに定式化をされてお話しになられました。その中で、一層発展を求められる領域の中に表現の自由を挙げられまして、先ほどおっしゃられた言葉でいきますと、表現の自由については発展したとは言えないんじゃないかというふうに言われました。
 アメリカでも、たしかアメリカ憲法の中でも、表現の自由を本当に真に獲得するためには大変な闘いがあったというふうに私も聞いておりますが、先生が、その定式化され、一層発展が求められるという領域に表現の自由ということを定式化されて挙げられた、その具体的に定式化された理由をもう少し具体的にお聞きしたいのが一点。
 もう一点は、それでは表現の自由を一層発展をさせるためには具体的にどういうことが今求められているのか。この二点について、言わば課題的なものとして、その二点についてまず初めにお尋ねをさせていただきます。
○参考人(戸松秀典君) 確かに言葉足らずだったんですが、基本的にこういうふうに思っています。
 人権保障の、人権の価値体系だというふうに言っておりましたけれども、ここには議論を積み重ねていく過程に一定の価値序列というものができるんじゃないか。その価値序列に応じて立法府の裁量が広く認められるところと、そんなに介入を許されなくて裁判所が人権保障の方に強い、その意味では厳格な審査をすべきという、こういう領域があるというふうに思われます。
 これは、諸外国、特にアメリカの議論などの展開をとらえて日本でも導入され、最高裁も基本的にはその立場に立っていると思うんですが、精神的自由の中でも表現の自由は、様々な根拠がありますけれども、民主制の維持だとか真理の獲得だとかそういうような、自己実現のためとかいろんな理由が述べられますけれども、理由付けはともかくとして、非常に高い価値であろうと。高い価値であるからには、裁判所が厳格な審査の下に合憲違憲の判断を下さなくてはいけない。
 しかし、裁判の実情を見ますと、最高裁は基本的には立法裁量論によっているではないか。立法府の裁量の権限逸脱が見られるような著しい侵害状況がない限りはというような言い方をしているのが一つ。それからもう一つは、比較考量という、これは科学的に見て説得力がある議論じゃないというふうに思うんですけれども、しばしば法律の議論では、侵害される側と侵害をするけれども得なくちゃいけない公共の利益とを単純に比較考量してやると。高い価値であるときにはそんな単純な比較考量は許されないんじゃないかというふうに思われるんですけれども。
 違憲の結論が出ないからと言っているわけじゃなくて、合憲にするにしてもそういうような厳格な審査をした上で、つまり高い価値だということを前提に出しているならば、それに合う法理を展開した上で裁判を行うべきではないか。そこのところが十分発展していないために、いろいろな場面で、違憲の結論に至ってもいい、あるいは合憲性を疑ってもいいところを、そこに踏み込まないで済ませてしまっている。これについては、もちろん政治部門の対応ということが問題になっていますから、問題になりますから、そういうふうになっていない。
 具体的な例を言いますと、公職選挙法の百三十八条の戸別訪問の禁止規定とか、小泉首相はずっと前からこれ違憲だと言っていて見識があったと思うんですが、そういう例とか、公務員の政治活動の自由とか、そういう領域について私は具体的に思ってこう言っているわけです。
 よろしいでしょうか。
○小泉親司君 その表現の自由を一層発展領域に広げるためには、どういう課題があるかというのをもう一つお尋ねしたいんですが。
○参考人(戸松秀典君) 一つは、裁判所の判断に立法府が対応できるようになっていればいいという。例えば、個別訪問の禁止を違憲という判断をしたときに、その論理はおのずから、百何条になりますかね、選挙運動期間の制限とかそれから文書図画の制限、百四十二条以下ですか、公職選挙法の。そういうようなところに及ぶわけです。そうすると、立法府が対応できるかという問題になるわけですね。公職選挙法を、百三十八条は違憲だと言ったその論理がずっと影響を及ぼしますから、それに対して対応できるように立法府が公職選挙法を変えれるかということです。
 選挙制度審議会のずっと議論を見ていますと、違憲の疑いが強いから変えるというのを出しながらも、そして選挙制度改革、政治改革のあのときにも、これは取り払うと言いながらも、私から見ると政治取引に使われちゃって、表現の自由の高い価値がどうなっちゃったかという、こういうことは言えますので、そのことだと思います。そういうような政治部門の対応の仕方では立法府は積極的な判断をしない。最高裁もメンツがありますから、自己の判断に対して政治部門が対応ができないときに、違憲の判断をしてもそれは非常に冷ややかな対応になるというのは裁判の権威を失うということになりますから。
 そういうことが一つの課題だというふうに思っております。
○小泉親司君 先ほどの同僚委員の質問と少し重なるんですが、先生は発展領域の中に政教分離を挙げられておられるわけですが、私も、先ほどの意見でもありましたように、今度、靖国神社への公式参拝みたいなものというのは、先生が定式化されている発展領域の中の政教分離ということになってきますと、その中の、領域の中のこれは大変後れた分野というか、そういうものというふうにはお考えなんですか。つまり私としては、外交問題、ホットな外交問題の先生の、この違憲合憲という御意見よりも、その点をどういうふうに定式化されるのか。その辺をお尋ねしたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) 政教分離をどこに位置付けるというのも、これも一つの価値判断でありますからいろんなお考えがあって、現状では不満な人はそんな発展なんてしていないというふうにおっしゃるのは当然でありまして、学説上はそこで分類上の争いができるということで、私はそれは、そういう考え方はできるんじゃないかと思います。
 ただ私は、政教分離の最高裁の大きく言えば三つの大法廷判決がありますけれども、それとか下級審の判例を見ますと、先ほど表現の自由のところで言ったように、高い価値であって、だから判断基準がどうであるというこの議論が比較的綿密になされるようになっていて、大ざっぱな比較考量とか立法裁量とか、そういうような議論では逃げていない、そういう意味での発展は見られている。
 つまり、法的な議論の発展という、どうしても自分が憲法研究者でありますので、法的判断の発展は見られる、だけれども結果的には不満だということはあり得るんじゃないかというふうに思っていますので、位置付けとして一層の発展の方に求められるというのは、それは一つの判断であろうというふうに思っています。
○小泉親司君 参考人は、著書の中で、雇用問題における人権の問題に触れられまして、雇用その他の社会における諸関係で生じている差別問題は、それが私人間の関係であるときに憲法の平和原則を直接的、失礼、平等原則を直接適用して司法上救済することは法理論上困難な問題が伴う。そのような場合は、むしろ、法律を制定して差別を解消したり救済する方法が取られる必要がある。アメリカにおける雇用差別禁止立法は、その例であるというふうに述べられておられます。
 日本でも憲法二十七条、二十八条で勤労の権利や労働基本権が定められているわけですが、その実体論としては、例えば裁判闘争やりましても、関西電力でのいわゆる思想差別事件というのが最高裁で大変、これは一応労働者側が勝訴したんですが、二十五年以上の裁判をやる。女性差別の問題でも大変、芝信用金庫の事件などでも大変な時間が掛かる。
 こういう問題では、やはり私たちはこういう労働者の人権保障の法制、とりわけ今、解雇問題ですとかリストラのあらしの中でこういう解雇規制法、特にヨーロッパなどではこの解雇規制法が非常に前進しているわけですが、そういうものがやっぱり私たちは必要だというふうに思いますが、その実体論との関係で、アメリカの経験にも触れられて、日本の現状をどういうふうに考えておられるのか、その点での差別を解消したりするような救済方法が日本においても取られる必要が私はあるんじゃないかというふうに考えていますが、その点の参考人の御意見をお尋ねしたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) 今挙げられたいろんな事件で、まず裁判に時間が掛かるという点はどこに原因があるかというのは、いろんな見方がございまして、訴訟当事者がそういう対応を望んでやっているとか裁判所が対応をわざとそういうふうにしているとか、いろんな要素がありまして、一概に言えないことでありますけれども、そういう例の中で、平等原則の実現がなされる例がありますけれども、ただ、私人間の争い、企業と雇用されている者との争いというのは、両方に事由がありますので、その衝突になります。そうすると、その調整ということでこれが平等原則だというふうに直ちに入るわけにいかない。そこで、やはり先ほどから説明しております法制度化が必要だろうというふうに思っています。
 ですから、雇用機会均等法というのは一つの制度化の例でありますけれども、それで不十分なら、それを更に強固なものにするやり方というのが必要であるというふうに思っています。今の雇用問題についても、憲法の何かの価値を直接当てはめれば解決できるというわけじゃなくて、やはり法制度化が必要だというふうに基本的に考えております。
○小泉親司君 私たちは、本調査会で昨年アメリカに行ってまいりました。アメリカ憲法は日本と同じような硬性憲法で、私は最高裁判所の、アメリカの最高裁判所のオコナー判事にお会いいたしまして、新しい人権の問題についてもお聞きしました。そのときにも、オコナー判事やジョージタウン大学のタシュネット憲法学教授の懇談の中でも、この新しい人権については、先ほど先生がお話しになりましたようないわゆる法制度の問題として解決していく必要があるんじゃないかというようなことを大変強調されていたことを私は思い出しまして、今日は先生の御意見も私もなるほどという点では同感であります。
 そこで、憲法論として少しお尋ねしたいんですが、私はこの日本国憲法は特に十三条の幸福追求権ですとか、非常に環境権やプライバシー権の問題でもそれを包含できる懐の大変深い憲法だというふうに私は考えておりますが、その新しい人権とのかかわりの関係で、先生は憲法論としてその点をどういうふうにお考えられているのか、その点をお尋ねしたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) 私は、おっしゃるとおり、確かに日本国憲法というのはうまくできておりまして、十三条の幸福追求権、自由、生命及び幸福に対する権利というこの規定とか、それだけじゃなくて平等原則もそうなんですけれども、十四条、それに三十一条の適法手続の原則とか適正手続の原則とかいうふうに言われている、この三つは大変広い内容を取り込むことのできる、そういう規定でありますので、これを利用して、新たな人権状況について解釈を工夫して人権を読み込むとか読み取るということをすればいい。
 ただ、それで終わるわけじゃなくて、例えば喫煙の自由というのを十三条から導き出してそれで済むわけじゃなくて、その自由をどう制限してどういうふうにすればいいかというのは次の立法上、条例上の問題であって、それが憲法秩序として望ましいかという議論をする、そういうことは可能になっている、こういう憲法じゃないかというふうに、その辺は大変便利だというふうに思っております。
○小泉親司君 ありがとうございました。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 平野貞夫君。
○平野貞夫君 国会改革連絡会の平野と申します。
 今日、先生に基本的人権についてお話を伺うというテーマをこちらから出していてこんな質問するのは甚だ申し訳ないんですが、よく考えてみますと、基本的人権という言葉の読み方でございますが、憲法十一条にはファンダメンタルヒューマンライツという英語が付いていますが、私、にわか勉強で、参議院の憲法調査会の事務局が作ってくれた「主要国の憲法における人権関係規定」というものをさらっと見ましたら、アメリカも英国もイタリアもそれからドイツも基本的人権という言葉がなくて、アメリカの場合には人権宣言がある、これは人権という言葉。それから、イギリスでは人権法、それからイタリアでは人権宣言、ドイツで基本権という概念と、その中の一部分として人権という言葉を区別しておるんですが、一体この基本的人権というのは人権の中の基本的なことを日本国憲法で書いているのか、あるいは人権というものは基本的なものですよという意味なのか、そこの理解の仕方からお教えいただきたいんですが。
○参考人(戸松秀典君) これについては定説があるわけじゃなくて、今御指摘のように、様々な諸国の憲法でヒューマンライツと、メンションレヒトとかいろいろ言っていて、それをまたどう訳すかという訳し方の問題もありまして、そしてまた広い、人権というのを広くとらえて、その中で特に重要なものを基本的というふうな言葉で読もうという、そういう考え方もありますから、これはお使いになる人のどういう思いが込められるかによって変わるというふうに見ればよいんじゃないでしょうか。
 ただ、基本的人権ということによって、通常の権利とは違いますよという、こういう思いが込められているんじゃないかということです。アメリカでないかというと、そうじゃなくて、ファンダメンタルヒューマンライツという言葉は解説本とかいろんなところでありますし、それからアメリカの最高裁の判例の中でも、人権の中でもこれはコアの部分であるとか、あるいは人権保障に規定は書いていないけれども歴史的当然であるという、これ移動の自由というのが典型なんですけれども、西部開拓の時代から、憲法を作る前からアメリカの大陸では人が移動するというのは人権の基本中の基本であるからということは既にあったんだと。憲法の規定がなくてもそれはそういうふうに理解すべきだという言い方もありますから、こういう具合で非常に多様であるというふうにお考えになってもよろしいんじゃないかというふうに思っています。
○平野貞夫君 それじゃ、余りこだわらないようにして考えてみたいと思います。
 先生のお話の中にもありましたんですが、基本的人権の内容や性格が歴史的な発展してきたというお話があったんですが、この現憲法というのはそういう歴史的遺産の人権も踏襲していると思いますし、それはそれで結構だと思いますが、こんな理解の仕方をしていてよろしいんでしょうか。
 十八世紀から十九世紀のいわゆる消極的人権、国家権力からの解放あるいは権力から守るという、そういうところから、二十世紀になると積極的人権といいますか、幸福追求権といいますか、国民の福祉の向上を国が義務に、国家の義務だと、こういうふうに経済構造、社会構造の発展の中で変わってきたと。こんな理解の仕方でよろしいでしょうか。
○参考人(戸松秀典君) ほぼそれでよろしいかと思いますけれども、ただ、資本主義国家における人権保障の発展過程と社会主義、共産主義国家の発展というのがございまして、二十世紀の半ばから共産主義国家の発展がございます。その発展に刺激されて、資本主義、社会主義国家の憲法の規定に刺激されて、また、資本主義国家の人権保障が経済的自由の関係で問題を抱えて、資本主義の体制維持するためには国家が積極的に経済活動の中に介入しなくちゃいけないという、こういう必要性が出てきたために、積極的な面、特に経済生活面での積極的な介入の面ができ、そして資本主義国家の維持をするという必要性から生存権、貧しくて自分で生きていけない者については国家が面倒を見るという、そういう自由の本来の理念から反するようなものが出てきたという、そういう発展が見られた。
 我が国を始めアメリカも、自由主義国家は共産主義国家、社会主義国家の発展に刺激されて、そちらはもう失敗しちゃったんですが、その刺激を得て生き延びてきたという、こういう憲法の人権の発展だというのが大ざっぱなとらえ方ではないかというふうに思います。
○平野貞夫君 そこで、二十一世紀の憲法というのはどうあるべきかという、どういう変化というより発展、認識の発展がどうされるべきかということがテーマになると思いますが、私、文明の変換といいますか、産業、工業社会から情報技術社会へ激変している。もう情報社会になったと思うんですが、情報社会文明に。その場合、極めて高度な技術による情報の伝達とか、あるいは生命科学技術の発達とかというもので、近代で確立した人間社会の人権のありようというものがかなりやっぱり考え直さなきゃ駄目じゃないか、あるいは新しい価値とか制約を付けなきゃいけないのかという気がしております。
 先生がおっしゃられた環境権というのは、私も先生と同じようなことで、人間が環境権を主張するのは間違っておりまして、人間は地球環境の義務があるわけでございまして、そこは分かるんですが、例えばクローン人間を作るとかいろいろな問題が起こっておるんですが、私は基本的人権の主体が必ずしも一個の人間だけでなくて、仲間といいますか、人間としての、地域と言ってもいいと思いますが、いわゆる基本的人権の公共財的な発想でこれをとらえるべきではないかという意見を持っておりますが、御所見をいただきたいと思います。
○参考人(戸松秀典君) 大変な、重要な指摘だと思います。
 私も若干注目している、最初の方に挙げられました情報化社会における変化とか生命クローンについても、よくよく考えて、今なされているところを見ますと、卵子をもとにして新たな人間が作られるとか、卵子を取られた人の意図と関係なく新たな生命が作られるとか、いろんなことがなっていまして、ここのところを人権との関係でどう構成すればいいかという課題は投げ掛けられているかと思います。
 それとともに、おっしゃったように、既に現在あるのは、人種という集団の人権というのは考えぬのかという、それに始まって、地域とか仲間というものの人権を構成する必要があるかという、こういうのも課題として投げ掛けられるというのは確かだと思います。
 ですけれども、これをどうすべきかというのは、一憲法研究者の問題より、そういう問題があるという指摘はできますけれども、これをどう構成して、どう法秩序の中に取り込むかというのは、やはり政治が対応して政策決定をしていろんな制度を作るとか、こういうことでなされていくんじゃないかと思います。
 そして、そういう法実態ができたところで、それを憲法の名の下にどう読み取るかという次に課題が来て、憲法が先ではないんじゃないかという、これは人類の経験が正に語っていることですけれども、いろんな差別を経験して何かした上で平等という原理が必要だ、自由が侵害されて表現の自由ができない状況があって、それだから読む自由が必要、知る自由が必要だという、こういう憲法の名の下に語るということが出てきていますので、まず実態をずっと見て政策的にいろんな対応をして、これを憲法の中で取り込んで、解釈上できるならやる、そうじゃなければ新たな、先ほどエネルギー論争と言いましたけれども、もうどうしようもなければ憲法を人権としてうたうような、こういう新たな発想が必要だと、こういうふうな見方しかできませんけれども、そういう道筋であろうというふうに思っております。
○平野貞夫君 それと、やはり市場経済原理といいますか、非常に過熱した、異常にいびつに発達したマネーゲーム、この資本主義がいいかどうかという問題も一つあると思います。
 そこで、私は政党は自由党に所属しているんですが、自由党で憲法を作る基本方針という中で考えていますのは、二十世紀までの憲法というのは、機会の平等といいますか、チャンスを平等に与えればそれでいいんだという考えだと思うんですが、私どもはもうちょっと進んで、若干の、ある程度の結果の平等も国といいますか社会が保障すべきではないかと。そういったところまで、これは特に基礎的社会保障という概念、部分ですが、そういう部分もあるんじゃないかという考えを持っていますが、その点についてはどのように先生、御意見お持ちでしょうか。
○参考人(戸松秀典君) これは二十世紀にも既にあって、正に問われている問題で、身近なものに性差別の問題で、積極的差別解消策とかアファーマティブアクションなどの問題もそれに連なる、特に貧困層に対する対応との関係もそうですし、様々な面で機会の均等、形式的平等などというよりも、実質的平等、結果的な平等を平等原則から読み取るべきだという、こういう考え方がありますけれども、そこで一つの非常な問題は、そういう積極的な政策を取ることによって他方で自由が侵害される、新たな差別が生まれるという、こういうことが問題になって、アメリカでもそういう一つの問題になって、積極的に人種差別を解消するための施策を設けると、そうするとその施策に取り込まれた、つまりもう少し具体的に言いますと、本来入学、法科大学に入学できなかった、あるいは医学校に入学できなかった者も、今まで差別されているからというので、少々成績が低い者でも入れる、入学させて医者を作る、弁護士を作るということをしますと、社会であれはAA、アファーマティブアクションを省略してAA弁護士だ、AA医師だという差別が生まれるという。また、本来それより上の成績の者がけ落とされますから逆差別が起きると。
 こういう問題も出てきて、積極的な政策というのは理念を実現するためにいいんだけれども、それに伴う欠点というんですか、マイナス面もあって、それをどう調整するかという問題が出てきますから、平等、法の下の平等の原則から直ちに憲法上の要請だというふうには言えないんじゃないかと。非常に慎重な姿勢が必要だというふうに私はとらえております。
○平野貞夫君 直ちにというわけじゃございませんが、憲法問題として議論をしなきゃいけない問題として、平等とか自由という十八世紀にできた概念の見直しといいますか、これが必要だと思う。
 私たちは、創造的自由とか創造的平等というものをどう概念付けるかということを党ではやっておるわけなんですが、率直に言いまして、そういう議論をしますと、一橋の渡辺教授がこの「憲法「改正」の争点」という本を出されたんですが、こういうところに、平野はネオナショナリストだと、ナショナリズムだと、こういうことを書かれるわけですね。ちょっと、憲法学者の人ももうちょっと勉強してほしいと思うんですがね。決して、私は、ネオナショナリストというとナチスにつながるような概念ですから、これはちょっと私の苦情を言っておくんですが。
 最後に、しつこいことを申し上げて恐縮ですが、小泉総理の靖国参拝なんですが、これは明らかに自民党の総裁選挙のときに靖国に参るという遺族会に約束した、それの破綻。これは政治が宗教を利用しているんですよ。これ明らかなんですよ。
 それから、この間の参拝、何ですか。お祭りに喪服着て、黒いネクタイして行くというのは、日本人の伝統、歴史からいったって、これはもう破綻、もうおかしいですね。私は靖国参拝する国会議員の一員でございまして、私のおじも祭られていますから靖国問題は非常に積極的なんですけれども、政治がやっぱり靖国問題を利用しちゃ駄目なんです。
 その点は、やっぱり憲法学者としても、あれは明らかに政治が靖国神社を利用しているんだという御認識を持っていただきたいと思うんですが、構わなかったらコメントいただければ。
○参考人(戸松秀典君) 度々申し上げておりますように、一憲法学者が何かそういう見識を、そういう感想を持ったからって世の中が変わるものじゃないと思いますので、それは政治の場面で議論を尽くして秩序を作っていただきたいという、こういうふうにしか言えない。個人的には、おかしいとか、いろんな思いは幾らでもありますが、この場でそれを述べたからといって何の意味があるかというのが憲法研究者の立場でございます。
○平野貞夫君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 福島瑞穂君。
○福島瑞穂君 社会民主党の福島瑞穂です。
 今日は、大学時代に戻って、久しぶりに極上の憲法の授業を聞いているような気持ちになります。ありがとうございます。
 また、憲法価値の具体的実現をしていくことの必要性、それから、それを立法が実現をしていくということ、あるいは環境権やプライバシー権を憲法に入れる必要はなく、十三条があるのであるから、むしろ立法の中で憲法価値をどう具体的に実現していくのかが重要であるというふうにおっしゃったのは私たち国会議員に対する叱咤激励だと思いますので、どうも本当にありがとうございます。
 レジュメの中に、一層の発展が求められる領域として表現の自由と刑事手続上の人権を書いていらっしゃいます。先ほど表現の自由については質問が出ました。刑事手続上の人権については裁判所が踏み込んで判断すべきというふうにコメントをされたと思うのですが、刑事手続上の人権について、一層の発展が求められる領域としていらっしゃる理由をもう少し教えてください。
○参考人(戸松秀典君) 裁判の傾向を見ますと、裁判所はどうしても捜査当局の真実発見の法の価値、これは全体の価値で、それはそれで重要だと思いますけれども、そちらの方を優先して、刑事手続上憲法及び法律で保障されている権利の保護に配慮が欠けるような判断が目立つのではないかという場面があるわけです。
 もちろん、これに対しては社会の犯罪の状況とか世論の感情とかいろんなことがありますけれども、しかし、無実の者が過剰な取調べを受けるとか刑務所の中に入れられるとか、あるいはもう皆さん、議員の方たちよく御存じですけれども、代用監獄の制度が諸外国、特に先進諸外国と比べればかなり盛んに利用されていて、人権保障に後れを取っているとか、そういう面、非常に多くのことが指摘されていることでありますけれども、この面についてはどうしてもその侵害されている人は少数派でありますから、ですから主張する機会はない。また、その保護をするための団体がそれほど強く形成されるわけじゃない、政治的な利益を追うわけじゃないということで、どうしても見過ごされている領域じゃないかというふうに思われます。
 ですから、この辺については短い時間では簡単に申し上げられませんけれども、非常に多くの問題を抱えていて、世界的にも指摘されているところだという、こういうことです。
○福島瑞穂君 「法学教室」に書いてあります「憲法価値の具体的実現」ということで、例えば性差別の解消、プライバシー保護、自由な宗教活動の確保、環境保護、個人の信条の保護などキーワードを挙げていらっしゃいます。
 例えば、個人の信条の保護ということなどで、例えば具体的に憲法価値の実現ということでどういう課題があるのか、あるいは個人の信条の保護以外の点でも構いませんので、やはり憲法価値をどうやって実現していくのかというのはすべての国民にとっての課題だと思うのですが、もう少し詳しく教えてください。
○参考人(戸松秀典君) 個人の信条保護というので一番今実際に問題とされているのは、国旗・国歌の問題などは典型だと思いますけれども、私は、それどちらが正しい議論、国旗を、君が代が国歌であるか、国旗として日の丸がどうかという、どちらかという問題よりも、いろんな思いを抱いている人、自己の信念としていろんな考えを持っている人を、それはそれとして尊重するというのが人権保障の基本にある価値の多様性ということが一つあると思いますけれども、いろんな考え方があると。
 ですから、いろんな考え方があるものを社会の秩序の中でどう尊重してどこまで譲れないかという、この辺をきちっと付ける、そういう仕組みとか議論がなされていなくて、裁判制度もそうですけれども、自治体の個人情報保護審査会の委員などしておりますとそういう問題が教育現場から上がってきまして、どうしても日本というのは全体の秩序維持型、そちらが優先してしまいますから、個人の信条を保護するよりも教育現場のぴしっとした秩序立ての方を先にして、人権の保障についての配慮がない、それが裁判の過程でも十分生かされてないんじゃないかという、こういうのが背景にあった指摘であります。
 ですから、そういう配慮をしたからといって国旗・国歌の制度が決して損なわれるんではないのにもかかわらず、個人の信条を無視した対応がなされていると、こういうことを背景に考え、それは一例ですけれども、企業の面でもそうです。いろんな場面で、社会のいろんな場面でそうだと思います。
○福島瑞穂君 では、性差別解消のところで、憲法価値の実現という観点からもう少し教えてください。
○参考人(戸松秀典君) 性差別につきましても、これは日本独特の価値観、モラル、言葉が問題だと言われるかもしれませんが、モラルとかいろんな慣習、意識というのがありまして、少なくとも私が大学で憲法の講義を受けたときには、女性の肉体的、生理的違いに基づく差別というのは憲法十四条が認めているというふうに言っていたわけです。で、私はそれは憲法上の価値だというふうに勉強したわけですけれども、今日はそれは憲法違反だという議論になっているわけですね。つまり、女性を一般化した上での、女性は生理的にこうだから、だから男性と違う扱いをするという、このこと自体が差別だという、これは最高裁の判例でもう既にきちっと認められていることですけれども、そういう具合になっていて、なぜそういうふうになっているかというのは、これは社会の人々の意識の発展、運動をする人とかいろんな人の力があったり議論が積み重ねられてなったというふうに思います。
 そういうことだろうと思いますが、にもかかわらず、しかし雇用面では性差別の問題はいろんな問題を抱えている。私は大学に勤めておりますけれども、女子学生は男性よりも最近は能力が多いのは、多いというふうにこう一般化するのがまた差別なんですが、そういうふうに観察できるんですけれども、企業で採用されるときに雇用面で非常な差別を受けて憤慨するという例をよく申告されています。
 ですから、これは制度を整えつつ意識を変えるとか、いろんな難しい問題があって一律に何かで決まるわけじゃないんですけれども、そういうことを感じて、そこで課題のある、そういう状況だというふうに言っております。
○福島瑞穂君 先生の「憲法秩序の形成」というものの後に、「憲法価値の実現過程を広くとらえ、それを憲法秩序の形成という観点から考察をこころみた。そこには、国家の統治権力を有する者だけが憲法秩序の形成の主体でないということや、憲法の護り手と憲法の破壊者との対立という図式で憲法秩序を語るべきでないという視点も働いている。」という指摘があって非常に興味深かったんですが、「憲法の護り手と憲法の破壊者との対立という図式で憲法秩序を語るべきでない」というのはどういう意味でしょうか。
○参考人(戸松秀典君) 従来、日本の五十年の日本国憲法下の歴史を見ますと、憲法の守り手と破壊者というんですか、それとの図式の対立ということで、政治の場面をそういうふうにとらえることも可能であったような状況じゃないかと思います。
 しかし、およそ国家権力とか公権力が憲法の破壊者であるというこの図式はもうそろそろやめた方がいいんじゃないか。公権力、この議員の皆さんも公権力の中に入るかと思いますけれども、憲法秩序の形成者の一人であることには間違いないんじゃないかという、憲法の守り手であり、さらに形成する人間じゃないかと、そういうふうな多様な見方をすべきで、国民の中にもそういう憲法を破壊する者もいるし守る者もいるし、積極的に形成する者があるという、そういうふうにとらえるべきで、憲法の守り手が社会の一定勢力で、公権力は常に破壊する、侵害するという図式はよろしくないんじゃないかという、そういう思いがあって、これから先はまたいろんな議論に、ひんしゅくを買うことになるかと思いますけれども、一般的にはそういうふうに思っております。
 もう少し相対的な価値観に基づいた議論が重要じゃないかという、そういう思いです。
○福島瑞穂君 先ほどの文章の続きに「このような視点を働かせた後、立法裁量論の意味や機能について、たちもどって検討する」というふうに書いていらして、割と立法裁量論で、あっ、済みません、ここは言い直します。
 私も、例えば婚外子差別が憲法違反ではないかという裁判の代理人をしたときに、違憲と言ってくれた最高裁判事が五人で、合憲というのは十人だったんですが、合憲の中に立法裁量論を言った人がいて、ああ、この立法裁量論と言った人が違憲と言ってくれたらこれは勝ったのになんて思ったんですが、その立法裁量論についてもう少し話をしてください。
○参考人(戸松秀典君) 非嫡出子の相続分の、そのことをおっしゃっているかと思います。
 あれは、よく個別意見を述べている人を見ますと、立法事実論というのがあるんですが、民法九百条四号ただし書の非嫡出子の相続分を二分の一とするこの規定が立法事実としては今日ではもう説得力を持たないというふうな、最高裁の裁判官、個別意見の人が何人かいまして、その人と反対意見を合わせますと、あの判決が逆転して憲法違反になるわけです。そういうふうに読み取れるわけです。
 だけれども、立法事実はもう破綻している、立法事実を見ると合理性がないというふうに言った裁判官も、でも最終的にはこの問題は立法裁量の問題だというふうに逃げたために、逃げてと言っちゃいけないんですが、そういう論法を取ったために合憲の方に辛うじてくみしたという、こういう読み取り方ができます。
 もちろん、それは、あの判決は問題が相続の問題であったということが決定的に言えます。相続の問題というのは遺言制度とかいろんな制度がありますから、民法九百条四号ただし書だけで非嫡出子のあれが決まるわけじゃないという面がありますから、そこのところで最高裁は立法府にげたを預けたんだというふうに思います。
 ですから、限りなき違憲なんだけれども、その辺は法律を是正してお直しくださいというふうに言ったと思いまして、そういう読み方をすれば国会で法律が直されるんですけれども、そこのところは、先ほど言ったように、最高裁は立法裁量論を多数で取ったということは、立法による是正が期待できないということを思っているのか、それとも期待できると思っているのか、私はどっちか分からないんですけれども、そこにげたを預けたという、ここのところが重要だというふうに思います。
 ですから、立法裁量論というのはそういう問題を抱えている重要な裁判法理だという、そういう指摘であるわけです。
 よろしいでしょうか。
○福島瑞穂君 げたを預けられる国会はいろんな意味でも頑張らなくちゃいけないんですが、最近はやはり憲法の価値が議論になる立法、先ほど人権擁護法の議論も出ましたけれども、個人情報保護法にしても様々な立法にしても、まあまだ案の段階ですが、憲法との価値が非常にシビアに国会の中で議論されるテーマが増えていると思います。
 で、これは非常に答えにくいかもしれないんですが、可能であれば、ちょっと無理かもしれません、有事立法も、九条の問題ではなく、むしろ基本的人権の問題であるというふうに考えるのですが、いかがでしょうか。
○参考人(戸松秀典君) 有事立法の内容をつぶさに私、検討していませんが、でも立法の性格上、人々の権利、自由に対する制限がなされてきますから、当然、人権の問題だということであります。だけれども、法律の目的との関係で人権を制限するような手段を取ることが十分憲法の秩序上可能かどうかということの議論はされるべきだという。で、その先の結論がどうなるかというのは私は分からない。政治的に政策決定をなされるしかないんじゃないかというふうに思っています。
○福島瑞穂君 論文の中に裁判への国民参加ということを書いていらっしゃるんですが、もう少し説明をしてください。
○参考人(戸松秀典君) それはどの論文をおっしゃっているのか分かりませんけれども、基本的には司法の民主化という、今司法制度改革が正にそうなんですけれども、国民がいろんな形で参加できるような裁判の仕組みをということで、典型的には陪審員制度がそうでありますけれども、裁判員の制度というのもありますけれども、それが本当にうまくいくかどうかというのはいろんな問題がありますけれども、そういうことによって、もう少し国民が身近な、自己の権利、利益、自由を守るための制度として裁判が利用できるような仕組みが必要だという、こういう思いがそこに込められているはずです。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 時間が大分来ております。
○福島瑞穂君 はい、分かりました。
 終わります。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 戸松参考人には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表して厚く御礼申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後三時十二分散会

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