第162回国会 参議院憲法調査会 第4号


平成十七年三月二日(水曜日)
   午後一時二分開会
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   委員の異動
 二月二十五日
    辞任         補欠選任
     白  眞勲君     松岡  徹君
     山本  保君     魚住裕一郎君
     渡辺 孝男君     白浜 一良君
 三月一日
    辞任         補欠選任
     国井 正幸君     椎名 一保君
     魚住裕一郎君     荒木 清寛君
     白浜 一良君     高野 博師君
     山口那津男君     加藤 修一君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         関谷 勝嗣君
    幹 事
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                武見 敬三君
                舛添 要一君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
                簗瀬  進君
                若林 秀樹君
                山下 栄一君
    委 員
                秋元  司君
                浅野 勝人君
                岡田 直樹君
                河合 常則君
               北川イッセイ君
                佐藤 泰三君
                桜井  新君
                椎名 一保君
                田村耕太郎君
                藤野 公孝君
                松村 龍二君
                三浦 一水君
                森元 恒雄君
                山下 英利君
                山本 順三君
                江田 五月君
                喜納 昌吉君
                郡司  彰君
                佐藤 道夫君
                田名部匡省君
                高嶋 良充君
                富岡由紀夫君
                那谷屋正義君
                前川 清成君
                松井 孝治君
                松下 新平君
                荒木 清寛君
                加藤 修一君
                高野 博師君
                仁比 聡平君
                吉川 春子君
                田  英夫君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
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○会長(関谷勝嗣君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、これまでの調査を踏まえ、日本国憲法について、委員相互間の意見交換を行います。
 まず初めに、各会派からそれぞれ御意見をお述べいただきたいと存じます。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は順次御発言を願います。岡田直樹君。
○岡田直樹君 ありがとうございます。自由民主党の岡田直樹でございます。
 憲法の前文について意見を申し述べます。
 私は今、自民党新憲法起草委員会の前文に関する小委員会で事務局を務めておりまして、先日、党内論議のたたき台又は論点整理ということでざっとまとめたものが早速新聞各紙で様々に論評をされていまして、多少戸惑いを覚えておりますけれども、それは同時に、憲法、特に前文に対する関心が非常に高いことの表れであろうと、こういうふうに受け止めております。今日は、自民党の考え方ではなくて、参議院に入ってまだ半年の私のあくまでも個人的な意見を自由に申し上げたいと思います。
 結論から申せば、現行憲法の前文にうたわれておる国民主権、平和主義、基本的人権といった人類普遍の原理を揺るぎないものとして確かに受け継ぎながら、しかし前文は全面的に書き直すべきであろうと考えております。
 第一に、今の前文の平和主義は大変高い理想を掲げた良きものであると思いますけれども、中には理想を通り越して空想にすぎない部分もあるのではないかと、こう思うわけであります。憲法九条についても、一項は理想として良いものですが、二項は空想にすぎない。理想は堅持しながら空想は排除すべしと考えておりますが、前文についても同じことが言えると思います。
 特に前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と、こううたわれておりますけれども、自国民の安全と生存を他国の善意に依存し、ゆだねてしまうというのは、いかにも人任せのようであり、どうしても無責任な印象を免れないのであります。なおかつ、世界には到底平和を愛するとは言い難い国家や勢力が現に存在いたします。
 私は、平成九年、当時の自社さ連立と言っておりました三党の訪朝団に新聞記者として同行をし、北朝鮮を取材いたしました。田先生もその訪朝団のメンバーでいらっしゃって、いろいろと教えていただいたものであります。翌十年には自民党単独の訪朝団が行きまして、そのときは桜井先生もいらっしゃいました。私は、これにも同行をしました。そのとき、北朝鮮という国が大変な個人崇拝に基づく恐るべき軍事独裁国家である、そして人権侵害国家であるということを肌で痛感しまして、自分もそれまで記者としての認識が甘かったということを深く恥じ入ったものであります。
 日本人が全体として、拉致という北朝鮮の国家的犯罪、これは日本の主権の侵害であり、すなわち侵略であると思いますが、これを見過ごしてきた、そしてその結果、自国民の安全も生存も守ることができなかった。また、さかのぼって言うならば、戦後の帰国事業において多くの在日朝鮮人や日本人妻たちの渡航、すなわち地上の楽園というプロパガンダを信じて多くの人が実際には自由も人権もない生き地獄のような国に渡るのを見過ごした、このことについて私たち日本人は多少なりとも自責の念を持たねばならないと思います。
 今の前文にこうあります。「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」、こううたっておりますが、日本人拉致被害者が味わった恐怖、そしてその安否すら分からない身の上を思うとき、また、現にあの将軍様の圧制の下で罪もない北朝鮮人民が恐怖と欠乏にうめいていることに思いを致すとき、日本人はこの憲法の前文をほごにしてきたと言わざるを得ないと思います。
 また、裏を返せば、理想的に過ぎて空想的な憲法によってはこの厳しい国際社会の中で国民の安全と生存を確保することは困難であると考えます。
 今、戦後六十年の歴史も踏まえて、憲法九条とともに前文も見直すときが来たのだと思います。我々の安全と生存は、国連や同盟国とともに我々自身で守らねばならない、こう思います。
 かつての戦争の悲惨さを胸に刻み、二度と他国を侵さないことを改めて誓った上で、もし日本を侵す者があれば、我々は断固として自衛する権利と力を有することを内外に明らかにすべきだと私は思います。
 さらには、日本国民のみが基本的人権を謳歌して、他国における人権じゅうりんに目をつぶることがあってはならないと思います。その点で、先ほども挙げました、憲法前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と言い、また、「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と。これは至極当然のことでありますが、私はこれでもまだ足りないと思います。私は、日本人が進んで国際平和と人権擁護に貢献する決意を新しい憲法の前文にうたい上げる必要があると信じます。
 もう一つ、前文を書き改めるべき理由を簡単に申し上げると、もうもはや繰り返すまでもないことですが、これがアメリカの占領軍によって強いられた憲法であるという点であります。なるほど、形式的には帝国議会の審議を経ておりますが、占領軍から示された案の骨格を変えるような自由意思は当時の日本国民には存在しませんでした。
 当時、憲法起草に加わったベアテ・シロタさん、この参議院の憲法調査会においてもこう証言しておられます。「多分その一週間でつくった憲法はいい憲法だと思います。」。しかし、それはマッカーサー元帥もホイットニー准将もあるいはケーディス大佐も同様に、一週間でまずまずのでき栄えの憲法ができた、こう思っていたのではないかと思います。
 たとえ民間人もいたとはいえ、軍人を中心とする少数の人々の手で、しかも一週間でまとめられた憲法を六十年近い間見直すことがなかったというのは世界的にも珍しく、余り名誉なこととは言えないように存じます。
 さかのぼって、明治憲法も国民の代表者によって定められたとは言い難い。結局、二十一世紀を生きる我々が、我々日本国民がいまだに一度も自らの意思で主権者として憲法を制定できていない事実は大変残念であります。今こそ歴史上初めて日本国民が民主的な手続を踏んで、そして自由な意思を持って、だれにも強いられることがなく憲法を定めるときであり、そのことを、前文にその歴史的な意義をうたうべきであると考えています。
 その際、私は、前文に日本の自然、歴史、伝統、文化といったものを織り込むことも良いと思いますし、また、未来に向かって生きる日本人の指針、例えば地球環境の保全といったテーマも前文にはふさわしいものだと考えております。これからも日本国民は様々な苦難に遭遇すると思います。そうしたときに国民が心を一つにして頑張ることのできるような、そんな何か心の応援歌のような、分かりやすく美しい日本語の前文を持ちたい、これが私の念願であります。
 以上、私見を申し上げました。どうもありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、愛知治郎君。
○愛知治郎君 自民党の愛知治郎でございます。
 もうこの終盤になりまして、この調査会、自由討議を私自身させていただくということで、心より光栄に、感謝に思います。ありがとうございます。
 ところで、前にもお話ししたことあるかと思いますけれども、五年ほど前ですかね、この国会ではないんですが、議論で、この千年紀、ミレニアムという話があったんですが、あのときに私自身もずっとかなり、今でもそう思っておりますけれども、前千年紀ですね、最大の発明は何だろうかという話がありまして、いろんなものが言われていましたけれども、私は紛れもなく憲法だと思います。といいますのも、この精神というか、この憲法の歴史自体が、ある個人が、例えば発明品であれば特定の科学者の方がつくってある、一部の人たちがつくってあるとかいうことがありますけれども、憲法自体は、まあ基本的には西洋の歴史ではあるんですが、多くの人たちがかかわる人類の歴史と言ってもいいのではないかというふうに思います。ですから、私自身はこの精神を本当に大事だと思います。
 九十七条で、日本国憲法ですが、この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の成果という言葉、表現を使っておりますけれども、やはりこの精神を大事にするべきだというふうに思います。
 ただ、時代に合わせていろんな問題が日本国憲法も出てきていることも事実ですし、前向きにいろいろ検討しなくちゃいけない、改正しなくてはいけない部分も多々ございますので、特に私自身はこの権利、義務に関して私見を述べさせていただきたいというふうに存じます。
 まず、総論なんですが、十二条と十三条にございます。改めて条文を読み上げますけれども、十二条、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」、これが一点。「又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、」、これが二点。「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と、これが十二条。十三条が「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」というふうにうたっております。十二条で自由及び権利の保持の責任ですね、また濫用の禁止、利用に対しても責任があるということをうたっておりますし、十三条、包括的基本権とまた公共の福祉という話をされております。文章としてなかなか分かりにくいという批判もあるかとは存じますけれども、少なくともここに権利とともに義務を内包している、責任というのもしっかりと果たしていくべきだということはしっかりとうたっていると思います。
 しかしながら、よく言われることはこの公共の福祉ですね、義務やその責任に対してどのような制限を受けるのか、この公共の福祉の概念がなかなか分かりにくい、あいまいであるという批判がなされております。この点では改善をしてしっかりと分かりやすいものにすることはできるんではないか、検討するべきではないかというふうに思います。
 さて、ちょっと個別の議論なんですが、三点ほど時間の関係上話をさせていただきます。
 一つは信教の自由、もう一つ表現の自由、犯罪者の人権に関してでございます。これらは、歴史的に非常に抑圧されることが多かった、守られないことが多かった、だからこそ特別に規定を、保護の規定を置いてあるんだというふうに私自身は理解をしております。先ほどの十二条、十三条だけでも概念的には十分であるが、特別にしっかりとした保護規定を置いているということであります。しかしながら、この権利の保護を重要視する余り、時によってほかの人権を侵害をすることが多々出てきているんじゃないかというふうに考えております。
 表現の自由においては、歴史的に言論弾圧であるとか、思想の、言論の統制ですね、必要な情報がなかなか国民に伝わらなかったり、いろんな面でこの表現の自由、阻害されてきた経緯があります。だから大事なんですが、現代において、その代わりに、やはり個人の名誉であるとかプライバシーの侵害が行われたりと、また青少年の健全な育成に悪影響を及ぼすような情報がはんらんしてしまうといったような問題が出てきております。この点では、新しい人権としてしっかりと憲法上加えていく必要性もあるのではないかというふうに思います。
 また、犯罪者に関してなんですが、過去においては、例えば政治犯であるとか、いろんな意味で国家権力の濫用をされてこの人権が守られなかった経緯があるので、いまだこれは非常に重要な人権規定だとは思いますけれども、一方、やはり犯罪被害者の方々、犯罪者に対する保護規定が余りにも偏り過ぎちゃって被害者のことを軽視しているんじゃないかという批判もあります。この点で、憲法上しっかりとした規定をまた改めて検討する必要があるのではないかというふうに思います。
 次に、信教の自由なんですが、これは過去に政治的に利用されたとか、それから宗教弾圧があったとか、いろんな話がございます。やはり信教の自由、非常に重要な項目であると思います。しかしながら、この今の現行憲法上、二十条にもこれで完璧だということはないんじゃないかというふうに思います。二項の問題というのは一点ありますし、私自身が考えるのは特に三項ですね、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」というふうにございます。
 ただ、もちろんその信教の自由を守っていくこと、本当に重要なんですが、この宗教教育に関してではありますけれども、やはり私自身も義務教育を通じて、今まだ三十五歳でありますけれども、ずっと見てきて、今この仕事をしてはっきりと分かるのが国際社会、国際化と日本が言われて、世界的な潮流で、そうなんですけれども、いろんな国の文化や習俗ですね、民族など地域の事情を知る上で宗教をやはり知っていかなければならない、どうしてもその背景にある密接不可分の問題でありますから、いろんな宗教的価値観、どのようなものかということをやはり学んでいかなければならないんじゃないか。もちろん、特定の宗教をこう広げるために国がかかわってやるのは良くないとは思うんですが、全般にわたるその知識、考え方を学んでいく必要があるのではないかと思います。
 端的に言いますと、この二十条の三項の宗教教育、これすべての宗教教育だめだというふうに見えるんですが、特定のという一言を入れれば、偏らないで全般的に学べるという形にできるんではないかというふうに思います。
 もう一点、新しい人権についていろいろ言われておるんですが、例えば環境権について言われている話があります。
 私自身は、この環境、非常に重要な課題だと思うんですが、やはりできるだけシンプルなものがいい、新しいものはできるだけ入れない方がいいんじゃないかと、これは私見でありますけれども、考えております。なぜかというと、先ほども言ったように、特別に侵害されてきたという経緯があったものというのは規定として載せておりますけれども、極端な話、環境に関しては本当に国また国民挙げていろんな取組を現在もしております。非常にこれは取組がいい取組をされてきていることでもありますので、十分ではなかろうかというふうに思います。
 まあ絶対的に否定するわけではないんですが、もし導入するのであれば、経済活動の自由との調整の観点から、そちらの経済活動に対する配慮も必要ではないかというふうに思います。なぜならば、やはり日本の経済大国路線の維持を今後ともしていくべきだからだというふうに考えております。ただ、この点についても、政府として環境と経済の両立、統合という方針を出しておりますので、しっかりとした国の取組も既にされているから十分ではないかというふうに思います。
 最後になりますが、これらの規定、なぜ必要かといいますと、基本的には、人権の規定、特別に置いたということは、国会に対する、特に立法ですね、立法その他の国政に対する不信というのもあります。本当であれば、十二条、十三条のような包括的なものさえあって、あとは法律なり国政のいろいろな機関がしっかりと取組をしていれば十分であるはずなのに規定を置かなければならなくなった、この経緯ということをやはり重要視すべきだと思います。何を言いたいかといいますと、やはり我々、特に立法府、国政が、しっかりと国民の信託を受けて、それにこたえられるような活動をこれからもしていくべきだと思います。
 まあ、いろいろお話ししたいこともあったんですが、時間が来たのでこの程度にしておきたいと思いますが、先ほどの信託をしっかりと受けて実現していくためにも、特にこの参議院の役割というのも重要ではないでしょうか。
 以上であります。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、椎名一保君。
○椎名一保君 お許しをいただきまして、本日、国井委員の差し替えで出席をさせていただいております椎名でございます。よろしくお願いいたします。
 内閣に関する発言をさせていただきます。
 議会制民主主義を取る以上、政策決定に当たり議会の多数の同意を得なければならないことは当然でありますが、現在の政策決定システムでは、各省庁と内閣、政党との関係、一律の国務大臣の出席義務、会議の定足数など、最終的に議会の同意を得るに至るまでの間に余りにも多くの時間を要するシステムになっているのではないでしょうか。政治主導の政策決定システムをより徹底させるとともに、そのプロセスを大胆に合理化し、時代の変化に即応してスピーディーに政治判断を実行に移せるシステムとすべきであると考えます。
 まず、現行憲法では必ずしも明確となっていない事項について憲法上明記すべきであります。例えば、閣議における内閣総理大臣のリーダーシップ、衆議院の解散権の行使主体及び行使要件などが挙げられます。
 総理のリーダーシップについて発言をいたします。
 現行憲法は、「行政権は、内閣に属する。」と規定し、合議体に行政権を帰属させる議院内閣制を採用しております。現在の規定では、内閣総理大臣に帰属することが明らかな権限が余りにも少なく、閣議にかけずには何もできないような状況であるとして、総理のリーダーシップを発揮できるような環境を整えるべきであるとの批判が古くからなされております。これに対して議院内閣制は、あくまでも総理個人ではなく、合議体としての内閣を行政権の主体とする体制であるため、実質的な大統領制に近づけることに慎重な意見もありますが、総理を頂点にリーダーシップが発揮され、また責任を負う体制が必要であると考えます。特に緊急時など機動的な意思決定ができるように、閣議の在り方等を考え直してもよいのではないかと思われます。
 そこで、閣議の位置付け、対国会の責任の在り方等、内閣法の規定の在り方を考え直す必要があると思います。
 まず、現在は、内閣法三条、「各大臣は、別に法律の定めるところにより、主任の大臣として、行政事務を分担管理する。」の規定があります。それぞれの大臣がそれぞれの主務について最終的な決定権を有する感のある分担管理原則により、結果として総理の地位が弱められていると批判されてまいりましたが、憲法に触れるという問題もあり、一連の行政改革では手付かずに終わりました。新たに憲法上も、各主任の大臣が首相の下にあり、首相ないし閣議により決定される方針の下にあることを明確化すべきであります。
 また、内閣法六条の「閣議にかけて決定した方針に基いて、」という縛りがリーダーシップを妨げているのではないかと言われております。閣議における内閣総理大臣のリーダーシップは、現在の内閣法の制定過程においても、閣議を主宰することは、議案の設定、発議を含めリードするという趣旨で、単なる司会者以上の意味が込められていたという経緯もあります。総理のリーダーシップを確保する環境が憲法の明文上も明らかになるように改正を図るべきであると考えます。
 総理指名、内閣の構成について申し上げます。
 内閣総理大臣は第一院、執行の府である衆議院の中から選ばれるべきとの意見には一定の理があると思われますが、総理の指名権は、内閣が国会に対して責任を負うことの一つの表れであり、議院内閣制である以上、衆参両院とも有するという現行の規定を維持すべきであります。
 また、国務大臣に参議院議員が就任できることについても、これまでどおり維持すべきであると考えます。
 首相の公選について申し上げます。
 首相公選制についても議論がありますが、唯一の採用国でありますイスラエルの失敗の例にかんがみ、慎重な検討が必要であろうと思われます。ただ、首相の選出過程をより透明にし、その地位に民主的正当性の根拠をより強く与えるという意味では、イギリスの方式を参考にするのも一案であると思います。
 政権選択選挙である衆議院の総選挙の際に、政党は内閣総理大臣候補を明示して選挙を戦うように義務付けることにより、首相候補の選出に有権者が関与する仕組みを採用することを提案いたします。
 解散権について申し上げます。
 解散権については、現在の六十九条所定の場合以外にも、これに匹敵するような重大な事態が生じた場合に、例えば議会制民主政治の運営上、新たに国民の意思を問うことについて客観的かつ十分な理由があると認める場合には、理由を明示して衆議院を解散できることを明文で規定すべきであります。
 天皇陛下の国事行為を定める条文を利用して解散することは、天皇は「国政に関する権能を有しない。」としていることとの整合性からも問題があり、解散権の主体と要件について明文の規定を置き、六十九条の場合以外についても、所定の要件を満たす場合には、内閣ないし内閣総理大臣は解散できる旨の規定を置くべきであります。
 その際、例えば参議院議員が半数しか在職していない場合には解散を避けるべきとの議論もあります。解散権の行使の限界についても慎重な配慮が必要であると思われます。
 国民投票について申し上げます。
 個別の重要な政策課題につきましては、内閣総理大臣がイニシアチブを取る国民投票制を採用してはどうかという意見もあります。現行憲法は代表民主制を基調としており、新憲法においても基本的な構造は踏襲されるべきものと考えますが、政治上大きな影響力を持つこともあり、規制する法制がないままに事実上頻用されることは問題であります。あくまでも、補完的役割を果たすものとして検討する余地はあろうかと思われます。
 さらに、憲法の規定を見直すべきものとしては、総理大臣以下の国務大臣の国会への出席義務、法律案の提案権の所在に関するものがございます。
 総理大臣以下の国務大臣の国会への出席義務について申し上げます。
 大臣の出席義務そのものは議院内閣制のシステムからは削除をすべきではないと思います。しかし、政治主導を確立しつつ国会を円滑に運営するには、大臣に対する時間的拘束を緩和し、副大臣などの代理出席でよいとするなど、憲法の規定を見直すべきであると思います。
 ただし、副大臣の憲法上の位置付けなどについては今後検討する必要があります。具体的な職名を出すとなると憲法上定義が必要になる等の問題もあります。第一義的には、国会等の要求がある場合は自ら出席しなければなりませんが、自ら出席することが困難なやむを得ない事情がある場合は、法律の定めるところに従い代理の者を出席させなければならないとする規定を置くべきであります。
 法律案の提案権について申し上げます。
 法律案の提案権は国会議員に限定する方向で憲法の規定を見直すべきであります。現在の規定では、議案に法案も含めて解釈されておりますが、位置付けがあいまいであります。国会は立法府であり、行政府である内閣はあくまでも法律を執行する機関であるということを明確にし、政治主導の国政を推進する観点から、議員に限定することが望ましいと思われます。
 もちろん、実際には複雑化、多様化、専門化した国民のニーズをすべて国会が掌握し、立法に反映させることは非常に困難であります。国務大臣たる国会議員が内閣の意を呈した法案を提出することになります。また、予算関連法案については、内閣の予算編成権との関係もあり、別途の取扱いが必要となるでありましょう。
 最後に、委任立法について申し上げます。
 また、内閣ではなく議員が実質的にも法案の提案主体となる場合には、行政による円滑な執行を確保するため、委任立法が重要になってくると思います。白紙委任的なものが許されないことは論はまたないが、委任の趣旨、目的、範囲を事前に明確に法律の形で定めることを要求するとともに、諸外国の例に倣い、事後的に国会がチェックしていく仕組みを確立することも必要になると思います。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、山下英利君。
○山下英利君 自由民主党の山下英利でございます。本日は、意見を述べさせていただく機会をいただき、本当にありがとうございます。
 私からは、改正と最高法規といった点につきまして私見を述べさせていただきたいと思います。
 憲法、すなわちこの今近代憲法というものが本当にいかに我々国民にとっての規範であるかと、また、それを変える、改正をするといったことに対して我々がどういった判断でこの憲法を考えているのか、このことをしっかりと明確にしていかなければならないと、私はそのように思っております。近代憲法の大原則であります基本的な人権、これを人間価値の尊厳といったところに基礎を置いた、この民主主義を基盤とした国の最高法規という位置付けである憲法というものをしっかりと我々は考えていかなければいけないと、私はそのように思っております。
 その中で、憲法というものは、そういった今申し上げたような大変高い高度な安定性が求められている、そういった側面もある一方では、国を取り巻く様々な環境の変化、こういったものに対して的確に対応するという、そういった可変性というものも求められている。この二点、ある意味におきましては非常に難しい二点を克服していく、一般の法律とは全く異なる改正手続を置く必要があるかどうかと。そういった克服のために、やはり憲法というものの改正手続を一般の法律とは異なった手続とするという位置付けが今の現行法の中での改正手続に盛り込まれているわけでございます。これはいわゆる硬性憲法といったような言われ方をしておりますけれども、改正手続においては、一般の法律に更に加えたハードルを課するということが今の現状であります。
 しかしながら、現行の憲法では、このハードルというものが実際、発議と、国会での発議に当たってのハードルという形と、そして国民投票という形との中において一つのずれが私自身には感じられるわけであります。いわゆる、これを変えやすいといういわゆる軟性憲法という意味合いではなくて、むしろ国会での発議と、そして国民投票といったような形の二重の改正手続の中にある統合性というものを、やはり私はしっかりと位置付けなければいけないと。
 すなわち、国会での発議に当たりましては、現行、衆参両院それぞれの三分の二以上の賛成が必要とされております。しかし一方、これが国民投票という形になれば、国民の過半数が改正に賛成の意を表していてもなお議会においては発議ができないという状況になっているのが九十六条、そういった意味を私は考えてみなければいけないと思います。これはかえって国民の憲法改正権を妨げることになるんではないか、国民主権というこの憲法の在り方にあって、やはりここは国民主権にある意味反しているとも言えるのではないかと、そのように思います。したがって、この発議に当たっての必要な議決権をやはり過半数に引き下げて、その上で国民投票に付すということが、現行の憲法の改正規定、九十六条においては私はあるべき姿ではないかと、そのように思うわけであります。
 また、憲法の制定権力が国民にあるとすることは、これは国民主権の上からも、あるいは議会制民主主義を取る中でもこれは妥当なことでありますし、なお、憲法改正という国民主権に直接関係する問題においては、直接国民の意思によってこの改正を要求されるべきという立場から見ても、私は、この憲法を改正するという発議を国会がし、そして国民がその改正に対しての意思を決定するということが必要であるという考え方から、議会が国民の意思を代置する、代わって行う、よく言われる特別投票による議会決定によって国民投票を回避するといったようなことは私はなく、すべて改正においては国民投票という形に置いていくのが妥当であると、そのように考えておるところでございます。
 また、この改正という問題におきましては、全部改正でありましても一部改正でありましても、その立場は同じと考えております。したがって、基本原則について改正を禁止している規定を設けている国がある、そういった国もございますけれども、私は、やはり国民主権、国民が意思を決定するという点からそういった規定ということは考えずに、改正としてとらえることができる考え方の下に、今の三分の二から二分の一、過半数ということでの発議、そして国民投票による過半数による承認ということがこの九十六条において、これからの憲法を考える上で必要ではないかと、そのように思っております。
 そして、憲法が最高法規であるということを改めて位置付ける、そういった意味におきまして、この九十八条における、現行憲法、これに私は条約というものを考えなければいけないというふうに思っております。条約と憲法との優越についてはいろいろな御議論がございます。国内的な効力についてこれは憲法が優位すると、そのように考えませんと、国会の過半数で成立する条約によって憲法を改正すると言える、そのようなことも言えることになります。すなわち、憲法改正は国民投票を必要とする国民主権の原理と矛盾してくることになるんではないかと、私はそのように思います。したがって、違憲審査権の対象としてこの条約を追加し、憲法の優位性を明記するべきではないかと、そのようにも考えております。条約の国内的な効力に対しては、やはり憲法が最高法規としてのその優位性を持つというところがこの九十八条における私は必要な部分であると、そういうふうに思っております。
 九十七条の基本的人権の本質、これにつきましては、国民の権利と義務という観点の中からしっかりとその人権というものを担保すれば、この九十七条の在り方については、私は前文ないしはその該当する章ということに対して異論を持つものではありません。この九十七条が、これがそのまま残るということについては、これはやはり最高法規であるということを改めて位置付けるための必要な手続ということではありますけれども、私は、ここに書かなくても国民の権利と義務というところでしっかりと明記をすれば、私はそれによって形式的な最高法規性は保たれると、そのように思っております。
 そして私は、必要なことは、国民がすべて、この憲法に対しての憲法尊重擁護義務をしっかりと憲法に明記し、そしてこの憲法をよりどころとして、これから我々の将来の姿を国民が一致団結できるような、そういった親しみのある身近な憲法としていただきたいというふうな願いを持って、私はこの改正と最高法規性についての意見を申し上げさせていただきました。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、江田五月君。
○江田五月君 本院憲法調査会は二〇〇〇年の通常国会から活動を始めました。私は立ち上がりのときの民主党・新緑風会所属の幹事で、運営検討委員会の委員でした。二〇〇〇年一月二十六日に会長の村上正邦さんが幹事懇談会を招集されましたが、冒頭から立ち上がりの仕方につき激突し流会、二月八日に私外二名の幹事で村上会長にお会いしましたが、怒号が飛び交うのみ、大荒れの幕開けとなりました。以来五年余が経過しました。極めて良識的で建設的な議論が進められてきたと思います。
 確かに、私たちの中には意見の違う部分もたくさんあります。しかし、私は、総じて言えば、私たちの中には意見の一致するところの方が圧倒的に多く、憲法六十年の歩みの中で、この憲法が意識するとしないとにかかわらず私たちの中に定着してきていると思います。例えば、立憲主義への疑問はどこにもありません。平和主義、民主主義、基本的人権という三原則についても、内容の微妙な違いはともかく、この尊重はだれもが肯定しています。
 この間、私も折に触れ発言してきました。調査の締めくくりに当たり、できるだけ重複を避け、最後に今思うことを述べておきます。
 従来は、現行憲法の制定経過の評価に大きな違いがあり、占領軍による押し付けだから返上して自分たちの憲法をつくろうという主張と、国民の知恵も加わった立派な憲法だから守ろうという主張が激突していました。
 憲法は、もちろんそれぞれの主権国家がつくるものですが、国家も世界の大きな歴史の流れの中で存在してきたのであり、しかも主権国家の相互依存関係は次第に強くなってきております。世界の歴史は単に移ろいゆくものでなく、自由、平和、人権、連帯といった価値につき、世界じゅうの共通認識ができ、それが強まってきたのが人類の歴史です。日本はいっときこの大きな流れから逸脱しました。しかし、敗戦という重大で貴重な犠牲を払い、各国の理解と協力をいただいて歴史の流れに復帰しました。そのことを考えれば、私は、ちゅうちょなく現行憲法を守る側に付きます。
 しかし、歴史はもちろん六十年前に日本が戦争に負けたときに止まってしまったのではありません。その後も歴史は確実に歩みを進めてきました。東西冷戦があり、これが終わり、主権国家の地域統合は各地で進んできています。その上、人類の多方面にわたる活動の活発化により、宇宙船地球号と言われた地球規模での考察の必要性が、経済活動、環境問題、情報化など、すべての面で強くなっています。
 これらの変化により、憲法制定時の諸原則に手直しが必要な部分もあるでしょう。逆に、再定義や再確立が必要な部分や、新しく条件が整ったことにより単なる理念から強制力のある規範へと格上げすべきものもあるでしょう。
 一番大きな変化は、やはり平和主義と国際協調主義です。それまで経験したことのなかった大戦争の惨禍を乗り越え、人類は新しい合意にたどり着きました。それは、第一に戦争の違法化、第二に違法事態への対処方法としての集団安全保障措置、そして第三につなぎの措置としての自衛権です。現行憲法は、これらの合意のうち、当時の日本の置かれた条件に適合するものだけを記述しました。それが第九条と前文です。この合意は二十一世紀の国際合意としての価値を増しこそすれ、決して色あせてはいません。日本は終戦時と異なり、この合意に完全参加する能力を備え、その責務さえ自覚すべきところに来たと言えます。
 そこで、この際、この合意を再定義し、今度こそ国も国民も必ず守る原則として再記述すべきものと思います。私は、いわゆる集団的自衛権については、論争に混乱もあり、余り実りの多い議論とも争点とも思えませんが、あえて言えば集団安全保障措置の確立こそを日本の使命とすべきものであって、集団的自衛権の行使を認めることはこれと相反するものと思います。
 平和主義をめぐって制定後に二つの新しいうねりがありました。第一は原水爆禁止運動です。核兵器全廃と軍縮は日本の悲願です。第二はアジアの視点です。アジアの一国として、日本は特に東アジアの不戦や地域協力と統合のために最大限の役割を果たすべきです。これらを憲法上の原則と規定することは、特にアジアの人々の日本に対する疑心暗鬼をなくし、日本の新しい出発に理解を得るために欠かすことのできない措置だと思います。
 国民主権につき、一言、一つ言っておきたいことがあります。国民主権を認めながら、国民につき独自の見解を主張する立場が見られます。言葉はいろいろですが、要するに、国民とは太古の昔から悠久の未来に至るまで、太平洋の荒波に洗われる日本列島で共同生活を、共同体を形成する人々の総体だというのです。私は、この見解には同意しません。観念の上では想像できても、現実にはそのような集合体はありません。国民はある特定の時代に生きて意思表示をする実体を持った人々の集合体です。この集合体は変化しますし、憲法もまた歴史の所産です。超歴史と超憲法の極みというべきこのような見解は、近代憲法の形成とは無縁です。今、憲法前文の記述の仕方につき日本の歴史や伝統や文化に触れるべしとの主張があります。この主張が私が批判したような見解と無縁であると信じたいのですが、いかがでしょうか。
 現行憲法の基本的人権条項は貴重な規定にあふれてはいますが、ちょっと古く、整理されてもいません。また、その後の国民の努力により新しい人権カタログも生まれています。人権侵害に対する救済システムを、あらゆる国家権力から独立したものとして憲法に直接の根拠を有する制度と設計することも大切です。教育も労働も、納税さえも義務の側面でなく、権利の側面から規定し直そうとの提案もあり、傾聴に値します。
 これ以外の点はすべて省略し、最後に憲法改正のプロセスにつき述べておきます。
 日本の民主主義が市民の自発的努力により獲得されたものでなく、与えられたものという脆弱性を持っていることは否定できません。私が何より残念に思うことです。そこでこの際、国民が自ら自分たちの国の基本を自分たちで定めるのだと自覚して憲法を改正するということになれば、やっと二十一世紀になって日本が民主主義の意識面でのインフラを整えることができることになります。これが今回の憲法改正の一番重要な点です。
 そのために一番大切なことは、憲法改正の国民投票が民主主義の確立にとって有意義なものになることです。形式的には投票率がいかに低くても投票結果は出ます。しかし、投票率五〇%を下回るような憲法改正では、新憲法はその瞬間に命を失い、日本は崩壊に向かいます。国民の未来に対する夢をかき立て、もう一度この地域にみんなが支え合うすばらしい生活共同体をつくろうという意識を持って、心を躍らせながら投票所へ駆け付ける状況をつくらなければなりません。
 政治は今、政権交代時代に移ろうとしています。私が民主党にいるから言っているのではありません。客観的な価値観の表明です。与党と民主党との交代になるのか、公明党が選択権を持つことになるのか、それはこれからの展開次第です。大切なことは、新しくつくる憲法はこの政権交代政治の基盤を提供するものでなければならないということです。
 幸か不幸か、現行憲法の改正手続のハードルは極めて高く設定されています。与党と民主党との合意がなければ改正発議はできません。選挙の争点にして口角泡を飛ばしては、自己満足は得られても、日本の市民革命は挫折するだけです。党利党略を断固として排する質の高い英知が必要です。間違っても、政治の場面だけで盛り上がって、国民はどっちらけとなってはいけません。自民党の皆さんが結党何十周年とかをことほぎ、憲法をその記念品とするような感覚で憲法改正を扱うことのないよう、伏してお願いします。
 二十一世紀の新しい秩序を求めて、もちろん民主党は、党の立場を超えて、地球規模でも日本国内でも二十一世紀の新しい秩序を求めて憲法改正に取り組むことをこの際誓います。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、田名部匡省君。
○田名部匡省君 田名部匡省でございます。
 十分という短い時間いただきまして、ありがとうございました。
 私は、何回かこの憲法論議をしたことありますけれども、どうも憲法違反を堂々とやっている国だという気がしてならぬのですね。それは、国の基本というのは外交であり、防衛であり、教育である。これがあっち行ったりこっち行ったりするもんですから、それをしても、また国民も、申し訳ありませんが、恐らく今の若い人たちは学校で憲法を勉強していると思います。お年寄りの方々はこの憲法というのを読んだことあるだろうかなと。恐らく、誠に申し訳ありませんが、私も、全部をさらっとは読んだけれども、一つ一つを吟味して、おかしいと、ここはいいというほどにやったかというと、いささか疑問もあるんですね。
 ですから、これは、国民が主権だと、憲法改正は国民の三分の二の賛成を得なければならぬと、こう書いてあっても、国民が本当に正しい判断でこの憲法問題の改正に投票してくれるだろうか、そんな疑問を持ってならないのであります。
 個別の問題に入らせていただきますけれども、憲法の前文では、主権が国民に存するんだということも書いてあり、国際社会において名誉ある地位を占めたい、いずれの国家も自国のみに専念し他国を無視してはならないのであって、そのとおりだと思うんです。
 それから、憲法九条に入りますと、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と。
 私は、予算委員会で二度この問題を取り上げました。それは何を取り上げたかというと、専守防衛だと、この国は言いながら、アフガニスタンの方に海上自衛隊を派遣したりイランに自衛隊を派遣する、専守防衛の範囲を過ぎているんじゃないでしょうかということを、実は野呂田防衛庁長官と随分やりました。
 元々、片務協定か双務協定か、これが、私と話したとき、だれも分かる人なかったんですね。日本が攻撃されたらアメリカが日本を守るための行動をすると。
 ところが、アメリカが攻撃されたら日本が行ってやるのかというと、これは箕輪登先生が私にファクスで手紙をくれました。恐らく、私だけでなくて自民党の我々の年代の人たちにはみんな行ったかと思うんですが、片務協定だよと、日本は。だから、双務協定でないから、ほかがやられたからといって日本が出ていくということはできないということが来たものですから、そのときに野呂田防衛庁長官に私はこの質問をしたんです。
 しかも、警察や消防は緊急時にはサイレン鳴らして行くと赤信号をどんどん行けるんです。自衛隊は、どこかに敵が今この日本に上陸しそうだというときに信号を止まりながら行くんですかと。最短距離を行きたいと思うと、畑や田んぼだと。そこへ行くと、今度補償の問題出るから、お金を払いたくないから遠回りの国道か県道を走っていくと。何が困るかねと質問したら、上陸しそうだというときに陣地を作らなきゃいかぬ、その許可をもらうのに三週間掛かるという答弁でした。
 ですから、事さように、平素からどういうことに対応するということをきちっとしていない国、これは私は本当におかしいと思って、ずっとこのことを感じてきた一人なんです。
 九条を、皆さんもここはよく知っておられるだろうと思うんですけれども、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と。陸海空その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めないと書いてあるんですね。
 そうすると、日本の陸海空の自衛隊は戦力でないということになるんですね。それから、国権の発動たる戦争、威嚇又は武力の行使は国際紛争の云々とありますけれども、それにはじゃ一切手をかさないのかと。
 今、イラクに自衛隊派遣されておりますけれども、国会の議論を聞いておりますと、危なくないんだから自衛隊を派遣するんだと。危なくないんなら銃持って行かなきゃいいんですよ。そんなに安全なら、今、建設業、仕事がなくて倒産して自殺していますから、この人たちを派遣すればいいようなものでしょう。そういう何か分かりにくいことをするから、いよいよこの国会というものは国民にとって不信感を招いているというふうに私は思うんですね。
 いずれにいたしましても、この前、北朝鮮の不審船が日本の領海へ来ましたね。海上保安庁がこれを追跡した。ところが、機関銃撃たれてどうにもならなくなって、海上自衛隊を派遣要請して、海上自衛隊が沈めましたよ。あれは国権の発動ということにならないんですか。国権の発動たる威嚇になるんじゃないですか。ですから、こういうあいまいなままいろんなことをやられたら、やられる方が私はたまったものでないと思う。
 どうぞ、申し上げたいことはこれもたくさんありますけれども、もう世界ではその都度憲法を改正している国はたくさんあります。なぜ、おかしいことがあってもこの国は改正をしないまま四十七年もほったらかしてきたのか。これは国会議員の私は責任だと思う。時代の要請に合ったこの方法でやっていくということがすべてじゃないでしょうか。
 憲法を一つ一つ読んで、本当にこのとおりになっているのかな。すべての公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。そうなっていますか、全体の奉仕者になっていますか、今。それから、この健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する、そうなっていない人一杯いるでしょう。それから、義務教育はこれを無償とする、あるいは国民の、法律の定めるところに納税の義務を負うと。払っていない人一杯いるんじゃないですか。
 だから、憲法を無視している国というのは、私は非常におかしな国だと。であれば、そうならないような仕組みを変えるという努力をしてこなかった我々に私は責任があるんだろうと、こう思っておる一人であります。
 どうぞ、これ言い足りないことたくさんありますけれども、いずれにしても、最初つくったときは警察予備隊なんです。それが保安隊に変わり、自衛隊に変わってきたと。何でこんなに変わったかというと、これ、議論もしたことないもんですから、警察予備隊じゃ駄目で、保安隊じゃ駄目で、自衛隊ならいいのかというところの議論すらなかった。そういうことなんかを考えると、もうちょっと、我々がいいからといって国民の過半数が賛成得なければ、これは憲法改正することできないんですから。
 そこで、私の言いたいところは、学校では憲法のことを勉強するでしょう。お年寄りの人たちがこの憲法をみんな読んだことあると思いますか。一般の人は分かりませんよ。その人たちに投票をさして憲法改正するんだと、できますかね、これ、しっかり分かった上で。
 ですから、私はこの憲法調査会での大いなる議論、こういうものを通じて、もっともっと国民にここが問題なんですよと、こういうふうにすればこうなるんですよという、国民巻き込んだ議論してから憲法改正の投票をしてもらうというんなら分かりますけれども、今のままやってごらんなさい、どうなるか分かりませんよ。恐らく投票に行かない人は多いんじゃないですか。
 ということを考えると、もう少し我々もこういうふうにして、こういうふうにして、最後にはこういうやり方で国民に信を問いましょうということをきちっとやらないと、ここだけの議論で、そして、これ全部国民が見ているんならいいけれども、おかしいところはどこなのかというのを分からない人にこの憲法改正の投票をしていただくというのは、私は絶対失敗すると思う。
 どうぞ、国民巻き込んだ憲法の改正するんであれば、論議を徹底して、よく理解していただいた上で私はやっていただきたいと、こう思います。
 限られた時間で全部は申し上げられませんけれども、基本的な考えだけを申し上げて、終わりたいと思います。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 喜納昌吉君。
○喜納昌吉君 民主党・新緑風会の喜納昌吉です。
 私は、沖縄の有識者たちの意見を参考にしながら、憲法改正に当たって次の提案をしたいと思います。
 結論から申しますと、憲法改正は基本的に必要であり、賛成です。ただし、国民すべてが自分たちの憲法として関心を持つような新しい憲法づくりが是非とも必要だと考えます。
 我が国は、戦後六十年間にわたり、国民の民主主義化に努力してまいりました。現在の憲法を改正する必要があるんならば、今度こそ世界に誇れる日本国民の自主憲法を制定するチャンスにしなければなりません。ただし、第九条は現状のまま残すのが望ましいと思います。
 四十七都道府県には法律を専門とする弁護士や学者、憲法に関心の深い市民たちがたくさんいます。各都道府県別憲法草案コンクールを呼び掛ければ、日本国じゅう憲法に関心を持つと思います。是非とも、全国創憲運動を呼び掛けるよう提案したいと思います。
 沖縄には市民憲法草案起草研究会があって、私も呼ばれましたが、市民による手づくり憲法は難しいことではないと確信しました。夏の甲子園野球と同じように、各都道府県は名誉にかけて、おらが憲法草案作成で競争するだろうと思います。
 現在の憲法問題の要点を絞った場合、第十章の九十八条二項の日本が締結した条約や国際法規を遵守するという条項の解釈がまず問題だろうと思います。私の考えですが、これは実定法の取決めであって、自然法である憲法に規定されるべき条項ではないと考えます。
 ですから、憲法から削除しなければ、外国の都合で憲法の上位に来るような解釈の矛盾を来すことになると考えられます。そうした解釈矛盾の延長線上で、集団的自衛権行使を可能にするための第九条改正が焦点になっているわけですが、それはギリシャ神話に出てくる、寝台に合わせて手足を切り捨てるというプロクロテウスの話と同じような逆立ちした理屈でしかないと思います。
 また、自衛隊は現実に大きな軍隊になっています。しかし、憲法では外国と交戦する軍隊としては認められていません。なぜなら、憲法の第九条は、現代戦争の無差別殺りく、ジェノサイドに対する反省から立てられた人類普遍の理念だからです。もしどうしても九条を削除するというなら、その理念を沖縄がもらって独立してもよいと思っています。私たち沖縄民族は、過去の歴史の教訓からそう言いたくなるのです。
 東京空襲、広島、長崎の原爆被災、沖縄戦、そしてアジア全域、世界各国におけるルールを見失った無差別殺りくの戦争体験を忘れることなく、九条の非戦規定と自衛隊の存在を矛盾なく整合させる方法はあると思います。つまり、第九条には触らずに、国連待機部隊設立など自衛隊の役割を国連と関連させて新たに規定するという方法です。
 現実に足を引っ張られず、人類百年の展望を見据えて国際社会にどうかかわるべきか、日本国をどういう国にするのか、平和憲法の理念をしっかり定める必要があると考えます。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、那谷屋正義君。
○那谷屋正義君 民主党・新緑風会の那谷屋でございます。私は、憲法第九条にかかわって二つの視点から意見を述べたいと思います。
 まず、憲法は今後の国家の在り方を中長期的に定義するものであることからかんがみて、これからの日本の外交政策をどうしていくのか、その方向性を示すのは現憲法の前文とこの第九条に込められていると考えます。
 憲法前文は、全世界の人々の平和的生存権を確認し、それを保障する公正な世界秩序をつくるために、国民と政府に対して不断の努力を求める根本規定として構成されています。ここで言う公正な世界秩序とは、圧制や貧困、搾取などに象徴される構造的暴力が克服された社会を意味します。また、第九条が、武力による威嚇、交戦権を否定するなど、直接的暴力の克服をうたっていることは世界の共通認識になっています。
 日本国憲法の揺るぎない先見性、開放性は、構造的暴力の克服をうたう前文と直接に暴力の克服をうたう第九条が相まってこそ担保されるものであり、それゆえに、いわゆる南北格差や民族紛争、宗教問題等も克服できる実践的な道しるべの意義を有していることにまなざしを向けるべきです。
 国連の安全保障体制は、大前提として、国連憲章二条四項に明らかなとおり、武力行使の包括的禁止から出発しています。一方で、憲章四十二条では安保理の武力行使を定めていますが、これはあくまで、国際平和を損ねる行為や事態に、非軍事的措置等では不十分であった場合に国連が一丸となって対処する方式を指し、一国家又は同盟による主権行使とは別次元のものです。つまり、国連における例外的な実力行使も集団安全保障措置によることを要因としています。憲章五十一条が定める集団的自衛権の行使に至っては過渡的な応急処置にすぎず、国連の安全保障体制をむしばむものであってはならない制約下にあることは自明であります。
 このような国連憲章の本来の趣旨を考えるなら、集団的自衛権行使の主張が、敵国を想定しない集団安全保障方式を基軸とする国連中心主義を叫ぶことには違和感を否めません。平和維持を目的とする国連部隊を構想する場合も、第一義的には紛争予防にかかわる機能強化に意が用いられるべきだし、構造的暴力の克服も含め、非暴力介入主義に徹するNGO活動との有機的な連携構築へ平和憲法下で培ってきたノウハウを発揮していくことが強く要請されるでしょう。
 私が昨年十一月本調査会で述べました平和基本法構想の核心には、日本国憲法を国連憲章の運用指針として国際社会に提案したいとの思いを込めたものであったことを付け加えておきたいと思います。
 次に、この憲法が自らの未来を規定する課題にもかかわらず投票権を与えられていない子供たちへの責任を全うするために、また教育に携わってきた者として、第九条について述べます。
 もし憲法に集団的自衛権の行使や自衛隊を軍隊として位置付けるとしたなら、国土の防衛がやはり外交防衛の第一義的ですから、兵員の確保が重要になります。しかし、我が国は先進諸国でも例を見ない少子化が進んでいる国ですから、自衛軍のための要員の確保が大きな課題になると思います。兵員確保となれば、国家財政が厳しいことも考えれば徴兵制が選択肢の一つになる可能性も出てきます。現に自衛隊の定員が充足されていない現状から、教育を受ける権利を有している者の徴用が憲法改正、自衛軍の憲法上の位置付けにより具体化される可能性が出てくることを危惧するものです。
 日本はかつて兵員不足を学徒出陣により若い前途ある若者を戦地に行かせ、死なせるという苦い経験をしてきました。また、女性や中学生以上も軍需工場などに総動員し、子供たちを学びの場である学校から離れさせ、教育を奪ってきました。多くの子供たちを軍国少年に育てましたが、こうしたことは二度とあってはなりません。子供は戦争の道具ではありません。戦争は自衛であっても子供たちを犠牲者にします。子供の成長は、これからの日本の未来を考えても貴重な財産であります。
 以上のことから、これまで平和憲法を擁し、また唯一の被爆国である日本は、国連の軍事的対応を抑制させ、非軍事的な活動を発展させていく使命を担っていると考えます。そのための切り札として前文と第九条は今後も大いに活用されるべきであることを訴え、討論を終えます。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、前川清成君。
○前川清成君 この調査の締めくくりに発言の機会を与えられましたので、各委員におかれては自明のことと承知しておりますし、私も各論に関して申し述べたい事項がございますが、議論の出発点と到達点を確認するために憲法の存在理由、すなわち何ゆえに憲法が制定されたのか、そして何ゆえに最高法規であるのかについて申し述べたいと思います。
 と申しますのも、過日の公聴会のように、憲法には権利ばかり列挙されていて義務が少な過ぎるとか、憲法は将来この国が進むべき方向を指し示すものとの発言に接するたびに、私は、私たちのこの国に法の支配を確立できるのは一体いつになるのだろうかと失望感さえ覚えるからです。
 まず冒頭、この調査会でも時折引き合いに出されます聖徳太子の十七条憲法は、今私たちが議論すべき対象である憲法とは似て非なるものであることを確認したいと思います。
 何ゆえ十七条憲法が憲法ではないのか。その答えは、フランス人権宣言十六条の、すべての権利の保障が確保されず権力の分立が定められていない社会は憲法を持つものではないという表現に尽くされています。すなわち憲法は、国家権力というリバイアサンを制限し、これによって国民の人権を保障するために、すなわち国家権力に対する制限規範として存在しています。国家権力に対する制限こそ憲法の存在理由ですから、憲法は決して政治の心構えや将来の目標を表現したものではありません。かかる意味での憲法は、十七条憲法などと区別するために近代憲法と呼ばれ、政治が近代憲法に基づいて行われることを立憲主義と呼んでいます。
 私たちは決して一人で生きていくことはできません。それゆえに共同生活を営んでいますが、共同生活には一定のルールが必要であり、したがってルールを定めてそれを人々に強制できる力、すなわち権力もある意味では不可欠です。しかし、権力は権力を支配する者の利益のために濫用されるという不可避の性質を有しています。それゆえに、権力を制限し、拘束する仕組みが必要になります。その仕組みが立憲主義です。専制政治を否定し、個人の尊厳を中核とする市民社会が成立した後、広く世界じゅうでこの立憲主義が統治の基本原則として承認されるに至りました。
 立憲主義の下では、人による統治、すなわち時の為政者の恣意によって左右される専制政治に替わって法による統治が行われます。この法による統治の要請をヨーロッパ大陸では法治主義、特に法律に基づく行政として実現しようとしました。しかし、法治主義においては、法律の内容の正当性は議会の判断にゆだねられることになり、議会そのものが専制的勢力に支配されると人権保障が空洞化してしまいます。ナチス・ドイツによる人権侵害が議会によって制定された法律に基づいて実施されたという歴史的事実は法治主義の限界を指し示しています。
 専制的勢力に支配されるまでに至らなくても、全知全能の神ではない我々人によって構成される議会にあっては、善意に基づく過誤によって、例えばらい予防法のように人権を侵害する内容を含む法律が制定される可能性を否定することはできないという真実を私たちは謙虚に自覚したいと思います。
 法治主義に対して、英米法における法の支配は、法律の内容や手続の正当性も要求し、法の支配の下では、人が生まれながらに人であることに基づいて当然に享有する基本的人権は、行政権力によってはもちろん、国会が制定した法律によっても侵害されてはならず、この意味で国会の立法権も憲法という最高法規によって制限されます。
 現行憲法は、八十一条において法律を含めて憲法適合性を判断する権限を司法裁判所に付与し、九十八条一項においても法律を含めて憲法に違反する国家行為の無効を宣言しています。したがって、現行憲法においても、法の支配をその基本原則の一つに構成しています。
 私は、憲法改正に当たって、この人類の歴史的所産と言うべき法の支配について絶対に後退させてはならず、むしろ更なる貫徹を図ることこそ九条も含めた憲法改正論議の大前提に位置付けなければならないと考えています。
 以上のとおり、国会の立法権も含めて憲法が指し示した国家権力の限界は、国民の側から見れば人権という名前で表現されています。したがって、人権規定を列挙することにこそ憲法という法の存在理由があります。
 憲法という法の成り立ち、歴史的経過に照らして、国民の義務を列挙することは近代憲法の役割ではありません。現行憲法三十条は納税の義務を規定しますが、憲法という法理、思想が誕生する以前の太古の昔から人々は税金を課されており、憲法三十条によって義務が創造されたはずもありません。
 そもそも、権利と義務の性質に照らしても、私法上の契約においては、例えば売買契約における売主の代金請求権と目的物引渡義務のように、権利と義務は対になっています。これに対して、憲法二十六条二項が定める義務教育を受けさせる義務を果たしたとしても、二十七条一項が定める勤労義務を果たしたとしても、三十条が定める納税の義務を果たしたとしても法律上の対価関係に立つ給付を受けることはありません。したがって、憲法上の権利と義務とは対にはなりません。
 このように、人権規定が幾つあるから、その数に応じて義務の規定も置かなければならないという思想は、結局、憲法や立憲主義、法の支配の成り立ち、憲法の制限規範性に照らしても、権利、義務の性質に照らしても明らかに間違っていることを申し上げ、意見陳述を終えます。
○会長(関谷勝嗣君) 高野博師君。
○高野博師君 まず最初に、総論的な意見を述べたいと思います。
 憲法論議、憲法改正問題は、今後五十年ないし百年、日本という国が国際社会の中でどのような位置を占めていき、どのような生き方をすべきかを展望した時代認識と世界認識の上に論ずる必要があるのではないかと思います。したがって、しっかりした国家観、世界観、そして人間観が求められていると思います。憲法のための憲法ではなくて、国家と国民のための憲法であるということは言うまでもないと思います。
 想像以上の速さでグローバル化し、変動する国際社会の中で、存在感を示し、他国から尊敬され、信頼される国であり、何よりも国際的な競争にも生き残れなければ、どんな憲法が存在しても意味がない。立派な憲法は残ったけれども、日本という国は消滅したということになっては意味がないということであろうと思います。
 現に、今は国家にとって様々な危機的な状況はいつでも起こり得るということが言えると思います。経済・金融危機、エネルギー・食料危機、テロ、地球環境の破壊等と、当然これらに対応できる国の在り方を考えなくてはならないと思います。
 ただし、ここでの憲法論議は、あくまでも主権国家として存在し得るという前提であります。EUのような統合、あるいはEUとしての憲法のようなものは想定しておりません。
 どのような国であるべきか。本質的には、私は、一言で言えば人間の尊厳を実現できる社会国家ではないかと思います。ちなみに、人間の尊厳という言葉は個人の尊厳とは概念が違うと思っております。現行憲法でうたわれている個人の尊厳は、フランス革命以来の西洋型民主主義の中での人権の概念であると思います。人間の尊厳とは、正に文字どおり、人間と人間の関係の中で実現されるべき尊厳であり、生命の尊厳という理念に根差していると言えます。
 人間の尊厳の実現のためには、平和と自由と民主と人権の尊重が当然のことながら必要であります。テロや環境破壊、自然災害、ましてや戦争は人間の尊厳を侵害する最たるものと言えると思います。具体的な政策面では人間の安全保障という表現もできると思います。
 今の日本は国家として硬直化しているのではないかと思われます。組織や政党も、絶えず自己改革しなければ硬直化し時代の変化に対応できなくなると思います。国家も同じく自己改革できる理念、システムを憲法の中に盛り込むべきではないかと思います。
 各論について何点か述べたいと思います。
 各政党やマスコミ等の中には憲法草案を策定しているところもありますが、憲法の全面的改正は、軍政から民政への移管とか、あるいはクーデターでも起こった場合にでもなされることであり、普通はあり得ないことだろうと思います。そして、全面的、あるいはそれに近い改正を目指すのであれば、現行憲法第九十六条の改正手続によるのではなくて、新たに憲法制定議会を招集して、憲法問題を本格的に、専門的に、多角的に各界を代表する議員で議論をし、制定すべきではないかと思います。憲法調査会の、あるいは政党内の議論だけでは十分に国民の意向を酌んでいるとは言い難いのではないかと思います。
 第九十六条は部分的改正しか想定していないし、法的にも現行憲法の理念、原則は踏襲するにしても、全面的な改正には無理があると思います。第九十六条が現行憲法を否定する、あるいはこれを超える憲法を想定していることはあり得ないと思います。我が党は、部分的な改正、追加の加憲という立場を取っておりますが、これが最も現実的ではないかと思います。
 我が国の国際貢献は、国際社会、グローバルビレッジ、地球村の一員として当然の責務であり、第九条との関連での自衛隊の役割に限定する必要はないのではないかと思います。自衛隊も含め、NGO、NPO、市民団体等、様々な形態での人道支援、ODAを通じての非軍事的な協力等が考えられるわけで、国際貢献あるいは国際協力として新たに条項を設けて規定してもよいのではないかと思っております。
 国際貢献の中でこれから最も重要になるのは、地球環境分野ではないかと思っております。地球上で毎日二百種以上の種が絶滅している、五十年後には今の三五%の種が絶滅するということも言われておりますし、毎日数万ヘクタールの砂漠化と森林の消滅が起きておりまして、また最近の大規模な自然災害の頻発等、さらには、今後、水不足、農業生産性の激減等が予想されております。この地球は、生物多様性と持続可能性の社会とは懸け離れつつあるというのが現実であります。また、地球温暖化は大量破壊兵器そのものだという見方もあるほどであります。新しい人権として知る権利やプライバシー権と同列で環境権が論じられておりますが、人権としての環境権はそれはそれとして、よりグローバルな、地球環境問題は地球益、人類益の視点から、我が国が技術革新等をもって世界に貢献できる分野であろうと思います。今後、五十年から百年の人類の課題に挑戦する国であれば、国際社会の中で正に名誉ある地位を占めることができると思います。国際貢献の中に地球環境という文言を入れてはどうかと思います。
 この国が時代の変化に迅速に対応できる国であるには、官僚主義、官僚政治からの脱却が必要であろうと思います。日本で改革が進まない最大の理由は官僚主義にあると言われております。司馬遼太郎氏が日本は明治の太政官制度以来の官僚政治の本質は変わっていないとも言っておられたと言われています。立法と行政の在り方は十分工夫が要るし、行政は忠実に法律を執行することに専念させるという制度が必要だろうと思います。法律は理念規定や抽象的な表現では官僚の権限を増すばかりでありまして、憲法上の規定の次元ではないかもしれませんが、官僚の裁量権や解釈権を拡大させない制度が求められているのではないかと思います。官僚に国家戦略を練らせ国の方向性を考えさせるのは無理でありまして、それは政治や立法がやるべき仕事であろうと思います。
 外国人の地位について、これから少子高齢化社会に対応するために外国人労働者の受入れも早晩行われることになろうと思いますが、外国人の権利と義務、人権をきちんと憲法に明記すべきではないかと思います。憲法で二重国籍を認める国も増えてきております。時の政権や国民の一時的な感情によって外国人の人権が侵害されないよう、憲法上の明確な規定が必要であろうと思います。欧州の右翼政党の外国人排斥運動などの動きを見るにつけそう思います。
 東京に直下型地震が起きた場合に、マグニチュード七以上で百十二兆円の損害が出るというような予測もなされておりますが、こういう問題についてどう対応するのか、依然として見えておりません。日本は災害に弱い国だとの評価もあって、外国資本も逃げていく傾向も見られております。危機管理体制の整備が叫ばれて久しいのでありますが、依然として不安が残っております。私は、危機管理ということについて憲法上の言及が必要であろうと思います。
 最後に、選挙制度と二院制の関係で、衆参両方で自分の選挙区あるいは地元の問題を取り上げ、地元利益の代弁者的な発言あるいは行動が相当見られますが、私はドイツ型の二院制等も検討に値するのではないかと思います。例えば、上院は選挙区、地方の問題だけを取り上げると。そして、その代表というのは州の政府高官あるいは州のトップで構成される。そして下院は、外交、防衛、教育、福祉等、全国、国レベルの問題に特化して議論すると。で、全国的にこれは選ばれると。こういう二院制の在り方も考えてもいいのではないかと思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 荒木清寛君。
○荒木清寛君 憲法改正問題の最大の焦点であります九条について私見を述べます。
 私は、昭和五十年に大学の法学部に入学をし、すぐに法の建前と現実の大きな隔たりに直面をしました。その最大のものが憲法九条の問題です。憲法学界の多数説が、自衛隊は明らかに憲法違反であると論じている一方で、その自衛隊の存在により日本が守られているとの現実でした。また、最高裁は砂川事件をめぐって九条と日米安保の問題について、恐らくは現実の安保体制を尊重せざるを得ないとの判断からか、正面からの法解釈をすることを回避いたしました。これでは国の最高法規が裁判規範として機能しているのか疑問です。
 九条に関して政府がこれまで積み重ねてきた見解は、国の安保・防衛政策から乖離をした憲法の理念を解釈で取り繕うという手法であったことを否定できません。本調査会で大沼保昭参考人は、余りにも無理な政府の憲法解釈が重なって、国家の根本法に対する国民のシニシズムを生じせしめている、そういう危険領域に今日憲法は入っていると述べていますが、極めて正当です。
 一方で、九条の改正に当たっては政府の解釈を前提としても、この条項が大きな歴史的役割を果たしてきたことを評価すべきです。平和主義のメッセージは、軍国主義が復活するのではないかとのアジア諸国の日本に対する懸念を払拭しました。また、我が国はこの憲法の下で防衛費の増額を抑え、経済的繁栄を果たしたのです。したがって、私は、九条一項の戦争放棄、二項の戦力不保持の規定を堅持するという姿勢に立った上で、自衛隊の存在を明記し、国際貢献の在り方について根拠規定を加えるべきだと考えます。いわゆる加憲の主張です。
 問題は、集団的自衛権の扱いです。これを認めることが日米安保体制の質を高めることになるとの議論には一定の説得力があります。しかし、我が国の領域内で起きたことであれば、個別的自衛権を根拠として対応できるのではないでしょうか。また、諸国は、第二次大戦後、集団的自衛権の名の下に、その国際的合法性、正当性が疑わしい種々の行為に従事してきた歴史的事実を十分に考慮する必要があると思われます。
 次に、我が国の国際的責任を踏まえれば、武力行使を伴わない国連の平和維持活動に積極的に参加をすべきと書き加えるのは当然です。さらに、侵略や人道法の大規模な侵害を阻止、鎮圧をする国連の軍事行動には、それが武力を伴うものであっても、できるだけ我が国は参加すべきであるとの主張もあります。傾聴に値します。
 しかし、軍事的安全保障における集団主義は、現実の国際社会で普遍的なものになっているわけではありません。現に、国連憲章四十二条等に基づく軍事的措置、いわゆる国連軍はいまだ設けられたことはなく、これらの制度は今や有名無実になったとまで言われています。この点は慎重であるべきだと考えます。
 最後に、今後も現行憲法を評価しつつ、バランスの取れた憲法議論を行うことを申し述べて、私の意見陳述とします。
○会長(関谷勝嗣君) 加藤修一君。
○加藤修一君 委員長、ありがとうございます。公明党の加藤修一でございます。
 公明党の憲法に対する基本的な考え方は、現行憲法に付け加えるという加憲の立場であります。
 私は、環境権を対象として申し述べたいと思います。
 二月に、昨年のノーベル平和賞受賞者ワンガリ・マータイさんが来日いたしました。昨年の受賞は、平和賞の中に環境を加え、平和と環境が緊密な関係にあることを示した初めてのノーベル平和賞となりました。この意味でも、ますます環境にウエートが掛かってきていると考えております。
 環境保全の実効性については現行憲法の解釈で保障できるという見方がありますが、私は、基本的には憲法は国家の根本規範でありますので、分かりやすいことも要件の一つであると思っております。したがって、義務教育の最高学年である中学三年生の学習レベルで分かることが望ましいととらえており、こう読めるはずだ、読めるのではないかなどと議論百出になることを最大限回避できる条文であることが望ましいと思っております。解釈改憲を次々に重ねるような在り方は好ましくないと考えており、時代に対応して現行憲法に明示的に環境権条項を基本的人権の規定に加憲すべきものと考えております。
 その内容も、良好な環境を享受し、国家及び国民が環境保護に努めるといった趣旨の権利、責務とすることであり、かつ、今や自然の権利が言われ、裁判の原告になるケースもありました。自然と人間との関係性、切れ目のない相互依存の生命系を考え合わせると、かつての自然から超然としている人間主義的な生き方ではなく、自然との共生を大きく織り込んだエコロジカルな視点に立った環境権を定めるべきであります。
 二月十六日、気候変動枠組条約京都議定書が発効しました。気候変動枠組条約が採択されてから、実に十三年の長きにわたり、国際社会が地球温暖化の削減という実質的な取組に入りました。しかし、二〇五〇年までに五〇%以下にしなければならない状況を考え合わせれば、ほんの一歩にすぎません。人類の危機を回避する総力戦はこれからであります。
 地球環境への懸念は一九六〇年代にさかのぼります。そして、一九七二年には「かけがえのない地球」のテーマで国連人間環境会議が開催され、二十年後の一九九二年、アジェンダ21で有名な地球サミットが開催され、持続的発展についても議論され、一九九七年には国連気候変動枠組条約の締約国京都会議の開催と、温暖化効果ガス削減の国際公約が締結、さらに二〇〇二年のヨハネスブルグ・サミットでは持続可能開発のための教育の十年が採択されるに至っており、人類生存への確かな保障が希求されております。
 これらの経緯において生存権の拡大が議論され、次世代の人間のために地球規模の生存権との視点から人類益や地球益が議論され、具体的には、具体例は、人類の指針とも言われている地球憲章にも結実しているところでございます。
 このような中、各国においても憲法論議が環境を含めてなされ、アメリカは、連邦憲法において環境権の憲法的基礎は特定の条項によって保障されているという説など多数ありますが、またカナダにおいては、一九八二年カナダ憲法九十二条Aの導入で新憲法の成立を見て、環境上の天然資源について憲法上の保障規定は世界の憲法の中でも画期的であると言われております。韓国においては、現行の第六共和国憲法第三十五条の環境権は、国民の生活上の基本権としての法的、政策的環境権であり、環境行政は、自然資源の公共的利用、国民の生活の質の改善、快適性の追求など、環境政策を積極的に行い、環境保全の実践意思を示したものとなっております。
 以上のように、環境に関する条項について、アメリカは除くとしましても、国家の根本規範である憲法上に明確に規定しております。それらについては後ほど討論したいと思いますので、委員長、よろしくお願いいたします。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 仁比聡平君。
○仁比聡平君 ありがとうございます。日本共産党の仁比聡平でございます。
 憲法前文、九条と安全保障について意見を申し上げたいと思います。
 私たちは、沖縄戦と被爆、終戦から六十年を刻む歴史的なこの年を、イラク戦争という戦場への自衛隊の派兵継続と海外派兵の本来任務化の動き、憲法九条にねらいを定めた改憲の動きの強まりの中で迎えました。
 この点での改憲論の中心は、軍隊である自衛隊の存在や集団的自衛権の行使、国民の国防の責務などを憲法上認めること、あるいは明記するという点にありますが、これは、ブッシュ政権が強く求め、財界のねらうアメリカ追随の軍事大国化、米軍と一体となった自衛隊の海外派兵と国民総動員、最前線基地への再編など、戦争をする国づくりによって広げられてきた憲法違反の現実、憲法と現実の乖離を憲法の方を変えることによって埋め、その路線の最大の障害となっている憲法九条の歯止めをなくそうとするものにほかならないと思います。
 小泉内閣は、その路線の本質について、事あるごとに世界の中の日米同盟と繰り返しますが、それは、従来の専守防衛の建前や日米安保条約の枠組みを大きく踏み越え、グローバルな同盟、地球的規模での軍事同盟を目指すものにほかならないと思います。
 新ガイドラインと周辺事態法の強行によって、日本への武力攻撃がない下でも、アメリカがアジア太平洋地域での軍事行動を起こせば、周辺事態を名目として日本が後方地域支援という形で自動的に参戦する仕組みがつくられました。
 すなわち、日米安保体制の軸足を日本防衛からアジア太平洋に移し、アジア太平洋での日米共同対処を具体化をしたもので、例えば防衛大学校助教授の新沼毅氏は、新ガイドラインは、日本が自国領土以外の有事を日本への脅威であると初めて認め、米軍と共同対処することを合意をしたことで画期的重要性を持っていると述べています。周辺事態は地理的に全く無限定な概念であり、そこにおける後方地域支援とは、戦闘中の米軍に対する武器、弾薬、兵員の輸送、燃料の補給などで、これは戦争の不可欠な構成部分にほかなりません。
 さらに、武力攻撃事態法など有事法制の強行は、周辺事態法と一体となり、自衛隊が出動して米軍と共同対処できる日本の戦争体制、米軍支援体制を整えるものであり、その体制への地方自治体、民間の協力を義務付け、罰則規定まで設けて、憲法が侵すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与えられるとする基本的人権を制限するものです。その中で、九〇年代以降、自衛隊の海外派遣が常態化し、今世紀に入ってから、アフガニスタン報復戦争、さらに戦後初めて戦闘が続くイラクへの陸海空自衛隊の派兵が強行されました。我が国の防衛のみを建前として創設をされた自衛隊の実際の役割は、今や海外での活動に置かれ、自衛隊の性格はなし崩しに変えられてきました。こうした既成事実を踏まえて、自衛隊を国際貢献、国際協力を基本任務とする軍隊へと本格的に変えようとする動きが強まっています。
   〔会長退席、会長代理簗瀬進君着席〕
 自衛隊の明記や集団的自衛権の行使、国防の責務などの改憲論は、この世界の中の日米同盟路線と表裏一体となり、憲法違反の現実を追認しようとするものであるとともに、海外での武力行使や武力行使との一体化は絶対にできない歯止めとなっている九条を取り払おうとするものです。このねらいが国民的な要求ではなくアメリカから発生したものであることは、二〇〇〇年十月のアーミテージ報告であからさまにされました。
 それは、新ガイドライン以降の太平洋をまたぐ日米同盟における日本の拡大された役割は上限ではない、いまだ基礎にすぎないとした上で、日本が集団的自衛権を否定していることが同盟協力を束縛するものとなっていると集団的自衛権の容認を求めるものですが、このアーミテージ報告以降、我が国の戦争をする国づくりと改憲論が急速に強められたことは多くの論者が指摘をするところです。
 ここで加えて指摘をしたいのは、ブッシュ政権の言う集団的自衛権は国連憲章五十一条に言うそれとは似て非なるものであるということです。
 国連憲章は、第一次世界大戦の教訓から戦争の違法化に踏み出した歴史を、第二次世界大戦の再び惨禍を繰り返した教訓を本格的に生かし、武力行使も武力による威嚇も禁止し、軍事力均衡論、抑止力論に基づく軍事同盟による対抗をなくし、国連の下に社会体制を区別せずにすべての国が参加する集団安全保障体制を大原則として打ち立てました。
 軍事同盟にこだわる米ソの動きにより、例外として五十一条に集団的自衛権が盛り込まれることになりましたが、それは、国連加盟国に対して武力攻撃が発生した場合、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間という極めて制限的、限定的に認められているものにすぎず、あくまで例外的な一時的、暫定的なものにとどまっています。
 この点で、本調査会に参考人としておいでいただいた本間浩参考人は、昨年二月二十五日の参考人質疑の中で、憲章二条四項の大原則からすれば同盟は本来否定されるべきだと述べられました。米ソが集団安全保障方式を制約するような原則を何とか国連憲章の中に持ち込もうとして、そこにできたのが集団的自衛権という考え方であり、したがって、集団的自衛権は国際的に慎重にその行使の在り方を考えていかなければならないものだと同参考人は指摘をされています。
 同じく本調査会の参考人質疑の中では、アメリカが国連憲章上の自衛権行使として認められない武力攻撃を行ってきたことが厳しく指摘をされました。
 昨年二月十八日の田岡俊次参考人は、アメリカ大使館に対する攻撃など、領土への攻撃ではなく自衛とは本来言い難いものを自衛だと言ってやってきた、そういったものと、集団自衛と言い出すと実は違法なことに引っ張り込まれる、こうおっしゃっています。
 また、二月二十五日の豊下参考人は、集団的自衛権の濫用の歴史を具体的な例を挙げて述べられています。そもそもアメリカの自衛権概念について豊下参考人は、すっかりもう五十一条と離れてしまっている、そこに非常に大きな危険性がある、こう指摘をし、本間参考人は、アメリカは、国連憲章に定められた自衛権、個別的自衛権も集団的自衛権も含めて、本来アメリカが考えているようないわゆる自己保存権的な非常に拡大された自衛権を再確認したにすぎないものとし、だからアメリカは、憲章に言う武力攻撃が発生したときというのは一つの例示であって、武力攻撃が発生したとき以外の場合でも自衛権を行使できるんだという解釈をしており、これはヨーロッパ諸国の中では支持されていないのだと厳しく指摘をいたしました。
 このようなアメリカの考え方や、また一国覇権主義、先制攻撃戦略は、国連中心の平和の国際秩序という本流に反する逆流であり、孤立と破綻への道を深めています。
 二〇〇三年九月、国連総会でアナン事務総長は、このアメリカの戦略をとらえ、過去五十八年間、世界の平和と安定が依拠してきた原則に対する根本的挑戦だと厳しく告発をする演説を行いました。
 今問われているのは、国連憲章に基づく平和の国際秩序か、アメリカが横暴をほしいままにする干渉と侵略、戦争と抑圧の国際秩序かの選択だと思います。
 冷戦の終結、一方で、かつての植民地が独立国として非同盟中立の道を進む流れが、アジアでも世界でも国際社会に大きな地位と役割を果たすようになりました。このときこそ、私は、アメリカの覇権主義的な世界秩序を許さず、平和の国際秩序を築き、核兵器も軍事同盟もない世界を実現するための国際的連帯を世界に広げるために力を尽くすことこそ日本の進むべき道だと思います。
 私は三年前、アフガニスタン報復戦争のさなか、パキスタン国境の難民キャンプを訪ねたことがございます。アフガニスタンの最北部にマザリシャリフという町がありますが、その近郊で果樹園を営み平和な暮らしをしていた村にも昼夜を問わずナパーム弾や巡航ミサイルが撃ち込まれる中、家は焼かれ、家族が奪われ、果樹園も焼き尽くされて、その村の二百世帯約千人の村人たちが、どこか安全なところはないかと空爆の中逃げ惑うことになりました。四十日間、千キロ以上の道のりをさまよって、私たちが訪ねた難民キャンプにたどり着いたそうです。
 私たちは、十四歳の少年に今一番欲しいものは何と尋ねました。おふろに入りたいとか、甘いものが食べたいとか、サッカーボールが欲しいとか、そんな答えが返ってくるかと思いましたら、その子は、少し考えた後で、世界じゅうの人たちにアメリカの戦争に反対してほしい、こう必死に訴えました。
 そのテントを出たところに一人の女性が疲れ果てて座り込んでいました。黒いブルカから出ている顔や手や足には深いしわが無数に刻まれて、土煙にまみれ真っ白で、私は拝見して、七十歳を超えていらっしゃるんじゃないかと思いましたが、実はその十四歳の男の子のお母さんだということで、せいぜい四十歳だといいます。同行した女性弁護士が、その方の手をじっと握り締めて、一番したいことは何ですかと尋ねました。その方は、本当に消え入るような声で、おうちに帰りたい、人間の尊厳を取り戻したい、私たちは平和に暮らしてきたんですからとおっしゃいました。
 人間の尊厳、ディグニティーという言葉が耳に飛び込んできた瞬間、私は頭を殴られたような思いがいたしました。罪のない人々から、帰る家も村も、生活のすべてを奪った、そして奪っているアメリカの無法な戦争こそ、世界の平和に対する最大の挑戦ではないでしょうか。
 この調査の拠点にしたホテルに備えられていた国際電話の番号案内を見て、私は本当に感動いたしました。国際電話の八一番という日本の国番号の後に紹介される都市番号の最初には広島、そして次に長崎が紹介をされていました。大阪、東京はその後です。
   〔会長代理簗瀬進君退席、会長着席〕
 その地のたくさんの人々と語り合う中で、そこで広島、長崎という町の名前に込められている思いは、アメリカから落とされた原爆の地獄のような苦しみから、平和憲法の下で今日までの復興を遂げてきたアジアの国、日本、この私たちの国、日本に対する心からのあこがれと思いだということを痛感をいたしました。
 戦争の違法化を基礎とする国際平和のルールと、その先駆である憲法九条を守り生かしていく道こそ今求められているということを強く述べ、意見とさせていただきます。
 ありがとうございました。
○会長(関谷勝嗣君) 田英夫君。
○田英夫君 この憲法調査会は、およそ五年間、各党が意見をぶつけ合ってきたわけですけれども、実は実態は、各党とはいっても党の中でまだ最終的な意見がまとまっていないという実態でありますから、今ここでもし憲法を改めようではないかという、そういう方向に進んでいくと、先ほど田名部さんが言われたように、とても国民の皆さんは国民投票というようなことにこたえられる状況にあるだろうかと私は思います。もっともっと、まず衆参両院の国会としての議論、国民の代表である国会議員が議論をするということ、同時に、国民の皆さんとともに憲法を考えるという、そういう過程が必要ではないかと思います。
 憲法改正、憲法改正という声がありますけれども、私は急ぐべきではないとつくづく思っていますが、たまたま今朝の新聞の投書欄見ておりましたら、新聞も投書の憲法特集をやっておりまして、東京新聞ですけれども、先日、新聞に出てびっくりした先ほど岡田さんが言われた自民党の前文に対しての試案といいますか、そのことについて触れておりまして、若い学生、女性の学生ですけれども、自民党新憲法起草委員会の前文についてのまとまりが出て新聞に報じられているけれども、日本の歴史、伝統、文化に関する記述を盛り込むということだと。
 しかし、一九九〇年の大相撲初場所で、当時の森山官房長官が優勝力士へ内閣総理大臣杯を渡そうとしたところが、日本相撲協会は、伝統、文化を守っていかなければならないとして、女性である森山文部大臣の登壇を、土俵に上がることを許さなかったと。女性の差別だという投書がありました。たちまち反応があることはまた一つの成果なのかもしれませんけれども。
 なるほどなと思って読んだんですが、その正に伝統、文化、歴史、そういうものを尊重することをいけないとは言いませんけれども、それが行き過ぎて、最近の意見の中には国家主義といいますか復古主義というか、そうした傾向が顕著に見られる。それをやはり若い女性ですけれども、きちんととらえているということの方が私にとっては同意するものが多かったのでありますが。
 そうした風潮が日本の中で強まっている一方で、隣国で、しかも最近は韓流という、ヨン様などという言葉で非常に友好が進んでいると思われていた韓国で、盧武鉉大統領、この人も日本に対して決して敵対的な人ではありませんけれども、三月一日、三・一抗日事件の記念日の集会で演説をし、また国会でも同じような演説をしているんですけれども、日本に対して、向こうからするとそれが日本らしさなのかもしれませんが、過去の過った歴史を全く反省をしないと。日韓基本条約が結ばれているわけですけれども、それをさえも批判をするという発言を大統領自身がしております。つまり、過去の過ちを日本は反省をしていない、ドイツと比べると非常に違うということを具体的に言っていますね。ドイツとフランスの関係、それと日本と我々の関係というような発言をしています。
 私どもは、こうしたことも心して、本当に憲法を考えるときには重要な問題として改めて考えなければいけないと、そう思いました。
 何か昔の国家主義的なものを、私のような年齢の者は戦前、戦中の空気がよみがえるのではないかというおそれを持ちます。
 あるいは天皇の問題について、元首にすべきだという御意見が憲法改正の中で言われているようであります。全く反対ですね。今の憲法の天皇象徴ということは、非常に当時の空気を反映し、苦悩の中で考えたことだと思います。最近、皇太子殿下の御発言でいろいろ問題がありますけれども、これも無関係ではないと思います。本当に天皇の問題も、憲法の問題の中で過ちをしないように。
 私は、昭和天皇があの戦争のために非常な苦悩をされたことを知っています。そして、昭和天皇の一生を通じて一番幸せだったのは、あの戦争直後、人間天皇と言われて全国を、国民の間を、本当に国民と接しながら会話をし、回られたとき、あのときが一番昭和天皇の幸せなときだったんじゃないかなと思っています。
 そうしたことも何か復古調の中で同時に取り上げられてくると問題だと思います。
 もう一つ、憲法改正という声の中で、国際貢献ということを重視する声があります。決して、それはもちろん当然でありまして、大切なことでありますが、それが過つと、過った方向に行くととんでもないことになる。自衛隊が武装して外国に行くことが国際貢献であるかのごときことになってはならない。
 最近の自衛隊の派遣で対照的なのは、一つはイラクへの派遣。武装をした自衛隊が戦争状態にあるイラクに行っているというこの現状を私どもが許すわけにいかない。
 一方で、その武装を解いた自衛隊が、服が同じなのは残念でありますが、あのインドネシアを中心とする津波の被害のところに行って協力をしているという姿は、もっと服装も変えて、自衛隊ではなくて国際協力隊という集団を新たにつくって、自衛隊の中からかなりの部分をその方へ移して国際協力隊という新しい組織をつくってはどうかと思います。
 そして、陸上自衛隊が当然中心になりますし、現に今、陸上自衛隊は災害救助についての訓練をしておりますし、機材も持っています。十分に活動できる。それから、国際的に協力するわけですから、輸送手段として海上自衛隊の輸送艦、これも武装を解いて非武装にして、また航空自衛隊の輸送機もその組織に移すと。輸送機らしい、軍隊調でない色にしてそれも移すと。そうしたことを考えるのがむしろ国際協力じゃないでしょうか。
 同時に、今、JICAに属している青年海外協力隊。私はこれに、出発するときにはしばしば送りに行きましたけれども、二十歳前後の若い男女が一人で言葉の通じない国へ行くのは本当に私はすばらしいことだと思いましたし、農業技術とか看護婦さんとか、そうした技術をひっ提げていく。これをもっと大規模にして、この自衛隊から転身した国際協力隊と一緒になって、一つの組織にして、新しい政府の組織として国際協力庁というような名前にして活動すると。
 国際協力を考えるならば、そうした日本らしい、平和憲法を持つ日本らしい国際協力を考えるべきではないかと考えています。
 終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 以上で意見陳述は終了いたしました。
 それでは、ただいまの意見陳述を踏まえ、一時間程度意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いいたします。
 御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は挙手を願います。
 森元恒雄君。
○森元恒雄君 地方自治に関しまして数点申し上げたいと思います。
 まず一点目は、現在、地方自治の本旨という文言が憲法に規定されておりますが、これが必ずしもその定義といいますか概念が明確でない。私は、住民自治と団体自治というものがもっと直截に分かるような規定ぶりにすべきではないかと思います。
 それから二つ目には、国と地方の役割分担というものを憲法上にも明記すべきではないか。国の役割は国でなければなし得ないような事務に限定し、地域における行政を幅広く行うのは地方団体の役割であるという規定。要するに、地方自治体を優先する補完性の原理に基づいた規定ぶりにすべきじゃないか。その中では、しかも広域自治体と基礎的自治体の二層制を前提とした規定ぶりとし、かつ基礎的自治体を優先するという考え方を明確にするのが望ましいというふうに思います。
 それから、現在の日本の地方自治制度は極めて画一的な制度になっておりますので、特に執行機関等については各団体の判断によって多様な方式を選択できるような、幅を持たせるということが望ましいんではないかというふうに考えておりまして、そういう選択の余地を与えるという規定ぶりにするのが望ましいんではないかと思います。
 それから、現在は、憲法上、地方財政に関する規定が全く設けられておりませんが、地方自治を実質的に担保、保障するためには、事務権限としての独立性だけではなくて、財政的な、独自財政の基盤というものが確立していることが不可欠であります。
 そういう意味で、財政に関する規定を新たに設けることが必要ではないかと。その際、地方自治体の固有財源を保障するということを明記し、具体的な方法としては課税自主権というものが不可欠でございます。それを憲法上、憲法に基づく課税権、単なる法律の裏付けだけではなくて、憲法に裏付けられた課税権というものを認めるべきではないか。
 それから、さらには、団体間に大きな税収力の格差が厳としてある以上は、国としての財政調整制度は必要不可欠でありまして、その際には、団体間の財源の調整だけではなくて、やっぱり国と地方との関係において、現在、国は地方団体に様々な事務を法律に基づいて義務付けしておるわけでありますので、それが適正に執行できるだけの財源を保障するいわゆる財源保障機能をこの調整制度の中に持たせるということを裏付けないといけないんではないかと、こういうふうに考えています。
 それから、地方分権を更に今後推進していくという観点に立ってあえて申し上げたい点は、一つは、国として事前規制はできるだけやめていくというのが本来の在り方でありますが、しかし、地方自治体も与えられた権限、権能を法律に違反して行う、あるいは行わないというようなことがあったときに、これを適正に執行させる方法というものが、現在、残念ながらそういうものが全く設けられておりませんが、地方自治体は善であると、違法なことはしないという前提に立っているんだと思いますが、これからはいろんなケースが考えられるわけでありまして、やはり国としての合法性の監督と、チェックということができるような担保措置を設ける必要があるんではないかと。
 同時に、地方自治体からも、国のそういう事後的な監視、チェックであるにしても、それが合法的になされない場合に司法的に救済される道を開く必要があると。現在は地方自治法上の国地方係争処理委員会がありますけれども、もう少し明確に司法上の救済措置を設けることが望ましいというふうに私は考えます。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 鈴木寛君。
○鈴木寛君 本日は、前文の在り方あるいは近代憲法論について議論がなされました。憲法を議論する立場として、恐らく私は三つの立場があると思いますが、一つ目は護憲という立場、二つ目は前近代的憲法への復古という立場、三つ目は、近代憲法を充実をさせ、ポストモダン型憲法制定に半歩踏み出し深化をさせるという立場だと思います。
 新しい憲法論議においては、この国の在り方、従来の国の在り方について考えるという、これは当然のことでありますが、それに加えて、国家が既にもう万能ではない、あるいは近代国民国家システムが揺らぎつつあるという時代背景を踏まえて、社会の在り方、更に申し上げれば、多様な社会の担い手の間の約束事の確認という議論も射程に置くべきだと思います。
 その中で、新憲法制定においては、個人と国家という主体に加えて、中間集団、これは地方公共団体も含めた様々な地域的又は文化的、経済的なコミュニティーを指しますが、これを社会の重要な主体としてきちっと位置付けるべきだと思います。そうした場合には、個人と団体の間の私人間効力、憲法の私人間効力という議論も必要だと思いますし、その上で、社会の担い手であります個人、団体に、社会の担い手としての権利に加えて、責務、特に社会に対する責務あるいは子々孫々、次の世代に対する責務、次世代を育成する責務でありますとか、自然環境、文化環境、生活環境を保全し改善して次の世代に伝えるという責務、あるいは社会的弱者を支援するという責務が必要だと思います。
 また、目指すべき国家社会像としては、従来の国家による経済力、権力の徴収、集中、その分配という機能に加えて、社会の多様な主体間のコミュニケーションの促進によって知恵を生み出し、それを現場において実践をすると。そのためのコミュニケーション、コラボレーション、クリエーションを媒介をする、メディエートする、日本としてはメディアステート、そういったことを目指すべき、それによって物質や文明のみならず、精神や文化によって平和と幸福が実現をされるという社会を目指すべきだというふうに思います。
 そのためには、従来の自由権、社会権に並ぶ柱として、この実質的なコミュニケーションの主体として、すべての個人あるいは団体がそれの主体たり得るという意味での文化権、具体的には、尊厳ある文化的主体となるための学習権やコミュニケーション権、コミュニティーを創造する権利ということが必要だと思います。アイデンティティーや情報編集力などを獲得するための学習権として、何人も生涯にわたって健康で文化的な生活を営むために必要な学びを十分に支援される権利でありますとか、何人も学びの内容を決定し、実施する自由を侵されない権利でありますとか、あるいは、国はすべての国民が経済的、社会的な理由によってその学びを妨げられないように学習機会の増進、あるいは学習環境の改善を努めなければならないという権利をきちっと新憲法において位置付ける必要があると思います。
 そして、コミュニケーション権については、情報の収集、編集、発信、あるいはそのためのコミュニティーの創造を支援される権利、そしてまた、他者がそうしたコミュニケーションを実現することを支援する責務というものを規定すべきではないかということを申し添えたいと思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 加藤修一君。
○加藤修一君 会長、ありがとうございます。
 公明党の加藤修一でございます。
 先ほど討論したものに加えまして、各国の憲法上の環境規定についてでありますが、スイス連邦憲法二十四条については一九九二年、国民投票にかけられまして、遺伝子工学と生殖医学の諸原則の提示がなされております。バイオハザードなどを懸念してのことと思われますが、大きく変化する時代にいかに対応しようとしているかの表れととらえることもできると思います。
 また、ドイツ基本法二十条aにおいては、自然生活基盤の保護規定を設け、環境保護という国家規定が採用されておりますが、環境に関しては、人間中心の環境保護を目指す環境国家か、又はラジカルな生態中心的環境保護を唱える憲法原理としての生態学的法治国家か、この両者について極めて熱心に論争されたところであります。ドイツの東西統一後の憲法、基本法でありますが、その中には、生活の自然的基盤としての環境の保護が国家目標として導入され、未来の世代に対する責任についても付け加えられ、人間中心主義の採否にまで及んだことは注目に値すると思います。
 環境破壊の著しかった旧ドイツ地域の新しい州で制定された憲法を見てまいりますと、エコロジーの観点が更に進められ、土地利用など財産権への踏み込みがあるなど、さらに動物や植物の尊重の規定を含むものもあります。
 新たな公益や基本権の主体としての未来世代の登場にも言及しております。ヨーロッパ統合の流れの中で、ヨーロッパ連合をエコロジーの次元で補完して環境連合へと発展させることを提唱する法学者たちは、ヨーロッパ連合環境憲法を提唱し、生活の自然的基盤を未来世代のために保全すること、そしてそれに適合するように現在における利用を形付け、環境とのかかわりで義務付けるという役割が含められております。
 未来世代とのかかわりについては、一言で言ってしまいますと、持続可能な開発ということになりますが、綿密に詰めてまいりますと、言うまでもなく、世代間公平の問題にも突き当たるわけであります。これについては憲法を離れますが、国際連合憲章に未来の世代の権利の宣言を盛り込もうとの運動が長年続けられておりますし、著明な海洋学者ジャック・イブ・クストーは、フランス大統領の諮問機関であります未来の世代の権利に関する評議会の委員長として、五か条から成る未来の世代の権利の宣言を発表しているところであります。
 このような世代間公平の法原則、未来の世代の権利をめぐっては、憲法、環境法、国際法、法学、法哲学などの分野で日本も含めて議論がありますが、国際社会の南北構造という枠組みの存在を考えると、現世代内部の差別を意味するにとどまらず、世代間においても未来世代の環境享受の可能性を狭め、未来との間の信託に背く懸念があります。それこそ、現世代による環境の不可逆的破壊、これは言うまでもなく検証の必要がありますが、世代間の公平に反します。将来の世代に負の遺産を残すことは、将来の世代の権利を侵害するものととらえるべきであります。
 全体的には持続可能な発展の保障が特に必要となってきておりますし、さらにこれらの変化を基本的人権の発展ステップとして見ることができるわけでありまして、いみじくもユネスコのK・バサックは、基本的人権の発展について、第一世代は市民的、政治的権利、第二世代は経済的、社会的、文化的権利、さらに現代は第三世代の人権へと向かっていると指摘し、発展への権利、健康でバランスの取れた環境への権利、平和への権利、人間の共同財産を、人類の共同財産を所有する権利等を取り上げ、更には国際的連帯を要する人権にまで言及しております。このバサックの類型からすると、環境権は最も新しい世代に属する基本的人権ということになりますし、環境権に限らず、第三世代の基本的人権に十分着目すべきと考えております。
 このように、環境にかかわる大きな変化に対応して環境権の明示を行うことにより、国家、国民の環境保全の責務、環境を享受する権利を明確にすることが大切であるわけでございます。たとえ、条文解釈の環境権の保障は裁判の場合においても権利の一部が認められたにすぎないことにもなりかねない懸念が存在しておりますし、また、権利侵害の事前救済を図る観点からは不透明を免れ得ないという部分もあることでありますし、また、現実に環境にかかわる立法が多くなってきていることからも、根本的な規定として憲法に明記することは立法根拠をより明確にすることにもつながります。
 以上、環境権の一つを取っても論点が多くありますが、国民との議論の中でより良き環境権の規定を憲法に明記すべきであります。
 以上、討論を終わります。
○会長(関谷勝嗣君) 吉川春子君。
○吉川春子君 ありがとうございます。日本共産党の吉川春子です。
 象徴天皇制について述べます。
 天皇条項について、日本共産党の綱領は次のような立場を明確にしています。すなわち、天皇条項について、国政に関する権能を有しないなどの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治的利用を始め、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。党は、一人の個人が世襲で国民統合の象徴となるという現制度は、民主主義及び人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現を図るべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものであると言っています。
 日本は国民主権という民主主義の原則を確立した国ですが、現状では君主制にも共和制にも属さない国だと考えます。これは日本の憲法の特質を、いろんな歴史的な事情から天皇制が形を変えて存続しましたが、その下で国民主権の原則を日本独特の形で政治制度に具体化したものです。
 憲法四条は、天皇は国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない。七条は、内閣の助言と承認に基づいて行う国事行為を制限列挙しています。このように、国民主権の原則が明確にされている国で国政に関する権能を持たない者が君主ではあり得ないことは、憲法論上も明白であると思います。
 この点で、自民党改憲草案たたき台が、天皇が国政に関する権能を一切有しないとしながらも、天皇の地位は日本国の元首とし、現行憲法の国事行為のほかに、新たに公的行為として国会での開会式でのおことばなどを象徴としての行為とし、また宮中祭祀の主宰などを公的行為とするなどしていますが、二十一世紀にもなって復古主義的な企てをどうして行うのか、私は理解に苦しみます。
 女性天皇について一言します。
 憲法は、皇位は世襲制のものとしていますが、その他は日本国憲法下では法律となった皇室典範にゆだねています。皇室典範は皇位の継承資格を皇統に属する男系の男子に限っていますが、これは法改正で女性の天皇を認めることは可能であることは言うまでもありません。天皇を男子に限るという合理的根拠はなく、女性天皇について内閣が検討することについて私は賛成です。
 我が党は天皇制と共存するという立場ですが、世襲の象徴天皇制が民主主義、人間の平等の精神とは両立し得ない制度ということもまた事実です。二〇〇四年の五月、当調査会で吉岡議員が天皇の基本的人権について園部逸夫参考人に質問しました。参考人は、法の下の平等を定める十四条の規定を適用すると皇室はなくなってしまう、基本的人権については随分不自由な思いをされていると思うが、基本的人権を全部解放してしまうことは皇室制度そのものを否定することになる云々と答弁されています。
 私は、いつの日にか国民の総意ですべての国民が日本国憲法の定める普遍的な基本的人権を享受できるときがやってくると確信しています。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 藤野公孝君。
○藤野公孝君 自由民主党の藤野公孝でございます。
 二点申し述べたいと思います。
 一つは、先ほど江田先生からも、今度の憲法改正が、何か自民党、例えば立党五十周年の記念品のようなそんな議論じゃ困るよと、全くそのとおりであります。
 ただ、私は、自民党立党五十周年の話よりも、戦後六十年で今国連において改革がなされておりますが、この国連の改革と日本国憲法の改正がうまく連動すればいいなという感覚を持っております。
 それは、御承知のとおり日本はいまだに謹慎の身といいましょうか、実態は相当変わってきておりますけれども、形式的にはまだ敵国条項が適用されておるという中で、その面だけ見ればまだ謹慎の身ということ。で、憲法がそれを受けておりまして、前文にも、もうくどいから言いませんけれども、悪かったのは戦争勢力として日本があった、それで他国の平和の、何というんでしょうかね、信義に信頼して我が国の安全と生存を保持しようと決意したと。こう書いてあって、要は、戦争勢力が戦争しなきゃこの世に戦争はないんだという発想でこう書いた。
 そこのところは、やはりこれからはこの国連改革と併せて、日本も正に別の意味での国際社会において名誉ある地位というのを別の形できっちりやはりこれから考えていかなくちゃいけない時期に来ていると。それは経済、例えばODAでお金を出すとか、あるいは国連に負担金を出すと、そういう経済、お金の貢献ばかりではなくて、やはりきちっとした国際社会の中で、国連の中で名誉ある地位を私は占めるべきだと。
 ですから、今いろいろ安保理事国の問題も出ておりますけれども、しっかりと世界から信頼される国家になるべき、それが今回の憲法改正にうまく連動すればいいなということを思っております。それが一点目でございます。
 二点目が、これは田先生と私、ジェネレーションも違うのにちょっと、同じことを申し上げるんですけれども、それは、復古といいましょうか、日本のアイデンティティー、それから日本の伝統、文化、歴史というものをきっちり前文に書けと、前文に書けという議論の中で、我が党いろいろ今けんけんがくがく議論ございまして、新聞にも報道がありましたが、私自身、戦後生まれでございますが、アメリカへ行っていたりとかヨーロッパも行っていたりとかということで、多少純粋日本人じゃない面もあるのかもしれませんけれども、今のいろいろ御議論の中で、反対とかいう感覚よりも、何か違和感を、極めて強い違和感を感じる議論が大変多うございます。
 それは、そういう過去への回帰というようなことだけ、戦後の六十年があたかも何か、何国人か、無国籍の、無文化の時代であったがごとくのような感覚は私は誤りではないのかと。今の、戦後の六十年もきっちり日本人のDNAの中に入ってきているんであって、それをも包含した新しい価値観でないといけないんであって、過去への、戦前への復帰ではおかしいという気がいたします。
 天皇制に関しても、その文化、伝統の象徴としての天皇を大事にするということはいいんですが、これもかなり違和感を感じると同時に、元首ということについては極めて強い反発感をやっぱり私も覚えるということを申し述べたいと思います。
○会長(関谷勝嗣君) 松井孝治君。
○松井孝治君 民主党の松井孝治でございます。
 私は三点申し上げたいと思います。
 まず第一点は、この憲法の基本的な性格に関してでございますが、先ほど同僚の鈴木委員からもお話がありましたが、私は、この従来の国家あるいは国権と個人との関係を規定する憲法、それを今我々が憲法を考え直すときにはもっと多様な主体、先ほど鈴木委員は中間団体という言葉も使われましたし、森元委員は地方自治体の役割についてもう少し記述しろという御意見を述べられましたが、地方自治体あるいはそれ以外の公益法人であるとか公共セクターに参画する多様な主体との関係をきちんと憲法に位置付けるべきではないかと考えております。
 同時に、先ほど加藤委員の方からもお話がありました、鈴木委員からもありましたが、今の憲法においてはやはり環境権あるいは未来への責任ということの記述が薄いんではないかというふうに考えております。例えば、財政規律の在り方にしても環境への配慮にしても、未来の世代への責任、時代を超えての責任ということを新しい憲法においてはきちんと規定していくというのが我々の一つの責任ではないかと考えております。
 二点目は、これも、これは椎名委員から提起がございましたが、今の内閣制度についての規定というものがこれで果たしていいのかどうか。これは憲法のみならず内閣法や国家行政組織法というような憲法関連法規ともかかわる問題でありますが、例えば、「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。」という規定を根拠に閣議は全員一致でなければいけない、あるいは行政各部というものの独立性を非常に高く認識して内閣総理大臣の指揮監督権、これは憲法七十二条に「行政各部を指揮監督する。」ということが明確に規定されているにもかかわらず、内閣法の六条においては「閣議にかけて決定した方針に基いて、」という規定をそれに挿入をして、しかもその閣議というのは全会一致、連帯責任の、先ほどの憲法六十六条の規定の「連帯して責任を負ふ。」というところを根拠に全会一致でなければいけない。
 そうなってくると、内閣総理大臣の各省に対する指揮監督権というのが全会一致、各閣僚全員の合意に基づいてしか行えないというような解釈がなされているわけであります。これが本当に現在の内閣のリーダーシップを阻害する私は大きな要因になっている。国家行政組織法にしてもあるいは各省設置法にしても、それは国会で各省の組織を規定するという考え方はあるにせよ、それがむしろ各省の官僚がそれが公器であると、自分たちの役所自身が公器であるという認識を生み、内閣総理大臣のリーダーシップ、ひいては国民主権という考え方をないがしろにしているんではないか。これは現行憲法の精神をも否定するものではないか。その規定について、やはり我々が憲法の在り方について議論をするときにきちんと考え、行政権は内閣に属するというのか、もう少し総理大臣のリーダーシップを認めるのか、それを内閣総理大臣に属するというふうな規定の在り方も含めてこれは内閣のリーダーシップの問題としてきちんと議論をしていくべきではないかと思います。
 それから第三点目、これが最後ですが、先ほど山下委員から問題提起のあった改正条項についてであります。
 私も国民投票条項というのは堅持すべきであると思います。それのみならず、私は今申し上げたような戦後六十年の中でもっと内外の状況変化、環境変化の中で我々はこの憲法をより良くしていくという努力が国会において本当に行われてきたかどうか、非常に疑問だと思っています。その背景には、一つは三分の二の発議権という要件が厳しいという部分もあったかもしれません。場合によっては、国会は本当にきちんと職務を果たしていたのか、職務怠慢ではないかというそしりも私は正直言って免れない。改憲論対護憲論といったような、中身ではない、枠組みでのそのイデオロギー対立のみで国会が憲法を議論してこなかったというのは、恐らく後世代から見れば厳しく叱責されるのではないかと私は考えています。
 そのためにも、私の考え方としては、憲法の発議権を本当に国会だけが持っていていいのであろうか。国民投票の法制も今まで国会は怠慢により策定しなかったわけでありますが、その国民投票の法制を議論するときには、あるいは新しい憲法における改正条項を議論するときには、例えば国民投票によって国会が憲法改正を議論しなければならない発議権の一部を国民の総意にゆだねてしまう、例えば国民の三分の一がある条項について、あるいは何分の一かが、国会にむしろこれは憲法改正について議論せよというような発議権を国民に認めてしまうというようなことすら私は考えていいのではないか。
 これは、憲法全体についてそれこそ代議制、そして国民投票制をどう位置付けるかということですから非常に難しい問題ではありますが、少なくとも私は、憲法改正条項について国民投票というものをなくしたらいいんじゃないかというような議論が一部、公述人からもございましたが、それは今の時代の流れに明らかに逆行しているんではないか、そのような考え方を持っております。
 以上でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 田村耕太郎君。
○田村耕太郎君 私は、椎名委員が触れられました解散権の主体と制約の明記について、私も同様の意見を持っています。
 解散権は、慣行上今まで内閣によって行使されてきましたが、その主体がどの機関にあるかということは憲法に明記されていません。私は、七十三条の内閣の事務、つまり職権の中にはっきりと衆議院を解散するということを明記すべきだと思います。
 また、解散権行使の制約についても私は憲法に明記すべきだと思います。解散権の制度目的というのは、民意を正しく国政に反映させることにあると思います。民意を問う必要がないのに党利党略で解散を行うということは、私は解散権の濫用だと思います。民意を問うためにという一言を、ガイドライン、つまり濫用を防ぐガイドラインの一つとして入れるべきだと思います。
 もう一つ、私は総理大臣の継承権の明記、これも提言したいと思います。
 総理大臣というのは激務でありまして、今の総理は非常に元気でいらっしゃるように思えるんですが、人間ですから、いつ何どき何が起こるか分かりません。やはり、今の憲法は、総理大臣の身に何か起こったときに、つまり、そういう非常事態に完璧に想定してそれ用に準備しているとは私は言えないと思っています。私は、副総理という機関を常設して憲法典の中に明記しておくか、アメリカのように閣僚に順位を付けるなどの改正が必要であると思っています。
 といいますのも、今、閣議の代表者にして主宰者である総理大臣がいなくなってしまいますと、閣議は開けず、合議体としての内閣は機能できなくなります。たとえそれが国会開会中であっても、天皇がその者を総理大臣に任命するための閣議による助言と承認、そのものが行えません。また、閉会中でしたら、国会を召集するための助言と承認もできないということになります。やはり、総理大臣継承権の明記というのは必要ではないかと思います。
 また、前川委員が触れられましたとおり、私も憲法とは、憲法の本質というのは権力制限規範、それであると思っております。憲法でいいますのは、主権者である国民から選ばれた代表者がその託された権力を濫用することがないように、国民の意思として権力者に制限を課す規範だと私は思っています。
 ですので、前文も含めまして、愛国心を盛り込む云々という議論があります。私も私なりに強い愛国心を持っているつもりですし、皆さんも、そして国民の皆さんもそれぞれに愛国心を持つべきだと思います。しかし、その内容や在り方につきましては、各人それぞれが良心に従って自然に決めるべきものであると思います。少なくとも、公権力によって強制されるべきものではないと私は思います。
 最後に、二院制についてです。
 二院制のところで、私は外交、つまり条約に関しましては明確に参議院が優越性を持つべき、そう思っています。今年は自民党結党五十周年のみならず、日露戦争勝利、ポーツマス条約締結から百周年に当たります。あの苦しい戦争が最後は講和条約にこぎ着けたのは、テオドア・ルーズベルト大統領と金子堅太郎の人的つながりがあったことが大きかったと言われています。やはり、広い選挙区と長い任期で安定した基盤を持つ参議院議員が議員外交を通じてどんどん人脈をつくって、長期的視野に立って外交をしっかり行っていく、そういうことが必要ではないかと私は思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 富岡由紀夫君。
○富岡由紀夫君 民主党の富岡由紀夫でございます。
 改憲の議論の中で一番よく出てきている集団安全保障、集団的自衛権の問題でございますけれども、今こういう議論がたくさん出ております。そして、イラクに自衛隊を派遣して、イラク特措法との関係で、イラクに派遣した自衛隊が違憲か合憲か、法律に違反しているか違反していないか、いろんな議論がありますけれども、そもそも、その前に国際貢献の在り方というものをもう一度国民の間で改めて私は議論する必要があるんじゃないかと思っております。
 国際貢献の在り方というものが議論されないままに、集団安全保障を憲法に入れるのか入れないか、権利行使できるようにするのかしないか、集団安全保障を日本も行使できるようにした方がいいんじゃないか、そうじゃないんじゃないか、いろんな意見がありますけれども、そもそも国際貢献の在り方というものがまだまだ国民の間で私は十分議論されていないと思っております。
 国際平和、世界平和の在り方、どうやったら実現できるのか。憲法にありますように、例えば具体的な専制と隷従、圧迫と偏狭、これらをなくす方法はどういうやり方があるのか、これを改めてしっかりと議論する必要があると思います。何も、世界じゅうから戦争をなくして平和をつくり上げるためには、武力行使、軍事的な介入だけが国際平和を築ける唯一の方法ではないと私は思っております。非軍事的な国際貢献の在り方もあると。
 日本がその中で軍事的な貢献をするのか非軍事的な貢献をするのか、私は改めて国民の間で議論をして、そして認識を一つにする必要があると思います。その上で、非軍事的な貢献だけじゃ足りない、軍事的な貢献もすべきだといったときに初めて憲法の改正の話が出てきて、そしてその中で集団安全保障の行使、集団的自衛権の行使が可能にできるかできないか、そのような議論が私は順番としてなってくるんじゃないかというふうに思っております。
 日本は、その中で考えなくちゃいけないのは、どうしてもやっぱり世界で唯一の被爆国ということでございます。そして、平和憲法というものを持ってきた国、こういった立場を考えて、本当に国際貢献の在り方、国際平和の在り方、世界じゅうから戦争をなくすにはどうしたらいいか、そのやり方を、日本の役割をしっかりと国民の間で議論する必要があると思います。
 私は、基本的に日本の今までの立場、日本の今までの憲法を考えますと、やっぱり非軍事的な分野で貢献するのが、日本の国際的社会の中で名誉ある地位を占めるやり方の一つの方法ではないかと私は思っております。工業技術の世界へのいろんな移転、科学技術、そして農業技術、教育、医療、そして金融制度や社会構造のいろんなノウハウを国際社会の中で広めていくと。そして、先ほど来からお話、議論ありましたけれども、環境問題、まさしくCO2の削減、温暖化の防止、これらについて日本は先進的な役割、技術的な開発を行って、国際社会の中で先進的な役割をする、これこそまさしく国際貢献、平和貢献のすばらしい私は在り方じゃないかと思っております。
 そして、私は、やっぱりこの世界の貧困の、戦争状態というか、先ほど来ありました専制と隷従、圧迫と偏狭、これらの一番大きな原因は、私はやはり貧困にあるんじゃないかと思います。先ほど言いましたような非軍事的な分野、いろんな科学的な分野、いろんな食料問題の問題とか医療問題とか、こういったことをクリアすることによって貧困をなくして、そして一番のそういう争い事のもめ事であるものをなくしていくというやり方をやるのも、私は、立派な国際貢献の私はやり方じゃないかというふうに思っております。
 あと、集団安全保障、集団的自衛権の行使、これを議論するときに、私はやはり具体的にいろんなケースを想定する必要があると思っております。
 例えば、日本が集団安全保障に参加できるようになって、国連軍なり多国籍軍に日本の軍隊が行きますと。そうしたときに、その行った軍隊の軍人が外国の人を殺す、若しくは日本の派遣された軍人が殺される、こういったことが想定されます。
 そういったことが起きた場合に、これはあくまでも想定されるケースでございますけれども、その軍隊に派遣する人を募集したときに集まらなかった場合はどうするのか。国際貢献で日本の人を国連軍なり多国籍軍に出すんだけれども、人が集まらなかった。そのとき、政府として徴兵制ということを考える可能性はないのか。そういったことも私は十分国民の間で議論してもらって認識してもらう必要があると思います。ありとあらゆるケースを想定してリスク管理を行ってやるのが我々、いろんな憲法を改正するに当たっての我々の責任でもありますし、国民の皆さんにそれを理解してもらうのも我々の責任であると思っております。
 したがって、安易に多国籍軍の参加、国連軍の参加、本当にいいのか、国民に本当にそこまでの覚悟ができているのか、このことをしっかりと私は国民の間で議論していかなくてはならないと思っております。徴兵制もいとわないのか、本当に自分たちの子供とか、若しくは我々自身が軍隊に派遣される、徴兵されて派遣される、そういった覚悟が本当できているのか、このことをしっかりと国民の間で私は議論するべきだと思っております。
 まず最初に、日本の国際貢献の在り方、世界から紛争や戦争をなくす在り方、日本がどうやってやっていくのか、これをしっかりと国民の間でもっともっと議論をすべきだと思っております。そして、その後に憲法の改正、いろんな自衛権の行使ができるようにするかしないか、そういった議論にすべきだというのが私の意見でございます。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 時間も大分迫ってまいりましたが、二回目の方は後半に回させていただきまして、この調査会で初めての発言でございます。山本順三君。
○山本順三君 ありがとうございます。二回目でございます。
○会長(関谷勝嗣君) 失礼いたしました。
○山本順三君 実はもう取りまとめということになってまいりまして、また我々はまだ半年余りしかこの会に出ておりませんけれども、過去五年間かなり内容の濃い議論をしてこられたということでしょうから、もう取りまとめもそろそろ時期なのかなというふうに思います。
 ただ、この場で政治家として様々な憲法改正論議をぶつけ合わすということは非常に熟してきたんだろうと思うんですけれども、先ほど来お話がありますとおり、じゃ国民の一般の世論として果たしてどこまで機運が高まっているかということについてはまだまだこれからじゃないだろうかな、こういうふうな感触を私自身は受けています。したがって、逆に我々政治家の責任というものがこれからますます高まってきたんだということをつくづくと思っているんですけれども、そういった中でこの憲法改正、国民の皆さん方にある程度分かりやすいところからスタートをしていかなければならない。こうなってくると、まず最初に思うことは、今の憲法と現実とが大きく離れている、懸け離れている、あるいは違憲というふうな議論が出てくるような条文の改正というものは、これはしっかりと国民の皆さん方にアピールをして、そしてそのことについての議論を呼び起こしてその方向性を明確化していくという作業が当然必要になってくるんだろうと思うんです。
 今ほどずっとお話が出ておりますけれども、憲法九条につきましても、これこのままで国民の皆さんが今の自衛隊の状況を踏まえた上で納得できる条項である、条文であるかどうか。これは私どもはもう火を見るよりも明らかで、しかとした改正をしていかなければならないだろう、こういうふうに感じておるところでございまして、特に自衛隊の位置付けというものを明確にしていくこと、あるいは今ほどお話にあった国際貢献というもの、これもいつまでも国民の議論議論というのではなくて、我々が言わば誇りある国家としてこれから進んでいく上でどうあるべきかということを国民に対してアピールしていく、そういった意味での国際貢献ということについてあるいは国際協力ということについての対応というものがこの改正の中で取り上げられなければならない、このように思っております。
 それからもう一点。やはり違憲ということでよく出てくるんですけれども、第八十九条です。私学助成、これが憲法違反ということがよく出てまいります。
 この案件につきましても、もう皆さん方の議論としては恐らく一致するところであろうと思うし、国民の皆さん方にもそのことをしっかりとアピールする中で、今、私学が果たしている役割、これはもう掛け替えのないものでもありますし、そしてその私学助成というものが憲法違反であるというふうな話をされるならば、それは違うよということを明確に、我々政治家の責任の下にアピールしていかなければならないだろう、こういうふうに思っておりまして、ある意味では私学助成というものを憲法に明文化していくということを私は提案をさせていただきたいというふうに思っておるところであります。
 それからもう一つ、憲法改正をしていく上で非常に大切な視点になるのが、これからの新憲法が目指す国家像がどうあるべきか。これにはいろんな国家像があると思うんですけれども、私は一つだけ提案したいと思いますけれども、明治憲法なりあるいは現憲法なりができた背景と、これから、戦後六十年、つくっていこう、新しい憲法をつくっていこうという時代背景の中で一つ大きく違うことは、中央集権国家を目指していくのか、あるいは地方分権の国家を目指していくのかと。これはもう地方分権一括法が制定されて大方の皆さん方、地方分権という方向に入っていくんだというような、そういう方向付けを理解いただいておると思いますが、現実問題どうだろうかというふうに考えたときには、なかなか地方分権がこれからどんどん進むかどうか、非常に不安材料がはるかに多くあるわけでございますし、憲法でも九十二条から九十五条に、何か、まあ私の感触からいきますと、ついでのように地方自治というのが出ておる。これでは本質的に地方分権が進められるのかどうなのかということを非常に危惧します。
 先ほど、自民党の森元委員の方からお話がありました、地方自治の本旨というものをもっと具体化して明確化していく。あるいはまた課税自主権の問題も出ておりましたし、そしてまた、これからの地方自治を考えていく上で道州制どうしていくかというような議論もあろうかと思いますけれども、そういった問題点をしっかりと憲法に位置付けていく、こういうふうなことが大変重要であろうと思いますし、今ほど申し上げた、中央集権から地方分権への社会になっているということをしかと憲法の前文に位置付けをしていくということが私は非常に大切であるということを申し述べて、意見発表に代えたいというふうに思います。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、本日の初めての発言でございます。北川イッセイ君。
○北川イッセイ君 どうもありがとうございます。
 今日の議論の中で、憲法前文ということで、歴史、伝統、文化を大切にする、そういう国民性というようなことがございました。岡田委員の方からもそういう発言がありました。その他、田先輩からもそれに反論というような形であったわけでございますが、私自身はこの歴史、伝統、文化を前文の中へ入れていくということは、私は本当に大賛成なんです。特に、歴史というのは別にしましても、伝統、文化、これはもう絶対に入れなければいけないというような思いがいたしております。
 私がこの伝統、文化を大切にすると言うことは、何も言われているような復古主義それから日本の軍国主義を復活する、そういうようなことではないんだということで、それが最大の条件になるわけですけれども、私が言いたいのは、例えば、自分の祖先、先祖、そういうようなものに対して敬意を払う、敬う、そして自分自身が今現在ここに生存しておるということに対する感謝の気持ち、そういうようなものが絶対に必要だと、こういうふうに思ってならないわけです。
 そういうように考えますと、この二十条の宗教、この伝統、文化というのは宗教の絡みが非常に多いですから、その源泉は宗教にあるというようなことが非常に多いわけですから、それを考えていきますと、この第二十条ですね、これとの絡みが出てきます。
 この二十条をこのまま生かす、あるいはその精神を生かしていくということであれば、この「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」ということなんですが、その中にそういう伝統、文化というようなものも入ってくるというような、そういう考え方もあるわけでございまして、先ほど申し上げた、例えば、毎日、仏さんに手を合わせて拝むとか、月一遍お墓にお参りするとか、そういうようなことを、分かりやすい話をしますと、そういうことなんですけれども、そういうようなことも入ってくると、これはなかなかそういう考え方が進まない、こういうことだと思うんです。
 第二項で、何人も宗教上の行為あるいは祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない、それはそれで生かすということであれば、それでいいんですけれども、そういうことを生かして伝統、文化を大切にしようということになっても、国あるいはその機関が積極的に伝統、文化を大切にしていこうということにはなってこないと。消極的に、それはやるのは勝手にやったらよろしいよというようなことであって、もっと積極的にそういうようなものを、伝統、文化を国民に普及していくということにはならないんじゃないかなというような思いがしてならないです。
 それで、私は、この二十条の条文を生かすんであれば、例えば二項、三項の後に、国民共通の伝統、文化、風習、そういうようなものを否定するものではないというような趣旨のことも必要なんじゃないかというような思いがいたします。
 それから、最後に蛇足なんですが、大先輩の田先生の方から、韓国の盧武鉉大統領が日本の反省が足りないと、こういうようなお話がございました。これはまあ外国の大統領が日本に対してどう言おうと、それはいいわけですけれども、しかし、私自身は別に田先生に反論するわけじゃないですけれども、日本ほどさきの大戦について反省している国はないと、そういうような思いがしています。
 まず第一に、絶対平和主義でなければいけないということですね。それから、平和に対して世界に貢献をしていこうと、こういうことはこの日本人全体のコンセンサスができ上がっておると、こういうように思うんです。それが一番の反省だと、こういうような思いがしてならないわけです。
 これから世界に対して日本が本当に反省していますよということをアピールしていく、その一つ、唯一の方法は、世界に対する平和に貢献をしていくということではないのかなというような思いがいたしております。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 次に、前川清成君。
○前川清成君 前川清成です。
 今、加藤議員から環境権についての積極的な御発言がありました。また、私たち民主党の鈴木議員から生涯学ぶ権利についての提案もありました。
 ただ、これらの権利については、実現のために国家の作為を必要とします。もちろん、これら権利に自由権的な側面はありますが、本質は社会権でありまして、国家が何かをやることで実現される権利、国家による権利、フリーダム・スルー・ステートと、こういうことになります。現在の憲法二十五条もそのような条文を置いていますので、役割自体、その方向自体は否定しませんが、国家による自由というのが拡大しますと、国の仕事というのがますます大きくなります。そうなりますと、国家と国民との接触の場がますます大きくなって、人権が侵害されてしまうという危険性もどんどん大きくなってしまいます。
 ですから、私はこのように国の役割が大きくなっている今だからこそ、国家による自由、すなわち国家権力を制限することによって国民の権利を守るんだというその憲法の制限規範性というのは幾ら強調しても強調されることはないんじゃないかなと、こんなふうに考えています。
 それと、今、北川先生の方から憲法二十条についての言及がありました。
 私は、この憲法二十条については戦前の国家体制に対する深い反省から生まれていると、こんなふうに理解しています。具体的に言いますと、神社神道、とりわけ靖国神社と軍国主義が結び付いた、戦争で死んだならば神様になって靖国神社に祭られる、そういう思想の下で戦死者を拡大再生産していった、そういう反省がこの憲法二十条で詳細な政教分離の規定を置いている原因ではないのかなと、こんなふうに思っています。ですから、現実の政治が、小泉総理の靖国神社参拝にありますように、神社神道との、国家との結び付きが顕著である以上、やはりこの二十条の重要性というのは否定できない、こんなふうに思っています。
 例えば、中東の紛争にあるように、宗教の意義について教育することは大切ですが、知識として、キリスト教はこんなもんです、仏教はこういうもんですというふうに教えることは、憲法二十条三項に言う宗教行為という文言には該当しないのではないかな、こんなふうに考えています。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) 喜納昌吉君。
○喜納昌吉君 国益、それから愛国心を人類益とか地球愛に高める時期に来ているのではないかと私は思っています。
 天災、地災、火災とか、文明の在り方による地球の生態系破壊は、国家の概念は過去のもの、あるいは不要なものにしつつあるように感じます。地球の富というのは大体時間、空間に限られていますから、これらの有限な地球と付き合うコツは、大体私、付き合うコツは、共に生きるという共生の概念革命が必要のような感じがします。
 グローバル精神は、西洋文明、特に白人文明によって進んでいます。そのことは人類精神の半分でしかないような感じがします。地球の富を人類益、地球益に還元させ、地球を運営していくためにも、日本が率先して国連を手繰り寄せる力が必要だと私は思っています。大胆に国連を手繰り寄せて、大胆に改革していくことが大事だと思っています。憲法改正はそこのところを見据えていくことが大事だと思っています。
 今日、進行しつつあるトランスフォーメーションは、潜在的に米中戦争、米中戦争をはらんでいるということです。そして、日本のこの首都に米軍の司令部が置かれるということは大変なリスクを背負うということになります。私は、近いうち来るだろうというこの日本国の危機に対してどういう対処していくかというところに僕はその視点を持っていくべきだと思っています。
 そのためにも、日本は国連の五分の一の分担金を払っていますし、それから思いやり予算というものを、もう莫大なものを払っていますし、私は国民としてはっきりもっともっと物を言う権利があると思っています。そして、なるべくならば沖縄に国連を誘致していくぐらいの私は大胆な計画を持って憲法を見据えていくという。
 なぜならば、なぜ私はそういうことを言うかといいますと、今、アメリカのアジェンダ、計画では、この十年以内に国連を解体するという計画さえもあるという情報が入っていますから、そういうことを見据えて、やはり国連を日本が手繰り寄せ、改革していくぐらいの勇気と知恵を持った憲法改正も必要ではないかと私は思っています。
 よろしくお願いします。
○会長(関谷勝嗣君) 愛知治郎君。
○愛知治郎君 ありがとうございます。
 何点かあるんですけれども、先ほどちょっと気になることで一つあったんですが、内閣に関しての御発言があったと思いますけれども、誤解があるとちょっと困るというか、その点について触れさせていただきたいと思います。
 内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で指名し、天皇が任命する、内閣という合議体の首長であると私自身は理解をしております。明治憲法においては、内閣総理大臣は同輩中の首席にすぎず、他の国務大臣と対等の地位にあるにすぎなかったものでありますけれども、日本国憲法上は、内閣総理大臣に首長としての地位をしっかりと認めて、それを裏付ける国務大臣の任免権をしっかりと与えていると。特に罷免権は重要なんですが、そういった権限を与えている。また内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する権限を与えている。つまり、合議体としての内閣上、その中心の首長としての地位、立場、特に任免権なんかはそうなんですが、しっかりとした権限を与えておられる。だからこそ内閣の一体性というのは当然のごとく求められるし、その実質的な権限があると。
 総理大臣のリーダーシップに関して言えば、少なくとも憲法上はしっかりとした権限がある、十分にこの国のリーダーシップを取っていくことが可能であると私自身は考えております。現状はなかなか進まないのは、それ以外の問題、憲法上の問題以外の問題、政党との関係とかの問題があるんではないかというところをまず指摘をさせていただきたいというふうに思います。
 また、二十条についてなんですが、先ほど御意見あったとおりに、宗教教育一切認めないというのではないというのも確かにそのとおりなんですが、何となく、憲法上もですし歴史上もありますけれども、アンタッチャブルのような感覚でとらえられているというところが一番問題ではないか。憲法上認めるか、書くかどうかというのは別にしても、いずれにせよ宗教的な価値観をしっかりと国民が学んでいかなければいけない。特定の、国の権力が押し付けることはこれは駄目ですけれども、その背景についてもう少し勉強しなくちゃいけない、学んでいかなくちゃいけないということだけははっきりと言えます。
 私自身が、もっと小中学生というか義務教育の段階でいろんな価値観というのを学んでおればなという、今一生懸命学んでおるんですが、子供たち、それから国民の多くの方々はまだまだ足りないんではないかという問題提起だと思っていただければと思います。
○会長(関谷勝嗣君) それでは、予定の時刻も参りましたので、仁比聡平君で最後にいたします。
○仁比聡平君 ありがとうございます。
 二つ申し上げたいと思います。
 一つは、閣議の全員一致の問題がリーダーシップの阻害になるという御意見が先ほどあったわけですけれども、単純な疑問として、首相が自ら任免権を持っている閣僚の中ですら全員一致にならないような、そういうような事柄を行うのが果たしてリーダーシップなのかということについて私は大変な疑問を持ちます。よく考えると、それは、言葉が少し過激かもしれませんが、専制政治あるいは独裁政治と呼ばれてもおかしくないような姿になりかねないのではないかというのが第一点です。
 二つ目は、国際貢献の在り方についての御意見があったわけですけれども、私、せんだっての臨時国会の最中、十月に、この参議院から三人の代表としてIPU、列国議会同盟の世界議会人会合に参加をさせていただきました。その私が参加をした分科会に対する国連本部からの基本的な提案というのは、国連の平和維持活動、この在り方が、従来の軍事的な措置によるものではなく、非軍事的な措置による平和維持の在り方というのが大きなテーマになっているということだったと私は理解をしました。
 その国際会議の議場の中でも、あるいは国連にお勤めになって頑張っておられる日本人職員の皆さんとの懇談の中でも、日本の国民あるいは政府、NGOをくるめて、例えば選挙、あるいは立法、あるいは社会保障や経済運営、雇用問題などにかかわって、そういった非軍事的な支援を紛争地帯に行っていくことこそが必要だということが語られていたのが大変印象的でした。
 中でも、その議論の中で、法の支配の実現という言葉が国連の場でも語られていました。それぞれの地域の歴史や文化、その発展、特色をしっかり踏まえた上でのその法の支配の実現こそというのが、実は世界の舞台でも平和を語る上での現実の課題になってきているのではないかというふうに思います。
 以上です。
○会長(関谷勝嗣君) ありがとうございました。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後四時五分散会

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