第159回国会 参議院憲法調査会 第6号


平成十六年四月二十一日(水曜日)
   午後一時二分開会
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   委員の異動
 四月七日
    辞任         補欠選任
     大塚 耕平君     福山 哲郎君
 四月二十日
    辞任         補欠選任
     江田 五月君     大脇 雅子君
     福山 哲郎君     小川 勝也君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                武見 敬三君
                保坂 三蔵君
                吉田 博美君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
            ツルネン マルテイ君
                若林 秀樹君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
    委 員
                阿南 一成君
                亀井 郁夫君
                桜井  新君
                椎名 一保君
                福島啓史郎君
                藤野 公孝君
                松田 岩夫君
                松村 龍二君
                松山 政司君
                森田 次夫君
                山崎  力君
                小川 勝也君
                大渕 絹子君
                大脇 雅子君
                川橋 幸子君
                小林  元君
                中島 章夫君
                平野 貞夫君
                松井 孝治君
                白浜 一良君
                山口那津男君
                山本  保君
                井上 哲士君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                田  英夫君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       日本大学法学部
       教授       青山 武憲君
       元駐イタリア大使
       鹿島建設株式会社
       常任顧問     英  正道君
       北海道大学大学院
       法学研究科教授  棟居 快行君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (総論
  ―前文)
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○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「総論」のうち、「前文」について、日本大学法学部教授の青山武憲参考人、元駐イタリア大使、鹿島建設株式会社常任顧問の英正道参考人及び北海道大学大学院法学研究科教授の棟居快行参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席いただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、青山参考人、英参考人、棟居参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず青山参考人にお願いいたします。青山参考人。
○参考人(青山武憲君) 青山でございます。
 日本国憲法前文の問題点というテーマで愚見を述べさせていただきます。
 ただ、日本国憲法の前文につきましては既に論じ尽くされています感があります。ですから、ここでどれだけ独自のものを述べ得ますか自信はありません。今から述べますことにつきまして既にお聞き及びのようでしたら、どうか御容赦お願いいたします。
 レジュメをお配りしてありますが、レジュメを提出した後、当調査会から送られてきました当調査委員会の調査資料を拝読しましたところ、そのほとんどが当委員会で発言されていることを知りました。それでも、レジュメは既に提出されていましたので、ここでは大方レジュメに従いながら、でき得る限り、既になされた調査と重複しないような愚見の開陳に努めます所存です。
 手続上は大日本帝国憲法の改正案であるはずですが、その実、新たな憲法案であります日本国憲法案を審議しました際、金森徳次郎国務大臣は、前文に関連して、前文は必ずしも満足いくものではないが、文章の善悪等は別の観点と述べられながら、よく分かるように書くことが適切であるという考えを示されました。また同じく、金森大臣は、日本国憲法案の前文が英文和訳的で悪文とする批判がなされ、美文に改めることについて問われました際には、私といたしましては、この憲法がいろいろの事情からして、相当の早い時期に実施されることを願望してやみませぬがゆえに、願わくばその趣旨と背馳せざるように御協力を願いたいと考えておりますと答えておられます。
 このようなことからして、日本国憲法前文の文章におきますある程度の欠点の存在は、日本国憲法の制定に際して既に覚悟されていたようであります。そういうことであります以上、日本国憲法前文の欠点の修正は、金森大臣が考慮に入れましたいろいろな事情がなくなりました暁には、当然、後世の人の責務であったわけです。
 日本国憲法の前文には、その文章以外にもいろいろな欠点が存在します。
 金森大臣は、その前文についてよく分かるように書くことが適切と述べられましたが、その前文には書き出しからして分かりにくいものがあります。「正当に選挙された国会における代表者」という書き方は何を意味するのでしょうか。このような書き方がなされていますから、時々、学生から、国会議員のほかに正当に選挙された国会における代表者がいるのですかと聞かれます。そのような質問が出ないようなもっと端的な書き方があったはずです。
 もっとも、「正当に選挙された国会における代表者」というのを国会議員と理解することは私は正しくないと思います。前文は「国会」という言葉を用いていますが、一体、国会は日本国憲法によって設けられたものです。したがって、日本国憲法が制定される以前に国会議員は存在するはずがないのです。
 ただ、「正当に選挙された国会における代表者」ということにつきましては、それを我が国が代表民主制を採用することを意味すると理解する人がいます。そのように理解することは不可能ではありません。しかし、そのような理解が正しいとしますと、その部分は同じく前文第一段の、その権力は国民の代表者がこれを行使すると宣せられた部分と重複することになります。いかに何でも同じことを続けて宣しますことは、いかにも稚拙な作業です。ですから、そのような解釈が正しいとしますならば、そのような文章は直ちに是正されなければなりません。
 しかし、その原案を練りましたGHQによる英文によりますと、「正当に選挙された国会における代表者」とは書かれていません。日本国憲法上の「国会」は、英文ではザ・ダイエットとされていますが、その前文におきます問題の部分の「国会」は、ザ・ナショナルダイエットとなっているのです。そのザ・ナショナルダイエットとは、実際には日本国憲法案を審議した帝国議会を意味するはずです。したがって、「正当に選挙された国会における代表者」とは国会議員ではなく、帝国議会議員ということになります。問題の部分は、代表民主制を採用することを宣したのではなく、帝国議会に代表者を送って日本国憲法案を審議したということを宣したものだと思います。
 そのことを示して英文憲法は、第一段の第一文を過去形の形で書いております。したがって、その部分は規範ではなく事実を述べたものなのです。ところが、その部分は事実を述べた部分でありながら、真実を述べたものではありません。と申しますのも、帝国議会は衆議院と貴族院とによって組織されていたからです。貴族院は御承知のとおり、正当に選挙されたものではなかったのです。したがって、問題の部分は、分かりやすいどころか分かりにくく、しかも虚偽を述べた部分でもあったのです。
 日本国憲法前文の書き出しは、英文憲法といろいろな意味で一致していません。例えば、英文憲法では「この憲法を確定する。」ではなく、この憲法を確定することを決意するとなっているのです。これは我が大学の英語の先生にも確認していただきました。
 ところで、「確定する。」という言葉は英語でエスタブリッシュとなっていますが、その意味も法的には必ずしもはっきりしません。と申しますのも、アメリカ合衆国憲法や一部南米諸国の憲法では、エスタブリッシュという言葉だけをもって憲法を宣言したりしてはいません。そのエスタブリッシュという言葉を用いている憲法で、アメリカ合衆国の憲法と一部南米諸国の憲法とでは宣言の仕方が少しく異なりますが、それでもほとんどがオーデーンという言葉を伴っています。オーデーンとエスタブリッシュ、これは参議院のたしか法制局の翻訳であったと思いますが、それによりますと、制定し、確定すると、このようになっているんです。一部南米諸国の憲法ではその他にも一語加わりますが、要するに、ドゥという強調の助動詞を伴って、ドゥ・オーデーン・アンド・エスタブリッシュという形で二つの言葉が用いられると。エスタブリッシュという言葉だけで宣言しているところはそれほど多くはないのです。
 エスタブリッシュという言葉で憲法を宣言しているのは、アメリカの、せいぜい、カリフォルニア、アイダホ、ミズーリ、ネバダ、ニューヨーク、デラウェア、ウィスコンシンといった州の憲法だけだと思います。アメリカの多くの州で、エスタブリッシュという言葉を持った憲法は、制定し、確定するとうたっているのです。それの宣言の仕方には意味があるものと思われます。まだ調べておりませんが、絶対に何か意味があるものと思われます。
 エスタブリッシュという英語の問題はともかくとしまして、日本国憲法前文の「確定する。」という言葉の意味も余りはっきりしないのではないでしょうか。
 前文の分かりにくい点といいますと、本文規定九十七条にも存在します「信託」という言葉です。同じ言葉でありながら、前文と本文とで同じ意味か否かはっきりしないのです。同じ言葉ですから同じ意味を持つと理解するとしますと、おかしなことになります。
 より具体的には、例えば、前文において、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託による」と宣していますが、信託した後、国政が依然として国民のものなのか、国政を行う者のものなのか、はっきりしないのです。もし、信託した後も国政は依然として国民のものであるとします。そうしますと、憲法九十七条では基本的人権は国民に信託されていますから、基本的人権は信託した者のものであって、国民のものではないということになります。その場合、憲法九十七条では、基本的人権を国民に信託した者はだれかという問題が解明されなければなりません。それは、基本的人権を持っている者はだれかという問題でもあります。
 ところで、憲法十一条では、基本的人権は「国民に与へられる。」となっています。ですから、与えられた以上、基本的人権は国民のもののはずです。その意味で、憲法九十七条と同十一条とは一致しません。また、この憲法十一条でも、基本的人権を国民に与えた者はだれかという問題が解明されなければなりません。
 ともあれ、ここでは、日本国憲法前文の信託と本文規定の信託とは同じ意味なのか、そうでないのかはっきりしません。であります以上、もう少しよく分かるような言葉で宣言せらるべきであったのではないかと思います。
 日本国憲法と本文とでは内容的に一致しないところがあります。憲法前文第一段では、人類普遍の原理を宣言し、また、その普遍の原理に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除するとさえ宣言しています。この「排除する。」と宣言した部分は、決して経過規定というだけではないはずです。そうしませんと、日本国憲法を改正して国民主権主義を排除することができることになります。
 日本国憲法前文が宣言している普遍の原理の内容は、国民主権主義、代表民主主義、国民福利主義です。その前文では人類の原理ではなく、「人類普遍の原理」と言っていますから、およそ例外はないはずです。例外がありますと、もはや普遍ではなくなるからです。
 ところが、日本国憲法本文は一部に直接民主制を採用しています。国会議員の選挙、最高裁判所の裁判官の国民審査及び憲法改正、地方自治絡みで地方特別法に関する住民投票がそれです。もとより、地方自治も人類の行為にほかなりませんが、その地方自治において、地方自治法には直接民主的制度は多様に存在します。原理や原則には例外があっても構いませんが、およそ普遍のものには例外はないはずにもかかわらずです。それどころか、現実の情報開示制度が既に導入されています。最近では、裁判員制度の導入の動きもあります。また、地方では次第にいわゆる住民投票が行われる傾向が確認されます。
 少しく繰り返しになりますが、日本国憲法前文は国政の原理ではなく「人類普遍の原理」と宣しているのです。そして、その普遍の原理と矛盾する制度が規定され、また表れつつあるわけです。日本国憲法が「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」と強い言葉で宣言しているにもかかわらずです。これは、日本国憲法の前文の宣言の仕方が必ずしも妥当ではないことを意味しているのではないのでしょうか。
 日本国憲法前文第二段の第二文と第三文、すなわち、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」という文章と、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」という文章とは逆でなければならないのではないでしょうか。
 一体、国際社会も全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認しているからこそ、平和を維持しようとしたり、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めているはずです。にもかかわらず、我が国民はその国際社会がそのような努力をしている状態で平和に生きる権利を確認するだけでは意味がなく、権利を確認した以上、平和の維持のために努力している国際社会で名誉ある地位を占めたくなる、あるいは名誉ある地位を占めるための何らかの行為を営みたくなるということでなければならないと思います。
 日本国憲法前文第四段は、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を」「誓ふ。」と宣言していますが、一体だれに対して誓っているのでしょうか。
 誓うとか願うとかは、元来、誓ったり願ったりする者より上位の者、天主や神仏に対してなされる言葉です。そうでない限り意味のない行為なのです。誓った行為に反した行為を営めば、いわゆる天罰的な、理論上何らかの制裁的な行為をなし得る者に対してなされない限り、無意味なのです。しかし、主権の存する日本国民が誓っている相手は一体だれなのでしょうか。
 ともあれ、現実には国民は憲法改正に先立って実際に憲法を自主的に改正しています。否、国民だけでなく、国家の機関も憲法改正を実際に行っています。
 当調査会も、調査に先立って憲法改正を既に行っているようです。例えば、ここに当調査会からいただきました「日本国憲法」がありますが、既に旧漢字はすべて改められています。これは当調査会がもはや旧漢字など使えるものではないという判断の下に自主的に改正したのではないでしょうか。私は、かつて人の名前で、たしか難しい漢字で書く澤田さんか大澤さんだったか分かりませんが、それを易しい漢字で沢田と書きましたら、私は難しい漢字の方の澤田ですといった訂正をされた経験がございます。人は重要なことには正しさを求めるものです。にもかかわらず、重要な日本国憲法において、六法全書を見ても文部省検定の教科書も、既に憲法改正を旧仮名遣いについて実践しております。「日本国憲法」は、実際には難しい方の漢字を書いた「日本國憲法」なのです。
 もっとも、平仮名につきましては、多くが許容範囲として自主的改正を必要なしとしているようです。日本国憲法の紹介に際して、日本国憲法前文の最後の「誓ふ。」と書いた部分を「誓う。」と書いている例はいまだ見たことはありません。しかし、私などは平仮名を率先して改正していただきませんと、先ほど述べました「除去しようと努めてゐる国際社会において、」と言う場合のわ行の「ゐ」の発音ができません。
 その現実に一部改正されています日本国憲法の前文に関しまして、新憲法の制定に際しましては多分に憲法制定のいきさつとか目的及び理念等がうたわれると思いますが、その際、私は、日本人が大事にしてきたものを是非挿入してほしく思います。その日本人が大切にしてきたものとは何かと申しますと、意見もおありでしょうが、私の認識では、英先生の前文案にもあります「和」です。
 聖徳太子による十七条憲法では、和の精神が説かれています。「うえやわらぎしもむつみて、あげつらうにかなうときは、じりおのずからつうず、なにごとかならざらん」の精神です。その精神は、万機公論に決すべしとか、上下心を一にす等として、五か条の御誓文や日本国憲法制定に先立ちまして、新日本建設の礎の詔にもあらわれております。
 我が国では政治や行政の組織だけでなく、企業から村落の生活等に至るまで、昔から会議が多いのは、和を重んずる精神の反映だとも言えます。白川静先生の「字統」によりますと、和という文字におけるのぎへんの「禾」は軍門の象、「口」はさい、すなわち祝祷を収める器を意味し、したがって、軍門で盟誓、誓うですね、盟誓し、和議を行う意味で、和平の意となるそうです。そのような意味を持つ和の精神は、人々の間における親和、家庭や社会の構成員の協和、国際社会における平和、人類と自然との調和等と、元々穏和な我が国民性に非常に合ったものと思います。いささか和という文字のいいとこ取りをいたしましたが、そのような和の精神を前文に是非とも反映してほしいものです。
 それから最後に、天皇についても一言あってほしいものです。天皇は我が国の文化、伝統を継承している象徴的存在でもあるからです。是非このようなものを含めた宣言文をお考えいただきたいと思います。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、英参考人にお願いいたします。英参考人。
○参考人(英正道君) 英でございます。
 周知のことでございますけれども、現行憲法には第九十六条という改正規定がございます。これによりますと、国会が発議した憲法の改正提案が成立するためには、国民の過半数の賛成が要件となっています。日本は自他ともに許す先進民主主義国でございますから、この規定は至極当然のことであります。しかし、現実には、有史以来、日本国民は国の最高法規である憲法を作る作業に直接参加したことがありません。明治憲法は欽定憲法でございましたし、現行憲法も実質的には敗戦後の占領下で占領軍が起草したものであります。
 私は、民主主義国家である日本を構成する日本人が一度も憲法を作る作業に参画していないということは極めて異常であると考えるものでございます。私は、他の参考人の先生方のような憲法を深く学んだ学者ではございません。一介の元公務員でございます。しかし、憲法前文の問題については、すべての国民が意見を持ってよい問題であると考えております。
 本日は、一国民としてこの権威ある調査会で意見を述べさせていただくことは大変に名誉なことと感謝申し上げます。
 国民の一人として、私は、一日も早く私たち国民がそれぞれの一票を投じて成立させた国の最高法規である憲法を持ちたいと切望しております。しかし、国会の発議なくして国民はこの自国の憲法を選ぶという権利を行使することはできないのであります。国民の一人として私は、立法府の皆様方に、是非私たちがこの重要な権利を行使できる条件を作り出すようお願いいたします。
 憲法改正の機運は高まっております。理由は極めて簡単でございます。それは、多くの国民の間に、現行憲法は日本に国民主権を定着させるというその歴史的な役割を終えたけれども、新しい問題に対応する指針を提供していないという認識が深まっているからでございます。
 では、国民が求めているものは何でありましょうか。二十一世紀に入って、日本は国の中でも外でも数多くの新しい問題に直面しております。国民は、国の最高法規である憲法が二十一世紀の世界に生きる日本が必要としている指針や制度を明快に示すことを求めていると言ってよいでありましょう。その求める内容は人によって様々であると思います。この点については、目下、衆参両院に設けられました憲法調査会が五年間にわたる膨大な作業を続けていらっしゃると理解しております。
 私個人といたしましては、憲法前文の改正こそが最も重要な問題であると考えておるものでございます。以下にその理由を申し上げます。
 その前に一言、憲法の前文そのものについてでございますが、様々な意見があるということに簡単に触れておきます。
 世界の主要国の憲法には前文が存在しないものもございます。だから、前文はそう重要ではない、不必要であるという意見もあります。他方、前文は極めて重要であって本文と切り離して前文のみの改正は適当でないとする意見もあります。私は、このいずれの意見も考えとしては間違いじゃないと思います。
 ただ、私がここで強調いたしたいのは、憲法前文は極めて重要な役割を果たすことができるということでございます。私はこれから行われるであろう憲法改正作業の中で、前文に積極的な役割を果たさせる方向で改正を考えてみてはどうかというふうに考えるわけでございます。
 具体的に申し上げますと、憲法前文が果たすべき役割としては、私としては次のような五つのものが考えられると思います。
 第一は、日本の伝統と文化の上に立つこの国の形を示す役割でございます。
 私は、日本国民が自分たちの憲法に誇りと愛着を持つことが極めて大切であると考えます。私たちがこれこそ自分たちの憲法であるという意識を持つためには、その前文において日本の歴史、価値観、伝統、文化などが述べられていることが重要でございます。このような日本の自己認識、英語で言うとアイデンティティーということになりますが、そういう自己認識に到達する一番の近道というのは、私は、先祖返りをすることではなくて、過去が投影されているこの現在を私たちがよく見詰めることによって日本人の特性を見付け出すということであると思います。
 憲法の前文を考える機会に、過去から私どもが連綿と受け継いできた日本人の伝統の中で何を将来に引き継いでいくべきかを考えてみることには大きな意味があると存じます。
 第二は、日本の進路を明らかにする役割でございます。
 急速で広範なグローバリゼーションの進展から、二十一世紀において日本は過去のいずれの時代よりも規模の大きい急速な変化を体験すると思われます。変化に対応するためには、私たちは変わらなければなりません。そうしなければ、日本は取り残されて衰退していく運命をたどるでありましょう。
 新しい憲法前文は、グローバリゼーションが進む中で、日本人はどういう心構えで未来に対処しなければならないかということを示すという重要な役割を果たせます。私が特に重要であると考えますのは、グローバライゼーションが求める変化の中における国家の役割の変化でございます。
 二十世紀は国家主権が至上のものとされた特異な時代でございました。国家はその領域の中で国民を統治するものとされ、各国国民が何ら望んでいなかったにもかかわらず、二つの世界大戦が戦われ、非戦闘員の大量殺害が正当化されました。
 国際社会は、このような不幸な経験から学んで、貿易や国際金融をできるだけ自由にする制度を築き上げる一方、武力行使を厳しく制限したり、環境破壊を減らすような国際合意を作ってまいりました。多くの分野にわたり国家は次第次第に勝手に行動できなくなってきています。つまり、国家主権に対する制限は次第に増大する傾向にあるわけでございます。欧州連合のように、幾つかの国家が主権の一部を自発的に他国との共同処理にゆだねるために譲り渡すということも始まっております。
 このような流れの中で、私は日本が今後孤高を維持するということなどは到底できないということは明らかであると考えます。私はむしろ、日本はグローバリゼーションの結果必要となってくる国家主権への制限を積極的に受け入れてよいと思います。これは極めて重要な変化でございますので、私は新しい憲法前文の中で、日本と日本よりも上位の存在である地球社会との関係についての長期的な視点に立った考え方をはっきりさせておくことが必要と考えます。
 第三は、日本人に現在の閉塞感を打ち破る活力を与える役割でございます。
 人間と同じように、国も夢を失った時には衰えると思います。近年の流れとして、日本人の国家への帰属意識は次第に希薄となっているように見受けられます。反面、国民の間には、特に若い世代の人たちの間には国際平和、環境保護、途上国の進歩達成、人口問題などという地球が直面する諸問題への関心が強くなっています。このような意識の中に潜んでいる先進、先端性といいますか先進性は積極的に評価していいと思います。
 現在の日本には、世界で最も進んだ憲法を議論する素地が存在していると考えます。国民のよりどころとなる健全で前向きな日本の理想を新しい時代認識として憲法の前文にうたうことができれば、私はすばらしいことだと思います。
 第四は、世界の中で日本の座標軸を明らかにする役割でございます。
 日本の座標軸は、歴史の認識と世界の認識で決まります。明治以降の日本人は、欧米列強に追い付け追い越せ、そういう政策を国を挙げて追求してまいりました。その結果、日本人は、無意識のうちにほかの文明との間の優劣に一喜一憂するというようになってしまったと言っても過言ではないと思います。自国の文化に自信を持っていれば、少しぐらい経済が浮き沈みしても平気でいられるはずです。日本人が外国に対してむやみに居丈高になったり卑屈になったりするのは、私は自信欠如のなせる業だと思います。
 私は、それぞれの民族にはそれぞれ優れたところがあると考えることがこの問題を克服する上で有益であると考える者です。日本の文化が優れているという認識を持つ一方、他の諸国の文化もそれぞれその民族が誇りを持っていることを尊重しなければなりません。
 私は、そのためには世界の多くの文化の間に優劣を付けない文化多元主義の考えをはっきりと打ち出すことが適当という考えです。それは、世界の諸文化、諸文明の間の同列性を認める立場であるとともに、幾つもの文化が一つの国の中で併存することに寛容でなければならないということをも意味します。
 このような文化多元主義の考えを国の基本に取り入れれば、一部のアジア諸国にいまだに根強く残っている日本のアジア支配への疑念を克服するに役立つかもしれません。それは、取りも直さず、健全な歴史認識にもつながります。
 日本が国際社会の中で他国に脅威を与えず、他国に侮られないで、自然体で生存を続け得るためには、抽象的な国際主義を掲げるだけでは不十分であります。自らに誇りを持つが、同時に他国も尊重するという姿勢が明確に示されなければなりません。諸国民が持つそれぞれの固有の文化を尊重するという文化多元主義の考え方は、二十一世紀の日本に一つの重要な座標軸を提供することになると思います。
 第五は、日本が包容力があって普遍性のある社会を築くことを可能にする役割でございます。
 新しい憲法前文が掲げる日本の理念が普遍性を持つべきであるという考えには、異論を唱える方がいらっしゃるかもしれません。日本人の憲法なのだから日本人にとって大事なことだけを書けばよいと、それが外国に通ずるかどうかは心配する必要はないという反論があるかもしれません。また、憲法は文化的な宣言ではない、これは国家の構造を規定する基本文書であるから、文化が入り込む余地はないという方もおられるかもしれません。
 確かに、私たちの憲法が対象とする日本社会は、その構成員の大部分が日本語を話し、日本の伝統的な価値観を持つ日本人が住む社会であります。しかし、日本社会は歴史的に閉ざされ、静止した社会ではなく、中国文明、西欧文明、米国文明などの影響を色濃く受けてきておりますし、海外から人の流入もあります。私は、むしろ異文化の受容という点では日本社会は特に際立った寛容さを示してきたと考えます。
 今後、グローバリゼーションが更に進めば、外国文化や外国人は今後ますます日本社会へ流入するでしょう。近年、外国人と結婚する日本人の数は急増しています。日本社会は、現在、新しい血を急速に取り入れていると見られます。このような異なる文化的背景を持つ者が日本社会の中に増える結果、日本社会が活性化されることは疑いがありません。
 しかし、将来にわたって、日本に調和のある社会を維持するためには、日本人は外国人を日本社会の中に包摂していく積極的な努力をすることが求められます。日本に暮らす外国人についても憲法の規定は準用されるべきであります。特に、永住権を取得して日本に暮らすことを選択する外国人には、でき得る限りの配慮がなされなければならないと思います。長期的には、これらの永住外国人が日本国籍を取得することを私たちはもっと歓迎するべきです。日本は、外国人に対する差別をなくして、教育、医療等を含め、外国人のための諸制度をよりよく整備することが必要です。
 外国人の日本社会への同化は、日本人が掲げる価値観や理念が、日本文化の上に立ちながらも普遍的な合理性を持っている場合には一層容易になります。
 私は、新しい憲法の前文は、国内にあっては、日本人に異文化との関係に指針を与えるだけではなく、同時に、国内に居住する非日本人、さらには新たに日本社会に加わる外国人にも意味を持つものであってほしいと思います。
 さらに、もう少し考えを進めれば、普遍性のある価値観を掲げるのにとどまらないで、他の文化圏においていまだ認知されていない先進性を有する価値観をも包含することが一層望ましいのです。比喩的に言えば、諸外国から優秀な人間が日本のその価値観を慕ってどんどん日本に来て、究極的には日本国民となることをもいとわないというような理念を掲げようということであります。
 ローマの迫害の中で愛と福音を説いたキリスト教が、次第次第にローマ世界を超えて広く全世界に伝播していったように、日本の掲げるそういう理想が、理念が近隣諸国に安心を与えるだけではなく、歴史の中で認知され、次第に普遍性を持つことがあり得るかもしれない、そのくらいの気宇と夢を持ってもよいのではないでしょうか。
 ここでちょっと脱線をすることをお許しいただきたいのですが、最近私は日本とビルマの合作の「血の絆」という映画を見て大変に心を動かされました。ビルマ戦線に従軍した日本軍軍人の一人娘が、父亡き後ビルマへ赴いて、父と現地の女性との間に生まれた血のつながった弟を捜し出す旅をします。その弟は、激しい心の中の葛藤を経て、最後には訪ねてきた姉と心を通わせるという筋書です。
 そこには戦争と平和、国家と個人、宗教、愛、そしてアジアの中の日本という重要な問題について、日本人の魂を揺さぶるような問題提起がなされておりました。そこには、私が前文の試案を模索しながら考えたことと共通する問題意識が多く見られました。
 その共通する問題意識は、一言で言うと、日本とはどういう国なのかということでございます。子供から又は外国人からこの質問を受けたときに、私は何と答えるでしょうか。恐らく多くの人は、平和憲法を持つ民主主義の国だよと答えるでしょう。正に今の憲法の前文に書かれていることです。しかし、更に一歩踏み込んで、それではその世界の平和のために日本人は何をするのですかとか、日本は他の平和的な民主主義国とどこが違うのですかと聞かれたら、答えに戸惑う人が少なくないと思います。
 なぜそうなるかというと、現在の日本人は明確な自己認識を持っていないからだと思います。戦後の教育は、正に現行憲法前文が述べているような普遍的な価値観に重点が置かれ、日本らしさというようなことは学校で教えられていないし、また、私たちはこのことを自らに問い掛けることをしてこなかったのではないでしょうか。
 私は、大変に僣越ではございましたけれども、三年ほど前に私の前文試案というものを書いて問題提起をいたしました。もとより、これが最もふさわしいなどという気は毛頭ございません。思い上がった気持ちではございませんが、具体的に例を挙げて示さないと私が申し上げていることの意味がよく分からないかもしれないと思ってあえて書いてみた次第でございます。お手元にお配りしてありますのでここでは繰り返しませんけれども、国民主権、国際協調、平和主義という現行憲法の前文にある既に定着した政治理念に加えて、日本の文化と伝統、世界の中での日本が目指す理想などについて述べてみたものです。
 さて、今、日本の社会の混迷、特に青少年の心の荒廃がかまびすしく論じられています。こういう事態を導いた一つの大きな要因として、教育の在り方への関心が高まっています。教育基本法の改正が検討されていますが、根本的な問題は、その教育基本法の前文に述べられている憲法の精神の内容であります。私は、現行憲法の前文自体を書き改めて日本とは何であるべきかを明確にしない限り、教育の問題も基本的な姿勢が定まらないのではないかと思います。つまり、私たちは、どこかで日本人のアイデンティティーの問題に真正面から取り組まなければならないんです。私が憲法前文の改正を最も重要と考えるのは、正にこの理由からでございます。
 私は、参議院は憲法前文の改正に当たって大きな役割を果たせると考えます。第九条は言うに及ばず、憲法の本文の改正はいかなる問題でも政治性が強く、国会が全体として取り組む必要がありましょう。しかし、前文の問題は、参議院における党派を超えた議論によりよくなじむのではないかと思います。良識の府と言われる参議院は、当初から党派的な争いから超越した見識の面での貢献が期待されていました。参議院には解散ということがございません。私は、参議院がこの安定した立場を生かして憲法前文の検討に主導的な立場を果たしていただきたいと希望します。
 日本のアイデンティティーの問題にかかわる前文を作るためには、本質的には政治を超えた広範な国民的合意を必要とします。各院における賛成者の数の問題以上に、いかにして広い国民合意を作り上げるかが問われます。参議院が英知を持って、独自の立場を生かして、広範な国民参画の下に新しい憲法前文を作る作業に取り組んでいただきたいというお願いをもって、私の陳述を終えさせていただきます。
 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、棟居参考人にお願いいたします。棟居参考人。
○参考人(棟居快行君) 棟居でございます。
 お手元に憲法前文の意義と役割という二枚ばかりのレジュメをお配りさせていただいております。これに即してお話をしますが、若干いろいろなエピソードを混ぜたりすると思います。お聞き苦しい点があれば御容赦ください。
 さて、憲法前文の役割ということですが、これはもちろん現行憲法、すなわち日本国憲法の前文が現にどういう役割を果たしておるのか、あるいは戦後果たしてきたかという現状認識の問題のみならず、およそ憲法前文というものがいかなる役割を果たすべきかという一般的な私なりの認識、これを同時に込めております。
 以下の点は恐らく余り御異論のないところであろうと思いますので、要約的に述べさせていただきますが、前文それ自体が憲法全体のエッセンス、凝縮をしたレジュメ的な役割を当然担っておるわけです。現行憲法でもそのようになっております。すなわち、国民主権、代表民主制、基本的人権の尊重、平和主義、国際協調主義といった、このような日本国憲法を貫く精神、これが列挙されておるところでございます。このように憲法全体を言わば凝縮した形で最初にぽんと示すという憲法前文の役割、そして日本国憲法が現に果たしておる役割というものは、一言で言えば、言わば見取図としての役割ということであろうと思います。
 憲法というものは国の基本法であります。それはいかなる国家を構想するのか、あるいはいかなる国家と国民の関係、これを樹立するのかということについて基本的なルールを決めておるわけでございまして、その基本的な見通し、予測可能性といいますか、こういったことを国民に対して提示をする必要があります。
 憲法も法律の一部でございますので、内容を詳細に熟知をして、あるいは理解をして、さらには判例なども踏まえた上で、それを基準に実際に日々の政治が、政治はもちろん正確に行われると思いますが、国民生活が粛々と行われるということは、これはなかなか難しいところでありまして、むしろ国民にとっては、要するに憲法は我々にどのような国家というものを与えたのか、我々はどういう国家を選んだか、あるいは国家と国民はどういう関係にあるのか、例えばついこの間のイラクの人質事件のようなケースで国家と国民、両者の関係はいかにあるべきか、これは根幹にかかわる問題が実はあったかと思います。このようなことについて基本的な見通しを与える、そういう見取図的な役割が憲法の前文の役割であると思います。
 さらに、メッセージとしての前文というふうにここへ書いておりますが、理念を発信するという役割、これも前文に託されておるわけです。
 そもそも憲法というのは、人権並びに統治権力につきましてそれを根拠付けるという極めて基本的なことをなす特殊な法典であります。国会議員の先生方が立法権を行使されるということは、日本国憲法が立法権をもちろん授権をしておるということによるわけでありまして、また先生方がお作りになる立法、これに基づいて行政機関が様々な行政処分等を行う、これは立法の行政に対する授権がそこにあるというわけでございまして、このように憲法を頂点とする縦の法段階、法的な段階構造が見られるわけであります。そのような段階構造の頂点に憲法はあるわけでございますが、その憲法の言わば柱書きといたしまして、憲法前文というものは憲法の理念を発信するという役割を担っております。
 このような憲法の前文というものは、これは先ほども既にやや触れましたが、国家像並びに国家と国民との関係、とりわけ責任それから役割の分担ということにつきまして、国民に対して分かりやすく説明をする、さらには、同時に世界に対しても分かりやすく説明をすると、発信をする、こういう言わば日本の顔としての役割が求められることになります。
 なお、このような憲法前文の基本的な役割の反対側といたしまして、具体的な裁判で直接に個々の事件を規律するといったいわゆる裁判規範的な役割、通常の法律が持っておる役割は、憲法前文に関しましては憲法の本文とは異なり、憲法前文に関しましてはそのような役割は必ずしも認められないということになるわけでございます。
 私が強調したいのは、これから述べます三番目の役割でございます。それは、国民に共有される価値ないし共通の目標として憲法前文というものがあるという点でございます。これはレジュメの中でも、また以下の話の中でも「夢」というようなやや文学的な日本語を使って表現させていただきたいと思います。
 これはどういうことかと申しますと、日本国憲法の前文に込められております国民主権であるとか基本的人権、平和主義、国際協調主義といった諸原則につきまして、これは率直に申し上げて極めてあいまいもことしております。このようなあいまいさというのは、法規範としてはかなりの程度致命的なわけですが、しかしながら憲法前文という特殊な場所にあるこのような基本原則というものは、むしろ国民が各人各様の自分の価値観に言わば引き寄せて、ある意味で都合よく憲法前文、すなわち憲法が発信する理念というものを自分サイドで理解をするということを可能にしてきました。
 その結果として、必ずしも、戦後といいますか、決して戦後日本国憲法を制定した時点で国民の正確なコンセンサスを得て作られたわけではないにもかかわらず、日本国憲法が憲法としては非常な長寿を享受してきたということにつながっておると思うわけです。つまり、あいまいな諸原則であるがゆえに、国民が各人各様に自分に引き付けて好意的に理解をすることができる、そのことによりまして、多様な価値観を統合するという役割が言わば期せずして果たされてきたと言えるかと思います。
 私の好きな番組にNHKの「プロジェクトX」というのがあるわけなんですが、なお最近、これはアラブ圏でも英語版が更に翻訳をされまして流されるということで、日本の戦後、その格闘、これを伝えるという点で世界に発信する非常にいいコンテンツだというふうに個人的に喜んでおるのですが、あのような番組の中で見られる日本人の、今日的に見ればやや時代錯誤的な、男ばかりが集団を成して会社やあるいは家族のために必死に働くと、結局は自分の名誉のためにと。映画で「ラストサムライ」というのがありましたが、正にラストサムライの集団だなという感がいたしますが。
 このような戦後の高度成長を支えた典型的な日本人の夢というものは、これは何であったかといいますと、日本国憲法の前文を自分たちに都合よく読んだか、あるいはやや日本国憲法の前文を戦後日本のまだ古い意識がいろいろ残っておる中に、ある意味で翻訳をしつつ変容をさせつつ日本国憲法の前文を読み替え読み込んでいった、そうして得られた夢を日本国民が共通して追い掛けてここまで来たというのが、戦後日本ではなかったかなというふうに思います。
 今、ややややこしい物の申し上げ方をいたしましたが、要するに戦後日本の成功と日本国憲法、とりわけその前文に込められた基本原則、これは切っても切れない関係にあるというふうに私は思います。
 ただ、決してその基本原則がストレートに戦後日本の成功を保障してきたということではないわけでございまして、むしろ日本的なそこに読替えといいますか、アレンジといいますか、そういったプロセスが入りまして、言わば憲法前文の普遍的、ある意味で西欧的な理念を特殊日本的に読替えをした上で、我々が直接追求できる夢の形に置き換えて、それを目指して一生懸命一致団結をして頑張ってきたということではないかなと思うわけです。
 そして、その夢、共通の追い掛けてきた価値というものが、ある意味で経済の変化といった問題もあるのかも分かりませんが、今、やや夢から覚めつつあるといいますか、夢が多少色あせてきておるのかなというふうに思います。
 もしそうであるとすれば、国民に共有されるべき価値、共通の目標を示すという憲法前文の役割、これが今日問い直される、つまり、もう一つ憲法前文に言わばねじを巻きまして、共通の夢というものをそこにしたためていくといった作業が必要になるのではないかと。私の聞きますところ、先ほどの英参考人もそのような話をされたかと思います。
 さて、引き続きまして、現行日本国憲法の前文は、以上述べましたような憲法前文が果たすべき役割をどこまで果たしてきたのかということでございます。
 まず、全体のエッセンスたり得ておるのかということですが、これはもちろん、基本原則を並べておりますから、その意味では、日本国憲法のエッセンスという役割を果たしていると言えばいると言えます。
 しかしながら、基本原則というものの相互の関係、例えば人権と国民主権。民主的な決定を経てなされた国家的な決断というものと個々の人々の自己決定、これがこの間のイラクの人質事件で正にそうであったかも分かりませんが、ややもすれば衝突をしてまいるという限界領域、これはあるわけです。そうしたときに、両者の関係、これどこで線を引くのか、あるいはそういう場合にどっちが優先だといった相互関係というのが必ず問題になるわけです。
 あれもこれもいろいろな価値を並べて自分に都合よく読んでくださいということで、国民が日本国憲法をそれなりにエンジョイしてきたかも分かりませんが、突き詰めて言えば、そのあいまいさというのは、やはり看過し得ないコストというものをそのまま今日にまで持ち越してきておるわけでありまして、それは諸原則間の相互関係があいまいだということであろうと思います。
 更に言えば、平和主義、それと国際協調主義。何となく従来、私が所属するような憲法学者という職業集団においては、平和主義と国際協調主義という二つの憲法原則は、これはもう完璧に相伴うものというふうに考えてまいったかと思いますが、最近、国際貢献ということが言われ出し、どうも両者の間にずれがあるんではないかということが学界の外側からの指摘を受けまして、若干この両者の関係についてようやく考え直さなきゃいかぬというところに来ておるのではないかと思います。いずれにしましても、日本国憲法からは、この二つの間の折り合いというものの具体的な線引きはこれ読み取れないということになります。
 このように、諸原則の間での優劣あるいは線引きがなかなかに困難であるということの根本的な背景といたしましては、結局は、日本国というのは何なのか、我々はどういう国家像を選んだのか、あるいは国家と国民の関係について我々はどういう線引きを欲したのかという明確なイメージが日本国憲法からは伝わってこないということが根本にあると思います。
 すなわち、日本国憲法、とりわけその前文を見ますと、これは非常に未来志向のようであり、そして日本人の夢をかき立てるポジティブな印象が一読した限りではありますが、しかしよく読んでみますと、必ずしもいわゆる未来志向ではないのかなというふうな印象を私は持っております。
 すなわち、ここでは平和ということを非常に強調しておるわけですが、その平和というのは、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」というこの部分を裏返して平和主義というふうにつないでおるわけでございまして、したがいまして、あの戦後すぐの時点でそれまでの戦争を否定する、それまでの国家像を否定するという、言わば過去を振り向いてそれを否定するというところから出発をしておるわけであります。
 過去が直近の過去であれば、すなわち戦後すぐの時点であれば、それまでの国家像というものを否定するということについてみんなが一定のコンセンサスを持っておれば、それはそれで共通の出発点として十分だったということが言えるでしょう。しかしながら、戦後五十年以上たってまいりますと、多くの国民が戦争を知らないという今日におきまして、過去の否定だけでは共通の言わばジャンプ台にはなり得ないわけであります。
 したがって、より積極的にどのような国家を目指すのか、国家と国民との間にどういう線を引くか、責任と役割の分担をどうするかという点について、日本国憲法からはそういう言わば未来志向の羅針盤が十分には読み取れないということが言えるのではないかと。一言で言うと、憲法構想というものが結局見えてこないということではないかなというふうに率直に感想を持っております。
 以下、時間の関係もございますので急ぎますが、では、メッセージとして理念を発信するという作用、これはどうだろうかということですが、日本語として美しいのか、それとも醜いのかという点については、私には文学のセンスがありませんのでよく分かりません。ただ、一言私見を述べさせていただくと、メッセージとしてできふできどちらだという点は、その根底にある憲法構想あるいは国家像そのものの説得力、これに全面的に依拠しておるわけでありまして、文学性に依拠しておるわけではないのではないかと。
 まあ、ありていに言えば、仮に下手くそな日本語、悪文であっても、しっかりした憲法構想がその基礎にあれば、それはそれで憲法前文としては必要にして十分だと言えるのではないかというふうに思います。もちろん、より美しい日本語であるにこしたことはない。メッセージでありますからより耳になじむというものであってほしいのは、これ当然のことであります。
 さて、それでは、国民に共有される価値、共通の目標で日本国憲法はあり得ておるのかということですが、既にかなりの点お話をしております。すなわち、我々は戦後共通の夢、具体的には、一生懸命働いて会社で出世をするとか、一戸建ての家を建てて子供を大学に行かすとか、こういった国民の多くが似たり寄ったりの夢を持ち、そのために言わば同じ方向を向いて、すなわち豊かさという方向を向いて一生懸命まじめに働いてきた、その結果が今日の日本を作っておるわけであります。
 しかしながら、その国民が共通の夢を追ったその夢というものは、日本国憲法が提示した正に前文に込められた価値そのものであったかというと、これは先ほども申しましたように、前文の精神を日本的に言わばアレンジし、あるいは読替えをしたその結果のものであったわけで、これは別の言い方をすれば、日本国憲法自身は戦後日本の高度成長に一つのきっかけを与えたというふうに私は思いますけれども、しかしそれは決してストレートな直接的な貢献ではなかったということも言わざるを得ないのであろうと思います。
 さて今日、システムへの不信ともいうべき非常に残念な現象が社会的に蔓延をしております。年金不払というようなところに象徴的に見られるような、言わば国家とか社会というシステムに対してノーを言う、それを拒否するという、自分を外してくれという、おれは関係ないよという、こういうシステムへの不信というものがどうも蔓延しておるのではないかと。これは結局、日本国憲法前文が持つべき、そして多少は持ってきたはずの人々を統合していく、言わばその夢の力というものがちょっと落ちてきておるのではないか、あるいは日本国憲法を戦後のプロジェクトX的に読み替えた、その読替えも含めて、憲法の言わば魔力といいますか呪文というか、そういったものが少し色あせてきておるのかなというふうに思います。
 それではどうすべきかということですが、この憲法調査会では、是非未来志向の前文論議を期待したいと思います。それは具体的には、国家が知的インフラを整備するという役割を強調した、具体的には学習権や情報への自由、これは本文のマターかも分かりませんが、こういったことを人権の基底に据えた、そういった、人を大事にする、人の能力というものを最大限に引き出す、そういう正に今日の日本にふさわしいと考えられる国家像、これを全面的に出すというものが求められるのではないでしょうか。
 そこではもちろん、自由な自己決定、それとセットの自己責任というものが個人の尊厳の内容として当然に重視をされるべきであります。何でもかんでも国家の庇護ということではない。国家と国民の間の言わば大人の関係といいますか、そういった線引き、これが憲法から読み取れる。国民は、一体どこまでのことを自分の責任でやると、どこからは国家だと、そういうシステムを信用できる、これが憲法、とりわけ前文の役割として重要なのではないかというふうに思います。
 アメリカがテロと戦っており、日本もその戦列に加わっておるわけですが、どうもその際の動機付けは、アメリカの場合には建国の精神である自由や民主主義のために戦う、日本では安全ということが前面に出てきます。これは誤りではありませんが、結局、自由や民主主義といったアメリカでは当然の建国の精神に相当する価値が日本国憲法から必ずしも十分出てこない、あるいは我々がそれを享有できていないというところで、殊更に安全ということだけが強調されるのかなというふうな感想を述べさせていただいて、私のつたない報告を終えさせていただきたいと思います。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 福島啓史郎君。
○福島啓史郎君 自由民主党の福島啓史郎でございます。
 今日は、青山参考人、英参考人、棟居参考人、三先生には、お忙しい中、貴重な御意見を賜り大変ありがとうございました。
 まず最初に、三人の参考人の方にお聞きしたいと思います。
 私、憲法というのは、憲法前文といいますのは、例えば、青山先生が別なところで述べておられますように、国の顔であり目だということでございます。また棟居先生は、エッセンスでありメッセージだというふうに言われております。また英先生も、その国の形を示すものだと言われております。私も正にそうだと思うんですが、他方、やっぱり憲法前文といいますのは、各条項、各条文と密接不可分な関連を持っているわけでございまして、各条文の改正と併せて議論しなければならないものでもあるというふうに思います。
 しかしながら、今申し上げましたように、エッセンスであり、またメッセージであるとすれば、私は、今の憲法は、現憲法は、その立法時の経緯から見れば、正に、天皇制を守るかどうかということが正に主眼であって、その意味でいえば、天皇制と、今の憲法第九条で代表されます戦争放棄、また国際平和主義というのがセットで導入されざるを得なかったという時代背景の中で考えざるを得ないのではないかと思うわけでございます。したがって、今、現時点で憲法改正論議をするならば、それは当然に見直さなければならないことだというふうに思うわけでございます。
 それで、私は、現時点で憲法を見直すとすれば、憲法前文を見直すとすれば、私は三つのことを考えなければならないと思うわけでございます。一つは、憲法前文は、日本の歴史及び文化を示すものであるということが一つと、それから二番目には、日本の目指すべき方向及び理念をその中で述べなければならないということ、それから三番目には、国民、特に子供あるいは若い人への教育効果を持つ内容でなければならないと思うわけでございますが、そうした三点につきまして三人の先生方の御見解をお伺いしたいと思います。
○参考人(青山武憲君) 私は、前文というのを余り長々と述べたいという考えを持っているものじゃないんです。憲法ができたいきさつと、それから目的、理念を抽象的にそっと述べて終えればいいと思っています。
 ただ、それでも非常に、ある程度の中身を持たせようとしますれば、今、先生がおっしゃったようなことを私も考えております。その場合に、やっぱり棟居先生もおっしゃいましたが、レジュメというようなことをおっしゃいましたが、だとすれば、例えば前文には、今御質問にもございました、天皇と一体でこの憲法できているのにもかかわらず、一言も触れられていないんですね。あるいは、憲法を改正するに当たりまして、最初に天皇のごあいさつありましたが、そこでも基本的人権ということは言われていますが、基本的人権にも触れられていないんですね。
 ですから、もう少し、これだけの長さを持つんでしたらバランスよく書くことが必要じゃないかと思います。その意味じゃ、この前文はバランスに欠けている面があるとは見ております。
 以上です。
○参考人(英正道君) 憲法前文がなくても憲法はあり得ると思うんですね。私の立場は、せっかく、今の憲法の前文をなくなしちゃうと、やはり日本はこれ軍国主義になるのかという心配をする人も出てくると思いますので、やはりいいところは残して、それに更に新しいものを足すという立場しかあり得ないだろうと思うわけなんですね。
 そこで、もうちょっと一歩進んで、そういうものを作るのであれば何らかの役割を果たすことを憲法前文に求めたらどうかと。現在の日本人が、自分の国って何だと説明付かない、外国に行っても説明が付かない。憲法前文をそのまま読めば、ああ日本ってそういう国ですかと、ああ、いい国ですねと言われるような前文を作ってしまえば、少なくとも公民教育のいずれかの段階で憲法を勉強し、憲法前文を勉強するわけですから、もう丸暗記でもしてもらうというようなふうな役割に使ってもらえれば大変いい効果が持つだろうと。そういう意味で、私は、前文の改正が重要であり、やっぱり優先性を持つべきだという立場で最初から今日はお話を申し上げたんでございます。
 福島先生のおっしゃったこの三つの点、三つに限られるかどうかということはありますけれども、私は、この日本のやはり顔であるから、歴史、文化について触れなければいけない、それからやっぱり理念を持たさなきゃいけない、それから教育効果を持たせるべきだと、これも全く異論ございません。大賛成でございます。
○参考人(棟居快行君) 今、福島先生がおっしゃいました最初の点は、私もかねてから問題として感じておりました。すなわち、九条あるいは平和主義というもの、これはあたかも日本国憲法の柱であるかのように従来憲法学者を中心に説いてきた感もあります。しかしながら、この九条あるいは平和主義というものは当時の言わば苦渋の決断として出たものであり、これは背景には天皇制を守るということもあったかと思いますが、苦渋の決断というのは要するに武器を持たないと、武装解除するということにより、ではおまえは一体どういう人なのかという本質的な問いには答えなくても済むという、つまり世界に必ずしも日本というのはこういう国ですよということを日本国憲法によって十分に説明できなくても、とにかくあの国は軍事力を持っておらぬのだからまあいいだろうということで、九条あるいは平和主義というものが、国家像を前面に出さずに済むその代償といいますか、その反面として選択をされたというかなり戦略的な側面が当時としてはあったかと思います。
 しかしながら、これは国家像なき憲法ということでありますから、このような憲法が、これだけ大きな国になってしかも国際貢献をしようというときに、そのままでいくということはこれはなかなかに困難だということかなというふうに承知をしております。
○福島啓史郎君 次に、英参考人にお聞きしたいわけでございますが、英参考人は、私の憲法前文試案というのを出されておられます。それを読みますと、先ほど私申し上げましたように、今の憲法の前文といいますのは、天皇制と、それからそれとの引換えといいますか、それとの関連で導入せざるを得なかった第九条ですね、戦争放棄とそれから武力の放棄が中心として述べられている。天皇制を中心として述べられているという意味は、逆に言えば主権在民という形でもって天皇制に対応したことを述べているんじゃないかと思うわけでございます。
 したがって、天皇制を裏から、言わば裏返しとして主権在民を強調し、かつ九条を強調しているというのが私は今の憲法九条の構造ではないかと思うわけでございますが、その中で、英参考人の憲法前文試案には、天皇制なり、先ほど青山参考人も言われましたけれども、抜けているものとして、天皇制あるいは基本的人権のところは抜けているんじゃないかということを言われたわけでございますが、私もそう思うわけでございますが、英参考人の憲法前文試案には、その点は、天皇制なりあるいは基本的人権についてはどういうふうに考えておられるんでしょうか。
○参考人(英正道君) 私は、前文の中に天皇の存在を入れる、また入れるとすればどういう形で入れるかということも考えてみたわけでございますが、率直に言って、どのようなコンセンサスが、つまり各院の三分の二の賛成が取れて、なおかつ国民の半分が支持し得るような形でということになりますと、私のとても浅学非才の身をもってしては答えが出せなかったというのが率直なところでございます。
 私は個人的には、現在の憲法の書き方、すなわち国民、国家と、日本国の象徴であって国民統合の象徴であるという天皇の地位というのは、日本の歴史の中で極めて例外的な一つか二つの時期を除いては、権威の象徴ではあるけれども権力の象徴ではなかったと。権力行使のところからは一段高いところで国民統合に役立ってきた存在であるというのが、やはり私は素直な読み方ではないかと思っておりますので、ですから、今の憲法の中の天皇の規定というのはよくできているという感じがいたしますものですから、そこはそれで残しておくのでいいんじゃないかと、そんなようなふうに感じました。
 前文との関係では、それはもっといいのができれば、私は別に個人的に特に反対する気はありませんけれども、なかなか難しいかなということで、私の案では入れなかったという次第でございます。
○福島啓史郎君 青山参考人にお聞きしたいわけでございますが、もう同じ質問でございますけれども、青山参考人は今の憲法の前文で天皇制あるいは基本的人権のところが抜けていると言われたわけでございますが、例えば仮に前文で規定するとすればどのような規定の仕方が考えられるか、その点につきましてお聞きしたいと思います。
○参考人(青山武憲君) 私は、天皇と国民は非常に昔から一体感があると思っていますので、うたい出しで、天皇を国の象徴とする我々日本国民はという書き出しでいいと思うんです。そして、それ以上余り天皇について触れる必要はないと思うんです。天皇を持ち上げる必要もないと思うんです。これだけでいいと思うんです。
 天皇は歴史的に我が国の文化と伝統を非常に踏襲してきていますから、ですから上にせいぜい付けるなら、文化と伝統を踏襲してきた天皇を国の象徴とする我々日本国民はでいいんですが、その上の部分も要らないと思っているんです。そして、後にちょこっとというようなことを付け加えて、そのくらいの宣言でいいと私は思っています。
○福島啓史郎君 基本的人権についてはどうですか、青山参考人。
○参考人(青山武憲君) 私は、実は憲法改正論者じゃありませんで、日本国民の憲法は日本人の手で作りたいという自主憲法論者でして、そうしますと、基本的人権というのは何かというのがいま一つ私の基本思想として理解できないところがあります。ですから、自由や権利をたくさん保障するという体制はこれは企図いたしますが、基本的人権という言葉を使うかどうか迷っているところです。
 といいますのは、世界人権宣言等を見ますと、人権という言葉があったり、基本的人権という言葉があったり、基本的権利と、そういう言葉がありまして、これが基本思想としてどういうふうに区分けされて使われているか。日本国憲法の場合は、基本的人権は先ほど言いましたように「信託された」となっているんですね、九十七条じゃ。だれが信託したのかですね。ところが、十一条じゃ「与へられる」となっているんです。だれが与えたのか。こういう基本思想を踏まえないで言葉を用いるだけではいけないと思っています。田上穣治先生から教わったんですが、大日本帝国憲法で伊藤博文が平等と人権という言葉を意図的に使わなかったのは、我が国には天主がいないからだと、そのように教わったことがあります。それが真実だとしますと、我が国では国民にどういう言葉でどのようなものを保障するかということをやっぱり慎重に考えて憲法を作るようやらなくちゃいけないと思っているんです。
○福島啓史郎君 次に、棟居参考人にお聞きしたいわけでございますが、今の憲法の前文の第二パラグラフは正に九条のことを言っているわけでございます。私は、九条につきましては、一項は堅持するといたしましても二項は廃止をしましょう、置き換えまして、要するに個別的自衛権及び集団的自衛権を持つと、行使する権利を持つということと、そのための、それを目的とした軍事力を持つということを規定すべきだと思います。そうしますと、当然のことながらこの第二パラグラフは、憲法前文の第二パラグラフは変えるべきだというふうに思っております。
 それで、御質問は、そうしたこととの関連におきまして、特に私、今、先ほど棟居参考人も言われましたように、国際貢献ということが非常な課題になっていると思うわけでございます。特に、今の新しい戦争の形態、つまり国際的なテロとの戦いということを、我々近代国家、現代国家は正面から向き合わざるを得ない状況になっているわけでございますが、そうしたことを踏まえますと、国際貢献というものも憲法の前文の中に規定すべきだというふうに考えるわけですが、これについてはいかがでしょうか。
○参考人(棟居快行君) 私も、もとよりそのように考える次第でございます。ただ、私、先ほども申し上げようとした点なんですが、つまり世界に向かって、どのような日本国であり、日本国民への統合がなされておるのかという、この国家像あるいは国民の共有する理念というものをまずもって発信をするということが大事であり、そのような形で世界の一員として再デビューいたした上で、そのような日本あるいは日本国民はこの国際社会の中でどのような役割を果たすべきか、どういう貢献をすべきかということについて、まず自分を見せた上でしかるべき役割を担っていくということが重要なのではないかと。
 そのような、初めに国家像ありきで国際貢献論を考えるべきだと、憲法前文の構造もそのようになることが望ましいと、こう考える次第でございます。
○福島啓史郎君 私もそういう、それについては同感のする、同意するところでございます。
 その場合に、その国家像の中心は、私は、一つは先ほど言いましたように、安全保障につきまして、我が国としましては個別的自衛権及び集団的自衛権を行使する権限、権能を有するということと、それから、その目的のための軍事力、自衛力を持つということ、これが一つでございます。しかし、そのことは、今の憲法の九条一項の規定は維持するわけでございますから、国際紛争を解決する手段として戦争というものを、あるいは軍事力を行使するものではないということ、これは一緒になって主張する国家像の安全保障像でございます。
 もう一つは、もう一つの国家像は、棟居参考人も言われておられますけれども、私は、高度成長といいますのは言わば平均点を上げていくということ、つまり全体の水準を上げていくということが中心だったわけでございますが、高度成長が終わった今、我が国として大競争時代に生きていくためには、やっぱり私は創造力、国民の創造力と自己責任を強調する時代に入ってきたんではないかと思うわけでございます。
 その点を、基本的人権と併せまして、創造力の発揮と自己責任をというものを国家像あるいはメッセージとしてこの憲法前文に入れてはどうかというふうに思うわけでございますが、これにつきまして棟居参考人はどういうふうに考えておられますか。
○参考人(棟居快行君) 私、全く同感でございまして、先ほど時間的に配分が悪くて十分なことが申せませんでしたが、国民の自由な自己決定と自己責任という形で国家と国民の間の線引きを立て直すということが当然ながら必要であるということに加えまして、とりわけ日本は人材しか資源がございませんので、そして戦後日本を支えたのも結局は人であったと思いますので、これは大人も含めた意味で私は使っておりますが、学習権、すなわち自分がより学びたいというときに様々な形で、今放送大学なんというものは非常に大きな役割を果たしておりますけれども、そういったインフラを、国家が知的インフラを整備していく。さらに、情報に対するアクセス権、情報への自由というもの、これも国民が自分で考え、自分で決定をし、自己責任を担っていく上でこれは不可欠でございます。
 こういった学習権並びに情報への自由という知的インフラ整備を国家の役割として、前文がふさわしいかどうかは分かりませんが、明記をするといったことがこれからの憲法の在り方として必要だと考える次第です。
○福島啓史郎君 先ほど申しましたように、前文といいますのは、憲法前文といいますのは、各条項の議論を終わってもう一度振り返って議論すべきものだと思っております。そういう意味で、冒頭申し上げましたように、日本の歴史と文化、また日本の目指すべき方向と理念、また教育効果、それらを、それらその三つの要素でもって、あるいは三つが国民に訴えるものとして、方向を示すものとして前文をもう一度、各条文の議論を終えた後もう一度議論すべきものではないかと私は思います。
 以上で私の質問を終わります。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 中島章夫君。
○中島章夫君 民主党・新緑風会の中島章夫でございます。私からも、三人の参考人の方々に非常に参考になるお話を聞かせていただきましたことを心からお礼を申し上げます。
 正直なところを申しますと、三人の参考人の先生方から御意見を伺うということによる刺激もさることながら、私自身、今回、この前文のところで先生方に御質問を申し上げるということのために、初めてしみじみとこの前文を読ませていただきました。そういう意味で、自分の、この憲法前文を今まで時々斜めに読んできたというのが正直なところでございます。一般的な国民の前文の見方にほぼ即しておるんではないかという思いをしながら、三人の参考人の方々にお聞きをいたしたいと存じます。
 まず、青山参考人にお伺いをしたいと思いますが、青山参考人からは、この憲法前文が持っておりますいろいろ文法的あるいは内容的、構成的、様々な矛盾の御指摘がございました。それにもかかわらず今日まで、憲法とともにでありますが、この前文が国民的にある種の支持とは言いませんけれども、そう大きな不満を持たれずに来たのは、棟居参考人からのお話もございましたように、この前文が持ちますあいまいさというんでしょうか、そういうものがプロジェクトX的な役割を果たしてきたという御指摘は大変面白いと、こう思っておるのでございます。
 ただ、まず最初に青山参考人にお伺いをしたいのですが、先ほど、自分は憲法改正論者ということではない、自分で作るということが大事なんだというお話をしていただきましたが、多くの一般的な国民に対して、この構成上の問題点というものを一々あげつらうということでは、なかなか、この前文を見直すというきっかけについて得心を与えるということにはなかなかならないという気がいたします。
 つまり、内容的に、第一、特に第二段、第三段で平和主義、なかなか崇高なことを、その原理を述べていていいじゃないかという程度の判断のものに対して、憲法が持つべき全体的な、憲法前文が本来持つべき全体的な構成ということから、なぜもっと別のものを考えていく必要があるのかという説得を試みるとしたら、先生はどういうポイントに絞ってお話をいただけることになるでしょうか。その点をお伺いしたいと思います。
○参考人(青山武憲君) 私は、実は衆議院でも申し上げましたが、この憲法は押し付けられた憲法という人間なものですから、憲法を改正しましても、押し付けられた憲法の範囲じゃないかということがあるものですから、この憲法は平時においては私は余り、悪い点もありますが、余り悪い憲法とは思っていないんです。ですから、このようなものでもいいから、自分たちの考えとして根本的に作り上げてみたらいいんじゃないかと思うんです。
 基本的人権というのは余り理解できませんが、悪い思想とも思っていません。ただ、例えばスイス憲法なんか、一九九九年にできて二〇〇〇年の一月一日に施行、実施されましたが、基本的人権の思想なんか持ってないんですね。ところが、私どもは、こういうようなものを本当に分析して導入したのか。例えば、ポツダム宣言では、たしか言論、宗教、思想の自由並びに基本的人権の尊重云々と書いてあるはずです。というと、この書き方は、言論とか宗教とか思想の自由というのは基本的人権じゃないから並びにと、そういう並びになっているわけですね。アメリカ合衆国憲法なんかは修正一条に自由を掲げていますが、二十世紀になって連邦最高裁判所の裁判官は、これ基本的人権なんか言わないんですね。むしろ、イギリスから来たところの自由や権利をうたったんだと言っているんです。
 でも、私どもは、基本的人権、基本的人権といいながら、これは与えられたとか信託されたといいながら、本当に理解しながら使っているのか、理解もしないで乱用しているんじゃないかと思いますから、私どもは自分たちの言葉で自分たちの憲法を作ってみたいと、こういうことですが、ただ、前文について、私の周りの若者と接していますと、別に問題意識は何も持っていません。悪いとも思っていません。これが私の周りの学生の現実です。ただ、欠点を言いますと、ああ、欠点があるんですねって感じなんです。
○中島章夫君 ただいまの点に関しましては、英参考人の方から、日本では考えてみれば国民が参加をして憲法を作り上げたという経験がないと、国民に一度自分たちの憲法を選ぶ権利を行使させてほしいという御指摘を得ました。なるほどなという気がいたします。
 実は、私たまたま自分がかかわっております仕事との関係で、教育基本法についてもほぼ同じようなことがございまして、教育基本法が、どちらかというと、今たまたま議論が世上行われておりますのは、どちらかというと代理戦争的、ある片方はこういう点だけを主張し、それに対して絶対反対という相変わらずの動きがどうも多い。もっとも、そういうことではいけないんだという動きが大きな主流になってきているのは結構なことだと思っておりますが。そういう意味で、英参考人がお示しになりましたような、自分が考えるなら憲法の前文というのはこういうひな形でいくんだということを具体に示すというのは、大変参考になるというような気がいたします。
 この全体構造を示していくということに関しまして、これをその一般的な国民的な議論にという、先ほど大変参議院の役割を大変重視をしたいということをおっしゃっていただいて、我々も大変意を強くしておるんですが、それを更に広く国民的な議論にかけていきたいと、こういうその参考人のお気持ちをどういう手段でということについて、もし参考になるお考えが二、三ございましたら、お聞かせをいただきたい。
○参考人(英正道君) ありがとうございます。
 私は、なるだけ広く国民が、若い世代も含めて、やはり憲法改正の問題について実際に参加させる、させるという言い方はちょっといけないかもしれないけれども、参加する機会を考えるということがやはりこれは重要だと思っておりまして、私個人としては、前文は国民の手で作ったらどうかという意見を実は私の本の中では述べたのでございます。
 それは具体的にどういうことかと申しますと、一体どういう理想、どういう日本の伝統をこの憲法前文の中に入れることを希望するのかということについて、どういう形によるかはちょっと分かりませんが、国民の意見を言ってもらうと。そうすると、それは、天皇のことは是非触れろという意見もあるでしょうし、日本の美しい風土とか、先ほど出ました青山先生の和について是非触れてほしいとか、そういういろんなアイデアが出てくると思うんですね。
 それを私は、参議院のしかるべきところで整理をしまして、それで最終的にはずっと並べて、例えば百なら百のものが出てくる、それについてインターネットで投票してもらう、例えばですね。非常に上位の、二十ぐらい出てきますから、上位の二十ぐらいのところを入れた、私の憲法前文というののひとつ募集をするというようなことをやってみると。それがそのまま憲法の前文になるということではもちろんあり得ないとは思いますが、そういうことをやることによって、何か自分も参画したと。最終的にその中で、そういうのを参考にしながら、憲法の前文をある種の方法で起草をだれかがなさるというようなことをやると、中身についてやはり国民の意見を相当体現しているし、それで、かつその案にいろんな条文の審査も行われると思いますから、そういうものと整合性を取らなきゃいけないという立法上の考慮も行いながら憲法前文ができるんじゃないかなというようなことで、もし国会におかれてなされるのであれば、最近はインターネットは非常に進歩していますから、だれかがインターネットの上で憲法前文を作ろうというウェブサイトを作ったら、これはえらい簡単にできちゃうんじゃないかなと実は思ったこともあります。
○中島章夫君 ありがとうございました。
 その点に関しては、たまたま私どもが事前にちょうだいをしました参考資料で、棟居参考人は、中央公論ですか、中央公論でその前文コンテストのようなものを審査をする立場におられたということで幾つかごらんになった御経験があるわけでございますが、今の点について、もし何かお聞きできることがあったら、お教えください。
○参考人(棟居快行君) 今御紹介にあずかりましたように、二年ばかし前になりますが、中央公論社のお力によりまして全国から前文案の募集をいただきまして、そのうち私なりに幾つか特徴のはっきりしたものをピックアップいたしまして、コメントを付けて誌上で発表させていただいております。
 そこで感じましたことは、かなり類型化ができるんだなということが一つです。つまり、幾つかのパターンというのがこれは出てまいると。若い世代で多いのは、やはり環境を前面に出すという、それと、もちろん平和主義を前面に出すというものも当然ございますが、いずれにせよ、一つの特徴としては、今の日本国憲法が、先ほども報告の際に申し上げましたように、様々の基本原則を言わば列挙しておる格好を取っておるのに対して、若い方々の憲法前文案というものは、そのうちの一つないし二つに絞った上で日本はこういう国家像を目指すんですよということをかなり単刀直入にずばりと伝えてくるという、こういう、私の言葉で言えばメッセージ性としては非常に明瞭なものが多かったんではないかと。それをこちらとしても選んでしまったということもあるのかも分かりませんが、つまり、あれもこれもということではなくて、むしろその中の選択、選別と、これを憲法前文の役割というふうに考えているのかなという印象を持ちました。これが第一点でございます。
 さらに、第二点としましては、今、日本は、これは言うまでもなく非常な高度産業社会でございまして、様々の分野の世界の一流の専門家がこれは日本国民としてこの国で暮らしているわけです。
 その方々は、憲法あるいは憲法前文についてはそれこそ初めて読んだというような方々が多いのかも分かりませんが、いわゆる知的な水準、教養、あるいは様々の技能という点では、これは一流のものを持っているわけです。そうした方々が日々いろんな分野で格闘される中で、何か、言わば社会システムに対して漠然とした問題意識をお持ちだというときにこういう企画を立てますと、このような憲法前文というのがあってしかるべきではないかといった形で、言わば現場からのフィードバックのような格好でいろんな物を申されてくると。
 ですから、言わば法律案としてのできはともかくとして、非常に最先端の意識が、例えば知的所有権を大事にするといった考え、あるいは知財立国的な国家像とか、そういった、もちろんそれだけで賄えるわけではないのでしょうが、御自身の、そういった言わば最前線からいろんな意見が、非常に多様な意見が寄せられてくると。それぞれの問題意識といいますか、水準は極めて高い、質がよろしいということが感じたことの二点目でございます。
 ですから、これは、国民自身が憲法前文を書く力を持っているというのはこれはもう間違いのない事実であります。ただ、やはり非常に国民はそれぞれの生活、仕事、その他で忙しくしておるわけですし、その自分の置かれた断片的な状況の中でしかやはり発言はしてこないということで、そういった投書的なものをそのまま並べれば、それこそ今の日本国憲法よりも更に数多くのやおよろずの神々のような諸原則をただ羅列する格好にもなりかねません。
 そこで、私もやはり国会、とりわけこの参議院の場におきまして、これアフガニスタンでロヤ・ジルガというのをやっておりますけれども、国民大会議と申しましても様々の地域、分野から選抜された選良たちの場でありますけれども、この参議院を是非憲法ロヤ・ジルガとして機能していただいて、多様な国民の価値観を、国民の多様性を尊重しながらも政治的に統合していくと、こういう前文を練り上げていただきたいというふうに願っておるものでございます。
○中島章夫君 ありがとうございました。
 今の参考人の方々の御意見を伺っておりまして、素人の私には、今、憲法改正論議が盛んに各党とも行われておりますし、大変結構な大事なことだと思っておりますが、私はどうしてもこれを、国民的なやっぱり理解、英参考人がおっしゃったように、国民が、みんなが参画できるようなものにという筋道がとても大事だと思っております。
 そういう意味ではこの前文の改正が先なのか、憲法の個々の条文及びその全体構成というものが先なのか、あるいは同時並行なのかというようなところが問題になるんだろうと思うんですが、私自身はこの前文を先にということが国民的な意識を高める上からも、憲法構造をみんなに知ってもらう上からも、大変いいことだという気がいたしますが、それぞれ三人の参考人の方々にその点について最後にお伺いをしたいと存じます。
○参考人(青山武憲君) 私は、先ほど申し上げましたように、常に自分たちの憲法を自分たちで作りたいという者ですから、前文が先か本文規定を改めるのが先かということは念頭に置いていないんですが、しかし、憲法改正しかできないというんでしたら、本文規定の中で、例えば九条とか、私は、二十四条、家族の、これが個人の尊厳とか両性の平等といって、家族を権力団体的に規定しているのが家族が壊れているんじゃないかと思ったりしていますのでですね。それから五十五条とか、これは議員の資格争訟、裁判の問題ですね。二院制はこれでいいかという問題もありますが、こういった個々の問題を部分的に国民に問うていったら、逐次的な改正はもしかしたら、国会さえ通過しますと国民は判断すると思うんです。部分的にですが、改正ということでしたら。そういうことです。
○参考人(英正道君) 基本的に、私は新憲法を新たに作るということはおろか、今の現行憲法の全部を対象にした大改正は、私は実際問題として無理だという考え方を持っております。それはもう非現実的であると。やはり段階的に改正をしていくと、これが私の基本的な姿勢でございます。
 ですから、若干福島先生のおっしゃったこととは違うんですけれども、現実に考えると、やはり憲法の一条文の、本文の一条文の下には無数の法律があるわけですから、結局その法律も変えなければ憲法の条文は変えられないという意見に必ず到達すると思うんです。
 ですから、そういうことを冒してもやらなければいけないほど大事なこと、例えば地方自治のような問題については、それはやるのは私はいいと思うんですが、しかし、それにしても、やはり順番を追ってやはり大事なものからやっていくというふうに考えております。そういうこともあるものですから、憲法の前文の議論をすることによって、正に今、中島先生がおっしゃったように、国民が憲法本文についてもどういうことを少しアクセントを置いてほしいという気持ちもそこからにじみ出てくると思うんですね。
 先ほど棟居先生が、これは融通性があるところがいいんだという御意見がありまして、私もそうだと思うんですね。決して裁判で使われる法的な規範ではありませんから、精神の規定のちょっと強いものだと思うんですけれども、やはり正にそれこそ国民が求めている新しい理想とかというようなものの精神規定がそこに出てくれば、裁判において法律解釈する際に、やはりそういうものが一つ参考のものとして出てくるとすら思うんです。
 ですから、思い切って前文だけでも改正をしてしまうということでも私はもう個人的にはいいと。そのほか、次にいろんなことをやっていく。とにかく、一度国民がその意思表示をする機会を与えてほしいと。私は、そうでないと死んでも死に切れないと。少なくとも私の生きている間にそういう権利を一度与えてほしいというふうに思っておりますものですから、早く、段階を追って本当に必要なもの、私から言えば前文、そこから始めて、プラスアルファが御意見によって出るならそれはいいと思うんですね。一つ、二つ、三つ、第一次の改正はその程度にとどめるというようなことが一番現実的ではないかというふうに思っております。
 ちょっと長くなって申し訳ありませんでした。
○参考人(棟居快行君) 私は、やや低次元のといいますか、つまらない規範の話をまずさせていただきたいと思うのですが、先ほども申し上げましたように、前文そのものはなるほど裁判所で直接に効力を有する裁判規範ではないと、このように考えるべきであろうと思います。しかしながら、他方で、本文の個々の条文、これは裁判所でも大方は通用するわけでございますが、そのような本文の個々の条文をどのように読むか。これはこれで、やはり憲法の条文というのは本文も含めましてあいまいさというのはぬぐい切れないわけでありますから、本文のあいまいなものを前文の更にあいまいな基本原則の力をかりて読み込んでいくということをやらざるを得ないわけでございます。すなわち、本文を解釈する際に、前文が言わば解釈の指針、物差しとして役立つという役割を前文は、これは先ほど申し上げませんでしたが、担っておるわけでございます。そうあるべきだろうと思います。
 もしそうであるとするならば、本文はそのままに前文の内容にだけ実質的にも仮に手を加えると、改正を実質的に行うということを仮にするとすれば、結局のところは本文の解釈基準が変わるということでありますから、本文の文字面はそのままにしておいても本文の実質的な意味内容というものに、これは前文の変動だけで影響を及ぼさざるを得ないということになるわけです。縮めて言えば、前文だけをいじるということは、実は前文を通じて本文の実質的な意味内容をもいじるということにつながるわけであります。
 もしそうであるとするならば、やはり全体を見据えた上で、これは必ずしも全部を書き直すということとイコールではありませんが、憲法全体を見据えた上でその整合性を確保しつつ、前文なら前文に手を加えていくということをすべきであり、そのような作業、これは前文だけという言わば部分的なように見えても、実は憲法全体をどうするか、国家像をどのように考えるかという全体的な政治的決定といいますか、決断というと大げさになりますけれども、そのような一つの国家意思が先行せざるを得ないというふうに思います。ですから、見掛けの上で一部か、あるいは見掛け上も全部かということと、本質的に憲法改正をどの範囲で行うかというのは必ずしも重なってこないわけでありまして、見掛け上はごく一部をいじっておるようでも、これは仮に、今の日本国憲法が必ずしもはっきりした国家像を持っておりませんが、それに代わる何か新しいポジティブな国家像を示していくということであるならば、これは見掛けの上では部分的な改正であっても、実はかなり大幅な改正だということになり、それにふさわしいだけの実質的な議論はどのみち必要だというふうに考える次第でございます。
 ですから、やれるところからとか、大事なところから手を加えるというのはもちろん技術的にはあり得ると思いますけれども、やはり基本的な国家像をどう考えるかというのがすべてに先立ってまず確認されるべきではないかなというふうに個人的に思う次第でございます。
○中島章夫君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 山本保君。
○山本保君 公明党の山本保です。
 では、最初に棟居参考人に、ちょうど今お話が出たところをお聞きしようと思っておりましたので。
 私事ですが、実は昨年六月にイラクに与党で行くことになりまして行ってまいりまして、七月一か月、参議院でイラクの特別措置法を審議しました。最後に本会議で、我が党としてイラクに派遣をするということの意義付けを自分なりに整理しなくてはならない役目を仰せ付かりまして、経済的な理由とか日米安保とか同盟とか、そういう国連の要請とか、いろんなもちろんあるわけですけれども、どれも自分の心にしっくりこなくて、もっとあるはずではないか、どっかにあったはずだ、日本は世界の平和ということをもっと責任を持って自主的に主体的にかかわるはずだということを悩みましたときに、何ていうことはない、自分ではっと気が付いたのが憲法前文でした。
 自分なりに読み込みまして、この前文、特に後段は、日本だけが平和であればいいというのではなくして、日本は世界を平和にする、そういう全く理想であり夢だけれども、しかしそれを追求していくことを世界に誓う、こういうことを述べているのが前文であると。しかし、五十年間、六十年間ほとんどそのことは議論されていなかったけれども、二十一世紀、正に日本はこの憲法前文が夢見てきたことを今始めるのではないかということを感じまして、短い演説でしたが、話をさせていただきました。
 今日、それで棟居先生のお話を伺っていまして、まず一つ、今の私のことについて御批判いただくのはもう本当に自由でございますし、ただ、今日先生が言われた中に、あいまいではあるけれども、しかしそこに自分の都合よく解釈できるんだという、シニカルな言い方ですれば、私も都合のいい解釈かもしれない。しかし、今先生が最後に言われました本文、つまり、そういう読み方をしますと、私自身、憲法九条の意味が、決して日本の国だけ云々ということを言っているのではないというふうに憲法九条の意味合いが、素人ですけれども、今までの議論されてきたものとは違う自分なりの読み方ができたような気がしました。それで、それ以後の議論といいますか、非常に自分の整理ができて、自信を持って話ができるようになったわけなんですけれども、こういうことは憲法前文の仕事であると。私もそれで恩恵といいますか、自分なりに役に立ったんですが、しかし、法律とか憲法というものが、そういう一人一人の読み込みで読んでいいようなものであって、言うならば、私も本当に不思議な気がして、五十何年前にこんなことを書いた人がいて、この書いた人は、本当に今の日本の状況、全く何もない正に戦争を起こしてしまった日本と、そして世界の中でそれなりの大変な意味を持ち、もっと積極的な貢献、何が求められている日本などということを当然想定して書いたはずではないわけだと思います。
 しかし、そういうことを読んでいっていいという、これもまあ哲学の文章としては大変すばらしいと思うんですが、憲法とか法律というものはそういうことでよろしいのかという気がいたしまして、この辺について先生、コメントをいただければと思います。
○参考人(棟居快行君) 必ずしも直接的なお答えになるのかどうか分かりませんが、私も、憲法は、これは法典の一種である以上、いかに特殊な法典であるとはいえ、これは法律としての明瞭さ、意味内容の一義性、これをやはり持つべきであると。各人各様が様々な解釈をすることができて、同床異夢状態で、したがって言わば共通のテーブルとして機能できるというのは、一つの政治的、戦略的な憲法の位置付けとしてはあり得ても、どのみちそう長続きするものとも思えませんし、そもそも法典のありようとしては、これはかなり異質であると言わざるを得ないということは私も承知をいたしております。
 別の言い方をいたしますと、やはり法典である以上は、この実効性、一体どのような意味内容を持っていて、具体的にどういう機能を果たすのかということが、これが非常に重要だということになると思います。
 そこで、平和主義あるいは九条も含めてでありますが、戦後、九条がどのような政府見解によって、これは様々な見方があろうと思いますけれども、当初の規範内容と次第に離れていったという言い方を仮にするとすれば、そのような経過があったと言えるわけですが、これを実効性という観点から見ますと、やはり日本が世界に誇るのが平和主義だというときに、本当にそれは実効性のある規範なのかということについて、一切の軍事力を持たないという宣言はなかなかに、このような危険な何があるか分からない国際社会において、他の国、他の国民を納得させるというのにはやはりなかなか苦しいところがあるわけでございます。
 ということは、そうした立派な理想を掲げておればおるほどその実効性は怪しいだろうと。それは、法典としての本来の生命である実効性という点でおぼつかないのではないかということを逆に疑いの目で見られるということもあるのではないかと。
 ですから、平和主義というものはそれ自体では世界の信頼をかち取るということには必ずしもならないわけでありまして、むしろ国際貢献を積極的に平和的手段で行っていく、そのことによって、日本が正に平和な世界の一員としての位置付けをしておって、したがって日本自身の存立と繁栄にとっても世界の平和が不可欠だと。言わば、このような世界の平和に日本自身を積極的にコミットさせていくことで初めて平和憲法というのが、まああれなら破らないだろうと、それだけ日本が世界の平和にコミットしておるんであれば、自分が損するからもう破らぬだろうというふうに世界から信頼をされるということになるのだろうと思います。
 ちょっとややこしいことを申し上げましたので、要約いたしますと、要するに、平和主義と国際協調主義という両者の関係必ずしもすっきりいたしませんが、平和主義だけでは実効性は危ぶまれるところであり、必ずしもそれだけで信頼をかち取るというほど世界は恐らく生易しくはないと思います。しかしながら、日本が積極的に平和的手段により国際貢献をしていくという中で、自分の平和を、自らの言わばそのような貢献を通じて、間接的にせよその保障の度合いを高めていく、自分の平和を国際貢献によって担保していくという、そういう日本の姿勢が世界の国々、人々から見て取られるならば、ひいては日本の平和主義は決して空証文ではないなというふうに実効性あるものととらえられていくということなのかな。ですから、国際貢献は日本の平和主義を実効性あるものとして、世界に示す上で不可欠ということになると思います。
○山本保君 ありがとうございます。
 それでは、ちょっと形式的なことになるかもしれませんが、英先生と棟居先生に、もう時間がありませんので、一点といいますか、お聞きしたいんですが、お二人とも国民がいろんな形で参加をして作り上げていくのがいいのではないかという趣旨のことをおっしゃったというふうに思いまして、私もなるほどと思いました。
 私は児童福祉が専門ですので、ふっと思い出しましたのは、昭和二十年、二十六年でしたか、児童憲章というものがありまして、児童が人として尊ばれるというところから、三つの中心と、たしか十条だったかと、あるんですが、あれが作られますのが、法律、あるいは法律でもなくて、その制定会議のようなものができまして、各層から代表が出まして、たしか何か月か、そんなに時間は掛からなかったんですが、そして作ったものなんですね。これが児童福祉法ですとか、その後の子供たちの教育や福祉についての、法的規範はないわけでございます、法律でないんですから、しかし一つの理念、理想を示すものとして考案されてきた。
 こういうことを思い出しまして、そうしますと、今の質問にも絡むんですが、憲法という形、憲法前文という形で出すよりは、その時々に、そして先ほどもいろんな、これは棟居先生ですか、案を雑誌に紹介されておりますが、それについておっしゃったように、我々、国民全体としては、国の形すべて全体を抽象的にということよりは、正に環境ですとか教育ですとか個々の問題について、いやもっとこうあるべしということについては大変出しやすいといいますか作りやすい、作るとすればそういうものじゃないかと。
 全体を抽象論で短い時間で全部出すよりは、一つ一つの教育の問題、環境の問題、農業ですとか、正に今法律がいろいろ変わっているわけですけれども、その時々にその分野の理念や目標というものを国民から公募して作っていくような方式の形を取らないと、今のお話にもあったんですが、なかなか法律でまたずっと長い間、そしてすべての分野にという、こう何か矛盾したものを一つに押し込んでいくというのは難しいのではないかなというような気が私したんですけれども、勝手な考えなんですが、これについて専門的な方からコメントをいただければと思いまして、まず英先生、そして棟居先生、お願いいたします。
○参考人(英正道君) そういう考え方もあると思うんですね。つまり、憲法前文、憲法を改正するときに前文はそのままにしておいて、今おっしゃったようなやり方でやるのがいいかというところをどう判断するかという問題だと思うんですね。せっかくそういう憲法を改正するという機会が生まれたときに、やはり前文をもう少し働くものに直したらどうかなという考え方が受け入れられるかどうかだという問題だと思います。
 それから、やはり大事なことは最も大事なやはり憲法のところに書く方がインパクトは大きいだろうという気はいたします。
○参考人(棟居快行君) 今、憲章のような法律ではない形で、一つ一つ、例えば教育、環境といった分野ごとの基本原則を確立していくという、こういう個別具体的なやり方という言葉がいいのかどうか分かりませんが、アプローチの方が好ましいという、あるいは御趣旨が込められておったかと思うんでありますが、やはり私は、憲法前文のような形で、そこには一つの国民の意思、大げさに言えば国家意思というものを出す中で、その様々の諸原則の間の言わば序列付け、相互の線引きといったものをある程度出していくということがやはり必要ではないかなというふうに考える次第です。
 個別分野ごとの基本原則、これを掲げていくということは、これは基本法的な法律あるいは憲章といったものでももとより可能でありましょうが、そういったそれぞれは言わばバラ色に見えること同士が、しかしながらなかなか同時には立ち行かないというこの限界的な状況というものがこれ出てまいるわけです。すべてにいい顔をしておれば、例えば財政ももたないということもあるでしょう。という場合に、どこかで線を引いていくというときの言わば苦い薬としての役割も憲法典には託されざるを得ないわけではないかなというふうにも思う次第でございます。
○山本保君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 吉岡吉典君。
○吉岡吉典君 日本共産党の吉岡です。
 私は、憲法の前文について、これまで読んだ多くの本では、このいただいた調査会事務局の資料でも書かれていることになりますが、憲法前文は戦後の我が国、民主制のスタートになる文書であり、戦争に対する反省を明言し、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三大原則を宣言しているということから始まった資料になっておりますが、私はそういうものでこの憲法の三大原理を含めて高く評価し、私は個々の文章上のいろいろな問題が仮に幾らかはあったとしても守っていくべきものだという考えに立っております。
 今日、三人の先生からいろいろ厳しい前文についての批判や弱点の指摘を受けて、いささかびっくりもしたところです。私は、前回ここの委員会で述べたことですから詳しく言いませんけれども、憲法の今の前文を含めて考える場合に、ポツダム宣言受諾から出発したのでは今の憲法を正確にとらえることはできないということを、このごろ、この調査会に来るようになって、本を読む中で感じているところです。
 それは、日本国憲法というのは、これはやはり三大原理と言われる今も読み上げたものも含めて、やっぱり歴史的な世界の到達点だということ。端的に言えば、二百年以上前のフランスの侵略戦争放棄をうたった憲法、あるいは第一次世界大戦後の国際連盟規約の中で述べられた戦争と平和についての考え、不戦条約、さらに大西洋宣言も挙げる人もおります。そして国連憲章、それを受けて日本国憲法があり、さらにその日本国憲法の後にも世界では幾つもの日本国憲法と共通の憲法が作られていると。そういう歴史的な努力の産物として日本国憲法があるんだということを書いたいろいろな本を読んで、私はいささか目を開かせられた気がしているところです。
 英参考人がおっしゃった普遍的な価値についての叙述ということがそういう流れから見ると非常に重要な意味を持つなということも考えますけれども、そういう見方についてどのようにお考えになるかということを、一言ずつで結構ですから、青山参考人、英参考人、棟居参考人、順番にお答え願いたいと思います。
○参考人(青山武憲君) 私も普遍的なものを宣言することは一向に構わないと思うんですが、それはできるだけ抽象的でなくちゃいけない。例えば代表民主制と言ってしまいますと、直接国民が政治に参加したり地方自治に参加したり、こういう気になるのは民主主義社会では必然ですので、余り具体的に言ってはいけないと思います。
 そこで、私は普遍のものを宣言するとすれば、例えば独立には責任が伴うというのを前提にして独立と、それから和の精神を頭に置いて共和というようなものをうたう。これは、人類と自然の調和や国際社会の協調なんかも当然中身に含める。だから、せいぜい独立と共和、このくらいにしてこれを幅広くとらえるようにする。非常に抽象的にちょこっと宣言する。前文は私は短く宣言する、宣言していいと、そう思っている立場なものですから。そのくらいだと思います。
○参考人(英正道君) 大変に重い質問なんですけれども、私は、やはり今の憲法、また日本人の意識の中にそういうフランス革命以来のそういう流れを持つ普遍的な政治原理というようなものも定着している。しかし、私、今の憲法前文に非常に反発を感じますのは、日本らしさが全くないということなんです。これはもう歴史的な経緯を反映しているわけで、ある人は降伏文書だと言う人もいますが、僕はまあそういう立場は取りませんけれども、しかしあれは基本的に流れからいうと、やはり日本という非常に変な国があって、非常に悪い国があって、それをレジームチェンジをしなきゃいけないというのがアメリカの発想だったわけですね。それを行ったのが憲法なんです。今イラクで行われることと重ね合わせてみれば、何を言っているかよくお分かりいただけると思うんですね。
 そのことに僕は反発を感じているわけではないんです。日本も明治以降、やはり国会を作り、やはり二大政党対立の時代もあって、それなりに西欧の普遍的な政治原則を一生懸命格闘しながらやってきた伝統もあるわけで、マッカーサーの占領の下で行われたことは、それを進めた面もあったからこそ反発なく受け入れられたというふうに私、素直に見ておるわけですね。
 ただ、やはりここまで来ますと、戦後五十年たって、ポツダム宣言も知らなければ本当に戦争をしたかも知らないような人たちが国民の大部分を占めてくる事態になったときに、やはり片っ方で過去を引きずっていきなさいというのは僕は残酷だと思うんですね。やはり、今の若い人たちにはもう過去と決別してもらいたいと。だから、やはり日本は新しい理想を掲げて、ここで新しいその出発をすると。二十一世紀、正に新しい世紀の初めに、やはり老人が繰り言を言って、悪いことしたんだから駄目なんだよ駄目なんだよと言い続けていちゃ子供はいじけちゃいますよ。やはり日本はこういうすばらしいところもあるんだ、こういう理想を追って胸張って生きていくんだという、それを出してほしいと。
 私は、そういうことでやはり日本というものを、いいところはたくさんある国ですから、やはりもっと国民が自信を持って、特に若い人が自信を持って、日本という国はこういう文化伝統を持っている国だと言えるような、これは何も憲法前文を改正する以外にもやり方はあるんですけれども、しかし僕は、それはもう憲法改正をするなら前文の改正でそれが果たし得るんじゃないかなということを実は申し上げているつもりなんですね。
○参考人(棟居快行君) もちろん、日本国憲法に示されておるような諸原則は歴史的な世界の、人類の到達点であり、何人もその価値は否定できないところであろうと思います。
 しかしながら、我々に必要なのは、我々と申しますのはこの日本国民であり、今いかなる国家像を描くかということに関心を持つ、とりわけ日本国民あるいは先生方のことを、私も含めさせていただいて今指しましたが、こうした現時点での我々の考察にとって必要であるのは究極の理想というよりは、そこにいかにして近づくかという理想に近づくための方策であります。
 言い方を変えれば、現実的な理想、つまり山のてっぺんははっきりしておる、しかしどこに足場を組むかと、どこでテントを張るのかといった現実的なこの山の究極の頂に登っていくための到達方法、この方策というものこそが実は憲法あるいは憲法前文の役割ではないかなと。
 何か、究極の理想を並べることが最も憲法前文にふさわしいようなイメージもございますし、また前文自身そのような響きもあるところでありますが、これは例えれば北極星のような方向付けであります。しかし、実際の憲法のとりわけ前文の役割として必要なのは、大まかでもいいから海図、地図を提供することであり、その星の位置を指し示すこととは違うのではないかと。我々はあくまで地上に生きておるわけで、現実の地上の様々の俗悪な中でどのように究極の理想に近づいていくかというこの方策、これが国家像として憲法前文に示されるべきではないかというふうに私個人は考える次第でございます。
○吉岡吉典君 私は、日本国憲法は究極の理想だけでなく、その現実の問題をうたっているものだと認識しておりますけれども、それは議論をしようというわけじゃありません。
 英参考人にお伺いします。
 実はレジュメとそれからこの試案とを読んだときに私が受けた印象は、これ日本国憲法、新しい憲法の下で日本は駄目になってしまったと参考人お考えになっているんだろうかなという気がしながら読みましたけれども、今日お話をお伺いして、必ずしも憲法が日本を駄目にしてしまったというようなお考えでないということは分かりました。
 私はそのときに対照的に思い出しましたのは、憲法制定当時の憲法担当大臣であった金森徳次郎さんが、後日、憲法は日本を世界の水準に押し上げた、大局的に見れば国は発展した、個人も向上した、そして後進国的な要素を除き去った、これを基礎に発展することができるようになったと、こう書いています。
 私は、確かにそういう役割を憲法は果たしたと思っていますけれども、憲法全体はそういう役割を果たしたけれども前文は悪いということなのか、ここら辺どういうふうにお考えになるのか。
○参考人(英正道君) 私は、自分の書いた本のことをちょっと言うのはあれでございますが、本の中ではっきり書いているのは、日本はいい国であると書いてあるわけです。現在の憲法の果たした役割を否定するものでもないし、与えられたからこれを排斥するという立場も取りませんとはっきり書いてあります。
 ただ、問題は、やはり不磨の大典といいますけれども、やはり五十年前、六十年前の人の考えたことが将来の世代を永久に拘束するというのはおかしい話なんですね、考えてみると。それはフランス革命のときのジロンド憲法草案でも、やはり現在の世代の考え方が将来の世代を拘束するのは民主的でないと言っているわけですね。
 ですから、私は特に若い人たちの考え方というのをもっともっと引き出さなきゃいけないと思っているんです。そういう人たちの立場でどういうものを必要としているかということを検討したいと。ですから、私は、今日も先祖返りを避けるべきだと言っているのはそういうことなんです。ともすると何かに戻りたいという誘惑に駆られるけれども、私はそうじゃなくて、現在の日本の現実の中で将来に残すべき理想とか、そういうのを考えてやってほしいと。
 特に、私が今の憲法の前文に不満なのは、普遍性だけで日本的なものがないということなんです。これはまた理由がございまして、長くなりますから私はいたしませんけれども、やはりそこに日本の現在の非常な困難があると。グローバリゼーション、一つ、世界は一つになる、ワールドビレッジだと、こう言いますけれども、やはり世界は個性のある実体としての国というものが中心に成り立っているわけですから、まだまだ若い人には、国境がなくなってきちゃっているんですよ。正にイラクで起こったことは、日本の意識というのは非常に進んじゃって、若い人は国境がないんですよ。しかし、現実には国境があるというのが今度のイラクの事件の基本的な僕はポイントだと思っているんですね。
 ですから、やはりそこのギャップを埋めませんと、この普遍的な憲法の下で世界に国境はないといって信じている人が、外へ出て国境のある世界に入ったらいろんな問題を起こします。やはりそういう教育効果からしても、やはり国というものがあって、その上で世界があるんだよというふうな考え方でいかないといけないだろうというふうに私は思います。
○吉岡吉典君 時間が来ましたけれども、棟居参考人に一言ですが、その究極の理想についても、掲げるだけじゃなくて、私はそれは日常不断にそのことを主張し、アピールし続けていく必要があると思っています。
 憲法前文の精神でも、例えば憲法制定議会で吉田茂首相は、戦争のない世界への先駆けになるんだと、日本がということを言っておりますし、幣原喜重郎さんは、原爆時代において戦争が文明を滅ぼさないうちに文明が戦争を滅ぼさなきゃいかぬということを強調しております。そういう精神というのを今言う人がほとんどなくなっちゃった。だから、私はそういうことは将来の理想じゃなく、今言い続けなくちゃいかぬことが今の憲法の中にたくさんあると思っております。
 一言で結構ですから。
○参考人(棟居快行君) 先生のような熟練した船長であれば、北極星だけを見ておって十分航海は可能だと思います。つまり、常に究極の基本原則から今日的な意味を読み取りながらそれを政治に反映するということが、これはもちろん可能だということは、可能性としては言えると思うんですね。
 しかしながら、他方では、すべてマニュアル化しておる世の中だからというわけではありませんが、非常に複雑で多種多様な大事件が続発するという中で、もっと言わば地べたに足の着いた、今日その究極の原則をどのように実現するかという海図に相当するような、つまり必ずしも熟練の船長を欠いておってもなお航海が可能だというものが私は憲法の役割かなというふうに思っておる次第でございます。
○吉岡吉典君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 田英夫君。
○田英夫君 三人の参考人の方々、ありがとうございました。
 私は、年齢的にもうお分かりのように、戦争をまともに体験した世代であります。特攻隊で生き残って帰ってきて、そしてこの憲法ができた。そのときは復学をして学生でありましたが、感動して読んだことを今でも覚えております。
 この憲法の前文は、率直に言って大変難解な文章であるということも青山さん言われましたが、私もこれは認めざるを得ないと思います。しかし、それ以前の戦前の難解な文章を読まされてきた、あるいは覚えさせられた、例えば教育勅語とか軍人勅諭とかいう、これは、これが日本語かなと思うような難解なものを読破しなければならなかったことに比べれば何でもないことだと思います。
 この憲法ができたときの世界的な人間、人類の思い、これが結晶になったのは、実は日本が降伏する以前に既にできていたようでありますが、国連憲章、そしてそれを追うようにして日本の敗戦後にこの憲法が作られたわけですが、世界の人たちが共通に持っていたのは、このような戦争という悲惨なことは二度とやっちゃいけないと、こういうことだったと思います。
 今、現実が合わなくなったから、それをやはりきちんと現実に合わせるようなものに変えなければならないという意見が、大手を振って歩いていると言ってはあれですが、多いわけですけれども、今の現実というのは、当時の国際社会みんなが感じていたことと全く違ったことを、特にアメリカのブッシュ政権が発足してからそれが顕著になっていると思います。今のイラク戦争は、正に国連憲章を踏みにじって無視して行われた戦争であります。戦争という行為、つまり武力行使で、武力で国際紛争を解決するということは禁ずると、国連憲章ははっきりと当時の世界の人々の思いをつづっているわけですね。そして、その国連憲章と同じ考えを基盤にしてできたのが日本国憲法だと、戦争から帰ってきたばかりの生き残った青年はそう思いました。
 それが、つまり今のイラク戦争に象徴されるような、国際情勢の方が間違っているんだと言ってもいいんじゃないでしょうか。それに合わせるということは、間違った方に合わせるということになる。国際貢献の名の下に、日本がこの憲法を、むしろ違反すれすれのような状態で自衛隊をイラクに送る方が間違っていると、私はそう思えて仕方がないんですが。
 お三人の方々にお答えいただきたいんですが、国連憲章の前文とこの憲法、日本国憲法の前文とを比較してどのように思われるか、その点をお一人ずつお願いをいたします。
○参考人(青山武憲君) 今の田先生の御質問では、やっぱり九条とか、国際情勢だけが憲法改正の動きを生じているという前提で質問がなされたような気がいたします。
 国連憲章と日本国憲法というのはそう、もちろん両立するもので、矛盾するものじゃありませんが、私どもは憲法をなぜ、改正しても私もいいんですが、自分の手で作りたいと考えるかといいますと、例えば憲法二十四条なんか、家族というのはちょっと意味が分かりませんが、家族の中に個人の尊厳とか両性の平等って、自己主張する形、これ、権力が支配するんでしたら権利を主張してもいいんですが、家族なんかいうのは愛情を紐帯とする社会であるはずなんです。ところが、個人の尊厳とか平等とか、ここに入り込むと一体感がなくなってしまうんですね。
 かつての家という制度があったのは間違いないんですが、それが本当にあらゆるところで横暴に振る舞ったかというと、私も田舎に住んでいましたが、そんなもんじゃない。みんな和をもってやっていました、戸主がいたとしてもですね。ところが、当時は、国際社会が緊張状態にありましたから、個々の国民全部連帯する必要がありましたし、余り財産が分散したり家族が分散してしまいますと国力が弱くなりますから、ある種の、それも社会福祉なんかも充実していませんでしたから、そういう単位で何とかまとまってくれないかというのを時代の知恵として維持してきたものを、何か悪い制度、すべて悪い制度であるかのごとくやってしまったら家族でも何でも崩壊してしまった。家族が崩壊して変なのが育ちますから、社会にも迷惑掛けるようになってきた。
 ですから、御質問にもありましたが、この憲法の下で経済成長したりかなりの自由を謳歌できるようになったのは事実ですが、その反面で、これだけ最高学府で最高の教育を受ける人間が増えているのに、何で犯罪、非行が増えるんだと。こういうことを私も頭に置いていますから、私どもも、昔から和をもって生きてきた、隣が遠くない社会というのをもう一度作れないかということで、自分たちの憲法は自分たちで作ってみたい、こういうことを思っているわけです。これがありますと、国際社会だって当然に平和になっていくと思うんです。ですから、国際社会だけを見て憲法を改正しようと思っているわけじゃ決してないということです。
 以上でございます。
○参考人(英正道君) 国連憲章が想定している平和維持のシステム、それはもちろん連合国がお互いに冷戦のように戦う時代には通用しなくなっちゃったわけですが、もしそれが、ちゃんと五大国が協調して世界の平和を国連憲章の規定に従って守るというのがもし実現していたとすれば、国連憲章第七章は、平和の破壊、平和に対する脅威が行われたときには、それを侵略と認定して各国に軍事的な行動を取るように決定するわけでございますね。正に田先生の御質問に絡むわけですが、そのときに日本国憲法ではそれに参加できないという問題があったということです。
 ですから、どういうふうに比較するかとおっしゃられれば、日本は国連憲章が当初規定したような平和維持の方策には参加できない国であるということだと思います。
○参考人(棟居快行君) 田先生の御指摘のうち、あるいは御質問には入っておらないのかもしれませんが、まず、今、現状に引きずられると、そうした中で憲法論議が漂っておるんじゃないかといった御指摘があったと思いますが、これは、私の先ほどの報告のスタンスから申し上げますと、やはり国家像というものが一つ先行しておらないからこそ、あれやこれやの大事件に引きずられてしまうと。やはり国家像という一つのくいを打たなければいかぬのではないかなというふうに思っておるという感想をまず述べさせていただきまして、続きまして、この国連憲章と日本国憲法の符合、一致ということですが、にもかかわらず、各国はそれぞれの憲法を持っておるわけでございまして、国連において日本はどういう役割を果たしていくのかといったやはり日本なりの自己認識という、こういうものは必要かなというふうに思います。その上で、国連憲章の精神を日本として積極的に実現していくための役割をより高めていくと。
 これは、制度的には常任理事国といったことが望まれるのかどうか、これは分かりませんが、非軍事的な手段で世界の平和を実現していく、この国連の活性化に日本が貢献するということは当然必要であると思います。
○田英夫君 ありがとうございました。
 国連憲章というのは言わば国際社会の憲法であり、その前文は正に国際社会の夢を書いたと言っていいと思いますし、そういう中で、文章的にも武力による威嚇並びに武力行使という表現など同じ表現が出てくると思いますね。
 それで、私は、もちろん日本国憲法の最大の問題は九条だと思っていることは事実ですよ。これが一番大事だと。平和を保つということ、これが日本国憲法の一番柱だということを思っております。これをしかし書いたのは、私の調べた限り、日本側で当たると思っています。幣原さんの残された文章などにもそれが明らかだと思います。この考えをやはり貫いていくということ、しかしこれは全く容易なことではないと思いますね。
 人間の本能かもしれません、争いをするという。これは、いろいろ平和について話し合っていくと、男性と女性で本能が違うのかなと感ずることがありますよ。特に、だから男性は人類発祥のころから、その辺に落ちているこん棒のような棒を持って戦ったり、いろいろやってきた。
 しかし、幣原さんも言っておられますが、原子爆弾ができたというこの事実、つまり人類が滅亡するかもしれないというこの事実の中で、新しい考え、哲学の下に人間の本能を踏み越えていかなくちゃいけないという決断をしたと言っていいと思います。これは、それこそ永久不変の哲学でなければならない。本当に、人間が人間を殺し合うということを国家の名においてやるときには、公然とこれは常識のように認められているという、そのことを乗り越えるんですから、全く容易ならざることを日本国憲法も書いておりますし、そしてそれは国連憲章にも基本精神としてうたっているんだと。
 この本当に夢のようなことを守り通していくことは我々の務めじゃないかと、我々のというのは、戦争で生き残った者の務めではないかと。それをまた若い世代に引き継いでいくことが我々の務めではないかと。それができない、方向付けができない間は死ねないという心境ですよ。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 速記を止めてください。
   〔速記中止〕
○会長(上杉光弘君) 速記を起こしてください。
 ただいまの参考人質疑を踏まえて、一時間程度、委員相互間の意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いいたします。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は挙手をお願いいたします。
 松村龍二君。
○松村龍二君 本日、それぞれ特徴のある参考人からお話を伺いまして、また当調査会の先生方から非常に味わい深いお話をいただきまして、大変参考になったわけですが、私も意見を述べさせていただきたいと思います。
 憲法前文の平和主義、このことについては、今、田先生から第二次世界大戦の教訓ということの重さをよくかみしめるようにという御質問があったわけですが、私はあの時代に今の前文が平和主義を標榜したということは当然であったと思います。それは、先ほど吉岡先生もおっしゃいましたような、人類として平和を追求するという思想がだんだん成長してきたという時代の流れにあって、あの戦争が終わったと。また、日本人として五百万人以上の兵隊さん、また国民が死んだということ、気が付いてみたら日本が絶滅する地獄のふちまで行ったということにぞっといたしまして、これ以上人口を減らすようなことをしては日本が滅びてしまうということから、その戦争の反射として平和主義を標榜し、それが国民に受け入れられたということは事実かと思います。
 しかし、この戦後の五十、六十年近く平和を日本については保ってきた。日本の周辺においては朝鮮戦争とかベトナム戦争とか、他人事のように日本人は感じながら、経済の繁栄にプラスになる戦争であったということでまあ付き合ってきたわけですけれども、日本は幸い海に取り囲まれておって戦争に直接かかわらないで済んだと。また日本の経済の構造上、やはり資源が外国に頼って、中国であれば国を閉じて何十年いても自活できるわけですけれども、日本人の今の生活の程度の高さとまた国が成り立っていくためには貿易に頼らざるを得ない。それが、日本が平和主義を守らなければ日本が経済的にも生きていかれないと、そういう環境に置かれていたために平和主義を守ってきたということがあったと思います。
 しかし、それじゃ、それがそういう環境が実現した平和主義が未来永劫それが正しいのかといえば、やはり拉致とか領土の主権とか、いざとなれば個人であっても、自分の孫がさらわれたら、その人は仮に力がないおじいさんであってもそこの家にどなり込んでいってけんかを吹っ掛けないといかぬというのと同じように、拉致とか領土の主権というのはやはり国の存立を挙げて主張しないといけないという問題であると思います。
 あるいは国際的に協調の中で、特に悪いよこしまな国があればこれを懲らしめる。私も国連というやっぱり一つの枠がないとおかしな話だというふうに思っておりますが、そういうときにやはり日本が知らぬ顔をして自分は平和主義だと言っていることはできないというふうに思いますので、その平和主義というのが、あの五十年前と同じように平和主義ということに、あの時代の平和主義というのは少し古くなっているんじゃないかなというふうにまあ思います。
 ただ、そうはいっても、今日の英参考人のように、日本の心、伝統、歴史、自然、日本人のアイデンティティーということを中心に憲法を作れということになりますと、まあ英さんも外国、外交官として諸外国を歩き、キリスト教国あるいはイスラム教国を見ながら、日本のアイデンティティーは何だろうかということを考えながら、日本のアイデンティティーをはっきりした前文にしたいと、こういう考えにたどり着いたと思いますが、私自身、自由主義とか民主主義とか、必ずしも日本人の本当にアイデンティティーでない部分があると。本当にもしもそれがアイデンティティーであるならば、今度のイラクについてもアメリカと完全に同調できるはずですけれども、日本人の気持ちが、そういう人もいるかもしれませんが、そうでない人もかなり多いということは、やはり借り物の自由主義、民主主義である、日本人の本当の精神ではないというふうにも思わざるを得ないわけです。
 ただ、そういう英さんの考えで前文ができるかということになりますと、これはまた日本人が今価値観その他が非常に多様になり、これだけの戦後の民主主義教育の中で自由主義、民主主義が絶対だと思っている人がいる以上、なかなか英さんのような非常に美しい日本のアイデンティティーという形で前文を作ることもこれなかなか難しいなというふうにも思うわけですけれども、いずれにいたしましても、憲法調査会においてこのような議論がされたということは大変に意義深かったというふうに思います。
○会長(上杉光弘君) ツルネンマルテイ君。
○ツルネンマルテイ君 民主党のツルネンマルテイです。
 御存じのように、私は外国で生まれ育った日本人ですが、日本の憲法の改正に賛成の立場です。
 しかし、もし本当に改正ができるとすれば、今日の話でもいろんなことが分かりましたけれども、本当に多くの国民がその改正にいろんな形で参加する必要があると思います。御存じのように、私たちの幾つかの政党がもう既に改正案とか新憲法の案を作っています。しかし、それだけでは日本の憲法改正することは望ましくないと思います。
 今日は、私たちはこのことに関して二つの大きなヒントを与えられたと思います。
 参考人の中では、英参考人でしたけれども、もう自分でも憲法前文の試案というかを作っています。そして、意見としては、できるだけ多くの、まあコンテストもあったようですけれども、今まで既に、そういう国民も特にこの前文に対していろんな形で自分たちの案を作ること、そしてそれを例えばマスコミで、NHKを始めいろんなマスコミで募集して、その中から私たちはすばらしいアイデアが、ヒントが出てくると思います。もちろん、それはそのままでは前文になるということは恐らくないでしょうけれども。
 もう一つの大きなヒントというのは、私たち参議院の役割ですね。今、私たち行われているのはこれは憲法調査会ですから、ここではそういう新しい改正案というのは私たちの役割ではありませんけれども、今年でこの調査会の役割が終わりますから、その後、是非私たちの、これは私の意見、提案ですけれども、参議院の中では今度はそういういろんな国民の意見をまとめて、そこから私たちは改正、まあ護憲という考え方もありますけれども、改正を行われるんなら、ここでやはりそれを中心に、参議院が中心になってそういうのをまとめるのは参議院の役割じゃないかなと思います。特にこの前文からスタートしたらどうかなと私は思っています。
 今日の参考人の、あるいは同僚の議員たちの話を聞いて、こういうことを考えました。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 山口那津男君。
○山口那津男君 公明党の山口那津男です。
 全く個人的な感想を述べたいと思います。
 これまで、前文の意味というものがどういうものか、それほど厳密に詳しく論じられてはこなかったと思います。私自身もいまだに定見というものを持ってはおりません。
 考えてみますに、この前文の持つ意味というもの、中身をどういうものを書き込むかという話と、それから、条文とは違った体裁の文章が書かれているということを法的にどう使っていくか、どういう意味合いを持たせるか、この二つの面で考えていく必要があると思います。条文と区別されているというのは明らかでありますが、単なる歴史的な経過事実を書いたという文章ではないと思います。しかし、書かれていることはかなり抽象的でありまして、これ自体が何か直接的に政府や国民の行動を導いたり制限したりするというのも、読み取りにくい面があるだろうと思います。そうはいえ、一定の価値観を表現した文章でありまして、これを個々の条文と併せて考えてみた場合には、やはりある程度の法的な拘束力といいますか、効力を持つものであると、こう読まざるを得ないと思います。そこで少なくとも言えることは、個々の条文を解釈していく一つの基準になっているということは間違いないと思います。
 そこで、従来余り論じられていませんけれども、言わずもがなとも言うべきかと思いますが、私たち国会が立法する作業の中において、この前文もその指針になる、一つの規範になるということは間違いないと思います。この前文に書かれたことと明らかに矛盾するような立法を私たちがやることはできないんだろうと、そう思うわけであります。
 それと、この立法府の作った法令、法律、これを行政が運用していくわけでありますが、行政においても、作られた法律が明らかに必ずしも書いていない部分において、やはりこの憲法の前文と矛盾するような運用というもの、執行というものはなし得ないと、そういう意味で規範性を持っているだろうということも間違いないと思います。
 具体的に問題になり得るのは裁判の場面でありますが、裁判でかつていろいろと前文についての争いがありました。しかし、現在では、この条文と離れて前文のみを裁判の規範として用いるということはなかなか難しいという結論になっていると思います。したがって、裁判の上でも、これを個々の条文と併せて解釈の指針として用いるという前文の意味付けだろうと思います。
 また、今改正がいろいろと議論されているわけでありますが、個々の条文のみならず、この前文それ自体も改正の対象になるわけでありまして、これを変えるというからには、改正規範と同じ手続を踏まなければならないということも言えると思います。
 そうして、現在の前文の意味というものを私なりに考えた場合、今後どうあるべきかということを試みにいろいろ考えてみますと、ある程度時代の変化に対応し得る価値観を盛り込むことのできる一つの装置というのが前文の位置付けだろうと思っております。条文自体には、環境の問題とかあるいはプライバシーの問題とかということは何ら具体的に書かれておりません。しかし、個人の尊厳というものを一つの価値とする以上、その尊厳、個人の生存が全く脅かされるような環境の存在を許すわけにはいかないわけでありまして、これもやはり普遍的な価値観の一つでありまして、こういうことを前文に盛り込んでいくというのも一つの手法ではないかと思うわけであります。
 それから、憲法九条の問題で、改正をすべしと言う方の中には自衛権を明記せよと、こういう人もいるわけであります。しかし、自衛権についても、従来、例えば個別的自衛権、集団的自衛権についての考え方の違いというものがありまして、これを条文で明確に表現するというものはかなり技術的に難しい面もある、煩瑣な面もあるということも言えるわけであります。したがって、単に自衛権と明記したからといって問題がすべて解決されるものではありません。そこで、この前文にある程度それを区別できるような表現をするということも不可能ではないだろうと思いますが、これらについても今まで余り論じられていないところであります。
 いずれにいたしましても、この前文の役目というものをもっと論議した上で、その上でどういう表現を盛り込むかという議論を改めてしていかなければならないと、そう思っているところであります。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 私は、憲法前文を大変感動を持って若いころから何遍も繰り返し読んできました。また、戦争体験を実際にされた方々からは、強い感動を持ってこの前文を読んだ、憲法を読んだという話ももうたくさん聞いてまいりました。多くの国民の心に、前文がうたっている平和主義、民主主義、基本的人権のメッセージはしっかりと刻み込まれていると思います。そして、この前文は、当然のことながら百三条の規定に具体化されておりまして、前文と百三条の規定は一体のものであるわけです。
 私は、日本国憲法前文を論議するには、まずこの前文に込められた思いを深く読み取らなくてはならないと考えております。そして、日本の近代史といいますか、戦前の歴史についても深く思いを致さなければならない、そういうふうに思います。
 先ほど参考人の一人が、過去を引きずるということは残酷だと、駄目なんだと言い続けると子供はいじける、自信を持って生きていけない、そのためにも前文を変えようと、こういう御発言がありましたけれども、私はこの発言自身に驚きました。
 私は、小泉総理が度々イラクへの自衛隊派遣の根拠として前文を引用されておりますけれども、これは見当違いではないかなといつも考えております。例えば、二月の予算委員会で、自国のことのみにとらわれて他国を無視してはならないと、国際社会の中で日本の責任を果たしていこう、やっぱり憲法前文に掲げた理念、精神に合致するのではないか、こういうふうに述べておりますし、それから一月の施政方針演説のときは、我らは、いずれの国家も、自国のことのみに専念し、他国を無視してはならないのであってというこの前文の第三段を全部引用しておられるわけです。
 そして、じゃ、この前文の第三段に書かれている政治道徳の原則というのは何なのか。これは憲法制定会議で金森大臣が説明されていますけれども、従来、諸国が日本国本位の原則を持って国際社会に臨みまして、それがために非常な災いを生じておりますが、かような思想に基礎を置いて広く世界各国に呼び掛けるというような趣旨のことを規定しており、過去の我が国の態度に対する深い反省を示す趣旨である、こういうふうにおっしゃっているわけですね。
 私たちはやはり、もう六十年前のことは前のこと、今はまた新しいものをという立場ではなくて、このことは本当に日本の国として反省をし、出直しのスタートを切ってきたのかと、そのことが今突き付けられていると思います。いたずらに過去を引きずることは子供たちに残酷だと、そういうようなことではなくて、例えばいまだに靖国神社の参拝をして諸外国の批判を受けている問題とか、あるいは従軍慰安婦の問題とか、様々あります。
 この前文が、あの侵略戦争の反省に深く思いを致し、こういうことは二度と繰り返さないという、そういう国際公約であったということも考えますと、やはりこの前文の趣旨を実現していく、そういうことをやっぱり私たちは持ち続けていくということが非常に必要なのではないか。そういうことを今日の議論の中から改めて感じたということを申し上げたいと思います。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 鈴木寛君。
○鈴木寛君 民主党・新緑風会の鈴木寛でございます。
 今日、前文についての議論、自由討議をしているわけでありますが、私は個人的にはやはり新しい時代認識というものをきちっと踏まえた前文の策定をやっていきたいというふうに思っております。
 それでは、新しい時代における価値というのは何かということで、これは極めて難しい問題なわけでありますが、実は平成十二年に日本学術会議というところが脱物質・エネルギー志向の価値観というものを提起をいたしております。私は、正に今あるどの国の憲法も、物質・エネルギー志向の社会、正にモダンソサエティー、産業社会における憲法というものだったんだと思います。
 私が思いますに、我が国がこの時期に新しい憲法を議論するといったときに、是非このポストモダン、要するに脱工業化社会における憲法を作るんだという意識をもう少し強く持ってもいいのではないかなというふうに思っております。
 私は情報論というのを少し勉強してまいりましたが、情報の定義、いろいろありますけれども、物質・エネルギー以外の価値あるすべてのものを情報というという定義があります。そういう観点に立ちますと、私はそのポストモダンソサエティーの本質は情報文化社会というふうに言っていいのではないかと。日本は是非、世界に先駆けてポストモダン、情報文化社会、脱物質・エネルギー志向の時代における憲法というものについて世界に先鞭を着けていきたいというふうに思うわけであります。
 そうしたときに、近代産業社会においては、大量生産、大量消費というのは極めて重要なアクティビティーでありました。そのために近代国民国家システムあるいは富国強兵政策というのが取られたわけでありますが、情報文化社会においては大量生産、大量消費に代わって、今日の参考人からも少しお話がありましたが、やはりコミュニケーションというものが極めて重要な人間のアクティビティーになるんだろうと。
 憲法は、前文及び、あるいは憲法全体を通して、それぞれの人々のコミュニケーションというものをきちっと保障をする、あるいは支援をしていくということが重要でありまして、そのためには、情報の入手、そして情報の理解、そして編集、再構成、情報の創造、そして情報の発信と。今でも情報のアクセス権、知る権利、あるいは学習権、表現の自由というのはありますが、コミュニケーションという観点で再構成はできるのではないかと。
 そうした豊かなコミュニケーションがきちっと行われている状態、これを実現されている状態が文化度が高いというふうに私は定義をしているわけでありますが、そういう意味で、文化権あるいはコミュニケーション権、あるいは情報編集能力を獲得するための、コミュニケーション能力を獲得するための学習権というものが次なる憲法の骨格に据えられてしかるべきだというふうに思います。
 それから、本日、日本のアイデンティティーとは何かという議論がございました。私は、日本のアイデンティティーは正に価値多元主義、言い方を換えれば、やはり多神教というものをこの国がずっと社会の基盤に据えてきたということは見逃せないというふうに思います。
 多様な価値の存在をまず認める。路傍の石にも神が宿っているんだということは正にそういうことだと思いますが、すべての存在を認めた上で、その存在感の共生と。正に聖徳太子の時代から、和をもって尊しとなすというのが我が国の極めて重要な伝統の一つであろうかと思いますが、そうした様々な存在の間を取っていって共生をしてそしてハーモナイズしていくという、そうしたメディエーターとして我が国が世界の中で重要な役割を私は果たしていきたいと思いますし、この国は正にそうしたコミュニケーション、ハーモナイゼーションあるいはコラボレーションといった価値を実現していく社会なんであるということを次なる時代に是非とも表明、宣言をしていくと、そういう観点から憲法の前文というものについての議論をしていきたいなと思います。
 最後に、私は、こうした議論というのは、やはり政治家あるいは国民一人一人が行わなければならないというふうに思います。
 何が申し上げたいかといいますと、いわゆる、これはそういう方には大変失礼なんですが、憲法を専門に研究をしている方というのは従来の憲法についての専門家かもしれません。しかし、我々は、次なる憲法、次なる時代というものにおいては専門家も一般もないと思います。すべての人たちがそれに参画をする資格と責任があって、すべての人たちの意見と行動というものがひとしく重要であり、そうしたすべての方々の発言、行動、イニシアチブというものが正にハーモナイズすることによって新しい時代の憲法を作っていくんだということを申し上げたいと思います。
 以上です。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 他に御発言はございませんか。
 若林君。
○若林正俊君 今日、三人の参考人からそれぞれお話を伺いました。それぞれの立場は異なっておりますけれども、大変参考になったというふうに思っておりますが、前文を内容と切り離して前文だけの論議をして、英さんが言われるように、前文だけでも日本的なもの、自主的なものとして改正したらどうかというような御議論には余り賛同できないと思います。
 やはり今の前文は、全体主義国家から自由民主主義国家に大きく切り替わっていく、そして大きな国民的価値観を、やや一般国民がまだ理解していない部分も含めて、先進自由民主主義諸国、連合国、特に代表するアメリカの価値観というものをこれが正しいものとして日本に導入していきたいという意図があった、教育的意図があった、そういうことを含めて、この憲法の内容もそのように定められている部分がかなりあるというふうに思います。そういう意味で、内容と前文は非常に整合性がそれなりに取られているわけでありまして、前文だけ切り離して議論するということはできないでありましょう。
 そこで、憲法の内容を全面改正するか、あるいは所要の部分だけ改正するかは、これから改正に当たっての論議ではありますが、全面改正にするか部分改正にするかを問わず、この時点で、戦後今日まで及んできた世界あるいは日本の政治環境、国際関係、諸情勢を考えて、今の時点で、時期で私は見直すべき時期が来ていると思いますが、そういう見直した結果としてどの部分をどのように改正するか、それが明らかになった時点で、そういう見直しの視点というものがどういう視点であったのかということを入れた形で前文を手直しをする。その手直しのポイントとしては、やはり国民が共有する価値観、国家像とでもいいますか、そういうものを明確に表現をするということが大事な要素ではないかな、こう思うのでございます。
 内閣に設けられた内閣の憲法調査会では、ほぼすべての委員が、この今の前文というのは、外国のいろいろな歴史的な文献を引用したりあるいはその中の言葉を翻訳をして外国調の悪文であるとか、非常に意味不明な用語が多いとか、いろいろ批判があって、ほとんど全員の委員が簡潔で格調の高い正しい表現、文章にすべきではないかという意見があったというふうに、内閣の調査会ではそうなっているようであります。
 それはそうかもしれません。そうかもしれませんが、これは当時の歴史的意味を持っていたものとしてとらえた上で、今の時点で日本国憲法全体を調査をし審議をし、そして改正が必要であるというふうに認識をしたら、その認識をこの前文の中で共通の価値観として入れていくと、そういう視点は大事なんじゃないかなというふうに思いましたので、その点を述べさせていただきました。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) 他に御発言もないようですから、本日の意見交換はこの程度といたします。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後四時散会

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