第161回国会 参議院憲法調査会 第4号


平成十六年十一月十七日(水曜日)
   午後零時四十分開会
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   委員の異動
 十一月十日
    辞任         補欠選任
 ツルネン マルテイ君     松井 孝治君
     藤末 健三君     高嶋 良充君
     紙  智子君     仁比 聡平君
 十一月十七日
    辞任         補欠選任
     前川 清成君     家西  悟君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         関谷 勝嗣君
    幹 事
                荒井 正吾君
                武見 敬三君
                舛添 要一君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
                簗瀬  進君
                若林 秀樹君
                山下 栄一君
    委 員
                秋元  司君
                浅野 勝人君
                魚住 汎英君
                岡田 直樹君
                河合 常則君
               北川イッセイ君
                佐藤 泰三君
                藤野 公孝君
                松村 龍二君
                三浦 一水君
                森元 恒雄君
                山下 英利君
                山本 順三君
                家西  悟君
                江田 五月君
                喜納 昌吉君
                郡司  彰君
                佐藤 道夫君
                田名部匡省君
                高嶋 良充君
                富岡由紀夫君
                那谷屋正義君
                直嶋 正行君
                前川 清成君
                松井 孝治君
                松岡  徹君
                松下 新平君
                魚住裕一郎君
                白浜 一良君
                山口那津男君
                仁比 聡平君
                吉川 春子君
                田  英夫君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       神戸大学大学院
       法学研究科教授  赤坂 正浩君
       早稲田大学社会
       科学総合学術院
       教授       西原 博史君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (新しい人権、社会権)
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○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 「新しい人権、社会権」について、委員相互間の意見交換を行います。
 まず初めに、各会派から一名ずつ、それぞれ十五分以内で御意見をお述べいただきたいと存じます。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は順次御発言願います。森元恒雄君。
○森元恒雄君 自民党の森元でございます。
 新しい人権と社会権ということでございますが、各論に入る前に、まず全体的なことについて私の意見、考え方を申し述べさせていただきます。
 戦後五十年余が経過いたしました。憲法に基本的人権が明確に規定され、特に思想あるいは良心の自由、あるいは信教の自由というようなものが確立したということによりまして、戦前の国家権力によって抑圧されておった我々の生活が大きく変わったと、自由に物を考え、発言し、行動するということが非常に広がったことはもう間違いのないことであると思います。
 そしてまた、産業経済の面におきましても、自由主義経済が確立をし、戦後のいち早い復興、そしてまた世界的な驚異の目で見られた高度成長を遂げて、今や押しも押されぬ世界のトップランナーの一員になり得たという面が、これは今も申し上げたように、憲法がその上で果たした役割というものは非常に大きい、それは積極的に評価しなければいけないというふうに思います。
 ただ、それだけではなくて、やはり少しこの憲法の規定ぶりによって今の日本社会がいろんな面で問題を抱えるようにもなった面があるんじゃないか、そのこともまた事実ではないかなと私は最近特に思います。
 人々は、自由であるとか権利というふうなものを目一杯主張し行使をするわけでありますけれども、余りにも個人主義であるとかあるいは極端な自己中心主義、あるいは利己主義というようなものに走る傾向が少し強く今や見られるようになってきておるんではないだろうか。我々の人間社会は決して一人、個人で生存し得ないわけでありますから、やっぱり家族、地域あるいは国家というようなお互いの共同体を維持しながら、そういう秩序とか集団社会というものを安定を維持しながら、お互いに協力し合い、助け合い、信頼しながら生活をしていかなければならない、そういう面の意識がいま一つ欠けてきておるんではないかなというような点が非常に危惧するところでございます。
 例えば憲法十一条は基本的人権を不可侵の永久権利というふうにうたっておりますけれども、その権利を維持していくためには、市民としての同時に責任、基本的な責任というものを果たしていくということが伴わなければいけないはずでありますけれども、そういう規定ぶりがないということもあって、人々の間にそういう認識が欠けておるんではないかなという問題があるように思います。あるいはまた、十三条におきましても、「すべて国民は、個人として尊重される。」と、こういうふうに定めておりますけれども、このことについてもやっぱり行き過ぎた個人主義が横行する一つの原因になっているんじゃないかと。
 権利の主張はいいんですけれども、やっぱり自分の権利は他人のやはり権利とも衝突をするわけであります。個人と個人とのその利害の調整、権利の調整、そしてまた社会全体としての機能の維持というようなものを考えましたときに、やっぱりやりたい放題、勝手気ままというふうなことをすべての人が行っておったんでは、また自分自身にとってもそのことがマイナスとして跳ね返ってくる。決していい社会が形成できませんし、生活の安定、向上も図れないということになるのではないかと。
 要するに、言いたいことは、憲法が保障しておりますこういう自由、自由権というものについてもおのずと一定の限界があるはずでありますけれども、そこのところについての憲法上の配慮というものもいま一つ欠けている面がありはしないかという点が危惧される点でございます。
 あるいはまた、憲法十四条は法の下の平等について定めておりますけれども、ただ、人はその門地とか家柄等で差別されない、社会的なそういう要素で差別されてはいけないということは当然でありますけれども、しかしすべての人が、じゃ全く平等な条件に置かれているかというと必ずしもそうでない。そういうことについても、やはり一定の前提に立ちませんと、結果の平等を求める余りに逆に悪平等、不平等というようなことをもたらすおそれはないんだろうかと、こういう点も危惧される点でございます。
 憲法自身は、こういう権利あるいは自由についての内在する一つの制約の根拠として公共の福祉という概念を持ち出しております。十二条、十三条、二十二条、二十九条に公共の福祉との調整を図らなければいけないという規定がございます。しかし、この今申し上げたような現象が見られることの一つの私は原因は、この公共の福祉という言葉、概念そのものがいま一つ我々にしっくりとこない、なじみのなかなかない概念がいま一つ不明確なところにその原因があるのではないかなと。何か福祉といいますと、いわゆる障害者福祉とか老人福祉とかいうような面での福祉というふうに、一般的な意味としてはそちらの概念で、意味で用いられる場合の方が多いわけでございまして、いま一つその権利とか自由との調整概念としての、制約概念としての公共の福祉という意味が不明確ではないかと、こういうふうに思います。
 この点については、むしろ公共の利益というふうに置き換えた方がいいんじゃないかという意見を言う人も多いわけでありますが、公共の利益というふうに置き換えても、これでもいま一つ私自身はしっくりこないような気がいたします。それよりはむしろ、国際人権規約に定めております人権の限界の規定がございますけれども、少々あれは長いんですけれども、むしろ少し丁寧に規定をするということの方がむしろその趣旨を生かす早道ではないかと。
 人権規約は何と定めているかといいますと、権利の行使には特別の義務及び責任を伴うんだと。他人の人の権利又は信用を尊重しなければいけない、国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護ということに配慮しなければいけない、こういう規定を置いておるわけでございまして、これをそっくりそのまま書けばいいというふうには思いませんが、いま一つ、公共の福祉あるいは公共の利益というような単語で一言で書くよりは、こういうもう少し中身を丁寧に書くということが大事じゃないかなというふうに思います。
 それから、憲法は第三章で「国民の権利及び義務」というふうに題を付けておるわけでありますけれども、その具体的な各条文はほとんどが権利に関するものであります。中身をずっと見てみますと、権利に関することが十六回、自由は九回規定されておりますけれども、それに対して責任は四回、義務は三回というようなことでありまして、権利、自由を強調するのはいいんですけれども、それには内在的にやっぱり責任とか義務が伴っているんだということについての規定がいま一つ十分ではないんじゃないかな。義務としては、二十六条の教育を受けさせる義務、二十七条の勤労の義務、三十条の納税の義務と、この三条があるだけでございます。
 そしてまた九十九条には、公務員に対しては憲法の遵守義務を規定しておりますけれども、一般の国民には何らそういう義務は課していない。しかし、公務員だけが憲法を守ればいいなんというのはだれも思っていないわけでありまして、広く国民が憲法あるいは法令を遵守しなければいけないと、こういう規定も明確に憲法に設けるべきではないかというふうに思います。
 以上申し上げて、新しい権利としてどういうものを設けるべきかということを次に申し上げたいと思いますが、まずプライバシーにつきましては、特に最近のようにマスコミの発達、あるいはインターネットを通じた情報の発達、情報通信の発達ということによりまして、今まで以上に人のプライバシー、名誉あるいはプライバシーが侵害されるおそれが非常に広がってきている。従来のように国と個人という関係だけではなくて、個人と個人、企業と個人、団体と個人、要するに私人間の間でも名誉、プライバシーが侵害されるというおそれが非常に社会全体に広がっております。これは憲法制定時には考えられなかった時代の変化でありますので、私はやっぱり明確にプライバシーについての権利というものを憲法上に規定すべきではないかというふうに思います。
 それから、知る権利でございますが、これは今、表現の自由の一つの形として判例等では、あるいは学説で認められるようになってきている権利でありますが、その知る権利についても真正面から明確に憲法上規定すべきであるというふうに思います。
 それはなぜか。民主主義の根幹は、やはり主権者である国民がその権利を行使する前提として、情報を正確に知り得ないとそれが正しく行使できない。やっぱりそういう意味で、民主主義の基礎になるのはこの知る権利による情報の把握、取得であると思います。
 特に言われていますのは、スウェーデンはもう今から二百年前、日本の江戸時代に世界で最初に情報公開法が制定されました。当時は市民革命以前ですから、国王が留守中に役人がおかしなことをしないようにというチェックする手法として制定したと言われておりますが、やはり、ああいう国民負担率が七〇超える国で、なおかつ国民が更に税金を負担してもいいというような声が非常に多いのは、国に対する信用が絶大だと、そこが一つの大きな要素だと言われておりまして、そのまた国民が国を信用する、行政を信用する、政治を信用する基はこの情報公開、知る権利だと言われております。そういうことを考えましても、真正面から知る権利を規定するべきではないかと。
 それから次に、環境権あるいは環境保全義務についても正面から規定すべきだというふうに思います。
 これも、現在認められている基本的人権の一つの派生の形として既に判例あるいは学説で認められているものでありますが、環境問題についても、この憲法制定時に考えられなかったような、今やもう我々の生存を根底から脅かしかねない極めて深刻な問題、地球規模の問題になってきております。これまた国家による環境破壊というよりも、むしろ企業でありますとか個人であるとか、私人間の活動が環境に様々な大きな影響を与えておるわけでありますので、これは権利と同時に義務を果たすということもしっかりと明記すべきではないかと、こういうふうに考えております。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 若林秀樹君。
○若林秀樹君 ありがとうございます。民主党の若林でございます。
 まず、新しい人権に入る前に、基本的な人権の考え方について述べたいと思います。
   〔会長退席、会長代理簗瀬進君着席〕
 やはり、基本的人権というのは個人が生まれながらにして有する自然権的権利の総称だというふうにとらえております。自然権的権利というのは、ある意味では社会契約説を背景としておりまして、国家に先立つ権利として言われているわけであります。日本国憲法も、すべての基本的人権は侵すことのできない永久の権利として公共の福祉に反しない限りそれは認められているわけでありますし、制約される場合でも最大限の尊重を必要とすることが求められているわけであります。過去の歴史的な事実から学ぶまでもなく、国家という存在ほど人間の権利、自由を抑圧し、害してきた存在はなかったわけでありますし、また、イラクで起きている前フセイン政権もそういう面は非常にあったんではないかというふうに思われます。
 憲法は、国民の権利と自由を守ることを目的とした最高法規であります。その人権保障の目的を達成するために統治機構があると言っても過言ではないというふうに思っているところであります。
 憲法上守るべき人権の範囲は、十四条以降に人権に関する個別的規定を置いております。十三条では、個人の尊重、生命、自由、幸福追求の権利が尊重されており、新しい人権の根拠となる包括的な権利であり、裁判上で救済を受けることができる具体的権利であると解されるようになっております。また、二十五条では、生存権、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するということが規定されており、十三条や二十五条等で、改めて新たな人権を規定する必要はない、常に新しい人権の受皿となるという意見もありますけれども、民主党としては、やはり時代の変化とともに人権の概念が変化しているわけでありますので、必要なもの、常に長期的な視点に立って、国民生活に不可欠で基本的なものであるという要件を満たすものについてはやはり憲法上の権利と認めて、人権保障を明確にするために憲法上の人権カタログとして明記すべきというのが民主党の基本的なスタンスであります。
 例えばプライバシー権という、私は個人的にこの言葉に匹敵する日本語を知りません。広辞苑では「他人の干渉を許さない、各個人の私生活上の自由。」という、あくまで説明の文言であります。恐らく、そのような人権概念が日本に存在し、定着し始めたのは、そんな昔ではないんではないかという感じがしております。
 具体的には、例えば昭和四十三年の三島由紀夫の「宴のあと」という中に登場してくるモデルが原告のプライバシーを侵害するとして争われまして、初めてそこで私生活をみだりに公開されない権利というふうに認められたのが最初の例だというふうに言われているわけでありますが、その情報化の進展に伴いまして、私生活をみだりに公開されない権利から、さらに自己に関する情報をコントロールする権利として国民の中にも定着しつつあるんではないかなというふうに思いますので、そういう面からも、憲法上の人権としてきちっと位置付けて明確にすべきではないかというふうに思っているところであります。
 また、知る権利であります。
 伝統的な表現の自由というものは自らの考えを表明するという権利でありますが、徐々に、その自由な情報の流通プロセス全体を保障する意味にだんだん変わりつつあるんではないかなというふうに思います。そういう意味では、マスメディアの発達に伴い、情報収集活動が妨げられないという側面としての権利、そしてまた公権力に対して情報の開示という請求的な側面としての権利を、国民主権の深化を目指す観点から知る権利を憲法に明記することが必要ではないかというふうに思っているところであります。
 プライバシー権に関しては、情報化社会と表現の自由について申し上げたいと思いますが、表現の過誤というのは基本的には制限されるべきではありません。やはり思想の自由市場によって淘汰されるべきものだというふうに思います。しかし、言論に対しては言論という図式は、巨大マスメディアが登場した現代においては必ずしも現実的ではない側面もあるんではないか。特に個人に関する関係では、マスメディアはプライバシー権を侵害する主体ともなり得る可能性があるわけでありますので、高度情報化時代を迎え、インターネットなどの新しい媒体での表現の自由をどのように保護し、また規定するかということが重要になってきているんではないか、そんな認識を持っているところであります。
 次に、環境権であります。
 学説的にはいろいろ諸説があるということは承知しております。二十五条、健康で文化的な最低限度の生活、そして十三条の幸福追求の権利ということを根拠としている健康で良い環境を享受する権利として、民主党としてはきちっと明記するべきではないかというふうに思っているところであります。
 人間の生命を脅かし、最低限度の生活すら実現できない環境もあるわけでありますし、その原因の深刻さに気が付いてからではもう既に遅いという状況であります。今年の夏の猛暑あるいは数多くの台風、あるいは局地的な大雨等を見ますと、これも環境問題、環境の変化なのかなという感じはするわけでありますが、環境というのは様々な複雑な原因が絡んでおりますので、保護対象としての環境の内容、範囲、権利者の範囲が余りにも漠然としているという問題はあろうかと思います。また、基礎的公共財として、個人の私物、私的利益の対象ではないということからも、なかなか裁判救済にはなじまないという側面も理解しているわけであります。
 しかし一方で、環境権を裁判所が認めない中にも、環境的利益の侵害を人格権に対する侵害として政府、企業の補償、賠償責任として認めてきたのも事実でありますので、実質的な救済も図られているわけであります。
 また、社会権という側面から環境権を実現するには公権力による積極的な施策が必要となるという意味において社会権的性格を持っているんではないかというふうに思います。
 いずれにしましても、人権としての環境権又は国家の責務としての環境保護義務などを、環境権にかかわる規定を憲法に明記すべきではないかなというふうに思います。また、個別具体的な救済については法律の規定も必要な面が出てくるんではないかという認識を持っているところであります。
 続きまして、自己決定権であります。
 自分の肉体や精神の扱いについては選択の自由がある、自分のことは自分で決められる権利でありますんで、これもまた十三条の幸福追求権を根拠とする権利であります。
 自己決定権の内容は、やはり自己の生命、身体の処分、そこには尊厳死も含まれるものであると思います。そして、家族の形成、維持、個人のライフスタイル、例えば服装とか喫煙とか飲酒とか、そういうものも含まれる権利であります。そして、リプロダクションにかかわる事柄も含まれるというふうに思っております。
 さきの米国の大統領選挙でも、この自己の決定権に絡んで非常に争点となっていた記憶が新しいところであります。例えば、同性愛の行動、同性愛者同士の結婚あるいは妊娠、中絶の問題についても常にアメリカの長い歴史の中で争点になっていた、ある意味での自己決定権が議論になっているところであります。
 いずれにしましても、民主党としては、権利の内容を検討した上でしっかり憲法に明記すべきだというふうにとらえているところであります。
   〔会長代理簗瀬進君退席、会長着席〕
 以上が四つの観点からの新しい人権でありますが、直接的に新しい人権とはかかわりませんが、新たに付加させていただくとしたら、私はもっとやっぱり日本の人権を考える上で国際人権法と人権保障の面が軽視されてきたんではないかという側面も感じております。
 やはり、人権の実現の保障は国際社会の共通な利益というふうに認識されているところでありますので、日本における人権もまた憲法とともに国際法規によって支えられるわけであります。国連憲章は、人権と基本的自由を尊重するよう助長奨励することを国連の目的として掲げているわけであります。そういう意味において、これまで国内法の条文解釈で事足れりとするということから、やはり国際人権法の活用について積極的にこの憲法の中にも書き込み、そして国際人権保障に係る動向についても調査し、必要な事項については国に対して勧告するような機能を有する国内機関の設置等、必要なことも講じることが必要ではないかなというふうに思っております。
 いずれにしましても、基本的人権の保障という観点から、必要に応じて新しい人権というものもこれからの憲法の中に明記することも検討する必要があるんではないか。そんなことを申し上げて、私の発言とさしていただきます。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、山口那津男君。
○山口那津男君 公明党の山口那津男でございます。
 新しい人権、社会権を中心に、この人権に対する考え方を述べたいと思います。
 まず、公明党といたしましてこの人権のとらえ方でありますけれども、これを、新しい利益が国民の間に生成発展していくと、時代の進展に応じてそういうことが生じてくる場合もありますし、また、従前の利益、既存の利益というものが、これが脅かされる、侵害されていくと、こういう事態も生ずるわけであります。それら変化に基づいてその利益をどのように保護していくべきか、その最高レベルの保障の形態というものが憲法であると、こう考えるわけであります。
 その上で、まずこれらの利益の保護の必要があるという場合には、そのタイムリーな保護、保障という意味で、まず立法措置によってその手当てが必要であるというのが第一段階だろうと思います。そして、その次の段階として、この立法措置が不備である、空白である、こうした場合にも、その保護の必要性があるという場合に、今の日本国憲法の人権カタログのどこに当てはまるかという解釈論を通じてのこの利益の保護ということを考えていかなければならないと思います。
 今の日本国憲法のカタログ、大きく分けますと自由権あるいは社会権と分けられるかと思います。また、自由権の中におきましても、いわゆる精神的な自由と経済的な自由とを比べた場合に、その保障の程度あるいは司法審査の基準というものがそれぞれ異なるということもあるでありましょうから、それに応じて保障の水準というものも違いがあると、こう考えます。
 さらに、社会権と言われてきたものは、これは自由権とは大きく趣が異なりまして、それ自体に具体的な権利性の乏しいものもあります。これらは、その必要な立法措置その他具体的な制度を取った上でその保障の実質を充実させていくと、こういう利益保護の在り方でありまして、それらの性質を見極めた上で、その保護すべき利益をどれにどう当てはめていくべきかということを検討すべきであろうと思います。
 現在いろいろと主張される新しい人権と呼ばれるものは、そのいずれかに当てはめて保障を検討してきているものでありますし、既存の例えば知る権利と言われるようなものは、二十一条の表現の自由の保障の一環としてこれを根拠付けるという判例等もあるわけでありますが、また一方で、これらの既存のカタログに当てはまりにくいものについては、これを憲法十三条、この幸福追求権と言われるものが個別の利益保護の場面で具体的権利性を与えるという解釈に基づいて、この十三条が言わば新しい人権を日本国憲法の下で解釈論として認めていくべき有力な根拠、一番の言わば権利の揺りかご、新しい人権の揺りかごというような機能を持っていると考えます。
 また、社会権、例えば二十五条、生存権の解釈を広げて、国家に対する請求権あるいは具体的な立法措置を求める根拠としてこれが引用される場合もあるわけでありまして、この既存の日本国憲法の解釈を通じて利益を保護していくというやり方が次の保障のレベルだろうと思います。
 しかし、これら既存のカタログでどうしても説明し切れない、十分ではないというようなものも出てまいります。そうした場合に、これを新たな人権カタログとして憲法に盛り込むという必要性が出てくると思うわけであります。
 この新しい人権カタログを作るという場合の、実際には憲法の改正という手続を踏むわけでありますけれども、この場合に、公明党としてはこれを加憲というやり方というものを主張しております。
 アメリカの憲法は、歴史的に人権保障の部分を修正条項を加えるという形でこれが生成発展してきた歴史があります。アメンドメントとこう言われておりますけれども、正にこの人権カタログを増やすという必要性がある場合には、この加憲、今の現状の憲法の規定を尊重した上で新しい権利を書き加える、足らざるところを書き加えると、そういう在り方が最もふさわしいものだと私たちは考えているわけであります。ただ、その保護すべき新しい利益というものがいたずらに何でも新しい人権になるかというと、そこは慎重な配慮が必要だろうと思います。
 そこで、新しい人権を憲法上の権利として承認すべきか否か、これをいろんな角度から選別する基準といいますか、生成の要因といいますか、これを分析する必要があると思います。
 大まかなことを申し上げれば、その特定の利益なり人の行為というものが個人の人格的生存に不可欠のものであるかどうか、その必要性をまず吟味すべきであると思います。そして、その利益の保護なりあるいは人の行為というものが一般の社会で大勢の人々にもっともなものと承認される、そういう前提というものがなければならないと思います。
 さらにまた、その利益なり請求なるものが他の人権規定とぶつかり合うという場面もあるわけであります。これが他の人権を大きく侵害することによって新たなものが成り立つということでは保障の意味がないと思いますし、その点の調和の取れる利益保護の接点というものを求めるべきであると思うわけであります。
 また、一方ではこの権利をいたずらに認めていくということが、まあ言わば人権カタログのインフレを招くということであっては混乱の要因にもなり得るわけでありまして、その点においても配慮をしなければならない。
 つまり、その新たな人権カタログを認める必要性というものは、やはり十分な時間と議論と、それの前段階の立法措置や、あるいは現行憲法の解釈等を尽くした上での人権カタログ化ということでなければならないと思うわけであります。
 そうした新しい人権の考え方に立ちまして、具体的な権利について幾つか述べたいと思います。
 まず、環境権と言われるものがありますが、これは良好な環境を享受するということと、国家及び国民が環境保護に努めるという責任、責務を持つという両面があるだろうと思います。ここで憲法十三条や二十五条によってこれを解釈論として認めるというのは、あくまでその途中のといいますか過渡的な考え方でありまして、私はいずれこれは新しい人権カタログに加えるべき権利、そしてその場合に、その権利の内容というものが明確になるように規定すべきであると考えます。
 特に、この環境的利益というものは、人間が生存するために環境を支配する、従属させるという考え方ではなくて、この環境と人間が共存するというエコロジカルな視点というものが基礎になければならないと思うわけであります。
 プライバシー権、知る権利と言われるものがあります。これはIT社会、情報社会の発達によって非常に重要な権利になりつつあると思います。この二つの権利というものはぶつかり合う面もあるわけでありまして、これが互いに侵害し合うような権利として考えられてはならないと思うわけでありまして、その調和点を考えた上でこの権利性を確立すべきであると思います。
 従来、プライバシー権というのは、言わばほっておかれる権利というところに力点が置かれておりましたけれども、むしろ知る権利とのぶつかり合いということを考えたときには、自分自身の持つ情報をある程度コントロールできる、そういう請求権的な内容も含んだものとしてこれを権利化していくべきであると考えます。
 それから、生命倫理の点からいって、今の医療技術、科学技術の進展によって非常に際どい利益のぶつかり合いというものが生じてきております。これらについては、ある種自己決定に任せてもいい部分というものもあろうかと思いますけれども、しかし、それが完全な自己完結的な自己決定に任せてよいという利益ばかりではないと。多分にその社会の秩序、家族関係、あるいは人間の本来の尊厳といったところに大きく深くかかわるものでありまして、この点については安易な自己決定にゆだねるということであってはならない、非常に慎重な検討が必要であると考えております。
 それから、社会権と言われるものについて一言申し上げたいと思います。
 従来、社会権として主張されてきたもの、特にその労働基本権のところにおきましては、現代の社会の変化に伴っていささか時代の役目を超えつつある部分と、また権利がありながらそれがないがしろにされているという部分と両面あるだろうと思います。この現代における、あるいはこれからの社会におけるこの労働基本権の役割というものを今大きく見直す必要があるのではないかと考えております。
 それから、裁判を受ける権利、この権利について、その費用の面で裁判の手続というものを利用できない、資力によって事実上利用できないということが生じてはならないと思います。その点で、私は、どのような人々にもこの裁判を受ける権利を最小限保障するというような具体的な国の制度というものが必要だと、この裁判を受ける権利はそこまでの内容を含むものだと、こう理解をしたいと思います。現行法律扶助制度、これが新たな制度に今変わろうとしておりますけれども、実質的なこの充実というものは国が果たしていかなければならない義務の一つだろうと思っております。
 それからもう一点、新しい権利が主張される中で、外国人の権利について私は前回ちょっと述べましたけれども、また一点補足させていただきたいと思います。
 永住外国人の参政権の付与がいろいろと議論されておりますけれども、この点、最高裁判所の判例では、この地方参政権の一部を与えるかどうか、これについては立法政策上の問題であると、こういう見解が示されておりますが、これを単なる傍論にすぎないといって殊更無視しようという主張がなされております。一方で、この公務員の選定、罷免というものは国民固有の権利であるというのが原則であります。しかし、この憲法の規定というものは、国民主権ではない時代に国民以外の者が国家公務員を選定、罷免をしていたという歴史にかんがみて、この主権者としての国民固有の権利を強調するという意味合いもあろうかと思います。
 それと、人権規定には、ほかにも、何人にも保障されるという規定の仕方と、すべて国民はという規定の仕方といろいろ、あるいは主体を示さない保障の規定もあるわけでありますが、この文言の違いによって、厳格な保障の区別あるいは保障の名あて人の区別というものがあるわけではないと思います。あくまで、その権利の性質、実態、これに即して保障の範囲というものを考えていくべきでありまして、この国民固有の権利であるという条文を引用して、これが永住外国人には保障されないという解釈は到底納得し得ないところであります。
 このだれに保障するかという問題と、だれに権利を禁止させるかという問題は全く次元の異なる話でありまして、最高裁の判例の考え方は、原則として、その国民に保障される権利というものを確認しながらも、しかしそれが外国人にも禁止されているか否かという次元に立って、それは禁止されているものではなくて立法政策に任された部分があるんだということを言っているわけでありまして、これはけだし正当な見解であろうと思いまして、この点について最近の新聞論調あるいはその他の主張というものが誤解があるのではないかということを申し述べておきたいと思います。
 以上で終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 仁比聡平君。
○仁比聡平君 日本共産党の仁比聡平でございます。
 私は、七月の選挙で国会に来させていただくまで弁護士として活動してまいりました。その中で、憲法が光り輝く瞬間を何度も経験させていただきましたけれども、その中で一つ、皆さんに紹介をさせていただきたいのが、ハンセン病問題をめぐって闘われたらい予防法違憲国賠訴訟の熊本地裁判決の瞬間です。
 御承知のように、ふるさとを奪われた療養所の入所者たちは、断種や堕胎を始め、筆舌に尽くし難い強制隔離政策の下で九十年余りにわたって人間らしく生きることを否定され続けました。私は弁護団席で言渡しに立ち会いましたが、この人生を丸ごと奪う人権侵害を断罪した判決の言渡しが終わった瞬間、法廷じゅうにわっと拍手が沸き起こり、その中で退廷しようとする裁判官たちの背中に原告の一人、原告の一人が立ち上がって叫びました。裁判長ありがとう、これでおれたちは人間に戻れた、これで青空に胸を張って生きていける、裁判長ありがとう。この叫びに法廷は再び割れんばかりの拍手と歓声で沸き返り、原告たちと抱き合った法廷で私は感動に体を貫かれ、涙を抑えることができませんでした。ある原告は、我が国にも司法があったと語りました。私は、人間回復の第一歩をしるしたこの訴訟が、人間の尊厳と基本的人権の尊重を根底に据えた憲法が輝いた瞬間だったと言っていいと思います。
 私たちの憲法前文は、我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保することを宣言し、第三章に詳細な人権カタログを規定をいたしました。前文は、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」とし、伝統的な自由権のみならず、社会権、受益権をも豊かに規定をしていますが、このような徹底した人権尊重主義は諸外国の憲法規定と比べても先駆的なものであり、ここには決して侵してはならない値打ちがあります。
 一方で、このハンセン病訴訟を始め戦後闘われてきた幾つもの憲法訴訟は、権利のための闘いこそ人権保障の確立と発展の力であることを示してきました。
 憲法九十七条は、基本的人権が人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利が過去幾多の試練に堪え、将来にわたって侵してはならない永久不可侵のものであることを明らかにし、十二条は、この憲法が保障する自由及び権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならないとうたっています。
 我が国憲法の人権規定は、とりわけ十三条の幸福追求権を中心として、人類の歴史の中で、社会の変動と発展の中で生起する多彩な法的利益を豊かに保障する包括性、柔軟性を持っているところにもう一つの先駆性があると思います。
 今日、政府権力の肥大化や一層強められる大企業、経済界の利潤第一主義の経済状況の下で、憲法と現実の乖離が語られています。ですが、その乖離を生み出した責任は憲法の側にあるのではなく、専ら戦後六十年にわたる我が国の政治の側にあることをはっきりさせなければならないのではないでしょうか。
 新しい人権について、知る権利や環境権、プライバシー権など、保障されるべき人権を憲法上明文化するために改憲が必要だという議論があります。しかし、それらの権利概念をめぐる歴史の経過は、改憲ではなく基本法の整備と発展こそ必要だということを示していると私は思います。
 知る権利をめぐって、私は十年ほど前から自治体の情報公開条例を駆使して行政の監視を強める市民オンブズマン運動の創立以来のメンバーとしてかかわってまいりました。当時、情報公開条例は作る時代から使う時代に変わったと言われ、以来、あくまでよらしむべし知らしむべからずの秘密主義、官僚主義に固執して墨塗りや非公開を連発する行政に対して、非公開事由の限定や公開手数料の撤廃など数多くの成果が上げられてまいりました。その機運の中で情報公開法が制定をされました。
 確かに、法制定に当たって、知る権利を法に書き込むか否かの論争はありましたが、ここで重要なのは、我が国憲法学界に情報公開法が違憲であるという見解はないという点です。すなわち、知る権利という概念で語られる法的利益の憲法上の保障は二十一条の表現の自由によって根拠付けられるという見解が通説であり、その内容についても、報道の自由や取材源の秘匿などの自由権的側面についても、また情報公開請求権など積極的請求権の面についても、ともに保障されるという見解が一般です。だからこそ、知る権利の保障強化のために、この憲法に照らして基本法の整備と発展こそが当面の課題になっているのです。
 環境権をめぐってはどうでしょうか。我が国で環境権が初めて提唱されたのは、一九七〇年、大阪の弁護士によるものでした。一九六〇年代から七〇年代初頭に、公害列島と呼ばれたように環境問題が深刻になり、水俣病やぜんそくを始めとした大気汚染問題にかかわる運動と弁護士の中から、十三条の幸福追求権や二十五条の生存権に根差して良好な環境の中で生きる権利があるという考え方が打ち出され、一連の裁判勝利に大きな力が発揮をされました。
 これに注目をしたのが国連だったというところに我が国憲法の先駆性、優位性が表れています。一九七二年六月、国連人間環境会議で、人間環境の保全と向上が諸国民の権利であると宣言をされました。我が国国民の運動と憲法が生み出した権利は、世界で通用する普遍的な権利になったのです。
 環境権の主張が違憲であるという議論もまた我が国憲法学界にはありません。その権利の性格は抽象的権利だとされていますが、十三条や二十五条で保障されるという見解が通説です。環境権の実現のために必要なのは、改憲による明文化ではなく、環境保全や消費者保護のための具体的な立法です。環境基本法に環境権を明記し、事業の差止め請求権や情報開示請求権、環境団体の訴訟上、行政手続上の権利など、具体的な権利実現のための権利を盛り込むことこそが必要です。
 私は、深刻な有明海異変をもたらした諫早湾干拓事業の中止を求める「よみがえれ有明海訴訟」の弁護団として活動してきました。八月下旬、同事業の続行を禁止する画期的な仮処分決定が出されたところですが、今日、環境権侵害として重大な問題になっているのは、このような巨大開発や地球温暖化をめぐってCO2排出の八割を超える企業、公共部門からの排出対策なのであって、憲法の側でなく、現実政治の側の責任が問われていることを厳しく指摘をしなければなりません。
 改憲論の一部には、こうした流れ、つまり良好な環境の中で生きる権利が国民にあり、国はこれを保障しなければならないとする考え方をあいまいにし、国民の努力義務としてとらえようとする向きがありますが、私は、これはどんな政府権力によっても侵してはならない不可侵の人権保障という現行憲法そして近代憲法の本質を後退させるものと言わざるを得ないと思います。
 また、環境権など新しい権利を明文化することと九条の改正を一括して国民投票にかけようとする議論がありますが、このようなやり方は国民の多数の意思に反するものです。戦争は最大の人権侵害であり、最悪の環境破壊です。戦争と戦力の放棄という我が国の徹底した平和主義こそ、環境権保障の大前提であることを指摘をしたいと思います。
 プライバシー権をめぐっても、これを十三条の幸福追求権に基づいて保障されるという点に大きな争いはないのであって、裁判上も様々な角度から判例が積み重ねられています。盗聴や相次ぐ個人情報の漏えい事件、監視カメラの在り方など、政治のありようこそが問われているのであり、現行憲法の条項の下で既に保障されている権利をどう具体化、具体的に保障をするかが権利強化の決め手であることを重ねて強調しておきます。
 一方で、社会権をめぐる問題はどこにあるのでしょうか。私は、二十五条の生存権についても、二十六条の学習権、教育を受ける権利についても、二十七条以下の勤労権、働く権利や労働基本権についても、憲法が保障する人間らしい生き方と人間の尊厳が正に政府自らの手によって踏みにじられていることを厳しく指摘をせざるを得ません。
 二十五条が宣言する健康で文化的な最低限度の生活の保障は、諸外国の憲法と比べても極めて先進的なものです。戦後、この生存権保障の内実を鋭く問う裁判が朝日訴訟を代表として数多く闘われてきました。今年六月には、子供の高校進学のための学資保険の積立てを収入認定した福岡市の生活保護行政を退ける最高裁判決が下されたことも記憶に新しいことですが、これらに現れているのは、既に具体的に保障されている生存権の自由権的側面までを政府、行政が侵害しているという、正に重大な政治問題です。
 今日、なお生活保護法の本来の趣旨を踏みにじる申請権侵害が各地で相次いでいます。また、三位一体改革と称して、国の財政負担をこれまでの四分の三から例えば三分の二に減らそうという議論が行われています。このような政府による生存権の侵害を禁じ、社会保障制度の充実によってナショナルミニマムをあまねくすべての国民に享受される責務こそ我が国憲法の求めるところではないでしょうか。
 教育をめぐっては、憲法と車の両輪である教育基本法の改悪論があります。三十人以下学級の実現や私学助成の充実など、子供たちの学習権、教育を受ける権利にこたえる政治こそが憲法上の要請であるにもかかわらず、義務教育費の国庫負担削減という議論が行われています。
 すべての国民に人間らしく働く権利を保障し、その実現のために団結権、団体交渉権、団体行動権を憲法は保障をしていますが、これを侵しているのも政府にほかなりません。度重なるILO勧告にもかかわらず、政府は公務員の労働基本権を著しく制約をし、JRの不採用事件をめぐる国家的不当労働行為の解決や、性別や思想、信条による差別の是正に消極的な態度を取り続けてまいりました。
 さらに、労働力の規制緩和や構造改革だと言って、現実には、若い世代が正社員として働く場を奪い、パートやアルバイト、派遣や請負など、大企業にとってばかり安上がりで使い勝手のいい不安定雇用に置き換えてきた結果が今日の経済のあるべき発展をも阻害する深刻な就職難ではないでしょうか。
 私は、このような憲法の要請に逆行する政治をきっぱり正し、人間の尊厳と基本的人権の尊重という現行憲法を守り、これを現実政治にしっかり生かすことこそ、新しい権利をめぐっても、社会権をめぐっても、現在の憲法と現実の乖離状況を正す道であるということを強く指摘をし、そのために全力を尽くす決意を申し上げて、意見陳述といたします。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 田英夫君。
○田英夫君 本日のテーマになっている「新しい人権、社会権」というものは、憲法では既に国民の権利及び義務という第三章で、本当に、十条から四十条まであるわけですから、十分に書かれていると思います。
 しかし、同時に、新しい権利というものは時代の変化とともに出てきているのも事実であります。しかし、それは立法措置で対応できると、できるというよりもすべきであると。国民の権利及び義務のこの条項は、すべてこの民主主義社会の根本的な問題を取り上げているわけでありますから、その基本がしっかり書かれていれば新しいものに対する対応は十分できると。
 そこで、その中の一つの例として憲法二十一条を取り上げてみたいと思います。憲法二十一条は、短いものですから読み上げてみますが、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」という、そういうことですけれども、一言で言えば、言論の自由、表現の自由、同時にその裏返しである知る権利と、この問題に対する規定であります。このこと自体、言うまでもなく民主主義の重要な柱であります。ところが、現実にはこの二十一条が守られていないということを私は指摘をしたいのです。
 民主的な手続によって選ばれた政府、政権であっても、政権の本能的なものと言ってもいいと思うんですが、政権、政治権力は必ず自己の権力を維持するために本能的にこの知る権利、言論の自由、表現の自由というものに対して圧力を掛けるといいますか、自らの権力を維持するために文字どおりの権力を行使すると、そういう危険があるのですが、憲法二十一条はそのことをきちんと押さえているはずなんですが、現在も通用している法律の中にさえこの二十一条を実際に侵してしまっている現実があります。
 これは例えて申しますと、取り上げてみると、電波法、電波法の第四条には、無線局を設置する者は郵政大臣の免許を受けなければならないと。今、郵政大臣、総務大臣ですね、そういう規定があります。無線局はと書いてありますけれども、これは放送局、ラジオ、テレビをやっているところも正に当てはまるわけですが、つまり放送局を開設しようとする者は郵政大臣の許可を得なければならない、免許を受けなければならない。そして、同じく電波法十三条では、五年ごとに再免許を受けなければならないという規定があります。
 このことは現実にどうなってくるかというと、政府にとって都合が悪い、あるいは報道されては具合が悪いといったものがあると、政府あるいは与党はこれに対して圧力を掛けてやめさせようとするという可能性があるし、事実、そういう事実があります。これは二十一条違反とさえ私は思いますけれども、実際にはこの法律がまかり通っているわけであります。皆さんも報道で、新聞やテレビで、何々放送局に対してどういうことがあったというような報道が時々ありますからお気付きのことと思いますが。
 新聞や雑誌、つまり活字媒体はお金、それだけのお金があって用意できれば法律的には何の支障もなくできるわけですが、放送局というのは電波を使わなければならない。電波は一体だれのものか、民主主義の社会では言うまでもなく国民の共有物です。ですから、どの電波を使って放送をするかということは国民によって決められなければならない。ところが、この我が国の今通用している電波法は、郵政大臣あるいは総務大臣という権力そのものが免許を与えるという規定になっています。
 実際に調べてみると、このようなやり方を取っている国は欧米先進国にはありません。日本が先進国であるというならばこれは大変恥ずかしいことで、民主主義の先進国であるとするならば恥ずかしいことだとさえ私は言えると思います。
 このことは、例えばテレビなどで不祥事と言われるような報道があることも事実ですが、そういう場合も、今は総務省ですが、そこから何らかの介入がある。もっとはっきり私自身の体験を言えば、もう四十年も前ですが、ベトナム戦争があった。当然ジャーナリストとしてこの取材をして、現地に行って、カメラは真実しか伝えないと、カメラはうそはつかないと私はそのとき言ったんですけれども、目の前に展開された事実をテレビを通じて放送しました。
 これに対して、時の与党の幹部の方が、その中の一人はその直後に総理大臣になられた方ですが、そのテレビ局の幹部に対して、なぜあのような放送をやったんだと。そこまでならまだ圧力の程度ですけれども。
 その後、様々な圧力の末に、そのテレビ局のスタッフが成田の空港の建設反対をしている農民の人たちのドキュメンタリーを作っているときに、反対集会があるから、そこの取材をしていた家の人たちが行くならマイクロバスに乗せてあげますよと言って、割烹着を着て小さなプラカードを持った農民の奥さんたちを運んでいるところを警察が検閲をして、どういう報告をしたかというと、この放送局は反対派の農民を、凶器を持った反対派の農民を運んでいたと。凶器というのは、どうやらその小さなプラカードなんです。
 その日の夜、与党の幹事長は、このようなことをやる放送局には再免許を与えないこともあり得ると、こういう発言をされました。そこで、これを聞いた、すぐに社長の耳に入りましたから、それまで我々は言論の自由を守らなければならないと、こう言っていた社長もついに、残念だがここでやめてくれと言われて、私はテレビの画面からその日のうちに消えたんです。それは、こういう法律があるから、残念ながらということになる。
 元をたどってみれば、憲法二十一条との関係は一体どうなるんだと、法律とはどうなるんだと。法律は、見事に当時の郵政大臣の免許で作られているわけですから、言われてみればやむを得ないと、こういうことになってしまう。
 本当に言論の自由を守るということ、国民の知る権利を守るということは容易ならざることだということを申し上げたいんです。今あるこの国民の権利と義務というこの条項の中には、そうしたことがびっしりと書かれている。守ることが大事じゃないですか。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で意見陳述は終了いたしました。
 それでは、ただいまの意見陳述に対し、一時間程度、意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いいたします。
 御発言は着席のままで結構でございます。
 なお、まず最初に各会派一巡するよう指名いたしたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 河合常則君。
○河合常則君 自由民主党の河合常則でございます。
 日本の憲法は充実した人権規定を持つと言われておりますが、今は、地球環境問題の深刻化、情報化社会の進展、生命科学技術の発展など、この憲法制定時には予想もされなかった社会状況の変化が生じております。このような変化に対応するには現行憲法の人権規定ではカバーし切れない部分があって、人権保護の視点から新たな人権規定を設けるべきだと考えております。
 まず、環境問題は地球レベルの問題であって、一九七二年にストックホルムで開催された国連人間環境会議における人間環境宣言の採択を始め、地球温暖化に関する京都議定書など、国際的な取組がなされたところでございます。
 地球環境問題は我が国の国際貢献に果たしていく最重要分野の一つであり、同時に、我が国は自然と共生してきた長い歴史と伝統を持っておりますので、日本が環境を重視する国であることを憲法上も明らかにすべきではないかと思います。また、環境は不断の努力によって初めて維持できるものでありますので、環境権とともに環境保全義務に関する規定も憲法に明記すべきだと思うのでございます。
 次は、IT社会の進展に対応した情報開示請求権やプライバシーに関する規定も重要であります。
 情報開示請求権については、平成十一年に情報公開法が定められました。情報公開においては国より地方公共団体レベルの方が先行しまして、富山県においては昭和六十二年から情報公開条例が施行されています。この条例は平成十三年に全面的に見直されました。目的規定に、県民に説明する責務の重要性とともに県政についての県民の知る権利の尊重が明記されております。憲法上も情報開示請求権に関する規定を設けることを検討すべきではないかと思います。
 森元先生もおっしゃいましたように、プライバシーはマスメディアの発達や、最近ではインターネットの発達によって、有名人ばかりでなく一般国民についてもその侵害の危険性が増大しております。プライバシーは平穏な生活の基礎であります。新たな人権規定として憲法に明記することが必要ではないかと思います。
 次に、日本は先端分野の国の研究開発を抜本的に強化し、科学技術立国を推進すべきであります。そのためには知的財産立国の視点が不可欠であり、平成十四年には知的財産基本法が制定されましたが、憲法においても知的財産権の保護に関する規定を設けるべきではないかと思います。
 また、クローンなど、生命科学技術の進歩に対応した生命倫理に関する規定も検討すべきであると思います。
 なお、昨今、凶悪犯罪が注目を集めることが多いのですが、憲法には加害者である被告人に関する規定は十分に定められておりますが、過酷な状況に置かれた犯罪被害者の権利については触れられていません。被害者の人権に関する規定も真剣に検討すべきではないでしょうか。
 社会権については、憲法二十五条の定める生存権の理念に基づき社会保障制度が定められておりますが、安心でぬくもりある社会が実現される、そして安心して暮らせる年金や医療や介護保険の確立が必要であると考えます。社会保障制度はみんなで支え合うものであり、社会権規定において、社会連帯、共助の観点から、社会保障制度を支える義務、責務のような規定を置くべきではないかと思います。
 また、家族は社会を構成する重要な基礎的な単位であり、憲法にも家族に関する文言を盛り込むべきであると思います。
 憲法二十六条は教育を受ける権利を保障していますが、その内容は法律に定められていることとなっています。憲法の保障を具体化する基本的な法律となるのは教育基本法であります。それには、二十一世紀を切り開く心豊かでたくましい日本人の育成を目指す観点から、社会の形成に主体的に参画する公共の精神、道徳心、自律心の涵養や、日本の伝統文化の尊重、国土や郷土を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養を織り込むべきであると考えます。
 以上で終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 松岡徹君。
○松岡徹君 民主党の松岡徹でございます。
 御承知のとおり、日本国憲法第十三条で個人の尊重、幸福の追求権と、第十四条で法の下の平等がうたわれています。この二つの憲法規定は、二十一世紀の日本社会に人権を確立する視点を持った人権の包括的規定として、また社会権保障の前提、さらには環境権やプライバシー権などの新しい人権の根拠としても重要な位置にあります。この二つの条文を受けて少なからぬ法律が制定されていますけれども、なお多くの不十分さが指摘されています。憲法の具体化、法の整備が問題となっています。
 そこで、私はこの点に関して三点ほど提言をしたいというふうに思っています。
 まず第一点は、社会権や新しい人権を実現していくための国としての体制の整備にかかわった提言であります。
 日本国憲法は、何よりも人権実現に向けた政治の責任、責務を明らかにしています。特に憲法十三条では、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と定められています。人権と反差別の運動は、これに励まされて国会に人権立法を求め、政府や自治体に人権行政を求めてきました。その中でも最も重要な課題の一つは、この規定を実施するための国の体制が整備されていないという点であります。そこで、組織体制として内閣に新たに人権省を置き、その組織法として人権省設置法を定めるということが必要だと考えています。
 第二点は、社会権や新たな人権の実現に向けた法整備にかかわった提言であります。
 日本国憲法が保障したのは人権であります。そこでは、人権を侵害され、差別されている者が自己の人権の回復を求めて立ち上がり、闘うことが求められています。日本の社会運動はこうした憲法の要請によくこたえて、社会権の実現に努力してきたと思います。朝日訴訟以来の人権裁判、部落解放運動が推進してきた同和人権行政、そして障害者、女性、外国人住民、アイヌ民族の運動など、被差別の当事者が行ってきた運動こそ憲法の社会権を現実の社会で生き生きと実現する闘いでありました。この延長線上で、日本を真に人権文化国家として確立していくために求められている極めて重要な課題として、人権尊重・平等確立社会基本法、仮称でありますが、こういったような人権基本法の制定が必要であるというふうに考えます。
 既に数多くの府県、市町村では、国に先行して人権尊重の町づくり条例が制定されています。これに基づいて当該自治体において人権行政の基本方針や基本計画が策定され、人権審議会や人権室などの組織機構の整備が図られています。こうした地方の人権条例の実績を踏まえ、国レベルの中核的人権立法制度が求められているというふうに考えます。
 第三点は、安心して生きていくことができるための人権侵害救済制度の整備に関する提言であります。
 人権、反差別の運動はしばしば、一人の人間に対する人権侵害、一人の人間に向けられた差別を問題にしてきました。人権保障の本領は、社会で差別され、無視されがちな少数者の保護にあります。一人の個人を守ることが決定的に大事なのであります。ですから、運動は、いつの時期にも個人の人権の救済を求め、被害者が安心して頼ることのできる救済制度の実現を要求してきました。この点に関して言えば、日本にはいまだに独立性と実効性を兼ね備えた人権侵害救済機関が整備されていないという問題があります。早急に人権侵害救済法が制定される必要があるというふうに考えます。
 以上、提起しました人権省の設置、人権尊重・平等確立社会基本法及び人権侵害救済法の制定が、日本国憲法の基本精神である基本的人権の尊重、とりわけ社会権、新しい人権を実現していく上で特に重要であるということを強調して、提言を終わりたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 山下栄一君。
○山下栄一君 先ほど山口議員の方から我が党のこの新しい人権にかかわる、また社会権も含めてですけれども、基本的な考え方がございました。特に、人権カタログを追加する場合の要件といいますか基準といいますか、そういう考え方も含めて表明があったわけです。また、我が党の、憲法を改正する場合の仕方としての加憲の話もございました。具体的に環境権、プライバシー権利との関係で知る権利、また生命倫理にかかわること、永住外国人の権利、そういうようなこと、お話があったわけでございます。
 私は、この二十六条、教育を受ける権利、これは新しい人権という考え方というよりも、時代の変化とともに教育を受ける権利を更に深化させ、そしてその重みを確認することが必要ではないかという観点からちょっと述べてみたいというふうに思います。
 今、義務教育国庫負担の問題で、教育そのものが、教育活動といいますか、が非常に中央政府と地方政府の中で、また中央政府の中においても内閣の、省、省、省による対立から非常に教育そのものが翻弄されているということがあって、教育の在り方、また義務教育って一体何なんだという、そういうことをきちっと慎重に、丁寧に議論することの必要性がもう一度確認されつつあるのではないかというふうに思っているわけです。義務教育というのはだれのだれに対する義務なのかと。
 また、中央政府と地方政府の役割分担、特に財政的な観点からの役割分担の在り方も、全額国庫負担、また反対に全部一般、地方の一般財源というふうなことも含めていろいろ議論されているわけですけれども、基本的な教育そのものの在り方に対する議論がなかなか横に追いやられているということもありまして、この二十六条の確認すること、意味があるというふうに思っております。
 先ほど民主党の若林さんからも、憲法、特に人権の場合は、国際社会における、特に条約を含めた人権法、国際人権法の活用、また国際社会における人権保障の取組、こういうことが殊に日本の場合は余りなされておらないというお話もありました。私も同感でございまして、そういうことも含めてちょっとお話ししたいと思うんですけれども。
 二十六条の教育を受ける権利は社会権というふうに規定、考え方ありますけれども、それだけではなくて自由権的側面があると。自由権的な側面を前提にした教育を受ける権利だという考え方が今はもう一般的になっておるわけでございます。この教育の自由という考え方が非常に今まで議論の中で弱かったのではないかというふうに思っております。
 例えば、子どもの権利条約では、お父さん、お母さん、父母がその保護する子供については第一義的に育てるということに対する権利を有すると。これもまず教育の自由の観点からのとらえ方だと思いますし、国際人権規約、特にA規約では、学校選択の自由ということをうたっております。世界人権宣言でもそのことをうたっておりまして、親は子に与える教育の種類、教育の種類を選択する優先的権利を有すると。場合によっては、学校そのものをお父さんが作ってもいいというか、個人、団体の学校設立の自由ということもこの人権規約でうたっているわけでございます。
 特に道徳、道徳とか宗教にかかわる教育については、その父母が我が子のために自己の信念に従って宗教的、道徳的教育を確保する自由があるということを締約国が確認すると、こういうことを国際人権規約でうたっているわけですけれども、こういう考え方は非常に大事なことではないかというふうに思いますけれども、こういう観点からの議論がなかなか日本ではまだまだ深まっておらないというふうに思っております。
 また、学習権でございますけれども、教育を受ける権利が、どちらかといいますと、教育を施す側と受ける側があって、その受ける側について、きちっと機会の均等を含めて受ける機会を保障してもらって受ける権利を有するという、若干受け身的な要素があるというふうに私は思うわけですけれども、今のそういう教育の分野における人権については、学習権という、人は教育によって人間になると、人格形成そのものが教育の活動だと。それはだれかにしてもらうということもあるけれども、教育を施してもらうということもあるけれども、自分が学んでいく、それが大前提にあって、いろんな人から教育を受けるということがあるというそういう位置付けだと思うわけです。
 生涯学習の時代にあって、この学習権、自ら学ぶことによって人格を高めていく、自分自身を作っていくといいますか、そういう意味でのこの学習権の思想というのは、教育を受ける権利には入っているとは思いますけれども、そういうことも含めた教育を受ける権利なんだという確認が必要なんではないかと。個人の尊厳にかかわる在り方としてこの学習権ということが非常に考え方として大事だと思いますし、人間の権利の人権そのものを基盤としてこの学習権というのが非常に重要な考え方ではないかというふうに思っております。
 この学習権については、もう既に、もう二十年近く前ですけれども、一九八五年のユネスコの国際会議のパリ宣言でこの学習権の思想が明確になっております。学習する権利なくして人間性の発展はあり得ない、また学習する権利というのは自分自身で歴史を創造する主体なんだというそういう確認、そしてこれは基本的人権であり、その正当性は普遍であると、こういうことがこの一九八五年のユネスコの国際世界会議で、教育に関する世界会議で確認されておるわけですけれども、そういう学習権という思想の上に立った二十六条なんだという考え方を確認する必要があるのではないかという観点から意見を述べさせていただきました。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 新しい人権、社会権について発言します。
 日本国憲法前文は、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、」として、二十五条以下に社会権を規定し、二十七条は勤労の権利と義務を規定しています。これらの目標を達成するため、二十八条は勤労者の団結権及び団体行動権を保障しています。また、これを担保するために、二十九条の財産権の保障は公共の福祉によって制限されています。十八、九世紀のように、企業の利潤追求を絶対的権利として認めていては、国民がひとしく欠乏から免れることができないからです。
 日本国憲法は、伝統的な自由権の保障にとどまらず、国家が介入して国民の生存権を保障するとの歴史の流れを受けて、二十世紀の憲法として最高の到達点を示しています。憲法の基本的人権を具体的に保障していくことが政府と国会の責務だと思います。
 しかし、政府は、八〇年代から財界の規制緩和の要求にこたえて労働者派遣事業を合法化するなど不安定雇用労働者を激増させ、パート労働者は今や一千二百万人、フリーターは四、五百万に達しています。パート労働者の七割は女性で、賃金は男性正規社員の三五%にしかすぎず、低賃金は年金にも連動し、生存権が脅かされています。一日八時間労働制を無にする裁量労働制、変形労働時間制が導入され、郵政公社では一日十時間労働を始め、残業手当なしの長時間労働が各企業で横行しています。過労死と失業が相伴って、働く人々を苦しめています。OECDは、大量の不安定雇用の存在が日本の出生率に影を落としていると警告をしています。
 二〇〇一年八月三十日の国連経済的、社会的及び文化的権利に関する委員会最終意見で、日本は世界第二位の経済力を持ち、世界で最も発展した国の一つと評価しながらも、生存権に関し懸念を表明し、勧告を行っています。
 十七パラグラフでは、男女の間に同一価値の労働に対する賃金に事実上の不公平が依然として存在すること、特に、多くの企業で専門的な要職に昇進する機会がほとんど又は全くない事務員として女性を雇う慣行が続いていることに懸念を有するとして、四十四パラグラフで、男女雇用機会均等法など国内の法律及びILOガイドライン、その他のプログラム及び政策により積極的に実施し、同一価値労働に対する賃金に関して事実上の格差が男女間に存在する問題に引き続き取り組むことを警告しています。
 また、憲法二十八条に関して二十一パラグラフでは、委員会はすべての公務員について不可欠な政府の業務に従事していない公務員についてまでストライキを全面的に禁止していることに懸念を有する、これは規約の八条二項に違反し、また結社の自由と団結権の保護に関するILO八十七号条約に違反するとしています。
 四十八パラグラフでは、委員会は日本がILOに従って不可欠な業務に従事していない公務員のストライキを行う権利を保障することを勧告しています。日本の労働者の権利保護が国際水準に達していないことは明らかです。
 私は、権利、自由と表裏一体を成す義務、責任についても新規憲法に書き込むべきであるとの考えには賛成できません。憲法は国家の国民に対する義務を規定したものであって、国民に義務を課することを目的としたものではないからです。
 最後に、プライバシー権など、あるいは環境権など新しい人権を導入するために憲法改正を行うという主張に対して一言します。
 これは憲法九条改正という頂を目指すための登山口の一つであるという、そういう思いが私はしてなりません。
 二〇〇一年の個人情報保護法が提案された際、野党が一致して要求したプライバシー権、OECDも認める自己情報コントロール権を与党は認めませんでした。新しい人権の導入を持ち出してくるその背景には、改憲の世論作りという思惑があるのではないかということを懸念します。
 必要なのは憲法の人権保障規定と現実との乖離を埋めていくことであることを申し上げて、発言を終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 田英夫君。
○田英夫君 環境権ということは、新しい人権として憲法に加えるべきだという御意見が多々ありますけれども、環境権というのは、簡単に言えば権利として自然豊かな環境の中で生活できるという、そういう権利であると同時に自然を守らなければならないという義務を負うことになると思いますね。
 それは一体、それぞれの国が憲法に書かなければならないことなのかどうか。もっと人類共通の、今や人類共通の非常に大きな問題、地球規模のもちろん問題、そういうことであって、今京都議定書が問題になっていますけれども、これに対するアメリカ政府の態度などは、正に自分たちの経済的な利益のためにこの京都議定書を拒否しているという、こういうことが許されるのかどうか。守る方、守る義務もあるわけですね。
 今、最近非常に問題になったようですけれども、実は五十年前、私は南極観測隊の隊員の一人として、初めて、第一回のときに南極へ行きました。当時、既に地球物理学者の隊員たちは、現状のまま放置すれば南極と北極の氷がみんな解けてくると、そうなると国土を失う国も出てくる、大変なことになるということを予測していたわけですね。
 その結果として、実は南極だけについて言えば、最初の観測に参加した、それは国際地球観測年という国連の計画の中に加わった十一か国が、日本を含めて、南極条約というのを作りました。今やそれは百数十か国の加盟を得て守られています。
 一言で言えば、一つは、南極の自然はすべて守らなければならない。したがって、アザラシやペンギンのようなものを含めて、生物は一切捕獲しても殺してもいけないと。もう一つは、軍事利用は一切禁止すると。こういう大きく二つの柱で成り立っているわけですね。
 本当に環境を守っていくということは、今や地球の問題であり、世界じゅうの人間が守らなくちゃいけない問題になってきているわけですから、それぞれの国が憲法の中に条文を書かなければならないなどという小さな問題ではないとむしろ思います。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 各会派を一巡して御発言をいただきましたが、他に御意見のある方は挙手をお願いをいたします。
 簗瀬進君。
○簗瀬進君 発言の機会を与えていただきましてありがとうございました。民主党の簗瀬進でございます。
 新しい人権として二つのことについてお話をさせていただければと思っております。
 一つは知的創造、先ほど自民党さんの方から知的財産権というお話がございましたけれども、更にそれを広めて知的創造活動の自由を保障する、そういう権利というようなものをきちんと位置付けたらいいんではないのかなというのが一つでございます。
 それから二番目に、正にコンピューター社会が到来をいたしておりまして、ネットワークの中で様々なコミュニケーションが行われている。そのコミュニケーションの中で今までとは随分違った形での人権侵害も行われてくるような状況になっておるので、この辺についても、例えば快適なネットワーク環境を享受する権利等の新しい二十一世紀のコンピューター社会に対応するようなそういう人権を考えた方がいいんではないのかなというのが二番目の私の提言でございます。
 第一番目の知的財産権に関するものでございますけれども、この調査部の方で作っていただいた参考資料の中に各党の対応というようなものがございますが、実は、民主党についてはこの部分についての言及がございませんけれども、私の記憶では、二〇〇〇年の六月に私どもでまとめた二十一世紀の知的財産戦略「はばたけ 知的冒険者たち」と、こういうふうな政策提言をさせていただきまして、その中で、知的財産権について憲法できちんと位置付けたらいいというふうなそういう提言をいたしております。そして、それについては、二〇〇〇年の七月だったですかね、衆議院の選挙がありまして、そのときの選挙公約にもしたつもりでございますので、我が党もこの点については積極的に考えているということをまず御指摘させていただきたいと思っております。
 その次に、ただ、知的財産権というふうな形でくくりますと、特許権とか著作権とかという意外に幅が狭くなってしまう感じがいたします。
 そこで、配付されている資料集の中に知的財産権に関する諸外国の憲法規定というようなものがございまして、百四十二、百四十三ページ等にございますけれども、例えばフィリピン共和国憲法一九八七年でありますと、科学者、発明家、芸術家その他才能ある市民の知的営為の財産的価値等のかなり幅広い形でこれが憲法に規定をされるようになっております。あるいは一九九三年のロシア連邦の憲法を見ますと、創作活動と教育の自由というふうな形で、先ほど山下さんが学習権というようなお話をされましたけれども、それとも一部重なる部分出てくるかもしれませんけれども、文学的、芸術的、学術的、技術的及びその他の種類の創作活動と教育の自由が保障される、そしてその上で知的所有権は法律によって保護されると、ロシア連邦憲法はこんなふうな規定をいたしております。
 いずれにしても、我が国の将来を考えますと、国民の知的創造力を高めていくというようなことが経済的にも文化的にも非常に重要なポイントだと思います。そのポイントが憲法できちんとその方向性も含めて権利としてあるいは自由として保障されているような、幅広い知的創造というふうな形での権利あるいは自由というようなものを保障していくと、こういう取組というようなものが行われるべきではないのかなと思っております。
 それから、これもプライバシー権の一つの発展形態かなとも思うんですけれども、ネットワーク環境が非常に重要だと思います。また、ネットワーク、コンピューターの作るそういうネットワーク、コンピューター社会にアクセスする権利、そういうようなものがきちんと位置付けられていませんと、非常に情報社会における弱者と強者の関係が極めて歴然としてまいりまして、弱者が大変なハンディを負う、しかもそれがコンピューターによって増幅をされていく、非常にそういう意味では問題のある社会になってしまうのではないのかなと。
 こういうふうに考えてみたときに、このコンピューターネットワーク社会にきちんとアクセスできるような、またそこから様々な、何といいますか、不快な思いをされないような、それぞれのプライバシーの権利がしっかりと守られるような、そういうことをきちんとコンピューター社会に対応するような形で書き込むべきなんではないのかなと、このように思っております。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 鈴木寛君。
○鈴木寛君 私も簗瀬委員とほぼ同趣旨で申し上げますが、精神については全く同趣旨でございますので、より具体的な話を追加させていただきたいと思います。
 私たち民主党も、正に産業社会から情報文化社会に今移行しつつある、そうした歴史的な認識を持って憲法をつくるべきだというふうに思っております。そうしますと、産業社会において重要視されておりましたこの知る権利というものも、その重要性は情報文化社会においてはより重要になってくると思っておりますし、更に申し上げますと、市民から知民へというようなことも言われますが、正に人々のより質の高い豊かなコミュニケーション主体としての尊厳というものは、憲法の中心的な人権の一つに据えられなければいけないというふうに思っております。すなわち、人々が自己の思想、意見を形成し、かつその意見、思想が自由な流通プロセスによって保障されるということが重要だというふうに思っております。
 現行の憲法議論における知る権利というのは、正に自由権的構成をされているわけでございますが、私どもは、正に実質的な豊かなコミュニケーションの機会と能力をきちっと確保する、すべての国民、市民、知民に確保するという意味で、消極的自由権的構成ではなくて、積極的な請求権をも含む権利として再構成をしていくべきではないかというふうに思っております。したがいまして、狭義の知る権利を、言わばコミュニケーション権あるいは文化権という意味に発展、拡大、深化をさせていくということが必要だと思います。
 そのコミュニケーションの内容でございますが、まず第一段階としては、情報収集あるいは受領の権利、これは狭義の知る権利に該当すると思いますが、その次の段階として、情報編集あるいは情報創造というステージがございます。これに関しましては、正に学問の自由、それから山下委員や簗瀬委員からお話がございました正に学習権という形で、私は実は憲法二十六条の改正案も出版をさせていただいておりますが、こうした議論を更に深めていく必要があると思います。
 さらに、そこで創造した情報をやはり発信をしていくということもきちっと確保、積極的に確保されていかなければならないというふうに思います。
 そうした中で、対政府に対する知る権利というものはかなりの議論が重ねられておりますが、私が簗瀬委員の意見に追加して申し上げたいのは、経済活動の公正な活動については独占禁止法というものがございます。しかし、現在の情報文化社会の実態を見ますと、知る権利の対象はもちろん政府が極めて重要な対象であることは間違いないわけでありますが、それ以外にも、例えば企業とかあるいは病院とか、あるいは大学とか学校とか、あるいは更に申し上げると報道機関、そうした公的性格を帯びた重要な組織、団体というものに対しても、いわゆる市民側からの積極的な情報収集権というものについて議論を深める必要があるというふうに思っております。
 それから、情報編集創造能力についても、更に踏み込んで、正に人々が自己の思想、意見を形成するため、実質的に一定程度以上の文化度の高い意見を形成するための能力というものを学習する機会というものを更に社会は保障をしていかなければならないというふうに思いますし、それから情報発信の場も、事実上、情報発信をできる人とそうでない人というものの差というものも、強者弱者の問題というものも実は深刻でございます。例えば、反論権という議論がございますが、こうしたものについても更に議論を深めていかなければならないというふうに思っております。
 これも簗瀬委員と同趣旨でございますが、知的活動あるいは知的なあるいは文化的なコミュニケーション活動を促進をするという目的のために、単にその成果物であります知的な情報に対して財産権を付与するという社会的な制度設計というのは、実はこれはもろ刃のやいばといいますか剣でございまして、実はデジタル革命の本質はより低コストでより多くの人たちが情報を共有できるというところにございます。そこにいわゆる二十世紀的な排他的処分性を付与する財産権というものを単に付与しますと、もちろんそのことは大事なわけでありますが、付与しますと、せっかくデジタル革命によって人類が得た便益を損なうという側面があるということでございます。
 もちろん、知的創造活動に対するインセンティブをどのように付与するかということは極めて重要な問題で、従来はそれに財産権というものを付与していたわけでありますが、しかし、ここは財産権の付与という以外にも様々な新たな社会制度設計のありようというものがございますので、いずれにいたしましても、コミュニケーション活動あるいは知的文化的創造活動を促進し、そのことがすべての人々によって行われ、そしてその便益が享受されるという社会のために、従来の人権の構成というものをも再度その観点から見直し、再構成をする。単に、いわゆる基本的人権と社会、その自由権と社会権という構成ではなくて、情報活動という意味で、自由権、社会権と二分できない、実は一体の、今申し上げた一連の諸活動をすべてのステージでもう一度見直していくという作業あるいは検討というものが必要だということを申し上げさせていただきたいと思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 舛添君。
○舛添要一君 ありがとうございます。
 自民党の憲法調査会の議論も踏まえて、幾つか論点整理のつもりでお話しいたします。
 最初に、新しい権利については、新しい人権としてプライバシー権、それから今議論ありました知る権利、これを付け加えることには賛成でございます。さらに、それに付け加えまして、犯罪の被害者及びその家族が十分に尊厳が重んぜられるような、そういう処遇について憲法にきちっと書くということが一つの提案であり得ると思います。
 それから、いろんな権利をどういうふうに制限するかというポイントについてですけれども、表現の自由については、フィンランドの憲法で青少年の健全な育成ということ、これ有害な出版物ということですけれども、それについての規制がございますので、その青少年保護ということを一つ憲法に明記するかどうかということでございます。
 それから、憲法二十九条の財産権の問題ですけれども、ここに「財産権は、これを侵してはならない。 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。」というふうになっています。公共の福祉という概念と権利の規制ということ、これとの関連をどうするかということなんですけれども、現実に、例えば私有財産として土地を持っている人がいつまでも頑張って、そのため道路が通じないなんという大きな問題がございますので、ここは少し、財産権というものには権利だけではなくて義務が伴うんですよと。ですから、ある一人の地主が反対したら環状八号線が永遠にできないというようなことのないような形で、もう少し強く義務の側面を第二十九条に書くべきではないかと思います。
 それから、八十九条の、これはちょっと権利というより、公共その他の公の財産を宗教上の組織若しくは団体の使用のために使ってはいけないということなんですけれども、例えば、特に神道絡みの問題ですけれども、宗教なのか習俗なのか非常に不明な点については、非常に習俗的な側面が強いものについてはこの規定を外すというようなことを考えてもいいんではないかということでございます。
 それから、二十二条の職業選択の自由、それから二十九条の今の財産権との絡みにおいて、自由な企業活動を許すような形での経済活動の自由ということを明記するのはどうでしょうかという提案でございます。
 それから、先ほど我が党の森元委員の提案にもありましたけれども、もちろん国民の権利を守るための憲法なんですけれども、国民の責務のレベルでも、一つ、その納税の、三十条ですかね、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」という義務の側面で納税ということしか書いていないんですけれども、先ほどの年金の議論じゃないですけれども、税か保険かという話があって、税と保険を合わして国民の負担率を五〇%以上にしないというような話があるわけですから、税と同レベルに社会保障のための財源としての保険料というか、これについても明記した方が未納の問題なんかは起こらなくて済むんで、表現はどうであれ、納税ということではなくて、国民負担ということを明確に書いた方がいいんではないかと。
 それから、憲法九条との絡みで、いろんな緊急事態的な状況、いわゆる有事立法的なことを我々やっているわけですから、国を守る、国家の独立と安全を守る責務というのは国民はちゃんと有しているんだということをもっと明確に書くか。そういうことについて我が党でも議論をしておりますので、是非この参議院の場でも今私が申し上げた点について議論を深めたいと思います。
 以上です。ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 松井孝治君。
○松井孝治君 民主党の松井でございます。
 今の各委員の御発言とも関連するんですが、私も、権利のみならず、責務ということにもう少し日本国憲法は力点を置くべきだと思っています。その際の責務は、当然政府の責務もあるわけですし個人の責務もあるわけでありますが、同時に、それらを通じて、同世代の人間に対する権利と責務だけではなくて、将来世代に対する責務という意味において政府も国民も同様の責任を持っている、そこをもう少し強調すべきであろうと思います。
 その最たるものが環境権でありまして、そもそも環境権ということでどこまでが対象としての環境なのかというのも議論があって、これは文化財的なことまで含むんではないかというような議論もあることは申し上げたいと思いますが、やはり将来の世代に対する責任、あるいは環境そのものに対する責任ということまで含めてこれは考えるべきではないかと思います。
 もう一点、これ重要な問題で、先ほど来、簗瀬委員あるいは鈴木委員からも御発言がありましたが、情報の問題について取り上げたいわけでありますが、いわゆる自己情報コントロール権、これはプライバシー権とそれから知る権利のどの辺りで折り合いを付けるかということにも関連するわけですが、先ほど鈴木委員がお話しされたように、非常に情報社会が進展している中で、正に国民の権利としてコミュニケーション権というようなものが言われる中で、例えば自己情報であればすべてそれはコントロール、自らのコントロールにあるべきかどうかというのは、先ほど鈴木委員は主として法人についておっしゃいましたが、これは個人についても言えるわけでありまして、もちろんプライバシーというのは守らなければいけませんが、同時に、例えば私が自分個人に関する情報をすべて差し止めるというようなことになってしまうと、IT社会において情報の検索とか編集とかいうことが一切不可能になってしまうわけでありまして、自分の自己情報は全て個人に帰属するのかというと必ずしもそう言い切れない部分があって、この点をプライバシーとどう整合させていくかという点が非常に難しく、また重要な点であろうと思います。
 それとも若干関連をいたしますが、自己決定権といったときに、自らの生命とか身体の処分はじゃ自らが決定していいのかということになっていきますと、これも、本当に生命というもの、あるいは体の一部分の細胞まで含めて、それが本当に個人に帰属するのかどうかという生命倫理の問題に絡んでこようと思います。
 そういう意味で、やはりこの我々が議論すべき新たな憲法、あるいは日本国憲法の今後を考える上で、先ほど舛添委員がおっしゃいましたけれども、どこまでが、その財産であってもですね、どこまでがその個人のもので、どこからが公のものかという区分は、これは情報についても個人の生命についても非常に難しい面があろうと思いますが、そこのところを避けることなく、今申し上げたような特に自己情報コントロール権、あるいは自己決定権ということについて、やはり個人のものでありながら、どこまでそれを個人のコントロールに属させるべきか、あるいは同世代の人間の権利とか義務だけではなくて、将来世代に対してどういう我々はルールを作ることが本当に国民の利益になるのかということを幅広く検討すべきだと思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 他にありますか。
 鈴木君。
○鈴木寛君 もう一点申し上げたいのは、結社の自由でございます。
 正に今までの憲法というのは国家と個人ということを規定しておりましたが、もう既に、いわゆる先ほども申し上げましたように、様々な結社、団体というものがこの社会の重要な構成要素になっていることは間違いないと思います。
 手短に申し上げますと、日本国憲法では結社の自由が守られている、認められているにもかかわらず、我が国は、例えば私立学校の設置などで事実上の結社の自由が相当制限されている例がある、これは民法三十四条などの問題でもそうだと思います。例えば私立学校なんかの場合は、先ほど申し上げました学習の自由とかあるいは教育の自由というようなことについてのその一定の制限ですから、こうした問題を、実質的に結社の自由を保障するということは極めて重要だと思います。
 その一方で、結社の責務と結社の義務という、例えば企業とか団体とかそういったものについて、従来は憲法といえば国と市民との関係を構成しておりましたが、結社の自由の実質的確保と、そしてそれによってできた結社の義務と責務ということについて問題提起も併せさせていただきたいと思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 他にございませんか。
 舛添君。
○舛添要一君 今、結社の自由、二十一条についてありましたんで、これは憲法と異なる、憲法と直接関係ないかもしれませんですけれども、こういう問題が政治家にはございますよということを提起さしていただきたい。
 二十一条は、これ非常に重い。それは、田委員も先ほどおっしゃったように、非常にこれは基本的な人権にかかわるところでございます。したがって、破防法という形で社会に有害な団体を規制することはできますけれども、それ以外はほとんど憲法上は不可能でございます。
 しかし、公職選挙法、政治資金規正法か、つまり政治家に関する法律は、ちょっと今正確なところ出ませんが、例えば政治団体というのは非常に、比較的容易に作ることができます。具体的に言うと、舛添要一を後援する会というのを作ることができるとともに、舛添要一の政治生命を絶つ会というのも作ることができるんです。つまり、ある政治家を支援するないしある政治家を引きずり下ろすというか攻撃する、両方の団体を作ることができます。
 普通、そうすると、破防法に抵触するからということで、この政治団体を活用していろんな方がいろんな団体を作られる、そういう団体について、これは国会内の議論でも、法務大臣へのお金の流れがどうだとかいうようなときに、当然皆さん、政治団体の話については支援する団体のことしか頭に置いていないんですけれども、ある政治家に反対するための団体も作ることが可能なんですね。
 そうすると、現実的な行動に出て、それが刑法に抵触するようなとき以外には規制ができないわけです。そして、事実上、この政治団体ということを隠れみのにして、好ましからざると、まあ私が言うとこれは反論があるでしょうけれども、いろんな、いろんな政治目的を達するための団体が自由にできるようになっている。
 私自身は、こういうものは何らかの形で、議員立法ででもある程度の規制をした方がいいんではなかろうかというふうに検討したことがございますけれども、この憲法の第二十一条は非常に重いんです。ですから、何でもかんでも規制しろとは申し上げませんですけれども、今言ったような問題がございますということだけ皆さんの御注意を喚起しておきたいと思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 他に御発言もないようですから、意見交換はこの程度といたします。
 午後三時五十五分に再開することとし、休憩いたします。
   午後二時四十分休憩
     ─────・─────
   午後四時開会
○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 「新しい人権、社会権」について、神戸大学大学院法学研究科教授の赤坂正浩参考人及び早稲田大学社会科学総合学術院教授の西原博史参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、赤坂参考人、西原参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず赤坂参考人にお願いをいたします。赤坂参考人。
○参考人(赤坂正浩君) 神戸大学の赤坂でございます。
 意見陳述の機会を与えていただきまして、誠にありがとうございます。私に与えられました課題は、いわゆる新しい人権について御説明を申し上げるということでございます。そこでまず、新しい人権という言葉の意味を確認しておきたいと存じます。二つの意味で使われているというふうに考えられます。
 第一に、この言葉は、一方で信教の自由ですとかあるいは職業の自由などの古典的な自由権とも内容的に異なっており、他方で福祉国家理念の発展によって憲法に取り込まれました社会権とも内容が異なっていると。そして、これらの人権よりも時期的に後になって主張されるようになった新しい内容の人権という意味で使われております。
 第二に、この言葉は、日本国憲法の個別の人権規定に明文の根拠を持たない人権という意味でも使われております。
 この二つは重なり合うわけですが、しかし、必ずしも同じではありません。例えば、いわゆる知る権利は、国家権力の介入を拒否する古典的な自由権とも違いますし、また、何らかの福祉的なサービスを要求する社会権とも異なりますので、第一の意味では新しい人権と言うことができるわけであります。しかし、日本の憲法学の多数説は、憲法二十一条の表現の自由の中には情報を受け取る権利も含まれるとしておりまして、知る権利の根拠を憲法二十一条に求めますので、したがって、知る権利は第二の意味での新しい人権とは言えないということになります。
 そこで、本日のお話は、内容的には従来の自由権、社会権に収まり切らず、条文上の根拠の点では個別の人権規定でカバーできないという二重の意味での新しい人権を対象といたしたいと存じます。このように、二重の意味での新しい権利の主張は、御案内のように憲法十三条を受皿として展開されてまいりましたので、したがって、お話は憲法十三条に絞られるということになります。
 そこで、レジュメの二でございますが、憲法十三条は、新しい人権主張との関係で、従来学界でどのように理解されてきたのかという点について、大変教科書的で恐縮でございますが、簡単にまとめさせていただきます。
 まず第一に、憲法制定時から十数年ほどの間は、憲法十三条が明文規定のない人権主張の根拠となり得るかどうかという問題意識は学界にはなかったと言っていいと思います。しかし、一九六〇年代の半ばころからは、十三条が新しい人権の受皿となることが学説上ほぼ一致して認められるようになっております。
 第二に、新しい権利主張の受皿とされてきましたのは、十三条前段の「すべて国民は、個人として尊重される。」という部分ではなくて、十三条後段の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の部分であります。この「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」が一般に幸福追求権というふうに略称されております。つまり、新しい人権主張の多くは幸福追求権の内容の問題として論議されてきたわけであります。
 第三に、学説は、生命、自由、幸福追求という三つの概念を厳密に区別して論ずることはせずに、一括して幸福追求権と呼んでおります。これは、通常の法律学から見ますとかなりラフな解釈態度なわけですが、こういうやり方によって十三条後段の一般条項としての弾力性がむしろ確保されてきたということでございます。
 第四に、幸福追求権規定は、ある権利主張を十四条以下の個別人権規定によって根拠付けることが無理だと思われる場合に権利根拠として引き合いに出され、そしてそのあるものは裁判所によって承認されてまいりました。つまり、幸福追求権規定は、他の個別の人権規定との間で一般法と特別法の関係に立ち、あくまで他の人権規定を補完する規定と考えられております。
 ところで、およそ憲法の人権規定はすべて一般市民の何らかの行動や状態を保護していると考えられます。ここで行動と申しますのは、特定の企業に就職するとか特定の宗教団体に加入するなどの正に市民の行動のことでありまして、それから、状態と申しましたのは、例えば逮捕令状なしに逮捕されないですとか損失補償を受けることなく財産権を奪われないといった、そういう人権規定の保護内容のことを念頭に置いております。
 そこで、第五に、幸福追求権規定は一般市民のどのような行動や状態を保護する規定なのかが他の人権規定の場合と同じく問題となります。これは、言い換えますと、幸福追求権規定は新しい権利主張をどこまで容認するかという、そういう問題であります。
 この点について、憲法学界の議論は大まかに申しますと二つの説に割れております。すなわち、幸福追求権規定が保護しているのは他の人権規定でカバーされない市民の行動や状態の全部であるというふうに考えます一般的自由説と、人格として尊重されるべき個人が自分の人生を自律的に形成していく上で不可欠な行動や状態だけが幸福追求権規定で保護されるというふうに考えて保障の範囲に初めから絞りを掛ける、いわゆる人格的生存説であります。
 いずれの説にも長短あるわけでございますが、少なくとも裁判所は人格的自律に不可欠かどうかという基準で新しい権利主張を認めるとか認めないという判断をこれまで行ってきたわけではないのであります。
 そこで、三番目でございますが、幸福追求権規定を根拠として、それでは、とりわけ最高裁判所の態度とも関連付けながら、具体的にはどのような権利が主張され、これまで承認されてきたのかという点を見ておきたいと思います。
 以下、レジュメでお示しいたしましたように、大きく三つ、プライバシー権といわゆる自己決定権と環境権について、ごく簡単にお話を申し上げます。
 早くから憲法十三条と関連付けて論じられてきましたのが、御承知のようにプライバシー権でございます。昭和三十九年の「宴のあと」事件の東京地裁判決が、既に、私生活をみだりに公開されない権利としてのプライバシー権の保障は、個人の尊厳を保ち幸福の追求を保障する上において必要不可欠なものだと述べまして、条文こそ挙げておりませんが、憲法十三条がプライバシー権の淵源であることを示唆しております。
 これに対して最高裁判所は、長い間プライバシーという言葉も使いませんし、それからプライバシーとは何かという包括的なアプローチも取らずに、学説が通常プライバシー権の一部ととらえている市民の行動や状態の保護について、それぞれの事案ごとに検討していくという態度を取ってまいりました。
 その結果として、例えば次のような権利、自由が最高裁判所によって認知されております。すなわち、憲法十三条が保護する個人の私生活上の自由の一つとして、承諾なしにみだりに容貌などを撮影されない自由であるとか、あるいは前科のある者もこれをみだりに公開されない法律上の保護に値する利益でありますとか、あるいは憲法十三条を明示した上でプライバシーと関連する人格権としての名誉の保護を承認いたしました判決とか、あるいはやはり憲法十三条が保護する個人の私生活上の自由の一つとして、みだりに指紋の押捺を強制されない自由があるということを認めたり、これらがそれぞれ最高裁判所によって承認されたわけであります。
 こうした事案ごとの解釈を積み重ねながら、最高裁判所は、今お話ししました、みだりに指紋の押捺を強制されない自由があることを一般論として認めた平成七年の判決の中でプライバシーという言葉にも言及するようになります。さらに、昨年、平成十五年の九月のいわゆる江沢民講演会名簿提出事件判決の中で、最高裁判所は、氏名とか住所とか電話番号などのいわゆる個人識別情報もプライバシーに係る情報として法的保護の対象となるということを正面から認めて注目されたところでございます。
 他方、今日の憲法学説は、プライバシー権の観念を私生活の秘密の保護から更に拡張して、個人が自分についての情報の流れをチェックできる自己情報コントロール権と理解しております。これは御案内のように、コンピューターネットワークの普及を始めとして、個人情報を収集、保管、利用する技術的な手段が飛躍的に発展し、以前とは違った形態で私生活の静穏とか秘密が侵害されるようになったことの反映であります。
 憲法学説は、憲法十三条の幸福追求権規定が自己情報コントロール権を含むと解釈していますので、その点では判例よりも明快でかつラジカルと言えるかもしれませんが、しかし同時に、学説も、個人が政府機関であるとかあるいは民間団体などに対して自分の情報の開示とか訂正とか削除を求めるためには、憲法上の権利規定だけでは十分ではなくて、具体的な法令の整備が必要だというふうに考えてきたのであります。
 二番目に取り上げておきたいのは、いわゆる自己決定権であります。
 憲法学界では、幸福追求権規定が自分の人生のいろいろな事項について公的な規制を受けずに各人が自分で決定する権利の保障を含む、そういう考え方が有力であります。実は古典的な自由権も、例えば住所を選ぶとかあるいは職業を選ぶなど、個人の自己決定の保護を内容としているのが普通なわけですが、幸福追求権規定から導かれるとされます人生のいろいろな事柄に関する決定権のことが、近年では特に自己決定権というふうに呼ばれております。
 これには、例えば安楽死や尊厳死、病気の治療方針の決定、臓器の提供といった自分の生命や身体に関する自己決定、それから妊娠中絶、体外受精や代理母の依頼のような生殖とか家族形成に関する自己決定、そして性的な行為とか服装や髪型の選択のようなライフスタイルに関する自己決定といった領域があると言われております。
 裁判でも、安楽死とか、あるいは高等学校の校則による生徒の生活規制でありますとか、あるいは信仰を理由とする患者の輸血拒否といった問題が争われたことがございます。判決の中には、医者による安楽死措置が刑事免責される要件を示した下級審判決や、あるいは患者本人の輸血拒否の意思が非常に明確かつ堅固で手術直前の医者の説明が欠けていたケースについて、承諾なしの輸血を含む医療行為が患者の人格権の侵害に当たることを認めた最高裁判所判決もございます。
 しかし、裁判所は、幸福追求権規定を根拠とするいわゆる自己決定権を正面から認知して、これらのケースを自己決定権の部分問題と位置付けて検討してきたということではありません。いわゆる自己決定権で保護される行動や状態には、具体的には何が含まれており保護の程度はどうあるべきかという点については、専門家の間にも様々な意見がございますし、世論も割れているテーマが多いと考えられます。
 中でも、夫婦以外の男女による体外受精であるとか、あるいは出生前診断などのような先端生命科学や生殖医療にかかわる諸問題については、その許容性に関してコンセンサスがあるとは言えない状況であろうと思います。
 こうした領域についても、個人の自己決定を最大限尊重することが憲法十三条の趣旨にかなうのか、それとも、例えば人間の尊厳を守るという観点から、当事者の自己決定を制限する方がむしろ十三条の趣旨に沿うのかという点について、学界でも議論が割れているという状況であります。
 幸福追求権規定から導かれる代表的な権利として、第三番目には環境権を挙げる必要があります。一九七〇年の日弁連の人権擁護大会で、大阪の弁護士が憲法、民法上の権利として環境権を主張したのが出発点だとされるわけですが、その主張の趣旨は、御存じのように次のようなことであります。
 つまり、大気であるとか水や日照や通風や自然の景観などはいずれも人の生活に不可欠なので、その不動産の所有権などとは無関係にすべての人に平等に分配されるべきだと、つまり環境は万人の共有に属するのであると、人はだれしも生まれながらに良い環境を享受し、かつ、これを支配する権利を持っていると、この権利は憲法二十五条、十三条に根拠を持つ一種の基本的人権でもあると。この提言を受けまして、憲法学者の間では憲法二十五条と十三条によって環境権が保障されているという解釈が急速に支持を得たのであります。
 環境権に関しては、プライバシー権や自己決定権の場合以上に、憲法学説とそれから裁判所の間に極端なコントラストがあるように思われます。つまり、主要な憲法解説書の大部分は、十三条の幸福追求権に環境権が含まれることを承認しているのに対して、裁判所の側は、最高裁も下級審もほぼ一致しまして、憲法上の環境権を否定あるいは黙殺しているわけであります。ただ、この亀裂は一見するほど深いとも言えないと思われます。多数説も、憲法上の環境権だけを直接の根拠として裁判で具体的な請求を行うことが可能だとは考えておりません。他方、判例の方も、特定人の健康被害と環境汚染との因果関係、それから原因者の過失が立証される場合には、人格権侵害という、そういう法的な構成を取って、主として民法の不法行為に関する一般規定を根拠としまして、一定の裁判的救済を認めているからであります。
 これまで判例と学説、憲法学説についてお話をしてまいりました。そこで、最後でございますが、四番目としまして、幸福追求権規定を受皿として主張されてきたプライバシー権、自己決定権、環境権という三つの新しい人権が法律上はどのような展開を見せているのかという点についても簡単に申し上げます。
 法律名だけを挙げさせていただきますと、これはもう皆御案内のことばかりで恐縮ですが、プライバシー権保護の領域では、昨年初めて、民間事業者も規制対象とします個人情報保護法が制定され、あわせて行政機関個人情報保護法と独立行政法人個人情報保護法も制定されまして、自己情報コントロール権を実質化する全国的なレベルの法制度がようやく整えられることになりました。
 環境保護の領域については既に三十年以上にわたって公害規制に始まる種々の法律が制定されてまいりましたが、中でも、公害対策基本法を発展的に解消して一九九三年に制定されました環境基本法は日本の環境政策の柱となる法律でございます。
 これらに対して、いわゆる自己決定権の領域は極めて幅が広く、主張される権利も多種多様である上に、規制の手法も学界などの自主規制であるとか、監督官庁の行政指導が混在しているという状況ですが、先端生命科学に関連する法律としては日本では二つだけ法律が制定されているわけであります。一九九六年のいわゆる臓器移植法と二〇〇〇年に制定されましたいわゆるクローン技術等規制法であります。
 しかしながら、個人情報保護法にはプライバシー権ないし自己情報コントロール権という文言は盛り込まれず、環境基本法には環境権の保障規定は置かれませんでした。憲法学説が十三条の幸福追求権規定に含まれていると考えているこれらの権利が、それぞれの領域の基幹的な立法の中で明文化されませんでしたことは、学説の立場から見ますと大変残念なことであります。
 とはいいましても、自己情報コントロール権の保障とか環境権の保障という言葉だけが法律に取り入れられても、こうした理念的な権利が現実に機能するわけではないということを考えますと、個人情報保護法制や環境法制の整備によって、プライバシー権論や環境権論は言わば実を取ることができたと言うこともできるかと思います。
 そういたしますと、プライバシー権規定や環境権規定を憲法に追加することは、これらの理念を明確化し、幸福追求権規定の言わば過重な負担を解消するという点で意義がないわけではありませんが、しかし、これまで御説明しましたような日本法の発展状況を見ますと、どうしてもというほどの緊急性とか不可欠性を持つとは言えないと思います。
 他方で、憲法十三条の生命、自由及び幸福追求に対する権利という表現は、トーマス・ジェファーソンが起草したアメリカ独立宣言をモデルとしていて、十七世紀イギリスのジョン・ロックの思想にさかのぼるというふうに言われますように、元々は啓蒙主義的な自然法論から生まれたものでありますが、しかし、社会の変化に応じて裁判実務や学界における解釈の対立や調整や妥協を経ながら、そしてまた立法府の御活動とも相まって、結果的には新しい人権が次第に具体的な形を取っていくための格好のフォーラムを提供する、そういう意味で優れた条文であると考えられます。
 この規定は、新しい人権の幾つかが仮に憲法に追加され、あるいは基幹的な立法の中に盛り込まれても、将来ともに維持されるべき条文ではないかということを申し上げまして、私の意見陳述を終わりたいと思います。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 次に、西原参考人にお願いいたします。西原参考人。
○参考人(西原博史君) お招きいただき、意見陳述の機会を与えていただきましたこと、まず心より感謝申し上げます。
 いただきました課題は、社会権についてということでございます。憲法の在り方を考える上で、この社会権について現時点で考えなければならないこと、意識しなければならないことを幾つか御紹介させていただきたいと思います。
 まず、標準的な定義からしますと、社会権とはですけれども、これは、憲法二十五条で保障されております生存権、二十六条の教育を受ける権利、二十七条の勤労権、二十八条の労働基本権など、国家に対して具体的な給付、金銭給付、あるいは公立学校制度のような具体的な制度を求める規範的給付にかかわる給付の提供を求める権利という形で整理できるかと思います。
 そういたしますと、社会権というものは、国民に権利を保障する上で必ず実現されていなければならない国の活動を国に対して義務付けるという性格のものとなってまいります。その点では、自由権という形の基本的人権とは全く異なったものになります。
 自由権は、国家に対して妨害してはいけない個人の領域というものを確立する、その意味では、幸福をどういう形で実現するかということと関係なく、すべての国で実現されていなければならない一定の立入禁止領域を境界設定するという役割を負うものと言えるような気がします。
 それに対して社会権は、限られた範囲ではありますけれども、何が国民のために必要なのか、国民の幸福を実現するために国として何を実現しなければならないのかという点にかかわる決定を含んでおりますので、この限りでは非常に重要な国家の存在理由にかかわる決定としての位置付けを持つことになります。
 もっとも、国民個人が社会権を持っている、その結果として国が必要な給付を義務付けられているという言い回しについては若干の注意が必要になってまいります。なぜならば、古くは、社会権はプログラム規定でしかない、すなわち、法的拘束力を全く欠いた政治的目標にかかわるあいまいなぼんやりした規定でしかないという考え方が憲法学の中でも支配的だったわけですけれども、こういう考え方を前提としてしまいますと、国民の権利とされているものは、実は国民個人レベルでは何も要求できない、ぼんやりしたものという形になってしまわざるを得ないからでございます。
 しかし、一九六〇年代以降、国民個人の権利だとして保障されているものが法的にはゼロだというような考え方は次第に克服されていくことになりました。具体的な立法措置が進めば、その分、個人にとって保障されている権利が強化されていくというような理解、これは一般に抽象的権利という考え方として説明されますけれども、そうした理解が憲法学の中でも一般に承認されていくようになるわけです。
 それとともに、一定範囲で社会権の最低限度の内容については、それ自体が具体的権利であり、その最低限度の内容が実現されていないことが、即、憲法違反であり、裁判所はそのことの憲法違反を確認できるというような、社会権の中にある具体的な権利としての側面を持った内実も次第に承認されるようになってきているというのが現在の理論水準であるかと思います。
 次に、まず生存権との関係で理解されております自律の原理というものについて御説明を進ませていただきますけれども、憲法二十五条で保障された生存権は、プログラム規定だと考えられていた時代には、非常に広く国民生活の豊かさを全般的に保障するというように理解されていました。国家は国民生活の不断の向上を目指した経済政策を遂行しなければならないというような理解です。しかし、一九六〇年代以降、二十五条は、むしろ健康で文化的な最低限をきちんと保障しなければならないという点に重きを置いた読み方に変わっていきます。
 実際には、裁判所は必ずしもその動きにきっちりと付いてきているというわけではないかも分かりません。一九七〇年代以降も、最高裁判所は、例えば生存権を豊かさという経済的利益と結び付ける発想を持ち続けているようにも見受けられますし、例えば労働基本権などを、生存権イコール豊かになる権利を労働者が実現するための手段だという割り切り方をしているようにも見受けられます。しかし、飽くなき豊かさの追求を包括的に生存権という基本的人権だと呼んでしまう考え方については、現在では理論的な支持は得られないのではないかというのが一般的な議論の水準だと思います。
 最近では、日本国憲法における社会権条項も、個人の自律という基本原理との関係を意識しながら解釈される傾向が強まっております。すなわち、個人の自律を基本原理としながら、自律が前提とするような条件が個人の力で確保されていないような場面で、国家の側が、自律の物質的条件の欠如、あるいは自律のための必要な条件を作り上げるという理解になってまいります。
 例えば憲法二十五条が想定するような貧困という条件ですけれども、そこでは、その貧困という条件によって個人が自己実現できない、個人が自分の力を発揮できないことを問題視し、それを補うような措置を国家に求めるという理解になってくるかと思います。
 そうしますと、ここで言う生存権の問題というのは、国家の恩恵の問題でも哀れみの問題でもないということをまず確認していくことが必要かもしれません。
 だれもがひとしく様々なリスクに直面しているということになるわけです。だれもが疾病、病気になるリスク、あるいは高齢化のリスクは恐らく多くの者が直面する、そして、そういった不幸な原因が重なることによる貧困リスクというものも、だれしも陥るかもしれないリスクとして目の前にあるいは潜在的に存在しているということになるんだと思います。そうしたリスクを社会全体で担っていこうというのが恐らく生存権という考え方の根底にあるのかなというふうに理解できるわけです。
 たまたま不幸な偶然が重なることによって、ある特定の人のところでリスクが具体化してしまう、そのリスクが実現してしまうことになるわけですが、そうしたものに対しても人間としての尊厳があり、なおかつ最低限の自律の条件が保障されるような、そうした生活を確保するという方向性が基本的人権としての生存権の内容というふうに考えられるのではないかというふうに理解しております。ですから、この点で、だれしもがリスクに直面した場合に、あるいはリスクが自分で実現した場合には、平等にひとしくサービスを受けられるというところが本質的なポイントになってまいります。
 三番目の機会の平等との関係で申しますと、こういうふうに平等にだれしもがサービスにあずかれるという部分は社会権を考える場合の非常に基本的な内容となってくるわけです。これは、社会権というものが、国家の恩恵の問題ではなくて、やはり自律を確保する上での個人の権利であるということを考えた場合に必然的に認めざるを得ない方向性ということになるでしょう。
 最も典型的には、機会の平等という観点がかかわってまいります憲法二十六条の教育を受ける権利というのがこの公平、平等という観点に一番重要な形でかかわってまいります。子供が将来、社会の中で活躍するために身に付けていなければならない基礎的な能力を、どのような家庭環境であってもひとしく、最低レベルにおいてひとしくみんなが享受できるようにするというところに教育を受ける権利の基本的な内容があるというふうに理解できるわけです。ですから、そこでは、出身階層それから家庭環境などなどによる子供の有利不利をある程度の線で調和、調整するというところに権利保障の意味が見いだされるということになってまいります。
 日本国憲法が踏まえてまいりましたこの確認は、最近の教育改革の流れの中でむしろ脅かされているのかも分かりません。
 中央教育審議会の二〇〇三年三月二十日答申などが推奨しております個性の尊重という考え方がございますけれども、そこで言う個性の尊重は、本来、教育の場で必要な一人一人違った考え方があるからそれを尊重しようという方向性ではない個性の尊重を言っているのではないか。具体的に申しますと、勉強嫌いでできが悪いのも一つの個性なんだから、そういう子に無理やりに勉強させるのはやめにして、そこで余ったエネルギーはもっと優秀な子供たちにつぎ込むことにしましょうというような、そういう個性の尊重が言われているようにも見受けられます。
 しかし、現在進んでいる学校の中の状況というものは、決して十分な時間を掛けて学校の中で基礎的な学力を養うことができる状態に向かっているのではないのかもしれないという観察がございます。結局、例えば忙しくて子供の宿題を見てやることのできない家庭、あるいは経済的事情で夕方塾に子供を送り込むことのできない家庭、そういう家庭の子供たちが必然的にできの悪い子供たちと呼ばれて、そしてチャンスを奪われていくというふうになるならば、これは恐らく教育を受ける権利というものが保障されたときの基本的な方向性とは違ったものを目指していると考えざるを得ないのかもしれません。
 貧しい家庭に埋もれる才能であっても、それを大事に、社会共有の財産として大事に発掘していき、それを育てていこうというのが恐らく能力主義という言葉が使われるときの一つの方向性なわけですけれども、現在進んでおります教育をめぐる議論というのは、むしろ、貧しい家庭の中で埋もれた才能があったらそれはそのまま埋もれ続けさせてつぶしてしまおうということに向かっているのではないか。これが私の個人的な危惧でしかないことを祈っております。
 一般的に申しまして、平等という理念は社会権と分かち難く結び付いているというのは、ある種当然のことかも分かりません。すべての人が平等な条件で社会に参画し、自らの能力を発揮できるようにするという点に社会権の基本的な考え方があるからです。
 実際には、今社会の中では様々な差別問題がむしろ深刻化しているというふうに考えることができるかもしれません。しかし、弱者とされる人たちを不幸に追い込むことによっては、やはり社会の活力は生まれてくることはないでしょう。むしろ異端の、少数者とされる人たちを、積極的に活躍できる場を与え、そして彼らの能力を引き出すことによって正に様々な方向で発展できる社会の力量というものが生まれてくるでしょうし、そして、同時に連帯感で結び付いた結束の強い社会というものが実現できるような気がいたします。
 もしかすると、同じことが男女の関係についても言えるのかも分かりません。
 男女共同参画という考え方は一通り浸透しているわけですけれども、それに不満を抱く方々というのはなおいらっしゃいますし、男性優位の社会構造をもう一度作り直そうという方向を向いているやに見える提言も見受けられる状況になってまいります。そこでは、男らしさ、女らしさという価値が重要だというふうに指摘されるわけですけれども、しかし、なぜ男が優しくちゃいけないのか、なぜ女が勇敢であってはいけないのかということに答えられる方は恐らくいらっしゃらないのではないかというふうに考えております。
 実際に、男らしさ、女らしさという価値は、実は個人の適性であるとか能力というものを無視して、特定の性別ごとにふさわしいとされる生き方を個人に押し付けてしまう役割を果たしてしまうわけですけれども、これはやはり社会的な観点から見て多くの損失にこそ結び付くのではないかという点をしっかり認識することがある意味必要なのではないかと思います。その意味では、男と女の基本的な対等性というものは現在においても重要な社会的原理として承認し続ける必要があるように考えられます。
 例えば、憲法二十四条を改正するという形で、家庭内におけるむしろ女性の従属的な関係を作り上げるということが必要だという指摘も聞こえないわけではないんですが、そのことによって恐らく個人の能力が開花するような社会は実現できないだろうという点をもう一度踏まえるべきであるような気がいたします。
 家族に関係して今必要なのは、恐らく子供の精神的な発達に対して責任を負うのは親であり、社会であり、国家ではないという確認に尽きるのではないでしょうか。
 既にある程度かかわってまいりましたけれども、社会権の領域に関しましても様々な憲法改正にかかわる提言というものがなされております。
 しかし、赤坂参考人のお立場は、そこでは緊急不可欠のものはないというお立場だったわけですけれども、私は、それをもう一歩進めて、もしかすると、社会権にかかわった領域で憲法改正に携わることはむしろ有害なのではないかという視点を提供させていただきたいというふうに思います。
 と申しますのも、現在提示されていますような憲法改正にかかわる提言は、実際に社会権を具体化して権利として深化させていこうという方向を目指すというよりは、むしろ社会権を換骨奪胎して義務規定に作り上げていこうという方向を目指しているように見受けられるからということになります。
 生存権にかかわる問題に関しましては、今年の六月十五日に明らかにされました自民党憲法改正プロジェクトチームの論点整理が、家族を扶助する義務、社会連帯、共助の観点から社会保障制度を支える義務、責務を憲法に盛り込むべきだという立場を明らかにしています。今日の読売新聞に明らかにされましたというか紹介されました自民党憲法調査会の憲法改正大綱原案では、この点は納税の義務と並ぶ社会的費用を負担する責務に吸い込まれていったように見受けられます。
 こうした義務、責務の規定は、国、地方自治体の社会保障負担を減らそうとする意図に出たものだとするならば、国民の間で負担を偏らせていく効果を生んでしまいますし、むしろ活力ある社会の創出を妨げることになってしまうでしょう。
 そうではなくて、社会保険の本人拠出が十分に確保できていないということを問題視しての義務、責務の強調であるならば、まず、将来にわたって安心して頼れるような責任ある社会保障制度、社会保険制度の確立が求められているという点を強調せざるを得ません。もしかすると将来破綻するかもしれないような年金制度への拠出が十分に確保できないから憲法上の義務でもって取り立ててしまおうという発想があるならば、それは制度論としてはむしろ本末転倒と言わざるを得ないように思われます。
 赤坂参考人も意見の中で触れました環境権についても、ここで一言触れさせていただきたいんですが、環境権に関しましても、社会権としての内実を含み込みながら、現行憲法の中には環境権規定がないから盛り込むべきだという議論がなされることがあります。
 例えば、前述の自民党の論点整理や今日の大綱原案、あるいは民主党が六月二十二日に発表いたしました中間報告、憲法調査会中間報告「創憲に向けて、憲法提言」の中でも、環境権規定が必要であるという主張がなされております。
 赤坂参考人は、学説の中では、環境権については一致して認められているとおっしゃったのですけれども、これが法的権利として認められているかどうかという観点に立ちますと、法的権利としての環境権というものがあるというのは、むしろ希望的観測にすぎないのではないかという理解を私自身はしております。
 と申しますのも、環境権が法的権利だという場合に必要になります権利内容、つまり、だれが何を求める権利を持っているのかという点に関しましては、これを具体的に特定することに成功した理論はいまだに存在していないという状況だと私自身は観察しております。
 もちろん、公害等による健康被害を受けない権利は保障されていることは確かですけれども、これは恐らく、憲法二十五条の健康で文化的な最低限度の生活の中に含まれているでしょうから、環境権という大仕掛けのものを持ち出す必要は恐らくございません。
 そうではなくて、良好な環境を求める権利というものが必要なんだというのが環境権論の基本ではございますけれども、良好な環境とは何かという非常にあいまいもことした観念が出てくるわけで、それが具体的に個人の権利の射程を見極める上でどこまで役に立つのかという点は非常に疑問の多いところだと思われます。
 何が自分にとって良好な環境なのかという問題は極めて主観的なものでしょう。この主観的なものの中から、みんなが共通に確保していかなければならない環境、生態系の水準というものを確定していかなければならないわけですが、それは恐らく、民主的な政治過程のやるべき仕事であって、むしろ、その権利実現という観点から必要な水準を切り分けてくる裁判所の仕事とは全く違うのではないかというふうに考えられるわけです。
 そして、実際には環境権と呼ばれているものの内実は、実は国は環境保護や生態系秩序の維持に配慮すべきであるという政治的な要請にすぎない部分があります。この政治的な要請を権利と呼んでしまうことに対しては、やはり慎重にならざるを得ないでしょう。環境権を権利として保障するという選択をこの段階で行ってしまいますと、再び憲法の中にプログラム規定を持ち込んで、そして法的には保障する余地のない権利を見せ掛けのまま国民に対して空約束として持ち込んでしまうという欺瞞の構造に陥ってしまう危険があるからです。
 そして、更に問題なのは、自民党の論点整理が環境保全義務の明文化を求めておりますように、環境権規定を盛り込もうとした場合に、結局その条項が環境を保護する国民の義務へと転嫁していってしまうという危険があることを指摘せざるを得ないからです。環境保護は、実は個人の権利の問題であるというよりは、むしろ個人の義務の問題として上がってくるのではないでしょうか。
 しかし、その際に、自民党が本日明らかになった大綱原案の中で使っている言葉を用いますと、良好な環境に生活する将来の国民の権利を守るために現在の世代が義務を負っているというふうに考えた場合に、その現在の世代が負っている義務がどのようなものなのかという問題は、やはり法解釈を通じて内容を特定するという権利の問題というよりは、民主的な政治過程を通じて法律レベルで解決していかなければならない問題と言わざるを得ないような気がいたします。
 自由民主党の大綱原案が取り上げている社会権絡みの問題、もう一点御指摘させていただきたいんですけれども、教育を受ける権利に関して大綱原案は、教育の基本原理を憲法上確定する道に進もうとし、主体的に社会形成に参画する態度や郷土や国を愛する態度を子供が身に付けるべきことを憲法に明記しようとしています。
 もちろん、主体的な社会形成への参画や愛国心それ自体については特に異を唱えるべき点はないわけですけれども、これを身に付けることが憲法上の義務のように言われてしまうと違和感があります。事柄は教育にかかわり、具体的な問題になってしまいます。どのように社会形成に参画することが正しいことなのか、どのような行動を取れば国を愛していることになるのか、こういうことが教育の問題となったときに、先生が子供に伝えるべき正解をだれかがどこかで決めなければならないことになってしまいます。
 そうすると、中央行政官庁あるいは地方教育行政官庁が、国を愛するために何をすればいいのか、何をしなければならないかを特定し、それを上から教師を通じて子供たちにすり込むという構造に陥ってしまいがちだということになるわけです。しかし、教育委員会の思うとおりの思想を学校が子供たちに植え付けるような学校制度というのは、恐らく現在だれも望んでいるものではないのではないかと拝見しております。
 最後、もう一度繰り返させていただきますけれども、社会権の保障は、個人の自律という原理を踏まえて、自律可能性の条件を整備するということを通じてすべての個人が自らの能力を十全に発揮できるような社会を作り上げようとするというような基本的な発想に基づいています。個人が自分なりの力を発揮できる状態で社会全体の富が最大化するという考え方です。
 社会主義諸国の崩壊とともに、個人が目指すものを国家が目標として設定し、その方向で個人を動かすという考え方はしょせん夢であって、実現は不可能であるということが我々にも確認できたはずです。その意味でも、社会権の保障に国民の義務を結び付けて短期的な富の拡大をもくろむような考え方は、やはり安易に取り入れるべきものではないような気がいたしております。
 国家の仕事は、基本的には個人が最適な条件の下で力を発揮できるような条件整備に向けられているのであって、そして、その下で国民を国家のために使うことに向かっているのではないということをやはりここで確認し、現行憲法の下で保障された社会権規定の意義をもう一度じっくりかみしめ直すことの方が現在大切であるというふうに考えられるわけです。
 御清聴ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁ともに簡潔にお願いをいたします。
 まず、北川イッセイ君。
○北川イッセイ君 自由民主党の北川イッセイでございます。赤坂、西原両先生には本当に示唆に富んだ話をしていただきまして、本当にありがとうございます。
 新しい人権、社会権ということでありますが、我々、これから生活していく上で、また新しい憲法を考えていく上で避けて通ることのできない、そういう問題について、大変デリケートな問題が多いわけでありますけれども、理論的に御説明をいただいたというような思いがいたしております。
 まず、赤坂参考人にちょっと御質問申し上げたいと、こういうふうに思います。
 現在、大変高度な情報ネットワークが発達しておりまして、自分の自己情報、これをいかに守るかということになると、個人は大変無力なものであると、こういうように思うわけです。新しい憲法を考えるという場合にあっては、この自己のプライバシーをどう守るか、守る権利ですね、それから他人のプライバシーを侵さない義務というものをこれは明確に規定しておく必要があるんじゃないかと、こういうように私は思うわけです。
 ただ、この際、具体的な問題として申し上げますけれども、考えなければいけない問題は、例えば全国ネットで行政上の情報を、具体的には住民基本台帳のネットワークというような、この登録、整理、活用するというような必要がある場合に、現実に一部地方自治体がその活用を拒否したと。これは住民の代表としての権利を行使したものであるというように思うわけですけれども、このような場合に、国の決定というもの、あるいは日本の国全体で活用していくというような観点に立って、どういうように判断したらいいのかということを、所見をお伺いしたい、こういうように思います。
 それから、それとよく似た話で、先ほども話に出ておりました、これは裁判上決着の付いた問題でありますけれども、指紋の押捺訴訟の問題があります。
 これも、裁判所は指紋押捺の不当性というものを認めたわけですけれども、例えば国の安全ですとかあるいは犯罪防止ですとかあるいは行政上必要な事項など、そういうようなものについて、プライバシーの保護との間でどういうような優先順位というか、そういうようなもので考えたらいいのかと、こういうことについても見解をお伺いしたいと、こういうふうに思います。
 それから、マスメディアの問題ですけれども、マスメディアに対しましては、表現の自由、報道の自由など、その権利が非常に手厚く保障されているということであります。これはこれでいいわけですけれども、そういう権利が非常に大事だと、憲法二十一条に規定されているこれは非常に大事な規定であるというように私も思うんですけれども、そう思いながらも、やはりマスコミの報道というのが非常に低俗になったりあるいは教育的でなかったり、いろんなそういう問題があるということで提起されているわけです。非常に論理的じゃないですけれども、これについて先生の考え方を聞かせていただけないかなというように思っています。
 それから、環境権の問題です。
 環境権、全体的には、例えば地球環境の保全の義務、地球環境を守っていこう、これは意思統一が皆できると思うんです。ただ、この話、西原先生からもありましたけれども、個人の問題として考えた場合には、環境に対する感じ方、それから感受性というか、そういうようなものによって非常に個人差があると思うんですね。これをどういうように個人の環境権として認めていったらいいのか。それぞれちょっと違うところがあると、こういうように思うんです。そこらの、その点についても先生の見解をお願いしたい、こういうように思います。
 それから、自己決定権の問題です。例えば、非常に具体的な話でなんなんですが、先般のイラクへ旅行した話、危険だということが言われながら旅行されたということで、これもやはり自己決定権の観点に立って、考え方をどういうように整理したらいいのか、その点も聞かしていただけたらというように思います。
 それから、ジェンキンスさんの問題がありました。これはアメリカの徴兵制の問題が絡んでいるわけですけれども、これは自己決定権とは真っ向から対立するものだというように思うわけですけれども、この徴兵制の問題とその自己決定権の問題について、これについてもお願いしたいと思います。
 それから、同性愛の問題についてでありますが、同性同士がともに生活をすることあるいは愛し合うことというか、そういうふうなことは自由で妨げるものではないと、こういうふうに思うんですが、それを婚姻ということで認めることについては、それこそ人類の生態系を侵すものではないのかなと。これは自己決定権の許容範囲の中に入るのかということ、この見解についても聞かせていただけないかなというように思っています。
 それから、よろしいですか。
○会長(関谷勝嗣君) 答弁もいただいて十五分ですから、それでどうぞ。これも自己決定権でございます。自分で時間を分けてください。
○北川イッセイ君 はい。どうもありがとうございます。
 そういうことで、ひとつよろしくお願いします。
○参考人(赤坂正浩君) どういうふうにお答えしようかですが、一つは、憲法の基本的な目的というのは、国家の権力を設営して、そして、しかしその権限の行使を縛るというところに大きい目的があるということですので、今、憲法学説の考え方の通説というのは、憲法上の権利の基本的な義務者は国家であると。その場合には、つまり具体的に言いますと、政府機関の職員が職務行使に当たって憲法上の市民の権利を侵害してはならないという趣旨で憲法が定められているという理解をしているわけです。
 それを前提に、その基本に立ってどのような権利保障が今の日本で足りないか、あるいは明文化した方がよいかという観点からいうと、例えばプライバシー権をはっきり定めた方がいいという御議論もあるし、環境権の御議論もあるわけですが、私は個人的にはそれは十三条でカバーされている問題だと。そして、あとはその権利を実現しつつ他の利益との調整を図っていくのは、正に立法府の賢明な御判断に懸かっている問題であるというふうに考えるわけであります。
 そこで、例えば指紋押捺のような、かつて外国人登録法で強制をしていたわけですが、それが一方の立場からいうとプライバシー権侵害に当たり、他方の立場からいうと許される合理的な規制に当たるということで、その何というんですか、どちらの判断を優先するかというのは、これはやはりその合理性をどれだけ詰めて考えるか、そのプライバシー権をまじめに保護しようと考えるなら、どれだけそれを規制することに合理的な理由があるかを立法府でもお考えになり、裁判所もそれについて判断をするというふうに決めていくしかない。つまり、どちらかが百でどちらかがゼロという問題ではないということになろうかと思います。
 それから、マスメディアについてもお話がございましたが、メディアの自由も、これも憲法上保護されていて、しかしメディアの行為に行き過ぎがあるということもよく指摘されているわけですが、一般的には、メディアの例えば低俗な番組や報道内容でも、そこだけねらい撃ちにして規制するということは基本的には難しくて、難しいというか、つまり、じゃそれはだれが低俗だと判断するのかというと、政府が判断をする、裁判所が判断するということになると、それは政府や裁判所が言わば低俗性の審判者ということになるわけで、憲法の立場はそうではなくて、やはりそれは自由競争に任せて、一般市民の良識に任せると。そうでないと、せっかくの表現の自由のいい部分というか、良質な部分も死んでしまうと。両者を切り分けて片っ方は規制するということが難しいという、そういう多分歴史的な経験に裏打ちされて憲法の制度があり、現在の仕組みがあるのだというふうに思います。
 環境権についてもお尋ねがございましたが、私も、西原参考人もおっしゃいましたが、環境権は良好な環境を享受する権利を保障するという文章にしますと個人の権利を保障しているように読めますが、しかし、個人の権利には還元できない、環境というのは利益なので。ですから環境基本法でも環境権の規定は避けたわけですが、個人権的な、何というんですか、形式で規定してもほかの権利とは非常に違うとしか言いようがないと。つまり、私、例えば私なら、今私の周り百立方メーターの空気だけ清浄にしてくれという請求が全くナンセンスであるので、つまり個人の利益として切り分けることができないものであるわけです。
 しかし、じゃ重要性がないかというと極めて重要なので、したがって、これも恐縮ですが、やはり立法府が適切な御判断をして具体的な法律をお作りいただくということでしかその我々全体の環境の維持と改善というのはできないと。仮に憲法に書き込むとしても、それを象徴するような意味で心構え的にしか、書き込んでも意味を持つことがないというふうに思います。
 自己決定権についてもいろいろなお尋ねをちょうだいいたしましたが、十三条を根拠にして導かれるとされる自己決定権と、それから今の憲法のいろいろな人権規定で保護されている我々一般市民のいろいろな行動と状態とは重なり合いますが、古典的な自由権でいけるところは古典的な自由権でいくのが正当な議論の道筋であると。ですから、例えば今のイラクに旅行することが賢明かどうかというのは大きい問題ですが、しかし、二十二条で移動の自由が保障されているということですから、それが尊重されるというふうに、自己決定権でもあるんですが、古典的な権利としても保障されているというふうに説明されると。また、その規制はなかなか、公的な規制は難しいというふうに理解されているし、それが正当であろうというふうに思います。
 徴兵制については、これも自己決定権の問題であるよりは、日本の場合には、やはり一つは十八条の奴隷的拘束やその意に反する苦役の禁止の規定に絡んで議論がされ、それから、一番はやはり九条との関係で徴兵制許されないというふうに政府も、歴代政府もそのようにお考えであるということで、必ずしも自己決定権というふうな形でとらえなくてもよい問題であろうと思います。
 同性愛行為が自己決定権のうちに入るかは難しい問題ですが、少なくとも同性婚に関して言いますと、これは議論がありますが、日本国憲法の場合には二十四条で法律上の婚姻が尊重されるべきであるという規定があって、そこには婚姻は両性の合意に基づくということになっていますので、通常の解釈は、法律上の結婚は男性と女性と、両性というのはそういう意味だと。
 もちろん、ラジカルに、両性というのは二つの性ということなので、男性と男性、女性と女性というのも解釈上あり得るというごくごく少数の説がありますが、一般には日本国憲法の現行規定で同性の法律上の婚姻を認める制度は設けられないことになっているんだと思うんですが、これもしたがって自己決定権の問題とは必ずしも言えない、現行憲法の中で処理がされているというふうに思います。
 お答えになりませんが、以上であります。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、富岡由紀夫君。
○富岡由紀夫君 本日は貴重な御講義いただきまして、本当にありがとうございます。参考になりまして、ありがとうございます。
 余りお待たせするのもあれなんで、西原先生からちょっとお伺いさせていただきたいと思います。
 社会権について先ほどお話ありましたけれども、先生のお話によりますと、あと、事前にいただいた先生の講義の資料によりますと、社会権が目指すのは、生活の同質化によって実現される結果の平等ではなく、個人としての自由を行使するための機会の平等であるとあります。今日のお話の中でも、機会の平等を実現することによって社会権が実現できるというお話であったと思います。
 そこでお尋ねしたいんですが、現代の日本は市場主義、競争主義、弱肉強食の社会になっております。個々人が自己の利益最大化を目指して公正、平等な市場で競争をし合うのは、国全体の経済効率を上げるためには最良の手段であると私も思っております。そして、公正、平等な市場への参加はだれもが可能でなくてはなりません。すなわち、その際、機会の平等が大前提となってくるのであります。機会の平等を実現して初めて社会権が保障されることになります。
 しかし、市場主義は競争により勝者と敗者を生みます。敗者が再挑戦できるときはよいのですが、市場の淘汰により勝者が一部の者に収れんされ、当然その勝者に利益、富が集中し、敗者が再挑戦できない状況も起こり得ます。すなわち、一部の勝者が大金持ちになって市場の富を牛耳ります。その大金持ちの人は子供にもその財産を引き継いで、子供は市場に最初から有利な状況で臨むことになります。一方、敗者の子供は貧乏で、先ほどもお話ありましたように、教育も十分に受けられず、市場に参加するのにも最初から不利な状況でしか臨むことができません。このように、敗者が再挑戦をできなくなる状況が発生するのであります。
 機会の平等が結果の不平等を生み、機会の不平等へとつながっていくのであります。これでは社会権の保障は実現できないと考えております。この富の集中と相続による富の承継は社会権の実現のためにはある程度コントロールしなくてはならないと私は考えております。すなわち、所得税の累進課税と相続税の累進課税が所得の再分配を実現するかぎとなります。
 ところが、昨今、所得税の累進度の緩和、相続税の累進度の緩和が推進されております。例えば、年間所得十億円以上の人には所得税の累進度を上げるべきであり、年間わずか数百人しか適用されていない相続税の最高税率についても緩和する必要はないんではないかと私は考えております。
 過度の富の集中によって結果として機会の平等を損なわないように憲法に私はうたうべきではないかというふうに考えておりますが、この考え方について御所見を伺いたいと思います。
○参考人(西原博史君) 一般的に申しまして、御指摘の基本的な考え方には強く同意しております。つまり、やはり富の集中が生じた場合には機会の平等とは全く違う状況ができ上がってきて、そして公正、平等な市場に参加できない、あるいは公平な条件では参加できない者を生んでしまう、それはやはり平等という観念あるいは個人の基本的人権という観念からして決して看過できるものではないという御指摘については一〇〇%同意いたしております。
 もちろん、そのために、富の集中を避ける、その目的での所得税、相続税における累進という制度自身は現在も認められておりますし、一般的に承認されておりますし、基本的には有効な手だてということで評価できると思います。
 ただ、それが機会の平等ということ、先ほど申しましたように、やはり機会の平等を実現するためにはやはり機会が平等に作られていなければならない。繰り返しになって申し訳ないですけれども、つまり、やはり特定の結果へと流し込むような、結果の平等へと流し込むような誘導的な税制に転換してしまう危険というものも税制というのは持っておりますので、例えば相続税率一〇〇%というような考え方が正しいかどうかという点についてはもちろん議論のあるところです。
 相続税率一〇〇%は、恐らく、頑張って自分の財産を築き、子供に残そうという労働インセンティブのかなりの部分をそいでしまうかもしれない。したがって、その点ではもちろん社会的に有益かどうかについての深い議論が生まれてくるということにならざるを得ないと思います。そうした場合に、結局、社会全体の活力を維持するための労働インセンティブ、自発性に対するインセンティブとして、頑張った者がある程度報われるという部分を一方で確保しながら、ただ、それが次世代にわたって、頑張った者の子供だったら頑張らなくても報われるということにならないようにするためにはどうするかというのが基本的な議論の出発点であろうというふうに私は考えております。
 そうである以上は、これはやはり、正にこれは皆様にお願いすべきことなんですけれども、立法府としての国会の中で政治的な決断が日々必要になってくるであろうし、現時点で例えばどの程度の累進が、一方で労働意欲をきちんと高めていきながら、もう片っ方で富の公平な配分というものを実現していくのか、これはやはり日々社会的な状況の中で変化していくべき課題でしょうし、それ自身をここで、国会における立法手続の中で日々明らかにしていただくということがむしろ権利の実現という観点にとっても、あるいは社会における幸福の実現という観点にとっても最も重要なのではないかというふうに私自身は拝見しております。
 お答えになったかどうかよく分からないんですけれども、以上です。
○富岡由紀夫君 次に、生存権について西原先生に引き続き質問させていただきます。
 今いろんな、地震等天災によっていろんな家が壊されたり、生活が非常に厳しい状況になっている方がたくさんいらっしゃいます。地震等の天災災害時の生活再建補償の問題でございますが、災害被災者の生活再建のために、国は仮設住宅の建設や損壊建物の撤去費用、それについては負担できるような法制度も一部整備されております。しかし、個人財産は補償しないといった理由によって住宅の再建築費用については負担できないような状況になっております。生存権の保障を実現する観点から、個人財産の補償も含めるべきと考えておりますが、この点について先生のお考えを伺いたいと思います。
○参考人(西原博史君) 御質問ありがとうございます。
 重要な点ですが、これも権利論としてどこまで可能なのかという点については難しい問題を含んでおると思います。大体問題が語られるのが大規模災害のケースが多いわけですけれども、大規模災害による被災者の置かれた立場と、非常に小規模災害、例えば落雷があって自分の家だけがつぶれたというような小規模災害における被災者の立場というのは、被災者個人の立場として見ればそう変わらないのではないかというのが私のいろんなことを考える上での一つの出発点なんです。
 そうした場合に、もちろんその小規模災害を含めた災害によって生活上困難な立場に追い込められた人々を、もちろん社会として、先ほど私が使った言葉で言いますと天災リスクが自分に降って掛かってしまったというケースですので、それを社会で、やはりみんなで復興できるように支援しようという考え方はもちろん憲法二十五条生存権に基づいて十分根拠付けられるものでありますし、もちろんそれは社会的な公正を実現する上でもとても大事なことかと思います。
 ただ、個人財産は負担しないという現行法制の基本的な考え方をどう評価するかという部分は非常に難しくて、つまり結局そこで、もちろん個人財産といってもいろんな個人財産があるわけで、非常に裕福な方の非常に優雅に暮らしていらっしゃった大豪邸が災害で失われた場合の個人財産の問題と、それから細々と生活していて何とかやっと造り上げたちっちゃなウサギ小屋のケースとで、個人財産という言い方をしたときに同じに扱っていいのかどうか。つまり、それ全体を回復することを社会全体で担わなければならないのかどうかという点についても、これは非常に深刻な問題を生んでくるかも分かりません。
 この部分については、結局社会的にリスクが存在していて、災害リスクというのは常にだれに降って掛かるか分からない状態の中で、たまたまそのリスクにぶち当たってしまった人のために社会全体としてどのような措置を講じておくのか。もちろん、措置を講じるといっても、これはお金の必要なことですし、国民全員の税負担の中から出資せざるを得ない問題だとすると、国民はその被災者たちの復興にどこまで財政的に協力すべき立場にあるのか。その場合に、復興すべき範囲としてどこまで考えるべきなのか。それが個人財産というふうな問題になったときに、どこまでその個人財産の原状回復というものを目標とするのか。これらの点というのはやはり非常に深刻な問題を含んでおりますので、やはり先ほどと同じ答えになってしまうんですけれども、権利論の問題として権利があるからそれをだれかが補償するという形のものよりも、それはやはり民主的な合意形成のプロセスの中で、だれしもに、だれに降って掛かるか分からない災害の問題だから、これはみんなが共通に負担できるような合意を作っていこうよ、その中では、民主的な政治過程の中で立法措置を通じて、じゃ今の社会的条件の中ではここまでみんなで負担し合って災害に対する援助を国の仕事として認めていきましょうという、正に立法過程が立法過程として最も適切に役割を果たし得るようなテーマなのではないかというふうに私自身は考えております。
○富岡由紀夫君 続きまして、赤坂先生にお尋ねしたいと思います。新しい人権に分類されるかと考えているんですが、犯罪被害者の人権についてお伺いします。
 これまで加害者の人権については様々な観点から保護処置が講じられておりますが、被害者の人権についてはほとんど顧みられてこなかったと思っております。犯罪被害者やその家族は、心理状態が極限の中で事情聴取を受け、司法手続を進められます。加害者の弁護士は被害者の尊厳を傷付け、加害者を弁護をします。メディアからは強引な取材を受け、近隣のうわさや中傷を受けることもあります。残された家族は人生観が変わり、将来への夢や希望が持てなくなるのであります。加害者の人権は再生できますが、被害者、特に殺害された人の人権は永久に戻ってこないのであります。
 このような観点から、犯罪被害者の人権を憲法にも明確にすべきではないかと考えておりますが、先生のお考えはいかがでしょうか。
○参考人(赤坂正浩君) 私の基本的なトーンは、様々な新しい人権を憲法規定の中に入れることには慎重なわけですが、被害者の人権はこれは極めて重要で、これまで日本で十分被害者のケアがされてこなかったということがあるんだと思います。
 ただ、それは、ではどうしたらいいのかというのはやはり、例えば刑事訴訟法などの改正で、その被害者の記録の閲覧であるとか、それから裁判の傍聴の便宜であるとか、そういうようなネットワークを作っていくとか、あるいは戦前ありましたような附帯私訴のような、民事訴訟制度みたいなものを刑事訴訟の中に組み込むような仕組みを設けるとか、やっぱりこれは立法府の御判断で政策を展開していくことによってしか被害者のケアは実効的に行われないと。
 そのための権利規定を憲法に入れることは、やはり象徴的な意味を取りあえずは持つにとどまるのであって、その規定が入って、それを一体どう解釈するのかということについて、また大きい多分問題を呼ぶことになると思うわけです。
 ですから、何というんですか、下からといいますか、まずそういう政策的なそのセーフティーネットのようなものが作られていくことが先決だろうというふうに思います。
○富岡由紀夫君 これで質問を終わります。ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。今日はありがとうございます。
 まず、赤坂参考人にお願いしたいんですけれども、憲法上のこの人権というのは、国家と国民の間を規律するものという形で伝統的に考えられてきたわけであり、今いろいろ話出ておりますプライバシー権であるとか環境権という物の言い方は、やはり憲法上の権利として議論されているだろうと思います。
 ただ、プライバシー権、環境権といった場合、公権力による侵害というよりは、むしろ、例えばマスコミであるとかあるいは私企業であるとか、いわゆる憲法の私人間の、憲法規定の私人間における効力という、そういう論点になってくる、オーバーラップをするんだろうなというふうに思っております。
 これらの権利を考える場合に、また規定を考えた場合に、実効性あるものと考えるためには、やはり今言った私人間における効力をどう配慮をしていくか、憲法上ですね、それも考えていかなきゃいけないなとは思っておりますけれども、そういう観点からの先生のお考えはいかがでしょうか。
○参考人(赤坂正浩君) お話しのように、プライバシー権や環境権は、その私人相互で問題になることが極めて多いわけです。そこで、それを憲法規定の中に書き込んでも、やっぱり具体的にはそういう問題は、もう再三同じお答えになりますが、既に御制定になっておられる環境基本法や個人情報保護法を中心とした法制度の中でしか解決ができないということだと思います。それに上乗せして更に憲法規定が必要かというと、これは考え方にもよりますが、私はその意味がそれほど大きくないと。
 憲法規定の中に私人間での権利の衝突についての条文を入れるというのは、これは技術的に非常に難しい問題を含んでいます。つまり、私人間の権利の調整はだれがするのかといいますと、結局国家が行うということですので、それを余り強調すると政府の不当な介入が強まると。しかし、手をこまねいていては現代社会における生活がうまく調整されていかないと。そのバランスを憲法の条文の中で取るというのは非常に技術的に難しくて、やはりそれは個々の法律の中で個別の領域についてもう少し具体的な条文化をして調整をしていただき、かつ、それに不都合があれば改正をしていただくということが日本国憲法自身が予定している、先ほど西原参考人もおっしゃったやはり民主政治の在り方であろうというふうに思います。
○魚住裕一郎君 西原参考人にお願いしたいんですが、先ほど環境権というものの中には、要は環境に配慮すべしという政治的メッセージにすぎない、そういうことをやっていても余り生産的ではありませんねという、そういう趣旨の見解を示されたわけでありますが、ドイツの憲法の二十条のa、これは国家の環境保護義務という形で規定をされているわけでありますが、かなり具体的というか、読み上げますと、日本語で、国は、来るべき世代に対する責任を果たすためにも、憲法的秩序の枠内において立法を通じて、また、法律及び法の基準に従って執行権及び裁判を通じて、自然的生存基盤及び動物を保護すると、こういうような規定になっているわけですね。
 だから、環境権というんだったらメッセージにすぎないよと、ただ、義務という形になれば、先生のお立場でもこれは十分考え得るよということなんでしょうか。
○参考人(西原博史君) 御指摘のありましたとおり、ドイツは九〇年代憲法改正の中で、いわゆる国家目標規定と呼ばれる規定の仕方なんですけれども、国家の義務あるいは国家としてやるべき任務を定めるというやり方をしております。
 もちろん、日本においても国家目標規定としての環境保護という観点を取り入れるというのは憲法政策論的にはあり得る選択肢の一つかと思います。ただなんですけれども、これは、現在基本的人権等々で保障されているものは、今生きている我々国民との関係で何を具体的に保障しなければいけないかという、ある種ぎりぎりのせめぎ合いの結果としてどうしても守らなければならないものを保障しているという側面が強いのに対して、将来に我々が何を残すべきかということについてはやはり、赤坂参考人は象徴的な意味という言葉を使っていらっしゃいますけれども、環境を守らなければならないとたとえ憲法に書き込んだところで、じゃ具体的に将来の世代に何を引き継ぐかということに関しては、正に国会の場、皆様の御議論によります実際の環境保護のための政策であり立法でありというものが内容を決めていくことにしかならないわけですね。
 つまり、もちろんシンボルとして環境を守らなければならないという言葉を憲法の中で語ることはあり得ないことではないですけれども、そのことによっては何も問題は解決しないという点は一方でやはり認識としては持ち続ける必要があるし、正に運動の問題としてというか力学的な問題として、環境を守るためにじゃだれがどういう責任を持って何を頑張るのかと、その上で国というものがどういうリーダーシップを取って何をするのかということこそ根本であるということを確認させていただきたいというのが私の立場でございます。
○魚住裕一郎君 ただ、西原先生にお願いしたいんですが、いわゆる生存権がありますね。これもかなり、いわゆるプログラム規定だと言われ続けて二十年ぐらい最初、状況が強かったなと思うわけでありますが、ただ今振り返ってみると全く無意味なのかというと、やっぱりそうでもないんじゃないのかなと思うんですね。憲法政策的にも十分考えてもいいんではないのかなと思うんですが、この点について。
○参考人(西原博史君) 重要な点なんですけれども、確かに一九四〇年代、五〇年代の日本の国民生活を考えますと、豊かになるという非常に大きな夢を抱いていた時代でもありましたし、それを生存権という言葉に読み込んで託した国民がいたというのも恐らく先生御指摘のとおりの事実だと思います。
 ただ、結局これは、今となって気が付いてみますと、まあ豊かになるために国がリーダーシップを取って頑張る、それが生存権の実現だという言い方をしてきたことによって、やはり本当にみんなが豊かになれたのか、つまり、もちろん大部分の者は豊かになれたとしても、本来生存権の問題が一番気にしていたはずの社会の、社会の中で不利な立場に追い込まれて、そして十分な周りからの支援を受けられない、そういう不利な人たちに本当に目が行っていたのかというと、もしかすると、やっぱりみんなに豊かになる権利としての生存権を意識してしまった瞬間に、その中での一番弱い立場にある者に対する配慮というのが薄れていってしまったのではないかという危惧を私自身は持っております。
 その意味で、もちろん昭和期における日本国憲法の下での経済的発展、非常に大きな意義を有していることはもちろん、私の口から指摘するまでもございませんけれども、にもかかわらず、やはりそこで憲法論としての豊かになる権利というものは、もし憲法論として成立してしまっていたとするならば、実は若干の害悪も及ぼしたかもしれない。やはり生存権が最も必要な方々への政策的な配慮をむしろ二の次にしてしまった危険があるのではないかと。
 まあ、これは歴史における、もしそうならばという仮定の問題なので十分な説得力ございませんけれども、やはりそういう観点、やっぱりみんなのために権利があるんだということを問題にした場合に、一番不利な条件にある人たちの、本当の意味で保障されなきゃいけない権利が薄まってしまう危険があるという構造は、やっぱり私はここで意識しておいていただきたいと思うものの一つになってまいります。
○会長(関谷勝嗣君) 仁比聡平君。
○仁比聡平君 日本共産党の仁比聡平でございます。先生方、今日は本当にありがとうございます。
 まず、赤坂先生にお尋ねをしたいんですが、先生の今日のお話をお伺いをいたしまして、私も改めて憲法十三条の幸福追求権の包括性、柔軟性あるいは弾力性というような性格に、改めて誇りを持ったところです。裁判所も、新しい権利と言われる権利概念を正面から承認するアプローチを取っていない分野であっても、様々な角度から事例を積み重ねている、実質的に学説とさほど変わりがあるわけではないというお話かと思いますが。
 一点お尋ねしたいのは、こういった憲法の、特に十三条の一般法としての性格を、我が国の憲法の学界の中で否定をすると、つまり新しい権利は認められないという、そういう考え方があるかどうかというのをまず一点お尋ねしたいのと、もう一点は、権利保障を強めるためには、私はそれぞれの分野での基本法にその権利概念を明記するとともに、その具体化、とりわけその中で権利を実現するための権利を法律でもっと具体化をすることが当面する課題ではないかと思っています。
 例えば、環境権と言われる分野でいいますと、事業の差止め請求権だとか情報開示請求権だとか、環境団体の訴訟上、行政手続上の権利、そういった環境保全や消費者保護のための具体的な立法こそが今民主的な政治過程の課題なんではないかというふうに思うんですが、その二点、先生の御見解をお伺いしたいと思います。
○参考人(赤坂正浩君) まず最初のお尋ねでございますが、私の知る限り、日本の憲法学界で十三条の幸福追求権規定が新しい権利主張の受皿にならないと言っている人はいないと思います。
 それから二つ目のお尋ねでございますが、私も基本的に同じような考えを持っておりまして、日本国憲法の下での日本の立法の非常に大きい特徴の一つは、いろいろな分野について中二階的な基本法を積み重ねてきたと。したがって、その中に国としての政策の指針のようなことはかなり格調高く盛り込まれている場合が多いわけで、憲法規定にそれと同種の規定を入れることは屋上屋を架すような面もあると。むしろ、そういう基本法の、国の指針となっている政策規定をどう具体化していくかということが国民からも求められていることだと思いますので、例えば環境の分野においても、今先生御指摘のように、それをどう具体化、制度化していくかと。これは、例えば環境影響評価法などの中でも、例えばその市民の聴聞のような手続も準備されたように承知しておりますが、その種の市民参加や情報開示をどこまで進めていくべきかと。それは、やはり立法府が世論の動向を受けながら法律として具体化していくべき問題であろうというふうに思います。
○仁比聡平君 ありがとうございます。
 西原先生にお尋ねしたいのですが、先生のお話の中で、特に個人の自律性と権利性ということを基礎にしたお話に大変私も示唆をいただいたように思います。
 お話の中で、社会権規定の改正論にかかわって、権利としての深化ではなくて義務規定への転換という危険がはらまれているというお話がありました。憲法をめぐる状況として、憲法と現実の社会や政治との乖離という状況がよく語られるのではないかと思うんですね。この社会権の分野でも、生存権規定を取ってみても、あるいは教育を受ける権利をめぐる問題でも、あるいは勤労権や労働基本権をめぐる問題でも、その憲法が本来求めているものと現実の社会の乖離という状況が今横たわっているのではないかと思うんですが、そういった観点見るときに、社会権の分野でもそれぞれの権利性を明確にして、そしてその権利にこたえる民主的な政治過程での立法や政策ということこそが今私は求められているのではないかと思うんですが、先生の御所見をお伺いしたいと思います。
○参考人(西原博史君) ありがとうございます。基本的には御指摘のとおりだと思います。
 ただ、憲法と現実との乖離が社会権の領域において非常に強く発生しているかという点については、これは評価は難しいと思います。私自身は、もちろん、社会権もっともっと実現すべきであるという考え方、一方で社会権の読み方としてありますけれども、私自身はどちらかというと社会権というのはやっぱり最低限度をきっちり確保するというところに向けての法的な役割を果たしているという見方をする人間ですので、その意味でいえば、基本的にはいい線行っていると。つまり、現実の、皆様の御尽力によってでき上がっております法体系は、それなりに憲法の観点から評価してそれほど見劣りしてはいないという立場に立てるのかなというふうに考えております。
 むしろ、権利が実現されていないとすると、御指摘のありましたように、例えば、例えば民間企業における雇用というような条件を考えたときに、例えば失業の問題が深刻になってくる、そういう付随的な問題というのはございますけれども、国の側としてやるべきことを最低限実現されていない部分が非常に大きく残っているという現状ではないのかな。
 一方で、それは権利として実現されている部分があるわけですけれども、それにもちろん付け加わるべき部分というのはございます。これは、やはり国が何を目指して、国民の幸福を目指して何を国が提供していくのかという点こそが正に政治の課題でありますし、そのために日々国民の様々な権利を法律上明示して、それを確認し、保障し、拡大していくということに対する国民の期待というのはやはり非常に大きなものがあるわけですから、それこそが正に民主的な政治過程の課題であり使命であるというふうに考えております。その点においては御指摘の見解に私は同意していると考えられます。
○仁比聡平君 先生のごらんになる中で、社会権の分野を離れてその乖離を感じられる分野がございますか。あればお伺いしたいと思いますが。
○参考人(西原博史君) 例えば、だれしもがその質問で想定するのは憲法九条の問題かと思うんですけれども、私自身は、政府解釈は政府解釈としてそれなりの役割は果たしている、それが私の個人としての憲法解釈と同じかどうかの問題はちょっとさておいて、やはり政府解釈というのは国に対するコントロールとして一定の機能を果たしているという認識は認識として持たなければならないと思いますので、現状において、いや、憲法全く役に立っていないという領域は私は現時点で気が付いてはおりません。
○仁比聡平君 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 田英夫君。
○田英夫君 社民党の田英夫です。
 お二人とも触れられましたんで、環境権の問題でお尋ねしたいんですけれども。
 これは東京の国立市で起こったことですが、市民の一部の方が、高層マンションができて、環境というんじゃなくて、景観権と言われたんですね、景観権を阻害されたといって裁判になった。結論は、裁判所は認めなかったんですね。この赤坂さんの方のレジュメにありますけれども、学説としては十三条、二十五条で保障されているというふうに、環境権は保障されているという、そういうことのようですけれども、裁判所は認めないと。
 景観権というのは、まず第一に景観権というのがやっぱり環境権の中に独立してそういうものが学説としても認められているのかどうか。それから、憲法の中には十三条、二十五条で保障されている上に、新しい人権として環境権というものを入れる必要があるのかどうか。この二つをそれぞれ伺いたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 赤坂参考人からお願いします。
○参考人(赤坂正浩君) 景観権についてでございますが、学説は十三条、二十五条で保護されている自然環境と別に、文化的環境、社会的環境も含むという説もありますが、これは説が分かれております。ただ、含まれているといってそれが具体的にどういう法的な意味を持つのかという点についても実は議論がございます。
 それで、先般国会が景観法を御制定になって、その中でようやく日本でも景観の保護に関する制度というのが実質化しつつあるわけですが、先ほど来のお話の繰り返しになりますが、その種の法的な制度抜きに、憲法だけに根拠付けて良好な美しい景観を享受する権利がある、したがって、この建物をどけろというような主張が裁判で認められるということはちょっと考えにくいと。それはやはり立法政策として美しい景観を保存するような措置を取っていただく中で、その種のものが守られていくとしか言いようがないというふうに私は思います。環境についても、先ほど来、憲法規定に入れてそれが大きく世の中を変えるというふうな具合にはなかなかならないのではないかというふうに考えております。
○参考人(西原博史君) 御指摘いただきました問題、やはり私にとっても非常に重要な問題だと思うんですが、基本的な立場は赤坂参考人とかなり重なると思います。国立の事件を引用していただいたわけですけれども、正に国立の事例は一つの典型的なケースだったのかな。つまり、国立においてはやはり地域住民が景観を守るために今まで一生懸命努力していて、自分たちの間での自己規制をきっちりやってきた、その積み重ねによって自分たちにとっての景観というのはやはり高さはこれぐらいなんだという認識が自分たちの間でだんだん固まってきた、そこによそから全く違う背景を持ったマンション業者が入ってきて非常に高いものを建てようとした。
 ここで不幸なのは、実は市の方はそれを認めてしまったというところに不幸の始まりが出てきたわけですけれども、こうやって考えていった場合に、景観とは何かというのは、やっぱり景観権という、もちろん景観を保護するということに関する国の責任というのは一方で意識するとしても、景観権という何らかの具体的な権利があって、その権利に基づいて高さの問題あるいは景色の問題としてこういうものがなきゃいかぬという、そういう事柄ではないんではないか。やはり、例えば自分たちの景観を大事にしようと思う人々、例えばもう一つの例を挙げれば、京都府京都市における京都ホテルの例というのも昔ございましたけれども、自分たちの共同体を作っていく中で自分たちにとって大事な景観というのは何なのかをみんなで考えて、そして守るべき水準を自分たちで作り上げていく、そのことに基づいて地域で自分たちの景観を大切にしていく。これがやはり景観ということを考えた場合の基本的な流れなのではないか。
 そうしますと、やはりそこでは非常に草の根から始まる民主的な過程、自治会かもしれない、自分たちのお隣さんとの話合いかもしれない、そういうところから始まってくる民主的な意思形成の過程があって初めて、じゃ、自分たちにとってのルールはこうしようという自分たちなりのルール設定があり、それに基づいて初めて自分たちの景観に対する利益が何らかの形で法的に人前に言えるようなものになる。例えば条例を通じて、例えば場合によっては自治会のルールでもいいのかもしれません、そういう法的なところに高めていく。そういうやはり景観というのを守ろうとしたときには、そういう話合い、お隣さんとの話合いから始まる政治過程こそが決め手なのだということを正に国立のケースというのは最も適切な形で表していたのではないかな。
 そこでは、もちろん、不幸なことに、その市の行政というものが、残念ながらその話合いのルール、話合いの過程とは違う動き方をしてしまったという現実があるわけですけれども、むしろ目指すべきは、やはり裁判を通じて建物の上半分をちょっきんと取って捨ててしまえというような権利論の論法ではなくて、自分たちが何が大切なのかを自分たちで考えられるそういう政治過程と、その政治過程によって保障されるべき権利に対するみんなの意識ということなのではないかと考えております。
○田英夫君 ありがとうございました。終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人のお二人には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後五時三十八分散会

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