第159回国会 参議院憲法調査会 第1号


平成十六年二月十八日(水曜日)
   午後一時四分開会
    ─────────────
   委員氏名
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事         武見 敬三君
    幹 事         保坂 三蔵君
    幹 事         吉田 博美君
    幹 事         若林 正俊君
    幹 事         鈴木  寛君
    幹 事     ツルネン マルテイ君
    幹 事         若林 秀樹君
    幹 事         魚住裕一郎君
    幹 事         小泉 親司君
                阿南 一成君
                岩井 國臣君
                扇  千景君
                亀井 郁夫君
                桜井  新君
                椎名 一保君
                常田 享詳君
                中曽根弘文君
                服部三男雄君
                福島啓史郎君
                藤野 公孝君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松村 龍二君
                松山 政司君
                森田 次夫君
                山崎  力君
                江田 五月君
                大渕 絹子君
                川橋 幸子君
                小林  元君
                角田 義一君
                中島 章夫君
                平野 貞夫君
                福山 哲郎君
                堀  利和君
                松井 孝治君
                白浜 一良君
                山口那津男君
                山本  保君
                井上 哲士君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                田  英夫君
                岩本 荘太君
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   委員の異動
 二月十七日
    辞任         補欠選任
     江田 五月君     大脇 雅子君
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  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                武見 敬三君
                保坂 三蔵君
                吉田 博美君
                若林 正俊君
                鈴木  寛君
            ツルネン マルテイ君
                若林 秀樹君
                魚住裕一郎君
                小泉 親司君
    委 員
                阿南 一成君
                岩井 國臣君
                扇  千景君
                亀井 郁夫君
                桜井  新君
                椎名 一保君
                常田 享詳君
                中曽根弘文君
                福島啓史郎君
                藤野 公孝君
                舛添 要一君
                松田 岩夫君
                松村 龍二君
                松山 政司君
                森田 次夫君
                大渕 絹子君
                大脇 雅子君
                川橋 幸子君
                小林  元君
                中島 章夫君
                平野 貞夫君
                福山 哲郎君
                松井 孝治君
                白浜 一良君
                山口那津男君
                山本  保君
                井上 哲士君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                田  英夫君
                岩本 荘太君
   事務局側
       憲法調査会事務
       局長       桐山 正敏君
   参考人
       大阪大学大学院
       法学研究科教授  坂元 一哉君
       拓殖大学海外事
       情研究所所長   佐瀬 昌盛君
       朝日新聞記者
       AERAスタッ
       フライター    田岡 俊次君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○小委員会設置に関する件
○日本国憲法に関する調査
 (平和主義と安全保障
  ―憲法と集団安全保障、集団的自衛権、日米安保)
    ─────────────
○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 小委員会の設置に関する件を議題といたします。
 二院制と参議院の在り方について調査検討するため、小委員十五名から成る二院制と参議院の在り方に関する小委員会を設置することに賛成の方の挙手をお願いいたします。
   〔賛成者挙手〕
○会長(上杉光弘君) 多数と認めます。よって、二院制と参議院の在り方に関する小委員会を設置することに決定いたしました。
 つきましては、小委員及び小委員長の選任は、会長の指名に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○会長(上杉光弘君) 御異議ないと認めます。
 それでは、小委員に岩井國臣君、武見敬三君、福島啓史郎君、保坂三蔵君、舛添要一君、松村龍二君、山崎力君、川橋幸子君、鈴木寛君、平野貞夫君、松井孝治君、山本保君、吉川春子君、田英夫君及び岩本荘太君を指名いたします。
 また、小委員長に保坂三蔵君を指名いたします。
 なお、小委員及び小委員長の辞任の許可及びその補欠選任、並びに小委員会から参考人の出席要求がありました場合の取扱いにつきましては、これを会長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○会長(上杉光弘君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。
    ─────────────
○会長(上杉光弘君) 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「平和主義と安全保障」のうち、「憲法と集団安全保障、集団的自衛権、日米安保」について、大阪大学大学院法学研究科教授の坂元一哉参考人、拓殖大学海外事情研究所所長の佐瀬昌盛参考人及び朝日新聞記者・AERAスタッフライターの田岡俊次参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚くお礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を賜り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、坂元参考人、佐瀬参考人、田岡参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員とも、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず坂元参考人にお願いいたします。坂元参考人。
○参考人(坂元一哉君) 大阪大学の坂元でございます。本日はお招きいただき、ありがとうございます。
 憲法改正がなぜ必要かということは、おおよそ二つの観点から論じられているように思います。一つは憲法の制定経緯にかかわる観点から、もう一つは、憲法制定以来何十年もの年月がたち、憲法が内外の情勢の変化に適応できなくなっているのではないかという観点からでございます。
 本日、私がお話しさせていただくのは後者の観点からでして、私は、二十一世紀におきまして日本の平和と安全の基盤である日米同盟を強化していくために、日本は集団的自衛権の行使ができるようになるべきである。ただ、そのために憲法九条を改正する必要はなく、解釈の是正で十分であると主張したく思います。そして、その解釈の是正のために国会に一つお願いがある、それが話の粗筋でございます。
 日米同盟が日本の国益に欠かせないものであること、これは改めて説明するまでもないと思います。その日米同盟の骨格である日米安保条約、この条約は、過去半世紀、その構造上の弱点にもかかわらず、様々な試練に耐えて長く続いてまいりました。弱点といいますのは、この条約の相互性、双務性にかかわることでございます。
 この条約は、日本がアメリカに基地を貸し、アメリカが日本の安全を保障する、基地と安全保障の交換の約束を定めた条約でございます。旧安保条約の締結交渉に携わった西村熊雄条約局長は、後にそのことを物と人との協力と表現いたしました。
 レジュメをごらんください。西村局長が言いますように、この条約は確かに相互的あるいは双務的でございます。日米は互いに物と人との協力というギブ・アンド・テークに納得しましたからこそ、この条約を結び、それが一九六〇年の改定を経て半世紀以上続いております。
 しかし、この物と人との協力という形の相互性は、米軍と自国軍の協力、言わば人と人との協力を前提にしているNATOのような相互防衛条約と比べまして、互いにどこかしっくりとしない感情を生み出すところがございます。といいますのも、人を出す方は、自国の若者にリスクを負わせるわけですからそのリスクを負わない相手を余り尊敬せず、物を出す方は、その不便とコストを理解しない、あるいはしないように見える相手の態度を面白くなく感じがちだからであります。
 冷戦は、このしっくりとしない感情を抑制する働きをいたしました。いろいろと理由はございますが、特に大事なことは、冷戦下の日米同盟が全面戦争を想定しておりまして、いざとなれば日本も戦火を免れることはできない、したがって、結局日本とアメリカはともに戦うという前提で理解されていたからです。物と人との協力とは申しましても、実際には人と人との協力、自衛隊と米軍の協力にもなるというわけです。
 しかし、冷戦が終わって既に十年以上がたちました。日米両国を取り巻く脅威の性格は、あるいは朝鮮半島危機のような地域紛争、あるいはミサイルや大量破壊兵器の拡散の問題、またあるいは九・一一テロ事件のような、これまで近代世界がまじめには考えてこなかったポストモダンの脅威に変わっております。そうした脅威に対して、果たしてこの物と人との協力だけで日米同盟がこれからも続いていくかといいますと、これはかなり怪しいわけでございます。
 幸い、日本とアメリカは冷戦後、一九九七年に、新しい日米防衛協力のための指針、ガイドラインを定めて、東アジアで地域紛争が起こったときに自衛隊と米軍の間でなすことができる協力の幅を広げました。アフガン戦争では、日本はインド洋上での米艦船への海上補給という形でできる限りの人と人との協力を行いました。それによって、日米同盟はその歴史上最大の試練の一つを乗り越えたと思います。
 私は、二十一世紀において日米同盟は、それぞれのでき得ること、できないこと、得意、不得意、これをよく勘案しつつ、物と人との協力に人と人との協力をバランスよく組み合わせる、そういう形で発展させていくべきだと考えております。
 そういう考えからしますと、近年の日米同盟の運営はうまく進んでいると評価しております。ただ、国内政治と憲法との関連でいいますと、まだ一つ大きなハードルがございます。人と人との協力の法的な基盤になります集団的自衛権の問題であります。
 政府が、日本はこの集団的自衛権を国際法上持っているけれども憲法上行使できないとしておりますために、人と人との協力はいまだ腰の据わったものにはなっておりません。なぜなら、人と人との協力で日本が行うものは武力行使に当たらないと説明しなければなりませんので、武力行使と一体化するとかしないとか、あるいは戦闘地域と一線を画するとか画さないとか、分かったようで分からないあいまいな議論が続くからであります。これをそろそろやめて、集団的自衛権の行使ができるという前提で人と人との協力を説明できるようにしてほしいわけです。
 日本が集団的自衛権の行使ができるようになって何か悪いことがある、私は余り思い付きません。逆に、日本が集団的自衛権の行使ができるという前提に立ちますと、説明が簡単になるというだけではなくて、幾つか良いことがございます。まず、日米同盟の強化が機能されますし、おかしなことを言ってお互いに気まずくなるということもなくなります。例えば、日本がミサイル防衛システムを導入した場合に、自分のところに飛んでくるミサイルは撃ち落とせるが、アメリカに飛んでいくミサイルは撃ち落とせないといったばかなことは言わなくて済むようになります。
 それに、集団的自衛権はアメリカ追随だという議論がありますが、私は逆だと思います。集団的自衛権が行使できるようになり、きちんとした形で日本がアメリカに協力できる幅が広がれば、アメリカに対する発言権も当然増すでしょう。アメリカとの協議におけるイエスとノー、これも今より歯切れよくすることができると思います。また、沖縄を始め国内の基地問題も解決への道がより明るくなると考えます。
 それで、集団的自衛権を国際法上持っているけれども憲法上行使できないという政府の解釈ですが、果たしてこれは正しい憲法解釈でしょうか。私は全くそうは思いません。政府の解釈は直観的にも論理的にも奇妙な解釈だと思います。しかし、今日はその詳しいところは、私が尊敬し、またその御著書や論文を参考にさせていただいている佐瀬教授からお話があると思いますので、省かせていただきます。
 ただ、一つだけ、この政府解釈の政治的意義のようなものについてお話ししたいと思います。
 レジュメに、日米安保改定時に内閣法制局の一員であり後に長官にもなられた高辻正巳氏の回顧の弁を抜き書きしております。ごらんください。長くなりますが、読ませていただきます。
 グアム島と言えども、米国を守るために自衛隊を海外派兵することは憲法上容認されないことで高橋氏と一致した。しかし「日本国の施政の下にある」米軍基地が武力攻撃を受ければ、日本としても「共通の危険に対処して行動することを宣言する」と規定している以上、日本国内では米軍を守るため集団的自衛権を行使することになる。しかしそれを敢て集団的自衛権と言わなくても、実際にやることは個別的自衛権行使と同じなので、岸首相、林法制局長官ら政府側は個別的自衛権行使で押し通したが、米国は、米軍基地を防衛するための日本の行動を日本の集団的自衛権行使と理解している。
と。
 心理学の実験でよく出てくるだまし絵にルビンのつぼというのがございます。つぼかと思ってじっと見ていると人の顔に見え、またじっと見ているとつぼに見えると、あれのことでありますけれども、この高辻氏の回顧の最後のところ、私は正にあれだと思いました。日本国民には自衛に見え、アメリカには集団的自衛に見える。そのくだりを見てこんな説明をどうしてする必要があるのかと考えたわけでございます。
 集団的自衛権とあえて言う必要がないというのなら、逆にこれは別に言ってもいいわけです。日本は日本国の施政の下において集団的自衛権行使ができると言って何が悪いのでしょうか。その答えは少し歴史を振り返ってみれば分かります。
 日本政府が集団的自衛権の行使ができないという解釈を明らかにし始めたのは、今から五十年前、一九五四年の自衛隊創設に関連する国会論議の中においてでした。もう少し詳しく言いますと、一九五四年六月三日の外務省条約局長による説明が公式には最初です。なぜ、そんな日付を詳しく言うかといいますと、それが本参議院におきまして自衛隊の海外派兵を禁止する決議、レジュメをごらんください、が出た翌日のことだからです。
 当時、政府は、自衛隊という新しい軍事組織が行使するその軍事力の限界を国民に示す必要に迫られておりました。そして、そのころの日本では、憲法は個別的自衛権の行使すら禁じているといった議論がばかにできない力を持っておりまして、自衛隊が集団的自衛権を行使して海外派兵もできるというようなことになりますと、これは自衛隊創設に国民の支持が得られないということは明白でした。そうではないということを説明するために、集団的自衛権は行使できないとの立場が取られたようです。
 その後、一九六〇年の安保条約改定審議の際も同じでした。岸首相や林法制局長官らは、日本が他国防衛のために他国に出掛けていって防衛するような、つまり海外派兵を含むような集団的自衛権は行使できないと説明しております。そういう説明で自衛隊が海外派兵しないということを明らかにしたことは、国民が自衛隊を受け入れるには役立ったかもしれません。また、安保条約を国民に受け入れやすくすることにも役立ったかもしれません。けれども、その反面、集団的自衛権の行使は海外派兵と同一視されて、戦前日本の海外における軍事力行使の悪いイメージが付きまとうことになってしまいました。
 このことについて、私は、これから集団的自衛権の問題を考える場合には、集団的自衛権と海外派兵、この二つは分けて考えるべきだと思います。実際に、安保条約第五条のように海外派兵を伴わない集団的自衛権の行使もあるからです。そして、もし国民の間に海外派兵を伴う、すなわち他国の領土、領海、領空での武力行使を伴うそういう集団的自衛権の行使はしたくないという強い希望と意思があるのなら、実際にそうした集団的自衛権の行使をしなければよいと思います。集団的自衛権の行使ができるからといって、何もそれを全面的に行使しなければならないというわけではありません。集団的自衛権は権利であって義務ではないのです。
 私自身は、日米同盟の維持と発展のために海外派兵を伴わない集団的自衛権の行使は積極的に認めるべきだと考えています。例えば、日本が日本の施政の下にある領域そして公海及びその上空で集団的自衛権の行使ができるようになれば、日米同盟における人と人との協力の基礎は幅広くしっかりしたものになると考えます。日米同盟は何といっても海洋国家間の同盟ですから、公海とその上空で互いの防衛協力の理論的基盤を固めるということは同盟強化にとって極めて大きな意味を持つはずです。
 それで、そのような形の限定的な集団的自衛権の行使、これをどのようにしたら実現できるかということであります。私は、日本国憲法は、集団的自衛権の限定的行使なら認めるといったような憲法解釈はまずいと思います。それは、限定とはどういう意味かと、なぜ限定されなければならないかという不毛な論争を呼ぶだけだと考えます。それに、国際法上のある権利を日本だけ限定的に認められているのも変な話です。やはり、憲法上、集団的自衛権の行使は禁じられていない、そういう解釈が必要になると思います。この点、政府には憲法解釈を変えてもらう必要がありますが、それはまた後で述べます。
 憲法で集団的自衛権の行使が可能ということになれば、次は海外派兵をしないという歯止めをどうするかとの質問が出ると思いますが、私は、これは法律ですればよいと考えます。
 憲法上、集団的自衛権の行使が可能だとしましても、その権利を生かす法律がなければ、実際の行使はできません。自衛隊が集団的自衛権の行使を前提にこれこれのことをすると法律に書いて初めて集団的自衛権の行使は可能になります。逆に言うと、これこれというところを超えたことはできないわけです。例えば、自衛隊が日本の領域と公海及びその上空において武力攻撃を受けた米軍の反撃を支援することができるといった趣旨の法律ができれば、この法律では海外派兵してまで助けることはできないということになると思います。
 それから、もう一つ歯止めに関して大切なことですが、制限された範囲内で集団的自衛権の行使ができるような法律ができたからといって、日本政府がその範囲内で武力行使に積極的にならなければならないというわけではありません。むしろ、憲法の平和主義の精神を踏まえて、武力行使には常に慎重な姿勢で臨むというのが当然の政策論だと考えます。
 これまでのところ、私の考える集団的自衛権の限定的な行使についてポイントをまとめますと、レジュメに書きましたように、一つ、憲法は集団的自衛権の行使を禁じていないという憲法解釈、二つ、日本の領域、公海及びその上空で集団的自衛権の行使を可能にする法律、三つ、実際の武力行使は法律の範囲内で極めて慎重に行うという政策の三点になろうかと思います。
 さて、私は、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈が必要だと思いますが、政府は今のところそうした解釈の変更はできないという立場のようであります。特に、内閣法制局からは、これは変えることができないから、集団的自衛権の行使が必要なら憲法を変える必要があるとの見解も示されています。
 私は、政府の憲法解釈に過去において一定の意義があったことは認めます。認めますが、変えられないから憲法を変えろというほど立派な解釈だろうかといぶかしく思うわけであります。もちろん、私が幾ら政府の解釈がおかしいと思うと言いましても、思うというのは私の判断にすぎません。また、政府の解釈には、長く言い続けてきた、少なくとも私が生まれる前から言い続けてきたという重みはあると思います。しかし、そうではあっても、忘れてならない事実は、政府の憲法解釈というのは最高裁の解釈ではなく、決して憲法の最終的な有権解釈ではないということでございます。
 私も、もし最高裁の解釈が政府の解釈と同じというのであれば、憲法を改正するしかないと思います。しかし、こうした問題について裁判所は、統治行為論と呼ばれる理論でもって、高度に政治性を有する事柄については、一見明白に憲法違反でない限り憲法判断を差し控えるという態度を取っております。
 そうなりますと、そうした高度に政治性を有する事柄での憲法判断はどこがするのかということになります。それは、やはり最終的には国民の判断になろうかと思います。そして、その国民の判断をまずもって体現するのは、国権の最高機関であります国会の御判断ということになるのではないでしょうか。私はそう信じますので、集団的自衛権の問題につきましては、国会で広く深く御議論いただいた上で、集団的自衛権の行使を前提にした法律を議員立法で制定していただきたく思います。
 具体的に、どこまでの範囲で集団的自衛権の行使を認めるか、行使ができるようにするか、どういう法律であるべきか、これは国会の御議論で決めていただければよいと思います。今、私は日本の領域と公海及びその上空と申しましたが、それより狭くてももちろんよいかと思います。また、その法律は、集団的自衛権の行使のみならず、日本の武力行使の在り方とその限界について大所高所から総合的に考えて作られた安全保障基本法のようなものの一環である方がよいと思います。
 しかし、そう思いますが、広く深い議論が背景にあるなら、より簡単にこれまでの法律の改正でもよろしいかもしれません。例えば、周辺事態法。周辺事態法におきまして、日本周辺の公海及びその上空における後方地域支援というのがございますが、この後方地域支援を、後方地域ではなくて後方支援を可能にするような法律改正はいかがでしょうか。
 これはレジュメに書きましたが、このガイドライン、日米防衛協力のための指針でいいますと、戦闘地域と一線を画するというあの有名な文言、これを除去するという趣旨でございます。それにより、米軍の後方支援をしている場所が戦闘地域になっても自衛隊は支援を続けることが可能になります。そして、その自衛隊の行動は集団的自衛権の行使で説明することになります。要は、国会で憲法は集団的自衛権の行使を禁じていないという解釈を明らかにしていただきたいのです。もしそうしたことができれば、政府の憲法解釈は乗り越えることができます。もちろん、国会が作った法律をそれでも内閣が憲法違反だと主張するということになりますと、これは困ったことになりますが、そういうことにはならず、それをきっかけに政府が解釈を是正すると考えます。
 本日は、日米同盟と集団的自衛権について考えていることの一端をお話しいたしました。そして、集団的自衛権の行使ができるという憲法解釈を前提にして、限定的な範囲で集団的自衛権を行使できるようにする法律を議員立法で作っていただきたいというのが私のお願いであります。
 最後に、憲法の平和主義について少し考えるところを述べようかと思いましたが、時間が来ましたので、質疑の中でチャンスがあればお話しすることにして、私の冒頭の陳述はこれで終わらせていただきます。
 御清聴ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、佐瀬参考人にお願いいたします。佐瀬参考人。
○参考人(佐瀬昌盛君) 今、御紹介いただきました拓殖大学海外事情研究所の佐瀬でございます。
 私は、今日、ここに皆さんのお手元にお届けしてある紙、二枚紙ですけれども、「集団的自衛権と日本国憲法」と題しました。そして、今、坂元教授はかなり政策マター的なことに立ち入られたわけですけれども、私はそちらの方をあえて断念いたしまして、それについては最後の段階で少し述べるにとどめまして、このお届けしてある紙に沿って私の考えを申し述べたいと存じます。
 まず第一に、集団的自衛権に関する政府解釈の問題点。これは私は、その時系列に沿っての問題点の指摘と、それから二といたしまして論理的欠陥と、二つの面で私の考えを申し述べたいと思います。
 まず、時系列に沿ってでありますけれども、現行の集団的自衛権についての政府の憲法解釈、これは内閣法制局が昨今は余りこの点を強調されなくなったようではありますけれども、数年前にはこれを非常に厳しく、一貫性を持っているんだということを断言しておられました。ただし、私の見ますところでは、そういう一貫性はなくて、時代による変遷を遂げております。これが第一点であります。その点をもう少し詳しく申しますと、現在の解釈が、私はそこに「固まったのは、」と書きましたが、より正確に言いますと、ほぼ固まったのは一九七〇年代中期のことであるということであります。固まったのは八〇年代に入ってからと言ってもよろしいかと思います。
 それから、ハとして、なぜその時代による変遷があったかといいますと、旧日米安全保障条約、つまり一九五一年締結の旧安保条約でありますけれども、そこでは前文において、国連憲章はすべての国に個別的及び集団的自衛の固有の権利を認めているということを述べた後、直ちに「これらの権利の行使として」という、「行使」という言葉を明確に使っていたわけであります。当時は、ここでちょっと限定を付けますが、当時は日本は集団的自衛権が行使できると考えていたからこそ「これらの権利の行使として」と述べたわけでありますけれども、残念なことに、当時は集団的自衛権を行使する手段がなかったわけであります。つまり、自衛隊というものがまだ存在しなかった時代であります。にもかかわらず、当時、「行使」という言葉を既に使っていたということであります。
 それから、ニといたしまして、現在の一九六〇年安保条約でありますけれども、この日米安保条約承認のために国会審議が行われましたが、当時の国会審議の記録を見ますと、これは岸内閣当時でありますけれども、当時は政府の解釈は明確に制限的保有論でありました。それについて詳しいことはまたお尋ねがあればお答えいたしますけれども、このときには制限的保有論であったと。
 それから、その次にホとして、もう一つ指摘しておかないといけませんのは、我が国が国連加盟に際して、これは鳩山政権が日露国交回復をやった後のことでありますけれども、国連憲章に、とりわけ個別的、集団的自衛権を定めた第五十一条に何らの留保も付けないでこれを受け入れているという点であります。
 その次に、集団的自衛権に関する現行の政府見解の問題点を論理的に眺めてみたいと思います。私はそこに「論理的欠陥」と書きましたけれども、私に言わせますと、この解釈は欠陥品であります。非常に問題のある解釈であります。
 イといたしまして、先ほど坂元教授も言及されましたけれども、政府解釈の特徴は、国際法上は独立国家としてこれを保有しているのは当然だけれども、しかし、憲法上、日本国憲法に照らしてその行使は不可、つまり違憲であるという議論であります。この論の進め方は、憲法上日本が、我が国が集団的自衛権を保有しているのか、それとも保有しないのかという問題の吟味を避けているということであります。
 ここでちょっと注釈を付け加えますと、この点は今から十日とたたない、正確に言いますと二月の十日のようでありますけれども、衆議院の予算委員会でこの点が改めて問題になりました。そして、法制局長官がこれについて独特の見解をお述べになりました。これは非常に注目すべきものでありまして、私はこの答弁は言わばごまかしにごまかしを重ねている答弁だと判断いたします。それは今、時間の制約からここでは詳しく申し述べません。
 それから、その次にこの問題、つまり憲法上日本が集団的自衛権を保有しているのかしていないのかと吟味しますと、答えは三つあります。可能性としては三つあります。憲法上保有せずという答え、憲法上保有するという答え、それから憲法上保有するかしないか分からないという答えの三種であります。
 ただし、そのうちで憲法上保有せずという解釈はほとんど成立する余地がありません。これは国際法上、既にこの解釈が定まる前に憲法に基づいて締結しておる旧、新の、旧と現行の安全保障条約においてその保有をうたっているからであります。
 さてその次、ハとして、そこに憲法上保有するといった場合には、憲法上保有するものを憲法上行使できないというのはいかがなものかという難問中の難問がございます。
 それから、ニといたしまして、憲法上保有か不保有かは分からないという答えは、これは憲法解釈としては言うまでもなく失格であります。
 その次に、ホといたしまして、これは別の意味での現行の政府見解の論理的欠陥でありますけれども、そもそも個別的自衛権と集団的自衛権を別個のものとして見るのは、我が国はそうやっております、これは国連憲章第五十一条の解釈としては国際的には異例中の異例、恐らくは我が国だけではないかと思います。
 そこに括弧書きで書いておきましたけれども、九・一一に関する安保理決議、これは非常に問題になった一三六八にかかわる国際的反応を見よと私書いておきましたけれども、それはいかなるものかと申しますと、あの九・一一の国際テロに対して安保理が行った決議に基づきアメリカは自衛権の行使に踏み切りました。アメリカ以外に合計八か国がやはり自衛権の行使に踏み切りました。これは、日本の説明では、集団的自衛権の、アメリカ以外の八か国はですね、集団的自衛権の行使に踏み切ったと、これは日本的な文脈でそう解釈しています。
 ただし、各国が憲章五十一条の定めに従って安保理にその旨を報告した、各国が届けたレターがございます。そのレターを見ますと、どの国も、アメリカは言うまでもなく、イギリス、フランス、ドイツその他の国々は、合計でアメリカを含んで九か国は、いずれもそこに国連憲章五十一条の定める個別的及び集団的自衛の固有の権利を行使すると、こういうことを言っているわけです。
 つまり、他国は国際的にこの二つのものを引き裂いて、今回我々が使うのは、アメリカが攻撃を、テロ攻撃を受けたから我々はそれに対して集団的自衛権の側面を行使すると言ったんではないということです。自衛権というのは一体として個別的及び集団的な自衛の権利、自衛の固有の権利と、こういう理解であります。それがホで述べた異例中の異例の解釈を日本がやっているということであります。
 それから、その次に、ヘといたしまして、日本国憲法は国家固有の権利、つまりこれは英語で言いますとインヒアレントライトですけれども、私、自分の著書の中で、国連憲章の正文を成すところのロシア語、英語は言うまでもなく、ロシア語、フランス語、中国語、これについて全部紹介しておきましたけれども、英語の場合はインヒアレントライト、日本語はそれは固有の権利でありますけれども、フランス語にしましても、それから中国語にしましても、これを日本語で訳しますと自然権ということです。ですから、国連憲章は国家の自然権というものをうたっているわけでありますが、日本国憲法は国際法に照らして自然権と呼ばれるものを否定するのかということであります。仮にそうだといたしますと、日本国憲法というのは非常に、非常にはこれはベリーの意味ですけれども、非常に非情な、情けにあらずと書く非情な憲法だと言わざるを得ません。
 さて、その次に二枚目に参りますけれども、集団的自衛権の現在の政府解釈に見られる思い違いがあります。それは、一九八二年のこれについての政府の解釈であり、それが今日でもそのまま維持されているわけですけれども、そこには自国と密接な関係にある外国が武力攻撃を受けたときにどうこうするんだと、こういう議論になっているわけです。ただし、これはかなり的外れであります。つまり、自国と密接な関係にある国がどうこうされたので、それに対して我が国はどうこうする権利を持つのかどうなのかというのは日本がやっている議論でありますけれども、これは思い違いであります。五十一条は、読んでみたら全く何の説明もなくて、そういう限定、自国と密接な関係にある国にかかわる権利であるのかどうなのかということは全く問題になっていません。国際的な解釈でもそういう解釈は取られておりません。
 その次に、ロとして、同盟、つまり、これは日米同盟もそうでありますけれども、国連憲章で言いますと第八章の「地域的取極」というものに入るカテゴリーのものでありますけれども、それは同盟国による集団的自衛、集団的自衛権、権が抜けておりますが、行使の保障度を高めてくれます。だから、他国に集団的自衛権を行使してもらいたいという場合には同盟を組みます。ただし、同盟を組んでも集団的自衛権の行使は義務化できないということがあります。権利はあくまでも権利でありまして、同盟国は、共同防衛をうたっていても、集団的自衛権の行使に関しては棄権という立場を取ることも理論上は同盟国間においてさえあり得るということであります。
 さて、それを裏返して申しますと、ハとして、逆に日本政府が言っているような自国と密接な関係にある外国、日本は幸いなことにそれを持っているわけであります。しかし、不幸なことにとは申しませんけれども、そういう自国と特別に密接な関係を持たない国があります。しかも、今日では国連加盟国でさえあるスイスが例えばそうでありますけれども、スイスは自国と特別に密接な関係を持っておりません。ところが、スイスは、国連憲章の言う五十一条の要件を満たせば、集団的自衛権の行使を法理上妨げられてはいないということであります。ということは、繰り返して申しますけれども、自国と密接な関係にある外国にかかわる権利という法制局見解は、これは見当違いだ、思い違いだということになります。
 さて、ニとして、さらに、その自国と密接な関係にあるという場合には、集団的自衛権というのは閉鎖的なシステムということになります。自国と密接な関係にない国が武力攻撃を受けたときには、知らぬよと、それで済ませるのかというと、多くの場合、国際社会というのはつれないものでありますから、知らぬよという態度を取ります。しかしながら、この集団的自衛権というのは、そういう閉鎖的なシステムであるのではなくてオープンシステムであります。つまり、日本とは日ごろほとんどかかわりのない国が武力攻撃を受けた場合に、日本は、あるいは日本がでなくてもよろしいんですが、ある国連加盟国がそれに対して集団的自衛権を行使することは一向に妨げられないわけであります。そういう点で、日本の政府見解には自国と密接な関係にある外国というものを冒頭にうたっているのは、これは思い違いであります。
 さて最後に、数分残されておりますので、若干の補論的考察ということを申し述べたいと思います。
 イとして、これは坂元教授も申されたことですから読み上げるにとどめますけれども、なぜ欠陥ある政府解釈が定着したのかといいますと、これは論理を詰めた結果だというのが法制局見解でありましたけれども、そうではなくて、論理の産物というよりは、これは政治の産物であります。
 それから、ロとして、これは私は最近指摘したことであります。前から考えていたことでありますけれども、ロ、我が国による集団的自衛権の解釈の、解釈権の一方的な対米行使が行われているということです。これは現在、日米安保条約の下で一番重要ないわゆるガイドラインという文書を見ますとその旨が明白であります。ですから、この点では米国はむしろ日本の集団的自衛権解釈をそのまま言いなりに受け入れているということであります。しかし、これは将来、非常に危うい問題をはらむかもしれません。
 その次に、ハといたしまして、私は、日本国憲法の下で集団的自衛権をも憲法上保有している、その行使は可能であるとするのが望ましいと考えます。ただし、それに至る筋道の問題がございます。
 粗っぽく言いますと、要するに、解釈変更でいくのか、それとも改憲でいくのかという議論があります。私の考えを申し述べますと、私はこの解釈が欠陥解釈だと考えております。したがって、欠陥解釈を変更するというのでなくて、私の場合は欠陥を是正するということであります。したがって、私は、解釈是正が本来は正道であると、正しい道であると考えます。
 仮にこの解釈是正をやらずに改憲で、堂々と改憲でとおっしゃる方がいますが、改憲でこの集団的自衛権の行使、明記をする場合には、現在の私が言いますところの欠陥解釈が現行憲法下の解釈として正しかったということになります。私は、これは正しておかないといけないと、少なくとも現行憲法解釈には問題があるということは明確にしておかなければいけないと考えます。
 さて、その次、ホでございますけれども、これは坂元教授とも図らずも非常に近いことでありますけれども、その上で、憲法解釈が是正された上で、さらに、改憲においてこの集団的自衛権というよりは個別的及び集団的自衛権の問題をどう取り扱うのかということがありますけれども、私は以前から、改憲、改訂憲法では集団的自衛権の保有、行使可能ということをうたうべきでないと考えております。仮にうたう場合には、国連憲章第五十一条の認める自衛の固有の権利と、それだけをうたえばよろしいと。
 なぜかというと、一方をうたって一方をうたわないというのは、私は、個別的及び集団的自衛というのは一体、その権利というのは一体のものだと考えていますから、一方だけを強調するというのは愚策であると考えております。
 さて、もうこれで時間、もうあと一分いただきますが、ヘとして、現行解釈を是正することなく個別法制で集団的自衛権の行使には該当しない活動の範囲を今日まで日本は小刻みにどんどんどんどん拡大してきました。ところが、こういうことをやっておりますのは、日本の中でのつじつま合わせにはよろしいでしょうけれども、国際的にはむしろマイナスだと私は考えます。
 なぜかと申しますと、日本は、集団的自衛権の行使は違憲であると言いながら、他国が見たらびっくりするようなところまで個別的自衛権の行使だということで説明しておると。この国がいったん集団的自衛権の行使は可能であると言い出すと、今度は一体どこまでのことをやり出すんだといういわれなき、私はここで申し上げますが、いわれなき誤解を生む可能性があります。したがって、私は、今のような個別法制でどんどんどんどん、これは集団的自衛権の行使ではなくてここまでやれるという状態を続けていくことは、もうここでやめるべきであると考えます。
 時間が参りましたので、以上でとどめます。どうもありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、田岡参考人にお願いいたします。田岡参考人。
○参考人(田岡俊次君) 朝日新聞の田岡でございます。
 時間が限られておりますので、できる限り簡潔に存念を申し上げます。
 現在、集団的自衛権問題は、元々アメリカの方から、憲法、日本の憲法上集団的自衛権を行使できないというのは非常に日米協力上不都合であるから、それは解釈若しくは憲法を改正すべきであろうという議論が出まして、日本でもそれに呼応する方々が少なからざる、おられるわけですけれども、しかし、現実に考えてみて、日本が集団的自衛権を行使することを憲法改正若しくは憲法解釈の変更で認めるとしても、アメリカ人が期待しておりますように、アメリカの軍隊がどこか別の国に出掛けていってそれに日本が助力をする、これが集団的自衛権に当たるかどうかということは、また別の検討を要するものだろうというふうに考えます。
 ブッシュも、これ、まずは日本の、日米安保条約の第五条は、日本国の施政の下にある領域に対する武力攻撃、これに対する共同対処を決めておりまして、国際関係の基本は基本的には相互主義でありますから、ですからそれを適用しますと、アメリカ合衆国の施政の下における領域、アメリカの本土でありますとかハワイとかグアムとか、それがやられた場合に日本が助けようというのであれば、これは集団的自衛権になることはまず疑いがない。
 ところが、現在アメリカが行っております例えばイラクとか、そういった場合にはアメリカ本国に対する武力攻撃が発生しておらないと。ところが、アメリカが第三国の防衛とか報復とか将来の脅威の未然防止とか、そういった目的で軍事行動に出ると、こういう場合に日本が共同防衛、それに共同行動をすると、それは集団的自衛ではなくて、実は憲法の禁じておる国際紛争解決の手段としての武力行使、しかも、それは憲法のみならず、実はサンフランシスコで対日平和条約でも日本が国際紛争を解決するための武力行使はしてはならないということが書いてございますし、安保条約の一条にも同じことが書いてある。だから、この問題を除去すればすべて海外で勝手に日本が武力行使をできるというのは間違いであって、そもそも憲法を変えたところで、まず対日講和条約で日本はそのことをのんでおるので、対日講和条約の破棄でもしない限りは、実はそうそう簡単に海外で武力行使はできるものじゃないということは一つ記憶にとどめておいていただきたいというふうに考えておるわけです。
 具体的に考えまして、例えば韓国が攻撃を受けた場合、韓国はアメリカの同盟国でありますから、ですから、アメリカが韓国を守ることは、これは集団的自衛であることは疑いがない。日本は韓国と防衛、同盟関係がない、また日本の日米安保条約も日本は韓国の防衛の義務を負っているわけではないですから、だから日本が、アメリカ軍が韓国におる、それを支援することがこれは集団的自衛だろうかということは、直ちにそうは言い難いわけでして、ただ、その集団的自衛権の行使に、先ほど佐瀬先生がおっしゃいましたとおり、その同盟関係、密接な関係が存在を是非、絶対に必要とするかどうかということは議論の分かれるところでありまして、私は、仮に同盟関係がなくても、その当該、他国に対する武力行使が起きて、それが自国の安全にとって明白、重大な脅威をもたらすと、それゆえに、その当該国が要請をしてくるという場合にその国の防衛を手伝うことは、これは集団的自衛に当たるんだろうと思います。
 しかし現実には、韓国がそのような要請を日本にしてくるということは余り考え難い。なぜかといいますと、北朝鮮と韓国では元々GDPが三十倍以上の差があり、アメリカとメキシコ以上の実は差がありまして、軍事的にも圧倒的に韓国が優勢。ですから、作戦計画五〇二七号という米韓合同作戦計画でも、もしも北朝鮮が手を出すんであれば、ソウルの北側で捕捉、撃滅をして、そのまま追撃をしてピョンヤンに迫り、更に中国国境の百キロほど手前の清川江岸まで前進して、そこで停戦、一時止まって、中国と話をして統一するというのが韓国の今の作戦計画の基本であって、もうとにかく韓国としては北朝鮮の脅威というのは余り感じておりません。ですからこそ、例えば最近でも原子力潜水艦を韓国は建造すると。それは何のためかというと、日本との戦争に備えるんだと。もう事あるごとに韓国軍は日本日本と議会で言わざるを得ない。なぜかというと、国民が北朝鮮と言ったってだれも聞いてくれない。
 例えば、一つ笑い話もありますが、例えば九九年に朝日新聞と韓国東亜日報が共同で世論調査をいたしました。その中に北朝鮮の脅威を感じるかという中に、強く感じるというのは日本で三三%、それで、直接国境を接しています韓国では一一%と実に三対一の開きがあった。これは、韓国にしてみれば、昔から北朝鮮を見ておりますから、だから相手も相当弱くなったもんだと。しかも、中国もロシアもこちらに付いてくれたからもう安心だというのが韓国人の発想ですから、だから現実に戦争になっても、韓国軍、と米軍もおりますから、それはもう別に日本の助力を得ずに勝てることは恐らく明らかで、そういう要請をしてくるということは余り具体的にあるまいというふうに考えます。
 それから次に、台湾に関しましては、これは一九七二年の日中共同声明で、日本はそれが中国の領土の一部であるとの中国の立場を十分理解し尊重するとしております。ですから、これは日本としては、そういうトラブルが起きた場合には、これは内乱と見るしかない。台湾自身が独立を宣言していない。当然、日本もアメリカも台湾を独立国として承認していないわけですから、もしもアメリカが台湾をめぐる紛争に関して軍事行動を取るとする、これはアメリカ軍が内乱に介入しておるんであるというふうに見るしかないのであって、それを助けることは集団的自衛だということがあるわけがない。アメリカの自衛を助けることが集団的自衛なんですから。ですから、もちろん、台湾はしかも国じゃないから、これは助けるわけにいかない。
 よく言われますのは、これは少し、若干一理はあると思いますが、米、アメリカの艦船が日本の防衛の目的で航海中に公海で行動を受けるとすると。この場合、日本がそれと共同防衛を取るのは日本防衛の、集団的自衛に当たるだろうと。だから、それだから集団的自衛を認めることは必要なんであるという議論、これは一理あると思いますが、よく考えてみますと、もしもアメリカの軍艦が日本防衛のための行動を取っている場合に、それを守ることは、これは必ずしも集団的自衛じゃなくて、元々日本の防衛のためなんだから日本の個別的自衛の範囲内であろうと。しかも、これはアメリカの軍艦に限る必要がなくて、実は大事なのは、それ以上に大事なのは、日本はその食糧自給率四〇%の国でありますから、しかも日本の商船を、ほとんどなくなってしまって外航船が、外国船に頼っているわけですから。だから、外国の船が日本の生存、独立の維持に不可欠な物資を運んでくる場合、それが公海上で攻撃されようとする場合、これを守ることは、これは日本の個別的自衛権の発動というふうに考えるしかあるまいというふうには考えております。
 集団的自衛権を認めるということにしますと、アメリカがいろんなところに手伝いに来てくれということをますます言いやすくなるんじゃあるまいかということを考えます。アメリカが純粋に自衛をする場合に、これを手伝うということは構わないとしても、現実には、アメリカはそうでない場合、例えば九九年のユーゴスラビアの爆撃、あれなんかは安保理の決議を得ていない全く法的に怪しいものですし、それから九八年にアフガニスタンに六十六発、スーダンに十三発トマホークを撃ち込んだ事件もございましたし、これもアメリカは自衛権の発動と言っている。それから、パナマの侵攻とかグレナダ侵攻とか、とにかくこういった例はもう無数にありまして、そのたびにおおむね自衛権の発動であると言っているわけですから、これに集団的自衛で日本も出てくれと言われたら非常に迷惑、日本にとって不利だと思います。
 もちろん、集団的自衛権行使を憲法を改定し解釈変えて認めるとしても、日本がきちっと判断ができて、それで出るか出ないか決めるフリーハンドを完全に持っておれば、この問題は生じないと思います。ただ、現実にはどうかといいますと、憲法九条の制定からその後の五〇年の警察予備隊の創設も、今回のイラク派遣に至るまで、もう常に日本の防衛政策はこの半世紀以上アメリカの主導下にあって、その意向をほとんど一〇〇%反映してきたんじゃないかと。
 例えば、一九七八年に思いやり予算というのを金丸さんが六十二億出しました。あれはなぜ思いやりと彼が言ったかというと、地位協定の二十四条は合衆国軍隊の日本駐留に伴う経費はすべて合衆国政府が負担するんだと書いてあると。そこで、彼は根拠を問われて、何が根拠ですかということを防衛庁記者会で問われて、彼困って、いや、知り合いがお金に困っているときは思いやりの気持ちを持つのが人間として当然でありますというようなことを言われたので思いやりになったんだが、結局、そういうふうに協定に反してすらそういうふうに出す。そこでアリの一穴を空けてしまうと、現在のように二千四百六十何億円というふうな、そういった巨額に膨らむわけですから、だから今回でも、またその集団的自衛権を行使できるんだというようなことにすると、またそこでアメリカがどんどんやってくれやってくれと言ってくるかもしれない。
 幸いなことに、今まで、集団的自衛権は行使できないという説、これがやや論理上ちょっと難しいところがあるとしましても、これが有効な防波堤にまでなってきてくれた、これに穴を空けることが要るであろうかと。もしもこの防波堤がなければ、例えばベトナム戦争中に韓国と同じように日本も出ろ出ろと言われて困ったでしょう。もしも出れば韓国のように、韓国、あれは五万二千ほど出しまして、それで五千人以上、五千四百人か何かの戦死者を出し、二万五千の負傷者を出しておりますけれども。だから、ベトナム戦争に引っ張り込まれずに済んだのも、こういったことを何かいろいろ憲法上の制約とかいろんなことを言っておったから何とか引っ張り込まれずに済んだという、非常にそういう点では過去においてこれは有効な防波堤として成功してきたというふうに思います。
 もしも、アメリカ人によく私冗談言うんですが、アメリカ人が片務的だと言うんで、じゃ結構だと、じゃアメリカ軍がもしも、アメリカがこういう本土が攻撃されれば、アメリカの施政権下における領域が攻撃されるんであれば、それは日本はお助けしましょうと、しかしその代わり相互主義ですよと、そうすると自衛隊としては当然アメリカに基地を幾つかいただくと、その維持費はアメリカに負担していただくと、そうなればこれで、全くこれで対等で相互主義ですなどと言うと、彼らはもう困って、いやそれは、いやそんなことは考えているわけじゃないんだといって言うんですけれども。
 つまり、そうでも言わないと、彼らは自分たちが日本にいかに世話になっているかということを思わない。助けることばっかり言って、自己中心的に言って、我々は一方的に任務を負っていると言いながら、片方で、日本が一方的に基地を貸す義務を負い、しかもそれに対して年間いろんな経費まで入れますと六千五百億円の補助金を出しておるということを知らないわけですから。だから、片務性からくる集団的自衛権を認めろという議論は、本当に全く自己中心的な愚劣な議論であろうというふうに思います。
 日本が、日本人が一般に安全保障問題でこういうふうにアメリカの意をどうしてやすやすと迎えるのかということを考えますと、一つはやはり、アメリカ軍が日本を守っておって日本は守られておるんであるという一種の劣等感がある、これからくるんだろうと思います。ただ、現実には日本を守っているのも自衛隊であって、在日米軍で日本を守っている部隊というのは一つもございません。これはアメリカの議会でもそういうことを言っております。
 例えば沖縄の部隊に関しても、なぜ沖縄に兵力を置いて日本を守っているのと。いや、そうじゃありませんと、あれはどこか別のところに派遣するために日本に待機さしておるんであるということを言っておりますし、例えば一番端的な証明は、九七年に九月に改定されました日米防衛協力の指針、この英文では、自衛隊が日本の防空、それから周辺海域における船舶の保護、それから日本に対する着上陸侵攻の阻止、排除、これにプライマリーリスポンシビリティー、一義的責任を有すというふうに書いてございます。
 これですと、じゃ、何のために米軍がおるのかと、何のために思いやり予算を出しているのか分からなくなりますから、そこに疑問が生じるので、日本文では、自衛隊が主体的に対処するという意図的誤訳、若しくは非常にぼかした表現をしておりますけれども、この表現自体、この英語のプライマリーリスポンシビリティーということ自体、これはもう日本、自衛隊が既に成長して、核を除いては日本の防衛に十分な能力を持ち責任を負っているという現状を追認したわけでありまして、ですから、日本がこういったアメリカに不要な劣等感を持ってアメリカの言うことに唯々諾々と従うという必要は全くないのでありまして、日本としては、とにかくアメリカが現在行っているようなとても自衛と言えないような行動、それに引っ張り込まれないということは最も日本としては気を付けるべきことであろうというふうに考えておる次第であります。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かをお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔にお願いいたします。
 福島啓史郎君。
○福島啓史郎君 まず、坂元先生にお聞きしたいと思います。
 先生は、今の日米同盟、日米安保条約ですが、これが物と人との協力から人と人との協力に徐々にバランスを移していくべきだという、私も全く同感でございます。その一つの動きが、中曽根総理大臣のときに日本が行いました日米の武器技術供与ではないかと思うわけでございます。当時のハイテク技術を日本が米国に供与したということでございます。
 今、同様に、BMDのミサイル防衛の日米共同技術開発を行っておりますが、その中で、今、日本が持っております高度な技術をアメリカに供与していく、またアメリカで開発されたものを日本も使っていくというような形での、正に物と人、人と人との間の途中段階としてはそうした技術を通じての協力関係というのもこのバランスを取っていく一つの方法だというふうに考えるわけですが、いかがお考えでしょうか。
○会長(上杉光弘君) どなたにお伺いですか。坂元先生ですか。
○福島啓史郎君 最初に言いました。
○参考人(坂元一哉君) お答えします。
 私は、ここに物と人との協力に人と人との協力を加味していくといいますか、このバランスを取っていくというのは、我が国の憲法の制約するところ、またアメリカの憲法の制約するところ、そういうのをお互いが勘案しながらお互いの協力の幅を広げていこうということでございます。そういう観点からしますと、技術協力のようなそういう協力できることを増やしていくということにはもう全面的に賛成でございます。
 これは、できることを増やすというのが大事なことでありまして、それをまた具体的にやるかやらないかというのはその時々の政治の判断ということになると思います。
○福島啓史郎君 同じく坂元先生にお聞きしたいわけでございますが、集団的自衛権についての憲法解釈の変更の手段、手続についての御質問なんですが、私もこの点につきましては平成十三年の十月二十六日の参議院外交防衛委員会で当時の津野法制局長官に質問をしているところでございます。
 津野法制局長官の答弁は、御案内のとおりの答弁なんですが、要するに、国際法上国家は集団的自衛権を有するが、憲法九条との関連で、つまり自衛権発動というのは三つの要件という極めて限られた条件下での発動だということから見て、他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は憲法上許されないと答弁しているわけでございます。この答弁につきましては、この解釈につきましては、これは内閣法制局の解釈ではなくて、政府の解釈であると。この政府の解釈は過去幾多の国会での議論の積み重ねによって固まってきたものだと、したがってその変更については十分慎重でなければならない、また非常に難しい問題だと、当時の津野法制局長官は述べているわけでございます。
 その変更の法的手続につきまして、私が二つの可能性を質問したわけでございます。一つは、坂元先生、先ほど言われました議員立法によって解釈を変更するという方法でございます。これにつきまして津野長官は、国会の権能についてとやかく申すべき立場にはないと、したがって私どもの方からお答えすることは差し控えたいという答弁でありました。
 また、もう一つの法的手続としまして、政府解釈であるならば閣議決定で変更し得るんではないかと、閣議決定による解釈の変更につきましてただしたところ、先ほど申し述べましたような、過去の議論の積み重ねによって固まってきた解釈であると、どのような手順でどういうふうな、どういうふうに変更するかということについては考えたことがないと、答弁は差し控えたいという答弁でありました。要するに、内閣法制局というよりも政府としては、この現行憲法下において集団的自衛権の行使は憲法上許されないという解釈は、要するに従来、長年の議論の積み重ねによって固まってきたもので、要するに変えられない、一言で言えば変えられないと。その変える手段も、法制局長官流に言えば考えたことがないということでございます。
 そのことを突き進めていけば、仮に議員立法で、坂元先生の言われるように議員立法でこの解釈変更法を出したとしても、政府はこれに反対するということになるんだろうと思うわけでございます。そうしますと、その法案は一般的には成立しないだろうと思うわけでございます。
 したがって、私は、閣議決定による解釈の変更、あるいは議員立法による解釈の変更ではできなくて、この憲法改正、特に九条の改正をしなければならないというふうに考えるわけですが、いかがでしょうか。
○参考人(坂元一哉君) お答えします。
 まず最初の、政府が長く言い続けてきたことであると。長く言い続けてきた、おかしな解釈だと思いますが、それは変えられない、長く言い続けてきたから変えられないというのは、今の政府の聖域なき構造改革の路線にはやや私は反しているのかなというふうに思いますが、しかし、それでも駄目だということであれば、やはり国権の最高機関である国会の判断をしていただきたいと。その国会の判断が出た後でも、それでも変えられないということを、本当にそれができるんだろうかと、私はそこはいぶかしく、また逆にいぶかしく思うわけであります。
 そうなった場合には、相当な大きな、いわゆる政局ということにもそれはなろうかというふうに思うような大きなことではないかと思います。国民の判断を仰がなきゃいけないということになるかもしれません。また、憲法判断ということで最高裁の何らかの判断もあるかもしれません。
 いずれにしろ、そういうことで、アクションを起こしていただく中で、内閣もその解釈を変えていくと、きっかけになればよろしいかなというふうに思っております。
○福島啓史郎君 今、敷衍して言えば、更に付け加えて言うならば、要するに政府としては、仮にそういう議員立法の動きが出たときに反対をせざるを得ないという立場に立つんではないかということを申し上げたわけでございます。
 次に、佐瀬参考人にお聞きしたいと思います。
 私は、今の憲法は当時の憲法制定時の状況を勘案して考えなきゃならないと思うわけでございます。つまり、当時の状況は、天皇制を取るか、あるいは戦力の保有を放棄するか、それをセットでしか、セットとして受け入れるか、あるいは両方とも受け入れないかというその選択であったと思うわけでございます。つまり、天皇制の保持と九条の戦争の放棄というのは、言わば一体としたものとして受け止めざるを得なかった、要するに受け入れざるを得なかったというのが当時の状況ではないかと思うわけでございます。そのことは、今の憲法の第一章が天皇であり、第二章が戦争の放棄であるということから見ましても明らかなとおりであります。
 で、この天皇制の保持につきましては、私は賢明な選択であったと思うわけでございます。この占領時の混乱、イラクのような混乱はなく、かつこの五十年間、以降の戦後の歴史を見ますと、象徴天皇制というのは十分に定着して機能してきたと思うわけでございます。それに反しまして、九条の方は非常に定着していない。今ここに議論しておりますようなことが状況の変化に応じて、この集団的自衛権を特にめぐって議論が行われてきたわけでございます。
 こうしたこの憲法制定時の事情から見て、この九条、戦争の放棄を受け入れることはやむを得ざることであったというような考えについては、佐瀬先生はどういうふうにお考えでしょうか。
○参考人(佐瀬昌盛君) 私は、お説にはほぼ同意いたします。
 ただ、その憲法九条の問題でありますけれども、これは一項と二項とではかなり性格の違うものであります。一項は、あえて申しますと、これは第一次大戦後、いわゆる戦争をどのようにして違法化していくのかという国際社会の動きに合致して、九条一項の文言というのは不戦条約にも、これは現行有効な条約でありますけれども、の精神も受け継いでいるものであって、私はこれを必ずしも否定する必要はないと思いますけれども、二項について、戦力不保持という要約が行われている二項については、私、別のところでも書きましたけれども、これは、日本国憲法がこんなに長もちするだろうとは考えなかった米国は、当然のことながら当時の日本占領政策の一環として書いたと、そう考えております。日本占領政策の一環というのは何かといいますと、一、非軍事化であります。二、民主化であります。三、俗な言葉で言いますと財閥解体と、そういうことでありまして、その見地から出ているものでありますから、私は、九条の問題は一項と二項とを分けて、そして二項の、当時の占領政策から出ている二項は少なくとも削除すべきだと、こう考えます。
 以上です。
○福島啓史郎君 今、佐瀬参考人の言われた二項、たしか一項と二項、違いはあることは事実でございます。ただ、二項の書き出しが「前項の目的を達するため、」ということで、そこにファジーなところがあるわけですね。それが今の自衛隊保有が憲法合憲であるということの基にもなっていると思うわけでございますけれども、ブリッジする規定があるということなので、新しい憲法を考えるとき、一項を存置し、二項だけを削除するあるいは変えるというようなことでいいのかどうか、更に私は検討を要する点ではないかと思うわけでございます。
 それでは、二番目の佐瀬先生に対する質問でございますけれども、先生、このレジュメの中でも言っておられますけれども、憲法上保有する、あるいは憲法上保有か不保有かは不明、あるいは憲法上保有せずということを、憲法の規定と集団的自衛権に関する政府の見解の問題点として指摘されているわけでございます。私は、先生も触れられたわけでございますが、憲法上保有、不保有論はもう明らかだと思っております。つまり、憲法上保有するということを前提にしていると思うわけでございます。
 それを、先ほど先生も言われましたように、旧安保条約では、「平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。」と、「これらの権利の行使として、」と、正に先ほども言われましたように、行使として結ぶんだということを言っているわけでございますが、ここでも、「主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、」と言って明確にしているわけでございます。また、新、つまり現行の安保条約でございますが、におきましても、「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、」というふうにしているわけでございます。当然のことながら、憲法は条約の上位でございますから、憲法に反する条約は締結は認めることはできないわけでございますから、当然のことながら憲法上は明らかであるというふうに考えるわけですが、いかがでしょうか。
○参考人(佐瀬昌盛君) 今の点に直接お答えすることになるかどうかは分からないんですけれども、実は旧安保条約と現行安保条約の個別的及び集団的、これ個別的あるいはという言い方もありますけれども、集団的自衛の固有の権利を確認している確認の仕方は違います。これは多くの人は見過ごしておられるようですけれども、旧安保条約では国連憲章はなんです。現行安保は両国はなんです。日米両国なんです。
 したがって、私は現行憲法の下で国連憲章がああ言っているから我々持っているというのでなくて、我々独自の判断として、国連憲章に定められているところを日米双方が持っていることを確認していると言っているここのところに注目いたしますと、そういたしますとどういうことになってくるのかというと、それを後の憲法解釈で保有しないと、行使不可、行使不可が明白であるから、保有不保有の問題は論じるに当たらないと言わんばかりの昨今の、昨今のというのは今から八日前ですか、の内閣法制局長官のお言葉は、とてもではないが私を承服させるものではないと、こういうことでございます。
○福島啓史郎君 もう一問、佐瀬参考人にお聞きしたいわけでございますが、今参考人言われました、今の、現行の安保条約の「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、」と言っているわけですね。おっしゃったように、両国が確認しているわけでございます。これは憲法の下で確認しているわけですから、当然有していると、憲法上も、この「個別的又は集団的自衛の固有の権利を有している」ということは憲法上も当然のことだという前提に立っていると思うわけでございます。
 それで、この五条でございます。五条で、「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」と。
 したがって、この五条を、先ほどちょっと議論でありましたけれども、素直に読めば、日米両国は、日本国の施政の下にある領域におきまして、いずれか一方の武力攻撃があれば、自国の憲法に従ってその危険に対処する、要するに攻撃を、攻撃があればその攻撃に防戦をすると言っているわけですね。
 ただ、ここで書いてありますように、「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」とあるがために、先ほど申しましたように、現行憲法の解釈上、集団的自衛権の行使は認められないと言っているんで、日本は米軍、アメリカに対する攻撃があっても日本は、この「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」ということになれば、共通の危険に対処することを行動することはできないという解釈になる、ならざるを得ないと思うわけでございますが、こうした考え方についてはいかがお考えでしょうか。
○参考人(佐瀬昌盛君) その問題はこういうことだと思います。先ほど申しましたけれども、現在の日米安保条約を締結した岸内閣の解釈は、繰り返しますけれども、我が国が例えばアメリカが武力攻撃を受けたときにアメリカまで出ていってアメリカのために自衛権を行使するという、そういう自衛権の、集団的自衛権の行使は、これは現行憲法下ではできないでしょうと言っているわけです。しかし、その他のものでは現行の憲法で、集団的自衛権は禁じられているとは思わないから、だからいろいろな形で対応できますと。
 つまり、今そこのところは、もう亡くなった方ばかりですから確かめようがございませんけれども、当時の自衛隊の持っている能力も一つの判断材料であったと思います。
 当時の日本の自衛隊が持っている能力からして、日本が在日米軍に対する武力攻撃に対して武力行使という形で対応できると当時の政権が考えたかということになりますと、私は到底そうではないと、そういう能力すらも欠けていると見ていたと考えております。だからそういう文言が入ったんだと考えます。
○福島啓史郎君 時間の関係で、田岡参考人にお聞きしたいと思います。
 参考人は、この集団的自衛権行使に事前の同盟の存在を必要とするか否かは議論が分かれるというふうに言っておられます。私は、確かに同盟関係がなくても集団的自衛権を行使する場合があると、当たる場合があるということは私も認めます。しかし、この同盟関係を条約により明確化しておくことは、意思決定をスムーズに行う、あるいは抑止力という観点からもその方が望ましいと思うわけでございます。
 要は、集団的自衛権をどう行使するか、正に条約なりあるいは国内、それを受けた国内法によってその範囲を明確化していかなければならないと思うわけでございます。
 その点に関して言えば、NATOでは、これはヨーロッパ又は北アメリカに対する攻撃というふうに一般的な地域をしておりますし、日英同盟では、第一次条約、第二次条約という形で多少違いましたけれども、要するに、極東を対象とし、日米安保条約で先ほど言いましたように「日本国の施政の下にある領域」と言っておりますし、米韓では行政管理下の下にある領域で太平洋地域である武力攻撃だというふうに言っております。
 要は、どういう形で集団的自衛権を行使するかといいますのは、条約なりそれを受けた個別法で決め、その範囲を明確化すべきだというふうに考えるわけですが、これについてはいかがでしょうか。
○参考人(田岡俊次君) もちろん、条約があった方が確かに簡単に発動できるということはあると思います。
 ただ、現実には、その場合、アメリカとじゃなくて、むしろその守るべき客体の国、例えばこの場合ですと、まあ一番具体的に言えば韓国なんでしょうけれども、韓国と日本が同盟条約を結ぶということがそれは前提になってくるわけで、それを、とても韓国はそういうことに応じるとは思えないし、また日本にとってもそれが、果たしてそれが利益か否かというと疑わしい。まして台湾になってきますと、これは独立国として認めていない、彼ら自身が独立も宣言もしていないわけですから、これと同盟条約を結ぶことはあり得ない。
 だから、具体的にはどこと同盟を結ぼうというのかという問題が出てこようかというふうに考えます。
○福島啓史郎君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) いいですか。
 若林秀樹君。
○若林秀樹君 民主党の若林秀樹と申します。
 大変参考になるお話、ありがとうございました。私も、この集団的自衛権の問題につきましては、これまでの神学論争を聞きながら、何ゆえに個別と集団が分かれていなきゃいけないのか、ある意味では一体化としてとらえることがごく普通の、常識で考えてそうではないかなというところもこれまで疑問に感じてきたところでございます。そういう意味で、非常に私の頭の中でも少しずつ整理されつつあるなというふうに思いますが。
 まず、坂元参考人にお伺いしたいんですが、世の中では集団的安全保障と集団的自衛権が混同されて使っているんではないか、むしろこれは別個の問題で、これをきちっとどういうふうに国民に説明したら一番分かりやすく混同しないのかと、その辺について学者の立場からちょっとお答えをいただきたいと思います。
○参考人(坂元一哉君) 確かにそういう混同があるようにも思います。集団的自衛権の解釈につきましては、もう学者の間で見解は分かれておりまして、自国と密接な関係にある国というものをどう考えるかというようなそういう問題もあって、そのことがあって、じゃ自国と密接でない国でもこういう権利が行使できるということになったら、じゃそれは全体の集団的安全保障とどう違いがあるんだと、こういうような話につながるところがございまして、混乱させるところが確かにあるなというふうに思います。
 私自身は、やや、集団的自衛権をすごく狭い権利と考えておりまして、国際法上の全体の法理からしますと、確かに佐瀬先生のおっしゃるように、自国と密接な関係になくても言わば正当防衛のようなもので考えて、この急迫不正の侵害を受けた自己又は他人を助ける権利と、こういう形で説明するのが分かりやすいのは分かりやすいんですが、しかしこれは、できたときの経緯を考えますと、やはりこれはそもそも全米相互援助条約のはしりになりましたチャパルテペック規約、この問題から発生しておりまして、やはり、自国と密接な関係にあって、その同盟関係にあるような国々をどう守るかというところから始まった権利だと思いますので、私自身はそこを狭く考えまして、私の言っている集団的自衛権というのは、アメリカに対する、アメリカへの、アメリカがいわれなき攻撃を受けた場合に助ける権利があるかないかという、まあそういうことで考えている。あるいはまた逆に、日本がそういう防衛条約を結んでいるアメリカから助けてもらう権利があるかどうかと、そういうことを考えております。
 実は、その集団的安全保障自体がこれは大きな問題で、それ話し出すと長くなるんですが、いかがいたしましょうか。
○若林秀樹君 ありがとうございました。もう非常に私も重要な問題ではないかなというふうに思っております。
 そこで、三人の参考人の方にお伺いしたいんですけれども、確かに集団的自衛権をやっぱりきちっと明確にして定義しておくというのも重要性はあるんですが、坂元参考人からも、米軍から見ればもう既に集団的自衛権は日本は持っているという解釈もありますし、本来もう米軍の基地があること自体が集団的自衛権に非常に密接に関係しているわけであります。そしてまた、集団的自衛権云々とありますが、さっき田岡参考人がおっしゃっていましたように、現実的には、日本が制空権、防衛関係を守りながら、むしろ日本がアメリカ軍基地を守り、結果的に沖縄から海兵隊等がやっぱり出ていくという、そういう意味での前提となる部分においてはむしろ日本がもう先にその先を越してやっているんではないかなというふうに思いますから、確かにこの戦後六十年間近くの中で集団的自衛権を使う場面がなかったですけれども、実質的には既にもうそういう解釈の中で行われているということを考えれば、あえてここで政治的に集団的自衛権を明確にしていくことの論争に起こしていくことがどうなのかということについて、少しそれぞれの立場からお答えをいただければ有り難いと思います。
○会長(上杉光弘君) お三方ですか。
○若林秀樹君 はい、三人。簡潔にお願いします。
○参考人(坂元一哉君) 先ほど陳述の中でもお話しいたしましたが、例えば今後新しいミサイル防衛システムを作ったときに、日本に飛んでくるミサイルはいいけれどもアメリカへ飛んでいくミサイルはどうだと、こういう議論を蒸し返さなければならないという、その蒸し返している中に何となく気まずい思いをしていくんだと。そういうところが私は、もう今後同盟関係の中ではやめるべきでないかなというふうに思います。
 きちんと説明できる法理があるのに、それを使わないでなぜ難しい説明をしていかなければいけないのかなという気が、そのエネルギーを、集団安全保障自身の問題は集団的自衛権だけの問題に限りませんので、もっとほかのところに向けていくことができるんじゃないかというふうに考えておりますが。
○参考人(佐瀬昌盛君) 私の考えは、私が提出いたしました二枚紙の一番最後、「若干の補論的考察」、それの「ヘ」のところに書いたつもりでございます。
 私は、日本の、今まで度々試みたんですけれども、政府の解釈、そしてこの集団的自衛権をめぐる議論を他国の人間に、他国の人間といっても学者、研究者でありますが、幾ら説明しても理解できないです。それはもう全く理解の領域を超えております。
 それで、問題は、こういう議論をやっていて、これは極めて自閉症的な議論でありまして、日本の中だけで通用している議論であります。その結果、どんどんどんどん実際にやることを広げていっているわけです。実際にやることを広げていって、それは全部集団的自衛権の行使に当たりませんと言っているわけです。ところが、それを続けていって、あるところで、いや、考えを改めましたと、判断間違っておりましたと、集団的自衛権の行使は可能でありますと言い出したら他国はどう見るのかと、そこのところが一番大事だということです。個別的自衛権であそこまで説明していたのが、集団的自衛権になると、これはいわゆる過剰な行使に踏み込む国ではあるまいかという、そういう国際的風評を生む、それは今から避けるべきことだと考えております。
 以上です。
○参考人(田岡俊次君) 私は、いつも考えておりますのは、日本の部隊が海外で武力行使が簡単にできない、これはその集団的自衛権を認めないからであるという議論は、あれは元々間違った議論だと思っております。日本は、憲法のみならず、サンフランシスコ平和条約、それから安保条約第一条でも国際紛争解決の手段としての武力行使はいたしませんということは国際的に既に誓約しているところであって、自分で憲法で縛っているだけではないんであります。
 そこで、ですからこの議論としてこうなってくるわけです。つまり、国際紛争を解決するために武力行使はしないと。しかし、自国がもしも攻撃された場合の武力行使、これは国際紛争の解決の手段じゃないですよと、だからそれは認めてよということでそれはオーケーと。そこで、武力行使は自国防衛以外に行わない、ゆえに海外では武力行使はできないんだというわけですから、だから、これはいかにその集団的自衛権の権利を仮に憲法解釈で認めたところで、サンフランシスコ条約で縛られている以上は実はどうにもならないというところであろうと思います。
 それからもう一つ、誤解あると思いますのは、アメリカ本土がやられなければ、アメリカの国家の領土がやられなければアメリカに対する攻撃じゃないんであって、アメリカ軍が韓国にいるのを北朝鮮軍に攻撃されても、これはアメリカに対する攻撃じゃございません。公海上の軍艦がやられた場合にはそういう可能性がありますが、基本的にはその国の領土に対する攻撃が武力行使なのであって、武力攻撃なのであって、その場合に初めて集団的自衛権を認めるとしても発動はできる。
 ですから、今の議論というのは、そういう点ではアメリカ軍が海外で行動、アメリカ以外のところで行動する、それを助けなくちゃいけない、ゆえに集団的自衛権を認めるようにしなくちゃいけないという議論は、そもそも私から言わせれば何か誤解に基づいたナンセンスな議論だろうと。
 なぜこれができたかと、そういう議論が発生したかといいますと、恐らく、アメリカ人がいろいろ出してくれといろいろ言ってくる、それに対して日本のお役人としては、難しい議論をするの嫌だから、いや日本の憲法で集団的自衛権の行使は禁じておりますからということを説明をする。向こうはそうかと思って、じゃそれがなければ助けに来てくれるのかとつい思ってしまって日本にそういうことを言い出す。
 ところが実際は、それを外したところで、せいぜいそのとき、やめたところでやってやれるのは、正に日本が攻撃を受けたときに安保条約が発動し、アメリカが助けるわけだから、当然、アメリカ本土がやられたら助けましょうと。しかし、そんなことはアメリカとしてはもちろん必要も何もないし、現実にアメリカが攻められそうな公算というのはほとんどないわけですから、だから余りこの議論というのは、そもそも意味のない議論じゃないかというのが私の元々の感覚、感じでございます。
○若林秀樹君 ありがとうございました。
 私も、田岡参考人のように、本当にどこまでこれは意味あることなのかなというところも感じるわけであります。最終的にはこれは権利であり義務ではないわけですから、それをどう担保するか、我が国政府としての判断があるわけですから、集団的自衛権を認めたらすべて行くということでは全くないんで、そこの部分をしっかり押さえておく必要があるんではないかなと思います。
 佐瀬参考人の御意見を伺っていると、やや矛盾すると感じるのは、解釈をしても疑心暗鬼を招く、そして今の解釈の下で個別法をどんどんやっていくことも疑心暗鬼を招くという、両方おっしゃったように私は感じているんで、民主党の立場からいえば、集団的自衛権は、ここまで来たんですから、もう少し国民的な議論を呼びながらしっかりと憲法の中で議論していくことがやっぱり必要ではないかなというふうに私は思うわけですが、もし私の理解が違っていたら、ちょっと佐瀬参考人にお伺いしたいと思います。
○参考人(佐瀬昌盛君) 私は先ほど、日本の政府解釈及び日本の国内で交わされている集団的自衛権に関する議論を外国の専門家、研究者に説明しても理解してもらえないということは申しました。それが外国の疑心暗鬼を招いているということは一言も言っておりません。そこのところは違います。
 ただし、日本が現在やっているような、自分の行動を集団的自衛権の行使ではありませんという言い方を続けていって、それで、ある日やはり集団的自衛権の行使可能論を採用いたしますと言った場合には疑心暗鬼が生まれると言ったんです。二つの事柄は明らかに違います。
○若林秀樹君 ありがとうございました。
 御意見でいえば、解釈を変えた方が望ましいという御意見かなというふうには思っておりますので。ただ、ここ三十年間続いたこの定着した解釈を今ここで変えるということの難しさもまたあるんではないか。それは私の、憲法改正の中でみんなでやっぱり議論すべきことになるわけであります。
 続きまして、田岡参考人に。
 ここにあります「日本を囲む軍事力の構図」と。むしろ軍事力そのものにもいろいろ見識が深いということで、ミサイル防衛システムと集団的自衛権に抵触する可能性があるということがよく言われるわけですが、それについてお伺いしたいと思います。
 さらに、本題ではないんですが、今年も予算で一千億ぐらいの取りあえず計上をしておりまして、最終的に完成するとどのくらいになるか分かりませんが、これは確かに北朝鮮等のミサイルに対して防衛するという意味での専守防衛の枠の中かなと思いますが、じゃ、いざ北朝鮮が脅威が消えたときに、途中でやったものをやっぱりやめるということになると、新たなまた脅威を別に探していく方に、どんどん違う方向に行くんではないかという危惧もありますが、その辺、もし集団的自衛権の問題も含めましてお答えいただければ有り難いと思います。
○参考人(田岡俊次君) 私は、この集団的自衛権議論でも思いますのは、つまりまたアリの一穴になってしまって、どんどんその堤防が崩されるんじゃないのと。つまり、地位協定の二十四条の米軍が負担するということが崩されてしまったようなことになるとこれは困るなと。
 それは、そういう例は多いと申しましたけれども、実はその一つが弾道ミサイル防衛でございまして、これも一番最初防衛庁では全く高官たち否定的で、とてもあんな予算は出せないと。まるで、あるいは防衛庁の装備費は年間九千億円ぐらいでございますから、だから何兆なんという金出せるわけがないので、アメリカの言っておることはまるで象が私の家のふろに入ってくるというようなばかげた話だというようなことを言っておりましたし、今までのアメリカがずっと失敗してきました六〇年代のABM、それから七〇年代、八〇年代のSDIの失敗から見てもうまくいく公算はまずあるまいということを言って、無駄遣いになりますなということを言っておると。
 だけれども、結局、アメリカのプレッシャーがありますから、そこでしようがなくて研究だけはお付き合いをすると。開発とか配備は全く別の話なんだと。そうすると、損をしても数十億程度とか百億程度の損で済むじゃないかということでお付き合いをした。ところが、それが結局どんどんこういうことになってしまって、兆単位のお金が多分支出されましょうし、その効果というのは実は極めて怪しい。つまり、一発だけ相手が飛んでくるんですとこれは迎撃ができる可能性は相当ございますけれども、実際には多数撃ってくるわけですから、多数撃たれれば対抗できないということはもう理の当然で、だからABMも失敗したのはそれなんです。
 しかも、それが、しかもミサイル弾頭、一発の弾頭じゃなくて複数弾頭を付けてくる。それから、おとりの風船をたくさん宇宙で放出しますと、これがまた銀紙の風船が散らばってきますから、これがどれが本物か分からないというわけで、そもそもあのミサイル防衛というものは、最初は無理だろうと言っておったものをずるずると引っ張り込まれる。これは私に言わせれば、まるで女性が気が弱くて上司が来たときにお茶だけならと言ってついうっかりかぎを開けて入れてしまうようなもので、結局、酔っ払って、しまいには泊めてくれということになってしまう。これがいつまでも、もう常にこの五十年間ずっとそれで来たわけで、ですから、この集団的自衛権議論も、聞いていますと、ああまた始まったか、またちょっとかぎだけ、ちょっとかぎを開けてよというだけの話かなというふうに私は感じているところでございます。
○若林秀樹君 ありがとうございます。
 それでは、最後になりますけれども、坂元参考人にちょっとお伺いしたいと思いますが、イラク特措法の法律としての論理の組立てを考えますと、やはり今の現行憲法下での矛盾、難しさがいろいろあろうかなというふうに思います。戦闘地域、非戦闘地域、法的な概念といいながらも実際に指定するのは地理的な概念でありますし、集団的自衛権の問題あるいは日米同盟との関係等、いろいろ私は本当にこの問題をこれからの将来に向けて内在した大きな研究課題ではないかなというふうに思いますが、客観的に見られて、テロ特措法からイラク特措法に向けての学者としてのお考えを伺えれば有り難いなと思います。
○参考人(坂元一哉君) お答えします。
 イラクの問題というのは、またこれは集団的自衛権と違う問題が含まれておるわけでございまして、今日の話とはまた違うんですが、全体的にどう考えておるかということですが、私、まず、今日は平和主義について私はどう考えているかというお話をしていないので話が集団的自衛権だけになりましたが、憲法の平和主義というのは、私の考えでは、国際紛争解決の手段として武力の行使をしない、威嚇をしないということだと思います。そのための軍事力を放棄するとまで言っているわけですから、国際紛争解決のための戦争を厳しく禁じているという、それが憲法の平和主義だと思います。したがって、個別、集団を問わず、仮に国際法上認められた自衛権に基づく武力行使であっても、それがかりそめにも国際紛争解決のための武力行使と誤解されるようなものであってはいけないと。だから、正しい目的であっても武力行使には慎重にならざるを得ない、そういうことじゃないかと思うんです。
 そうしますと、何だそんなことか、そんな別に難しいことじゃないじゃないか、いろんな国がそう言っているじゃないかと思われるかもしれませんが、そうではないと思うんです。国際紛争解決のために武力行使をしないという約束を現実の国際社会の中で貫き通すのは決して容易なことではないと。なぜなら、これは、国際紛争解決の手段のために武力を行使しないというのは人類の理想だと思います。しかし、問題は、一体武力行使じゃなくてどうやって国際紛争を解決するのかという問題に実は人類はまだ答えを見いだしていないと、こういうふうに考えるんです。
 昔、京都大学に田岡良一という国際法の先生がおられました。私にとっては、私の学生時代の指導教官のそのまた指導教官に当たられる方なんです。たまたま本日の参考人であられる田岡さんのお父様であられるんですけれども、この田岡先生の名著に「国際法上の自衛権」という名著があります。今回、読み返して改めて思いましたが、国際紛争解決のための戦争を否定するこの二十世紀の国際法の考え方は、じゃ武力行使じゃなくてどのようにして国際紛争を解決するのかということに決定的な答えが出ていないと。この結果に依然として苦しんでいる、悩んでいるということじゃないかと思うんですね。
 国連憲章の中の集団的安全保障システムは、第二次世界大戦の経験から、ある国家の武力侵略を防ぐ、すなわち最初に国際紛争解決の手段として武力行使をしたものをたたく、たたくぞ、たたくぞという抑止力によってそれを防ぐと、そういうことを主眼にして作られたものでございます。それはそれで大事なことなんです。しかし、仮にそのシステムが一〇〇%動いても、それで国際紛争の解決を保証するわけではないんです。
 例えば、A国が大量破壊兵器を開発している。B国がそれはやめろと言う。A国は自分たちは開発していないと言う。あるいは、居直って開発を認め、主権国家が大量破壊兵器を持って何が悪い、なぜいけないんだ、別にこれはあなた、B国を攻撃するものではありませんと。ところが、このA国の指導者はとんでもない独裁者で、その危険性が証明済みと。そうすると、A、B両国、関係国が、及び国連の加盟国が集まって話し合うと。話合いが理性の力だけでうまくいけばいいんですけれども、それがどうなるか分からない。B国は話合いを進めるために武力行使の威嚇をしなければならないかもしれない。場合によっては更に進んで、国連の決議なくして武力行使せざるを得ないかもしれない。そうなると、今のシステムでは悪いのはB国だということになりますが、B国を悪いといってそれが問題が片付ければいいんですが、そうではない。ずるずると交渉は続いていって、A国は大量破壊兵器をどんどん増産していくかもしれない。A国が仮に経済的に弱ければ、経済制裁で何とかなるかもしれない。だけれども、石油があって豊かな国ならどうなるかと。
 余りこうやって下手な例え話を続けるべきでないと思いますが、言いたいことはこういうことです。集団的自衛権の問題にある程度の片が付いても、その後も、それはそのことは大事なことですが、今の国際政治の現実の中で憲法の平和主義を守っていくのは様々な苦労と悩みが付きまとうと。それでも私は、憲法の平和主義を大切にしたいと思います。思いますが、それは軍事力でなく話合いで問題が解決するとか、危険なことはしなくてよいとか、国連にすべてお任せすればよいとか、そういう甘い話じゃないと。そうでなくて、いろんなところでぎりぎりの工夫が必要になると。ぎりぎりの工夫が必要になる、厳しい話だと。そういうことを我々、肝に銘じておく必要があると。それができて初めて憲法の平和主義を理想として掲げることができると、そういうことでございます。
 長くなって済みません。
○会長(上杉光弘君) 魚住裕一郎君。
○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 まず、坂元参考人にお願いしたいと思います。
 先ほど、質問に答えて、平和主義の考え方を述べますというふうにおっしゃられたわけでありますが、ただ、今のお話ですと、何か若干この平和主義の定義が随分狭いんではないのかというふうに思いました。
 九条だけではなくして、前文等に見られるこの恒久平和主義というものを、私はもうちょっと広く考えていくべきではないかなというふうには思っておるんですが、その平和主義の考え方と、それから、先ほど来から集団的自衛権についての内閣法制局の一連の解釈につきまして、様々な批判があるんだけれども、この現実の安全保障の発生事態、そして、それで我が国がそれに対して取るべき行動の必要性、そういった要素を踏まえた上で、なおかつこの平和主義を掲げる憲法の規定を維持しながらその枠内で解決を図ろうというこの苦労といいますか努力、その結晶だろうと思っておりまして、先ほどベトナムに派兵を迫られることはなかったというふうな歴史的な機能も含めて、私は大いに評価すべきものだろうというふうに思っております。
 その評価と、今の先生の平和主義のお考えとの関連といいますか、これにつきましてコメントをいただければと思います。
○参考人(坂元一哉君) ですから、私もその政府の憲法解釈に一定の意義があると、そのことを否定するわけではないと、陳述の中でも述べました。ただ、この平和主義の政府なりの努力、いろいろぎりぎりの努力があると思いますが、それがやっぱり問題を引き起こしているのであれば、そうじゃない努力の方法もありますよと、そういうことを私は申し上げておるわけであります。だから、やることは同じでも説明が違うということはそれは十分あり得るよ、そういうことを私は申し上げておるわけでございます。そういうふうにすっきりとした方が、例えば集団的自衛権の問題でこれを幅広く解釈していろんなことができるんだと、この権利を言わないのは日本は平和主義の憲法を持つからだと、こういうふうにしてもらうと私は非常に、逆に困るというところが私の話の趣旨でございます。
 あくまでこの権利といいますのは、そもそも国際社会が武力行使をなるべくしないようにしようという状況の中で、武力行使をしても違法ではありませんよと、そういう違法性阻却事由といいますか、法律上は、そういうことでございますから、それはいろんな形のものがあると思うんですね。自衛権にしろ、集団的自衛権にしろ、あるいは国連の決議に基づく集団安全保障の行動にしろ、そういうものをうまく組み合わせながらぎりぎりその国際社会の中で平和を守っていこうと、こういうことの一環でございますから、その一環のところの一部がどうも何かぐちゃぐちゃっとしたがためにほかのものまできちんとした対応ができないといいますか、あるいはこちらの考え方の整理ができないようになっては困ると、そういうことでございます。
○魚住裕一郎君 続きまして、佐瀬参考人にお願いをしたいと思いますが、集団的自衛権の問題点ということで政府解釈の問題点等について種々お話をいただいたわけでありますが、その定義自体がまだよくはっきりしないなと私も思っております。
 国際法学界では、この集団的自衛権というものの定義の仕方が二つあるというふうに言われているようであります。英米法的な考え方とドイツ法的な考え方のようでございまして、英米法的な考え方というのは、要するに集団的自衛権を自己防衛権、すなわち一定の密接な関係にある国への武力攻撃を自国への攻撃とみなして正当防衛ができる権利というような考え方だろうと思います。ドイツ法的な考え方というのは、集団的他衛権、自衛権でなくて他衛権、すなわち自国と密接な関係や自国の実体的な権利が害されなくても平和と安全に関する一般的利益や領土保全、独立など、攻撃を受けた国の国際法上の権利を守るために攻撃を受けた国の自衛行動を支援する権利というふうに観念されているようであります。
 国際司法裁判所ではニカラグアの事件の判決でこのドイツ法的な考え方を採用されたというふうに言われているわけでございますけれども、我が国でもこの集団自衛権の問題を議論する際にはこのような、そもそも集団的自衛権とは何なのかという点についての議論が余り行われていないように見受けられるところでございまして、この点につきまして佐瀬先生のお考えをお伺いをしたいと思っております。
○参考人(佐瀬昌盛君) これは御指摘のとおりなんですけれども、実はこの原因は国連憲章にあるといえばあるわけですね。国連憲章の第五十一条にたった一か所出てくるだけなんですね。
 それをどういうものなのかというのは、これはもうおっしゃったように、国際的に見て二つの流れがあるわけです。なぜ二つの流れがあるかというと、国連憲章には何にも書いていないというところにその原因があります。そして、じゃ二つの流れがどう違うのかと言いますと、私はそんなに大きく違わないんだと、実態の問題として。理論の問題としては違うかもしれません。今御指摘のように違うかもしれません。しかし、実態的に見ますと、そこのところはさほど違わないということが言えるだろうと思います。つまり、これは英米法で考えると、英米法の考えでいうと集団的自衛権に当たるが、ドイツ法的な解釈でいうとそれはもう許されないというような、そういう問題ではないと考えます。
 それから、もう一つ指摘しておきたいのは、その英米法的なものもドイツ法的なものも時代の変遷による洗礼を浴びるということなんですね。それが非常にドラマチックに明らかになりましたのは二〇〇一年の九・一一のテロの後の国連決議です。あれでは、どのように見ても、国連憲章が生まれた一九四五年の段階では、要するに武力攻撃というのは他国が、A国がB国にやると、こういうものだと見ていたわけですね。ところが、九・一一では全くそうでないものが出てきたわけです。非国家アクターというものが出てきたと。これは国連憲章を適用するのがおかしいんですね、その意味では、形式論でいいますと。しかし、だれもが、あのときには全会一致でだれもが、これは決議一三六八ですかに出ましたように、前文の中でこれは自衛権を想起しとやっちゃったわけですね。あれを完全に現在においては国連憲章五十一条で考えようというところまで来ちゃったわけですね。
 そういう点になってまいりますと、私は、繰り返して申しますけれども、英米法的な違い、英米法とドイツ法的な解釈の違いということに余り拘泥すべきではなくて、現実にこの五十一条というものが実際にはどのようにして国際社会において適用されているのかということを観察する方がはるかに重要なことだと思っております。
 以上です。
○魚住裕一郎君 続きまして、田岡参考人にお願いをしたいと思いますが、日米安保はこの冷戦構造下の中で日本が西側陣営の重要な一角を成す同盟として機能してきたと思います。冷戦が終わって日米安保の再定義が行われた。また、周辺事態のこの協力というものが盛り込まれたわけでありまして、それは、ある意味では冷戦後のこの地域の不安定要因に対して、我が国もこの日米安保の枠組みを通じて協力をするということが可能になったとともに、しかし、でもやはり日米安保の枠組みということでありますので、あくまで日本の安全に影響がある場合というような、歯止めといいますか、限界といいますか、そういうようなことになったんだろうと思うんですね。
 現在の東アジア地域、特にこの中国の経済発展というのが本当に目覚ましいといいますか、中国が発展すれば日本の景気も良くなるんじゃないかみたいなそういう期待まであるわけでございますが、この長期的な今後のことを考えていきますと、このような台頭するこの中国を日米間安保との関係でどのように位置付けていくのが、これからまた重要な問題になっていくと思っております。
 それで、田岡先生にはこの日米安保の再定義についての評価と、それからこの中国をにらみながら、日米安保体制の今後の展望をどのように見ておられるのか、コメントをお願いいたします。
○参考人(田岡俊次君) 先生のお説のごとく、日米同盟というのは基本的には元の意味は失われたということであろうと思います。それは、やはり対ソ同盟であり、それからソ連が崩壊し、アメリカとの、アメリカとロシアとは非常な友好国になってしまう。例えばサミットにロシアを出す、プーチンを出すについても、あれはアメリカが必死になって運動をして出してくるというわけですから、もはやそのそういった根本的な敵対関係は米ソ間、米ロ間で終わっているわけですから、ですからそういう点では日米安保条約も意味を失ったということが本来は言えるんだと思います。
 ただ、それは両国にとって、ではやめるかというと、それにはわざわざそこで波乱を起こすというほどのこともない。ですから、何か別の目的をそこに探して、日米同盟というのを、かなり実際は形骸化しつつも残して、残そうということになってきた。それが私は日米防衛協力の指針の再定義ということであったと思いますし、だからこそその中では、日本の防衛はもうすべて自衛隊が一義的責任を負うんであるよと。アメリカは、あれはやらなくて済むような規定になっております。日本の防空に関しても日本周辺の商船、船、船舶の保護に関しても、それから日本に対する着陸、上陸、侵攻の阻止、撃退についても、これを自衛隊が一義的責任を負うというふうに、プライマリーレスポンシビリティーという言葉をはっきり使って、アメリカも日本の防衛は実はやりませんと、仮にやらなくても責任を追及されないようにしてしまったというわけで、さてそこで出てきますのは結局対米協力と。実はアメリカが日本を守るわけではなくて、どこかほかのところで何か作戦をする場合に協力、それに何か日本が協力をするというふうにだんだんなってまいった。
 だから、かつては、例えばアメリカがドン・キホーテとしますと、日本はそれのそばで刀を一応持っておりますサンチョ・パンサだったものが、それが今度はアメリカに対する労務的奉仕をする何かロシナンテのような、私はあれは自衛隊のロシナンテ化じゃないのと、今までサンチョ・パンサから今度はロシナンテになるのというのがあの当時の私の述べた皮肉でございますけれども。
 そういったわけで、もちろんどんどん情勢は当然ソ連の崩壊を受けて日米の同盟関係は変わってまいった。だから、そこでアメリカとしては、かつては日本が、日本をちゃんと守ってくれればそれでよかったし、それで基地を提供すればアメリカとしてはもちろん冷戦時代は満足だった。ところが、現在はもうソ連が敵じゃなくなって、いろんなところに、怪しげなところにも手を出さざるを得ない、出すためにはそれに何とか日本を動員したいということで、そうすると、この集団的自衛権が、で禁止になっているから出しませんと、出せませんと言うから、ああ、じゃそれは何とか変えられないかなというふうについアメリカ人は思って日本に言ってくる。しかし、実はそれは誤解であって、集団的自衛権を仮に幾ら認めたところで、基本的には日本は国際紛争解決の手段としての武力行使はしないということがあるわけですから、だからそれに引っ掛かってしまって自衛隊が海外、アメリカがやっているようなことを全く同じように肩代わりするということは根本的にはできない。それは憲法問題じゃなくて、サンフランシスコ条約にもそう、対日講話条約に元々、にもあるんだということも、これはアメリカ人に私は常に説明をしているところなんでございます。
 そういうことでお答えになったかどうか分かりませんが。
○魚住裕一郎君 田岡先生、その再定義、その評価は分かりましたけれども、対中国との関係では、一言でお願いします。
○参考人(田岡俊次君) 中国が興隆しつつあることは疑いもないところでありまして、ただ幸いに、それはかつてのような、毛沢東時代のような軍事中心じゃなくて、今のところは経済中心に、むしろ軍事はやや今のところは相当犠牲にして、トウ小平の時代にはむしろ経済を発展させたと。
 今後も中国は、そうやって発展しますと、ますます相互依存関係、各国と拡大しましょうし、よそからの物資の輸入にも依存いたしましょうから、ますますそれは示威的行動は取り難くなるという側面も片方にある。片方で、もちろん経済が伸びますと、それはまたそれが軍事力に反映されてくるでございましょうから、日本としてはそれは彼らとは友好関係を保ちつつ、また同時に、ある程度気を付けなくちゃいけない。
 しかし、それは実はアメリカを含んでどの国に関しても、国際関係というのは相手が有力な国である場合にはもちろん片方で友好、片方でしかしそれはそれに引っ張り込まれたり、何か利用されやせぬかということは常に警戒しないといけないという点では、根本的にはどの国に対しても同じことであろうかというふうに考えます。
○魚住裕一郎君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 小泉親司君。
○小泉親司君 日本共産党の小泉でございます。
 今日は大変お疲れさまでございます。幾つか質問をさせていただきたいと思います。
 まず、集団的自衛権の問題でありますが、憲法が施行されてから五十九年にいよいよなろうとしておりますが、その間、やはり集団的自衛権の行使が主張されてきたのかと。国民的な要求として集団的な自衛権をどうしても行使したらどうだという意見があったのかと。私は、それは甚だ疑問だと思います。
 問題は、一体どこからこの集団的自衛権行使というのは根源的に派生してきたのかと。今、改憲論の大変主流は、集団的自衛権行使を認めよというふうな、大変主張されている改憲論の方々が非常にたくさんおられる。
 私は、国連憲章の五十一条を見ますと、先ほどもお話がありましたが、自国の密接な権利云々かんぬんというのは、これは政府の見解ですから、私は別にそれに物申すわけじゃありませんが、例えば第五十一条では、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置を取るまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものじゃないんだと。つまり、ダンバートン・オークスの提案でも、個別的、集団的自衛権というのは極めて制限的、限定的に取られてきたと。これは、これまでの国際法の解釈からも私は明確だというふうに思います。
 そこで、私、そういう立場に立ちましてお三人の参考人にお聞きしたいのは、なぜ集団的自衛権の行使という権利を認めようという意見が非常に高まってきているのか、その辺を、まず根源的な問題をお尋ねしたい。特に、当然のこととして、国連の集団的安全保障体制の取れるまでの間の暫定処置として集団的自衛権の行使が考えられてきたということはこれまでの歴史からも明らかなので、その辺もできればコメントしていただければというふうに思います。
○参考人(坂元一哉君) それはもう今、委員がおっしゃったことの中に答えがございまして、集団安全保障のシステムが一〇〇%うまくいかないところから、集団的自衛権の問題とか自衛権の問題が大きな問題になっている。ですから、これが条約を作るなり、その条約をどうやって発展させていくかなり、そのときそのときの政治情勢の中で大きな問題になっているんじゃないかと思います。
○参考人(佐瀬昌盛君) 今朗読されましたように、五十一条の精神は、集団的自衛権、個別的及び集団的自衛権、そもそも自衛権の行使については、加盟国に対して非常に厳しい制限を掛けていることはそのとおりです。
 ところが、私は先ほども申しましたけれども、国連憲章も日本国憲法より古いんですね。基本的構造は古いんです。そして、あの段階では全く想定するだに難しかった事柄が現実に起きてきているわけですね。例えば、その一つが二〇〇一年の九・一一であります。
 あれは、繰り返して申しますけれども、武力攻撃と言えるのか。民間旅客機を乗っ取って建物にぶつけた、そういう意味では武器らしいものは何も使われていない。何かジャックナイフだとかなんとか使ったという説がありますけれども、従来の解釈でいいますと、あれが武力攻撃であると言えるのかということですけれども、私はあれ、戦争級テロリズムと呼んだんですけれども、あれに対しては五十一条を考えようと言ったわけですね。それぐらい解釈が変わってきてしまっているわけです。
 そして、そこのところを見ますと、今、坂元教授がおっしゃいましたように、現在出てきている問題を集団安全保障システムに切り替えることができるのかどうなのかと。
 例えば九・一一について申しますと、その後、先ほど申しましたけれども、日本はテロ対策特措法で出ていって、これは集団的自衛権行使とは何のかかわり合いもありませんと言ったわけです。ところが、アメリカ以下九か国は自衛権の行使だと言ったわけです。あれ、自衛権の行使は、先生今おっしゃいましたように、安全保障理事会が必要な措置を取るまでの間なんです。ところが、そこから二年四か月たっているわけです。何にも取られていないです。だから、九か国は依然として集団的自衛権を、あるいは個別的自衛権、集団的自衛権、要するに自衛権行使の状態が法理的には続いているんです。要するに、国際政治の現実はそこにあるということなんですね。そのことを御理解いただきたいと思います。
○参考人(田岡俊次君) 自衛権の問題に関して申しますと、実は、アフガニスタンをアメリカが攻撃したのは二〇〇一年が最初じゃございませんで、その前に、九八年の八月にアフガニスタンに六十六発もトマホークを撃ち込んだ事件がございました。これは、ケニアのナイロビと、それからタンザニアのダルエスサラームのアメリカの大使館が爆破されて、それがどうもアルカイダの犯行らしいと。実は、余り証拠は結局出なかったようですけれども、らしいということで、そこで、アルカイダの訓練キャンプがアフガニスタンにあるというわけで、いきなり大量のミサイルを撃ち込むということをやり、多分私は、二〇〇一年の九・一一が発生しましたときに思ったのは、ああこれは例のその事件の報復としてアルカイダがやったんだろうなというわけで、報復合戦というふうにあれはとらえるべきだというふうに私は思っております。
 そのときもアメリカは、九八年の八月の二十日でしたか、ミサイルを撃ち込みましたときも、これはアメリカは自衛権の発動であるというふうに申しておりました。ただ、アフガニスタン国家としてアメリカを攻撃したわけじゃない。そこにおる者が出ていってやったかもしれないと。しかも、例えば、特にスーダンの場合には製薬工場に対してトマホークミサイルを十三発撃ち込んだんですが、これはアルカイダ系統であろうと、オサマ・ビンラディンの系列の企業だからということでそれをスーダンにも撃ち込んだというわけで。
 ですから、そういったものをアメリカはよく自衛だと。とても、普通に常識で考えれば、アメリカは攻撃されているわけじゃ、大使館がやられても、これは領土の攻撃じゃないからなかなか自衛とは本来言い難いんだけれども、それを自衛だと言ってやるような国ですから、そういったものと、集団的自衛なんだということを言い出すと、どういう、実は違法なようなことを、怪しげなこと、危険なことに引っ張り込まれるか分からないと。
 ですから、むしろこの集団的自衛権は使えないんだという議論、これが私も、論理的にどうもこれは難しいところがあるなと思いますけれども、とにかく、今まで有効な、それを断るための有効な理屈の一つとしてあったんだから、せっかくあって、しかも、これなくて断るとこれは角が立ちますから、あたかも競馬に一緒に誘われたときに、例えばうちの宗派ではばくちは禁止になっておりますから行きませんとか、いや、酒は飲んじゃいけないと言われるから飲みませんという話で、とにかくそういう、戦場というのは一種のばくち場みたいなものですから、そういうところへ出入りを断りたい場合には何か、うちの家訓であるとか何か、宗教でそうだとか言った方が無難に断れるので、せっかくあるそういったものをわざわざ捨てて危ない目に遭うことはあるまいというのが私の感覚でございます。
○小泉親司君 時間がないので、申し訳ないんですが佐瀬参考人だけにお尋ねいたしますが、先ほども参考人がおっしゃられましたが、いわゆるテロ特措法のときも結局NATOはこれを集団的自衛権の行使としてやったわけですね、輸送支援とか給油支援とか。日本がやるような、同じようなことをやったと。しかし、日本の場合は集団的自衛権行使じゃないという政府の見解でやったと。
 私は、繰り返し、これは事実上の集団的自衛権行使じゃないかということを申し上げて小泉総理とやり合ったんですが、その点は、佐瀬参考人はこの実態というのをどういうふうに見ておられますでしょうか。
○参考人(佐瀬昌盛君) 大変興味ある問題提起をしてくださったんですが、今のには一つ重大な理解の間違いがあります、はっきり申し上げますが。
 九・一一の後、NATOが集団的自衛権の行使に踏み切ったというのは俗説であります。国連憲章が認めているのは国家の権利であります。同盟の権利ではありません。したがって、NATOは加盟国に対して集団的自衛権の事態だということは言ったわけです。しかし、集団的自衛権を行使するのは個々の国連加盟国の判断であります。NATOは、当時は既に十九か国になっていたわけですけれども、すべての国が集団的自衛権を行使したのではありません。
 それから、国家は集団的自衛権を行使いたしますと安全保障理事会に報告しないといけないわけです。だから、自衛権を行使したという国はアメリカを含めて九か国はレターを送りました。ただし、あとの国はやっておりません。これは当たり前のことであって、NATOが国連にレターを出すことはできないんです。国連憲章というのは国家をメンバーにしている、国連というのは国家をメンバーにしている機構であります。そこのところが、日本で俗説的な理解で、NATOはああだけれども日本はこうだという妙な議論が行われていますが、そこのところは今後しっかりと区別をしていく必要があるだろうと思います。
 それから、今私が、日本がテロ対策特措法で取った行動をどう見るのかというお尋ねでございますけれども、私はあれは国際的な判断からいうと明らかに集団的自衛権の行使の枠組みで理解されると言っているんです。それは共産党の議員の方が私の説に賛同してくださったようであります。そのことは私は承知しております。
 ただ、そこで問題は、こういうことであります。日本は、なぜ私がそういうことを言ったかといいますと、まだその連続線上で、海上自衛隊が米艦艇だけでなくて他国の複数の国の艦艇に対して海上で給油をやっておりますね。あれを他国に、給油を受けた国に素直にどう考えているのかと。日本はそこで、これは集団的自衛権の行使ではありませんということをくぎを刺して、しかも給油をやって、それは対テロ戦だけで働いてくださいねと、イラクでやってもらっちゃ駄目ですよと、こういう確認を取り付けているわけですね。しかし、それはオイルが欲しいからそうしましょうと言っているけれども、素直に日本が取った行動はどうなのかといいますと、これは集団的自衛権の、非常にその、ドンパチをやるのではないけれども、非常に有効な形での行使だという国際的評価を受けると思います。
 以上です。
○小泉親司君 ありがとうございました。
 時間ももうないので、簡単なことを坂元参考人と佐瀬参考人にお尋ねしますが、小泉総理は国会の中では、憲法を改正しないで政府解釈を変える、これは集団的自衛権に関しては問題があり過ぎると、やるのなら憲法改正すべきだという立場を繰り返し表明しておりますが、私たちはこれは反対ですが、どうも今日参考人の御意見をお聞きしますと、こういう立場とはちょっと異にするような御見解でございますが、その辺はいかがお考えでございますか。お二人にお尋ねしたいと思います。
○参考人(坂元一哉君) 確かに、政府の方から、立場からしたら、その今まで言ってきたことを変えるのは難しいと思いますが、それが難しいのは認めますが、憲法、解釈の変更も難しいんですが、憲法改正もまたそれなりに難しいというふうに私は思います。ですから、この問題というのはもう少し、何といいますか、今必要なことを少し考えた方が、そういう判断が必要じゃないかなというふうに思います。解釈の変更をした上で、また憲法改正が必要ならそれについてまた考えるということになろうかと私は思います。
○参考人(佐瀬昌盛君) 大変不見識なことを申し上げるかもしれませんけれども、私は、小泉総理が、このオフィシャルにおっしゃっていることと内心とはどういう関係にあるのかということを大変疑います。なぜそう言うのかと申しますと、これまで政府答弁を、つまり政府解釈を答弁してこられた方が閣僚のポストを離れたりされますと、必ず我々が言っている考えに同調されるからであります。
 ですから、小泉総理が、ここからは極めて不見識ですけれども、自由な身におなりになった場合には、おれの考えは総理として述べていたところとは違うと言い出される可能性は私は排除できないと考えます。
 以上です。
○小泉親司君 ありがとうございました。終わります。
○会長(上杉光弘君) 田英夫君。
○田英夫君 三人の参考人の方々にお礼を申し上げます。
 佐瀬参考人に伺いたいんですが、先ほどのお話の中で大変興味あるお話がありました。幾つかありましたけれども、その中の一つは、憲法第九条第一項、これは不戦条約の流れをくんでいると、第二項は違うと分けて言われましたね。
 その不戦条約、第一次世界大戦のあの惨状の中で各国が作ったわけですけれども、私は、このことに一つのヒントを得て、同時に、佐瀬参考人が言われたとおり、もう九条の第一項というものを国際的に、ただ日本が黙って持っているんじゃなくて、国際的に理解してもらうと。手段としてですね、不戦国家宣言ということを日本政府がやるべきではないかと。もちろん、その前提として衆参両院で決議をして、それを受けて政府がやるということを考えているわけですが。現状からするとそれは理想的過ぎると世界情勢から見て言われる方が多いことも分かった上で、やはり私はあの戦争を体験した者の一人として、やはりあの憲法の九条一項というものを生かしていくということの中で考えたことでありますが。
 ちょうどモンゴルが一九九二年に非核国家宣言というのをやって、これは大統領名でやって、それを国際的に理解してもらうために、六年たった一九九八年に国連総会で全会一致でこの非核国家宣言を承認するという手続を取っております。
 このことを参考にして、日本が不戦国家を宣言をし、それを国連総会が承認をするという手続を取った場合には、正に不戦条約以来の流れが生きて、そして日本は初めて世界の中で極めて特殊な国としてこれを国際的に認知してもらうことができるのではないか、こういうことを考えているんですが、佐瀬先生の御意見を伺いたいと思います。
○参考人(佐瀬昌盛君) 一言で申しますと、半分賛成であり、半分は疑問を感じます。
 それはどういうことかと申しますと、私は、日本が発信、国際的に発信するのであるならば、日本国憲法の九条一項を読めということを言うのではなくて、むしろ、多くの主要国が署名し、現在有効である不戦条約を想起しましょうと言うべきだと思います。憲法制定の権限はすべての国にあります。そして、我が国は、現行憲法を制定した過程を別といたしまして、他国から、君の国はこういう条項だとかこういう考えを受け入れた方がいいんではないかということを言われたためしはありませんし、それを言われるのは、たとえそれが正論であるとしても、極めて不快な思いがいたします。我々はそれぐらいのことは気付いているんだと、余計な教訓は垂れてほしくないという言い方が日本の中でも出てくるだろうと思います。そういう意味から、私は、九条を国際的に広めるというのはいささか国際社会においておせっかい過ぎるのではないかと考えます。
 それに対して、不戦条約というのは、これは条約として確認されているものであって、それをもう一度唱えると、これを想起しましょうということはよろしいと、しかも、その際に我が国はそれを読み込んだ九条一項もございますというぐらいを補足的に述べるのはよろしいけれども、他国に我が国の九条は誇るべきものであるから皆さん受け入れなさいということには、そういう音頭取りをやることには私は反対であります。
 以上です。
○田英夫君 ありがとうございました。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 岩本荘太君。
○岩本荘太君 無所属の会の岩本荘太でございます。本日は大変いろいろと勉強をさせていただきましたので、ありがとうございました。
 私、憲法調査会委員となりましたのは初めてでございまして、今までの不勉強もございますので、あるいは大変失礼なことをお聞きするかもしれませんが、あらかじめそれは御了解、御了承願いたいと思います。また、憲法とか法律の専門家でもございませんし、特に安保問題について詳しいということでもございません。ただ、今のこの時代といいますか、一般国民の中にも随分こういうことに対する関心が強まっておりますし、そういう立場で、地元に帰ったときにいろいろ話をしなきゃいかぬと、したがって、その話のレベルというのはいわゆる専門的なことでなくて、至って幼稚な質問のやり取りになるようなこともございますので、そういう意味で、簡単に、簡単というか、御容赦と、またそのように教えてもらうようお願いをする次第ですが。
 まず、集団的自衛権、個別的自衛権、これ、坂元先生、佐瀬先生、お二人お聞きしていますと、これは、日本国は、憲法との関係はともあれ、まあそれは必要であろうというようなことを言われておられるんだろうと思うんですけれども、それを日本の場合にどうするかということはこれからいろいろな議論のある問題かと思いますが、一国民といいますか、そういう立場から考えて、こういうものが必要な理由といいますか、いろいろと皆さん、御質問の中にあったかもしれませんが、具体的に、過去においてこういうこと、ときにこそその集団的自衛権が必要ではなかったのか、あるいは個別的自衛権が必要ではなかったのかという具体的な例をお示しいただけたらまず有り難いんですが。と同時に、これからも、これからについてもこういうことが危惧されるというような点について、まず坂元先生と佐瀬先生、お二人にちょっとお話を伺いたい。
 田岡先生は先ほど何かそれに近いことちょっとお話しいただきましたので、まずお二人からお願いを、お話を願いたいと思います。
○参考人(坂元一哉君) 結局、問題は、我が日本が、憲法の平和主義を国際社会の中で生かしつつ、この武力行使という問題をどう考えるかと、そういうことになると思います。先ほど不戦国家ということを、議論が出ましたけれども、不戦国家であることはこれは当然なのですが、その戦争というのをどういうふうに考えるかといったときに、それがイコール軍事力、武力の行使ではないと、武力の行使の中には自衛、集団的自衛あるいは国際的集団安全保障のための協力と、こういう中に武力行使が含まれる場合があるが、それについてどうするかという、そういう問題じゃないかと思います。
 そこで、今具体的にとおっしゃいましたけれども、これは幸いなことに、その自衛又は集団的自衛という権利を使って我々は日米安全保障条約を持っていると、これがあるから、その権利で、基づいてできた国際法上認められた条約があると、これが我が国の安全、平和と安全に役立っていると、このことは間違いないというふうに思います。
 で、たまたま今度のアフガンの場合には、アメリカが攻撃されるという、考えてもいなかったことが起こったわけなんですけれども、これについても集団的自衛権で行動を説明する方が私は説明としてはすっきりするんじゃないかというふうに思います。
 まあ、そういうことでございます。
○参考人(佐瀬昌盛君) 具体的な必要例とおっしゃいますので、極めて具体的に申し上げます。
 周辺事態安全確保法というのがございます。あの中で、日本は、周辺事態が発生した場合、持ち上がった場合には、米軍が作戦行動を取るのに対して後方地域支援というのを行います。これはよく御承知のとおりです。
 ところが、その後方地域支援で重要な項目に補給というのがあります。これ、周辺事態というのはそのまま放置すると我が国の安全に重大な影響が及ぶという事態ですから、あえてここで乱暴な表現を使いますと準有事みたいなものですね。その際に、米軍が作戦行動に出る際に後方地域支援の一環として補給をやる日本が、少なくとも文言上は米軍に対して武器弾薬を除いてあとのものは何でも提供できると。しかも、量的な制限も何も書いていないわけです。したがって、何でもできるんだけれども、武器弾薬を除くとなっているんですね。これは、放置すると日本の安全に重大な影響が及ぶ事態にアメリカが行動する際に、オイル、食糧、それから医薬品、何でも提供できるけれども、ピストルの弾一発だに提供するのは集団的自衛権の行使に該当するからやらないと、これは全く奇妙な論理だということ、そういうことをお話しいただくと理解していただけるんじゃないかと思います。
 以上です。
○岩本荘太君 ありがとうございました。
 済みません、なかなか難しくて、私がまたかみ砕いて理解しないとなかなか分かりかねるところもありますが、要するに今のお話で、例えば、坂元先生、例えば個別的自衛権の危惧というのは今まではなかったと、これは日米安保のおかげだというようなふうに理解してよろしいということなんですか。集団的自衛権ですか。
○参考人(坂元一哉君) これまで武力攻撃が発生したという場合がこれはないと思いますので、その意味では個別的自衛権の発動ということはないんではないかと思いますが。
○岩本荘太君 分かりました。ありがとうございました。
 そういう状況の中で、私はちょっと甘いかもしれませんけれども、まず、こういう問題考えるときに、集団的であれ個別的であれ、こういうことを使わないで済む社会といいますか、これは不戦のものになるんだろうと思うんですけれども、憲法第九条についてはいろいろな解釈があって、これでもう戦争放棄といいますか、不戦を言っているのだということも言えるかもしれませんが、ひとつ仮定も含めて、憲法第九条、例えばこれをすべての戦争を放棄する、戦闘行為を放棄するというふうに理解した場合、こういう行動というのは、これからの社会といいますか、であり得ることかどうか、全く個人的なお考えで結構なんですけれども、三人の先生方、ちょっと一言だけお願いをいたしたいと思うんですけれども。
○会長(上杉光弘君) 坂元参考人。違うんですか。
○岩本荘太君 田岡先生からお願いします。
○参考人(田岡俊次君) 短期的、中期的には、やはり国際紛争、これは武装、武力紛争ということは当然起きておりますし、今後とも起きなくなるという可能性は、短期、長期に考えれば、中期的に考えれば、それはなかなか期待し難いことだろうと思います。
 ただ、非常に将来ということを考えますと、これ、希望がございますのは、実は農業が始まって、そのために領土というのが極めて大事になり、また剰余生産物ができるからそれで武装させて、領土を広げたいということが、これは農業とともに戦争、武器、国家というのが始まったと。ところが、今や農業の占める比率はわずかGDPの二%程度に先進国でなってしまって、そうすると、工業、商業の時代になりますと、これは土地を取り合いしても余り意味がない。むしろ、技術とか資本とか証券とか、そういったことが大事なわけですね。これも国際協力でいくしかない。
 だから、どうしてもどんどんボーダーレスになってまいっておりますから、今でも既に各国の軍隊では、ボーダーレス時代の防衛というのは何を目標とするのかという議論が、一種の自己矛盾のような議論が起きているわけですから、それがどんどん今後とも進んでまいりましょうから、資本主義のもう一段の進歩によって正にそういったことが、おっしゃっているようにだんだん戦争というのが起き難くなってくるということが、むしろ今の向かっている方向ではあるまいかと。ただ、それは、それがいつになったらそうなるのか、これはなかなか保証の限りではないというふうに考えます。
○岩本荘太君 ありがとうございます。続いて佐瀬先生を。
○参考人(佐瀬昌盛君) 先ほどおっしゃいましたことは、何とかして、戦争の放棄と言っているけれども、日本はすべての武力行使をやらないという意味では憲法は書けないのかという御趣旨でございますか。
○岩本荘太君 いやいや、そういうふうに解釈した場合に、そういう、済みません、憲法というものを全部戦争を放棄したと仮定した場合に、そういうことはあり得るかどうかということです。
○参考人(佐瀬昌盛君) いや、日本は現行憲法の下で戦争は一切放棄しています。ただし、武力行使はすべて放棄していません。それは自衛のためには許されると、これは国連憲章にのっとってそういうことになっているわけです。
 国連憲章は、武力行使は、えげつない言い方しますと、あり得るという立場だと言うこともできます。ただし、その武力行使はできることだったら国際連合が独占的に行うべきだというのがそもそもの趣旨でありましたけれども、それに対して、それは安保理が機能しない場合にどうなるのかということを考えると、集団的自衛権という、個別的及び集団的自衛権という、自衛権という国家固有の権利でもって補完しなければいけないと、こうなったわけですね。ですから、残念なことに、この国際社会というのは国連憲章といえども武力行使を否定しているものでも何でもないんですね。ただ、それを各国が勝手にやるという状態だけはやめようと、こういうことであります。
 これは、先ほど不戦条約、不戦条約と申しましたけれども、不戦条約についても一切の戦争を否定していると言ってもいいんですけれども、あれを受けたアメリカは、ただしアメリカの理解は、自衛のための戦争、自衛のための武力行使と今日では言ってもいいでしょうけれども、それはここに含まれないという意味でこれを受諾すると、こう言っているわけですから、どこまで行っても国際社会において、私は田岡参考人と違いまして、どっちへ行くのか分からないような将来のことではなくて、見渡し得る将来については武力行使を全面的に否定するような世界にはならないだろうと、こう考えております。
○岩本荘太君 坂元先生。
○参考人(坂元一哉君) 根源的なことを申し上げますと、国際社会というのは国家が分裂して存在しておると、分権的な社会でございまして、そこにいろんな摩擦があるわけでございます。その摩擦を解決するために武力行使が伴い得ると。したがって、それが戦争というのか、あるいは自衛というのか、いずれにしろ武力行使というものが続くということは避けられないかと思います。
 それで、どうしたら避けられるかということですが、もちろん国家がなくなりまして世界政府というものができましたら、それはそれで一つの解決になるかもしれません。しかし、世界政府ができましてもそこには暴力の問題がございますから、その暴力をどう解決するかということで、世界警察や世界裁判所のようなものができるようになるかと思います。しかし、そこで問題は、それが一体どういう権力のものであるかということについてなんですが、楽園だったらよろしいのですけれども、何かとてつもない専制的な世界帝国なのかという、そういうおそれもあるわけでございます。その中間ぐらいで何かあるのかと思いますけれども、私は見渡し得るもの、見渡せないもの、全然見渡すことができない要するに時代で、こんな時代でございます。
○岩本荘太君 終わります。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 速記を止めてください。
   〔速記中止〕
○会長(上杉光弘君) 速記を起こしてください。
 ただいまの参考人質疑を踏まえて、一時間程度、委員相互間の意見交換を行いたいと存じます。
 委員の一回の発言時間は五分以内でお願いいたします。
 なお、御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、御意見のある方は挙手をお願いいたします。
 森田次夫君。
○森田次夫君 自由民主党の森田次夫でございます。
 私は、集団的自衛権につきまして私見を述べさせていただきます。
 小泉総理は、二月十日の衆議院の予算委員会で、集団的自衛権の行使容認を含む憲法改正問題に関連して、時代が変わるにつれて解釈が変わってくるのも悪いことではない、改正するのもいい、改正しないのなら解釈を変えるのもいい、大いに議論の余地がある、このような答弁をされておられます。
 憲法問題につきまして自由に議論できることは、我が国もようやく普通の国になりつつあることで、大変結構なことだと思っております。七〇年代の前半の憲法問題につきましての与野党の対決姿勢を想起いたしますと、正に隔世の感がございます。
 坂元参考人は、先ほどの陳述の中で、憲法は集団的自衛権の行使を禁じていないが、政府の憲法解釈の変更にしても、また憲法改正にしても容易ではないであろうと。そこで、二十一世紀の日本の国家はどうあるべきかを含めて、国家安全保障基本法のようなものを議員立法で作って、その基本法の中に集団的自衛権を前提として同盟に対する援助とその範囲を規定することがよいと提言されておられます。そして、法律が成立すれば政府のこれまでの憲法解釈は変更されるであろうし、最終的には国権の最高機関である国会が判断すべきである、このように言われておるわけでございます。そして、違憲と判断されれば後は憲法改正しかない、こういうようなお考えではないかと思います。
 また、佐瀬参考人につきましては、事務局から配付をいただきました論文、あるいは先ほど魚住委員も質問の中で触れておられましたけれども、国際法に基づき、個別(自衛)とそれと集団(他衛)の二つの自衛権を自衛の二態様ととらえて、自衛につながる他衛は自衛だと理解すべきであると。そのために、独立国である我が国は憲法上、集団的自衛権を保有し、かつ行使できるとの解釈を確立すべきであると、このように述べておられます。
 両参考人の御提言は、集団的自衛権を議論していく上でも大いに参考になったんではないかと思います。
 私は、いずれにいたしましても、集団的自衛権は保有しているが行使できないとの政府の解釈は奇妙だし、全く理解できないわけでございます。
 よく例に出るのが、公海上で日米の艦船が並行して航行していて、日本の自衛艦が攻撃されたら米軍は助けてくれるけれども、米軍が攻撃されても助けることができずに逃げ帰るだけだと。これでは余りにも情けないし、普通の国とは到底言えないのであります。
 日米同盟は申すに及ばず、国際社会から非難され軽べつされ、我が国は世界から孤立してしまうと思います。正に国益を損なうことになります。
 さらには、自衛官の名誉も誇りも損なうことになるわけであります。幸い、今までこのような事件が起きていないからいいようなものの、いつ起きても不思議ではないと思うし、事が起きたとき、果たして我が国の自衛官が米軍を見捨てて逃亡するような行動が取れるだろうか、私は以前から甚だ疑問に思っております。隣にいる友人が殴られ血を流していれば、それを助けるのは当たり前のことであります。いずれにしても、自衛隊が事に及んで判断に迷ったり、名誉と誇りを傷付けるようなことがあってはならないと思います。それは正に政治の責任でございます。
 私は、憲法を改正して集団的自衛権の行使を明確にすることが良いと考えておりますけれども、憲法九十六条等もろもろから判断すると、早期改正は容易でないと思います。だとすれば、政府は、メンツにこだわることなく、英断を持って憲法解釈を変更することがベターと考えております。
 最後に一つ、集団的自衛権とは関係ございませんが、申し上げたいことがございます。
 現憲法をいまだに新しい憲法と言う人がおられます。これは明治憲法に比較してのことでありますが、日本国憲法は制定以来五十八年が経過し、世界約百九十か国中十五番目に古い憲法だそうでございます。
 時代は変わり、現況にそぐわないところや加えなければならない条項もあると思います。例えば、環境権、プライバシー権、あるいは知る権利等がそれだと思います。それをいつまでも新しい憲法と言うのはいかがかと思います。これからは新しい憲法という呼び方はやめるべきであると、このように考えております。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 ほかにございますか。
 鈴木寛君。
○鈴木寛君 民主党の鈴木寛でございます。
 私は、このたび新しくこの調査会の幹事にさせていただきましたが、この参議院の憲法調査会のそもそもの役割といいますか意義は、従来言い尽くされてきた憲法論議をここで反復するということではなくて、もちろんその整理は必要であると思いますけれども、むしろ、今までどちらかというと議論されてこなかった、あるいは議論が不十分であった新しい論点を抽出をし、さらには新たなアジェンダセッティングをこの日本の世の中に向けて発信をすることだというふうに思っております。
 そういう観点から、今日の参考人質疑は極めて有意義だったというふうに思います。すなわち、三人の参考人、三様の説明の仕方はございましたが、いわゆる集団的自衛権をめぐる政府解釈というものが少なくとも現段階において寿命が来つつあるということについては、かなり統一的な見解であったのではないかなというふうに思います。加えまして、集団的か個別的かという自衛権をめぐる論争のみに終始することということがいかに不毛であるかということも、今日の参考人質疑で明らかになったのではないかという点を私は評価をしたいと思います。
 そして、我々が今後調査会として世の中に問うていきたい問題として、この憲法解釈というものを変えるための具体的な手続論あるいは方法論というものについてもう少し議論の深掘りというものを喚起してもいいのではないかと。そして、その前提として、いわゆる政府解釈という言葉が使われますが、その際の政府というものは何なのかと。
 例えば、政府解釈の後の政権あるいは後の政府についてのいわゆる影響力あるいは拘束力というものについての議論すら我々は整理し切っていないわけでありまして、政府解釈を変更するという極めて重要な統治システムあるいは政策システムというものをきちっとやはり整備をしていかなければいけない。少なくとも、政府に対して、国会としてこの点についてきちっとした議論をし、そして判断を明確に下していかなければいけない。例えば、マニフェストでそのことをうたい、総選挙で勝利し、そして政権を取るということが例えばのいろいろな案の一つにはなろうかと思いますが、そうしたことが明らかになったと思います。
 一方で、いわゆる機能論から考えた、いわゆる従来の国会論争の積み重ねの産物でもありますこの政府解釈の意義でございますが、田岡参考人からお話がございましたように、自衛権を拡大解釈をして行使をする癖がやや強い米国等の外国から日本の第三国への派兵要求があった場合に一定の機能を果たしてきたということが御指摘をされまして、この点は極めて重要な指摘だと思います。
 そうした観点から、九条あるいは九条の条文、そして九条をめぐる解釈あるいは議論というものの意義を再認識をいたしたわけでありますが、この集団的あるいは個別的の議論というものにのみ終始することが不毛となった今日、特に平和主義を標榜し、そして積極的な平和主義国家として日本が今後進んでいかなければいけない場合に、そうした米国等からの第三国への派兵要求に対して自主的な判断を確保するための、従来とは変わるこの憲法を始めとする法的枠組みの在り方ということについて議論を今後更に詰めていくということの必要性を私はこの調査会の皆様方に是非とも御提起を申し上げたいというふうに思います。
 以上であります。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 白浜一良君。
○白浜一良君 公明党の白浜でございます。
 今日は憲法九条並びに集団的自衛権に関するいろんな御意見を伺いまして、もとより、この集団的自衛権は行使できないというその政府解釈が出てきた背景というのは、いろいろお話ございましたように、日本が戦争に負けまして、いわゆる日米安保体制に対する国内の世論が真っ二つに割れたわけでございますが、そのときに、極めて限定的ないわゆる役割を表現するために、この集団的自衛権を行使しないんだというこういう政府解釈が出されてきたという背景があるわけでございます。
 そういう限定した解釈で、冷戦が、当然これは冷戦下の話でございますから、日米安保体制そのものも、日本がいわゆる本土決戦になる、なり得るという、あり得るという前提でのこの日米安保体制でもあったわけでございますから。しかし、いろいろ今日もお話ございましたように、大変、時代の変化の中で変容してきているわけでございますから、特に今、冷戦構造が崩壊して、様々ないわゆる国際貢献、国連決議に伴ういわゆる各国の動きというものを考えた場合に、そういう解釈と合わない、非常にもう針の穴を通すようなそういう無理な解釈をしているという現実があるのはこれは当然でございます。
 しかし、一方で、安保体制の役割は冷戦構造の崩壊の中で変わってきたのは事実なんですけれども、しかし、極めて、九条解釈として集団的自衛権を行使できないと、こういうふうに解釈したということが戦前のいわゆる軍国主義を経験した戦後の国民にとって極めて理解しやすかったという背景はあるのも事実でございますし、また一方、日本から侵略を受けたアジアの国々の皆さんも極めてこういう限定的に日本が解釈をしているということがある意味での安心感でもあったわけでございまして、そういう役割は大変果たしてきたわけでございますから、私はそういう面も無視できない。最近のいわゆる国際貢献だけを見て大変憲法解釈に無理があるという、そういう理屈だけでは考えてはいけないものがあるということをまず私は考えております。
 と同時に、この集団的自衛権そのものを、ですから憲法解釈として認めろという議論よりも、時代が変わったという中で、いわゆる国連決議に伴ういわゆる日本の国際貢献の在り方、具体的な行動がどこまでできるのかということを私は議論としてはあらゆる可能性を含めて煮詰めていった方が私は現実的だというふうに考えていると。
 我が党もこの問題を議論しておりますが、定まった考え方があるわけではございません。今日、私の考えを述べさせていただきました。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 ツルネンマルテイ君。
○ツルネンマルテイ君 民主党のツルネンマルテイです。
 私は、以前から日米安保に関して一つの大きな矛盾を感じているんです。それを今、参考人の発言の中でもかえってその矛盾をもっと強く感じるようになりました。特に、田岡参考人の話の中では、極端でしょうけれども、アメリカの日本の防衛に対する役割がそんなに大きいものではない、もう既に自衛隊に任されている。そして、アメリカの基地が日本にありますけれども、それはどっちかというと待機のための、そして訓練の基地であって、ほかのところで必要なときはそっちへ出動するという考え方だったと思います。私も、それは一〇〇%そうじゃなくても、そういう役割が大きいと私は思っています。
 ただし、もしそうだとしたら私はこれは疑問です、答えは持っていませんけれども。一体どのくらいの日本の国民がそういうふうに感じているでしょうか。
 政府の中でも、あるいは小泉さんの発言の中でも、私たちは日本の防衛をアメリカに頼っていますからと、いろんな発言していますけれども、この矛盾はどの程度一般の国民がそれをそういうふうに感じているか。あるいは、日本の国民だけではなくて、この周りの国、中国とか韓国では、やはり日本は以前と同じようにアメリカに守られている。この矛盾がどの程度、そういうふうに日本の防衛に対して役割があるか。私ははっきり答えを持っていませんけれども、そういうふうに感じていますし、もしそうだとしたら、これやっぱり私たちが国民にはもっとはっきりその役割を、今は米国の役割はそういうものであるというのを、今、意見というよりもそういう矛盾を感じているというのを発言しました。
 以上です。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 吉岡吉典君。
○吉岡吉典君 日本共産党の吉岡です。
 私は、こういう問題が論議される機会に、集団自衛権を論ずる場合にも、国連憲章全体の中でこの問題も論議していくということが重要じゃないかと思いながら参考人の意見を聞いておりました。
 国連憲章は古いという意見もありました。しかし、私は、古いと言って片付けるわけにはいかないと思います。というのは、わずか十二年前、十二年、もうちょっとたちますか、一九九一年のロンドン・サミットの政治宣言では、日本政府も参加して作られた宣言ですけれども、我々は今や国際連合にとってその創立者の公約と理想を完全に実施するための条件が整っているものと信じると、こう言い切っております。この完全に条件が整っているという国際連合がその理想として掲げたところが実を結ぶ方向での努力こそ、今我々も含めて世界が行うべき努力だと思っております。集団自衛権の問題も、そういう前提の中で論議していくことが大事だと思っております。
 私は、その原点に返って、この際、全面的に国連憲章下の安全保障の在り方を論議しようという場合に、第一に、軍事同盟、日米安保条約もその一つですけれども、その同盟という考え方というのは、国際法学者が主張するいろいろな本で述べられているところでは、同盟の自由が戦争の自由とともに認められていた第一次世界大戦前の安全保障の考え方、つまり十九世紀型の考え方であったと。それが、第一次世界大戦後は、同盟から集団安全保障の時代と言われる、そういう時代に入っている。第二次世界大戦後は、それが国際連合憲章によって一層発展させられるべきものが冷戦によって機能しない状態になっていたわけですけれども、それが、ロンドン宣言で言うように、新たな条件が整ったと言われる時代になっているわけです。もちろん、憲章が掲げた集団安全保障体制はまだ確立しておりません。しかし、国連憲章の中には我々が重視すべき非常に多くの原則がうたい込まれていると思います。
 例えば、私は、今一番重視すべきだと思うのは、国連憲章の集団安全保障という考え方の根本にあるものは、武力行使を個別国家の判断に任せない、それが集団的な決定、具体的に言えば国連安保理事会の決定によってのみ行うというのが集団安全保障の一番根本的な考え方になっていると思います。
 今日論議になった集団自衛権、個別的自衛権もそうですが、これは国連が有効な措置を取るまでの暫定的な措置、例外的な措置という規定でありますけれども、これを基本に据えるわけにいかない問題があるのは、これは、その集団自衛権というのは、集団安全保障と違って、個別国家の判断によって武力行使も行うということにあるわけです。
 著名な国際法学者である田畑茂二郎さんは、国家が個々の判断で他国の援助に出掛けることになれば憲章の基本的な建前が破壊される危険性があると、こういう懸念を表明しているわけです。私は、こういう点、重視すべきだと思います。そして、私どもは、この日米安保条約を考える場合にも、日米安保条約というのは、世界じゅういろんなところで結ばれている同盟条約の中にも、国連を尊重し、国連を踏まえたものだということを最も強く強調している条約だということです。
 それで、例えば、今の安保条約が成立した一九六〇年の七月に外務省が発表した「新しい日米間の相互協力・安全保障条約」という文書がありますが、この文書によっても、新しい条約の第一の特徴は何かということについて、国際連合自身が十分な安全保障措置を成したと認めたときにはいつでも条約を廃棄すると規定していること、つまり国連憲章を重視し、日米両国が国連憲章を尊重し、国連憲章の目的と原則に従って行動すべきことを最も重視して両国がそういう努力を行うということをうたっているところにその一番重要な改正点があるということをうたっております。そして、この外務省の本によると、ここまでうたい込んでいるのは日米安保条約だけだと言っているわけです。
 私どもは、そういう点で、日米安保条約を考える場合にも、そのうたい込まれている国連重視、国連強化のために日米両国が協力するということが実際に示されていく必要があると思っております。
 最近政府からは、日米同盟が基本だと、日本外交の基本だということが強調されていますけれども、私は、ロンドン・サミットでも宣言した国連の新たな条件を生かす、そういう方向での努力が必要であり、本調査会でも、集団安全保障に、集団自衛権について論議した、そこから更に国連憲章の言う集団安全保障についての論議に進むことを期待し、それを提案して、私の発言といたします。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 他に発言はございませんか。
 田英夫君。
○田英夫君 今日のテーマである集団的自衛権というのは、実は、失礼ながら、憲法を改正しようと考えておられる方々の中のよじれた問題だと言っていいと思います。
 自衛権と集団的自衛権というものを並べて自然権であるという、今日、参考人もちょっと言われましたが、それは無理があると。自衛権というのは自然権と言うことができるでしょうが、集団的自衛権というのは比較的新しい概念で、これをも自然権というふうにして、当然これは認められるべきだというところによじれの問題が生じているんじゃないかと思っております。
 それから、集団的自衛権の問題は、主として日米安保条約に基づくアメリカとの問題で論じられていますけれども、日本にとって非常に重要なのは、アジア諸国との関係を円滑にするということではないかと思います。この点が戦後長い間軽視されてきた。これは重要な反省材料としてよほど考えないと、今日実は佐瀬参考人も、私と意見は違うんですけれども、アジアの視点を考えないと、集団的自衛権というものを憲法を改正してもわざわざ認めるということを言うべきじゃないと。今まででさえこれだけやってきたのに、憲法を改正して集団的自衛権を認めると明記したら、アジアのとは言われませんでしたが、各国から疑心暗鬼を呼ぶと、こういう言い方をしておられる。これはアジアの視点を持っておられるということが言えると思うんですね。
 もっと我々は、中国や南北朝鮮やモンゴルや、そういったアジアの国々、東南アジアを含めて、過去に日本が迷惑を掛けたということがありますし、この国々との問題をもっともっと重視しなければいけないと思います。
 もう一つ、今日の議論ではなかったんですけれども、私は、戦争というものが第一次世界大戦、第二次世界大戦以後、非常に変質してきているということをもっと重視すべきだと思います。
 第一次世界大戦で初めて一般市民の死者が軍人の死者を上回った。この結果が先ほども出た不戦条約になってきたんだと思っています。そして、第二次世界大戦では、特に日本で広島、長崎がありましたし、市民の死者が非常に多かったということの中で、国連ができ、国連憲章ができ、それと並んで日本国憲法ができてきたと。このことを我々は忘れないで、いつも大切に考えていかないといけないんじゃないか。人間の歴史は戦争の歴史と言っていいような、言わば戦争は人間の本能みたいな感じがしてならないんですが、しかしもうその時代は終えなければいけない。
 日本国憲法を作ったときの総理大臣であった幣原喜重郎さんは、原爆の体験を経た以上、日本は戦争をしてはならない、そのためにはどうしたらいいか、考えた末に私は非武装という結論を出したと。非武装などと言うと狂気のさたと言われるかもしれないけれども、戦争で殺し合うのと非武装とどちらが狂気のさただろうかということを、言葉を親しい方に残しておられます。
 この辺が今、我々の考えるべきことではないかと思います。
 終わります。
○会長(上杉光弘君) 松井孝治君。
○松井孝治君 民主党の松井孝治でございます。
 直接、必ずしも集団安全保障あるいは集団的自衛権の問題に限定いたしませんで、今日の参考人の方々に対する質疑を受けての一つの感想でもあるんですが、皆様方御理解されているとおり、日本国憲法は硬性憲法であります。今日の参考人の先生方も、日本国憲法の改正ということがなかなかそう容易ではないということを前提に政府解釈の可能性、あるいはあるべき方向性についても言及がございました。
 そこで、問題が、このような硬性憲法を保持し続けるかどうかというのも一つの国会における議論の焦点であろうと思いますが、そういう硬性憲法を持ちつつ、他方で政府解釈が形成される過程というのはおよそ民主的統制に服していないというこのギャップをどうとらえるかということであろうと思います。
 先ほど、鈴木委員、幹事の民主党の鈴木委員からも御提起がありましたが、内閣法制局が中心になって、中心になってというか、九条の問題であればもう内閣法制局が政府解釈を形作っているわけであります。九条以外の問題であれば、例えば憲法の八十九条の解釈は、じゃだれがしているのか、あるいは八十六条など、財政についての解釈はひょっとしたら財政当局が主導的な立場でしているかもしれません。
 これについては、当然内閣の一部局でありますから、今の体制であれば政府・与党がそれをスーパーバイズしているということになろうかと思いますが、現実の政治の実態を言えば、やはり議院あるいは内閣全体として、そこはリスクは内閣法制局に取らせるという傾向が歴史的にあったことも事実だと思います。結果として、非常に重要で対外的には憲法改正にも匹敵し得るような政府解釈というものが、じゃ現実に国会においてどのような議論をして、あるいはどのような民主的統制の下にそれが行われているのかいないのかということを我々はよく議論しなければいけないのではないかと思います。
 内閣法制局に勤務されておられる方々は、内閣法制局長官を筆頭に恐らくその重みを場合によっては過剰にとらえて、現状をとにかく変更しないということをまず肝に銘じて憲法解釈をずっと守っておられるような気もするわけでございます。
 それはそれで官僚たる内閣法制局長官の行動としては理解もできるわけでありますが、じゃ、それが結果として、国際常識とか、あるいは今、同僚の委員の方々からもお話がございましたように、非常に国際紛争の性格も変わっている、ひょっとしたら国連憲章自体がその国際紛争や国連の現実の機能と比較した場合にはやや現実と遊離しているという局面も見られる中で、我が国の憲法解釈がずっと内閣法制局中心で民主的統制を経ずに解釈、従来の解釈が続けられているということがあるとしたら、それは個々の解釈がよかったかどうかということは別として、我々の憲法をどういう形で解釈するのがいいのか。それは、例えば憲法裁判所を作ってチェックをしようという考え方もあれば、この参議院のような議会が憲法解釈についてもっと積極的な関与をしていくという考え方もあろうと思います。恐らくは、これは参議院の機能というものを今後どう位置付けるかというときにも影響のある議論だと思います。
 その意味で、今日の議論の部分、九条の問題にとどまりません。いろんな憲法解釈の在り方について、だれがどういう解釈をし、それがどのような形で民主的統制に服していくべきかということは、是非本院として議論を進めるべきではないかと思いました。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) 他に御発言ございませんか。他に御発言もないようですから、本日の意見交換はこの程度といたします。長時間にわたり熱心な議論、ありがとうございました。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後四時六分散会

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