第155回国会 参議院憲法調査会 第3号


平成十四年十一月十三日(水曜日)
   午後一時一分開会
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   委員の異動
 十月三十日
    辞任         補欠選任
     榛葉賀津也君 ツルネン マルテイ君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         野沢 太三君
    幹 事
                市川 一朗君
                武見 敬三君
                谷川 秀善君
                若林 正俊君
                堀  利和君
                峰崎 直樹君
                山下 栄一君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                亀井 郁夫君
                近藤  剛君
                桜井  新君
                世耕 弘成君
                常田 享詳君
                中島 啓雄君
                福島啓史郎君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松山 政司君
                伊藤 基隆君
                江田 五月君
                川橋 幸子君
                木俣 佳丈君
                高橋 千秋君
            ツルネン マルテイ君
                角田 義一君
                松井 孝治君
                若林 秀樹君
                魚住裕一郎君
                高野 博師君
                続  訓弘君
                山口那津男君
                宮本 岳志君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                松岡滿壽男君
                大脇 雅子君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       早稲田大学法学
       部教授      戸波 江二君
       大阪市立大学大
       学院法学研究科
       教授       西谷  敏君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (基本的人権
  ―経済的自由)
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○会長(野沢太三君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「基本的人権」のうち、「経済的自由」について、早稲田大学法学部教授の戸波江二参考人及び大阪市立大学大学院法学研究科教授の西谷敏参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、戸波参考人、西谷参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず戸波参考人にお願いいたします。
○参考人(戸波江二君) 御紹介にあずかりました戸波と申します。
 経済的自由、レジュメに沿いまして簡単に意見を述べさせていただきます。
 経済的自由、社会権に関する憲法学説というのは、基本的に学者の数が少ない、それから業績の数もそれほど多くない、憲法学説が余り中心的に取り上げてきたテーマではございません。この理由につきましては、またその当否につきましてはまた後ほど触れます。
 それから、本日のテーマとしましては、経済的自由ということですが、社会権、特に私の場合には生存権の規定についても含めさせていただきたいと思います。これは、経済的自由、経済活動が国民の社会生活に広く関係しているという面でも、それから経済的自由に関する日本国憲法の態度は社会権の保障と密接に関係しておりますので、併せて議論をするということでございます。
 それから、経済的自由の問題そのものは、申しましたように、憲法学説、大きな問題となっていないということもありますので、経済的自由を論ずる前に、私の日本国憲法に対する基本認識みたいなものを五、六分お話しさせていただきたいと思います。これは、経済的自由についてどう考えるのかという点と密接に関連しているということと、それから憲法に対する基本認識ということは憲法学者様々ですので、私の立場を述べた方がこれからの質疑の実質化に役に立つということでございます。
 それで、日本国憲法に対する基本認識、1のところで、日本国憲法につきましては、私は近代憲法の流れの本流に位置するしっかりした構造に基づく憲法である、普遍的価値を保障した憲法典であるというふうに考えております。
 欧米諸国の憲法と日本国憲法は基本的に同じ原理に立脚しておりまして、普遍的な価値原理に基づくということであり、自由、民主、平和の原理というのは、既に国際的な水準にもなっている普遍的な原理でございます。
 ただ、特殊性の問題としての憲法九条の議論がありまして、これをめぐっては、学界でもあるいは政治の世界でもあるいは戦後の憲法政治の過程でも大きな対立を引き起こしてきましたが、差し当たりの対立は九条の二項の戦力の保持というところでありまして、基本的な平和主義という観点からすれば、ほかの国の憲法でも規定されており、第二次世界大戦の反省に立った徹底した平和主義に立っている日本国憲法の下ではそれが維持されると。
 それともう一つ強調したいのは、余り九条の問題ばかりで日本国憲法の是非を議論すべきではないというのは、これは私の考えでありまして、憲法は人権を保障する、それから国の基本構造を定めるという重要な法で、九条だけではなく、ほかの基本原理がたくさんあるというところで、その点を見なくちゃいけないということです。
 憲法改正には基本的に反対の立場に立って、憲法擁護の立場に立つと書きました。日本国憲法の基本価値、自由、民主、平和というのは国際的に普遍化しつつあって、そこへ例を書きましたが、ODA四原則というのが一九九一年のときにできましたが、人権保障だとか民主的な体制になっていない国、独裁だとか軍事が通用している国については援助をしないというルールができているところに見られるように、自由だとか民主主義だとかという日本国憲法の挙げている理念というのはもはや、今や世界的な国際水準になっているということであります。
 そう考えますと、日本国憲法を改正するかというときには、基本的に改正の必要はないんじゃないかという立場に私は立ちますし、ちょっと後で述べますように、憲法改正問題が、それ自体が政治問題化しているという日本の状況というのが実は非常に大きな問題になっているわけで、むしろその根本的な対立のところを除去してから憲法の改正や何かに進むというのが先ではないかというふうに考えます。ただし、余りごちごちの護憲論というわけでもありませんで、憲法改正はあってもよいというふうに考えており、例えば環境権、知る権利、プライバシーの権利を入れると、あるいは憲法裁判所を設置する、国民投票制の導入を考えるということは考えられるのではないかというふうに考えております。
 ただ、その前提としてやはり重要なのがレジュメの(3)に挙げたところでありまして、憲法改正論の側でも、なぜ憲法を改正するのか、なぜ変えるのかと、どこを変えるのかという議論というのが必ずしも九条を除いては煮詰まっていないのではないか。特に、やはり改正をするに当たって、日本国憲法が今まで戦後五十年の歴史の中で果たしてきた積極的な役割あるいはプラスの役割、それをもう少し改憲論の側でもきちんと認識するという作業が必要ではないか。
 「憲法への基本的コンセンサスの意識のないところでは、憲法改正は難しい。」と書きましたが、これは、例えばドイツの場合ですと六十回ももう戦後憲法改正しているわけですが、それは日本と違いましてドイツ連邦共和国基本法という憲法に対する基本的な信頼があるから、それで政権交代があっても、その信頼の下に憲法自体に対する信頼は変わらないと。その下で憲法の部分的なところを改正していく、だから六十回にも及ぶということでありまして、憲法の基本的なところに対立があると、それこそ改正が政治問題化して改正かどうかというのが難しくなるということです。日本の場合も憲法価値の承認、日本国憲法の積極的にというのを先ほど申しました。
 それから、護憲、改憲をめぐるねじれの問題という、これも実は今日の話と、テーマと関係しますからちょっと申しますが、日本国憲法は、特に経済に関しては自由、経済的自由を保障し、基本的に自由主義、自由市場経済を取っていると。いわゆる西欧型の資本主義型の憲法、立憲主義型の憲法であり、資本主義の憲法であるわけです。
 そのような憲法が戦後一貫して政府・自民党に支持されなかったという、支持されなかった、支持されなかったというのはちょっと訂正します、ちょっと強過ぎます、冷淡な目で見られていたというのは、実はねじれがあるのではないかと。護憲を唱えた政党だとか主義というのはどっちかというと社会主義、当時の東西冷戦の下での社会主義にシンパシーを持っているグループが護憲を唱えたと。
 これは、実は日本国憲法をよく見てみますと、九条をちょっと除きますと、基本的には日本国憲法というのはむしろ西欧、普通の、アメリカ、ドイツ、フランスというところの立憲的な憲法であると。そこのところがなぜねじれたのかというのが正に憲法学の一つの問題であります。
 それと同時に、実は戦後の憲法政治の過程で、政治を批判する勢力、政府の政治を批判する勢力が憲法を言わば抵抗のシンボルとして持ち出したところがあるんです、憲法を守れと。憲法は守らなくちゃいけないですし、憲法は守られてこそ立憲的な政治になるわけですけれども、時として、憲法を守れというのが時の政治に対する政治的な批判の道具となったという面はないか。つまり、憲法が言わば対立のシンボルになって、護憲か改憲かというのが正に対立になったんですよね。
 さっきから申しますように、憲法はやはり日本の政治の一番の基礎にあるもので、私は、日本国憲法の価値、ひいては日本国憲法の中に内在している世界に共通する普遍的価値が既にもう政治の基本となっているというふうに見るべきだと思いますので、むしろそれを確立するということが先ではないかというふうに考えます。
 それで、本題といいますか、経済についての議論に入りますけれども、結局、経済の部分というのは、日本国憲法の中で価値が共有されているところといいますか、一番対立がないところなんですよね。対立がないと申しますのは、実は憲法の構造にありまして、レジュメの2の(1)のところで「経済的自由に関する憲法の規定」と書きましたように、職業の自由、財産権の保障というのはこれはいわゆる経済的自由の規定ですが、それに併せて社会権の規定が二十五条から二十八条まで入っております。
 社会権の保障というのは、御承知のように、憲法二十五条の生存権と、それから二十六条の教育と、二十七、二十八の労働というところが社会権、社会保障と教育と労働というところが社会権として盛り込まれております。この社会権の規定が入っている憲法というのは、ヨーロッパ、西欧の憲法では比較的少ない。特にドイツなどはわざわざこれは入れないという形で議論をしていたところですので、日本国憲法はこの社会権の規定を入れているというところがとても画期的なところで、憲法学では、十九世紀的な自由主義の、国家からの自由を中心とする自由主義の国家体制、国の政治体制から二十世紀の福祉国家への体制へと移り、その福祉国家については二種類あるんです。
 ちょっとレジュメの2の(2)の上に「国の役割としての国家関与」と書きました。現代国家は、十九世紀、自由主義国家のように経済活動に何もしない、レッセフェールだというんじゃなくて、経済に関与して法律や何かで規制を行う、それが現代の国家に課せられている、経済活動に対して国がそれを法律でもって規制するということが大幅に認められている国家であります。それと同時に、社会的、経済的弱者のための福祉を実現する国家ということですから、国家観としては、現代国家というのは、十九世紀の国家と違ってむしろ国民の福祉だとか生活に面倒を見る国家だということが憲法上明らかにされております。
 そのような日本国憲法を見ますと、正に憲法典が、現代国家として国が国民の面倒を見るという形で憲法が行われ、ちょっと話が、ちょっとレジュメでははっきり書かなかったかもしれませんけれども、3の(1)でちょっと書いたんですけれども、結果的に、日本の戦後の政治を見ますと、経済や社会生活の部分では、いろいろと細かな点では経済政策についての対立があり、あるいは社会福祉政策についての失敗などもないわけじゃないですけれども、全体として見ますと、国民の経済だとか社会に対して国が、立法なり行政なりがいろいろな形でもって配慮して、それなりにというとまた言葉が悪いですけれども、相応の成果を上げてきたのではないかと。
 そのような経済社会についての活動をしてきた国会や内閣が、憲法を実現するのだという意識を持っていたかどうかは別なんですよね。私の見るところでは、結果的に憲法価値が経済社会分野では広く実現してきたというふうに私は理解しております。
 実際に、現在、ちょっとレジュメに戻りますと2の(2)の「戦後の憲法政治の下での経済の展開」の後半のところで書きましたように、戦後の経済とか福祉の状況を見ますと、社会保障にしても経済にしても、いろいろ紆余曲折ありますけれども伸びてきた。九〇年代へ入りまして、新自由主義の規制緩和の問題、スリムな国家を目指すという政策が入ってくる。他方、バブルの崩壊から、金融、行政の不祥事、長期不況、財政赤字というような大きな問題が出てきて、それを克服すべく国会の方で努力していただきたいということですけれども、憲法につきましては、(3)の最初に述べましたように、基本的に社会経済政策は国会や政府の任務である。
 憲法は、社会福祉について一生懸命やりなさいということが憲法二十五条二項に書いてあり、先ほどから申しましたように、国会、内閣は、これまでの政治は福祉について力を注いできたというふうに私は認識しておりまして、そう見ますと、憲法典は経済社会の分野については、いわゆる立法裁量といいますか、国会の政策的な判断に大幅にゆだねている。その結果どうなりますかというと、国の経済政策だとか社会政策について憲法違反だという判断というのがなかなか出にくいということであり、実際に裁判所も違憲審査権を行使してこの経済社会分野について違憲だと判断を控えるという基本的な消極的な態度を取ってきております。
 ただ、判例で見ますと、数少ない違憲判決のうちの三件、最近出た郵便法の補償の制限も、損害賠償の制限の違憲判決も含めると三件、財産権の分野でもって違憲判決が出ている。これはどう分析するのかというのは面白い問題なんですけれども、差し当たり今日はその問題については触れません。
 それから、2の(2)の最初のところで書きましたように、東西対立のときの時代の議論は若干あったんですね。財産権について、特に憲法改正を経ないで社会主義に移行できるかどうかというような問題が学説では基本問題として議論されたことがありました。しかし、それは九〇年に東西対立がなくなった後、学説でも余り関心を持たれない。
 そうしますと、現在は基本的な枠組みとして社会経済、福祉について国会が憲法の理念を実現するように政策を展開してほしいと。裁判所は極端な場合にそれについて違憲判断をするけれども、基本的には政策問題は見守るという形であり、問題は、それじゃそのような憲法の規定に沿って現実が進んできたかどうかということにつきましては、基本的に日本は順調に経済成長を続け、経済の分野でも雇用の分野でも順調だったんですけれども、一九九〇年代に入ってから以降のやっぱり状況にどう対処してどうそれを克服していくのかということが今問われているわけです。ただ、憲法の視点からはその点が答えが出てこない。むしろ、やっぱり政治の問題として解決していただきたいということであります。
 ただ、その際に、幾つか憲法から言えることと申しますと、2の(4)に書きましたように、新自由主義の経済政策、これについてはいろいろ批判もありますが、ただアメリカの規制緩和論やなんかもありますので、経済の自由化、スリム化あるいは民営化という観点というのは不可避かと思いますが、ただ福祉の問題というのはやはり基本問題としてありますので、これは新自由主義の下で福祉の切り捨てというふうに直ちに結び付くべきではないということは、これは憲法上の要請として一つある。
 それから、社会保障の財政的基盤、これも大問題でありますが、最終的には社会保障政策の各論の問題で難問がありますが、何とかやはり国民の安定した健康だとか年金だとかというところを確保するということで、福祉についてもきめ細かな福祉政策を期待する。
 それから、憲法の規定を踏まえた社会経済政策、国民の社会経済生活の援助ということは、先ほど申し上げたとおりでございます。
 それから、福祉以外の社会権の分野、教育、労働、環境というところも、環境は条文にありませんけれども、やはり重要な問題ということでもって社会問題として挙げましたけれども、やはりこれらのものについても積極的に充実させるべきだということであります。
 結論に入りまして、3の(1)で、そのように憲法規定と戦後の現実の政治過程を見ますと、結果として憲法規定に沿ったといいますか、結果として憲法の予定するような形で経済社会政策が運営されてきたのではないかと。言わば、政治が意図しない形で実際は憲法に基づく経済社会生活の実現というのはなされたのではないかと。
 ただ、これからはやはり、今の改革をどう克服するのかというところで、行政・財政改革、公務員改革というものが目指されている。そこを考えるときの前提として、やはり国民の福祉だとか人権だとか経済生活の安定だとかということが密接に関係するので、人権問題がそういうところに、是非人権問題に配慮しながらお考えいただきたいということです。
 今後の展望との関係で幾つか書いて、幾つか言いたいんですけれども。
 結論的に言いますと、経済的自由、経済社会と人権というところでは、細かく見ますといろいろ問題がありますが、日本国憲法が、経済規制を前提とし、経済の放らつな自由を認めていないということ、それから福祉を取り立てて、国に対していろいろ国民生活の面倒を見るということを期待しているということ。それに対して、今までの政治は曲がりなりにもそれに対応した形でもってそれを実現してきたことといいますから、私は、この経済政策の分野というのが、正に日本国憲法の価値の共有が可能なところといいますか、一番の土台で、それは、国民の福祉だとか生活だとかを安定させるという観点からの人権の価値、経済的自由の人権としての価値から見た安定ないしは共通の土台ということでございます。
 時間が来ましたので。
 どうも御清聴ありがとうございました。(拍手)
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、西谷参考人にお願いいたします。西谷参考人。
○参考人(西谷敏君) 御紹介いただきました西谷です。私は、専門が労働法ということですので、労働法の観点から、経済的自由と社会権、労働法の関係についてお話し申し上げたいと思います。
 言うまでもなく、日本国憲法は、職業選択の自由とか所有権などの経済的自由と並びまして、一連の社会権を保障しております。
 労働法の分野について重要でありますのは、まず勤労の権利を保障しました憲法二十七条の一項であります。これは、特に国の雇用保障政策や判例によります解雇制限法理の理念的な根拠となっております。
 次に、憲法二十七条の二項ですが、ここでは、「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。」と規定しております。労働基準法などのいわゆる労働者保護立法は、こうした憲法の負託を受けて制定された法律であります。憲法学者の中村睦男教授は、このような憲法との密接な関連が、諸外国の労働基準法と比較した場合に、我が国の労働基準法の特色となっているというふうに指摘しておられます。
 そして、いわゆる団結権、団体交渉権、団体行動権を保障しました憲法二十八条も、経済的自由を制約する側面を持つわけであります。
 労働法というのは、このような憲法の諸規定を基礎に形成されております。
 労働法は、いずれの国でも存在するわけですけれども、労働法のキーワードはいわゆる労働の従属性であります。つまり、労働者と使用者の個人的な関係においては、やはり使用者が非常に強い力を持っていると。そこで、形式上は労働契約で対等の立場で労働条件を決定することになっているんだけれども、その力関係の隔絶のゆえに、事実上使用者が一方的に労働条件を決定しがちになる。もし労働法がなければ、そういうことになってしまう。そういう事態になりますと、労働条件は一方的に引き下げられるだけになる、あるいは労働者の人間的な生活が保障できない。そこで、労働法が様々な形で使用者の一方的な決定、単独決定を規制する、こういうことになっているわけであります。これは各国で共通しております。
 したがいまして、労働法というものは、端的に言えば、使用者の一方的な決定、つまり経済的自由を規制するということ、ここに最も基本的な性格を持っております。
 日本国憲法がこのような性格を持った労働法を根拠付けているということは、言い換えますと、これは当然に経済的自由の制約を前提にしているということになります。
 しかし、他方、経済的自由につきましても様々な種類とか局面がありますけれども、大企業の経済的自由を含めまして一定の憲法的保障を受けることは言うまでもありません。言い換えますと、社会権や、それに基づく労働法も、経済的自由を完全には否定しない範囲で存在し得るにすぎないということであります。そこで、立法とか解釈におきましては、経済的自由と社会権、労働法の関係を、その両者を調和的にとらえる、つまり両者がいずれも犠牲にされることなく実現される、そういうことを憲法は求めているというふうに考えざるを得ないわけであります。
 このような経済的自由と社会権、労働法との調和という観点から、最近の労働分野の規制緩和あるいは規制改革と言われますけれども、この動きを見ますと、私はそこに非常に重大な問題を感じるわけであります。そこでは、市場原理、すなわち経済的自由の価値が一面的に強調されまして、社会権を保障するという観点が非常に弱いということであります。
 幾つかの例を挙げさせていただきます。時間の関係で詳しくは立ち入れませんが、幾つかの具体例としてお聞きください。
 一つは、ホワイトカラーの労働時間問題であります。これにつきましては、現行労基法の裁量労働制の規定がありますが、特にその中でも、企画業務型の裁量労働制につきまして、手続が余りにも煩雑であると、そういう理由でそれの緩和が要求されております。
 さらに、ホワイトカラーにつきまして八時間労働制の適用そのものを排除をしようとする、いわゆるホワイトカラーエグゼンプションの考え方も有力に主張されております。要するに、ホワイトカラーについては時間管理をしないで残業手当も支払わない、そういうことにしてはどうかという提案であります。
 しかし、私の見ますところ、不況の中でも、ホワイトカラーの長時間労働は、依然として過労死問題とかその他様々な社会問題を生み出しております。ホワイトカラー労働者の労働時間をめぐる最近の議論は、企業経営上の効率だけを重視して、社会権保障の観点が欠落しているのではないかというふうに私は見ております。
 次に、有期契約の期間延長の問題でありますけれども、これは、現行労基法の十四条が原則一年と定めております有期契約の期間を三年ないしは五年に延長しようというものでありますけれども、これによりましてどういう事態が生じるかといいますと、労働者の雇用は安定するのではなくてかえって不安定化する、あるいは若年労働者、若年女性については事実上の結婚退職制が復活するのではないかといった問題が指摘されております。
 私は、この有期契約につきましては、ヨーロッパ諸国でそうされておりますように、そもそも合理性のない有期契約は認めないというところから出発をしてこの問題を考えていくべきだろうというふうに考えております。
 労働者派遣の問題でありますけれども、労働者派遣という形態、特に登録型の派遣につきましては、派遣法が制定されました八五年当初から非常に大きな問題があると指摘されておりました。ところが、労働者派遣法の制定後十七年の間に、派遣が許容される範囲がどんどん拡大されまして、派遣労働者の勤務条件が非常に問題がある、あるいは派遣契約が中途で解約されて簡単に事実上解雇される、あるいは派遣先による事前面接という法律上許されていない行為が横行しているなどの様々な問題が指摘されております。ところが、現在、製造業への派遣の問題とか派遣期間の問題などについて一層の規制緩和が要求されているところであります。
 次に、解雇制限でありますけれども、現在、法律の上では基本的に解雇理由、解雇の事由を制限する規定はございません。そこで、判例によりまして解雇権濫用法理が確立され、それが解雇を制限する役割を果たしているわけであります。
 現在、この問題につきまして法律でどのように規定するのかということが論じられておりますけれども、一つの有力な考え方によれば、法律の規定を設けることによって解雇をもっと自由にできるようにするということが言われております。しかし、私の意見では、現在の判例法理は社会的に見て許容できない権利濫用的な解雇を排除しているだけでありまして、例えば経済的困難に陥った企業がやむを得ずなすような解雇は決して否定されておりません。したがいまして、結論的には、私は、これ以上解雇を簡単にするような法律の規定は必要ないし、さらに、これは労働者の雇用不安をあおるものであって、極めて有害ではなかろうかというふうに考えているところであります。
 このように、現在の規制緩和論には様々な問題が存在すると考えております。
 しかし、他方、先ほども申し上げましたように、経済的自由は制約はされても否定することはできません。これは現在の経済制度の基礎であり、その一定の保障は憲法的要請だからであります。また、労働者の福祉のためにも経済の安定的発展は不可欠でありまして、経済の安定的発展のためには一定の条件下での経済的自由あるいは競争は必要であります。
 そこで、問題は、経済的自由と社会権、労働法との調和をいかに図るのかということになってきます。その問題を考えるに当たりまして、比較法的な視点が大変重要ではないかというのが私の意見であります。
 労働法的な規制の程度という観点から見ますと、アメリカ、一方におけるアメリカ、それから他方におけるフランス、ドイツなどのヨーロッパ大陸の諸国は極めて対照的であります。アメリカは基本的に労働法的規制の極めて弱い国でありまして、これに対しましてヨーロッパ諸国は伝統的に労働法的規制を重視してきた国であります。現在はEU段階での規制の再編に取り組んでいるところであります。
 日本の労働法はどうかといいますと、大ざっぱに言えば、言わばアメリカ型とヨーロッパ型の中間に位置するのではなかろうかというふうに考えます。現在、日本における労働法の規制緩和がどんどん進められようとしておりますけれども、このような規制緩和が進められてきますと、日本は言わばアメリカ型に接近していくということになるわけであります。
 そこで、日本の労働法をアメリカ型に持っていくのか、あるいはヨーロッパ型に持っていくのか。これは下手をしますと水掛け論になりそうでありますけれども、私は、この問題を考えるに当たって、それぞれの国の憲法の基本構造を忘れてはならないというふうに考えております。
 ヨーロッパ大陸の諸国は、第二次大戦後、例えばドイツの社会的市場経済論に典型的に見られますように、社会的公正とか労働者保護の観点からする国家介入を前提とした市場経済の制度を確立し、その下で労働法を発展させてきました。そうした経済構造と労働法の在り方は、実はそれぞれの国の憲法にその基礎を持っていたのではなかろうかと思うわけであります。すなわち、一九四六年のフランス第四共和国憲法は社会的共和国、フランスは社会的共和国であると規定しております。一九四七年のイタリア憲法は労働に基礎を置く民主的共和国だと規定しております。そして、一九四九年の西ドイツ基本法は社会的法治国家と規定しております。
 このように、ヨーロッパ大陸の諸国は、いずれも自らを社会的政策を展開する国家と規定して、そういった憲法的基礎の上に具体的な政策を展開してきたわけであります。先ほどの戸波先生のお話にありましたように、社会権という形では規定されていないとしても、社会国家、国家目的の形においてこういった基本的な政策を宣言しているというふうに見ることができるわけであります。
 フランスやドイツなどにおきましては、現在、グローバル化の中で新自由主義的な規制緩和論の攻勢をやはり受けておりますけれども、そしてその中で様々な政策的な動揺が見られますけれども、なお市場原理一辺倒に陥ることなく、社会的公正のための国家的介入の政策を維持してきたわけであります。こうした在り方は、憲法の基本的な構造抜きにして理解できないのではなかろうか。ドイツのある論者はこのように言っております。労働者保護の観点からする修正を伴わない完全な市場経済は憲法と矛盾すると。このような考え方が他のヨーロッパ大陸諸国にも共通するのではなかろうかということであります。
 他方、アメリカ憲法は個人的自由のみに立脚しておりまして、憲法自体におきましては社会的公正の観点からする国家介入を根拠付ける規定はありません。もとより、アメリカにおきましても、経済、社会の各分野で様々な国家介入がなされておりますけれども、これらは憲法的基礎を持っておりませんがために、単なる政策としての色彩が強く、政権の交代とともに大きな転換がなされるということであります。また、労働法の分野におきまして一貫して法的規制が弱いというアメリカの特徴も、憲法のこのような在り方と決して無関係とは言えないのではなかろうかと考えております。
 このようなヨーロッパ諸国憲法とアメリカ憲法との対比の中で見た場合、日本国憲法は一連の社会権規定を持っている点で明らかにヨーロッパ型に属すると言えるのではないでしょうか。特に憲法二十七条二項は労働立法の根拠となるものでありまして、重要な労働条件について法律で明確に最低基準を設定するという国家の任務は、憲法を尊重する限り決して放棄することのできないものであります。したがいまして、憲法を前提として日本の労働法の在り方を考える限り、アメリカに接近していくということは非常に問題がある。むしろ、ヨーロッパ型の労働法を参考にしつつ、今後の日本の労働法の在り方を考える必要があるのではなかろうかということであります。
 しかし、市場原理を社会的観点によって修正しようとするヨーロッパの試みも、グローバル化の中でいつまでも保持されるという保障はありません。経済のグローバル化の進行によりまして、アメリカの考え方が国境を越えたスタンダードとして浸透していくならば、ヨーロッパ諸国もその影響を受けて、言わばヨーロッパのアメリカ化が進んでいく可能性もあります。それは、労働運動や関係者の長年の努力で形成されてきた労働条件や労働者権の水準を大幅に低下させ、時代を百年以上逆戻りさせることになりかねないと思います。
 しかし、逆に、市場と社会的観点を結び付けようとするヨーロッパの努力が、ヨーロッパ共同体の範囲を超えた国際的基準の確立を通じてアメリカをも拘束する力を持っていくという可能性も否定はできません。現在、そうしたアメリカ型の考え方が世界を支配するのか、あるいはヨーロッパ型の考え方がアメリカをも拘束していくのかという点で鋭い緊張関係が見られると思います。そうした緊張関係の中で日本の労働法はどのような道を歩んでいくべきなのかが問われているのだろうと思います。
 私は、日本の現行憲法がヨーロッパ型であるという単にそれだけの理由ではなくて、より積極的に労働運動の長年にわたる血のにじむような努力を無にしないで、労働者の人間らしい生活の保障を前提とした安定した日本社会あるいは国際社会の形成に貢献するという観点から、むしろヨーロッパに学ぶ労働法の確立を期待しているところであります。
 御清聴ありがとうございました。(拍手)
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いいたします。
 着席のままで結構でございます。
 愛知治郎君。
○愛知治郎君 自由民主党の愛知治郎でございます。参考人の先生方におかれましては、御多忙中、大変貴重な御意見をいただきまして、ありがとうございます。
 議論が抽象的で物すごく難しいなとは思ったんですが、一つ一つ、全般ですね、戸波先生ありましたけれども、憲法の全体的な視点の問題、抽象的になってしまいますけれども、質問させていただきたいと思います。
 私自身、常日ごろ、先ほど戸波先生からもねじれ現象というお話がありましたけれども、この憲法対立、特に護憲、改憲という対立ですね、常日ごろ疑問に思っておりました。さっぱり分からないというのが正直なところだったんですけれども、これは確認をしたいんですが、日本国憲法におきまして、この憲法は、戸波先生おっしゃいましたけれども、欧米諸国の憲法と同じ原理に立脚すると。私自身もそう思いまして、これは資本主義を目指したというか、目標としているのは原則的にそのとおりであろうと思うんですが、確認の意味で先生の御意見をお聞かせください。
○参考人(戸波江二君) 私、そんなに専門ではないので適切に答えられるかどうか分かりませんが、一つは、社会主義憲法というのが、例えばソビエト憲法ないしは東欧諸国憲法がありまして、その典型、社会主義憲法の典型は、やはり労働者の権利というものを保障する、それから平等の関係、観点を強く認める、それからひいてはプロレタリアートの独裁というような言葉を入れてみる、社会主義の体制のために憲法国家があるんだという規定を設けてみるという形で、むしろ資本主義、西洋、ヨーロッパ型の憲法が資本主義の憲法だというところの強い規定というのは必ずしもあるわけじゃないんですけれども、典型的な社会主義憲法と比較しますと、日本国憲法というのはやはりヨーロッパの西欧立憲主義憲法であり、経済的にはやはり市場経済を前提とした資本主義憲法にくみするということです。
○愛知治郎君 ありがとうございました。
 確認なんですが、というのも、先ほどの疑問点なんですけれども、やはり社会主義、共産主義を目指すということであれば、原則的に日本国憲法、これは改正の方向に行くんじゃないかなというのが素朴な疑問だったんですが、その点について先生の御意見を改めてお聞かせください。
○参考人(戸波江二君) もう三十年前の話ですから余り適切な答えになるかどうか分かりませんけれども、理論的にはそうですが、ただ、日本のそれでは改憲論の方がどういう方向で改憲したいかという問題があったと思うんですよね。つまり、護憲、改憲の軸が資本主義、社会主義と正にねじれてはいたんですけれども、護憲、改憲の軸自体が体制選択という形でもって問題が顕在化していたわけではない。
 もう少し分かりやすく言うと、改憲論の側に改憲イデオロギーが多様化していたわけですよね。いろんな理由から改憲にしなくちゃいけない。その中の少なくとも一九五〇年代の最も有力なのが、やっぱり自主憲法制定論であり押し付け憲法論であり、場合によっては復古的な考え方という、非常に、恐らく当時は有力だったけれども今では余り支持されないような考え方であった。そういう中で、それに対抗する形での護憲論というのは、必ずしも社会主義と結び付く形で護憲という形で提起されたのではないということだと思うんですよね。
 ですから、ねじれの問題と護憲、改憲の問題が実はちょっと離れていた。ただ、よく見てみると、憲法典というのが正に西洋型の憲法で、その下で自民党の下での政権があって、国民の支持を得て政権を維持していたという中で、なぜ憲法に対してこれだけ良くないから改憲しようという声が出てきたのかという問題ということです。
○愛知治郎君 ありがとうございました。
 憲法論議は、自分自身も個別具体的に一つ一つの規定をしっかりと議論をしていくべきだと、政治的対立で表面上ポイントポイントだけを議論されたところがあると思うんですが、そうではなくて、一つ一つ正確にしっかりと原則を踏まえて、歴史を踏まえて議論するべきだと考えております。その点で私自身も、戸波先生と同様に、この原則ですよね、原則、この憲法の体系というか原則はもう堅持していくべきだろうというふうには感じておりますが、あとは個別の具体的な議論をしなければならないとも考えております。
 それで、経済的自由に関してなんですが、やはり原則は、憲法の原則がそもそもそうなんですけれども、国家に対する規制というか、国家に対する法律というんですか、自由を守るため、国民の自由に資するためのものであることが大原則だと思うんですが、その一方で、社会権、国に対するある程度の積極主義を取らざるを得ないというか、取るべく定めたものであるように感じられるんですが、この社会権に関して、どのような規定であるか、これも確認なんですが、先生のお考えを教えていただけますか。
○参考人(戸波江二君) 先ほど申しましたように、社会権は十九世紀の自由主義経済のもたらした社会問題、貧富の差だとか富の偏在だとか、いろいろそういう社会問題が出てきて、それを克服するために社会権の考え方が出てきた。第二世代の人権というふうに言われていますけれども、その元では、国家が何もしない、市民社会の自由に任せるんだというだけではやはり社会の中の矛盾が解決できないという思想があり、やっぱり社会的、経済的弱者を保護すると。そうしないと社会が安定しないという観点から出てきた規定ですから、その意味では、十九世紀の何もしない国家、国家を悪として、国家の権力をなるべく抑えるという国家からの自由を中心とする自由主義的な憲法観とある意味では矛盾する面があって、やはり国家が積極的に国民の福祉の面倒を見ろということですから、構造的には矛盾する要素は含んでいるというふうに思います。
 ちなみに、レジュメの下から三行目の国の人権保護義務という考え方が実はドイツで出てきていまして、基本権を国家が保護していくんだと。特に、環境問題のように住民の健康のために企業活動を規制するというような形の保護義務論というのがドイツでは有力なんですよね。
 私は、これは社会権にもつながる考え方で、国によって人権が保障されるという考え方を、この保護義務のように、ドイツのように、保護義務のように人権一般に広めてよいかどうかというところは、実は今の憲法学説ではかなり議論がありまして、昨日こちらでも議論があった人権擁護法案のところでもこの保護義務論的な考え方が出てくるんですが、それに対して、やはり憲法学説を始めとして、経済活動は国の関与があっていいだろうけれども、精神的自由については、やはり国が自由を守るという考え方というのは危険ではないかという考えが憲法学説では有力であります。私は、個人的には保護義務論、場合によっては取ってもいいんじゃないかというふうには考えていますけれども、私の説は少数説です。ごめんなさい、ちょっと余計なことを言いました。
○愛知治郎君 ちょっと最後の部分、分からなかった部分で確認なんですけれども、二十五条の、日本国憲法上の二十五条の性質ですよね、義務規定なのか、プログラム規定という話もありますけれども、どういった位置付けであるのか、先生の御意見をお聞かせください。
○参考人(戸波江二君) 学説、判例の通説はプログラム規定というふうに解釈して、これは国に対して政治的、道義的な義務を課した規定であって、国民が、たとえ貧困な国民がいても、その二十五条に基づいて直接給付、生活費をよこせというような給付はできないとするのが通説、判例であります。それは、社会福祉の政策いろいろあり、それから財源の問題もあり、それから資本主義という体制の下では、自分の生活は自分で面倒を見るというのが原則であるということから、そういうような個人の請求権は認めないという解釈、学説があるわけで、僕は、原則としてはそれでもやむを得ないかもしれないけれども、一つには、最低限度の生活さえ営めないような人が出てきたときに、権利じゃないんだという形でもってそれを退けちゃうような二十五条解釈でいいのかという点について、個人的には疑問に思っています。
 それと、二十五条を具体化するための国の社会保障の充実義務、福祉義務というものは、これはやっぱり法的義務ですから、それが充実してないということになると二十五条違反という憲法違反の問題が起こるだろうと。個人の権利が侵害されているとまでは言えなくても、二十五条の福祉は国に対してその福祉政策を充実しろということを言っているわけですから、それをしないと憲法違反の問題が起こるんじゃないかというふうに、判例でも明白に違憲の場合には違憲となるというふうに言っていますから、判例の場合でも全く法的拘束力がないというわけではないということです。
○愛知治郎君 ありがとうございます。
 とても難しい議論なんで、なかなか具体的に質問することも難しいんですが、国がしっかりと立法、これは条文だけではなくて立法を通じてこの義務を果たしていくべきだろうということであるとは考えております。
 ちょっと視点を変えたいんですが、今、時代の変化で、先ほど戸波先生おっしゃったとおりだと思うんですが、九〇年代に入って特に規制緩和ということでだんだん国の役割を見直していこうと、もう少し民間に任せよう。小泉内閣においても小泉総理が声高に叫んでおります民間でできることは民間で、その方向性だと思います、私自身も。時代の要請としては、やはりもう少し民間の活力を利用しよう、有効にその活力を生かそうという流れになって、国家の役割も変容してきていると思います。そうあるべきだとも考えております。
 その小さな政府という役割にますます移っていくとは思うんですが、この点、先生方お二人にお伺いしたいんですが、特にこの経済的自由と経済と社会権において、条文はもう本当に限られて限定的な条文になっておりますが、この先、このような限定的な、限定的というか抽象的な短い条文、少ない条文で規定するのか、それともより細かく、きめ細かく細分された条文を時代に合わせて必要とされるのかどうか、先生方のお考えをお聞かせください。
○参考人(戸波江二君) 結論的には必要ないだろうと。これは、経済政策が掛かりますから、細かな条文で憲法で決めてそのとおりやるという問題ではありませんから、やはり経済の流れだとか景気だとか国際関係だとかといういろいろな要素を判断しながら議論すべきで、憲法をやっぱり基本価値があってそれを守れというのであって、経済政策については少ない条文で十分であると考えます。
○参考人(西谷敏君) 私どもは、結論的には同じ意見であります。
 私は、規制緩和論につきましては、特に労働法の立場からいいますと、およそ規制というのは緩和されるべきであるという、そこから出発するというのは私は反対でありまして、これまで存在した規制が時代の要請に合わなくなっているものがあるかもしれない、それは廃止すればいい。しかし、新たな規制が必要になっている分野もあるかもしれない、これは規制しなきゃならない。あるいは規制のやり方を変えなきゃならないかもしれない、これは変えなきゃならない。このように規制の問題というのは問題ごとに具体的に考えていくべきものであって、頭から規制は緩和されるべきであるという、そういう考え方をすることについては反対しております。
 そういうこともありまして、憲法の規定におきましては、特にこの問題について何か規定しなきゃならないというふうには考えておりません。
○愛知治郎君 ありがとうございます。
 西谷先生と私も同じような同様な意見で、全体的な大きな方向性として見れば今までの規制は随分見直して緩和していくべきだろうというふうには考えておるんですが、それ以外に新たな問題というのが時代の流れとともに発生してきておりますので、それはきめ細かに法律が対応をして規制をまた作っていかなければならないであろうとも考えておりますので、一方向に限定することはできなくて、一つ一つしっかりと検討していかなくちゃいけないと感じております。
 先生方の御意見、お二人とも基本的には抽象的なというか、ベーシックな、ベースの部分の規定だけで十分という理解でよろしいと思うんですが。
 次に、経済的自由に関してなんですが、これは違憲審査権について、戸波先生、ちょっと触れないということをおっしゃられたんですが、どうしてもお聞きしたいので簡単にお伺いしたいと思います。
 まず、二重の基準ですね、その論理。もう一つは、積極目的、消極目的という理論があるんですが、この点について、ちょっと総論的で恐縮なんですが、大分不備もあるというか問題点もあるんじゃないかと私自身も考えるんですが、先生の御意見を簡単にお伺いしたいんですが。
○参考人(戸波江二君) ちょっと難しいですけれども、簡単にお話しさせていただきます。
 二重の基準論と申しますのは、これは基本的にはアメリカの憲法判例で展開してきた議論で、修正一条の権利、つまり表現の自由だとか、集会の自由だとか、信教の自由だとかという精神活動にかかわる人権を保障した修正一条というアメリカの人権規定を重視するという考え方で、したがってそれを制限するような法律については厳格な違憲審査基準を適用して違憲とするという論理が二重の基準論の根幹であります。その反面として、その修正一条以外の権利については緩やかな審査基準だということになって、日本の場合には経済的自由と精神的自由を二つに分けて、経済的自由については緩やかな審査基準を使うんだという議論として展開しております。
 これについては、学説は広く支持しておりまして、それから判例でも精神的自由について厳格な審査基準を使ったという例がないですから、判例が採用しているかどうかというのはちょっと問題もあるんですけれども、判例の言い方でも支持されているところであります。
 この二重の基準論の考え方は、これも人間生きていくためにはお金の方が大切じゃないか、食べるものだとか住むところがなきゃしようがないじゃないかという形で、経済的自由の方が価値があるんじゃないかという考え方だとか、そもそも価値の優劣などは学問的に決められないじゃないかと、いろいろな議論はありますが、やっぱり西洋型の憲法の考え方ですと、やはり民主主義を支える言論の自由をより保護していこうと。逆に、経済活動については、やはり社会的ないろいろな関連性があり相互の調整も必要となると、そのために法律による規制が必要だとするのが現代の経済的自由ですので。
 だから、その二重の基準論というのは原則としてやはり維持して、経済活動を維持するということは、つまり違憲審査の場で裁判所が経済活動の規制の仕事は議会の仕事だと、国会の仕事だと。だから、その国会の判断を尊重して、違憲審査権を緩やかに、違憲審査権を消極的に行使するんだ、なるべく憲法違反とはしないという考え方につながるわけで、その考え方というのは日本国憲法でも取られていますし、今日のお話でもしましたように、基本的には経済活動についてやっぱり維持すべきである、それから精神活動についてはやはり国民の表現の自由、それから精神活動ということですからなるべく保護していこうということになるかと思います。
○愛知治郎君 大変質問が下手で申し訳なかったんですが、意図したところは、理論的にある程度の構成というのはすごくいいと思うというか、ある一定のその理論構成は必要だと思いますし、私自身も勉強させていただいて、これは優れているな、優れている考え方だとは思うんですが、ただ個別具体的な事例で見ますと、違憲判決に見られるように、そのケースによって随分違ってくるし、一概にこの体系の中ですべて論ずることはできないんだなということを感じております。
 それで、違憲審査ということだったので、最近また議論されているんですが、憲法裁判所という話があります。今日の質問は物すごい難しいというか、やり取りが難しいと思ったんですが、やはり抽象論になってしまう。その場合に、抽象的な議論だけでこの憲法を考えていいのかなというふうに私自身考えておるんですが、それを補完する意味でもやはり付随的に具体的争訟を通じての憲法論議の方がよりきめ細かな議論ができるんじゃないかと私自身は考えております。
 この点では、両先生に違憲審査制の、憲法裁判所を含め、その制度についての私見を伺いたいのですが。
○会長(野沢太三君) 西谷さんから、じゃお願いしましょうか。
○参考人(西谷敏君) 私は専門、労働法でして、余りその問題、真剣に考えたことはないんですが、印象だけ申し上げますと、制度としてどうこうするよりも、私の印象では、現在の最高裁判所は憲法判断に余りにも消極的過ぎるような印象を持っておりまして、もう少し様々な問題につきまして違憲判断をしていいのではないかというふうに考えております。
○参考人(戸波江二君) これはちょっと難しいといいますか、憲法学説はやはり憲法裁判所の創設に反対で、今、愛知議員が御意見をおっしゃったように、やっぱり具体的な事件との関連で違憲審査権を行使した方がよいと、これは有力な意見ですし、それから個人の権利義務とかかわらないような訴えになると政治的な問題が裁判所にどんどんくるから、それを避ける意味もあるから付随的審査制がいいという意見が非常に有力なんですが、ただ私は、どっちかというとドイツ派ということもありまして、憲法裁判所の方がいいんじゃないかと。
 特に、日本の最高裁の今の現状というのが憲法裁判所になっていないんですよね。確かに民・刑事の上告審としては機能はしていますけれども、憲法に関する専門家というのは十五人の裁判官のうち一人もいないんですよね。そういう中でもっていい憲法判断が出るかというと、やっぱり出ないんではないか。
 やっぱり最終的には人の問題だと思うんですけれども、憲法問題に通じてその判断ができるような人を今の最高裁の裁判官として期待できるかというと、そういうシステムになっていないことを考えますと、憲法裁判権というのを分けて憲法の専門家に憲法を担当させるという方が合理的じゃないかというふうに個人的には考えていますけれども、これはいろいろと対立があるところです。
○愛知治郎君 ありがとうございました。
 本日も参議院において、これは法曹の在り方ということで一つ法律があったんですが、これから議論をしっかりとしていかなくちゃいけない。裁判所の在り方もこれからしっかりと議論していかなくちゃいけないと考えておりますので、これは政治の役割かと考えております。
 どうも貴重な意見ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 若林秀樹君。
○若林秀樹君 ありがとうございます。民主党・新緑風会の若林でございます。
 私も質問を考えるに際して、非常に難しいな、聞き方が難しいなと。余り経済的自由ということを意識してこなかったというんでしょうか、改めてその財産権の所有あるいは職業の自由というところは敷衍して経済的な自由の枠組みをとらえるのかなというふうに感じはしますけれども。
 最初ちょっと、愛知先生が質問された件なんですけれども、我が国の憲法というのは基本的にはやっぱり資本主義を前提としているというようなお話をされていましたけれども、それは資本主義の規定にもよると思うんですが、これはやっぱり、財産権の保障、それから職業の自由からやっぱり資本主義を前提としているということを見るというのが今までの見方だったということでおっしゃられたのか、あるいは社会主義をもし仮に取るんであれば、それは違憲に逆になるんではないか、そんなようなニュアンスでおっしゃられたのか、その辺だけちょっと最初お伺いしたいと思います。戸波先生にお願いします。
○参考人(戸波江二君) 余り、説明しづらい問題といいますか、資本主義、社会主義の対立というのは一九五〇年代、六〇年代ありましたから、憲法学説としてはその辺余り深く立ち入らなかったというのが実情ですが、ただ、正統憲法解釈、伝統的な、通説的な憲法解釈は、憲法二十九条三項の財産権の補償のところで、個人の持っている財産権の保障というほかに、私有財産制をやっぱり制度として保障しているんだと、だから資本主義、私有財産制という言葉でしか書いていないですから資本主義なんだと思うんですけれども、資本主義を日本国憲法は前提としているというのが通説的な見解でありました。
 ただ、その中で、北大の今村先生という、これも有名な憲法・行政法学者ですが、そこで言う財産権の補償でもって保障している制度の中身というのは、人間が生きていく上でもって必要な物的手段の享有ということであって、必ずしも生産手段の私有化というものではないから、法律改正によっても社会主義への移行ができるんじゃないかという論文、これも有名な論文がありました。
 でも、全体的にはやはり資本主義に立脚しているというふうに考えていたと言っていいと思います。
○若林秀樹君 その関連でもう一回戸波先生にお伺いしたいんですけれども、一方、政府の介入というんでしょうか、さっきから規制緩和というお話がありましたけれども、官から民へのシフトが言われている中で、まだまだそうなっていない、かなり関与的な部分がやっぱりあると。グレーゾーンが多いということなんですけれども、やっぱりこの経済的な自由、権利をやはり干渉するような状況があるとすれば、もう少しこの憲法の中でそういうものを自治体自ら営業の自由、経済の自由を干渉する規制を、条文を定める必要があるのかどうか。その辺、ちょっとお伺いしたいんですが。
○参考人(戸波江二君) 一九八〇年代までの経済政策というのはやはり保護政策でして、いろんな形でもって業者を保護する立法というのができてきています。しかし、反面、業者保護立法というのは他方で消費者の視点が抜け落ちてしまうということだとか、それから八〇年代の後半からアメリカの方から規制緩和論が出てきて、日本の流通がおかしい、おかしいじゃない、行政が口出しし過ぎているんじゃないかというような議論があって、その規制を撤廃しております。例えば、百貨店法だとかスーパー規制だとかというような大型店舗の規制については、どんどん今法律が廃止されている、廃止されたというのが実情であります。
 そういう流れの中でやっぱり自由主義の流れが出てきたんですが、それがいいかどうかの問題というのは、憲法学者としますと、一つは、政策問題だということもありますし、一つは、もうさっきから申していますように、憲法自体はやはり国民の生活を安定させる、それから福祉を増進させるために国の関与を認めるという構造になっていますから、直ちに新自由主義的な規制緩和論がいいかというと、そうも言えないんじゃないかという気は私は個人的にはしております。
 ただ、政策問題ですから、その規制緩和をしなくちゃいけないという点と、それからもう一つの日本の経済政策上の特徴というのは、これは御承知のように、例の、レジュメにも書きましたように、護送船団方式と言われるような、国が日本の経済全体を、国といいますか行政が日本の経済全体を守って、対外的な貿易等々の圧力から経済を守るという保護的な姿勢を取ってきたわけですね。
 それがアメリカの一つの批判の的で、しかも九〇年代にいろんな形で行政の失態があり、そのような中から規制緩和論が出てきたとすると、日本の経済の問題は、国の関与がいけないということよりも、日本の行政のやり方に幾つか反省すべき点があったんじゃないかという点がありますので、そうしますと、経済政策についても憲法上は一定の関与を認めるという仕組みになっても、実際の日本の行政主導の保護的な、しかもそれが縦割り行政という形でもって、通産省だとかいろんなところでもって、いろんな形でもって保護されているような経済保護の在り方が、国家関与、憲法の言っている国家関与と同じ意味なのかどうなのかということが問われる。そう考えますと、新自由主義的な規制緩和論にも十分根拠はあるということになるかと思います。
○若林秀樹君 それでは、西谷先生にちょっとお伺いしたいんですが、今の関連で、先ほど、ヨーロッパとアメリカを見た場合に、社会権とやっぱり経済的自由の引っ張り合いというところで、今は緊張状態であると。やっぱりこの綱引きが今後出てくるんだろうと思いますけれども、私から見ると、やっぱりこれからの経済がどういう状況に行くのか、ヨーロッパが継続的に長く行くのか、アメリカがまた更に強くなるのかということによって引っ張り合いがあると思うんですけれども、西谷先生から見た場合に、これがどこで、ブレークする可能性が今後どういう形で出てくるか。そのときに日本に対する影響もいろいろあると思うんですが、日本として踏まえていかなきゃいけない点があれば教えていただければと思います。
○参考人(西谷敏君) 私は、この問題は、経済の動向がどのように展開していくかというのは非常に大きな問題だと思いますが、同時に、それだけではなくて、各国が法政策としてどのような規制を自らしていくのか、あるいは国際的な、労働について言いますと、国際的な労働基準を確立する努力をするのかという、そういう言わば人為的な努力の問題でもあるというふうに思っております。
 したがって、経済の今後の成り行きについては、私は専門外でありますから分かりませんけれども、少なくとも、各国がなすべき努力の問題としては、やはりアメリカ型の、とにかく市場原理主義といいますか、そういう考え方が世界を支配するということは非常にまずい事態になるので、むしろヨーロッパ型の考え方が広まっていって、そしてアメリカをも拘束する、そういう方向での努力を傾注すべきではないかと、そういうふうに考えております。
○若林秀樹君 ありがとうございます。私も同感だなという感じはするところでございます。
 ちょっと話題が変わるんですけれども、雇用の問題でございまして、失業率五・四%ですか、三百六十五万人の方が今失業されているということで、我が国の憲法を見ますと、権利義務の関係ではやっぱり教育の権利、受ける義務ですね、それから納税の義務。一方、労働においても、労働する権利と、一方、義務というのがある中で、教育もやっぱり納税も行う対象はあるんですが、三百六十五万人、これから見ても、高い失業率、高止まりするような状況でありますと労働の義務を果たす場がないということに対して、憲法に対してやはりそごを来すんではないかと。
 これは程度問題かもしれませんけれども、最初、戸波先生は、やっぱり結果として、そういうことを意識せず経済政策は来たと。しかし、これから憲法を見たときに、そういう労働の義務権利に対して余りにも対象とする場がないという意味では、私は、問題が、この憲法の相手、起こってくるんではないかなというふうに思いますが、その辺、もっとヨーロッパ等で失業率が高いところありますので、その辺との関係において、何か御感想を聞かしていただければ有り難いと思います。
○参考人(西谷敏君) 確かに雇用の問題は大変深刻でありまして、今後、雇用の状況を改善するためには大きく分けて二つ問題があると思います。
 一つは、雇用の創出に向けて国がどういう努力をするかというのが一つ、もう一つはやはり既に雇用を得ている人の地位をどう保障するのか、つまり解雇をどのように制限するのかという、この両方の面から考えていく必要がありまして、私の見るところ、現在進行中の議論、例えば総合規制改革会議などの議論は余りにも性急に、何といいますか、労働の移動ということを人為的に進めようとして、むしろ解雇を促進するような方向に行っているのではなかろうかという危惧を抱いております。むしろ、雇用の創出とそれから現在雇用を保持している人の保障の両方を進めなきゃならないというふうに考えております。
 それと併せて、ヨーロッパとの比較でいいますと、失業した人の生活状況の問題というのがやはりあると思うんですよね。これは労働権の問題とは少し次元が違うかもしれません、むしろ二十五条の生存権の問題になるかもしれませんが、失業中の生活の安定度といいますか、これは失業保険給付の金額なり期間ですね、この点について日本の制度というのはかなり見劣りがするわけでありまして、社会全体の安定なりあるいは雇用不安の解消という点からいえば、失業期間中の生活保障にもやはり意を用いるべきではなかろうかというふうに思っております。
○若林秀樹君 ありがとうございます。
 もう一つだけちょっとお伺いしたいんですが、経済のグローバル化によりまして様々な、今の所得格差の問題とか、中高齢者の雇用の問題とか、女性の雇用の問題等、やっぱり差別的な待遇というものがどうなるかということが非常に気になるところなんですけれども、憲法には、基本的な国民の権利の中でそういう差別はしてはならないということをうたっているんですが、これからの時代を考えると、もう少し年齢とか性別とか、あるいは人種とか宗教等で差別してはならないという、アメリカの公民権運動の基本となった、そういう考え方をもう少し明確に出すことも必要ではないかというふうに思いますが、その辺は、西谷先生あるいは戸波先生、もし御意見があればお伺いしたいと思います。
○参考人(西谷敏君) その点は全く同感でありまして、本日、余り触れませんでしたけれども、やはり経済的自由を規制するもう一つの要素として憲法十四条の平等原則があると思いますね。
 日本では様々なところで差別が残っておりまして、確かに男女差別につきましては均等法で一定程度法的なレベルでは解決しておりますけれども、とりわけパートタイム労働者とフルタイム労働者の差別の問題は現在の時点ではほとんど未解決と。そういった問題につきまして、平等の観点から経済的自由を制約していくという方向での検討を早急に進めるべきではなかろうかと。要するに、同じような労働をして同じような状況で働いている人であれば同じような処遇を受けて当然であるという、この平等の考え方をもっと社会の中に定着させる必要があるのではないかというふうに思っております。
○参考人(戸波江二君) 御指摘、そのとおりで、誠に賛成なんですけれども、二十七条の勤労の権利というのは、勤労の場所の提供を直接に要求できないにしても、国はやはりその勤労の場所を用意すべき義務を課しているということですから、二十七条との関係で、やはり雇用についての配慮義務というのは憲法から国が出てくるというふうに考えるのが一つと。
 それから、十四条も、今、西谷先生がおっしゃったように、特に男女平等の規定をいかに社会の中で実現していくのかという問題がありまして、これも、考えてみますと人権の問題なんですよね。伝統的な人権論からいうと国家からの自由で、国家は何もするなというんですけれども、やはり社会の中での差別だとか雇用だとかというと、むしろ国が一生懸命に配慮して、あるいは立法を行って、人権を除去するような法律を整備するという義務が出てくるんじゃないか。
 その意味で、私は、ちょっと手前みそですけれども、ドイツ的な人権の保護義務論というのをもう少し展開できないかなと考えています。今の雇用の問題などは正にそうであると。一九九八年の均等法の改正によって、女子の雇用差別、採用時の差別が違法だというふうになりましたけれども、もうヨーロッパではそれが一般的で、ドイツでは損害賠償の請求なんかもできるようになっておりますので、もう少し立法で具体的な保護を、人権保護のための立法を考えていいんじゃないかと考えております。
○若林秀樹君 ありがとうございます。
 時間もありませんので最後になるかもしれませんけれども、日本に住む外国人への適用の問題でございまして、社会権というのはその国の、属する国によって適用されるべきだということがありながらも、今は徐々にその概念が変わってきて、やはり市民である以上、市民としての権利として社会権を取り上げる。その中で、今の年金とか様々なことが日本人を要件としない部分で変わってきているということがあろうと思うんですね。
 一方、経済的自由となると、じゃ日本ですぐ雇用して働けるかという問題を見たときに、先ほども経済的自由と社会権とはセットで考えているという部分を見ますと、やっぱり経済的自由という部分も与えるということが外国人に対しても必要になってくるんではないかなというふうに思うんですけれども、その辺、お二人に最後御意見をお伺いして、私の質問を終わりたいと思います。
○参考人(戸波江二君) 一つ前提問題なんですけれども、経済的自由という場合の主体なんですよね。だれの経済的自由か。これ国民一般であり、企業であり、いろんな主体があるんです。しかも、経済的自由の中身も、企業の大きな、大規模な投資だとか経済活動から、学生の職業選択の自由から、そういう細かな個人的な権利までいろいろあるんですよね。
 実は、経済的自由というのは、そこら辺のところを分けて考えなくちゃいけませんで、有名な判例が、三、四年前に出た、東京高裁でもって東京都の在日外国人の方の管理職の試験を拒否したのが違憲、違法だという判決が出たんですね。外国人が公務員になれないとする総務省の当然の法理と呼ばれる有名な解釈がありまして、その下でもって外国人が今公務員試験受けられない、国家公務員試験について受けられないということになっていますけれども、それとの関連で東京都の管理職試験を拒否されたのを争って、その判決で言ったのは、職業選択の自由の侵害に当たるんじゃないかと言ったんですね。
 ですから、その外国人問題というのも、実は職業選択の自由というのが、経済的自由がいろんなところでもって作用をするという一つで、経済的自由の規制ということを今日かなり言いましたけれども、それはどっちかというと、言わば大企業の、大規模な経済活動は政府のコントロールによらなくちゃいけないけれども、一人一人の、個人の人たちの職業活動だとか経済活動というのはむしろ保護しなくちゃいけない。それを突破口として、外国人の雇用の機会の確保というようなところもその理論で吸収するということができるのではないかということで、御趣旨はおっしゃるとおりであります。
○参考人(西谷敏君) 外国人労働者の問題につきましては、現在の日本政府の立場は、特にいわゆる単純労働者は受け入れないという政策を取っておりますけれども、ただ事実上、研修生というふうな形であるとか、かなりの外国人を受け入れておりますし、それから非常に違法就労が多いということで、建前と実態に非常に大きな乖離があるというのが実態であろうと思います。
 私はやはり、この外国人労働者政策の問題につきましては、おっしゃいましたように、外国人労働者の就労の自由といいますか、そういう観点からやはり根本的に見直す必要があるんではないかと。それから、あわせて外国人労働者と日本人の待遇上の平等ですね、これも現実には非常に大きな問題が残されておりますので見直す必要があると思っております。
○会長(野沢太三君) 山口那津男君。
○山口那津男君 公明党の山口那津男でございます。
 質問が前者と若干重複する点があるかもしれませんが、お許しいただきたいと思います。
 まず初めに、戸波参考人にお伺いいたします。
 憲法の基本認識についてお述べいただきましたので、この点についてお聞きしますが、憲法の改正論の中身について私は現在十分なコンセンサスはいずれもできていないのではないかと思っております。そうした中で、この改正の中身については中立的でいながら、改正の手続については憲法上必ずしも明確に定まっていないということで、この手続法を整備すべきではないかと、改正の中身よりも手続法を先行して整備すべきではないかという主張があります。
 この点について、先生はどのようにお考えになられるでしょうか。
○参考人(戸波江二君) 学説には、現在、憲法改正手続法がないのが憲法違反だという強い意見もありますが、他方、手続法が作られるということが憲法改正の露払いになるという形で、法的にじゃないですけれども、政治的に反対するという憲法学説も有力であります。
 私の判断を迫られますと困りますけれども、憲法改正手続法というのは、やっぱり必要といえば必要ではありますね。確かに、憲法改正をするときにはどういう手続をするか定まっていないと、今のままでは、国会の総議員なのか、あるいは特別多数なのかという決定ができませんから、必要は必要ですけれども、それはここで必要ですと申しますと何か憲法改正論者と間違われますから、ちょっと余りそういう確答はできません。
○山口那津男君 次に、同じく戸波先生伺いますが、違憲審査の基準について、先ほど二重の基準とか積極目的、消極目的の区別とかについての評価を求められておりましたけれども、また一方で、この経済的自由に対する規制の強弱をもっと先生御自身のお考えで基準化するとすれば、どのような御主張になられるでしょうか。
 特に、この経済的自由権と言わば社会権というのは密接な関係があるというふうに先生もおっしゃられました。私自身も、自由な側面と、また一方で生存権的な基礎を保障するという側面と両方あると思います。そうした意味での先生御自身の違憲審査の考え方というものをお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(戸波江二君) 判例は余り説明いたしませんでしたけれども、経済的自由について一応、積極目的、消極目的二分論、レジュメの真ん中に書きました考え方を取っております。
 これは、経済活動を自由放任に任せると、国民の健康だとか生活に危害が、害悪が生ずる、そのための規制を消極目的規制というふうに呼びまして、それから政策的な観点から経済をコントロールするというのを積極目的の規制と言いまして、その政策的観点からの規制を行う法律については、なるべく立法府の判断を尊重して緩やかな審査を行うと。それに対して、消極目的の経済活動の害悪を防ぐための規制については厳格に審査を行うというのが、ここで言う積極・消極二分論という考え方であります。
 でも、これは余り理由がないんじゃないかというのが私の考えで、どっちがどっちだか分からないのもありますし、例えば公害問題が典型なんですよね。公害問題を考えますと、付近の住民の健康のために公害の企業のばい煙の排出やなんかを規制するということを考えますと、これは経済活動のうちの消極目的規制だということになりまして、つまり付近の健康を考えて規制を行うと。消極目的規制だと厳格な審査基準をするんですよね。
 しかし、考えてみますと、公害規制などは、疑わしい場合にはむしろ規制しなくちゃいけないと。疑わしくても証拠がなければ経済活動を自由に許すというのが消極目的についての厳格審査ですから、どうもそれは論理が逆じゃないか。そもそも、政府が政策的な観点から規制をした場合に、なぜそれが合憲となりやすいのかという理由がはっきりしないじゃないかというのが私の考えでありまして。
 そういうわけで、積極・消極二分論そのものは維持ができないけれども、ただ基本において、やはり経済活動につきましては、今日、強調しましたように、政策的な観点が広くありますから、国会の判断を尊重するという基本的な考え方というのは取ってもいいんじゃないかと。しかし、その中でもやっぱりおかしな立法というのがかなりあるわけで、もう古い立法、例えば違憲となった森林法の分割制限規定というのは明治四十三年か何かにできた理由のない規定、そういうのはもう不合理であれば憲法違反としてよいという考え方を取っております。
 どうも抽象的な一般的な話で申し訳ありません。
○山口那津男君 また、先生、憲法改正については柔軟な護憲論、改正を頭から否定するものではないと、こういうお考えの下で環境権についてもお触れになっていらっしゃいます。さらにまた、社会保障以外の価値という意味での環境ということも御使用されておられます。
 この環境権というものを仮に憲法上位置付けていくとすれば、これは社会権的な基礎付けをしていくのか、あるいは人格権的な基礎付けをしていくのか、はたまた全く別な観点からの位置付けをしていくのか、この点について先生のお考えをお聞かせいただければと思います。
○参考人(戸波江二君) 今日はちょっと、柔らかな護憲論と書いて憲法改正を容認するような発言をちょっと強調したので、その点、是非御留意いただきたいんですけれども。
 ただ、環境権につきましては、各国の憲法で、戦後あるいは環境問題が議論されるようになってから憲法改正して導入したというところがかなりありまして、ドイツでは一九九四年に環境条項についての規定を入れております。そのときの規定の仕方としては、社会権に入れるのか人格権に入れるのか、それからドイツのように権利じゃなくて国が守るべき義務という形で、ちょうど憲法二十五条の二項みたいな形で、国の責務という形でもって規定をするのかという対立があります。
 これは、実は環境権をどういうふうに人権論として構成するのかという問題があり、それから判例が現在、環境権というのは具体的な権利ではないという基本的な立場に立っているということとの関係もあり、難しいところです。私は個人的には、現在の二十五条と同じように、一項で権利としての環境権を保障し、二項でその責務として環境保護義務を国家が負うという形の規定がいいんじゃないかなというふうにちょっと個人的には考えていますが、これもそう肯定しますと、あたかも憲法改正を是認したかのように見られますので、ちょっと歯がゆいところですけれども。
○山口那津男君 次に、西谷参考人にお伺いいたします。
 政府が、社会権あるいは労働権について、政策の指針としてこれを生かしていくということは当然としましても、当事者間でこれらの規範が実現されていくということは私は望ましいことだろうと思います。そうした意味で、社会の現状を考えたときに、例えば雇用を確保するとか、あるいは賃金なかんずく生活水準を維持していく、あるいは確保していくと、こういう価値を実現するために、この労働法あるいは憲法上の社会権が果たして規範性を持って今生きているかどうか、この点についての御認識を、感想で結構ですのでお述べいただければと思います。
○参考人(西谷敏君) 例えば、労働基準法が守られているかといった観点からしますと、やはり守られていない問題が非常に多いと思います。
 法律自体の問題もあるわけですが、例えばいわゆる労働時間に関するサービス残業という点でいいますと、あれは明らかに労働基準法違反でありますが、非常に広い範囲で蔓延しておりますね。それはなぜなのかということは独自に検討しなきゃなりませんけれども、少なくともそういった問題を見る限り、労働法上の基本原則が現実にはなかなか生かされていないということだろうと思います。
○山口那津男君 二十八条は労働基本権を規定しているわけでありますけれども、しかしまた今の社会状況の中で必ずしも労働組合の組織率が高まっている状況ではないと思います。また、既存の組合がその活動を通じて様々な要求をスムーズに実現しているということでもないと思います。むしろ、一般の働く人はこの基本権すら行使できない、現実には行使できない状況にあるんだろうと思います。
 そうした時代状況の中でこの労働基本権が、言わば余りにも劣悪な労働条件を改善すべき時代には使命を果たしたけれども、今日的にはむしろその使命を終えつつあるのではないかと、こういう主張もあるわけでありますが、これからの時代を見据えたときに、この労働基本権の意義というものについてどのようにお考えになられるでしょうか。
○参考人(西谷敏君) 労働組合の現実については基本的に今の御質問と同じ認識ですが、本来的に労働組合が役割を終えたかというと、私は全くそうは思いません。
 とりわけ、先ほどのお話でヨーロッパ型という話をしましたけれども、ヨーロッパ諸国、例えば組織率とか労働組合の強さとかいろいろありますけれども、基本的には労働組合が社会の中で非常に大きな影響力を持って、絶えずその規制緩和に対して労働者の利益の擁護という観点からチェックを掛けているということがございます。それは、基本的にはヨーロッパの労働組合は組織形態としましてはいわゆる産業別組合であったり職業別組合であったり、いずれにしましても企業を超えたところで組織されておりますので、企業間競争が激しくなっても労働組合の機能はそれほど落ちることはないと、こういう構造に起因しているんだろうと思います。
 それに対しまして、日本の労働組合は大部分が、九六%ぐらいが企業別組合でありまして、企業間競争が激しくなれば労働組合として共通の労働者利益を守っていくという力を発揮できないという、こういう構造的な弱点を持っている。そのことによって、現状のような労働組合の存在意義がなかなかはっきりしないという状況が生じているのだろうと思います。
 しかし、それは労働組合が制度として存在の生命を終えたということではなくて、むしろ日本において労働者の人間的な生活が保障される社会を築いていくためにどのように労働組合をもう一度再生させるのかということが課題になっているというふうに私は見ております。
○山口那津男君 私は、今、労働組合は、政策提言機能という意味では一定の役割を果たしていると思います。
 そうした中で、日本の言わば法律の次元での制度が十分でないのか、基本権という憲法上の権利としては当然必要であるけれども、その具体的な法制度の面で機能を低下させているというふうに見るべきなのか、だとすれば、それの改善の方向性というものが見いだし得るのか、この点について御意見があればお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(西谷敏君) 私は、憲法二十八条は問題はないというふうに考えております。
 法律のレベルでいいますと、特に公務員につきまして労働基本権を全面的に剥奪している、特に団体交渉権を制限し争議権を全面的に剥奪しておりますのは、これはどう考えても私は憲法違反と言うほかはないだろうというふうに思っておりまして、そういう点からいえば法律上問題があるということだと思います。ただ、民間の労働組合について言いますと、そういった憲法上の建前とは違った形で現実の弱体化が進んでいるという問題で、これはやはり憲法あるいは法律でいかんともし難い、これは労働者自身が努力するべき課題というふうに考えております。
○山口那津男君 戸波先生にもう一度お伺いいたします。
 先生のレジュメの中には、「政治の意図しない「憲法に基づく経済・社会生活」の実現」というふうに書かれていらっしゃいます。確かに、政治が明確に意識せずとも憲法的な価値が結果として実現してきているという側面はあったと思います。しかしながら、また、社会の状況が高度経済成長の波に乗って言わば右肩上がり、人口の構成についても言わば生産を支える人口構造という中での、条件の下での結果だったと私は思います。
 これから大きく社会構造が変化していく中で、例えば高齢化が進んでいるのに高齢者は年齢制限等の壁があってなかなか職にあり付けないとか、あるいは高校や大学を出た新卒の人ですら就職がなかなかしにくいと、これはやはり憲法的な価値を大きく損なっていると私は思います。また、労働統計に表れないといいますか、失業統計に表れない、仕事に就く意思もなく、また現実に仕事もしないいわゆる無業者と言われる人たちが五百万とも六百万人とも言われる中で、先生はこれからの憲法の規範としての役割をどのように評価されるんでしょうか。
○参考人(戸波江二君) これは憲法学の反省でもあるんですが、これもどこかレジュメに書きましたけれども、憲法二十五条の生存権についてはプログラム規定だという判例が確立し、それから経済政策については立法裁量だということでもって、憲法の具体的内容が実際の政策と結び付かないという難問があります。やはり憲法は社会全体の指導法、理想法あるいは目標を定めた法ですから、それに照らしてそれを具体化するという作業が必要で、個々の政策を取りましても、やはり憲法に適合した政策というのはあるんじゃないかと思うんですね。
 今、判例では、例えば教科書の無償制というのは憲法上の要請じゃなくて立法政策だと言われているんですけれども、そう解釈したとしても、教科書は無償にした方がやっぱり憲法の教育を受ける権利の実現には適合しているわけですから、憲法は政策評価の基準となり得るんじゃないか。
 その意味で、やはり憲法を踏まえて、社会権、国民の生活、福祉をしっかりさせるという憲法の期待を込めて、是非その理念を議会の、国会の議員の方々がそれを具体化していく。今言われたような困難がたくさんありますので、それをどう克服するのかというのは最終的にはやっぱり政治の力だと思うんですよね。憲法がその解決を政治に期待している。特に、経済、社会生活については政治に期待しているということだと思います。
○山口那津男君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。今日はお二人の参考人の先生方、本当に貴重な御意見ありがとうございます。
 まず、西谷先生にお伺いいたします。
 憲法二十五条がすべての国民に健康で文化的な最低限度の生活を保障した。この規定は、第九条の規定と相まって戦後の日本の発展を支え、いろんな積極的な役割を果たしてきたと私は思っているんですが、今もお話がありましたように、この二十五条は、いやプログラム規定だ、いや具体的な請求権は発しないんだ、そういうことを言われてきているんですけれども、この生存権を保障するために立法義務、立法作為義務が国会にあると思うんですけれども、それは政治的な意味と解してしまうと私はちょっと残念なんですけれども、やっぱり例えば二十五条に基づく立法作為義務というものは国会にどの程度課せられているのか。二十七条の二項のような形で立法をせよというふうには書いていないわけですよね、二十五条二項は。
 その点についてのお考えをお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(西谷敏君) これはむしろ戸波先生の御専門の領域だと思いますが、私は半分素人ながら、次のように考えております。
 生存権を実現するという場合にやはり二つの問題がありまして、一つは生活保護法のように、それぞれの人がどのような理由でどのような状況に置かれてもとにかく最低限のぎりぎりの生活は保障されるという、そういう問題と、それからやはりより高い次元での人間らしい生活が保障されるという、国の政策といいましても二つの次元の問題があると思うんですね。
 まず、最低ぎりぎりの生活という点についていいますと、現行の生活保護法がそういう役割を担っているわけでありまして、これは既に法律が存在するわけであります。それを超えた部分で国がどのような政策を取るべきなのかという点についてはいろんな選択肢がありまして、一般的に立法作為義務というふうに言ったとしましても、なかなかそこから具体的に、だからどうせよというような結論が出てくるような問題ではないのではなかろうかというふうに思っております。
○吉川春子君 それでは戸波参考人、お願いします。
○参考人(戸波江二君) 今、西谷先生おっしゃられたとおり、憲法学説も多数説・判例は二十五条はプログラム規定だと言っておりますけれども、有力な学説、例えば北大の中村睦男先生などは、今、西谷先生おっしゃった学説、つまり憲法二十五条の最低限度の生活については、やはり国民の最低限の生活なんだから、それを確保するための措置が強く要求されるし、それのような法律を作らないと違憲となり得るというところまで中村先生言っているかどうかあれですけれども、そう解釈する余地があります。僕はそう解釈しています。やっぱり最低限度の生活のところというのは、やはり国民一人一人の生きていく、人間に値する一番基本的なところですから、それさえしないということになるとやはり憲法違反の程度は強いですし、違憲と考えるべきですし、そこからやっぱり立法義務というのも出てくるのではないかというふうに僕は考えているんですけれども。
 ただ、それを超えた部分につきましては、やはり福祉をどういうふうに行うか、財源をどういうふうに配分するかというのはやはり議会だとか政府がいろいろな要素を考えながら決定するのではないかということがありますので、なかなか立法義務がすべてのところに出てくるということはちょっと言えないんじゃないか。
 ただ、個別的に考えますと、例えば介護保険について、やはり高齢化が進んで実際に寝たきりの老人の方々が増えてくる、身寄りもいないと、どうするんだというときに個別的立法義務が出てくる余地がないか。それから、昨今の判例のように、ハンセン氏病について国が放置したと、立法の不作為の違憲じゃないかという個別的な措置については、状況によって、人間的な生活について国が配慮しない、放置したということでもって憲法違反だという判断というのは個別的には出てくるんじゃないかというふうに考えています。
○吉川春子君 ありがとうございました。
 十八世紀的なレッセフェールというか、自由権に加えて、二十世紀は生存権の規定が設けられたというお話がありました。そして、国家が介入する、社会権というのは国家が介入して国民の権利を守るという形だから、国家が手を出してはいけないという自由権とはちょっと違うというお話があったんですけれども、それも社会権も財産権とぶつかるわけで、いろいろな問題が生じてくるわけですが、今、私は国の政治を見ておりまして、資本主義が十八世紀的な自由じゃないわけですよね。つまり、銀行がつぶれそうになると国費を投入する、企業がつぶれそうになると国費を投入する。企業の生存権を守ってあげるような、そういう政治になっていると思うんですけれども、これは憲法的な価値からいったら何条に当たるんでしょうか。二十九条ですか、二十二条ですか。
○会長(野沢太三君) どちらの先生にお伺いですか、吉川君。
○吉川春子君 どちらでもいいんですけれども。
○会長(野沢太三君) じゃ、両方の先生から。戸波参考人。
○参考人(戸波江二君) 結論から言うと、公的資金の投入、企業に対する投入、銀行に対する投入というのは政策的なものだというふうに考えるべきだと思うんですよね。企業に経済的自由があって、それが危機に瀕しているから投入するというふうにはちょっと考えづらい。ただ、それは、回り回って中小企業だとかあるいは一般の国民の失業から回避するという観点からすると、広い意味では確かに雇用失業との関係の人権と言えますけれども、基本的にはやっぱり経済政策の措置だと言うべきだと思うんですよね。
 それと、経済政策を行う、公費を無償で貸与するというような形での資金の貸与が憲法上どこに根拠があるのかというと、それはまた難しい問題になりますけれども、国の行う政治、政策の一環ということなんだと思いますけれどもね。
○参考人(西谷敏君) 私も多分そういうことだろうと思いますね。つまり、国の行う政策のすべてが基本権条項のどこかに根拠を置かなければならないということではなくて、やはり国の行う経済政策という領域があって、その経済政策が基本的人権を侵してはならないけれども、絶えずどこかの基本的人権に根拠を置かないとその政策は実施できないというものではなかろうと。
 そういう意味では、銀行等に対する公的資金の投入という問題は一つの経済政策であって、それに対する様々な政策上の批判とか、あるいはどこかの憲法規定に抵触するという議論があり得るのかも分かりませんけれども、いずれにしても、それは、ここで今議論しております経済的自由とかあるいは社会権とかいった基本的人権の問題とは別次元の問題として考えた方がいいんじゃないかというふうに思っております。
○吉川春子君 先ほど、立法義務との関係でちょっともう一点伺いたいんですが、解雇規制法のお話がありましたが、解雇規制法の制定というのは、やはり働く人たちにとったらもう解雇されたら生活できないわけで、これはかなり立法作為義務というか、そういうことに限りなく近いものではないかと考えますが、その点についてはいかがでしょうか。
 これは、西谷先生に。
○参考人(西谷敏君) 解雇制限につきましては、先ほど申し上げましたように、現在は判例法理で問題を扱っていると。これは必ず法律でもって扱わないと憲法違反かと言われると、私はそうは言えないだろうと。つまり、判例と法律による規定との間に憲法違反かどうかというほどの質的な違いはないだろうというふうには思っております。そういう意味では憲法違反とは言えないと。
 しかし、どちらが適切であるかという観点からいえば、現在の判例法理についてはまだまだ労働者側も使用者側も知らない人がいると、そういう現状の下では、少なくとも判例法理の到達点を法律のどこかに明記するということは非常に適切な法政策だろうというふうに考えております。
○吉川春子君 戸波参考人にお伺いしたいんですが、先ほど改憲論に触れられまして、ドイツは六十回も改憲してきているというお話でして、日本国憲法も価値を一致させてから行うということで、今は護憲の立場だというふうにお話しになりましたけれども、私も、例えば九条の問題を抜きにして抽象的に考えれば、まあ環境権があった方がいいかなとか、憲法裁判所もあった方がいいかな、こういう考えは成り立ち得ると思うんですが、いずれにしても日本の場合は、すべての改憲論は九条に通じているわけで、ここがやっぱり非常に政治問題化しているという難しい問題があると思うんです。
 それで、憲法価値の共有、憲法価値を一致させてから行うということの意味をもう少し具体的にお述べいただきたいと思います。
○参考人(戸波江二君) これも結論的には困難ということになるかもしれませんけれども、ただ、改憲論のやっぱり九条、九条も非常に重要な論点でこれはもう否定することはできないんですけれども、やはり自由だとか民主主義だとか人権だとかという価値自体がやはり憲法で担われていて、それ自体が戦後の日本の政治、社会を、私はどこかにも書きましたけれども、戦後政治というのは憲法の定着の過程だというふうに見る方で、決して空洞化ではなかったと。憲法によって支えられて今の日本があるんだという戦後政治の認識を私は持っていますので、九条については紆余曲折、問題があることは重々承知していますけれども、基本的な日本の方向というのは憲法に支えられてきたと。
 そこのところでもって、改憲論も護憲論もですけれども、やっぱりそういったような憲法が実は日本の社会の基本にあって、日本の現在の国内政治あるいは国際政治を支えているというそこのところの認識がやはりまずなくちゃいけないんじゃないかというのが私の見解で、それを強調したかったわけです。
 それと、憲法九条との関係では、例えばフランスを考えますと、自由、近代的な市民憲法の発祥の地で、近代的な立憲主義の国ですが、例えばシラクが千九百九十何年ですか、世界の反対を押し切って核実験を強行するわけですよね。そうすると、立憲主義だとか憲法の基本価値の問題と国を守るという論理というのが必ずしもヨーロッパ諸国の中においても一致してないところがあります。
 これはドイツなども典型で、ドイツも国内の憲法について信奉すると同時に国防、徴兵制の廃止や何かが今議論されていますけれども、国を守るということが出てくる。
 そう考えますと、そちらのところを括弧に、そちらのところは本当は括弧に入れちゃいけないんですけれども、少なくとも日本国憲法の戦力の不保持という規定は、世界の国からすると、やはり他の国に見られない憲法規定であるということは事実ですし、私は、個人的にはこの憲法九条二項の規定は改正しないで日本の平和国家の象徴としてとどめるべきだと、そういうふうに思いますが、そこのところで日本国憲法の改正、賛成か反対かという形で議論をされちゃうんじゃなくて、その本体のところの自由、平和という、自由、平和主義も含めて、自由、民主主義、平和というそこの基本価値のところをまず共有すべきじゃないかと。特に改憲派の人たちは、まず日本国憲法のいいところといいますか、日本の支えになってきたところをもっと認めてほしいという意見です。
○吉川春子君 最後の質問ですが、戸波参考人にお伺いしますが、日本国憲法の立場から憲法裁判所は違憲になるので設置できないと私は思うんですが、最高裁だけではなくて、違憲立法審査というか、具体的な事例が憲法に反しているか反していないかということをもっと積極的に裁判所として判断すべきだと思うんですが、この点でシステム上の改革というか提言というか、もっと憲法判断が積極的に行えるような方法というのを、御提言がありましたらお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(戸波江二君) 私は、もうさきに申しましたように、憲法裁判所制度がいいのではないかと考えていまして、ただ、これも面白いことに、日本の議論では改憲論者が憲法裁判所を作れと言っているんですよね。
 しかし、憲法裁判所というのは、実は憲法という規範に価値を求めて、その憲法の価値に従って現実の社会だとか政治を規律していく。だから、憲法価値の実現プロセスなんですよね。ですから、本来、憲法価値を信奉している人が憲法裁判所を作ってもっと憲法による裁判を活性化していこうというのが筋なんですけれども、日本では奇妙なことにそうなっていないというのが、ちょっと余計なことですけれども一つあります。
 それから、現行憲法の下で、憲法裁判所はやっぱり憲法改正をしないと作れませんので、一つの提言として出ているのは、最高裁の中で憲法を専門に審理判断する部を作って、そこでもって審理判断したらどうかという提言があります。私はそれに基本的に賛成で、つまりやはり憲法、もうさっき申しましたけれども、憲法に通じた、あるいはこれも異論がおありになるかもしれませんけれども、憲法感覚だとか憲法価値を信奉し体現するような裁判官がそこに就いて、日本の政治を憲法に照らして規律していくというシステムがあるといいんじゃないかなというふうに考えております。
 要するに、現在の最高裁でもそれに適した裁判官が入ればいいんですけれども、憲法裁判に適した裁判官が入れない仕組みになっていまして、現在、十五人いる裁判官のうち六名が裁判官出身で、これキャリアですから余り憲法裁判やってきていないと。弁護士出身の裁判官は五人、四人いられて人権派ですけれども、それから検察官出身だとか行政官出身の裁判官ですとなかなか憲法的な感覚から判断ができない。ましてや、憲法問題というのは、実は裁判官であっても憲法の事件というのはほとんどやっていないんですよね。下級審でもって憲法が争われる事件というのはほんの一握りで、ある裁判官などは四十年間やって一件も憲法裁判やったことないという裁判官さえいらっしゃるわけで、そういう中でもって突然最高裁へ入って憲法判断を書けるかと。特に違憲判断を書くためには、よほどの憲法の素養と知識と外国での動向、国際的な人権保障の在り方についての議論や何か習熟していなくちゃいけないですけれども、そういうような素養がなきゃ書けないと思うんですよね。そうすると、ある意味で機構の改革も必要ではないかというふうに私は考えております。
○吉川春子君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 平野貞夫君。
○平野貞夫君 国会改革連絡会という会派が十五名でありまして、私はその中の自由党に所属する者でございます。無所属の会と自由党で構成している会派なんですが。
 私たち自由党というのは、実は平成十二年の十二月に「新しい憲法を創る基本方針」というのを発表しております。PRが下手なものですから先生方は御承知ないと思いますが、ここにも出そうと思っておるんですけれども、なかなか出す土俵ができないものでそのままになっておるんですが、自由党は新しい憲法を作ろうという、必ずしも憲法改正という概念ではございません。改憲論の中に入れられますけれども、私は別に考えております。
 そこでは、戸波先生の考えている考え方とそう差はないんです。やはり現在の憲法の基本原理を変えようというものじゃございません。現在の日本が現憲法の基本原理によって支えられてきたという認識でございますし、また現在の日本の持つ矛盾もその基本原理の中から派生しているという、こういう認識をしております。
 確かに、戸波先生がおっしゃるように、憲法を作ろうあるいは憲法を変えようという場合に、なぜ変えなきゃならぬかというそういうことが、我々政治家でもあるいは国民の間にもできるだけ多くのコンセンサスがあることが必要だと思うんですが、これは私ちょっと個人的な意見も入るんですが、私たちが新しい憲法を作ろうというのは、一つは現憲法の原理を継承、発展させようということなんです。お二人の先生とも基本的に今の憲法の原理がまだまだ使えるんだという、有用だというそういうお話だと受け止めたんですが、私、自由主義者の立場でこんなことを言うのを変に思われるかも分かりませんが、一言で言えば、なぜ変えなきゃならぬかという理由付けとして、暴走する資本主義社会をどう憲法上枠を入れるかという問題が現在はあると思います。
 現憲法は、確かに十九世紀的なものあるいは二十世紀的なもの、いろいろ入り混じっておりますが、どうもそういう問題意識はないと。本当の人間の幸せというものを考えた場合、この憲法は基本原理としてはいいものですけれども、産業資本主義社会、工業資本主義社会から情報社会へ大きく激動している混迷の中で、やはりできるだけ国民の多くの人の意見でそういったものの整備が必要だと思っています。
 そこで、具体的にお聞きしますが、時々話題になっております憲法二十五条、私どもはこれでは不服だと思っております、不十分だと思っています。特に二項、この問題はやはりもうちょっと具体的に、基礎的社会保障は国家の義務で整備しなきゃ駄目だというように踏み込んだ規定にすべきだ、努力目標じゃ駄目だと思います。
 と申しますのは、今の資本主義というのは別に経営者あるいは資本家でやっておるわけじゃございませんで、やはり勤労者の協力あるいは消費者の協力でもって成り立っているわけでございまして、もちろんこの二十五条の二項が悪いとは言いませんですが、これは具体的に、基礎的社会保障については国家が保障することによって初めて公正で自由な資本主義社会の競争が実現すると思いますので、そういう視点が必要だと思うんですが、戸波先生の御意見をお聞きしたいと思います。
○参考人(戸波江二君) 半分以上賛成で、憲法の改正との関係でいいますと、やっぱり社会変化が物すごく進んでいまして、御指摘の情報革命から、それから家族の変化、それから科学技術のクローンの問題まで、もういろんな分野でもって急速に考えられなかったような進展が、社会の変化が進んでおります。
 それから、人権を強化するという考え方も、これも重要でして、今までの例えば表現の自由にせよ社会権にせよ、それをもう少し強化充実するような方向でもって考えるべきだと、これも御指摘のとおり。ただ、問題は、憲法改正という形が必要かどうかの問題になりまして、そうすると、どういうような条項を憲法に盛り込むのかという姿勢の問題といいますか、考え方の問題が出てくると思うんです。
 それで、人権のところにつきましては、各国の憲法は割かし詳細な人権規定を置きましても余り追加や何かしないんですね。環境権だとか環境保護規定は置かれまして、私はそれには、環境権については入れてもいいんじゃないかと考えてはいるんですが、それから知る権利、プライバシーについても入れてもいいんじゃないかと考えているんですけれども、今おっしゃった社会権について、二十五条の二項をもう少し具体化して法的義務性を強化するという御提案の趣旨は分かりますけれども、二十五条の改正という形でしなくても、もう少し社会保障基本法みたいのを作って義務規定を法律でもって定めるという形でもって僕は十分カバーできるんじゃないかと思うんですよね。
 ということは、元に戻りますと、憲法改正でもって憲法の強化、人権の強化をするときに、どういうスタンスでどういうような条項を憲法規定として盛り込むのかという判断、これには二つありまして、なるべく憲法典に細かく規定するという、ドイツの基本法ですと人権のところは二十条ぐらいしかなくて余り変化がないんですけれども、後の方の百条以上のところというのは物すごく細かな、連邦と州との関係だとか立法権の範囲だとかという規定が置かれている憲法がありまして、日本国憲法は全部で百条ちょっとですから、統治機構のところを含めてもそれほど多くないわけで、日本国憲法の場合には、さっき申しましたように、何といってもコンセンサスがないんですよね。
 その基本のコンセンサスがあれば、じゃ、ここのところをもうちょっと強化しようという形でもって人権のところや何かも強化できますけれども、憲法改正、是か非かという形の政治問題になっているときに、社会権についてのここのところを義務化したらどうかと。これは、義務化すること自体は非常にいいんですけれども、それを憲法改正というレベルまで持っていって政治的な対立をして憲法改正だと、そういうふうに主張する必要があるかどうかという、これは状況の判断ということにもなりますけれども、理論的に言いますと、どういう条項を憲法典に盛り込むかということであり、憲法学者は余り議論していませんけれども、私は、やはり基本的なところを押さえるのが憲法で、それを発展させるところは法律でもってどんどん作ればよいというのが私の考えで、憲法改正難しいですから、むしろ法律でもって発展させるんだったらそれで行うというのが現実に対応したやり方ではないかというふうに考えております。
○平野貞夫君 余り先生と論争をするつもりはございませんが、どうも日本の憲法学者の多くの人は、護憲学者もあるいは改憲学者も上手に政治的なんですね。むしろ我々政治家が非常に論理的にこの憲法論というのはやっておるわけなんですが、憲法をより良くする努力というのは、これは政治家よりかはむしろ学者が、言葉の選択とか概念の変更というのは、まあそんな感じがするんですが。
 そこで、西谷先生に、私、素朴な質問をしますが、労働という概念と勤労という概念は違うんですか、同じなんですか。
○参考人(西谷敏君) 若干の議論はありますが、圧倒的な多数説は、違いはないというふうに考えております。
○平野貞夫君 私、労働法とか労働条件とかという言葉が余り好きじゃないんですね。憲法にはたしか労働という言葉は一つもないと思うんですが、勤労という言葉であると思うんですが、労働という言葉は、何かマルクス主義の残存か何か知りませんが、非常に階級対立的なイメージをいまだに引っ張っているというので、労働法というのを勤労法というふうに直すことは、そういうのは理屈にやっぱりなりませんですかね。
○参考人(西谷敏君) 例えば、韓国では労働基準法に相応するのが勤労基準法でありまして、韓国では勤労という言葉を使っているようですが、私は労働という言葉はそれほど嫌いではありませんし、これまで戦後五十年以上、労働組合法とか労働基準法、全部労働で来ておりますので、労働で一向に差し支えないのではないかというふうに思っております。むしろ、その労働という言葉がマスコミ等で十分、何といいますか、本来の形で伝わっていないといいますか、労働という言葉自体は、むしろマスコミによって言わば違った意味というか、ゆがめられた意味で使われてきたというところに本当の問題があるのではないかというふうに私は思っております。
○平野貞夫君 それと、私個人が考えております健全な市場経済あるいは資本主義社会と言ってもいいと思いますが、これの基本はやっぱり勤労者の諸権利の拡大と経済的な充実といいますか、これ抜きにはこれからの資本主義の健全なものはないと思いますし、またそれは同時にデモクラシー、健全なデモクラシーの基であると思うんですが、そういった感じの勤労者の条件、諸条件の整備がそういう健全な資本主義あるいは健全なデモクラシーに結び付くものだというような発想の条文が、妙に改憲論というふうに、論理的にひとつ考えていただきたいんですが、私はそういうものも将来憲法の中にあっていいじゃないかという意見なんですが、いかがでございましょうか。
○参考人(西谷敏君) 私も改憲論者ではありませんので、改憲論と受け取られると困るんですが、仮に、将来憲法を変える時期が来た場合には、もちろんこれまでの条文をすべて金科玉条にしなければならないということではないでしょうから、その場合には社会権あるいは経済的自由についても様々な検討は必要かなというふうに思っております。
 ただ、私、現在の日本の大きな問題は憲法自体にあるんではなくて、憲法自体が現実の社会なり、あるいは現実の政治あるいは政策の中で十分考慮されていないんじゃないか、尊重されていないんじゃないかと。そこにむしろ基本的な問題があるんじゃないかというふうに思っております。
 例えば、私、専門はドイツ労働法ということでやっておりますが、ドイツでは、例えば労働法的な規制を論じるときに、経済学者を含めて絶えず憲法論に立ち返るんですよね。ドイツの憲法の労働に関する規定というのは極めてわずかですけれども、社会国家に関する規定とか、わずかですけれども、絶えず憲法論に立ち返って議論すると。こういう点では日本は相当違っていると。何か政策論は政策論で突っ走ってしまっているという気がいたすわけです。
 先ほど、議員さんの方が何か憲法を論理的に考えているというふうにおっしゃいましたけれども、私は、やはり国会での議論の中でもっと憲法論を、憲法論を踏まえた政策論をやっていただきたいというふうに思っているところです。
○平野貞夫君 その点は私も同じ意見でございまして、先生の専門の労働法の世界だけでなくて、一番日本国憲法の形骸化しているのは国会運営なんですよ。日本の議会制民主主義というのは本当に九条よりかひどいですよ、隔離しているのは。それはおっしゃるとおりです。
 最後に、戸波先生、昨日も人権擁護法案の参考人質疑で塩野先生に申し上げたんですが、人権委員会というのは、本来法務省の外局なんというものじゃなくて憲法機関だと思うんですよね、実質的に。将来、憲法を改正するときには是非憲法の中に人権擁護のために人権委員会を作れという、会計検査院のような規定をしてほしいと、私はそういう意見なんですが、御意見伺いまして終わります。
○参考人(戸波江二君) そのとおりで、中立的なやっぱり国を監視できるような組織として組織化されるべきですが、そのとおりですが、やっぱり人権擁護機関を置くこと自体についての合意が果たしてできているのかどうかちょっと心配なんですよね。憲法学者の中でも、国家からの自由、国家が人権擁護のための機関を作っていろいろやるということになると、侵害しないかという危惧、それから正に法務省の外局に作られることの危惧、それから国の行為についてのコントロールよりも民間の方の私人間の人権侵害ばかりやっていて国の方をしっかりやっていないじゃないかという危惧、やっぱり現状の法律にはあるんですよね。
 私は、人権擁護法そのものの考え方だとか人権擁護機関の設置には賛成なんですけれども、今おっしゃられる趣旨でもって是非いい人権擁護機関を作っていただきたいというふうに切望します。
○会長(野沢太三君) 大脇雅子君。
○大脇雅子君 両先生におかれましては、貴重な御意見をありがとうございます。
 まず、西谷先生にお尋ねをしたいのですが、規制緩和の中で様々な労働法規定の弾力化が進んで、先生の御著書などを拝見いたしますと、いわゆる個人化と多様化というようなことを言っておられます。多様な就業形態が広がりまして、パートタイム労働者とか有期雇用労働者あるいは派遣労働者、契約社員など様々な多様化が進む中で、正規労働者との、あるいはまた相互間の様々な格差が拡大しつつあるということであります。先ほども、パートタイム労働者とフルタイム労働者との差別の問題に触れられておりましたが、日本型均衡処遇ルールの確立に向けて、パートタイム労働研究会の最終報告も出たりしております。
 同一価値労働同一賃金の原則を含む均等処遇の原則が必要であると、立法化が必要であると考えますが、この経済的自由に対する社会権の保障という観点から、先生はそうした問題に対する取組をどのようにすべきとお考えでしょうか。
○参考人(西谷敏君) 先ほども若干申し上げたんですが、それに加えさせていただきますと、この間、アメリカでもヨーロッパでもいわゆる規制緩和というのは多少とも進んできました。ただ、その中で非常に私が特徴的だと思いますのは、いわゆる差別禁止についてはほとんど規制は緩和されていないということであります。あるいは、むしろアメリカ、ヨーロッパともに規制が強化されていると。つまり、経済的な規制を強めるのか緩めるのかという話とそれから差別を禁止するかどうかというのは全く別次元の問題として扱われているということに注目したいと思います。
 つまり、差別禁止の問題というのは、同じく働く者は同じ待遇を受けるべきだという、これは言わば正義の要請でありまして、その問題についてはどこの国でもきちっと守っていると。そこで、翻って日本を見ますと、とりわけパートタイム労働者とフルタイム労働者の待遇上の差別というのは非常に顕著なものがあります。日本では、ヨーロッパと違いまして、パートタイム労働者というのが何か単に労働時間が短い労働者というんではなくて一つの身分というふうにそれがとらえられていて、したがって、疑似パートと言いますが、やっている労働もフルタイムと同じ、労働時間も同じ、にもかかわらず名前だけパートという形で賃金が半分以下というふうな労働者が少なからず存在すると。こういった例に見られますように、パートタイム労働者とフルタイム労働者の差別は非常に深刻な問題としてあると思います。同じような問題が派遣労働者あるいは契約社員等についてもあるわけであります。
 したがいまして、私は、日本の労働法全体がもう少しヨーロッパ化すべきであるということとの関連でいえば、やはりこの差別禁止あるいは平等取扱いの原則というものを現実社会に定着するような立法化がどうしても必要であろうというふうに思っております。
 ただ、日本の場合に、同一価値労働同一賃金の原則を直ちに導入しにくいような歴史的な背景もございます。いわゆる年功序列型の賃金処遇、人事処遇というのは元々、同一価値労働同一賃金の原則とは違ったところに生まれてきたものでありまして、これが残存している以上、直ちに一〇〇%の形で同一価値労働同一賃金の原則を強制するということには多少無理があるかなというふうに思っておりますが、しかし、基本はあくまで、名前がパートであろうとフルであろうと、とにかく同じような仕事を同じようにしている以上は均等の待遇を受けるべきであると、この原則を法律上明確にしてそれを使用者に義務付けるということがどうしても必要だというふうに考えております。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 もう一つ、労働条件の個別化といいますか個人化の問題で、今までは労働者の従属性というのは一つのキーワードで、労働組合等、集団的な決定が労働条件の言わば決定の大きなスキームであったわけですが、このところ個別決定の自由が拡大をいたしてきております。
 先生は先ほど労働者の従属性のキーワード性をおっしゃいましたが、人間の尊厳の保障ということが新しい労働法の原理として言われ始めておりまして、この観点から憲法の労働基本権というものは二十一世紀にどのような解釈上の根拠を持つことになるのでしょうか。
○参考人(西谷敏君) 生存権というのが二十五条にありまして、これまでの理解では、二十六条以下の社会権というものは基本的に二十五条の生存権の下位概念として位置付けるという理解であったと思います。
 ただ、現在の時点で考えてみますと、二十五条の生存権の規定は「健康で文化的」という表現になっておりまして、どちらかというと物質的な幸福といいますか、そういうことに傾斜した概念であった、そういう点での反省が生じております。むしろ、現在の労働現場の問題、あるいは労働法上の課題の問題としましては、そういった物質的な条件保障と並んで、労働者の精神的な幸福といいますか、そういうものが非常に重要になってきているという理解が共通のものになってきております。例えば、職場におけるセクシュアルハラスメントの問題とか、あるいは職場におけるいじめの問題、あるいはプライバシーの問題、こういうものは二十五条で言う「健康で文化的」という概念にはなかなか収まり切らない広がりを持っているのではなかろうかと。
 そういうことから、社会権の基礎に二十五条だけを置くのではなくて、むしろ憲法十三条の個人の尊厳規定、あるいは人間の尊厳の理念、こういうものを据えて、単に物質的な条件保障だけじゃなくて精神的な幸せをも目指す、そういった国の政策を展開していくべきである、そういう考え方が次第に有力になっていると思います。そういう意味では、憲法二十七条の二項で、労働基準法などの法律によって勤労の基準を決めるということになっておりますけれども、その基準の内容としましては、やはり労働者の精神的な自由なり幸せを含めた基準の設定が要求されていると。
 そういう意味で、生存権の理念が非常に豊かになっている、あるいは生存権の理念だけでは不十分なので人間の尊厳の理念が強調されているということかと思います。
 更にもう一点だけ付け加えさせていただきますと、これまで、全体としまして労働の場では、言わば集団的横並び主義といいますか、これが非常に強くありました。一例を挙げますと、残業というのはみんなが一緒に同じようにやらなきゃならない、しかし余り働き過ぎると困るので週一回だけノー残業デーを設ける。つまり、働く者はすべて横並びで働くという、そういった考え方が支配的でありました。
 しかし、その労働者の一人一人の生活を見ますと、非常に多様になっております。生活条件も多様だし、あるいは生き方も多様になってきております。そういった多様性とそれから集団的な横並び主義とが非常に大きく乖離してきていると。そういう意味では、今後の労働法の在り方としては、そういった多様性の問題、あるいは労働者がいろんな選択肢の中から自分の生き方を選べるという問題、そういう意味での個別化が大変重要になってきていると思います。ただ、その際に、個別化ということが、あくまで労働者自身が自分のライフスタイルに合わせて選択できるということ、これが非常に重要でありまして、そういった労働者の選択というものを抜きにした個別化というのはかえって弊害があるのではないかというふうに思っております。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 戸波先生にお尋ねをしたいのですが、先生は、結果として生存権の規定が福祉政策を生み出してきたと。そして、政策強化のむしろ憲法条項は基準ではないかというお言葉がありまして、非常に啓発されたわけですが、この憲法上の規定というのは、プログラム規定というより生存権という社会権についてはそれが強いと言われているわけですが、将来更に具体的な権利形成機能を持つことになるのか、あるいはそういうのは個別法の展開だとお考えなのか、それからまた国会と政府が憲法の生存権の規定を、私は立法指針として政治家の義務ではないかと受け止めるべきではないかと思うのですが、御意見を伺いたいと思います。
○参考人(戸波江二君) 歯切れがいい答えできませんけれども、要するに憲法があり、それを具体化する社会保障立法があり、それによって実際にそれを実施する行政があり、それによって国民の生存権、社会権、社会保障が実現していくというプロセスになります。
 そこで、そこでの仕分をどうするかの問題が今のお尋ねだったと思うんですけれども、やっぱり法律の役割というのは私は決定的だと思うんですよね。憲法で細かな生活保障、社会保障について一々細かく決めるわけにはいかない。やはりきめ細かく、どういう場合にどういう人にどういう給付を与えるという形でもって決めていかなくちゃいけないし、それから、やっぱり時代の変化、社会の変化に対応する形での立法をしなくちゃいけないと。そうすると、やはり憲法が、二十五条があって、それを国会が具体化すると。そこでの立法というのはやっぱり憲法の具体化立法として、憲法と一体となった社会保障基本法制、基本体制というような構造ができるということではないかと思うんですね。ですから、憲法と法律とをそこで分けちゃうんじゃなくて、できたものとしての一体と考えているということが一つ。
 ただ問題は、今最後に大脇議員がおっしゃったように、国会がやらない場合とか国会が社会保障の中で抜けている場合やなんかの問題があるんですよね。そういう場合にやっぱり憲法の規範力を発揮して、そこでの不活動を何とか違憲とするとか、憲法がもっと強く言っているんじゃないかという形で解釈論的な国会に立法を促すような議論ができないかというところが先ほどお尋ねあった吉川議員の御議論でもあるということです。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 最後に、もう一度西谷先生にお尋ねしたいのですが、失業者が今五・四%で高止まりし、最近私も衝撃を受けたことは、過労死が増えているということで、自殺者ももちろん交通事故の四倍、五倍という数を更新しているわけですけれども、ワークシェアリングについての先生の御見解をお伺いして、私の最後の質問とさせていただきたいと思います。
○参考人(西谷敏君) ワークシェアリングの議論は、実はヨーロッパでは一九八〇年代から非常に盛んでありまして、私が非常に印象的だったのは、一九八二年にたまたまドイツの留学の機会が与えられておりましたときに、ドイツの労働組合総同盟の委員長が、今後は賃金よりも時間短縮であるということを明言しておりました。それぐらい本腰を入れてワークシェアリング、つまり時間短縮を通じて雇用の機会を増やしていくという取組を進めていたわけであります。
 私、日本でもようやくワークシェアリングの議論が出てきたのは遅きに失するとは思いますけれども、それはそれなりに大変重要なことだろうというふうに思います。ただ、ワークシェアリングのやり方にもまたいろいろございまして、どのようなワークシェアリングをするのかということでありますが、私は、やはり基本的には可能な限り現在の生活の保障がなされるということを前提とした上での時間短縮が進められるべきではなかろうかと。
 その際に、現在の賃金を保障しながら時間短縮をするのは経済的に不可能であるという議論は当然出てくると思うんですけれども、ただ、実際問題としましては、現在の長時間労働を支えている中にかなりサービス残業のような違法な労働部分も含まれているわけでありまして、まず取りあえずはサービス残業を廃止する、やめる、やめさせる。これによって相当程度一人当たりの労働時間が短縮されまして、ワークシェアリング効果は出てくるであろうと。それが一つであります。
 その上で、さらに、どのようにワークシェアリングを考えていくかという場合に、一つの考え方として、私は、今後の問題として、短時間正社員の問題というのは十分検討に値するのではなかろうかというふうに思っております。
 これまでやはり、集団的横並び主義といいますか、労働時間は少なくとも正社員に関する限りは同じでなければならないというふうな考え方がかなり強く染み付いていたように思いますけれども、今後は、労働時間は人によってある程度の幅がある、その中で、その間で労働者が選択できると、ただし時間当たりの賃金は全く差別がないと、こういった在り方を含めてワークシェアリングの議論を進めていくべきではなかろうかというふうに考えております。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) よろしいですか。
○大脇雅子君 終わります。
○会長(野沢太三君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後三時二十七分散会

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