第162回国会 参議院憲法調査会公聴会 第1号


平成十七年二月二十一日(月曜日)
   午前九時三十分開会
    ─────────────
   委員の異動
 二月九日
    辞任         補欠選任
     尾立 源幸君     松岡  徹君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    会 長         関谷 勝嗣君
    幹 事
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                舛添 要一君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
                簗瀬  進君
                若林 秀樹君
                山下 栄一君
    委 員
                秋元  司君
                浅野 勝人君
                岡田 直樹君
                河合 常則君
                国井 正幸君
                桜井  新君
                田村耕太郎君
                松村 龍二君
                森元 恒雄君
                山下 英利君
                山本 順三君
                江田 五月君
                郡司  彰君
                佐藤 道夫君
                田名部匡省君
                高嶋 良充君
                富岡由紀夫君
                那谷屋正義君
                直嶋 正行君
                前川 清成君
                松井 孝治君
                松下 新平君
                魚住裕一郎君
                山口那津男君
                仁比 聡平君
                吉川 春子君
                田  英夫君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   公述人
       法政大学法学部
       教授       五十嵐敬喜君
       岡山県議会議員  小田 春人君
       日本民主法律家
       協会事務局長
       弁護士      澤藤統一郎君
       日本弁理士政治
       連盟会長     森  哲也君
       ふぇみん婦人民
       主クラブ職員   赤石千衣子君
       東京大学大学院生 高見 康裕君
       PHP総合研究
       所第二研究本部
       本部長      永久 寿夫君
       国立大学財務・
       経営センター教授 山本  清君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (今後の日本と憲法について)
    ─────────────
○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会公聴会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「今後の日本と憲法について」、お手元の名簿の八名の公述人の方々から御意見を伺います。
 午前は、法政大学法学部教授五十嵐敬喜君、岡山県議会議員小田春人君、日本民主法律家協会事務局長・弁護士澤藤統一郎君及び日本弁理士政治連盟会長森哲也君、以上四名の公述人の方々に御出席いただいております。
 この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本調査会は、平成十二年一月に設置され、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行ってきたところでございますが、本日は、「国民とともに議論する」という本調査会の基本方針を踏まえ、憲法のこれからの在り方を私たちはどのように考えるべきか、また憲法を生かすためには何が必要か、参議院の在り方なども含め公述人の方々から幅広く忌憚のない御意見をお述べいただき、本調査会の調査に役立ててまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、まず公述人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えをいただきます。
 なお、公述人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず五十嵐公述人、お願いをいたします。
○公述人(五十嵐敬喜君) 法政大学の五十嵐です。
 今日、時間が十五分というふうに限られておりますので、既に提出してありますレジュメに基づきまして簡単に日本国憲法改正に関する私の意見を申し上げたいと思います。よろしくお願いいたします。
 まず、憲法を改正するということは一体どういうことだろうかということでありますけれども、私自身は二つの方向から考えていきたいと思っております。
 一つは、日本の歴史の中で縦軸として今どういう地位にあるかを見るということです。本来なら憲法ですから聖徳太子から始まるんでしょうけれども、一応まあ近代という意味で、明治憲法、昭和憲法、もしこういう言い方が許されるんなら平成憲法を日本の歴史の中で考えていくというのが第一点であります。
 それから第二点は、日本は孤立して生きているわけでありませんので、世界との比較の中で世界の動向を見ながら、そのクロスする地点で憲法を考えていくという立場を取りたいということであります。
 そこで、今後、憲法改正というのは恐らく五十年とかそういう単位のことを考えるわけですけれども、日本が世界の中で五十年先どういう国になるんだろうかということを考えてみまして、私の大学院でちょっと調査をいたしました。しかし、すべての資料を見ても確実性というものは余りありませんで、人口とか資源などについてはある程度の数字は出てきますが、より主体的にどういう道を判断するのかということの方が五十年先、六十年先の将来展望としてはウエートが掛かっているというふうに調査の結果分かりました。
 しかし、なおその不確定な五十年、六十年先の中でも確実なことも幾つかありまして、憲法論に限って言いますと二つのことは確実に進化するだろうと予測されます。
 一つは、世界的にグローバリゼーションという波が世界を今後もずっと覆っていくだろうということです。このグローバリゼーションの中には、もちろん経済とか金融とか情報とか旅行とかということがありますけれども、もっと根源的に言いますと血の混交が始まるということです。つまり、生物学的な意味での血の混交も進化していくだろうということですね。
 もう一つは、それと反比例するかのように、より地域的なるもの、より個性的なるものが尊重されていくということです。より地域的なるもの、より個性的なものの代表例を挙げますと、一つは言語であります。もう一つは、歴史や文化というもの、あるいは宗教というようなものがより本質的不可欠なものとして追求されていくということであります。
 このグローバリゼーションと個性化の視点から日本国憲法を眺めますと、非常に大きな特徴があることが分かります。これは日本国憲法に限らず二十世紀につくられた世界各国の憲法の共通的な性質として、一国ナショナリズム、国というものを一つの単位として、その中で二つの方向から、つまり基本的人権と統治機構という二つの側面から様々なデッサンを行って、それが二十世紀の世界の近代的憲法法典として成立しているということだと思います。
 しかし、二十一世紀の憲法を考えるときに、その一国ナショナリズムを前提とした憲法体制というのはどういうことになるんだろうかということをより憲法学的に詰めていかなきゃいけないというのが私の考え方の原点であります。
 もっと具体的に言いますと、一国ナショナリズムの考え方の前提には国家主権というのがありまして、この国家主権を前提として統治機構と基本的人権を設計するという形になっています。しかし、グローバリゼーションとか地域の個性化というものはこの国家主権を限りなく解体していく、相対化していくという形にならざるを得ないというふうに思っています。
 グローバリゼーションの典型は最近のEU憲法でありますけれども、ここは一国ナショナリズムが持っていた主権というものを従来の国家を超える超国家というところに、最初は通貨発行権、二番目には外交権、場合によったら最終的には軍事権まで言わば主権移譲するということでありまして、国家の持っている主権の大方の部分が解体されていきます。
 一方、補完性の原理で有名なように、地域に近いところの決定権はできるだけ地域にゆだねるということがありまして、本来、国家が法律の制定等でやってきたことが徐々に地域の方に移されていくという意味で、そういう意味での国家の主権も、一方、地域の方に還元される。つまり、国家が真ん中にあったものが、より超国家の方とより地域の方に還元されていくということだろうというふうに思いまして、EU憲法にも既にそういう兆しが現れております。
 それで、これを前提として統治機構論と基本的人権論を考えますとどういう論点が生まれるかといいますと、多分、統治機構論は従来の国家主権論から徐々に国家政府論の方に移行していくだろうということです。つまり、政府の形はどういうふうにあるべきか。その政府というのは、中央政府、地方政府以外に、様々なところで自分たちの自己決定をする共同体の自己決定権が生まれてきて、場合によったら、それを政府と言ってもいいかもしれないという形で国家主権論、ある種の観念のドグマである国家主権論から政府機構論に移っていくというふうに思っております。
 もう一つ、人権論にも非常に大きな変動が生まれてくるだろうというふうに理解しております。
 一つは、従来の人権論は、一国ナショナリズムの下では国家主権というものを前提としておりまして、例えば言論の自由に見られますように、国家からの自由という形で国家との関係で基本的人権を考えています。あるいは二十五条の社会権などについては国家への自由ということが考えられております。あるいは参政権、投票権等を見ますと、これも国家への参加という形で考えておりまして、国家論中心人権論がつくられておりますけれども、既にヨーロッパ、EUの人権憲章などを見られると分かると思いますけれども、要するに国家を超えて人類普遍的なところに進んでいくという形が一方で見られると同時に、国家との関係を、もっと国家と協力して、国家と共同してというような形で人権論が構築されていく。私の言葉で言いますと、これ、第四の人権の形と言っておりますけれども、つまり国家との関係を超えて、あるいは国家との関係を協力し合ってつくっていく人権論へという形で進化していくのではないかというふうに私は考えております。
 つまり、国家論の相対的な解体現象の中で、従来の一国主権を前提とした物の考え方は、統治機構論で言いますと、より政府論に移る、それから人権論でいきますと、国家という呪縛から解放されていく、そういうコンテクストの中で二十一世紀日本の言わば平成憲法も考えていくべきではないかということです。
 レジュメに戻りまして、具体的に、ではどういうことを言いたいのかということを言いますと、第一番目には国民の直接決定権というものが非常に重要になる。つまり、国民主権は現憲法でも採用されておりますけれども、少なくとも地方自治体の地方自治法の規定などと比べますと国家に関する国民のかかわり方は非常に限定されております。憲法改正手続自体がそうでありますけれども、国民が直接国政に関与する直接民主主義型の参加権というものが非常に重要になってくるだろうと思います。EU憲法も既に採用しておりますし、イギリスでもアメリカでもこういう国民が直接政治に参加する兆候が増えております。
 この関係で見ますと、日本国憲法の憲法四十一条、つまり国権の最高機関であり、かつ唯一の立法機関であるという規定は果たしていかがなものだろうかと。あれは間接民主主義の論理の体系としては見事に完結した美しい規定でありますけれども、国民主権論から見ますとやや時代後れの感があるということであります。つまり、直接民主主義をまず前提に考えようというのが第一点であります。
 第二点は、政府論で考えますと、今の議院内閣、これはまあ非常にここでもたくさん論じられていますけれども、議院内閣制が将来、二十一世紀もずっとこれでいいものかどうかということの問題点、より根源的に言いますと、国民が何で自分たちのリーダーを選んではいけないのかと。つまり、大統領制も改めて考えるべきではないかということであります。大統領制など、つまり行政権限が国民に近くなりますとこれは暴走する可能性がありますので、それとの関係で現在の裁判所の機能というものももっと別な意味で強化しなければいけない。つまり、憲法裁判所の設置なども考えるべきであると。つまり国民主権論、直接民主主義をやればやるほど裁判所の機能ももっと重要になってくるということであります。
 それから、自治体の規定、ここが非常に現憲法では抽象的になっておりますが、もっと多様な設計図をかいてよろしいというふうに思います。現憲法によりますと、首長さんも議員さんも直接民主主義でありますけれども、首長さんは議院内閣制に変えてもいいですし、場合によったら議会のないいろんな政府をつくってもよろしいというふうに考えるべきではないかと。とりわけ、先ほど言いました地域性がより重視される時代になりますと、自治体の設計も、例えば東京都と沖縄の何とかの町が同じような設計図である必要は全くなくて、新たな多様な自治体の設計図をかいていいというふうに思います。ここも憲法と抵触してまいります。
 それから、人権論についていきますと、先ほど言いましたように、従来型の国家に対する関係で新しい権利が必要になってくるということですね。知る権利やらプライバシー権などもそうでありますけれども、もうちょっとこれを大きな、二十一世紀を見渡すような人権論を考えてもらいたいというふうに私は思っております。
 幾つか新しい問題点をここに列記しておきます。
 一つは、日本の二十一世紀は美しい都市をつくることを目指すべきであると思います。衣食住、既にある程度足りておりますけれども、やっぱり世界の先進国と比べて最もみすぼらしいのは都市の風景ではないかと私は思っています。各国憲法を見ますと、文化とか美しいというものについて、やっぱりちゃんとしなきゃいけないということをそれぞれが書いておりまして、そういう権利を考えるべきであるというふうに思います。
 それから二番目の論点は、宗教に対する態度が極めて日本の場合には窮屈であって、いろんな現象を見ますと、奇妙な取扱いになっているということです。私の宗教に対する考え方、地域の個性や文化を考える上で、何々教と限らず、地域的な、伝統的な神々を含めまして非常に重要であるというのが私の考え方でありまして、果たして現在のような厳格な宗教規定でいいのかどうか。むしろ、EU憲法などを考えまして、御承知のとおりEU憲法ではキリスト教そのものを憲法前文に入れるかどうかということで大論争ありましたけれども、あの意味は宗教が政治を支配するという意味じゃなくて、ヨーロッパのアイデンティティーを保つためにやっぱり宗教が必要であると。例えばヨーロッパでは、国の歌として、超国家の歌としてベートーベンの第九番の「歓喜の歌」というものをヨーロッパ全体の国の歌というふうにしたように、文化的価値、歴史的価値を、ポジションを取るためにその神々を考えたいというふうに言っておりまして、そこまでもう宗教への接近もできてきている。これをもうちょっと日本国憲法で考えられないかということです。
 それから三番目、生きる権利であります。これは一応、幸福追求権、十三条に書いてありますけれども、もう一つは、死ぬということに関してどう考えたらいいかというようなことなどについてもいろいろ憲法上考えるべきではないかと思っています。
 一つは、何といっても自殺が急増をしております。これが単なる社会現象の一つとして等閑視していいかどうかも非常に私は問題でありまして、憲法上も生きるということを考えるべきことではないかと思います。
 さらに、アメリカやヨーロッパなどの歴史を見ますと、安楽死や脳死、あるいはクローンなどに対する新しい生命観というものが問われているということですね。こういうことについて、衆参両議院における現在の憲法論議を見ますと、余り十分に論議されていないのではないかというふうな感じしまして、死ぬ権利の否定を含めまして、私自身は新しい技術、生命の命というものに対してアクセスをするべきではないかと思います。
 最後は、是非、憲法前文の中に、日本が世界と共存しながら生きていくための宣言として、持続的社会の形成ということを是非入れていただきたいというのが私の意見であります。
 時間が来ましたので、終わりにさせていただきます。
 どうもありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 次に、小田公述人、お願いいたします。
○公述人(小田春人君) 岡山県議会議員の小田春人です。よろしくお願いします。
 参議院憲法調査会活動経過によると、今まで三回公聴会が開かれています。平成十二年一月に設置され、この春から夏にかけて最終報告をまとめられようとしている大詰めの現段階で、第四回目の公聴会で意見陳述できる機会を与えていただきましたこと、心より感謝しております。
 言論の自由が保障されている我が国ですが、わずか二十数年前でさえ、憲法改正論議、とりわけ第九条の改正論議をすることはタブー視される風潮がありました。衆参両議院の憲法調査会で本格的に議論され、各種世論調査でも六割以上が憲法改正賛成に変わったのは、歓迎すべきこととはいえ、正に隔世の感があります。
 私は昭和二十三年生まれで、いわゆる団塊の世代です。団塊の世代を昭和二十二年から二十五年までとすると、一千万人を超え、全人口の八%を占める大きな固まりであります。
 就学、就職、結婚、子育てのライフステージにおいて、経済を拡大し、社会をにぎやかにし、流行をつくってまいりました。一方、意識の面では、戦後民主主義教育の影響で、愛国心や日本の歴史、伝統、文化を大切にする心が相対的に薄い世代のように思います。
 立場はどうあれ、団塊の世代は、世代的に見てサイレントマジョリティーであってはなりませんし、より積極的に憲法論議に参加する意識を持つべきだと考えます。
 私は、団塊の世代に属する一個人として、憲法改正賛成の立場から陳述します。
 まず、教育問題について述べます。
 私たち日本人が憲法をどのように考えるかは、小学校、中学校、高等学校における憲法教育によって基礎付けられます。つまり、教科書の中での憲法に関する記述が憲法意識形成に相当の影響を与えると言っても差し支えありません。
 戦後教科書の変遷について調査すれば、興味深い結果が得られるかもしれません。今はとてもその時間的余裕がないので、現在使われている教科書について率直な私見を申し上げます。
 小学校は六年生の社会科で憲法を勉強します。平成十七年度から二十年度まで使用されるその社会科の教科書は五社発行しています。
 指導要領に、「日本国憲法は、国家の理想、天皇の地位、国民としての権利及び義務など国家や国民生活の基本を定めていること。」とあるように、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義の三原則を中心に記述してあります。
 国民の権利、国民の義務については、いずれの教科書も分かりやすく図示して権利と義務を並列的に扱っています。国民としての義務を果たすことは基本的人権が尊重される社会をつくる上で大切なことですと、義務についての記述が見られる教科書もあります。しかしながら、公共の福祉に関しては全社、全く触れていないのはなぜでしょうか。この点は不満です。平和主義を特に強調しているものもありますが、全体として各社ともおおむねバランスが取れているとの印象を受けました。
 ところが、中学校となると大違いです。
 歴史的分野について指導要領が指摘しているのは大日本帝国憲法の制定のみなので、公民的分野の教科書を取り上げます。
 中学校は平成十七年度が採択年に当たります。したがって、平成十四年度から十七年度まで使用する教科書を対象とします。対象となるのは八社です。
 日本国憲法の制定過程について、政府は大日本帝国憲法を基に改正案を作成した。だが、連合国軍総司令部、GHQはこれを受け入れず、自ら一週間で憲法草案を作成した後、日本政府に受け入れるよう厳しく迫った。政府は英語原案を翻訳し、修正を加え、総司令部の強い指導の下に改正案を作成したと、歴史的事実に沿って記述しているのはわずか一社であります。政府は連合国総司令部の作成した原案を基に憲法改正案をつくりました、あるいは、連合国総司令部から民主主義を基本とする憲法案を示された。これを基につくられた改正案がといった表現で、大変重要な制定状況には触れず、意識的に無視しているとしか思えません。
 権利と義務に至っては、余りの極端さに形容の言葉もないくらいです。二十ページから最も長いのは三十ページにも及ぶ権利と義務の記述の中で、公共の福祉と義務はわずか一ページです。
 基本的人権については、歴史から始まってその内容、差別などの問題点、新しい人権まで、これでもかこれでもかというほど懇切丁寧に記述されています。義務については、国民の三大義務はこれですとわずか数行で、説明は全然ありません。ただし、さきの一社のみがここでも際立った違いを見せています。自由には責任や秩序、権利には義務が対置されていなければなりません。
 指導要領は、社会科の目標として「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を深め、公民としての基礎的教養を培い、国際社会に生きる民主的、平和的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。」とうたっています。国家と国民を対立的にとらえ、殊更に権利の重要性を強調する教科書で学んで、公民的資質が養えるのでしょうか。私は深刻な危惧の念を持つものであります。
 高等学校では、現代社会か政治・経済で憲法を学ぶことになっています。指導要領上はほぼ同じと考えてよいと思います。
 現代社会は十二社十六種類、政治・経済は十一社十五種類と、多くの出版社から発行されています。使用年度は小学校と一緒で、平成十七年度から二十年度であります。
 岡山県の例で申し上げれば、小中学校は七つの採択区で、高等学校は各学校ごとに採択しています。
 高等学校についても、概観すればほぼ同じ傾向と言えます。日本国憲法の制定過程については、各社とも中学校と同じような記述です。権利と義務については、種類が多いだけに、中には義務の記述が全然ないものもあります。そして、人権の限界と関係して義務の問題がある。もっとも、義務というのは長い歴史を掛けて獲得してきた権利とは違って、憲法が定めなくても法律で定めればよい性格のものであると極論しているのもあります。
 松本健一氏は次のように言われています。
 「私」という字は、のぎへんに「ム」と書く、のぎへんは収穫物が実った状態を表しています。この収穫物に対して「ム」という形でひじを張ると「私」という字になる。ひじを張って収穫物を独り占めする状態が「私」なんです。これに対する自省、慎みとあるのが「公」という文字です。字を見ればすぐ分かるように、ひじを張って私が独り占めしている状態「ム」を「ハ」という形で開いている、あるいは背こうとしている「公」というのは、収穫物を独り占めするように争う状態を開いてゆく、そういう意味です。「公」は必ずしも国家だけではなく、世間でもあるし社会でもある。また共同体でもある。言わば「公」は社会の規範としてある。
 含蓄と説得力のある説明です。こうした「公」の精神を共有したいものであります。
 教科書における歴史教育は、様々な論議を醸してきました。平和主義は今回取り上げませんでした。無論問題ありであります。私はほんの片りんを申したわけでありますが、教科書における憲法教育ももっともっと問題にするべきではないでしょうか。
 櫻井よしこさんは、「憲法とはなにか」という本の中で、このように書かれております。
 第三章の権利及び義務の章を始めから終わりまで読んでみますと、権利、自由という言葉が各々十六回と九回出てくるのに対し、責任と義務は各々四回と三回しか登場しません。文言からも日本国憲法が権利と自由を強調し、責任と義務を相対的に軽視していることが見えてきます。学校や社会の崩壊の根本には、このような憲法のゆがみが影を落としているのではないでしょうか。
 日本国憲法制定後、六十年近くたった現在の日本は、当時とは想像も付かない姿に変貌しており、憲法と現実には抜き差しならぬほどの乖離が生じていると考えます。責任と義務を相対的に軽視している現法を、全体として見直し改正する必要があります。
 権利については、人格権、環境権、知る権利などの新しい権利や犯罪被害者の権利を入れるべきであり、義務については、国防の義務も聖域とせず議論の俎上にのせるべきです。
 教育については、私は現行の第二十六条のままでよいと考えていますが、第八十九条の私学助成に関しては疑義を生じないよう、できるようにした方がよいと思います。
 そして、急務の課題は、憲法と密接不可分のセットとなっている教育の憲法と言われる教育基本法の改正です。
 岡山県議会では、教育基本法の早期改正を求める意見書案を、私たち自由民主党県議団の提案により平成十五年二月、十二月及び十六年六月定例会の三回も可決しています。全国でも三十三都県が可決されています。
 平成十六年九月、日本世論調査会の教育に関する全国世論調査によると、基本法改正に五九%が賛成し、愛国心盛り込みも六六%が肯定しており、国民的コンセンサスもできつつあります。
 昨年に続き、今国会でも与党が早々と上程を見送ったのは誠に残念であります。早期の改正を特に期待するものです。
 次に、地方自治について述べます。
 当然のことながら、平成五年の衆参両議院における地方分権の推進に関する決議から本格的に始まった十年余りの地方分権推進の動きと実態を踏まえて、憲法上の地方自治の改正を考えていかねばなりません。
 平成八年、地方の行政権は内閣からは独立したものであると、内閣法制局長官の画期的な答弁がありました。国が地方独自の行政権を認めたわけですから、住民自治と団体自治を表していると一般に解釈されている地方自治の本旨を明確に改定する必要があります。その際、国は地方自治体の地域住民の意思を尊重して、地方自治は地方自治体及びその住民の自立と自己責任を原則とすると明記する考えに私も賛成です。
 従来、機関委任事務は都道府県事務の七割から八割、市町村事務の三割から四割を占め、言わば国の下請事務で、条例制定権も及びませんでした。国と地方自治体との関係は、上下、主従の関係から対等、協力の新しい関係に転換され、法定受託事務、自治事務すべてにわたって条例制定権が及ぶことになりました。外交、防衛、警察、司法制度等、国家の存立にかかわることはもちろん国の役割ですが、住民福祉の向上等、住民に身近な行政は地方自治体に任せるべきです。
 したがって、国と地方自治体の役割分担を憲法に明文化した方がよいと思います。現在、三位一体改革攻防の真っ最中ですが、地方自治体の財政は独自の自主財源を基礎にして健全に運営されなければならないといった地方財政に関する規定も入れたらどうでしょうか。
 最後に、住民投票について一言。
 特に、市町村合併の賛否を住民投票で問うケースが全国でありました。憲法は、代表制民主主義を基本にしており、直接民主主義は例外的に法定されているときにのみ認められるべきであります。混乱に拍車を掛ける場合もあり、住民投票は極力抑制的な運用が望ましいと思います。住民投票に頼るというのは議会に信用がない裏返しでもあり、根本的な地方議会の自立、自己責任が求められるのは言うまでもありません。
 以上をもちまして私の陳述を終わります。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 次に、澤藤公述人、お願いいたします。
○公述人(澤藤統一郎君) 私は、弁護士として三十年余りの職業生活を送ってまいりました。その実務の経験を通して、現行日本国憲法は擁護すべきであり、改憲には強く反対するという見解を持っております。本日は、その立場から意見を申し上げます。
 私は、現行日本国憲法を人類の英知の結実と高く評価しています。もっとも、日本国憲法をこの上ない理想の憲法と考えているわけではありません。個人的に希望を述べれば際限はなく、細部に幾つかの不満を持ってはいます。国民一人一人が異なる国家観、社会観、人生観を持っている以上、国民の数だけ理想の憲法があり得ます。日本の国民全員が完全に満足する憲法を持つというわけにはまいりません。
 元々、憲法というものは国の骨格を定めるもので、肉付けは日々不断の努力を積み重ねていくことになるのだと思います。私が現行憲法に不満に思う諸点は肉付けの問題として十分にカバーできる範囲のものだと考えております。むしろ、憲法の細部にこだわり枝や葉に対する不満を是正しようとすることが、根や幹の部分の改正論議を後押しすることになりはしまいかと危惧せざるを得ません。現実的に考えれば、一国の実定憲法としてこれだけの内容を持った憲法があることは誠にすばらしいことだと思います。この優れた憲法を軽々に変えてはならない、そう考えております。
 現行憲法を優れていると考える根拠は、何よりも後れた現実を批判する道具として極めて有効だからです。憲法は規範ですから、常に現実と距離があります。現実の先にあって現実を批判し、現実が進むべき方向を指し示す、これが憲法の役割だと思っております。そのような規範として、現行憲法は誠に優れ物だと考えます。
 かつて、私は、ある地方銀行の女性行員に対する賃金差別裁判を担当したことがあります。この裁判で銀行側はこう言いました。男性が主たる家計の維持者であることは現実であり社会通念である、だから家族手当や世帯手当は男性には支給するが女性には必ずしも支給の必要はない、こう言い切りました。確かに、このような現実や社会通念があるのかもしれません。しかし、その後れた現実を批判するあるべき基準として憲法十四条があります。一審、二審とも女子行員が勝訴を得ました。そして、銀行の賃金規定も変わりました。まさしく、憲法が現実批判の道具としてその役割を果たし、現実をリードした分かりやすい事例です。このとき、私は憲法の役割を明瞭に認識しました。
 当然のことですが、人権も平和も民主主義も、憲法に書き込んであるからといって既に実現されているものではありません。理念と現実とは別物。実は、国民一人一人が憲法に明記された理念の実現に努力していくこと、言い換えれば現実を理念に近づけることが要請されています。そのような国民の行動や運動が伴って初めて憲法は意味のある存在になるのだと思います。
 理念と現実とのそごは至る所にあります。
 政教分離という確固たる憲法上の原則がありながら、首相や都知事による靖国神社への公式参拝は毎年反省なく続けられています。
 憲法十九条には思想・良心の自由が明記されているにもかかわらず、教育現場では日の丸・君が代の強制がまかり通っています。
 憲法には両性の平等がうたわれています。しかし、職場で家庭で教育の場で平等は実現されてはいません。むしろ、ジェンダーフリーという思想が激しく攻撃されている現実があります。
 政治的表現の自由は最も尊重されるべきであるにもかかわらず、イラク派兵反対のビラ入れが住居侵入ということで逮捕され、勾留され、起訴にまで至っています。マンションで政党のビラをまいたことがまた同様に弾圧の対象になっています。
 憲法では検閲が禁止されています。にもかかわらず、公共放送の幹部が与党の議員に事前に番組の内容を報告し、その議員の意向に添う形で番組の改変が行われたという醜悪な事実も明らかとなりました。これら本来あってはならない後れた現実を(発言する者あり)後でどうぞ御質問をお願いいたします。これら本来あってはならない後れた現実を批判する鋭利な道具として、憲法は更に研ぎ澄まされることが必要だと思います。
 今必要なのは、憲法を改正することではなく、憲法をより良く使いこなし、憲法の掲げる理念を実現することなのだと思います。今、声高に憲法改正の必要を唱えている人の多くは、憲法によって批判されるべき側の人々のように思えます。
 憲法の理念が現実を批判する道具として正常に作用しているかという観点から、特に平和の問題について申し上げたいと思います。
 現在の日本はアジア太平洋戦争における敗戦から再生しました。日本国憲法は、大日本帝国憲法が戦争を起こしたことの失敗をリアルに認識し、これを真摯に反省するところから生まれました。政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意して、恒久平和主義が憲法に明記されました。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」というのが憲法九条二項です。これが改憲問題の焦点であることは、恐らく共通の認識であろうかと思います。
 恒久平和主義は、この地上から戦争をなくそうと努力を傾注してきた国際社会の良心と英知との終局の到達点だと考えます。
 ヨーロッパ社会に国際法ができて以来、聖戦論から無差別戦争観の時代を経て、侵略戦争違法論、戦争手段の違法化という大きな潮流が形成されてきます。
 第一次大戦後、国際連盟憲章ができ、不戦条約が締結され、さらに第二次大戦という戦争の惨禍を各国が経験した後に国際連合ができます。国際連合憲章は原則として戦争を違法化しましたが、例外を設けています。必ずしも戦争違法化の原則を貫いてはおりません。その後に日本国憲法ができ、恒久平和主義を採用いたしました。
 国連憲章と日本国憲法成立の間に何があったか。御存じのとおり、広島、長崎の悲劇です。核の恐ろしさを人類が知って、日本国憲法ができました。夢想された憲法ではなく、現実に第七十六帝国議会の議を経て帝国憲法の改正として日本国憲法が成立し、九条も採択されたのです。
 私は、人類の英知が一国の憲法に盛り込まれたものと考えます。人類史上の偉業と言ってもよいとまで考えます。これまで人類は憎悪と報復の悪循環の中で戦争を繰り返してまいりました。相手が軍備を増強するからには、こちらも軍備を拡大しなければならない。こちらは、備えあれば憂いなし、自国の軍備は防衛のためだと思っていても、相手国はそのようには取らない。あちらの国の軍備はこちらへの攻撃のためではないか、こちらも自衛のための軍備を拡充しなければならないとなります。
 お互いに、自分の国の軍隊は良い軍隊、よその軍隊は悪い軍隊、よその国は攻めてくる可能性がある、だからそれをうちの良い軍隊で防衛するという、こういう発想から抜けられないのです。お互い、相手国に勝る軍備を持たないと安心できない。この悪循環を断ち切るためには、軍備を持たないということが一番。憲法九条はこれを宣言しました。
 少なくとも日本はこれまで、専守防衛の姿勢をアピールして、軍備は抑制する方向にかじを切ってきたと思います。この人類の英知を投げ捨てて、普通の国に戻してしまおうということは誠に残念、人類史に対する裏切り行為ではないかと思います。
 私は、憲法ができて半世紀を経た今、理念としての恒久平和主義が妥当しない国際社会になってしまったのか、そのように国際社会は無法化してきたかと自問をしてみて、決してそうではないと考えます。むしろ、武力による平和、その試みの失敗、あるいはその無力があらわになってきているのが同時代史ではないでしょうか。パレスチナの悲惨、ベトナム戦争やイラク戦争、こういう失敗を見れば明らかではなかろうかと思います。
 憲法の理念と現実とは緊張関係にあります。理念を変えることは当然に現実をも変えることになります。これまでも九条二項の下で自衛隊が生まれ育ってきた、九条二項を削除したところで現実は変わらないという意見もあるようです。私は、これは楽観に過ぎると思います。
 九九年、百四十五国会は憲法受難国会と言うべきものでした。ここで、国旗・国歌法が成立しました。よく知られているとおり、国旗・国歌法は定義規定で、わずか二か条、国旗・国歌に対する国民の尊重義務は規定されていません。元東大学長だった文部大臣を始め、政府答弁では繰り返して、この法律によって事態は変わらない、国旗・国歌が強制されることはあり得ないと言われました。
 しかし、現実はどうでしょうか。二〇〇〇年の春から教育現場はがらりと変わりました。各地の教育委員会が卒業式、入学式での国旗・国歌の強制に乗り出し、ついには大量処分、そして法廷闘争、現在、裁判を行っている教職員は四百人に近いのです。ついには、園遊会で天皇に、日本じゅうの学校に国旗を揚げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございますと話し掛けた教育委員まで現れたのです。
 私は、今、九条二項あってなおの自衛隊の存在だと思います。九条二項の歯止めを失えば、装備、人員、予算、作戦、いずれの面でも軍事が大手を振るう、そういう社会になることを恐れます。
 憲法九条あればこそ、集団的自衛権はまだ否定されています。海外での武力行使はまだできません。できることは、せいぜい武力行使とは一体とならない後方支援活動の範囲。これまで、自衛隊員が戦闘で人を殺したり、殺されたりしたこともありません。日本が紛争の火種となる時代もありません。私はこれは、九条二項の理念がまだ現実を批判しリードする機能を持っている証拠だと考えます。
 憲法典が、憲法典という法律があるからというだけではなく、国民の平和意識、国民の平和運動と結び付いて今これだけの事態があります。仮に九条、なかんずく二項が改正されるようなことになれば、つまりは理念を現実に押し戻せば、現実は更におかしなことになってしまう、これが私の危惧です。憲法九条、特に二項は守らなければならない、そう考えて陳述といたします。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、森公述人、お願いいたします。
○公述人(森哲也君) 私は、化学をバックグラウンドとする弁理士でございますが、言論の府、良識の府であります当院憲法調査会で意見を述べる機会をいただき、大変名誉に存じ、御指名を有り難くお受けいたします。
 なお、私がこれから申し上げますことは、既に提出してありますところのレジュメと見出し等において表現の違いがあることをお許しください。
 さて、私は二つの観点から憲法を改正すべきであると考えております。
 一つは、一国民としての考えですが、平和主義の平和概念の認識を明確にし、それによって憲法第九条は全面改正されるべきこと、いま一つは、司馬遼太郎さんの文学的表現をおかりして申せば、この国の形として知的創造立国を憲法にうたうように改正があるべきことであります。これによって我が国は競争力国家として国際社会で雄飛できるものと確信いたします。
 まず、平和主義の平和概念の認識を明確にし、九条を論じてみます。
 すなわち、憲法前文は、我が国は恒久平和、絶対的意味の平和を理想とする宣言で、言わば政治的マニフェストないしは政治規範であると言えますので、その平和主義は、表現の当否は別といたしましてそのまま妥当するものと考えております。
 他方で、第九条は、戦争の全面放棄をうたい、前文の理想的な恒久平和あるいは絶対的意味の平和概念に依拠するもののごとくであります。
 そうなりますと、この第九条は、現実の社会に適用される裁判規範ではなく、前文と同様に政治的マニフェストないし政治規範と言わなければならないと思うのであります。なぜならば、現実の社会には恒久平和などというものはなく、戦争と戦争との間の平穏な状態というような、相対的、現実的意味の平和しか存在しないことは明らかでありますところ、厳然たる軍備、戦力である自衛隊の存在が第九条の裁判規範性にとどめを刺すからであります。
 第九条が政治的マニフェストないし政治規範だとすれば、法的意味の憲法違反の問題は生じることなく、厳然たる軍備、戦力である自衛隊の存在についても同様の結論となります。このように考えますと、我が国が実は戦争の全面放棄はしていないこと、厳然たる軍備、戦力の存在について、裁判規範としての憲法上の認知が必要になりましょう。
 私は、誠に素人考えではあるんですが、侵略戦争を抑止するだけの一国防衛の個別的自衛ないし集団的自衛の権利を認め国際の平和のために軍備を加盟国に義務付けている国連憲章と、これに対応する内容を持つ日米のいわゆる六〇年安保条約とを最高法規の章の第九十八条第二項、条約の誠実遵守義務経由で国内法化していること、つまりトランスフォーメーションの法理によるのが一番すっきりして納得がいく認知だと考えるのであります。このことは、ハンス・ケルゼンやハンス・モーゲンソーの言う国際法の有効性の担保である執行力を主権国家に分権していることだと思うのであります。
 このような国際法上の義務を果たすために、第九条でうたわれている戦争の放棄は、我が国が相対的、現実的意味の平和を具体的に追求できるよう、また明確に侵略戦争だけの放棄の形となるよう、さらに、軍備は安全保障上、侵略には用いない抑止力として保持できるものとなればよいと考えます。それには、第九条は現実に合わせ全面的に改正し、文民優位の原則、軍の統帥、編成、非常事態の宣言、軍法会議、国会との関係を正面から規定して、国家の超法規的軍事行動や旧軍の過ちの繰り返しが防止できるようにすべきであります。
 次に、知的財産の仕事をしている弁理士として、憲法に知的創造立国をうたうべきことを提言いたします。
 この知的創造立国の歴史は意外に古いのであります。一三三一年、英国はエドワード三世王が競争政策としてフランダースの織物職人ケンプに特許状を与えました。これによって、英国は羊毛の輸出国から付加価値のある織物の輸出国に変身していくのであります。
 一八八三年、明治十六年に締結された産業財産の保護に関するパリ同盟条約は、発明、意匠、商標、原産地表示などの知的財産の保護を目的として成立し、二〇〇二年では百二十六か国の加盟となっております。我が国は、一連の不平等条約解消の外交交渉の中でこの条約の加盟が要求され、明治三十二年に加盟したのであります。自来、特許制度の整備、改革が続き、偉大なる発明が生まれ、科学技術立国の礎が築かれました。
 一八八六年、明治十九年にスイスのベルヌで締結された文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約は、知的財産の一つである著作物の保護を目的として成立し、一九九八年で百三十か国の加盟となっております。我が国は、やはり一連の不平等条約解消の外交交渉の中でこの条約の加盟が要求され、明治三十二年に加盟したのであります。自来、我が国は著作物の保護のための法整備が続けられ、今日の著作権大国となることができました。
 次に、知的財産権と市場との関係を多少原理主義者的に御説明を申し上げます。
 今、国際社会では情報が高速化し、規制、障壁要因が改革、解消されたグローバル市場に向かっております。そこではアナロガスに完全市場モデルが想定され、それは競争には何でもありの世界であります。
 我が国の失われた十年を振り返ってみますと、規制改革を進めながら、デフレーションと経済の不活性とに悩まされた十年間ではありました。それは物理的に必然性があったのであります。固体の最適化と系の予定調和で、これがアダム・スミスの見えざる手だと考えます。規制緩和でより自由となった市場は、特に創意工夫をした新規創業者が出て、一時的に活性化いたします。
 しかし、市場への先行参入者がいれば、これをキャッチアップする者が出てまいります。キャッチアップする者は創意工夫に投資した先行参入者よりコストが低く、より低価格で商品やサービスを提供することができます。
 ここに価格競争の連鎖が起こり、ついには利益の出ないところまで価格は下落するのであります。そこで、先行参入のメリットがないことが分かって、市場の失敗という膠着状態が起こります。これは、活性を失った市場から脱却できなくなる現象であります。
 そこで、一定の範囲で一定の期間、創意工夫の独占を許す知的財産権が作用いたしますと、創意工夫をした先行参入者の利益は確保され、膠着状態は解消して市場は再び活性化するのであります。
 そして、以後、キャッチアップする、キャッチアップ型の行動者は知的財産権によって抑止され、かかる経済行動による価格競争の連鎖は断たれることになります。
 一九九五年に成立したWTOは、TRIPsにより、そのような創意工夫を知的財産として保護することをグローバル市場のルールといたしました。幸いにも、我が国が他国に比し、すぐれてこのルールに合致していることを、国民の知的創造力、伝統文化、科学技術のレベルの高さが示しております。
 そこで、我が国は、平成十二年にこのWTOルールの国際戦略化とし、制度の改革、強化をしつつあります。けだし、時宜を得た政策でありました。
 とりわけ、特許制度の運用は、産業政策という性格と条約上の義務があることから政府が行政として自ら行うべきものであり、それを所管する特許庁はアジアを視野に入れて戦略的に強化拡充され、これを野にあって支える知的財産専門家制度の弁理士制度も強化拡充されるべきであります。
 しかし、この知的財産の保護は時の政権の政策に終わってはなりません。なぜならば、今申し上げた市場原理、国際社会の動き、資源の少ない我が国の事情、そして何よりも、知的創造力に優れた国民性にかんがみれば、それは国家百年の大計であるべきです。
 したがって、知的創造立国を憲法にうたい、我が国が国民の頭脳を競争力の資源とすることで国益を守り、国を発展させ、世界に富をもたらす国であることを内外に示すべきでありましょう。
 三浦朱門博士会長の民間憲法臨調は、知的創造に関する新しい権利を憲法にと提言しておられますし、私が会長をしております日本弁理士政治連盟も、今月の八日に結成三十周年記念祝賀会を行った際に、知的財産の創造、保護、活用を憲法にと提言させていただきました。
 それでは、具体的にどのようにすればよいのかと申せば、前文に知的創造立国を、財産権の規定に知的財産権を、教育を受ける権利の規定に知的創造教育を、内閣の職務の規定に知的創造施策を、司法においては専門裁判所の位置付けをそれぞれ明確にうたうのであります。
 なお、世界には知的財産関係の規定を有する憲法は、米国を始め少なくとも四十八か国ございます。
 以上で私の公述を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で公述人の方々の御意見の陳述は終わりました。
 この際、十分程度休憩をいたします。
   午前十時二十九分休憩
     ─────・─────
   午前十時四十分開会
○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 これより公述人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いをいたします。
 若林正俊君。
○若林正俊君 自由民主党の若林正俊でございます。
 公述人の方々には、お忙しい中をわざわざお時間をいただいてありがとうございました。
 先ほどそれぞれのお立場から憲法についての認識、そしてまた改正についての考え方、お話を伺いました。そこで逐次御質問を申し上げたいと思います。
 まず、五十嵐先生にお伺いいたしたいと思います。
 世界が大きく動いており、そして国家というものの領域を超えて一方はグローバリズムが進んでいく。一方、国家の内部においてもそれぞれの個の考え方が強くなってきて、まあ言ってみれば国家が、今までの国家というのは解体していくというような基本的な認識をお持ちでございます。
 歴史認識としてこれからの五十年、百年を展望して、大きく世界が変わっていき、世界の中の日本の位置付けも変わっていくでありましょう。日本もそれぞれの社会経済の変化によって大きく変わっていくということについてはそのとおりだと私も思いますけれども、しかしこのことを、今我々が議論しています憲法改正の中において、今のような認識を先生と共有するわけにはいかないなというふうに考えております。予見し得る将来にわたって、やはり国家というものの存在というものはますますその役割が強化されていくのではないかというふうに私は思っております。
 その意味で、新しい憲法を考えるに当たりまして、国民的論議を経て、国民の合意の下に新しい憲法が制定されるべきであるという、そういう御認識について共有しながらも、国家の位置付けについては考え方が違うということをまず申し上げながら、あるべき憲法改正論というお話の中で、国民の直接参加、直接民主主義の手法というものをやはり評価をして導入しなきゃならないと、こういうことを御指摘されていることについて、私も何らかの形で重要事項について国民の直接参加の手法というものを考えなければいけないんではないかというふうに思っておりますが、この点について少し具体的に何かお考えがありましたらお聞かせいただきたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 五十嵐公述人、お願いいたします。
○公述人(五十嵐敬喜君) 今二点の質問かと思います。
 一つは、国家論の射程距離といいますか、有用性とかそういうことではないかと思いますが、憲法史を勉強いたしますと、この国家論というものが非常にピークに達するのが実は明治憲法のときであります。特に伊藤博文さんを中心としまして、ヨーロッパのプロイセン憲法の、特にベルリン大学の経由の国家学というものを経由いたしまして、これを日本的に置き換えて明治憲法にいたしました。国家学の前提としまして、天皇、神聖なる天皇とありまして、この大権が隅々を支配するという構成になっています。昭和憲法のときにはこれが少し薄まりまして、国家学、国家主権よりも国民主権論の方に移動いたしましたけれども、ちょうど過渡期にある憲法がちょうど天皇象徴になっているというふうに私は理解しております。
 今後更に五十年考えるときに、国家論として何を想定し、何を考えていくのかということをずっと勉強してまいりましたけれども、具体的に国家主権論とは何かといいますと、やっぱり究極的には通貨発行権とか外交権とか軍事権というようなものが国家主権の内容と言われています。
 しかし、一方では、この国家主権がどんどんとEUを見ますと移譲されております。さらに、日本国憲法の論議の際でも、例えば軍事権について、国連との関係などを見ますと、軍事権に関する主権の一部の移譲といいますか委託といいますか、協力関係といいますか、しかしそこも離れていくということですね。すると、具体的に今後、国家論として何が残るんだろうかということを見ますと、何か明治憲法以来の抽象的な、ある種のレトリック、ある種の観念論をやっているような気がいたします。
 是非、この論争は詰めていただきたいと思います。そのときには是非、国家主権というものの内容というのは一体何なのかということを詰めていただければと思います。私は、国家学よりもやっぱり政府論に移るべきであるというのが、私の言った、先ほどのとおりであります。
 二番目は、国民主権と直接民主主義の関係であります。
 今日ここで、わずかな時間でこのことをすべて言い切ることはもちろんできませんが、世界人類史的にやっぱり二千年ぐらいの単位で変動が始まっていると私は見ております。御承知のとおり、議会というのがあのジョン・ロック以来定立されました近代政治学あるいは近代憲法学の前提になっていますけれども、議会というのは果たして今後も有用かと、これは皆さん方の直接かかわる問題でありますけれども、少しクエスチョンマークが付いてきました。
 それは何かといいますと、議会でなければやれないことというのは何であったのかということに関しまして、非常にせんじ詰めてざっくり言いますと、二つ特色があるというふうに言われています。
 一つは、選ばれた者と選ばれた側の関係を見るとどちらが優位かということを見ますと、ずっと、やっぱり複数の人から支持されるという意味で、選ばれた側の方が賢明であると。だから、政治はやっぱり賢明な人に任せた方がいいということが一つであります。もう一つは、直接民主主義にいたしますといろいろ議論ができない、人数が大き過ぎて議論ができないので、議場という言わばある種の閉ざされた空間を持つべきである。この二つが、議会というものの絶対的な、本質的な要素として、四百年ぐらい続いてきた大きな理由であります。
 しかし、その二つとも正しいかといいますと、やや、やっぱり率直に言って疑問があります。選ばれた者と選ばれる側との関係で常に絶えず選ばれた側が賢明であるかというと、どうもそうではない可能性も大きいということであります。それから、技術の発達が議場という閉鎖空間を必要としなくなりました。そうすると、議会の存立根拠は一体何かの、かなり根底的な本質的な根拠が薄れてまいります。
 やっぱり一番重要なことは、国民が主権者であるということは、国民が一人一人、選挙のときだけでなく、大事のときにはこれを具体的に決めていいというものが国民主権の本質、ルソー以来国民の立法権というのがありまして、この立法権、国民の立法権が本質的なことというふうに言われておりまして、ここをもう一度考えてみるべきだろうというふうに思います。
 具体的にはどうかといいますと、EU憲法がここでも非常に参考になりますけれども、EUの場合には、百万人、EU市民百万人の署名が集まりますと直接国民はヨーロッパ議会に対しまして議案を提案することができます。議案が提案された後の処理については、否決された場合はどうするか、可決された場合はどうするかについていろいろテクニックありますけれども、そういう形で議案を提案することができるというふうになっております。
 もちろん、地方自治法レベルではこれはできておりますけれども、実は国会についてはこれができておりません。せいぜいやるとすれば請願か陳情でありまして、正式に議案とはなりません。まず一つはそういうことであります。
 それから、地方自治レベルで認められる様々な住民投票がいろんな形で行われてきておりまして、国家の重要案件にかかわるものについては場合によったら国民投票をしてもよろしいということがいろんな国家の憲法に見られるようになりました。具体的に国家の重要事項について国会が発議してこれを国民投票にかけようということがあってもいいだろうと私は思っております。特に、近代政治でいいますと、政党政治を超える問題というのがたくさん出てきております。例えば、先ほど申し上げました安楽死をどうするかとか脳死をどうするかというようなことについて言えば、これは政党政治等を超えて国民全体で議論をすべきものでありまして、こういうものについては例えば国民投票にかけてみようという意味での民主主義的な実験をやるべきだと思いますけれども、現在のところ日本国憲法は、これは窒息状態であります。
 それから、先ほど言いました憲法四十一条の関係で、憲法で認める二つの国民投票以外については法的効力は認められません。しかし、地方自治体で行われている住民投票の結果などを見ますと、ある種の法的拘束力を認めてもいいという事例がたくさん出てきていると思います。
 これは日本だけの状況でありますけれども、先ほど言いましたEUとかアメリカなどを見ますと、やっぱり政治が徐々に二千年前のギリシャに戻ってきておりまして、正に国民主権というものが非常に重要視されてきているということです。
 もう一つだけ、一点だけ付加しますと、日本の場合には、特に昭和憲法の本質的な問題点として、官僚支配ということが日本の現実の政治の非常に大きな政治的論点としてあると思っております。
 この官僚支配に対抗するのに、従来のような言わば三権分立の枠組みで本当に官僚主権に対して対抗できるかどうかとなりますと、必ずしも十分でない。十分でない結果が今日のある種の官僚支配を許していると思います。官僚支配に対する最も有効な対抗軸はやっぱり国民主権があるし、この点からも国民主権論としての直接民主、国民投票法案というものを考えるべきだし、それに抵触する憲法の規定は訂正すべきであるというのが私の考え方であります。
 以上です。
○若林正俊君 ありがとうございました。
 次に、小田公述人に御質問をしたいと思います。
 憲法教育の問題について大変詳しく事実に即して、教科書を中心にお述べになられました。非常に参考になりました。憲法教育が小学校段階、中学段階、高等学校段階、それぞれの段階に応じて憲法教育というものが正しくきちっと行われなければならないということについては全く認識を共有するものでございます。
 そこで、もう一つお触れになりました国と地方公共団体の役割の関係、地方自治の関係についてでございます。現行憲法で地方自治に対する規定が大変弱いというふうに私も思っております。地方自治に関する規定が抽象的過ぎて簡潔過ぎるという御見解については私も同感でございます。
 そこでお伺いをしたいんですけれども、地方自治体、地方自治体というふうに一くくりで、憲法の上でも地方自治を一くくりにしておりますし、公述人のお話の中でも地方自治体というものを一つのものとして考えていろいろ論述されましたけれども、現実には都道府県と市町村があるわけであります。憲法で規定する場合の、地方自治の原則、原理という場合の基礎的自治体というのはどのように考えておられますか。
○公述人(小田春人君) ちょっと最後のこと、ちょっとよく分からなかったんですが、一番最後のときに何自治体というふうにおっしゃったんですか。
○若林正俊君 基礎的自治体と。
○公述人(小田春人君) 基礎的自治体ですね。
○若林正俊君 はい。つまり、都道府県と市町村、さらには市町村以外にも地方自治の原点たる地方公共団体というのはあり得るわけですけれども、憲法で国と対置して考えていき、その基礎的自治体の、つまり自治体の位置付けというのを明らかにする場合、その場合の基礎的自治体というのはどのようにお考えなのか。
 私は、実は基礎的自治体は市町村だと考えておりまして、地方自治の本旨というものをきちっと規定する場合の主体は市町村を対象に考えていくべきだというふうに考えているんです。都道府県というのは中間段階にありまして、言ってみれば市町村の連合体のような形に組み立てていかざるを得ないんではないかと。そういう意味で、都道府県に市町村と同じような意味で地方自治体の自治権とか、それを、独立して自立的に都道府県に地方自治体としての権能を付与することについてやや疑問を感じておるもんですから御質問をいたしました。
○公述人(小田春人君) 先ほど私も基礎的自治体について市町村と都道府県という形で分けては申し上げませんでしたが、私は、今先生おっしゃったように、基本的には、市町村合併が進んでおりますし、岡山県でも、いろんな方式ありますが、これから権限ともに市町村へ岡山県独自に権限移譲していこうという時代でありますから、市町村というのが一番基礎的な自治体だと思っています。
 それから、これからは都道府県の道州制、あるいはいろんな考え方があるわけですが、私は道州制に行くべきだろうと思っています。
 例えば、中国地方で現在市町村というのは、合併が進む前は三百三十ぐらいございました。ところが、今進んでいる中で、岡山県は七十八が三十四になって、来年には三十を切るぐらいになると思いますが、中国地方でも合併の各県がつくりましたパターンによりますと三百三十が百以下になると。こういうときに、果たして県の在り方はどうかなということもありますから、基本的にはこれから先は基礎的自治体は市町村を念頭に置いてやっていくべきだと思いますし、道州制を将来は、道州制によって、道州制と市町村と、市町村というよりも市や町と言った方がいいと思いますけれども、そういうふうに行った方がいいというふうに思っております。
 以上です。
○若林正俊君 この憲法改正に当たりまして、地方自治の部分にどのような国と自治体、地方自治体との関係、自治体相互間の関係、自治体相互間という意味は、今ある都道府県、今お話しになりました将来の道州制といったようなことを念頭に置きましたそういう相互間の関係、それから首長と議会との関係。それらについても、これから地方分権を強力に進めていくという方向を考えました場合に、憲法上これらを明確に規定しておくべきではないかというふうに考えておりますが、いろいろお伺いしたいことはありますが、時間もなくなってまいりましたので、申し訳ございませんが先に進ませていただきたいと思います。
 澤藤公述人に申し上げたいと思います。
 実は、先ほどのお話の最中に、我々議員の中からやや不規則な発言がありましたことについておわびしなければならないと思います。
 ただ、澤藤さんのお話は、おっしゃっておられることは、そのような御意見を持っておられるグループの代表的な意見だとお伺いいたしました。これらのグループの御意見というのは、大体判で押したように同じような認識で、同じようなことをおっしゃっておられますので、我々もいろんなところでお聞きしておりますから、お話しになりましたことについて御質問はいたしません。意見も申し上げません。
 ただ、基本的な認識が違っていると大変かみ合わない話でございますが、一つお願い申し上げますと、いろんなことをお話しの際に、事実について、客観的なその事実認識は主観を交えずにおっしゃっていただきたいと。例えば、NHKの報道との関係などについては事実認識を異にいたしておりますので、その事実に基づいてお話をいただきたいと思います。
 一点だけ、もう時間が参りましたのでお聞きしたいと思いますが、例えば北朝鮮の核武装をしたんだというような発言ございましたが、北朝鮮との関係を日本国の防衛と平和と安全を守るという観点から、北朝鮮についてどのようにお考えですか。
○公述人(澤藤統一郎君) 済みません。二点の問題としてちょっと答えさせていただきたいんですが、最初のNHKの問題ですけれども、私は、民主主義の政治というのはこれは世論による政治である、世論の形成に決定的な影響を持つものはこれは報道とそして教育である、報道と教育には権力的な介入は許されない、これが基本的認識で、憲法改正問題などを考えるときにはこの点に留意していただきたいと思います。事実を確認しなければいけないということはおっしゃるとおりで、私は私なりに両方、三者のあるいは四者の意見の相違のないところで、つまり意見の食い違いがあるところは捨象して、意見、今のところ一致しているところを土台にしてお話を申し上げたつもりです。それで、(発言する者あり)はい、分かりました。
 それから、北朝鮮の問題について、私は言及しませんでしたが、御質問がありましたので私なりの見解をお話しさしていただきたいと思いますけれども、私は、北朝鮮の体制ということについては大変奇異な体制だと、不自然なものだというふうに考えております。しかし、だからといって内政不干渉の原則は、これはこれで一つの大原則だというふうに考えております。
 私は前には中国に大変関心を持っていたものですけれども、中国が一九六六年から七六年まで文化大革命というこれも大変不自然な体制がありましたけれども、これに対して周りの国が開放・改革を促すような、そういう措置をとったことが極めて適切であって、現在は私は中国の状態は大変適切だというふうに考えております。
 北朝鮮にも同じような対応をすべきでないかというのが私の基本的な考え方、北朝鮮が改革・開放の路線を取れば今のあの大変不自然な体制というのがもつまいというふうに考えております。それを超えた過剰な反応は私は基本的には得策ではないというふうに思っております。
 手短ですが、そういう意見を申し上げます。
○会長(関谷勝嗣君) 若林正俊君の時間は過ぎましたので。
○若林正俊君 はい。ちょっと一言。
 北朝鮮の問題については国民の大多数の人が大変に不安を持っております。そういう国民の不安を解消するための方策というものを政府、国家として持たなければならないということを一言申し添えておきたいと思います。
 森公述人には、本当に申し訳ございません。お時間がなくなりました。ただ、平和主義、安全保障、そしてこの抑止力についての基本的な認識は全く同感でございまして、共有いたしております。おっしゃっておられることについても理解をさせていただきました。
 権利としての知的財産権については、何か憲法にどこまで書くかという問題があるんですけれども、宣言的な意味合いで何らかの知的財産権を尊重していくというか推進していくということについて触れていってはどうかというのは、党内にもそういう意見がございます。参考にさしていただきたいと思いますが、ただ、この新しい権利の関係は、書けば書くほど、その書いてないものはどうするんだといったような問題に深くかかわってくるものですから、新しい権利として、知的財産権、決して新しい権利じゃないものですから、この触れ方は非常に難しいなというふうに感じました。
 感想だけ申し上げさしていただいて、終わりたいと思います。
 どうもありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、若林秀樹君。
○若林秀樹君 民主党の若林秀樹と申します。
 まず、五十嵐公述人にお伺いしたいと思います。
 先ほどの質問とちょっと関係があるんですが、国民主権という問題について伺いたいと思います。
 憲法が制定されて約六十年近くたって、なかなかそれが、国民の、ともにこれまで活用されてこなかったんではないか、やっぱり置き去りにされてきたんではないかという問題意識もありまして、なかなかこれが本当に使いこなされた憲法なのかということに対するある問題提起でありまして、その意味において、国民主権というものがなかなか体現できないというんでしょうか、感じられないということが、恐らく国民も思っているんだろうなというふうに思います。
 確かに、憲法には国民主権、基本的人権、様々なことが書いてはあるんでありますけれど、一方、それが体現できてないということにおいて、先ほどはそれを補完するものとして直接民主主義というものを入れたらどうかというお話もありましたが、それを除いたときに、憲法の構成として何か問題があるのか、あるいはこれからの憲法を論じるときに国民主権ということを入れるのならどういう在り方が望ましいのかということについて、簡潔にちょっとお答えいただきたいと思います。
○公述人(五十嵐敬喜君) 直截な回答になるかどうか分かりませんけれども、憲法を考えるときに何を考えたかということをずっと見ますと、明治の用語で言いますと、国家の基軸とは何かということをずっと考えるんです。昭和の場合は、ちょっと忙しかったんですけれども、やっぱり民主主義、当時は国家の基軸とは何かについてやっぱり天皇というのが考えだったんだということですね。戦後、昭和憲法でやっぱり国家の基軸の一つとして国民主権とか民主主義とかということを考えたということだと思うんです。
 今の質問でいきますと、これが実質化したかどうかということですが、いろんな言い方があると思いますけれども、やはり率直に大学で授業などをしながら含めて言いますと、必ずしもアメリカのような、国民一人一人が全部人権とか統治の構造を分かっていて、ある種の選択をし、生きていくということとはちょっと遠いなというふうに思うんですね。しかし、今後五十年、百年間は、これが絶えず問われる。やっぱり国家の力量、もし国家というものがあるとすれば、国家の力量は一人一人の国民の人々の総体だと思うんですね。
 なぜ、その国民主権が現実化しなかったこの大きな原因として、やっぱり、ちょっと先ほど言いましたけれども、全部官僚さんにゆだねておくと、少なくともここまでは余り大きな過ちはなかったということで、ややお任せ民主主義といいますか、だれかにゆだねた民主主義をずっとやってきたんだ、それで平和が保てたんだと思うんです。
 しかし、今後はそうならなくなりまして、いよいよ自分たちで自己決定しなきゃいけない、非常に大きな概念、自己決定しなきゃいけないと思うんです。自己決定が問われる。地域的に問われるし、世界的に問われる。そうなったときに日本国民は十分にちゃんとした回答をしていくだろうというふうに、ただその手続がない。その手続は憲法がやや閉じ込めているので、その手続を開放してくださいというのが私の二十一世紀の国民主権論のその憲法論なんです。
○若林秀樹君 ありがとうございます。
 次に、小田公述人にお伺いしたいと思います。
 先ほど五十嵐公述人の方から、地方自治の在り方という意味ではもう少し多様な自治体があってもいいんではないか、その設計図を、いろんな在り方があってもいいんではないかというお話がありました。非常に私も興味深く聞かさせていただいたところでございます。
 今、市町村合併が進んで、その地方自治がどうあるべきかというか、問われてはいるんですが、非常にある意味では、効率という言葉を前提にやっぱり画一的な自治が進みつつあるんではないか。そのアンチテーゼとしてもっとやっぱり多様な自治があってもいいんではないかということを考えますと、選ばれた側が賢明だというお話もありましたが、小田公述人の立場では様々な在り方はあるべきだということの言うことの難しさはあると思うんですが、例えば、青空議会的に、せっかくサッカー場をあれだけ造ったんだったら、たまに、年に一度は集まってそういう議論をして、あるいは直接投票を入れるとか、やっぱり補完する在り方とか、様々な地方自治の在り方があってもいいんではないかなと思いますが、その辺について、今の地方分権の流れの中で、このことについてどうお考えになるかお伺いしたいと思います。
○公述人(小田春人君) 機関委任事務から法定受託事務と自治事務に変わりまして、すべてにわたって原則的に条例制定権が及ぶようになりました。
 そういったことを受けて、全国的に都道府県議会でも、今までは議会提案の政策条例というのはほとんどなかったんですが、それをやろうという。これは一つの大きな執行部に対しての提案ができるという大きい権能を与えていただいたわけでありますし、そういったことを生かしていって、岡山県でも中山間に関する基本条例、あるいはまた、今も長期計画やあるいは中期計画、そういった基本的な計画に対して議会の承認を得るということで、この二月議会でも今準備を進めておりますが、そういった議会が今までにないやり方をする。その議会としてやっていく、与えられた権能をいかに生かしていくかという、青空議会というのもそうだろうと思いますし、それからもう一つは、私は議員個人がどのようにやるかということがあると思います。
 私も代表質問、一般質問、全国で議会で例が、原則は違うんですが、ずっと毎回質問、毎回傍聴をさせていただきまして、今まで五十二回やらしていただいております。やっておりますが、質問自体は個人の努力でできますけれども、毎回傍聴、毎回、少ないときでも三十人から四十人、多いときは百人ぐらい地元から傍聴に来てもらいまして、一回議会に傍聴に来られますと皆さん認識が変わります。延べでいいますと有権者の十分の一ぐらいの方に地元から毎回バスで来ていただいておりますけれども、そういった議員個人の、地元での県政報告会とかいうのはどなたもやられますけれども、そういった工夫をしながらやっていく。言わば、スキャンダルではなくて茶の間で政治を語る、地域を語る、これからどうなっていくんだろうかというような、そういう政治の空気といいますか風土といいますか、そういったものをつくっていく。それは議会全体として、あるいは県議会も会派で大体やっていますから国会と一緒ですけれども、会派あるいは県議会全体、まあ今はCATV等で議会の代表質問、一般質問、岡山県もほとんど流しておりますが、そういうふうに議会全体で取り組むこと、会派で取り組むこと、個人で取り組むこと、そういった中で地方自治も変えていけるんではないかなと、変わっていかなきゃいけないと、そういうふうに思っております。
○若林秀樹君 ありがとうございます。
 続きまして、澤藤公述人に憲法九条についてお伺いしたいと思います。
 平和をどう定義するかということが非常に重要だと思いますが、戦争がない状態であるということを定義すれば、それをつくり上げ、それを維持するということは相当な努力がやっぱり必要ではないかなというふうに思っておるところです。
 憲法九条は、私はやはりあの戦後の中で国際社会に復帰するパスポートとしての役割としてあの二項がどうしてもやっぱり必要だったんだろうというふうに思います。そのときには、やっぱり吉田茂首相等の発言を聞きますと、自衛としての武力行使もしないんだぐらいの議論をしているわけでありますが、この六十年間の変化で大分この安全保障に対する国民の意識もやっぱり変わってきたと。
 先ほど二項は残すべきだというお話がありました。その中で、自然権としての個別的自衛権を認めるんであれば、それに必要な武力を行使できる軍というものを、自衛隊というものをきちっとやっぱり明記することも逆に必要ではないか、そのことが国内外から理解されやすいやっぱり憲法になるんではないかなというふうに思いますが、普通の国民が読んで理解できるという意味において私は変えてもいいんではないかなという感じはしますが、その辺はいかがでしょうか。
○公述人(澤藤統一郎君) 敗戦後の日本が国際社会に復帰するためのパスポートであったと、その側面は確かにそのとおりだと私も同意いたします。同時に、これは日本が侵略戦争をしたその被侵略国の国民に対する非戦の誓い、言わば国際的な公約でもあったのだと思います。
 一面、これは言わば占領軍から押し付けられたという側面、否定し得ないと思います。しかし、やはり私は、それを国民が望んで自ら取り入れた、吉田あるいは幣原という優れた政治家がこれを歓迎したという側面は、これも否定し得ないんだと思います。
 押し付けられた側面というのは、私は、半世紀を経てだんだんとこれを日本の国民が守ってきたという、そういう側面を重視すべき事態ではないかというふうに考えております。むしろ、今外国から日本の、外国からといいますか、唯一超大国と言われる国から日本の憲法九条を変えた方がいいのではないかという圧力が掛かっている、これを日本国民が言わば自ら選び取って守り抜く、こういう作業の中で、日本国憲法、なかんずく九条が国民のものになるのではないかというふうに私は考えております。
 もちろん、今、議員が御質問されたような前提のお考え方は、私はそれはそれなりに一理のあることだというふうに考えております。しかし、やはり物には両面、メリットとデメリットがございます。それをはかりに掛けてどうかということの判断をしなければならないわけですけれども、私は、軍隊を置くメリット、九条二項をなくすることのメリットよりは、私は今、まず今のままの九条二項を残すことのメリットの方が大きい、できることなら武力をなくする方向に国政を動かすことの方が平和に役に立つことだというふうに考えております。
 ちょっと結論だけですけれども、私の考えはそういうことです。これは、国民の平和意識、平和運動の中に大きく根付いている典型的な意見だというふうに考えております。
○若林秀樹君 ありがとうございました。
 お待たせしました。森公述人にお伺いをしたいと思います。
 私も知的創造立国を目指す日本として知財というものをきちっと憲法の中に位置付けるべきではないかということは基本的に賛成でありまして、民主党としても知財基本法的なものは過去からずっと提案してきたところであります。
 やっぱりこの知財というのは著作権、特許、世界各国とのある部分ハーモナイゼーション等もありますし、IT化が進みながらある部分のその弊害というんでしょうか、様々なビジネスモデルの特許ができてしまったりとか、特許があることによって途上国の発展にやっぱりそれが使いにくい、例えばエイズの薬等の関係からあると思うんですが、やっぱりこの知財というものもこれから次の四、五十年を見たときのその概念というんでしょうか、変わってくるんではないかと。そのときのやっぱり考え方として何かお考えなりあればというふうに思いますし、むしろ、その知財も世界の平和と発展のために逆に使っていくんだみたいなところも含めて入れていくことはどうなのかなと思いますが、何かそこら辺についてお考えがあればお伺いしたいと思います。
○公述人(森哲也君) 若林先生の今のお考え、正にそのとおりだと思います。
 知的財産というのは独占排他権でございますので、これは、形のあるものに対して独占排他という意味ではその形の範囲内で抑えられますから、弊害というか、そういったところは割とないのかなと。しかしながら、民法の中でも私権は公共の福祉に従うと、こういうふうなこともありますので、同じことが知的財産権についても言えると思います。
 そして、国際社会の中で知的財産を、あるいは知的創造立国を宣言して競争力国家を打ち立てていくということであるときに気を付けなきゃならぬことは、途上国に対する、何といいますか、思いやりということが必要なのかなと思います。
 そういう意味で、例えば国内的だけにちょっと言いますと、公共の利益のために特許庁長官が裁定によってある特許権に対して通常実施権を設定する手続が現にございます。そういったふうな公共の福祉というふうな観点のものを知的財産権の方にもっともっと強く運用をしていけば、弊害というところはなくなるものだと思います。
 それともう一つ、途上国に対する配慮。これは、生物多様性条約というのがございまして、この中の十六条でしたかね、十六条から二十条、ちょっと記憶は定かじゃないんですけれども、二十条の辺りに途上国と、例えばゲノム資源を利用するときに知的財産権をどういうふうに扱ったらいいのかというふうなことをルール化してございます。こういったルールに従って日本国はやっていけば世界から非難を招かないでやっていけるのかなと、このように思います。
○若林秀樹君 ありがとうございます。
 それでは、再度五十嵐公述人にお伺いしたいと思います。
 これから憲法改正に向けたいろんな議論がされるんだと思いますが、そのときに加憲か全面改正かという話が出てきて、これは国民投票に掛けるやり方も含めていろいろかかわってくる話ですが、過去、明治憲法、正に江戸時代の封建時代から大きく時代が変わっている、近代日本を目指そうというとき、そして敗戦の日本で民主的な国家を目指そうというとき、それからもう六十年たった今回において、各国先進国が加筆修正によって行ってきたことでの限界が、一個変えたらやっぱりその双方との関係ありますと、ここまでの環境変化考えますと、やっぱり全面改正に来ているのかなという感じもしないわけじゃないんですが、それはこれからの日本をやっぱりどう考えるかというところに懸かっていると思うんですが、その辺について、最後、お伺いしたいと思います。
○公述人(五十嵐敬喜君) 明治憲法制定の時期と昭和憲法制定の時期と今日とを比べますと、はるかに今日の方は平和です。明らかに、あの明治憲法のときには、正に江戸時代から近代国家に変わるということでありますし、昭和二十一年の憲法のときには敗戦という事実を見ました。そういう大激動から見ると、今は非常に微々たる修正でいいと私は思っています。
 しかし、今後、三年か五年か十年か分かりませんけれども、今度来るときのその危機、危機の深さは恐らく、やや加憲的な現行憲法プラスアルファで乗り切れるんだろうか。あるいは、日本国民にこの憲法で生きていけと指示出せるかどうかというと、ここは私、否定的で、近い将来を含めた将来を考えると、全面改正です。
 で、先ほどから言いましたように、どこが一番基軸かといいますと、天皇から、やや形だけの民主主義というものに対して、実質本当の国民主権論にするというのが大きな歴史の流れであって、これを基軸に据えたら、間接民主主義を前提にしてつくられている統治機構あるいは国家との関係で考えられている基本的人権は全面崩壊する、全面更新されなきゃいけないというのが全面改正の根拠です。
○若林秀樹君 ありがとうございます。終わります。どうもありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 早速質問させていただきます。
 まず、五十嵐公述人にお願いをいたします。
 非常に示唆に富む、また知的刺激の強いお話を承りまして、非常に参考になりました。そこで、確かに、市民立法あるいは国民投票制、さらにこの国民主権制、もっと前面に出ていくであろうというふうな流れの中で、この国会の在り方でございますけれども、特に参議院ですね、第二院の在り方として現時点で求められているということはどういうことなのか。そしてまた、先生がおっしゃる長期スパンの、五十年、六十年という話の中で、将来あるべき参議院の姿といいますかね、どういうふうにお考えなのか、お聞かせいただければと思います。
○公述人(五十嵐敬喜君) 現憲法の議会の位置付けと衆議院、参議院の二院制については、権力の分立という観点から見ますと極めて優れたアイデアであり、またそれが実質的な意味を持ってきていると思います。
 先ほどから言いましたように、この権力の形がどうなっていくかといいますと、より私は国民の一人一人のところに権力が移行するという過程で国家をどう考えるべきかということを、現時点と遠い将来で、二つについて意見を述べたいと思います。
 現時点での参議院に限って言いますと、極めて私は不満足です。なぜかといいますと、一般的に言われているように、衆議院のカーボンコピーだと言われることはやっぱり当たっていると思うんです。その一番大きい理由は選挙の仕方にありまして、同じような政党が同じように衆議院と参議院にやっぱり分かれるという構造になっておりまして、ここが一番大きな問題だろうと思っています。
 もし、近い時点で、近い時点で参議院の改革を考えるとすれば、やはり選挙の仕方を根本的に変えまして、例えば思い切って、衆議院の場合には小選挙区制のみ、それから参議院については全国比例区等にするとか非常にアクセントのあることをしないと、参議院はよりますます陥没していくのではないかというふうに私は理解しております。
 遠い将来どうかといいますと、正に権力のチェックの機構として、更に国会を二つに割って、割って二重チェックしなきゃいけないかどうかというのは慎重に考えなきゃいけない。なぜかといいますと、行政権力の在り方が、これは非常に憲法の大きな論点ですけれども、内閣に所属するのか内閣総理大臣に行政権が所属するのかがありまして、内閣総理大臣に所属するということになりますと、ますます言わば国民主権に近付く。
 内閣法を見ていただきますと、既に内閣法が改正されておりまして、「国民主権の理念にのつとり、」となっていますけれども、もうちょっと、内閣総理大臣、行政に帰属するとなりますと、国民主権の原則に基づきという、非常に国民のコントロールの利いた内閣制、行政権ができるんだと思いますね。その関係で、絶えず国家は二院でなければいけないかというのは、この相対関係で考えるべきことがある。
 もう一つは、裁判所との関係です。
 これについても、私自身は憲法裁判所を設置すべきであるということを提唱していますけれども、裁判所、司法制度の中に憲法裁判所できたときに国会は逆にどうなるんだろうかという問題点もございます。
 それから、更に言いますと、非常に大きな政府機構として、やっぱり地方の政府機構ありまして、これが私の言うとおり、いろんな様々な制度設計ができるような地方政府になったときに、いわゆる道州制を含めまして、権力の分立の仕方としてどのくらい力点が動くかと、そういう相関関係の中で国家を考えていくと。そうすると、こうなったら一院制というのもなくはないなと。つまり、全部二重チェックしなきゃいけないというようなことが将来とも全部にされるかどうかについてはまだ懐疑的であるということです。
 しかし、即座に結論が出るようなものじゃなくて、今言ったように他の権力との関係と、将来方向の中であるべき姿を模索すべきであると。一番難しいのは国会だと私は思っています。
○魚住裕一郎君 次に、森公述人にお願いをいたします。
 先ほど自民党の若林先生からも質問ございましたけれども、やはりこの知財を憲法上の人権として、権利として書き加えるというその意味内容、今までずっと先生もお述べになっているように、条約という、実定規範で発達をしてきたということがございますし、この実定法律での対応で十分ではないのか、さらにまた憲法に書き加えても、条約でありますとか、場合によってはEU指令とかいろんな形で変容をしていくなということもあるわけでありまして、既に憲法二十九での財産権の中に含まれていると多分解釈されていると思いますので、この知的財産権を憲法で明示する意味について、もう少し御説明をいただきたいと思います。
○公述人(森哲也君) 実定法で十分でないのかという、要約すればそういう御質問かと思います。
 そういう側面もなくはございません。しかしながら、例えばトーマス・ジェファーソン、アメリカの独立宣言を起草した方ですが、この方がやはり同じように憲法の起草をやっております。その中に、つまり二百年以上前のことでございますが、アメリカは、憲法の一条八節八項というところに知的財産権の、という言葉ではないんですが、著作者と発明者、発見者の権利を保護することを議会にその権限を与えると、こういう規定がなされております。この規定によって、アメリカは知的創造立国をして今の繁栄があるというふうに確信できます。
 と申しますのは、歴代の大統領の中に発明者が何人もおるんですね。そういう方々がこの憲法の精神、自由の国アメリカ、これは国民の知的創造力をもってこの国を建てていくほかないと、こういうふうな指導、理念の下に今のアメリカが築かれたものだと思います。
 そして、アメリカばかりではなくて、この知的財産という言葉は直接的には使っておりませんけれども、発明者、著作者を保護する国々がたくさんありまして、先ほどちょっと、古い資料でございましたけれども、四十八か国を数えることができます。そして、甚だしきは北朝鮮もこの発明、発見に関する規定を憲法条項に持っているわけです、これはちょっと余談でございますけれども。ほとんど社会主義の国もすべてそれを持っておりますので、国民の、特に日本の国民性、知的創造力に優れた国民性を憲法にうたうことは、時の政権の政策に終わらせないという意味で非常に重要なことではないのかなと私は思っております。
○魚住裕一郎君 私も、日本の国の在り方として非常にソフトよりもハードを重視するという社会的傾向性が強いんではないのかなと。弁護士稼業をやってもおりましたけれども、ボールペンと紙が材料でしょうというような、言われる方多いんですね。もう目に見える形にしておかないと、何かこの価値を認めないような日本の在り方があるというふうに私も感じておりましたので、今の先生のいろいろ御教示はしっかり受け止めたいというふうに思っております。
○公述人(森哲也君) よろしくお願いします。
○魚住裕一郎君 続きまして、澤藤公述人にお願いをしたいと思います。
 非常に憲法から現実をしっかり見るという先生の姿勢を感じたところでございますが、ただ、その憲法を道具として、鋭利な道具とおっしゃっておられましたけれども、それだけではやっぱり社会の進展には追い付かないんではないのかなと。例えば地球環境の変化でありますとかITの進展、不満な点は肉付けすればいいというふうなおっしゃり方をしたわけでありますが、ただ、一層のこの保護の必要性というのは出てくるんではないか。例えば、今の関係で申し上げれば、環境権でありますとか、あるいは知る権利とかプライバシーとか、あるいは今、知財ということもありましたし、犯罪傾向から言えば、犯罪被害者の人権であるとか、やはりこの憲法に書き加えることによってより人権保障が全うできるんではないか、こういうように思うところでありますが、この点についてお考えをお伺いしたいと思います。
○公述人(澤藤統一郎君) 今の御質問は私もなるほどと思う面、多々ございます。
 私、一つお願いというか申し上げておきたいのは、近々国民投票法が上程になるというふうに言われております。今の議員のお考えの前提に、幾つかその提案の中で部分的にでも良い提案、賛成できる提案もあるのではないか。例えば、安全保障の問題は別にして、あるいは司法の在り方、骨格をどうするかというようなことは別にして、権利を書き加えるということであればそれはいいことではないかという、こういう御提案はあり得るんだと思います。
 そういうときに、国民投票法が、これは憲法改正案より前に、憲法改正案の発議の前に国民投票法ができることになろうかという情勢ですけれども、このときに、やはり個別のアイテムごとに国民の賛否がきちんと確かめることのできるようなそういう投票法を確保していただきたいというお願いがございます。つまり、国民としては、例えば安全保障の問題では不安が残るけれども、しかし権利を、例えば肖像権を書き込む、環境権を書き込む、これはいいことだと、しかし全面的に賛成はできないというような、こういう国民にジレンマを与えるような国民投票法案にはしないでいただきたいという、そういうお願いをしておきたいと思います。
 その上で、私も環境権が明確化されれば有り難いと思いますし、あるいはそれだけでなくて、平和的生存権と言われるものが今九条には書き込んではありませんけれども、前文の中には平和的に生存する権利という言葉があります。平和的生存権というのは学説としてはいろいろ言われておりますし、実務でもいろいろ工夫されて主張されているところですけれども、こういうものが確かにきちんと書き込まれれば、これはすばらしいことだというふうに思います。
 ただ、これ、先ほど私が申し上げましたように、まだ不満な部分は残るけれども、しかしそれがないから、それをつくっていただくためにどうしても憲法改正が必要だというふうには私は考えていない。それは、正に、骨格に肉付けをし、血を通わせ、あるいは幹に枝を張らせ花を咲かせる、そういう部分で、幹や根、骨格を変えなくても十分に対応できる範囲の問題だというふうに現在は考えております。そういうことです。
○魚住裕一郎君 時間がだんだんなくなってきたんですが、小田公述人にお願いしたいんですが。
 小田公述人、独自の自主財源を基礎にして云々というお話がございました、三位一体の関係でですね。そこで、地方財政に関する規定ということも確かにそうだなとは思うんでありますけれども、ただ、具体的に、財政基盤強化のために、税制、どういうふうに現時点でお考えなのか、この辺、手短にお答えいただけますか。
○公述人(小田春人君) 今、財政の問題を具体的にどういうふうにということを質問いただいたんですけれども、このことについては大変お答えするのは難しいというのが、今、国の方で三位一体改革をどのように進めるかというのを非常に議論していただいております。
 もちろんこれは、我々都道府県議会も地方六団体の一団体ですから、そういった意味では関与はさせていただいておりますけれども、この問題をある程度見通しが付くといいますか、そういった中で、私は、地方にやはり、三位一体改革で当時の片山大臣が主張されておりましたように、少なくとも半分は、三分の二と三分の一でそごがあるわけですけれども、半々ぐらいというぐらいには国の方も妥協というか理解を示していただいて、そういう中である程度の地方が財政基盤を持ってやっていくと、そういうふうにやっていってほしいと思いますし、そのためには、やはり国会議員の先生方も大きな目というか、大きい心でひとつやっていただきたいなと思っています。
○魚住裕一郎君 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、吉川春子君。
○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。四人の公述人の皆さん、本当にありがとうございます。
 まず、憲法九条の問題にお触れになりました森参考人と澤藤参考人にお伺いいたします。
 私は、この憲法九条あるいは前文は、日本の侵略戦争に対する反省、二度と再びこういうことをしないという国際公約の面が非常に強いと思います。
 先ほどNHK問題も触れられましたけれども、これも慰安婦制度を裁く国際戦犯女性法廷の番組をめぐってのことでして、政府は九二年に政府の関与があったと、申し訳ないと、教科書で子供たちに教えるという官房長官談話も発表しているんですが、政治家がいろんな発言をされる、そういう場合に被害国とか被害者はなかなか納得していないわけですよね。これ決着付いていない問題なんです。これはほかの委員会で私取り上げる予定にしているんですが、今日は入りませんが、要するに、そういう侵略戦争に対する反省のための公約の九条を変えるということは、アジア諸国に対しては大変大きな、何というんですか、日本に対する信用の失墜というか、そういうことになるのではないかと。そういう面からいっても、その点について森参考人はいかがお考えでしょうか。また、澤藤参考人には、加えて、憲法九条を守る今日的意味という点についてどうお考えなのか、お伺いいたします。
○公述人(森哲也君) 憲法前文の機能といいますか性格といいますか、確かに、先生おっしゃるように、二度とこういう戦争の惨禍は国の行動で起こすことはないんだという公約だと思います。したがって、平和主義、先ほど私が申し上げましたような恒久平和を宣言したものと私は思っております。
 したがいまして、これは、前文というのは裁判規範性というのはないんだと、政治的マニフェストあるいは政治規範、政治規範というのは、これは丸山真男さんという政治思想史の先生でありますけれども、この方がおっしゃっているんですね。この方と全く私の考え方が一緒なわけではございませんけれども、政治規範というのはどういうことかというと、政治の場で、例えば現実に存在する自衛隊だとかそういったものを漸減していくんだと、縮小していくんだと、そういうふうな方向に政治が向かっていかなきゃならぬのですよというふうな意味の政治規範ということを丸山真男さんはおっしゃっている。
 でも、私はこういうことではなくて、もっと平和主義というものの平和の概念を現実的な意味の平和というところに立脚して第九条は規定されなきゃならぬのじゃないかと。現実的な意味です。それで、前文の精神を生かしつつ、一国を守るためにきちっとした軍備は必要ではないのかと。前文できちっとした恒久平和を、侵害戦争の放棄を宣言しておいて、現実の裁判規範性のある九条において、現実の平和の概念に立脚して国防のための軍備だけは保持しますよと、そういうふうに規定しておけば、近隣の諸国に対しても脅威を及ぼすことはないというふうに思っております。
○公述人(澤藤統一郎君) 今の公述人の話で、近隣諸国に惨禍を及ぼすことがないという、これがなかなか信用してもらえないところに問題があるのだと思います。つまり、例えば小泉首相が靖国神社への参拝を繰り返している。小泉さんは、これは平和のために、平和の祈念に行くのだというふうにおっしゃる。しかし、そういうふうに近隣諸国民には受け取っていただけないわけですね。つまり、侵略をした者と侵略を受けた者とのこの心理的なギャップをよく考えなければならない。
 私、国際公約として二度と侵略戦争はいたしません、侵略戦争をしない保障としてもう軍隊は持ちませんという、こういう宣言をした日本が、再び憲法を変えて、言わば公的に軍隊を持つんだという宣言をすることのアジア近隣諸国民に対する影響をよく考えなければならないと思います。私たちが考えるように、日本の国民が考えるようには恐らく考えてもらえないだろう。
 その一つの原因が、やはり日本は戦後責任をきちんと清算をしてこなかったという、こういう恨みがあるのだと思います。これはドイツなどとよく比較されます。ドイツが言わば演出的な効果まで計算し尽くして戦後責任を清算をしてきたことと比べますと、日本は極めて拙劣といいますか、誠意がない戦後の反省の仕方だったというふうに思われても仕方がない。
 一分だけ、余談ですが、私、以前、裁判で、ある陸培春さんというジャーナリスト、この方も日本軍の侵略を受けた際に親族が亡くなっている方ですけれども、この方の尋問をしたことがあります。ちょうどその方の尋問の日が淡路・阪神大震災の直後でした。彼はこう言いました。日本の侵略で死んだアジアの諸国民、数ははっきりしないけれども二千万と言われている。この二千万という数字を考えてください。五千人の人がこの震災で亡くなりました。当時五千人でした。これを毎日毎日毎日五千人、今日もあしたもあさっても五千人死んで、二千万という数字に達するまでは十年掛かるのですよということをおっしゃいました。これが、私は、事実二千万であるかどうかは別にして、侵略をされた人たちの気持ちと、それから私たちの気持ちの落差を感じさせられました。そういう問題として憲法九条の問題は考えなければならないと、そういうふうに思っております。
 以上です。
○吉川春子君 ちょっと短くお願いしたいんですけれども、今日的な意味ですね、それを補充してください。
○公述人(澤藤統一郎君) 私は、憎悪と報復の悪循環が戦争を引き起こしているということを、これを基礎として考えます。これをなくするということが、これが人類の究極の目的だというふうに考えます。そういう意味では、私は人類史的な理想として憲法九条、つまり一国が軍隊を持たないという、こういうことが目標として今なお輝きを失っていないと、あるいは今これが私は人類の目標として大きくいろんな諸国民にまた今訴えられつつあるんだというふうに思います。
 御存じのとおり、コスタリカという国は、これは軍隊を廃止しました。全く、軍隊を復活しようという、そういう話は全くないんだというふうに聞いております。日本もコスタリカを学びたいというふうに思いますし、日本、こういう理想を持っているということをむしろ世界に輸出していくべきだというふうに考えております。
○吉川春子君 小田公述人にお伺いいたします。
 権利と義務について、国家と国民を対立的にとらえ、殊更権利の重要性を強調する教科書で公民的資質が養えるんだろうかと、こういうふうにおっしゃいました。
 私は、憲法というのは国家を縛るものであり、例えば自由権というのは国家権力の介入から国民を守るというのが自由権ですよね。それから社会権というのは、釈迦に説法かもしれませんが、国家権力が介入してその国民の生存権を守るということなんで、国民と国家権力というのは対峙しているものだし、それで人権宣言というのはそういう歴史の中で今日まで来ているわけで、憲法集を人権宣言集というふうに岩波なんかも言っていますよね。そういうこととの関係でいうと、殊更権利の重要性を強調する云々ということが、憲法に対する批判としては、私としては非常にこう、ちょっとこう発想が違うなと思うんですが。
 そこで伺いたいんですけれども、公民的資質が養えるのかという疑問を呈しておられますね。この際、公述人のおっしゃる公民的資質とは一体何を指しているんでしょうか。
○公述人(小田春人君) 今のことについていえば、私も見解の相違としか言いようがないところもありますけれども、国家と国民は対峙という言葉を使われましたけれども、本来そうあるべきだという先生のお話なんですけれども、私はそうは思っていません。もちろんそういう側面も、基本的人権を守るためには国家に制約を加えるという側面もありますけれども、片方では国民も義務を果たしていかなきゃいけないわけですし、いろんな意味で対立するとは思っていません。
 それから、公民的資質はいかなるものかということなんですが、この公民的資質というのは指導要領上の言葉として使わせてもらいました。公民という言葉は一般には余り使われませんが、私が特に強調したいのは、実際に教科書を読んでもらえば分かりますが、例えば中学校の教科書のうち五十ページから六十ページが憲法のことを書いてあるわけですね、公民の教科書には。そのうち二十ページ、一番多いのは八社のうち三十ページが権利と義務について述べてあります。その中で、公共の福祉、人権を制限する公共の福祉についてもほとんど説明が述べられておりませんし、義務については、三つの義務がある。納税の義務、教育を子女に受けさせる義務、勤労の義務だと、その三つをこれこれであると。高校の教科書はこれすら書いていないようなのがあるんですね。
 ですから、権利と義務というのはセットになっておりますから、先ほども申し上げましたように、自由があれば責任や秩序というのがあるわけですから、そのバランスを取った要するに考え方、それを私は公民だと思いますけれども。だから、今の世の中というのが非常に権利を主張していくというのは、私はもっと、先ほど申し上げませんでしたけれども、こういった学校における憲法教育、こういったものが権利意識というのを非常に植え付けると。権利というのは大事ですけれども、片方では、責任や秩序の問題、あるいは義務があるんだという、こういうことをこの教科書で、こういった教科書で、教科書がどうあれ、先生が教えるんだろうからいうこともあるかもしれませんが、基本は教科書ですから。
 そうすると、余りにも権利を主張するような今の空気というのは、こういうような教科書からも醸し出されているんではないかなと、そういうふうに私は思っておりますので、やはり義務についても、もっと三大義務についても、権利も、義務についても説明を加えて、こういうことも大事なんだよと、権利というのは非常に大事だけれども、義務についても大事だということを、バランスを取ったような形で教科書の中で記述してほしいなと、そういうふうに思っています。
○吉川春子君 済みません。時間がなくなって、五十嵐公述人、公共事業の問題などでは大変いろいろと勉強さしていただきました。先生の考え方によると、結局、憲法九条というのは改正しない方がいいということになるのか、すればいいということになるのか。国連との関係もあるでしょうが、時間が少なくなって申し訳ないんですが、お伺いします。
○公述人(五十嵐敬喜君) 端的に九条に関する私の意見を申し上げます。私自身は、今、憲法九条を改正すべきだとは思っておりません。それは具体的には、国家の主権を発動して、しかも武力で守るべき相手、対象国とは何かということを世界じゅうから考えますと、多分、多分アメリカと中国しか残りません。アメリカと中国と私は絶対戦争をすべきではないというのが一点です。
 第二点は、何を守るかということにつきまして、今の日本社会全体を見ると、愛すべき国、愛すべき家族、愛すべき山河というものについて命を懸けるかということについて聞きますと、命を懸けないと私は思っております。端的に言いまして、非常にそこが一番問題なんだと私は思っていますけれども、要するに、日本国全体の憲法改正を考える上で一番難しいのは、何のためにこの憲法をつくるかというところについての問題が一番分からないままに今の九条を議論しているんじゃないか。昔は、いい悪い別にしまして、やっぱり天皇のためであったし、山河を守るためであった。しかし、今はその大義名分が非常に薄れている。対外関係でも薄れているし、対内的にも薄れているというふうに思います。
 ただし、その議論とは別に、少し先ほどの先生とは違うんですが、危機管理は必要であると私は絶えず思っております。つまり、テロもあり得ますし、民族紛争もあり得ますし、宗教紛争もあり得る。そういう意味での危機管理は必要でありまして、これは国連を通じた危機管理部隊あるいは国内的な危機管理部隊は必要で、自衛隊の一部機能もその危機管理の中には含まれるし、含むべきであるというふうに考えておりまして、ただ、それが直接九条論なのかどうかは議論を分けて考えた方がいいというのが私の意見です。
○吉川春子君 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、田英夫君。
○田英夫君 社民党の田英夫です。
 続けてで恐縮ですが、五十嵐先生にお願いいたしますが、先生は、今世界が大きく変化をしつつあると。私も全く同感なんですが、国家中心の考え方ではなくなって、グローバルといいますか、もっと、現実にEUなどは通貨まで造って、今もスペインで国民投票があるというような憲法を正につくっている、グループの憲法をつくっていると。
 そういう状況の中で、明治憲法や昭和憲法というんでしょうか、憲法をつくったときに比べて、憲法を変えなければならない、あるいはつくらなければならないという状況にないということを言っておられるんですが、その意味で九条も触れる必要がないということでしょうか。
○公述人(五十嵐敬喜君) 戦争の最大の抑止力というのは、やっぱり国境がなくなるということではないかと私は思っています。
 EU憲法を勉強した際に、なぜEUなのですかと最初に聞いたところ、二つ言っておりました。一つは、戦争の火種になるところを、国家主権と国家主権を掛けさせないこと、共同管理に移すということです、共同管理。そうすれば、そこでの全員一致がなければ戦争の火種になるところは消えていくということが一つです。それから、なぜ十か国から十五か国、二十五か国、増やすかというと、国境をできるだけ消していって戦争をさせないということを言っておりました。私は、今日的な平和の抑止力というのは、九条論もありますけれども、国境をなくしていくことであるというふうに私は思っております。
 その中で、非常にこれはとっぴな話で、まだまだ時間掛かると思いますけれども、いよいよアジアでも、非常に、仮想敵国と昔言った言葉で言いますと北朝鮮や中国などを考えた時期があったわけですけれども、この関係で最も戦争の抑止力になるのは、EUを学ぶべきでありまして、将来的にはアジア憲法なども構想に入れて、まず国家の紛争をなくして、通貨を統一して外交をやってということだと思うんです。
 ただし、非常にこれは歴史が掛かりますので、一国の軍隊とEUの軍隊をどうするかということになると、ここはまだ、まだ非常にありまして、できるだけ各国の軍隊は小さくしてEU軍隊をつくるということはあるようであります。日本も、恐らく日本だけが武装するんじゃなくて、徐々に軍縮をやりまして、東アジア共同体がありますし、その中の憲法に基づいて例えばアジア共同体を持つと。最終的には、正に国連憲章の五十一条ですか、あそこに返りまして、国連軍に全体が移すという形になっていく道筋をもう少しちゃんと切り開くべきではないか。
 日本国憲法の戦後以来のずっと九条論を見ていますと、やっぱりどこかで一国ナショナリズムがありまして、日本国の防衛を日本国の憲法と日米安保の中でどう考えていくかという議論に終始していた。今言ったように、国境をなくしていく、そのためには、アジア全体をどういうふうにして国境をなくす方に踏み出していって、その関係で九条をどう見たらいいか、あるいは国連憲章、国連をどう見たらいいかという議論がやっぱり足りなかったし、そのための政策的な蓄積もやっぱりまだ足りないというふうに思っておりまして、その関係から、九条をもう一回見直したらいい、九条論を見直したらいいと私は思っております。
 そういうふうに見ますと、当面のところ、わざわざ自衛隊と書くか軍隊と書くか分かりませんけれども、一国の主権の発動としての軍隊を憲法に入れる根拠とは一体何なのかということは、少なくとも国民についてはほとんど理解できないと私は思っております。
○田英夫君 私どもは、同じ意味だと思いますが、まずそこに至る第一歩として、日本周辺、南北朝鮮、中国、ロシア、モンゴルもありますね、そのところの枠組みをつくっていくべきじゃないか。それには、お互いの信頼醸成ということが大前提にありますし、中国とロシアという核保有国がありますから、その問題を整理しなければならない。まず、日本と朝鮮南北とモンゴルで、四つの国で非核地帯条約を結んだらどうだということを提起しております。
 その辺を進めるということをまずやるべきじゃないかと思っているんですが、そういう意味で、今憲法を改正すべきだということをおっしゃる方々の御意見は国家を中心にして物を考えるということから発想されているんじゃないかと思いますが、澤藤先生、どうでしょうか。
○公述人(澤藤統一郎君) 私はできるだけ国家を相対化したいという立場でありまして、今、田議員がおっしゃったことに全面的に賛意を表したいと思います。EUの例しかり、それからASEANしかり、そして北東アジア地域の連帯の中で、まずは非核地帯構想からもっと国家間の連帯をつくっていこうと。しかも、できるだけ国民レベルで、民衆の連帯をつくっていくのと並行して国家の連帯をつくっていくことが大事ではないかというふうに思います。
 もう私も五十嵐公述人がおっしゃったこと、田議員がおっしゃったことと、誠にそのとおりだと思うんですけれども、これを進展させるためにも、憲法九条を今改正するという、つまり堂々と日本は軍隊を持つんだという、こういう宣言をすることは大変得策ではない政策ではないかというふうに思います。
○田英夫君 ありがとうございました。
 森さんに伺いたいんですが、ちょっと角度が違うんですけれども、面白い提案をしておられるんで。
 団塊の世代のことを触れておられる部分があったと思うんですが、ある意味で私も世代論を考えざるを得ない年齢になりまして、私は戦争へ行って実際に軍の中の一人として特攻隊にいたんですが、戦争ってどんなものか本当に身をもって感じた一人ですから、団塊の世代というのは、よく分からないんですけれども、今非常に元気がいい、よくなくちゃいけない世代ですね。日本の中で日本をどういう方向に進めていくかということを一番考えていただかなければいけないと思うんですけれども、どうもそれにしては、今日本がいい方向に行っていないんじゃないかという、例えば若い子供たちがとんでもないことをする、先生を殺すというようなことが起こっていますが、そういう意味を含めて、この今の日本の社会に対してどういうふうにお考えですか。
○公述人(森哲也君) 田先生の、何かすごく高度な視座からの御質問なので、どうも正確に答えられるかどうか分かりませんけれども。
 そうですね、まあ団塊の世代、私は昭和十五年の生まれでございまして、あのころは辛うじて戦前の教育を、教育を受けたといいますか、雰囲気を持って育てられました。敗戦になって、その敗戦の惨禍も親とともに経験してまいりました。そういうことを考えますと、やはり親によって私たちは育てられて、その親は大変な苦労をした。抽象的に言いますと、その親たちは戦争の責任があると、こういうことも言えるかもしれませんけれども、戦争が起こったということは確かにある側面、帝国主義の時代でございましたからしようがなかったのかなと。日本だけではないと思います、これは。しかしながら、そういった、戦争で負けた、負けて戦争の惨禍を受けた、それで親は大変苦労して子供を育てた。私たちは親に対するそういう尊敬の念というのは持っております。
 高度成長を経まして、今の時代はどうなっているかというと、かなり物質文明に毒された思想が蔓延していて、子供たちは何かこう、非常に目に見えるものだとかそういったものしか評価しないと、ちょっと訳の分からなくなると切れるという状況が起こるというふうなことがあったんではないのかなと。その原因は、やはり戦後、精神生活の涵養ということをないがしろにしてというか、こっちに置いておいて経済成長に邁進してきたと、ばく進してきたという、その結果なのではないのかなと私は思います。
 ここでやはり、憲法論に戻りますけれども、人間の精神活動というものをもっと大事にする国民の行動の様式というものを憲法に宣言する必要がある。その象徴的な存在が知的創造立国という、この知的創造立国に寄与するものは大事にしますよという姿勢を憲法にうたってもらいたいというふうなことで、先ほどから提言申し上げていることでございます。
○田英夫君 実は、団塊の世代を提起してくださったのは小田さんなんですけれども、その小田さんに伺いますが、やはり最近の実際の合併というのが非常に大規模に進んでおりますけれども、全体の時代の大きな流れの中で世界が変化している、人類が変化しているという状況の中で、一方で私は、日本の国は、これは非常に保守的なことを申し上げるようですが、非常にいい点は、村で一つの共同体つくって農業も一緒にやったり、そういうものが、今度の新潟の地震のあれなんかを見ていてもそういうものを感じますね。
 これを、財政のことを中心にしてあんなに合併合併ということがいいのだろうかという、そういう疑問も感じますけれども、地方議員もやっておられて、そういう点はどう思われますか。
○公述人(小田春人君) 今先生おっしゃったこと、非常に大事なことだと思っています。
 私も、これから、都会と地方は違うところはあると思いますけれども、これからの一つの大きなキーワードは地域力というのがキーワードではないかなと思っております。教育もそうですし、あるいは、まあ治安というより安心、安全な地域をつくっていくためにもそういったものが大事だと思っています。
 片方では、今私のところもこの三月一日に一市二町で合併するわけですが、六千人ぐらい、岡山県でも千人ぐらいでも残るというところもございますけれども、五、六千人ぐらいの規模ですと大体職員が八十人から百人ぐらいだと思いますけれども、町の。今のままでいくと、はっきり言って、もう成り立つのは難しいと。
 ですから、ある程度、規模がどうかということはありますけれども、ある程度のそういう効率的、財政的なことだけではありませんけれども、一つは、ある程度大きな固まりをつくっていって、その中で逆に地域のコミュニティーをいかに残していくかということが大事なんではないかなと思います。
 教育の問題についても、いろんな問題がありますけれども、今はとにかく、先ほど申し上げましたけれども、日本の戦後の社会というのは、大きく言えば国家ですけれども、我々団塊の世代というのは国、国家というものに意識が、はっきり言って余りありません。私も、議員になりまして十四年ですけれども、議員になったからこそこういうことを改めて勉強してそういう意識を持つようになりましたけれども、そういった、非常にないんですね。
 で、戦後の日本というのは、恐らく国家とまでは言いませんけれども、公、公というのが家族の最小単位だと思いますけれども、その地域とか隣近所とか共同体とか、そういう公というのがもうなくなっていく、崩れていった。この家庭が公だろうと思いますから、そんなに、国がどうかというイデオロギー的な話ではなくて、公、公、そういったものの一番基本が家族だと思いますけれども、そういう地域の力というのが、これからしっかりと安全、安心を守るために地域が子供たちを連帯して守っていく、犯罪に対してどう対応していくか、そういうその地域の力、教育についても、昔のように隣近所の子供をしかっていく、その代わり子供を守っていこうという、こういうふうな、こういう地域の力をつくっていく地域力がこれからできれば、イデオロギーの対立ではなくて、日本の将来の社会というのは非常に明るいものになっていくんではないかなと、そういうふうに私は確信しております。
○田英夫君 ありがとうございました。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 公述人の方々には長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。(拍手)
 午後二時に再開することとし、休憩いたします。
   午後零時十一分休憩
     ─────・─────
   午後二時開会
○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日午後は、ふぇみん婦人民主クラブ職員赤石千衣子君、東京大学大学院生高見康裕君、PHP総合研究所第二研究本部本部長永久寿夫君及び国立大学財務・経営センター教授山本清君、以上四名の公述人の方々に御出席をいただいております。
 この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本調査会は、平成十二年一月に設置され、日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行ってきたところでございますが、本日は、「国民とともに議論する」という本調査会の基本方針を踏まえ、憲法のこれからの在り方を私たちはどのように考えるべきか、また憲法を生かすためには何が必要か、参議院の在り方なども含め公述人の方々から幅広く忌憚のない御意見をお述べいただき、本調査会の調査に役立ててまいりたいと存じますので、よろしくお願いをいたします。
 議事の進め方でございますが、まず公述人の方々からお一人十五分程度で順次御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えをいただきます。
 なお、公述人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず赤石公述人、お願いをいたします。
○公述人(赤石千衣子君) 赤石でございます。
 私の憲法に関する考え、特に二十四条と九条に関して述べさせていただきたいと思います。
 ちょっと昔のことになりますが、子供のころのことからお話しいたします。
 私は一九五五年生まれですが、小学生のころ、多分日米安保条約のことだったと思いますが、極東の範囲といったことが、フィリピン以北だ、そうではないといったことで国会で紛糾しているのを小学生のころ新聞やテレビで見て、大人たちはなぜこんなことで騒いでいるのだろうというふうに非常に不思議に思ったことを覚えております。
 しかし、この後学校で憲法を習いまして、自衛隊や日米安保条約があることも漠然ともう知っておりましたので、憲法と日本の現状に矛盾を感じておりました。
 平和を大切だと思い、戦争放棄の条文はとても良いことだと思ったのですが、同時に自衛隊は軍隊ではないと政治家が答えているのを見て、何だか矛盾を感じ、憲法九条というものに感動するというところにまでは至らなかったというふうに覚えております。
 そんな私ですが、後になって憲法が大きな力を持っているのだということを知ることになりました。
 私は、二十代で結婚しないで子供を産み、一人で子育てをすることになりました。日本では女性が一人で子育てするということは経済的にも社会的にも大変困難を抱えます。私は、母子家庭の母親同士が支え合う団体をつくってきました。
 そんなとき、九三年の六月、婚外子、嫡出でない子というふうにも言いますが、の相続分差別が違憲であるという東京高裁の決定がありました。中田さんという方は、この方は御両親が結婚しないで生まれた子供、婚外子ですが、お父さんが亡くなって相続の結果、きょうだいの半分の相続分であったということで、法の下の平等に反するということで訴えられ、この裁判の控訴審判決で、東京高裁は、婚外子は婚内子の相続分の二分の一と規定する民法九百条四項ただし書は、法の下の平等をうたう憲法十四条に違反するという決定を出しました。婚姻は保護されなければならないとしても、相続分差別が様々な社会的差別を引き起こしている現実は軽視されてはならないと、この決定は明快に論じました。
 私の息子も婚外子でございます。私は、息子が成人になるまでには、何としても先進国では日本だけに残るこの差別をなくしたいと思っておりました。それまで婚外子は社会の陰の存在で、婚外子に対する差別がまともに論じられることはありませんでしたので、この決定で憲法というものが、社会的な少数者に目を向けて法の下の平等を適用し、民法の条項は違憲であると宣言し、法律を変えるということを促すことができる、そういう明確な力を持っているということを実感いたしました。大変感動いたしました。その後、別の同様の裁判でも、九五年に最高裁で大法廷が開かれ、判決が出ましたが、違憲判断は少数でしたが、国会での法改正を望むという意見が多数でございました。
 こうしたことで、私は憲法の重要性と力を身近に、しかも確実に感じることができるようになったわけです。女性の権利と憲法ということに私は非常に関心を持ち始めて、少しずつ勉強を始めたわけです。
 戦前の帝国憲法と明治の民法下では、女性は財産権もなく、配偶者を選ぶ権利もなく、戸主に支配されておりました。また、女性には参政権もありませんでした。日本国憲法が制定されて初めて憲法十四条には性別による差別の禁止が、二十四条では家族生活における両性の平等と個人の尊厳がうたわれ、女性は権利を持つことができるということになりました。長年虐げられてきた女性たちの喜びは非常に大きなものだったというふうに聞いております。こうした規定によって、六十年間、女性たちが、そして男性もと言っていいのだと思いますが、男女平等の実現のために歩みを進めてきました。
 職場で結婚したら退職しますという書面にサインしてあったとしても、その契約は憲法二十四条に照らして無効である、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、」という文言に反するという一九六一年の住友セメント事件の東京地裁判決、結婚退職制は憲法違反となりました。
 また、一九八一年には日産自動車で男女の定年の年齢が違うのは性差別である、違憲だということで最高裁に判断されました。また、男女の賃金差別についても、一九七五年に秋田地裁で違憲であるというふうに認められるなど、現在に至るまで様々な裁判が行われ、こうした女性たちの差別を問い直す試みがあったおかげで今の私たちの暮らしがあるのだということを実感してまいりました。
 職場でのセクシュアルハラスメントが働く女性に加えられた性差別であると、一九九二年初めて福岡地裁の判決で認められました。それまで名前すらなかった人権侵害、非常に女性の働く職場で心身ともに深刻な状況に名前が与えられ、認知され、損害賠償が認められました。これも憲法十四条、十三条が適用された結果です。
 このようにして女性差別撤廃条約が批准されて、雇用均等法も不十分ながら制定され、雇用の差別が禁止され、改正のときにはセクシュアルハラスメントの防止も盛り込まれてきました。また、憲法十三条や二十四条により、結婚や離婚、非婚など、どのような家族を形成するかを決めることのできる権利、家族を形成する権利も認められてきました。また、二〇〇〇年には児童虐待防止法、二〇〇一年には配偶者暴力防止法が成立し、これまで見過ごされてきた家族の中の暴力が犯罪であるということが認められてきました。
 しかし、私が感じた女性の生きにくさというものはまだたくさん残っております。男女の賃金格差が大きく、男性が主たる稼ぎ手となって女性は補助的な働き方でよいということで、女性の賃金はまだ低く抑えられたままです。それで、女性でも男性でも子供を一人で育てることは大変困難を窮めます。また、先ほどの婚外子への差別もまだ民法や戸籍法の中にあります。また、結婚すると夫婦同姓でなければならない、どちらかの名字を選ばなければならないということで、実に九七・四%の女性は結婚改姓をしておりますが、名字が変わるために大変な不利益を被っております。
 また、この国会、議会や意思決定の場における女性の比率は大変少なくて、衆議院で七・一%、参議院で一三・六%、女性の政治・社会参画を示すGEM、ジェムの順位は世界でもまだ三十八位です。これがこうした問題の問題解決を遅らせる結果ともなっております。
 しかし、様々な困難や矛盾があっても、日本国憲法の今の十三条、十四条、二十四条など、この条項をよりどころにして社会の在り方をより良く変えてくることができた、そして今からでもできるということを私はこうした流れの中で実感してまいりました。
 それで、二十四条の見直しということについて触れさせていただきます。
 しかし、最近の憲法改正についての論議には、私は大変危機感を感じております。憲法九条の改正が大きな注目を浴びてきましたが、さらに両性の平等と個人の尊厳を規定した憲法二十四条を見直す案が次々に発表されてまいりました。昨年六月に発表された自民党の憲法調査会の論点整理では、家族や共同体の価値を重視する観点から両性の平等を定めた憲法二十四条は見直すということが盛り込まれてございました。同じく論点整理には、社会連帯、共助の観点から社会保障制度を支える義務、責務の規定を置く、また国民の国防の義務の規定を置くというふうになっております。
 もし憲法の両性の平等を見直すということになりましたら、今までの家族の介護の規定はどうなるでしょうか。高齢者が増えるに伴い、介護を社会で支える仕組みを弱体化させていき、またもや家族だけの責任、つまりは女性たちだけの責任にする制度になってしまうのではないでしょうか。今でも、介護保険では不十分で安心できない、遠方にいる子供たちに迷惑が掛けられない、もう寝込んだらすぐに死にたいと思っている御老親の方もたくさんいらっしゃいます。逆に、働いていても、老親が倒れれば仕事を辞めて介護しなければならないのだろうかと悩んでいるお子さんたちもたくさんいます。介護の担い手の多くは女性ですが、もっと多くの負担を担わざるを得ないのではないかという危惧は大変大きいのです。
 また、家族の扶養の義務という文言があることで、出産や育児の責任を男女で担うのではなく、女性の責任だとする方向が強くなるのではないかというふうにも危惧をしております。子供は欲しいが子育てや教育にお金が掛かり過ぎる、子供が伸び伸び育つ社会環境がないと答える人は大変調査でも多いです。安心して産み育てる環境づくりが優先されるべきであって、出産、育児を家族、女性の責任とするような改正が望ましいとは思えません。
 改正案を読みますと、家族を小さな公共と位置付けることにより、本来国が果たすべき社会保障上の責任を回避して、家庭の中に押し込めるというようなことがとても読み取れます。小さな政府の下で自らの責任を担うことが求められ、子育て及び高齢者介護の義務を果たすことにより家族が成員を支える基盤として過度に期待されてしまうのではないでしょうか。
 個人の尊厳よりも家庭が重視されるということになれば、ドメスティック・バイオレンス防止法あるいは子供の虐待といったことにも悪影響が考えられます。私は、家庭を守ると言われますが、その家庭というときには、単身赴任でなくて家族が一緒に暮らす権利や、労働時間が長くなくて一緒に暮らすというようなことも含めたものが考えられると思います。私は、憲法二十四条の見直しは、家庭の形を縛り、家庭内の個人の尊厳を軽視するのではないかと危惧し、また家族を尊重するということが国を守るということにつながるのであれば、戦前の復古的なにおいを感じざるを得ません。
 今、全面的に憲法を書き直すという動きもあるということですが、九条と二十四条について申し上げます。
 憲法九条の理念というのはいまだに世界の多くの人々に希望を与えていると思います。その憲法九条に基づいた違憲訴訟も数多く起こっております。
 今、武力によって平和を実現するということが非常に困難であるということは世界の様相を見ても明らかです。超大国アメリカに自衛隊を戦闘に参加させてほしいという要請が日本には非常に働いておりますが、建前であっても非戦闘地域に人道復興支援という形でしか自衛隊を派遣できない、そういう歯止めになっているのが憲法九条です。本当に銃弾の飛び交う地域に日本の自衛隊が送り込まれていたらどうであったのかということは非常に恐ろしいことだと思います。
 私たちが磨かなければならないのは紛争を未然に解決、予防するための外交的な手法であり、いたずらに危機をあおることではないと思います。日本は、九条の理念を生かして紛争予防のための枠組みをつくり、アメリカとアジアと、アジア地域との友好経済協力関係を両軸としていくことが大切だと思います。
 また、原爆投下から六十年ですが、核兵器を廃絶しようという動きが高まっております。北朝鮮の核兵器保有宣言で脅威論が高まっておりますが、長期的な見通しの下で、朝鮮半島、日本など北東アジア地域に非核化しようという北東アジア非核地帯構想は検討に値する構想だと思います。
 私は、こうして九条と二十四条の見直しが出てきたことに、男は国を守る、女はそれを支えというその発想が非常に危険だと思っております。憲法九条と二十四条は、国家間の紛争を解決し、また家族内の暴力をなくしていくという意味で、二つの脱暴力の条項として私は絶対に変えることがあってはならないと思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 次に、高見公述人、お願いいたします。
○公述人(高見康裕君) 東京大学大学院の高見康裕でございます。
 本日はこのような機会を与えていただきまして、大変感謝いたしております。簡単ではございますけれども、お手元にレジュメをお配りいたしましたので、それに沿ってお話をさせていただきます。
 レジュメのタイトルには「安全保障・国際協力に関する憲法の問題点」と書かせていただきましたけれども、私は安全保障、国際協力という分野に絞って意見を述べさせていただきます。憲法改正を論じる際には幾つかの論点がございますが、安全保障あるいは国際協力に関連いたします第九条に最も大きな問題があると考えるからです。国家の最大の役割は国民の生命と財産を守るということでありますが、現行憲法、とりわけ憲法第九条の下では、後ほど述べますように、その任務が十分に果たせない可能性があると考えます。
 このような問題関心に基づきまして、最初に憲法についての基本的な考え方を述べさせていただきまして、それから現行憲法の問題点、さらには具体的な改正案について意見を述べさせていただきたいと思っております。
 それでは、初めに、憲法についての基本的な考え方についてお話しさせていただきます。
 まず、憲法とは、国家が置かれた国際情勢の下での国家の在り方を示すものだと考えております。憲法制定時と現在とを比較いたしますと、我が国を取り巻く国際情勢も我が国の国際的な地位も大きく異なっております。憲法制定時には日本の軍事力、軍国主義の復活こそがこの地域の脅威でありまして、アメリカや近隣諸国の懸念からしましても、また戦争に疲れ果てた国内世論からしましても九条にはそれなりの理由があったのだろうと思います。つまり、この時期から東西冷戦を経て湾岸戦争の勃発に至るまでは、日本は世界に迷惑を掛けなければいいという考え方でありまして、そのような言わば一国平和主義的な考え方も冷戦という国際情勢によって許容されてきたということだと思います。
 しかし、今日の我が国が置かれた国際情勢を考えますと、核保有を宣言した北朝鮮、潜在的な脅威たり得る中国、さらには国際テロリズムや大量破壊兵器の拡散といった新しい脅威も我が国を取り巻いております。
 こうした今日の脅威に対応するためには、国家間の軍事、非軍事にまたがる連携が不可欠でありまして、世界の平和や繁栄のために積極的に活動することは主要国としての我が国の国際的な責務でありますし、それがひいては我が国の平和と繁栄にもつながると考えております。
 このように、我が国を取り巻く国際情勢や我が国の国際的な地位が大きく変わった今日におきまして、憲法を見直すということは国家として当然のことだと考えます。
 次に、さきに述べた点の裏返しでございますが、憲法を不磨の大典のようにとらえるということは政治の怠慢である、すなわち政治が政策判断を放棄しているに等しいということでございます。すべてのことを憲法で縛ってしまおうとすれば、その結果、憲法を解釈する官僚に政治が行うべき重要な政策判断をゆだねることにもなりかねないと考えるわけであります。
 安全保障に限って言いますと、我が国の目的は我が国の平和と繁栄の維持、増進でありまして、決して憲法を守ることではございません。すべてのことを、憲法に書いてあるからよろしい、書いてないからよろしくないという姿勢では、政治家の政策判断は鍛えられず、国民も政策判断に直面しないために民主主義が成熟しないということになるのではないかと思うわけであります。
 以上が私の憲法についての基本的な考え方でございます。
 続きまして、憲法の具体的な問題点についてお話をさせていただきます。
 憲法の問題点は大きく分けて三つあると考えております。
 一つ目は、自衛隊の位置付けが明確でないということでございます。
 国民の間に自衛隊は憲法第九条に照らして違憲であるという考えがございますが、このような重要な問題について国民の間に合意がないというのは異常な状態だと言わざるを得ません。もちろん、法は解釈によって現実に適応していくものではありますが、もはや憲法解釈で変動する現実に対応するのは限界に来ていると思います。また、その結果として、戦後日本の安全保障論議は不毛な憲法解釈論争に終始し、国際情勢の判断や国益の分析に基づく議論がなされてこなかったということも指摘しなければならないと考えます。
 残る二つの問題点は、より実際的な問題でございます。
 二つ目の問題点は、現行の解釈として集団的自衛権を行使できないことになっているという点でございます。
 集団的自衛権が行使できないという解釈のままでは、日本は同盟国であるアメリカに対して十分な同盟協力ができないおそれがあると思います。
 例えば、極東有事が発生した際に、自衛隊は後方地域でのみ米軍の支援ができる旨規定されておりますが、米軍が攻撃されてもそれを助けることができないことになっております。仮に、自衛隊が集団的自衛権を行使しなかったために、アメリカの艦船が攻撃され、多数の死傷者が出るような事態が生じれば、日米同盟は存続の危機に陥るものと思われます。
 アメリカという国は対外政策に与える世論の影響力が非常に大きい国でございます。日本の平和と安全のために生命を賭して戦っている米軍を守らないような日本をアメリカ国民は決して守ろうとは思わないでありましょう。現在の国際情勢の中で、日米同盟が日本の平和と安定に、さらには東アジアの平和と安定に果たしている役割を考えますと、このような事態は絶対に避けなければならないと考えます。
 三つ目の問題点は、自衛隊の武器使用基準の問題でございます。
 現状では、PKOを始めとする国際平和活動において武力の行使ができないとされておりまして、その結果、自衛隊は他国よりも厳格な武器使用基準に従わざるを得ないわけであります。現行基準では、国際標準である任務遂行のための武器使用が認められていないために、十分な国際協力ができません。PKOにいたしましても、比較的治安状態が悪い事例が増えておりまして、我が国が責任ある国家として積極的に国際協力に取り組む上で、武器使用基準を緩和することが必要であると考えます。
 以上が憲法の問題点でございます。
 最後に、具体的な改正案について述べさせていただきます。
 まず、九条一項についてですけれども、これは不戦条約に由来し、また国連憲章にも合致するものでありまして、そのまま残すのが望ましいと考えております。
 次に、九条二項は削除し、自衛のための軍隊である自衛隊の保持を明記すべきであると考えます。また、集団的自衛権を行使できるということも明記した方がよいと考えております。集団的自衛権は国連憲章第五十一条に定められており、国家の当然の権利であるから明記する必要はないという意見もございます。しかし、これまでその当然の権利を行使できないと解釈してきた経緯がございますので、明記するのが望ましいと考えるわけでございます。
 さらに、新しい条項としまして、自衛隊が国際平和のための活動に積極的に協力することを盛り込むべきであると考えます。この条項の挿入によりまして、さきに述べました武器使用基準の緩和を明確な、すなわち憲法上疑義のない形で実現することが可能になると考えております。
 さらに、より大きな意義としましては、我が国が世界の平和と繁栄のために、主要国としての責任を果たすという決意を内外に強く示すことができるということが挙げられます。残念なことでありますが、国際平和のための活動に自衛隊が協力することにつきまして、日本が軍国主義に立ち戻るのではないかというような誤解に基づく懸念ないし批判が近隣諸国の間にいまだ存在することは事実でございます。無論、我が国は九条一項により侵略戦争を否定しておりますけれども、国際協力に関する新しい条項を設けることで、こうした誤解に基づく懸念ないし批判に対してより明確に説明責任を果たすことができるようになると考えるわけでございます。
 加えまして、シビリアンコントロールを明確にするため、自衛隊の指揮監督権が内閣総理大臣に属すること、また自衛隊の派遣には国会の承認を必要とすることを明記すべきであると考えます。
 繰り返しになりますけれども、これまで自衛隊の存在すら明記されず、したがって自衛隊に対する統制の在り方についても規定がなかったということが自衛隊に対する国内外の無理解を生んだという側面もあるのではないだろうかと思うわけであります。もっとも、こうした事柄を憲法に明記すべきかどうかという点につきましては、両論あり得るところでございます。個別の法律、あるいは自衛隊派遣に関する恒久法を制定しまして、恒久法の中にこうした規定を盛り込み、憲法には法律によってその要件を定めると書くのも一つの考え方であると思います。
 九条に関しては以上でございますが、そのほかに、改正手続を定めた第九十六条と前文につきましては改正すべきであると考えます。
 まず、九十六条でございますが、改正のための要件が厳しいため、国際情勢などの変動に対応して柔軟に憲法を改正することを妨げております。冒頭でも述べましたように、憲法とはあくまで国家が置かれた国際情勢の下での国家の在り方を示すものでありますから、その改正につきましては、もちろん改正の有無を含めてですけれども、国際情勢などを踏まえて、国会の場で議論し、時代に合った憲法にするように絶えず努力していくことが必要だと思います。
 また、多数決を原則とする民主主義の在り方から考えましても、総議員の三分の二という要件は望ましくないと考えます。もちろん、憲法の改正には通常の法律の改正よりも国民的な合意が必要でありますから、国民投票の要件は維持すべきであると考えます。
 最後に、前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という部分は、次に述べます二つの理由で削除すべきであると考えます。
 まず、一つ目の理由として、今日我が国が置かれた国際情勢に合わないということが挙げられると思います。北朝鮮や国際テロ組織の脅威にさらされている我が国の状況を考えますと、このような考え方を維持することは望ましくないと思うわけであります。
 さらに、二つ目の理由は、より根本的な問題、根本的な理由でございますが、前文のこの部分に代表されるような憲法の平和に対する考え方というのは、国連憲章における平和に対する考え方とは相入れないものであるということであります。
 国連憲章第七章は安全保障理事会の決定による軍事的措置について規定しており、すべての加盟国はこれに協力する義務を負うとされております。国連憲章における平和主義とはこのように強制措置によって担保されたものでありまして、憲法の前文や九条二項にありますようないわゆる一国平和主義的な考え方とは全く相入れないものでございます。
 以上のような理由で、前文は書き改める必要があると考えております。
 以上で私の意見陳述を終わります。どうもありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、永久公述人、お願いいたします。
○公述人(永久寿夫君) PHP総合研究所の永久寿夫と申します。今日はこのような場でお話をさせていただきますことを非常に光栄に思います。
 我々PHP総合研究所ではこれまでも様々な提言をやってまいりましたけれども、それを憲法に表現したらどうなるかということで、一度、民間の立場から自由に憲法をつくってみたらどうか、憲法の私案をつくってみたらどうかということで、去年の十一月に「二十一世紀日本国憲法私案」というものを発刊いたしました。今日は、それをわずかでも何らかの参考にしていただければと思いまして参りました。
 二十一世紀日本国憲法私案の特徴は大きく三つございます。一つは地域主権の確立、二つ目は首相公選制の導入、三つ目は自衛隊を当たり前の軍隊へということでございます。今日はこの三点についてお話しさせていただければと思っております。
 まず最初の地域主権の確立でございますけれども、日本の今の国の形はよく中央集権型だと言われておりまして、この形といいますのはこれまでの日本の成長には非常に貢献してきた重要な形であったというふうに評価できるものだと思いますけれども、最近に至りまして何か限界があるんではないかというふうに言われております。一極集中ですとか、あるいは公共財とかの無駄の発生、様々な非生産的な状況が出てきていると。これを直すためにはどうしたらいいかということで、いかに国を生産的な形にしていくかというようなことが議論されてきています。そこへ出てきたのが、権限と税源をより現場に近いところに移譲させるという方法、つまり地方分権ということだと思うんですけれども、その方向で地方分権一括法ができ、三位一体の改革が進められているというような状態であろうと認識しております。
 そうした中で、最近大きく議論されているのが道州制でございます。ただ、この道州制といいますのは定まった定義があるわけではありません。いろんな人がしゃべりますけれども、道州制という同じ言葉を使って、違うことが頭の中にあるというのが現在の状況ではないかと思います。
 現行の地方自治法を見ますと、国はマクロな国全体にかかわるようなことをするべきであると、地方自治体の方はもっと住民に近いミクロなことをやるべきであるということが書かれておりますけれども、具体的には何も書かれていない、何を守備範囲とするかということが具体的には書かれていない。実はここに道州制というものが言われながらもなかなか進まない原因があるのではないかと我々は考えたわけです。
 そこで、まず我々は、広域自治体としての州というものをつくって、そこで国と州の、国と州の権限の及ぶ範囲をまず分けてしまおうではないかと、個別列挙することで分けてしまったらどうかということを考えました。そして、その範囲の中でそれぞれが立法権、行政権、まあ悩んだんですけれども、司法権も含めて、国と州が独立した権限を持つということを憲法に書いたらどうかというふうに考えました。そういった意味で、地域には限定された範囲の中で主権があるということで地域主権という言葉を使っております。
 具体的には、お手元に行っているかと思いますけれども、私案の四十三条に国会の立法権の範囲が限定されております。見ていただければ分かると思いますように、国の最も大きな利益を守備範囲とするということでございます。
 次に、九十三条に州の設置というところがありますけれども、さらにその九十四条には州の権能というものがございます。そこにおいて州の守備範囲というものを定めております。
 次に、九十五条、九十六条に州内の自治ということを書いておりますけれども、それは州というものをつくってもその州内における環境が様々でしょうということで、州の自治の在り方については州で基本法的なものをつくって自分たちで考えてくださいというようなことを述べております。
 次が重要なポイントでもあろうかと思うんですけれども、国会の在り方にも言及しております。四十四条、四十五条辺りですけれども、こうした連邦制に近いような道州制をしていきますと州の代表というものが必要になってくるだろう、各州の利益を代表するものが必要になってくるだろうということで、現在の参議院の在り方を多少変えまして、州の代表する議院、院にすると。アメリカで言いますと上院に当たるような、そうした院にしたらどうなのかというふうに我々は考えました。道州制を入れると一院制というのはちょっと無理だと思います。むしろ、州の代表した院をしっかり持つというようなことが必要ではないかというふうに我々は考えました。
 次に悩んだところなんですけれども、百六条でございます。州にも、州がそれぞれ限定された範囲において立法をするということになりますのでその立法に対する司法はどうするかということでさんざん悩みましたけれども、やはり州が独立した裁判所を持つべきではないか、多少システム的にはごちゃごちゃしてしまうんですけれども、そうしたことが必要ではないかというふうに考えました。四十五ページ、これ載っているかどうかちょっと分かりませんけれども、イメージ図というものを載せてありますけれども、御参考にしていただければ幸いでございます。
 次に、首相公選制の導入についてお話ししたいと思います。
 衆議院選挙、我々有権者の立場から見ますと次のようなことになっているんじゃないかと思います。つまり、地域の代表を選ぶ、それは同時に、各政党が挙げるマニフェストを選ぶことであって、さてそれは同時に政権政党を選ぶということであり、その党首を首相に選ぶというような選挙が今始まってきている選挙の在り方ではないかなと一有権者としても思うわけですけれども、どうもそれがそういうような形になっていないんじゃないかという素朴な疑問があります。
 まず一つには、政党の中の人事の問題で党首の任期というものがございます。それで党首が途中で替わってしまうわけですね。その党首が前の党首と同じような政策を掲げていればいいんですけれども、それとは変わった、異なった、むしろ反対の党首が現れる可能性もある。少なくとも反対する候補者が現れてくるというような現状で、我々のやっていた選挙は何だったんだという素朴な疑問がわいております。次に、仮に意見や政策が異なる首相が現れてしまったら、この間の選挙は何だったんだろうということで必ずしも民意が反映されてないというふうに思います。
 二つ目が、同じような話ではありますけれども、首相のリーダーシップに対する疑問があります。例えば首相がいて、その首相を生んだ与党が、与党の議員が閣僚も含め首相の政策に反対すると、それぞれの議員という立場もあるんでしょうけれども、そうした反対する閣僚や与党議員の影響に首相が左右されてしまうということで、まあ簡単に言ってしまいますと、コアビタシオンとかあるいはディバイデッドガバメントと言われるような状況が、そうではないはずなのにできてしまっているというような感じがしまして、これは有権者から見ますとちょっと妙な感じに受けます。そうした首相のリーダーシップに対する疑問があります。こうしたものを直すといいますか、首相のリーダーシップを確立し民意を反映させるためには、首相を公選し、首相と対立しないような内閣というものをつくっていく方法が、必要があるんじゃないかというふうに考えました。具体的な条文では、まず私案六十五条で、まず国民の直接投票による指名をすると。その後、四十一条でありますけれども、天皇による任命を行うということでございます。
 次に、国会議員の兼職の禁止というところで、私案四十七条の二項ですけれども、ここがちょっと問題なんですけれども、要は、内閣に入る人たち、大臣を、首相を雇主とする専門家スタッフで構成するというような感じを考えております。つまり、アメリカ型のホワイトハウスに非常に似ておりますけれども、内閣という行政を担当するそのトップの部分は首相のスタッフで固めるということでございます。そうしますと、議員は内閣に入れないということになってしまいますけれども、それは議員を辞めてもらえれば入れるというような形で、首相を中心とした一つの行政スタッフといいますか、内閣のトップを形成するというようなことでございます。
 次に問題になりますのが、よく言われますのが議会と行政府が対立した場合どうなるかという話ですけれども、それは二つの方法で解決したらどうかということを考えております。つまり、議会が首相を認められないと、不信任だということは、不信任案を出していただいても結構だと。それが可決した場合には、ただし、国民代表議院と書いてありますけれども、これは衆議院と同じ意味なんですけれども、衆議院は解散するということです。つまり、首相も辞任するけれども、国会の方も解散して、さあどっちがいいのということで有権者に問うということでございます。
 同じことを内閣の、内閣総理大臣の側の方からもイニシアチブを取る。つまり、国会を解散するけれども、自分も同時に総辞職するというような形のパターンを取ればいいかなと思っております。
 さらに、国民が直接投票によって内閣総理大臣を不信任にするというようなこともひとつ必要ではないかなというふうに思っております。
 最後に、行政権を、今までは、現行では内閣とありますけれども、これをすべて内閣総理大臣にするということで内閣総理大臣の責任を強くすると、リーダーシップを発揮しやすいような形にするということをやるべきではないかというふうに考えます。
 三番目に、自衛隊を当たり前の軍隊へということでございます。軍隊という言葉に語弊がありましたら国防軍でも防衛軍でも何でも構いませんけれども、要はきちっとした軍隊にしたらどうかということでございます。
 その背景、理由につきましては、先ほどの高見公述人と非常によく似ております。
 まず、現行憲法の前文を見ますと、どうも他力本願のことが書かれていると。平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を維持しようと決意したとありますけれども、これは国民の生命、財産を守るですとか、領土を守るといった国家の基本的な使命を放棄しているのではないかというふうに取られます。さらには、世界平和には何も貢献しないんではないかというような意思表明、貢献しないというような意思表明ではないかというふうにも取られます。
 さらに、第九条ですけれども、戦争と戦力を放棄しておりますけれども、戦争の方は、日本、放棄しているわけではございませんで、朝鮮戦争を始めとしていろんな国際環境から自衛隊というものが生まれてきた。さらには、国際的な協調や協力が求められる中で、特措法なり解釈でいろんなことをやってきたわけですけれども、それで果たしてこれから、それでずっと続けていけるのか、限界があるのではないかということでございます。
 特に、これから本格化します米軍のトランスフォーメーションを考えますと、日本は自前で自分の国を守るような努力を更に一層強くしていかなければならないではないか、さらには、アメリカのコミットメントを維持していくような必要が、もっと維持していく努力が更に必要になってくるのではないかということで、憲法でしっかりとしたそうした協力体制の担保ができるようにしていく必要があるのではないかというふうに考えました。
 具体的な条文では、まず前文におきまして、国の安全、諸国民の繁栄と世界平和の実現に積極的に貢献するんだと、これが日本だということを書いております。
 二つ目には、私案の一条でございますけれども、日本の独立と主権を守るのは国民の権利と義務であるというふうに述べております。七十八条では、自らの侵略戦争あるいは他の国の侵略戦争はこれは絶対に認めないんだというふうに書いておりますが、我々の独立と主権を守るためには国軍をきちっと保持するんだということを七十九条に書いております。八十条には、シビリアンコントロールを担保するために国軍の最高指揮権は首相にあるということも書いております。さらには、国軍に関する国会承認の条項ですとか、その辺りも書いております。
 次に、重要なところなんですけれども、軍隊を持ちますと平時とは異なる軍法というものが必要になります。軍法がない軍隊はありません。ですから、そうしたことにかかわる専門の裁判所が必要であろうということで、軍事裁判所も必要であるということも書いております。さらには、非常事態宣言というものがありまして、国と地方の各機関に対して首相が直接命令をする権限を制限の下で行うということもこの私案には記しております。
 その他の特徴、(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)というふうに並べておりますけれども、ここではお話しいたしません。また何かの機会にお読みいただければ幸いと思います。
 どうもありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、山本公述人、お願いいたします。
○公述人(山本清君) 山本でございます。
 本日は、国権の最高機関であります国会におきまして私の意見を申し上げる機会をいただきましたことに厚く御礼申し上げます。
 お手元のレジュメの十五ページをお開きいただきたいと思います。一応レジュメに沿いまして申し上げたいと思います。
 初めに、私は憲法を専門にいたしておるものではございませんが、参議院あるいは衆議院の憲法調査会の御議論を拝見しておりますと、ほとんどが、今お三方の公述にもありましたとおり憲法の九条あるいは二十四条等の基本的人権あるいは防衛に関する問題が大半でございまして、実は、今日本国というのは非常に財政危機下であるわけでございまして、財政の民主的統制を国会としてどうあるべきかということにつきまして、公共政策の見地から意見を申し上げたいと、こういうふうに思ったわけでございます。
 最初に、国会におきます財政統制の確保という点からいきますと、三点ばかり議論の余地があるのではないかという点であります。
 第一点は、統制の範囲ということでございます。
 御案内のとおり、憲法第八十六条におきましては、財政民主主義の観点から、支出額から主として統制を行うということになっておりますが、実は支出からの統制というのは非常に範囲が限定しております。実は、諸外国におきましては、こういった資金の収支以外にも広く、その財務的資源以外に広くインフラでありますとか、社会資本関連も含めました経済的資源という概念で国会の統制範囲を拡張しようというような動きがございます。
 しばしば誤解といいますか曲解があるわけでございますが、現金主義統制が、そうすると形骸化するのではないかというような御議論が非常に多うございます。いわゆる経済的資源に着目して発生主義的な概念を国会統制として導入いたしますと、これは一番の大本である現金統制が形骸化するのではないかという御議論でありますが、これは全くの誤った議論でございまして、発生主義会計なり発生主義の概念で予算も統制するといたしますことは、これは従来の現金主義統制プラス発生主義の概念が出てくるということでございまして、むしろ国会の統制する資源の範囲と申しますのは、その予算として、支出として出ていく出ていかない以外にも大きなカバレッジが広がるということで、例えば大きな、例えば資産を処分するんだけれども支出は伴っていかない、あるいは歳入にならないといった行為は、経済的取引としてあるわけでございますが、こういった経済的資源の増減についても国会の統制が加わるということになります。
 もう一点、これで重要な点といたしましては、レジュメには書き漏らしてございますが、いわゆる租税歳出というような概念がございます。
 これは税の減免でありますとか優遇措置でございますが、これはそれだけ税収が減るということでございますから、これは間接的には、ある意味におきましては歳出を行っているということと経済的には全く同じなんでございますが、これは支出というような概念ではとらまえられないわけでございます。したがって、この支出という概念をやはり変更する必要があるのではないかというのが第一点でございます。
 第二点は、統制の原理ということで、これは第八十三条に包括的な議論があるわけでございますが、この第七章の財政の項目全般には基本的に非常に手続的な規定が多うございます。やはり現下の情勢ということだけではなくて、やはり将来にわたって財政規律の確保でありますとか効率の向上あるいは説明責任、透明性の確保といった基本的原則をこの第八十三条に盛り込むのが適切ではないかというふうに思うわけでございます。
 次は、議会におきます予算循環過程の確立ということでございます。
 これは、国会の財政統制の機能というのは、事前の予算審議あるいは議決、期中の財政状況の報告、これは第九十一条でございますが、あるいは事後の決算審査といった予算循環過程で完結するわけでございますが、残念ながらと申しますか、現状におきましては期中及び事後統制の結果を事前の予算審議に反映する措置につきまして明文化がございません。
 次のページの「参考」という図をごらんいただきたいと思います。
 現在、行政府におかれましては、この右側で、予算編成、予算執行、決算ということが、前の財務大臣の下に、塩川財務大臣の下におかれまして財務省で予算執行調査をおやりになるとか、あるいは予算編成ですと事前にモデル事業とか政策群ということで成果を明らかにして統制するということで、かなり経済財政諮問会議でも申しておりましたような、予算編成、予算執行、決算、プラン・ドゥー・シーの内部を内閣の中においては完結しようという動きが最近進展しておるんでございますが、実はこの予算循環過程というのは、むしろ国会が中心的に回っていくのがこれが国会の財政の民主的統制であります。
 ところが、国会の現状からいきますと、予算審議というのがこれが非常に重要であるわけなんでございますが、執行監視あるいは決算審査あるいはこの三者を循環するというようなプロセスにつきましては、本来第八十三条におきましては、財政の処理権限は国会の議決に要求しておるわけでございますから、当然決算段階におきましても国会の議決でもって予算編成に生かしていこうというようなプロセスが完結する必要があるわけでございますが、これについてそれなりの措置が必要ではないかと思うわけでございます。
 次に、効率的、効果的な財政への枠組みでの見直しの論点でございます。
 第一点は、明確な成果目標と説明責任を確保できる予算を導入するということでございます。
 現状の予算の様式等は財政法で決められておりまして、基本的には財政のその作用の性質からいたしますと行政に属するわけでございますが、同時に議会統制の対象でもあるわけでございます。国会におきます統制の枠組みを明確化することが、予算審議、執行監視及び決算審査を効果的ならしめることになると思われるわけでございます。
 これを具体的に申し上げますと、次のページにも関係するわけでございますが、次のページの三番目におきます財政における財務と業績の統合化ということでございます。
 予算審議あるいは決算の報告書をごらんいただきますとお分かりになりますように、予算書と、あるいは決算書と申しますのはいわゆる事項と金額の羅列でございまして、実はその予算あるいは決算が何をなしたか、あるいは何をなそうとしているのかということについては、ほとんどそれだけでは分からないということでございます。
 したがいまして、国会におきます予算統制というのも、そういう予算科目と金額の統制を超えて、やはり業績についても、統制の範囲を拡大したそういった予算統制の在り方というのが重要ではないかと思うわけでございます。
 ただ、その場合におきましては、当然、予算執行の弾力化と財政規律とこのバランスを図ることが、(2)に書いてございますとおり同時に要請されるわけでございます。
 次に、四番目といたしまして、国民の参加と理解を得る財政の構築ということでございます。
 現状の予算の財政統制、すなわち国会におきますと、一般会計、特別会計、これは個別に実は議決を行っております。これは財政の規律を守るという意味においてはそれなりに意味があると思うわけでございますが、財政の全体を分かる、あるいは財政の健全性が果たしてその予算なり決算が果たしているか、あるいは果たしていたかどうかということをチェックする意味におきましては、やはりこれは連結あるいは相殺処理された純計ベースの情報が同時に予算の一環として作成され、審議にかけられる必要があるのではないかと思うわけでございます。
 次に、財政報告の在り方といたしましては、第九十一条に財政の状況報告ということが予算執行状況の報告として掲げられておりますが、実は同時に、国民あるいは国会は中長期的な財政予測ということが非常に関心があるわけでございます。そういたしますと、この中でやはり中長期の財政計画に関します情報が併せて開示される必要があるのではないかと思います。もし可能であれば、これは監査がされる必要があるのではないかということであります。
 同時に、これは私学財政への対応ということでございます。これは、この調査会においても御議論があったやに聞いておりますが、第八十九条というのは、これは私立学校に対する財政支援、これは憲法上疑義があるのではないかというようなことが従来から言われておりますが、これは非営利法人の活動から、公共政策領域で今後重要性を増してくる状況でございますものですから、これは現状と整合的なものに改正する措置が望まれるわけでございます。
 最後に、この場は参議院の憲法調査会でございますから、参議院の在り方につきまして若干意見を申し上げたいと思います。この点につきましては三点ばかり申し上げたいと思います。
 第一点は、長期的な視点ということでございます。
 御案内のとおり、参議院と申しますのは、衆議院と違いまして、いつ解散があるかどうかということではなくて、六年の任期にわたって途中の解散がないということで、非常に長期的な視点から審議をするというような特性がございます。残念ながら、多くの、いわゆる政策評価法案もございますが、政策の効果あるいは政策の結末を国会の場で検証するためには相当の時間を要するわけでございます。単年度ですぐ効果が出てくるような実は政策というのはほとんどないわけでございます。少なくとも三年あるいは五年の期間が掛かるわけでございます。
 こういったことを、特定のといいますか、同じ視点で国政の最高の場でチェックし、それをまた予算へ反映していただくというためには、これは参議院が一番ふさわしいわけでございまして、この政策効果の検証あるいは計画あるいは予算へのフィードバックにつきまして、党派性を超えた活動が期待されるわけでございます。これが第一でございます。
 第二点は、決算重視ということで、これも先ほど申し上げましたことに関連するわけでございます。
 予算審議につきましては、衆議院の優越性が憲法第六十条で規定されております。あるいは、国会の財政統制は執行監視及び決算審査を実施して予算審議に反映することで機能するということでございますから、この決算審査の充実と実効性を高めることがやはり参議院の独自性あるいは参議院と衆議院の機能分担、補完性から必要であろうというふうに思われるわけでございます。
 とりわけ、決算審査の充実と実効性ということから申し上げますと、憲法第八十七条の予備費ということも、これは既に終わった行為に対しましても事後の国会の承諾を得るということでございまして、ある意味においては決算も事後的なもので、もう既に支出が終わっている、歳入が終わっているということで共通する側面があるわけでございますから、これは確定した行為につきましても国会の議決をし、そしてその予算審議に反映をしていくということが参議院の機能の充実からいって重要ではないかと思うわけでございます。
 最後は、会計検査院の活用ということでございます。
 会計検査院の活用につきましてもこの調査会で御議論があったというふうに承っておりますが、会計検査院の検査報告及び活動が行政に対する財政の規律確保のみならず議会における審議を通じた財政統制に活用されることが重要であるということでございます。
 とりわけ、会計検査院の現状等は、これはどちらかといいますと、議会に対する情報提供あるいは議会に対する予算審議なり決算審議への情報提供というよりも、やはりクライアントがどちらかといいますと行政府なり内閣にあるのではないかというような感触がかねてからしております。しかし、これは諸外国の会計検査機関も同事でありますが、第一のクライアントはこれは議会であるわけでございますから、やはりその第一のクライアントにより活用されるような会計検査院の活動が必要であるというふうに思うわけでございます。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 以上で公述人の方々の御意見の陳述は終わりました。
 この際、十分程度休憩いたします。
   午後二時五十九分休憩
     ─────・─────
   午後三時九分開会
○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 これより公述人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 河合常則君。
○河合常則君 自由民主党の河合常則でございます。今日は、公述人の皆さん、御苦労さんでございます。
 まず、二つずつほど御質問したいと思いますが、まず赤石公述人にお願いいたします。
 先ほどから話を聞きました。母子家庭とお母さんとして非常に御苦労があって頑張ってこられたと思っています。それだけに、独りでは生きられない、どうしてもこれはみんなと協力して助け合って頑張らねばならぬという、そういう意識が私は強かったんだろうと思うのでございます。東京にお住まいですから、団地なのか、まあ分かりませんけれども、町内会とかという、そういう地域のコミュニティーというつながりを非常に大事にしてこなければいけなかったろうというふうに思います。そこで、この地域コミュニティーの活動などにも参加しなきゃならぬと、それに参加すると少しはやっぱり自己犠牲も払わねばならぬということはあるのではないかと思います。
 まず、この九条について。
 そこで、家庭を国と考え、それで地域社会、町内会、地域コミュニティーを国際社会とか世界というふうに考えるとそういうことが比較できると思うのでございますが、町内会に何か事件とか事故があった場合に、あなたの家庭にも何らかの影響があるのではないかと。そのときに、私は知りませんよ、かかわりませんと言い切れるのかどうか。日本が近隣のどこかの国から何かされたり、近隣のある国に何かされて危険があるとしたら、そのときに、何も日本ではできませんと、仕方ありません、九条ありますから仕方ありませんと言い切っておれるのかどうかと。
 これはやっぱり一人一人で、私の基本的人権があって、民主主義が備わってきちんとしているから、保障されていますから私は知りませんと、かかわりませんで済むことができるかどうかということも、基本的人権の担保とかプライバシーの保護とか、これは一定の義務や責務を果たしてこそ保障されるものであると、こう思いますね。
 そこで、とすれば、国の憲法の九条も実情に合うように、自衛の組織とか集団自衛権のことも明記すべきなのではないかと私は思うのでございますが、地域コミュニティーと自分の家庭との関係というふうに、こうもう一度地道に考えて、お考えをお聞きしたいと思います。
 その次は、二点目は家族とか郷土愛とか伝統ということでございますが、二十四条の話ございました。
 現在の憲法は、私は、人権については非常に厚く規定されておりまして、個人の尊厳についてすばらしく条件が整った憲法だと思っていますが、しかし同時に、人と人とのつながり、例えば家族のきずなや郷土愛、環境など公共に対する姿勢や、今の社会を築いてこられた先輩方に対する尊敬の念、つまり伝統の尊重などというような、健全な社会の運営には必要不可欠な要素が明記されていないように思うのでございます。
 例えば、イタリアの憲法などには現に家族の形成を保護する条文があるようでございます。三十一条には「共和国は、経済的及び他の措置により、家族の形成及びそれに必要な任務の遂行を助ける。大家族に対しては特別の配慮を行う。 共和国は母性、児童、青年を保護し、この目的に必要な施設を助成する。」などあるようでございますが、日本でも憲法にそのようなものを盛り込んではどうかと思いますが、あなたはこの点についてどのようにお考えでしょうか。
 以上でございます。
○公述人(赤石千衣子君) 御質問ありがとうございます。
 二点御質問があったかと思いますが、まず、地域社会で家庭を国と考え、地域を世界と考えて、地域で何か起こった場合にそれをどのように解決するのかといった御質問かと思いますが、地域社会に私たちも属しているわけですけれども、何か、例えば子供がちょっとこう事件を起こして迷惑が掛かっているというようなときに、どういうふうに解決するかというようなことですね。
 私も団地の自治会などに属しておりますけれども、そういうところでは自治会で話合いをいたしまして、まず何が原因なのかというようなことを話し合うわけでございます。それで、例えば子供たちならば、やはりどうしてそういうことをしているのかというようなことを聞いたり、あと、ごみが不法に投棄されているということでしたら、その原因を探るということですので、やはり起こっていることの原因を知り、そして話合いによって解決するというステップを踏むというのは非常に大切なのではないかというふうに思っております。やはり原因が分からなければ解決もできないわけです。そういうふうに、話合いによる解決というのは地域社会の中でも可能なのではないかというふうに思っております。私も大変忙しいんですけれども、団地の中のいろんなこと、仕事も受け持っております。
 それからもう一つ、家族の尊重を憲法の中に明記するということについてどのように思われるかという御質問でよろしいのでしょうか。
 家庭なり家族の尊重という条文がある憲法は各国にも幾つかあるということは承知しております。その場合に、私の立場から気になりますのは、一体その家庭あるいは家族というものの形はどのようなものかということでございます。
 いろいろな家族の営みを保護するということはとても大切で、先ほども申し上げましたように、家族が時間を一緒に過ごす、そういう、単身赴任などをフランスではあり得ないというふうに聞いておりますけれども、そういう保護というのは大切だと思います。しかし、どうも家族を尊重するという規定を置く場合に、お父さんとお母さんがいて子供がいるという、ある種限られた家族を尊重するというような意識がどうもあるのではないか。これは、やはり多様な多様性を認めた家族を尊重するという規定でなければならないのではないかと、このように思うわけでございます。
○河合常則君 ありがとうございました。
 済みません、町内会での事件というのを具体的に申し上げませんでした。済みませんでした。ごみの収集のことでおっしゃいましたが、僕は火災などがどうかなと思ったのでございます。それは結構でございます。
 次に、高見公述人にお願いします。
 二十四歳の若いあなたが、若者の政治離れや投票に行かない人が多いと言われている今日、憲法について関心を持って積極的な行動を取りたいということに感謝いたします。本当にありがとうございます。
 憲法九条の改正については、私もほぼ同意見でございますが、ここで、あなたは安全保障論議が憲法解釈論争にとらわれて国際情勢の判断や国益に基づく議論が行われてこなかったと言われています。あなたの言われたように、憲法改正ができたとします。そうすると、その後、国際政治における日本の地位にどのような変化が生じてくるとお考えでしょうか。また、その場合、日本は国連においてどのような立場でどのような役割を果たすべきであるとお考えでしょうか。
 それからもう一つ、この憲法九条とは関係ありませんが、あなたみたいな若い方に是非聞いてみたいと思ったのがございます。この我が国の形をつくる基本的なものとしまして、国会、衆議院、参議院両院の選挙があるのでございますが、その在り方、特に定数であるとか、区割りの基準が人口で行われておるとか、この衆参両院の性格、先ほど山本公述人の中に、予算のことと決算のことございましたが、そういうこととか、被選挙権の年齢とか選挙権の年齢、過疎地と過密地の一票の重さの違いなどについてもし何かお感じになることございましたら、お伺いいたしたいと思います。
 以上でございます。
○公述人(高見康裕君) まず、お褒めいただきましたこと、ありがとうございます。お答えいたします。
 まず一つ目の御質問についてですけれども、日本が憲法改正をした後に国際社会においてどのような役割を果たせるか、果たすべきかという御趣旨の質問だったと思います。
 先ほどの意見陳述の中でも述べさせていただきましたけれども、日本が、今まで九条二項に代表されるような、日本がつまり他国を脅かすような軍備を持つべきでない、自衛に徹するべきだというような考え方ですけれども、このような考え方を取る場合に、その背景にあります発想は、日本が世界に迷惑を掛けなければ、それで日本の役割はそれだけでいいというような考え方だと私は理解しております。そのような考え方を取ります場合に、日本がでは世界の平和に対してどのような役割を果たせるだろうかというような発想は全く欠落していたというふうに考えております。
 したがいまして、憲法改正をした後には、私は九条のところで国際協力に関する条項を挿入すべきだと申しましたけれども、これによって海外における武力行使を今まで九条一項によって一律にすべて禁止しておりましたけれども、これに対する例外として武器使用基準の緩和ということを私述べましたように、武力行使を含めた国際協力が可能になると考えております。
 それから、国連での役割ということでしたけれども、国際社会イコール国連だとは私は考えておりませんけれども、ただ、現実に存在する機構として国連というのは極めて重要な役割でありまして、そこで日本が常任理事国に入るなど主要な役割を果たすことは世界の平和と安定にとって極めて重要でありますし、それは我が国の平和と繁栄にとっても有益なことだと考えております。
 次に、第二点につきましてですけれども、まず、一票の格差という問題について論じさせていただきたいと思います。
 私は実は島根県の出身でございまして、いつもその一票の格差ということが報道されるときに例に出されるところでございます。このような参議院で今五倍程度の格差が存在するということは、私は民主主義の観点から望ましくないことだと考えておりますので、是正されるべきだと考えております。具体的に言いますと、例えば、定数を決める際に、今では一議席をすべての選挙区に割り当ててから人口比例で議席が配分されておりますけれども、このようなやり方ではなくて、純粋に人口比例、人口比で議席も配分されるべきだと考えております。
 それから、選挙権のお話もございましたけれども、私は、他国並みに十八歳に引き下げて、より若者が政治について自らのこととして考えるようになるということが望ましいと思っております。
 以上でございます。
○河合常則君 ありがとうございました。
 私は、あなたは島根県と言われましたから、まあ人口だけでなしに面積も勘案してくれと言うかなと思ったんですが、済みませんでした。
 それでは、永久公述人にお願いいたします。
 先生の地域主義、地権主義の確立、これのお考えは道州制、連邦制にあると思われます。そこで、この財政運営の決定とか執行の責任を各地域が負うということになった場合に、財政的な体力のある地方と、ない地方の間で大きな格差が生じると思われます。
 連邦制を徹底するアメリカの各州は連邦から特定な分野で補助金を得ていますが、日本の交付税のような地方財政調整機能を有するというものではないと思っています。我が国では、国による調整、助成、まあ交付税制度によって各地方におけるナショナルミニマムを確保してきたわけでございます。各地方の健全な財政運営が担保されることこそ、地方分権が現実のものになるんではないかと思うのでございます。
 課税客体が偏在しないような、そして、ここは本店とか支店とか、本社と支社というふうな、地方自治体それぞれ地域を異にする、そういうときはどうするかということを含めて、税が偏在しないような何かこういう良いアイデアはお持ちでしょうか。これが一つでございます。
 もう一つは、九条のことはそれでいいとしまして、首相公選制についてでございます。
 あなたは首相公選制を御提案されておりますが、民意という正当性を確保できるならば、首相は行政府内でリーダーシップを十分に発揮できます。しかし、立法府との対立が深刻化すれば、やはり法案を通すということは不可能になって不信任や解散によって国政の停滞を招きやすいということもあるのではないかと思います。衆議院や参議院選挙の役割が変化して、政権選択ではなくなった、選挙が政権選択ではなくなったという場合には、地元や団体の個別利益を優先する結果を招きまして、議員が首相と対立する可能性は更に高くなるということも懸念されると思います。
 どんな制度でも欠点はございますが、この首相公選制の弊害をどのように克服しようとお考えになっておられるか、この二点についてお伺いいたします。
○公述人(永久寿夫君) まず一点目ですけれども、格差は生じます。
 我々の計算によりますと、大体、四国・中国地方ぐらいが、あるいは北海道辺りが格差が生じて、なかなか独立してやっていくというのは難しい状態になるのは確かでございます。
 ただ、これは我々の試算でございますので、正しいかどうかは別問題としまして、地方分権をするという、地域主権の形にしますと、こういう道州制の形にしますと、国と地方合わせて五十兆ぐらいの財政の削減ができまして、国から地方の方に二十兆円ぐらいの税源の移転がなされます。
 それでも四国辺りですと難しくなる。ですから、財政調整のシステムというのは考えなきゃいけないんですけれども、一つには、一つの基金みたいなものをつくりまして、そこに対して横で、国から地方ではなくて、横で一つの財政調整機能を果たすべきなんだろうなというのが一つです。
 二つ目には、いや、開き直って、偏在したっていいんじゃないですかということでございます。基本的なベースが違っても、これからその州が独立して、独立としてといいますか、独自にいろんな政策を展開することによってそこの財政基盤が強くなっていくというような可能性は、最初の段階では難しいかもしれませんけれども、できないわけではないのかなと。
 例えば、北海道とよく比べられますけれども、デンマークですとか、その辺りの人口はほぼ等しい。デンマークは一つの独立国としてやっている。なぜ北海道でできないのという話になってしまいますけれども、もっと言いますと、いろんな国が、スウェーデン等、まあ八百万ぐらいですか、そのようなところとか一杯あるわけですね。日本を十で割っても一つ千二百万人の国ができるような形になるわけでございまして、最初は難しくて、財政調整の方法を何らか考えなきゃいけないとは思いますけれども、最終的にはだんだん必要がなくなってくるんじゃないのかなと、必要なくなってくるのではないかなというふうに思います。
 二つ目の首相公選制、首相公選制は、実は私どもとしては、別に首相公選制を特にやらなきゃいけないというふうに思っているわけではありません。
 政党が政党として一つ筋が通っていて、マニフェストで書かれて、それを首相がやろうとしていて、それが内閣と立法府がきちっと進んでいくような形で強いリーダーシップが発揮されればそれで十分だとは思っておるんですけれども、なかなか現状を見ますと、そうではないようなふうに有権者には見えてしまいます。
 ですから、そうした場合には、首相というものを公選にして、そこでその権力を担保して、まあ今の状態ですと議員の互選によって選ばれるわけですから、議員の利害関係にどうしても左右されてしまうというのはこれ当然のシステムでございますけれども、そうしたことを排除しようということでございますが、もちろん議会との対立はあるわけです。
 そうした場合どうするかということですけれども、先ほども述べましたように、不信任を出して、それが可決されたら自動的に国会も解散されるというような形で、対立した場合には、にっちもさっちもいかなくなった場合には、有権者にゼロから問いましょうというようなシステムをつくったらどうですかという話です。
 まだ、ですから、首相公選制、一番いい策だとは我々も考えておりません。
 以上です。
○河合常則君 ありがとうございました。
 次に、もう時間ありませんが、山本公述人に一つだけお伺いします。
 会計検査院のことでお伺いしますが、会計検査院は、アメリカの検査院のGAOのように国会の附属機関として活用したいという意見もあるわけでございますが、国会の附属機関とする前提に立った場合にはどのような環境整備が必要か。
 例えば、政策評価を常時委託できるようにするためには、アメリカに倣って、現行の会計検査の大部分を各省庁の内部監査機関の検査に変える必要もあるかもしれません。
 検査院にお勤めになられた御経験からお答えいただければ有り難いと思います。よろしくお願いします。
○公述人(山本清君) これは仮定の話でございますが、もし会計検査院が国会の附属機関化した場合において留意しなきゃいけない点は、会計検査院長は当然国会の職員の一人になり得るわけでございますが、実際の会計検査の範囲でありますとか内容につきましては、国会についてはそれは全面的に院長の権限にゆだねるというようなことが必要であろうと思います。
 以上でございます。
○河合常則君 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、松井孝治君。
○松井孝治君 民主党の松井孝治でございます。
 四人の公述人の皆さん、本当に今日は貴重な御意見、ありがとうございました。
 できるだけ四人の方、皆さんにお伺いしたいものですから、まず最初に、一番若い高見公述人に私の御質問をして、これは最後に答えていただければ結構です。少し考える時間があった方がいいかと思います。
 九条について、そして前文についてお触れになられました。私は、むしろ高見公述人のような若い方が、この一九四六年における、これはある種の日本国憲法における宣言文だと思うんですね、前文というのは。もし今、この時代において新しい憲法をつくる、あるいは憲法を改正するとしたときに、一部分、もうこれは時代に合わないから削除すべきだというお話がありましたが、高見公述人であれば、どういう概念、理念をこの憲法の前文にむしろ足すべきではないかというようなお考えをお持ちであるか。あるとしたら、どういう理念をこの憲法前文に、例えば二〇〇五年、二〇〇六年、現時点で我々が新たな憲法をつくるとしたときにどういう理念が必要だと考えられるか。これは一番最後にお伺いをしたいと思います。
 その上で、まず山本公述人にお伺いをしたいと思いますが、憲法の財政関係の記述が非常に手続的だというのは、私も全く同感でございます。決算委員会にも山本公述人、お見えいただいたことがあるわけでございますが、山本公述人がおっしゃっている予算循環過程を確立するというのは、これは非常に大事なポイントだと思いますし、また、参議院の在り方を考える上でも、そこにおける決算あるいは政策評価の位置付けをより確立されたものにするということが必要だと思います。
 その意味で、現行憲法九十条の会計検査の規定というものは、あるいは決算の規定というものについては、一般的には報告説的にとらえられていて、拘束力がないというふうに言われています。具体的にこの九十条、あるいは財政に関する記述についてどのように、具体的にこの予算循環過程を確立するためにどのような縛りを加えるべきだとお考えなのか、具体的に御意見をお聞かせいただきたいと思います。
○公述人(山本清君) 非常に難しい御質問であるわけでございますが、まず現行の憲法学者等のいろいろな諸説を拝見しておりますと、必ずしも、今先生御指摘のように、憲法九十条は単なる報告であると、決算は単なる報告事項であって議決事項じゃないというのは、これは多数説でございますが、しかし、一方においては、第八十三条におきまして、「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。」という条項がございます。財政を処理する権限の一部として、当然、決算審査もあるというふうに読めるわけでございますから、そういった点からいきますと、決算審査というのも当然国会の議決に課すべきであるというような憲法学者の論拠もございます。したがって、直ちに現行の第九十条でもって決算は単なる報告事項であるということは必ずしも言えないのではないかというのが一点でございます。
 ただ、それは非常に少数説であろうと。したがって、何らかの改正が必要ではないかということをもしそれを是といたしますと、これはやはりその第九十条の場合におきまして、この検査報告に対する予算審議についての何らかのその拘束といいますか、担保といいますか、担保ができなければしんしゃく条項的なものがやはりないと、ここで決算から予算へのフィードバック、あるいは参議院がもし決算を重視されるということであれば、なおさら決算審査の予算への何らかの格好のしんしゃく条項あるいは尊重条項というのがやはり必要ではないかというふうに考える次第でございます。
 以上でございます。
○松井孝治君 ありがとうございます。
 永久公述人にお伺いしたいと思いますが、道州制の導入ということを憲法上位置付けるという御提案をされています。私も地域主権ということには大いに共鳴するわけでありますが、その際、広域自治体である道州と基礎自治体との関係が一つの問題になってこようと思います。補完性の原則ということがよく言われますけれども、その原則に立てばむしろ、例えば基礎自治体と中央政府との役割分担を先に議論すべきなんではないかという議論もあると思うんですが、その辺りについて、地域主権のつくり方ですね。まず国と道州との関係を切り分けてあとは道州の中で任せるという考え方と、まず基礎自治体の権能を議論すべきではないかという考えについて公述人の御意見を聞かせていただきたいと思います。
○公述人(永久寿夫君) 基礎的自治体の権能を議論するというのは非常に重要なことだと思います。
 我々の社会の成り立ちからいいますと、小さな共同体から生まれて、それから、そこでできなくなったらもうちょっと大きな広域的なものをつくっていく、更には国になるというような形でして、そういう順番から考えましたら、基礎的自治体の権限というものを最初に考えるというのは重要かと思います。
 ただ、今現在の状況からどうやっていくかということに考えたときに、やっぱり州というものを最初につくって、そこに国が持っている大きな権限の幾つかを持ってくるというふうにしてから、それから基礎的な自治体にどう振り分けていくかというような方がやりやすいんではないかなというふうに思います。今、県があって、それを飛ばして自治体が、どこから何持ってくるというようなことをやるよりも、まず、大きな国を幾つか小さな国に分けるというような感覚でやった方がやりやすいんではないかなというふうに一つ思います。それと同時に、広域的なもので何かいろいろやらなきゃいけないことがございますので、そうしたことも考えますと、広域をまず最初に考えるべきかなというふうには思います。
 ただ、基礎的自治体の役割、同時に、何が重要なのかということが議論されるのは当然かなと思います。
 以上です。
○松井孝治君 ありがとうございます。
 同時に、永久公述人は、ある意味では、地域主権国家をつくるためにも今の二院制を国民代表議院と州代表議院というふうに変えるという御提案をされておられます。
 御提案をされているんですが、その州代表議院というのは、当然、国と各州との関係についての議論をするというふうに想定されますが、その機能がどういうものなのか。もう少し具体的に、例えばドイツ型の連邦参議院を念頭に置いておられるのかなというふうに想像はするんですが、具体的な機能はどういうものなのか。それと同時に、例えば山本公述人がおっしゃったように、少し決算中心のチェック機関に、この第二院といいましょうか、参議院は持っていくべきではないかという議論もありますが、その辺りの、この御提起のある州代表議院の具体的な機能、権限、どう考えておられるのか。
 それから、時間もありませんので、ちょっと質が違う質問ですが、永久公述人の御提案では、会計検査院は国会に置くというふうにされていますね。このねらい、これは山本公述人に対して先ほど同僚議員の方から御質問もございましたけれども、なぜそれは例えば独立機関ではなくて国会に置くべきなのか、あるいはその受け止めたときの国会が果たすべき役割、その辺りまで含めて御意見を伺いたいと思います。
○公述人(永久寿夫君) まず一点目ですけれども、我々の道州制の中で想定されている国の役割といいますのは、安全保障、外交ですとか、非常にマクロな利益に関するものばかりでございます。その段階で、国民代表と州代表の両院の差というものは、現在の衆院と参議院ぐらいのものとしか我々は想定しておりませんで、多少国民代表議院の優位がございますけれども、現状とほぼ変わりありません。
 どういう役割かと申しますと、非常に国全体のマクロな利益だとしましても、国全体の部分と、あと州個々がかかわる利益とかといろいろあるかとございます。そうしたものを調整する場ということを考えておりますと同時に、ここでは、先ほど議論しませんでしたけれども、いろんな分野を分けましたけれども、残っている部分があります。その部分に対しては、国と州の契約というような形で、国と州の代表が議論して決めていくべきではないかということでこの州代表議院というものを考えております。
 会計検査院の方ですけれども、国会に帰属させる。今の状態は独立しているというふうに解釈できますけれども、人事の面ですとか様々な面で行政に割と依存しているのではないかなというふうに客観的に見えますけれども、そもそも行政、まあ財政の方詳しくございませんけれども、財政という、行政が運営しているものをチェックする機関が行政にかなり影響を受けるような形であってはいけないだろうというふうに思います。ですから、本来行政府をチェックする機能である国会が、国会に会計検査院を附属させることによって、それを基に国会が行政府を十分チェックしていく、機能を監査していくという必要があるんではないかということからこういうふうに考えました。
 以上です。
○松井孝治君 済みません、永久公述人にもう一つ伺いたいんですが、今の議院内閣制の根幹であるところの内閣と議会との関係を相当変えた御提案、大統領制に近い、天皇制は維持しつつも大統領制に近い御提案だと理解しておりますが、特に閣僚、議員との、これよく議員との兼職を禁止している、要するに閣僚は議員から選ばない。まあ、内閣総理大臣は議員から選ぶということですよね。内閣総理大臣も議員である必要はないという、そういう意味では本当に議院内閣制を根本的にいじるという御提案であると思いますけれども、この具体的な、最初に少しおっしゃいました、総理大臣と与党ないし議会との乖離ということをおっしゃいましたけれども、なぜそこまで、よく言われる議論として、衆議院を執行の院として参議院をチェックの院とするならば、参議院は利益相反を排するために閣僚を送るべきではないという議論はよくありますが、衆議院、国民代表院まで含めてそれを行政執行機関である内閣と遮断するという、そこまでしなければいけないということの背景というか、思いというものを少し述べていただきたいと思います。
○公述人(永久寿夫君) これは我々会社に勤める民間人の感覚でございます。トップである首相、我々にとってみれば社長ですけれども、社長がこういうような政策を実現しようと思っていろいろ努力していると、これで進むぞというようなときに、重役それぞれが右向いたり左向いたりとして、全体的にはどこ飛んでいくのか分からないというような状態は企業経営としてはあり得ません。ですけれども、今の内閣を見てみますとどうしてもそういうふうに見えてしまう、実際は分かりませんけれども。首相がこうやっている、だけれども実際の内閣の大臣の方々は、閣僚の方々はどうもそれとは違う、そうしたことが、行政府として一つの方向性に進もうとしているときになかなか改革も含めて政策の実行が進まない一つの要因ではないかということで、これを提案させていただいております。
 ただ、政党政治がしっかりしてといいますか、政党政治がきちっとした形でできて、一つのマニフェストに向かって与党が一体化して一つの行政府を展開していくんだということができている姿であるならば、私はそれでも十分だろうというふうに思っております。
 以上です。
○松井孝治君 永久公述人に最後に伺いたいのは、改正条項で国民投票要件を排しておられます。これは、逆に言えば、首相公選でそこに国民の意思が反映している、一点に集中しているから、そこでガバナンスが十分効いているということなのかもしれませんが、しかしおっしゃったような、国民が具体的に政治を左右するという意味においては、憲法のような問題、憲法の在り方について、国民投票要件を排するというのはやや逆行しているような気もするんですが、その点についてどうお考えになっているのかお伺いしたいと思います。
○公述人(永久寿夫君) 個人的にはおっしゃるとおりだと思います。これは、我々がこの私案をつくったときに、この条項に関してはもめたところでございまして、私は、今、松井先生がおっしゃったとおりの議論をしておりました。
 ですから、せっかくこの国民に直接に参政権というものを首相公選のところで言っているわけですから、こうしたところでも国民の投票によって最終的に決めるというようなことがあってもいいかと思います。ただ、今の条文におきましてはなかなかそれもやりにくい状況ですので、そこの部分はもっと簡単にできるような形にした方がいいかと思います。
 以上です。
○松井孝治君 赤石公述人に伺いたいと思います。
 今日の公述人、八人いらっしゃる中で赤石公述人が唯一の女性の公述人であり、そういう観点も踏まえた御意見というのを重みを持って伺わせていただきましたが、その中で、二十四条の精神を尊重しなければいけないというのは私も全く同意見なんですが、九条の点について伺いたいと思います。
 二十四条の件で公述人の方からは、幾つかの最高裁判決が非常に重要な役割を果たしたというお話がございました。しかしながら、憲法全般について申し上げると、必ずしも最高裁は統治行為論などの壁もあって、違憲判決といいましょうか、憲法についての判断を留保するケースがこの間非常に多いわけですね。
 そういう意味において、今の状況というのが本当にいいかどうかって私ちょっと疑問があると思っていまして、具体的には、永久公述人及び高見公述人からお話がありましたが、憲法と、九条の規定と実態の乖離、そして九条の規定にシビリアンコントロールが十分位置付けられていない、あるいは、例えば自衛隊の海外派遣についての立法府の関与というような非常に重要な点が位置付けられていないような点をどう解釈するか。また、その辺りの九条について言うと、最高裁がなかなか、踏み込んで具体的に今の状態についての判断をどうしても差し控える傾向がある。
 そのような状況の中で、憲法九条というものを全く触らないのが本当にいいのか、それともある程度、お二人の公述人から提案があったようなことはある意味ではそれはリスクを冒すかもしれないけれども、しかし歯止めをきっちり憲法上書き込もうじゃないかという議論もあろうかと思うんですが、そのような点についての、九条についての改正についても全く不要なのか、あるいはそれは中身次第なのか、その辺りについての御意見を伺いたいと思います。
○公述人(赤石千衣子君) 御質問ありがとうございます。
 ちょっと抜かしてしまったんですけれども、時間がない関係で、二十四条、十四条についてはそういった憲法判断が裁判所であることによって積み重ねられてきた、そういった歴史があって、九条については残念ながらそういった判断がなかったことを非常に私としても残念に思っております。
 ただ、ですから、九条を実現するための営みというのが非常に、何というんでしょうか、現実的なものになってこなかった歴史というのがあり、実態との乖離というのは確かにあると思いますが、私としては、九条を実現していく過程をどのようにしていくのかを国会の中でもっと議論していただきたいというふうに思っているわけです。
 それで、安全保障政策について私は余り述べられることはないのですが、やはりきちんと、歯止めをというような案よりは、九条を実体化する試みがあり得るのではないか。それで、地域の安全保障で、北東アジアの非核地帯、これは民主党も提案していらっしゃるかと思うんですけれども、いろんな党でかなり言及していらっしゃると思いますが、そういったことも含めて外交の政策をしていくことの努力の方が必要ではないかというふうに申し上げたんです。
○松井孝治君 じゃ、残りの時間、二分ぐらいだと思いますが、高見公述人、その範囲で述べられるかどうか分かりませんが、高見さんが考えられるあるべき前文の理念について、もしよろしければ御説明いただきたいと思います。
○公述人(高見康裕君) お答えいたします。十分な時間をいただきまして、ありがとうございます。
 国家の最も重要な役割というのは、私述べましたように、国家の平和と繁栄を維持増進することであると考えております。したがって、憲法の一番初めの宣言たる前文には、国際社会において日本がどのように生きていくかということを示す、宣言すべきであると考えます。より詳しく言えば、日本が国際社会においてどのような外交姿勢を取っていくかということをここに宣言することが望ましいのではないかと思います。
 外交の目的は、今どのような理念とおっしゃいましたけれども、私は外交の目的は理念の追求ではないと考えております。例えば、過去を振り返りますと、共産主義といったイデオロギーや特定の理念あるいは市民革命などを他国に押し付けようという外交というのはことごとく失敗してきたというのが歴史の教訓であると、私はそのように考えております。各国にはそれぞれの歴史があり伝統があり、また宗教もあり、様々な国内事情がございます。したがって、例えば自由や民主主義あるいは人権のような原則というのは、我が国が追求すべき原則でありますけれども、それを外交の目的とすべきではないと考えます。
 したがって、例えばですけれども、日本は世界の平和と繁栄、それのみのために積極的に努力することを宣言し、それによって日本国及び日本国民の平和と繁栄の維持増進を実現することを目指すといったようなシンプルな前文にすべきであると考えております。
 以上です。
○松井孝治君 ありがとうございました。終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 山下栄一君。
○山下栄一君 最初に、赤石公述人にお伺いしたいと思います。
 私も、おっしゃったように、男女の平等という観点ですけれども、十三条、十四条、二十四条、本当に大事な規定だと思いますし、その意義ということを非常にきちっと重視しなければならないというふうに思っておりますが、しかし、現実、おっしゃったように、様々な形で今も色濃く男女差別が残っているように思います。配偶者を呼ぶ呼び方にしてもそうだというふうに、嫁さん、奥さん、家内、かみさんという言葉はちょっと違うのかも分かりませんけれども、そういうところにも端的に表れているのではないかというふうに思うんですけれども、この男女差別が色濃く今も日本の社会に残っているとしたら、その主要な、根本的な原因といいますか、どこにあるのかというふうにお考えなのかということをお聞きしたいと思います。
○公述人(赤石千衣子君) 御質問ありがとうございます。
 男女差別の根本的な要因とは何かという御質問だったかと思うんですけれども、一つは、やはり男性が主とした稼ぎ手、仕事をする、そして女性は補助的な、家事、育児をして補助的に働く、そういった性別役割分担意識と申しますか、そういったものが日本ではまだ色濃く残っているということだと思います。それから、やはり男性の方が女性よりも一人前である、女性の発言なりその人格というのは劣っているという、そういった意識が日本ではまだまだ非常に強い、この二つかなというふうに思っております。
○山下栄一君 ありがとうございます。
 次に、高見公述人にお伺いしますけれども、先ほどのお話の中に、日本が置かれた今の現在の立場の中で、特に自衛隊の存在意義があるということをおっしゃった中で中国の脅威ということをおっしゃったんですけれども、具体的に何か感じられていることがあるならば、そのことをちょっと意見表明していただきたいというふうに思います。
 もう一点、先ほど、参政権ですかね、十八歳以上に下げたらどうかと、これは世界の趨勢である、私もそのように思います。しかし、今の現実のままで十八歳以上に下げることがどうなのかという、非常に政治的な関心がなかなか若者にないと。そういう中で、高見公述人は非常に意識が高いわけですけれども、私は、学校教育だけじゃなくて、家庭教育、地域教育の中で政治教育、まあ憲法教育と言ってもいいかも分かりません。単なるこれは授業とかということじゃなくて、この政治教育ということ、非常にこれは微妙な問題で、教育基本法にもきちっと書いてありますけれども、良識ある公民たる、公民を育てるための政治的教養はと、これは尊重しなきゃならないと。そういう政治の教育ということが非常に、具体的な形では児童会、生徒会の運営も含めて非常に、直接参加して自分が担うんだという意識が非常に育っておらない現実があると。そういう体験学習もあんまりない。高見公述人もそういう中で育ってこられたと思うんですけれども、そういう政治教育の在り方についてどのように思われるかと。
 この二点、お伺いしたいと思います。
○公述人(高見康裕君) お答えいたします。
 まず第一点の中国の脅威についてお答えいたします。
 中国は、北朝鮮とは異なりまして、直ちに脅威で、我が国にとっての脅威であるとは考えておりませんが、今、海洋進出などに見られますように、中長期的には日本の脅威となり得る国家であると考えております。それは、軍事における不透明性や軍事費の伸びですとか、人口、面積といった国力の点においても、中国は必ずこれからますます存在感を増してくるということは確実だと考えております。
 それから、第二点の政治教育に関してですけれども、私も今の若い世代が政治に対する意識が低いということは理解しております。しかし、だからといって選挙権を与えるべきでないとは考えません。むしろ、権利を与えることによって政治を自分のこととして考えるという責任も負わせるべきだと私は考えます。
 それで、政治教育の在り方ですけれども、私は、学校の場でどうすべきかということよりも、最大の政治教育の場は国会ではないかというふうに考えております。国会において国がどうあるべきかということが正面から論じられずに憲法解釈についての論争に終始している、自衛隊を軍隊と言わないといったような、このような常識とは懸け離れた論争がなされているということが国民の政治に対する無関心の一因となっていることは否定できないというふうに考えております。
 以上です。
○山下栄一君 永久公述人にお伺いいたします。
 地方主権のところですけれども、地方自主財源の確立ということが大きな今課題になり、三位一体の議論も行われておりますが、私案の中ではそれぞれ国家又は州にこの課税権というのを明確に書いておられるわけですけど、それぞれ自由に課税するということなのか、また、国と州の課税のすみ分けといいますか、そういうのを、特色付けといいますか、どのようにお考えなのかということをお伺いしたいと思います。
○公述人(永久寿夫君) 課税権に関しましては、それぞれ国と州が独立した形でそれぞれに課税権を持つというふうに考えております。
 いろんな考え方がございまして、州が課税して、それの一部を国に逆に供出するというような考え方もありますけれども、どのお金を何に使ったかということが明確になるように国と州がそれぞれの範囲内においてそれぞれに課税権を持つという考え方に立っております。
 以上です。
○山下栄一君 山本公述人にお伺いします。
 財政にかかわる憲法議論が、私は、もう憲法調査会でもそんなに活発に行われてこなかったという意味で、非常に今日は大事ないろいろ示唆に富んだ御意見、御提言だというふうに理解しております。
 それで、このまず決算審査、参議院における決算審査の重視という中で、この国会における決算審査を予算審議に反映させる、また具体的に予算に反映させるということ、これが非常に重要だということから様々な改革が行われ、今実施されておるわけですけど、おっしゃるように明文化がないという御指摘、ただ八十三条の解釈でそういうことも可能であるという、そういう御意見でございました。
 それで、今具体的に特に参議院では内閣に対する警告決議というのをやっておるわけですけれども、これもなかなか実効性を伴わない面が非常に多い。それを尊重するという観点、もうそういう規定もないわけですけれども、そういう尊重するような環境づくりということを具体的に実績の中でつくっていくという考え方もあると思うんですけど、警告決議の在り方で、山本公述人の様々な御経験から、何か工夫といいますか、もうこれは正に決議なので、この八十三条ともかかわることだと思いますので、何か御意見ございましたら、警告決議の在り方、勧告決議と言ってもいいですけど、ございましたらお伺いしたいと思います。
○公述人(山本清君) 現状の警告決議というのは、非常に具体的ではあるんでございますが、予算を組む側あるいは内閣の予算編成権等からいきますと、逆に非常にピンポイントと申しましょうか、本来の予算の大きな編成からいいますと少し、国会の関与としてはもう少しマクロ的なアプローチがいいのではないか。
 より具体的に言いますれば、例えばよく言われるような公共事業費であれば、それの配分比率でありますとか、あるいは大きな事業費目別の予算執行の結果を踏まえた具体的な予算の科目についての金額の例えば増減等も含めたような決議をすることが必要だろうと思いますし、同時に、警告決議以外にも、昨年度の決算委員会の参考人としても申し上げましたとおり、是非とも予算委員会と決算委員会の合同の審議をされたらいかがかというふうに思うわけでございます。
 以上でございます。
○山下栄一君 ありがとうございます。
 山本公述人に引き続きお伺いしたいと思いますが、この「私学助成への対応」というところですけれども、八十九条にかかわることだと思いますけれども、「非営利法人の活動が公共政策領域で重要性を増している状況に鑑み整合的なものにする措置が望まれる。」と。ここのところもう少しお考えをお伺いしたいわけですけれども、現状では学校法人である私立学校ということになっておりまして、NPO法人には私学助成の仕組みはございませんけれども、そういうことをNPO法人にまで広げるべきということなのか、その点のもう少し詳しい御説明をお伺いしたいと思います。
○公述人(山本清君) NPO法人までは実はこの段階においては考えておりませんでしたが、今後、財政の問題以外にも、国民の広く行政あるいは政府との活動等の協働概念を促進しようという見地からいきましたら、当然そのNPO法人につきましても財政支援があっていいのではないかというふうに個人的には思っておりますし、とりわけ学校法人に対します公財政の支援ということにつきましては憲法違反的な説も非常に強いわけでございますので、これは明確にそういう疑義が出ないように改正されるべきであるというふうに考えておる次第でございます。
 以上でございます。
○山下栄一君 最後に、引き続きお伺いいたしますけれども、憲法第九十条ですけれども、検査院の報告が内閣を通して行われるということになっておりますけれども、これを、特に私は検査院は三権、立法、行政、司法まで含めた三権から距離を置くというところに非常に大きな意義があるというふうに考えておるんですが、内閣を通さずに直接国会に提出するという、そういう国もあるようです。そういうことについてのお考え。
 それから、先ほどお触れになりましたけれども、この会計検査院をもっと活用して国会審議を充実させるべきだというふうに私も感じております。その際、検査院報告をどのように活用するかということと同時に、この検査院報告そのものをもっと改善していくという観点もあろうかというふうに思います。
 そういう意味で、この会計検査院の報告の在り方、合法チェックだけではなくて政策の有効性も含めた、そういうことが今の検査院法にもきちっと書いてあるわけですけれども、そのためには報告の在り方をもう少し工夫する必要があるのではないかと。国会審議にもっと積極的に活用できるような、そのような報告内容にするためにどのような報告の中身の改善点があるのかと。特定検査状況等の取組も今されておりますけれども、しかし、言いっ放しの面もあるわけでございますが、その報告の中身の改善、そして在り方についての立法府への資料提供の充実という観点からお伺いしたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) どちらに。
○山下栄一君 山本公述人。
○公述人(山本清君) まず第一点の内閣を経由して国会に提出するということの現行憲法上の解釈でございますが、レジュメにも書いてございますとおり、財政はその作用の本質からいきますと行政に属するということが多分影響しているんだろうと思いますが、当然、ダイレクトに国会に提出して悪いという言葉は全くないわけでございますから、精神的にはそういう考え方も当然あり得るというふうに考えております。
 第二点の検査報告の内容あるいは在り方等につきましては、これはやはり最近非常に厚くなっておりまして、多分先生方も、これぐらいのボリュームでございますから多分全部お読みになった方はおられないのではないか、ちょっとこれはオフレコになるかと思いますが、という気もしておりますが、むしろ重要なことは、やはり国民あるいは国会の先生方の御関心が強い領域にもっとポイントを絞って、例えば財政状況なら財政状況、あるいは財政の中長期的な予測であれば、それについて会計検査院としてもチェックをするといったことが必要であるというふうに考えております。
 以上でございます。
○山下栄一君 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、仁比聡平君。
○仁比聡平君 日本共産党の仁比聡平でございます。公述人の皆さん、本当にありがとうございました。
 まず赤石参考人に、憲法というのは一体何なのか、その憲法の本質とか目的とかいった辺りからお伺いをしたいと思うんですけれども、公述人の、憲法が持つ力を認識をしたという御実感に基づく陳述に大変感銘を受けました。私も、臨時国会でのこの調査会で、弁護士活動の中で何度も経験をしてきた憲法が光り輝く瞬間、その一つとして、ハンセン病の熊本地裁での違憲国賠訴訟の判決の瞬間のことを紹介をしたことがあります。その中で私が申し上げたのは、憲法がそういった人権侵害を断罪をする力を持っているということを示した瞬間であるとともに、権利のための闘いこそが人権保障の確立と発展の力であると。
 言い換えれば、国民の不断の努力、世論と運動というものこそがそういった人権保障の確立の力であり、憲法をしっかり生かしていく上での力なのではないかと思うんですが、そういった意味での、人間の尊厳を基礎としたその人権の保障というのが私たちの憲法のその基本にあるものであって、政府の、あるいは司法も含めた統治機構と言われる国家機構、それは、その人権保障を目的とした法の支配、そのための権力の分立ということが基本に据えられるべきものではないかと思うんですね。
 そういった憲法の本質のようなものを赤石公述人がどんなふうにお感じになって、そして多くの女性の皆さんと、今後この憲法をめぐる動きの中でどんなふうに考え、行動していかれようと思っていらっしゃるか、お伺いをしたいと思います。
○公述人(赤石千衣子君) 御質問ありがとうございます。
 私は法律の専門家でもございませんので、憲法の本質というのをどういうふうにとらえるかというのはちょっと少し重い質問ではあるんですけれども、やはり基本的な人権の尊重ということが本当に憲法の中に書き込まれている、そしてそれが本当に具体化していく、ハンセン病の訴訟もそうでありましょうし、私が先ほど紹介したいろいろな訴訟の経過もそうだと思うんですが、その中で人権がもう一度更に再構築されていく過程そのものが、その憲法が生かされるそういう瞬間だと思います。
 最近、国民の権利のみが非常に書かれていて、義務が非常に書かれていない憲法はいかがなものかというような議論もあるわけですけれども、元々憲法というものは、立憲主義というものがあるわけであって、国家の在り方を縛るものというふうに解釈すれば、やはり憲法の在り方というのは、基本的な人権を尊重し、そして立憲主義に基づいたものが必要だと思います。
 そして、女性たちはやはり、二十四条というものを見直しされるということに関しては、かなり敏感に皆さん、私たちがいろいろな集まりを持ちますと、予想以上にたくさんの方が集まってきて、これは一体どういうことなのだろうかという危機感を皆さん表明されております。本当にこういうところまで、まだ実現していないことが多いのに、二十四条を見直すということはとても許されないことではないかというふうに思っております。
○仁比聡平君 ありがとうございます。
 両性の平等の問題も含めてもう少し御意見をお伺いしたいんですけれども、時間が限られておりますので、次に高見公述人に、今の憲法とは何なのかというところからまずお伺いをしたいと思うんですけれども。
 公述人の御意見の中に、憲法を不磨の大典のようにとらえることはというくだりがございました。この憲法の一つ一つの条文が持っている歴史的な意義というのが私はあると思いますし、そこの中に込められているいろんな内実というものがあるのではないかと思います。
 今、赤石公述人からも言葉として出ましたけれども、立憲主義の下で、権力の濫用やあるいは独裁、そういったものの手を縛るという性格を憲法は私は持っているのではないかと思うんですけれども、そういった意味で、安全保障をめぐる論議に関しても不毛な憲法解釈論争という表現がありましたけれども、これは単なる憲法の字句にかかわる意義解釈の論争ではなくて、その時々の国際情勢の中で我が国が憲法に照らしてどういう道を進んでいくべきかという、すぐれて政治的な議論が国会内外で戦後行われてきたのではないかというふうに私は思っているんです。
 恐らくその辺りの高見公述人と私の言わば言葉の上での立場の違いみたいなものの前提になっているのが国際情勢についての認識ではなかろうかと思うんですが、まずちょっとお伺いをしたいのは、武力の行使、軍事力の現実の行使によって人命が損なわれ傷付けられる、あるいは国土が破壊をされ崩壊をするということ。例えば、今のイラク戦争の中において多数のイラクの市民の命が奪われ、あるいは傷付いています。そして復興が、大変厳しい荒廃が起こっている。そのような武力の行使の結果ということについて、公述人はどのようにお考えでしょうか。
○公述人(高見康裕君) お答えいたします。
 まず、憲法とは何なのかということにつきまして、国家の行動を規定し、ある意味で制約するという性質のものであるということについては私も同じ意見でございます。
 それで、不毛な憲法解釈論争と申し上げましたけれども、安全保障の問題を議論する際に考えるべきなのは、その行動が我が国の平和と繁栄の維持増進に資するかどうかという点からなされるべきであって、憲法の例えば第九条に書いてあることはすべてよろしくて、書いてないことはすべてよろしくないということにはならないのだろうと私は考えております。
 それから、後半の御質問ですけれども、武力行使によって人命が損なわれること、殺される、損なわれてしまうということは、私はそれを推進しようということは一言も申し上げておりません。私の改正案では九条一項は維持すべきだと申し上げておりますし、九条一項によって侵略戦争というものは明確に否定してございます。
 以上です。
○仁比聡平君 その国際情勢の中での国の在り方の問題として、前文の一部を削除した方がいいのではないかと、あるいは集団的自衛権の行使を、これを明記した方がいいのではないかというようなお話が、国連憲章とのかかわりも含めてお話がありました。
 それで、私、国連憲章の目指す国際社会の平和の秩序というものがどんなものなのか、公述人が取り上げられたようなところが大原則なのかということについても疑問を実は持っています。
 十九世紀に始まった勢力均衡論、軍事力均衡論に基づく軍事同盟の対立とそれによる軍拡競争、そしてその衝突というのが第一次世界大戦、第二次世界大戦という二度にわたる惨害をもたらしたということが国連憲章の根底にあるかと思いますし、一次大戦後の国際連盟の経験に始まった戦争違法化の国際法の歴史の流れというのも、そのような軍事力の均衡による平和という考え方、これを否定するところに本来立っているのではないかと思うんですね。
 国連憲章では集団安全保障が大原則だとされています。つまり、武力行使も武力による威嚇も禁止をし、軍事同盟による対抗をなくす、そして国連の下に社会体制を区別せずにすべての国が参加をしていく、そういった集団安全保障体制をつくろうというのがまず根底にあるのではないかと思うんです。
 公述人のおっしゃる五十一条の集団的自衛権の点というのは、これはあくまで例外的、一時的、暫定的なものとされておりますし、国連憲章七章の強制措置にかかわっても、まず非軍事的な措置を取る、できるだけ武力行使に至らない経済的な強制措置、その他の非軍事的な強制措置を徹底して行って問題の解決を図る努力を行う。どうしても非軍事的強制措置では問題が解決をしないときに最後の手段として軍事的な強制措置が考えられていると。そういう原則と、そして例外といいますか、そういう形になっているのではないかと思うんです。
 確かに、今私が申し上げたような枠組みが戦後冷戦構造の中で現実には機能させられてこなかったという歴史がありますけれども、ですが、冷戦構造が崩壊をして、そういった軍事同盟のブロックの衝突、対立とは違う可能性が世界に生まれ、そしてその戦後六十年の間に、この軍事ブロックには属さない、軍事同盟には属さない非同盟の諸国というのが旧植民地からの独立も含めて大きな世界の中での役割、流れに私はなっているのではないかと思うんですね。今の国際情勢の中で、むしろそういった国際社会の平和の秩序に対して危機をもたらしているのは、私は、アメリカの一国覇権主義であり、先制攻撃戦略であり、使える核兵器の開発、こういった流れではないかと思います。
 そういった国際情勢あるいは集団安全保障というものについて公述人がどんなふうにお考えか、お聞かせいただけませんか。
○公述人(高見康裕君) お答えいたします。
 国際連合というものが勢力均衡の失敗から集団安全保障を目指したということは、私もそのように考えております。ただし、冷戦後に新しい平和の秩序の可能性が芽生えたということについては、私は疑問に感じております。
 先ほども述べましたように、日本の周辺には様々な脅威が存在しておりまして、そのときに国連の集団安全保障にすべてをゆだねて日本の平和と安全が保たれるかというと、私は非常に疑問に思っております。そのような万が一の事態が生じたときに頼れるのは、私は国連ではなくてアメリカだと考えております。
 以上です。
○仁比聡平君 またいつかの機会に御意見が伺えればと思います。
 永久公述人に、時間がなくなって申し訳ないんですけれども、道州制の問題で、先ほどの同僚議員の質問の中で大きな国家を分けるという発想でというお話がありましたけれども、そういったことも含めて地方自治の本旨ですね、現行憲法での。住民自治、団体自治という、今の私たちの憲法が考えている住民が主人公として地方自治の担い手になっていくというような地方自治の本来の理念とか目的というのはどんなふうにお考えでしょうか。
○公述人(永久寿夫君) 住民自治があって団体自治があるというのはそのとおりだと思っておりますし、道州を分けるというような、するというようなことに関しましては、今の国の在り方をこうすることによって効率性を高めようということだけでございまして、だけと言うのも語弊がありますけれども、基本的に、その自治というものはコミュニティーがあって、それを自分たちでつくっていくんだ、運営していくんだという意味での住民自治ですか、というものはそのとおりだと思いますし、それをどんどんどんどん大きくしていくような形でコミュニティーができて、それが例えば国に対して団体自治があるんだというふうなことに関してはそのとおりだというふうに理解しておりますし、そう思っております。
○仁比聡平君 最後に、山本公述人に一点だけお伺いをしたいんですが、公述人の御意見、大変参考になりました。
 私が受け止めさせていただいたのは、つまり財政民主主義の徹底と、その中での国会の財政に対する民主的統制の強化が必要だという御趣旨にお伺いをしたんですけれども、それが現行憲法との関係で、私は八十九条については先生とはお立場は異にするんですが、それ以外の問題については憲法を変えるという必要があるのかないのかという点についてお願いできますか。
○公述人(山本清君) これは解釈権に属することでございますが、現行憲法上のいろいろな解釈を統一して、私が申し上げたようなことでいけるということであれば、現行憲法の解釈の中でお入れいただいて十分かと思います。
 要するに、重要なことは、私が申し上げたようなシステムが実際機能する上で現行憲法の解釈で制限があってはいけないというようなことでございます。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、田英夫君。
○田英夫君 社民党の田英夫です。
 最初に、赤石さんに伺いたいんですが、先ほどお話しになったことには出てこないんですが、申し訳ありませんが、最近、子供さんや若い人たちが荒れているといいますか、ついこの間は卒業生が先生を刺してしまったというようなことがありました。
 今から二十年ぐらい前に韓国の金大中さんとお話ししていて、日本では中学生が先生を殴ったそうですねって、我が国じゃあり得ないことですということを言われて恥をかいたんですが、一体こういう現象が起こってきているのはどういうことなんだろうと。中には憲法のせいにする人もいますね。しかし、権利ばかり主張して義務をないがしろにするからだという論があるやに聞きますけれども、赤石さんはどういうふうに思われますか。
○公述人(赤石千衣子君) 御質問ありがとうございます。
 少年犯罪の増加ということがかなり言われておりますけれども、統計上、ちょっと今データとかはありませんが、少年犯罪が増えているというデータはございません。で、凶悪犯罪が増えているということも言われておりますが、過去数十年のいろいろな少年犯罪の事例を見ましても、やはり中学生ぐらいの子が小さな子を殺害してしまうという痛ましい事件はこれまでも起こっておりました、過去にも。
 それで、やはり今はマスメディアが少年犯罪を非常にセンセーショナルに取り上げることによって、今の子供はどうしたことかといった世論が形成されているのではないかというふうに思います。それによって、今の憲法なり教育基本法がおかしいのだというふうな議論に何かこう誘い込むような議論があるのではないかなというふうに私は思っております。
○田英夫君 ありがとうございました。
 安全保障の問題について、高見さんも永久さんもお触れになりました。
 ちょうど、新しい憲法ができた、今、まあ皆さんは新しいと思っていらっしゃらないでしょうが、新しい憲法ができたというときに、私はちょうど高見さんと同じぐらいの年なんです、今の高見さんと。感動しました。しかも、私はあの戦争から生きて帰ってきたばかりで、大学に戻って勉強を始めているところにあの憲法が出てきましたから、特に九条などは本当に感動しました。ああ、これで生きていられるんだなと思って、あの戦争が終わった瞬間に、あの天皇の放送を聞いた覚えがあります。
 そんな状態の中でできた憲法ですが、私は、これは高見さん、さっき国家の在り方を示すものだと言われた。それは事実ですね。憲法というのはそういうものだと思います。
 現在に至ってもそうだろうと思いますが、日本国憲法は少し違うと思うんですね。特に、九条を書かれた幣原喜重郎さん中心の皆さんはそれだけの思いではなくて書いたと思います。
 いろいろ調べてみると、特に広島、長崎の体験が大きいようですけれども、広島、長崎の原爆が出てきた以上、人類はもはや戦争をしてはならないという言葉を幣原さんが残しておられます。
 結局、特に日本はもうそれを是非守らなければいけないという気持ちでマッカーサー司令官のところにそれを持っていかれた。後にマッカーサー司令官が一九五一年のアメリカの上院の外交委員会で証言をして、小さな老人の手を思わず握り締めたということを言っているんですが、その結果が九条だろうと思います。
 そういうことが何を意味するかというと、私は、ただ国の在り方を決めただけじゃなくて、人類の未来に対して世界に向かって一つの態度を示したと言ってもいいぐらい、特に私の感動はそういうものでしたが、今考えてみますと、もう一つ、地球の環境の問題、京都議定書のようなものをつくらなければならないという問題ですね。アメリカはこれを守らない、脱退すると言っている、入らないと言っている。この問題は、やはり人類の未来を考えているか考えていないかという問題、つまり、今人類は、戦争というものを、核兵器を使った戦争というものを真剣に考えなくちゃいけない、もう一つは、この人類の住んでいる地球を守るということを真剣に考えなくちゃいけない。
 もう五十年近く前、日本の第一次南極観測隊が南極へ行ったときに、実は私も隊員だったんですけれども、地球物理の専門家は、今のままでは地球が駄目になると、人類を始め生物が駄目になると真剣に言っていました。このスケールの問題なんじゃないかと思うんですね。
 そういう意味でいうと、世界に向かってその考えを広げる役目が今我々にあるんです。幣原さんたちがそれをつくってくださって、それを我々がむしろ広めて、世界に広める責任を持っているんじゃないかと、こう思っているんですね。ですから、九条というものは、ただ戦争をしないと自分たちで自分に言っているだけの話じゃないと、こう感じているんですが、お二人から、こういう考えに対しての御意見を伺えればと思います。
○公述人(高見康裕君) お答えいたします。
 まず最初に、憲法九条は幣原元首相の願いであったというお話がありましたけれども、私は、憲法九条、少なくとも第二項に関してはアメリカが押し付けたものだと考えております。ただし、それが日本の厭戦感情もありまして、ある程度積極的に受け入れられたということは事実だと考えております。
 それから、九条を世界に広めるべきだというお話でしたけれども、九条一項といいますのは、先ほど申し上げましたように、不戦条約に由来するものでありまして、世界の多くの国に既に受け入れられているものだと考えます。
 ただし、九条二項というものは日本に特殊なものでありまして、これは日本が島国で安全保障に対する考え方が不十分であることを示していると思います。日本というのは十三世紀の元寇と第二次世界大戦以外に侵略された経験がございません。したがって、自分から侵略をしなければ侵略されないというふうな誤った教訓を導き出しがちでありますが、現在の国際情勢を考えまして、そのような考えは取るべきでないと考えております。
 それから、京都議定書、アメリカが入っていないということについては、日本は議長国としてこれは参加するように説得していくべきだと思っております。ただ、この背景には、中国やインドといったCO2排出大国が加入していないというような、この議定書そのものの不完全性というのもありますので、より実効性が高い環境のための取組というのも同時に進めていくべきだと私は考えております。
 以上です。
○公述人(永久寿夫君) 人類は戦争をしてはいけない、ならないというのは、本当に将来に、未来に対するメッセージとしては非常に理想的なことだろうというふうに思います。
 しかし、実際に第二次世界大戦後の国際状況を見ましても、あちらこちらで戦争が起きている。そうした中で、実際に安全を担保するためには、我々は戦争にコミットメントしないんだというようなことだけでは我々の安全というものは守れないのではないかというふうに思います。実際、九条があったということというふうに解釈される方もいらっしゃると思いますけれども、むしろそうではなく、日米安全保障条約と米軍のプレゼンスがあったからこそ日本の平和というものは保たれてきたのではないかと思います。
 そういう観点からして、昨今、また国際環境が変わってくる中で、憲法の在り方もこれから現状に照らした形で、適応した形で変えていくべきであろうというふうに私は思います。
 二つ目の環境の問題に関しても、アメリカ並びに中国その他の国々が参加していないというような形においてのこの問題というものは不十分なものだというふうに思いますが、そうした国々に対して、守らせるというような何か強制的なといいますか、仕掛けというものが必要なのではないかというふうに思います。理念だけを述べていても実際にそれが実現するわけではないと思いますので、そうしたことを、仕掛けを考える必要があるのではないかと思います。
 以上です。
○田英夫君 もう一つ、九条というのを大事にただ持っていると、それで護憲だと言っていても、これは先ほどから申し上げたような問題をきちんと責任を果たしているとは言えないんじゃないか。もっと具体的に世界に向かって広げなければならないという意味から、私は、日本が国民の皆さんの支持を得て国会で議決をして、それを政府が世界に向かって、もう戦争をしない国なんだということ、つまり不戦国家だと。不戦条約というのができたのは一九二九年ですから、随分昔から不戦ということは言われて、しかもそれに多くの国が賛成をしながら、実は九条の一項はその流れをくむものだからと認める方が多いにもかかわらず、戦争が続発していると。こういう状況を断ち切るためにも、不戦国家宣言を日本政府が世界に向かって発するという状況をつくっていくということを考えているんです。
 その考えのもとになったのは、実は今から五、六年前にモンゴルへ行きました。モンゴルは一九九二年に非核国家宣言というのをしているんです。考えてみれば、これは日本が先にやらなければならなかった。その趣旨は、要するにモンゴルは核を持ちませんというだけのことなんですが、それを大統領が宣言をして、国連総会に持ち込みまして、かなり時間は掛かったようですが、皆の共感を得て、一九九八年にモンゴルは不戦国家であるということを国連総会が承認をしております。世界で唯一のそういう非核国家の称号を受けた。
 この考え方をそっくり適用をして、日本は不戦国家であるという宣言をして、それを国連総会で承認をしてもらうという形で、もう日本は戦争には一切参加しないということを世界じゅうに認知させるということも一つの方法ではないだろうかということを考えています。
 時間が来てしまいました。山本さん、申し訳ありません、御質問をする時間がなくなりました。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言ごあいさつを申し上げます。
 公述人の方々には長時間にわたり有益な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。(拍手)
 以上をもちまして公聴会を散会いたします。
   午後四時三十七分散会

ページトップへ