第159回国会 参議院憲法調査会 第3号


平成十六年三月三日(水曜日)
   午後一時開会
    ─────────────
   委員の異動
 二月二十五日
    辞任         補欠選任
     辻  泰弘君     角田 義一君
 二月二十六日
    辞任         補欠選任
     大脇 雅子君     大渕 絹子君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                武見 敬三君
                保坂 三蔵君
                吉田 博美君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
            ツルネン マルテイ君
                若林 秀樹君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
    委 員
                阿南 一成君
                岩井 國臣君
                扇  千景君
                亀井 郁夫君
                桜井  新君
                椎名 一保君
                常田 享詳君
                福島啓史郎君
                藤野 公孝君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松村 龍二君
                松山 政司君
                森田 次夫君
                山崎  力君
                江田 五月君
                大渕 絹子君
                川橋 幸子君
                小林  元君
                角田 義一君
                中島 章夫君
                平野 貞夫君
                福山 哲郎君
                松井 孝治君
                白浜 一良君
                山口那津男君
                山本  保君
                井上 哲士君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                田  英夫君
                岩本 荘太君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       京都大学大学院
       法学研究科教授  浅田 正彦君
       東京大学大学院
       教授       大沼 保昭君
       国際基督教大学
       大学院教授    功刀 達朗君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (平和主義と安全保障
  ―憲法と国際法、国際連合)
    ─────────────
○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「平和主義と安全保障」のうち、「憲法と国際法、国際連合」について、京都大学大学院法学研究科教授の浅田正彦参考人、東京大学大学院教授の大沼保昭参考人及び国際基督教大学大学院教授の功刀達朗参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、浅田参考人、大沼参考人、功刀参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず浅田参考人にお願いいたします。浅田参考人。
○参考人(浅田正彦君) 京都大学の浅田でございます。本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。
 本日のテーマは「憲法と国際法、国際連合」ということですけれども、前回からの流れもありますので、国際法から見た武力行使の問題を中心にお話ししたいと思います。
 武力行使や自衛権といった問題は憲法上の問題であるだけでなく、そもそも国家間の関係に関する国際法上の問題でもあります。したがって、基本的に両者の間に概念上のずれはあってはならないはずであります。しかし、日本国内におけるこの問題に関する議論に接してきました印象としては、むしろその特殊性が目立っているような気がします。もちろん特殊な概念を使用するというのは、個々の国家の置かれた個別の状況からあり得ないことではありませんけれども、それが国際法の基本的な考え方とずれているということになれば、その主張について諸外国の理解が得られないということにもなりかねないという懸念があります。
 そこで、以下では、私自身がこれまで最も大きなずれを感じてきた二つの概念、つまり武力行使一体化論と、それから武力行使と武器使用の区別の問題を取り上げることにしたいと思います。
 まず、武力行使一体化論ですが、これはレジュメの一枚目の(1)に挙げましたように、自らは直接武力の行使をしないとしても、他の者が行う武力の行使への関与の密接性などから、我が国も武力の行使をしたとの法的評価を受けるということがあり得ると、そういった考え方であります。
 この考え方が大きく取り上げられるようになったのは、一九九〇年の湾岸危機の際の国連平和協力法案の国会審議においてであります。この法案は結局廃案になったわけですけれども、湾岸における多国籍軍の後方支援のために自衛隊を派遣するということを可能にすることを目的に提案されたものであります。この法案の審議の際に、(2)にあります一九八〇年の自衛隊の国連軍への派遣に関する政府答弁書というものとの関係が問題となりました。
 その答弁書によりますと、アンダーラインを引きましたけれども、武力行使を目的、任務とする国連軍への自衛隊の参加は憲法上許されないというふうになっていたわけで、多国籍軍の後方支援というのはこの答弁書に反するのではないかということになったわけであります。そこで政府は、(3)のような統一見解を示しました。すなわち、国連軍への関与の在り方としては、参加と、それから協力があると。これもアンダーラインの部分ですけれども、参加に至らない協力、つまり国連軍の司令官の指揮下に入らない形であれば、たとえ国連軍の任務、目的が武力行使を伴うものであっても、国連軍の武力行使と一体とならなければ憲法上許されるというふうな見解を示したわけです。それ以来、様々な法律に従って派遣される自衛隊の行為が他国の武力行使と一体化するか否かという点で議論されることになったわけであります。
 しかし、このような議論状況は国際法の考え方とは異質であるように私は感じます。特にそう感じるのは、自らは武力行使を行っていないのに他国の武力行使との密接性から武力行使を行ったものとみなされるという一体化論の中核的な考え方そのものとの関係においてであります。
 仮に日本が他国の武力行使に対して後方支援を行った場合を想定しますと、国会等では、戦闘地域で後方支援を行えば他国の武力行使と一体化し、自らも武力を行使しているとみなされ、憲法上許されないといった説明がなされて、それを前提として戦闘地域か非戦闘地域かといった議論で多くの時間が費やされております。しかし、なぜ後方支援の行為、例えば給油などがそうですけれども、それが武力行使と評価されることになるのかという中核についてはほとんど説得的な説明がありません。なぜある行為を行ったのに別の行為を行ったと評価されるのかと、少なくとも法的な説明はないように思います。
 こういった問題について、国際法では、二〇〇一年の国家責任条文という文書があります。そこで基本的な考え方が示されております。レジュメの(4)に挙げてありますけれども、その国家責任条文の第十六条において、他国の行為に対する支援、援助をどのように評価すべきかということが述べられております。
 それによりますと、他の国の国際違法行為の実行を支援し又は援助する国は、支援又は援助につき国際責任を負うというふうに規定されています。これは、違法行為に関する責任についての条文でありますのでこういった規定になっていますけれども、要するに、他国の行為の実行に対する支援あるいは援助がどうとらえられるかという点では共通しておるわけであります。
 このような支援国あるいは援助国というのは、アンダーライン引きましたように、支援又は援助につき責任を負うというふうにされておりまして、その意味するところは、この文書を作成しました国連の国際法委員会というところのコメンタリーで次のように説明されております。つまり、被支援国が違法行為を行った場合に、支援国が当該違法行為を行ったことになって責任を負うというのではない、違法行為に支援を行った、その支援行為そのものに対して責任を負うということが強調されています。つまり、支援を受けた被支援国の行った武力行使に一体化して支援国も武力行使を行ったことになるというふうな法的な構成は取られていないのであります。
 これは一般論としては言わば当然のことでありまして、国際法上の独立の法主体である以上、別の法主体の行った行為が自己の行為になるということは基本的に考え難いというふうに思います。
 もっとも、これについては例外がないわけではありませんで、その例外が(5)に掲げました侵略の定義の第三条(f)というところにあります。これは、第三条では侵略行為というのはどのようなものかということが列挙されているわけですけれども、その(f)において、侵略行為の一類型として、「他国の使用に供した領域を、当該他国が第三国に対する侵略行為を行うために使用することを許容する国家の行為」ということを挙げています。要するに、他国が侵略行為を行うことについて自国の領域を使用させたという場合には、その領域を使用させた行為が侵略行為になるというふうなものであります。したがって、この場合には、基地使用の許容という行為が侵略行為というふうにみなされるというわけであります。これは、侵略というふうな行為に対する援助というのは極めて重大な違法行為に対する援助であるから、例外的に基地使用の許容という行為にすぎないものが侵略行為とみなされるということになるというふうに考えることができるかと思います。そういう意味では極めて例外的な規則であると言えます。
 逆に言いますと、国際法においては、一体化というのは侵略行為に加担するような例外的な場合にのみ問題となり得るのでありまして、それ以外の通常の支援行為、援助行為には妥当しないというふうに言うことができます。
 ただ、これは一体化はないということでありまして、国家責任条文草案の(4)に挙げましたように、違法行為に対して支援あるいは援助を行えば、その支援あるいは援助自体が違法行為となるというわけですから、日本が他の国に、日本が他国の武力行使に対して援助を行う場合には、その援助の対象となる他国の武力行使が合法か違法かということについて慎重にかつ主体的に判断する必要があろうかと思います。これが第一の問題であります。
 もう一つの問題は、武力行使と武器使用の間の区別の問題であります。
 この概念、この二つの概念については、レジュメの二ページ目の(1)のような定義がなされております。一般に、憲法九条一項の武力行使とは、我が国の物的、人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為をいい、武器使用とは、火器その他直接人を殺傷をし、又は武力闘争の手段として物を破壊することを目的とする機械等をそのものの本来の用法に従って用いることをいうと。これはそのとおりでありまして、誠に正確な定義であるというふうに思います。
 問題は、我が国の法制上、自衛隊の海外への派遣にかかわるものはすべて武器の使用とされている点に関連します。
 もちろん、定義の二のところにありますように、武器使用にも武力の行使となるものと武力の行使とならないものとがあります。しかし、各種の法律を見ますと、すべて自己保存のための自然権的な権利であるとして武器の使用を説明しておりまして、それらは武力行使ではない武器使用であるということになります。
 これは、そもそも海外派遣、つまり武力の行使を目的とした武装部隊の他国への派遣、そういった海外派兵が一般的に憲法上許されていないという建前があって、したがって海外においては基本的に武力行使は行えない、行わない、したがって武力の行使ではない武器の使用だから憲法に違反することはないといった論理構成になっているように思います。
 言い換えれば、そのような論理構成を取ることによって、こういったそれらの法律に基づく武器の使用というのは武力行使ではあり得ないとして、憲法違反であるという非難を回避する手段となっているようにも感じます。
 いずれにせよ、国際法の観点から見た場合には、これらの法律に従って派遣された自衛隊員による武器使用が武力の行使に当たることも可能性としてはあるというふうに思います。
 国際法上、何をもって武力の行使というかという点については、明文の規定があるわけではありません。が、一般には一国の軍隊による他の国家、又は国家に準ずる組織も入りますけれども、そういったものに対する武器使用というのが武力の行使というふうに考えられます。
 日本政府の定義でありますレジュメの(1)の前半部分で、我が国の物的、人的組織体による国際的な武力紛争の一環としてのというふうに言っているのも同様の趣旨であろうかと思います。
 ここで問題なのは、自衛隊員による武器の使用が我が国の組織体の一員としての武器の使用であるのか、それとも個人としての使用であるのかということであります。この点については、国際法上は、さきにも示しました国家責任条文という文章に、国家機関である者の行為が国家の行為とされるか否かということについての基準が示されています。
 それが、(3)の国家責任条文の第七条に言及がありますけれども、これによりますと、国家機関たる者の行為というのは、それがたとえ権限を優越した行為であっても、国家機関としての資格で、アンダーラインを引いておりますけれども、その資格で行われた場合には国家の行為となるというふうにされています。
 他方、国家機関である者でも私人としての生活はあるわけで、国家機関の行った行為であっても、それが国家機関としてではなく私人として行った場合には、これは国家の行為とはならないわけであります。
 こういった国家責任条文に示されております、どのような場合に国の行為になるのか、国の行為にならないのかというふうな基準を当てはめてみますと、法律に基づいて派遣された自衛官がその職務の遂行上行った武器の使用というのは、これは明らかに国家としての行為であります。それは、個人としての自己保存のための自然権的な権利の行使ではないと言わなければなりません。そういった国家としての行為が他の国家あるいは国家類似の組織に対して武器使用という形で行われたものであれば、それは武力行使以外の何物でもないというふうに思うわけです。
 ただ、今言っておりますのは、武器使用が武力の行使に当たるということは十分にあり得るということを言っておるわけで、つまり武器使用と武力行使を峻別することに若干の問題があるということを言っているわけで、そのような武力行使が憲法に違反するというところまでは言っておりません。憲法に違反するか否かというのは、当然、憲法九条に言う国権の発動たる武力の行使であるかどうか、あるいは国際紛争を解決する手段としての行使であったか否かという観点から判断することになろうかと思います。
 時間の関係で申し上げませんが、今までお話ししました自衛隊の海外における活動に関する問題というのは、必ずしも自衛隊の問題だけではなく、海上保安庁の巡視船等による同様な行為についても同じような問題があるのではないかというふうに思います。
 以上、簡単にまとめますと、日本政府は憲法九条の禁止する武力行使について、まず第一に、武力行使か否か、武力行使である場合には自衛の三要件を満たしているか否かということで判断を行います。そして、第二に、仮に武力行使でない場合であっても、他国の武力行使と一体化して日本が武力行使をしたとの法的評価を受けることにならないかという形で議論を行ってきております。
 しかし、そのいずれについても、つまり武力行使の概念についても一体化という考え方についても、国際法のとらえ方とはずれがあるというふうに思うわけであります。これはやはり、日本が今後ますます国際社会とのかかわりを深めていくことを考えますと、こういった国際法的なとらえ方とのずれというのは正していく必要があるのではないかというふうに思います。
 集団的自衛権についても申し上げたいことがありますけれども、この点については、時間の関係もありますので、質疑等でもしありましたらお答えしたいというふうに思います。
 御清聴ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、大沼参考人にお願いいたします。大沼参考人。
○参考人(大沼保昭君) それでは、私の方からお話し申し上げます。
 レジュメをお手元にお配りしてあるかと思います。三枚でございます。
 私は、今の浅田参考人のお話が武力行使に比較的集中したお話でありましたけれども、私のこれから申し上げることは、より一般的に、憲法と国際法、国際連合という問題を三つの大きな柱に分けてお話ししたいと思います。
 まず第一に、この「憲法と国際法、国際連合」というテーマの意味を考えてみたいと思います。
 私は、憲法を考える際に、直接的視点と大局的視点という二つの大きな視点を分けて考えるべきだというふうに考えております。直接的視点と申し上げますのは、憲法の具体的な諸規則と国際法の具体的な諸規則あるいは諸原則との関係を問題にする、あるいは憲法と国連、そしてその国連の理想と現実との関係を具体的な形で論ずるということであります。
 この具体的な問題としては、例えば憲法九条と国連憲章二条四項の武力不行使原則、あるいは憲章五十一条の個別的、集団的自衛権との関係といった問題がありますし、さらに、日米安保条約あるいはサンフランシスコ平和条約、日中共同声明といった、日本が拘束される対外的な国際文書と憲法との関係という問題などがあろうかと思います。
 これに対して、大局的視点ということを私が申し上げたいのは、憲法を考える際には、何よりもすべての人が自分の立場というものを相対化して議論を冷静に行う必要があるということであります。特に、今日のように憲法改正が現実の論点として登場している場合には、我々としては、できるだけ多くの国民の祝福を得て改正を実現させて、そうしてその改正憲法が定着するように議論を冷静に、かつ時間を掛けて、そうして長期的な視野に立って憲法を議論しなければならない。
 中には、憲法が政界再編の言わば分水嶺になると、憲法を材料として政界の勢力を再編すべきだというような議論もありますけれども、私はこういう考え方は極めて危険であるというふうに考えます。憲法というのは政界再編の道具となるようなものではなくて、国家の基本法、根本法でありまして、最後に申し上げますように、少なくとも一世代、二十五年間はもつという、そういう長期的な視点で慎重な国民的討議を行う必要があるというふうに考えます。
 例えば、現在、憲法と国際法との関係で最もかまびすしく論議されておりますのは、今、浅田参考人もちょっと触れられました集団的自衛権の問題であります。この集団的自衛権の問題といった場合に、これを認めるべきだという方は次のような議論をなさるわけですね。日本を守ってくれる米国軍が攻撃されたときに自衛隊は米軍を守ることができないと。で、米軍は自衛隊を守ることができると。これは不合理であると。だから、日本も米軍を守れるように集団的自衛権を認めるべきだという主張であります。これは、私はそれなりに、現在の国際情勢を考えた場合には説得力のある議論だろうというふうに思います。
 しかし、ではそれを直ちに憲法改正と、あるいは憲法の解釈ということに結び付けるのがいいのかどうか、特にその憲法改正という問題をこういう集団的自衛権という極めて具体的な目前の論点から考えることがいいのかどうか。これは、私は非常に問題だろうというふうに思います。集団的自衛権の問題というのは非常に大きな広がりを持つ問題でありまして、少なくとも今後二十年から三十年のアジアの状況、例えば中国が恐らく超大国化するであろうという状況、そういったものを考えて、十分長期的な視点に立って議論しなければならないというふうに思います。
 他方で私は、先ほど言いましたように、憲法というのは一世代を最低限単位として考えるべきだというふうに申し上げましたが、その観点からいいますと、現憲法は既に二世代以上制定から時間を経過しているわけです。これは、私の考えでは、一般的に申し上げて明らかに現実とのそごを来す、現実とのずれを多々の点で生じている。これは憲法九条に限りません。したがって、私は、やはり我々としては、改正を真剣に考えてこれを実現すべき時期に来ているというふうに考えます。この点は最後に詳しく述べたいと思います。
 この関連において、憲法というのは、広義の憲法と狭義の憲法、広い意味での憲法、つまり国家の基本理念の表明としての憲法と、それから狭義の現行憲法、これは国民主権原則に基づいて今日の我々が国民主権を行使して作るという、そういう憲法とに分けて考えるべきであろうというふうに思っております。
 広義の憲法といいますのは、国民が自らの在り方というものを表明した最高規範でありまして、この意味での憲法というのは、何も近代の国民主権原理に基づかなくとも、非常に長い人類の歴史の中に各民族が持っていた国の根本法であります。私の考えでは、あらゆる支配というのはその支配を受ける民の最低限の支持がなければ持続しないと。これは、たとえ皇帝の帝政であっても貴族制であっても現代の独裁制であっても、あらゆる政治において最低限の言わば暗黙の国民の受忍、支持というものがなければ長続きしないと。そういう意味で、その超歴史的な時間を超える民族というものが持っているその政治の在り方、これを体現するのが憲法であろうというふうに思います。
 我々、現在生きている国民自体が幾世代もの国民の作為不作為の産物でありまして、我々は直近の世代から大きなものを受け取っているわけでありまして、この受け取っているものというのは、もちろん恩恵がありますし、前の世代の負債がございます。戦争責任の問題はその負債の一つであります。憲法の改正を考えるに当たっては、我々が前の世代から受け取っている恩恵と負債ということを考える必要があろうかと思います。
 次に、二番目の憲法と国際法のやや具体的な問題に論点を移したいと思います。
 憲法と国際法との一般的な関係に関しましては、これまでの議論に、国会での様々な議論も含めてでありますが、若干の混乱があったかというふうに思います。
 まず、憲法あるいは国家の国内法の観点から見ますと、各国の国内法体系がそれぞれ様々な規範の上下関係を定めるのは、これは国家として当然のことであります。米国は米国の憲法に従って、日本は日本の憲法に従って、中国は中国の憲法に従って、その中で憲法、条約、法律、条例、政令その他の効力関係を定めていると。日本の場合には、一般的な考え方としては、国際法は憲法の下位で法律よりは上位にあるという考え方が支配的で、政府、裁判所もおおむねこの見解を取っておりますけれども、米国の場合はそれとは違って、連邦法と条約は同格であります。ですから、米国の場合には、条約を結んだ後でも、連邦法がそれに反する規定を設けてしまえば条約は覆されるということになります。この意味では、各国内法の上で国際法というのは位置付けられる。多くの場合、憲法よりも国際法は下位に置かれておりますから、憲法が優位に立つということになります。
 しかしながら、国際法の観点から見ますと、国際法というのは日本や米国という国家を丸ごと言わば義務付けております。したがって、憲法違反の条約は、国内法上これは履行できないわけでありますけれども、その結果として、日本なり米国なり条約に反した国というのは国際法違反の状態に置かれます。そうしますと、国家間関係においてこれを解消する必要があると。そのために、諸国は外交交渉を行ったり、あるいは、場合によっては憲法改正あるいは法律改正その他の方策で国際法上の違法状態を解消しようというふうに努力するわけであります。
 したがって、国際法の観点からは、そういう意味で、国内法上履行できないからといって国際法上の責任を回避することはできないわけですから、その意味では国際法は優位にあると。あらゆる国家は、憲法や法律を言わば言い訳として国際法違反を正当化することはできないと。どんなに自国の憲法が大事であっても、その憲法が大事であるということは国際法上の義務を逸脱する根拠にはならないと。このことははっきりと指摘しておく必要があろうかと思います。
 ですから、例えば日米安保条約が憲法第九条に違反しているという議論がございます。仮に違反しているとすると、日本の国家機関はこの日米安保条約を国内では履行してはならないということになります。しかし、その場合には、日本は米国に対して日米安保条約の義務を履行しないという違法状態に置かれることになる。したがって、米国との関係では、日本はその違法行為を解消するために何らかの具体的な行動を取らなければならないという、そういう関係に立ちます。
 次に、浅田参考人が触れられました九条における武力行使についてごく簡単に触れておきたいと思います。
 私がこれまでの議論を拝聴していて一番違和感を持ちますのは、九条における武力行使というのは、そもそも性質の違う武力行使をこれまでの議論は一緒くたに議論しているということであります。
 一番簡単に分かりやすく言うために私がよく学生に使う例えをいたしますと、国内法上、私服刑事とやくざが取っ組み合いをやっていると。そうすると、我々第三者が見た場合に、一体これがけんかであるのか何であるのかは分からないわけであります。しかしながら、私服刑事の実力行使というのはこれは公務執行でありまして、やくざの実力行使というのはこれは暴力であります。ですから、同じ実力行使といっても法的観点からいえば全く違う。私服刑事がやっているのは公共的な公務であり、やくざがやっているのは暴力であります。
 同じように、国際法上、国際紛争解決の手段としての武力行使というのは、これは国家の自己利益追求のための武力行使でありまして、言ってみれば、その国がどう正当化しようとも、それはやくざの暴力であるということがあり得ます。これに対して、国連軍やPKOが行う活動というのは言わば私服刑事の活動であって、国際的な公共的な性格を持つものであって、武力行使ではあるけれどもそれは国際法上正当であり、憲法をもってさえもそれを否定することのできない公共的な活動であります。
 したがって、私の考えでは、自衛隊がPKOの一員として、あるいは国際連合から正当性を付与された多国籍軍の一員として武力行使することは何ら憲法九条に反するものでないと。憲法九条が否定しているのは自己利益追求の、つまり国際紛争解決の手段としての武力行使であって、国連軍やPKOが行う実力行動というのは何ら憲法によって否定されていないというふうに考えます。したがって、従来の政府解釈を変更して自衛隊にそういった任務を行わせることは、私は現行法上、現行憲法上可能であるというふうに考えます。
 ただ、私は、そういったやり方は、これから述べます理由でやるべきではないと。私は、そういった行動をやるには憲法を改正してやるべきだというふうに考えております。
 次に、時間がありませんので、三の護憲的改憲論に入りたいと存じます。
 まず、この前提として、現行憲法の評価でありますけれども、私は先ほどお話ししたように、憲法改正というものを国民の総意をもって祝福された形でやるためには、まず何よりも現行憲法が果たした役割を正当に評価することが大切であるというふうに思います。
 現行憲法は、日本が侵略戦争をやっていながら国際社会に受け入れられ、アジア近隣諸国との関係を保ち、軍事費の負担を減らして戦後の経済発展を支え、そうして米国からの軍事力増強あるいは様々な圧力に言わば抗する盾となってきた、我々の戦後の言わばサクセスストーリーを支えてきた非常に重要な柱であったというふうに考えております。ただ、他方で、このサクセスストーリーを支えた現行憲法は余りにも現実と乖離をして、国民の間に言わばシニシズムを生むと。余りにも無理な政府の憲法解釈が重なって、国家の根本法に対する国民のシニシズムを生じせしめている、そういう危険水域に今日憲法は入っているというのが私の判断であります。
 私はその観点から、今申しましたような武力行使の可能性ということを含めて、これを憲法解釈の変更ということで行うのではなくて、憲法改正という正道を通して行うべきであるというふうに考えております。
 その根拠として最後に、私が最初にちょっと申し上げました憲法というものが一つの世代を見据えた国の根本規範であるということをお話ししたいというふうに思います。
 あらゆる国家は当然のことながらその国民によって運営されますけれども、世代的な観点からいえば、恐らく四十代から六十代ぐらいが平均すれば最も判断力が充実した社会を担う層であるというふうに考えます。ところが、現在の四十代から六十代というのは、現行憲法ができた当時はまだ生まれていないかあるいは未成年でありました。そういった時代に作られた憲法で現在の日本というものを運営するということは非常に無理があります。これは憲法九条に限らず、環境権の問題とか、あるいは道州制の問題とか、司法制度の問題とか、様々な点でそういう現実とのそごが生じてきております。
 私は、一つの世代というのを約二十五年というふうに考えるならば、この一つの世代ごとに憲法というのは基本的にマイナーな、小規模の改正を行って、そのことによって憲法を現実との適合性に当てはめていくと、現実に適合させていくということが極めて重要であろうというふうに考えております。
 当時、憲法が作られた当時は日本はまだ、これは推計でありますけれども、一人当たりのGDPが百ドルあったかなかったかという焼け野原の時代でありました。それに対して今日の日本というのは、世界第二の経済大国であり、国際社会における責任というものも全くけた違いに増大しているわけであります。その他、当時は日本が大日本帝国のあらゆる理念というものを否定されて、米国的な価値、あるいは欧米的な価値、近代主義的な価値というのがひたすら輝いて見えた時代であります。二十一世紀の時代というのは明らかにそうではありません。我々はこれから、ひたすら欧米的な価値というものを相対化した、より多文明的な、より文化の多元性を目指した国際社会というものを作り上げていかなければならない。
 日本はアジアにおいて最もこれまで成功し、経済的に繁栄してきた国として、これからは恐らく経済的には次第に下り坂に向かうでしょうけれども、しばしばそういう経済的に下り坂に向かう国というのは文化が成熟し、国際的にも発信することができる国であります。我々日本の生きる道というのは、そういった経済的には今までほど大きな影響力は持たないかもしれないけれども、文化的に貢献していくと。そういう時代に見合った憲法を私は二十一世紀初頭に作るべきであろうというふうに考える次第です。
 御清聴ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、功刀参考人にお願いいたします。功刀参考人。
○参考人(功刀達朗君) 御紹介いただきました功刀です。これで参議院の調査会にお招きいただくのは三回目になりますが、何かお役に立てれば幸いと存じております。
 歴史は常に過渡期の連続であると言われますが、ここ数年来、世界的転換の様相というものは確かに見えています。大沼さんの方から二つの見方があって、その両方が重要であるという観点には私も賛成であります。時代の流れには二つあって、長期的な趨勢、そして短期的な動乱とか変動というもの、その二つがあると思います。殊に最近のように優れたリーダーシップというものが、個人あるいは国、そういうもののリーダーシップというものが一般的に不足ぎみな時代においてはいろいろと混乱が生じるということ。しかし、一般市民の分析能力の向上ということを考えると、私は、全体としては民意の時代への潮流というものは既に見えている、全体としては抗し難いうねりのようなものになっていて、そして楽観的に将来を見ることはできると思います。ただし、それには一定の努力が必要であるということは否めません。
 短期的にどういう状況にあるかといいますと、二〇〇一年の九・一一の事件以後、世界は非常な混乱に陥っておりますが、これは、私は主としてアメリカとの関係において世界がそういう混乱状況に陥ったと思っております。
 その背景には、アメリカがはまり込んでしまった九・一一症候群、ナイン・イレブン・シンドロームというべきムードがあって、強烈なナイン・イレブンのショックを契機とする米国の主として自覚的な後遺症というものは、心身相関症というのでしょうか、サイコソマティックであるので非常に扱いにくいわけです。これは対テロ戦の旗の下にむき出しの単独行動主義をあおり、世界的規模で様々な他覚的なシンドロームというものを引き起こしていると思います。これに対しては、早期の対処を怠れば、世界政治あるいは世界の景気、そういうものに対して長期スパイラル下降というものに陥れるおそれがあると思います。
 今日の審議のテーマにつきましては、私は第一に、行為規範としての憲法、国際法、これをいかに活用し、いかにこれに働き掛けるかということを考えることが非常に重要であると思います。法は与えられたものとして見るのではなく、それを活用し、そして働き掛けるというスタンスが重要であると思います。それから、世界市民社会というものが台頭していることを視野に入れて、国連の役割というものを政策志向を持って考えるということが大事であると思います。そういう態度から私は今日この審議に参加させていただきました。
 最初に、憲法につきまして、私はお配り申し上げたアウトラインの中に「「護憲的改憲論」でなく「護憲的護憲論」」という言葉を使いましたが、これはごろ合わせではなくて、大沼参考人の方からの御意見では護憲的改憲論というお考えがあり、大要においては私もある程度賛成でありますけれども、今申し上げた現時点、どういう時代に今あるかということを考えると、護憲的護憲論の方が私は正しいと思います。
 日本の憲法は平和憲法と言われますが、冷戦がちょうど終わったころに出された本で憲法の研究書の一つ、「戦争放棄と平和的生存権」を書かれた深瀬忠一先生のお書きになったものを見ますと、その当時、世界には約二十か国が平和憲法を持っていたと、そしてそれは五つの類型に分けることができるということが指摘されています。
 確かに、我が国の憲法の平和条項というものは、他の憲法のいずれと比べてもより徹底した非武装平和主義というもの、そして構成的にも前文及び九条という構成からいっても優れた構造を持った規範性を持っていると思います。殊に前文において、全世界の人民の普遍的かつ平等の平和的生存権を尊重する責務を表明しているということは非常に重要です。
 あと、平和主義として、日本が軍備を持たないということ、それからそれが世界の軍縮につながるという信念、それから軍備を持たないことによって、また戦争に参加しないことによって武力紛争、武力衝突というものの機会を減らしていくという、そういう基本的な理念というもの、これは私は世界で誇るべきものであると思います。したがって、世界にある多くの平和憲法の中でもこれは正に優れ物であり、そう簡単に改憲するということを私は考えるべきでないと思います。
 それでは、第一番目に、度重なる九条の拡張解釈というもので憲法の平和主義はなし崩しにされてきたかどうかということ、これに対して私はノーと答えます。度重なる拡張解釈というものは時代の必要に応じて政府の苦渋の選択としてなされたものとして私は受け止めておりまして、必ずしも平和主義はなし崩しにされているとは思いません。
 正にその実践として、第二次世界大戦後に既に百五十、二百、三百と、いろいろな戦争の定義によって違いますが、数多くの戦争というものが繰り返されてきたわけですけれども、日本はそれのいずれにも参加せず、また武器輸出については一定の節度を守ってきたということ、それは私、平和憲法の下での日本の実践として世界に誇るべきものであると思います。
 それでは、その次の現実との乖離を埋めるために改憲は必要かという質問については、私は一番ギャップがあるということを認めざるを得ない項目というのは、やはり陸海空軍その他の戦力を持たないということと現実の自衛隊、これとのギャップというものは否定することはできないと思います。しかし、先ほど申し上げたような時代のジャンクチャーあるいはコンテクストにおいてどういう判断を行うかということにつきましては、私はその改憲は、今の段階でもそのギャップはあったとしても必要でないと思います。時代とともに軍縮が進めば、我が国の自衛隊の軍備をいずれは減らす可能性もあると思います。
 第三番目の強制行動、武力行使を伴う国連のPKFへの参加というものは合憲かということについて、私は一九九〇年のころから朝日の「論壇」には三回ほど書いたことございますが、これはPKFを含め日本が国連の平和活動に参加するということは正に正しい、望ましい国際貢献であり、合憲であると私は思います。
 最近のイラクへの自衛隊派遣ということは、確かに今、憲法問題につながっているわけで、安全保障理事会の一五一一号の決議の下に、自衛隊が行って何に協力しているのか、アメリカの軍政に協力しているのか、あるいは国連の人道援助あるいは復興援助に活動しているのか、その辺りがはっきりとしていないということがあり、私はかなり事態の発展次第では憲法違反につながると思います。
 次に、国際法の問題ですが、日本の憲法は条文上については一切変更がなされていませんが、国際法というものは非常に急速に発展、変化している。これは私が、もう随分前ですが、四十年近く前に国連の法務部で国際法の発展あるいは侵略の定義とか友好関係に関する宣言の起草というものに実際に携わったこともあるというところから、考えてみますと、振り返ってみますと、国際法はかなりの発展を遂げてきています。ところが、慣習法上もまた条約法上も多くの変化が見られています。
 ただ、国際法の中でも非常に重要な平和と安全保障に関する問題については、最近、アメリカの現政権の単独行動主義というものは非常な混乱、混迷、そして困難を国際法秩序というものに及ぼしているということは否めません。明らかに国際法の無視、明白な違反という行動は何遍か繰り返されてきています。必ずしも、過去数年、現政権とは限りませんが、過去においてそういうことが国際法の発展に非常な困難を生じさしめているということは言えます。
 元々、領域制限的な国家主権というものと、それに基づいた、国家主権というものに基づいた法秩序という国際法と、それから現実の相互依存、多元的共生のバランスということを考えると、確かにいろいろと更に発展する必要があり、機能的な面から発展がまだなされていないということがあります。三年ほど前に出された、日本で出された本で、「国際法から世界を見る」という本がありますが、私は、それも重要ですが、世界の現実から国際法を見直すということが実はもっと重要であると思います。科学技術の進展とともに、また市民社会の台頭とともに、国際法というものは大きく根本的に変わる必要が出ている時代だと思います。
 武力行使に関する基本的ルールというものは、国際法上また国連憲章上はっきりとしたものが確立されています。これを無視しているのは正にアメリカの最近の政権であり、アメリカ自体が私は必ずしも違反行為を繰り返しているということは言えませんが、現政権は確かにその違反行為をかなり繰り返してきていると思います。
 それに関連して言えることは、国際人道法という、戦時国際法と昔言われたもの、どういう武器を使うべきかという、使っていいのかという問題と、それからどのようなルールで戦争を始めどう終結するかと、そういうような戦争法規に関するものと、その中にはもちろん武器、どのような武器を使うことが禁じられるかということによって、人間性というものの尊厳を守るという条文は幾つも見られていますけれども、それと平時国際法の一部と言われる人権法、国際人権法の補完性ということが非常に重要であり、これは過去十数年の間に長蛇の進歩が見られていると思います。
 殊に重要なことは、形の上からいいますと、ノーピース、ノーウオーというような状況があり、はっきりと平時国際法、戦時国際法と分けることができないということもあり、正に緊急事態においてこそ人権が無視されるということを考えると、正に人道法の発展というものは更なる発展が必要であると思います。
 殊に重要なのは、これとの関係で国際社会の人道的介入あるいは国際社会の軍事介入の法理とガイドラインというもの、これが非常に重要であり、これについては二〇〇一年の九月、ちょうどナイン・イレブンの事件が起こったその直前に完成したレスポンシビリティー・ツー・プロテクト、これはカナダ政府の提案でできた委員会が提出したレポートですが、これが非常に立派なガイドラインというものをそこに提起をしています。余り日本では検討されないで従来いるということは非常に残念でございますが。したがって、このような主権というものそのものを見直すという態度から始まり、主権というものは必ずしもその国家領土内で最高の権限であるということではなくて、むしろ重要なことは、国家主権というのは人々を保護する責任であるというそういう視点からもう一回見直す。しかも、それを通じて国際法をもっと市民の、市民社会に近づけるという態度につながる非常に立派なあれは報告であると思います。
 国連の実態につきましては、その改革の理念と見通しについて、根本的には主権国家の連合体として成立しているということと、それから憲法のように主権在民の各国憲法の基本原理というもの、それと比べると性質が元々違うということからやむを得ないことはありますが、国連の民主化ということを考えなければいけないという点からいいますと、各国の主権在民の精神というものを国連の憲章にも、それから国連の憲章の下に管理運営されている国連という機構そのもの、そのプロセスをやはり民主化する必要があると思います。
 権力がどうしても集中しがちな安全保障理事会、現在の安全保障理事会というものに更なる権力の集中を行っていく、それを強化していくということには、多くの面からいろいろと疑問があります。元々、安全保障の三つのディメンションというか、三本の柱というのは、国家レベルの国家間及び国内の秩序と、人間レベルの個人の人権、権利及び責務、それから福利、生存の基盤というもの、それから第三には地球レベルの資源、環境、世代間公平、このような三つの柱があり、安全保障理事会のように拘束力を持った決定を行うことのできる委員会というものは複数に、少なくとも三つ、いずれは成立することが必要であると思います。ということは、現在のような安全保障理事会がその守備範囲をますます広げているという現状においては、あと二つの分野におけるセキュリティーを管理運営する機構というものの成立を阻むという傾向につながると思います。
 国連というものは、多くの行動主体の協働とパートナーシップによるグローバルガバナンスというアイデア、それを管理運営していく上で非常に重要な中枢的な役割をこれから果たすであろうと期待されているわけですが、それには第二国連総会というものも設立されることが非常に重要であると思います。
 最後に、現代、世界の主要アクターと言われる四つのカテゴリーがありますが、国家、国際機構、市民社会組織、それから企業、そういう四つのカテゴリーの主要アクターの間にパートナーシップというものが形成され、その協力関係が自治的かつ利害調整的に管理運営されることがグローバルガバナンスの要諦であると言われています。
 国連は、主権国家である加盟国の分権的な自律性というものに左右され、主体的な対応というものはしばしば困難ではありますが、時空を超えて人類の問題に向かい合う地球市民の自由な発想、とみに向上しつつある分析能力と情報技術というものを活用したネットワークの威力というものを発揮する市民社会組織に支えられてこそ、国連システムというものは実効性と真の正統性を持ち、人類の公共財の管理と公共善の追求のためにパートナーシップ形成の中枢的な役割を果たすことができると思います。
 よく言われる世界市民社会とか地球市民社会というものはどういう形を取るのか、今のところはっきりは出ていませんが、このようなパートナーシップの形成、その先に世界市民社会の具体的な形象というものが見えるのではないかと思います。
 御清聴ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いいたします。
 松田岩夫君。
○松田岩夫君 私、自由民主党の松田岩夫でございます。
 今日は御三人の参考人の方々、本当にありがとうございました、貴重な意見をいただきまして。
 御三人の御意見の中で一致した点があったように私、お見受けするんですが、それは第一番目、したがって最初、三人の方にそれぞれお聞きいたします、第一問。
 この国連による武力行使を伴う活動への参加の点について、私の聞き間違いがなければ、大体お三方賛成、憲法違反ではないという御認識を示された。三人のうち、参考人が同じ意見を述べられるということは今日まで正直なかったんでございまして、したがってまずこの点を取り上げさせていただきたいと思います。
 私も、実は、今日のこの世界情勢、冷戦後の世界情勢を見ますと、国連のこうしたいわゆるPKO活動、あるいは安保理の武力決議を受けた多国籍軍の活動、あるいはPKOでも武力行使を伴うものを含んだPKOといったような活動、こういった展開が非常に増えてきて、もちろん中にはいろいろ苦労しているものもあるわけでございますが、しかしこういった努力は非常に貴重なものであり、日本としても大いに推奨し、また積極的に参加していくべきだ、それこそ我が国が果たせる国際貢献の非常に理想的な在り方の一つだというふうに実は固く信ずる者の一人でございまして、そういう意味で、御三人がほぼ同じ意見をこれについては認められた、やはり憲法学者に聞くよりもどうも国際法学者に聞くといいなということを今日しみじみ思ったわけでございますが、そういう意味でも是非皆さんのおっしゃる御意見をもっともっと世の中に広めていただきたいということをまず御要望申し上げると同時に、実はその点で、解釈で変えるというのはなかなかのことかなと、今日の状況で見ますと。今、今日も後でまた御質問時間があればいたしますけれども、次の質問の中で。
 そうすると、やっぱり今度の憲法改正を考えるとすれば、憲法改正しないという御意見もありまして、そこは功刀先生、後で補足していただきたいんですが、これは憲法違反でないという、しかし今、解釈でこうなっているというときに、どうやってやるのかなということになれば、私は堂々とこれこそ憲法の中の今の前文の趣旨、まあ九条の解釈からいっても私はこれ、できると思っておるわけでございますが、もっと明確に憲法の中で国際貢献の在り方ということでしっかり入れて、日本は本当に誇りと自信を持って世界の平和のために国連とともに歩む日本ということでやっていくべきではないかというふうに思うんでございます。
 そういう意味で、三人御一致されましたので、三人の方それぞれにこの国連による武力行使を伴う活動への参加についてもう一度改めて明確におっしゃっていただき、その意義、合憲かどうか、そして合憲であるとしても解釈で変えてやるのか、そうでないとすれば憲法改正ということになると思うんですが、その辺を明確にそれぞれお答えいただけたらと思います。
○参考人(浅田正彦君) 御質問ありがとうございます。
 確かに、おっしゃるとおり、国連の武力行使に対して日本の自衛隊等が参加することについては、憲法九条一項に照らしてみた場合には合憲であるというふうな判断になろうかと思います。
 といいますのは、憲法九条の起草過程を見ましても不戦条約の流れを踏むものでありまして、国連憲章も不戦条約の流れを踏むものということで、いずれも同じような方向に向かっているというふうな気がいたしております。
 しかも、文言を見ましても、国権の発動たる戦争、武力行使、そして国際紛争を解決する手段としてはというふうな文言を見ますと、国連が主体となって行うPKO、そこにおいて武力行使が行われる可能性があるわけですけれども、それからさらに集団安全保障、つまり軍事制裁の形での武力行使というのに日本の自衛隊が参加するということについても、九条の一項に照らした場合には解釈として合憲であるということは可能性としてはあろうかと思います。
 ただ、二項に掲げられております文言を見ますと、これ交戦権、それ以前の問題としまして陸海空軍というのもありますけれども、交戦権をどのように考えるかということで、これをどういうふうに考えるかということによっては、例えば軍事制裁に参加する場合に日本の自衛隊が武力を行使して、これが交戦権の行使にならないかということになりますと、少し疑問があります。したがって、そういった疑問も含めて、日本が従前の形で国連の武力行使を伴う活動に参加するということになりますと、やはり憲法を改正する必要があろうかと思います。
 といいますのは、解釈というのはあり得ますけれども、やはり、例えば集団的自衛権について行使できないといいながら、今度は同じ解釈で行使できるというのは、これは解釈の変更という枠をはるかに超えていて、これは解釈変更とは言えないと思うんですね。ですから、そういう場合についてはやはりきちっと改正する必要があろうかと思います。
 恐らく、解釈を変える場合でも、例えば国会の決議等で行われると思いますけれども、その際に、恐らくは憲法改正と同じような、両院の三分の二以上というふうな者が賛成しない形での解釈決議というのは少し信憑性、信頼性に欠けると思いますし、そういう重大な問題であれば国民の信も問うべきであろうと。ということになりますと、やはり解釈で行う場合でもほとんど改正手続と同じぐらいの慎重さを持って行ってしかるべき問題ではないかと思います。
 そういう意味で、やはりこういうふうな問題について疑義がある場合には改正というのが正当な方法ではないかと思います。
○参考人(大沼保昭君) 浅田参考人もおっしゃいましたけれども、不戦条約、これが現憲法の九条一項のモデルになっているわけですが、この不戦条約では、「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ」という表現がございます。この時代にはまだ戦争という言葉を使っておりましたけれども、ここで国際紛争解決のためというのは、先ほど私がお話ししたように、国家が自己の利益を追求するその手段としての戦争を当時、国際紛争解決のための戦争というふうに表現して、これはその当時の確定した用語法であったわけです。
 ですから、日本国憲法はそれを引き継いで「国際紛争を解決する手段としては、」という表現を使っている以上は、私が先ほど申し上げて、今、浅田参考人もおっしゃった解釈は、当然当初から取られてしかるべきであったというふうに私は考えております。
 九条二項については、私はここの交戦権という規定は、これは国際法上の交戦国が有する言わば戦争法上の権利というふうに解釈すべきであって、私は国連の制裁措置に参加することが交戦権の行使であるという形にはならないのではないかと。
 それともう一つは、この交戦権という概念自体が日本国憲法制定時はある程度一般的な概念でありましたけれども、今日ではこの交戦権という言葉は国際法上ではそれほど使われておりません。その形で物事を解釈すること自体が今日では非常に国際法上の一般的な在り方と、国家間関係の一般的な在り方とそごを来しております。
 私も、浅田参考人と同じく解釈と、解釈の変更という形で自衛隊が国連のPKOあるいは国連の集団的軍事措置に参加することができないと言ってきた政府解釈を突然百八十度変えるということは、余りにも、日本の国家としての根本法を単なる解釈で百八十度変えるという意味で、国民に対して今以上の非常に強いシニシズムを生じせしめる、そういう危険性があろうかというふうに思います。
 その意味で私も、これを変えるとすれば、やはりそれは解釈の変更ではなくて憲法改正という形を取るべきであろうというふうに考えます。
○参考人(功刀達朗君) 先ほど申し上げたように、国連のPKF、これは、強制行動、武力行使を伴うそういう行動について、我が国がそれに参加することは、私は日本の憲法に照らして違憲にはならないと思います。したがって、改正する必要もないと思います。
 そもそも、国内社会におけると同時に、国際社会にも暴力、戦争あるいは侵略行為というものはあるわけで、それをコントロールするために国連憲章は制裁及び武力行使というものを第七章の下で認めています。また、自衛権の発動というものももちろん認めているわけですけれども。今の御質問については、私は、浅田さんの方から交戦権の問題がありますけれども、それを私は、日本の交戦権とかあるいは日本の戦争と見る必要が全くない、それははっきり分けて考える必要があると。
 国連の平和活動に参加する、しかもそれが国連のセキュリティーカウンシルの決定の下で、そして国連の指揮の下で、コマンドと指揮権を分けたりするというのは日本の慣習となってきましたが、それはそもそも間違っているわけで、国連の平和活動については国連の指揮、コマンド両方とも、アドミニストレーティブな面を除いては、ディシプリンとかアドミニストレーションを除いては、これは国連の指揮の下にそれが行われるわけで、それは、日本の国権の延長線にそれを考えるというのがそもそも間違っていると思います。自衛隊及び隊員の行動というものは、国権の発動としての交戦権にかかわる問題では全くないと思います。ここを分けて考える必要があると思います。
 多国籍軍との関係では、国連は多国籍軍に頼る場合というものが必要上、湾岸戦争以後、二、三度起こっていますが、この場合にも私は、国連の明確な要請があり、そして多国籍軍に加わることについて加盟国にそういう要請があった場合には、私は違憲にもならないし、それは国連の平和活動の一部として参加するということは十分あり得ると思います。
 ただ、先ほど申し上げた、現在イラクに対して派遣しているのはだれの指揮の下に行われているのか。国連のセキュリティーカウンシルの指揮の下に行われているわけではない。アメリカの、米英その他の占領軍の指揮に入っているのか。その辺りがはっきりしていない点が確かにあると思います。
 それでは、日本の政府の指揮下で行っている自衛隊の人道援助あるいは復旧援助というものが例えば武力行使の事態に直面したときに、それをどう解釈するかということについては私は今のところ結論を持っておりません。
○松田岩夫君 ありがとうございました。
 それでは、三人一致していなかったかと思うんですが、お二方一致したのが武力行使一体化論の不思議さというか、国際法の理解と憲法解釈とのずれというか、そういうような感じで私、受け止めさせていただきました。この武力行使一体化論も私はかねてからおかしいというふうに思っている一つの領域でございますので。
 おっしゃるように、これ、浅田先生がおっしゃったんですが、本の中で読んだ、集団的自衛権、要するに集団的自衛権というのは、これは武力行使ということを中核とする概念でございますね。正に、そういうものと後方支援というのと別のものだと。ところが、日本の政府の解釈は、後方支援が、それ自体では武力行使じゃないかもしらぬけれども、正に他国の武力行使と一体化する場合には憲法上認められないと、こういう解釈。しかし、これは国際法の理解からすれば誠に珍妙なことだというようなお話を今承ったし、御著書の中でもそういうことを読まさせていただき、私もそのとおりだと思います。
 これは正に武力行使ではないんで、日本がやる役割とすれば、後方支援として私はやっぱりしっかりやってあげたらいい、本当にいいときはやってあげたらいいと、こう思うのでございます。
 そういう意味で、これはさっきの解釈でいくか憲法改正でいくかということでいけば、はるかに、先ほど第一問でお聞きしたことに比べれば、正に通常言う後方支援、ほかの国であれば当然後方支援だと思っていることを、我が国だけがこれは武力行使と一体になるから駄目だといってそういう領域を設けて、しかもその領域のたびに議論を積み重ね、本当に神学論争に近い議論をするわけでございます。
 そういうことはもう要らないんだと、国際法の理解からすれば、堂々とやれるものはやったらいいという意味で、私はこれは解釈を変えて政府としてやればいいことではないかというふうに思っているわけでございますが、この点について、どうも大沼先生はこれはやっぱり憲法改正かなというふうに受け止めたんですが、この点含めまして、今度は浅田先生と大沼先生お二方に御質問いたします。
○参考人(浅田正彦君) ありがとうございます。
 この点につきましては、なかなか難しい問題でありまして、集団的自衛権については、明らかにそれができないというものをできるに変えるということは解釈の範囲を超えるというふうに思うわけですけれども、一見、一体化論については、それよりもかなり程度の軽いものであって解釈で変えることができるんじゃないかというふうにも思われますが、ただ、日本の内閣法制局を中心とする憲法解釈というのは、正に積み木細工のような形で、一つ外せば全部崩れてしまうというふうな形になっておりますので、部分的に軽いものであっても、それを外せば全体が崩れるという可能性もないわけではなくて、その辺りは私個人として、感覚的にはこういったものは国際的な理解と私の理解によればかなり違うということで、これは素直に変えればいいと思うんですけれども、それによって全体の枠組みが崩れてしまわないかという、若干そういう懸念があります。
 ですから、そういう問題も含めて、この際きれいにした方がいいのではないかというふうに考えております。
○参考人(大沼保昭君) 私もこの問題については若干歯切れが悪くなりまして、自分自身の考えがまだ十分固まるほど研究を積み重ねているわけではありません。
 今、浅田参考人が言われましたように、国際社会の軍事行動、それをどう解釈するかという観点からいえば、日本の政府がこの数年間取ってきた解釈、特に内閣法制局が取ってきた解釈ですね、これは後方支援という概念を含めてですが、これはかなりやはり国際社会の一般的な理解とずれがあるということは確かだろうと思います。
 その根底に、最初に言いましたように、この九条の解釈として、本来、芦田修正で認められた、国際紛争を解決する手段としてはというところを強調して、憲法学界の言わば少数説である、これ以外のものであればこの武力行使はできるんだと。つまり、初期はそれは自衛権の行使だけでしたけれども、自衛権の行使とそれから国際公共活動はできるんだという解釈を政府が取ってくればこれほど無理に無理を重ねずに済んだと思うんですね。ところが、政府がその解釈を取らずに自衛力論というもう一つの第四の解釈を取ってしまったために、今、浅田参考人も言われたように、非常に無理に無理を重ねた積み木細工の形になってしまっていると。
 私は、憲法改正が行われるまでは、極めて不自然な形ではありますけれども、恐らく国民はそういう不自然な形を半ばあきれながら、まあやむを得ないと、多少のシニシズムを見ながら、どうせああいうふうに言っていくんだよという目で見ながら言わば是認しているわけでありますから、それでいくしかないのだろうなという、言わば少しあきらめに似た感じを持っております。
 ですから、私の考えからいえば、本来ならばこういうシニシズム、あきらめに似た感じを国民が持つ前の九〇年代からもうちょっとしっかりと改憲の議論を行っておくべきだったと。私が最初に改憲の議論を提起したのは一九九〇年代のあの湾岸戦争の時期でありまして、その後、結局十年間、それほど進展のないままに来てしまったということは非常に残念であるというふうに思います。
○松田岩夫君 ありがとうございました。いただきました時間が来ましたので。
○会長(上杉光弘君) ツルネンマルテイ君。
○ツルネンマルテイ君 民主党のツルネンマルテイです。
 参考人の皆さん、今日は本当に御苦労さまです。今日のお話は本当に私たちにも参考になります。
 私は、今日用意している質問は、もちろん今日の話の中からそれに関連して、そしてさらに皆様からあらかじめいただいた参考資料についても質問させていただきます。質問の時間が二十分しかありませんので、今日は私は国連に関連する質問に絞って質問させていただきます。
 最初の質問は参考人全員にお願いしたいと思います。
 国連の安保理事会、そこの五つの常任理事国が持つ拒否権について、その意義についてまず質問をしたいと思います。
 御存じのように、国連の中では大国と小国の対立が頻繁に行われています。その一つの問題は、理由というのは、恐らくこの拒否権じゃないかなと思っています。つまり、安保理事会の方では大国が中心になっていろんなことをやっていますけれども、国連の総会の方では主権平等主義に基づいて、いわゆる一国一票という原則でやっています。だから、この対立はかなり大きいということがあります。しかし、いろんな情報を調べてみますと、不思議なことには、その小国の方でもこの拒否権を廃止するという要求はそれほど多くないんですね。どっちかというと、利用するというか、適用する範囲をもっと制限するという方向があるようですね。
 だから、これは一つはなぜこうなっているか、皆さんの方が私より恐らくもっとよく分かっていると思いますけれども、ある情報によりますと、国連はその創立当初から大国に対して強制行動を取られるように作られてないということもあります。そして、功刀参考人の参考資料の中では、この拒否権に対してやっぱりこれは、これの存続は問題であって、この問題を解決するよりもこれを解決しなかったらこの国連の改革全体の問題がうまくいかないという考えもあるようですけれども、つまりこういうことを背景に、まず皆様に順番にこの拒否権の意義について、自分の見解をお願いしたいと思います。
○参考人(浅田正彦君) 拒否権の問題については、経緯は御存じのとおりでありますけれども、当初は世界の警察官という形で五つの国が中心となって世界の国際の平和と安全を維持するということで、それが一致しなければいけないという趣旨で、五つの国が賛成しなければ安全保障理事会で実質的事項について決定できないというわけでありますけれども、ただこれを、これが大きな問題となっているというのはいろんなところで出てきておりまして、例えば実質的な意味は別としまして、コソボの武力行使の際には、安保理で武力行使のいわゆる容認決議を採択して、それに基づいて武力行使をするという国際法上異議のない形での武力行使が可能であったわけですけれども、その際にはロシアが拒否権を行使するというふうなことをほのめかしたので安保理でそういった決議案を出さなかったというわけであります。
 こういう形で、一国が賛成しなければ決議が通らないわけで、そのユーゴとロシアとの関係のためにロシアがそのような態度を取ったわけですけれども、こういった形で、結局はNATOを中心に安保理の決議を経ない形で武力行使を行うという一つの大きな先例ができてしまったというわけで、拒否権、こういった例から分かりますように、拒否権の問題というのは非常に大きな問題をはらんでいますけれども、しかしながらこれを変えるということになりますと、これは国連憲章の二十七条の三項に規定されておる制度でありますから、それを変えるためには国連憲章二十七条三項を変えなければいけないと。
 変えるというのはどうするかといいますと、これは国連憲章の改正手続を経るわけでありまして、国連憲章の場合は憲法と違いまして、日本国憲法と違いまして、国連憲章の改正というのはこれまでもなされています。どのような手続を経るかといいますと、これは国連憲章の百八条に書かれておりますように、安全保障理事会のすべての常任理事国を含む国連加盟国の三分の二によって批准されたときに効力を生ずると。したがって、安全保障理事会の常任理事国が賛成しなければ国連の、国連憲章の改正はできないという制度になっています。
 したがって、果たして自己の特権的なものを放棄するようなそういった改正に応ずるかというと、これはあり得ない、常識的に考えてあり得ないことだと思います。したがって、こういった拒否権の弊害をなくすためには、もう法的な国連憲章の改正という手続を取らずに、もう政治的な形で、ある問題については、拒否権の行使については、例えば常任理事国の二国以上が反対した場合とか、いろんな形の内部的な合意を作るということはあり得ると思いますけれども、制度としてこれを変えるということは事実上不可能ではないかというふうに思っております。
○参考人(大沼保昭君) 私も今の浅田参考人の意見とほぼ同じでありまして、マルテイ議員の方から小国の方も拒否権を廃止せよという要求は余り出ていないという御発言がありましたけれども、それは今、浅田参考人が言われたように、小国といえども国際社会の現実を十分理解して行動しているわけですから、そういった要求が無理であるということはよく承知しているということだろうと思います。
 さらに、原理原則の観点からいいましても、果たして小国と大国が同じ一票を持つ国連総会の制度だけでそれが望ましいのかというと、決してそうではないだろうというふうに私は思います。
 つまり、一番重要なのは人間個人の平等であって、国家の平等ではないわけですね。国家というのは個人のための手段であって、それ自体が自己目的ではないと。そうすると、人口十五億の国と人口数千の国が同じ発言権を持つと、あるいは巨額の分担金を支払って、あるいは非常に様々な武力の紛争地に出掛けて自国民が犠牲になっているそういう国と、全くそういうことがなく自己の生存すら国連の財政にゆだねているようなそういう国が同じ発言権を持つということは、これはやはり規範的に考えてもおかしいわけですね。
 だとすれば、私は、近代国際社会の原則というのは主権平等、国家平等の原則でありますけれども、これは歴史的に見ると極めて例外的な制度であるわけですね。それは、もちろん小国が大国の干渉に抗して自己の生存を保持していくという意味では大変優れた制度であったと。しかし、元々十五億の国あるいはGDPが世界の四分の一を占める国と、それから人口数千、数万の国が同じ、平等であるということは余りにも人間社会の運営の在り方として不自然であって、その不自然さを何らかの形で調整しなければならない。そうすれば、大国が持っている特権というものはある程度制度的にこれは保障しなければならない。
 ただ、それが現在の既存の五大国でいいかどうかと、日本やドイツを入れるべきではないかというのは私は当然の議論であって、私は、日本が常任理事国になるということは何ら日本の別に大国志向の利己的な欲求ではなくて、国際社会を効率的に、フェアに運営していくには日本は堂々と常任理事国になるべきであるし、またそれを他国に対して堂々と自分はなるべきだという主張をすべきだというふうに思っています。
○参考人(功刀達朗君) 拒否権というものが五大国に与えられた歴史的な経緯がまずありますが、これは浅田さんの方からの御指摘のとおりですが、拒否権そのものは、やはり家庭にある、ヒューズがありますけれども、ヒューズボックスが火事になるのを防止するというような、そういう作用もあると。そういうことは国際機構論上言われてきたこともあります。
 そういう面はないわけではありませんが、これをなくすことが民主化の、究極的には民主化につながることであると私は思いますが、それがないとすべて国連改革というのはあり得ないという、そういう私は意見ではございません。現実を見ると、やはりそれが非常に現在難しいということは分かっていますし、中小国がそれほどそれを声高に表明しているわけではないと思います。それは、現実感覚を彼らは持っているからだと。
 しかしながら、ただ、拒否権だけの問題ではなくて、権力集中、守備範囲が余りにも広がり過ぎるということは、寡頭政治的な色彩を、あるいは覇権政治、覇権、大国による覇権的な政治というものを持続させるということから、やはり中小国の国連離れということが私はあると思います。
 大沼さんの方から分担金のことにも触れられたんですが、日本、ドイツ等が入ることについて、私はいずれは望ましい方向ではあると思いますけれども、その根拠として分担金の問題を出すというのは、これは余り意味のないことだと思います。それ以外に何をそれじゃ出したらいいかというと、やはり平和に対する日本の貢献、その理念と実践というものを示した上で国際社会から歓迎されて安保理事会の常任理事国になると、そういう方向になることが望ましいと思います。
 日本の国連政策のどこが間違っているかということを申し上げる時間がなくなってしまったんですが、そこは一つのポイントであります。
○ツルネンマルテイ君 ありがとうございます。
 今の参考人の答弁の中でも強く感じたことは、こういう拒否権の例を取っても、国連のいろんな問題は非常に複雑で、簡単にどっちの方がいいか、メリット、デメリットをやっぱり総合的に考えなければならないと思っています。
 次の質問に移ります。
 今度は功刀参考人と大沼参考人に同じ質問をさせていただきます。
 私は、もちろん生まれは外国ですから、日本語の言葉の深い意味をいつも考えています。次の質問は、一つの日本語の言葉の意味を是非簡単に定義していただきたい。それは、しょっちゅうこういう関係で出る国益という言葉の定義ですけれども、例えば、これも功刀参考人の参考資料の中ではそのことについて次のような言葉が書いてありました。イラクの問題について、こういう一つの文章をちょっとその中から読ませていただきます。ブッシュ政権一辺倒になった日本政府の措置は果たして日本の国益になるかどうかという問題ということ。ここで国益という言葉が出ています。あるいは、大沼参考人の今日の話の中でも、九条の武力行使の性質を自国の利益追求のための武力行使と国際共同的意義を持つ武力行使と分けずに云々と書いてあります。
 ここで、国益と国際益という言葉に表してもいいと思いますけれども、一体、こういう外交関係では国益と国際益の、どういう意味を持っているか、簡単にその定義を二人の方からお願いします。
○参考人(大沼保昭君) 国益という言葉は私自身はほとんど使っていないかと思いますけれども、ただ、今、引用にありましたように、自国の利益追求という表現は使っているかと思います。
 端的に言えば、国益というのは、これは人の様々な定義によりますけれども、国家の利益というふうに定義する方もおられれば、国民の利益というふうに定義する方もおられます。
 国益という言葉を余り私が使いたくないのは、いずれにせよ、国家にせよ、国民にせよ、その場合の国家なり国民というものが一枚岩的な実体として考えられて、実はその国家内、国民内の様々な多様な利益なり意見なり価値なりがどうしても国益という言葉では否定されがちになると。そういうおそれがあるために私は余り使いたくないと。
 かつて、モーゲンソーという非常に有名な国際政治学者が国益という概念を中心にして国際政治学の理論体系を作りましたけれども、それに対して、当時、国際政治学のかなりの学者から浴びせられた批判というものが、今言ったように、国益とは言うけれどもそれは一義的には規定できないではないか、国家の中には様々な農業団体の利益や産業団体の利益、あるいは自民党的な利益、民主党的な利益もあって、それをあたかも一体で統一された利益があるように言うのはそれはごまかしである、学問的な厳密さを欠くという批判があって、私はそれは一定程度当たっているだろうというふうに思います。
 ただ、他方で、基本的に国内でいかに意見の相違があろうとも、日本国の行動というのは小泉内閣の行動として諸外国には認識されて、小泉内閣の政策というものが日本の国益追求の政策というふうに一般には理解されるわけであります。
 その場合にそれが国際公共的な価値追求の行動とどう違うのかということでありますけれども、国際公共的な価値というのは国益と完全に分離して独立にあるものではないと。それは、諸国がお互いに主張を交換し合って、非常に激しい討議の中で、言わば最大公約数をそこに認め合って、そこに実現するのが国際公共的な価値追求の行動ということになるだろうと思います。
 例えば、イラクが仮に大量破壊兵器を持っていたということを、米国のブッシュ政権が武力行使を決断するのをこらえて、あと一年間ぐらいもし続けたとすれば、安保理の中で、ドイツやフランスも含めた、イラクに対する国連としての武力行使というものがコンセンサスとしてできたかもしれない。その場合の米国の行動というのは、これは明らかに国際公共的な価値に合致した正当な行動だったというふうに思うわけですね。ところが、米国はそういう安保理のコンセンサスができないだろうということであの時点でイラク攻撃を決断したと。私は、これは国際公共的な価値を欠いた米国の独自の価値観と利益追求に基づく行動であって、不当な行動であったというふうに判断しております。
 そういう形で自国の利益追求の行動と国際公共価値を求める行動というのはある程度は区別できると。もちろん重なることはあって、米国の行動が国際公共価値の実現に役立つことも今までしばしばありました。
○参考人(功刀達朗君) 国益という言葉は政治学あるいは国際政治学では通念としてあるわけですが、何もそれと私は違った意味で使っているわけではありません。
 日本の国益というものと、国際社会の公益、地球公共財とか国際公共財という言葉が呼ばれますけれども、それと、それから日本の追求する国益というもの、これとの関係において、私は、日本の国益というのは、必ずしも自己中心的に日本の国益だけを考えるのでなく、やはり先見性のある形で自国の利益というものを規定し、そして世界の利益というもの、国際社会全体の利益ということを国益の中に織り込んでいく態度というものが常に望ましいと思います。これは、必ずしもいつでもそうやっていることが必要であるとは言えませんが、事国連の決定に関する問題、日本の国連政策に関する問題、また中長期的に国際社会全体の中で日本の地位を考えるときには、その態度が私は必須であると思います。
 ブッシュ政権のあれに追従することが国益につながらないということをそこに書いたときは、既に、ブッシュ政権がイラクに侵攻する際に世界に公表したいろいろな情報というものが粉飾情報であったということ、それからゆがめられた、故意にゆがめられた情報であったということがかなりそれはもう分かっていた時期であると思います。にもかかわらず、日本政府は再び、イラク戦争が始まるその寸前からそうだったわけですけれども、完全にアメリカ追従型、英国がしり馬に乗るのと同じように、日本は先を争う形で先馬に乗ったと思います。これは世界の国際社会全体の利益につながるものではないし、その辺りで主体性を持った方向転換というものが当然あってしかるべきであったと思います。
○ツルネンマルテイ君 答弁ありがとうございます。終わります。
○会長(上杉光弘君) 魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 参考人の先生方、御苦労さまでございます。
 まず、今、「平和主義と安全保障」という大きな項目で先生方においでいただいて調査をしているわけでございますが、まず浅田、大沼両参考人にお伺いをしたいと思います。
 前回、二月の会のときにも集団的自衛権の問題が議論されました。今日は、両先生とも国際法の専門家でございますので、そういった立場から御意見をちょうだいをしたいと思いますが、いわゆる集団的自衛権に係る政府の解釈というのがあります。国際法上持っていると、主権国家としては当然持っているけれども、あの憲法九条の下では、その許容されている自衛権の行使という考え方からすると、もうそれは超えているから憲法上許されないよというような解釈を一貫して取っているわけでございますが、この政府解釈に対して、持っているけれども行使できないというのはこれはもう矛盾じゃないかというような立場から批判がありますし、また解釈の変更を求めるという意見があります。だけれども、その意見は、やはり国際法の次元と各国の憲法とか国内法の次元という問題とを混同しているのではないかというふうに私は考えております。
 国家が集団的自衛権を保有しているというのは、国際法上認められていることであります。憲章五十一条にも明記されておりますし、国際司法裁判所の例のニカラグア事件の判決でも確認をしているわけでありますが、しかしこのような国際法上の権利を行使するか否かというのは、もうすべてこの主権国家自らの判断で決めるべき問題であって、具体的には主権者である国民の意思により制定された憲法等によってそれぞれの国が決めるべき問題であると、このように私は考えておりますが、この点について、国際法の専門家としての立場から、浅田先生、大沼先生の御意見をちょうだいしたいと思います。
○参考人(浅田正彦君) この問題は、以前から私自身もいろいろと考えておりますし、この調査会でも御議論があったと思いますけれども、集団的自衛権を国際法上保持しておるけれども、その行使は憲法上許されないという政府解釈でありますけれども、これについて、保持しているけれども行使できないというのは矛盾であるというふうな主張があります。しかし、そういったその矛盾であるという解釈につきましては、それはそうではないと私は思っております。
 といいますのは、権利を保持するということとそれから権利を行使するということ、権利を保持する能力と権利を行使する能力というのを峻別するというのは、法律学でいえばもう言わば常識でありまして、例えば民法でいいますと、前者は権利能力という用語を使います。後者は行為能力という言葉を使います。例えがいいか悪いかは分かりませんけれども、例えば未成年や禁治産者、準禁治産者等は、権利能力は有する、つまり権利は保持しているけれども行為について制限を受けるという形で、権利能力と行為能力の区別をするわけです。したがって、法律学の前提的な考え方として、権利を保持しているけれども行使できないということは理論上十分あり得る考え方だと思います。
 法律学的にはそうでありますけれども、じゃ、国際法上どうかということでありますが、国際法においてもこれは同様であろうというふうに思います。国際法も、一応、法という名前が付いている以上、法律学の一分野でありまして、同じような発想が妥当すると思います。
 具体的な例を申し上げますと、権利は保持しておるけれども行使しない、あるいはできないという選択を行ったというふうなものとしましては、例えば永世中立という考え方があります。これは、主権国家であれば他国と同盟を結ぶということは権利として当然認められておるわけですけれども、しかしながら永世中立国は、自らは他国と同盟を結ばないという選択を行って、永世中立という制度はそれを自己に義務付けたわけであります。したがって、そのような制度がある以上、国際法上も同様でありますけれども、そのような自己は他国と同盟条約を結ばないという選択を行う方法としては様々なものがあり得ます。
 実際に存在するものを例に挙げますと、例えばスイスの場合には、条約上そのような形で永世中立を選択しております。オーストリアの場合には、オーストリアの憲法の規定、これは憲法一条に書かれているんですけれども、憲法の規定でオーストリアは他国と同盟を結ばないというふうに述べております。北欧のスウェーデン等は、これは国家の政策の問題として、つまり法的ではなく政策として中立を選択しておると。
 それぞれいろいろな形で他国と同盟を結ばないということを選択しておりまして、この中でも、特に法的な形で行っているスイスあるいはオーストリアというのは、これは自ら同盟を結ぶという、これは集団的自衛権の行使ということとも近いと思いますけれども、少し長くなって恐縮ですので言いませんけれども、集団的自衛権そのものではないと思います。集団的自衛権というのは武力行使との関係ですけれども、同盟と直結はしない、関係はありますけれども。
 それはそうとしまして、同盟を結ばないという法的な選択をしたというのがこのスイスやオーストリアの場合でありまして、そういった形で国家として自ら権利として持っておる同盟を結ぶ権利を自ら放棄するということはあり得るわけで、日本も日本国憲法の解釈として、集団的自衛権を国際法上は保持しておるけれどもそれを行使、憲法上できないというふうな解釈を取っておるその解釈が正しいということを前提とすれば、それは十分あり得るということであって、これが論理的に矛盾しているとかあり得ないということでは全くないというふうに思っております。
 以上です。
○参考人(大沼保昭君) 私も浅田参考人と全く同じ意見でありまして、政治的に持っている権利を行使しないというのが賢明かどうかという話はそれはあり得ると思います。しかし、法的に権利を持っているのに行使しないのは矛盾であるということには全くならないと。今、浅田参考人が言われましたように、権利というのは、有している以上それを行使するか否かということも権利主体の判断の範疇に入るわけでありまして、それを行使しないということは幾らでもあり得ることであります。
 魚住議員は、それは憲法と国内法の混同があるのではないかとおっしゃいましたけれども、別にその問題ではなくて、例えば、国家というのは主権国家でありますから、例えば中国から輸入する産品と米国から輸入する産品を日本は差別しても本来はいいわけなんですね、主権国家ですから。しかし、我々はガット、WTOに入ることによってそういう差別することをできないというふうに自らを拘束するわけですね。したがって、我々はWTO体制の下では原則的に諸国を平等に扱わなければならないというふうに自らを縛るわけです。
 ですから、国際法上も、自分が本来、自国が本来持っている権利を自国の決断、判断によって拘束するということは十分あり得ることであって、国際法上持っている権利を日本が憲法上それを制約するということは法的には全くあり得ることで、それを矛盾と言うことの私は意味が全く理解できません。
○魚住裕一郎君 今日は国際連合についても論じていただいておりますが、次に二十一世紀に期待される国連の役割、また国連の集団安全保障体制の機能、方策ということについて功刀先生から、向かって右の功刀先生から順次お尋ねしたいと思っておりますが。
 国連、特にその中核となる安全保障理事会は、先ほどマルテイ議員からもありましたけれども、冷戦時代は拒否権の行使で、必ずしも安全保障理事会、十分に機能してこなかったと思っておりますが、しかし冷戦終結後の今日では国連安保理がその本来期待された役割を果たし得る環境が整ってきたのではないかと。PKOが急増をしておりますし、また安保理決議に基づく多国籍軍の派遣というものがしばしば見られるようになったのもその流れの一つ、一つの流れではないかと思っております。
 他方、冷戦終結後、やはり地球的規模の諸問題というのがよく目に付くようになってきた、地球環境とか貧困とか人口の爆発とか難民とか、あるいは地域紛争、大量破壊兵器の拡散、さらにはテロリズム、そういういろんな諸課題が山積をしてきて、こうした面で国連の果たすべき役割というものが非常に期待が大きいというふうに考えております。にもかかわらず、今日においてもまだ国連はこのような期待に十分こたえられていない面があるんではなかろうか。そのためのこの国連改革への努力もしばしば試みられているというふうに認識をしております。
 そこで、功刀先生から順次お願いしたいと思いますが、二点お願いをしたいと思います。一つは、国連による集団安全保障体制が機能するための方策という点についてでありまして、そして第二点目は、国連の機能強化のため今後日本が果たすべき役割、ちょっと先ほど国連政策間違っているという御指摘もございましたけれども、日本としてこの果たすべき役割について御意見をお聞かせいただければと思います。
 時間が迫っておりますので、四分程度で、じゃ功刀先生だけということでお願いをしたいと思います。
○参考人(功刀達朗君) 安全保障理事会の役割というものが冷戦後更に重要になったという認識がある一方で、もう一つ、余りにもそこに権力が集中し過ぎていると。これは人道法に関するもの、あるいはテロに対する急速に作ってしまった条約の効果を持つ決定等、テロコントロールのためのですね、そういうような権限というものは従来は考えられなかったようなものまで安全保障理事会は持っています。また、人道法の罪を裁く組織を幾つも作ったということもあるし。
 そういうわけで、実は、先ほど申し上げたように、安全ということ、これには三つの柱があり、必ずしも国家レベルでの、国家間及び国内の秩序という意味での安全保障以外に二つの柱があると。そして、それぞれについて安全保障理事会が従来持ってきたような拘束力のあるような決定すらできる方向に、そういう機関を作っていくことが私は本当の意味での国連改革につながると思います。
 そして、それをサポート、支持するものとして、第二総会、第二国連総会というものを作り、これは憲章第二十二条の下で下部機関を作るということは可能なんですが。そして、そこには政府代表ではなくて、市民社会とか企業、労働組合とか研究機関とかマスメディアとか、あるいはパーラメンタリアンス、国会議員等を代表する、市民社会全体を代表するような、そういう代表によって構成するものがパラレルに政府代表の国連総会とともに活動するということが非常に重要であると思います。
 これは、機能的に大変、問題によってどういうふうな構成にするかとか、あるいはどうやって選出するのかとか、こういう問題は非常に技術的な困難もあるということは言われています。しかし、最近では、ITCの発達によってeガバメントとかあるいはeガバナンスということが最近研究されておりますし、私はその可能性というものは十分あり得ると思います。
 したがって、結論的には、必ずしも安全保障理事会を強化というところに重点を置く必要はないし、また私は、中小国の支持及び市民社会の全体の支持というものをもって初めて国連というものはこれからますます重要な役割を果たすということ、その視点から、私は、安保理事会に集中する日本の国連政策というものは心理学的には異常固着的な現象であると思います。
○魚住裕一郎君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 参考人の方々に申し上げます。
 申し訳ありませんが、調査会の運営上、時間が限られておりますので、答弁はできるだけ簡潔にお願いをいたします。
 吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 参考人の皆さん、本当にありがとうございます。
 まず、功刀参考人にお伺いいたします。
 参考人は、平和的生存権について言及されて、積極的平和主義を取る日本国憲法を改正する必要はないと言われまして、私も同感です。しかし同時に、強制行動、武力行使を伴う国連のPKFへの参加は合憲と言われましたけれども、私はここは矛盾するのかなという思いがするんです。
 そこで伺いますが、かつてPKO法審議のときに内閣法制局と防衛庁は、軍事力による自衛隊による国際貢献は憲法制定当時想定されていなかった、こういう国会答弁をしていますけれども、この見解についてどうお考えでしょうか。
○会長(上杉光弘君) お三方ですか。
○吉川春子君 功刀参考人だけ。
○参考人(功刀達朗君) それは、御指摘どおり、日本国憲法が成立したときにはそういう考えは恐らくなかったろうと思います。しかし、憲法、法としての憲法は時代とともにいろいろとその運用を変えていく必要もあるかもしれません。殊に、国内というよりは国際環境の変化に対応して応答的に法を運営していくということは、私は基本的な態度として重要であると思います。
 ただ、先ほど申し上げたように、PKFに参加することも合憲であるというのは、国権の発動としての、国際紛争を解決する手段としての武力行使あるいはそういう参加には私はならないと思います。これははっきりと実は割り切って考えるべきであって、そこまで政府がはっきりと割り切っていなかったということであり、また法制局の意見というものは何遍も変わっているということを私は知っておりますので、また今後そういう方向に変わることが望ましいと思います。
 大沼さんの意見も、私の言っていることとたしか同じだろうと私は解釈しています。
○吉川春子君 ありがとうございました。
 浅田参考人にお伺いいたします。
 参考人は、集団的自衛権について、国際法上の概念と憲法上の概念は別である旨の御意見をジュリストでたしかおっしゃっているように思いました。
 それで伺いたいんですけれども、これ与党幹部の方の発言なんですけれども、現行法、現行憲法でも集団的自衛権の行使ができると、こういうふうにおっしゃっていて、その根拠について、国連憲章五十一条にすべての国が集団的自衛権と個別的自衛権を持っているというふうに書いていると。そして、第二条第三項、四項は日本国憲法に近いことが書いてあると。それでも集団的自衛権を持てますよと書いてある。
 で、日米安保条約の前文にも両国が国連憲章に定める個別的自衛権、集団的自衛権の固有の権利を有しているということを確認するとなっているからというふうに、現行憲法を変えなくても集団的自衛権を行使できるという、そういう根拠を述べているんですけれども、この見解についてどうお考えでしょうか。
○参考人(浅田正彦君) 私は、ジュリストで、国際法上の集団的自衛権と、それから憲法に言う、憲法との絡みで言う集団的自衛権とは違うというふうに言っておるわけではありませんで、基本的に、例えば政府答弁でありますように、集団的自衛権を国際法上有しているけれども憲法上行使できないということは、両者は同じ概念でなければその文章は成り立たないわけですから、そういう意味では国際法上の集団的自衛権も憲法で議論している集団的自衛権も同じものであろうというふうに思います。
 ただ、現行憲法上も集団的自衛権が行使できるというふうな根拠として出される国連憲章五十一条に集団的自衛権が言及されておるということは、これは根拠としては成り立たないだろうというふうに思います。
 といいますのは、先ほども少し議論しましたけれども、権利を有しておるということと行使するということとは、これは区別できると。で、憲法上の解釈として、集団的自衛権を行使できないというふうな解釈が正しいというふうに前提としますと、これは、たとえ国連憲章に集団的自衛権を認められておっても、それは行使、憲法上行使できないというのであれば、それは当然行使できないということになろうかと思います。
○吉川春子君 ありがとうございました。
 お三人の参考人に同じ質問でお伺いしたいと思います。
 アメリカは国連というものを非常に無視して行動することがイラク戦争のみならず最近多くなったと私実感しているんですけれども、私たち日本共産党は、日米安保条約の第十条の手続によって廃棄して、対等平等の立場に基づく日米友好条約を結ぶということを提案をしております。
 最近の、イラク派兵をしないと日米関係が成り立たないんだと、こういう見解がある一方で、ソ連崩壊以後、国際情勢を目の当たりにして、自民党とかそういう保守的な方の中にもアメリカとの関係を見直すべきではないかという議論も、たくさんではないんですけれども、ちょっと見掛けられるんですけれども、日米軍事同盟ではなくて友好条約に変えていったらどうかと、こういう見解について参考人の皆さんはどうお考えでしょうか。
○参考人(大沼保昭君) 私は、先ほど日本は安保理事会の常任理事国に胸を張ってなるべきであると申し上げましたけれども、ただ、これもしばしば批判されておりますように、これまでのような日本外交の在り方をそのまま安保理の常任理事国になっても続けるのであれば、よく言われることは、それは米国が二票持つのと同じことになるという批判があって、私はこれは一定程度当たっているというふうに思います。
 で、私は、今回のイラク攻撃を小泉政権が支持した際に、ここはちょっと功刀参考人とは意見が違いますけれども、私は全く日本政府が米国に追随したというふうには考えておりません。つまり、英国政府もそうですけれども、日本政府は水面下で必死にブッシュ政権に対して国連をもっと尊重するように、国連決議が出てから攻撃をするようにという働き掛けは必死に行ったろうというふうに私は理解しております。ですから、全く日本政府が米国追随だけだというのは言い過ぎだろうというふうに思います。
 ただ、全体として、私は、国際社会で様々な人々と会っていつも不思議がられることは、これだけ巨大な経済力を持つ国でありながら、なぜ日本はこれほどまでに独り立ちできないのかと。これはもう端的に申し上げて、日本の外務省以外の人はすべてそう言うと言っていいというふうに思います。私もその意味では、やはり全体として戦後の日本の外交というものが、当初はやむを得なかったと思います、日本は本当に弱小国でしたから。しかし、八〇年代以降、これだけの巨大な経済力を持ちながら余りにもそれまでの惰性で米国に追随をしてきたと、そういう意味では、これからの日本がもっと米国に対して独自性を持った、対等、対等というのは無理ですね、これははっきり言って米国に対等になれる国は世界じゅうどこもありません。それは単なる美しい言葉であって、現実的な政治家の言葉ではないと思います。ただ、できるだけ自立した、今まで以上に自立した姿勢を保つためにもっともっと国民的な努力が必要だということは必要だと思います。
○参考人(功刀達朗君) 安全保障条約をなくす、あるいはそれに替えるものを作るということですが、現在の国際環境の中で、殊に朝鮮半島の情勢というものがある以上、それを今の段階でなくすということは国民全体に大変な不安を与えるのではないかと思います。やはりもう少し時間を掛けた段階でそれを考える必要があるのではないかと思います。
 それから、米国追従問題ですが、私が申し上げていることは、アメリカという国は元々世界のリーダーシップの資質というものを持っている国であり、もっとそのリーダーシップを発揮してもらいたいというのは国際的な期待があるわけです。にもかかわらず、最近の傾向は、それと全く反対に非常に悪い影響を世界に及ぼし、症候群を作ってしまったということです。ですから、日本と英国のような国は、一国行動主義に同調したり追従することは、アメリカという国が国際社会の期待にこたえてその資質にふさわしい真のリーダーシップというものを発揮するのを阻害しているということ、これが私の日本政府の取った行動に対する批判です。
○参考人(浅田正彦君) 日米安保条約を廃棄すべきだというふうなお考えのようですけれども、やはりこの安保条約というのは、現在の日本の安全保障、外交の言わば基軸を成しておりまして、これを廃棄するということは私自身は考えられません。
 ただ、問題は、いろいろな安全保障その他外交問題を考える際に、例えば日米関係がもたないとかよく意味の分からない、内容の、具体的内容の分からない言葉によってすべてを解決してしまうような流れが時々見られますけれども、そういうふうな発想であればこれは変えていくべきだというふうに思っております。
 私自身、集団的自衛権をあらゆる場合に行使すべきであるかどうかということを憲法改正との関係で考えるときに、日本が果たして日米との関係で主体的に、先ほど国益という話が出ましたけれども、日本の国益、国際的な平和、安全保障を含めた形の日本の国益、国際的な公益を考えた上で決定するかどうかということにやはり若干の危惧があるわけです。したがって、日米の安全保障条約を維持しつつも、やはりこれまでのような、日米関係がもたないとか、こうすると日米の関係が危うくなると、そういった発想のみですべてを片付けるというふうな外交あるいは政策決定というのを変えていく必要があろうかと思います。
○吉川春子君 浅田参考人にお伺いしますが、国家責任条文ということをさっきお話しになりまして、他の国の国際違法行為の実行を支援又は援助する国はその問題についても国際的に責任を負うんだと。違法な支援、援助を行った国に対して具体的にどういう責任が問えるんでしょうか。その点をお伺いいたします。
○参考人(浅田正彦君) この国家責任条文というのは、国際違法行為をどのような場合に行ったというふうにみなされるかと、そのようにみなされた場合にどのような行為が求められるかということについての条文でありますけれども、今おっしゃった、違法行為を実行することについて支援を行った場合についての問題ですけれども、例えばアメリカが違法な武力行使あるいは侵略行為を行うという場合に日本がこれに対して支援を行うと、それは、やり方としましては、例えば基地を提供するということもありましょうし、それから後方支援ということもありましょうけれども、その場合に、アメリカの行為が違法な侵略行為であれば、それを支援した日本も違法行為を行ったということになるというふうな考え方です。
 したがって、お答えになるかどうか分かりませんけれども、日本としては、様々なアメリカの軍事行動に対して支援を行う際には、国際法上の発想としましては、果たしてアメリカの行っている軍事行動が国際法上合法かどうかということをきちっと考えなければ、アメリカが違法な武力行使を行えばそれを支援した日本も違法な、国際法上違法な行為を行ったということになるということで、その点はそのたびごとに日本はきちっと考えなければいけないというふうに思っております。
○吉川春子君 済みません、会長、一言。
○会長(上杉光弘君) 吉川春子君。
○吉川春子君 その場合に、違法な支援を行った例えば日本に対してどういう責任が問われるのか、例えば国際的な裁判にかけられるとか、そういう意味なんです。どういう責任の問われ方をしますかという質問です。
○参考人(浅田正彦君) これはどのような形の違法行為でも同じでありますけれども、例えば、国際社会においては損害賠償の請求というものが行われますし、違法行為について違法行為がなかったならば存したであろう原状に回復するように求めるとか、いろんな形の責任の解除の方法はあります。それは場合場合によって、例えば日本がアメリカの侵略行為に対して支援をした場合には、その侵略行為の結果全体に対して責任を負うというのでなくて、日本がそれに対して寄与した部分についてどのような形で責任を負うかというのは、その場合場合によって例えば損害賠償その他のことがあり得るかと思います。
○吉川春子君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 田英夫君。
○田英夫君 最初に大沼参考人に伺いたいと思いますが、大局的視点を持って、憲法改正するとすればその視点を持てと、大局的視点を持てということを言われて、それには国際的な文脈と歴史の文脈に憲法を合わせて考えろと、時代の変化に沿ってということだろうと思いますが。この憲法第九条というのは、そのおっしゃったとおり、歴史的文脈といいますか、太平洋戦争のこの悲惨な体験ということの中で、特に広島、長崎の原爆の体験の中からこの九条一項、二項というものが作られたんだと理解をするんですが、もう一つ、大局的というか、大沼さんのおっしゃったあれでは、国際的な文脈の中でというところで、国連憲章がちょうどできた直後ですから、そういう意味で、未来を見据えた理想的な人類の理想という姿で作られたんじゃないかと思うんですが、今、にもかかわらず、時代が変わってきて、そこを変える必要があるということでしょうか。
○参考人(大沼保昭君) 私は、憲法を作ったときの日本国民の思いというものが、今、田議員がおっしゃったように理想を求める姿勢であったし、また第二次大戦の惨禍を二度と繰り返さないというものであったというのはそのとおりだろうと思います。ただ、当時の理想というものを、それは恐らくかなり人類普遍の理想であろうと思いますけれども、それを今日の社会でそのまま一国が理想として掲げるというには、私は現在の憲法は余りにも立派過ぎるものであるというふうに思います。
 我々は、少なくとも国会の議員という方々は政治家として行動をされるはずであって、宗教家として行動されるのではない以上は、私は、宗教的あるいは個人的な理想は理想として、国家の根本法としてのあるべき憲法ということを考えるべきであって、そういう観点からいえば、日本国憲法の九条というのは、国際社会の厳しい現実の中ではやや勝ち過ぎた理想であるというふうに思います。
 ただ、他方で国際的文脈という観点からいえば、先ほども申し上げましたように、侵略戦争を行った日本が国際社会に復帰するのを許されて、しかも、その後、戦争責任を認めてこなかった日本がこの平和憲法ということのゆえに近隣諸国から言わば許容されてきたという、そういう副次的な役割を果たしたことは、十分我々としては考えなければならないことだろうというふうに思います。
○田英夫君 もう一つ、大沼参考人に伺いたいと思うんですが、その今のことに関連をして、四十代から六十代が社会の中心であるべきだという意味のことを言われたと思います。憲法についてもその世代の感覚で改めるべきところは改めた方がいいというふうに私は理解をしたんですが、私は正に戦争世代であって、戦争をまともに体験をして命だけは助かったということの中で、この九条のことは非常に感動を持って当時受け止めました。
 今、四十代―六十代という中心になるべき人は戦争体験はないと。差し障りがあることを承知の上で申し上げるんですが、その今の日本の四十代―六十代の人たちに本当に任せていいのかと、戦争世代としては苦言を呈したいですね。
 今、非常に不道徳なことが社会にみなぎってきている。親が子供を殺したり虐待したり、それから社会の中で許されてはならないようなことが多発しているという、そこはやはり当然四十代―六十代の人が今社会の中心ですから、原因はそこにあるんじゃないかとさえ思うんですが、しかも戦争を体験していない世代にこの九条を論じてもらっては困ると私は思うんですが、いかがでしょうか。
   〔会長退席、会長代理若林秀樹君着席〕
○参考人(大沼保昭君) 私は、基本的に社会の在り方で非常に大事なのは、老壮青という言葉がありますけれども、それぞれの世代が知恵と力と汗を出し合って社会全体を運営していくという形が極めて重要だろうというふうに思います。
 私の考えでは、老人というのは単なる弱者ではなくて、知恵を持った存在であって、その老人が知恵を次の世代に授けていくというのは極めて重要なことだろうというふうに思います。ただ、他方におきまして、老いては子に従えというのも私は真実だろうと思います。その老の世代が自分たちが考えている価値を次の世代も何が何でも維持しなければならないというのであっては、それは社会は発展しないと。そこにはやはり老を尊重するとともに、壮と青というものを尊重しなければならない人間社会の在り方があるんだろうというふうに思います。
   〔会長代理若林秀樹君退席、会長着席〕
 私は、田さんたちの世代があの戦争は正しかったと言うのは、非常に私の世代として聞いているのは不愉快であります。あの戦争はやはり間違った戦争であって、三百人の同胞を殺して一千万以上のアジアの人々を殺した戦争であったと。その反省に立った憲法でなければならない。しかし、そのことと現行の九条を政府解釈のまま維持するということはまた別の話ではないかというふうに私は思います。
○田英夫君 浅田参考人に伺いたいんですが、憲法九条の一項について、不戦条約の流れをくむんだと。同じことをこの間、別の参考人も言われました。今、そういう中で、憲法を改正すべきだという御意見を言われる方の中に、不戦条約の流れをくむ第一項はよろしいと、そのままでいいじゃないか、第二項の方を改めるべきだと、これを、陸海空を軍にしろということになるんだろうと思います。それは、しかし、矛盾じゃないかなと。もっとも、国際的に不戦条約ができてからもたくさんの戦争をしているわけでして、そういう意味でいうと、条約というのは破られるんだという言い方もあるかもしれませんが、日本の場合、やはりあの太平洋戦争の経験からああいう憲法を作ったと。もう一つ、不戦条約ができた直後にまず戦争をしたのは日本の満州事変ですよね。そういう点からすると、これどう説明したらいいのかなと思っておりますが、いかがでしょうか。
○参考人(浅田正彦君) 憲法九条の一項が不戦条約の流れをくむというのは、文言上、先ほど大沼参考人からもありましたけれども、文言上もそうでありますし、実際の起草過程を見ましても、いわゆるマッカーサーノートからマッカーサー草案に移る過程でケーディスという人が関与して不戦条約を念頭に置きつつ文言を今のようにしたと。特に自衛権をも完全に放棄したという形にならないような形にしたということで、そういう意味では、不戦条約の流れをくむというのはそのとおりだろうと思います。
 田議員がおっしゃるように、不戦条約後も戦争が多発しておるし、満州事変というのは不戦条約が発効して三年ぐらいですかね、の後に起こったということでありますけれども、これは、これも議員がおっしゃったとおり、不戦条約違反の行為でありまして、違反の行為があるからその基となった規範は間違いであるというのは、これはむしろ逆の論理でありまして、違反があるから基の規範は正しいということではないかと思いますね。
 違反、日本の場合にはこれを自衛権によって正当化しようとしたと思いますけれども、自衛権であるということは、これは自衛権でなければ違法だという考え方、そういう意味では、日本も自衛権でなければ不戦条約違反だということを認めておるようなことでありますから、そういったことも考えますと、憲法が不戦条約の流れをくんでおるということは、これはその後のいろんな事実を含めて見てもこれを変える必要はないだろうと。
 ただ、二項については、確かに陸海空軍その他の戦力を持たないというふうに言っているのをそのとおりだというふうに思う人はほとんどいないわけでありまして、交戦権につきましても、先ほど少し功刀参考人は違うというふうにおっしゃいましたけれども、例えば日本が多国籍軍に出る場合、この場合には国連はコマンドを持っていないわけですから、この場合にはやっぱり問題になるだろうと。そういう意味で、やはりこの点については陸海空軍その他の戦力も含めて改正する必要は考える必要があるんじゃないかというふうに思います。
○田英夫君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 岩本荘太君。
○岩本荘太君 無所属の会の岩本荘太でございます。大変御苦労さまでございます。私、最後ですので、ひとつよろしくお願いをいたしたいと思います。
 毎回お断りをしているんですけれども、私、憲法も国際法も全然素人なもので、質問に食い違いとかおかしなところがあるかもしれませんが、その点はひとつお酌み取りいただいて、教えていただきたいと思うんですけれども。
 まず浅田参考人にお願いをしたいんですが、先ほどのお話で、いわゆる国際法と憲法と国内法令を、その強さといいますか、憲法が一番上で、国際法がその真ん中でというようなお話をさっき伺ったような感じがするんですが、それをまた、先ほどは御議論ちょっとあったかもしれませんけれども、そういうような視点から見て、例えば具体的に、日本の国は自衛のためだということで例えば後方支援に行った場合ですね、これは憲法上そう解釈されて、日本の憲法では、それは憲法に違反していないと、こういった場合。ところが、実際に行って、相手側から見ると、これは明らかに戦いに挑んできたんだというように見られることもあり得るわけですね。
 そこで実際に、今はまだそういうことないからそう心配ないんでしょうけれども、実際にそれで戦闘が起こった場合、国際法というのはもう全然力がないというか、もうそれはそのまま交戦に入っちゃうというようなことになると解釈していいんでしょうか。その辺をひとつ教えていただきたいと思います。
○参考人(浅田正彦君) 憲法、国際法、法律という序列について、先ほど大沼参考人の方から御説明があったことだと思いますけれども、こういう憲法、国際法、まあ条約、慣習法を含めてですけれども、その下に法律があるというとらえ方は、これは日本の憲法体制下でそのように考えられているというだけでありまして、あらゆる場合に、つまり国際的にもそれが通用するかといいますと、それは個々の国によって違うわけであります。
 したがって、例えば、日本においては憲法上正しいことであっても、国際社会においてはそういったとらえ方をされない可能性は十分あります。つまり、世界が違うというわけでありまして、日本の国内では、そういう憲法が一番上にあって、条約、法律ですけれども、国際関係においては、それぞれの国が国内法を理由に条約その他に違反するということは認められておりません。したがって、例えば日本の法律に基づいて派遣された自衛隊が後方支援を行うと、それが結果として国際法に違反するという場合には、それは国際法違反の行為になります。
 ですから、この辺りは峻別する必要がありまして、日本の国内で議論する場合には、憲法に合致しておればいい、法律に合致していればいいということになりますけれども、それをもって国際的に通用するかといえば、これは全く違うと。これについては、長い国際法の歴史で異論を唱えた人は私はいないと思います。
 それから、戦争になった場合には国際法はもう通用しないかといいますと、これは、戦争においては戦争において適用される国際法というのがありまして、実際に戦争が行われると、これをやめようといってもやめないというのが、これ国家の習性でありますから、したがって、いったん戦争が始まった以上は、少なくとも非人道的な行為はやめさせようということで、国際人道法の適用があるということであります。
○岩本荘太君 ありがとうございました。
 次に大沼参考人にお願いいたしたいんですが、ほかの方も言われたかと思いますけれども、いわゆる国連を通じた行動をすべしというようなことを言われた。その限りにおいては憲法違反じゃないという見方もあると。
 確かにそういうことになるかと思いますけれども、もう一つ想像を巡らせますと、結局、そういうことで世界が統治されてといいますか、世界的に広がっていくとすれば、恐らく広がっていくんだと思いますね、国連というのはやっぱり連盟として動けば一番強いと思いますから。そうやっていきますと、結局、最終的には一つの世界国家というか、世界国家といいますか、まあ警察権だけかもしれませんけれども、そういう一国家みたいな格好で世界がくくられるような感じを持つんです。
 そうしますと、そのときには一国家であると。そのときの戦闘行為というのは、もう戦争というものでない、国家の中のいわゆる犯罪ですかね、そういうようなとらえ方になってくると思うんです。そのときに、前回でしたか、そういうくくり、そういうことによって世界が統一されても、その統一された国家そのものがどういう性格かによって、またおかしなことになるというような御指摘もございました。
 確かにそうですけれども、それはまた別の問題として、そういう一つの大きな世界国家みたいな形になるということは、結局は戦闘行為といいますか、そういうものがいわゆる戦争という、激しいといいますか、私は戦争と殺人という犯罪とは別物と、こう思っているんですけれども、そういういわゆる一般社会で起こるようなそういう犯罪的なものであって、戦争というものがだんだんなくなっていくような感じを受けたんですけれども、その辺、そんなふうな解釈してよろしいんでしょうか。
○参考人(大沼保昭君) 私は今、岩本議員が言われたような形にこれから世界が向かっていくのかどうかということについては、率直に言って何とも申し上げかねます。少なくとも、私が研究者として責任を持ってそういう事態を想定できるというふうには申し上げたくない。
 つまり、世界国家というものが成立するということは、それは遠い将来にあるかもしれないと。しかし、それを前提として私は憲法の問題を考えるべきではないだろうと。我々としてはあくまで現在の主権国家体制というものを想定して、ただその中で比較的地球的規模の正統性を持つ国連の決議、決定に基づく行為というものが、今、岩本議員が言われた国際的な意味での警察行動に近い性質を持っていると。その限度でなら言えるだろうと思います。ただ、それは世界国家というものとは随分まだレベルが違う話であろうというふうに思います。
 ただ、現在の国家体制、主権国家体制というのが完全にジャングルの法則ではなくて、さっきから私が強調しているように、憲法九条で否定している武力行使というのはあくまでも個別国家の利益追求の武力行使であって、国連が集団行動措置としてやる武力行使あるいはPKO活動に派生して行われる武力行使というのは認められるんだというのは、まあ今、岩本議員がおっしゃった世界国家の萌芽的な形と言って言えないことはないだろうということかなと思います。
○岩本荘太君 ありがとうございました。
 最後に功刀参考人にお願いいたしたいんですが、先ほどのお話で、日本の今の平和憲法、これは優れ物だという、私もある意味ではそう思うんですけれども、その御説明の中で積極的な平和主義だというふうに言われましたが、大変そうあってほしいと思うんですが、この積極的ということについてちょっと引っ掛かるといいますか、教えていただきたいんですが、平和主義というのは僕はやっぱり積極的でなきゃいかぬと思うんですけれども、実際、日本の平和憲法といいますか、平和主義といいますか、そういうものが積極的にやってきたのか。どういう今まで積極的なものを、どういう面において積極的にやってきたか、あるいはこれから更にこれを守るとすればどういう面において積極的に働き掛けるか、何か積極的にやることがあるのか、その点をもし御示唆いただければ有り難いと思います。
○参考人(功刀達朗君) 初めに申し上げたように三つポイントがありまして、前文において世界全体の諸国民の平和的生存権というものを我々は尊重するということを言っています。これは積極的な平和主義である。それから、自らが戦力を持たない、戦争をしないと、こういう誓いを立て、その方向に沿って、戦力については現在問題がありますけれども、実践してきたということは、私は積極的な平和主義であると思います。これによって、日本が少なくとも関与した武力衝突、戦争というものはなかったわけですし、武器輸出についても一定の節度を保ってきたということ。
 しかしながら、ほかに平和貢献の策はないのか、平和憲法の趣旨に沿ったものはないかというと、それはもちろんたくさんございます。これは、平和と安全というのは人間の安全保障の一つにすぎないわけで、あと二つの柱というものがあるということを申し上げ、そちらの面で私は日本は応分の貢献を更に進めていくことが望ましいと思います。
 国際協力というものは任意なのか、それとも責務なのかという質問に対しては、私は責務であると思います。そして、必ずしも非軍事の貢献に限る必要はないと思います。能力に従って応分の貢献を行うということは、国際社会の一員としてそれは必要なことであると思います。
○岩本荘太君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 速記を止めてください。
   〔速記中止〕
○会長(上杉光弘君) 速記を起こしてください。
 ただいまの参考人質疑を踏まえて、一時間程度、委員相互間の意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いいたします。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は挙手をお願いいたします。
 吉田博美君。
○吉田博美君 自由民主党の吉田博美でございます。
 会長より発言の許可をいただきましたので、発言をさせていただきます。
 戦後の大変厳しい経済状況の中から、私たちの国は先輩の皆さん方が大変な御苦労をいただきまして、世界第二のGDPを誇り、一人当たりの国民所得もルクセンブルク、スイス、ノルウェーに並んで最も多い国となりました。言わば、いろんな問題は含まれているものの、最も豊かな国になったと言われております。こうした豊かさというものは、やはり大きな意味で貿易に、我々は資源がないわけでありますから、貿易に依存してきたということは否めない事実だと思います。国際秩序あるいは国際貿易秩序から最も一番利益を得た国が我が国であろうと、こう思っておるところでございます。
 そうした中で、世界でみんなが秩序を守ろうとしたときに、私たちは憲法がありますからそれはできませんということが果たして許されるかどうかということで、こうした問題についてしっかりと議論をしていかなきゃいけないんじゃないかなと思っています。
 先ほど来お話ございました、日本は日米安全保障条約を結んでおるわけでございますが、その日米安全保障条約の中で、私どもももちろん集団的自衛権は有しておるわけでございますが、これは憲法上行使できない。しかしながら、考えてみましたら、日本が他国から侵略を受けあるいは攻撃を受けたときに、当然のごとくアメリカは集団的自衛権を行使して、日本の自衛隊と米軍がともに共同して強力な作戦あるいは行動を取ってもらえるわけでございますが、アメリカ本土が他国からの侵略あるいは攻撃を受けたとき、今ICBMがございますので、そうした中でミサイルが例えば他国から日本の上空を飛んでアメリカを攻撃されているときに、憲法の関係がございますのでなすすべがないということが果たして許されるかどうかということを、こうした問題についてしっかりと論議をして、やはり方向性というものを出さなければいけないときが来たのではないかなと思っております。
 先ほど来、そこで参考人がお越しいただいたわけでございますが、浅田参考人、実はこの参考資料をいただいた中で浅田参考人が、昨年の十一月でございますか、ジュリストに載っているわけでございますけれども、「憲法九条の過去・現在・未来」と、この問題について発言をされておるわけでございますが、憲法と国際法についてということでございますが、日本の憲法の問題は国際法の問題が絡んでくると。その最近話題になった例として、話題というか問題になった例として、日本は憲法上核兵器が持てるのかどうかということが議論になったわけでございますが、そのときは憲法上持てるかどうかということだけがこの議論の対象になったわけでございますが、国際法学者の立場から見たときには、これはNPT条約に加盟をしているわけでございますから、核兵器不拡散条約に入っているわけでございますから、当然核兵器は持てないということでございますが、そうしたときに問題が、要するに憲法の問題だけの中で議論がされていたということで、マスコミも含めた中でこの国際法的な問題が取り上げられなかったということがあるということを指摘されておりますが、私はこれからその浅田参考人の指摘の中に、そのときに、憲法の問題を論議するときにはやはり必要に応じてこの国際的視点に立った中で論議をするべきではないかということを指摘されておりますが、今、国際化が非常に進んでいる今日の中でありますから、やはり憲法論議をするときには国際的視点に立った中で、それをしっかりと踏まえた中で憲法論議をしていかなくちゃいけないんじゃないかなと思っておるところでございます。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 ツルネンマルテイ君。
○ツルネンマルテイ君 民主党のツルネンマルテイです。
 先ほど参考人への質問の時間の中で、せめてあと一つの質問したかったんですけれども、時間がなくなりましたので、それを自分の提言というか、アイデアとしては皆様に発信したいということです。実は、その同じ質問をこの前のイラク事態特別委員会の方でも政府の方には聞きましたが、政府の方からは余り前向きな答弁がなかったので、是非今日は参考人たちはこのことについてどう思っているかと聞きたかった。
 その問題は、いわゆる国連待機部隊を日本にも設置したらどうかということであったんです。私たち民主党の中では、私の考えとちょっと違ったアイデアもあります。つまり、自衛隊から切り離した国連待機部隊を菅代表も提案しているんですけれども、私は、切り離すというよりも、あくまでも自衛隊の中に、例えば母国フィンランドのように、フィンランドは自衛隊のようなものはもちろん、徴兵もありますけれども、いつももうずっと前からそのような待機部隊があるんですね。
 なぜこれは、日本でも私は非常に必要であるかという二つの理由があるんですね。
 一つは、今も既にいろんなところに国連の依頼で自衛隊が平和維持活動に派遣されています。イラクの問題はちょっと別としても、派遣している以上は、その準備はなかなかできないんですね。しかし、もしこれは待機部隊だったら、特別な厳しい訓練を受けて、そしていつでも派遣できるようにということで、これはコストの面でも、これは政府の方ではそれはコストが掛かるとかという答弁もありましたけれども、もしこれは自衛隊の予算の中で、もう既にある中でそれを選ぶのならコストはそれほど増えないと思います。今も派遣の、海外派遣のときはお金が掛かります。
 そして、その中のもう一つの大きな理由というのは、自衛隊法では今は、例えば自衛隊に入った若者たちは、まさか自分が海外に派遣されると思っていないんですね。そして今回も、これは志願ではなくて命令だったんです。もし最初から自分が希望して志願してその部隊に入ったら、これはもう全く志願部隊になるということですね。
 こういうこともあって、私はこういうことは日本でもどうかなと参考人たちにも聞きたかったんですけれども、これは私の一つの提案であります。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 白浜一良君。
○白浜一良君 公明党の白浜一良でございます。
 今日いろいろ御意見を伺っておりまして、私の感ずるところを三点申し上げたいと思います。
 一つは、国連憲章もそうでございますし日本国憲法もそうでございますが、当然、歴史的背景というのがあるわけでございます。ですから、歴史、状況が変われば、当然内容がそれでいいのかと、こういう検討されるのはもうこれは当然の流れでございまして、例えば、よく言われますが、いわゆる第二次大戦の、背景にして国連憲章ができているわけですから、当然、日本もドイツも敵国になっているわけでございますから、残念ながらいまだに消去されていないという現状も、これはどう考えてもおかしいわけでございますし、また現在の日本国憲法も、全体がこれでいいのかということで本調査会もできているわけでございますから、ここ何回かテーマになってございます九条問題も含めて当然不磨の大典ではないわけでございまして、熱心な議論で検討されていけばいいということを一つ思います。
 それから、二つ目に思うことは、余り、この戦後日本、この憲法問題もそうですし、安全保障の問題も地に着いた議論になっていないんですね。やっぱり地に着いた議論をしっかりしていくべきだと思います。
 いろんな政党を私批判するつもりはございませんが、例えば日米安保条約というのもございました。これで賛否両論戦後あったわけでございますが、それ反対するために一方で非武装中立論というのがあったと。確かに戦争なんかいいと言う人はいないわけでございますし、まして戦前の日本の軍国主義を反省する観点からそういう高い理念が設けられたということは当然でございますが、しかし、先ほど大沼参考人がおっしゃっておりましたけれども、私たちは政治家として議論しているわけでございますから現実に生起する様々な問題に責任があるわけでございます。別に宗教家としての発言、立場を求められているわけじゃないわけで。当然、政治には理想も理念も必要でございます。しかし、一方で、現実にどう対応するかということが問われるわけでございますから、もうここら辺で本当に地に着いた議論というものをしなければならないということを強く感じるところでございます。
 三点目は、その流れの中で私は、いろんな憲法解釈、九条解釈の問題はございます。だけれども、少なくとも今国民の中に定着していることは、ここまで大きくなった日本、やっぱり国際的な貢献はすべきだという世論が定着していると思うんですね。ですから、具体的にどこまで何をできるのかという議論を実践も含めて積み重ねていくことが大事じゃないかと思うわけでございます。
 私も忘れませんが、PKO法案、この衆参国会で議論して成立する過程はもう大騒動でございまして、何日も徹夜国会をしたわけでございます。そして、そのときに様々なメディア、特にテレビなんかで報道されている姿を見ますと、極端な映像を見ますと、このPKO法、極めて限定的なPKO法案だったんですが、これ審議、国会で紛糾している姿を説明するために、戦前の帝国陸軍の行進の絵を映しながら、いかに危険な法案を今審議されているかというイメージ付けを国民に対して随分されたわけでございます。当然、私たち、当時賛成でございましたので大変厳しい状況で、あの支持者の皆様に説明した経験を覚えておりますが。
 だけれども、今になってみましたら、カンボジアにも行きましたし、レバノンにも行っておりますし、東チモールにも行っておると。いわゆるPKO活動そのものは極めて国民の中に定着をして、事実の経緯の中でしているわけでございまして、また、そういう国際貢献がどこまで、どういう形でできるかという議論をもう少し重ねて、また具体的な行動を提示しながら国民の中にやはり理解の輪を広げていく、そういう方向の中で考えていくべきじゃないかということを、今日は参考人の皆様の意見を聞きながら感じたことでございます。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 吉岡吉典君。
○吉岡吉典君 今いろいろな論議が行われた中で、二つのことを私は発言したいと思います。
 一つは、国際貢献にかかわる問題です。
 憲法九条があるために日本は国際的に責任が果たせないではないかという議論もありました。私はその際に、日本の国際貢献というのはやはり軍隊を出さなければできないということだけでなく、軍隊以外でも国際貢献をできることがたくさんあり、それは憲法論議をまつまでもなく、現実に可能なものとして最大限の努力が必要だと思います。
 同時に、論議の中では、あたかも世界が一致して、日本が憲法を変えてでも軍事力による、自衛隊による国際貢献を求めているように受け取れる議論もありました。私はその点、世界が一体、日本に憲法を変えてでも自衛隊による国際貢献を一致して求めているかどうか、ここらの点は我々は慎重に、全体的な分析が必要だと思っております。
 アジア諸国の中ではそういう意見もあるかもしれませんが、少なくても、日本が憲法を変えて、軍事的に、国際的に役割を果たすことについての警戒心は依然として強いものがあります。同時に、アメリカ政府がそれを求めていたとしても、アメリカ国内でも日本に対して現行憲法の枠内での国際貢献を求める声もあります。
 私は今でもよく覚えておりますが、例えば日本でも有名なフルブライト、あるいはマクナマラ国防長官、彼の書いたものを読むと、日本に国際貢献を求めると、しかしそれは現行憲法の枠内での国際貢献こそ望まれることだというふうに書いているのがあります。
 ですから、私どもは、憲法九条があって世界が求めている国際貢献ができないでいるんだということを前提にすべきではなく、世界が日本に求めている国際貢献というものはどういうものかということについてそれこそ冷静に、全体的に検討していく必要があるというように思います。
 二点目の問題は、日本国憲法もそうですが、国連憲章及び国連というのは二十一世紀に依然として重要な、平和の秩序として価値あるものだという見方と同時に、もう古臭くて役に立たないという趣旨の意見も今世界的に、また日本国内でも見られます。そして、国際連合でなく、有志連合というふうな主張もあります。
 私どもは、国連憲章というのはイラク戦争の中で無能だったということよりは、かえって国連憲章の持つ意義が国際的に重視されるに至ったと思っておりますし、国連憲章のこの平和の国際秩序を更に固めていく必要があるという立場を取っております。
 いずれにせよ、今、国連中心の世界の平和秩序か、あるいはそうでなく、アメリカがイラクでやったような方向、有志連合というような方向を取るのか、その選択が迫られていると思います。その際、私は、国連憲章というのはそういう議論があっても二十一世紀の重要な指針になり続けるし、国連も一層重要な役割を果たすようになるだろうと思っております。それは、国連憲章や国連というのがだれかの思い付きで偶然作られたものでなく、長い世界の努力の到達点であり、決して空想的な産物ではないからであります。
 今日も、不戦条約、国際連盟等々も含めての論議がありました。
 私、この間、国際連盟に関するいろんな本を読んでいましたら、国際連盟の発想というのは実はカントの平和論にあるんだということを書いたものがありましたので、カントの平和論を引っ張り出して読んでみました。二百九年前のものですけれども、読んでみるとなかなか重要なことが書いてあり、これは日本国憲法九条にもつながるようなことも書いてある。例えば、常備軍の廃止と。なぜ常備軍を廃止しなくちゃいかぬかという理由を読んでみると、常備軍はいつでも戦争を始めることができるという準備状態によって他の国々を絶えず戦争の脅威で脅かす、常備軍の存在は果てしのない軍備拡張を促す、常備軍そのものが先制攻撃、つまり侵略戦争の原因となるというようなことを書いておりますし、また他国に対する干渉をやっちゃいけないというように、いろんなことを書いている。それは当時においては、今日もちょっと話がありましたその空想的な理想だったかもしれませんけれども、しかし二百年たった今日は、そういう考え方というのも実際、世界政治の中に取り入れられている考え方もたくさんあると思います。
 いずれにせよ、私はカントをここで宣伝しようというわけじゃありませんけれども、そういう様々の先人たちの発想も受けて国際連盟が作られ、不戦条約が作られ、国際連合憲章が作られ、そして日本国憲法も作られてきたと。それが完全なものではないにしろ、そういう人類の努力の発展の産物であるものですから、私はこれは、この国連憲章というのも国連も、二十一世紀、我々がそこで目指したものが実りある成果を上げる、そういうものにしていく努力こそ必要だなということを述べておきたかったわけであります。
 どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 他に御発言ありますか。
 田英夫君。
○田英夫君 今日は参考人のお話を大変興味深く、同時に有り難く聞いたわけですが、そういう中で、小泉総理がしばしば言われるのは、日米同盟と国際協調を両方重視していくという意味のことを言われるわけですけれども、日米安保条約、つまり日米同盟ということ、これ自体考えても、以前は日米同盟あるいは日米は同盟関係にあるということを言っただけで外務大臣が辞められたことがありますね。鈴木善幸内閣のときに、鈴木さんが訪米されて日米共同声明を出された。その中に日米は同盟関係にあるという言葉があったことで、結局、伊東正義外務大臣が責任を取って辞められた。今昔の感があるんです。
 実は私は、特にブッシュ政権になってからそうですが、世界が非常に危険な方向へ進んでいる、こういうときこそ日本はしっかり憲法のことを考えるべきだと思っているんですが、もう既に十何年前でしょうが、国連軍縮総会というのがあって、我々国会議員から正に超党派で、自民党の皆さんが幹事役になって行ったことがあります。つまり、国連軍縮総会に合わせて各国の国会議員が、まあ有志ですけれども、自然に集まってきた。そして、その国会議員同士で連絡を取り合って、国連総会と並行して国会議員の軍縮会議をやりました。日本からは十数名行ったと思います。こういうことが今、世界でも、国連の舞台でもできなくなってきているという、特にブッシュ政権になってアメリカの一国主義という形で国連を無視しているという中で、全く軍縮などという話が国連でもできなくなってしまった、こういうことを非常に危惧します。
 同時に、小泉さんの言葉を聞くたびに、日米安保条約というのはそんなに不磨の大典のようなものであっていいのかと。実は、日米安保条約第十条、まあ十か条しかない条約ですが、その十条は日米安保条約をやめるときのことが規定されている。一つは、片っ方がやめると言ったら一年後にやめる。もう一つは、余り一般に言われていませんが、日本を中心とするこの地域に、国連が承認をし、日米両国政府が認めた安全保障体制が、構造ができればこの条約は解消すると。こういうことも一つの頭の中に入れておくべきことではないか。
 今、六者会談が北朝鮮の核の問題を中心に開かれています、開かれましたが、あれが恒久的なこの地域の安全保障体制に発展をすれば日米安保条約がなくなるんだという、そういうことが一般の皆さんにどこまで分かっているのかなと思います。我々、やっぱりそういうことを頭の中に置きながら、本当の意味の平和なこの日本周辺地域を作るにはどうしたらいいのかと。
 今日は、三参考人とも国際法の専門家ですからそういう立場で話がありましたけれども、そのことを考えても、正に国際法の中核と言っていい国連憲章というものを、もう一回、日本の憲法と併せて考える時代じゃないか。今は、そういう意味でいうと、逆の方向へ世界が向かっているということを大変危惧いたします。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 鈴木寛君。
○鈴木寛君 今日の大沼参考人の御発言、御意見というのは、基本的に私も相当程度の部分について賛成をする立場でございます。
 ただ、一点だけ補足といいますか、恐らく大沼参考人もそういう御趣旨でおっしゃったんだと思いますが、先ほどから少し話題になっております政治家は宗教家ではないという発言は全くそのとおりだと思いますが、恐らく真意は、政治家は宗教家でないのと同時に官僚でもないということを付け加えておく必要があるのではないかと思います。
 何が言いたいかと申しますと、私も元々国家公務員でございましたが、国家公務員といいますのは、与えられた憲法の枠組みの中で現実的な問題対応を後追い的に処理をせざるを得ないという立場にあるのが国家公務員だというふうに思います。私たち政治家は、正に、与えられた憲法ではなくて、我々が憲法自体をきちっと議論をし、そしてそれを作り直す、そのことが、国家公務員には絶対できなくて、政治家に与えられた権能と義務であるということを再確認をさせていただきたいと思いますし、それから、起こってしまった現実を後追い的に処理するというのではなくて、十二分に現実を踏まえながらも、やはり理想というものを勘案しながら、しかし現実に立脚した正に宗教家と官僚の両方のこの理想と現実というところをいかに知恵と力と汗を振り絞って前進をしていくかと、そして新しい社会を創造をしていく、それが我々の任務ではないかということを確認させていただきたいと思って御発言をさせていただきました。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) 他に御発言はございませんか。
 平野貞夫君。
○平野貞夫君 田先生のお発言に関連して、一言意見申し述べたいと思います。
 私と田先生とは憲法の九条においては全く対立の立場でございましたんですが、今日お話聞きまして、私、思い出したことを一言言いたいと思います。
 実は、サンフランシスコ講和条約、最初の日米安保条約を、吉田茂総理が作ろうとしたときの日米安保条約の第一案は、あの条約を国連総会で承認してもらうという案があったようでありました。そのぐらい当時は日本国憲法とそれから日米関係、国連というものが一体化していた事実があります。ところが、冷戦の状況の中でそれができませんでした。当時の保守政治家というのはやっぱり立派だったと思いますよ。
 したがって、日米関係も国連の枠の中でやっぱり考えるという時代が、六か国協議なんかを見ていまして、また来ているんじゃないかということで、田先生の憲法、国連の考え方と私どもの考え方も近づいてきたかという、そういう印象を持ちましたので、済みません、意見を申し上げました。
○会長(上杉光弘君) 他にございませんか。他に御発言もないようですから、本日の意見交換はこの程度といたします。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後四時七分散会

ページトップへ