第161回国会 参議院憲法調査会 第2号


平成十六年十月二十七日(水曜日)
   午後零時四十分開会
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   委員の異動
 十月二十六日
    辞任         補欠選任
     仁比 聡平君     井上 哲士君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         関谷 勝嗣君
    幹 事
                愛知 治郎君
                武見 敬三君
                舛添 要一君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
                簗瀬  進君
                若林 秀樹君
                山下 栄一君
    委 員
                秋元  司君
                浅野 勝人君
                岡田 直樹君
                河合 常則君
               北川イッセイ君
                国井 正幸君
                佐藤 泰三君
                藤野 公孝君
                松村 龍二君
                三浦 一水君
                森元 恒雄君
                山下 英利君
                山本 順三君
                江田 五月君
                喜納 昌吉君
                郡司  彰君
                佐藤 道夫君
                田名部匡省君
                高嶋 良充君
                富岡由紀夫君
                那谷屋正義君
                直嶋 正行君
                前川 清成君
                松井 孝治君
                松岡  徹君
                松下 新平君
                魚住裕一郎君
                白浜 一良君
                山口那津男君
                井上 哲士君
                吉川 春子君
                田  英夫君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (地方自治・住民投票制)
 (財政)
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○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 「地方自治・住民投票制」について委員相互間の意見交換を行います。
 まず初めに、各会派から一名ずつそれぞれ十五分以内で御意見をお述べいただきたいと存じます。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は順次御発言願います。森元恒雄君。
○森元恒雄君 自由民主党の森元恒雄でございます。
 それでは、私の方から地方自治・住民投票について十五分お話しさせていただきます。
 現行の憲法が地方自治に関する特別の章を設けまして四条にわたって規定をしたということが、この今日の日本の地方自治の発展、充実を図る上で非常に大きな貢献をしてきたということは、私は認めるべきであると思います。
 ただ、日本のその地方自治制度が現状においてもなお不十分であることは一致した見方ではないかと。それゆえに、現在、地方分権の方向に向かって改革が進められておるわけでございまして、そういうことを考えますと、やはり憲法もなお手を加えるべきところが幾つかあるんではないかなというふうに考えております。
 現在の日本のこの国家体制の中で地方自治体が極めて重要な役割を果たしている。単一国家の中では、世界の主要国の中でも日本の自治体ほど内政の大きなウエートを占めておるところはないと言ってもいい状況であるかと思いますが、しかしその実情は、本当の意味での地方自治というものがそこで行われているかというと、いささか疑問でございまして、過日の地方分権一括法におきまして事務の整理が一応できました。まま子扱い的な性格を持っておりました機関委任事務が廃止され、自治事務と法定受託事務に新たに仕分をされたわけでありますが、法定受託事務の中には、必ずしもこれが法定受託事務として位置付けることが適当かどうかと疑問を抱くようなものもまだ幾つも残っておりますし、さらに今回、三位一体の改革ということで財政の面における分権化というものが検討されておるわけでありますけれども、この事務配分と財源との関係というものがきっちりと整理されていないと、そういうところに問題がある。
 で、日本の地方自治体は、自主性、自立性、独立性というものが必ずしも十分ではなくて、国の大きな企画立案、あるいは指示、チェック等の下で実際の事務事業を、仕事を行っておるというのが実態ではないかなというふうに思います。そういう意味では、自治事務をもっと増やしていくということが基本でありますし、財政の面におきましても自主財源の強化という観点で自治財政権を更に確立、拡充していくということが必要ではないかというふうに思います。
 で、そういうふうな自治、地方自治体の実態が必ずしも本来の自治に必ずしも十分に沿っていないと。そのよって来る一つの原因は、私は憲法に規定するこの地方自治の本旨と、こういう、ここの概念のあいまいさに起因しているところがあるんではないかと。この、余り憲法ですから事細かいことまで書くのは、逆にその柔軟な制度改正といいますか、実態に即した、時代の変化に即した改正を束縛するという意味ではいささかまずい面もあるわけでありますが、しかし余りにも抽象的で、その意味するところが必ずしもはっきりしないというのも、これは逆に問題ではないかと。
 今申し上げた自治の限界というものがそこにあるんじゃないか。新たに憲法を改正するとすれば、この地方自治の本旨というものをもっと明確な自治の基本原則という形で規定をすべきではないかというふうに思います。
 それから次に、国と地方自治を考えるときには、国と地方との関係においてこの地方自治をどう位置付けるかということの議論が必要かと思いますけれども、ここのところが必ずしも憲法上は明確ではありません。
 それで、私は、最近EUの諸国がヨーロッパ地方自治憲章というものを採択をして、それに沿って各国が今分権改革を進めておるわけですけれども、そこで言われている一つの基本原則が補完性の原理ということでありまして、これは住民に身近なところの団体が原則的にすべての分野をまず責任を持って仕事をすると。その団体では処理し切れないような部分についてはより広域的な団体が処理をする、そこでもまだ無理な場合には最終的に国がすると。要するに、まず基本的なところの基礎的な自治体が最優先で仕事の分担をすると。これを補完性の原理ということで言っておるわけでありますけれども、日本の分権一括法も基本的にはそういう考え方を踏襲しているというふうに私は理解しておりますが、そういう考え方を憲法上も明記するということが必要ではないかというのがもう一点でございます。
 それから三点目として申し上げたいのは、先ほども申し上げたように、この財源の裏付け、自治を確立するためには権限、事務配分のみならず、それの実際の仕事をするときの財源的な裏付けがこれまた自治の面でどこまで確立されているかということが非常に重要な点であります。
 日本の場合には、よく言われますように、まあ三割自治という言葉に象徴されるように、財源が極めて限られております。足らないところは国からの補助金あるいは負担金等でカバーをし、あるいはまた借入金に依存せざるを得ないという状況でありますが、基本的には、自治事務は本来全額自主財源で執行できるというのが一番望ましいんではないか。あるいはまた、法定受託事務というふうに区分されるものがあるわけですけれども、それは本来国の仕事であり、ただ執行を地方団体に任せた方が全体として能率的、効率的だというものであるとすれば、その財源は全額国が負担をするというのが、このことが原則ではないかと。その中には一部例外的なものもあろうかと思いますが、基本原則はそういう考え方でいくのが望ましいんではないかと私は考えておりますけれども、そういう物の考え方というものを憲法上にも基本原則を明確にするということが非常に大事じゃないかなというように思います。
 そうすることによって、仕事の執行の面あるいは財源の面でも地方の自主性が高まるわけでありまして、そうすることによって、本当に自分たちの団体のことは自分たちの意思で決めると。そしてまた、その決めた結果責任は自分たちが負うと。自己決定と自己責任の原則がそういう事務と財源を通じて確立する、それが本来地方自治の在り方ではないかと、こういうふうに思うわけでございます。
 それからもう一点申し上げたいのは、日本の現在の地方自治は市町村と都道府県の二層制になっております。御案内のとおり、今、市町村合併が全国的に推進されておるわけでありますが、これは今、現象的には財政的な制約からそういうインセンティブが働いている面もありますけれども、本来の考え方はやっぱり分権化を進めていく、地方自治を確立するなら基礎的団体であります市町村を優先すべきだと。市町村にもっと仕事をやってもらうためには、責任を果たしてもらうためにはその権能を拡大しないといけないと。そのためには、規模が余りにも小さければ不十分だろうと。そういうことが背景にあっているわけでありまして、合併推進は、私は流れとしては当然そうあるべきだろうと。
 ただ、市町村合併についても、これは強制的にやるべき性格のものでもありませんから、いろんな事情でどうしてもできないところについては、やっぱり一部事務組合とか広域連合とか、今でも事務の共同処理の仕組みが設けられておるわけですから、そういうものも併せながら市町村の事務処理能力、権能というものを拡充していくというのが望ましい方向ではないかなというふうに思っております。
 そういうような状況がこれからどんどん進んでいきますと、市町村と国との間に位置しております都道府県の役割と位置付けというものがおのずと見直す必要が出てくるんじゃないか。中間団体と言われる都道府県の仕事、役割というものはどんどんどんどん小さくなってくる、そのときに今の都道府県制度で、そのままでいいんだろうかと、これが道州制の一つの背景だろうと思います。
 私は、大きな流れとしては、日本においても道州制というものを都道府県制に代えて、新たにそういうものを置くんではなくて、都道府県制に代えて道州制というものを導入するということが望ましいんではないかというふうに思います。
 道州制の必要性はその都道府県の位置付けの変化が一つでありますが、それに加えて、やっぱり今、市町村の思いは、何で我々のような弱いところばっかりにしわ寄せが来るのかと、そういう思いをされている関係者が非常に多いわけでありますが、道州制を導入することによって、都道府県のみならず国の行政改革も一気に進むんではないかと。都道府県が廃止され、事実上統合されるわけでありますので、組織、体制が大幅に簡素化される部分が出てまいりますし、国としても、従来国が直接やっておった仕事を更に道州に移管して執行してもらうということになってくるわけでありますので、国としてのスリム化も図られると。
 そういう意味で、行政改革を更に国を挙げて進める意味でも道州制の導入というのは効果があるんじゃないかというのが一点。
 それからもう一つ、今、現象的には東京一極集中の現象がとどまらないわけでありますけれども、これを政策的にどういうふうに有効な手段があってこれを食い止めれるのかと。なかなかこれといった手はありませんけれども、まず、私は、その一極集中化を是正する方法としても道州制というものが有効に働くんではないかというふうに考えております。
 現在、都道府県、市町村を憲法上位置付けていないのと同じように、憲法改正しなくても道州制は導入できると思いますけれども、是非憲法改正をする場合にはこの道州と市町村を憲法上も位置付けるということが地方自治の前進のためには有効ではないかというふうに考えております。
 それからもう一点、地方分権も進めていくとすれば、知事や市町村長の首長に権限が大幅に強化されてまいります。そうなりますと、今も多選云々という議論がございますが、これは憲法の職業選択の自由との関係があって法律や条例で規制できるのかという議論がございますので、憲法上、法令によって多選を禁止できる根拠規定を置くということが有効ではないかというふうに思います。
 それからもう一点、現在のこの憲法九十五条には、一の地方団体にだけ適用される特別法については住民の投票を必要とする条項がございますが、これは現在ほとんどといいますか、ほとんど、戦後直後はありましたけれども、その後全く案件がございません。事実上死文化しておりますので、これはもう廃止してはどうかというふうに思います。
 それから、併せて地方自治体の住民投票でございますが、これは我が国が代表民主制を取っている中で、直接民主主義の一つの手法であります住民投票にどこまでゆだねていくのかというのがこの代議制との関係において慎重に議論しないといけない。代議制が有効に機能しない部分を補完するというのが基本ではないか。それからまた、住民投票を導入するに当たりましては、対象の案件をどの範囲に設定するのか、あるいは具体的なその執行に当たっては項目の設定をどうするのか、あるいは住民に対する情報の提供をどうするのか、あるいはその拘束力をどうするのか、いろいろ検討する部分があります。代議制を、代表民主制を補完するものとして有効に機能する面もありますが、また弊害もあるわけでありまして、私自身はこの住民投票については慎重になお議論する余地が多いんではないかと、こういうふうに考えております。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 松井孝治君。
○松井孝治君 民主党の松井孝治でございます。地方自治について発言の機会をいただきまして、ありがとうございます。
 地方自治の問題は、私は今日の憲法論においても最も重要な論点であろうと思います。今、同僚議員からも御発言がありましたが、我々も基本的には基礎自治体を中核に置いて、地方分権あるいは地域主権という言葉の方がより適切かもしれませんが、それを推進していくべきだ、そして、我が党もマニフェストに規定をさせていただいておりますが、自由民主党においてもマニフェストにおいて言及がございましたが、道州制というものを検討することによって大幅な地方分権あるいは地域主権の国づくりというものを実現していくべきだという立場に立っております。
 現行の地方自治に関する憲法の規定、九十二条から九十五条までの規定があるわけであります。これは、率直に申し上げまして、憲法制定当初においては国際的な基準から見ても非常に先進的な規定であったというのが通例の評価になっていると思うわけであります。
 現行の憲法規定であっても、例えば道州制が、それが実施し得ないかといえば、法文上、道州制も実施し得るわけでありますが、しかしやはり私は、憲法の法律としての基本的な性格が、まあ英語で言えばコンスティチューション、これは憲法と訳されているわけでありますが、意味合いとしては国制あるいは政体というような意味合いがある。その憲法の基本法典としての性格にもかんがみ、やはり大幅な地方分権あるいは地域主権への政体の変更ということのためには、憲法上の現在の地方自治に関する九十二条から九十五条にかかわる規定というものをやはり大幅に改めるべきではないかというのが私どもの立場でもございますし、私の個人的な意見でもございます。
 先ほど、そもそもの憲法の規定というのは先進的、先駆的な規定であった、すなわち住民自治の原則、団体自治の原則というものを入れ込んでいるという意味においては当時は先駆的でありましたが、では、実態として、現行憲法に基づいて、現在の国と地方の役割が憲法の当初の規定のように先駆的なものであったかというと、むしろその実態は全く反対であると言わざるを得ないと思うわけであります。
 地方公共団体というのは、現行憲法の規定上、法律などによるもののほか、国が行っていない事務は何でもできるというふうにも読めるわけですが、現実には国がほぼすべての政策分野を行っている。その中で、先ほど同僚議員からもお話がありましたが、圧倒的な権限と財源を国が持っている中で、地方に大きな権限はなかった。地方自治という精神は憲法に規定されていても、それが実際には発現されていなかったと言わざるを得ないと思います。
 そういう状況の中で、国際的にもあるいは国内的にも地方分権、地域主権というものに対する要請が高まっていると思います。国際的にいえば、一九八〇年代以降、ヨーロッパの多くの国々で分権改革の動きは加速しております。フランスやベルギーで地方分権法が成立しておりますし、イギリスにおいてもスコットランドやウェールズなどの自治権が拡大されています。スイスやアメリカで導入されていた住民投票制度がヨーロッパ各国にも波及していっております。
 こうした潮流に日本国憲法の中の地方自治規定は十分に追い付いていけているかというと、必ずしもそうではないと思います。日本が置かれた文明史的な位置付けの中でも、近代国家、国民システムが変容している中で、やはり今人々の価値観が非常に多様化している。あるいは、社会的、公共的に解決すべき課題の複雑化、多様化、グローバル化が進展している。情報革命の進展によって情報が分散化しスピード化して、人々のコミュニケーション能力が向上している。そうした状況の中で、公共的セクターの中にも、いわゆる従来の主権国家と地方政府以外にも、NPO、NGOが国内的にも国際的にも活発化している中で、もはや中央政府のみでガバナンスということを考えることについては限界が来ているというふうに言えると思います。
 そういう状況の中で、近代国民国家システムの中で中央管理型で物事を解決しようという国家モデルはもう崩壊して、地域や住民を起点とした内発的な改革をベースにした政治的政策決定が行われるべき時代が来ているわけであります。もたれ合い型の国と地方ではなくて、あるいは中央の支配と地方の中央への依存という国のシステムを変えていくためにも、抜本的な地域主権の国づくりをむしろ憲法の議論を中核に据えながら行っていくべきであると考えております。
 その意味で、私は、憲法的観点から幾つかの課題を提示してみたいと思います。
 一番重要だと考えます点は、国と地方の役割に関する原則というのが現行憲法上はほとんど規定がない。それをやはり、中央政府と地方政府の相互に自立した、あるいは補完的な役割というものの、仕事の役割を国家基本法である憲法で明確に規定すべきであるというのが基本的な考え方であります。
 その場合の規定の仕方として、国がナショナルミニマムとして最低限の役割を規定し、それ以外を地方の役割とするのか、あるいは地方の役割をポジティブに規定して、それを補完するものとして国の役割があるのかという議論については両論があると思いますが、いずれにしても、明確な規定が必要であると思っております。私自身は、方向性としては、大きな方向性として、道州制に向けて国と地方の役割規定を明確に明文上位置付けるべきであると考えています。
 道州について言うと、これはいろいろまだイメージについて精査が必要であろうと思いますが、一般的に言えば、全国を十から十二の道州に再編するというような議論が主流であろうと思いますけれども、この道州、これはあくまでも広域自治体でありまして、その下に基礎自治体があって、二層制とすべきであるというふうに考えております。
 国の役割について限定的に列記し、そして道州の役割としてやはり限定的に列記するべきであるというのが私の個人的見解でございますが、道州の役割として、警察、検察、河川、道路、通信基盤、空港、港湾、農業、林野、上下水道、災害、医療、雇用、社会保障、教育、都市計画などについてどのように考えるのか、あるいは基礎自治体と道州との関係をどう考えるのか、これについて更なる検討が必要であろうと思っております。
 ちなみに、民間シンクタンクである構想日本が、約三年前から自治体の財政担当者やあるいは事業担当者とともに行っている自治体事業の仕分作業調査というものがありまして、これはもう自治体の職員自らがかかわっているわけでございますが、これは、都道府県の担当職員も含めて多くの事業の仕分を行った結果、都道府県が現在行っている事業のうち約二割から三割は市町村など基礎自治体に移管できるという結果が出ておりまして、そういう意味でも、この道州制を議論する場合には、その基礎自治体である、今で言うところの市町村と道州との役割をどのように分担していくのか、これについては、基本的には補完性の原理原則にのっとって仕分を行っていくべきではないかと思います。
 そして、道州内の統治の仕組みについて言っても、今の憲法上の規定、九十二条や九十三条で書かれておりますような規定が本当に適切であるかどうかということについては、ホームルールという原則によって、より大きなウエートを基礎自治体に与えるべきではないか、あるいはそれは基本的に地方自治体間で決めるという形で、中央政府が関与しないような形で道州と基礎自治体の関係を規定すべきではないかという考え方も注目に値すると思います。
 そして、非常に重要な問題としては、国の役割と道州の役割をどう考えるか、あるいは道州以下と国との役割をどう考えるかということでありまして、今の国の状況というのは、余りにも多くの森羅万象を国が所管するという考え方の結果、本来国として注力すべき事柄、具体的に言えば外交、安全保障であるとか出入国管理であるとか、金融であるとか治安維持であるとか、基礎的な社会保障システムであるとか地球環境問題に対する対応、こうした問題がやはりおろそかになっている。ここについて、やはり限定的に、しかしながら国の中央政府としての重点をどのような分野に置くべきかということをきちっと整理をし直さなければいけないと思っております。
 国と地方のその意味で立法権の整理というものも必要であろうと思います。
 これまでのように法律の範囲内で条例を制定する権限のみを自治体に与えるということではなくて、地方自治体と中央政府の権限配分に対応し、地方自治体に専属的あるいは優先的な立法権を憲法上保障すべきではないか。少なくとも基礎自治体にゆだねると、あるいは地方自治体にゆだねるとした分野については、優先的、専属的な立法権限を憲法上保障すべきではないか。そして、その上で、中央政府は地方自治体の専属的立法分野については立法権を持たず、地方自治体が優先する立法分野については大綱的な基準を定める立法のみ許されるという原則を書き込むべきではないかと考えています。
 もう一つの重要な問題点として、地方の課税自主権あるいは財政自治権の議論も行う必要がございます。
 つまり、国の課税対象、地方の課税対象は何かということについて、もう一度憲法論も含めて議論をすべきではないか。現行では租税公課について国が基本的に決定しておりますが、地方自治体が自らの事務事業を適切に執行できるよう、課税自主権、財政自治権を憲法上保障し、必要な財源を自らの責任と判断で調達できるようにすべきではないだろうか。課税自主権は、各自治体が自らにふさわしいと考える税目、税率の決定権を含むべきではないかと考えております。
 後ほどの財政のセッションでも申し上げたいと思いますけれども、この財政あるいは課税自主権に関連する問題として非常に大きな問題は、仮に広域的自治体として道州を設定するにしても、やはり地域間の経済格差、財政格差が大きい、その調整をどういう仕組みにおいて行うかという論点は非常に重要な論点であろうと思います。
 現在は財政調整は国、中央政府、具体的には総務省の一部局が地方交付税制度に基づいて基本的には行っているわけでありますが、この財政調整機能というものを本当の意味でどこが担っていくのがふさわしいのかということは、是非、憲法論も含めて議論をする必要があるのではないかと思います。
 私は、この場をかりて二つのやり方があるということを問題提起をしたいと思いますが、一つは、水平的に、あくまでも地方間の財政調整というものは、国が絡むんではなくて、地方間で水平的に行う。具体的には、例えば憲法においてそのような財政調整を行う機関を憲法機関として直接書き込んで、そこで例えば自治体、例えば道州の長で構成されるような財政調整会議が相互に調整を行うというような形が一つあり得るんではないか。
 もう一つは、国が関与するやり方として、これドイツの連邦参議院のやり方が一つの参考になると思うわけでありますが、二院制の議論とも絡みますけれども、ドイツの例を参考にするならば、参議院が地方の自治体を代表するような構成を取りまして、そこで地域間、例えば道州間の財政調整を行う。その機能を国会、例えば参議院に担わせてはいかがかというような考え方があろうと思います。
 いずれにしても、この財政調整の在り方も含めて何がナショナルミニマムで国が行うべきなのか、どのような項目は課税自主権も含めて地方にゆだねるのか。そして、地方にゆだねた結果として生ずるような地方間の財政格差について、どのような仕組みでだれが調整をするのかというようなことは、これはやはり憲法において基軸を定めるべき事項であろうと思います。
 財政については補足的に、また二院制の在り方とも若干触れますけれども、次のセッションで私の意見を申し上げさせていただきたいと思います。
 取りあえずは以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 続きまして、山口那津男君。
○山口那津男君 公明党の山口那津男でございます。
 憲法がある程度の時代の変化に耐えて中長期的な原則、理念を定めるという法規であるという性質に照らしまして、この日本国憲法の持つ地方自治の規定というものはおおむねよくできていると、このように評価をいたします。
 その上で幾つかの問題点について触れてみたいと思いますが、必ずしも理論的に整理されているものではありませんで、私個人の感想ということを述べさせていただきたいと思います。
 まず、地方自治の本旨とは何かということが議論されてまいりました。これは、通説的には団体自治及び住民自治が歴史的な概念、制度として実行されてきたということから、国の立法権や行政権によって侵害されない、防御できる、そういう制度的な保障を定めたものであると、こう理解をされてきたわけであります。
 しかし、こう言ったとしても、直ちにその地方自治の本旨とは何かということが具体的に明らかになるわけではありません。そこで、これらの内容についてもっと具体的、詳細な規定を憲法に設けるべきであると、こういう主張が幾つかなされてまいりました。そういう中で、例えば地方自治の基本法を作るべきであると、こういう主張もなされたわけであります。
 しかし、私は、この時代の変化に対応するためには余り詳細な規定は置かない方がいいという考えを持っております。といいますのも、この憲法制定、実施以来、今日までの歴史を振り返りましたときに、時代が大きく変遷していると思うからであります。
 例えば、戦後の復興期、そして高度成長の初期ぐらいまでの間は、やはり中央集権的な思考、これは戦前からの名残というものもありましたでしょうし、また戦後の廃墟から立ち上がる強いパワーの必要性ということもあったと思いますが、そこではかなり中央集権的な、画一的な思考で地方自治というものが運営されてきたように思うわけであります。
 しかし、この高度成長たけなわ、そして後期になりますと、様々なひずみというものが各地に出てまいります。これらのひずみをめぐって地方住民の声というものが強く押し出されるという時代を迎えるわけでありまして、そこで首長や議員の選び方についても様々な変化が現れてきたわけであります。
 また、九〇年代以降、バブル崩壊後は、特に財政的な行き詰まりというものも出てきたわけであります。高度成長期、比較的財政に余裕のある中で膨らんできた仕事、また財政調整の仕組みというものがこのバブル崩壊以後非常にタイトになってまいりまして、もはや従来のままでは乗り越えられないという限界にまで達しているわけでありまして、現在、三位一体をめぐる様々な議論がなされているのもそういう変化を表しているわけであります。
 こうして、大きな時代の流れ、大きな区分というものを見てまいりますと、固定的に地方自治の詳細な内容まで決めてしまうということは柔軟な対応を損ねるという欠点があらわになってしまうだろうと私は思うわけであります。現に、それぞれの時代においてこの地方自治の内容について様々な問題点を挙げる主張があったわけでありますが、しかし、その個々の問題点を拾ってみますと、それはもう既に現代では通用しない、そういう指摘も多々あるわけでありまして、固定的であってはならないということを正に立証しているものだと私は考えます。
 そこで、次に、三位一体をめぐって今様々な議論がなされているわけでありますけれども、この議論の中で忘れられている点というのをちょっと指摘をしたいと思います。
 原則的に、権限を地方に移譲し、そして財源を移譲し、また無駄な仕事を削る、国の強い関与を減らしていくという方向性は私は正しいものを含んでいると思っております。しかし、現実には、その住民、言い方を換えれば、一人の国民にとっては、その受ける利益、サービスというものは地域によって大きな格差があるというのは現実であります。
 例えば、ここの首都東京と地方都市の住民の受けるサービスというものを比べてみれば、例えば東京では、都市のインフラの面にしても、あるいは様々なソフト的なサービスにしても、かなり充実したものがあるわけであります。同じ財源を得たとしましても、先進的な住民サービスに回せるというのがこの首都の姿でありますけれども、地方ではなかなかそれが追い付かない。むしろ基礎的インフラの整備に多大な資源を割かなければならないという現実があるわけです。同じようなことは、各都道府県の県庁所在地とその都道府県内の地方都市との間にも確実に見られることであります。
 したがいまして、これらを調整する仕組みといいますか、格差をなくす仕組みというのは必ず作っていかなければならないと思うわけであります。そうした国民一人一人の観点からとらえれば、憲法は正に基本的人権を保障している。これは自由な活動を侵害しないということとともに、あるべき権利を実現するという二つの大きな役割があるわけであります。この基本的人権の保障という観点から見た場合に、国又は地方それぞれは相互補完的な役割と、また責任を有するものだろうと思います。それぞれの権限の優位性、あるいは対立的な権益を殊更強調するものであってはならないと思うわけであります。
 今回の三位一体をめぐる議論の中で、補助金をカットして税源を移譲するという道筋でありますけれども、結局、財源の保障がない以上、仕事を削れということにならざるを得ず、その優先順位の決め方だけを権限移譲と称して地方自治体に任せると言っているにすぎないわけであります。
 しかし、そこに欠けているのは、国と地方を通じて住民ないし国民にどれだけの権利、利益を保障すべきか、最低限の保障とは何か。先ほど来、ナショナルミニマムという言葉でも表現されておりますが、その追求というものがなされていない、またそれを確定する仕組みがないということが大きな問題だと思うからであります。
 こういう点から見ますと、地方公共団体の組織の在り方というものも、現在の都道府県、市町村という二層制というものは憲法上確定すべき組織論ではないと私は思います。
 その相互補完的な人権保障の役割という面から見た場合には、基礎的自治体の一重の制度というものもあり得るわけでありますし、またもっと広域的に、道州制も含めて地方自治体間の調整の仕組みというものを作るということもあり得るだろうと思います。
 また同時に、ナショナルミニマムとは何かという点につきましても、これもまた時代によって変遷し得るもの、例えば基礎的インフラが全国的に概成していくとすれば、その次のナショナルミニマムの課題というものは変わってくるはずでありまして、それらを見据えながら柔軟に対応していくというやり方が望ましいことだと、こう思うわけであります。
 その上で、財源の調整の仕組み、また地方自治体と国がどういう役割を分担をすべきかということを常に検証し、協議をし、確定していくという仕組みを作らなければならないと思うわけであります。
 次に、住民参加ということについて感想を述べたいと思います。
 住民投票が近年多用されてきたいきさつがございますけれども、これについては私は、憲法で定められた首長あるいは議会の議員、その他の吏員の直接選挙制度、そして間接的な民主主義の在り方という基本を曲げるものであってはならない、そういう使われ方をされてはならないと思います。
 仮に重大な問題に対して住民の意思を問うべき課題が生じたとしても、それは常に住民投票によらなければならないというものではないと思います。首長選挙をやる、あるいは議会選挙をやるということも一つの民意を問う、焦点を絞ればそれも一つの民意を問う手段であります。また、民意を広く問うて分析するというのは、何も投票や選挙による必要もないわけで、今の発達した通信手段、意思伝達手段を利用すれば、様々なその民意のくみ上げ方あるいは反映の仕方というものはあり得るわけでありまして、この憲法の定める直接選挙制を加味した間接民主制度、これを原則としつつ、その妙味ある住民投票の仕組みをその補完的な役割として取り入れるということを考えるべきだと思います。
 それから、住民参加のもう一つのテーマとして、永住権を持った外国人の地方参政権の問題であります。この点について、私は肯定的に考えるべきだと思うわけであります。もちろん、外国人といえども国民と同様に可能な限り人権保障を及ぼすべきであるというのは通説でありますけれども、しかし、永住権を持った外国人というのは単なる一般の外国人とは異なるわけであります。そして、日本におきましては、歴史的ないきさつもあり、また相当数の人数もあり、そしてそれを国が永住権を保障しているということは、この国に生活の根拠、財産的基礎を持って生涯暮らしていいということを認めているわけであります。そして、日本国民と同様に納税の義務を果たしているわけであります。
 古来、代表なければ課税なしというのは、この民主主義を発展させ、また人権保障を追求してきた原理、スローガンでもありました。ですから、この課税において差別のないまま単なる住民サービスの対価とだけとらえているというのは、私は誤った考え方だろうと思います。最高裁で既に有名な判決が出ているわけでありますが、これは、地方参政権については、これを憲法は否定していないという考え方を取っているわけでありまして、これが判決を導くための主論か傍論かということはともかくとして、最高裁のはっきりとした考え方であります。ですから、国民あるいは国籍だけを理由にして永住権を持った外国人の地方参政権を否定するというのは、論拠としては薄弱であると言わざるを得ません。
 この代表なくして課税なしという考え方、そしてまた歴史的ないきさつ、また憲法を解釈した判例、これらを併せ考えたときには、私はこの地方参政権の道を開くべきであると。ただし、その内容については、これは立法政策上の課題とされているわけでありますから、もっと様々な観点からの議論はあり得てしかるべきだと思っております。
 ちなみに韓国では、この地方参政権が議論されながら、国会で法律として成立しなかったといういきさつがありました。しかし、これをもって日本で否定すべき論拠にはならないと私は思います。韓国におきましては、永住権を持った外国人の数というものは日本と比較にならないほど少ないわけであります。また、そういう永住権を持つ外国人が国内に居住する、永住権を持つに至った歴史的な経緯というものも全く異なるわけであります。又は分断国家の中の現実ということもあるかもしれません。いろいろと日本とは異なった事情がある中での一つの考え方でもあります。
 また、韓国では地方自治の歴史が、特に選挙を通じて地方議会の議員あるいは首長を選ぶと、こういう歴史がつい最近始まったばかりでありまして、その点についてにわかに永住外国人の参加を導入するということについては、また成熟をしていなかったといういきさつもあったかと思うわけであります。
 そういう中で考えましたときに、この日本におきまして、殊更永住権を持つ外国人の地方参政権を全否定する必要は全くないと思っております。
 以上で私の感想を終わります。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 続きまして、吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 地方自治について発言をいたします。
 戦前の憲法と現在の憲法との大きな違いの一つが、憲法第八章での地方自治の保障です。これは、今の憲法の大事な特徴を成しています。歴史上、日本で初めて認められた権利であり、制度です。学会でも多数が、地方自治の本旨は国から独立した地方公共団体が存在し、原則として国の監督を排除して、自主的、自立的に、直接間接を問わず住民の意思によって地方の実情に即して仕事を行うということが認識とされています。戦前は、知事は官選、市長も市議会の推薦する候補者の中から内務大臣が天皇の裁可を得て決められることになっていました。町村長も町村会の選挙で知事が認可するという仕組みでした。
 戦前の不幸な歴史の反省から、地方自治の確立が戦後の日本の民主化にとって不可欠の要素であるとしてこの八章が加わったと思います。その内容は、地方自治体の自治権の強化、地方自治を導入することによって地方自治を確立するということが核心です。
 九十二条、地方自治の本旨に関連して述べます。
 憲法は、第八章を地方自治に当て、地方自治の本旨をうたい、自治体首長と地方議会の住民による直接選挙、また地方公共団体による財産管理、事務処理、行政執行の権限を認め、法律の範囲内で条例を制定することができると定めています。この憲法に基づいて地方自治法が制定されています。地方自治が制度的に憲法上保障されたことは世界でも画期的なことです。憲法九十二条に明記された地方自治の本旨とは、自治体に自治権を保障する団体自治と住民に地方自治参加の権利を保障する住民自治と二つの原理から成っており、これは車の両輪を成すものです。
 自治体は、その地方自治体については国から法的に独立した政治、行政の主体として憲法でその自主的存在が保障されています。地方自治体の存在理由は、地域住民の福祉を増進させることにあります。現憲法の地方自治を強化していく上で何が大事かという議論を深めていくべきであると思います。
 小泉内閣の三位一体改革は、地方に一定の税源を移す代わりに地方交付税と国庫補助負担金を大幅に廃止、縮減し、結果として国から地方への財政支出を削減しようというものです。財務省が七、八兆円の交付税の削減を主張する一方、今廃止、縮減の重点的対象に挙げられている国庫補助負担金の多くは、福祉、教育に関して国が義務として地方に支出すべきものばかりです。交付税を削減し、国庫補助負担金の廃止、縮減では、国民の権利として保障すべき福祉や教育の水準を保てなくなってしまいます。福祉、教育など一定水準のナショナルミニマムをどの自治体も提供できるように、国が地方交付税などその財源を確保する義務があると思います。
 地方交付税の縮小は地方農村部の自治体の財政に重大な困難を持ち込むものです。財源保障機能と財源を調整する二つの機能を持っているのが地方交付税です。また、国庫補助負担金も約七割は福祉、教育へ、国の義務的支出で、地方の財源保障のもう一つの柱です。政府が財政危機を口実に暮らしや福祉の自治体による上乗せ措置を押さえ付け、市町村合併の押し付けや地方財源の切捨てを進めているということは、地方自治の破壊につながるものと言わざるを得ません。
 これに対して、今全国で、暮らし、福祉を守るという自治体本来の姿を取り戻そうという新しい流れがあります。脱ダム宣言を行い、福祉、教育や地域振興に力を注いでいる長野県始め、各地で住民の立場に立つ自治体が広がっています。
 介護保険についても、制度が導入されるときから、保険料、利用料の減免を要求し、その結果、保険料減免は四百三十一の自治体で、利用料減免は全国の自治体の四分の一、八百二十五の自治体で実施されております。
 また、乳幼児医療費無料化を一九七一年に我が党が最初で国会に取り上げましたけれども、今この運動が広がり、今日では全国すべての自治体が何らかの助成措置を設けるまでになっています。
 少人数学級問題でも、父母や教職員の皆さんが運動をした結果、今では二十一の道県、一政令指定都市で、小中学校の低学年を中心に三十人、三十五人以下などの少人数学級が実施され、更に広がろうとしています。
 政府は、半ば強引に市町村合併を推し進めています。そのために、合併特例債や地方交付税措置を行っています。現在、三千十六まで減らされた市町村を更に千まで減らそうとしています。政府は、年度末までに二千七百を下回る見込みと、昨日、総務大臣がおっしゃっていました。これに対して、国による合併押し付けは自主的な地方、地域の発展と暮らしの向上の努力を妨げ、地方自治を侵すものです。このねらいは、国から地方への財政支出を削ることにあり、地方の切捨てです。全国町村会は、提言を行い、地域の多様性を認めず、自立と尊厳の精神を否定するような市町村再編は我が国の将来に大きな禍根を残すと警告を発しています。
 また、合併の強制に反対して、小さくても輝く自治体フォーラムが開催されました。これは、顔が見える小規模自治体の個性あふれる住民自治を発展させるように開かれたものです。実践的な住民自治を掲げて、補助事業に頼らない田直し事業や在宅介護を中心としたげた履きヘルパーなどで注目されています長野県栄村の高橋村長は、行政サービスは国が確実に決めるものではなく、町村が創造するものだと語っています。基礎的自治体の適正規模を、人口と行政コストの関係という机上の計算だけで割り出せるものではないと考えます。人口規模だけでなく、面積や地形、気候、風土、住民の生活様式など、総合的に判断されるべきではないでしょうか。
 さいたま市は、旧浦和市、旧大宮市、旧与野市の三市が合併して政令市になりました。合併によって負担は高い方に、サービスは低い方に合わせ、高齢者や低所得者が多く加入している国民健康保険税は旧三市のときよりも大幅に値上げされ、年収三百万円の世帯で十万円の負担増、二百万円の世帯で八万五千円の負担増に跳ね上がっています。合併を推進する最大の理由も、住民のことは念頭になく、自治体の数を減らした方が国から地方への財政支出を減らせるということであるとすれば大問題です。
 総務省の試算では、市町村を千自治体程度に減らせば四兆から五兆円地方財源を減らせるというものです。町村合併を進めるねらいには、その先には道州制があります。道州制をめぐっては、今、都道府県を事実上なくして全国を七から十程度の道州に分けるなど、様々な案が出されています。
 経団連は、市町村を千程度に編成することと一体に、道州制を含め具体的な検討に早急に着手し、市町村合併特例法の期限までに方向性を取りまとめるべきであると強調しています。道州制になれば確かに財界が巨大プロジェクトなど大型開発を進めるには都合は良いのでしょうが、住民の自治はほとんど実態を失うおそれがあると思います。
 住民自治、自治体自治という地方自治の本旨の内容を一層豊かにすることは、二十一世紀に大きな課題です。それは、ヨーロッパ地方自治憲章など、世界の流れにも沿ったものだと思います。十九世紀のフランスのトックビルや、二十世紀イギリスではブライスといった識者たちが、地方自治は民主主義の源であり、その基本を養う小学校だと述べています。私も、地方自治は民主主義の学校だと思っております。そういう憲法に保障された地方自治の本旨の実態についてむしろ議論をもっと深めていく必要があると考えています。
 九十三条は、地方自治体の長や議会の議員を直接選挙すべきことにしています。住民の代表である議員が自治体の行政をコントロールします。その点からいえば、町村合併によって地方議会の定数が大幅に削減されることは、住民の意思が議会に反映しにくくなり、行政コントロールの機能が低下することにつながります。
 また、住民の意見の議会への反映については次のような課題があります。
 現在、六十万人を超える永住外国人の地方参政権の実現を急がなくてはなりません。最高裁も、永住外国人に地方参政権を保障することは憲法上禁止されているものではないと判決を下しています。九五年二月です。また、多くの国々でも実施済みか実施に向けた積極的な検討が行われています。
 永住外国人の地方参政権といった場合に、選挙権とともに被選挙権をも含むと私たちは考えます。
 また、これは中央の選挙も含めてですけれども、十八歳選挙権の実現は、青年の権利と自立、日本社会の現実からいっても急がれます。私たちは、創立したときから一貫して十八歳選挙権、党創立時から十八歳選挙権を要求してきました。今や百五十か国以上に及び、サミット諸国で十八歳選挙権を実施していないのは日本だけです。
 国政においては代議制を基本としていますが、地方政治においては代議制と直接民主主義が大きな柱として位置付けています。地方自治には、住民の直接参加を直接請求の仕組みとして定めています。これを実質的に保障することが必要です。
 今、地方で住民投票を行う場合に一番何が問題かといいますと、その条例を議会が作ってくれない、それが一番の問題になっています。住民投票のハードル自身を低くしないといけないと思います。ハードルの低さと議会の審議を充実させる、最低その二つの条件は必要であります。
 一九八〇年代以降、ヨーロッパ自治憲章、国際地方自治体連合、世界地方自治宣言が出されています。これらは地方自治、住民自治だけでなく、事務配分に関する市町村優先の原則、権利に関する自主財源の確保、自主課税権の保障などを内容としたものです。ここに自治に関する世界の趨勢が示されています。
 最後に、憲法の地方自治に関する規定を変える必要はなく、これを充実、発展させるための努力が行政にも国会にも求められていることを述べて、私の意見とします。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 続きまして、田英夫君。
○田英夫君 第八章の地方自治は、言うまでもなく、明治憲法の中央集権、これを廃して、民主主義を基本として地方政治、住民の自治を行うということを九十二条から九十五条にかけて規定しているわけですけれども、これは、更に細かなことを規定すべきだという御意見もあるようですけれども、私どもは地方自治の基本をこのように決めてあるこの条項はそのまま維持するべきだと思っております。
 この基本的な精神は、住民、あるいは市民と言ってもいいと思いますが、そこの地域の住民の皆さんの意思によってその地域のことが決められていくという極めて原則的なこと、これを大切にしていこうと、言わば民主主義の原理を地方政治の中で確立していこうということを決めているわけですが、実際には、依然として中央集権時代の精神、習わし、あるいはやり方が中央の省庁、行政府によって続けられているという事実があります。
 今回の小泉内閣のいわゆる三位一体と言われるこの改革、改革と言えるかどうかも問題だと思います。第一に、中央の行政府が決めて、そして地方がこれを受けて、一体国会で議論をしただろうかということがまず疑問であります。
 今、いろんな議論が省庁間の間でも、あるいは地方との間でも出ていて、収拾が付かないと言ってもいい状態になってしまっている。これは、一に掛かって、地方自治ということの精神を一本、こう筋を通して、みんなが一致してわきまえているという状態にないからだろうと思います。
 それぞれの問題については、私ども国会ももっともっと議論をして、いい結論を出していかない内容のものもあります。中央が統括していた方がいいというものもあるかもしれません。しかし、今の方向は、むしろ中央あるいは地方の財政の窮迫というものを原因にして、それで問題を処理しようと、そこを救おうということが主な理由になっているようでありますが、それは本末転倒ではないかと思います。
 例えば、義務教育費の国庫負担という問題、これも今回の三位一体の中で大きな議論のテーマに中央と地方の間でなっているわけですし、一般の国民の皆さんの中にもこれについてはいろいろな御意見があると思います。
 しかし、この国会でそのことをきちんと国を代表、国民を代表して議論をしただろうか。これは全く不十分ですね。いわゆる義務教育費の国庫負担というのは、ある意味でいうと教育の基本として大切にされてきたわけです。この部分を、財政が理由とはいいながら、地方に全面的に渡してしまっていいのか。地方は当然のことながら、その自治体の考えによってそれぞれ変わったやり方をするでしょう。この辺に、いわゆる地方自治と中央の政治のやり方というものの調整の一番問題があるんだろうと思います。
 その議論の場は国会でなけりゃならないと。それが今全く無視されて進められている辺りに、いわゆる地方自治というものに対する考え方がまだまだ中央省庁の中で特に無視されていると思います。
 もう一つ、平成の大合併と言われている合併の問題もまた地方自治ということの本当の精神をわきまえてやっているだろうか。むしろ、中央から呼び掛けて大合併が進められている。その結果、古くから日本の地方で行われてきた本当の住民の間の協力と、あるいは事実上の住民の自治ということが無視されてしまっているんじゃないか。
 本当に古くから、日本の農村は、みんなで村の人が協力をしてお米を作ると、そういうやり方が何百年も続く中で、おのずから地方の自治というものが進められていて、それを今本当に中央集権ではなくて、それぞれの地域でうまく進むようにしてきていると。それを合併という、これもまた主として財政を理由として合併をしてしまう結果、その地域の住民の皆さんの古くからの在り方というものが壊されていると。また、早い話が、日本人にとって古くから懐かしい村や町の名前も消えつつあります。これは小さなことのようで、実は意外に大きな問題だと私は思います。もっとそうした、あの村がとかあの町がという、そういうことを大切にする精神を文字どおりそれこそ大切にしていかないといけないのではないか。大合併ということに対しても、もっとお互いに国会で議論をすべきだと思っています。
 そして、住民投票についても、これも確かに地域住民の自治の極限は住民の直接投票による決定だということになるでしょう。しかし、一方で本当にすべてをそういうやり方で決めていいのか。今の第八章の憲法ではいわゆる代表民主主義、直接の民主主義ではなくて代表の民主主義といいますか、それぞれ自治体の議会というものを選挙して、それによって自治を行っているということが基本になっております。もちろん、テーマによっては住民の皆さんの直接の意思を聞いた方がいいという場合があるでしょう。それはその地域のそれぞれの議会の議論を経た上でテーマによって住民投票を行うという手続が正しいのではないかと私は思っております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で意見陳述は終了いたしました。
 それでは、ただいまの意見陳述に対し、一時間程度、意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いをいたします。
 御発言は着席のままで結構でございます。
 なお、まず最初に各会派一巡するよう指名いたしたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 それでは、山本順三君。
○山本順三君 自民党の山本順三でございます。このような発言の機会をいただきまして、誠にありがとうございました。
 私は長年地方政治にかかわってまいりまして、その経験からいきますと、やはり基礎的な自治体というものが充実強化をされること、そして地方分権が推進されること、これが正に住民の福祉の向上につながっていくんだということを確信をしておる者の一人でございます。国においても、地方分権推進法であるとか、あるいはまた地方分権一括法等々で地方分権の流れというものが明確になってまいりました。
 こういった観点から考えますと、やはり我々は、憲法の中で、第九十二条、「地方自治の本旨」という言葉がございますけれども、より明確な規定というものをしていかなければならない、このように考えております。
 特に、地方分権の立場から考えましたときに二つ考えていかなければならないと思いますけれども、その一つは、何といっても地方自治の位置付けをどうしていくかということであろうかというふうに思っております。地方自治、自主性とかあるいは自立性というものを高めていく、そのためには国と地方の関係というものが命令服従から対等協力なんだと、このことの原理というものをしかと憲法に規定していくことが必要であろうかと思います。もう一点、地方分権の考え方という観点でございますけれども、国と地方の役割分担というものを具体的にどうしていくのかという議論が必要でありましょうし、その具体的な分担基準というもののベースというものはやはり憲法に規定していく必要があるのではないか、このように考えておるところでございます。
 分権に関連いたしまして、市町村合併について若干触れたいと思いますけれども、私の地元の愛媛県は七十の市町村が十八ないし二十になろうかというふうなことでございますし、私の地元の今治市というところは十二の市町村が来年一月に合併をする、こういうふうなことであります。
 ただ、行財政の効率化であるとかあるいはまた有効性というものを高めるために、地方自治体のあるべき機能というものがどういうものなのか、何が最善なのか、こういったことを考えたときに、先ほど申し上げましたけれども、国と地方の役割分担の議論というものをしかとした上で、合併、これを進めることが望ましいというふうに考えておるところでございます。
 あと、市町村合併が進んでまいりますと、当然、都道府県の役割、権限というものは低下するのは当然でございまして、そういった意味におきましても、道州制の導入ということについては当然このことを考えていくことが必要であるということだけ付言させていただきたいというふうに思っております。
 あと、地方分権、地方財政の在り方ということについて若干申し述べたいというふうに思いますけれども、何といっても、地方が真に自立するためには、与えられた権限、責任を果たすために見合った自主財源の確保というものが大変重要でございまして、財源なくして自治なしという言葉にそれが表れておるんだろうというふうに思います。
 そのような観点で、今、国におきましては三位一体の改革というものが進んでおるわけでございますけれども、例えば昨年、平成十六年度どういう状況になったかといいますと、補助金が一兆三百億円の減、あるいは地方交付税が二兆九千億の減、しかしながらそれに見合った税源移譲というものはたったの六千六百億ということでございまして、地方行政が極端に疲弊してしまう、あるいはまた地方の怒りというものが国にぶつけられる、こういうふうな状況になったことはもう皆さんも御案内のとおりであります。
 そのことに関連して、本年度は三兆円の税源移譲をしよう、それに見合った補助金をカットするようにということで地方六団体からの対応もあったわけでございますけれども、私はこのことに関しましては、ただ単なる数字合わせには決して終わってはいけない、国と地方の役割分担を明確に議論をした上でこれからの方向性を明確にしていくべきだと、このように思っております。
 ただ、一つ心配な点がございますけれども、税源移譲いたしますと、何といっても地方間の格差というものがどんどん広がってくるという危険性がございます。したがって、それを埋めるのが地方交付税でありますけれども、この地方交付税の先行きというものが非常に不透明であるということでございますから、この辺りをしかと我々も考えていかなければならないというふうに思いますし、義務教育の国庫負担金の問題につきましても、これ、いろいろ議論が行われておりますが、ナショナルミニマムということを留保しながら補助金をどうしていくかという議論もしていかなければならないと思います。
 そういった意味で、地方財政の在り方としては、地方の自主財源の保障、それから国の財政調整制度の確立、この二点を明確に地方財政として憲法に明記をしていくべきだと、このことを申し添えたいと思います。
 なお、最近、イタリアとかフランス辺りでもこのような観点からの憲法改正が行われたというふうにも聞いておりますので、その方向での御議論をよろしくお願い申し上げたいというふうに思います。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 続きまして、高嶋良充君。
○高嶋良充君 民主党の高嶋良充でございます。
 私も、地方分権を推進をするという立場から若干発言を申し上げたいというふうに思います。
 私は、地方自治をこの憲法的な側面から論じる場合には、行政主体ということよりも統治主体の側面を重視をする場合に必要があるんではないかなと、こういうふうに思っているところです。ということは、行政権の一定の拡大は現憲法でも一定可能なのではないかと。ただし、統治権限を拡大をしていくという場合には、憲法改正も必要になってくるんではないかなと、こういうふうに思っているところであります。
 具体的に申し上げれば、今までから、同僚議員からもかなり出ておりますけれども、一九九九年に成立をいたしました地方分権一括法によって、国と自治体の関係が今までは上下、主従的な関係であったけれども、一応、対等協力関係へと改革がされたと。ただ、財源的に制約がありますから、すべてにわたって自治体が自主決定、あるいは住民の自己決定の範囲が広がったということにはなりませんけれども、ある程度の地方自治の保障が拡大をしたことは論をまたないというふうに思っております。
 こういうふうに、行政権の拡大については、現憲法下の先ほどからも言われております憲法九十二条の地方自治の本旨の解釈、あるいは地方自治法等の下位法律の改正によってある程度は可能なのではないかなというふうに思っています。
 しかし、もう一歩踏み込んで、あるいは進めてといいますか、先ほど山本委員の方から、対等協力の関係の役割分担を憲法上規定すべきだということがありますけれども、私は、対等協力の関係は今の憲法上でもいけるんではないか。ただし、国と地方を対等独立の関係にもう一歩進めて持っていくと、こういうことになってくると、これは憲法改正ということを視野に入れなければならないんではないかというふうに思っています。
 私が考える対等独立の関係というのは、国イコール連邦的な国家体制でありますし、自治体イコール州という考え方になってくるというふうに思いますが、権限が憲法で明記をされて、両者の対等独立関係が憲法レベルで保障されている、そういうタイプを私の場合は指しているわけですけれども、自治体は、立法、行政にとどまらずに、場合によっては司法権まで有しているという、そういう関係まで一歩進めるということになれば、当然、中央政府と地方政府という関係になってくるわけですから、憲法の改正を視野に入れるべきだというふうに思っているところでございます。
 とりわけ、現憲法下でも問題点を抱えていることは事実であります。先ほどから出ているように、第一には、条例制定権はあるけれども、じゃ、そのことによって、立法・司法権を保障されているのかということではそうではないという部分もございますし、地方自治の本旨ということが具体的に明文化されていないということによって、一体地域社会にかかわることは何でも自己決定できるんだろうかと、あるいはできないことがあるのであればそれは何なのかと、そういう部分が明確になっていないということもございますし、先ほど申し上げました条例制定権も、保障はされているけれども法律の範囲内でしか許されていないという、こういう部分があるわけでございまして、これらの部分をどう強化をしていくかというのを現憲法下でできるのか、それとも憲法改正が必要になってくるのかというのは、これはきちっと議論をしていく必要があるんではないかなというふうに思っておりますし、地方政府の自立を目指す司法権の保障までもしていくということになれば、当然のこととして憲法規範上の現在の制約を取り除くための憲法改正は当然視野に入ってくるんではないかなというふうに思っています。
 ただ、現在の我が国の中央集権的に発展をしてきた中央と自治体という関係からいって、先ほどから補完性の原理という話が出ておりますけれども、ヨーロッパで発達をしてきたこの補完性の原理を軸にして、地方自治体の住民民主主義や地方自治が今まで保障されてこなかったという、そういう側面からいえば、住民の自治意識というのはかなり意識的にはまだまだ弱い、国への依存関係の方が強いと。
 そういう状況の中に一挙に、私が言うような独立性を保障することまで踏み込めるのかどうかというのは、これは議論のあるところだろうというふうに思っておりまして、そういう観点から申し上げますと、当面、行政権の拡大を図りつつ、住民民主主義の発展過程に合わせて、将来的には独立原則に基づいた憲法改正も視野に入れていくべきではないかと、そういうような考え方を持っております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 白浜一良君。
○白浜一良君 公明党の白浜一良でございます。
 いろいろ議論されたと思いますが、私はこの地方自治に関しまして二点だけ意見を、私の意見を述べたいと思います。
 一つは、これはもうよく言われていることですが、憲法にはこの地方自治がたった四条しか規定されていないわけでございまして、まして、その中に「地方自治の本旨」というふうに書かれておりますが、確かに団体自治と住民自治と、こういうふうには言われているわけですが、その中身が具体的に明示されていない、これはよく言われていることでございまして、そういう意味で、今後の日本の国の形を作る意味でも、また自主的なこのいわゆる地方の自立ということを考える意味でも、もう少し具体的に明示をすべきじゃないかというのが私の意見でございまして、そのためにこの地方自治の原則として考えなければならないことは、一つは、国が地方自治体それから地域住民の意見を尊重するという、そういうことが内容的になければならないということが一つでございます。それから二つ目には、地方自治体は、自立ということも大事でございますが、同時に責任という原則も持つべきだということでございます。それから三つ目は、財政基盤を確保するため財政的自立を明確にすると、こういうことがやっぱり内容的にきちっとしていかなければならないと私は思うわけでございます。
 それからもう一点意見を述べたいことは、いわゆるこの地方自治の二層制の件でございます。
 確かに都道府県ということと市町村という二層制で地方が成り立っているわけでございますが、私の個人的な考えは、もう少し日本の歴史を踏まえてこういう地方というものを組み立てていくべきだというふうに考えております。
 と申しますのも、日本の歴史の中で地方というものが意識されたというか確立されていく過程というのは、当然、自然にそういう集落が形成されていくわけでございますから、農村ができたり山村ができたり漁村ができたり、そういう集落ができてまいりましたけれども、やっぱり一つの国家という形態の中で地方が確立されたのは律令体制が確立されていく過程でございまして、まあ私が言うまでもございません。皆様方よく御存じでございますが、律令体制の中でその地方のつかさとして国司が置かれて、播磨の国、摂津の国、そういう国が作っていかれたと。その中には当然、漁村もあれば農村もあれば山村もあればという、そういう発生過程がございます。
 それから、武士社会になりまして、特に江戸時代でございますが、今度は城下町を中心とした藩というものが形成されたわけでございます。そういう中でいわゆる明治維新が起こって、いわゆる近代国家の形としての日本が形成されたと。当然そのときは、中央集権国家を作るのが最大の目的でございましたから、例えば都道府県の形成にしても極めて恣意的に作られたわけですね。どういう形でこの地方を束ねるのが中央集権国家としていいか、まとめやすいかということで、当時の官僚たちが考えまして、私よく例示するんですが、例えば兵庫県という県がございます。昔の国でいいますと、摂津の国があり、播磨の国があり、但馬の国があって、丹波の国があって、そういう、昔の地域でいいますと、そういうところが全部合わせて兵庫県という県が作られたと。市町村にしても、まあそういう集落そのものが市町村になった場合もございますし、昭和の合併も含めて、そういう幾つか集まって市町村を、今日の市町村を形成したと、こういう経過もございますが、それぞれ、その地域地域の意図で形成されてきているわけでございます。
 ですから、私は、今市町村合併がいろいろ行われておりますけれども、基本的に大事なことは、まず基礎的自治体をきちっと確立していく流れが大事だと思うわけです。
 例えば、何か、今回新潟の地震で大変被害に遭われた方は御苦労されておりますが、もし災害が起こっても、その災害に対応できないような自治体ではこれは意味がないわけでございまして、住民のいろんなニーズにこたえられるような、そういう、別に私は人口とかそういうことを言っているわけじゃございません。そういうことができるのが基礎的自治体でございまして、そういう意味では、当然そこに行き交う人の交流とか含めて、またその地域の歴史も踏まえてきちっとしたこの市町村合併が進められるべきだと。そして、この基礎的自治体というものをきちっと確立していく流れが必要だと私は思います。
 そういうふうなことがきちっとなれれば、当然、恣意的に作られた、百年以上の歴史はございますけれども、この都道府県というのはいかがなものかと、それでいいのかどうかということが議論が出てくるわけで、私は、余り、道州制がいいということで上から作っていくという発想よりも、基礎的自治体の流れをしっかりくみ上げて、そこで当然都道府県の役割というものは極めて限定したものになっていくわけでございますから、もう少し広域的な、そういう二層制の在り方というものを考えるべきだということが私の意見でございまして、憲法に明記する地方自治を考えるに当たりまして、私の二点にわたる意見を述べさせていただきました。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 次に、井上哲士君。
○井上哲士君 先ほど来、地方自治の規定についての様々な御発言がありました。先駆的であるという評価、良くできているという評価もございました。一方で、規定があいまいであるとか、幾つかの課題を明確にするべきだという御意見もありましたけれども、先ほどの指摘もありましたように、その基本は行政権限の拡大に属することかと思います。
 いずれにしましても、こうした評価にかかわらず、現状の地方自治に対する問題点も共通して出されたと思います。私は、そこには、三割自治とか一割自治とかということも言われる言葉にありますように、権限や財源も十分でなく、国の下請のようなことをさせられているという現状がある。そうであるならば、憲法の規定を変えるのではなく、この憲法に示された地方自治の本旨をどう充実をさせていくのか、このことが今求められていると思います。
 政治の在り方と同時に、地域から今地方自治の充実ということで営々として営まれてきた努力にも非常に注目をするべきではないかと思います。市民オンブズマン活動というのが非常に地方自治体でも活発になりまして、税金の使い道の住民によるチェックということが広がってまいりました。また、自治体を揺るがすような大問題は自分たちで決めるんだという住民投票の動き、住民が主人公の地方自治体における住民参加の様々な仕組みなどなど、注目されるべき動きが今大きく広がっております。
 こうした住民の側から地方自治を充実させていく努力、これに注目をし、更に援助もしていく、このことが必要ではないでしょうか。その一つとして、私は、地方自治における平和事務、平和行政、このことに着目をしたいと思います。
 地方自治体による平和事務遂行の言わば憲法上の源泉は、前文に定めております住民の「平和のうちに生存する権利」、これに求められると思います。その下で、一つは、自主的な法令解釈権に基づく国に対する見解の表明というのが自治体によって行われてまいりました。また、国の計画、立法手続への参加ということも行われてまいりました。
 さらには、地方自治体による宣言、条例などの制定ということが私は大変重要だと思います。
 一九五四年のアメリカによるビキニの水爆実験をきっかけに、全国の地方自治体で、原水爆禁止の決議運動の進展を背景にしまして、八〇年代以降、いわゆる非核自治体の宣言の運動が急速に進行をいたしました。これは、私は、我が国の自治体が新たなこの非核平和に関する行政施策を編み出して、それを現代の自治体行政の一形態として位置付けてきたというふうに思います。
 さらに、一歩進んで、いわゆるこの平和行政条例というものを作る自治体も出てまいりました。東京都の中野区であるとか沖縄県の読谷村などでこの条例が作られましたけれども、その基本原則を、「世界の平和を求める区民の意志を表明した憲法擁護・非核都市の宣言の精神に基づき、日本国憲法の基本理念である恒久平和の実現に努めるとともに、区民が平和で安全な環境のもとに、人間としての基本的な権利と豊かな生活を追求できるよう、平和行政を推進する」と、中野区の条例でありますけれども、このようにうたわれてやられております。
 さらに、こうした事務が、基本的には非権力的な事務にとどまっておりますけれども、権力的な平和行政といいましょうか、これを可能にする在り方として、一九七五年に神戸市議会で全会一致で行われた核兵器の搭載艦艇の神戸入港拒否に関する決議、いわゆる神戸方式というものがございます。港湾管理者たる神戸市が内規を設けて、外国艦船が神戸港に入港を希望するときには当該国の在日公館から非核証明を提出することを求めるというものでありますけれども、これ以降、アメリカ軍艦は神戸港に一隻も入港していないという状況がございます。
 こういう地方自治体の平和事務というのは、憲法の平和主義及び地方自治の原理に根拠を持つ総合的な、多様な事務として現憲法の下で新しい発展をしてきたわけで、こうした様々な地方自治体側、また住民側からの地方自治を充実をする努力、このことに今大きな着目をして発展をさせていくべきだと申し述べまして、意見を終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、田英夫君。
○田英夫君 今、日本で、憲法のこの第八章の規定にもかかわらず、地方自治が守られているだろうかと。まだまだ全く不十分だと言わざるを得ないと思うんですが。
 例えば、中央の省庁によってある地域に公共事業のものを造るというようなことがあって、それに対して地域住民の皆さんが反対をすると。結局は司法の場に訴えるというようなことになる場面がしばしばあるわけですね。この場合に、一体国会として、お互いに議論をして、議論をすべきだと思いますけれども、基本はどっちだろうと。それはやはり地域住民の皆さんの意思を尊重するということが基本だろうと思いますが。
 例えば、私の体験したことで言えば、長良川に河口堰を造ると。建設省、水資源公団が、当時発展途上にあった工業に対して工業用水を供給する必要があるからというのが一つの理由でありました。同時に、自然災害から守ると。こういうことであったにもかかわらず、建設計画の間に既にその地域では工業用水を必要としないという事実が起こってきた。
 それから、いわゆる治水対策として有効であろうかということに対して地域の住民の皆さんが具体的に言われたのは、伊勢湾台風のときに、今できているその河口堰、計画されていた河口堰の一つ上に国鉄の、当時の国鉄の鉄橋があった。それで、伊勢湾台風のときに高潮と同時に押し寄せた海の水のために、左右両岸の堤防が決壊をして大災害をもたらしたと。それよりも更に大きな橋を架ければ、まあ河口堰を造れば、その場合にはもっと大きな被害になるだろうと。体験上、地域の皆さんは反対をされたんですけれども、政府は、中央省庁はそれを押しのけて今できておりますね。
 あるいは、もっと今の現在の問題でいえば、沖縄の米軍基地の問題、これは当然、国の政治の中で現在のようになってしまったことは事実であります。しかし、そのために地域の住民の皆さんが大変な苦悩をしておられる。こういう問題についても、やはり地方自治ということの基本の上に立ってもっと考えるべきではないか。今、沖縄の皆さん、知事の皆さん、知事を含めてですね、苦悩しておられる。こういうときに我々はどう考えるべきかということを、やはり地方自治というものの大切さをもっともっと考えるべきではないかなと。例を挙げれば切りがありませんけれども、そんな感じを持っております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 各会派を一巡いたしまして御発言をいただきましたが、他に御意見のある方は挙手をお願いをいたします。
 鈴木寛さん。
○鈴木寛君 はい、ありがとうございます。
 民主党・新緑風会の鈴木寛でございます。
 我々民主党は、憲法の在り方を考えるに当たりまして、ポストモダンの時代における憲法とは何かという問題意識を持って議論をしております。
 ポストモダンの一つの様相といたしまして、ハイパーコミュニケーション社会の到来ということが挙げられようかと思いますが、その観点から、今日の松井議員の意見に加える形で少しお話を申し上げたいと思います。
 以下は私の私見でもございますので、党全体の見解ということではございませんので、それは事前にあらかじめお断りはしたいと思います。
 今日、多くの委員の先生方から補完性の原理についての言及がございました。私も、この補完性の原理を最大限尊重するべきであるという見解については全く異存がないわけでありますが、そもそも、この補完性の原理とは何かということを改めてきちっと思い起こしたいわけでありますが、例えば、補完性の原理を議論する際によく引用されます、一九三一年のローマ法王のピウス十一世の言葉が時々引用されます。そのお言葉によりますと、個人が自発的にかつ自分で処理できる事柄を共同体が個人から奪ってはならないのと同様に、より下位のグループが十分処理できる事柄をそこから取り上げ、より上位の共同体に与えてしまうことは不当であり、かつ社会の秩序を大きく混乱させてしまうというくだりがございます。
 私は、ここで問題にしたいのは、このローカルという英語を日本では一義的に地方というふうな訳し方をいたしておりますが、このピウス十一世の言葉でもお分かりのように、共同体という言葉が使われているということを我々はきちっと注目をしなければならないというふうに思うわけであります。
 すなわち、従来の社会といいますのは、リージョナルコミュニティーとインタレストコミュニティーというのはほぼ同義というふうに考えてよかったというふうに思いますけれども、正にポストモダンにおけるハイパーコミュニケーション社会が到来をいたしますと、皆様もよく御存じのように、高度交通体系の整備は急速に進んでおりますし、これは一九四五年時点から比べても圧倒的に進んでおります。それから、情報通信網の整備も、これも圧倒的な飛躍を遂げているわけでありまして、そのことによっていわゆるインタレストコミュニティーが必ずしもリージョナルコミュニティーと同義ではない。要するに、我々の社会生活を支える重要なコミュニティーとしてリージョナルなコミュニティーとインタレストコミュニティーと、二つのコミュニティーが存在するということを我々はきちっと認識をすべきだろうというふうに思います。
 そうしましたときに、この補完性の原理というのは当然リージョナルコミュニティーの議論について適用されるべきであるという議論は、これはもう当然のことでありますが、同時に、インタレストコミュニティーについても適用されなければならないということの議論を深める必要があるのではないかというふうに思います。
 この文脈から道州制の議論というものを私は擁護したいわけでありますが、基礎自治体といいますのは、正にリージョナルコミュニティーの補完性の原理を貫徹するためにこれは極めて重要な概念でありますが、一方で、インタレストコミュニティーを我々市民としては構成をし、形作ると。こういう要請というものはポストモダンの社会においては極めて重要な要求事項になってくるというふうに思います。
 これは、首都圏に住む我々が正に都道府県の枠組みを超えて毎日のように移動をし、そしてコミュニケーションをしていると。そこに我々は明らかに何らかの、その首都圏の中であまたあるインタレストコミュニティーの、一つ以上のコミュニティーに所属をし、参画をし、そして日々の生活を営んでいるわけであります。
 このコミュニティーが十分にワークをするということはこれからの新しい憲法を作っていく上で極めて重要な要請の一つでもあり、その文脈の中で、ローカルコミュニティーに対してどのような権限と権能を付与していくのかという議論が私は、この地方自治と一九四五年段階で訳した概念の発展型の概念の中でいま一度議論されるべきことではないかということを付言申し上げ、その文脈の中で、道州制の中に多くのインタレストコミュニティーが今現存して、そしていると。そのガバナンス、あるいはそのファシリテートということについて憲法に空白があるということについての問題指摘をさせていただきたいというふうに存じます。
 ありがとうございました。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 松井孝治さん。
○松井孝治君 今の鈴木幹事の御発言、非常に興味深い問題なんですが、私は先ほど、最初に、冒頭にいただいた十五分間で言い漏らしました問題について発言をさせていただきたいと思います。
 それは、具体的には、今の憲法の条文で言いますと、憲法九十二条、九十三条で規定をしている自治体の組織運営の在り方というものをどう考えるかということであります。
 各会派から道州制についての言及がありましたが、その道州、普通、道州制を言う場合には、今の都道府県を廃止して、道州を広域自治体として導入して、それと基礎自治体から自治体が構成されるというふうに考えるパターンが一般的だと思いますが、そこの役割分担についていろいろ議論があるわけですが、それについての組織、その広域自治体と基礎自治体の組織運営の在り方についてだれがどういうふうに規定するのがいいのかという問題でございます。
 現行のその憲法では、それは基本的に法律で定める、あるいは地方公共団体の長あるいは議会議員というのは公選で行うということをこれ憲法上の要請として位置付けているわけでありますが、この辺りについて、本当に憲法として、国の基本法としてその制度を位置付けるのがいいのか、本当の意味での地方自治の本旨ということであれば、そこは、先ほど私はホームルールという言葉は言及させていただきましたが、そこを地方にゆだねる、州法にゆだねる、あるいはその下での基礎自治体の裁量にゆだねるという考え方があってもいいのではないかと思います。
 これは鳥取県の日野郡というところでしょうか、これは面白い事例があって、公選ではなくて、日野郡民会議というのを設けておられて、これは性別とそれから年齢によってクオータ制で、抽せんで選出された三十人の代表で構成された郡民会議というものを設けておられる例があるそうでございます。
 これは、厳密に法律的な意味での地方公共団体のガバナンスということでないということでこういうことが行われているわけでしょうけれども、実際の、本当に特に基礎自治体が、先ほど来議論に出ているような形で市町村合併が進んでくる中で、地域のコミュニティーのガバナンスをどうしていくかというときに、今のこの憲法が規定しているような、例えば九十三条が規定しているような選挙、公選の在り方だけがその組織運営の在り方として絶対のものなのか。あるいは、逆に言うと、プロの政治家というのがうさん臭いというような、国民のあるいは住民の認識もあるわけでありまして、一般の方々に何らかの、自治体の中でのコミュニティーの運営について、その自治体の裁量の範囲内で住民参加を促すようなやり方があってもいいんじゃないか。
 これは特区制、特区制度の中で志木市などが何度か提案されているようなシティーマネジャー制度というようなものをどう考えるか、あるいはこれは住民投票の在り方としての議論でもありますが、住民発案案件を議会が否決した場合には住民投票によって決着を付けるべきだというような住民発案住民投票制度というようなものを供与するのかどうか、この辺りの問題は全国一律で地方自治制度を議論するのか、地方自治制度の中でも国と広域自治体との関係は基本法たる憲法で位置付けるけれども、その広域自治体と基礎自治体あるいは基礎自治体自身の運営の在り方については、それは憲法上の整理ではなくてその基礎自治体の範囲内で、権限の範囲内でもっと柔軟な制度を導入してもいいんじゃないかという議論があるということは追加的に問題提起をさせていただきたいと思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 舛添要一君。
○舛添要一君 我が国の現憲法では、地方自治、第八章九十二、九十三、九十四、九十五と四条にしかなっていない。このことについて、先ほど森元委員からもありましたように、ある意味であいまいであるし、いろんな解釈を許す。したがって、私が今から述べることは、憲法に書くべきことではないですけれども、この国の形をどうするのかということをやっぱりしっかり議論をする必要がありまして、それを地方自治法という下位規定の中に書くのかどうなのかを含めて、その認識がないといけないと思います。
 つまり、この今の憲法の第八章の規定は、どういう国の形であっても適用できるような非常に抽象的な形のままであるわけですけれども、日本が近代国家としてスタートする明治維新のときには、主として西郷隆盛が頑張りまして、廃藩置県ということをやった。これは江戸時代が幕藩体制で非常に地方分権的である意味であって、薩長は中央政府の徳川とは違うことをやると。
 しかし、近代国家は帝国主義の時代において日本が生き残るためには富国強兵ということとその中央集権やらざるを得ない。どの国もそうであったと、ある意味で。したがって、徴兵制という富国強兵からくる、それはある意味で憲法規定になる。しかし、この国の形については、やはり時代の流れということがあって、今の例えば、これは松井さんの専門でありますけれども、情報通信の発達とかいろんな社会的条件を見ても、どうしてもやっぱり今からの時代というのは地方分権をやらざるを得ない。
 そうすると、私も実を言うと道州制と市町村というような形で大きく、逆の廃藩置県ですね、具体的に言うと、四十七都道府県を廃止して、九州は一つ、四国は一つ、東北六県は一つというような形でやらないと、今の例えば台風や地震の災害だって、地域を超えて出てきているわけですから、やっぱり広域の行政をやらざるを得ない。そういう国の形をきちんと我々が議論をしないで、場合によっては憲法に書いてもいい、しないでぽんと三位一体の話が出てくる、市町村合併が出てくる。したがって、郵政民営化もこれに関係してあるので、道州制で地域分割するのかしないのかということで、郵政民営化やるならやるでも在り方が全然違ってくると思うんですね。
 したがって、日本が今二つに分かれつつある。東京にいれば何もかも郵便局がやっているような機能を代替する機関が全部あるけれども、田舎に行けば郵便局しかないと、こういう状況であるわけですから、この国の形をどうするのかという大きなグランドデザインがないところで、今の政権の下で様々な政策が出てきている。したがって、国民も説明不足であるということがあるわけですから、是非、この点の本質的な議論がない形での目先の議論、私は国の最高指導者はそういう大所高所に立った哲学的、歴史的見解を述べるべきであると、こういうふうに思っております。
 第二点は住民投票絡みでありますけれども、先ほど我が自民党の森元さんが第九十五条は要らないんじゃないかということはありましたけれども、例えば沖縄について日本国家でどう決めるというときには、これは沖縄の県民の同意がなければならないので、これは削除する必要はないし、やはり国と地方との見解のそごのようなことがあったときは九十五条は生きてくると思います。
 しかし、今はやりの住民投票ということについては、大きく言って二つ道があるんです。一つはこれをちゃんと法的に位置付ける、第二番目は住民投票を完全に禁止する。つまり、何が起こっているかといったら、法律の範囲内でと書いてあるわけですから、この日本国憲法におきましてはですね。しかし、現実に住民投票、これは米軍基地の問題であり、原子力発電所の問題であり、産廃の問題であり、いわゆる括弧付きの迷惑施設というものが出てくるときは、基本的にはその地域の人というのは余り賛成しません。
 しかし、日本国、我々国会議員が例えばその日米安保条約というものを国の方針として多数決原理で決めたときには、これは国の政策であるわけです。それと基地の問題。これ、各地域の住民の意見と我々の国会の方針とどちらが重いかといったときには、法律の範囲内でと書いてある以上は、基本的に言うと各省の省令以下の重みしか住民条例に基づくこの投票は持たないんです、法的には。
 しかし、政治的には非常に大きな意味を持って、その住民が示した意思と反対の形での、例えば首長選挙でやって、反対の意見を出した首長は葬り去られる。そうするとおかしなことになるので、明確に住民投票をこの地方自治の中で憲法上ないしそれに関連する法律の、その下位の法律の下で決めるか、ないしはこういうあいまいなことは九十五条に書いてあること。
 それから、今のリコール、地方自治体の議員とか首長のリコールに絡む、ちゃんと地方自治法に決めた住民投票以外は一切禁止するという形で処理をするのか。いずれにしても、この点についてはもっと議論を深めるべきであるというふうに思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 佐藤道夫君。
○佐藤道夫君 先ほどから大変興味を持って、また関心を持って皆さん方の御意見、拝聴させていただいておりました。
 ただし、私、基本的に疑問としたのは、こういう議論を国民の前で展開しまして、国民がどれだけ関心を持って理解してくれるかと。恐らくゼロに近いんじゃないかと、こういうふうにしか思えない。地方自治も大切だと、しかしそれは、じゃ政治家の立場で考えてくださいと、それはあなた方の仕事でしょうというのが返ってくる答えだろうと思うんです。
 私、実はある大学で憲法を教えておりまして、毎年もう十年来やっているわけで、学生たちに憲法についてまずどんな感想を持っているのか、少し条文を読んで、そしてこの場で自分として疑問を持ったことを展開してほしいと、述べてほしいと、こういうことを言いますと、みんなやっぱり真剣に考えてきて、仲間内でも議論をしているんでしょう。そして、彼らが言うことは、何といっても、先生、九条はどういうふうに理解すればよろしいんでしょうかと、いかなる戦力もこれは保持しないと言いながら、自衛隊は、あれは一体何ですかと、もし自衛隊が必要ならば、きちっと法改正をして、憲法を改正して持つべきでしょうと。
 それからもう一つ、政教分離についても学生の大半がやっぱり首をかしげますね。いかなる政党も政治上の権力を行使したり、国から特権を受けたりしてはいけないと、こうはっきり書いてある。そうすると、ちょっと公明党の方には恐縮だと思いますけれども、一体創価学会と公明党の関係をどう理解すればよろしいのかと、憲法上あれは合憲なのかどうなのかと。自民党と連立を組んで、そして閣僚を派遣していろんなことをやっておる、あれは政治権力の行使ではないのかと、こういう疑問を持つようです。
 それから、さすが学生ですから、私学助成、私学共済、あれを大学の、恐らく事務職員からでも教わってくるんでしょうかね、こんなややこしい規定があるんですよと。そして、何と何と全国の大学で五千、何千億ですか、年間ね、私学助成が入っているのは。あれについての政府の説明なんか幾ら聞いたってだれも分からないでしょう。日本にはもう私学学校はないと、みんな国の規定に従って運営しているから、あれは公の支配に属している学校なんだと、教育に関する事業なんだというのがずっともう政府の説明で通ってきているわけですよね。
 ですから、学生たちも、もし本当に私学助成が必要ならばはっきりともう八十九条は削除してはどうなんでしょうかというふうに思いますよと、こういうことなんで、法律の本当の理解者というのはそう最後はなるわけですよ。決めるのは国民ですからね、国民の前に今私が言ったような疑問ほかにもたくさんあろうかと思いますし、今の現行憲法をめぐって。何しろ不磨の大典と言われて、明治以来憲法典というのは一回も改正してないんですから、積もり積もってその間、行政当局あるいは政府のインチキ解釈が挟まっちゃってどうしようもなくなっているわけです。
 憲法九条だって、政府の説明ですと、何、集団自衛権は認められないけれども個別的自衛権は、あれは自衛権の行使だ、要するに正当防衛なんだと、刑法の正当防衛からきているんだというふうな、国家の行為について刑法を適用して、これは正当防衛だから認めるとか、そんなあほな、ばかな考えはないわけで、もう少しみんなが、国民一人一人が憲法を自分の問題としてとらえて、そして職場でも家庭でも今の私挙げたような問題、私学助成どう考えたらいいんだとか、憲法九条がもしどうしても自衛隊が必要だと思えばどう考えたらいいんだろうかということを議論をして、その上に積み重ねていくことが大変大事だろうと思いまして、こういう議論を幾ら繰り返していても国民はそっぽ向くというのか、関心を示してくれないと思うんですよ。
 率直に言いまして、こういう改正議論の進め方についてもう少し考えていただければなと、こう思いまして、私の感想を述べさせていただきました。
○会長(関谷勝嗣君) 他にございませんか。
 今日は、今の時間は地方自治と住民投票制の問題でございます。そのことに関しまして、どうぞ、鈴木さん。
○鈴木寛君 申し訳ございません、手短に。
 要は、今日の議論は市民の意思というものを正に市民の利益に一番近いところの地方自治にどう反映させるかと、その中で、舛添先生も住民投票について決めろと、こういうお話だったと思いますが、全く私も同感でございます。
 それで、今、佐藤先生のお話もございましたので、一つ更に検討の視点として加えるべきは、要は市民の意思の何を、だれに、どう代表させるかと、その方法を直接制と間接制等の、どういうふうなデザインをしていくかということだと思うんですが、私、申し上げたいのは、アメリカの場合は、州は知事だけじゃなくて司法長官も教育長もあるいは場合によると財務長官とか総務長官とか、いろんなその例えば今の若い人たちが関心を持つといっても、これだけ選挙があれば多分いろいろ関心を持つんだと思うんですね。その選挙意思ごとに、今回は教育長官を選ぶのかとか、今回は司法長官を選ぶのかと。そうすると、正にその州のそのテーマ、イシューに応じてそれぞれの意思を反映するという意味で、いろんな意味でのこのチャネルが非常に多様で、きちっとこの市民意思とその反映というものに、直接民主制の観点からも間接民主制の工夫という観点も、両サイドから非常によく考えているというか、まあこれは歴史の積み重ねだと思いますが、やっぱり、やはり日本のいわゆる地方自治を考える場合にも、正にその市民意思を人に期待される場合、それから住民投票のようにその政策の中身に反映させる場合、いろいろあろうかと思いますが、そこの正につなぎ方といいますか、パイプのその渡し方というものについてもう少し精緻な突っ込んだ議論というものを必要としていくと、今の佐藤議員のその御関心にも少しおこたえられると思いますし、舛添先生の御議論を更に深められるのではないかというふうに思いましたので、済みません、お時間いただきましてありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 舛添さん。
○舛添要一君 先ほどの住民投票の議論に一つだけ付け加えさしていただきます。
 私がその法的な枠組みにおいて住民投票をどう位置付けるかという問題を提起をしたんですけれども、実を言うと、公職選挙法の厳しい規定の下において我々の選良たちは選ばれます。しかし、住民投票は一切、そういう公職選挙法よりはるかに緩いというか、何の規定もございません。買収しようが、戸別訪問しようが、どういうものを配ろうが一切ありません。その下において出された結果と厳しい公職選挙法の下で行われた結果とを同列に論じていいのかと。
 つまり、何が申し上げたいかというと、ある町議会においてその議員たちが正当に選ばれた間接民主主義において下した決定と、その住民投票によって公職選挙法の網の掛からない形で自由な、つまり奔放な買収あるいは何であれ、腐敗あり、そういうことでやった住民投票の結果とをどちらを重く見るんですかといったときに、それがいわゆる世論レベルでは直接民主主義の方が重いんではないかということを言われることに対して私はやっぱり一定のこの疑問符を呈しておかなければならないと、そういう問題意識もあったことを付け加えておきます。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 他にございませんか。
 他に御発言もないようですから、意見交換はこの程度といたします。
 午後三時五十五分に再開することといたしまして、休憩をいたします。
   午後二時四十三分休憩
     ─────・─────
   午後三時五十五分開会
○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 「財政」について委員相互間の意見交換を行います。
 まず初めに、各会派から一名ずつそれぞれ十分以内で御意見をお述べいただきたいと存じます。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は順次御発言を願います。藤野公孝君。
○藤野公孝君 前半の部分が地方自治なり住民投票でございましたが、後半冒頭、これ財政に関してということで、自由民主党藤野公孝でございます。
 財政に関しましては、現行憲法第七章ということで、八十三条から九十一条までの九か条について充てております。
 先ほど、まあ地方自治についてもそういうのがあるから、地方自治の発展にいろいろ大きく憲法の規定が貢献してきたというふうなお話が前半の部分にありましたが、この財政につきましてもまずもってそういう意味でこの九か条を充てると。
 さらに、予算に関しましては、衆議院の先議等についての規定が六十条にありますから、何も九か条だけではなくてもっと多くなるわけでございますが、近代国家成立への過程を見ましても、王制から近代国家へのプロセスの中で、課税ということに対するチェック、歯止めというふうなことが一つの政治的な大きなイシューになってきた。一二一五年のマグナカルタ以来、いろいろ近代憲法の一つの大きな骨格としてこの租税というか課税の問題が出てきた。それを大きく包含した財政という問題について我が憲法も第七章ということで充てているということで、今後、憲法改正を考える場合でもこの規定、規定ぶりといいましょうか、を更に充実強化させていくという方向性で議論すべきだという基本的な考え方をまず申し述べたいと思います。
 持ち時間が十分ということでありますので、いろいろこういう点はどうかというようなことを考えたんですが、大きく三つぐらいに絞って、ポイントを絞って私の考えというか意見を申し述べたいと思うわけでございます。
 まず第一点といたしまして、現在のこの規定を見ましても、どちらかというと手続的な規定が多いわけでございますが、昨今の財政に関します現状、特に国における赤字、財政赤字の増大、五百兆にもなんなんとしているというような状況。あるいは地方公共団体の財政も二百兆とか、こういうこと。さらには、政府が、二〇一〇年代前半というんですかね、においてプライマリーバランスを黒字にしようと努めようとしている。そういう現実の、法律論ではなくて現実の実態を踏まえまして、私は、今申しました手続規定の中に一つの規範性というようなものを財政に関しても持ち込む時期に来ているのではないかという点についてまず申し述べたいと思います。それがいわゆる租税法定主義という面での中身の充実化ということにもつながっていくんじゃないかという趣旨でございます。
 財政におきます健全性の確保あるいは財政規律といったものにつきましては、諸外国の例を見ましても、そこにはっきりと明定すると。例えば、均衡予算原則といったような本当に強い形で盛り込んでいるところもございますし、もう少しふわっとした形で規範性を盛り込んでいるところもございますけれども、そういう諸外国の例を見ましても、また、日本の今申しました現状、それから今政府も取り組んでいるようなそういうプライマリーバランスの確保といったようなことを総合して考えまして、この財政の規律、健全性の確保という点につきまして、具体的な案文まで私、今ちょっと御提案申し上げられないんで恐縮でございますけれども、そろそろもうそうした方がいいんではないかと思うわけです。
 ただ、均衡予算ということに余り、均衡財政ということに余り固執しますと硬直化を招くと。これまでも長い間大きな議論の中で、憲法にまでそういうことを書くと大変手足を縛るといったような慎重論も強かったと認識しておりますけれども、今後、我が国が二十一世紀どのような国の形あるいは国と地方の関係を築いていくかということの中で、国が地方のとにかく全部面倒を見ていくんだということになりますと、そこにはやはり国はある程度借金してでもという思想が強いと思いますが、やはりある程度の格差を認めつつも、それぞれが自己責任、自立の立場からやっていくということになれば、やはりこれは国だけではなくて、国と地方公共団体、場合によってはそれ、道州制であれば道とか州とかいうことでありますが、その両方にわたりましてこの規範性、規律性といったものを自己責任の具体的な財政における表現として憲法にも明記することが、かえって諸外国に対しても、あっ、日本の国というのはこういうことで財政の健全性確保ということを国、地方を通じ目指しているなということにもなりますし、特に、今、三位一体等で議論になっておりますような問題につきましても、こちらの財政の方の面からも一つの国の姿勢を、形を示すことができるのではないかと、このように考える次第でございます。
 これまでも、財政につきまして、これがほとんど細かいことにつきましては財政法等、あるいは地方税法も含めて財政法等にゆだねられて実行、現実的な執行、こういったものにウエートを置いてきた関係上、余り細かなことまで憲法に書くことはいろいろ制約、硬直性を招くという心配はあるわけでございますけれども、まずこの規範を、規範性についての規定を置くことが優先して考えられるべきではないかと、このように思うわけであります。
 二番目に申し上げたいことは、この手続規定が基本になっている中で、やはりどうしても今回この手続面で大きな穴があるなと、欠落部分があるなと思いますのが、暫定予算に関する根拠規定がないことであります。
 何も今、根拠規定がないのが暫定予算制度だけではなくて継続費等についてもないんでありますが、あえてこの暫定予算制度についての根拠があった方がいいのではないかと思う趣旨は、現在、予算につきまして、先ほども申しました第六十条の後段におきまして、予算がいろいろもめて、参議院が衆議院と違う対応を取ったり、あるいは否決したりいろいろしたときに、三十日以内に成立しない場合、議決しない場合は衆議院を優先する等の規定を見てもお分かりのとおり、ある程度時間が経過することを前提にしております。その時間が経過した結果、新年度発足までに予算が通らないことは当然あってはほしくないことでは、望ましいことではありませんが、憲法も想定しております。
 それは憲法で、その六十条の後段の規定の結果として、いろんな事態が起きて延びるということは想定しておりますし、また、不測の事態ということにつきましては、第八十七条の予備費の規定も、正にその条文が書いてありますように、予見し難い支出が起こったときのためのその予算の手当てということで、予見し難いという部分についても憲法で、その内容に、支出の内容についての規定があるわけでございます。
 しからば、やはり空白という重大な事態が招来する暫定予算につきまして、やはり何らかの根拠があった方が、今のように、法律レベル、財政法レベルだけで対応するのはいかがなものかと。法律上、憲法として若干、欠陥とまでは言いませんが、問題があるのではないかと思う次第でございます。
 手続の面に関しまして、二番目の問題提起として申し上げた次第でございます。
 三番目は、この第七章で一番議論になってきた、いわゆる公的助成と公の支配の問題、すなわち第八十九条の後段にかかわります規定の問題でございます。
 先ほど佐藤先生からもコメントがございましたが、長年にわたり、具体的には私学助成違憲論争というような形で議論がなされてきましたけれども、この公の支配に属する、あるいは属しないというのはどういうことか、あるいはどの程度なら属すかというような疑義があるから、この疑義がないように明確にしたらどうかという議論もありますが、私は、日本のいわゆる高齢化社会を迎えるこの二十一世紀の憲法の在り方としましては、慈善とか教育、あるいは博愛という事業、これを民間の支援の下にやっていかなきゃいけないという重要度はますます高まっていくし、民ができることは民へといった方向も国民のコンセンサスがあると思われますので、明確になるように修文するという立場ではなくて、この後段の部分については削除すべきというふうに思います。前半の宗教に関する部分は存置するという立場でございます。その方が今後の日本の国の在り方にも適合するんではないかと思います。
 その他、決算審査等についてのもっとそれを重要視したらどうかというような立場もございますが、紙も参って、早く切り上げろということなのでここで切り上げます。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。今日は余り時間がございませんので恐縮でございました。
 次に、松井孝治君。
○松井孝治君 民主党の松井孝治でございます。
 この財政の問題につきまして言うと、現行憲法の八十三条に財政民主主義の規定が明確に規定されておりますが、残念ながら、現実、この財政民主主義が貫徹しているかというと、そうなっていない。そこをしっかりと憲法議論においても規定をし直す必要があるんではないかと考えています。これは二院制の小委員会でも議論するべき話でありましょうが、やはり私は、この参議院の将来の役割の一つというのは、財政コントロールをしっかりやるということが参議院の機能の大きな役割を担うんではないかと思っております。
 具体的に言うと、先ほど地方自治の時間にも申し上げましたけれども、財政調整、地方間の、道州制の導入という議論とも併せて行われますが、地方間の財政調整の機能というのは国としては当然必要な機能でありますが、これについて、現状のように霞が関の一部局が行っているというやり方がいいのか、それとも、やはりこの財政民主主義の観点から一院がしっかりとそれをチェックするという機能を明確に憲法に位置付けてはどうかというのが一つの論点であります。
 もう一つの論点は、決算の院あるいは財政のチェックの院としての参議院の機能強化を図るべきではないかということでございます。
 その観点からいうと、参議院が執行の一翼を担いながらチェック機能を十分に果たせるかどうかという点については十分一考を要するわけでありまして、例えば国務大臣を参議院から出すのかどうかとか総理大臣の指名権との関係も論点となってこようと思います。
 また、私は決算委員会にも所属をしておりますが、憲法機関である会計検査院の在り方についての論議もあろうと思います。
 諸外国の例でいっても、例えばイギリスの会計検査院というのは長らく大蔵省の外庁でありましたが、今、行政府から独立して、院長は、会計検査院の院長は下院役員であるというような、議会に近い存在にしているとか、スウェーデンでも議会に一本化をしたというような例もございます。
 今の会計検査院の機能については、種々の評価があろうと思いますけれども、やはり霞が関と実際交渉しながら検査報告を作り上げているという実態を見る限りにおいて、やはりこれを議会の下に置いてもう少し強力な権能を、もちろん憲法機関としての位置付けはそのままでいいと思うんですが、議会の下に、特にこの参議院の在り方と関連して、会計検査院の機能をきっちりと強化をしていくべきではないかと思っております。
 その他、幾つかの論点をもう時間もございませんので端的に申し上げますが、例えば決算の位置付けでありますが、現行憲法九十条の規定、提出扱いになっていますけれども、これが、決算が単に提出されていいのか、あるいは議案としてしっかりと審議が、もう少し強制力を持つ、あるいは予算との関係での、決算を通さないと予算が通らないようなリンクを持たせるような形で拘束力を、決算にもう少し強い拘束力を持たせるべきではないかという論点があろうと思います。ちなみに、フランスでは決算は法案、ドイツでは決算は議案、イギリスが報告となっているようであります。
 それから、今、決算は政府を通じて間接提出になっておりますが、これもやはり直接提出にするのがその意味では自然な形ではないか。これも、ドイツ、イタリア、フランス等で基本法改正あるいは憲法改正によって提出方式が変更されているというふうに伺っております。
 それから、決算報告というのが、今回の臨時国会でも決算が報告されるわけでありますが、これが年次報告ということになって、できるだけ前倒しをするということで、各会派の努力によって今年は十一月二十日以前に提出されるということになっていますが、これについても、年に一回で本当にいいのか。より随時多数の報告を議会に対して行うようなやり方にすべきではないかと、これは憲法上の問題ではないかもしれませんが、考えております。
 ちなみに、アメリカの会計検査院、GAOは年間約千二百件の報告をいたしておりますし、大体諸外国でも非常にプログラム評価を中心に随時議会への報告、決算報告というのはなされていると聞いております。
 それから第四点として、決算のやはりスピード化というのが必要でありまして、この点については現在相当改善がなされていますけれども、やはりもう少し次の年度の予算編成にダイレクトに参考になるような形で、随時プログラム評価のような形で決算報告がなされるべきではないかというふうに考えております。
 ちなみに、イギリスでは、年間数十件の決算報告がなされて、それを受けて行政省庁がきちんと報告を議会に行うというような形で財政コントロールが行き届いているわけでありまして、そのような形を日本の参議院でも取れないか。そうなってくると、これは例えば会期、国会の会期を一元化して、衆議院、参議院、同じような会期でいいのかどうか、参議院はむしろ例えば通年化をして、随時報告を受けてチェック機能を果たせるようにするような改革を行うべきかもしれません。こうなってくると、財政ということだけではなくて、国会という章の改革にも関連するわけであります。
 決算とダイレクトにはつながりませんけれども、今の会計検査院を含めて申し上げれば、国会全体としてのやっぱり調査能力あるいは政策評価能力をどう高めていくかということが大きな論点になろうと思います。今も調査室等々、精力的には働いていただいているわけでありますが、より国会全体として、法制局や調査室あるいは国会図書館も含めて、この調査能力あるいは政策評価能力というものを包括的に再編強化をするということも、これ決算の院としての参議院の機能強化のために必要な点ではないかと思います。
 その政策評価、決算機能の強化以外で残されたわずかな時間で三点申し上げたいと思います。
 一つは、これは決算ではなくて、むしろ、決算の院参議院だとすれば、衆議院の課題かもしれませんが、国会における予算の修正権がどれだけあるかということが憲法上の論点としても時折提起される点であります。この点について、従来の政府解釈的な国会の予算の修正権というのは非常に限られた枠内でしかないというようなことでいいのかどうか。アメリカなんかでは議会予算局というのがあって、行政と議会と、それぞれが予算についてある程度審議する独立の組織があってもいいんじゃないかというようなことについてどうとらえるかということは、是非本院で検討すべき点であろうと思います。
 第二点は、現行の憲法八十六条に規定する単年度主義の問題でありまして、これは、財政規律は強化しなければいけませんから、単に複数年度予算を認めるということで規律を弱めるということではないですが、逆に単年度主義の結果、無駄な事業が年度内処理をされるということで無駄遣いが行われているという側面もあるわけですので、きちっと財政民主主義を貫徹するという前提の下で複数年度予算の導入に道を開いていくことが必要ではないかと思います。
 最後に申し上げたいのは、今、藤野委員からもお話がございました、先ほどの地方自治のところで佐藤委員からもお話がありました公の支配であります。
 今の小泉政権の一つのモットーでもありますが、民間でできることは民間にと、あるいは公、公共政策の担い手が国だけではなくて地方自治体あるいはNPOやNGO、更に言えば株式会社のような営利組織が公共政策の一端を担うという時代になってきているのが現実だと思います。そういう中で、この憲法八十九条の対象としている領域というのは、実は今後の公共政策の非常に多くを占める社会福祉や教育というような分野をカバーしているエリアでありまして、それを今のような形で公の支配に属している場合のみ公金の支出を認めるという形、これについてもいろんな趣旨、諸説がありますけれども、財政の規律を確保する、一定の歯止めを掛けるという意味においては、これを、現行の政府が求めるほどの強い意味での、中央省庁が法律に基づいて非常に厳格に管理をしているものに限って公金の支出を認めると解するというのは、財政規律の確保の観点からいっても本当にいかがなものなのか。
 よく言われるのは先ほども議論が出た私学助成の問題でありますが、例えば私学助成、あるいは教育の分野で言われるところのバウチャー制の導入のようなことを議論するときに、今の政府解釈、あるいはこの憲法の八十九条の規定を読む限り、そういった政策というのは我が国では取り得ないという形になってしまう。これが本当の意味で二十一世紀の日本にとって必要な規定なのか、あるいは解釈をそれは見直すということによって対応するのか。この点は、是非、本院の憲法調査会でも議論を深めるべき課題だと考えております。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 続きまして、山下栄一君。
○山下栄一君 私は、まず、先ほど来問題になっておりますこの八十九条ですけれども、繰り返しになるようなことになりますけれども、確かにこの私学助成と憲法との関係については、やはり見直す、場合によっては削除すべきだというふうに思います。憲法の言葉と運用の実態が余りにも懸け離れていると。もちろん公的支配という言葉の解釈の在り方もありますけれども、非常に分かりにくい規定になっていることについては、やはり見直すべきだというふうに思います。
 私学助成は、この私学というのを、学校法人だけではなくて、もう少し私学助成の対象をNPO法人まで広げてもらいたいというふうな意見もあるぐらいで、この教育分野の役割が、特に民間といいますかの使命、役割が非常に高まってきているというふうに思いますし、本来、教育に携わる者が公務員という立場でいいのかという、そういう根本的なことも含めまして議論されるぐらいですので、私学の役割は非常に、どんどん高まっていると。四年制大学の四分の三、短大の九割、そしてまた高校もどんどん、三割から四割へと、県によっては半分以上が私学というふうなそういうところもありますし、高まる一方であるということからも、この文言はもう分かりやすくすべきだというふうに考えます。
 それから、これも先ほど来様々な意見が出ておりますけれども、会計検査院の役割ですが、この会計検査院は憲法上の地位が与えられていると、その割には非常に影が薄い存在であったというふうに思うんですけれども、最近はちょっと税金の無駄遣いという観点から非常に国民の関心も高まってまいりまして、国民の会計検査院に対する期待が高まってきているというふうに思うわけですけれども、その割には余り使命が果たせて、いまだに使命が果たせていないのではないかなと、このように思います。
 三権、統治機構からの管轄外といいますか、そういう地位を与えられている、検査官の身分保障についても裁判官に準ずるような、そういう規定が会計検査院法にもあるわけですけれども、こういうことは法律というよりも憲法に明文化してもいいぐらいであるのではないかと、こういうふうに考えております。検査院法の一条には内閣に対して独立の地位を有すると、こういう法律であるわけですけれども、憲法に置き換えてもいいぐらいだというふうに思うわけであります。
 ただ、行政から、特に内閣から独立の地位を有すると言っている割には非常に制約が、特に行政とのつながりの中で制約が多過ぎると。具体的には、検査官また検査院の職員、特に職員ですけれども、公務員の一括採用試験の中から採用されていくわけですし、独自の採用があってもいいという議論もあると思いますし、また天下り先についてもいろいろお世話になっているというふうな実態があるし、人事交流についても、検査官の人事交流、人事交流といいますか、これは検査官自身が特に旧大蔵省出身の方、必ず入っているというふうなこともありましたけれども、これは批判もあり改められているようですけれども、こういう人事交流の問題。
 それから、検査院の指摘の、不当な支出の指摘の金額につきましても、検査院の予算の範囲内で行われているのではないかと言われてもやむを得ないような指摘額。最近ちょっと増えてきているようですけれども、これも、特にアメリカ等と比べますと、余りにも指摘額が毎年同じような金額になっておりますし、この程度でいいのかというふうなことも言われておりますし、細かい指摘が非常に多いという問題点もあるのではないかと。
 こういうことからも、非常に本来の使命が、憲法上の地位を与えられている割には、行政監視も含めて三権への監視のレベルが低過ぎるのではないかという問題点があるというふうに思いますし、検査権限も非常に抑制的といいますか控え目で、自発的な協力がないとなかなか思い切った踏み込んだ検査ができないというこの検査権限の在り方についても、これはもっともっと機能強化という話がございましたけれども、そういう問題点があるというふうに思います。
 決算審査の、特に決算における国会審査の役割、特に参議院の役割が高まってまいりまして、具体的な体制ができ上がりつつあるわけですけれども、この問題につきましても、今もお話ございましたように、内閣を通して国会へ提出する在り方は、やはりこれは見直す必要があるんではないかというふうに思いますし、二院制、特に参議院の独自性、こういう観点からも、この決算審査の在り方については、さらに立法府としての使命、行政監視も含めた使命が非常に役割が大きいというふうに感じております。
 大体以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 続きまして、吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 憲法と財政について発言をいたします。
 初めに、憲法の財政条項の重要性について述べます。
 財政について、日本国憲法は幾つか大事な原則を定めています。憲法八十三条は、国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいてのみ行使されるという基本原則を始め、八十四条の租税法定主義など憲法上の原則は旧憲法の反省に基づくものです。これらの原則は、今日の政治状況、国家財政の状況の下で一層重要になっていると思います。
 こうした憲法の財政状況を見る上で重要なことは、国民主権、恒久平和主義、基本的人権の尊重といった憲法の基本原則に照らしてみることが重要だと思います。
 財政民主主義についてです。
 財政規律と政府の責任について言えば、財政法は、国債の乱発が戦争遂行の重要な手段とされた戦前の痛苦の反省に基づく財政健全化のための規定を設けています。
 すなわち、同法四条一項では、「国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。」と国債の発行を制限しています。また同法五条は、すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、また、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り受けてはならないと定めて、公債の日銀引受けを禁止しています。
 こうした重要な規定があるにもかかわらず、歴代政府によって無視されてきたことが今日の財政危機を招いたと言えます。すなわち、一九六五年度に国債が戦後初めて発行され、均衡財政システムの一端が崩されました。また、七五年度からは、公債発行特例法を制定して歳入不足穴埋めのための特例公債、赤字国債が発行され、その後恒常化してきたのが今日までの経過です。
 現在では、国の長期債務残高は五百四十八兆円、国の一般会計予算約六、七年分に相当する膨大な額に達しています。今、憲法と財政法の精神に立ち返って、財政規律を回復することが重要だと思います。
 会計検査院についてですけれども、憲法九十条二項に基づいて、財政民主主義を保障するために設置されていますが、最近の事例で言えば、例えば警察の裏金問題で、一部警察もその事実を認め、現職警察官、元警察幹部の証言などで明らかにされているのにもかかわらず、会計検査院は戦後一回も警察の不正経理を告発、指摘したことはありません。機密費の検査については会計検査院の機能に大きな制約があります。会計検査院が憲法の規定にふさわしい役割を果たせるよう、今その体制、機能を抜本的に強化する必要があるし、またできると考えます。
 租税法定主義を定めた憲法八十四条と、これと一体を成す財政法の規定は極めて重要です。憲法の下での財政の在り方については、一、直接税主義、二、生計費非課税と負担能力に応じた累進課税、三、申告納税制という原則が曲がりなりにも確立されてきました。これらの原則は、現実社会における経済所得格差を縮小、緩和し、所得再配分機能を果たしたはずのものでした。
 ところが、政府によってこの原則がゆがめられ、累進制緩和、消費税導入を中心とする近年の税制改革は、戦後確立された税の在り方を覆し、強い者はますます強く、弱い者からも厳しく取り立てる制度となり、所得再配分機能を著しく低下させ、ますます大企業、高額所得者優遇の性格を強めています。消費税は、私は、憲法二十五条ともかかわって、生計費非課税の原則を踏みにじる最悪の税だと考えています。また、主権在民の見地に立てば、国税通則法で納税すべき税額が納税者のする申告により確定することを原則とする申告納税制度は最もふさわしい税制度です。しかし、実際には人権無視の強権的徴税がまかり通っています。
 私たちは、いち早く納税者プライバシー権の保障や、税務調査への立会人を置くことなどを求めた納税者憲章の提案をしてきました。税務行政の民主化を求めてきましたが、今や憲章制定は世界の流れになっています。世界の主要国、G8の中で納税者憲章がないのは日本とロシアだけになっており、憲法の民主的原則を保障するためにも一日も早く納税者憲章を制定させる必要があると考えます。
 歴代政府は、戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認をうたった憲法九条の平和原則に反して自衛隊を創設し、また軍事費は今日年間五兆円の巨額に達しています。この中には、日米安保条約上義務のない在日米軍への思いやり予算や違憲のイラクへの自衛隊派兵予算も含まれています。
 日本の財政の現状は、国、地方を通じて、社会保障予算の比率が欧米に比べて著しく低く、公共事業予算に偏重したものになっており、生存権を保障した憲法二十五条に照らして著しく乖離した財政になっています。今、三位一体の改革の名で進められようとしている義務教育費の一般財源化や生活保護費の補助率引下げは、憲法上の国の責務を放棄するものと言わなければなりません。財政支出、税金の使い方についても憲法の原則に照らして問い直す必要があると考えます。
 私学助成に関して、憲法八十九条の趣旨は、私的な教育などに対する公権力の干渉を排除し、公益、公共の利益に反する事業に公金を支出しないためであって、公教育を担う私立学校への助成を禁止する趣旨ではありません。私学助成は憲法違反という議論がありますが、既に一九四六年の憲法制定議会において、金森国務大臣、当時が、今日、国家は私立大学に対しては一般公法人に対するよりも特殊なる監督をしているということを挙げ、私立学校は公の支配に属しているので支出してもよろしいと答弁しています。
 さらに、現行の法体制の下においては、私学に対して国が助成することは憲法上も是認され、かつ確立しているというのが政府の一貫した見解であり、この下で私学振興助成法が現に制定されています。
 最近でも九八年の参議院文教委員会で、当時の町村文部大臣が「現行の私立学校に対する助成は憲法上問題ない、こういう解釈を伝統的に文部省はとっている」と答弁しています。
 教育を受ける権利を定めている憲法二十六条の立場からも、私学助成は憲法上の当然の措置であると考えます。
 以上、第七章財政の規定に基づいた現実政治が行われるべきことこそが必要だということを強調して、私の発言といたします。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 田英夫君。
○田英夫君 現行憲法の財政の規定は九か条に及ぶわけで、憲法全体を見て、また明治憲法と比較してもかなり詳細にわたっていると言っていいかと思っておりますが、それは当然、国を運営していく、予算決算ということですから、当然なのかもしれませんけれども、にもかかわらず、現在の状況は正に財政危機と言える状態が続いていると。憲法がせっかくこれだけの規定をしているにもかかわらず現状が危機的だということは、私ども国会もこの正に最初の八十三条に「国会の議決に基いて、」ということで責任を持っているわけでありますから、この現状をどう打破していくかということを真剣に考えなければいけないと思います。
 主としてこの問題だけを申し上げたいんですが、例えばイギリスの場合にはコントロールトータルという制度を九三年から導入をして、三か年にわたって、向こう三か年の支出について計画を出してくるということを根本にして、それ以来、この制度が導入されてから財政赤字が着実に減ってきたという実績を上げていることなどは一つの参考にすべき点かと思います。
 そして、この憲法の財政規定の中の一番最後になりますが、九十一条では「内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少くとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。」という規定があるにもかかわらず、今日のこの財政危機を招いているということは、歴代行政府、そして実は私ども国会も重大な責任を感じなければならない。せっかく憲法がこれだけの規定をしているにもかかわらずですから、具体的にイギリスの例を一つだけ申し上げたけれども、もっと衆知を集めていかないといけない。子孫に対して借金を残しているというこの状態は、行政府はもちろん、私どもにとっても重大な責任だということを強く肝に銘じていくべきだということだけを申し上げたいと思います。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 以上で意見陳述は終了をいたしました。
 それでは、ただいまの意見陳述に対し四十五分程度、意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いをいたします。
 御発言は着席のままで結構でございます。
 なお、まず最初に各会派一巡するよう指名いたしたいと存じますので、よろしくお願いします。
 岡田直樹君。
○岡田直樹君 自由民主党の岡田直樹でございます。七月に議席をいただいて早速にこの憲法調査会で発言の機会をいただき、ありがとうございます。
 休憩前に佐藤先生から八十九条のお話を伺って、ああ懐かしいなという感じがいたしました。私も学生時代から八十九条というのはおかしな条文だなということを思ってきましたので、先ほどから御発言が相次いでおりますけれども、自分の考えを短く申し上げたいと思います。
 六十年近くたって、日本国憲法のいろんなところに時代離れ、現実離れした部分があるわけですけれども、その双璧となるのは昔から九条と八十九条ではないかと。九と八十九でごろ合わせのようでありますけれども、この二つが空文になってきたと言わざるを得ないと思っております。
 九条を素直に読みますと、先ほど共産党の先生もおっしゃいましたとおり、自衛隊は憲法違反と言わざるを得ません。しかし、今日、日本国民の中で自衛隊は違憲であり廃止をせよと、こう言われる人は比較的少ない、こう思います。
 また、同じことで、八十九条を素直に読めば、ここは共産党さんとちょっと意見の違うところでありますけれども、これも明らかに憲法違反と言わざるを得ない、こう思うのであります。特に宗教系の私立学校に対する公的助成は、八十九条の前段にも引っ掛かり後段にも引っ掛かって真っ黒けの違憲であると、こう思います。しかし、今日、宗教系の学校や幼稚園も私学助成を受けておりますし、私学助成は違憲だから全廃をせよと、こう言う人はいないと思うのであります。
 そこで九条も八十九条も無理な解釈改憲が続けられてきた。「公の支配」というきつい言葉を緩く解釈して何とか私学助成を合憲にしてきた。学者も、八十九条という一個の条文の前段と後段とを分けて、前段の宗教に対する公金助成は厳格に解釈をするけれども、後段の私立学校に対する助成は緩く解釈をすると。だから、地鎮祭への玉ぐし料は絶対に駄目だけれども、キリスト教の幼稚園に対する公的助成はこれは認めるんだと。これはまあ二重の基準というのかダブルスタンダードというのか、そう言えば言葉は言いようでありますけれども、どうも都合のいい二枚舌を使ってきたような気がしてならないわけであります。
 こんなのは邪道だと思うので、憲法を不磨の大典にしてきたからこんな無理が生じてきた、条文が現実と合わない、そして現実の方が合理的な場合には、これは条文を変えるしかないと思うのであります。
 そして、自衛力の存在というのは、別に憲法の平和主義と矛盾をしないし、むしろ平和を保障してきた側面もあると思っています。また、私学助成も、学問の自由とか教育の機会均等等、憲法の理念を擁護するものであっても、これを損なうものではないと、こう考えております。そこで、九条の平和主義を守りながらも、そこに自衛権そして自衛力を明記すべきであるのと同様に、この八十九条もはっきりと条文を直すべきだと、こう思います。
 先ほど藤野先生は、前段の部分を存置して後段を削除せよと、こうおっしゃったと思います。また、例えば読売の改正草案がそうだったかなと思うんですけれども、後段は削除をして前段は信教の自由とまとめて基本的人権のところで一本化をすると、こういった方法もあると思いますし、また、時代は変わってきて、例えばNPOとかそういうものに対して助成をする必要もあろうと。そうすれば公金の乱費が心配であるというならば、財政規律の項目を盛り込むこととセットにしていろんなものに公的助成の可能性を開くのも一つの道であると思っております。
 もし、憲法改正の手続がちゃんと整っていれば、九条はともかくとして、八十九条なんというのはとっくの昔に改正をされていてしかるべき条文であると。しかし、こういうものが残っている、こういうところにこの憲法の問題があるんじゃないかと。
 前半で住民投票の話も出ましたけれども、憲法改正の国民投票の手続こそは最大の住民投票だと思っています。この手続の整備というのを急ぐべきではなかろうかと思います。
 もう一つ言いたいこともありましたけれども、これは後に譲ります。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 続きまして、前川清成君。
○前川清成君 七月の選挙で奈良県選挙区から当選いたしました民主党の前川清成です。
 私は、本年の三月十六日に民主党の公認を得るまで政治とは一切かかわっておらず、その意味では政治の素人でございますが、先輩諸兄の御指導を仰ぎながら政治家として大成してまいりたいと考えております。御指導、よろしくお願い申し上げます。
 なお、私はこれまで弁護士をいたしておりましたが、普通の弁護士でしたので、法廷で憲法を引用したことはただの一度もありません。発言に先立って弁解のつもりで申し添えさせていただきます。
 さて、専制国家であっても民主主義国家であっても、税金は嫌でも無理やりに国家権力によって取り立てられます。ただ、使い道に関して、専制国家では王様が勝手に決めるけれども民主主義国家では国民の代表が決めるという違いがあります。この点こそ、代表なければ課税なしという標語に表されています。
 しかしながら、過日の予算委員会においても、政治と金の問題にその審議時間の大半が費やされました。四十兆円もの税収の使い道を、さらには借金も含めて八十兆円もの国の財布から出ていくお金について、およそ一か月程度の通常国会における予算委員会で決めることが本当にできるんでしょうか。だからこそ、結局は役人が予算付けをする、そのために知事や市長があたかも参勤交代のように陳情を繰り返す、国会議員はその陳情の口利きをしていわゆる実力を示すというおねだり型の政治が続いているように思います。
 個別的な話ですが、今朝、奈良県の道路整備促進決起大会というのが開かれました。その際に、固有名詞は申し述べませんが、ある国会議員の方が、この道路のために五百億円をおれは取ってきたんだというふうに話しておられました。先ほど申し上げましたように、私はこれまで政治に携わっておらず、一市民として生活してまいりましたから、このような私にとりましては、今のような発言にはむしろ嫌悪感さえ覚えます。これが普通の市民の感覚ではないかと思います。
 だからこそ、税金の使う予定と、さらには税金が使われた結果をきめ細やかに通年的に国民に開かれた場所で議論するシステムが必要ではないでしょうか。この点は憲法の改正を待たずとも実行できます。
 さらには、例えば奈良県選出の参議院議員は荒井先生と私、二人ですが、二人だけで奈良県の隅々まで目が行き届くとは思われません。国民の代表が税金の使い道を決めるという原則を推し進めるならば、地方における税金の使い方はその地方議会で決めるという、すなわち地方分権に帰着するのではないでしょうか。なお、この点はほぼコンセンサスがあろうかと思います。
 また、佐藤議員からも指摘がありましたが、私も憲法八十九条は改正すべきだと考えています。八十九条に言う公の支配に関する解釈論は当然に承知をしていますが、私は、憲法九条と同様、憲法違反という結論を避けるために文言を離れて巧緻な解釈論を展開することは、基本法としての憲法の性格上、避けなければならないと考えています。
 憲法だからこそ、日本語を理解できたならばその趣旨も理解できなければならないはずです。私学助成を廃止するかしないかを決める、そして廃止しないのであれば憲法八十九条は改正するべきだと、かように考えております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 続きまして、魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 参議院が二院制の下で財政統制、どのような役割を果たすべきかということを考えるならば、やはり決算重視ということを考えるべきだろうと思っております。特に、さきの常会の決算審査が早期に審議を終えたことは、参議院の長年の努力が結実したものであって、参議院、二院制の存在意義を示すものとして財政学会等でも高く評価されていると聞いております。ただ、現在の憲法の規定では、決算は単なる報告事項にすぎないわけで、フィードバック機能が確保をされているわけではなく、圧倒的に劣る扱いを受けているということは非常に残念なことだと思っております。
 かつてのプロイセン憲法のように、決算の承認により内閣の責任が解除されるというような明文があったり、あるいは先ほども御紹介ありましたあのフランスの法律のように、決算審査を終えるまで予算審査に入れない、そういうような規定も考えていってもおかしくないのではないかと思っております。
 また、先ほどそれとも関連して会計検査院の役割等、山下幹事からもお話しございましたけれども、その財政統制のために会計検査院との一層の連携を図っていく、機能強化を図っていく中でフォローアップをする、参議院が会計検査院の応援団になると、そのぐらいの連携があってしかるべきではないのかなというふうに考えております。
 もう一点、今の日本の財政、大変な財政、巨額な赤字を抱えているという状況でございますし、国民一人当たりを考えても大変重いものがございます。議論にも出ておりますけれども、やはり一つの理由として、これは憲法の規制の対象がこの手続面ということが中心であって、実際の財政運営に関する規律を定めるものがないということも一つの理由ではないかと思っております。
 イタリアでは、かつて破綻の危機にあった、このようなことが言われておりましたけれども、財源のない新規予算を認めないという、オブリコ・コペルツーラ原則っていうんですか、そういうのがあるようでございますが、そういう規定がイタリアの財政再建に大きな役割を果たしたというような評価もされているところでございまして、やはり運用面を規律していく、この規定も考えていくべきではなかろうか、このような意見を持っているところでございます。
 この以上二点、申し述べます。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、井上哲士君。
○井上哲士君 日本共産党の井上哲士です。財政民主主義と予算修正についてまず意見を述べます。
 明治憲法でも、財政民主主義の原則、一応は認めておりましたけれども、多くの例外規定が設けられて著しく制限をされておりました。その最も大きな一つが、いわゆる統帥権による議決権の制限でありました。陸海軍省の経費は、形式上は予算に計上され議会に提出されましたけれども、その内容を議論するというのは、天皇の大権に触れるという理由で詳しいことは事実上は審議されなかったと。これがあの太平洋戦争での膨大な臨時軍事費特別会計の内容が国民にほとんど知らされないままに使われたという背景にあります。
 こういう教訓から、新しい憲法の下での財政民主主義が確立をされたわけでありますが、現状でいいますと、今の国家財政の決定過程にはいろいろ問題ありますし、現実の運営は予算の国会審議が十分に反映をされるとは言い難いと思います。
 先ほども国会の予算修正権のことが出ておりましたけれども、憲法が国会が国権の最高機関だということを一方で定め、財政民主主義の規定があります。ところが、実際には政府は、国会の予算修正は内閣の予算編成権を損なわない範囲において可能だということを主張して、非常に予算修正に高いハードルを設けているというのが実態でありますけれども、やはり財政民主主義の原則から、この点は大きな改善が必要だと思います。
 もう一点、税制の民主的原則について発言をいたします。
 先ほど同僚議員からも、消費税の導入がこの点を非常にゆがめているということがございました。消費税導入とその後の引上げによりまして、間接税の収入は導入前の二六・八%から現在は四四・一%になっております。累進課税も税率のフラット化という下で弱められまして、所得税の最高税率が、消費税導入時の六〇%が現在は三七%まで引き下げられております。法人税の税率も四〇から三〇%へと引き下げられまして、その結果、この十年、この間で消費税収の増額分が高所得者の所得税減税や法人税の減収の穴埋めに結果としてなっているということがあります。諸外国と比べましても、日本のこうした所得の再配分機能が非常に弱まっているというのが実態であります。
 今、年金財政に充てるということで定率減税の廃止、縮減、その先の消費税の更なる引上げという議論がありますけれども、こういう本来の憲法の財政民主主義、そして税制の民主的原則ということからいったときに、私たちは、これはこれに反するものだと思いますし、むしろ今こそこうした憲法の税の在り方の原則に立ち返るということが重要になっていると思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 田英夫君。
○田英夫君 私も一つ、八十九条の問題を、特にその宗教の問題から取り上げておきたいと思うんですが、実は戦前の靖国神社、これはどこから予算が出てどう管理されていたかということを若い皆さんは御存じないかもしれません。
 これは、政府がというよりも陸軍と海軍が管理をし、予算はその陸軍、海軍の予算の中から支出されたと、こういう事実があったのであります。そういう事実、歴史の中で、この八十九条の前段の部分、無関係ではないのです。そして、最近きな臭い、私などから見ると、きな臭い昔を思い出すような、そういう動きが日本の中で高まっているときに、この問題は決して無視できない、そのことだけ申し上げておきたいと思います。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 各会派を一巡いたしまして御発言をいただきましたが、他の御意見のある方は挙手をお願いをいたします。舛添さん。
○舛添要一君 まず第一点は、予算単年度主義でございます。三月末になったら無駄なのに道路を掘り返していると、こういう風景に象徴されるように、とにかく予算を消化しないといけないと。これで相当な無駄があると思いますんで、これは単年度主義のある意味で弊害ですから、複数年度主義を認める形を明文化するということも考えてよろしいのではなかろうかと思います。今の憲法そのままでは難しいかもしれませんが、一部分についてプロジェクト予算のような形で複数年度主義を認めてもよかろうと。これによって税金の無駄遣いを排するという手があろうと思います。それが第一点です。
 第二点は、田委員や魚住委員からお話がございましたことですけれども、やっぱりこの財政赤字が野方図に広がっていくと、この財政均衡、財政規律ということはやっぱり我々立法府としても考えないといけないというように思います。
 それで一つ、諸外国の例を。
 先ほど魚住先生はイタリアの例、挙げられましたけれども、EUは三%条項というのがございまして、財政赤字がGDPの三%以内に収まることをEUのメンバーステートの要件としています。現実的には、今非常に財政、苦しゅうございますからフランスなんかはちょっとそれ違反している面がありますけれども、しかし、これは政治的にどういう意味を持つかというと、どの国の為政者も、やはり今回のように、例えば災害対策でお金が要る、社会保障というのがお金が要るということになったときに、次の選挙を考えればなかなかこの削減ということが言いにくい状況であります。それが我が国の今の現状のような、世界に類を見ない財政赤字の肥大化になっているわけであります。それを国民に対するエクスキューズとして、EUのメンバーでなくてよろしいんですかと、私は嫌なんだけれどもEUのメンバーで三%条項ありますからどうかお願いしますという形で国民の理解を求めることができるわけですから、場合によっては三%条項的なものを、また、先ほどの魚住さんのそのイタリアの例のような財政規律について明確に憲法に書くというのも一つの考えであろうかというふうに思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 他にございませんか。
 どうぞ。松井孝治君。
○松井孝治君 松井でございます。
 今、舛添委員からもお話がございましたが、私も複数年度予算というのを認めるべきだというのは先ほど申し上げたとおりであります。他方で、やはり忘れてはいけないのは、予算単年度主義の弊害はありますが、会計年度独立主義というものの一定の財政規律を確保する意味でのメリットもあるわけでありまして、野方図に複数年度予算を認めるというのも問題があろうと思います。そういう意味では、これは諸外国、特にアングロサクソン系で導入されておりますが、やはりニュー・パブリック・マネジメント系のくくりをしっかり制度的に保障した上で、むしろ単年度主義がもたらす税金の無駄遣いというものをきっちりコントロールしていくということが必要ではないかと思っております。
 それと、今の行政の予算査定の在り方が、どうしても増分主義といいますか減分主義といいますか、根っこから見直せない。これをやはりその根っこにある根雪の部分の無駄遣いというものを見直せないというところはしっかりと何らかの形で、これは憲法上の要請にするかどうかはまだ種々議論があるところだと思いますが、今おっしゃったような一定の財政の大枠のマクロのルールをどこかが作る。
 あるいは、中長期的に、これは参議院の役割かもしれませんが、未来の世代への責任を果たすという意味においてそこの部分をしっかりチェックしていく、その根雪の部分の本当に妥当性というものをチェックしていく。それを単年度のフローでチェックするということではなくて、むしろその制度あるいはいろんな予算、財政措置の根っこに立ち返って評価をする仕組みを持つべきではないか。
 それを今のような形で財務省だけに責任を負わせたとしても、財務省も結局各省庁とゲームをしながら予算編成をしているわけでありまして、抜本的な財政赤字の縮減には結局のところつながらないんではないか。そこはやはり特に参議院が、衆議院はどうしても地域代表的色彩も強いわけです。参議院も今の制度上同じような選挙制度が半分はあるわけでありますが、未来への責任という意味でどれだけ良識を発揮して見直せるか、コントロールできるか。しかも、それは毎年度の短期的な視点ではなくて、中長期的な視点でコントロールできるような形を憲法上の規定の整備も含めて作っていけるかが非常に重要な点だと思っております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 舛添さん、どうぞ。
○舛添要一君 舛添です。
 今の松井さんおっしゃったことは、これは英語で言うとインクレメンタリズムという現象ですけれども、私は実は、これは憲法上の規定で片付けられる問題ではなくて、政権交代がないからだというふうに思っていますんで、野党の諸君、是非頑張っていただきたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 他にございませんか。それでは、今日の意見交換はこの程度といたしたいと思います。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後五時五分散会

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