第154回国会 参議院憲法調査会 第6号


平成十四年五月八日(水曜日)
   午後一時一分開会
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   委員の異動
 四月二十五日
    辞任         補欠選任
     福島 瑞穂君     大脇 雅子君
 五月八日
    辞任         補欠選任
     大脇 雅子君     又市 征治君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                市川 一朗君
                加藤 紀文君
                谷川 秀善君
                野沢 太三君
                江田 五月君
                高橋 千秋君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                木村  仁君
                近藤  剛君
                斉藤 滋宣君
                陣内 孝雄君
                世耕 弘成君
                中島 啓雄君
                松田 岩夫君
                松山 政司君
                大塚 耕平君
                川橋 幸子君
                北澤 俊美君
                小林  元君
                堀  利和君
                松井 孝治君
                柳田  稔君
                高野 博師君
                山口那津男君
                宮本 岳志君
                吉岡 吉典君
                松岡滿壽男君
                又市 征治君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       京都大学大学院
       法学研究科教授  初宿 正典君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (基本的人権)
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○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「基本的人権」について京都大学大学院法学研究科教授の初宿正典参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、初宿参考人に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席いただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表して厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、まず初宿参考人から三十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員とも御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、初宿参考人お願いいたします。
参考人(初宿正典君) ただいま御紹介にあずかりました、私は京都大学で憲法及び国法学という科目を担当しております初宿でございます。極めて珍しい名字でございますので、この際、お見知り置きを願います。
 本日は、参考人としてお招きをいただきまして、大変光栄に存じております。お手元のごく簡単なレジュメに沿って御説明申し上げますが、私には、前回、四月二十四日の戸松秀典参考人に続いて、憲法の基本的人権について総論的なお話をするようにということでございますが、調査会の事務局長からのお話では、私には特に人権の概念であるとか人権の類型論などを中心に話するようにという御依頼でございました。
 また、前回、戸松参考人は特にアメリカの人権保障にも触れながらなさいましたが、私は、お手元の履歴などからもお分かりいただけますように、従来からヨーロッパ大陸、特にドイツの憲法を中心に研究をしてきております関係上、特にドイツの憲法なども念頭に置きながら、特に憲法の人権規定の歴史といったものをごく簡単に振り返りつつ、憲法における人権概念の発展といったところを背景にしながら、そもそも人権とは何ぞやという辺りに焦点を絞って、前回の戸松参考人の裁判過程での人権の実現といった話と余り重複しないようにしながら、概括的なお話を申し上げることといたします。
 皆様にとりまして既に十分御案内のところも少なくないでしょうから、釈迦に説法だとは存じますけれども、その点、お許しいただきますようにお願いを申し上げます。
 ところで、今更申し上げるまでもございませんが、明治二十二年、一八八九年制定のいわゆる明治憲法は、一八五〇年のドイツのプロイセンの憲法典を主たる模範として作られていたわけでございますが、これに対して現行の日本国憲法は、主としてアメリカの合衆国の憲法あるいは一部のアメリカの州の憲法の強い影響を受けて作られております。
 したがいまして、基本的人権の規定もアメリカの影響を受けた部分があることは当然でございます。特に、三十一条から三十九条までに規定するいわゆる法定手続であるとか裁判に関する権利の規定については、アメリカ憲法の影響を最も色濃く残しているように思います。にもかかわらず、ほかの部分、権利につきましては、やはり明治憲法以来のドイツ憲法の伝統を引き継いでいるということもまた事実でございます。
 例えば、憲法二十三条の学問の自由であるとか、あるいは二十二条の職業選択の自由などの規定は、典型的に昔からドイツ憲法に一貫して見られる規定でありますが、こういった規定は逆にアメリカ憲法には見られないわけでございます。特に、この人権の体系については、基本的にまあ言わばドイツ流であるというふうに言うことができようかと思います。もちろん、これも前回の戸松参考人からお話がありましたように、憲法に明文の規定があるかどうかということと、その国において人権がどこまで実効的に保障されているかということは別の問題でありまして、その点で特に裁判所による判例の積み重ねということが非常に重要であるということは言うまでもありません。
 しかし、また逆に、例えば憲法十三条に様々な権利を読み込もうとしましても、やはり解釈として読み得る範囲には限界があるわけでございまして、言わば困ったときの十三条と、そういうわけにもいかない部分があるわけでございます。ですから、憲法典上に権利の規定が明文でしっかりと根拠付けられているかどうかということも、やはり人権の保障という問題にとっては重要な要素であるということも事実であろうと思います。そして、この点においてこの現行の日本国憲法は、他の国の憲法に比べましても相当に詳細な規定を持っているということは多言を要しません。
 ところで、そもそも日本国憲法では合計三回、つまり十一条とそれから九十七条ですが、この「基本的人権」という用語を用いております。今日、極めて日常的に用いられている人権という言葉は言わばこれをつづめたものでありましょうが、私は、お手元に配付しております参考資料でも書いているところでございますが、日本国憲法第三章の規定する自由及び権利、これは憲法十二条の言い回しですが、この中には本来の言わば狭い意味での人権とそれ以外のものが、種々のものが含まれているというふうに理解をしております。そしてまた、逆に、例えば九十六条、これは憲法改正の際の国民投票の規定ですが、憲法第三章以外のところにもこういった国民の権利に相当するものが幾つか定められていると言うことができます。
 私は、従来からこうした種々の権利を包括する概念として基本権という言い方をしてきております。これはドイツの憲法で、十九世紀の中ごろ以来、憲法が保障する国民の権利というものを総称する言葉として用いられてきているこのグルントレヒテという語を日本語に訳した場合と同じことになりますけれども、こういう用語は、実は既に、後でちょっと述べます類型論とも絡むことですけれども、戦後すぐの時期に民法学者の我妻栄博士によりまして自由権的基本権と社会権的基本権といった言い方で言われておったところでありますし、また今日、例えば十三条の権利の性質について、例えばこれを包括的基本権などというように形容されるような場合にもこの基本権の語が用いられておりますので、特段にドイツ流と言うほどのことはないのですが、この点はレジュメの二のところで書いております人権と基本権の関係といったことで改めて触れることにいたしまして、取りあえず次に、レジュメの一のところへ進みます。
 この近代人権思想の歴史的展開という部分は、私がこれまでの研究の成果として、参考資料の教科書を始めとしていろんなところで書いてきたことでございまして、人権の歴史的発展という問題にかかわります。レジュメでは極めて単純な図式化をしておりまして、歴史的な経緯からしますと、もちろん実際の影響関係はこういう一本道ではないという部分もございましょうけれども、大体このように言えるのではないかというふうに思っておりまして、一応これに沿った説明をさせていただきます。
 そこで、今日、私どもが人権というものについて語りますときには、西欧の近代において生成してきた人権思想といったものを念頭に置いております。そして、典型的な意味での近代的な人権思想の生成を語ることができますのは、やはりアメリカ合衆国においてであります。
 しかし、もちろん、近代的人権を語るときにも、その言わば先駆的な形態としてイギリスにおける展開というものを無視することはできないわけで、特に例えばマグナカルタなんかの中には言わば人身の自由といった最も基本的で重要な権利がうたわれておるわけで、後に、十七世紀になりまして、権利請願という形でこのマグナカルタに立憲主義的な意味が付与されまして、さらにその後、一六七九年のイギリスでできた人身保護法という議会制定法において更にこれが詳細に定められ、これがアメリカ憲法にも影響を与えていくということになります。
 さらに、イギリス市民革命の総決算ともいうべき一六八九年のいわゆる権利章典というものも、古来の自由と権利としまして、今申しました刑事手続的な保障に加えて、例えば、国王が議会の承認なしに法律の効力やその執行を停止するとか、課税を新たにするとか、常備軍を徴集、維持するということの違法性という規定であるとか、庶民の請願権であるとか、国会議員の選挙の自由といったことなどが宣言されておるわけでございます。
 しかし、これらイギリスの文書で言われておりますいわゆる自由人の権利といったものは、近代の憲法が国民に保障する人権というよりも、むしろ先祖代々継承されてきたイギリス国民の古来の疑うべからざる権利というものを文書の形で再確認したものというように理解すべきであるというふうに言われております。近代の自然法思想を背景とした人権という観念に依拠するものとは言えないというふうに一般に言われております。
 そうした近代的な人権の観念というのは、むしろ十八世紀後半のアメリカあるいはフランスで初めて結実していったというふうに言えるわけでございます。すなわち、そこでは、人には国家から与えられたのではない、その意味で生まれながらの権利があるという理念に基づいて、そうした権利を文書の形で確認するという方式が取られております。
 例えば、一七七六年のバージニアの権利章典第一条という有名な規定がございますが、そこにおきまして一定の生来の権利としまして、財産を取得、所有し、幸福と安全とを追求、獲得する手段を伴って生命と自由とを享受する権利というものを挙げておりますのがその典型例でございます。一七八九年のフランスのいわゆる人権宣言、正式には人及び市民の権利の宣言でございますが、これが人権宣言というふうに言われるのもそうした背景から理解すべきでございましょう。
 しかし、もちろん、このバージニアの権利章典にしろフランスの人権宣言にしろ、理念としては確かにすべての人に生まれながらの権利があるんだという思想に裏付けられておったことは確かですが、実際には、まだ当時においては、すべての人といっても女性は権利の享有主体という点で考慮の外にございましたし、当時は奴隷の身分にあった者ももちろん権利の主体はなかったわけでありますから、すべての人といっても、あくまでそういった言わば普遍的な人権の思想といったものを背景にしているものであったというにすぎないわけでございます。
 他方、特に十九世紀のドイツを中心とする憲法典の多くに目を転じますと、そこでは、そうした生まれながらの権利や自由といったものではなくて、むしろ国家が憲法典の制定によって個々人の権利を創設し、それを保障するんだという考え方に基づきまして、そうした権利を憲法典の中に列挙するというやり方を取っている場合が多くございます。そこでは、生まれながらの権利であるとか侵すことができない永久の権利といった言い回しは見られないわけでございまして、むしろ当時におきましてはフランスの人権宣言のような普遍的人権をうたうことには強い反対さえあったわけでございます。
 ドイツにおきましてそうした不可侵、不可譲の権利といった文言が見られるようになりますのは、ようやく戦後ドイツの現行憲法であります一九四九年制定の基本法においてであります。基本法の一条一項に言う人間の尊厳条項がその典型でございますが、そこには明らかにナチス・ドイツの歴史を背景として人としての尊厳を守ることが何よりも重要な国家の責務なんだとする強い意志の表れがあるということが分かります。
 こうした点も考えながら日本国憲法を見ますと、先ほど申しましたように、日本国憲法は基本的人権という用語を合計三回用いております。この基本的人権という言い回しが元来はポツダム宣言に起源を持つものであるということは常に指摘されるところでございますが、いずれにしましても、これらの基本的人権を侵すことのできない永久の権利であるというふうに述べているところからしましても、日本国憲法は明治憲法とは異なりまして、さっき述べましたアメリカとフランスの憲法史の中で発展してきた理念に基づいて、国家といえども奪ってはならない権利があるという思想に裏付けられていると言うことができようかと思います。
 時間がございませんので、次にレジュメの二に参ります。
 さて、ちょっと文言にこだわってのお話を申し上げるんですが、憲法の十一条では「この憲法が国民に保障する基本的人権」と書かれておりますが、十二条の方を見ますと「この憲法が国民に保障する自由及び権利」という言い回しになっております。この両者の言い回しには果たして意味の違いがあるのか、それとも全く同一なのかということが問題となります。一般には後者、すなわち十二条で言う「自由及び権利」の方が前者よりもやや広い意味合いであって、例えば十七条の保障する国家賠償の請求権であるとか四十条の刑事補償請求権などは、狭い意味での基本的人権ではないけれども憲法が特に国民に保障した権利なんだというような説明がなされることになります。
 私自身も大体この考えで理解しておりまして、この現行憲法の第三章に含まれている今申しました十七条、四十条のほかの例で申しますと、例えば七十九条二項で最高裁判所の裁判官の国民審査権であるとか九十三条二項の自治体の選挙権、あるいは九十五条の特定の地方公共団体のみに適用される法律についての住民投票権、あるいは九十六条の憲法改正の国民投票権といったものは、憲法がこういった民主主義的な制度を取り入れたことに伴って創設された国民の権利であると言うことができると思うわけであります。
 そもそも日本国憲法第三章に書かれているもろもろの規定の中には、必ずしも性質が同じものばかりではありませんで、典型的な自由権のようにヨーロッパやアメリカで古くから保障されてきた古典的な自由権だけではなくて、様々な性質のものが含まれているわけでございます。
 先ほど言及しました十一条に関する当時の制定過程での論議を見ますると、一方で、この憲法が保障するのはあくまで基本的人権と言い得るものであって、およそ権利として主張されるすべてのものを一般的に保障する趣旨ではない、と同時に、他方で、これらの基本的人権は必ずしも憲法典の個々の条項に列挙されているものに限定されるわけではないというふうに理解されております。その意味で、憲法はいやしくも基本的人権と言い得るものを包括的に保障しているという趣旨で理解されていたようであります。
 ただ、もしこの基本的人権というものを、一般に言われるように、生まれながらに人間として当然に享有する権利だといった、そういう理念に基づく権利だとしますと、基本的人権というものはいやしくも人間であればだれであっても保障されるべきものでありますから、外国人であれ子供であれ、文字どおりすべての人に保障されていなくてはならないはずでありますが、憲法の規定からしますと、権利の性質上、例えば十五条一項で言う選挙権のように「国民固有の権利」というふうに書かれていて、最高裁判所の判例によりましても、日本国民、つまり日本国籍保有者にしか保障されていないとされている権利もあるわけでございます。また、もちろん、日本国籍を有する未成年者も日本国民でありながらこの選挙権を持っていないのは当然だというふうに解されているわけでございます。
 これに対して、例えば表現の自由であるとか信教の自由のように、外国人であっても子供であっても基本的にはだれにでも保障されているとされているものもございます。
 私自身も、やはりいやしくも人権と言い得るものは国籍とか年齢とか性別とかそういった一切の区別なしに保障されているものを指すのであって、憲法はそうした性質を持っているものとそうでないものとの両方を規定しているというふうに考えております。
 そこで、私は、先ほどもちょっと申し上げましたが、参考資料でも書いておりますとおり、憲法が保障する権利というものを総称する言葉として、取りあえずこの基本権というふうに呼ぶことにしております。
 もちろん学界では、こうしたドイツ憲法流のネーミングには異論のあるところでございまして、わざわざそういう言い方をしなくてもいいのではないかという議論もあるわけでございますが、私の見るところ、この人権であるとか人権侵害という言葉が昨今余りにもルーズに使われ、またかなり以前から人権のインフレと言われるような現象もつとに指摘されておったことでございますので、人権という言葉が時には独り歩きをしているような感じも受けておりますので、もうちょっと落ち着いた言葉を用いた方がいいのではないかというように思いまして、やはり人権という言葉は少し狭い意味で用いようというふうに申し上げているわけでございます。
 この場合、この両者ですね、つまり人権ではないけれども憲法上の保障の権利という、この両者をどう区別したらよいかというのは必ずしも実は単純ではございませんで、憲法自身の文言にどうあるかということとも必ずしも頼りにならないわけで、「何人も、」と書かれているとき、例えば十七条とか二十二条とかそうですが、そういう場合は、人権、私の言う人権と、それから「すべて国民は、」というふうに「国民」という言葉が出ているとき、例えば十三条がそうですが、これは日本国民のみの権利だというように単純には言えないわけでございます。結局、最高裁判所の判例でも言われておりますとおり、権利の性質上、国民のみに保障されるものとそうでないものとを個々具体的に区別するほかはないわけでございます。
 一例を挙げますと、憲法二十二条の二項で言う国籍離脱の自由は、文言上は「何人も、」と書かれているわけですが、これはやはり外国人が持っている権利というふうには理解できないわけで、日本国民が日本国籍を離れる自由を保障していると理解するほかはないわけでございます。
 逆に、例えば十三条は、「すべて国民は、」と書かれていますが、ここで保障されているいわゆる幸福追求の権利を外国人だからという理由で制限することは原則的にできないことも明らかでございます。
 ただ、もちろん、今申しました狭い意味での人権とは言えないような基本権につきまして、国が政策として外国人にも保障するということはあり得ることでございます。現に、十七条を具体化している国家賠償法はその六条で、相互保証主義という留保付きではありますけれども、外国人にも賠償請求権を認めておりますし、現在ではほとんどの自治体で我が国に在留している外国人にも生活保護法上の生活扶助受給を認めておりますが、予算的に可能な範囲でという留保かもしれませんけれども、そういう政策を取ることは可能であり、また望ましいことでもあるわけでございます。
 残り時間が少なくなってまいりましたので、三のところに参ります。
 今まで既に申しましたように、我が国でも、例えば既に現行憲法の施行直後から、我妻博士を始めとしまして美濃部博士、佐々木博士などによって日本国憲法の基本的人権の規定の類型論というものが様々な形で試みられてまいりました。特に我妻博士によってなされましたように、人権を大きく二分して、自由権ないし先ほど申しました自由権的基本権と、社会権ないし社会権的基本権とに分けるというような類型論が次第に基本的に定着していった感がございますが、その後、更にこれに受益権あるいは国務請求権だとか参政権的権利だといった類型が加えられたりして、現在までにかなり種々の類型論というものが試みられております。
 詳細は参考資料の私の叙述を御参考にしていただければよろしいので一々は申しませんが、戦後直後は、特に日本国憲法が二十五条の生存権を中心とする新しい権利、つまり明治憲法には全く見られなかった権利を盛り込んでいる点が非常に強調されていたように思います。
 確かに、一般に社会権と総称されているこれらの権利は、言論、表現の自由だとか信教の自由といった古典的な自由権とは異なりまして、積極的に国家の行為を請求する権利であるというところが特徴で、こうした権利を明文で盛り込んだことは確かに現行憲法の大きな特徴の一つと言えるでしょうが、同時に、こうした権利は古典的で典型的な自由権とは全く異なった構造を持っているわけで、学界あるいは裁判などでも、こうしたいわゆる社会権の規定を根拠にして直接に国民に請求権が発生するかどうかといった点が議論の的になったわけでございます。
 その後、学界では、憲法の規定する基本権は果たしてそういうふうに消極的な自由権と積極的な請求権というふうにすっきりと二分できるのかどうかということが疑問視されるようになってまいります。つまり、自由権についてもいわゆる請求権的側面があるのではないか、また同時に生存権を中心とする社会権にも自由権としての側面が認められるのではないかといった議論がなされていくようになります。
 例えば、いわゆるプライバシーの権利、基本的にはこれは個人が自己の私的領域に関する情報を侵されない自由権として理解すべきでありますが、昨今、個人情報保護法制の整備が問題とされてくるにつれて、自己に関する情報の開示を請求するという積極的な権利としての側面も認められるのではないか、あるいは逆に、従来は社会権としてのみとらえられてきた教育権などについても、教育の自由という自由権としての側面があるのではないか、こういった議論でございます。
 また、二十一条の表現の自由につきましても、これを情報を受領し得る自由の側面だけではなくて、情報の提供を請求できるという側面もあるのではないかといったことが議論されております。ただ、表現の自由には、そうした積極的側面もあることを認めるとしましても、やはりこの権利の本籍はあくまで消極的な自由権の領域にあるということは見誤るべきではないことは言うまでもありません。
 また同時に、憲法には、自由権とか社会権とか、こういう二分法的な類型論ではどちらにも分類できないような、レジュメではコウモリ分類というふうな言い方をしましたが、そういうものも含まれているわけでございまして、例えばいわゆる平等権だとか、あるいは先ほどちょっと言及しました選挙権などもそのどちらにも入れにくいわけでございます。
 特に十五条の選挙権などは非常に独特の権利でございまして、そもそも欧米の憲法なんかと比較した場合に、選挙権を現行憲法のように憲法第三章の権利の章の中に入れている例というのは、実はイタリアなどごく例外的な場合を除けば、むしろ日本国憲法非常に独自の規定でございまして、ドイツやフランスなどでも、この選挙権の規定というのはむしろ議会の構成メンバーをいかにして選出するかという側面から、むしろ統治の機構についての部分に置かれているのが普通なのでございますが、この点はこれ以上は申し上げません。
 時間がございませんが、例えば環境権のように、この権利の性質については議論があるところですが、一般に新しい人権というようなことで形容されているような権利につきましても、この権利をどういう性格のものととらえるべきなのか、そもそもこれが憲法上の権利と言えるのかどうかも含めて、難しい議論があり得るところでございます。
 こうして見てまいりますと、基本権の類型論というものは確かに今なお有益ではありますけれども、あくまでこれは相対的な分類でありまして、どのような視点に立つかによって異なってくるわけでございますので、その視点が不当なものでない限りは、必ずしもどの分類が正しくどの分類が誤りだというように断定できるわけのものではないわけでございます。
 もちろん、基本権を類型化するに際しましては、一つの基本権が複数の性質を持ち得るということにも留意しつつ、それぞれの権利の憲法典上の位置とか、その文理というものを尊重しながら、また同時に、その時々の社会の要請にもこたえられるように柔軟な体系として構築されなければならないということになると思います。
 時間、参りましたので、ひとまずこれにて説明を終えることといたします。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終わりました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 加藤紀文君。
○加藤紀文君 自由民主党の加藤紀文でございます。
 今日は、初宿先生、大変お忙しい中、また貴重な御意見の御陳述をいただきましてありがとうございました。
 基本的人権の総論ということで、大変限られた時間の中でまとめていただいたわけでありますが、歴史から始まって、概念から、基本権から、いろいろお話しされるのは大変だったと思うわけでありますが、私はちょっとお伺いしたいなと思ったのが、実は最後の新しい人権についてでありますが、ちょうど時間的に余裕がなかったようでありますので、まず言い足りなかった点がおありになりますれば、この新しい人権についてちょっとお話しいただければ有り難いなと思うわけであります。
○参考人(初宿正典君) 新しい人権というよりも、大分前から、実は私の学生時代から新しい人権というようなことが言われておりまして、そのころには、例えばプライバシーの権利、今はもうこれは新しい人権という言い方はほとんどしませんけれども、当時は新しい人権だと言われてまいりました。最近では、環境の問題であるとかいったことが新しい人権という形で議論されているように思います。
 特に、レジュメで書きましたけれども、時間が足りなくて申し上げなかったというほどでもなくて、御質問があればということでですが、特にお話し足りなくて付け加えるということはございません。
○加藤紀文君 ああ、そうですか。ありがとうございました。
 我々は、結構、基本的人権とか単に人権とか、簡単に使うといいますか、余り意識せずに使っているわけでありますけれども、今お話しありましたように、いわゆる人権宣言からのこの歴史、お伺いしている中で、今の現代の特に我が国においては当たり前のことであっても、十八世紀、更に相当前、十三世紀ぐらいからの歴史を考えてみますと、むしろそのときの歴史というのは、時代によって、国民の権利の主張といいますか自由権の主張、これから発展していって、やっと先ほどお話しありました自由権だけじゃなくて社会権ということになったわけでありましょうし、この現在の我が国の憲法においてもお話しありましたが、基本的人権という言葉、用語が三か所に使われている割には、果たして基本的人権って何なのかなと。
 欧米では基本権とか人権というような分類なのに、我が国はポツダム宣言の訳であるということでありましょうが、割と平気で使われていると。そして、我が国の憲法でも、やはり人間が生まれながら有すると考えられている基本的人権を侵すことのできない永久の権利、つまり法律によっても、さらに憲法改正によっても侵してはならない権利として絶対的に保障するという考え方を取っておりますが、これは当然のことでありますが、人権が絶対的に大事だというのは当たり前でありますが、だからといって人権が無制限という意味ではないわけでありまして、人権は個人に保障されている個人権とも言われておりますが、個人は社会との関係において関係を無視して存在するわけにはいかないわけでありますから、人権であろうとも、特に他人との人権との関係で当然制約されるものを内在している権利であるわけでありますが。
 我が国の憲法は、各人権に個別的に制限や根拠を規定していないで、公共の福祉による制約が存する一般的に定めたような方式を取っておりますが、これについて我々、学生のころ、公共の福祉の条項が各人権に対して具体的にどのような法的意味を持つのかということで、一元的外在制約説とか内在・外在二元的制約説とか一元的内在制約説とかいうことを学んだ記憶を今ちょっと思い出したわけでありますが、その後いろんな学説も出たり判例が出たようでありますが、初宿先生はいわゆる公共の福祉についてどういうふうにお考えになっているか、教えていただきたいなと思います。
○参考人(初宿正典君) 今、既に十分なことをおっしゃったように思うのですが、御存じの、今おっしゃったとおりで、日本国憲法は、十二条のところで一般的にこの公共の福祉のために権利を利用する責任を負うという規定を置きつつ、同時に個別の条項の中でも、特に二十二条と二十九条においてこの公共の福祉という言葉を用いている。このことをどう理解するかということは、もう従来からたくさん議論のあったところで、既に御案内のとおりでございます。
 一時はというか、最高裁判所の判例などでは比較的、特に初期の判例では、公共の福祉というものがすべての権利に一般的に掛かってくるんだという言い方で、言わばもうざっくりとした議論であったのですが、学界からの批判を受けてかどうか分かりませんけれども、その後、そういう一刀両断的な合憲論を展開するというのは少なくなっていって、個別の問題にもう少しきめ細やかな判断基準というものを用いていくようになっていったと思います。
 確かに、人権を、自分勝手に何でもできるという意味ではないわけですので、社会のために乱用が禁止されるであるとか、そういったことは当然のことでありますので、その意味では、確かにどの権利についても、つまり個別の条文に公共の福祉という文言があるかどうかにかかわりなく人権が絶対無制限ではないということはそのとおりでございます。
 ただ、私自身は、ある程度文言というものをやはり無視できないというふうに考えておりまして、したがいまして、特にこの経済的な自由権にかかわる二十二条と二十九条にこの言葉が特に使われているというのは、それなりの意味があることだろうというふうに考えております。
 最高裁判所も、例えばいわゆる薬事法違憲判決なんかの中でも、この点を引き合いに出しながら、薬事法の違憲論と直接結論的に結び付いた議論ではないかもしれませんけれども、そういう考え方を示してきておりまして、基本的には、逆にそういう文言を持たないものについては、そう簡単に公共の福祉という理由で人権を制約していくということを認めるのはやはり問題だろうというふうに考えております。
 取りあえず、以上でございます。
○加藤紀文君 ありがとうございました。
 それともう一つ、人権の保障と限界といいますか、憲法の基本的人権の規定というのは公権力との関係で国民の権利、自由を保護するものであると考えられてきたわけでありますが、特に自由権は国家からの自由として国家に対する防御権であると解するのが今までの通例でありました。
 しかし、世の中が進んできて、いわゆる資本主義の高度化とか、社会の中に企業とか労働組合とか、また経済団体とか職能団体とか、巨大な力を持った国家類似の私的団体が数多く生まれてまいりました。一般国民の人権を脅かされるような状況も数多く出てきたところで、例えば都市化や工業化の進展による公害問題、情報化社会の下での、先ほどもちょっとありましたが、マスメディアによるプライバシーの侵害とか、重大な社会問題となっておりますが、このような社会的権力に対する人権侵害からも国民の人権を保護する必要があるのではないかということが昨今問題になってきており、この国会でもいろいろな法案が提出されておるわけでありますが、人権は戦後の憲法では個人の尊厳の原理を軸として自然権思想を背景として実定化されたもので、その価値は実定法上、秩序のある最高の価値であり、公法、私法を包括した全法秩序の基本原則であると、すべてその法領域には妥当すべきものであるから、憲法の人権規定は私人による人権侵害に対しても何らかの形で適用されねばならないということで、これまた学生時代のあれで人権の私人間においての効力といいますか、間接適用説、また直接適用説というのを思い出したわけでありますが、初宿先生はその辺をどういうふうにお考えであるか、教えていただきたいと思います。
○参考人(初宿正典君) 確かに、今おっしゃった社会的な様々な権力が個々人の権利を侵害するという場面は、むしろ公権力による侵害よりも多いといいましょうか、様々な形で起こり得ることで、ただ、既にこれも御案内のとおりでございますが、憲法を適用するということになりますと、やはり憲法の全体の構造といいましょうか、そういうものが崩れる危険もあって、間接適用説に対してはまた様々な批判もあるところで、基本的には例えば企業なり労働組合なり宗教団体なりと、それから私人との間でそういういわゆる人権侵害というふうに、またこれは、だから私は人権侵害と言わなくても権利侵害と言えばいいと思うのですが、基本的にはやはり民事法の法理で、例えば損害賠償の問題であるとか、そういった問題は解決ができる。だから、むやみにその場合に人権の侵害だという構成を取る必要はないのではないか。具体的な救済という点から見ますと、これを人権侵害だというふうな構成を取る必要はないのではないかと思います。
 ただ、もちろん同じ団体であっても、例えば強制加入の団体なんかの場合には少し考慮が違う可能性はありますけれども、余り私自身はいわゆる間接適用説というものには全面的に賛成できない。むしろ、つまり民法の解釈学の上で憲法の価値を民法の権利の解釈の中に取り入れるということは、それはそれでやっていただければいいんでしょうけれども、憲法の立場からこれを人権の侵害であるというふうな構成をするということについては、逆にやはりよく言われるように、私人の間での人権の義務化といった問題に連なってくる側面もあって、余り積極的にはこの理論については賛成できない部分がむしろございます。
○加藤紀文君 ありがとうございました。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 川橋幸子君。
○川橋幸子君 民主党・新緑風会の川橋幸子と申します。よろしくお願いいたします。
 まず、今の同僚議員の質問に関連いたしますが、もう少しその辺りの具体的な話を伺いたいのですが、人権というのが非常にルーズな意味で使われ過ぎて本来の意味を失っている、その危惧を先生からちょうだいしましたこの参考資料の冒頭にも、際限のない人権概念の拡大現象はかえってその本来の意味をぼやかしてしまう危険性があるというようなこの文章からも、何か先生の御指摘は雰囲気としては分かるわけですが、いまいちぎりぎりのところ、何が民法上の権利であって何が本来侵すことのできない、あるいは国家が守らなければならない人権なのか、非常に優しい人権と厳しい人権の差というのはどこにあるのか、もうひとつ具体例か何かでお教えいただけるとありがたいと思うのですが。ちょっと理解力が乏しいせいで先生に御無理な質問をしているのかもしれませんが、よろしくお願いします。
○参考人(初宿正典君) 舌足らずな表現になっているのではないかと思うのですが、今おっしゃっているのは先ほどの社会的な権力との関係のことでもないんでしょうか。
○川橋幸子君 そうですか。私は、社会的・経済的ということで同じ問題意識でとらえてしまって、どちらにも人権インフレがある、その危険をもっと具体的にお教えいただければということなんですけれども。
○参考人(初宿正典君) 基本的には、やはりよく言われていることですけれども、憲法の権利の規定というのは、公権力による国民の権利の侵害に対してこれを守るということでございますので、公権力ではないような様々な団体、あるいは個人と個人の間の関係に、そう簡単に憲法の人権侵害という形で問題を解決しようとする必要はないのではないかということを申し上げたのですが、何か具体、今ちょっといい例が浮かばないのですけれども。
○会長(上杉光弘君) どうぞ考えてゆっくりやってください。
○川橋幸子君 会長、恐れ入ります。
 それじゃ、後ほどもし時間がありまして途中で思い付かれましたらお教えいただければということで、次の質問に移らせていただきたいと思います。
 私、それほど深い理解がない人間でございますが、以前、学生時代に憲法を教わったときには、法の下の平等といいましょうか十四条の問題、特に私が女性だったせいかもしれません、その理由があるのかも分かりませんが、法の下の平等というものが人権の中でも非常にコアな部分というふうに言われた、教わったような気がします。しかし、最近はむしろ人権の中の一番のコア中のコアは個人の尊厳というふうに、十三条の方に重きが置かれているような感じがいたしますが、こういう受け止め方というのはどんなふうに先生、思われますでしょうか。
○参考人(初宿正典君) 私も、法の下の平等はやはり昔も今も非常に重要なテーマだと思います。
 ただ、法の下の平等というものはそれ独自で何かが問題となるのではなくて、例えばある具体的な権利について、ある人とある人、あるいはある団体とある団体の間での取扱いに違いが出てくるといった形で問題になるわけですね。普通、この平等というものは関係概念であるというような言い方で説明がなされるわけで、ですから普通の場合はやはり例えば宗教について差別を受ける、あるいは雇用について女性のゆえに差別を受けると、こういった形で問題が常に出てくるということですので、例えばプライバシーの問題について平等というのはちょっとなかなか難しい問題がありますが、平等の問題はやはり私自身は今もなお非常に重要なテーマだと思いまして、今は今おっしゃいましたようにプライバシーであるとか自己決定の問題というのが非常にクローズアップされていますけれども、確かにその問題も重要ですけれども、依然としてやっぱり私は平等問題というのは大きなテーマだと思っております。
○川橋幸子君 個の尊厳、個人の尊厳も、私はどちらかといいますと、先生のお話を伺うまではむしろ自由権的なもの、生まれながらにして侵さざる、侵されてはならない個人の人格、個人であることを侵害されてはならないものというふうに思っていましたら、ドイツの基本法は、むしろナチス・ドイツの反省から、国家による個人の尊厳の保持といいましょうか、むしろクリエーティブな、創設的な権利としての個人の尊厳をドイツの基本法が規定しているというように先生はおっしゃったと私は理解したのでございますが、ドイツ基本法の場合は、しからばその創設的な権利としての個人の尊厳というのはどのような規定の仕方になるのでございましょうか。
○参考人(初宿正典君) 従来のドイツの憲法では、そのように生まれながらといった理念に裏付けられていなかった。ただ、この人間の尊厳という、戦後の憲法でそういう規定が初めて登場したというふうに言えるのではないかと思います。
 基本法の一条で、人間の尊厳が不可侵であるとか、それから一条二項で、不可侵で不可譲の人権といった表現が戦後初めて登場したわけで、その意味では、ドイツの憲法の伝統からすると、これは明らかに別のルートからのものが入り込んでいるというふうに考えるわけですが、ただ、今おっしゃったことで言葉じりをとらまえるようですけれども、日本国憲法には確かに二十四条に「個人の尊厳」という言葉が出てまいりますが、このドイツの基本法で言う人間の尊厳というのは、やはり個々人を、一人一人を尊重するという、そういう言わば個人主義的な哲学に裏付けられているというよりも、むしろそういうナチス・ドイツで起こったようなことですね。要するに、もう少し人間を人格としてとらえ、そして個々の人間に目をやるというよりも、やはり文字どおり人間としての尊厳というところに重きが置かれておりまして、必ずしもこれが、これも学界で議論のあるところですけれども、人間の尊厳と個人の尊重という憲法十三条の原理とは必ずしも同じではないというふうに説かれておりまして、私もそのとおりだと思っております。
 一般に、憲法十三条のところで個人の尊厳というふうなことでよく説明がなされるんですが、個人を尊重するということは書かれているんですね。二十四条のところで個人の尊厳が出てき、そして民法の、戦後に改正された一条ノ二でしたかに「個人ノ尊厳」という言い方が出てまいりますが、憲法自身には出てこない。ここのところはやはり発想がかなり違うというふうに私自身は理解しております。
○川橋幸子君 日本人の憲法観といいますか、特に人権概念に対する理解というのはどうも西欧諸国に比べるとまだまだ日本は遅れているといいましょうか、成熟していないといいましょうか、そのようなことがよく言われますが、そういった場合に、やはりこれは西欧で生まれた概念であって、日本は輸入してまだ普遍化のところまでは行っていない、日本人が成熟していないからだというような言い方をされることが多うございますけれども、先生は今の日本人の憲法観をごらんになられまして、特にこういう人権概念の理解度につきましてどんなふうにお考えになられますでしょうか。
○参考人(初宿正典君) この日本国憲法ができたときには確かに、かなりの未成熟というふうに普通言われるわけですが、戦後五十年を経まして現在の時点で見ますると、国民の人権に対する意識というのは相当に成熟してきているのではないかというふうに考えておりますが。
○川橋幸子君 新しい人権のところで、プライバシーとか環境権などが代表的なのだろうと思いますけれども、前回の参考人の先生からのお話でも、それらは個別に憲法に規定するということよりもむしろ立法政策の問題であって、そういうものを規定することは日本国憲法はウエルカムであると、ウエルカムと言うとちょっと変ですね、望ましい方向であるというようなことを言っておられましたけれども、先生の場合は、こうした新しい人権についてやはり憲法の中に書き込んだ方がいいというふうにお考えでしょうか。いかがでしょうか。
○参考人(初宿正典君) 少なくともプライバシーの権利については十分に、現行の憲法十三条の解釈として十分読み込み得るから、これを改めて明文で、改正で取り入れるべきだというふうには考えておりません。
 それから、環境権の問題はなかなか難しいのですけれども、これも、環境権というものが非常に権利としてあいまいといいましょうかね、何を環境の権利と言うかというところがかなり突き詰めて考えないと、その規定、明文で入れればいいというふうに単純には言えないだろうと。ドイツの場合も、実は近年、ごく最近になりまして、二十条の次に二十a条という新しい条文が、これは一九九四年になって入れられたわけですけれども、これもやはり権利の規定という形ではなくて国の責務として、将来の世代のために環境について配慮するような立法で、あるいはそれを実現していく行政、そういう辺りで実現していくべきなのだという一種のプログラムとしてのみ定めるにすぎなかった。これはこれでやはり、むしろそういう方向で、権利の規定としてでなく取り入れるというのであれば、それは考慮に値することであろうと思いますが、これを憲法三章のどこかに権利として書き込むというのには、むしろ私自身は慎重な態度を持っております。
○川橋幸子君 もう一点、この調査会でも度々話題にはなりますけれども、それほど議論というか詳しい話に入らなかったことにヒトクローンの問題、生命倫理の問題がございますが、もう技術としては可能な世の中になったと言われておりますけれども、そうした生命倫理の問題については、人権の角度から見ますと、憲法の中ではどのように考え、これは書き込む必要があるのかないのか、それも併せて伺いたいと思いますが。
○参考人(初宿正典君) 非常に難しい問題ですが、やはりこれは立法でもし規制の必要があるということであれば、法律で十分で、これを憲法に書き込むというのは非常に難しい問題があるだろうと思います。
 もう一つ、このクローンの問題でやはり非常に難しいのは、一方で二十三条の学問の自由がございますので、これをやはり制約するということになりかねないのですね。ですから、法律で作る、法律で何らかの規制を及ぼす必要があるという場合にも、この学問の自由との抵触というものがいかにうまく調整できるかというところが非常に難しい問題だろうと思います。
○川橋幸子君 その先を、人権と人権がぶつかったときの、人権の衝突の先の考え方を教えていただきたいんですが。
○参考人(初宿正典君) クローンの問題に関連してでございますか。
○川橋幸子君 関連して。これからの問題でございましょうか。
○参考人(初宿正典君) はい、これからの問題で、それから、そのクローンというものがいろんな、何といいましょうか、いったんできてしまったらいろんな問題が起こり得るんだということはいろんなところで言われてはいるんですが、果たして本当にそれがどういう形で深刻な問題になっていくのかということが今の時点ではまだはっきり分からない。この段階で、既に現在法律もございますけれども、今の段階でこれを衝突のときの調整というのをどう考えるかというのは、今のところちょっと答えを持ち合わせておりません。失礼いたします。
○川橋幸子君 憲法改正の話が今回の有事法制なんかもめぐっていろいろ出ていますが、事この人権に関しては、非常に人類の歴史の中で得られた普遍的なものであるとすると、人権の部分は改正できないというふうに考えてよろしいのでしょうか。
○参考人(初宿正典君) 改正ということの意味をどう理解するかですが、例えば……
○川橋幸子君 済みません、ちょっと言葉が足りなかったかもしれません。
 一番基本的な基本権の部分について、制限してもよろしいというような逆の改正でございます。人権を保障しないという方の改正です。
○参考人(初宿正典君) 一般には、やっぱりこれは憲法の改正の限界を成しているというふうに理解されていて、人権を今よりも制限するという形での憲法改正については、もちろんこれは慎重であるべきであります。
 先ほど言い掛けた、新しいものを何か付け加えるということは、その権利が非常に精査された権利規定であればあり得ることであるというふうに思いますが。
○川橋幸子君 人権から離れるかもしれませんが、私個人は人権と同義語ぐらいに考えておりますのが日本国憲法の平和主義と言われるものでございます。平和な中に生きていく、一つの人間として人間らしく生きる生存権みたいなものの、そういう理解の仕方を個人はしておりまして、そうした場合に、平和主義、日本国憲法が持っているいわゆる平和主義というものは改正できるのかできないのか、できないのではないかと、これこそがザ・日本国憲法ではないかと私は思うのですが、いかがでしょうか。
○参考人(初宿正典君) 今の点は、私の今日の話の対象とは一応は離れる問題ではないかと思いますが、理論的に申します。理論的にといいましょうか、申しますと、平和主義について何らかの形での改正というのは、必ずしもいわゆる限界を成しているというふうには言えない、言いにくいだろうというふうに思います。国民主権という発想からしまして、理論的には、やはり国民、主権者たる国民が憲法を改正するということについて特に何らかの明確な限界があるという理屈は、論理的にはなかなか突き詰めていくと難しい問題があるのではないかというふうに考えております。
○川橋幸子君 時間が一分半ぐらいなんです。でも、有効に使わせていただきまして、これまた、先生の今日のお話とは懸け離れると言われるかも分かりませんが、民主主義国は戦争しないという、俗に言われる言葉については、先生はどんなふうにお考えになられますでしょうか。
○参考人(初宿正典君) 何ともお答えしにくい点で、民主主義国でも戦争する国は一杯あるので、これはやはり民主主義という言葉をどういうものとして取るかによりますが、民主主義国であれば戦争をしないという言い方は必ずしも正しくないように思いますが、今日の私のテーマと随分離れますので、余り準備をしておりませんけれども。
○川橋幸子君 どうもありがとうございました。
 御専門、せっかくの講義から離れた質問をしてしまいまして、おわび申し上げたいと思います。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 大学の講義を聞くようなものですね。
 高野博師君。
○高野博師君 それでは、先生はドイツの憲法が御専門だということなんですが、ドイツの基本法は第一条で人間の尊厳は不可侵だということをうたっているんですが、人間の尊厳というだけでは権利でも何でもないわけですが、ヨーロッパの新しい権利として人間の尊厳を実現する権利があるということを私聞いていまして、去年、憲法調査会でヨーロッパに派遣していただいて、ドイツに行ってこの件について伺ったんですが、よくまとまった回答は、期待していたような回答は得られなかったんですが。
 これまでの古典的な自由権というのは、自己決定能力がある人が自己責任を取る、そういうことを前提にした権利だと。しかし、今、例えば痴呆症の人はどうなのか、寝たきりの人はどうか、子供はどうか、あるいは受刑者はどうかと。要するに、自己決定ができない人の権利、要するにどういう人であっても人間としての尊厳を実現する権利があると、これが新しい権利であって、これを保障するのが国家としての責務だというふうに私は理解しているんですが、先生はどうお考えでしょうか。
○参考人(初宿正典君) 基本法の今おっしゃった人間の尊厳というのは、これ自身では特定の人権あるいは基本権というよりも、少なくともこのドイツの基本法の構造からいたしますと、この一条一項で言う人間の尊厳を保護する国家の義務から様々な基本権ないし人権が出てくるんだということでございますので。
 それと、先ほど川橋委員の御質問にもあったことにかかわりますが、一人一人の先ほどおっしゃった自己決定のできない人の尊厳という問題と、少なくともドイツ基本法で言う人間の尊厳というのは、私自身は余り直結しない問題ではないかというふうに考えております。むしろ、そういった自分で自己決定のできない人たちの問題というのは、ドイツの問題で言うと、例えば二条の問題、各人が自己の人格を自由に発展させる権利といったところで普通は解釈されていることではないかというふうに思います。
 ドイツの連邦憲法裁判所の様々な判例なんかを見ますと、やはり先ほどから申していますように、個々の条項で定められている国民の権利が同時に人権なのだ、人権である場合がある、その場合には、その背後にやはり国家が一番大切にすべき人間の尊厳という思想に裏付けられているかどうかなんだという、こういう構造になっているように思いますが。
 したがいまして、ちょっとお答えになっているかどうか分かりませんけれども、ここに尊厳という言葉があるから、今おっしゃった、例えば個人の尊厳死の問題であるとか、そういった問題をこの基本法の一条の問題として本当に考え得るのかどうか。むしろ、先ほど申しましたように、ああいうユダヤ人虐殺のような、ああいう背景の下でこの人間の尊厳という言葉が使われてきて、できたという経緯からしますと、ちょっと違う、この経緯は違うのではないかという気がいたしますが。
○高野博師君 これの議論は別の機会にしたいと思いますが。
 個人情報保護法案と人権擁護法案についていろんな議論がされているんですが、表現の自由と、それから表現の自由、報道の自由、これと人権侵害について先生の考えをお伺いしたいと思うんですが。
 表現の自由というのは、古典的な自由主義思想に由来しているわけで、精神的な自由を表現しこれを具体化するという当然認められるべき自由だと思いますが、日本国憲法第二十一条は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と、「検閲は、これをしてはならない。」と規定されているわけですが、報道の自由というのもこの表現の自由の一つの形態だと、これも憲法上保障されていると、こう理解しているんですが、一方で個人のプライバシー権、これは一人でほっておいてもらう権利だと。その根底にはやはり個人の尊厳というのがあるわけで、表現の自由も同様にその個人の尊厳というのがベースにあるんで、表現の自由とプライバシー権というのはそもそも相対する概念からきているわけではないと、こう思うんですが。
 問題は、報道機関というのは、国ではありませんが、圧倒的な影響力を持っている、力を持っている、第四の権力と言われるような。その影響力は計り知れないわけですが、このマスコミによる人権侵害が起きているということも事実でありますが、その救済は一体だれがするのかと。最終的には司法の場で解決ということになると思うんですが、しかしそこまで行くまでの時間的な経済的なロスがこれは個人にとっては極めて大きいものがあるわけで、その前の段階で何か最小に、人権侵害を最小に食い止めることができないかという考えをするのはある意味で当然かと思うんですが。
 そこで、報道の自由というのは真実を国民に知らせるという点では非常に重要な自由権だと思うんですが、一方でプライバシーとか名誉を侵害されるという、個人を保護するということも保障されなくちゃいけない。そこで、報道機関は自主規制をするというのが一番望ましいんだと思うんですが、しかし自主規制ということもほとんど機能していないというか存在していないんではないか、こう思うんですが。
 これを、この二つの法律は必ずしもマスコミ規制法では私はないと理解しているんですが、ある程度こういう法律で立法的にチェックするとかあるいは抑制するという、そういうことについて先生はどう思っておられるか。そういう侵害される個人の人権を守るというのも国の責務ではないかと思うんですが、その辺はどうお考えか、お聞きしたいと思います。
○参考人(初宿正典君) やはり憲法の保障している権利というものは基本的には個々の人間の権利であると。これは特にレジュメで参考文献として書きました、最近書きましたものにも少し触れたことですけれども、報道も含めて個人、個々人の非常に重要な権利がマスコミ等によって侵されるような場合というのを想定しますと、やはりこの場合、先ほど申しましたように、憲法の人権というのは本来、個々人の権利、個人の権利であるということから、団体の権利と個人の権利が衝突するというような場合にはできる限り個人の方に軍配を上げるべきだというふうに私は考えております。したがいまして、その限度で報道の自由が規制をされるというのはあり得ることだろうというふうに思います。
 つまり、国民に十分な情報を提供するのはもちろん報道の非常に重要な機能であり、報道の自由がその意味で憲法二十一条一項の表現の自由に含まれるということについてはもちろんそのとおりですが、やはりそれによって個々人の非常に重要な、例えばプライバシーといったものが侵害されるというふうなケースを考えると、その場合には少なくとも昨今の情勢からしましてもこのプライバシーの方に、個人の権利の方に重きを置くというのがやはり憲法の元々の原則ではないかというように思っております。報道の問題だけ言うと差し障りがありますが、様々な社会的な団体と個人との関係ということを考えますと、今言ったように考えたい。
 ただ、難しいのは、報道の場合、その報道で侵害されるのは報道の言わば団体の外にある個人ですが、そういう場合と、それからその団体とその団体構成員の一人との関係というのはまた別の問題、例えば労働組合と労働組合員の問題あるいは政党とその政党所属員の問題というのと、この報道機関とそれによって侵害される個人の問題とはやはりまた考え方が違うだろうと思うのですが。
 いずれにしろ、今おっしゃったような点について言いますと、私自身はできる限りやはり個人の一人一人の利益というものを尊重する方向で考えるべきだろうと。これが元々やはり憲法の考えていたことだろうと思いますので、報道の自由がもちろん不当に制限されることは非常に問題がございますが、適切な規制というのはあり得ることだろうというように思いますが、これはむしろ私が考えることじゃなくて、政治過程の中で決められるべき事柄でございましょう。
○高野博師君 ありがとうございます。
 もう一点だけお伺いしたいと思うんですが、グローバル化とこの人権の問題ですが、先日もオランダの極右政党の党首が暗殺されたと。フランスでも極右政党がかなり伸びてきた。ヨーロッパ全体として極右勢力が台頭しているんですが、その背景には移民という問題がある。その移民が増えることによって治安の悪化とか失業問題がある、そういうのを背景にしていると思うんですが。
 このグローバリゼーションが進む中で、人間の移動というのはもっと恐らく活発になるだろう。グローバル化が進むと、一方で市場原理とかあるいは自由競争が支配的になるわけで、弱者と強者というか、こういう二極分化がもっと進行するだろうと。したがって、この弱者をだれがどういうふうに保護するかという問題。例えば難民の問題であれば、これも国際的な保障も必要になってくるとは思うんですが、外国人の人権を保障するということも、これは国の責務として求められてくると思うんですが、これは日本国憲法ではこれに十分こたえているのかどうかお伺いしたいと思うんですが、あるいはこれは立法政策的な次元でやるべきだと思われるのかどうか。
 新しい権利という、人権というのはいろいろ言われていますが、例えば居住権というのがありまして、安定的に一定の場所に住むという権利。これは国連のハビタットで認められた新しい権利ですが、難民の場合にはこういう居住権というのがやっぱり求められる。あるいはホームレスの人は、日本にも相当ホームレスが増えているんですが、こういう人の居住権という権利はどうなるのか。そのグローバル化の中で、定住外国人の参政権の問題あるいは二重国籍の問題、国籍を出生地主義にするか血統主義にするか、いろんな問題が出てくると思うんですが、元に戻りまして、外国人の人権も人権を保障するという点での日本国憲法はそれに十分こたえているかどうかという点について、簡単で結構ですので、お伺いいたします。
○参考人(初宿正典君) 今日の私のお話の一つのテーマで、要するに憲法が定めている権利の中には、当然に外国人であっても認められるべき権利とそうでないものとあるということを申しました。したがいまして、今の御質問の中で外国人の人権というときに、何をそこで考えるかによって答えは違ってくる可能性があります。少なくとも、選挙権のような参政権につきましては、やはりこれを外国人に認めなければ憲法違反だという議論は難しいだろうと。
 ただ、日本国がその入国を許可した者についてその者の居住権を奪うというふうな問題は、これはその参政権の問題とは別の次元の問題だ。ですから、やはり個別の権利規定の中で当然にあるいは政策的に外国人に認めるべきものと、それから認める必要のないものというものがあるのではないかというふうに考えておりますが。
○高野博師君 ありがとうございました。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 宮本岳志君。
○宮本岳志君 先生、今日はありがとうございます。日本共産党の宮本岳志です。
 ゴールデンウイークがありましたので、先生のこの御本もざっと読ませていただきました。大変勉強になったんですが、先生は、この本の三十一ページで「明治憲法の権利章典の特色」について触れておられます。明治憲法にも権利章典があったけれども、「限定列挙的な権利のカタログであって、日本国憲法の第十三条のような包括的・補助的な権利保障規定は存在しなかった」と、そして「不備な点が多かった。」とされております。また、法律の留保の問題、裁判的救済手段の欠如についても指摘をされております。
 我が国における人権の歴史的展開を考えたときに、明治憲法と日本国憲法とでは質的な差異があると私も考えるわけですけれども、まず、先生のその点でのお考えをお聞かせ願えますか。
○参考人(初宿正典君) 今、既に読んでいただいた部分で大体私の考えは書いているんですが、やはり一番大きな点は、先ほど申しましたように、解釈に余裕のあるといいましょうか、十三条のような規定が見られなかったということと、それからやはり基本的には、明治憲法の下での権利規定には多くの場合いわゆる法律の留保の規定がございましたので、法律による制限ということがいつでも可能なような構造になっていたのに対して、現行憲法は基本的には法律の留保を認めないという立場を取っているということから、やはりそこには大きな違いがあるというふうに一般的には考えておりますが。
○宮本岳志君 昨日から国会ではいわゆる有事関連三法案が審議が始まったわけです。そういう点では、改めて憲法の人権条項が一つの議論の的になっていると私は思います。
 先ほどの明治憲法との対比の問題にもつながるわけですけれども、明治憲法が個別法で国民の権利と自由を制限することを許していたと。このことが例えば治安維持法などにも結び付く弱点となったのではないかと。これは私もそう考えるわけですけれども、日本国憲法の下で、現行憲法の下で、個別法で国民の権利と自由を制限するということは果たして許されるのかどうか、この点での先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(初宿正典君) やはり権利の、どの権利かによって話は違ってくるのだろうと思うんですね。
 有事立法の問題は私も十分にまだ把握しておりませんので具体的なお話はしかねますけれども、例えばドイツなんかの場合でも、例えば居住の制限であるとか、あるいは所有権に関する制限であるとかということはあり得る、現在の基本法の下でも可能となっているんですね。
 ただ、御存じのとおりですが、ワイマール憲法ではもっと広く、いわゆる精神的自由権と言われる領域についても、いつでもその全部又は一部の効力を停止するということが可能であったし、現にそういうことがなされていた経緯もあるわけです。そういう歴史を背景にして、ドイツでは、そういった表現の自由であるとか、あるいは言論の自由であるとか、宗教の自由であるとかについてはそういう制限はできないと。
 個別に、先ほど申しましたようないわゆる経済的な自由権であったり、居住の権利、あるいは職業に関する権利については制限が可能だというような言い方をしているわけで、したがって、特に先ほどから申していますように、日本国憲法の場合は一般的にはそういう法律の留保条項はありませんので、法律で制限するというのは非常に問題があるわけなのですが、じゃ、すべてのこの憲法第三章の権利規定について法律で制限することが許されないかというと、そうは言えないだろうと思いますので、やはり個別に問題を考えていくほかはないだろうというふうに思いますが。
○宮本岳志君 そこで、日本国憲法の自由や人権を仮に制限したとしても、それは憲法十三条の、「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」との憲法十三条等の趣旨に沿って認められるのだという意見がございます。
 これで、三点、これについて聞きたいんですが、まず第一に、この公共の福祉というものに軍事的要素は入り得るのかと。つまり、軍事的な準備のためというものが公共の福祉のため、福祉のためにということに読み込めるのかどうか、これが第一です。
 第二に、どの権利をどう制限するかの限定なしに、公共の福祉を理由に国民の権利を全体的に網を掛けて制限することが現行憲法の公共の福祉論として許されるのかどうか。
 三つ目ですけれども、我が国の憲法、憲法の公共の福祉については、公共の福祉を理由にした基本的人権の制限は、国連の国際人権B規約委員会、人権委員会ですか、からも懸念を表明する最終意見書が日本政府あてに出されているというふうに私はお伺いしたんですが、もし、先生、この辺りのことも御存じでございましたら触れていただければありがたいと思います。
 以上三点、お願いいたします。
○参考人(初宿正典君) 今の最後の点につきましては、余り詳細について存じておりませんので、余りお答えすることができないと思います。
 第一点目は、非常に難しい問題だと思うのですが、だから軍事を公共の福祉と考えるかという問題を、だから公共の福祉という場合に、やはりそれによって社会の、社会的な様々な弊害いうことがこれに伴った形で出てくるときに、そういう意味ではかかわりがあるといえばあるのだろうと思いますけれども、余り軍事との関係で真剣にこの公共の福祉による制限ということについて考えてきたわけではないし、学界でもほとんどこの点については、今までそれほど真剣に議論してこなかった部分ではないかと思います。
 第二点につきましては、先ほどの別の方の御質問にもお答えしたと思うのですが、最高裁も、昔の判例、例えばわいせつ物頒布罪に関するいわゆるチャタレー事件判決などでは、この公共の福祉というのが人権全体に網をかぶせるような制限の正当化原理として働き得るということを言っておりましたが、その後はこういう言い方はほとんど消えてしまっておりまして、したがいまして、公共の福祉の名の下に人権を制限できるという、そういう大ざっぱな議論は通用しないようになってきている。
 ただ、特に憲法二十二条、二十九条に公共の福祉という言葉が出てくるのはやはりそれなりに憲法制定者の意図があったはずであり、その意味では、ほかの人権に比べてこの部分については制限の可能性というものが認められやすい、またそれが憲法に違反しないということになる可能性が強い部分であると。それに対して、そうでない部分についてはやはり非常に厳しく、この公共の福祉という名の下に制限することについては慎重であるべきだというように考えております。
○宮本岳志君 ということになりますと、例えば、個別の法律にどのような権利をどのように制限するかは委任といいますか譲ったまま、一般的に憲法上の基本的人権を公共の福祉の名目で制限するというのは問題がありだということになるでしょうか。
○参考人(初宿正典君) 済みません、もう一度今の御質問の、質問の趣旨をもう一度お願いいたします。
○宮本岳志君 個々の法律にどのような権利をどのように制限するかということはすべて後で決めるというふうにしたまま、一般的に憲法上の自由や人権を公共の福祉ということで制限する法律を作るということは問題ありということになるでしょうか。
○参考人(初宿正典君) そういう大ざっぱな法律ができるとは私は思っておりませんので、やはり国民の権利を制限する法律を制定する場合には、具体的にどういう権利をどの程度制限し得るか、あるいはそれを何のために制限するのかということが具体的に書かれるべきであるというように思います。そうでなくて、一般的な形で公共の福祉によって制限ができるというふうな法律なんというのは非常に問題があるだろうというように思いますが。
○宮本岳志君 なるほど、よく分かりました。
 次の質問ですが、先生は、この「憲法2」の百九十五ページなんですけれども、沈黙の自由ということについて述べておられます。憲法「第二十一条一項の表現の自由についても、内心における精神作用の結果を公表したくないときには、これを公表させられない自由としての「沈黙の自由」を含んでいると解される」と述べておられます。
 例えば、戦争に際して国民に協力を義務付け、それに反した国民を処罰する法律を作るということは、戦争への協力はしたくないとの信条を持つ国民の内心の自由を侵すことになるのではないかという点が一点。また、そういう信条を持った国民は、協力を拒否するという行動によって自分の内心を表明しなければならなくなる。少なくとも沈黙の自由の侵害に当たることは明瞭だと私は考えますけれども、先生の御所見はいかがでしょうか。
○参考人(初宿正典君) この問題は特に戦後のドイツで真剣に議論された問題で、基本法の四条にある、いわゆる良心的兵役拒否という形でドイツの場合は憲法に明文で書かれることになったわけでありますが。
 したがいまして、そのときには前提として、やはり例えば兵役に就きたくない者はその就きたくない理由を表明しなくてはならない、これを表明すれば兵役が免除されて代役の方に回ると、こういう構造を取っているわけですので、やはり何かの国家的な義務が、少なくともドイツの場合でいうと兵役の義務に対してそれを拒否する場合に、その拒否するということを表明しなくてはその人が拒否する意思があるのかどうかということが分からないわけでありますから、当然それが求められるわけですね。
 これは沈黙の自由に反するかというわけですが、日本国憲法ではこういう問題は今のところは発生しないと思いますが、二十一条との関連でいうと、確かに自分の表明したくないことを表明させられるということですが、それに伴って何らかの、つまり表明したくないことを表明したことによってその人に不利益が掛かってくるというふうなことは問題がありましょうが、何らかの義務を免れるためにその自分の内心を表明するということはやはり国民としてせざるを得ないだろうと思いますが。
○宮本岳志君 まだ一分ありますので、最後に一言だけお伺いしたいと思います。
 先生はこの本の九十八ページで八幡製鉄政治献金事件判決に触れて、「自然人の権利と大企業の権利とを、同一の平面において論じている点については疑問がある。」とおっしゃっておられますね。今、企業も社会的存在なので献金するのも当然だという議論があるんですが、私どもは、やはり個人と、自然人と大企業とは区別すべきであって、企業に選挙権が認められていないように企業の献金というものは個人の献金とは明確に区別してやはり問題ありとすべきだと考えておりますけれども、この点について最後にお伺いして終わりたいと思います。
○参考人(初宿正典君) 御質問の趣旨が、大企業の権利と自然人の権利が抵触する場合というふうに考えたらよろしいんでしょうか。
○宮本岳志君 同列視できないということです。
○参考人(初宿正典君) それはそのとおりだと思いますが。ただ、この八幡製鉄献金事件の場合、失礼しました、一般的には、したがいまして、先ほど別の御質問のところでもお答えしましたけれども、基本的人権というのは基本的にはやはり個人の権利でありますから、その両者が抵触するという場面で考えると、やはり個人にできる限り有利な方向で解決がなされるべきだろうというふうに思いますが、この会社との関係というのはまた、つまり同じ団体でもその団体の性質によって様々な考慮を働かすべき要素があって、余り一般化はできないのではないかというふうに思いますが。
○宮本岳志君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 平野貞夫君。
○平野貞夫君 国会改革連絡会の平野と申します。
 先生の御説明になったお話の各論といいますか、あるいは周辺の話になるかも分かりませんが、ちょっと都合が悪ければそのままで結構でございますので、教えていただきたいと思います。
 先生のお書きになった本とか研究なされたテーマの中に、イェリネックの研究で非常に有名な方だと承知しておりますが、イェリネックには「少数者の権利」という有名な講演がございます。先生がおっしゃったこの基本権ですね、あるいは基本的人権、人権とこの少数者の権利というのは、私のような素人では何かつながりがあるんじゃないかなと、ひょっとしたら人権の中には少数者の権利のことかなというような感じを持つんですが、ここのとらえ方といいますか、関連付けについてお話しいただければ有り難いんですが。
○参考人(初宿正典君) イェリネックの「少数者の権利」という書物が念頭に置いておりますのは、必ずしも今日のお話で申し上げたこととつながるわけではなくて、いろんなことを言っているんですけれども、一つはやはり、イェリネックはアメリカに非常に詳しい人でしたから、アメリカの裁判で言われているような裁判所の役割としての少数者の権利保護ということについてかなり批判的に論じている点と、それからイェリネックは、憲法改正手続について通常の法律よりも要するに多重の、何といいますか、三分の二だとかそういう規定を定めていることは、要するに通常の法律であれば過半数に達しなければ、つまり過半数マイナス一であれば可決されるものが、三分の一マイナス一で可決、じゃない、失礼しました、三分の二がないと可決できないわけですから、その意味で、こういうふうに通常の場合よりも重い可決要件を課していることが少数者の権利を保護することになるんだという、こういう議論をしておりまして、基本権の問題そのものと特につながる問題ではないというように思いますが。
○平野貞夫君 別の角度からもう一度お尋ねしますが、多数者の意思といいますか、多数決の原理といいますか、あるいは限界という議論もあると思いますが、これにはやはり基本権とのかかわり、いわゆる基本権については多数決で侵してはならぬとかというような関係で関連があるんじゃないかと思うんですが、その点はいかがでございましょうか。
○参考人(初宿正典君) ですから、たとえ多数決で、議会の多数決で例えば法律を制定し、その法律によって権利が制限されるという場合に、それが正しく今日の基本権の問題に関係してくるわけで、したがいまして、その限りでは、憲法上の権利は多数決で定めた法律によっても制限されないんだと。
 また、特にこれはアメリカなどでよくある議論ですけれども、たとえ議会の多数決で定まった法律であっても、それが少数者の権利の保護という点から見たときに非常に問題があるときには、裁判所がその立法にノーを言うというシステムが確立されている。これは日本国憲法の場合も同じでございますので、その意味では、多数決原理と人権の保護、あるいは多数決で敗れた者の、少数者の権利の保護という問題がこの人権の確保という問題と非常に密接につながっているということはそのとおりだろうと思います。
○平野貞夫君 最初の先生の説明の中に、基本権について、国家が憲法典で個人としての権利を保障したものであると、そういう趣旨のお話があったんですが、その基本権を保障するのも、あるいは侵害するのも、全部じゃないですが、やはり国会の立法権といいますか、立法行為のプロセスの中に重要なポイントがあるんじゃないかと思います。そういう認識でよろしいでしょうか。
○参考人(初宿正典君) ちょっと御質問の趣旨を理解しかねております。もう一度お願いできますでしょうか。
○平野貞夫君 それじゃ、続けて質問しましたら、そうしたら分かると思いますので。
 立法の過程における配慮といいますか、少数者の権利、基本権に対する多数決の限界を意識するというのが我々国会議員にとっては非常に大事なことだと思っておりますが、そうなると、国会を構成するメンバーの一人一人の判断というのが非常に大事でございまして、それが基本権が保障されるかどうか、基本権というのを抽象的に考えずに、生きたもの、我々が守るべきもの、あるいは少し変えるべきものというふうに、こう考えた場合、そういう問題が出てくると思います。
 となると、私たち国会議員の審議における基本権というのもあるんじゃないかという、そういう論理になると思いますが、国会議員の基本権ということが憲法上概念付けられるかどうか。
 もうちょっとはっきり言いますと、表決権、それから質疑権、討論権、表決権というのがあるわけなんですが、これが我々の基本権と言われているわけですが、これはやはり多数決でもって排除できないと、そういう基本権であるという、そういう認識でよろしいでしょうか。
○参考人(初宿正典君) 国会議員が議員として持っている権利、そういうものが語られ得るとしても、これは憲法で従前から基本権という概念で言われてきたこととは全く違う話だろうと思いますが。
 したがいまして、例えば少数、議会の中で少数の者が多数決で敗れたからといって議員の基本、その意味での議員としての権利が侵されたわけではない。
○平野貞夫君 私が申し上げたいのは、基本的人権、基本権というのは国会の多数決でもこれは侵しちゃいかぬと、もし侵した場合には、それは司法権が判断すると、そういうことを先生おっしゃっていただいたんですが、できれば裁判所まで持っていかなくて、国会でそういう立法しないのが一番いいわけなんです。そういう意味で、国会議員の基本権というのは国民の基本権に、国会議員の国会の中での基本的な権利というのは国民の基本権につながる私は大事なものだというふうな認識をしております。
 そこで、多数決原理に我々は従わないということを言っているわけじゃございません。多数決を機能するためには、絶対的にやっぱり保障されなければならない、そういう基本権が国会議員にもあるではないかと、そういうことについて先生の御所見をお聞きしたいと、こういうことを言っているわけでございます。
○会長(上杉光弘君) どうぞ、遠慮なしに言ってください。
○参考人(初宿正典君) やはり基本権という、少なくとも憲法上の基本権あるいは基本的人権の概念で今おっしゃったことを論ずるというのはやはりちょっと場面が違う話で、これは国会、各衆参両院の中で議事の、おっしゃっているのは恐らく議事の進め方であるとか質問権の問題だとか質問時間の問題とか、そういうことをおっしゃっているんだろうと推測しますが、この問題は少なくとも基本権の問題とは別問題だというふうに思いますので、ちょっとそれ以上のことはお答えしかねますですね。
○会長(上杉光弘君) よろしいですか。
○平野貞夫君 分かりました。御迷惑をお掛けします。
 私は、やっぱり基本権というのは条文に並べている抽象的なものじゃないと思います。それが保障され、それが生かされ、そういうのは様々な社会の仕組みの中で、もちろん国家機関もありますが、そういう機能として存在するものだと思っております。
 先生の御専門でないかもしれませんが、私が本当に言いたかったのは、参議院の国会運営の問題点を言いたかったんです、本当は。それは、私たちの会派は国会改革という名前が付いておりますから、実は会派として認定するのが十名という国会議員、これでなきゃ会派活動できない。これは昭和二十八年、共産党が少し出てきたころ、これを排除するために設けられた申合せのようでございます。それから、ただいま予算委員会とかそういうところで、憲法調査会は非常に民主的な運営で我々小会派にも十五分いただくんですが、予算委員会なんかでは会派の割り振りで五分とか三分とかという発言割当てなんですよ。
 これは私、もうやっぱり国民に選ばれた国会議員の基本権を平然と侵している国会運営が何十年も、三十年、参議院で続けているということを、今日、基本権の問題として言いたかったわけなんです。ですから、様々な、議長さんのような問題も起こるんですよ。
 しかし、これは御迷惑な話ですので、これ以上進めませんが、やっぱり基本権というものは私は抽象的な概念としてだけ存在するものじゃないということを申し上げて、質問をこれで終わります。
○会長(上杉光弘君) お答えはいいですか。
 又市征治君。
○又市征治君 社民党の又市です。
 今、平野先生からイェリネックの話が出ましたので、その関連からちょっと入らせていただきたいと思いますが、先生、憲法と人権について幅広く論説なさっておりまして、昨年三月に刊行された論文集の中の一つに、今お話しになっています少数者の人権についてというのも出されておりますね。そのイェリネックの、先生も御紹介になっておる講演の中には、すべての歴史上の進歩はその起源からして少数者のなせる業であった、そして、創造的な社会的行為は常に個人の自由な行為であったというふうに書かれておりまして、紹介なさっておるわけですが、したがって、将来更に民主主義が発展しても、この意味での少数者の権利を承認することはますます重要な課題になる、こんなふうに御紹介なさっております。
 しかし、その前段の方に、少数者の権利あるいは人権を守ることが憲法裁判所の、つまり日本でいえば最高裁ということになると思いますが、特に違憲立法審査の重要な任務であると俗に言われるけれども、しかし少数者だからというだけでは駄目であって、その権利侵害が裁判で具体的に立証されなければならない、そうでないと多数者が作った立法がすべて妨げられてしまうという、こんなふうにお書きになって、アメリカの幾つかの判例が挙げられておりますね、そうした違憲かどうかという問題の。
 こういうことを記述なさった上で、日本ではこうした民族上や宗教上の少数者は差別されていない、ただ宗教上の例として、一九七七年の津の地鎮祭訴訟の際の藤林裁判官の反対意見と、一九八八年の自衛官合祀訴訟の際の伊藤裁判官の反対意見があるぐらいだというふうに御紹介なさっているんですが、これを読んでまいりますと、何か先生は少数者の権利は宗教など内面の信条にかかわることに極力限定すべきだというふうに主張されているように読み取れてしまうんですが、この点、もう少し御説明いただければというふうに思います。
○参考人(初宿正典君) こういう質問が出てくると思っておりませんでしたんですが、今御紹介いただいた論文は、むしろ書こうと思った動機は全然別のところにございまして、俗に裁判所の任務というものが少数者の人権を守ることなのだというふうに言われていることについて、そうではないだろうということを論ずるのがその主眼でございました。
 つまり、このことを言い出すと、結局、多数決あるいは代表民主制というものがそもそも機能しなくなるわけで、やはり基本的には多数決で決まったことについて、その敗れた少数者もこれに従わないといけないというルールがなければ、国会もなくなるというか、代表民主制というのはなくなるわけでございますので。ただ、裁判所の任務が少数者の人権を守ることだというテーゼは非常に誤解を招きやすいということから説き起こしたもので、したがいまして、日本、特に今例に挙げられたアメリカではこういう言い方がよくなされるのですが、やはり、要するに少数者が少数者だから守られるわけではないということを申し上げたかったわけで、少数者であれば守られないわけでなくて、少数者であるから守られるべきだという議論は非常におかしいということをその論文で申し上げたかったわけで、ただ、こういうことについて論じたものが余りない。
 先ほど御紹介になった少数意見等々の問題は、要するに、一般に、例えば最高裁判所で違憲判決が出た場合にこの違憲の判決は最高裁判所が少数者の意見を擁護したものだというふうに言えるかどうかということを考えると、そういうことを言える例は実は少ないのではないかという趣旨でございます。
○又市征治君 それでは、今出ました裁判の関係で少しお伺いしたいと思っていますが、政治的人権の具体的な事例として、公務員の政治活動の問題についてお伺いをしてまいりたいと思います。
 先生は、一九八九年から九八年に掛けて編さんをなさった「基本判例 憲法二十五講」という大変大きいものを書かれているわけですが、その中で概略次のように公務員の問題について触れられています。
 国家公務員法第百二条等が公務員の政治活動の自由を制限していることも従来から非常に論議のあるところである、最高裁は、当初、憲法第十五条二項を根拠とする全体の奉仕者論や公共の福祉論でこれを簡単に合憲としていたと、批判的にここのところはお書きになっていると思います。
 その後、一九六六年の全逓東京中郵事件判決や一九六九年の都教組事件判決で公務員の権利を尊重する機運が作られたと、ここは肯定的にお述べになっておられます。
 ところが、その後、最高裁は更に逆転をして、一九七三年の全農林警職法事件判決、翌七四年の猿払事件判決で公務員の労働基本権を制限をしたというふうに述べられておるわけですが、これらのコメントからうかがいますと、先生は公務員にも憲法の保障する国民の政治的権利をなるべく広く認めて、規制は最小限にすべきだというふうにお考えになっているのかなというふうにおうかがいをするわけですが。
 そこで、先生が紹介されているこの猿払事件最高裁判決の反対意見、四名の判事が出されているわけですが、こんなふうに書かれております。要約されると思うんですが、個人の政治活動の自由が憲法上極めて重大な権利であることにかんがみ、その制限は真に必要やむを得ない最小限であるべきだ、ところが、国公法を受けた人事院規則一四―七は、単に公務員というだけの理由で包括的、一般的な禁止を施しているのであり、公務員に実際上あまねく政治上の意見表明の機会を封ずるに近く憲法に違反すると、また、その基になっている国公法の百二条一項も、憲法四十一条、十五条一項、十六条、二十一条及び三十一条に違反し無効であるというふうにこの四名の判事は例示されているわけですが、憲法のこれだけ多数の条項を具体的に挙げて法令が違憲であるというふうに述べておられるわけですけれども、この反対意見の意義について先生の御意見をちょっとお伺いをしたいなと、こう思うんです。
○参考人(初宿正典君) 今日の私のお話は非常に概括的なお話で済むものと思っておりましたので、事前に私のものをお読みになってくださって恐縮しております。
 公務員の問題についてここで詳しく申し上げることはできませんけれども、少なくとも今の法制度はやや公務員の政治活動の自由について厳しい規制をし過ぎているというのは、別に私だけの考えではなくて、学界ではまず多数の見解だろうと思います。もちろん、公務員は公務員でありますので、そうでない一般の私人と全く同等に制限を受けないということはできないだろうと思うので、その意味で必要最小限度の取扱いを異にするということはあり得ることでございますが、現在のシステムはやや、公務員であるからという理由で、包括的かつ非常に厳しい規制をしているということは一般に言われていることでもあり、また国際的にも言われていることですので、それは私個人の見解というよりも、一般的に言われていることではないかというように思いますが。
○又市征治君 それじゃ、時間の関係でこれが最後になるかと思いますが、先ほども有事法制の問題が出ました。現在、国会において、正に武力攻撃に備えるという言い分で戦争準備法制の準備、審議が始まっているわけですが、私は、これ自体が憲法前文及び第九条に違反すると思いますけれども、しかし、それだけでなくて、正に本日の参考人質疑のテーマである基本的な人権に関して、これから二年間でいよいよ整備をして制限をしていく、こういう権利侵害が広がっていくという、すなわち憲法第三章の国民の権利に関する諸条項を大きく空洞化をするんだろうというふうに恐れているわけですけれども。
 政府は、有事法制は憲法の枠内というふうに、こう言っているわけですが、正にこれはもう矛盾した言い分、権利そのものをそういう意味では制限をしていくということになっていくわけですから、正に詭弁ではないかと言わざるを得ないわけですが。したがって、この差し迫った人権の危機を抜きにして本日の参考人質疑を終わることはできないなと、私はそんなふうにも思っているわけですけれども、正にそういう意味で、国民の政治的代弁者たる国会議員の責務としてこの点についてどうしても触れておかなきゃならぬと、こう思います。
 先生は、この場で当面の政治問題について意見表明を求めるというのはちょっと恐縮なんですけれども、一つだけやっぱり、この戦時情勢下の憲法の基本的な人権について、これはドイツの例も先生随分と御研究なさっておられるわけでありますから、その点で、すなわち身体的な自由権、あるいは思想信条の自由、財産権などなどについて、最後に包括的に御見解をいただければ有り難いなと思います。
○参考人(初宿正典君) 先ほど別の質問の中でも少し触れたことと重複するのかと思います。
 法律で憲法の人権を包括的に制限できるというふうなことは、やはり非常に問題があることだろうと思いますので、ただ、すべての憲法上の権利が全く無制限というわけではあり得ないわけで、特に国民の社会生活を本当に守るために、あるいは生命を守るために必要最小限度の制限というのはあり得るだろうと。
 そういう意味で、個別にかなり非常にその意味で、法律においては、詳細に具体的にどの権利をどの程度、あるいは期間を定めてなり、そういう具体的な定めで決めていくべきことでありますが、これはむしろ私どもがどうこうと言う問題じゃなくて国会がお決めになることですが、少なくともいわゆる精神的自由権を中心とする重要な人権については、基本的には制限するというのはやはりいろいろな意味で疑義が起こり得るだろうと。非常に抽象的な言い方しかできませんが、そういうことになるだろうと思います。
 ただ、先ほど申しましたように、例えば一定の経済的な権利等々、これを規制せざるを得ない場面というのはあり得ることだろうと思いますので、そこは適切かつ合理的に法制度を整備していくということは必要なことかとも思いますが。
○又市征治君 ありがとうございました。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 初宿参考人には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表して厚く御礼申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後三時二分散会

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