第154回国会 参議院憲法調査会公聴会 第2号


平成十四年五月十五日(水曜日)
   午前九時開会
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   委員の異動
 五月九日
    辞任         補欠選任
     又市 征治君     大脇 雅子君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                市川 一朗君
                加藤 紀文君
                谷川 秀善君
                野沢 太三君
                江田 五月君
                高橋 千秋君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                景山俊太郎君
                木村  仁君
                近藤  剛君
                斉藤 滋宣君
                桜井  新君
                陣内 孝雄君
                世耕 弘成君
                中島 啓雄君
                中曽根弘文君
                福島啓史郎君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松山 政司君
                大塚 耕平君
                川橋 幸子君
                北澤 俊美君
                小林  元君
                角田 義一君
                直嶋 正行君
                堀  利和君
                松井 孝治君
                柳田  稔君
                高野 博師君
                山口那津男君
                山下 栄一君
                宮本 岳志君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                田名部匡省君
                松岡滿壽男君
                大脇 雅子君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   公述人
       弁護士      杉井 靜子君
       全国生活と健康
       を守る会連合会
       事務局長     辻  清二君
       歯科医師     柳  時悦君
       都留文科大学教
       授        横田  力君
       桃山学院大学大
       学院教授     徐  龍達君
       主婦       福島依りん君
       早稲田大学大学
       院生       柳原 良江君
       神奈川肢体障害
       者団体連絡協議
       会会長      前田  豊君
        (前田公述人陳
         述補佐人   薗部 英夫君)
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (基本的人権
  ―私たちにとっての人権)
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○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会公聴会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「基本的人権」のうち、「私たちにとっての人権」につきまして、お手元の名簿の八名の公述人の方々から御意見を伺います。
 午前は、弁護士杉井靜子君、全国生活と健康を守る会連合会事務局長辻清二君、歯科医師柳時悦君及び都留文科大学教授横田力君、以上四名の公述人の方々に御出席いただいております。
 この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本調査会は、本年四月から「基本的人権」について調査を開始したところでございますが、本日は、「国民とともに議論する」という本調査会の基本方針を踏まえ、現在、我が国が置かれている国際化、情報化、高齢化の進展など、大きな変化の流れの中で、憲法と人権の在り方についてどのように考えるべきなのか、人権の保障を一層確かなものにするため何が必要なのか、公述人の方々から幅広く忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の調査に反映させてまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、まず公述人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきます。
 なお、公述人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず杉井公述人にお願いいたします。杉井公述人。
○公述人(杉井靜子君) 私は、女性や子供や障害者など、ハンディを負っていたり弱い立場にある人の人権が本当に守られる社会こそ、すべての人々の人権が守られる社会だと思っていますが、長年弁護士として仕事にかかわってくる中で痛感することは、様々な差別や人権侵害がある中で、とりわけ女性や子供の人権が十分に保障されていないことです。
 妻に対する夫の暴力については、数多くの離婚事件で見聞してきました。夫から包丁を突き付けられ命からがら逃げてきた母子が、行くところもなく相談に来たということもありました。
 昨年扱った事件では、六十三歳の女性ですが、夫から包丁の入った箱をぶつけられ、それが目に当たって片目を失明し、その前にも夫の暴力によって足が不自由になっている、そういうふうな女性がやっとの思いで家を出て姉のところに身を寄せ、とにかく離婚さえできればということで私のところに相談に来ました。この女性は四十年間も夫の暴力に耐えていたのです。家を出ても行き場がなかったからです。姉のところに身を寄せられたのは、姉の夫が亡くなって一人になったという事情でありました。夫は七十三歳で、妻の厚生年金を当てにしているので、離婚になかなか応じなかったのですが、何とか調停で離婚できました。
 ところで、離婚事件を扱っている中でよく耳にする夫の言葉は、例えば深夜に夫が帰ってきて妻にセックスを迫る、そのとき、妻が今日は疲れているからやめてというふうに断ると、夫が何と言うかというと、だれに食わせてもらっていると思っているのかとどなるわけです。この言葉、この言葉に妻は愕然とするわけです。妻はこの言葉に自分の人格と人間性を、人権を否定されたと実感するわけです。このときに妻は離婚を決意します。また、ある夫は裁判で、暴力を振るったことについて、妻が自分の言い付けを守らなかったからだと平然と言ってのけました。
 しかし、どんなに暴力を振るわれ、暴言を吐かれ、望まない性交渉を求められても、経済的に自立できない妻はなかなか離婚もできないのです。子持ちの中高年の既婚女性には正社員で就職する口はほとんどありません。パートで月七、八万の収入ではとても親子では生活できない、自立できない、そういう現状があります。
 児童虐待も今日では大きな社会問題になっていますが、まだまだ氷山の一角で、深刻なケースが山積していると思います。私は、一九八〇年当時、日弁連の親権と子どもの人権に関する調査研究委員会の委員をやっていましたが、この調査研究委員会に養護施設関係者から親による児童虐待のケースの申立てがございました。余りにもショッキング過ぎて、にわかには信じられない気持ちでした。しかし、一九八三年には厚生省の報告書が出たり、その他の調査をする中で、改めて本当に親による子供の虐待があるのだということを確認したわけですが、身体的暴力に加え、近親相姦にも当たる性的な暴行も含めて、加害者の圧倒的多数が実は実の父母なのでした。
 もちろん、児童虐待の背景には、様々な社会的要因、経済的な貧困の問題やあるいは子育ての知恵が伝承されていない、地域からも孤立している家庭、そういう中での親の育児不安、そういう問題があるわけですが、それにしても、虐待についてしつけのためにやったと言う親が大変多いこと、そして、煮て食おうと焼いて食おうと、おれの、親の勝手ではないかというふうな言葉の中に、子供を一人の人間として見ていない、子供は親の所有物だといった間違った親権者意識があることも感じました。
 このような我が国の現状を見るにつけ、私は、この国にはまだ人権思想が国民の意識の中に定着し切れていない、つまり血肉化されていないことを感じるわけです。憲法では、すべての国民の法の下の平等、また二十四条では家庭生活での男女の平等、十三条では個人の尊重をうたっています。憲法が目指しているのは、自分も他人も一個の人権として人間としての価値は変わらずみんな平等なのだという人権思想ですが、それがまだ十分に国民の中に定着し切れていないと思うのです。
 そして、この定着し切れていない原因の一つに、私は政治の責任を痛感します。つまり、憲法では今述べたような自由や権利が保障されているわけですが、その憲法を具体化する立法、行政を積極的に進めることが政治の責任だというふうに思うのですが、それがなかなか十分ではなかったと思うわけです。御存じのように、憲法は最高法規であり、すべての公務員には憲法遵守義務があるわけでして、この憲法を具体的に政治に生かす、そういう義務が公務員にはあるというふうに思うわけです。
 例えば、妻への夫の暴力の問題について見ますと、昨年四月に配偶者暴力防止法が成立しました。しかし、この法律ができる前は、夫から大変な暴力を受けて一一〇番して警察に来てもらっても、警察は、何だ、夫婦げんかかと言ってすぐ引き揚げてしまうというのが普通でした。この法律で夫婦間の暴力は犯罪であるということが明記されたわけで、その意義は大変大きいと思います。
 しかし、正直言って内容的にはまだまだ不十分だと思います。例えば保護命令も、六か月間の接近禁止命令、二週間の退去命令ではほとんど実効性があるのかという疑問があります。何よりも、夫の暴力から逃れてきた女性たちのシェルターが公的にほとんど整備されていないということです。
 また、児童虐待防止法も制定されましたが、虐待された児童の心身ともの回復のための措置、あるいは虐待した親に対する指導やカウンセリングについても具体策が講じられていないのが現状です。
 こうした現状を見るとき、一つは、配偶者暴力防止法や児童虐待防止法をもっと早く制定されるべきだったというふうに思います。そしてまた、実効性のある法律に早く改めるべきだというふうに思います。ハンセン病患者の隔離政策を法律的に支えてきたらい予防法は一九九六年三月まで廃止されなかったわけですが、こうした人権侵害を許す立法があれば、これを直ちに廃止する、そして誤った行政を改めなければならないと思います。
 一方で、国民の人権を守るための実効性のある法律を制定し、それにのっとった行政をする義務が政治にはあると思うのです。政治にかかわる者がこれに消極的だったということが国民の中での人権意識の定着を妨げてきたということも言えるのではないでしょうか。
 次に、環境権、知る権利、プライバシー権等の新しい人権について憲法に明記するために憲法を改正すべきだという意見がございます。
 私は、環境権については、公害訴訟の中で、憲法十三条やあるいは憲法二十五条の具体例として主張され、現在では判決等でも確立されてきていると思います。しかし、考えてみますと、こういう環境権という考え方は公害反対運動の中で作られたもので、それは、高度成長期の企業の十分な安全・公害対策を取らない、それについて放置してきた政治の中で反対運動として起きてきたわけですが、本来、政府はもっと早い時期に憲法の立場に立って公害をきちんと規制する諸立法を制定すべきだったというふうに思うわけです。
 ところで、憲法は普遍的、網羅的なものです。個々具体的なものは諸立法、諸政策で、諸行政で実現するものです。憲法を具体化する立法を怠ってきた自らの責任を棚に上げて、憲法に環境権の規定がないのは憲法に欠陥があると言うのは本末転倒だと思うのです。環境権を保障する姿勢があるのであれば、環境基本法などにも環境権という言葉をきちっと明記すべきだというふうに思うわけです。
 また、知る権利やプライバシー権ですが、これも言葉としては憲法には書かれておりませんけれども、憲法から当然認められる権利です。
 ところが、現在国会に上程されている個人情報保護法を見ますと、取材の自由や報道が著しく制限され、そのために国民の知る権利が大きく侵害される、そういうふうな危険性があります。憲法を改正して知る権利を明記するということよりも、知る権利を侵害するこのような法律を作らないことこそが必要なのではないでしょうか。
 確かに、昔では問題にされていなかった人権問題が新しく提起されてくることは当然です。本当にすべての人々の人権が保障される社会にするには、次々と多くの人権課題が出てきますけれども、それは憲法の原点に立ち戻れば必ず解答が出せると思います。憲法が不十分なのではありません。憲法が時代後れなのでもありません。憲法に合わせた政治をすることこそが大事なのではないでしょうか。
 最後に、私は、今、国会に上程中の有事三法案について触れたいと思います。
 この法案は、国民の人権保障という点からも大変な問題点を持っています。大きく言えば、憲法がその前文において平和のうちに生存する権利を有することを確認しているわけですが、この平和的生存権を根っこから侵すものだというふうに思います。
 また、具体的に言えば、武力攻撃事態法では、必要最小限という限定付きではありますが、国民の自由と権利が制限される場合があることを明確に規定しています。国会での政府答弁によりますと、公共の福祉のためには集会や報道を制限することもあり得ることが明らかになっています。また、国民にも協力義務があるとされているわけで、戦争に信念を持って協力できないというそういう人がいた場合に、やはりその人の思想、良心の自由が奪われる可能性もあります。
 このように、憲法上の権利や自由を侵害する、実質的に憲法を骨抜きにする法律を作ることは、日本国憲法について広範かつ総合的な調査を行っている先生方の御努力をないがしろにするものではないでしょうか。こういう姿勢そのものが問われなければならないというふうに思うのです。
 憲法を改正するより、憲法を日常生活に生かす、憲法を政治の指針とすることの方が大事だということを最後に強調をして、私の意見を終わりたいと思います。
 どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、辻公述人にお願いいたします。辻公述人。
○公述人(辻清二君) 今紹介いただきました、私、全国生活と健康を守る会連合会の辻と申します。
 まず最初に、この意見陳述の機会を与えていただいた皆さんに心よりお礼を申し上げます。
 私の意見陳述は、配付いただいた、「国民の命と医療を受ける権利を守るため、国民健康保険制度の改善を」とのレジュメに沿い、資料も引用しながらお話しさせていただきます。
 まず最初に、今国保はなぜ滞納者が増えるのかについてです。
 国民健康保険制度は、国民だれもがお金の心配なく医療を受けることができる国民皆保険の基幹的な制度として発足をしました。この間の国保をめぐる特徴は、不況などによるリストラと失業や企業倒産、高齢化の進行などにより国保に加入する世帯が急増しており、ますます国保の果たす役割が大きくなっているというふうに思います。
 全国商工団体連合会の調査によると、中小業者は経営難や病気を苦にした自殺が六割を占め、六割以上の業者が健康診断で異常と指摘されています。中には、企業側が経費節減のために政府管掌の健康保険をやめて従業員に国保の加入を勧めるところさえあります。
 さて、この十年間で国民健康保険税・料を滞納する世帯が百五十三万世帯も増え、平成十三年度では三百九十万世帯にも達しています。三百九十万世帯というのは、国保の加入世帯の二割近い、一八%にもなります。こうした滞納は、借金をしてまで払わざるを得ない人がいるように、個々の国保加入者の努力を超えて納め切れない国保税・料の実態によるものです。
 その第一は、健康保険などと比べて国保税・料の負担率が高いことがあります。負担率とは加入世帯の年間所得に対する負担率のことです。九八年度の厚生労働省の資料を基に計算をすると、負担率は、健康保険組合で平均四・二%、政府管掌の健康保険で六・二%、国民健康保険で八・六%となり、国保は健康保険組合の二倍以上の負担率になります。
 第二に、国保の加入者の大半は低所得者であり、低所得者ほど滞納世帯が多いことです。徳島市の統計によると、滞納世帯の七三%が年間所得が百万以下になっています。
 第三に、厚生労働大臣が定めた生活保護基準以下でも極めて高額の国保税・料が掛かってくることです。福岡県春日市で私たちの組織が試算したところ、五人家族のある世帯では、年間所得が生活保護基準の六二%にも満たないのに、国保税が年間三十万円以上になっています。
 次に、大きな第二の問題は資格証明書発行の問題点についてです。
 御承知のとおり、二〇〇〇年四月より国民健康保険法が改定され、国保税・料を一年以上滞納した世帯に対して資格証明書の発行が原則義務化されました。資格証明書を発行された世帯は、いったん窓口で医療費の十割を支払った上で、後日、市区町村など保険者に七割の保険給付分を請求することになります。平成十三年度で資格証明書が発行された世帯は全国で十一万世帯となっています。
 その問題点の第一は、患者の受診抑制を引き起こし、医者に掛かれない事態が広がっていることです。全国保険医団体連合会の試算によると、平成十二年度で資格証明書の発行世帯が一番多い福岡県では、資格証明書が交付された被保険者の受診率は一般の被保険者の百三十七分の一にもなっています。
 第二に、受診抑制が進み、札幌市などで手後れで死亡する事件まで起きています。
 札幌市では、一万世帯を超える世帯に資格証明書が発行され、発行件数は全国平均の七倍以上になっています。そうした中で、昨年十一月、資格証明書が交付された豊平区の男性が救急搬送先の病院で二時間後に死亡する事件が起きました。その直後、札幌市の北区でも同様の悲劇が起き、ある男性が腹痛で耐え切れず、受診したときには既に胃がんが末期まで進行し、入院二か月後の今年二月初めに死亡をしました。
 二人の死亡した男性は、不況などの被害で国保税・料を滞納し、医者に掛かるまで命を削って必死に働き続けざるを得ませんでした。豊平区の男性の奥さん、お姉さんは、何で死ぬときしか病院に掛からなかったのと変わり果てた弟をしかり、絶句したとのことです。北区の男性の奥さんは、資格証明書で保険証がないために、実は今朝、病院の玄関先でも受診しようかどうか足が止まりましたと話しておられます。命を守るべき国保が命を奪うものになっています。
 次に、短期保険証の問題についてです。
 正規の保険証は市区町村で一年や二年の有効期限を決めて発行しています。二〇〇〇年四月より国民健康保険法施行規則が改定され、保険税・料の滞納を理由に、正規の保険証の有効期限よりも短い短期保険証を市町村が発行できるようになりました。全国的には加入者全体の三%を超える六十九万世帯に発行されています。短期保険証の有効期限は、市区町村が三か月とか六か月などの期限を定めています。
 この問題点は、滞納せざるを得ないそれぞれの世帯の実情も考慮されずに、国保税・料の滞納額に応じて保険証の期限が決められ、強引な保険税・料の取立てがされていることです。また、期限が切れた場合は資格証明書を発行する自治体があるなど、資格証明書の発行とつながっていることです。
 例えば、福岡県北九州市では一か月の短期保険証を発行しています。ある左官の仕事をしておられる方は、毎月一万円ずつ国保料を支払い、四年以上にわたって一か月の短期保険証となっています。この方は、短期保険証の期限が毎月切れることから、急に具合が悪くなったときは我慢して病院に行かないこともあるようです。
 もう一つの問題点は、短期保険証に赤枠や赤い字でマル短の表示をしている自治体があることです。
 私たちの調査では、この間、大阪市や新潟市、青森市などで、人権上問題があるとこの表示をやめました。しかし、今でも福島市や熊本県水俣市、福岡県頴田町、愛知県蟹江町などで、まだこうした表示のある短期保険証が発行されています。この表示は一目で滞納者と分かり、プライバシー保護に反する人権侵害に当たるものです。子供たちが修学旅行などに短期証を持参した場合、いじめの原因にもなりかねず、子供たちも含めて差別を作り出すものです。
 最後に、憲法に照らして、私は国保行政を改善することを求めるものです。
 第一に、短期保険証の赤枠、マル短の表示を即刻中止すべきです。大阪府は昨年三月に、平成十三年度からはこのような取扱いは不要であるとして、赤枠、マル短の表示をしないように各市町村に通知をしています。厚生労働省が全国的な実態も調べ、こうした表示をなくすよう必要な措置を取るべきだと考えます。
 第二に、憲法十三条や十四条に反する資格証明書や短期保険証の発行は中止すべきです。国保税・料を払いたくても払えない人が医療を受けられないということがあってはなりません。
 憲法十三条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定め、第十四条は、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定めています。
 国保税・料を納め切れずに滞納したことを理由に、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利が侵害されてはなりません。一部の人に期限を切った短期保険証は国民の中に差別を持ち込むもので、法の下に、法の下の平等に反するものです。
 第三に、憲法二十五条に基づき、国の責任で、払いたいと願っている国保加入者の願いにこたえて国民健康保険税・料を是正することです。
 二十五条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と定めています。
 国連人権規約A規約の第十二条は、あらゆる人は達成可能な最高水準の心身の健康を享有する権利を持つことを認めることを世界各国に求めています。
 滞納者が増大した大きな原因は、国が一九八四年に医療費の国庫負担を四五%から三八・五%に引き下げたことにあります。
 二十五条の規定により、生活保護費や健康保険の傷病手当などは税金は掛かりません。また、所得税や住民税の課税最低限があります。国は健康で文化的な最低限度の生活に食い込む国保税・料を是正し、値下げの措置を取るべきであり、以上の点を申し上げて、私の意見陳述を終わらせていただきます。
 どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、柳公述人にお願いいたします。柳公述人。
○公述人(柳時悦君) 皆さん、おはようございます。柳時悦と申します。私は、日本生まれ、日本育ちの在日韓国人二世でございます。
 今日、このような場所で私に意見陳述させていただく機会を与えていただいたことを、まず最初に御礼申し上げます。
 一番最初に私が主張したいことは、日本には日本国憲法という立派な憲法があり、そこでは基本的人権が尊重されるようにうたわれております。また、日本は国際人権規約にも加入し、国連難民条約も批准し、そして最近では差別撤廃条約も批准しました。しかし、これらの差別を反対するすべてのものも、外国人に対しては外国籍であるということを理由に、正当に、差別が行われているという状況にまず最初に不満を述べるものでございます。
 さて、現在、私と同じような特別永住者は日本に約五十一万人居住しているわけでございますが、その在日が存在する理由については、皆さんも御存じかと思いますが、それは日本の植民地支配と戦争遂行政策によるものでございます。つまり、徴用や自由募集、官あっせん、徴兵といったようなことによって炭鉱、鉱山、建設現場にと労務動員されたわけでございます。あるいは、軍属として連行されたものでございます。
 一九四五年、終戦の時点におきまして約二百万人の在日がいましたが、百五十万人は祖国へと帰還しました。そして、五十万人が残ったわけでございまして、それが現在の特別永住者となっているわけでございます。このことが、私が主張したい、一般外国人とは違った処遇を私たちには与えるべきではないかという主張の根拠なわけでございます。
 一九四五年、終戦から一九五二年のサンフランシスコ講和条約発効までの間、私たちは、時には日本人として、時には外国人として、その場の都合によって取り扱われてまいりました。しかし、サンフランシスコ講和条約発効後、日本が独立した以降、私たちは完全に外国人として日本国憲法に言う国民の享有する諸権利からすべて排除されたわけでございます。
 国籍の回復は在日にとっては植民地侵略被害の回復とはならず、新たな迫害の歴史の始まりであったわけでございます。これ以降、私たちは、差別との闘い、いや、侮べつとの闘いでございました。
 どのような闘いがあったかを多少紹介させていただきます。
 居住権の問題、就職差別の問題、それは民間企業とか公務員とかでございます。それから、社会保障、福祉の差別の分野、そして国籍条項という大きな壁の問題でございます。
 具体例を挙げますと、日立就職差別事件、司法修習生採用事件、国公立大学教授任用問題、国公立小中高教員採用、教諭か常勤講師かという問題、国民健康保険加入問題、公団・公営住宅入居問題、国民年金問題、児童手当問題、電電公社職員受験拒否問題、公務員の国籍条項、東京都管理職受験拒否問題、その他、一般的には昔の話ではありますが、生命保険の加入だとかクレジット販売、銀行の融資、指紋押捺、こんな問題を闘ってまいりました。
 これに対して、日本の行政の対応はどんなものでありましたでしょうか。私たちの差別を放置し、むしろ正当化する姿勢でございました。そして、その正当化の論拠というのは当然の法理というものでございます。この当然の法理が私たちの差別をシステム化したのでございます。
 当然の法理とは、公の意思形成に参画し、あるいは公権力の行使に関するものは外国人は駄目だと。そして、将来、それに対する、それに就く可能性のあるものも駄目だということでございました。
 四百万人という安定した職場から在日は完全に排除されてきました。これは、在日を圧迫し、排除か同化をさせるという姿勢が歴然としたものだと思います。在日そのものを存在からなくそうというもの、それは、極端な言い方をすれば、抹殺と同じ意味ではないでしょうか。
 そして、これらを支える日本人の意識について述べたいと思います。
 日本人は単一民族主義というものを持っておりまして、それが排外的ナショナリズムへと結び付き、元々、植民地時代の侮べつ意識があったものが相まって、差別が平気な状態になっておるわけでございます。また、違う角度から見ますと、経済繁栄による一国繁栄主義的な傾向により、自分さえ良ければよいという傾向が強く、外国人に対する問題など軽視してしまう状態があるわけでございます。
 私たちは、これらの状況との闘いの中で現在はどのような状況にありますかと申しますと、一九七九年国際人権規約加入、あるいは一九八一年の国連難民条約の批准により、多くの差別は改善されたことは事実です。これは、国籍条項が居住条項へと変わったことによるものです。しかし、これは在日の努力に対しての答えではなく、日本の国際的要因によりこれを改善したという、非常に私たちからすれば残念な状況でございます。
 現在、それでも私たちはまだ、マンションを借りるとき必ず断られます。警察に何か言ったとき本名を言うと、外国人だということで外登証を一々提出を求められます。出自を隠さなければならない状況がまだございます。名前を、日本名を使いながら生きなければならない。そして、子供たちは将来の職業選択の自由がございません。大変狭い範囲でしかございません。
 私たちは、基本的人権の確立と住民としての認知のために何をすればいいかという問題が最近になって絞られてきました。それは、地方参政権の問題、それを獲得すること。そして、公務員就任権の国籍条項、当然の法理、これを撤廃してもらうことが私たちの的を絞った闘いとなってきました。これらが改善されると、より困難な問題、つまり意識上の差別についても効果的な影響が出ると確信しております。
 幸い、最近になって、最高裁の判決、九五年、地方参政権における最高裁の判決がございました。それによりますと、外国人に地方参政権があってもそれは憲法違反ではない、立法の問題だというふうに指摘されております。是非とも皆様の対処をお願いする次第でございます。
 そしてもう一つ、公務員就任の問題におきましては、都庁国籍差別・任用差別撤廃訴訟において、東京高裁で、当然の法理の無原則的な適用に歯止めが掛かりました。公務員採用の国籍条項が地方公共団体の裁量の範囲として撤廃されることと憲法上の保障が及ぶ範囲として撤廃されることでは隔絶した違いがあります。憲法上差別が許されない一線が示された今後の影響は、大変大きなものがあると思っております。是非とも立法の場できちっとした対処をしていただければと思います。
 そのほかにも細かいことを言えば、戦後補償問題。戦傷病者戦没者遺族等援護法、これが国籍をもって、国籍条項によって排除されてきました。これを受けられない問題、これも解決していただきたいと思います。また、国民年金。一九八二年に国民年金法の改正時に、つまり外国人も入れるようになったときの経過措置の不備のため、老齢年金、障害年金に差別が残っています。在日のお年寄りたち、若い人に面倒を見てもらえる人はまだましですが、そういう人でない人たちの生活の困窮さを思い浮かべていただきたいと思います。
 以上からしまして、日本社会は、今まで在日側からの国籍差別に対する抗議を受けた範囲で、やむを得ない場合にのみこれを最小限是正するという姿勢でございました。これを改めてもらいたいと思います。
 私たちは今まで司法によってしか救われてこなかったのでございます。今日、政治主導で積極的に在日韓国・朝鮮人、また外国人を日本社会に受け入れ、基本的人権を守り、ともに生きる住民として認知する政策を整備してもらいたいのでございます。さっき述べた二つの判決に対して、政治によって政策化していただきたいのでございます。
 基本的人権、職業選択の自由、幸福追求の権利、平等原則が結果として実現されるためには地方参政権が必要でございます。しかし、地方参政権の意義はそれにとどまるものではありません。マイノリティーに対しても人権を尊重し、生活者としての住民、市民を尊重し、互いに異なった者同士が他方を排除し若しくは吸収するのではなく、互いを必要とし必要とされる共生社会を築き上げるという理念や価値観を尊重すべきではないでしょうか。それが二十一世紀の価値観だと確信しております。
 現在、世界では、民族、宗教、地球環境問題、貿易摩擦、その他様々の次元で相異なった人たちが非人間的な争いを展開しています。こういった争いを解決する道は、相異なる人たちがともに同じ社会を形成し、排除したり抹殺したり同化するのではなく、ともに相手を必要とし必要とされるような共生社会の実現、こういった理念の普及しかこの問題を解決する道はないと思います。
 最後に、歴史的経緯を持った在日に対して、日本人か外国人かというような処置とは違った処遇を是非ともお願いしたいと思います。
 しかし、それは一般外国人に対しても必ずいい影響があると信じています。九二年のときに私たちの指紋押捺が撤廃が実現したとき、それから約七、八年たった九九年には一般外国人にも指紋押捺が廃止されたのでございます。このようにして、在日に対するきちっとした政策は在日以外の一般外国人にも必ずいい影響があると信じております。
 皆様の御協力をお願い申し上げまして、私の陳述を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、横田公述人にお願いいたします。横田公述人。
○公述人(横田力君) おはようございます。
 このような機会に憲法に関しまして私見を述べさせていただく場を提供していただきましたことを皆様に厚く感謝申し上げます。
 今、三人の先生方の公述内容を伺っておりました。これらを通じまして、一つ見えてきた点があります。したがいまして、レジュメに必ずしも即応するという形を取りませんが、お話をさせていただきたいと思います。
 一つ、これは皆様方が強調していた点、まず人らしくあるいは人間らしく生きるということ。憲法の言葉で言いますならば、これは二十五条に規定されておりますような生存の自由ないしは文化的な人間らしい生活を確保するという、このような権利の問題だと思います。それともう一つは、それらが平和の中で実現されること、平和の中で生きること。国家の戦争行為によってこの生きるということが否定せられるところに人権の存立根拠はないと、このように今の御意見の中からうかがい知るところです。さらに、その生き方の問題としてもう一つの条件が課せられております。それは何かといいますと、共生ということです。皆が差別されることなく、皆が平等に、そして皆が相携えてお互い同士の仲間として生きていくこと。
 この三つが今、憲法の課題として、あるいは憲法を論議する場合に求められていることではないでしょうか。
 もう一度確認いたします。人間らしく生きるということ、それは平和の中で初めて実現するということ、そしてそこに差別があってはならないということ、この三つが我々がここで討議の対象としている日本国憲法の中にどのように体現されているかということを考えてみたいと思います。
 まず、本題の中に、まず第一章としまして、憲法の類別ということに言及したいと思います。どのような世界の流れの中で憲法のパターンないしは種別があるかということを考えてみたいと思います。時宜に応じて資料に目を通してください。
 そこには、アメリカ、そしてイギリス、更にフランス、ドイツという主要先進国の四つの憲法体系をそれなりになぞらえたものがお手元にあるかと思います。その中で、一番最初に、日本国憲法及び日本国憲法が否定してきた、あるいは負の遺産として我々国民を今でも縛っている側面があると思われるような大日本帝国憲法、言葉が非常に硬いですけれども、それを添付してあります。
 それを見取図的に見ますと、世界憲法の流れというのは、大きく分けたとき、二つの流れから成っていると、こう考えられると思います。
 それは、一つには西欧型憲法と言われるものですね。言葉を憲法政治に置き換えてみますと、それは西欧型立憲主義と考えていいでしょう。いかなる意味において西欧型立憲主義と言われるか。
 そこにフランス人権宣言という文言が出ております。非常にこれが象徴的な、もう七月ですから、七月にいよいよパリ祭を迎えますね。一七八九年にパリにおける反乱が革命へと転化し、その中から憲法制定議会、最初は革命評議会と言っていましたけれども、そこから約一か月、八月の末日にこの人及び市民の権利宣言という文章が確認され、採択されたものです。
 そこに人権を何となぞらえているかといいますと、前文の三行目ですね、初めから要するに三番目のラインです、人の譲り渡すことのない神聖な権利ということ。譲渡不可能ということですね。一般の民法上の権利等々が同意を介するならば譲渡は当然とされる。しかし、これが、人の権利である、正にヒューマンライトであるということは何を意味するかといったときに、承認があろうと同意があろうと、人格を譲渡する、人間性を譲渡することができないんだということを強く訴えていること、ここを確認したいと思います。ライツに対してヒューマンライツの持っている語義の意味ですね、ようようになかなかこれはつかまれないところですけれども、この場において強調したいと思います。
 さらに、同じことは、時効によって消滅することのない権利ということが、第二条、「政治的結合の目的と権利の種類」というところに書かれております。
 これは、政治的結合というのは少し難しい文言ですけれども、言っていることは何かというと、我々が国家を作り、政府を維持し、我々はその国民として団結する、その目的のことを述べているんですね。国家を作り上げる、言わば言ってみれば存在理由です。そこに書かれている根拠として「時効によって消滅することのない」、これもやはりヒューマンライツの大きな特徴、ヒューマンがヒューマンたるゆえんですね。普通の権利というものであるならば、使用しないこと、あるいは行使しないことによって、場合によっては制度によってこれが消滅せられる場合があるということ、これはもう御承知のことだと思います。それに対して、いかに行使しなくても、あるいは行使不可能な状態に置かれていようと、人間である以上、その権利がなくなってしまう、そのようなことはないんだということを確認しているわけですね。
 そしてまた、それらは、次の行ですね、「人の、時効によって消滅することのない」と言いながら、次の文言は「自然的な諸権利の保全にある。」と、こう述べております。自然的というのは、今考えますと何か環境の保全のように聞こえるかも分かりませんけれども、それはもちろんそうではなくて、社会以前、国家以前の我々の立場というものがあるんだ、これをもって国家を作っているんだということを明言しているわけですね。
 ここから見えてくることは、我々にとっての憲法に規定せられる人権というものは、今の三つのフレーズを踏まえた上で、一般の法律ないしは諸命令を根拠付け、なおかつそれらを統合し、そしてそれらに対して正当性の、何といいましょうか、一つの印籠を、お墨付きといいましょうか、それを渡す、そういうシンボルであるということがここで確認されると思います。
 そして、それとの関係では、少しよろしいでしょうか、少し、何といいますか、解釈技術的なことといいますか、文言の、字句の認識について四条、五条というところを見てみましょう。
 そのような自然的自由というものは一体何か。四条で述べていることは、自由とは他人を害しない限りにおいてなし得るすべてのことであると、こう述べておりますね。では、それを受けた第五条、何だろうか、こういいますと、法律が国家制度の下において、あるいは国家制度としての法律が規定することができる範囲というものが書かれております。それは正に他人を害すること、要するに第五条の文言では社会に有害な行為、これしか法律は禁止することができないという、このような言い方ですね。
 したがって、広範な諸自由というものが先ほど述べたような意味でのヒューマンライツとして市民の中に留保されていること、これが近代憲法の一番の里程標と思われるフランス人権宣言の大いなるメッセージであると、このように考えていただきたいと思います。
 そして、更に第六条、そのような意味での法律の形成には、ここで言っていることは、ある場合については代表によって、そしてその前の文言ですけれども、自らという形で、本来であるならば自らが様々な形で参与するということが書かれていること、このような権利を保全したところにフランスが共和制として歩みを進め、現在に至るまでの民主主義国家を作り上げていくところのスタートラインがかいま見えると思います。
 そして、ここで考えていただきたいことは、その前にもある、今、フランスですけれども、その前ですね、これは何ページと言うのがちょっと大変ですけれども、ページ数でいきますと、アメリカですね、第八ページにありますけれども、ほぼ前後してアメリカでは憲法典が制定せられます。ここは非常に、何といいますか、興味深いところでありまして、アメリカ憲法の本文はここで書いておりません。アメリカ憲法の本文は第一条から第七条で非常に短いです。もちろん、中が節に分かれていますから、文章の量としてはありますけれども、条文は非常に短い。それが、今を去ること百十何年前ですか、百二十三年、二十四年、一七八七年に制定せられているわけですね。それがそのままとして現在まで生きている。ただ、この場合の憲法というのは正にコンスティチューション、国家の枠組みだけです。まず第一に連邦議会が来ます。続いて大統領が来ます。司法、そして連邦と州の問題が来ます。等々だけですね。
 ここに私が出した八ページにある文章というのは何かというと、その四年後に大陸会議という独立戦争の後始末をやるために作られた会議の場において採択された条項ですね。なぜ修正というかといったときに、今述べた国家の統治機構のみで憲法を構成していいんだろうか、独立をかち得た母国であるイギリスには権利の章典というものがあるではないか、国家といえども統制してはならないような人権というものをイギリスは確認しているではないか、アメリカはどうするのかといった議論が大陸議会を席巻します。その中から出てきたものが修正第一条から第十条というところですね。これがフランス人権宣言を踏まえた、二年後の、フランス憲法が制定されますけれども、その年と同じです。一七九一年にこの修正条項というものが合衆国憲法における権利の章典として採択されます。
 これをもって、今日、アメリカ合衆国憲法というのは大体三つの文章を指しております。これは、七六年、独立宣言ですね。そして、今お話だけで、お話ししました、公述しました八七年、憲法、統治機構のみですね。そしてもう一つ、九一年の修正条項ですね。これらは今日に至るまで営々と命を長らえてきていること、メンテナンスされていること、ここの持っている重みというものを十分に御理解いただきたい。
 そして、ここにはあると思いますけれども、次のページ、九ページですけれども、十三条から十五条、九ページにありますけれども、この三か条をもって何と言うかといったとき、これをリコンストラクションクローズと、こう述べるわけですね、いわゆる再建条項。合衆国における市民戦争と言われた南北戦争の成果をもって確認したものがこの三か条です。したがって、ここで公民権の平等等々がかち得ているということ。
 ですから、これが制定されてからもう既に百五十年近くがたとうとしている。そして、現在、連邦最高裁等々で違憲法令審査権が一番行使されるときに、バックボーンとして、根拠として最も使われる規定が修正第一条であり、ここの修正第十四条であるということ、これを御理解いただきたい。我が国の憲法の五十年の歴史に対して、人権論という点で見たときに、いかに人権というコンセプトが広い意味合いを持っているのか、ここの言わば枠組みということを次はフランスということになぞらえて考えてみたいんですね。
 フランスにいきますと、十ページですね。もう時間がちょっと迫ってきておりますけれども、十ページ。そして、続いてこれが先ほどの人権宣言ですけれども、十一ページ。これが現行フランス憲法ですね。何と言っているかといったとき、次のように述べています。
 前文だけいきます。前文の二か条ですね。「フランス人民は、一九四六年憲法前文で確認され補充された一七八九年宣言によって定められたような、人権および国民主権の原則に対する愛着を厳粛に宣言する。」、これが今日の第五共和制憲法の大きな柱となっている。
 言いたいことは何かと申しますと、一七八九年人権宣言が明確に第五共和制憲法の主要な部分として確認され、それが今日の憲法院等々の憲法裁判の基準として生きているということ、表現の自由しかり、政教分離しかり、信教の自由しかりです。人権宣言自体はわずか十七か条ですけれども、このような広範性ないしは柔軟性を持った構造にこそ人権論の意味があるということを御理解いただきたい。
 そして、ちなみにフランス第四共和国憲法ですね。いわゆるビシー政権が倒れて、戦後できた新しい憲法ですけれども、そこに述べていることは何なのか。正にここでも第四行目に、前文、フランス人権宣言が引かれている。そして、現在のフランス憲法における人権条項とは、この八九年人権宣言にプラスするところのこの第四共和国憲法前文を意味していること。前文の後半部分には何が書かれているかといいますと、先ほど来出ていた社会権条項ですね。これは二十世紀中葉の憲法ですから、人権宣言は自由権中心主義ですから、社会権あるいは労働基本権、これが欠落している。それがこの前文に入る。こういう中でフランスという国は維持され、発展し、アメリカはまた今日を迎えているということ。
 述べたいことはこういうことです。フランスの場合では様々にレジームが変わる、国家体制が変わる。アメリカもそうである。しかし、人権条項は普遍であるという、ここの持っている意味です。
 そのことは我が国憲法に目を落としていただければ分かると思いますが、第十一条ですね、次のようになっております。「基本的人権の享有」ということですね。長いからこれは全部は読みませんが、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」という、このような書き方は正にフランス人権宣言そのもののアイデアをそのまま継承したものである、こう考えられること。
 ちなみに、その後に帝国憲法が書かれておりますけれども、帝国憲法の文言にこのような言い方はない。人、市民、国民、あるいは人間、このような言い方はない。臣民、そしてそれらは法律の範囲内である。国家大権によって抑制せられるものとしてしか人々の地位は保障されていないこと。
 それに対して、十一条を今引き合いに出しましたけれども、さらには九十七条ですね。九十七条、「最高法規」というところですね。第四ページですけれども、ここにあることもほぼ同じことが書かれております。この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり云々ですね。現在、将来の国民に対して侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
 このような中で考えたときに、人権というものは、先ほど述べた意味で、一方で生きるということを包摂し、もう一方で共生ということを包摂し、更にはその中に環境の保全も含めたところの生きる我々の自然的なメカニズムも包摂するものとして考えられること。そして、更には平和ということもそれに包摂するものとして考えられること。
 そのような柔軟構造を持った憲法に対して、あえてここに新たな規定を設けるということの意味合いというものは一体何だろうか。運動の中において提起せられた様々な新しい人権、新しい考え方、これらを主張される方々、担い手が、憲法が邪魔である、憲法が桎梏であるがために新たな人権が実現できないで自分たちが不幸をかこっておるという議論は、私は寡聞にしてこれを聞いたことがないのですね。そのことは何か。正に、そういった要求の担い手、運動の担い手の方々に対して、憲法というものが、先ほど述べたようなアイデアとして、フランスあるいはアメリカの市民革命を勝ち得たようなアイデアとしてその人たちの胸に響いているその証左ではないかと、このように考える次第です。
 そういう中で、今日の議論をもう一度ひもといて憲法とは何かというところに置き換えた上で考えてみるのも、ひとつこの場を意義あるものとする先生方あるいは公述人としての我々の役目ではないかと思い、時間ということですから、一応ここでお話は終わりたいと思います。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 公述人の皆さんの御発言が終わったこの時間で、この際、五分間休憩をいたします。
   午前十時休憩
     ─────・─────
   午前十時六分開会
○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 これより公述人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 谷川秀善君。
○谷川秀善君 皆さんおはようございます。自由民主党の谷川秀善でございます。
 公述人の皆さんには、大変お忙しい中お出ましをいただき、またただいまは貴重な御意見を賜りまして、誠にありがとうございます。
 まず、憲法を論じます場合、往々にして、今までは護憲か改憲かという二者択一で論じられる嫌いがありました。今も、現在もそのような状況ではないかと私は認識をいたしております。やっと平成十二年一月に衆参両院において国会で憲法を論じる正式の場ができたわけです。それまでは、何か憲法を論じるというと、国会の中で論じられないような雰囲気があったので、そういう意味ではこの憲法調査会、平成十二年にできたのは非常に私はいいことだというふうに思っておるわけであります。
 改憲論者の側からいいますと、日本国憲法の、改憲といいましても、日本国憲法の原理、根本原理であります平和主義、国民主権主義、基本的人権の尊重、これを否定する人は恐らくだれもいないと思います。また、護憲といいましても、この憲法に明らかに間違いやら時代に合わない規定があるにもかかわらず、一字たりとも手を付けてはいけないと考えている人は私はいないと思うんです。そのような中身のない空虚な択一論争よりも、これからはもっとより具体的な建設的な議論を闘わすべきではないかというふうに私は考えておるわけであります。
 基本的人権の尊重につきましても、尊重することは当然ではありますが、その結果として共同社会での生活対応がきちんとなされているのか、また世界的な人権条項の広がりの中で憲法の定めるべき人権の範囲が今のままでいいのか、また国民主権というならば、その帰結としての重要な問題について国民の意思を問う機会を設けるべきではないかというような、いろいろ論じなければならない課題が数多くあると思っているわけであります。
 憲法上いろいろな問題があるにもかかわらず、現在は解釈で切り抜けていこうというこそくな手段に訴え続ける方が、憲法の軽視、無視を助長し、かえって危険な状態を招くと私は考えておるわけであります。
 この点につきまして、それぞれの公述人の皆さん方、本日は非常に細部の議論を、考え方をお聞かせをいただいたわけでございますが、大きく考えまして、この憲法について、現在の憲法についてどう考えておられるのか。ある程度改正をする必要があるのか、それとも改正しないで今のままでいく方がいいのか。この辺について、それぞれの公述人の御意見をお伺いをいたしたいと思います。
○会長(上杉光弘君) 皆さんですね。
○谷川秀善君 はい、皆さんです。
○公述人(杉井靜子君) 私は、結論的に言えば、憲法は改正する必要はないというふうに思っています。
 先ほども申し上げましたように、憲法というのは非常に網羅的な普遍的なものでありますので、そして、先ほど横田先生からもお話がありましたように、基本的な、長い人権の歴史の中で作られたものですので、いろんな新しい問題が出たときにも、憲法に立ち返れば必ずきちっとした解決が、回答が見いだせるというふうに思っています。それは決して解釈によるこじつけとかということではなくて、やはり憲法をむしろ現実の生活に具体化するという意味での解釈ということが求められるわけでありまして、そのことで足りるというふうに思います。
 以上です。
○公述人(辻清二君) 今の質問なんですけれども、私たち全国生活と健康を守る会連合会は一九五四年に結成をされました。その当時から憲法が定める生存権の確立を目指して運動をしてきました。そういう立場から申しますと、私自身は、今の憲法のそれぞれのやっぱり条文が、具体的に一人一人の命や暮らし、人権にきちっと具体化されていない、憲法の条文が一人一人にやっぱり保障されていないという、そういう現実をたくさん見てきました。そういう意味では、憲法と現実の乖離、これをやっぱりどう埋めるかというのが私たちの運動でありましたし、これからもそうありたいというふうに思います。
 そういう点でいえば、私たち自身は、今やっぱり大事なことは、憲法を本当に暮らしに平和にやっぱり生かしていくという、このことが一番大事なことだというふうに思いますし、当然、そういう立場からいえば、今憲法を改正をするという必要は私どもは感じておりません。
 以上です。
○公述人(柳時悦君) 私が先ほど在日のことにるる申し上げましたんですが、本来からすれば、日本国憲法は基本的人権を非常に尊重した、いい憲法の精神を持っておると思います。そういう意味において憲法というのは、理念とか価値観とか、そういうものを表すものじゃないかと思っております。そういう理念とか価値観と、しかし日本社会の現実の乖離、それは在日に対する処遇を見ても表れているんですが、そういうものをどう縮めるかという問題で、そのやり方として憲法を改正するのか、あるいは現在の憲法のままでそれを補う方法があるのか、それは私はどちらでもいいと思います。
 ただ、私が心配しているのは、憲法を改正すべきだという論議そのものが、どういった理念によってそういう論議が今出てきているのか、その辺がよく分からないから心配なんです。本当にこの日本国憲法のすばらしい理念を現実とマッチさせるようなための、そういった考え方に基づく憲法改正の論議であれば、憲法は、いろんな意味で改正すべき点があるならばしてもいいと思いますが、憲法を改正すべきだという論議が出てくる根本が分からないうちは正直言って心配なんです。
 ですから、憲法をそのままにして憲法と現実が乖離した部分をどのように補っていくかというやり方でもいいんじゃないかと思っておりますが、大事なのは理念と価値観だと思っております。
○会長(上杉光弘君) はい、ありがとうございました。
○公述人(横田力君) 正に今のお話のとおりだと思いますね。理念の不明確な中での基本法の改正ということはあってはならないこと。
 先ほどのプリントにも、もう少し読めば説明がといいますか付くんですけれども、それぞれの諸外国の憲法というものはほとんど皆、改正限界条項を常に持っているということ。フランスでしたら、民主的、社会的共和国の体制を変えてはならないということ。ドイツでしたら、人格権の発展、あるいは意見表明権、あるいは思想信条の自由等々は絶対に手を触れてはならない。それぞれ皆、コアの部分の価値の部分、これについては絶対のメンテナンスを図るんだという宣言があること。これに対するむしろアンチ、ないしはそれに対する侵害を前提とするような理念に基づいた、ないしは価値観に基づいた改正論議であるならばしない方がいい。言葉は悪いですけれども、ちょっと単刀直入ですけれども。あるいはむしろ、それらについてはよほどのしんしゃくが必要である。そのしんしゃくする中から、あるいはたたき台でもって我々が論議する中から見えてくる様々な本質の部分をやはり国民に開示して、上で議論に転換することが必要であろう。
 それと、もう一点よろしいですか。
 むしろ、これはやはり、今までの憲法の足かせとなってきた例えば教育基本法であるならば、なぜ教育の現場を我々の住民代表が教育委員にならないんだろうか、その他いろいろあると思います。そういった部分、とにかく憲法の原則がゲートで閉められているような、そういった諸法令をまず外してみる。外したときに初めて、本当にそこにリスクが出てくるのか、いや幸せが出てくるのか、これは実験してみていいと思います。
 一応そんなことですね。
○谷川秀善君 杉井公述人にお伺いをいたしますが、あなたは、憲法改正する必要がない、ただ、憲法はいまだに国民の中に定着をしていないというふうにお考えのようでございますが、なぜ定着をしていないんでしょうか。その辺のところはどうお考えでございましょうか。
○公述人(杉井靜子君) 先ほども述べましたけれども、私、国民の中に定着してない原因の一つに、政治に携わる人たちがこの憲法を率直に言えば軽視してきた、ないがしろにしてきた、そういう姿勢があるのではないかというふうに思います。
 本当に政治に携わる人たちがこの憲法を尊重し、常に憲法のことを頭に置き、憲法に基づいた政治が行われているのであれば、やはり憲法というのはこれは尊重しなきゃいけないということが国民の中に定着していくわけですけれども、残念ながら、例えば先ほどいろんな事例挙げましたけれども、具体的に憲法を具体化する法律ができていない。あるいはまた学校教育の中で、あるいは社会教育の中で本当に憲法が国民に十分に教えられているかと、学ぶ機会があるかということになると、そこも残念ながら不十分と言わざるを得ません。そういう中で、やはり定着し切れてないという言葉を使いました。全く定着してないということではありません。
 というのは、一方で、国民はいろんな公害反対闘争あるいは環境権の問題、あるいは女性の人権、子供の人権の問題で、あるいは先ほどお話ありました医療の問題や、あるいは外国人の権利の問題でも、それぞれの現場でいろんな人権侵害について憲法を根拠にいろんな運動や闘いをしてきているわけです。そういう意味では、やはり憲法はかなりの部分で定着しつつあるという、これも現実だというふうに思います。
 しかし、それをはっきりと完全にやはり国民の中にきちっとした定着したものにするには、先ほど言ったもう少しやはり政治に携わる者の責任、そういうものが必要ではないかということを感じるわけです。
 以上です。
○谷川秀善君 まあ、政治家も憲法を守っておると思いますし、国民もまた守らなきゃいかぬと私は思っているわけです。これはお互いさまの話だと私は思いますが。
 ともかく、横田公述人にお伺いをいたしますが、憲法ができまして五十年近くもなりますと、人権条項も社会の変化に対応できなくなってきていると言われているわけです。どのような点にそごが生じているのかということを考えておられますか、それを、これが一点。いわゆる人権条項も社会の変化に対応できなくなっていると言われておるわけです。この点についてどうお考えになっておられるか。
 また、この日本国憲法は国民主権を基本原則といたしておりますけれども、投票によって意見を聞くことができるのは、憲法改正の九十九条と最高裁判所判事の国民審査のこの二項だけですね、いわゆる国民投票によって。だから、私は、原則は国民投票制をやっぱりある程度いろんなところで導入する必要があると私は考えておるわけですよ。これはやっぱり代表民主主義にも矛盾をしないというふうに思っていますが、むしろそれを補完するものであるのではないかというふうに考えておられますか。
 この二点について、横田公述人はどうお考えでございましょうか。
○公述人(横田力君) まず、十一条から四十条まである三十か条の人権条項はかなり諸外国の憲法に比べましても豊かな内容を持っているわけですね。これを柔軟解釈する、ないしはそれをより主張する側、不幸をかこっている人々の側に立って解釈する余地というのは幾らでもこれはあると思います。
 先ほど述べましたように、この憲法の人権の主人公は、この国家の国民に限定するとか、あるいは先ほど少し言いましたけれども、ある臣民という資格を持った人間たちにのみ限定するとか、そのような修辞句がないわけですね。人であること、市民であること、国民であること、更にそれらの規定を受けた地方自治法は住民であることと、こう言っていますね。であるならば、なぜあえてこの三十か条にわたる豊かな人権条項が現実にミスマッチを起こしているのかというまず論証をしていただきたい。私はその論証が極めて不十分であると思う。これ、前者ですね。
 後者は、もう一度ちょっとお願いできます。はい。
○谷川秀善君 いわゆる国民投票制。
○公述人(横田力君) はいはい、分かりました。
 あえて国民投票制ということに踏み込まなくても、先ほどですけれども、先生がおっしゃった中でもう一点ちょっと不足があったんですけれども、これはいわゆる特別地方自治体に関する立法、これについてはその地方自治体の住民投票は必要ですね。これも一つあります。
 ただ、それをおいておいても、レファレンダム等々に見られるような住民投票制というのは、やはり市民生活の現場においてやってこそ初めて意味がある。国政レベルでは、まだそれは距離がある。その意味において、代議制民主主義は、国政において、憲法四十一条を受けたとしましても、これは今の展開で、僕は、私は、さしたる不足ということはない。むしろ、それは政党の在り方、あるいは議会制民主主義における代表システムの在り方、ここにこそ手を付けるべきであって、国民民意は、鏡のように縮図的に代表するような、そういった代表制にできるだけ早く移行すること、これによって十分に政治は国民の声を聞くことができると思います。
 ただし、レファレンダム等は自治体においては是非入れるべき、むしろこれは義務的、拘束的な意味におけるレファレンダムを入れてこそ初めて住民自治というものが確立すると、このように考えます。
○谷川秀善君 ありがとうございました。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 次、柳田稔君。
○柳田稔君 民主党の柳田稔でございます。
 四人の公述人の皆様、大変ありがとうございました。
 まずお聞きしたいことは、つい先日、中国の瀋陽におきまして事件が起きました。新聞、テレビで報道されまして、それを見たときに、四名の公述人の皆様、どういう感想というか、お考えをお持ちになったのか、まずお聞かせを願いたいと思います。
○公述人(杉井靜子君) 私は、もう少し外務省領事館の方がやはり毅然とした態度を取るべきだったんではないかと思いました。
 やはり、もう領事館内に既に人々が入っているということはあのテレビの画面なんかでもはっきりしているわけで、そこに中国の警察が入り込むということはやはりこれは国際法違反でもありますし、そういうことをやはり、領事が、の承認を取ったか取らないかということは別にしまして、そこで漫然と見ていたのだろうかという、そんなふうな疑問があります。
 そこにはやっぱり亡命者の人権を日本国がどうやって守るのかという、その人権の視点がちょっとやはり欠けていたのではないかということが率直な感想です。
 以上です。
○公述人(辻清二君) 申し訳ありません。私、あの事件が起きた後ぐらいからちょっと風邪を引いていまして、余りテレビとか新聞とかよく目を通していないので不正確なことを言うかもしれませんけれども、率直なところ、テレビの画像で子供さんが登場してきて、お母さんが連行される場面を見てみて、なぜ、何ていいますか、何か戦前の、何か悪いことしたら連行されるような、そういう場面みたいな感じを、率直なところやっぱりしました。やっぱりそこには、今、杉井さんもおっしゃったように、一人一人のやっぱり人権というか、やっぱり自由に一人一人が自分の生き方を決める権利、こういうものに対する温かい、そしてそれを保障する、そういうところが欠けているのかなということを率直に感じたところです。
 ちょっと不正確な面があるかもしれませんけれども、私の感想は以上です。
○公述人(柳時悦君) 実はこの事件は私たちの民族の問題が絡んでおりまして、私は第一報から詳細にこのテレビの報道あるいは新聞記事等を追って見ております。
 最初の第一報を見たときに、私は在日として日本で住んで、日本からどういう扱いを受けているかという観点が染み込んでおりますから、第一報を見たときに、また第一報の報道の仕方もたしかそうだったんですけれども、どうも日本が、日本側が領事館の内部に入った人を中国の官憲が連れ出すことを了承したのではないか、まずそれを最初強く感じました。門のところで女性、子供をおぶった女性を中まで立ち入って引きずり出す、これはもう言語道断であります。
 しかし、その問題以上に問題にされなければならないのは、まだ真実が分かりませんから何とも言えません。ただ、私の経験上、直観として、あっ、日本はもしかしたら立ち入って連れていくのを許可したんじゃないかなというのを最初に感じました。もし事実が違うければ謝らなければなりません。
 私は、その後のこの事件の報道そのものも注視して見てきました。日本の報道がこういったものをどう報道するのか、あるいはコメントを求められた政治家の方がどういうコメントをするのか注視してまいりました。最初は、まず日本の主権の侵害だという形で激しくみんなが怒ったわけでございます。それはそれで当然でございます。だけれども、即にそのこととバランスよく、これは人道上あるいは人権上非常に問題だという重きよりも、主権を侵害されたという論議にどうも偏っていたような気がします。
 その後、いろいろなことが分かって、人道上の問題、人権の問題というのが後、堰を切るように出てまいりましたが、その最初の瞬間の反応に、私は何かこの、私が先ほど述べた、日本がどうも外国人、そういったもの、人権、人道、そういったものをちょっとやっぱり軽視する傾向が何か行き渡っているんじゃないかなという危険を感じます。
 主権侵害と申しますけれども、主権、それから先ほど国民主権という話が何度も出ていますけれども、国民主権って何でしょうか、あるいは主権というのは。それはその社会に住む人たちの幸せ、人権を尊重し幸福になる権利、それを実現するための近代社会が生んだシステムの一つじゃないんでしょうか、国民主権というのは。その主権とか国民主権とか、そういったものが、ある人たちの、その理由によってある人たちの逆にその人権が損なわれるような感じ、それがちょっと日本社会にあるなというように感じます。
○公述人(横田力君) そうですね、今のお話と大体即応しますけれども、国家の主権、主権と言う場合には二つ考え方がありまして、それは国家の、今ちょっと言い掛けましたけれども、国家の主権という言い方と国家における主権という言い方、二つあるんですね。国家の主権というものが国家の利益にかかわり、国家における主権というのは正に我々の参政権ないしは国家意思決定権にかかわるわけですね。
 こういった場合について、国家の主権ということを前面に出し、国家的利益の侵害ということでふんまんを述べるということでは、我々としては、彼らの痛み、要するに保護を求めて逃げてきたその痛みというものを共有できない。できるだけ彼らの自己決定権、選択権、こういったものに目線を置いてこの議論をする必要があるかなと、こう考えます。
 それと同時に、もう一つ、これは、今のことはウィーン条約の解釈等々もまた踏まえた難しい議論になってくると思います。調査中だということで、まだ結論は出ていないと思います、外務省も。
 ただ、分かることは、やはり、何といいますか、中国と北朝鮮、そして北朝鮮が明らかに人権、総体的な抑圧体制を取っていますね、実際。この体制に対して、中国はアジアの大国であるにもかかわらず容認する姿勢を取っている。ここに悲劇の大きな要因がある。ここの部分を、少し話広がりますけれども、アジアの安全保障ないしはアジアの社会における人々の共生という観点から、日本政府としても考えていく余地、あるいは我々としても考えていく余地ないかなと考えております。
○柳田稔君 あの事件の報道を見たとき、実は私も皆さんと同じような感覚を持ったんですよ。主権が侵された、問題だとか、外務省はたるんどるなとか、機密費の問題から始まりましたので、何をやっているんだというふうに実は思ったんですが、おととい、ある方とお会いしたときに全然違う意見を聞かされたんですよ。あの人たちは命を懸けて自由を求めているんだぞと。基本的人権も含まれていますよね、自由という中に。命を懸けて自由を求めていると、そのことをしっかり覚えておきなさいって言われたんですよ。
 先ほど、今日の主題が基本的人権なわけでありますけれども、日本国憲法を見ても「最高法規」って書いてあるんですよね。ところが、今回の事件を見たときに、私も含めてですけれども、多くの方々が果たしてそういう面に目を向けていたのかなと実は自分で反省しながら今いるわけなんですが、今回の事件、日本の中のことを考えたときに、自由ということに対して余りにも我々は認識が薄いのではないか。薄いと言うとちょっと語弊があるかもしれませんが、命を懸けてかち得た権利ではないのではないかと、与えられた権利だからみんなこの程度しか考えないのかなと実は思ったりもしているんですけれども、こういう私の考えに対して、杉井さんと柳さんと横田さん、どういう御感想か、お考えをお持ちか、お聞かせ願いたいと思うんですが。
○公述人(杉井靜子君) 確かに、諸外国のいろんな憲法はいわゆる市民革命を経てかち取ってきたものだという、そういう意味では正に自由や権利を命懸けで革命をしてかち取ってきたものだというふうに言われています。そういう意味で、また今回の命懸けで、亡命者が命懸けで自由を求めるという、そういうふうな体験は日本国民はしてきていないというふうには思います。しかし、私はやはり憲法が、この日本国憲法が制定された当時、決して占領軍から押し付けられたということではなくって、当時、やっぱりいろんな形で国民の中で、あるいは学者の先生たちあるいは国民の各団体の中で、憲法の、新しい憲法についての改正案というものがいろいろ提案されました。それは、もっと過去にさかのぼれば、やはり明治以来の自由民権運動やあるいは大正デモクラシー、そういうふうな中で、あるいは戦時中のいろんな思想や宗教が弾圧される、そういう中で多くの人たちがこの自由や権利を獲得するために闘ってきたやはり歴史があったと思うんですね。そういうものがやはり新しい憲法を作るというときに一つの流れとなって、国民の側からも憲法草案的な提案が幾つもされた、そういう中でできた憲法でありますので、決して、単なる与えられた、押し付けられた憲法ではないというふうに思いますし、また戦後のこの憲法、新憲法の下での、先ほど来いろいろな方が述べられましたように、あるいは私も言いましたように、各層、各地域でのいろんな国民の自由や権利を守る運動や闘いの中で定着してきた部分も大いにあるわけで、その意味では、単なる与えられた憲法ではないかという意見には、私はそうではないというふうに申し上げたいと思います。
 以上です。
○公述人(柳時悦君) 自由の大切さということの経験は、私は本来日本人は十分にしているんではないかと思います。それは、戦前の体制を見れば、そこに自由がなかったのではないかと、私の立場から見て、本当はそういうふうに経験を持っているのではないかと思っています。
 ところが、それがやはりいろんな角度から検証され反省されていないから、それが生かされてこないという意味で自由というものにちょっとやっぱり価値観が足りないのかなと思いますが、自由というのはなぜ大切かというと、それは人間の尊重だからだと思うんです、根本原理は。それで人間を尊重するということが少し足りないのかなと、極端な言い方をすれば。その理由は、私はこう考えているんです。
 戦後、日本は経済繁栄を成し遂げましたが、それはやっぱり一つの価値観、それから一枚岩の団結、社会的なですね、そういうものによって効率的な生産性を高め、そして経済的な繁栄を世界のトップの座にまで押し上がった。ここではやはり、どちらかというと個々の人間を尊重するというよりは、システムを大事にしたり国家というものを中心に上から下へ広がってくるような物の考え方、そういうものがやはりちょっと経済繁栄と相まって尊重の比重がそちらに傾いていたんじゃないかなと。そういう意味で少し個々の人間を尊重するということが不足しているのではないか、それが私はつまり自由だとかそういったものに対して本当の意味でよく理解しない部分が生じてきているのではないかというふうに思います。
○公述人(横田力君) まず、本当に命を懸けて亡命するないしは庇護を求める、命を懸けて声を上げなければいけない人というのは、何も中国のあの領事館の問題だけではないです。もうグローバルにそういった人たちの方が多いんですね。問題は、そういう命を懸けざるを得ないような立場になぜ置いてしまうのか、国際社会が。そして、日本のような非常に影響力のある国がなぜそのような状況を、許すとは言っていませんよ、それに、助長しているとは言いませんけれども、もう少し早い、早急な手当てができないのか。
 象徴的に現れた領事館の問題だけを目にすることなく、とにかく命を懸けて声を上げざるを得ないということは人間にとっての一番の苦痛な表現ですから、これを取り除くような努力ということを我々はやはり政府の方々を始めとしてやる必要がある。この努力の不足ないしは足りなさの証明ではないかと思うと同時に、もう一つは、今の中国という社会でなぜ彼らが自由を求めてあのような行動を取らざるを得なかったか。それに対して、日本というものは近隣にあって中国に対してどのような働き掛けをするのか。国家単位で働き掛けるのか、いや、そうではない、中国の国民や民衆がより豊かな生活を送り、より豊かな価値観を多元的に共有できるような、そういう言わば、何といいますか、寛容の精神を導くような接し方をしているのか。
 これはなぜ言っているかといいますと、有事法制の問題がどうも頭に引っ掛かっていて、あれをやると中国がますます緊張関係に置かれてこういうことをやるのではないかというふうに少し思いますので、考えるんですけれども、そういう努力というものを我々、そして国家単位でやることによって命を懸けざるを得ない人たちをできるだけ少なくしてやること、この努力を痛感いたします、その努力の必要性を。
○柳田稔君 じゃ、最後に杉井さんに質問させていただきたいと思うんですが、杉井さん、先ほど憲法は普遍的で網羅的なものであるとおっしゃいました。私は常々環境権、これは今、普遍的、網羅的なものに合致すると思うんです、私、今後のことを考えますとね。
 となると、私は、環境権というのは憲法に明記すべきテーマではないのかなと。いろんな条文があるから、それを解釈して環境権はあるんだという程度の問題ではなくて、日本が国是として掲げてもいいようなテーマではないのかなと実は思ったりしているんですね。ほかにも二つか、幾つかおっしゃっていましたけれども、環境権だけはどうにかして憲法に書いてもらいたいなというふうな気がしているんです。
 それに対して、杉井さん、どうお考えになりますか。
○公述人(杉井靜子君) 私は、環境権については、今の憲法から考えますと、一つは、やはり憲法の二十五条の、すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利があるというふうになっています。そして、健康でという、健康な生活を送る権利という意味で、環境権はもう当然この憲法の解釈から導かれるものだというふうに一つ思います。
 それからもう一つは、憲法の十三条で、すべて国民が個人として尊重され、生命や自由や幸福追求に対する国民の権利が保障されているわけで、この幸福追求権ということに当然含まれるものだというふうに思っています。
 それで、確かに私も、ですから、先生と同じように、環境権というのは非常に大切だと、そして人間が生きていくにもう本当に重要な権利だというふうに思いますけれども、今言った憲法の解釈から当然導かれるものだというふうに思うんです。
 それと、人間というのはやはり、例えば環境権が絶対大事だというふうに思う人と、また例えばプライバシー権が大事だと思う人、あるいはこういう権利が大事だと思う人、それぞれやはりその置かれた立場によって自分が強調したい権利とか自由というのはあると思うんですね。それはやっぱり国民が様々で、置かれた立場が様々だし、それぞれが違ったいろんな条件の中で生活しているわけですから、そういうふうに様々な意見が出てくるのは当然でして、そのときに、環境権だけはこれは絶対に憲法に盛り込むべきだとかプライバシー権だけは盛り込むべきだとかという形でなってきますと、やはり収拾が付かないというふうなことにもなりますし、私はやはり、それと、さっきから申し上げているように、いろんな、時代の進展の中で新しいやはり人権というものが当然新しくまた主張されてくるわけですし、そういうものも含めてやはり、むしろ網羅的な憲法の中できちっとした解釈をしていくということの方が大事じゃないかというふうに思います。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 山口那津男君。
○山口那津男君 公明党の山口那津男でございます。
 このたび、公述人の皆様には貴重な御意見を開陳していただきまして本当にありがとうございます。私からは、それぞれの公述人の御意見に対して御質問をしてまいりたいと思います。
 初めに、柳公述人にお伺いいたします。
 我が国が在日の皆様に特別永住権を認めておきながら一般の外国人と同等の保障しか与えてこなかった、そういう姿勢は正にこの憲法の精神に反するものであると私は考えます。また、冷戦が終了した後、ますますグローバル化が進むこの今日の社会におきまして、一般外国人の権利についてすらこれを見直す環境というものができつつあると思います。
 そうした中で、特別永住権を持った皆様が地方の参政権を通じて住民の生活に密着した場から一つ一つの政策を変えていこうと、こういう試みというのは私は大いに賛同するものであります。
 その上で、こうした考え方に対して一部の政治家には根強い反対論も主張されるわけであります。こうした反対論に対して公述人はどういう御意見をお持ちか、率直に御意見をお伺いしたいと思います。
○公述人(柳時悦君) 反対論には幾つかあると思います。例えば、前は相互主義じゃなきゃ駄目だとか、国民主権の論理から反するだとか、あるいは極端な話になりますと、外国人がどこかの地区に集まって何かやったらどうするんだというような極端な意見まで、いろんな反対論があったと思いますが、現在は何かこれに反対する具体的な手法として国籍要件緩和というような法案が出ているというふうに聞いています。これが地方参政権を反対するために出たのかどうかは分かりませんが、私たちとしてはそういう視点で見ざるを得ない状況があります。
 そのことに関して先に言わせてもらうと、まず私たちは外国籍者としてこの日本に住んで、しかも人権を尊重され、人間として生きていく、そういうものを求めているんであって、それなのに帰化をしなさいというのは、私たちの要求を何か全然逆に受け取っちゃっているんではないかというふうに思います。そういうことで価値観が違うんだと思います。
 例えば、帰化させて問題を解決するということは、自分と同じになりなさいよと、自分と同じになれば何でも権利できるんですよというこの考え方は、この在日の問題というのは日本における特徴的な問題です。今世界にあるすべての争い、それは違う人たちが争っているわけです、相異なる人たちが。じゃ、自分と同じになれば問題は解決しますよと、この発想法で何の問題が解決するんでしょうか。違う人たちが違う間でその社会で構成しながらお互いに共生して生きていく、この解決法を見出すことに意義があるんです。それが、地方参政権を私たちは要求しているんです。にもかかわらず、違う人が違うままじゃなくて、あなたは私と同じになりなさいよと、そうすれば問題が解決するんですよ、これでは何の問題も解決しませんし、物事の解決方法ではありません、それは。というふうに考えております。
 そういった意味から、いろんな理由があります。
 それから、相互主義ということもかなり言われた時代がございますが、一般外国人であればそういうことを言われると少し弱いかもしれませんけれども、先ほど言いましたように、歴史的経緯があるわけでございまして、その辺を踏まえて、やはり相互主義というのは私たちに反対する理由としてはふさわしくない、そういうふうに思っております。
 国民主権ということに関しましては、先ほど言いましたように、国民主権の原理は、それはそこに住んでいる人が幸せになるための一つのシステムの原理だと思いますね。それにもかかわらず、そのシステムの原理をもってしてそこに住んでいる人を逆に排除するというのは、国民主権を勘違いして受けている方の論理じゃないかと思います。
 以上です。
○山口那津男君 次に、横田公述人にお伺いいたします。
 お時間の関係で御主張をすべて開陳できなかったかもしれません。レジュメによりますと、憲法九条に関する言及もされたかったようであります。
 この点に関しまして伺いたいんですが、正当防衛の権利という言い方があります。これは日本国憲法には明文では規定されておりません。この基本的人権、日本国憲法の保障する基本的人権という視点から見た場合に、正当防衛の権利というのをどのように位置付けるべきとお考えでしょうか。
 その場合に、国民個々が持つこの正当防衛の権利があるとすれば、国民総体としてこの正当防衛の権利が自衛権と言われるものとどう結び付くのか、結び付かないのか、その点についてのお考えもお聞かせいただければ有り難いと思います。
○公述人(横田力君) まず、自然人である我々にとっての正当防衛権というのは当然ですね。これは、不当、急迫不正な侵害に対するそれなりの、必要最小限というか、比例原則を維持した上での反撃ないしはそれを峻拒するという行動においては、これは正当行為ないしは違法性というものは阻却されるというのは当然のこれは法理ですから。しかし、それを挙げて国家の立場から議論するというのは、また議論、レベルが違ってくると思います。
 国家が正当防衛権を行使した場合について、必要最小限度、その条件として急迫不正の侵害があったとします。あったとしても、そのような行動に出た場合について、ここにはだれかがやはり同じような形でといいますか、だれかの生命が毀損されることは事実。国家がそれによって名誉を回復し、国家の利益の回復ができたとしても、それは、自国民ないしは相手のその国民、国家というレベルで考えれば、だれかがやっぱりこれは亡くなっていく、あるいはその権利利益が侵害されていく。このような形での正当防衛権というのは、本来国際法上であるならば、よほど限定した限りでない限り認められないというのが今日の国際慣習法の到達点であると私は理解しております。
○山口那津男君 次に、杉井公述人にお伺いいたします。かつて同業であった者として、公述人の様々な実践的な努力には深く敬意を表するものであります。
 DV法、児童虐待防止法、もっと早く制定されるべきであった、同感でありますけれども、なおこれが制定後もやはり改善、改正すべき点が多々あると私は考えております。先ほども幾つかの点を公述人から御指摘されたところでありますが、もう少し法改正について具体的な御指摘があれば、お伺いしたいと思います。
○公述人(杉井靜子君) まず、DV法についてですけれども、保護命令というものが、六か月の接近禁止命令、二週間の退去命令というものがあるわけですが、まず一つは、この保護命令が非常に手続が面倒であるというのが一つあります。というのは、かつて暴力を受けていたということが証明されなければいけないという意味で、例えば、その以前に警察に駆け込んでいたとかあるいは暴力防止センターの方に相談していたとか、そういうふうな証明がなければいけないというようなことがありまして、例えば初めて、初めて暴力を受けたようなときに本当にそれで対処できるのかというのが一つあります。
 それから、このDV法は御存じのように配偶者からの暴力というふうに限定されておりますので、例えば恋人ですね、恋人とか配偶者ではない者からの暴力については防止できないという仕組みになっています。
 それから、二週間の退去命令ということですが、これも要するに、暴力を振るっている夫に二週間だけ、二週間退去してほしいという、こういうことになるわけですが、二週間といいましたらば、これは結局、二週間のうちに妻の方が、退去命令もらったとしても、二週間のうちに妻の方がどこかほかの居場所を見付けて転居しなければいけないと、もう二週間たったらまた夫が戻ってくるかもしれないんですから。そういう意味でも非常にやはり不十分だというふうに言えます。
 それから、さっきも言いましたけれども、やはり私は、最大の問題というのは、そういう夫の暴力から逃れてきた妻や子供たちをかくまうシェルター、これがやはりきちっと公的に設置されなければいけないというふうに思いますが、この現状の法では、結局、従来からある婦人相談所とか女性センター、それを利用するというだけで、新しくこの法律に基づいたきちっとした避難場所、シェルターというものを設置する義務というものはこの法律では認められていないわけです。そういう意味でもまだまだ不十分ではないかというふうに思うわけです。
 児童虐待防止法については先ほども言いましたけれども、確かに警察や児童相談所の権限というのはかなり強まったわけですけれども、じゃ、そうやって、例えばそういう虐待をした親を逮捕、いろいろ報道もありますけれども、逮捕してあるいは刑罰を科してそれだけでいいのかというふうになると、そうではなくて、やはりその親に対するいろんな指導、カウンセリング、そういったものもしなければいけないし、まず何よりも子供をどうやって保護するかという、その保護のための施設の拡充、そういうようなことがやはり今後の課題になるかというふうに思います。
 以上です。
○山口那津男君 もう一点、杉井公述人にお伺いしますが、国の責務として国民の生命、財産を守るというのは当然のことだろうと思います。犯罪から守るのが治安に関する法律体系であり、また災害から守るのが災害対策に関する法体系であると思います。
 一方で、武力の攻撃を受ける、こういう事態がないことは望ましいんですが、それを私は保証する自信はありません。こうしたことが起きた場合には正に最大の人権侵害だと思います。こういう事態に対して、国としてどう対応するべきだとお考えでしょうか。
○公述人(杉井靜子君) 私は、この点については、やはり憲法がよって立つ考え方が何なのかということを考える必要があると思います。
 憲法は、やはり戦前の反省の中から戦争を放棄し軍隊を持たないという、こういうふうな選択をしたわけです。つまりそれは、そういう外国からのいろんな侵略やその他、あるいは平和を守るためには軍隊とか武力によって守るのではなくて、むしろ軍隊や武力を持たない、そういう形でむしろ平和を守るんだということを選択したのだと思います。
 憲法の前文では、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、平和を保持することを決意したというふうに述べております。そこにはやはり軍隊や武力ではなくて諸国民を信頼するという、そこにこの平和の根拠を求めているんだと思います。その意味では、私は、端的に言えば正に備えと、何か備えということでいうならば正に九条というのが、九条がこの国の備えになるんだろうというふうに思うのです。
 それで、やはり軍隊や武力を持っている、そういうだけでやはり諸外国から標的にされる、そういうふうな危険性が特にこういう今の、現在の世の中では、世界では十分にあり得るんだと思うんですね。その意味で、例えばコスタリカが、あんな小さい国ですけれども、しかし、やはり軍隊や武力を持たない、そういう中であの中米の中で平和をずっと維持している、そういうふうな実践もあるわけですから、そういう意味での平和の保持ということ、それが憲法の取った選択であり、我々国民が取った選択なんだろうというふうに思います。
 以上です。
○山口那津男君 ありがとうございました。
 最後に、辻公述人に伺いますが……
○会長(上杉光弘君) 時間が参っております。
○山口那津男君 はい。保険税の関係で、憲法の求める最小限の保障というのはどのようなものか、時間の関係で簡潔にお答えできればと思います。
○公述人(辻清二君) 先ほどもお話しさせていただいたように、私ども、憲法二十五条の「健康で文化的な最低限度の生活」、ここに食い込むようなやっぱり課税なり保険料の負担というのは間違いではないかというふうに思います。
 実際には、今、先ほど言いましたように、そういう最低限度の生活に食い込むような状況があるわけですし、そういう点でいえば、まあ具体的な数字で言えば、今の日本の中でいえば、生活保護基準、ここに対してどれぐらい、生活保護基準に対して、その生活に対してどれだけ保険税が掛かっておるか掛かっていないか、その生活保護基準を基に判断を今するのが一番今の段階では妥当じゃないかなというふうに私は思います。
○山口那津男君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 吉岡吉典君。
○吉岡吉典君 日本共産党の吉岡です。
 四人の公述人のお話によって、憲法の人権規定をどうとらえるかということ、またその実態が日本社会でどうなっているかということについて大変学ばせられました。ありがとうございます。
 憲法の人権規定のとらえ方は、いろいろな面からお話がありましたけれども、私は、この世界人権宣言五十周年に際して、日本の国会が衆議院、参議院の本会議で、同じ一九九八年十二月十四日に、人権宣言に関する決議を採択しました。その決議の中でこういうふうに言っております。我々は、世界の平和と繁栄は、すべての人々の人権が尊重されることにより、初めて実現されるものであると確信すると。これは、衆議院も参議院もそのように述べております。つまり、国会は、衆議院、参議院ともに人権が守られることが平和の土台というか前提だと、こういう決議であります。
 この点に関連して、まず横田公述人に、このレジュメにもあります、第二項に当たるかもしれませんけれども、人権規定と平和との関係についてお話をお伺いしたいと思います。
○公述人(横田力君) 非常にこれは難しい議論が必要になるんですけれども。
 まず、一番考えなければいけないことは、戦後の社会というものは、国際社会もそうですけれども、平和ということの持っている枠組みを大きく変えてきているということを確認する必要があると思います。
 それは何かといいますと、安全保障というものが平和へ向かっての一つの手段とするならば、それらをもってどういうスタイルを取るか。戦前期あるいは戦間期においては、これは国家の安全保障というスタイルですね。戦後において、国連憲章二条四項は、単なる戦争行為だけではないです、武力の行使及び武力による威嚇ですね。何かどこかで聞いたことがありますね。憲法九条第一項の規定ですね。これは正に憲章二条四項から取っているわけですけれども。
 こういう中から我々がどうやって平和を追求するかといったとき、要するに足下を見るわけですね。そのとき、我々の人権というよりもやはり生きる自由というものが侵害されるような、そのようなことを野放しにするような政治がある社会というものは、必ず国内において紛争の火種をまき、それは対外的に、要するに外に向かっての不幸をもたらすような外交政策に転化するという、この反省に立っているということ。
 したがって、国内において勤労者を含むところの市民的自由あるいは社会的自由ですね、これらを保障しないような国家、政府を許しているような、そういう社会体制というものは平和を語る資格がないと、こういうメッセージが戦後において見事に貫かれている。その嚆矢となったものがこの世界人権宣言であると思います。
 それを五十年たった今日において衆参両院が決議したということは、我々の権利、利益というものが老若男女問わず平等互恵の下に保障され、初めて憲法九条の内実を我々が与える、そのような責任が果たされる。果たして今はその責任を果たしているかどうかが問われますけれども、そのような、要するにラインの中に我々が置かれているんだ、憲法九条を裏付けるような意味合い、条件付ける意味合いは何か。
 我々が平等互恵の中で豊かに、そして恐怖に駆られることなく生活することができる、生きることができる、そのような手を、また近隣諸国に、何と言うかな、ハンド・ツー・ハンドでもって、何といいますか導いていく、あるいはお互い同士がそういった関係を作っていく、そのようなスタイルの中で平和というものがある。そのことが見事に前文及び九条、そして第十三条の文言の中に生きていると。少し強い言い方もしましたけれども、そのように感じております。
○吉岡吉典君 国会が決議した世界人権宣言ですけれども、これを含めて、第二次世界大戦後の世界で人権問題がかつての世界よりももっと強く強調された理由について、私は国際法学者からいろいろ話聞きましたけれども、例えば高野雄一先生は、私お会いして話ししたときにも、またその著書の中でも、第二次世界大戦を始めたドイツ、イタリア、日本、この三か国というのは、人間個人の自由と権利の無視と破壊、人権の尊厳の侵害が特に際立っていた国から引き起こされたと、そういう歴史的な教訓に立って、戦後の国連憲章から世界人権宣言、その後のいろいろな取決めがあるのだというお話でした。
 私は、憲法学者である横田先生に、日本国憲法の第十一条あるいは今も論議になりました九十七条、これらの中でこの憲法が国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として規定されている。これもやはり日本国憲法のこの規定が戦争の教訓として規定されたものと取っていいのでしょうか、横田先生のお話をお伺いしたいと思います。
○公述人(横田力君) ストレートに十一条、九十七条等が戦争の反省ということ、論証は必要だと思いますけれども、先ほど述べたように、国家による武力の行使というものを広い意味において威嚇行動あるいは様々な形での軍隊の展開を含めた威圧というところまで禁圧している、そういう国際社会の動向を踏まえて憲法があるということは、この十一条あるいは九十七条というものは明らかに戦争違法化の大きな流れの中で我々の社会のビジョンを照らし出している、そのように感じます。
 と同時に、もう一つお話ししますと、世界人権宣言、更にはそれを踏まえて条約化しました国際人権規約がありますけれども、このいわゆる市民的自由に関する規約の第二十条は次のように言っております。表現の自由を十九条で保障する中で、ただし戦争を扇動し、それを宣伝するような自由というものはあってはならないんだと。
 そう考えますと、我々にとっての人権の中心部分というものは、まず第一に戦争行動によってその外壁が崩されてはならないこと。そして、とりわけ政府の政策によって戦争が引き起こされるようなことがあってはならない。そのことを、人権論は九条とは違った角度から我々に対してメッセージを投げ掛けていると、このように考えたらいかがかと思います。
○吉岡吉典君 横田先生にもう一点お伺いいたしますけれども、そういう歴史的な教訓からも、また世界の歴史の教訓からも規定された憲法の人権規定ですね、これが個別法によって制限を加えることが憲法上できるものなのかどうなのか。これはこの調査会でもこれまでも何回か論議になってきたところでございますけれども、横田先生の御意見もお伺いしたいと思います。
○公述人(横田力君) 人権の制約根拠ということですけれども、先ほどフランス人権宣言その他をひもときながら、その精神というものは、今述べましたように十一条あるいは九十七条、更には十三条の前段部分に色濃く反映している、したがって、我々の憲法は西欧型民主主義に立脚しているんだということを開陳しました。
 その流れで申しますとどのようなことが言えるかといいますと、人権を制約する根拠ないしは理由というものは、あくまでお互い同士の人権の調整ということに限られるべきであって、人権内在的な調整を超えて何らかの社会的な利益、あるいはもっと言葉を換えますと、国家の政策による人権の制約というものは、これは言葉を接ぎますが、先ほどの論議に、たとえ有事、たとえ国家の正当防衛行動という口実があったとしても認める余地を残していないというのが、日本国憲法の、例えばこれは首相等が往々にしてよく引き合いに出しますけれども、十三条後段にある公共の福祉の意味ではないかと、このように考えております。
○吉岡吉典君 杉井公述人にお伺いします。
 こういう重要な意味を持つ人権規定が日本社会で現実には貫かれていないというお話がありました。今、横田先生からは、衆参両院の国会決議を守る責任があるという御指摘もありました。
 そういう点で、今のお話ですけれども、私も実は今、人権を守る上で一番重要なことは憲法の規定が本当に貫かれるように努力することだと常日ごろ思っていたんですけれども、今、杉井公述人からもお話がありましたので、改めてその点についてお伺いし、あわせて、辻公述人からもその点について御意見を述べていただきたいと思います。
○公述人(杉井靜子君) 先ほど述べたこと以外に、私、今大変この国民の人権にとって重要な問題として考えているのは、働く人たちの長時間労働ということです。
 それで、もう本当にサービス残業やその他でお父さんの帰りがもう深夜になるということで、私のうちは母子家庭よと言う若いお母さんがたくさんいらっしゃるんですね。あるいは、独身の若い労働者の皆さんも、とりわけ派遣という形で働いていらっしゃる方は、もう本当に連日の長時間労働で親が大変心配されていると、そういうふうな状況も聞きます。そういうふうな働かされ方というのは、本当に先ほど来言っている人々の幸福追求あるいはその家庭生活、そういうものが妨げられているわけですね。
 私は、そういう意味で、それとまた家庭内での男女の平等ということを考えた場合にも、やはり夫が非常にそういう長時間労働でありますと、どうしてもそれは家庭になかなか帰れないわけですから、家事や育児の負担もできないという形で、それが女性に押し付けられるということにもなるわけで、いろんな意味で大きなこの人権侵害につながってくると思っているんですが、それにしても、そういうことについて、私は、やはり例えばちゃんと、諸外国では残業については非常に厳しい規制があります。ドイツですと年間で六十時間しか認められていません。フランスでも百二十時間です。そういう中にあって、日本では労働基準法で、実は男女ともに、女性の残業規制も何年か前に外れてしまいましたので、実は現在は労働基準法上は全く無制限という形になっているんですね。もちろん、これ行政指導で年間三百六十時間というのがありますけれども、三百六十時間なんというのはこれは世界の水準からしたらもう驚くべき、もう制限ないのと同じなわけですね。
 そういうことも考えますと、やはり労働基準法にきちっとそういった残業規制をするという、そういう法改正をする、そういうことがやはり人権を守る上でとっても大事なんだろうと思うんですね。
 そういう意味で、正に先ほどから申し上げているように、憲法に沿った形で、具体的な立法で、具体的な法律でその人権の保障をきちっとしていくという、このことがやはり今一番求められているんだということを強調したいと思います。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 吉岡吉典君、いいですか。
○吉岡吉典君 はい。時間ですか。時間来たようです。もう一人、辻公述人に、簡潔に。
○公述人(辻清二君) 簡潔に。
 私は、憲法が生かされないという問題で言いますと、憲法があるんですけれども、憲法の下に法律ができると、それが実際には憲法の精神が反映していなくて逸脱するという、そういう状況が各法律の中にあります。
 その一つが、今日、私、先ほど意見言わせていただいた資格証明書の、国民健康保険の資格証明書の問題です。それともう一つは、やっぱり法律があるんですけれども、それぞれの各法律があるんですけれども、各法律すら守られずに、いわゆる今まで言われた通達行政とかそういうふうな形で行政が事実上法律をゆがめるというふうなそういう状況があります。
 ちょっと時間、もうちょっといいですか。いいですか。時間、いいですか。
○会長(上杉光弘君) はい。できるだけ簡潔に。時間が大体参っています。
○公述人(辻清二君) はい。
 具体的に申し上げますと、例えば今最高裁判所で生活保護の学資保険裁判というのが争われていまして、十年以上にわたる裁判なんですけれども、生活保護を受けておられるお母さんが娘の高校進学のために毎月三千円、学資保険を掛けたわけですね。それで、生活保護費の中から掛けたわけですけれども、それは満期金は収入だということで生活保護費が減らされると、こういう裁判で今争っているところです。そういう裁判で争わざるを得ない状況というのは、生活保護法があるんですけれども、実際には、学資保険掛けたらあかんというのは、いわゆる厚生労働省の通達とか通知とか、そういうもので今やられているんですよね。そこのところをやっぱり、改めてやっぱり憲法に照らして、各法律や国の各機関の行政を見直す必要があるんじゃないかというふうに私は思います。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 次に、田名部匡省君。
○田名部匡省君 国会改革連絡会の田名部と申します。余り聞いたことないと思うので。自由党と無所属の会が院内会派を作っている会でございます。
 杉井公述人にお伺いしたいんですが、憲法を国民が使いこなせない、していないんだろうかという、このレジュメにありましたが、私もそう思います。ですから、憲法を改正する、今日は基本的なことだけをお話を伺いたいと思うんですが、一体、日本の国民でこの憲法の内容を知っている人はどれだけいるか。申し訳ないんです、もう私も国会議員になってから初めて必要なところは読むようになったという程度ですよ。
 ですから、ここに今日はスウェーデンの「あなた自身の社会」という、これは中学校の教科書、この間、文教委員会で余りすばらしいんで配付してくれと。
 その中身は、法律と権利、犯罪、警察、裁判所、無益な暴力から、犯罪者の更生施設、あるいは女の子と男の子の問題、あなた自身の経済、家族の経済から、物を買う、消費情報、クレジットで物を買う、保証人とはどういうことかとか、コミューン、中学校、十三歳で何ができるか、十四歳では何ができるか。中学校で、社会へ出たらもう困らないようにきちっと教育しているんです。知識だけを植える日本の教育をやっていると、一番大事な基本的なこういうことがだれも分からずに世の中に出ていく。ですから、こういういろんな問題が出てくるというふうに私は考えるんですね。
 国民の意識をどう変えるか。これは、憲法があっても憲法を守らない、法律があっても法律を守らない、そんな国民だなと、これを私は読んでみてそう思うんですね。
 先ほど九条の話もありました。これは、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使はしてはならないと書いていますよね。あの不審船来たときに、海上自衛隊が行って空に向けて機関銃を撃ったのは、あれは威嚇でないのかという私は疑問に思った。あるいは、陸海空その他の戦力はこれを保持しない。そうすると、私の方の自衛隊というのは戦力じゃないのかなと。専守防衛防衛といいながらアフガニスタンの方まで出ていくと。こんなことですよ、言ってみれば。
 自衛隊を持ってもいいか悪いかというので私は予算委員会で質問したら、内閣法制局長官が、十三条で、すべて国民は個人として尊重される、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については云々と、これがあるから自衛隊があってもいいんだという答弁なんです。
 十五条だって、公務員を選定し、それを罷免する、国民の固有の権利だ、公務員は全体の奉仕者であって一部の奉仕者でないと。今どうなっていますか。一部の奉仕者になっているじゃないですか。
 ですから、二十条を見たって、いかなる宗教団体、これは教育に財政上お金を出しちゃいかぬということになっているんです。そうすると、私学に金を出しているのは全部違反です、これ。
 ですから、憲法があっても憲法が守られない。法律を作ればとおっしゃるけれども、法律があっても法律を守らない。これをどうすればいいかというのがまず基本だと思うんですが、どう思いますか。
○公述人(杉井靜子君) 私は先ほど来、政治に携わる者が憲法を軽視したりないがしろにしてきていることが国民の人権意識の定着を妨げてきたんではないかというふうに申し上げましたけれども、その端的な例は、先ほど先生がおっしゃいましたように、九条があるにもかかわらず自衛隊が存在する、こういう、普通、素直に九条を読んだ中学生がどうして自衛隊があるのかというふうに疑問に思うように、そういうふうな正に憲法違反の現実があるということですね。
 こういうふうに、政府自身がそういう憲法に違反するようなことをやっているとすれば、やっぱり憲法は守らなくたっていいんじゃないかみたいな、そういうふうな意識が国民に広がるという、そういうことがすごくあると思うんです。
 やはり、私も、先生がおっしゃるように、憲法を読んだ人がどのぐらいあるかということで、いろんな調査を意識的に見ておりますと、一度でも読んだことがない、ないという、全く読んだことがないという人がやはり五〇%ぐらいいらっしゃるんですね。そういう中で、本当はこの最高法規である憲法を本来は国民は全部ちゃんと読んで学習しなきゃいけないのが、それがなされていないということ、それはやはりさっきも言いましたように、学校教育とか社会教育の中で憲法が位置付けられ、きちっとした学習、学べていないという状況で、それは先ほどから言っている憲法をむしろないがしろにしていいというふうな政府の姿勢が憲法教育についても憲法学習についても消極的な形でつながってきているんではないかと思うんです。
 いずれにしても、やはりそういう意味で、憲法教育と人権教育あるいは消費者教育といった先生が先ほど御紹介されたこういう中身を学校教育の中で、教科書の中で、あるいは副読本の中できちっと教えるということが何よりもやはり人権をこの国に定着させるために大事なことではないかというふうに思います。
 以上です。
○田名部匡省君 辻公述人、辻さん、お願いしますけれども、私は、年金でも、国保あるいは厚生年金にしても、こういうものは、年金はもうあの年金この年金といって、みんな少子化でそこ自体がおかしくなっている。これはもう医療だって何だって全部、少子化の影響が出てくると思うんです。この間も農林年金のことでいろいろお願いされましたけれども、もう全部一本化したらどうかと、年金は年金、こういうものはこういうもので。最低限のことはできますと、それ以上に良くしてほしいという人は別個にやるシステムを作って。
 みんなが、結局会社が倒産する、今度は国保に行くと。それが行けなくて、私も病院に行ったので、この間も先生に聞いたら、全然なくて来て、私が手続してやったとか、そういうことを言うんですよ、お医者さんが。ですから、そのぐらい無関心なんですね、受ける方も。ですから、もう一つにして、会社のあれであろうが何であろうが、そういうものをやったらどうかなという気がするんですけれども、どう思いますか。
○公述人(辻清二君) 今、年金とか医療保険のいわゆる一元化というのがいろいろな形で議論されているというふうに思うんですけれども、その問題を考える場合、私は、やっぱり一つは、繰り返しますけれども、最低生活の保障という関係でいえば、今、田名部さんおっしゃっていただいたような、年金であればやっぱり国の責任で最低保障年金を作るとか、医療であれば、今の医療でいえば、一番下支えになっておるのが国民健康保険だというふうに思うんですよね。そこのところがちゃんとそういう最低保障、健康で文化的な水準を保障する、かつ生活保護でもきちっとした生活保護の基準も引き上げるという、そういう基本的な最低限度の、どういう状態になっても最低限度保障される、そういう制度がそれぞれやっぱり作られていく必要があるんじゃないかというのが一点なんですね。
 それと二つ目には、私思いますのは、先ほど言いましたように、いわゆる担税力のない、税や保険料を払う能力のない人たち、この人たちに対して課税はやめるということが二点目ですし、それと、何といってもやっぱり憲法二十五条の後段に書いてある国の責任をきちっとするべきではないかというふうに私は思います。
 この間、医療保険に対する国庫負担が切り下げられてきて、そのことが住民の保険料負担や医療費負担にかぶされてきたという、そういう状況があるわけですから、やっぱり国の責任を明確にして、国庫負担を医療保険にしても年金にしても増やすということが大事なんではないかというふうに思います。
 以上です。
○田名部匡省君 柳公述人にお伺いしますが、私は地方参政権というのは賛成なんです。ただ、何らかしらの、例えばもう納税の義務を果たしている限りはそれは問題ないんだろうと思うし、あるいはそうでない人はどうするかとか、あるいは何年か日本に住んでいる人はもう、そういうルール作りは必要だと思うんですけれども、私もアイスホッケーの監督を五年やりまして、カナダの選手たちを随分帰化をさせて、今でも頑張っている選手はおりますけれども、そういう経験を積んでいるものですから余りそんな感覚はない方なんですけれども、しかし、じゃ野方図でいいのかとなると、何かそこに基準というものがあって認めたらどうかなという気がしておるんですけれども、どうでしょうか。
○公述人(柳時悦君) 地方参政権に賛成であって、基準を作るべきじゃないかということですか。
○田名部匡省君 納税している人はもういいわけですから。
○公述人(柳時悦君) 納税義務というのも何か地方参政権が出たときにいろんな論点で語られたと思うんですけれども、納税義務とは関係ないんじゃないかなと思います。納税している人が基本的人権が守られて、納税していない人が守られないんだということは全くないんじゃないかと思いますので、そういう基本的な理念から話をしないと、とにかくいろんなことが出てきてしまって、最後にはごちゃごちゃになっちゃって何をお互いに言っているのか分からなくなっちゃう状態になると思うんですね。
 基準ということも、もう私たちが外国人として無原則にすべて日本国民と同じようにしてくれ、そういうことは言いません、私たちも。私たちは外国人として今生きているわけですし、今は外国人として生きるつもりでこういうことを提示しているわけで、あくまでも日本国民と全く同じ条件を、そんな無理なことは全然申しておりません。
 そういう意味において、しかし外国人として当然認められていいものも排除されるのは困るんだというようなのが一貫した論理なんです。それで公務就任権も地方参政権も述べているわけでございまして、できる限り最小限に、何でも条件を付けたり基準を付けたりするならば最小限の基準、最小限のものにしてもらいたいんですが、しかしこれはやっぱり日本国民の理解がないとできないことですから、当面その地方参政権を認めるに当たって、例えばこういう基準ですよ、ああいう基準ですよ、それが余り極端に大きくなってしまうと、また本来の意味を喪失するぐらいのものになってしまえば別ですが、日本国民の理解を得ながら進めるということに関しては、いろんな基準作りはあるんだと思います。
○田名部匡省君 もう時間ですので、そういう意味で申し上げたんでなくて、税金を納めているのに、働いて、みんな、そういう者に参政権を認めないというのはおかしいんじゃないかと。ただし、条件としては、いろんなことで事件を起こしている問題、社会問題になっていること等もあるんですね。別に韓国という意味でなくて、いろんな国から来ていろんな事件を起こして、密入国している人もおれば何人もおればという中で、何かしらそこはきちっとしないとなという感じがあったものですから申し上げました。
 もう時間ですので、横田先生、大変失礼ですが、私の持ち時間終わりですので、今日は本当にありがとうございました。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 大脇雅子君。
○大脇雅子君 公述人の方々には、貴重な御意見をありがとうございました。
 まず、横田公述人にお尋ねしたいのですが、市場における自由競争と契約自由の原理の中で様々な生存権等、そうしたものが変容を来し始めていると、そしてまた規制緩和の中でそうした規制の縮小や解体が憲法秩序に様々な影響を与え始めているということを述べておられますが、もう少し具体的にそこを御説明いただけますか。
○公述人(横田力君) 簡単に申しまして、人というその存在といいますか、難しく言いますと、それを考えた場合、一つはこれがあると思うんですね。何を考えるか、そして何をモットーとして生きるかということ。これはすべてバラエティーであっていい、何らの規制があってはならないと思います。いわゆる表現行為について規制が一切許されないという議論はここからくるわけですけれども、しかし人間が生きるということを充足するためには、どうしてもそこには立場の違い、あるいは力の違い、相当のものがあります。
 そういう中で、そのミニマムのレベルを抑えるというところに何らかのルールが必要じゃないか。このルールを根拠付けているところに、憲法でいきますと二十五条から二十八条のいわゆる言うところの社会権の意味があるんですね。憲法はそのままにきちんと保持されておりますけれども、それに根拠されると思われるところの様々な、例えば環境にかかわるもの、あるいは労働時間に、規制にかかわるもの、あるいは消費者保護にかかわるもの、こういったところに目を向けますと、典型としまして私は社会福祉領域、老人福祉、更には児童福祉、更には今後来ると思われます障害者福祉等々に見られると思います。
 彼らの生き方というものは、社会的にはっきり申しまして、これは弱者です。弱者であるならば、最低限の正に文化的な限度というものを保障する基準がない中では、彼らの生きるということの充足ができない。これがあった上での様々なバラエティーがある自己選択、自己決定ということが生活の上で生きてくる。
 問題は、このミニマムの部分をだれがいわゆる言うところの資源の配分も含めて保障するのかという第一次責任です。これは、行政あるいは国家というものが独立した専門家の意見を聞きながら資源配分をし、そして給付を決定して彼らの利益というものを守っていかないといけない。
 まず第一に、担い手というものは、権利対象の担い手といいますか名あて人というものは行政の要するに独立した権限行使にあると、このように感じるわけです。もし保育園に入れなければどうするんだろうか。これは、空きがあるかどうかというのを鳥瞰できるのは行政の要するに立場ですね。一民間人ではそれを見ることはできません。ですから、ここを契約スタイルに持っていくということは一つの私はこれは方法だと思いますよ。契約論の中でもって生存権を保障し、財の配分をするのは一つの方法だと思う。ハウツーだと思う。
 しかし、それによって彼らの、最も最下層にあると思われる恵まれない人たちの自己決定権が生かされるのかどうか。契約をしようとする相手方に対してこれこれこういうニーズを突き付ける、そもそもそのニーズにこたえるだけのサンプルないしは提供する財が民間に確保できない、あるいはそこに参入している様々な、これあれですけれども、事業体にそれだけのメニューを、その条件がない。
 では、そのときどうなんでしょうか。その人に大きな所得がある場合ははるか遠隔地から連れてくることもできるか分からない。それがない場合、どうなのか。結局は、契約締結をその人は自己決定の名において断念せざるを得ない。断念した結果、何だろうか。結局のところ、憲法二十五条の生存権は空文に化すと、あるいは形骸となると。
 このようなことであっては、憲法二十五条の意味、これは大事なことは何なのかというと、二十五条は平等を普遍的に保障されて意味があること、だれかにおいて自己決定、自己選択の名の下に凸凹があってはならない。そこにおいて生きる自由というものが非常に、何といいますか、狭まったもの、縮減されたものになってはならない。平等原則は憲法十四条ですけれども、十四条と二十五条が様々な生存権訴訟で一体として提起されているゆえんはそこにあるんですね。
 これを市場経済に任せた場合には明らかに凸凹が出てくる。契約自由の原則、これを自己決定という言葉で見事にくるんだとしても、そのような生きることにおける最低限の落差を許した場合、その国家を福祉国家ないしは文化国家と言えるかどうか、これは憲法の標榜するところと大分離れてしまうじゃないかと、このようなことをお話ししたかったということです。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 杉井先生は、日弁連において両性の平等の権利委員会とか女性と子供の様々な活動に携わっておられまして、憲法を更に具体化していく努力が必要だとおっしゃっているわけですが、ジェンダーの視点から法律を見直すということが様々されておりまして、当面、女性と子供の分野で必要な立法の課題といったものはどんなものをお考えでしょうか。
○公述人(杉井靜子君) そうですね、女性の問題で言いますと、やはり男女雇用機会均等法があるわけですが、しかしこの法律が、いろんな差別について禁止はしておりますけれども、罰則は何も付いていない。そういう中で、なかなか実効性がないという、こういうことを感じております。
 労働基準法は、御存じのように労働者を守るために刑罰の裏付けを持って法律ができているわけですが、そういう点で均等法はまだまだ不十分ではないかと。
 それと何よりも、やはり救済機関が不十分だということを感じます。例えば、労働委員会みたいなもう少し独立した、女性の独立した機関で、差別があったときにすぐに駆け込めて、そして迅速な解決をしてくれる、そういうふうな機関がないと、結局は、差別があっても長い間裁判をしなければ、十年も裁判をしなければ差別が是正されないということでは、実質的なやはり平等というのは実現しないんではないかというふうに思います。
 それから、子供の分野ですけれども、これは女性の働く権利とも関係しますけれども、私はやはり保育所の充実ということがとても大事だと思います。
 児童福祉法が改正され、保育所についても契約という形になってきているんですが、そういう中でやはり民間に保育園を任せるということがどうなのかと。そうなると、なかなか保育園の内容的な質というものも低下せざるを得ないかというふうな危惧を持っております。
 そういう意味で、例えば保育所について、それこそ保育所増設五か年計画みたいなものをきちっと立てて、しかもそれは公的に保障していく、そういうふうな立法が必要なのではないかというふうに思います。
 以上です。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 辻公述人にお尋ねしたいのですが、生存権の健康で文化的な生活というものを保障するために、国民健康保険制度が今崩壊の危機に遭遇していると。赤枠、マル短の表示というものは確かに即刻に中止しなければならないというふうに思いますが、その保険料の、適正な保険料というものはどんなふうに考えていらっしゃるんでしょうか。そして、そうした国民健康保険制度の抜本的な改革についての御意見をお尋ねしたいと思います。
○公述人(辻清二君) 一つは、適正な保険料とは何かということで御質問がありました。
 結論的に申し上げますと、先ほど山口さんの方から質問をいただきまして、ちょっと時間が短かったので中途半端になったんですけれども、やっぱり憲法二十五条による最低生活を送る権利があるわけですし、そのことは結局、健康で文化的な生活を送る上で、本人の自己決定権、自由に生きる権利が当然含まれるわけですね。そこを邪魔するような保険税・料であっていいのかということだと思うんです。私、資料を付けさせていただきましたけれども、保険税・料をもう借金してまで必死に払わざるを得ない、その保険税・料を払うために生活費を切り詰めざるを得ない、こういった状況が全国各地にあるわけなんですね。
 そういう意味では、やっぱり国庫負担を元に、八四年の国庫負担削減を元に戻すと。そして、そのことによって引下げの道に入るということが今は大事なんじゃないかと。と同時に、引き下げると同時に、先ほど言いましたように、最低生活、生活保護基準以下の生活に課税するということ自身が問題なわけでして、やっぱりそういう方向に足を踏み出すことが大事なんではないかというふうに思います。
 それと、抜本改革ということで、今国会でも法案が、医療に関する法案が出されているようですけれども、率直に申しまして、今回、今出されている法案というのは、今日、国民が不況の下で生活が大変になっている下で不況による生活苦にもう一層追い打ちを掛けるということになりますし、かつ、もうこれ以上医療費の負担が増えればやっぱり受診抑制を招かざるを得ないんではないかと。そういう意味では、ますます医者に掛かれなくなる、ひどい場合は、私、先ほど言いましたような札幌のような状況が生まれてくるという、そういうことだというふうに思いますし、今回の法案については私は同意できないわけです。
 そういう意味では、そういう流れの中で、そういう考えの下での医療の抜本改悪じゃなくて、先ほどからも言っていますように、横田さんもおっしゃったように、やっぱり最低の保障を、ここをやっぱりまずはきちんとすると、最低の保障を。だれでもが安心してやっぱり掛かれる医療にするという、ここをまずやるべきだというふうに私は思いますし、そういう意味では、いろいろな医療保険を組み合わせるいろいろな議論がありますけれども、そこのことを基本にする、そしてそのことに対して国が責任を負う、ここがやっぱり大事なんではないかというふうに私は思います。
 以上です。
○大脇雅子君 柳公述人の、地方参政権の創設と公務員における国籍条項の撤廃ということが非常に大きい問題で、確かに人権の保障というのは、法の下の平等、公正と差別の禁止ということがあって初めて実行できるのだということでありましょう。
 公述人のおっしゃいました様々な差別の実態を心に留めまして、私も立法のために努力をさせていただきたいと思います。
 時間がございませんので、それでお許しいただきたいと思います。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつ申し上げます。
 公述人の方々には長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。本調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 お述べいただいた御意見につきましては今後の調査に生かしてまいりたいと存じます。
 午後二時に再開することとし、休憩いたします。
   午前十一時四十六分休憩
     ─────・─────
   午後二時一分開会
○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日、午後は、桃山学院大学大学院教授徐龍達君、主婦福島依りん君、早稲田大学大学院生柳原良江君及び神奈川肢体障害者団体連絡協議会会長前田豊君、以上四名の公述人の方々に御出席いただいております。
 この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本調査会は、本年四月から「基本的人権」について調査を開始したところでございます。
 本日は、「国民とともに議論する」という本調査会の基本方針を踏まえ、現在我が国が置かれている国際化、情報化、高齢化の進展など、大きな変化の流れの中で、憲法と人権の在り方についてどのように考えるべきなのか、人権の保障を一層確かなものにするため何が必要なのか、公述人の方々から幅広く忌憚のない御意見をお述べいただき、今後の調査に反映させてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、まず公述人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきます。
 なお、公述人、委員とも御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず徐公述人にお願いいたします。徐公述人。
○公述人(徐龍達君) 徐龍達でございます。
 このような機会を与えていただきましたことに、まず感謝を申し上げたいと思います。
 最近の新聞によりますと、レジュメにありますが、フランスの極右、右翼戦線のルペン党首が、日本の国籍法は完全に我々の考えと一致するというふうに絶賛したようでございます。治安の悪化は移民が主な原因だと、そういう記事でございました。この排他的な愛国主義は日本の首都東京の石原慎太郎知事らの思考に共通しておりまして、こういう方を知事に選んだ東京都民の中で国会が存在するということに私なりにある種の危惧を感ずるわけでございます。国際化に反する国粋化路線の問題ではないか。こういうところから、私たち定住外国人に対する差別の問題がいまだに後を絶たないという現状がございます。
 若干、憲法第九条に関連して申し上げたいんでございますが、私ども、大学で学んだ九条は、それこそ平和に満ちた東洋のスイスたれという、そういう時代でございました。自民党から共産党まで解釈が一致しておりまして、それがいつしか解釈が変わりまして、今や日本は世界第二位の軍事予算を使うぐらいの軍事大国になりました。こういう憲法の解釈による内部の空白化といいますか空洞化といいますか、そういうことに関連して、私たちの人権もかなりいびつな形になっておるんじゃないかというふうに思われます。
 人権侵害、我々に対するこの差別の源流というのは、古くは戦前からの続きでございますが、万世一系の天皇を頂く神国日本という、そういう過去の天皇制のあおりで、要するに皇国史観からそれ以外の諸民族に対するべっ視観というものが、要するに民族べっ視というのは当時から続いておりましたけれども、そういう流れがいまだに続いておって、国際化ならぬ国粋化の路線が再現しているような、そういう感を強くするわけでございます。
 それが行政面やいろんな面で反映しておりまして、特に国籍条項というものが顕在化しておりまして、日本人、私はあえて日本人と言いますけれども、日本人でない者、いわゆる外国人に対する差別というものが当然のことのようにいまだに連綿と続いているということでございます。
 天皇制の問題につきましてはいろいろございましょうけれども、最近、現天皇が大変いいことを申されたんでございますが、十二月の二十二日、サッカーの共催に関連してインタビューを受けまして、その際に言われたことが、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」、こういう御発言が実は朝日新聞その他、若干の新聞以外にはほとんど取り上げられなかったということが日本の心の壁を感ずるわけでございますが、こういうことが広く報道されますと、日韓の親善にかなり大きないい影響を及ぼすのではないかなというふうに感ずるわけでございます。
 私は、この日本の地に実は一九四二年から六十年間住んでおりまして、その間に様々な体験がございますが、今日は時間の関係でそれには及びませんけれども、その間に私は定住外国人という用語を造語として発表いたしました。つまり、日本に住んでいる地域社会の住民として、私たち外国籍であっても市民的な権利を日本の皆さんに認めていただきたいということでございます。
 そのために何が必要か。その間のいろんな市民権を得るための動きの中で、基本的には戦前からのそういう日本の皆さんの考え方、心の壁を撤廃するということが必要でありますけれども、その一つの方法としては、憲法の改正問題が今云々されていますけれども、戦後の憲法草案にありました、マッカーサー草案の中で触れられていた外国人の人権を保障するというくだりの部分をもう一度振り返って、それを生かすような形で再考していただきたいなということでございます。
 もう一つは、その憲法草案の中に盛られた国民概念そのものが、元々、日本国籍を持つ日本人を指しているのではなくて、英語ではそれはジャパニーズピープルという言葉を使っておりまして、これは憲法第十条の国民の要件は法律でこれを定めるという、いわゆる国籍法を指すわけでありますが、この部分だけがジャパニーズナショナルになっていまして、あとはすべてピープルであります。
 そのピープルの概念を考えまするに、アメリカでのピープルというのはその地に住む大衆すべてを指すわけでありまして、そういう考えの下にマッカーサー試案というものが出ておるということを感ずるわけでありまして、現在の日本の憲法の正式の英文もピープルが主体になっております。
 そういうわけで、私は、本来の国民概念というのは国籍を前提にしておらないということを発見いたしまして、レジュメの中にありますように、日本国民というのはこの国民概念を拡張していただく、日本国籍を持つ日本人と外国籍を持つ定住外国人、この両者をもって日本国民とする、こういう国民概念を拡大する考え方になりますと日本が真の国際国家に近づくのではなかろうかと、こういうふうに今考えるようになりました。そういうふうに、過去の憲法の制定時代からの国民概念の拡張ないしは解釈のし直しと申しますか、そういうことが一つは戦後の国際人権の流れの中で当然再考すべき問題であるというふうに考えるようになりました。
 もう一点は、国際人権規約の中で触れられておりますすべての市民、すべての人類が同じ人権を享有するという意味におきまして内外人平等という考え方が一般化しておりますが、こういう世界的な人権の潮流からしましても、日本国民という非常に矮小化された解釈そのものを再び元に戻すといいますか、また新しいそういう国際人権の流れの中で国民概念を広げていただく、つまり定住外国人も含んだものとしての日本の地域社会を構成する日本国民、そういう国際国家を志向するような在り方になってほしいという願いを持つわけであります。
 俗に日本は通達国家と言われますけれども、私などは特に国公立大学の採用任用運動におきましていわゆる当然の法理という問題についてかなり研究もしたことがございますけれども、そういう法理でない部分で矮小化した解釈、人権侵害に至るようなそういう解釈が一般化するという弊害を除くためにも、この国民概念を元に戻しまして新しい通達を考えていただくというふうにすれば、憲法上の国民概念につきましてですが、私の見解では、憲法上の国民は原則として定住外国人を含む、ただし権利の性質上、日本人のみを対象とする国政参政権などの権利はその限りではないという、そういう趣旨が生かされるのであれば、憲法の改正がなくても定住外国人の人権はその限りにおいて保障されて、日本の今後も国際的に発展し得るのじゃないかというふうに考えるわけでございます。
 基本的には、そういうことで、これまでいろんな行政差別の中にありました国籍条項、そういうものを撤廃するということが基本的に要望されますし、また地域社会の住民としての私たちに地方自治体における参政権、そういうものをいち早く認めていただけるようなそういう措置を取られることを希望するものであります。
 私たちは、過去はいろんな形で差別の対象になりました。しかし、今は、市民運動の中で私たちは新しい日本を日本の皆さんとともに築き上げていく、平和で住みやすいそういう国にするために市民運動が盛んに行われておりまして、正に共生社会をいかに作るかという理念に燃えておるところでございます。
 その点につきましては、私は、ヨーロッパ社会で一般化しております、いわゆるEUの進展の過程でヨーロッパ市民という概念が定着しておりますが、過去の歴史的な負債を抹消する、克服する意味におきましても、アジア市民社会というものを一つのビジョンとして掲げながら、日本の政治家の皆さんもそういうビジョンの実現を目指して国籍を超越したありようというものを追求していただければ有り難いというふうに考える次第でございます。
 以上、概要を申し上げて、私の陳述を終わります。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、福島公述人にお願いいたします。福島公述人。
○公述人(福島依りん君) ただいま御紹介していただいた福島依りんと申します。
 本日は、調査会の公聴会に呼んでいただき、このような立派なところで話をするということで、とても緊張しています。お聞き苦しいところは許していただきとう、お願いしておきます。
 簡単に自己紹介をしたいと思います。
 私は、日本に来て約二十年以上になります。今は十三歳の女の子と日本人の主人と三人で東京で暮らしています。生まれたところは台湾です。台湾の憲法は詳しく調べていないので何とも言えませんが、日本の憲法は、基本的な人権と同じような権利と義務についてはどの国でも共通して重要なことで、二つの国で生活した者として多少は比較ができるのではないかと思い、本日はやってまいりました。
 私は、主婦として生活の場で人権を、特に差別などを身近に感じることを話したいと思います。
 要旨にもありますように、特に日本は、憲法の「国民の権利及び義務」に「法の下に平等」とありますが、これは憲法の前文にある崇高な理想と目的を達成することを具体的にするものと思います。しかし、現実はこの崇高な理想とはほど遠い感じがします。
 どのようなところで不平等、差別なことがなされているかどうかというと、日本という国を考える前に、今の日本の置かれる立場というと、鎖国の時代と違って、外国から多くの人、物、知恵を受け入れないと文化、産業などが発達していかないと思います。
 日本で暮らす外国人から見ると、日本の国あるいは日本人は自分たちだけで固まって集団を作り、閉鎖的で、西洋人にはへつらい、アジア系の人たちには威圧的で、さげすむような目で見ている印象を多くの日本に住むアジア系の人が持っていると思います。これらも一種の人種差別の表れではないでしょうか。人に対して鎖国がまだ続いていると言えるでしょう。
 私の自国では、このような一種の人種差別は余り見受けません。この私が受けた印象は、世界でも日本独特な雰囲気があると思います。
 日常生活でも、この雰囲気を買物の場や飲食店などで感じられるときがあります。日本人同士だったら意識しなくて済むようなことでも、外国人から見ると気になることもあります。
 あるスーパーで買物をし、レジでお金を払うときに、レジ係が、日本人には言うが、外国人の客にはありがとうございましたと言わない人がいました。ある飲食店では、日本人の常連の客には何か記念のものを上げていましたが、私がお金を払うときには何もくれなく、無視されてしまいました。また、私が住むところでは、他人や地域の人から、道を歩いているときに、訳も分からずにらまれていることもあります。ただ、これが外国人だからという理由だと、日本の雰囲気は悪いものと言えるでしょう。
 確かに、日本で暮らす外国人たちは、自分の国の風俗、習慣などが日本人とは違う、日本人から見ると違和感があるかもしれませんが、人として、どこの国で生活をするにしても、大切なことは、そこの国の人と同じようにしてもらいたいということです。言いたい理由は、日本という国は、国民というより人を大切に、大事に、何人も差別しない、それが日本という国を国際的に見て良い国であると言えるし、人権を尊重する国と言えるようになると思います。
 本日は、貴重な時間をいただき、私のつたない意見を聞いていただき、ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、柳原公述人にお願いいたします。柳原公述人。
○公述人(柳原良江君) 早稲田大学大学院生の柳原です。本日は、このようにお時間をいただきまして、誠に光栄に思っております。
 本日は、私は、性の在り方における人権侵害の現状について説明したいと思います。
 現在、性は、表向きは個人が自由に扱い、自由にその形を決めることができると言われていますが、現実には社会の様々な場面において圧力を受け、結果としてごく限られた在り方のみが認められる状況が続いています。もちろん、性的な事柄が排除される背景には、それらの多くが女性にとって性差別的であるという大きな理由があります。私自身も、女性に対する暴力的な行為や女性の人格を無視したような表現に出会うと非常に腹が立ちます。
 しかし、このような女性差別的なものではなくとも、我が国の人々は一般的に、仕事を始めとする公の場ではなるべく自分の性的生活を明かさないように努め、あたかも性とは何の関係もなく暮らしているように苦心しています。
 確かに、これまでの女性解放運動など、女性側からの主張により性差別は是正され続けてきましたが、現在の時点では、女性は、社会的地位向上はかなり果たしてきたものの、私的領域でのセクシュアリティーの在り方については、いまだに配偶者や恋人からの強姦が認められなかったり、婚姻にまつわる不平等が存在するなど、公的領域と比較すると変化に乏しい状態であると言わざるを得ません。もちろん、今までに私的領域での性の在り方も問われてはきたのですが、政治を始めとした社会の諸制度が公的なものであり、私的な事柄は関係ないというスタンスを有しているため、公的領域での差別に比べると軽視され、無視され続けてきていると言えるでしょう。
 現在、我が国では、性は公共の場から締め出されています。まるで触れてはならない地雷のようにタブー視されています。それは政治の場だけではなく、性に対する懊悩を扱った文学や社会問題においても、性とかかわる諸問題の多くは公の場から排除されています。なのに、その一方で、女性への侮辱的な表現など直接的ではなく、間接的なもの、観念的なものであればどのような差別に満ちた表現も許されるという矛盾が存在しています。性は、公的領域ではがんじがらめにされているのに、締め出された残りの部分については、それがどのように人権を侵害していたとしても何も問われない状態になっているのです。
 けれども、このように公の場から性を排除し続けて何の問題も生じないのでしょうか。現実には、だれもが性にまつわる何らかの人間関係での悩みや内面での葛藤を抱えているにもかかわらず、だれもがそんなものはないかのように振る舞い、一方では、運悪く性的な生活を暴かれた人に対しては人格まで疑われるという二面性が存在している社会で人々が安心して日常生活を送れるでしょうか。現在、性の閉塞的な在り方が原因で様々な社会問題が生まれています。そろそろ公的領域での性に対するタブー視をやめ、正面から取り組むべきときが来たのではないでしょうか。
 さて、性の閉鎖性が問題であるからといって、簡単に性をオープンにすれば問題が解決するというわけではありません。オープンにした結果、男性であれ女性であれ、他者の性的事項がこだわりなく受け止められるならばいいのですが、実際には男女の性はそれぞれ異なる規範を有するという二重構造になっており、特に女性の性は多くの規範に縛られているため、男性よりはるかに不利益を被ることが考えられます。実際に、一九七〇年代のウーマンリブに伴った性解放では、多くの女性が単に男性の性規範を用いることで自らを傷付ける結果になったという経緯もありました。
 今でも女性の性は男性とは全く異なる扱いを受けています。例えば、強姦事件では、被害者である女性にそもそも被害者としての資格があるのかどうかを問われます。そして、被害者資格が認められたとしても、犯罪に至る経緯において被害者に過失があったのではないかということが問われます。強盗に置き換えれば、そもそも物を盗まれたと言うだけの資格がその人にあるのか、本当は言い掛かりじゃないのかと被害者にまず問われ、次には、盗まれやすいところに置いていたからじゃないのかと批判されるのです。
 性犯罪において、正義は常に加害者であるはずの男性側に向いています。被害者に正義が存在するとみなされるのは、加害者が男性の立場から見てもよほどの極悪人であるとみなされたときだけです。女性から見て悪い行為をしているかどうかは、この社会ではさほど問題とされていません。
 同様に、女性の貞操観念に対する押し付けは様々な場面で見受けられます。かつて渋谷で起きた女性会社員殺人事件で、被害者である女性の性的生活がマスコミによって興味本位に取り上げられた例からもうかがえますように、女性は、たとえほかの場面では一般的な男性と同じような成人としての社会生活を営んでいても、性の在り方を過度に強調され、まるで性がその人のすべてを表しているかのようにとらえられて、人格を否定されてしまうのです。
 性の在り方で女性の人格が否定されるのは、決して珍しい現象ではありません。ごく一般的な裁判の場でもしばしば行われています。例えば、不動産に関するもめ事など、性の在り方とは全く関係ない事柄でも、女性は性的な生活に言及され、公の場で批判されることがあります。恐らく、ごく普通の女性ならば一度や二度は経験するであろう性的事柄であっても、裁判の場で指摘され、人格にこじつけられると、突如としてその場に昔ながらの女性に対する性規範がよみがえり、あたかもその女性が社会から逸脱した悪者であるかのような論理が作られてしまいます。
 四、五十年も前に用いられた貞操観念に照らし合わせて、それにそぐわない行為があれば、それだけでその女性は人格的に問題があり、そのほかの事柄でトラブルを起こしていても何ら不思議ではないという論理が成り立つのです。もちろん、それが裁判官に受け入れられるかどうかはまた別問題ですが、相手の人格について批判したいとき、女性の性は格好の攻撃材料となります。
 しかし、このように女性が悔しい思いをしても、それらはささいな取り立てて扱うべき問題ではないとして軽視されてきました。最近では、強姦事件も被害者の人権が考慮されるようになりつつありますが、これらの問題に象徴される女性の性を縛り付け、更にそれらの内実を社会にとって軽微なものとして取り上げない視点は、今も確実に存在しています。
 このような女性の性に批判的な見方は、社会に存在する家父長制というシステムによって維持されてきました。この家父長制とは、家制度から想像される家族制度の問題だけではなく、社会制度、政治制度、経済制度を通じて他者である女性を抑圧する権威システムのことを指しています。男性支配や男性優位の社会構造のことと考えていただければいいかと存じます。
 公的にも私的にも、すべての構造で社会は家父長制によって貫かれていました。そこでは、社会の側が一般的に女性の地位をその性の在り方によって規定し、女性の序列化を行っていました。婚姻によって男性の支配下に入る女性のみが優遇され、その他の女性は制度の外に放置されていましたし、優遇された側の女性も、あくまで妻としての性的役割を果たした上での優遇であり、それ以外に女性の存在の在り方は認められませんでした。
 このように、性に対する批判的な考え方は、現在では女性だけではなく男性に対しても行われることがあります。もちろん、その大半は女性に対して差別的行為をした事実に対する批判で、的を射たものと言えますが、最近では、女性に対すると同じく、当事者の性生活を暴露することで相手の人格を侵害することをねらいとしたものも見受けられるようになりました。
 しかし、一体、人が婚姻以外の性的関係を有することをどうして他者が批判し得るのでしょうか。自由と言われながらも、この社会には性の在り方に対する規制が確固として存在し、それを守らない人間は社会への不適応者とみなされています。
 次に、このような性に閉塞的な状況はどのようにして生じたのかを簡単に説明したいと思います。
 まず、現在、一般に私たちが抱いているセクシュアリティーは、人々が考えているほど普遍的なものではなく、近代的セクシュアリティーと言われる、ごく最近生じた思考様式です。我が国では、長い間、男性にとっては性が比較的自由に扱われていましたが、一九二〇年代ごろから西洋的な抑圧的セクシュアリティーが模倣され、性行動を正式な婚姻関係にある夫婦においてのみ認め、貞操と純潔が重要視され、結婚前であれ結婚後であれ、婚外における性行為は道徳的に問題があるとされていきました。
 この性行動の夫婦への囲い込みの中で、夫婦関係そのものも、それまでの、生活における諸活動を分担する相手という考えから、人間を崇高な存在に至らしめる行為としての恋愛に基づいて、心と体を一致させるべき崇高な関係へと考えられていきました。その一方で、婚姻を伴わない性行為は卑下され、同性愛や婚外交渉など夫婦関係と関与しない行為に対しては、異常なものとみなされるようになっていきました。
 この近代的セクシュアリティーの在り方は、今でも影響しています。現在、家族の基本原理には、恋愛と性行為と結婚は一体でなければならないというイデオロギーが存在しています。そして、この原理に当てはまらない状態は、逸脱した者や規範を破った悪しき存在として批判されます。
 ここ最近では、人々の意識も、形式としての結婚より個人の内面における恋愛を重視するよう変化したため、たとえ結婚関係になくとも、恋愛か結婚かのどちらかを伴うならば、性行為に対して性的な批判は受けないものととらえられていますが、それでも、公的な場においては、現在も個人の恋愛は二の次であり、まずは婚姻が重視されます。つまり、婚姻制度と婚姻制度予備軍であるカップル以外の性生活は認められていません。
 人が互いに結婚を前提として付き合う状態は、個人のライフコースの中では比較的短期間しか存在せず、実際に、人は婚姻関係とは無関係に性的関係を持つことが少なくないにもかかわらず、婚姻と、それを連想させる相手によってのみ性は正当化されます。
 さて、近代的セクシュアリティー特有の夫婦イデオロギーが存在していたとはいえ、男性に対しては女性と異なる性規範が用いられ、恋愛も結婚も存在しない性的行動が容認されていました。女性が人権をかち取り、社会的に認められてから、恋愛も結婚も存在しないこの状態は、女性を物化しようとする差別的思想の現れであるとして批判されるようになりました。
 しかし、性差別そのものに対する批判は、現実の家父長制的社会の中で次第にその本質を失い、夫婦イデオロギーの擁護と形を変え、他者の人権を侵害しているとは言えない関係でも、社会秩序に反するとして批判する事態が生じるようになりました。一見、女性擁護に見えるこの思想は、どんな関係であれ夫婦以外の性を認めないかつての男性的な観念が唯一の性の在り方と考える狭い発想であり、性差別の焼き直しにすぎないと言えるでしょう。
 このように、家父長制は様々な面で非常に偏った論理であるにもかかわらず、過去には政治における最も基本的な前提であったために当然とみなされ、改めて意識化されることはありませんでした。それなのに、現在でも、政治や司法など長い間男性優位を当然とみなす場においては、いまだにこの体系に基づいて形成された論理が何ら疑問視されることなくまかり通っています。
 これらの家父長的な物の見方は、女性支配が当然であったという特殊な条件下でのみ通用した論理であるのに、その前提条件を何ら疑問視せず、過去に用いられてきたのだから現在も用いていいのだという安直な判断が堂々と行われています。
 さて、最近、男性も含めてすべての人々は、性の在り方に対して人格を否定される危険に直面していますが、個人の性的問題に対する中傷や差別は、相手の性モラルを批判するという形を取りつつも、実際には相手の性を不当に差別するという人権侵害を目的として行われています。その差別は、過去には社会的に正当と考えられていたので何ら問題視されなかったのですが、現在、一般的には性の自由が認められているこの社会では、個人に古い性モラルがあるかを問うよりも、性の差別を行うこと、それこそが人間のモラルとして最も批判されることではないでしょうか。
 最後に、性に対する不当な扱いが人権侵害であるという認識が浸透し改善されていくために、提言を行いたいと思います。
 まずは、性に関する差別の基本ともなっている女性に対する性差別が、政治の場からは完全に撤廃されなければなりません。もちろん、ほとんどの方は建前としては性差別に否定的意見をお持ちだと思いますが、実際には、遅々として進まない法律改正や、女性差別的な発言を公の場でしてしまう政治家の方々を見ておりますと、政治家の中に性差別的な意識が画然と残っているのがうかがえます。
 特に、選挙活動のとき、女性に向かって、男にしてくださいと言う政治家が今でもいらっしゃいますが、このような発言は、男性優位の差別的発想が感じられるだけでなく、セクシュアリティーに対するデリカシーが余りにも希薄なことの表れです。このような古いセクシュアリティーを持った政治家から性に対する意識改革が起こるとは望めません。まずは自ら、内面からセクシュアリティーを問い直すという作業を行う必要があるのではないでしょうか。
 そしてもう一つ、これが今回私が最も申し上げたかったことなのですが、女性差別を否定する立場が保たれた上で、政治の場にいる公の方々から、すべての人に対する性の多様性を認めるスタンスを取っていただけないかと考えております。公的な場は最も家父長制が根を張っている場所ですが、そこからあえて、旧態依然とした考えを脱し、現在、これからの性の方向性を示していただければ、性に対する閉塞感はかなり解消され、性差別や人権侵害に対する局面が新たな段階に至ることが可能になるのではないかと思っております。
 以上で発表を終わります。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、前田公述人にお願いいたします。前田公述人。
○公述人(前田豊君) 前田と申します。
 生まれつき脳性麻痺のために、このように言葉が不自由で多分聞き取れないと思いますので、手元にございます用紙を見ながらお聞きになってくだされますよう、よろしくお願いいたします。
 障害者ですので、障害者の立場で、憲法にうたっている人権、特に障害者にかかわる人権について述べさせていただきます。
 憲法は、第一条には国民は主権者であると言い、更に第三章には、二十五条には、日本国民としての生存権と、それにまた国家の生存権保障義務を高く掲げています。
 このように、日本国憲法には明確に国民としての生存権をうたっているのにかかわらず、日本政府は余りにも私たち国民のことを考えない政策を取り過ぎているようでなりませんし、特に私たち障害者の場合は、余りにも憲法の生存権保障義務から疎外されているように感じます。
 私は、今現在、在宅で両親と三人で暮らしていますが、その両親も八十に近い年で、おふくろは昨年から痴呆が激しくなり、今、介護老人施設に入っているのです。私の場合、八万前後の障害者年金で暮らしています。これは、親子三人で暮らしているからどうやら生活していくことができると思いますが、仮に一人で暮らしたら到底暮らしていくことが不可能だと思います。部屋を借りるだけでも五万、六万円になる時代ですから。
 それで、憲法二十五条では、すべての国民は健康的、文化的な最低限度の生活を営む権利を有すると述べていますが、月に八万の年金では、どう健康的、文化的な最低限度の生活を送ればよいのか分かりません。どう暮らして、生活を維持していくことができません。
 外国の障害者から、いつも日本の障害者について、なぜ日本の障害者は自立しないのかということが指摘されていますが、ただ八万の年金暮らしではどう自立することができるでしょうか。考えてください。八万の年金でどう親方さんから離れて、一人で暮らすことができるでしょうか。政府が余りにも今日の生活実態の模様を十分に把握していないように感じます。
 スズメの涙のような年金にかかわらず、来年度からは障害者福祉法が大きく変わります。今まで、契約制になり、支援費支給方式が導入されます。この支援費支給方式制度になりますと何が変わるかというと、例えば私のように在宅障害者の場合、介護ボランティアに来てもらうと、今まではただになっていますが、それが家族の所得によって一部負担になります。応能負担になります。今でもわずかなスズメの涙のような年金であるのに、そこからも金を奪い取るという今の政府のやり方は余りにもむごいやり方ではないかと言えます。
 そして、民法で扶養義務という項目があります。障害者の場合、幾つになっても親が面倒見るということになっています。これは、いかにも時代遅れと言えます。世界の流れから見ても、親が子を扶養義務にしているのは中国と韓国と、それに我が日本しかありません。いわゆる発展途上国並みであると指摘しておかなければなりません。
 江戸時代から続いている、矛盾である古い民法の八百七十七条を今すぐにも廃止し、削除していかなければ、先進国である我が国が世界の国々から笑い物になりますし、我が国において重度障害者が自由に自立される環境が図れません。このように、憲法二十五条に矛盾する民法の八百七十七条をどうしても廃止、削除することが必要であると思います。
 バリアフリー法が二年前に成立して、各駅にエレベーターやエスカレーターができていますが、まだ、バスには車いすで乗れるバスが多く増えていますが、しかし、残念ながら、まだ一部の駅や、車いすのままで乗れるバスもほんの一部しかありません。これでは車いすの人が思うように外出することがまだ十分できませんし、特にバスの場合は、私が住んでいる横浜や横須賀などはスロープ付バスが走っていますが、しかし、時間が不規則になって、いつ走るかどうか分かりません。だから、帰ってくる保障がないので、結局、できません。
 だから、スロープ付バスなどは、単に私たち障害者だけではなく、お年寄り、おなかが大きい妊産婦にとっても必要です。このように、皆スロープ付バスに切り替えていくべきだと思います。
 最後に、一言述べておきたい。今、国会で審議されています有事法制のことです。
 この法案は、正にアメリカ戦争への協力法です。そして、戦争によって多くの障害者を作り出す、そしてまたその法案の八条には国民の義務だと言い、国に対して協力すべきだと述べています。しかし、私たち障害者は国に対して協力ができません。
 私たち障害者の先輩者らが、かつて国民から非国民と言われて、生きている感じがなかったということを聞き、驚いています。再び非国民と言われないようにするためには、いかなる戦争にも協力しないことが必要です。その上で、初めて私たち障害者の人権が守られ、そして今日よりもはるかに障害者の人権がより確立されるのではないかと思います。
 どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 以上で公述人の方々の御意見の陳述は終わりました。
 この際、十分間休憩いたします。
   午後二時五十五分休憩
     ─────・─────
   午後三時七分開会
○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 これより公述人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 斉藤滋宣君。
○斉藤滋宣君 自由民主党の斉藤でございます。
 今日は、大変お忙しいところ、そしてまた貴重な御意見をお聞かせいただきまして、心から厚く御礼申し上げる次第であります。
 時間が限られていますので早速質問に入りたいと思いますけれども、まず、福島公述人にお聞きしたいと思います。
 先ほど、福島公述人の体験談を交えた日本での、我々、意識しているかしていないかは別にしましても、生活の中での差別感というのを大変お聞きしまして、買物に行ってレジ係から自分だけがありがとうと言われなかったり、飲食店で皆さんが何かプレゼントをもらっているときに自分がもらえなかった。
 それは、大変言葉がきついかもしれませんけれども、こちらでそういうことをしている人たちがそういう差別意識を持ってやっていたかどうかちょっと私も分からないんですけれども、逆に言うと、そういう差別意識がない、無意識のうちにそういうことを感じさせてしまう、無意識の差別といいますかね、そういうことの方がかえって怖いのかなという気もするんですけれども。
 そういう差別感を感じてこられて、文書の中にも、日本人というのは閉鎖的で、西欧人にはへつらうけれどもアジア系の人たちには威圧的でさげすむような印象を多くの外国人が持っていると、こういうことを書いてあられました。何か大変恥ずかしい思いをしながら、私の中にもそういう気持ちが少しでもあるのかなという、知らないうちに無意識にそういうことを皆さんに感じさせてしまっているのかなと反省しながらお聞きした面もあったわけでありますけれども。
 逆に、台湾御出身の公述人の立場からして、いろんな台湾での体験とか日本に来てからの体験を踏まえた上で、どうしてそういう我々日本人からは、余りそういうことを意識していないで、無意識のうちにそういう差別感を相手に与えてしまうことが起こったり、またそういうことをどうやったら解消することができるということを体験としてお考えになっているか、もし御意見あればもう少しお聞かせいただきたいと思います。
○公述人(福島依りん君) その差別的には、私は意識はございませんですけれども、そのレジたちとか地域の中には、それたちには全然知りませんけれども、私の番とかアジア系の人になったらそういうふうになってきましたですけれども。
 だから、それは、私、今住んでいるところで、子供が幼稚園のときにそれにずっと遭いました、今も。ですから、日本人は常識と倫理、道徳は今は低下していますですか。経済……。
○斉藤滋宣君 ありがとうございます。
 今、先ほどのお話の中にも、風俗とか習慣が違うから自分たちとすれば同じ国民として同じように扱ってもらいたい、そういうことがある意味ではそういう今言った差別感みたいなことを解消する一つの方法であるというお話を先ほどされておりましたけれども、もし具体的にこういうことを日本人として意識されると、いわゆる在住外国人の皆さん方からそういう差別意識を持たれないんではないのかなというアドバイスがもしあれば、お聞きしたいと思いますが。
○公述人(福島依りん君) 余り私は意見述べるのは、多くの日本人いらっしゃいますから。
 私、学校の教育、もっと倫理、道徳とか、そういう同じアジア系にそんな変な目に見られないようにしていただきたいけれども。特に、地域の社会で町長とか、そういう何か関係ありますと思いますけれども。
○斉藤滋宣君 公述人から、今、道徳・倫理観の喪失ということを言われまして、私も大いに国民の一人として反省しながら、そういうことの欠如がないように私は努力していかなきゃいけないなと思って、決意を今新たにしているところでありますけれども。
 話は変わりまして、徐公述人にお伺いいたします。
 先生の場合は、指紋押捺の問題ですとか公務員の国籍条項、そしてまた今、定住外国人の地方参政権の問題等、多方面においていろんな問題に積極的に取り組んでおられまして、先ほどの短い時間では先生がお考えになっていることが十二分にお話しできなかったんだろうと思いますけれども、先生からいただきましたレジュメを見ながらちょっと御質問させていただきたいと思うんですが。
 まず、確認と言ったら大変失礼でありますけれども、先生のレジュメの中、そしてまたお話の中に、今、福島公述人にもお聞きしたように、日本人の中にいわゆる定住外国人に対する、民族に対するべっ視だとかそれから心の壁というものがあると、それを撤廃するためには、やはり憲法の改正に当たってマッカーサー憲法草案の第十六条を再検討して、これを生かすべきだというお話もありましたわけでありますけれども。
 それで基本的な部分からお聞きしますが、先生におかれましては、憲法改正というものをすべきか否か、どういうお立場でおられるのか、ちょっとお聞きしたいと思いますが。
○公述人(徐龍達君) 今、憲法改正の主眼がどこにあるかということ自体が大変大きな問題かと思いますが、いわゆる再軍備のための憲法改正ということであれば基本的に反対でございまして、それでは、私は、そういう流れとは別に、私たちの人権を伸長させるという意味では国民概念の再検討というふうに考えたわけであります。
 憲法の改正そのものは少なくとも長期間にわたって慎重にいろんな方々の意見を体して議論をもっと深めてほしいと、何か思い付きで出てくるようなことじゃなくて、ですから今の動きというのは非常に危険ではないかなと。有事三法とかいろいろございますけれども、先ほど触れませんでしたけれども、有事を、侵略されるあるいは侵入されると、そういうことを非常に誇張されておられますけれども、逆に過去の歴史においては日本が有事を作ったという歴史ですね、そういうことの反省があって、それから友好親善を図る場合に何が必要かということをそういう順序から考えてほしいなという感じを持っております。
○斉藤滋宣君 今、徐公述人にあえてそこのところをお伺いしましたのは、公述人のお話の中にもありましたし、いただきました資料の中にもいわゆるその憲法の中における国民という言葉の取扱い、それに対して公述人は、要するに憲法改正だけでなくても、要するに国民という概念の中に外国人という、そういう意識を入れた通達さえ出せばいいというお考えのようでございますので、そうすると、この憲法改正というのは大きな意味での改正論であって、今、先生方が問題にされている、定住外国人の中における意識としての国民という認識を改めるための改正ということについては、この通達でいいというお考えということでよろしいんでしょうか。
○公述人(徐龍達君) 私は、実は一昨年ロンドンにおりましたのですが、ザ・タイムズそれからガーディアン、どちらかだったと思いますが、例の石原慎太郎さんの三国発言のときに英文の記事の中で、外国人の人権について保障するという法律のない国は先進国では日本だけであると、こういう記事がございました。
 それで、はっと思って後から私なりに調べたところが、その国民というのはすべて日本人を指すものであって外国人は入らないというふうなことがずっとありますので、それで憲法の改正というと大変大きな課題でありますので、我々の生活というのは日常茶飯事でありますから、その中で基本的な部分としては、国民というのは本来ピープルでありますので、その本来の意味に解釈を変えていくと。これは解釈を変えるというのは日本人の正に心の壁そのものを取っ払わないとそうはなりませんですから、一つの対案として申し上げたわけです。
 基本的には、リンカーンの例のガバメント・オブ・ザ・ピープル・バイ・ザ・ピープル・フォー・ザ・ピープルという、そういう民主主義のルールといいますか、そういうものが出てきたアメリカから、つまり市民、住民に対するアメリカにおける概念、そういうものを体したものがマッカーサー私案の中に出ておったのが戦後の日本の政治の中ではそれが完全にカットされて、実に国粋的な解釈というのか狭い概念の国民ということで、そこから国籍条項が出てくるし、我々の差別のまた新たな展開が始まっていると。これを切るためには、その国民概念、元からこうであるということの解釈をし直すような通達が出れば、かなりまた意識も変わっていくんじゃないかというふうに考えたわけです。
○斉藤滋宣君 今、公述人からお話もありましたとおり、確かに憲法の条文の中に外国人の人権に対する条項がないと。
 この憲法の成立過程を見てみますと、午前中にも議論ありましたけれども、その憲法そのものが与えられた、また押し付けられた憲法であるかどうかということについてはいろいろ議論があるところだろうと思うわけでありますけれども、あのときの憲法がどうやってできてきたかということを考えたときに、一つには、連合国側から草案というものを出されてきた。
 あの草案の中には、今、公述人がおっしゃるとおり、人権保障として、外国人の人権保障として条文もきちっと入っておった。入っておったけれども、先ほどマッカーサー草案の中の十六条というのも言いましたが、十三条、十四条、十六条というのはそうだろうと思うんですが、そういうものが入っておりながら、いざ日本側が総司令部の民政局との交渉の結果、三月五日案、三月六日案を作ってきた段階では、今、公述人がおっしゃったように、そのピープルという言葉の解釈の仕方、パーソンという言葉の解釈の仕方、そういうことによって、いわゆるすべての人に当てはまる人という意味と、それからやはり自国の国民だけに当てはまる国民という概念をひっくり返してしまって、ほとんどの条項を国民というのに変えてきてしまった。
 そのことの中で、今、公述人がおっしゃったような問題が出てきたんだろうと思うわけでありますけれども、このことの基本的な部分としてやはり考えておかなきゃいけないのは、先ほど公述人の話にあったとおり、なぜそのときに連合国側がいわゆるすべての人という概念を提示したにもかかわらず、日本人が、日本側が国民という言葉に置き換えたかということを考えてきたときに、そこにはやはり、いわゆるここのところで言う外国人というのは、全世界の外国人ということを意識していたのか、それとも公述人がよく使う定住外国人、いわゆるあの特別永住者として二百数十万出るであろう外国人のことを指したのか、ちょっと私もよく分からないんですけれども、基本的にどうしてそういう言葉を使わざるを得なかったのかと考えたときに、そこに日本人としての心の壁といいますか、民族べっ視といいますか、無意識のうちの差別意識といいますか、それはいわゆる明治維新以降、殖産興業、軍国主義を取ってきた中における日本人としてのいわゆる東南アジアを含む諸外国に対するべっ視思想みたいなものもあったがゆえにそういう条項を作らざるを得なかったのかな。これは、ただ単にそこの部分だけではなくして、いわゆるそれだけ増えてしまう外国人に対する処置政策的なものもあったでしょうし、それから危機感みたいのもあったんだろうと思うんですが、そこのところがあったがゆえにああいう言葉になったのかなという気がするんですけれども、そこのところの公述人のお考えはいかがでしょうか。
○公述人(徐龍達君) これはもう非常にいろんな問題にかかわるわけでございますが、先ほど私は戦前からの天皇制のことをちらっと申し上げたんですけれども、そういう流れから、例えば戦後すぐに出された外国人登録令、天皇最後の勅令になりますけれども、そういうものから、あとは指紋押捺の強制だとか、つまり日本人でない者に対するべっ視につながるような、いい意味の区別は分かるんですが、そうでない部分が非常に顕在化したのは、特に戦後明らかになりましたので、これはやはり日本人の心の壁として認識をし直すという必要があるんじゃないかと思います。
 それからもう一つは、サ条約、サンフランシスコ平和条約における、それを契機としたいわゆる民事局長通達によって、それまでは法的に当時の韓朝鮮人は日本国籍保有者であるということは認められていたにもかかわらず、そういう登録令だとかいうもので別扱いしていく、あるいは戦前にあった参政権を剥奪していくという、そういう流れがございますので、私は、総合いたしまして、やはり国民概念そのもの、当時の解釈が間違っておったということの反省がなければ真の日本の国際化はちょっと難しいんじゃないかなという、そういう気持ちでおります。
○斉藤滋宣君 そこで、もう一つ、公述人が大変熱心に取り組んでおられます地方参政権の問題でありますけれども、戦後、一九四五年十月に閣議決定された内務省立案の選挙制度改正案のときには、外地人の選挙権、被選挙権は認められた案になっていたわけですね。それが十二月になり停止されるようになり、公職選挙法ができたときに、附則二項でもって、戸籍法の適用を受けざる者は選挙権、被選挙権も受けないという形で、いわゆる外国人に参政権は与えないということになりました。
 その流れの中で、先ほどもお話ありましたように、法務省の民事局長通達があったり、また清瀬一郎意見書ということで、今から考えると非常に考えられないといいますか、そこの底流に流れている考え方というものが非常に我々にも理解しづらいものがあるわけでありますけれども、そのまま現在に来ているというのがこの定住外国人の参政権の流れではないかと思うわけでありますけれども、私自身は地方議会出身者でありますし、今地方議会からの意見書というのもかなりの数に上っておりますし、先生の調査によりますと人口比でいえばもう七五%ですか、九千二百万人だか、そのぐらいの数になっておるということもお聞きしておりますし、我々地方から出てきた議員にしても、そういう問題を地方で議論しながら出てきているわけでありまして、今現在的に外国人にだけ基本的人権が及ばない、参政権の保障が及ばないということはちょっと無理があるんではないか。いわゆる、やっぱり国民主権の原理に基づくものとしての国民というものを日本国民に限定するのは仕方ないのかもしれませんけれども、やはり今の時代というのは、国民主権というのは人民の自己統治といいますか、そういうふうに解釈していくべきではないのかなというふうにも今考えているわけであります。
 これ最高裁の判例にも出ておりまして、被選挙権の方の問題はまだ触れられておりませんけれども、やはり今これから我々としてはそういう方向できちっと議論をしていかなければいけないんではないのかなというふうに今考えているわけでありますけれども、公述人がこの問題に取り組んでこられて、いろんな方と、政治家を含むいろんな方とこの問題について議論をされてこられまして、いわゆる定住外国人の地方参政権に反対する人々のいろんな御意見も聞いてきたと思うんですけれども、そういう方たちに対する御意見ございますればお聞かせ願いたいと思います。
○公述人(徐龍達君) 斉藤先生、随分詳しくお調べいただきまして、ありがとうございます。感謝いたしますが。
 御意見の中で、先ほど、いわゆる人口比による比率というのは、私個人の調べじゃなくて、これは韓国民団組織のデータをいただきまして、地方自治体の約今は五〇%程度、人口比でいきますと、東京、大阪等は非常に人口が多うございますから、そういう比率でいきますと七五%以上の地方自治体で賛同されていると。
 そういう数字を日本政府がまともに見ないという、一方、主権在民だと言いながら、地方自治体のそういう願いを聞き届けないという、そういう現実があるわけでありまして、これは最高裁のいわゆる九五年の二月二十八日の判決もそうですね。私たちに選挙権を付与することは憲法違反じゃないという明らかな最高裁の判決が出ているにもかかわらず、皆さんが無視される、あるいは反対をする。これは三権分立とはおよそ遠い話じゃないかなというところから、私たちは、日本の政府、日本人の皆さんに対して非常に不信感を抱くわけです。民主主義そのものの原理がそこに問われているのに、都合の悪いことは全部ほおかむりをしてしまうという、そういう現状があるわけであります。
 それで、今、次に、国民主権であるという話でございますが、この国民という概念について、本来、元々こういうものが出てきた当時、フランス革命のあの辺りから出たと思うんですけれども、つまり王様、王権に対するその他の人民、当時は国籍概念がそう強くありませんから、そういう独裁的な王権主義的なそういう当局に対する反対派としての国民主権、こういう流れで固まってきたというふうなことが、例えば、神戸大学の浦部教授、憲法学のそういう先生方の意見の中にも出ておるわけであります。
 ですから、現在の時点で皆さんが国民主権を感じておられるその国民は、日本国籍を持った人間というふうに限定しておられますけれども、これは基本的に間違いであるというふうに今私は考えております。それから、したがいまして、その国民は本来はピープルであるということですから、広く考えてほしいということであります。
 地方自治体の皆さんに対する私たちの要望としましては、せっかく七五%以上の声を出しておるわけでありますから、それをもう少し積極的に進められて、私たち外国人も、定住外国人も地域社会の住民であるということ、そして我々は決して差別される対象としての暗い存在じゃなくて、少なくとももう少し国際化されたいい社会を作るためのパートナーとして、地域社会の皆さんと一緒に良くしていこうという、そういうプラス的な要素を持った人間も多いということをもう少し積極的に酌み取ってほしいというふうに要望したいわけであります。
○会長(上杉光弘君) では、時間が来ました。
○斉藤滋宣君 柳原公述人、前田公述人、せっかくおいでいただきましたけれども、時間の関係で質問できない失礼をお許しいただきたいと思います。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 堀利和君。
○堀利和君 民主党の堀利和でございます。
 本日は、四名の公述人の方、皆様、本当にありがとうございます。貴重な御意見を伺って、これから質問をさせていただきたいと思います。
 具体的に質問をさせていただきたいと思いますので、まず、前田公述人に伺います。
 私も同じ障害者として、日常生活なり社会生活、様々に健常者とは違った苦労といいますか、ということもあるわけです。重度の障害者にとっては親の庇護から離れていわゆる自立生活をするということが非常に大切なことだと思うんですね。
 しかし、残念ながら、我が国において重度の障害者が独り暮らし、自立をするということは非常に大変なことであるわけです。働きたくても雇ってくれるところがない、仕事をしたくてもなかなか思うように仕事に就けない。したがいまして、いわゆる社会保障ということで、最終的には生活保護、公的扶助に頼らざるを得ないわけですけれども、そういう場合にも、やはり扶養義務の問題等でなかなか生活保護を受給できないという、こういうこともあるわけです。
 そこで、二点お伺いしますけれども、まず一点ですが、前田公述人も言われているように、憲法二十五条は、これはもう余りにも有名ですけれども、生存権を保障しているわけでございます。文化的でかつ健康な最低限度の生活を保障しているわけです。この場合、社会保障法等の根拠となっているのが正に二十五条一項であるわけです。
 したがいまして、社会保障個別法の処分につきまして、これまでにも裁判でその処分をめぐっては多く争われてきております。今私たちにとってもその点で注目しているのは、国民年金制度における障害基礎年金の受給が受給できない、つまり年金制度の不備からくる無年金の障害者の問題ということで今裁判にもなっております。年金制度そのものが不備かどうかということも当然争っているわけですけれども、もとより二十五条の生存権に基づいて当然国は保障すべきであるということであるわけです。
 こういうような形で、二十五条に対しての非常な期待もありますし、当然国が保障すべきだというふうに認識しておりまして、また、一昨年ですか、交通バリアフリー法という新しい法律が制定されて、障害者が移動する際に公共交通機関を安全に自由に利用できるようにということで法律が制定されたわけです。この法律の審議の際にも、移動の権利、移動の自由ということについての考え方、理念が十分生かされていないということでの権利性の問題も審議の中で問われたわけです。移動する権利ということで、これまた憲法二十五条の生存権に基づく移動の権利であるという学者、研究者の考え方もあります。このように、憲法二十五条については、非常に障害者等にとって大変重要な条文であり、生存権を意味するわけなんですね。
 前田公述人も言われておりますように、それでは重度の障害者にとって本当に憲法二十五条が生存権を、健康で文化的な最低限度の生活を保障しているのかというとどうもそうではないんじゃないかという御意見、私もごもっともだと思います。ただ、健康で文化的な最低限度の生活といいましても、これ自体極めて抽象的でありますし、相対的であろうかと思うんですね。その時々の文化あるいは経済社会的状況、国民一般の皆様方の生活のありよう、こういうことでどの程度が憲法二十五条における生存権を、健康で文化的な生活を保障しているのかということになろうかと思いますけれども。
 そこで、前田公述人に憲法二十五条に言う、第一項に言う生存権、健康で文化的な生活を保障する今日的な水準といいますか、イメージといいましょうか、どのような状態で憲法二十五条が保障されたというように納得できるのか、その辺のところをちょっとお聞きしたいと思いますけれども。
○公述人(前田豊君)(薗部英夫君陳述補佐) 憲法の健康で文化的な最低限度の生活とは、当たり前の生活、当たり前の暮らしぶりができることではないかと思われます。
 例えば、外国では、幾ら重度障害者でも生活ができる年金が十分に支給されていると聞きます。
 日本は世界第二の金持ち大国であると言われていますのに、何で国民の生活に回らないのかと強く感じられます。
 国家は当然に国民の人権を守り、そして維持していくことが当たり前だと感じますので、それを重視していただきたいと思います。
○堀利和君 私どもも、旧厚生省、今厚生労働省ですけれども、年金額が低いために自立生活ができない、十分な所得保障をするようにということで声を上げてはいるんですけれども、年金を見ますと、その額が、給付額が、いわゆる適当に決められるわけではなくて、消費性向を見ながら消費のところでの積み上げということで額が決められるということがありますし、厚生労働省の言い分ですと、決して日本の年金は低いわけではないと、そのような低い水準ではないということで、国際的比較を出しながら説明してくるわけなんですね。そういう意味で、なかなか十分な年金額給付というのが実現できないわけですけれども。
 そこでまた、ちょっと一つ付け加えてお話お聞きしたいんですけれども、年金の問題を取り上げていっても、もし年金でどうしても生活できない場合には、正に憲法二十五条の究極的な意味での公的扶助、生活保護制度があると。これ、他法優先ですから、他法という年金でどうしても生活ができなければ生活保護があるからということで、どうしてもそこの理屈立てがなかなか難しい。言い換えれば公的扶助、生活保護制度があるということでは安心できるんですけれども、その手前で何とかならないかということで議論はするんですけれども、なかなかそこが解決できないわけなんですね。そんなふうなところで苦労もしているんですけれども、もしその点について何か御意見がございましたらお聞かせ願えますでしょうか。
○公述人(前田豊君)(薗部英夫君陳述補佐) 確かに生活保護の方が生活しやすいが、しかし親や兄弟の……。
 普通の人の場合は二十歳になれば親御さんと同居していても一応独立する形になりますのに、それが民法八百七十七条により障害者の自立の制限が、規制になっているように思われます。そのために問題があると思います。
○堀利和君 そこで、説明を十分できないままで簡単にお聞きしますけれども、ただいまの民法第八百七十七条の直系血族及び兄弟姉妹はお互い義務、扶養義務があるという、これについて、言われるとおりだと思うんですね。
 その場合に、この民法八百七十七条を、つまり一般論として否定といいますか、撤廃というふうにお考えなのか、言わば重度の障害者に限ってこのような状況の中で適用しないようにというようにお考えか、その辺、ちょっとお聞かせ願いたいと思います。
○公述人(前田豊君)(薗部英夫君陳述補佐) 重度障害者に限ってということではなくてすべての障害者にとって、この扶養義務というのは必要ではないと思います。時代後れだと思います。
○堀利和君 重度の障害者ではなくてすべての障害者、つまり障害者という限定という理解でいいんですか。その他の一般国民は別だということですか。
○公述人(前田豊君)(薗部英夫君陳述補佐) できれば、障害者ということではなくて、すべての国民からその規定が外されたら障害者もそうなるでしょう。
○堀利和君 分かりました。ありがとうございます。
 それでは次に、徐公述人にお伺いしたいと思いますけれども、レジュメの中にも、外国人の人権保障に関する法律なり明文規定がないのは日本のみであるということがあるんですけれども、これは先進国、諸外国はどのような状況に、事情になっているのか、勉強不足なものですから少し教えていただきたいんですが。
○公述人(徐龍達君) 私が直接その点について調べたのではなくて、先ほど申しましたように、ロンドンで発行されていたザ・タイムズかガーディアンだったと思いますが、その記事を見て私がそう申し上げたわけでございます。この点につきましては、是非政府の方でも調べていただきたいと思います。
 と申しますのは、外国人に関する差別的な状況があった場合に、裁判官が裁判をする場合にそういう規定がなくて困った、国際的ないろんな規定を引っ張り出して判決を下したという話を聞いたこともございますので、国内に外国人の人権に関する明文規定を是非この際どこかへ作っていただきたい。私たち市民運動としては、定住外国人法というそういうものも案を出したりしている動きもありますけれども、これは是非政府の方からそういう前向きのものを出していただくようにしてほしいと思います。
○堀利和君 時間もございませんので、もう一点、徐公述人にお伺いしますけれども、地方参政権について認めるべきだというのは私も全く同感で、同じ考えです。
 ちなみに、地方参政権と言う限りは、国政選挙なりあるいは都道府県知事、被選挙権については、これは公権力の行使にかかわる分野ですから、それは望まないけれども、言わばともに生活している最も身近な自治体としての地方参政権は当然認めるべきだろうという御認識だと思うんですね。
 しかし、その地方参政権についても認めるべきでないというもちろん一方に反対意見もあるわけですけれども、最近、住民投票をめぐりまして、例えば米軍の基地の在り方あるいは原子力発電のありよう、つまり、基地にしろ原発にしろ、国の安全保障なりエネルギー政策という極めて国策、国の政策に深くかかわるテーマでの住民投票がなされてもあるわけです。
 この場合に、そのような国政に、国策に深くかかわる住民投票を見る場合に、やはり地方参政権といえども認めるわけにいかないんだという反対の意見がありますけれども、このような御意見についてはどのようにお考えでしょうか。
○公述人(徐龍達君) 地方参政権の基本として、私たちは国政にかかわる部分は要求しないということで来ておりまして、私たちの生活問題、環境問題あるいは教育、福利厚生その他、ほとんどが地方行政にかかわりを持ちますので、その限りにおいて、被選挙権も含めた参政権を要請しておる、獲得したいというふうに願っております。
 今おっしゃっている、いわゆる国策にかかわると申しますが、今、どんな問題でも、地方の問題でも、細部にわたっていきますと、国との関係が一〇〇%ないというものがどれだけあるか、ちょっと私はそれは分かりませんが、これまで三割自治と言われたものが地方分権関係で、分割法か、その関係で、一括法の関係で地方に権限を移譲するというふうな方向にあるかと思いますが、その場合でも地方自治の割合がどの程度なのか、ちょっとそのことも関連いたしまして、これまでの日本の行きよう、ありようという、そういう行政の在り方から見ると、つまり半分以上地方にウエートがあるというふうな、そういうある程度大ざっぱな考え方をしないと分離が不可能な、そういう部分が多いかなと思います。
 そこで、少しでも国にかかわることがあると、なるほど原発はそういう問題もあるし、環境問題にしましても、どこか国際会議だとかそういうことになってくると国にかかわる部分が出てくると思いますが、その現地に住む人間として、人間としての平等を我々は要求しているわけでありますから、そういう問題について、国策にかかわる部分がありましても、それは民主主義のルールに従って、それこそ主権在民というその在民の中に住民としての外国人も入る、定住外国人も入ると、そういう基本的な考えを持って進めていただきたいというふうに願いたいわけであります。
○堀利和君 時間が参りまして、福島、柳原両公述人に質問ができませんで、どうも失礼しました。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 次、魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 四人の公述人の方々、大変に御苦労さまでございます。御礼を申し上げる次第であります。
 時間がありませんので、早速質問させていただきたいと思いますが、まず徐龍達先生にお聞きしたいと思います。
 長年にわたり、渡日六十年とおっしゃっておられましたけれども、外国人教員任用運動でありますとか、あるいは地方参政権の運動でありますとか、今日は定住外国人という言葉自体、先生がお作りになったということを知ってびっくりした次第でありますが、その運動に取り組んでこられたことについて心から敬意を表するものでございます。
 我が党も、地方参政権、選挙権につきまして法案を提出しているところでございますし、これからもしっかり取り組んでまいりたいと思っておりますし、また、先月の十日、この調査会で「国民主権と国の機構」という、そういうテーマの下で、私も今の状況を踏まえながら、国籍法の出生地主義にそろそろ変えていくべき時代ではないかと、そのように発言した次第でございます。
 今日の先生の公述意見の中でアジア市民という言葉が出てまいりました。地球市民とかいろいろあります。ただ、EUがこのような状況になってヨーロッパ市民という言葉が現実味を、本当に実感として出てきた。このアジア市民というのは本当に大事なコンセプトだな、ビジョンだなというふうに思うわけでありますが、このアジア市民という意識をどのようにすれば形成していくことができるのか。
 今、中国の沿岸部を含めて、台湾ももちろんそうですが、韓国もそうですが、経済が大いに発展をし、我が国を含めて貿易も相互依存状態と言ってもいいと思いますが、そこまで発展をしてきていると思いますけれども、個々の人間の意識向上にどうすれば、その方途は一体何なのかということ。
 それから、アジア市民という感覚が向上すればするほど、逆に中国人であるとかあるいは朝鮮人であるとか、あるいは日本人というアイデンティティーを求める動きが出てくるのではないか。フランスのルペンの動きというのはやはり逆に振れた国粋化というふうな動きではなかろうかなと思うわけでありますが、それをどうやって乗り越えていけるのか。
 意識醸成への方途と、今の国粋化への、どうやって乗り越えるかということについて、御意見がありましたら教えていただきたいと思います。
○公述人(徐龍達君) まず、私がこのアジア市民という言葉を思い付いたというのか、特に主張の中に入れましたのは、過去のアジアの中における日本と諸外国との関係、つまり支配、被支配という過去の忌まわしきというか暗い歴史、それをどう克服するかと。過去は周知のように大東亜共栄圏というのがありまして、栄えるものは日本のためにあったということで、結局は失敗いたしましたが、そういうものじゃなくて、お互いの立場を理解し合う、そういう市民社会が、特に経済的にも各地域ごとにいろんな交流の地域構成がありますので、ヨーロッパ市民社会というものを、現地に私もおよそ二年近く生活もしましたので、それを目の当たりにしながら、もちろんドイツも侵略国家でありましたがああいうふうに信頼を得るようになったのはなぜなのかということを考えました。
 したがいまして、いわゆる戦争責任だとかあるいは戦後補償だとか、こういう点で日本の皆さんは非常に俗に言えば渋ちんでございまして、金の掛かることは余りしないというようなことで、困ったことでございますけれども、そういう戦争責任、戦後補償、そういうものもひとつ片付けた上で、国内的には参政権ということが一つの問題になりますし、私が言うのは、一つのビジョンとして日本の政治家の皆さんがそういうビジョンを持って将来こういう社会を作ろうと、そういうビジョンのためには今フィードバックして何を今するかというようなことを、例えば経営学者のP・F・ドラッカーの言うような断絶の発想というか、ジ・エージ・オブ・ディスコンティニティーというそういう今までの延長でいけばとてもそこまでは及ばぬけれども、将来こうあるべきだという姿勢を皆さんが想定されて、それに到達するために今何が必要かということを逆に今度はフィードバックして考えていくと、そういうビジョンを生み出してほしいなという願いでこの言葉を出したわけであります。
 そういって今振り返ってみますと、例えば戦傷病者戦没者遺族等援護法、こういうのにも国籍条項を付けて、大日本帝国のために死に、また傷付いた兵隊、軍属たちに対する補償が、日本人の場合は今まで七、八千万円、これは田中宏さんの試算でございますけれども、の金が払われておるのに、台湾籍や朝鮮籍の場合はわずか二、三百万ぐらいで手を打つとか、そういう法案を作って満足しておられると。これは、道義的に考えてもとてもアジアの中でリーダーシップを取るという、そういう精神構造はないわけですね。非常に恥ずかしい話なんです。
 ですから、そういう面は早くいい意味での発想の転換をされて、日本人だけを対象にするといったようなそういう戦後の姿勢を正すということ、そして人間をまともに見ていくというそういう姿勢を国内からいろんな教育機関に応じてやっていくという、それと同時に政治家の皆さんはそういう将来ビジョンを描くことによってそれに必要な方策を取っていくと。意識の改善というのはそこから始まるんじゃないかと思います。
 それで、時間の関係もありますから、形成の過程はいろいろありますが、まずはそういう戦争責任、補償の問題だとか、ああいうところに国籍条項を付けて、大日本帝国のために働いた人を差別するようなことをなくすということ、そういう方々が死ぬまで待っているというんじゃなくて。それが一点だし、その後の生きている人間に対しても国籍条項を撤廃して、日本の社会に住んでいる人間は人間として平等であるというそういう視点を、正に今日は人権の話でございますから、人権には国籍関係ありませんので、そういうことをあらゆる面で敷衍していくという政策を取ってほしいということです。
 それから、私はかく申し上げながら、その最後の部分ですが、どの国でも日本人は日本人としてのアイデンティティーをもちろん持ってほしいし、我々コリアンもそういうアイデンティティーを持った生き方をしたいというふうに願っております。
 過去の同化政策的な帰化制度、そういうものについては一定の批判的な考えを持っておりますが、少なくとも日本が国際国家を目指すんだというそういう考えを持ってほしいと。そのためには、外国人も住める社会を作るんだと。外国人が住めなくて、全部日本に同化し、日本人の名前を使い、日本人のふりをしなければ差別があるという現状では困るわけでありまして、そういう意味で、国際国家を志向するというまず理念、それを確立されて、今後政策を具体化してほしいなという願いを持っております。
 以上でございます。
○魚住裕一郎君 もう時間が本当にないものですから、手短にお願いをしたいと思います。
 私どもも過去に目を閉じるものではございませんし、更に未来志向にもまた向けてもしっかり議論を積ませていただきたいというふうに思います。
 次に、柳原公述人にお聞きいたしますけれども、耳に痛いような、私も選挙のときに男にしてくださいと言ったかどうかはちょっと記憶ございませんけれども、憲法ができたときに、憲法二十四条、婚姻は両性の合意に基づいてという、そういうような条文になりました。具体的な婚姻の法律についてもいろんなきちっと条件を付けて規定をしたものでございます。
 当時の女性から見れば、本当に明るい日本社会がやってきたなというふうに感じたと思うんですけれども、今の、先ほどの御意見からすると、家父長的な近代セクシュアリティーの系列の中での条項になるのかなというふうに思うところでございますが、公述人の立場として、この憲法二十四条の位置付けはどういうふうなことになるんでしょうか。
○公述人(柳原良江君) もちろん、婚姻上の不平等が撤廃されているという面では物すごく貢献、女性差別の撤廃に貢献したと思いますが、その後、婚姻では平等になったとしても、男女の二重規範というのは相変わらず存在していて、それについては公には何も批判はされませんでしたから、結局女性は家の中に押し込まれたままで、最初の入口だけ両性が平等になったというだけで、男女差別の根幹というのは変わらなかったと考えております。
○魚住裕一郎君 続いて、前田公述人にお聞きいたします。
 お伺いしたいことは一杯ございますけれども、一歩一歩障害者の、チャレンジドの人にとっても住みよい日本を作っていこうと努力してきたつもりでございますが、アメリカではいわゆるADA法、障害を持つ米国人法、そういうものがあるようでございます。九二年施行でありますが、障害者の公民権法ともいうべき法律でございまして、官民問わず、雇用や交通機関、公共的施設の利用、言語・視聴覚障害者の電話利用など、あらゆる分野での差別を禁じて機会均等を保障している、逆に平等の機会を与えないこと自体差別ととらえて禁止するという、そういう法律であるようでございますが、こういう法律というものはどのようにお考えでございましょうか。
○公述人(前田豊君)(薗部英夫君陳述補佐) アメリカのADA法と日本のバリアフリー法とは確かに性質が違いますが、しかし、私たち障害者が様々な社会に参加する環境の上ではメリットが大きいのではないかと思います。
○魚住裕一郎君 福島さんに一問だけお聞きしますが、先ほどお隣の徐先生からアジア市民という表現ございましたけれども、福島さんから見てその発想はいかがでございますか。
○公述人(福島依りん君) 私は、徐先生と同じように考え方はしています。とても同意でございます。
○魚住裕一郎君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 次、吉川春子君。
○吉川春子君 四人の参考人の皆さん、本当に今日はありがとうございます。大変いろいろな点で勉強をさせていただいております。
 まず、徐龍達先生にお伺いいたします。
 私は、高校の親友が在日朝鮮人でしたので、在日朝鮮人の方が日本社会においてどういう目に遭ってきたかということを身近に聞かされてまいりまして、先生も大変御苦労されて今日に至っていると思います。
 また、国籍条項、国籍の壁ということが午前中も話し合われましたけれども、正にEUの壮大な実験と比べて日本においては、アジアにおいてはと言うべきでしょうか、格段の差があるという思いを私はしております。
 それで、地方参政権について、最高裁判決が九五年二月に行われまして、地方公共団体の長、議会議員の選挙権を付することは憲法上禁止されているものではないと、立法政策だということで判決が下されまして、私も地方政治について住民の参加によることが必要だというふうに思います。共産党としても、この地方参政権について立法提案を行ってきたところです。
 それで、徐先生は地方参政権を実現する運動に携わってこられたわけですけれども、地方参政権が実現することによって具体的にはどういうメリットといいますか、があるかということをもう少し詳しくお述べいただければと思います。
○公述人(徐龍達君) ありがとうございました。
 メリットを一言で言えば、地域社会の住民として隣近所わだかまりなくお付き合いができると、素朴に言えばそういうことでありまして、特に日本では村八分という言葉がありますけれども、よそ者に対する意識というものが非常に問題がありますので、それが選挙を通じましてかなり改善される。ですから、心の壁というものが低くなる、なくなるのは難しいにしても低くなっていくなということでございます。
○吉川春子君 国政への参政権については求めないんだというふうにおっしゃいましたが、その理由はどういうところにあるんですか。
○公述人(徐龍達君) 私どもいろいろな、戦略的に考えるといいますか、つまり実現可能性ということも視野に入れないといけませんし、論理的には、参政権は国政へまでも及ぶべきだという日本の憲法学者の意見もございます。そういうことがあることを分かっておりますけれども、私どもは、とにかく生活の面で、あるいは福利厚生の面で、例えば私も大学、大学院、九年間学びましたが、日本育英会その他、奨学金、一度ももらったことはございません。そういうところにまで全部国籍条項が過去はありましたから、福利厚生含めまして。ですから、まずは地域社会の一員としてそういう最低限のところから認めてほしいというところで地方自治に関してのみ主張していると。
 国政問題は、理論上はいろいろ可能でありましても、それはまた皆さんが真剣に考える問題でありまして、私たち外国人住民としては求めない方がベターであるというふうに私は考えております。
○吉川春子君 憲法改正と国民の概念の問題で先ほどお話がありましたけれども、私は、国民の概念というのは憲法改正とはかかわりがないと思うわけです。これは法律を改正すればいいのであって、憲法上は、先生もおっしゃっているように、ピープル、市民という形で基本的人権が原則として保障されているという国際的なルールの上に立っております。
 それで、確認的な意味も込めて質問いたしますけれども、憲法を改正しないとそういう外国人に対する基本的人権が認められないということではなくて、これは立法の問題だというふうに、法律改正の問題だと思いますが、その点についてはいかがお考えでしょうか。
○公述人(徐龍達君) 私は、むしろ法律改正も必要ないということをレジュメの後ろの方に書いてございます。
 悪く言えば、日本は通達国家だと。解釈によって法律が非常に広く改正されるという、そういう面もございますので、私は、この国民概念は通達によって、先ほど触れましたように、日本人特有の問題を除いては定住外国人もこれを国民とみなすという、そのみなす通達でいいと。
 したがいまして、法律までいかなくても、これは日本人の心の壁を取っ払うという意識が先行すれば、すなわち政治家の皆さんの意識構造の問題、そういう、先ほど申し上げたアジア市民だとか、そういういろんな、あるいは国際国家を作るんだとか、そういう、これが単なるアドバルーンじゃなくて、具体的に到達可能な一つの視野における政策を何か考えていくという場合には、定住外国人もその地域社会の友人であると。
 そういう意味で、通達でもって処理ができるというふうに私は考えております。その方が、憲法改正だとか法律を作るだとかということになると、これ何年掛かるか分かりませんから、私たちは、あしたからでもそういった意味での国民としての、拡大された意味での国民ですが、権利は保障されてしかるべきだというふうに考えております。
○吉川春子君 徐先生に対する最後の質問ですが、先生は韓国、韓国民団の中央本部戦後補償委員会のメンバーでいらっしゃると経歴に書いてありました。私どもは、女性の尊厳を極限まで踏みにじったと、政府の言葉ですが、従軍慰安婦の問題につきまして、この問題を、問題の解決を促進する法案をまず共産党が出しました。そして、その後、野党三党で一致して、今その法案が内閣委員会にかかっておりまして、正にこれから審議に入るという、そういう状況にこぎ着けているわけですけれども、この女性の人権といいますか、侵略戦争の反省といいますか、この点につきまして公述人の御意見があれば伺いたいと思います。
○会長(上杉光弘君) どなたにお聞きですか。
○吉川春子君 徐公述人です。済みません、徐龍達公述人です。
○公述人(徐龍達君) 非常に呼びやすい名前でございますので、そう呼んだるというふうに覚えていただけたら有り難いと思います。初めて笑いが出まして結構で……。
 ただいまの御意向でございますが、もちろん私は、戦後補償問題委員をしましたのはもう過ぎましたんですけれども、民団中央本部の、そういう時期がございました。
 今おっしゃいました女性の人権の問題は、もちろん我々人権そのものを考える場合に、特に何らかの具体的な対策というか方策、法律規定、そういうものによって日本社会のいろんな面での意識を改善しなければいけないんじゃないかと。とりわけ戦後補償あるいは戦争責任、そういう問題にかかわる部分につきましては強力に推進していただきたいというお願いをしたいと思います。
 ありがとうございました。
○吉川春子君 引き続きまして、前田参考人にお伺いいたします。
 憲法二十五条の生存権を障害者にも、国民あまねくといいますか、保障するためにどうすればいいかということでございますが、民法八百七十七条の扶養義務規定、障害者だけではなくて一般的にも取り払うべきだという、こういうお考え、私もよく分かりますし、同感です。これは例えば生活保護を受給する場合にも大変大きな壁になっておりまして、憲法の二十五条と真っ向から対決する法律、民法の法律でございますので、公述人のお考えに賛成です。
 それで、本当に障害者の皆様が自立をして生活するために、年金の問題とかいろいろな問題あると思いますが、どういうふうにすれば自立して生活できるかという問題について、更に御意見があれば伺わせていただきたいと思います。
○公述人(前田豊君)(薗部英夫君陳述補佐) やっぱり最低生活費を確立していくべきではないかと思います。
○吉川春子君 その最低生活費を確立していくという具体的な方法はどういうことでしょうか。
○公述人(前田豊君)(薗部英夫君陳述補佐) 生活保護の水準を引き上げることが必要なことだと思います。
○吉川春子君 そうすると、年金と生活保護、その両方がきちっとされることによって障害者の生活が自立していくということでしょうか。その職業に就く問題についてはいかがでしょうか。
○公述人(前田豊君)(薗部英夫君陳述補佐) 働くこと含めて、すべての生活分野に参加できるということが必要なんだと思います。
○吉川春子君 もう一問伺いたいのですが、前田公述人のペーパーに、戦前は非国民と見られ、生きている感じがしなかったという記述がありまして、本当に軍国主義の時代、どんな思いで障害者の方々は過ごされたんだろうかと私も思います。
 それで、障害者と平和、憲法第九条についてのお考えを伺いたいと思います。
○公述人(前田豊君)(薗部英夫君陳述補佐) やっぱり平和がなければ障害者は生活ができないと思います。有事法制案などは戦前の治安維持法と同じような中身ではないでしょうか。
 実は、昨日とおとといの二日間、私は車いすで平和行進に参加してきましたが、その間感じたことは、憲法九条の重みをしみじみと感じました。今こそ、憲法九条の重みを世界に伝えていくいい時期であると思います。
○吉川春子君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 次、平野貞夫君。
○平野貞夫君 徐公述人にお尋ねしたいと思います。
 朝日新聞の二〇〇〇年の二月十一日の「憲法こう思う」というインタビューの先生の記事が事務局から用意されて読まさせていただいたんですが、この中で「日本はこれまで憲法を都合のいいようになし崩し的に解釈してきました。」という厳しい指摘がなされておるんですが、具体的にどの部分のことを御指摘でございましょうか。
○公述人(徐龍達君) 一つは憲法第九条、一番問題になっている部分でありますし、もう一つは国民概念がそうであります。
 もう少し詳しく申し上げますと、憲法第九条は、私どもが戦後、大学で学んだ九条は、それこそ交戦権を認めない、軍備もしないということが各政党でも合意されたこととして学びました。ですから、東洋のスイスたれという言葉も当時ありましたし、それが韓朝鮮のいわゆる六・二五動乱、戦争でございますが、それ以降、御承知のように、警察予備隊、いろんなそういう関連の軍備を持った自衛隊ができ上がりました。
 そういうプロセスをずっと見ますと、憲法は変わらないのに実態が変わっているということでありますから、これはドイツと比較してみる場合に、やはり論理的に問題があるんじゃないか、なし崩し的というのはそういうところでございます。
 それから、もう一つは国民概念でございますが、これは例えば納税の義務を負うだとか、その他いろんな義務のところは国民は定住外国人、我々韓朝鮮人も含まれることになっていますが、権利の部分については駄目だと。先ほどは奨学金の例だけ挙げましたけれども、いろんなところにそういう御都合主義というのか解釈の違い、同じピープルである、同じ国民である、表現はそうでございますけれども、実態的にはそれが差別的な状況としてあると。そういう経験を私は日本に住む六十年間の間に随分たくさんしてまいりましたので、そういうふうに書きました。
○平野貞夫君 ありがとうございました。我々国会議員、憲法調査会のメンバーとしまして、心して今のお話を参考にしたいと思います。
 それから、同じインタビューの中で、この調査会のねらいは憲法第九条の改正にあるんじゃないかという御指摘がありますが、そこのところは是非、それだけの改正をねらいにしているわけじゃございませんでして、このように人権の問題だとかあるいは国民主権の問題とか、総合的に我々は調査しているわけでございまして、そこの誤解はひとつしないでいただきたいと思います。これは質問じゃございませんので、私の言いっ放しにしておきます。
 それから、徐公述人のお話の中で非常に私、感銘しましたのは、アジア市民社会という構想でございます。できるだけ早い時期にこういう形の構想が実現することが非常に地球の中に、日本の国も含めて、発展していく、共存していく基だと思うんですが、問題は価値観の共有が、中国、台湾、日本、それから韓国、それから北朝鮮、ここで価値観の共有ができるかどうかということが私、基本的にあるんじゃないかと思います。
 現代の価値観といえば、デモクラシーによる社会運営、それから市場経済原理、この二つについて考え方を共有できるかという、ここに一つ根本的な問題があるんじゃないかと思いますが、この点について徐公述人の御意見をお願いいたします。
○公述人(徐龍達君) 大変ありがとうございます。
 先ほど言いっ放しの部分について、ちょっと私の誤解というふうにとらえられましたけれども、実は私は、ドイツのいわゆる憲法が五十何回か改正されたということを踏まえまして、それは善しあしは別にして、非常に正直だということを朝日のインタビューに書いているわけですね。その点、日本の先生方にお考えをしていただきたい。つまり、同じ憲法の条文であるんだけれども、それが内容がもう空洞化してしまっているという、そういうことがありまして、ずっと有事三法も含めまして流れを見ておりますと、非常に危惧感を深くするものであります。
 それで、要は具体的に何がどうあるべきかというのは、これから時間を掛けていろんな方々、国会議員の先生方ももう何年間で交代される方も必ずおるはずでございますから、非常に長い時間にわたっていろんな方々の意見を体して、そして憲法は改正してもいいんじゃないかなという気持ちでございまして、拙速主義はいかぬということと、今の問題性、その問題が実はアジア市民社会を作る場合の一つのネックになっているわけですね。非常に日本の軍備の現状に対して、韓国も中国も皆、危惧の念を持っているというわけでありまして、そういう力でもってアジア市民社会は絶対にできないというふうに考えます。
 それで、今、デモクラシーと市場経済原理での共有、もちろんこれも一つのポイントでございますが、私はまず、先ほどから言っているような、そういう戦争責任、賠償、まあ賠償という言葉もこれはもうほとんど消えてなくなっておる。ついでに申し上げますけれども、日韓条約の有償・無償五億ドルは賠償じゃなくて、これは兄弟の弟分が独立したから独立の祝い金だという当時の日本政府の考え方でございまして、それが今になってみると、賠償も全部済んだから従軍慰安婦やその他、全部もうそれで終わったんだという言い方をしておりまして、これも日本政府の言い方が随分変わっておるというふうな気がいたします。
 つまり、悪いことしてないし、植民地支配が反省するところないんだという基本的にそういうパターンで来ましたから、賠償は必要ないんだと。したがいまして、有償・無償五億ドルは経済協力であるということで来ましたね。それ一つ見ましても、ごろごろ変わるんですね。そこが問題でありますが。
 この共有の問題でございますけれども、私は大学人でありますので、平素学校で痛感しますのは、まずアジア各国の言語、これは永井道雄先生が随分強調されておられまして、私の大学は当時、文学部はなくても、韓・朝鮮文化論、歴史、カルチャー、ヒストリー、ランゲージ、そういうものを開講したのでありますけれども、そういう形で、少なくともアジアのどこかの言語を日本人が第二外国語として学んでいく、そういうパターン、文化的なそういう理解ができるものができますと、非常にアジアの中での価値観の多様性、そういうものが理解がしやすくなるんじゃなかろうかと。
 確かに、ヨーロッパ市民社会とは比べてアジアの方が多彩でございまして、そういう多民族、多文化の共生を考える場合には、どこかの国の言葉が一つできるという日本人が増えることによって日本の社会が変わっていくし、アジア市民社会を作る一つのベースになる、そういうことが特に教育行政の面でも必要じゃないかなというふうに痛感しております。
 そういういろんな試行錯誤が必要かと思いますが、確かに朝鮮との、今の北との共存ということになると難しい部分があるかもわかりませんが、これも私は日本の先生方がそういう不審船だとかいろんなもので危機感をあおっておるような面もあると思いますが、例えば、いわゆる国交回復の前提としての賠償問題、これが片付けばかなり姿勢が変わるんじゃないか。韓国とは有償・無償五億ドルで片付いたと。北とは片付いておりませんので、五十年以上たってもなお。
 こういうことで、例えば、今非常に向こうは困っておりますから、余っている米でも百万トンぐらい送ってパイプを作るとか、何か今までの発想と違う、対立構想じゃなくて違う面で、協議のテーブルの上に引っ張り出すというような政治的な構想が必要じゃないかなと思います。
 ついでに申し上げましたけれども、そこまで行かなくても、アジアの各国はデモクラシーという面では共存共栄し得る、それこそ話合いの場はまだまだ持てるかと思います。そのためにも、文化の理解という前提で、例えば大学生が英語ばかりじゃなくてもう一つアジアの言語をしゃべれるというような状態。今、日韓関係もそういう面では市民レベルの交流が非常に進んでおりまして、今も日韓国民交流年ということで、サッカーの問題も期待されておるわけでありますが、こういうときに首相の責任たるや重かつ大じゃないかというふうに思うわけであります。
 長期的にはそういう、基本的に武力で何かするといったそういう考えじゃなくて、もう少し文化的な面で理解を深めて同じ話合いのできるそういう、心の通うようなそういう交流をもっと深める必要があると、今のようなぎくしゃくしたそういう形じゃなくて。そのためにも在日の、いわゆる定住外国人に対する被選挙権も含めた参政権というのは不可欠であると。そういう中でアジアの中でまた働き得る人材も育成できるんじゃないかというふうに考えております。
 不十分でございますが、何かまたありましたらどうぞ。
○平野貞夫君 いろいろお話をお聞きしたんですが、その言語の問題はおっしゃるとおりだと思います。イギリスから南回りで主な国をずっと日本に向けて帰ってきますと、日本に近づくにつれて言葉が分からなくなると。日本から一番ユーラシア大陸で遠いイギリスの方が、日本人、言葉が、コミュニケーションができるというような体験を時々するんですが、確かにアジアで一つの言語というのは大事だと思います。
 柳原公述人にお伺いしますが、おっしゃるとおり、女性の人格差別、人権の確立ではこれからの課題だと思います。そこで、現日本国憲法の何か所で女性の問題を規定していますが、これで十分なのか。もし、将来憲法をより良くするために憲法の中に女性の地位あるいは人権についてどういうふうに規定をしていくべきかという、そういう御意見があればちょっとお述べいただければ有り難いんですが。
○公述人(柳原良江君) 日本国憲法の場合は、アメリカにもない、女性差別を否定するという条文がありまして、憲法上は改正の必要を私は感じておりません。
 問題は、その、先ほどもありました解釈の仕方が以前の家父長的な文化的解釈から変わっていなくて、それに従って法律も男女別々に、女性に不当な扱い、不当な状態を強いる法律ができておりまして、問題は、憲法で現在存在する決まりではなく、それをどういうふうに解釈していくか、その在り方だと思っております。
○平野貞夫君 最後に、質問じゃございませんが、前田公述人には貴重なお話を伺いまして、ありがとうございました。
 特に憲法二十五条について御指摘が、これをどう実行するかということなんですが、私は、政党は自由党という政党に所属していまして、私は今の憲法をもう少し前向きに新しい文明社会に合うように変えていくべきという意見でございまして、特にこの二十五条については、こういう抽象的な規定ではなくて、国民の生命や生活の維持発展に必要な仕組み、特に基礎的な社会保障については国の責任で行うということを憲法に明記すべきだという意見を私たちは持っております。御趣旨の、お話しになった趣旨をこれから生かしていきたいと思います。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) 大脇雅子君。
○大脇雅子君 今日は、公述人の方々には大変貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございました。
 まず、徐龍達公述人にお伺いいたしたいと思います。
 国民概念の再検討ということで、国籍の相対化と国民概念を拡張をしていく、それが共生社会への大きな法律的な視点を提示するという意味で大変啓発を受けました。
 その定住外国人を国民に含むという場合に、この定住性というのはどういう概念でお考えかということをお教えいただきたいのと、もう一つ、先生は多元的市民権ということを言っていらっしゃいますが、もう少しこれのイメージを教えていただきたいと思います。
○公述人(徐龍達君) まず、この定住外国人の用語でございますが、これは私のかねてからの持論でございますけれども、日本の国に外国人がおるというその実態を在日外国人というふうに前はとらえまして、昨日今日羽田へ着いた、国際空港へ着いた、そういう外国人も在日外国人、まあ一週間おるか、あるいはまた三か月以上おるかは別にいたしまして、日本の行政がすべてそういう、いわゆる新しく今着いたばかりのそういう外国人も含めまして外国人の政策をいろいろ樹立しておられたということでありますので、明らかに旧植民地人といいますか、私どもは三十年、五十年、まあ私はちょうど六十年間日本に住んでおるわけでございますが、そういう定住外国人。
 これは概念的には、私の本の中に、ちょっと用語が厳しいんですが、大日本帝国の侵略によって、直接間接を問わず渡日を余儀なくされた韓朝鮮人、中国・台湾人など、二番目に、前項の韓朝鮮人や中国・台湾人らの子孫で、日本で生まれ育った者、三番目に、日本に居住して三年というのは、これは国籍法上、期間の最短距離を指しておりますが、三年以上住んで生活の基盤が日本にあって、納税の義務を果たしているその他の外国人と。
 ここへ、最近の難民認定とか、そういうものによって、短期間、来て間もない外国人もその範疇の中に入れると。したがいまして、最近日本政府で使っている永住外国人という用語よりは私の概念する定住外国人は広いわけでございます。
 こういう方々の市民的権利というものを、先ほどから申し上げましたように、国民の範疇に入れる。その国民というのは、本来、戦後のマッカーサー憲法草案の包括するその中に入っておるんだということをもう一度考え直してほしいということで、定住外国人概念を日本の市民社会の一員として認めていただけるように、そうなれば日本の国が随分変わった形になるんじゃないかなということです。
 それから、多元的市民権、この市民権という考え方は日本にはまだございませんから、これはまあアメリカのまねをするかどうかは別といたしまして、市民的権利というふうに私たち言うておりました。
 例えば、私は六十年も住んで、もちろん永住資格を持っておりますが、これを日本政府は永住権と認めない、永住許可者と言うんですね。永住許可というのは、許可は許可者がいつでも取り消せると。例えばパーマネント屋、散髪屋の免許みたいなものでございまして、あるいは自動車の運転免許みたいに、許可者が取り消す権限を持つんだというぐらいにしか考えられていない。
 だから、永住権というふうに認められていないから、例えば私が海外へ年間数回出ますけれども、この場合に再入国許可、リエントリーが必要だというのは一体どういうことなのか。これは先生方に是非考えていただきたい。自分の家に帰る。私は韓国から来ましたけれども、今は九十数%が二世、三世、四世、全部日本生まれの日本育ちなんですね。こういう人たちが自分の家に帰るのに一々許可をもらわなければ帰れない、こういうことを国際国家日本として今やっているという、そういう意味で間違いであると。
 ですから、先生方がそういう点に思いをはせていただいて、市民権としてそういうものも含めましていろんなことを検討されて、我々の権利を認めてほしい。これは正に人権になるわけであります。今申し上げたのは一例でございます。
 以上でございます。
○大脇雅子君 柳原公述人にお尋ねをいたしたいと思います。
 近代的なセクシュアリティーというものの下で、夫婦への性の囲い込み、婚姻ということの正当性を基にして様々な法体系が日本ではできているのです。このところ、私どもは超党派で、性と生殖の自己決定権ということで、リプロダクティブヘルス・ライツということで、私たちの身体性を客体ではなくて正に自己決定権の対象として法律の中に書いていこうという超党派の議員の勉強会が始まっております。
 それからもう一つは、やはり家族というのは働く夫と家庭を守る妻と、それから二人の子供と犬一匹という近代家族のイメージというのがあると思うんですが、これはアメリカでも十数%にすぎないということで、家族というのは非常に今多様化してきて、一人でも家族という考え方がこのごろ大きく言われ始めておりまして、私が出た国際会議でも、家族の定義をめぐって物すごく議論をした挙げ句、ようやくにしてその国際会議が到達した家族の定義というのは、家族というのはインクルード、包容するものであって、エクスクルードするものではないというだけの定義が届いて私も仰天をしたことがあるんですが。
 日本の場合は、やはり世帯というものでいろんな社会保障もできているわけですけれども、やはり個人単位でも生きられる、そういう制度に仕組まなきゃいけないということで、私たち女性議員はそうした社会保障の世帯単位を個人単位へということで法改正を考えているというのは、例えば共働きを基準にした社会保障とか、それから一人でも生きられる社会保障とか、それから配偶者手当をなくしていこうとか、そういった様々な税法も含めて私たちは考えているわけですけれども、こういう場できっとそういうセクシュアリティーの問題というのは提起されたことがなかなかないので、貴重な御意見だったと私は思います。ありがとうございました。
 それで、ここの、今ここだけは直してほしいと、ここはとても我慢ができないとか、そんなことは、先ほど政治の意識改革ということでおっしゃいましたけれども、ほかに何かございますか。
○公述人(柳原良江君) 政治家の方に性差別的な意識をなくしてほしいというのにも関係するんですが、女性の性に対するべっ視、人権の議論になりますと、大体男性、殿方がやってきた戦争というようなことが一番取りざたされるんですけれども、女性にとってはそれは余りふだんの生活と関係のない事柄で、むしろ自分たちの家庭の中、自分の生活の中に一つ一つの闘いがある。でも、それが男性の方に、男性にとっては大した意味を持たないものとされてしまう。
 先ほど殿方と言ったのは、そういうのを昔やゆして、殿方のことは私には関係ないと女性が思っていたことを指して言っているんですけれども。そのように、女性の性に対する差別観、男性の性の在り方のみが、セクシュアリティーも含めて、男性のやり方がすべて正しいということを、それが本当に正しいのかを見直していただきたいと思っております。
 特に私的な性については、最近は男性も言われていますが、個人的な性の事柄について、それを批判して中傷をするのは人権侵害であるということを分かっていただきたいと考えております。
○大脇雅子君 福島さんにお尋ねしますが、日本の社会で差別を、ずっと不平等や差別を感ずるとおっしゃっていたわけですが、女性の立場からして、そういう今、柳原さんがおっしゃったような性差別みたいなことはお感じになりますか。
○公述人(福島依りん君) 主人が神田神保町出身ですから、家の中には厳しくしていますですけれども、主婦やるのことはきちんとやって、やっぱり日本は男性の社会ですから、結構そのぐらいで毎日忙しくて過ごさせているですけれども、余り男女の差別は意識はございませんですけれども、一応、西洋人と台湾人の男性比べれば、やっぱりちょっと厳しいというよりは、女性の権利は余り平等はございませんですね。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 前田公述人にお尋ねしますが、当たり前の暮らしができるということが大切だという言葉は、私はとても胸にこたえました。
 生活保護の、最低生活の保障をするということに加えて、もう一つ、やはりすべての社会活動に参加していくために最も必要なこと、日本の社会で欠けているものというのは一体どんなふうだと思っておられますか。
○公述人(前田豊君)(薗部英夫君陳述補佐) 駅のエレベーターはたくさん増えてきたけれども、まだ全体としては一部ですよね。十時過ぎちゃうと、そういうところも止まっちゃったり、バスも来なかったりするので、そういうところに行きたいときには行けるようにやっぱりすべきだと思います。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 公述人の方々には長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。本調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 お述べいただきました御意見につきましては今後の調査に生かしてまいりたいと存じます。(拍手)
 以上をもちまして公聴会を散会いたします。
   午後四時五十分散会

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