第155回国会 参議院憲法調査会 第4号


平成十四年十一月二十七日(水曜日)
   午後一時開会
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   委員の異動
 十一月二十六日
    辞任         補欠選任
     松岡滿壽男君     平野 達男君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         野沢 太三君
    幹 事
                市川 一朗君
                武見 敬三君
                谷川 秀善君
                若林 正俊君
                峰崎 直樹君
                山下 栄一君
                小泉 親司君
                平野 貞夫君
    委 員
                愛知 治郎君
                荒井 正吾君
                景山俊太郎君
                亀井 郁夫君
                近藤  剛君
                世耕 弘成君
                常田 享詳君
                中曽根弘文君
                福島啓史郎君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                伊藤 基隆君
                江田 五月君
                川橋 幸子君
                高橋 千秋君
            ツルネン マルテイ君
                角田 義一君
                松井 孝治君
                若林 秀樹君
                魚住裕一郎君
                続  訓弘君
                山口那津男君
                宮本 岳志君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                平野 達男君
                大脇 雅子君
   事務局側
       憲法調査会事務局長
              桐山 正敏君
   参考人
       東京大学大学院情報学環教授
              濱田 純一君
       上智大学文学部教授
              田島 泰彦君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (基本的人権
  ―市民的自由)
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○会長(野沢太三君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「基本的人権」のうち、「市民的自由」について、東京大学大学院情報学環教授の濱田純一参考人及び上智大学文学部教授の田島泰彦参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、濱田参考人、田島参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず濱田参考人にお願いいたします。濱田参考人。
○参考人(濱田純一君) 御紹介いただきました濱田でございます。本日はよろしくお願いいたします。
 私は、日本における表現の自由というものについて大づかみの説明をさせていただきたいと思っております。表現の自由をめぐりましてはいろいろな考え方がございますので、私の考え方を述べさせていただくと同時に、全体の学説の動向などにも触れながらお話し申し上げたいと思います。
 表現の自由というのは、一言で言いまして極めて政治的な性格の自由でございます。その内容において、政治にかかわり、政治に大きな影響を与えると同時に、政治的な圧力であるとか影響にさらされやすい自由でございます。
 こうした性格から、憲法理論上は、アメリカの理論や判例の影響を受けながら、表現の自由の優越的地位ということ、つまり表現の自由の制約の合憲性審査というものは他の自由に対する制約の合憲性審査よりも厳しい基準によって行われるべきであると、そういう考え方が憲法学界の中で有力に主張されてまいりました。
 民主主義の政治過程をうまく機能させ、あるいは政治や行政からの不当な影響力を受けないように、特に慎重に自由を保護する配慮が行われてきたわけでございます。裁判所は、こうした学説上の理論をそのまま受け入れたわけではございませんけれども、それに一定の影響を受けつつ、利益衡量の考え方に立って紛争を処理してきております。
 これは理論面の話ですが、他方、表現の自由の政治的な性格から、現実社会の場においては、表現の自由というのは政治的な緊張と絡み合いながら存在してまいりました。特に、戦後、冷戦体制の下で一種のイデオロギー選択あるいは体制選択というものが大きな政治的イシューであった時期には、表現の自由は激しい政治的対立の渦中に置かれてきたと言ってよいと思います。
 その際に、時の政権あるいは時の体制に反対する運動の側は表現の自由というものを強調し、労働運動や集会、デモ行進あるいはビラ張りなどにおける表現の自由を主張いたしました。この時期、こうした事件が多数裁判所でも争われております。
 他方、とりわけ一九七〇年代からは、学説上、アメリカ型の憲法訴訟論の導入が行われまして、先ほど述べましたような表現の自由の規制について厳格な合憲性審査基準の適用を求める理論が有力に展開されました。結果として、ここでは表現の自由を擁護する運動の側と理論の側の一種の共闘状態が生まれたと言ってよいかと思います。ただ、両者は完全に重なり合ったわけではなくて、憲法訴訟論を離れて、体制批判の有力な後ろ盾として表現の自由という言葉が法律論の形を取りながら運動論的にも用いられると、こういう状況もございました。
 こうした形で運動論が法律論と絡み合うことにはプラスとマイナスがございます。表現の自由が政治的な性格を持つ以上、理論が運動と絡むのは全く自然のことであります。また、運動論的な言葉の用い方を通じて、結果として表現の自由の理解あるいは価値に対する社会の認識が進む場合もございます。他方、運動の目的のために表現の自由というものが言わば安売りされて、憲法学上の厳密な概念ないし理論としての性格をあいまいにする危険もあります。
 このように利害得失があるわけですが、いずれにせよ、仮に憲法学という学問の立場で正確な議論をしていく場合には、運動論上の表現の自由の概念と法律論上の表現の自由の概念というのは、これは慎重に区別していかなければいけないところであります。
 こうした展開の中で、運動と理論の絡み合いの一例として挙げられるのがアリの一穴論でございます。つまり、堤防に空いたアリの穴から堤防全体が崩れることもあると、そういう議論で、表現の自由に対するたとえわずかな規制であっても、それを認めてしまうとやがてより大きな侵害の呼び水となると、そういう考え方でございます。
 これは、自由の防御の理論としては極めて有用であるわけですが、他方で、人格権を始めとして他の重要な諸利益との慎重な調整を拒否しがちであり、社会的に必要な規制を荒っぽく排除してしまう危険性を持ちます。
 今の日本では、表現の自由論については憲法学の世界で比較的議論が乏しくなっております。のみならず、後ほどこの報道の自由のところで申し上げたいと思いますが、そこで見られますように、自由の保障範囲をめぐる考え方の違いもかなり憲法学界の中でも出てきております。
 これは、一つには、かつてのような政治的対立の緊張が弱まったこと、また、そのことともかかわり合いながら、これまでのようなアリの一穴論というものの社会的な説得力がやや弱まってきたというところがあるのかと思います。
 次に、報道の自由についてお話し申し上げたいと思いますが、報道の自由は、御案内のように日本国憲法の明文上規定されておりませんが、これはアメリカやドイツの憲法などとの大きな違いでございます。ただ、最高裁判所は、国民の知る権利に奉仕するという観点から、憲法二十一条は報道の自由も保障しているとしておりまして、かつ、報道の自由は表現の自由のうちでも特に重要なものというふうに述べております。
 この「表現」、この言葉は報道の自由に一般的な表現の自由以上に大きな保護を与えようとしているかのようにも読めますが、この点は学説上余り深められていないところでございます。報道の自由についての比較的最近の学説の中には、この自由は、個人、自然人の人権とは異なり、法人の人権であると。その場合に、そうした法人の人権の保障の根拠になるのはそうした法人に期待される社会的機能であるから、その機能を満たす限りでのみその自由が保障されるんだと、そういうふうにも理解できるような見解、考え方がございます。
 ただ、報道の自由は、言わば、私の理解では自然人の人権と法人の人権との混合物とでも言うべきものでございまして、欧米を見ても、一般的な表現の自由よりも報道の自由の保護範囲を限定しようとする考え方は見られないように思います。むしろ、その逆の傾向があるというふうに言えるかと思います。
 ただ、現実的には憲法学者の間でも、近年のように個人の人格権侵害の問題を引き起こしがちな報道機関に対する風当たりはかなり強くなってきております。
 例えば、国会で審議されている個人情報保護法案における基本原則部分の報道機関への適用については、新聞などでは伝えられることは少ないわけでございますが、賛成する憲法学者も少なからず存在しております。人権擁護法案における報道関係規定なども含めて、かつてであればかなり大きな反対論が起きたであろうような問題について憲法学者の多くが発言を控えているように見られる背景には、さきに述べましたような表現の自由をめぐる環境の全般的な変化と同時に、報道の行き過ぎないし報道機関の権力性に対する批判があると思います。
 私は、その個人情報保護法案に見られるような報道機関に対する一定の制約について正確な法律論的な議論をするのであれば、直ちに憲法違反になるとは考えておりません。そうした立法をするかどうかは憲法政策上の適不適の問題であろうと思います。だからといって個人情報保護法案が直ちに政策上適当であるというふうにも思っておりませんが、いずれにしても、これは憲法に違反するかどうかという、そういうたぐいの問題ではないというのが法律論としての私の理解でございます。
 ただ、さきに申し上げたように、法律論上の概念云々は別にしまして、表現の自由に対する危険をできるだけ手前で食い止めようとする運動論は、表現の自由が民主主義社会の根幹を成すものであるということを考えれば、それとして理解できるところもございます。
 要は、表現をめぐる自由と規制の調整において、運動論的な立場からであれ、とにかく主張や論点を明確に示す議論が行われる、そして最終的にそれらの間の調整が慎重に図られるべきことであろうと思います。言い換えれば、こうした調整の場面ではどちらか一方の考え方が相手方の考え方に対して致命的な打撃を与えてはならないということであります。その意味では、こうした自由と規制の調整というのは何か一つの手段を取ればそれでおしまい、解決するということではなくて、長期的、継続的に慎重に調整というものを行っていく必要があろうかと思います。
 表現の自由の立場だけからすれば、規制への圧力はもちろんないにこしたことがないわけですが、ただ、現実の社会には表現の自由以外にも重要な社会的利益が存在しているわけでありまして、そうした利益を実現するために必要な規制との緊張の中で社会的存在としての自由が成熟していくものであろうと思います。
 例えば、私の経験で申しますと、旧郵政省の研究会などを通じて放送界における放送と人権等権利に関する委員会、いわゆるBRCでございますが、あるいは放送と青少年に関する委員会といった自主規制組織の設立を促す仕事をしたことがございます。これを自由への介入であるというふうに批判する人たちもおりましたけれども、こうした一見規制的な動きがなければそのような自主規制組織は決してできなかったであろうと思っております。
 社会の利益を代弁する規制のモメントとの適切な緊張があってこそ自由が成熟していくものであろうと思います。実際、こうして生み出されたその後のBRCなどの例を見ますと、これはその委員でこちらにいらっしゃいます田島先生たちの御努力もあり、第三者組織による救済という新しい文化をこの日本に根付かせつつあるというふうに感じております。
 この表現の自由ということについては、特に情報化社会の進展の中で新しい局面が生まれているように思います。インターネットの発展、そしてそれによる国民一人一人の表現の機会や多様な情報入手の機会の拡大というものは、表現の自由を具体的に実現するために革命的といってよいほどの変化をもたらしたと思います。良しあしはともかくとして、そうした表現活動を抑制しようとすることは、かつての表現手段の時代と比べると格段に困難になっております。といいますか、事実上不可能になっているところもございます。その意味では、やや憲法学者としてはだらしのないことですが、技術の発展というものが憲法の理論よりも自由を拡張するのに貢献したという印象を持つことさえございます。
 これは逆の面から申しますと、今の時代に表現の自由を実現しようとするときには、電気通信のインフラストラクチャーを始めとして、コンピューター技術や通信産業の構造の在り方などに関する政策が重要な要素になってくるということでございます。こういった電気通信のインフラストラクチャーは、もちろん表現の自由だけではなくて商取引や医療、教育など国民の様々な福利の増進に役立つものでございます。
 私は、現代社会では情報に対する権利というものを意識することが重要であるというふうに申しております。昔であれば、情報を利用できるかできないかによって生活の質に大きな差ができるということは比較的に少なかったわけですが、現代のように情報があふれ返っている、そういう時代では、情報をうまく活用できる環境にあるかどうかということで生活のレベル、豊かさというものが大きく異なってまいります。いわゆるデジタルデバイドというのがこの問題を指摘しているものでございますけれども、こうした時代には、情報というものを権利の対象としてはっきり意識し、それを実現するにふさわしいインフラ整備、制度整備をしていくということが国や地方公共団体の大きな課題になってくるというふうに思っております。
 情報に対する権利というのは、ただ表現の自由という視点だけではなくて、全般的な幸福追求権や財産権あるいは社会権といった様々な場面にかかわってまいりますけれども、この今日のお話に引き付けて申しますと、表現の自由の将来というものを議論するときに、伝統的な自由と規制の対抗という字句だけではなくて、こうした情報技術の発展も踏まえた大きな文脈の中で表現の自由というものをどのように社会的に実現していくのか、そういう視点を持つことが重要であるというふうに思っております。
 このように、憲法で保障され、とりわけ大切だと考えられてきた表現の自由が何のために必要なのか、日本で十分に深い議論がこの点について行われてきたわけではございません。基本的にはアメリカの議論の借り物のようなところが多いわけですが、少なくとも民主主義のプロセスをうまく機能させるために不可欠であると、そういう点は異論のないところであろうと思います。
 この観点からすれば、政治にかかわる表現活動というのはとりわけ手厚く保護されてしかるべきであろうと思います。
 確かに、ここにもいらっしゃる政治家の方々の立場からすれば、報道機関の政治報道などはしばしば不快なケースもあろうかと思いますし、またそうした報道が本当に成熟した政治報道と言えるかどうかについては私も疑問に思うこともございます。ただ、民主主義社会の政治というものは、表現の自由を寛容を持って育てていくというところに今要諦があるというような気がいたします。
 そして、表現の自由の価値というのは、こうした政治的な意味合いだけではございませんで、個人の自己実現、つまり表現行為を媒介として個人の人格の成長や能力の発揮を図るという側面もございます。その意味では、今しばしば言われておりますような社会における個性の尊重、個性の発揮というものと連動している自由であるというふうに考えております。
 さらに、表現の自由というものは、社会に自由な空気を生み出し、社会の活力や創造力を生み出す自由であろうというふうに思います。これは必ずしも実証できるわけではございませんけれども、アメリカにおけるああした創造力というものは、恐らく修正一条で表現の自由というものが幅広く保障されているということ、これと何らかの関連があるものであろうというふうに考えております。こうした活力、創造力を生み出す過程では、わい雑な表現であるとか好奇心をあおるような表現というものもしばしば出てくるでありましょうが、ある程度はそうしたものも社会の活力の源泉とみなされなければいけない面もあろうかと思います。
 表現の自由は、熟成させるのには大変難しい自由であります。一方では乱用されやすい自由ですし、他方では規制の誘惑に駆られやすい自由でございます。この私も十分に寛容な人間であるつもりでございますけれども、余りへ理屈を言う学生には力ずくでも黙らせてやりたい誘惑に駆られることもございます。
 そしてまた一方で、この自由というものは民主主義政治の根幹にかかわり、社会の活力や個人の自己実現の源になる、そういう側面とともに、他方で、この自由は個人の名誉やプライバシーを脅かす、青少年に有害な影響を与える、あるいは国家の存立を左右することさえございます。
 こうした自由を様々な利害調整の中で成熟させていくということは、何か一つの大胆な手法を取ればそれですべて解決ということでは決してあり得ないものでございます。特に、今のような安定した社会におきましては、自由に対する規制の根拠あるいは効果、自由に対する影響、そういうものをきめ細かく詰めながら、辛抱強く開かれた議論を重ねていくことが何よりも重要であろうというふうに考えております。
 以上のところで私の説明を終わらせていただきます。
 どうもありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、田島参考人にお願いいたします。田島参考人。
○参考人(田島泰彦君) よろしくお願いいたします。
 本日は、本院で発言の機会を与えていただきまして、誠に有り難く存じます。
 ここでは、憲法やメディア法の研究者という立場から、憲法二十一条が保障する表現の自由をめぐる最近の動向、それからそれに伴う課題、その一端につきまして問題を提起させていただきたいと、そういうふうに思います。
 具体的に取り上げたいと思いますのは、一つは、現在、表現やメディアの在り方に重大な影響を与える一連の規制法案というのが国会などで議論をされております。そこで、こうした法案と表現の自由との関係の問題について検討してみたい、私の意見を述べさせていただけたらというふうに思います。
 それからもう一つは、その表現の自由にかかわるいわゆる新しい人権と言われるような一群の権利があります。知る権利あるいはプライバシーの権利などが特にかかわると思うんですが、こういう権利をどのように憲法上考えるか、そういう論点につきましてももう一つの柱として意見を述べさせていただけたらというふうに思います。
 基本的には、お手元に御用意されていると思いますが、私の発言メモがありますので、この柱に沿いまして発言をするということにしたいと思います。
 それで、早速、メモ書きの二、規制法案と表現の自由というところに入りますが、御承知のように、現在、国会では個人情報保護法案あるいは人権擁護法案、こういう法案が上程され、議論されております。さらに、これはまだ国会に上程されてはいませんが、自民党は、青少年有害社会環境対策基本法案、テレビのアナウンサーも時々正確に言えなくて間違う長い名前の法案なんですが、これが国会の上程に向けて取りまとめがなされている最中のようであります。
 これらはいずれも表現やメディアだけを対象とした法案ではありません。しかしながら、そこでは市民の表現・コミュニケーション活動やメディアの取材報道という活動もその規制の枠組みに収められております。そのために、特にジャーナリズムなどからは表現・メディア規制法案とかメディア規制の三点セットなどと呼ばれて、非常に厳しい批判が浴びせられてきました。また、このほかにも、同じく国会で審議中の有事関連法案の中にもメディア規制にかかわる仕組みが含まれております。
 そこでまず、このような一連の立法について、表現の自由の観点から検討を加えておきたいというふうに考えます。
 まず、メモ書きの1、個人情報保護法案のところですが、この法案は、基本原則と義務規定という二本立ての規制を内容としておりまして、このうち努力規定と説明される五つの基本原則は、メディアも含め、個人情報を取り扱う何人にも適用されるということに法案上なっております。他方で、大臣による改善・中止命令や罰則を伴う義務規定の部分ですが、これにつきましては、報道機関が報道目的で取り扱う個人情報については適用が除外されるという旨規定されております。
 それで、このうち、その適正な取得でありますとか透明性の確保などの基本原則部分についてですが、これがもしメディアにも要求されるということになりますと、政治や行政の不正などに対するメディアの取材、報道が不当に制約され、取材や報道の現場が萎縮し、場合によれば裁判に訴えられる格好の口実さえ与えることになってしまうのではないか、こういう危惧がメディアやジャーナリズムなどを中心に指摘されてきました。
 それからさらに、義務規定の免除につきましても、その範囲が報道目的という形で狭く規定をされているために、文学作品などはもとより、ニュース以外のワイドショーなどが広く規制の対象とされてしまうのではないか。あるいは、そもそも主務大臣が、ある個人情報が報道目的の情報かどうかということを認定するという構造になっているわけですけれども、これが果たしていいのかということにつきまして、様々な批判が提起されてきました。
 いずれにしましても、市民の表現やメディアの取材、報道に対する公権力によるかなり大幅な介入と規制をもたらすことが懸念されているわけであります。
 それからさらに、メモ書きの2、3の方に進みますけれども、もう一つの人権擁護法案というものですけれども、これは差別表現とともに、報道機関による一定の取材、報道も人権侵害とすることによって、表現に対する規制がこの法案では二重に加えられております。差別表現と報道機関の取材、報道の自由の規制という二重の規制が加えられております。特に後者、報道機関に対する規制の部分では、犯罪被害者及び犯罪被害者や被害者、被告人の家族などに対して生活の平穏を害するような取材や報道を行うことを人権侵害とし、これに対しては人権委員会による勧告、公表などによる救済の対象というふうにされております。
 ここでは、生活の平穏を害するという要件は非常にあいまいで漠然としていますし、それから公人、パブリックフィギュアですね、公の人、公人への適用を除外するという措置も特に取られておりません。こういうことなどから、この法案が通ってしまうと、メディアの取材、報道に過剰な制約が及ぼされるのではないか、そういう危惧や批判が同じく寄せられてきたわけです。
 それからさらに、3の方に行きますけれども、この点では、まず有害情報、有害な情報から青少年を保護するということを理由にして新たな立法措置を取ることが自民党で検討されております。これが、先ほど申しました青少年有害社会環境対策基本法案という法案であるわけです。ここでは、有害情報等の規制について、主務大臣など国の監督の下で、業界団体の設立も含め、自主規制の強化ということがメディア等に求められるとともに、もしその自主規制が不十分な場合には、大臣等が業界団体に対して勧告、公表などの権限を行使できるということが定められております。これは、行政による非常に強力な介入を認めている措置ではないかというふうに指摘をされるわけです。
 それからさらに、有事法制の関係では、政府の有事への対応に協力責務を課す指定公共機関という制度が導入されているわけですけれども、この指定公共機関にNHKなどメディアも組み込むというプランが問題にされております。これは本来、政府から独立して権力を監視する役割を担うメディアを政府の国策遂行の手段にしてしまいかねない提案ではないかということで、報道の自由から大変心配される状況があるわけです。
 以上を踏まえまして、メモの4、憲法二十一条の解釈改憲のおそれというところに入りますけれども、このような状況を眺めますと、個人情報の保護、人権の擁護、青少年の保護、さらには有事への対応と、こういう様々な名目で表現や取材報道に広く国家規制の網が掛けられ、そこでは大臣や人権委員会などの言わばお上が、表現の中身に深く立ち入り、その是非を判断し、ある種の制裁を加えると、こういう仕組みが作られようとしているということが分かります。さらに、ここでは、新聞など活字メディアも含めて、あらゆるメディアが幾つかの大臣や人権委員会など主務官庁の監督の下に置かれるということが想定されております。
 このように、一連の規制法案が成立すると、政府に規制されない自由な言論と権力から独立したメディアという、憲法二十一条が保障する表現の自由の核心的な部分が変質させられ、表現の自由条項が事実上改定されたに等しい重大な事態を迎えることにならないかという危惧を私は強めております。
 解釈改憲のおそれというふうに指摘しましたのは、憲法の条文は変えないけれども、いろんな立法措置が様々な形で取られることによって表現の自由の本質的な部分が変えられてしまうのではないかと、そのことを指しているわけです。法案の修正の議論もなされているようですが、恐らく、中途半端な修正ではこのような憲法上の疑念を到底払拭できないように私には思われるわけです。
 それで、メモの5のところに行きます。
 それでは、しかし、人権救済やプライバシーあるいは青少年の保護などのためにメディアを規制したり規律する必要はないのかといいますと、それがないという立場には私は立っておりません。ある種の規律を加える必要は当然あるというふうに思います。
 しかしながら、そのような規律は、今提案されているような法律によって権力的に押し付けるという、そういうものではなくて、裁判による調整ということを別にすれば、それはあくまでもメディアによる自主、自律の努力によるべきであるというふうに私は考えます。現に、放送や新聞など、この間、様々な具体的な取組が積み重ねられ、一定の実績も残しつつありますし、それから諸外国の例を考えても、メディアの人権侵害などの解決は基本的に自主的な仕組みにゆだねているというのが通例の在り方であるわけです。
 それで、規制法案の問題は以上にしまして、次の三、表現の自由に関わる新しい人権というところに入っていきたいというふうに思います。
 表現の自由をめぐって、より直接、改憲論議にかかわる問題というのは、正にそこで議論しております問題である。それは、端的に言えば、一つは、知る権利というような権利を表現の自由との関係で憲法上どう考えるかという問題であり、もう一つは、表現の自由としばしば緊張関係に立ち、それとの調整が求められる権利としてのプライバシーの権利というものを憲法上どう位置付けるかという、そういう論点であります。
 これらの権利は、いずれも憲法の中には言葉としては登場していません。しかし、今日では重要な人権として認めていこうというのが社会的な趨勢であります。このように、憲法自体には明記されていないものの、その後の社会状況等の変化の中で人権として新たに保障される必要が生じた人権のことを学界などでは新しい人権というふうに呼ぶことがあります。ここで扱おうとする知る権利やプライバシーの権利、あるいはさらには環境権などと言われる権利は、この新しい人権の代表的なものとして考えられています。それが、今の点がメモの1に記した論点ということになります。
 それでは、こうした新しい人権としての知る権利やプライバシーの権利についてどう考えるべきでしょうか。
 まず、メモ書き2の知る権利についてですが、この権利を憲法上承認すること自体についてはほぼ学説の支持を受けていると言っていいと思います。しかしながら、最高裁は、情報開示請求権としての積極的な権利としてはまだこの知る権利を承認しておりませんし、野党や市民運動などから強い要求がなされたんですけれども、情報公開法にもこの知る権利というのは明記されませんでした。
 情報公開制度が人権に基づく制度であり、その制限を最小限に抑え、公開原則を徹底するために情報開示請求権としての知る権利を承認し、それを法に明記することが必要だと思われます。しかしながら、市民社会の自由な活動への過剰な規制を避けるために、この知る権利と言われるものがたとえ認められるにしても、その対象というのは国や自治体を始めとする公共的な機関に限定することが必要で、特に表現の自由の観点からは、メディアに対してこの権利を安易に適用拡張することは慎まなければならないというふうに思います。確かに、メディアへの市民のアクセスというのは非常に大事な課題ではありますけれども、このことは国などに対する知る権利の主張とは根本的に性質が異なり、メディアの報道の自由を不当に他方で制約するおそれがあるからです。
 次に、メモ書きの3、プライバシーの権利についてですが、学説は一般にこの権利を憲法十三条が定める幸福追求権に含まれる憲法上の権利として認めております。さらに、判例も、最高裁はプライバシーという言葉をメディアとの関係の文脈では避ける傾向にはありますが、一般的には、判例も不法行為の保護対象として、この権利やその利益を承認してきました。
 この権利は人間の尊厳や自立にとって不可欠であり、コンピューター社会、さらには高度情報化社会の到来を考えると、こうした権利を強化し拡充するということが求められることは言うまでもありません。そこで、今日では、この権利を単に一人でほっておいておかれる権利として消極的にとらえるのではなく、自分の情報を自分がコントロールする権利として、自己情報のコントロール権ということですが、そういう権利として積極的に構成するという考え方が有力になりつつあります。
 しかしながら、このプライバシーの権利というものが、例えば市民が知ってしかるべき公共的情報を隠ぺいする口実として使われたり、あるいは表現やメディアを規制する手段として利用されたりするとすれば、これは非常に大変なことになります。そのためにも、表現の自由など他の憲法上の人権と慎重な調整を図り、きめ細やかな対応を探る必要があると思われます。
 この点では、プライバシーの権利やこれと密接にかかわる個人情報保護制度の適用の在り方については、官に対しては、すなわち国家や自治体ですね、こういう官に対しては自己情報のコントロール権を徹底させ、厳格な規制を加えることが必要である一方、民間に対しては緩やかな規制にとどめ、とりわけ表現やメディアに対しては、表現の自由の観点から法規制は謙抑するなどの配慮を払うことが欠かせないというふうに思われます。
 それでは、こうした知る権利やプライバシーの権利を承認し憲法に明記するために憲法改正ということは必要なのでしょうか。メモ書きの4のところです。
 私の結論は次のようなものです。将来的には改憲を検討する余地はあるかもしれませんが、今すぐ改憲に取り組むのは時期尚早であり、またすぐ改憲しないからといって特段の不都合が生ずるものでもないというものです。
 すなわち、知る権利やプライバシーの権利などの新しい人権については、理念的、原則的には前向きに受け止める必要はありますが、さきにも述べましたように、その内容や範囲、機能などにつき、まだまだ検討を深め、詰めていかなければならない点も少なくないからであります。
 こうした作業抜きに拙速、性急にこれらの権利を憲法に書き込むのはそもそも難しいわけですし、そのことがもたらす弊害も懸念されます。学界や国会等での十分な議論と立法や判例の着実な積み重ねがまず前提となるべきだと思われます。そうした努力によって、改憲をしなくとも権利の内実を実質化していくことは可能であるし、現にある程度このような権利の定着も見られてきました。そして、こうした権利をめぐって議論や実務が一定の成熟を見た段階で初めて憲法改正の具体的な議論の条件が整うのではないでしょうか。
 最後に、メモ書き漢数字の四のところですが、今日その一端をお話しさせていただきましたように、メディア規制法案にせよ、知る権利やプライバシーの権利の憲法への明記にせよ、憲法の表現の自由の在り方にとって極めて重大な意味を持つ提案ですので、本院におかれましても、あらゆる角度から徹底した議論と吟味を加え、慎重に対処されることを心から切望し、最初の発言を終えたいと思います。
 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 荒井正吾君。
○荒井正吾君 自由民主党の荒井正吾と申します。
 今日は、大変貴重な御意見、紹介いただきましてありがとうございました。
 大変広範な内容のものでございますが、幾つかお伺いしたいと思います。
 私は奈良出身でございますので、十七条の憲法は憲法の研究の対象に入らないという人もおられるわけでございますが、十七条の中で今日的意味を持つところも幾つかございます。また、十七条の憲法が導入されたときは現在と似ているところがあるように思います。一つは、当時の国際化、グローバル化が大変進んだ時代であるということ、その中で、日本の位置観を世界の中でどういうふうにするかということが求められていたということと、それと日本の国内政治が大変混乱状態にあったということの中で、より普遍的な価値を持つ仏教の価値を導入したという意味があるように私自身は感じておるわけでございます。その後、仏教の理念は千四百年たった今でも日本人の心の中に定着、変遷はあっても定着しておりますし、さらに天皇制というのも今定着しておるわけでございます。
 今日的意味の中で、一つは、第二条にいわゆる仏法僧を敬えということがありますが、これはまず、解釈はいろいろあろうと思いますが、仏というのは普遍的な理念、当時の普遍的な理念を導入しようというような意味という解釈をされる方もおります。また、法というのは理法、ロジックを、普遍的ロジックを日本人は考えようと。僧は職業的な僧侶ではなくて人々の集いというものを大事にしようという意味だと。これは中村元博士の論でございますが、ということは、ここに表現の自由、言論の自由、民主主義の基を求めようという聖徳太子の意図があったように思います。
 もう一つは、第十条でございますが、怒りを絶ち怒りを捨てて人のたがふこを怒らざれと。特に、人の違えるを怒らざれと。自分の意見だけを述べて人の意見を非として攻撃してはならないと、政治家が特に戒めなきゃいけない論があるわけでございますが、これは表現の自由の基本的な理念じゃないかと思うわけでございますが。
 それで、ごく簡単にお聞きしたいのは、両先生は十七条の憲法は研究対象にされていなかったようにも思うんですが、日本の、最後の両先生言われた表現の自由、憲法の理念の定着という意味で、日本人の長年の培った普遍的な価値を求めながら新しい憲法理念を定着するという試みもまた必要じゃないかと思うわけでございますが、十七条の憲法は憲法の対象かどうか、あるいは意味があるのかどうかをごく簡単に両先生にお伺いしたいと思います。
○会長(野沢太三君) それでは、濱田参考人からよろしゅうございますか。お願いいたします。
○参考人(濱田純一君) 私、十七条憲法そのものは、かつて受験勉強のときにしっかり勉強したという程度でございまして、つまびらかにしておりませんが、今のお話の中に含められておりましたその趣旨、つまり日本という国の原点にあるもの、それを大切に憲法の在り方というものを考えていくべきではないかということは私は大賛成でございます。
 今までの日本国憲法の解釈の手法にしろ、やや海外の事情を参考にというやり方が多かったように思います。今ある憲法の規定を、じゃ、その日本の原点、それはもう十七条憲法というものもございましょうし、あるいは儒教思想というものも入ってくるかもしれませんし、もっと日本の民族の土俗的なものに起因するものもあるかもしれませんが、そういったものを含めて日本国憲法の規定を読み直すとどうなるのかと、そういう視点を更に持つべきであろうと思います。また、そうしたことによって日本国憲法というものが、どういう形であれ、日本国民の間に定着していくものであろうというふうに思っております。
○会長(野沢太三君) 田島参考人、お願いします。
○参考人(田島泰彦君) 私自身も、申し訳ないんです、不勉強で。
 聖徳太子、恐らく思想とかいろんなことを研究するときには大事な対象になると思うんですが、私たちが学んだ憲法学というのは、近代憲法学というか、非常にその対象が限られた部分を扱っておりまして、私の指導教官も聖徳太子まで勉強しろというふうに私は教わってこなかったんですが、ただ、先ほど濱田先生言われましたように、私もいろいろなことにかかわってきて、余りにも外国はこうなっていますという議論だけで日本のことを、批判する場合もあるいは正当化する場合も、やる議論がちょっとやっぱり横行し過ぎているかなと。
 確かに、外国の事情というのはいろんな意味で真剣に摂取しなければいけないと思うんですけれども、最終的には、日本はアメリカでもないしイギリスでもないわけですから、我々の国でどうしていくのかということを考えるためには、外国を参考にしながらも、自分たちの国の条件とか伝統とか、そういうものを十分やっぱり踏まえた議論を組み立てていかないと結局取り入れても定着しない、十分に花開かないということが恐らく少なからずあると思うんですね。
 だから、その意味では、やはりもう少し日本の内部のこと、しかもそれも近代化された過程だけではなくて、もう少しさかのぼっても自分たちのいろんな継承すべきものを見詰めていく、あるいは探し出していくと、そういう作業はこれから私も必要ではないかなというふうに思っております。
○荒井正吾君 ありがとうございました。
 唐突な質問で大変失礼いたしましたが、大学の先生にこういうところは勉強しましたかと言うことは、学生時代、終わって以来一度もしたことがありませんでしたので、内心大変、少々気持ち良く思っておりますが、お許しいただきたいと思いますが、十七条の憲法で人のたがふことを怒らざれということでございますので、寛容の精神でお許し願いたいと思います。
 その次は、最近、アメリカでホームランド・セキュリティー・エージェンシーという大変大きな組織ができたわけでございますが、そのリッジ局長というのは長官になられましたが、インタビューに答えている中で、最近、イラク攻撃が間近だというので、イスラム系アメリカ人に対するFBI、CIAの調査が大変厳しくなっておる、こういうことはアメリカ人に対する権利の侵害じゃないかというような質問をメディアがされました。その中でリッジ当時の局長は、憲法が守っておる、憲法の保護があるから、その中でアメリカ人、イスラム系というのはアメリカ人だという答えがありました。アメリカでは憲法の保護というのが大変身近だなという感じがしたわけでございます。
 表現の自由の中で憲法論があるわけですが、憲法が表現の自由をどのように守っているのか。いろんな事情の中で、先ほどの憲法の保護者、自由の保護者はだれかという論点にもなるわけでございますが、もう一つ、どのようなものが守られるのかという点について、先ほど濱田先生が欧米では報道の自由を限定する傾向はないとおっしゃいましたわけで、報道の内容、守るべき報道の内容、これも表現の自由で、少々そうかなというような感じで御質問するのをお許し願いたいんですが。
 アメリカの判例で有名な一九一九年の判例では、言論の自由は守られるべきであるが、火事でもないのに混雑した劇場の中で火事だと騒ぎ立て恐慌を起こすようなものまで保護するわけにいかないと、明白かつ現存する危険という論理があって、その後、アリの一穴ということもありましたが、蛇が卵の中にいるうちに殺しておくというアプローチもあると、割と制約的に表現の自由を取っておるので、欧米は表現の自由が相当自由だという印象は実は持っていないわけでございます。
 報道の自由の限定と自由な発言と大変な競い合いがあるというような印象にあるわけでございますが、その中で、具体的な中で一つ二つ、どういうふうにお感じかを濱田先生にお伺いしたいんですが。
 一つは、アクセス権といいますか、報道の人権、個人の人権。報道の人権という言葉で、報道の人権をより重視するというようなお言葉があったようにも思うんですが、アメリカの何か今までの傾向の中で、報道のアクセス権、知る権利は、向こうの最高裁では報道機関に対して一般人以上のアクセス権を認めることに慎重であるという評論もあるわけでございます。先ほどのホームズ判事の一九二五年の戦争中の制約的な状況でなく、一九七八年の判例でも、報道の人権というような、報道機関というのは特別な地位かどうかというようなことだと。
 それと、報道機関というのも、現実には報道機関の名刺を使っておられますが、フリーライターであるとかいろんな立場の方がおられる。範囲が確定しないものの権利をどのように守るのかと、今、現実的な話もあるわけでございます。
 報道の人権といったときに、具体的な守られるべき人、その内容というものが日本では少々あいまいなような気がする、言葉が少々ふわっとしているというように思うわけでございますが、報道の自由はアメリカなどで守られているというふうに、そういう通例的な言葉じゃなしに、こういう具体的なので、どう守られているが日本ではどうかというふうな方が私は大変有り難いと思うわけでございますが、その点ちょっと突っ込みになるかもしれませんが、今日は表現の自由の場でございます。お許しいただきながら、よろしくお願いいたします。
○参考人(濱田純一君) お答えさせていただきます。
 大変重要なポイントを御質問いただいたと思います。
 最初に一つ申し上げますが、私は、報道の自由に対して諸外国では制約がないというふうに申したのではございませんで、表現の自由よりも報道の自由の方が狭いという、そういう議論はしてないだろうと、そういうことを申し上げました。
 それでは、報道の自由が表現の自由より幅広い保護を認められているのかどうか。これは、今御指摘いただきましたように、アメリカでは基本的には両者同じであるべきであるという考え方でございます。ただ、法律上、例えば取材源の秘匿であるとかあるいは取材資料の押収の拒否権であるとか、そういった形で、法律レベルで一般市民よりは高い保護が認められている。そしてまた、そうした保護を特に報道機関に対して与えることについては、これは憲法上保護されているという、そういうことでございます。
 それから、ドイツなどでは、これは憲法上も報道機関の保護が強い。例えば取材に対する便宜であるとか、そういった観点からの保護を受けているところでございます。
○荒井正吾君 ありがとうございました。
 次は田島先生にお聞きしたいんですが、先ほど、表現の自由を適用される対象者、著名人、パブリックフィギュアの範囲、公職人の範囲でございますが、日本では有名税という言葉がありますように、有名になれば、ここで有名な先生もおられますが、プライバシーが少なくてもいいんだ、あるいは取材のアクセス権が余計許されていいんだというような感じの論説もあろうかと思いますが、これは、知る権利と必要以上に知られたくない権利、それが公人の場合あるいは著名人の場合、日本で言う有名人の場合どのように適用されればいいのかというようなことでございますが、アメリカの判例でも、著名人というパブリックフィギュアの範囲というのをそう広くといいますか、適用の広いような印象はしないわけでございますが、その点について、後でだれが保護するかという保護主体の話はあろうかと思いますが、どのような状況の者を保護されたらいいのかという、これは判例が積み重ならないとなかなか学説あるいは学者としての論評はできないかもしれませんが、田島先生個人としてどのような感じをお持ちなのか、お伺いしたいと思います。
○参考人(田島泰彦君) お答えします。
 やはり、特にプライバシーの範囲をどう考えるかというときに、その人がどういう人であるのか。例えば選挙で選ばれる人であるのか、全く純粋の一市民であるのか。やっぱりそのプライバシーの範囲が同じでいいというふうに私は思わないんですね。やっぱり公共的な地位が強ければ強いほど、あるいはその権力の行使等にあずかる度合いが強ければ強いほど、やはりその人について正当に社会が知ってしかるべき事柄というのは当然増えてくる。だから、一つはどういう人かという基準でどこまで社会が知ってしかるべきかを判断すると。
 それから、もう一つの座標軸は事柄だと思うんですね。どういう事柄が問題にされているのか。仕事、公務にかかわる事柄を問題にしているのか、全く、私行ですよね、プライベートな時間とかそういうことを問題にしているのか。だから、こういう両方の座標軸を組み合わせてプライバシーの範囲というものを私は基本的には考えていく必要がある。
 そして、特にアメリカなどでは、大統領などという地位の人は、これはもう全人格的な市民からの判断が必要とされるのであるということで、通常であればプライバシーとして保護されるような男女の関係の問題ですとか、そういうものも当然これは報道の対象になるという理解だと思うんですね。私も基本的にそういう理解が妥当だろうというふうに思っております。
○荒井正吾君 ありがとうございます。
 アメリカ大統領の権限と比較できるような権限の者はなかなかこの近所にはいないと思いますが、ただ、アメリカの学説でも、ある場所で家族と財産を持ち、ちゃんとした合理的な精神を持った人々に不安を与えるような表現の自由は、あるいは集会の自由は与えるべきじゃないという判例もございますので、現実的な判例が出ないという日本の風土もあろうかと思いますが、その点、まだ深い判例が出ればいいかと思います。
 田島先生に引き続きお伺いしたいんですが、だれがその表現の自由の保護者であるかという点でございますが、政府はもう一つだというようで、司法というのがアメリカに比べて大変判例の数が少ないというような気がいたしますが、もう少しいろんなケースが出てくれば具体的な議論ができるんじゃないかという気は、憲法の権利を基に判例が出ればいいかというふうに個人的には思うわけでございますが。
 一方、メディアの自主規制というのが外国では通例だと。政府の自主規制よりもメディアの自主規制というような観点では御意見分かるんですが、成功したメディアの自主規制というような例は余り聞かないんですが、先ほど、メディアというのも幅広いものでございますので、いろんな人がいるという点もあろうかと思いますが、余りメディアの自主規制の効果というものに、これは表現の自由でお許し願いたいんですが、余り信用できないんじゃないかと、外国においてもという気はするんですが、その点いかがでございましょうか。
○参考人(田島泰彦君) 今の御質問、やはりかなり鋭い批判でもあると思うんですね。ただ、私が知る限り、私自身も長いこと研究してきたんですが、欧米では例えば人権救済であるとかメディアの倫理的な逸脱の問題ですとか、そういうものは基本的に、裁判という、裁判での調整を別にすれば、多くはやはり自主的な仕組み、すなわちプレスオンブズマンでありますとかプレスカウンシルという制度、報道評議会などと訳されてきましたけれども、そういう仕組みを、専門家や市民の参加も得ながらメディアがクレームを公正に処理する仕組みを受皿を作って対処してきた。
 例えば、スウェーデンのプレスカウンシルというのは、純粋の自主組織ですけれども、一九一六年に作られてずっと実績を上げてきたわけですね。イギリスでは一九五三年にプレス総評議会、プレスカウンシルというのができて、いろんな国々に大きな影響を与えてきたわけです。
 もちろん、どこまで十分一〇〇%効果的な役割を果たしているかどうかということについてはそれぞれの国でも批判もあるんですが、ただ、基本的にはやはり非常に大事な制度として社会的に認知され、これが実は政府によるメディアに対する規制を排除するためにも非常に重要ではないかと、そういうふうには受け止められてきたと思うんですね。
○荒井正吾君 ありがとうございました。
 政府の自主規制がよく仲間をかばうための隠れみのだと言われるように、メディアの自主規制も、仲間をかばうための隠れみのだと言われない第三者の介入あるいは公開というものがあれば、もう少し進むんじゃないかというふうに個人的には思いますが、幅広い御意見に御礼を申し上げて、質問を終わりたいと思います。
○会長(野沢太三君) 続いて、ツルネンマルテイ君。
○ツルネンマルテイ君 濱田先生と田島先生、今日の参考人としての発言、御苦労さまです。
 私もあらかじめ参考資料も読ませていただきました。非常に私にとっても憲法を勉強することで役に立ちました。
 質問に入る前には、二つお願いがあります。
 短い時間ですから、かなり多くの質問をしたいと思いますから、答弁はなるべく簡潔にお願いします。
 もう一つは、なるべく分かりやすい、簡単な日本語でお願いします。私は御存じのように日本語は私に外国語ですから、どうかその点も考えて答弁をお願いします。
 今日のこの表現の自由というメーンテーマに入る前には、この憲法調査会あるいは憲法審議の意味について両方の先生にまず質問させていただきます。
 もちろんこういう調査会のときは今の憲法はどういうものかということを検討したり審議するんですけれども、やはり委員たちの頭の中には、これをこれからどうするかということ、つまり改憲か、あるいは中には、いや護憲を主張する委員もいるかと思います。でも、もしここで私たちは今の憲法を改正するとしたら、二つのことを頭に置く必要があると思います。なぜ改正するかということは、時代に合わなくなった面もあるかということと、あるいは国家観が大分変わってきたか、これは一つです。
 でも、これだけでは私たちはこういう調査会も意味が足りないと私は思っています。
 もし本当にこれからは改正を考えているのなら、これからの日本の社会、二十一世紀の日本の国の形あるいは社会の形をまず私たちはそれに対するビジョンを審議して作って、で、それは何とかまとまった、方向性が見えた後で、そのためにはどういうふうに今の憲法を改正する必要があるかということ。
 だから、私は少なくとも、ただ今のままでは審議するだけでは意味がなくて、そのビジョンも作らなければならない。私から見れば日本には今そのビジョンが、二十一世紀に対するビジョンがはっきりしていないということは一つ私たちの大きな問題であるということ。
 いろんなスローガンをいろんな政党もあるいはグループも使っています。例えば最良の国日本とか、たくましい国とか、国際社会で尊敬される国とか、エコ社会とか、環境国家、分権国家とか、このような言葉でこれからの日本を表すこともあるかと思いますけれども、そういうことを考えるときは先生たちはどう思うでしょうか。もし改正するなら、その前にはこういう新しい国の形を勉強する必要があるか。であるとすれば、例えば今、私が言ったようなスローガンか、あるいはどのようなビジョンを先生たちはこれからの日本の国の形として考えているか、まずこれを濱田先生にお願いします。
○参考人(濱田純一君) お答え申し上げます。
 大変重要な御指摘であろうと思います。また、論理的にはそのように考えるべきであろうと思います。
 ただ、具体的に、じゃ、日本の将来像をどのように描くかというのは、これ自体大変な作業ですし、恐らくそれについて十分なコンセンサスを得るというのは、これは難しいことであろうと思います。これはもうどの国であろうと、その国の将来像について国民のコンセンサスを得るというのは大変難しいことであろうと思います。
 現実に考えられますのは、むしろこういう憲法の在り方について論議をする、それと同時に国の在り方というものを絡み合わせながら議論をしていくと。最終的にそういうやり方をして、国の在り方に関する方向が決まらないのに、その憲法の処理の、憲法の在り方について処理をすることだけを優先させる、それはおかしいということになるのであろうと思います。
 ですから、繰り返しになりますが、論理的にはまず国の形というのは前提ですが、実際には難しいので、並行してやりつつ、それをうまく具体化するような形であれば、憲法のこれからの在り方というものも具体的に考えていってよいのではないかと、そういうことでございます。
○参考人(田島泰彦君) 確かに、憲法改正という議論をするためには、私も、なぜ、どうしてその改正という議論をするかということについてやはり十分な、そのこと自体で十分な社会的な合意というのが本来は必要であろうというふうに思います。
 すなわち、今指摘されましたように、明確な目標が余りなくて漠然と我々の国の基本的な法律である憲法をやはり議論するというのはおかしいわけでして、やっぱりどうして、憲法をどう変えないからこういう不都合が生ずるということをやはり具体的に、国の将来という理想的な形もそうなんですけれども、現実にどういう支障が生じているのか、憲法を変えないとどうなっちゃうのかということについて、もう少し濶達に、自由濶達にその前提のところの議論を私も重ねる必要があるだろうと。
 特に、今日の話をした表現の自由とか市民的自由の部分に関しては、今すぐ、先ほども申しましたけれども、憲法を変えないと我々の国の憲法が立ち行かないという状況には私にはないように思われるわけです。
○ツルネンマルテイ君 ありがとうございます。
 ここからは、まず濱田参考人に質問させていただきます。
 濱田先生の参考資料の中には、この表現の自由について、あるいは先ほどもちょっと触れたかと思いますけれども、次のような言葉が書いてあります。「表現の自由は、他の自由よりもとりわけて、不当な制限を受けやすい自由だから、それに対する制限の合憲性は厳格に判断されなければならない」、当然なことと私も思いますが。
 ここで言葉の意味に対して、この表現という言葉は、日本語で、普通は言葉で表すというふうに考えられますけれども、例えば憲法二十一条の一項のところの表現の自由には、ほかのものもその表現の中に含まれるかどうかということ、例えば絵とか絵画とか行動ですね、行為というんでしょうか、政治的な行為、その中の一つの例で、例えば批判的な、政府に対する批判的な行為、政治的な運動の中でテロとか、あるいはもっと極端に言えばその国の国旗を燃やすとかということもあります。こういうのも、その表現の自由の下で許されるかということ、これに対してどう考えていますか。
○参考人(濱田純一君) 今御質問いただきました点は、憲法解釈上も大変重要な難しい問題でございます。
 まず、表現の自由、憲法二十一条で保障されておりますのは文字あるいは言葉だけではなくて、絵画表現あるいはボディーアクションのようなもの、そういうものも広く含まれているというふうに理解しております。
 ただ、ある言論と行動の区別というのが一体どこにあるのかということが大変難しい場合がございます。今御指摘のように、国旗を焼くという行為、これが果たして表現なのか行動なのか、これはアメリカでも大変議論を呼んだところでございます。
 実際上、そのときの社会通念によって考えざるを得ないところはございますけれども、例えばテロという行為にしても、これはテロを行った人間からすれば、これは究極の表現手段だという主張はあり得るわけです。ただ、そういうものが我々の常識的な社会通念から見てどちらに重きがあるのか、どちらに重きがあるというふうに評価すべきなのか、そういう尺度でもって考えざるを得ないだろうと思います。つまりは、テロの場合はどうしても我々の感覚では、これは確かにそういう表現ではあるけれども、行動の要素の方がはるかに大きいというふうに判断するのであろうと思います。
○ツルネンマルテイ君 ありがとうございます。先生の意見としては参考になるかと思います。
 さらに、先生の参考資料の中では、今日の発言には入っていませんでしたけれども、アメリカからの影響について、次のような文があります。「戦後日本の表現の自由論が、アメリカの判例や学説から受けてきた大きな影響についても、見過ごすことはできない。」。次は非常に面白い言葉ですね。「アメリカからの影響がなければ、日本の表現の自由論は、きわめて素朴なレベルにとどまっていたことであろう。」と先生が発言しています。
 ここで質問したいのは、その中にいろんな例もありましたけれども、かなり難しいこともありましたから、一つだけでもいいですから、このアメリカの影響を、具体的にどういうところでその影響が現れてくるか、たくさんできませんから、一つだけでも結構ですから、お願いします。
○参考人(濱田純一君) 一言で申しますと、これは表現の自由の優越的地位という考え方でございます。ここからいろいろな違憲審査基準が出てまいりますが、根本にある優越的地位という考え方、これはやはりアメリカの影響がなければ日本では成立しなかったものだろうと思います。
○ツルネンマルテイ君 じゃ、そこから次の三番目の質問、これもまた濱田先生にお願いします。
 今の発言の中でも、情報に対する権利の観点、先生にも言われたように、非常に新しい人権の、いろんなところはその中に出てきます。例えば、先生の資料の中では四つに分かれていますね。情報を受け取る権利あるいは情報を提供する権利、情報を提供しない権利、これはプライバシーに関係ある権利であります。あるいは特に四番目は、情報が自由で豊かに流通する情報通信基盤の整備を求める権利、これらは全部新しい権利で、あるいは人権のものである。
 この中では、もしこういうのを仮に改正するなら、どういう形でこういうのを憲法に加えるべき、いろんなありますから、例えば環境権の範囲を超えていますし、この情報に対する権利は、もし入れるとすれば、例えばどのような形で憲法に加えることがあり得るかということ、これも仮定ですけれども。
○参考人(濱田純一君) 情報に対する権利という言葉に注目していただいて、大変有り難く存じます。
 この言葉は、例えば知る権利だとかプライバシーの権利だとかというように、何か憲法上の具体的な請求権を発生させるようなもの、そういうものとしては私は考えておりませんで、ただ、今の情報化社会で、私たちのいろいろな権利がやはり情報技術というものを媒介としなければ実現できなくなってきている。
 そういう中で、情報というもの、そういうものをばらばらに考えるのではなくて、そういうものを私たちの権利としてまとめて考えるべきではないかと。そういう一つの思想といいますか哲学といいますか、そういう観点で取り上げさせていただいたものでございます。具体的に憲法上の規定として明文化する必要はないというふうに私は思っております。
○ツルネンマルテイ君 ここで田島参考人に質問させていただきます。
 やはりこの個人情報保護法案についての先生の参考資料の中では、一つの懸念することは、規制というのは官に甘くそして民に厳しい制限が用意されようとしているということを先生も心配しているということですね。その中では、それを防ぐためには市民による効果的なコントロールを実現すべきであると先生が言っています。
 このコントロールをどうやって効果的に市民ができると思いますか。例えば、西洋の方ではオンブズマン制度とかというのもありますけれども、こういうのも頭に置いて、あるいは具体的にはコントロールをどうやってできるかということを是非伺いたい。
○参考人(田島泰彦君) お答えします。
 そこで言うコントロールを強化するというのは、御承知のように行政機関を対象とする個人情報保護法案というのも出されているんですが、これが民間を主として対象とする個人情報保護法案よりも規制が緩くなっているんですね。
 これはおかしいのではないかというのが私の意見でして、例えば民間の個人情報保護法案では適正な取得というのが課されていますけれども、官の方は課されていないんですね。これは、役人がそんな変なことをするはずがないからというような御説明をされていますけれども、それはやっぱりおかしいし、民間の方では当然ルール違反に対する罰則、義務規定違反に対する罰則規定があるんですけれども、行政機関の法案では罰則規定が入っていないんですね。それから、思想、信条にかかわるようなセンシティブ情報を規制するような措置も入れられていない。
 したがって、やはり私たちにとって非常に機微な情報であるとか、膨大な莫大な情報を持っているのは何よりもこれ国や自治体ですから、そちらの私たちの情報こそきちんと守られるように万全な規制とコントロールをすべきであって、これは逆ではいけないと、そういう趣旨であります。
○ツルネンマルテイ君 私たちの政党の中でもこれは一つの大きな心配のものの一つであります。
 時間も余りもう三分、四分しかありませんから、あと二つ。
 一つは、さっきは濱田先生にも聞きましたが、この新しい人権に対して、今は時代が変わっていますから、その中では、例えば市民の生活の不安に対処できるような、災害とかテロとかエイズとか、こういうのは私たちの安全保障にかかわっている問題でありますね。こういうのを具体的に、これも推定ですけれども、改正を考える場合はどのような枠に入るか。環境権か個人情報の権利か、知る権利とか、いろいろありますけれども、これらは今の憲法には直接明記されていないんですから、まあプライバシーの権利もそうですけれども、例えばこれらを一口のことで言えば、これは安全への権利というのは、こういうのは今の憲法には私は知っている限りでは入っていませんから、こういうのを将来的には含めるべき。
 さっきの質問と似ていますけれども、こういうのを一つにまとめれば何かの枠に入るでしょうか。
○参考人(田島泰彦君) 安全の権利という包括的なものを憲法の中に入れるのがいいかどうかということについては、十分に私自身検討したことはありませんけれども、むしろ逆にちょっと危険かなと。
 と申しますのは、九・一一以降、先ほどもちょっと御議論ありましたけれども、アメリカとかヨーロッパ、EUで、やっぱり安全ということを理由にして様々な市民的自由が制約されるという、表現の自由も含めてなんですが、非常に顕著になっているんですね。確かに安全は非常に大事ですけれども、過剰にそれが強調されますと、本当に民主国家を支えている市民的自由そのものが掘り崩されると。要するに、外国人などを裁判なしで拘禁するとか、そういう制度が欧米では今非常に頻繁に見られて、市民団体などから批判されているわけですね。
 ですから、その意味では、安全というのでくくって包括的に憲法の中に入れるというのは、私は現時点ではちょっと逆の心配があるなというふうに思っております。
○ツルネンマルテイ君 今の先生からの答弁でも分かるように、新しい人権というのはこれから大いに審議、まだ改正を考えないで審議すべきと思います。
 最後に、二分ありますから、一分ずつで両方の先生には外国人の人権について。
 御存じのように、今の憲法では国民の権利と義務が書いてありますけれども、含まれていないんですから、二百万人ぐらいの在日外国人たちは日本に生活していますから、これを、外国人の人権を憲法から見ればどういうふうに考えるか、これをもう本当に時間がありませんけれども、一言それについて両方に、それで私の質問は終わります。
○会長(野沢太三君) 濱田参考人から、じゃお願いします。
○参考人(濱田純一君) 通常の基本的人権については、これは外国人に対しても当然適用があるということになっていると思います。
 国政に関する諸権利については、これについては限定があるということですが、そこはただ国籍で区別するのではなくて、もう少し機能的に、つまり生活の条件だとか国に対する寄与の状況だとか、そういった機能的に考えていくべきものであろうというふうに思っております。
○会長(野沢太三君) 田島参考人、お願いします。
○参考人(田島泰彦君) 重ならないところで言いますと、やはり建前は外国人の人権も尊重しようという方向にはあるんですが、社会の実態から見ると非常にやっぱり外国人に対する差別的な取扱いというのが見られるところもあるわけですね。
 ですから、その意味では外国人の人権を本当にどうやって保障し確保していくのかというのは、私は人権の課題として、これは憲法改正というレベルとは別かもしれませんけれども、重要な課題としてあるのではないかなというふうに考えております。
○ツルネンマルテイ君 以上です。
○会長(野沢太三君) 魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 両参考人の啓発的な参考意見、本当にありがとうございました。
 それでは、時間ございませんのでまず田島参考人の方からお願いをしたいと思いますが、先ほどBROですかね、一生懸命取り組んでおられるというふうに敬意を表するところでございますが、これはある意味じゃ新しい機関だなと、今までの制度の中から見れば思うところでございますし、またテレビでもいろいろ宣伝をしているというふうな、見たことがございますが。
 先般、例のアメリカのカリフォルニア州の大学教授殺人事件という、斎藤静江さんとお会いする機会がございまして、かなり感情的にも、本当に人権救済という側面から見てしっかりやっていただいたとは言えないという、そういう興奮で私に語り掛けていただきました。また、放映された映像等についても、実際に見たと言った人から聞いた内容と現実に取り寄せた映像とはちょっと違うような部分もあって、本当に何をどういうふうに放送したかというのは後からレビューできない、本当に垂れ流しのままになっているのではないかという、そういうような話も伺いました。
 もちろん、活字メディアと違ってかなり影響も大きいところでございますが、ただ、BRO等一生懸命取り組んでいるのはよく理解をしているつもりでありますけれども、やはり視聴率や商業主義に流されやすいという傾向も含めて、このBROについてどういう点を改善していけばいいのか。
 映像資料館、アーカイブとかいろいろ言われているところでありますけれども、例えばワイドショーとか個々のニュースもきちっと後で、数年たっても見られるような状況にしていくのも一つの大きな改善なのかなというふうに思うわけでありますが、この点はいかがお考えでしょうか。
○参考人(田島泰彦君) 非常にやっぱり第三者機関の伝統というのが、特に報道などでは今まで十分にあったとは言い難いところで、言わば暗中模索で九七年にできてから活動してきたということで、いろんな批判ももちろんあると思うんですね。
 ただ、枠組みとしてはやはり自主的な力で、しかもメディアはもちろんお金出していますけれども、メンバーはすべて放送界の外の人間が選ばれているわけですね。しかも、メンバーを選ぶ機関自体も放送界が選ぶのではなくて第三者の人たちが委員も選任すると。そういう形になっておりますので、私は枠組みの可能性としては、今後やはり出発点として大事にしていくべき組織かなというふうに思います。
 ただ、確かに御指摘のように、被害を受けた方で十分に救済をされないというお考えを持たれた方もおられると思うんですよね。なぜかといいますと、非常に難しい問題をここで扱う、すなわち白黒がはっきりされている問題は裁判に行くわけですね。すなわち、BROに来るのは、法律には違反しているかどうかよく分からないけれども、倫理的にもしかしたら問題があるかなというようなケース、非常に微妙なケースが我々のところに来て判断をせざるを得ないということで、やはり非常に、ある種、法律家だけの発想でもいけないですし、幅広い観点も含めた柔軟な対応をしていかなければいけないという難しさもあって、必ずしも被害者の要請にこたえ切れていないところもあるかもしれませんけれども、私が今の時点でどこを変えていく必要があるかということについて言うと、個人的な意見ですけれども、基本的には報道されたものが対象なんですね。取材自体、それ自体を対象にはしていないんですね。
 だから、今後の一つの課題としては、取材というものについて救済対象としてどういうふうに考えていくのかというのが一つと、それから運営規則という大まかなルールはありますけれども、細かい判断の指針になるようなものは、今、実は過去の判断を整理してそういうものを作ろうと努力しているんですけれども、それをやはり市民にも社会にも納得できるような形で示していくと、そういう課題もあるかなというふうに思っております。
○魚住裕一郎君 BROについては、私も本当に人権救済という側面、機能をもっと果たしていただきたいし、また裁判のような手続じゃなくしてもっと簡易なという部分も大いに発揮をしていただきたいなというふうに思います。
 濱田先生にお願いをしたいんですけれども、御指摘のあったとおり、このインターネット、技術は理論以上に自由を拡張したかというような問題ございますけれども、一般市民にも情報へのアクセス大幅に向上したという側面ございますし、また一市民が資力もなくても情報を発信できるというプラス面もあるわけではありますが、ただ、匿名性ということも含めて、ヘイトサイトの問題でありますとか、あるいはポルノでありますとか、ひどい場合には個人的な中傷まで発信をしてくる、場合によっては自殺幇助の薬品まで販売するというような、そんなところまで行っているわけでございますが、これ、表現の自由との関係で、このインターネット、規制するとすればどういうような在り方があるのか、ちょっとその辺、お考えあればお教えいただきたいのでございますが。
○参考人(濱田純一君) 端的に申しますと、規制の決定打はないだろうということでございます。ただ、既に、いわゆるプロバイダー責任法などを始めとしまして、議会の方で幾つかの立法をいただいております。ですから、かなり深刻な問題については、部分的な手当てはしているということになってきているように思います。
 これを一切そういう有害な情報が流れないようにしようと、すべきだという考え方は、もちろんそれが望ましいわけですが、ただ、それをやろうとしますと、例えばインターネットで何か発言するときに必ず実名を書けというようなことにもなる、あるいはパソコンを使うときは例えばもう登録制にしろというようなことにもなるかもしれない。それはやはり自由な国家のありようとは全く異なったものになると思いますし、かつこれは、例えば中国などでもそういうやり方をしようとして結局は失敗しているんですね。ですから、一〇〇%のインターネットのコントロールというのは、これは事実上できないことだろうと思います。ただ、それを前提にしながらも、できる限りのところはやはり押さえていくという、そういう基本的にはスタンスになるのかというふうに思っております。
○魚住裕一郎君 ただ、そうは言っても、本当に危険な情報も、国家の存立にかかわるような危険な情報はどうするのかと。じゃ、その危険度はどうやって判断するのかというのはもちろんあるわけでございますけれども、ただ、大量破壊兵器みたいな場合はだれが見ても危険な情報なんだろうなとは実は思うわけですけれども、更に私も研究をしていきたいと思います。
 いろんな表現の自由と規制とか、いろいろ議論をしていきますと、優越的地位を大事にしなきゃいけないし、民主政治の根幹にかかわる問題ですから慎重にしていかなきゃいけないというふうに私も感じているところでございますが、微妙で継続的な利益調整が必要だというふうになってくると、私は、自主規制はもちろん大事ではありますけれども、やはり最終的には事後的な救済というのが非常に大事になってくるなと。特に司法的救済というのが手続的にも慎重になっておりますし、また利益考量等を含めた判断も落ち着いた雰囲気の中でできるなというふうには思っているわけでございますが、ただ、これは被害を受けたという人の自発性によるところでございまして、大体多くの場合は、名誉、プライバシーを侵害されたという個人が自力で自費で大変な時間を掛けながらやるという、そういう困難な道を強要するという形になると思います。
 そこで、両先生にお伺いをしたいんですけれども、やはりアメリカ等ではいわゆる懲罰的損害賠償という表現をするんでしょうか、あるいはたばこの訴訟みたいな何兆みたいな話はないと思いますが、ただ、プライバシーを侵害された等については、かなり日本的な裁判実例から見るとけたがちょっと違うような額の賠償、損害賠償判決が出ているわけで、そこまではいかなくても、今の数十万あるいは一、二百万みたいなそういう金額では、威嚇も何も経費化されてしまって、何というか、その裁判を起こされたこと自体が新たに報道されて、その出版物等の宣伝にもなるぐらいの、そんな感じになっているんではなかろうかなというふうに思うんですね。せっかく判決という一番事後的な、かつ慎重な手続でされたものですから、やはりそういうところには、いわゆる相当因果関係と言われる損害賠償の理論を超えた賠償額の高額化というものはあってもいいんではなかろうかなというふうに私自身は思っておるんですが、両参考人の御意見をいただければ幸いでございます。
○会長(野沢太三君) それでは、濱田参考人からお願いします。
○参考人(濱田純一君) お答え申し上げます。
 日本の場合は名誉毀損というものは、これは刑法上のものと民法上のものというのは区別されておりますので、民法上の損害賠償については懲罰的なものは入れないというのが基本的な考え方であろうと思います。これは、法務省の方から若干その辺も考える余地があるのではないかというふうな意見も出たというふうに聞いておりますけれども、そうした民法と刑法の区別という大原則というものがあるというのを前提にしながら、じゃ今度は、仮にその懲罰的な損害賠償というものを認めるとすれば、これは法律解釈ではなくて、むしろ立法論として議論すべきものだろうと思います。
 ですから、今の法律の枠の中で考えるとすれば、すぐに懲罰的損害賠償というものを認める議論というのはやりにくいというふうに思っております。
○参考人(田島泰彦君) 今の日本の名誉毀損なりプライバシーに対する損害賠償額が妥当かどうかというこれ自体は、やっぱりちゃんとした研究、検討すべき問題があると思うんですね。
 ただ、昨年の春ぐらいから五百万を超える判決がもう一杯出始めまして、私が非常に気になるのは、損害賠償額自体の議論はちゃんとやるべきだとは一方で思いますけれども、他方で額の問題だけ独り歩きするとこれは危険だなと。
 アメリカの例、すぐこう持ち出されるんですが、アメリカの例えば名誉毀損の免責の理屈と、現実の悪意といって非常に広く公人に対する表現の自由の観点からの免責を認めている国と、日本の相当性の議論というのはかなり隔たりがあるわけですね。
 だから、その表現の自由全体の範囲がどうかということの前提の議論、それからさらには、賠償額がどうかという議論は、ほかの様々な自主規制も含めた救済のシステムとの相関関係の中でトータルに私は議論されなければいけない問題だと思うんですね。だから、そういうほかの救済手段との関連、そういうものも十分に視野に入れて議論していかないと、額の問題だけが独り歩きしていくというのは、私は表現の自由という観点から見てもちょっと問題があるかなという、だから議論するんだったらそういう視野を含めて全般的に議論する必要があるのではないかというふうに考えております。
○魚住裕一郎君 別にここで議論するわけではありませんけれども、ただ他の手段というのがどれほど充実をしているのかなと。先ほどの斎藤静江さんの例ございましたけれども、やはり被害を受けた側からなるほどねと納得できるシステムというのをやっぱり作っていく必要があるんではなかろうかなと。立法論だというお話もございましたが、更に私どもも研究をしていきたいと思っております。
 終わります。
○会長(野沢太三君) 宮本岳志君。
○宮本岳志君 日本共産党の宮本岳志です。
 本日は濱田先生、田島先生、誠にありがとうございます。
 まず、濱田先生にお伺いをしたいと思います。
 表現の自由と規律ということが論点になっているわけですけれども、憲法二十一条は、これは「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」と、こういうふうに明瞭に規定をしております。
 そういう意味から、濱田先生もこの表現の自由について、厳格な合憲性、審査基準を適用するという二重の基準論というものも御紹介をいただきました。事前に読ませていただいた資料では、芦部先生の憲法学の本も御紹介いただいて、そういう論が展開されています。
 もちろん、表現の自由が個人のプライバシーと衝突する、あるいは放送の規律と衝突する、こういうことは間々あるわけでありますけれども、そこを調整するためには適切な緊張関係が必要で、一方に軍配を上げて、それで終わりということにならないと、こういうお話もございました。
 そういう意味では、BRCのような自主規制の重要性ということも触れられましたし、私もそう思うんですね、自主規制ということが非常に大事だろうと。この規制を、BRCのような第三者機関ではなく、例えば大臣の権限でやらせるとか、あるいは政府機関、政府の中に機関を置いてやらせるということになると、これは一方に軍配を上げるということになるのではないかと私は思うんですけれども、濱田参考人の御意見はいかがでしょうか。
○参考人(濱田純一君) これは、その政府の下に作られる組織がどういう形のものになるかということにもよるかと思いますが、そういう危険というものが非常に大きくなるというふうに私は考えております。
 いわゆる自主規制機関と言う以上は、これは法律によって作られる自主規制機関というのは一種の概念矛盾でございますので、あくまで、どこまで報道機関が自分たちでできるか、それをまずとことんやってみるべきではないかというのが、それが慎重なという意味合いでございます。
 ただ、それがうまくいかなかったときにはどうなるかという次のステップは、当然、政府がという議論も出てくる可能性はあると思います。
○宮本岳志君 ありがとうございます。
 もう一問、濱田先生にお伺いするんですが、情報に対する権利ということをお述べになりました。例えば今IT化ということも議論になるわけですけれども、本来、情報技術というものは、私どもは民主主義と密接なかかわりを持っているというふうに考えております。今日のインターネットの急速な普及ということを考えた場合に、これは生活水準や利便性の向上ということでなくて、民主主義の発展にも文化の向上にも大きな寄与をすることができる、そういう可能性を持っていると。一方で、新たな社会的格差を拡大する可能性も持っている。だからこそ、この技術をいかに国民全体のものにし、民主主義の発展と国民生活と福祉の向上に役立てるのかと、こういう視点が非常に大事だと思うんですね。
 そういうことを踏まえるならば、やはり居住地や貧富や障害の有無や年齢、性別など一切の区別なく、すべての人が高度情報通信ネットワークにアクセスできる権利というもの、これを非常に大事にする必要がある。これを国や自治体が保障する、責任を持つということが極めて重要になっていると思うんですけれども、この情報アクセス権についての先生のお考えをお聞かせいただけるでしょうか。
○参考人(濱田純一君) お答え申し上げます。
 今御指摘ございましたように、私、全く同じように考えております。
 例えば、これは情報公開という仕組みが今動き出しておりますが、これにしてもわざわざある場所へ行って請求をしなければいけないというのでは、なかなかその行使が十分にできないという場合もございます。やはり、こういう場面ではネットワークというものをうまく使ってということが十分考えられるべきであろうというふうに思いますし、実際の政治の場でもこういうインターネットなどを使ってということも行われているようでございます。ここの中継ということもやっているということでございますし、それから政治家の皆さん方もホームページを持ってやっていらっしゃるということもございます。
 ただ、今のところはまだそういう技術とそれから使い方のマッチングが必ずしもうまくいっていない、また技術が成熟していないところもございますので、まだまだこれは大きな可能性のある分野であろうと思いますし、そういうことをにらみながら、やはりみんながそういった情報に対するアクセスを平等に共有できるようにという、そういう環境を是非作っていただきたいというふうに思っております。
○宮本岳志君 次に、田島先生にお伺いをいたします。
 今、国会で議論になっている人権擁護法案についても先生の方からお話がございました。人権委員会の独立性の問題あるいはメディア規制、雇用差別の救済を厚生労働省などに丸投げしているという点、さらに国民の自由な言論、表現活動を制限しかねない問題など、私たちは余りにも重大な問題が多過ぎるということから、この法案は廃案にして出直すべきだと主張しております。
 先生は十一月十二日付けの朝日、今日お配りいただいた記事でもこのことについてもお触れになっておりますけれども、法案では、言論、表現にかかわる条文で概念規定があいまいなまま特別救済手続になっているものが目立つと思うんです。例えば、不当な差別的言動であって、相手方を畏怖させ困惑させ又は著しく不快にさせるものとか、これを放置すれば当該不当な差別的取扱いをすることを助長し、又は誘発するおそれが明らかであるものなどの表現が出てまいります。
 こうした規定が運用されれば、憲法の保障している言論、表現の自由が空洞化されることになりかねないと思うんですが、参考人はこの記事でも、「差別表現規制には現行法の規制を超える部分が含まれており、メディアや市民の表現の自由を過剰に制限する」と指摘をされておられますけれども、この懸念の内容を詳しく御説明いただきたいと思います。
○参考人(田島泰彦君) 人権擁護法案という名前を取り、かつ人権委員会というのを作るということになっているんですが、かなりの部分がその表現規制なんですね。報道機関の人権侵害問題というのはかなりメディアでも議論されているんですが、差別表現の方は余り取り上げられていないんですけれども、こちらもかなり重要な規制がもたらされようとしていると。差別を誘発、助長する表現あるいは差別的言動などを即人権侵害としてこれに勧告、公表などの救済を行うと。
 例えば、そこで言う差別とは何かという、それ自体がもう大変難しい問題が含まれているわけですね。だから、例えばそれを私が一番心配しているのは、その表現の中身を行政機関が判断していいのかというのが私は一番懸念があるんですね。司法が判断するならまだ分かるんですが、独立性が確保されているとはいえ行政機関がやっぱり口出してはいけないというのは、やはり我々の民主的な社会の基本的なルールではないかなと。そのルールをやはり大事にすべきである。
 ただ、だからといって差別を助長していいわけでもないし、とんでもない差別表現というのは確かにあり得るわけですよね。ただ、その規制は別な場に、すなわち自主的、自律的な努力の中で求めるべきだし、もっとはみ出すものは、やはり司法改革の議論をせっかくしているんですから、もうちょっと司法が積極的な役割を果たせないのかという可能性も一方で探る必要があるのかなという意見です。
○宮本岳志君 ありがとうございます。
 もう一問、この問題にかかわってお聞きするんですが、報道被害についてのメディアの自主的取組というのは緒に就いたばかりであります。犯罪被害者の皆さんからはまだまだ不十分という声ももちろん寄せられております。
 一方、田島参考人は記事の中で、「警察や自治体が取材現場を仕切る場面がある点は懸念される。」と、こう述べておられますけれども、今後報道機関や第三者機関の自主的取組を更に実効あるものとするために何が求められているとお考えになるのか、お聞かせいただけますでしょうか。
○参考人(田島泰彦君) 私は、一つは、やはり既に枠組みとして、例えば放送界、私もかかわっているBRCというのがありますし、青少年の委員会もあります。
 それから、新聞各社は、やや取組が後れてきたとは思うんですが、各社ごとに、二〇〇〇年の秋から毎日新聞が外のメンバーを入れた開かれた新聞委員会というのを作り、それを機に今二十数社がその種の、第三者が入っていろんなクレームの処理とか報道の検証を外の目でやっていこうという取組がやっと始まったところなんですね。ですから、私は、まずそういう始まったばかりの取組を重視して、それを頭ごなしに無視して法規制するのではなくて、まずはそういうところの取組の実績を重ねていくということですね。
 と同時に、もう一つは、将来の課題としてやはり、新聞各社ごとに今やっているんですが、ずっと先まで各社ごとでいいのかということは一つの問題としてあるんじゃないかと思うんですね。その点で、外国などで取り組まれてきた報道評議会、プレスカウンシルなどの経験も踏まえながら、その各社ごとの取組を将来どうやってもう少し業界全体として、新聞界全体として取組を強めていけるか、そういうやはり交流なり議論をしていくということも重要な課題かなというふうに感じております。
○宮本岳志君 警察や自治体が取材現場を仕切る場面への懸念という辺りはいかがでしょうか。
○参考人(田島泰彦君) これ、拉致被害者の取材、報道でそういう例が指摘されておりまして、確かに過剰取材なり、わっと押し掛けてとんでもない人権侵害をやるというのは、もちろんこれは非常に困るわけですけれども、他方で、なぜこの間、新聞界なり放送界がメディアスクラム問題で見解を出したり取組を強めていったかというと、やはり人権擁護法案などで法規制の動きが一方であるわけですね。それは、そういう形の権力の介入を許してはいけないのではないかということで、自主的な自律的な取組を強めていった経緯があるわけですね。
 だから、そういうことからすると、例えば拉致被害者たちの現場の中では往々にして町の役場などが窓口になっていろいろ取り仕切りをしているというようなことも報道されていて、これはちょっと筋違いかなと。やっぱりあくまでも公権力が前面に出るのではなくて、自主的な取組として行われていかなければいけないのではないかな、その点でやや心配なところがあるという、そういうことです。
○宮本岳志君 もう最後の質問になるかと思うんですが、お二人の先生にお伺いしたいと思うんです。
 私は、実は国会では総務委員会というのに属しておりまして、住民基本台帳ネットワークというものをこの間随分国会で議論をしてまいりました。参考人のお二人ともが自己情報コントロール権ということにも触れられたわけですけれども、この十月、日弁連は自己情報コントロール権についての提言というものを出されて、個人の統一的管理システムの構築は駄目だ、あるいは住民基本台帳ネットワークは稼働を停止すべきだと、こういう提言もされたわけであります。
 先生方、御承知のように、一九八三年にはドイツにおいて国勢調査違憲判決というのが下される、そして人格権の自由な発展はデータ処理の現代的条件の下では自己のデータの無制限な収集や集積や使用や譲渡から各個人を保護することを前提とするという判決が出されております。
 この点で、十一けたの番号を中央集権的にすべての国民に割り振るという、このようなネットワークについて、それぞれお二人の参考人の御見解をお伺いしたいと思います。
○参考人(濱田純一君) 今の住民基本台帳のネットワークシステムにつきましては、私は、何らかの形で行政、個人情報に関するネットワークを組むということは、これはやむを得ないと思っております。
 今の行政の効率化なり、あるいはそういうものが与える国民間の、例えば税の問題等含めて平等性というものを実現していくためには、これはそれなりに必要であろうと思います。
 ただ、今のセキュリティーの仕組みでいいのか、あるいはその情報、収集されるデータの内容あるいは管理の仕組みが今のままでいいのか、そういう点はもっと議論を詰めるべきであろうというふうに思っております。
○参考人(田島泰彦君) 私自身は非常に違憲の疑いがある制度かなというふうに思っております。
 というのは、簡単に申しますと、一つは、最低限もし自己情報コントロール権を保障されるとすれば、個人の選択の自由、それが制度的に確保される必要があると。それからもう一つは、憲法のやっぱり地方自治権というものを前提にするとすれば、各自治体に離脱、参加の選択権が同じく保障されるべきである。最低限この二つの仕組みが整備されない以上、私は非常に憲法的に違憲の疑いの強い制度ではないかなというふうに考えております。
○宮本岳志君 お二方、大変ありがとうございました。大変参考になりました。先生方の意見を参考にして、私も全力で頑張りたいと思います。
 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 平野達男君。
○平野達男君 国会改革連絡会(自由党)の平野達男でございます。
 私は、憲法も、憲法はまじめに読んだことがないというごく普通の一市民の一人だと思っています。実は、この憲法調査会に出席させて質問させていただくのも今日が初めてであります。
 この表現の自由ということなんですけれども、これはどんなものにもプラスとマイナスあるいは作用、反作用というものがあると思いまして、報道の自由とその名誉、プライバシーの侵害の問題、それから国民の知る権利と国家の機密の保持の問題、あるいは情報の利用のはんらんの危険性とプライバシーの、やはりこれもまたプライバシーの問題ということで、相反するものをどのようにバランスを取っていくか、バランスを取るときにだれがどのような手法でどの程度バランスを取っていくかというのが国民の知識の、英知の結集するところであるし、恐らくは政治の判断するところ、役割かもしれません。
 そういう、そこの、この話に入っていきますと難しい話になりまして私も質問ができなくなりますから、こういう前提の上で、今の日本の状態が表現の自由というもので見た場合に、バランス的に見たときに、ざっくばらんにですけれども、非常にいい状態にあるというふうに判断できるか、総論的な話として。ちょっと制限が強過ぎるんじゃないかと。これを総論で話をするのはなかなか難しいかと思うんですが、そういった今の表現の自由のこの国における評価というものを両参考人にまずお聞きしたいと思います。
○参考人(濱田純一君) お答え申し上げます。
 大変粗っぽい言い方をさせていただきますと、欧米と比較すれば比較的いいバランスの取れ方をしているのではないかというふうに思っております。もちろん、個別に今日も御指摘ございましたようないろいろな問題がございます。ただ、それは今の表現の自由の致命的な欠陥の問題ではなくて、むしろ部分的な欠陥の問題であって、部分的に是正可能であるもの、そういうふうに理解しております。
○参考人(田島泰彦君) どこと比較をするかということにもなると思うんですね。世界でも恐らく公正に見て大部分の国と比べたときに、日本の表現の自由が非常に貧しいということはならないと思います。
 ただ、先進的な例えばアメリカ、表現の自由の先進国と言われていますけれども、アメリカやヨーロッパのいろんな国々、欧米の進んだと言われる国々に比べたときに、日本の表現の自由が果たして十全かどうか、十分かどうか、これについては日本が世界で一番だということには恐らくならないだろうというふうに思います。
 と同時に、もう一つの懸念は、今日お話しさせていただいたんですが、やはりかなり全体として規制の方向に向かっているのではないかなと。濱田先生が先ほど部分的というふうにおっしゃいましたけれども、私はどうもその部分と部分がつながって線になり、下手をすると面になっていく。有事法制までつながると正に面になっちゃうような危険も感じるわけで、だから、そういうことにならないように、もう少し今の表現の自由の在り方というのも冷静に私たちは見詰めて、ひどいことにならないようにしなくちゃいけないんじゃないかなというふうに思っております。
○平野達男君 どうもありがとうございます。
 その表現の価値という、表現の自由の意味ということなんですけれども、今日の参考人の冒頭のお話にもございましたけれども、これは元々国民の政治的意思決定に関与する、いわゆる民主制の政治、いい政治を確保するために設けられたものだというお話があったかと思いまして、それに最近は、今度は個人の言論活動の自由ということで、個人の自由ということになりますと、恐らく個人の価値を高めるとか自分を主張するとか個性の尊重とか、恐らくこれにコマーシャリゼーションみたいなものが多分入ってくるんじゃないかという、金もうけみたいなもの、情報産業は金になるという話がありますから、それもこのカテゴリーに入ってくるんじゃないかと思うんですが、大きく私の感じではこう二つに分けていいのかなと。
 ただ、昨今の議論をして、いろいろ聞きますと、その表現の自由というのを、そういうふうに分けないで一緒くたに議論しているんじゃないかと。例えば、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するようなものに対して何らかの侵害があった場合には、これはどこでチェックするかといったら、当然これは司法権がチェックするんじゃないかなというような考え方があると思うんですが、個人の部分については、余りこれを認めてしまうとプライバシーに影響してくるということで、これは若干抑制的に考える必要があるんじゃないかなというような感じもするんですが。
 そういう何かカテゴリーに分けて議論をすることが必要ではないかなという感じがするんでありますが、これはちょっとお時間の関係で、大変恐縮ですけれども、濱田参考人にちょっと御意見をお伺いしたいと思います。
○参考人(濱田純一君) 確かに、御指摘のように、やはりこれはある程度カテゴリー分けをして考えなければいけないものだろうと思います。
 ただ、それは、そもそも表現の内容によって表現の価値に上下があるかどうかということでは、実際にその利害状況のバランスを取るときにどういう観点を考慮に入れるかという、そういうところで問題になってくるものだろうと思います。
○平野達男君 分かりました。
 それでは、田島参考人にお伺いします。
 個人情報保護法案、それから人権擁護法案に関する質問なんですけれども、表現の自由と先ほど言いましたように、その反作用としてのいろんなマイナス面があるんですけれども、これをどのように調整するかということなんですが、例えばメディア規制に関していえば、メディアは、これは国家権力を監視するというのが一つの役割だと言われていますから、メディアの規制を行政若しくは国家権力が法律でもって規制をするというのは、これおかしいというのは非常に正論だろうと思います。
 それから、あと、民間人が国家において、国家から非常に不当な扱いを受けるという例もありますから、そういった意味で、それに関しても、国家が、国が法律を設けて、国が、行政が監視をするというのも、これは非常に問題が多いんじゃないかなという感じがします。
 じゃ、それらを一つの、どこでやるかということに対して、司法権というのがあるわけですけれども、どうも司法権になりますと、私なんかにすると裁判かという話になってしまいまして、これは非常に話がややこしくなるなという感じがしまして、裁判の在り方というのをもう少し分かりやすくというか、開けたものにする必要があるんではないかなということでありますが、これに関しまして、田島参考人の御意見をちょっとお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(田島泰彦君) 恐らく、今言われたような問題意識で司法改革の中でいろんな議論が私はされているのかなと。
 一つは、例えば長く掛かり過ぎますよね。だから、もうちょっとこれを早くできないかとか、あるいは職業的な裁判官だけの判断でいいのかと、もう少し普通の市民が加わる必要があるんじゃないかということで、裁判員の制度の提案というのもなされていますし、我々の大学でいいますと、法曹の養成をもう少し大学がロースクールというような形で担う必要があるのではないかということも、もう実現の道を進みつつあります。
 すなわち、一言で言うと、もう少し司法の敷居を低くして、司法を活性化して、そして、私は、本来やっぱり司法というのは人権救済というところで大いに役割を果たす、あるいは権力のきちんとしたチェックを司法がやるというのが非常に求められているところだと思うんですね。
 だから、まずは、そういうせっかくの司法改革の中で司法の活性化なり民主化ということがテーマになっているんですから、それを人権救済というところでも生かさない手はないのではないかと。そういうところをおいておいて、いきなり強大な国家機関を作って、しかもその国家機関が権力の人権侵害をチェックするんじゃなくて専ら民間の様々な市民の活動を人権侵害の名でチェックする。やっぱりちょっと順序や考え方自体が逆転しているんじゃないかなというふうに思ってしまうわけです。
○平野達男君 突拍子もない発想かもしれませんけれども、司法権以外の全く独立した機関を作るなんていう発想はないんでしょうか。
○参考人(田島泰彦君) 独立性を、今のように省庁の下ではなくて、本当に純粋に独立してという考え方はあり得ると思いますね。
 ただ、日本では余りそういう十分な経験なり蓄積があるとは言えないという問題が一つと、にもかかわらず、やはりそこに表現なりなんなりということを規制対象にすると、どんなに独立性を確保してもやはり原則的な、原理的な問題として、国家機関、特に行政的な機関が立ち入っていいかという問題が残ると思うんですね。
 ですから、その意味では、少なくとも表現とかメディアの分野では自主的な努力を強めるしか私はないのかなというふうに考えております。
○平野達男君 分かりました。
 それからあと、ひょっとしたら最後の質問になるかもしれませんが、今日、何回か議論になっているメディアの自主規制の問題です。
 これは、メディアといえどもこれはもう利益を上げながらやっているという面が、要するにコマーシャリゼーションという問題があります。メディアの会社も株式会社で株主もいるという状況ということもありまして、これが要するに業績を上げるということと自主規制ということが、日本の社会においては、これ銀行の問題、金融機関とかいろいろありますけれども、必ずしもというかむしろ機能しないんじゃないかという危惧を私は持っています。
 もっとも、コマーシャリゼーションが悪いということではなくて、そういった利益があるからこそ新聞記者も一生懸命になって分け入って核心となる情報を引っ張ってきてそれを提供するというようなこともあると思うんですが、だからこれを否定するものではないんです。
 ただ、そういう中でコマーシャリゼーションといわゆる自主規制、規律というものが、利益相反という言葉が金融の世界ではございますけれども、真っ向からぶつかるんではないかという感じがしまして、メディアでこれができるということは、メディアというのは特別な存在で立派な品格と見識を持っているという多分前提が必要だろうと思うんです。しかし、メディアをやっている人はだれでもなくて、向こう三軒両隣、私らと同じ人間がやっていまして、そういった意味においては、メディアを批判するわけではないですけれども、今のいろんな、日本のその他社会情勢いろんなことを見ますと、自主規制ということでメディアを信用するということも、これは私はちょっと危険、危険というかちょっと心もとないなという感じがするんですが、これは両参考人にお聞きしたいと思うんですが。
○参考人(濱田純一君) 御指摘のような危惧があることは十分理解しておりますが、それでも今現実に、先ほどのBRC、あるいは新聞社の試みを始め若干動きを見せているところで、そうした努力、やはり人間は非常に良心というものもありますから、そういうところに頼りながらよりいいものができていくのだろうと思います。
 ただ、一点だけ注意しておきますと、自主機関、第三者機関というものがこれは絶対ではないということですね。やはりそこでの判断というのが、これはメンバーに民主的な正統性があるわけではありませんし、また知見も限られておりますので、やはりそこで出た判断を更に国民全体で批判する、あるいは政治の場から批判するということもあってしかるべきだと思いますが、そういう広い議論をとにかく行っていくためのきっかけがこの第三者機関だと、そういうふうに理解すべきだろうと思っております。
○参考人(田島泰彦君) これ、だから新しい試みなんですね。だから、その意味では、できたばかりで簡単な評価を私自身は下すべきではないだろうなというふうに思います。
 ただ、メディアの中で何かうまくやっているんじゃないかという弊害あるいは心もとなさを克服するためには、一つはやはり活動の透明性ということだと思うんですね。世間にさらす、判断内容を世間にさらす、審理の経過も世間にさらしていくと、そういう情報公開を積極的に行うということ。
 それからもう一つは、やはり広い市民的基盤の下に制度を構築していくということだと思うんですね。もちろん、メディアはお金を出す責任はあると思いますけれども、ある程度は、例えばBRCなどではそういう外部のメンバーなりに全部メンバーをゆだねるとか、いろんな努力はしていると思うんですが、もうちょっと将来的には、しかし制度自体をいろんな団体が共同で支えていくと、そういう方向も含めて、やっぱり市民がいろんな形でコミットし、批判をしというプロセスを経る中でこういう仕組みが鍛えられていくのかなと。その可能性は私はあるのではないかなというふうに思っております。
○平野達男君 どうもありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 大脇雅子君。
○大脇雅子君 これまで様々な御意見、ありがとうございます。いろんな論点は出尽くしたような感がございまして、一番中心的に議論されましたのは自主規制、自律規制の問題であったかと思います。
 濱田先生も田島先生も、現在、全体として規制の方向に向かいつつあるのではないかと、あるいは個別部分的な問題でも危惧があるということは言われました。それは、具体的には人権擁護法であり、個人情報保護法の諸規定であるということが言えるわけですが、それが非常に問題であるということは当然のことながら、日本の自主規制、自律規制は、言ってみれば、今までの歴史的な経験からしますと、自己抑制をしていくという、そういう危険性というか懸念があるのではないか。
 表現の自由というのは民主主義のレベルの高さを表すものであるということなんですが、田島先生にもう少し議論を深めたところでお尋ねしたいのですが、透明性、情報の公開と市民参加ということをおっしゃったわけですが、これからのあるべき自主規制の一つの全体像みたいなものを改めて語っていただけると有り難いんですが。
○参考人(田島泰彦君) 全体像を語るというのは非常に難しいかもしれませんけれども、幾つか、一、二だけ大事だと思うことを言わせていただきますと、自主的な規律、自主自律が可能な前提は、私は、表現の自由が正に確保されているということ、すなわち公権力からの十分な独立と自由ということが確保されて初めて自らをどう律するかということが可能になるのであって、だからそのためにも、本当の意味の自主規制の制度を確保していくためにもやはり公権力との緊張関係というのは常に大事に距離を保っていく必要があるだろうというのが一つです。
 それからもう一つは、先ほど言いましたように、自主規制だけが私も唯一の道ではもちろんない。自主規制だけで完結し切れるかどうかというと、やっぱり自主規制というのは、基本的には自分たちが守っていくというところに依存せざるを得ないわけですから、もしそれを守らないという部分が出てきたときに、ある種この自主規制は崩壊をする可能性があるわけですよね。
 それからさらに、その自主規制だけで全部カバーできるかというと、重大な権利侵害というのは裁判所に、あるいは裁判を受ける権利というところにゆだねざるを得ないわけですから、やっぱり自主規制も一つの社会全体の、トータルの中のサブシステムの一つとして位置付けていくという観点が私は必要だろうと。その自主規制がしかも単に業界のエゴの塊みたいにならないためには、先ほど言った透明性、それから市民の様々な形での参加ということが必要、重要なポイントとしてあるのかなというふうに思っております。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 濱田先生は、このレジュメの中でメディアリテラシーについての項目を挙げておられますけれども、この点について少し付言をしていただけるでしょうか。
○参考人(濱田純一君) レジュメの中に挙げておきながら、ちょっと時間の関係ではしょらせていただいて申し訳ございません。
 このメディアリテラシーというのは、最近理論だけではなくてあちこちで実践も進んでおりますけれども、あれは今まで送り手側の責任だけを問題にしていたのですが、受け手の側というのも情報に対してもっと主体的に、もっと批判的に考えていくべきではないかと、そういう姿勢でございます。もちろん、こういうのは私たちある程度トレーニングというものがないとそういう姿勢を取ることができませんので、そういうものを教育の場で実践的にやっていってみてはどうかということで試みが続いているものでございます。
 これは、ただ受け手の立場としてその情報をどう批判的に、分析的に受け取るかというだけではなくて、そういう姿勢を通じて、情報を自分が発信するときにどういうふうにやればいいのかということも含めて、つまり発信者の立場の能力の涵養というのもかかわってくるものでございます。そういう意味では、表現の自由というふうに我々が申しますときに、その表現をする主体の在り方としてやはりメディアリテラシー、情報リテラシーというものが必要ではないかということが申し上げたかった趣旨でございます。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 表現の自由の中で、差別的な言動の規制という問題が我が国では非常に表現の自由が優越をしてきた議論がなされていると思うんですが、例えば今、児童ポルノの所持をどう規制するかというときに、表現の自由が確執を生むというようなこともあり、こうした差別的な言動あるいは弱者の人権侵害に対する言動と表現の自由について両先生にお尋ねしたいと思います。
○参考人(濱田純一君) お答え申し上げます。
 私は、恐らくこの辺りは田島先生と若干意見が違うかもしれませんが、基本的には差別的な表現、これは例えば被差別部落の問題であれ、あるいは女性の問題であれ、あるいは身体障害者の問題であれ、あるいは在日朝鮮人の問題であれ、それはすべてできる限り自主的な措置によって対応すべきであろうと思っております。
 ただ、例えば被差別部落の所在地をインターネットで流すといった、こういう大変深刻な事態も生じておりますが、そういったものまでも果たして自主規制という枠組みで考えていいのかどうか、あるいは児童ポルノの問題もそうでございますけれども、そういったものはやはり法的な規制の枠に取り込んで考えるべきものであろうというふうに考えております。
○参考人(田島泰彦君) 私自身も、法規制が今言われたような問題で一切、要るのか要らないのかということ自体についてはちゃんとした議論をこれから重ねていかなければいけないという立場に立っています。
 ただ、ただし、やはりこれが表現という領域に入ってくるときに、どういう規制の在り方をするということについて、非常にこれ慎重にやらないと、例えば、御承知のようにいろんな現場で過剰に、例えば差別にかかわる事柄について発言ができないみたいな状況が一部あるという指摘もされていますね、言葉狩りなんという批判をする人たちもおります。
 もちろん、弱者の立場に立っていろんなものを考えていくという視点は非常に私は大事な問題提起だとは思いますけれども、それが逆に過剰な形に出て、それを基にして国家機関が取り締まっていくということになると、やはりこれはちょっとそれでいいのかなというふうに考えざるを得ない。だから、そこのところは非常に私は微妙な問題がはらまれているだけに、軽率に立法化して法的措置を取るということだけはやっぱり避けなければいけないのかなというふうに思っております。
○大脇雅子君 先ほど宮本議員の方から、住民基本台帳のネットワークについて先生方の御意見が問われましたけれども、その御意見の中で、濱田先生は今のセキュリティーシステムでいいかと、特にセキュリティーに対して非常に危惧があるという御発言でございました。田島先生は違憲の疑いすらあるという御見解でございました。
 これを少し詳しく、更に御説明していただけるでしょうか。
○参考人(濱田純一君) お答え申し上げます。
 その前提となるようなことでございますが、自己情報コントロール権というもの、これが私はやや言葉が独り歩きしているような気がいたします。つまり、私たちは自分の情報を社会生活の中である程度は譲り渡しながら生活をしているわけで、自分の情報をだからといって何でもかんでもコントロールできるわけではないわけでございます。
 したがって、自己情報コントロール権と言うときも、何でもかんでもコントロールできる、自分にすべて選択権があるというわけではなくて、ある程度のものが、社会的に利用される場合にどういう合理的なシステム、どういう安全なシステムであればいいのかという、そういう話であろうと思います。
 このセキュリティーの問題でございますけれども、例えばこれは横浜でしたか、条例によってある程度対応しようというようなことも考えているようでございますが、一体だれがいつその個人情報というものを引き出したのか、そういうことがきちんと記録に残るシステム、あるいはそういうものがなされた場合に、不当に行われた場合にはそれに対する何らかの懲戒等も含めた処分があり得るのかどうか、そういった制度的な手当てもきちんとしておくべきであろうというふうに思っております。
○参考人(田島泰彦君) 私ももちろん、何でもかんでも自己情報のコントロールすればいいとは思っていません。
 ただ、事柄はやっぱり公的な管理なんですね。しかも、我々国民の全員が番号を振らされてコンピューターで一元的に管理されると、こんなことをやっている国は今のところないわけですね。もしその番号を媒介にしてほかの納税者番号として利用されたり、あるいは将来的にいろんなものがそこにリンクされていったら、コンピューターの番号一つの操作で我々の生活が丸裸にされる危険性があると。だから、番号を振ったというのは私は非常に恐ろしさを感じるんですね。
 ですから、単に一つ二つの我々の個人情報がどうなるという問題ではなくて、正に我々の人格そのものが国家によって将来全面的にコンピューター管理され、しかもそれが漏れたらもう莫大な量の個人情報がいろんなところにばらまかれていく。こういうような制度をもし作るとすれば、最低限、大変なリスクがそこにあるわけですから、先ほど言いましたように、私はそもそもこういう制度を作るべきではないという意見なんですが、もし作るとしても最低限、個人がいいよと言った人だけそういう制度を認める。あるいは、自治体が第一次的には住民の個人情報の責任を負っているわけですから、自治体の判断でこれは困ると言ったらその自治体のやっぱり意向は尊重すると。この二つの要件は最低限のものとしてクリアしていない限り、非常にやっぱり憲法上の疑念が残るというのが私の立場です。
○大脇雅子君 そうしますと、いわゆる違憲の疑いとおっしゃるときに、その根拠条文というのは十三条等をおっしゃっているんですか。
○参考人(田島泰彦君) そうですね、一般的にプライバシー権の根拠というのは憲法十三条、憲法上は十三条ということに考えられていますので、十三条のプライバシー権の侵害ということ。それから、自治体の離脱権を根拠付けるのは、私はやっぱり憲法の地方自治の章だと思うんですね。そこを根拠に、それさえ認めないというのは、地方自治の重要な部分に反する、少なくとも趣旨に反するのではないかと、こういう論理構成が可能だと思います。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 終わります。
○会長(野沢太三君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後三時十九分散会

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